世界怪談名作集
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著者名:キプリングラデャード 

 この考えてもぞっとするような会見ちゅうに、私たちが話し合ったことは、私として話すことは出来ないし、また、あえて話したくもない。ヘザーレッグはこれについて、ただちょっと笑ってから、私が胃と脳と眼とから来る幻想に執着しているのだと批評していた。あの人力車の幻影はものすごいとともに、非常に愛すべき(それはちょっと解釈しにくいが)一つの存在であった。かつては私自身が残酷な目に逢わせた上に、捨て殺しにしてしまったウェッシントン夫人を、私はこの世に生きている間にもう一度口説きたくなってきたが、それは出来ないことであろうか。
 帰りがけに私はキッティにまた逢った。――彼女もまた幽霊の仲間の一人であった。
 もしもこの順序で、次の四日間の出来事をすべて記述しなければならないとしたなら、私のこの物語はいつまでいっても終わるまい。諸君も倦(あ)きてくるであろう。しかしとにかくに、朝といわず、夕といわず、わたしと人力車の幽霊とはいつも一緒にシムラをさまよい歩いた。私のゆく所には、黒と白の法被がつきまとい、ホテルの往復にも私の道連れとなり、劇場へゆけば客を呼んでいる苦力の群れのあいだに彼らがまじっているのである。夜更けまで骨牌(カルタ)をしたのちに、倶楽部の露台(バルコニー)へ出ると、彼らはそこにもいる。誕生日の舞踏会に招かれてゆけば、かれらは根気よく私の出て来るのを待っているばかりでなく、私が誰かを訪問にゆくときには白昼にも現われた。
 そうして、ただその人力車には影がないという以外は、すべての点において木と鉄で出来ている一般の人力車とちっとも変わりがなかった。一度ならず私は、ある乗馬の下手な友達が、その人力車を馬で踏み越えてゆくのを呼び止めようとして、はっと気がついて口をつぐんだことがあった。また、私は木蔭の路をウェッシントン夫人と話しながら歩いていたので、往来の人たちは呆気(あっけ)に取られていたこともたびたびあった。
 わたしが床を離れて外出が出来るようになった一週間前に、ヘザーレッグの発作説が発狂説に変わっていたのを知った。いずれにもせよ、私は自分の生活様式を変えなかった。私は人を訪問した。馬に乗った。以前と同じような心持ちで食事をした。私は今までかつて感知したことのなかったまぼろしの社会というものに対して渇望(かつぼう)していたので、実生活の間にそれを漁(あさ)ると同時に、わたしの幽霊の伴侶(つれ)に長いあいだ逢えないでいるということに、漠然とした不幸を感じた。五月十五日より今日に至るまでの、こうした私の変幻自在の心持ちを書くということは、ほとんど不可能であろう。
 人力車の出現は、わたしの心を恐怖と、盲目的畏敬と、漠然たる喜悦と、それから極度の絶望とで交るがわるに埋めた。私はシムラを去るに忍びなかった。しかも私はシムラにいれば、自分が結局殺されるということを百も承知していた。その上に、一日一日と少しずつ弱って死んでゆくのが私の運命であることも知っていた。ただ私は、出来るだけ静かに懺悔をしたいというのが、ただ一つの望みであった。
 それから私は人力車の幽霊を求めるとともに、キッティがわたしの後継者――もっと厳密にいえば、わたしの後継者ら――と喋(ちょう)喋喃(なん)喃と語らっている復讐的の姿を、愉快な心持ちでひど目見たいと思って探し求めた。愉快な心持ちと言ったのは、わたしが彼女の生活から放(はな)れてしまっているからである。昼のあいだ私はウェッシントン夫人と一緒に喜んで歩きまわって、夜になると私は神にむかって、ウェッシントン夫人と同じような世界に帰らせてくれるように哀願した。そうして、これらの種(しゅ)じゅの感情の上に、この世の中の有象無象(うぞうむぞう)が一つの憐れなたましいを墓に追いやるために、こんなにも騒いでいるのかという、ぼんやりした弱い驚きの感じが横たわっている。

 八月二十七日――ヘザーレッグは実に根気よく私を看病していた。そうして、きのう私にむかって、病気賜暇(しか)願いを送らなければならないと言った。そんなものは、まぼろしの仲間を遁(のが)れるための願書ではないか。五人の幽霊とまぼろしの人力車を去るために英国へ帰らせてくれと、政府の慈悲を懇願しろと言うのか。ヘザーレッグの提議は、わたしをほとんどヒステリカルに笑わせてしまった。
 私は静かにこのシムラで死を待っていることを彼に告げた。実際もう私の余命は幾許(いくばく)もないのである。どうか私がとうてい言葉では言い表わせないほど、この世の中に再生するのを恐れているということと、わたしは自分が死ぬときの態度について、かず限りなく考えては煩悶しているということを信じていただきたい。
 私は英国の紳士が死ぬときのように、寝床の上に端然として死ぬであろうか。あるいはまた、最後にもう一度木蔭の路を歩いているうちに、私の霊魂がわたしから放れて、あの幽霊のそばで永遠に帰るのであろうか。そうしてあの世へ行って、わたしが遠い昔に失ってしまった純潔さを取り戻すか。あるいはまた、ウェッシントン夫人に出逢って、いやいやながら彼女のそばで永遠に暮らすのであろうか。時というものが終わるまで、私たちの生活の舞台の上をわれわれ二人が徘徊(はいかい)するのであろうか。
 わたしの臨終の日が近づくにしたがって、墓のあなたから来る幽霊に対して、生ける肉体の感ずる心中の恐怖はだんだんに力強くなってくる。諸君の生命の半分を終わらないうちに、死の谷底へ急転直下するのは恐ろしいことである。さらに何千倍も恐ろしいのは、諸君のまんなかにあって、そうした死を待っていることである。なんとなれば、私にはすべての恐怖をみな想像することが出来るからである。少なくとも私の幻想の点についてだけでも、わたしを憐れんでいただきたい。――わたしは諸君が今までに私の書いたことを少しも信じないであろうことを知っているから。――今や一人の男が暗黒の力のために死になんなんとしている。ああ、その男は私である。
 公平にまた、ウェッシントン夫人をも憐れんでいただきたい。彼女は実際、永遠に男のために殺されたのである。そうして、彼女を殺したものは私である。わたしの罰(ばつ)の分け前は今や自分自身の上にかかっている。




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