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著者名:水野仙子 

        二〇

『おれは隨分考へた、もしお前の成長にどうしてもA君が必要であるならば……と。けれども、おれにはどうしてもさう思ふことはできなかつた。それだからおれは別れる事を斷行した。尤もお前がどこまでもおれについて來るといふ――お前には辛い道かも知れないが――意志を示してくれなかつたならば、おれはたゞ自分だけを不幸な男にしてしまつたかも知れない。けれどもねえ、おれは直接お前に尋ねはしなかつたけれど、いろいろと考へ合せて、とにかくさう判斷したのだ……尤も、それは例のお人好な、僕のうぬぼれかも知れないけれど……』
 あなたは猶一分の不安をもつて私を御覽になりました。私は慌てゝ強くかぶりを振りました、そのために涙がつめたく頬に亂れました。
『もしその判斷が誤らなかつたとすれば、それはくるしみやなやみが[#「くるしみやなやみが」は底本では「くるしなやみやみ」]、その叡智をおれに貸してくれたのだ[#「貸してくれたのだ」は底本では「貸してくのだ」]……併しA君に手紙を書きながら、僕は却つてさびしく悲しかつた。多少はあつた筈の憎の心はもう消えてなくなつてゐた……あなたの分までも私はこれから彼女を愛して行きませう、さう書かうかしらと[#「書かうかしらと」は底本では「書かうからしらと」]思つた……』
 私はもはやあなたの言葉を遮らなければなりませんでした。そしてそのために默つて手をのばし、あなたの手を執つて握り、涙に見えわかぬ眸をそゝいであなたを見上げました。
『……すべては濟んだ!…………』
 かうしづかに呟いた時に、私の眼からは更に冷たい涙がはらはらと枕に落ち散りました。
 病氣の洗禮をうけ、そしてそれ以來あなたの愛のあたゝかさに浴してゐる私は、病後の身を靜な田舍に養ひながら、今大變おだやかにそして幸福です。私はもう昔のやうな慾張ではありません、私は子供になり、そしてまた大人にもなりました。寂しいことは依然として寂しいけれど、今はもう決してその寂しさを悔まず、却つてその寂しさを愛してゐます。寂しいといふ事は清潔なものです。私は今でも時々Aのことを考へる事がありますけれど、それは次のやうな言葉をもつてあらはされる至つて靜な氣持なのです。
 道は別れた。それは遂にさうなる道であつたのに、迷路に近い運命の道を尋ねて、お互に紛れ合ひ、躓き、引つ返し、または道づれとなり、離れ、寄り、さうして我々は進んで行く、けれども、おのおのの道にはおのおのの行手がある、さうしてあるところまで共に手を執つて進んだ者も、遂には自分にと定められた道に別れて行かなければならない、道は別れる。
 さらば行きずりの人達! 左樣なら!
 一時は一生の道づれかと思つたAさん! あなたも左樣なら! あなたの道のより廣く、より明るく、祝福にみちてありますやうに!
 それでは私のあなた!今はしづかにとぼとぼと私達の歩を續けませう。その道はどんなに寂しく辛くとも、それが私達にと神の備へられたものであるならば、私は喜んであなたと共にそれを進んで行きませう、私は今自分の歩いてゐる道が、ほんたうの道であるのを思つて、心やすらかに滿足しつゝ微笑んでゐます……と。




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