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著者名:水野仙子 

        十七

 あゝ! それは遂に來たのであるか。けれども彼のいふところに間違はなかつた。私は固くなつて、たゞ耳を傾けた。
「それは僕だつて隨分光ちやんを憎んだこともあるけれど、それは併し、愛するがために憎かつたのだつた……」
 彼はまた紡ぐやうにその言葉を續けようとする。
「これからだつて、もし……どうしたの、熱が出て來た?」
 彼は急に心配らしく言葉の調子をかへた。私は實際いつもの時刻が來たのと、その胸を波だたせたのとによつて、兩手で熱い頬を押へながら床の中に喘いだ。
 彼は私の顏の上にその手を置いた。私はそれをはづす事ができなかつた[#「できなかつた」は底本では「きでなかつた」]。
「あゝ隨分熱くなつてゐる、冷してあげようか?」
 私は默つてかぶりを振つた。そのまゝしばらく沈默が續いた。私は目を閉ぢてゐながら、かれがぢつと腕組をして私を見つめてゐるのを知つた。
「あゝ神樣! もう澤山です、どうかこれより以上の何事もなくすみますやうに!」
 けれども突然彼の手が私の手の上に重ねられた。そしてその手にだんだん力が込められて行つた。私はすくめられたやうになりながら、内心に烈しく神を呼び續けた。
「光ちやん! 堪忍してね! 堪忍して……」
 ……彼はくるりと私に脊を向けて兩手でその顏を蔽うた。……』
『三月五日。今、自分の周圍に見出すものは、白いベツドと、白い掛蒲團と白い看護服と――すべてが白い。夫に伴はれてこの病院に入つたのはたしかあの翌日だつたけれど、それから大分月日が經つたやうな經たないやうな氣がしてゐる。すべての生活が違つた。私は何だかたゞ白いものに包まれてゐる。看護婦にものを言つたり、檢温したり、藥を飮んだり、とどこほりなくやつてはゐるけれど、何だかそれは別な自分のやうな氣がする。何だか一寸忘れものをしたやうな氣持で、始終何か考へよう考へようとしてゐる。殊によつたら自分は死ぬのぢやないかしらなどと時々思ふ――それにつけても、彼はもう來ないかも知れぬ、このまゝ、私が痩せ細つて死ぬ時でも、または再び恢復して小鳥のやうに囀る事を欲する時にも……それではもう吾々の別離は來たのであらうか? こんなに早く、あつけなく、そしてそれを私達が欲しないのに!
 けれども、私の心はやつぱり彼を待つてゐる。自分達の別離であり、それ故に今は別れなければならぬのをよく知りながら、彼を失ふことは私に寂しく味氣ない。私はその唇がこの額に觸れぬ前にそれを拭うた、さうしてそれは、私が私の夫と、彼の少女とに對して僅にのこした白き道であると思つた。けれども、私は彼の心をあまりに邪推したのではなかつたらうか? 自分の危い心をもつて彼の心をも危んだのではなかつたらうか? 彼はたゞ他意なく私にしたしんだゞけであつたのに……?』

        十八

 さあ、今は漸くをはりに近づきました、だけどもう日記はやめませう、たゞどうかもうしばらく私に語らせて下さい。
 一ヶ月あまりの入院中、三回程の窄胸術(プンクチオン)をやつたために、私の呼吸は大分樂になりました。あなたは毎夜訪ねて下さる、そのために私は夜になるのがすきでした。夕方から夜にかけて、私はそれをどんなに待つたでせう。それが私の一日のむすびでした、そして十時を期して歸つて行くあなたを見送つてから、やがて電燈を消して貰ひ、闇の中にもほの白く見える寢床の中に、私は靜に眠らうとするのでした。あなたの見えないうちは、私は夜になつても夜になつたやうな氣がせず、また一日が濟まないやうな氣がするのでした。それだのに、私はどうしたといふ慾張だつたのでせう、あなたの外に、私はもう一日々心ひそかに待つたものがあつたのでした、それはAが再び昔の如く私の前に現れる事をでした。けれども彼は遂に來ませんでした。
 私は間もなく、私のすきだつた東京を見捨てゝ田舍に去りました。あなたは何事も知らずにその通知を彼にお書きになりました。
 この旅立は、恐らくは私と彼との永久の別離であらうと私はひそかに思ひました。
『さらば私の夫よ、友よ、あなたがたはほんとにいゝ人達です、どうか私を間に挾む事なく、直接にあなたがたの手を取り合つて下さい、あなたがたの友情を私によつて躓かされることなく、お互に援け合ひ、仲よくしあつて下さい、もしもそれがつひに叶はぬものであるとも、せめては私のゐない間だけでも!』
 これが私のその時の心の願でした。
 そして、それから私達は一體どうなつたか?
 療養のために歸つた田舍で、私は一しきり却つてだんだん惡くなつて行きました。そしてその年の初秋から翌年の花の頃まで、雪深い田舍の病院に埋れて暮さなければなりませんでした。
 それらの日の寂しく靜な記臆は、まだ新しく私のおもひに浮んでゐます。……かくてさうした日のある一日、彼は突然不意にその姿を私の前に現しました。私は再び彼を見ました。そしてそれを信じた時に、私は穩なよろこびと、自分がそれほど重態であつたかといふしづかなうなづきとを得たのでした。その前後全く東京を離れて私に附き添つてゐたあなたも、彼のこの遙々な訪問をひどく喜んで下さいました。私はあなたがひそかに彼を呼んだ事を悟り、涙ぐましい氣持になつて、枕許に並んだあなたがたの顏を見上げました。
 彼はその夜を私の病室で明して、また來るといふことをかりそめに言ひながら、再び遠く歸つて行くのでした。あなたもそれを程近い停車場まで送るといつて、連れだつて出ていらつしやいました。
 あなたがたがやがて病室の窓から見える橋のあたりまで來たと思ふ頃、私はそつと起き上つて窓の前に倚りました。黄ばみそめた銀杏の樹陰に隱れ見えしながら、豆のやうに並んで歩いて行く二人の後姿は、私がかうしてこゝに寂しく見送つてゐる事を知らずに、いつまでもいつまでも、それは永久に振り返る事を許されぬ影のやうに、だんだんと私の目路から去つて行きました。
『恐らくは、あの二人が並んで歩くのもこれが最後であらう!』
 私は何となくさう感じられて心に呟きました。

        十九

 暖爐によつて温められた部屋はあたゝかだつたけれど、障子を開けた時に雪は音もなく外に降つてゐました。それは十二月のなかば、その日東京から着いたあなたの顏色は沈んでゐました。さうして私を見る眼には、愛と憎と僅なよそよそしさと、また自分自身の寂しさといつたやうなものが潜んでゐました。
 私はあなたが襟卷をとり、外套を脱ぐ時の横顏をぢつと見て、何事かゞ東京にあつたのを知りました。そしてそれが必ずAと私との事に關してゞあるのを直感して胸をとどろかせました。でも、私の病氣はその頃だんだんいゝ目が見えてゐたのでした。
 私はあなたの唇がそれのために開かれるのが恐しかつたけれど、またあなたの顏がそのために[#「そのために」は底本では「そのためた」]結ぼれてゐるのも辛く、あなたのお土産を持たせておつたを祖母の家へやり、そしてしづかにあなたが何事かを私に語るのを待ちました。
『おれはA君と絶交する事にして來たよ……』と、あなたはおつしやいました。『併し、この事は別にお前に突然な事でもなければ、又意外な事でもないだらうと思ふがね。』
 私は默つてうなづき、そしてたゞ悲しく寂しくあなたの目を見、それから仰向になつて目を閉ぢました。
『おれは昨夜一晩かゝつてA君にわかれの手紙を書いて來た……』
 そしてあなたは一部始終をお話しになりました。
 その運動はまだ一部の間にしか認められてゐないけれど、新進氣鋭の團體であるF社の展覽會に出品したAの「マダム光子」が、當時相應に評判のよかつたのは、私も新聞でちらりと見て知つてゐました。けれども、それから私と彼との一寸した罪のない噂が、その仲間に傳へられてゐたのを私は今初めて知りました。
『けれどもおれは、そんな噂に就いてどうかういふのではない。それ程お前やA君や、又は自分を侮辱しないつもりだ……たゞ僕はそれによつて不快にされる、いや噂によつて不快にされるのではなく、噂によつておれが常々不快に、または寂しく感じてゐたことをさらにはつきりと感じさせられたのだ。お前とAとの關係――關係といふのに語弊があれば、まづその友愛――おれは常々それをさびしく眺めてゐた。おれは閑却されてゐる――さう思つた事がよくあつた、けれども、そんな氣の起る時にはすぐに自分を反省して、お前に餘所見をさせないだけの愛がおれにないのだと自分を責めた……そして寂しさをこらへて來た……』
 私は身うごきができませんでした。そしたら一ぱいに溜つた涙があやうくこぼれ散るのでしたから……あなたは息を呑んで、そしてまた續ける。
『けれども、おれはもうA君對お前、そのお前對おれの關係に堪へられなくなつた。そしてそれはおれのお前に對する愛を自覺すればするほど堪へられない。今になつて、たゞ自分さへ我慢すればいいやうに思つてゐたのは消極的な考だつたと思ふ、おれはどこまでも、お前が滿足するまでお前を愛して行く! 時にはもどかしいやうな事があるかも知れないけれど、その時にはせめておれの努力を思つて我慢しておくれ……』

        二〇

『おれは隨分考へた、もしお前の成長にどうしてもA君が必要であるならば……と。けれども、おれにはどうしてもさう思ふことはできなかつた。それだからおれは別れる事を斷行した。尤もお前がどこまでもおれについて來るといふ――お前には辛い道かも知れないが――意志を示してくれなかつたならば、おれはたゞ自分だけを不幸な男にしてしまつたかも知れない。けれどもねえ、おれは直接お前に尋ねはしなかつたけれど、いろいろと考へ合せて、とにかくさう判斷したのだ……尤も、それは例のお人好な、僕のうぬぼれかも知れないけれど……』
 あなたは猶一分の不安をもつて私を御覽になりました。私は慌てゝ強くかぶりを振りました、そのために涙がつめたく頬に亂れました。
『もしその判斷が誤らなかつたとすれば、それはくるしみやなやみが[#「くるしみやなやみが」は底本では「くるしなやみやみ」]、その叡智をおれに貸してくれたのだ[#「貸してくれたのだ」は底本では「貸してくのだ」]……併しA君に手紙を書きながら、僕は却つてさびしく悲しかつた。多少はあつた筈の憎の心はもう消えてなくなつてゐた……あなたの分までも私はこれから彼女を愛して行きませう、さう書かうかしらと[#「書かうかしらと」は底本では「書かうからしらと」]思つた……』
 私はもはやあなたの言葉を遮らなければなりませんでした。そしてそのために默つて手をのばし、あなたの手を執つて握り、涙に見えわかぬ眸をそゝいであなたを見上げました。
『……すべては濟んだ!…………』
 かうしづかに呟いた時に、私の眼からは更に冷たい涙がはらはらと枕に落ち散りました。
 病氣の洗禮をうけ、そしてそれ以來あなたの愛のあたゝかさに浴してゐる私は、病後の身を靜な田舍に養ひながら、今大變おだやかにそして幸福です。私はもう昔のやうな慾張ではありません、私は子供になり、そしてまた大人にもなりました。寂しいことは依然として寂しいけれど、今はもう決してその寂しさを悔まず、却つてその寂しさを愛してゐます。寂しいといふ事は清潔なものです。私は今でも時々Aのことを考へる事がありますけれど、それは次のやうな言葉をもつてあらはされる至つて靜な氣持なのです。
 道は別れた。それは遂にさうなる道であつたのに、迷路に近い運命の道を尋ねて、お互に紛れ合ひ、躓き、引つ返し、または道づれとなり、離れ、寄り、さうして我々は進んで行く、けれども、おのおのの道にはおのおのの行手がある、さうしてあるところまで共に手を執つて進んだ者も、遂には自分にと定められた道に別れて行かなければならない、道は別れる。
 さらば行きずりの人達! 左樣なら!
 一時は一生の道づれかと思つたAさん! あなたも左樣なら! あなたの道のより廣く、より明るく、祝福にみちてありますやうに!
 それでは私のあなた!今はしづかにとぼとぼと私達の歩を續けませう。その道はどんなに寂しく辛くとも、それが私達にと神の備へられたものであるならば、私は喜んであなたと共にそれを進んで行きませう、私は今自分の歩いてゐる道が、ほんたうの道であるのを思つて、心やすらかに滿足しつゝ微笑んでゐます……と。




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