脱殻
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著者名:水野仙子 

 此人も私に、利き目のない薬を盛らうとすると思ひながら、自分を鞭打たれる快さを私は味はふ。
「私は堕落してるんですわ、生きるつてことにちつとも興味を見出すことが出来ないんですもの。」
「手がつけられないな。恋(ラブ)でもしたらいゝぢやありませんか!」
「対手(あいて)がないわ。言ひ替へればそんな興味もない訳なの。」
「ぢや、死んでおしまひなさい!」
「全くね。」
 私は面白さうな軽い調子で言つた。
「なんの興味もない………なんの刺激もない………たゞ、眠つてすべてを忘れてしまふことゝ、泣くことが一番、今の私に取つての慰めなの。私此頃、なか/\泣くことが上手になりましたよ。泣いたり、嫉妬をしたりして、自分から刺激をつくつて行くのよ。」
 Nさんは眼鏡の中から、黙つて私の顔を見て居た。

 Nさんの帰つたあと、私は潮のさすやうに寄せて来る味気なさに漬りながら、珍しく自省的な気分になつて居た。
「何も彼(か)も私がわるい!」と、最後はたゞ此一語に帰着する。たとひあの人がどうであらうと、それに応じて加減して行かねばならない立場に居るのが私なのだから。
 すべてが思ふやうにならないといつて焦慮(じ)れるのは、私が悪くなくてなんであらう。自らを医(いや)すものは自らの外にある筈がない。それを私はあの人に望んでゐる。あの人にも罪に与からせようとして居る。この上に明らかな間違つたことがあらうか? この頃の二人の倦(だ)れ切つた生活も、私が心持の取直し様一つによつて救はれもする。それだのに私は、自分で自分の心を泣かせながら、それを劬(いた)はる工夫をしないで、たゞ泣声を聞くまい/\として耳を塞いで居るに過ぎない。
「何も彼も私が悪いんだ!」
 すると、今まで押し殺し/\して居た不安が、あの人の体に就ての気遣ひが、噴き出す泉のやうに私の胸に湧き起つて来る。あの頬の窶(やつ)れも、あの顔の暗い影も、あの人の胸の異常から来るには違ひないが、それを益々色濃くして行くのは、私であるかも知れないと思ふと、恐ろしいものを抱いてるのに気がついた時のやうに、呼吸(いき)が苦しくなつて来る。やぶれかぶれな心の姿のまゝで今朝も別れたことが、無暗に不安になつて来て、かうして離れて居る時間が、一分間でも遅ければ遅いだけ、取り返しがつかずあの人の体に黒い染みが深く大きくなつて行くやうに思へる。
「今日こそほんとに温かい心をもつてあの人を迎へよう!」
 さう思ふと共に、私の体は珍しく軽くなつて、すべての考へが、如何にも妻らしい心持の上に行き渡つて行く。私は急に甲斐々々しく、家の中などの掃除を始める。夕飯にも、何か手の込んだものがこしらへてみたくなつて、暫く打つちやつて置いた料理の本などを引出して見る。
 日は暮れて行く。脂肪の焼ける匂ひや、ものゝ煮こぼれる音や、煙りの中に、私は暫くの間雑念(ぞうねん)を忘れて立働く。あの人の帰る時刻をなか/\見積りかねて、幾度か時計を見上げては、瓦斯の火を細めたり強めたりして居る、足音が表を過ぎるたびに耳を聳(そばだ)てる。
「猫でも貰はう!」と、ふと思ひついたことが、一つの楽しみになつて、そんなものにでも紛れることが、幾らか私の心に変化を与へるかも知れないと、早くそんなことも話して見たく、あの人の顔を見るまでが堪らなく待遠しくなつて来る。冷めないやうにだの、煮え過ぎないやうになどゝ、細かな加減を気にして居るうちに、いつかいつもの時刻は経つて行く。
 と、少しく失望して来る私の心は、容易(たやす)く「えゝつ!」といつたやうな気分を誘ひ出して、折角気をつけて白いのに替へたテーブルクロスに、態(わざ)と汁でも溶(こぼ)してやりたいやうな気になる。その落着かない心持では、本を読むことも出来ないし、外の仕事は猶更手につかない。たゞいら/\した心持で、外の足音にばかり気を奪(と)られる。
 一時間経ち、やがて二時間経つ。心の心まで冷め切つて行くやうな私の胸は、何者かに裏切られるやうな腹だゝしさに、だん/\意地悪く働いて行く。あゝも思ひかくも思つてみるけれど、立寄つた先や、用事の見当がつかなければつかないほど、私の心は焦慮(じ)れて来て、無暗に何かに当り散らしたくなる。
「それも面白い!」などゝ私の心は呟く。「それがあの人の示威運動だとする。あの人は泊つて来る。」
「何処へ?」と思つた時、かすかな恐れがふと影のやうに私の胸奥をかすめて消える。だけど、あの人は此頃いつだつて金らしい金は持つて居ない。すれば、必(きっ)といくら遅くても帰つて来る。帰つて来ると思へばまた、瞬間でも多少の波瀾を想像しただけに、却てそれが物足らないやうでもある。
 ふと見上げると、時計はいつか十二時近くに針をさしてゐる。私は、自分自身に対して、「ふつ!」といつたやうな気持を抱きながら、さつさと玄関の戸を閉めに出る。それから押入れから蒲団を取出す。電燈の真つ下にわざと自分のだけのべて、私は今夜どういふ態度を取り、そしてどんな言葉をもつて、あの人を迎へるだらうと、自分で自分の心を想像などしながら、寝巻も着替へないで、そのまゝ床の中に潜り込んでしまふ。
 私の心は、人気のない大きな伽藍のやうに空虚(うつろ)になつて、どんなかすかな物音にも、慄へるやうな反響を全身に伝へる――私は私の耳が、丁度猫の耳のそれのやうに、ひく/\と動くやうにさへ思ふ。




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