右門捕物帖
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著者名:佐々木味津三 

「うぬ! か、か、かからずにおくものかい!」
 さるのように歯をむいて、祐筆頭大口三郎が抜いてかかろうとしたのを、手もない、ただのひとひねりです。
「ふざけるねえ。細筆一本でおまんまをかせぐ祐筆のやせ腕が、お江戸自慢のおいらの相手になれるけえ。おとなしくしておりな」
 ぎゅうとさかねじにそのきき腕をねじあげると、ずばりと切りさげたような啖呵(たんか)があまくだりました。
「うすみっともねえまねをするにもほどがあらあ。そんなに目玉を白黒させずとも、うぬの小細工の黒い白いはもうついているんだ。痛い思いをしたくなけりゃ、すなおにすっぱりどろを吐きな」
「いいえ、あの、ありがとうございました。おかげさまで、危ういところをのがれました。その白い黒いは、このわたくしが申します」
 おろおろと泣き喜びながら、まろび出るようにしていったのは、松坂甚吾の妻女おこよです。
「ただいま、このわたくしを前にすえておいて、自慢たらたらとおふたりで申されましたゆえ、なにもかもわかりましてござります。やはり、わたくしたち、夫の甚吾とふたりが疑ったとおりでござりました。と申しただけでは、なんのことやらおわかりではござりますまいが、そちらの大口三郎さまは、いうも身の毛のよだつ人非人でござります。忘れもせぬ二年まえ、父が他界いたしますといっしょに、生前なによりたいせつにして、父が秘蔵しておりました子持ちすずりという名のすずりが紛失したのでござります。そこの床の間にありまする小さな桐箱(きりばこ)の中がそのすずりでござりまするが、石は唐の竜尾石(りゅうびせき)、希代の名品でござりますばかりか、不思議が言い伝えがござりまして、女のわたくしがかようなことをあからさまに申しあげますのは心恥ずかしゅうござりまするが、子のない家にそのすずりを置けば、必ず子宝が得られますとやらいう言い伝えにちなみまして、いつのまにか子持ちすずりという名がついたとか申すことでござります。それゆえ、父もことのほかたいせつにいたしまして、人にも見せないほどに秘蔵しておりましたところ――」
「大口の三郎がさらって逃げたと申されるか」
「いいえ、はじめはだれが盗んだものやら、いっこうにわかりませなんだが、紛失するといっしょに大口様がふいっと国もとから姿を消しましたゆえ、はておかしなこともあるものじゃと、不審に思っておりましたところ、人のうわさに、まもなく当加賀家へ祐筆頭(ゆうひつがしら)としてお仕官なさいましたと聞きましたゆえ、変死を遂げた夫ともども、わたくしたちも国を離れて、つてを求め、同じこの加賀家に仕えまして、内々探っていたのでござります。ところが、ようやく二、三日まえになって、その証拠があがり、あまつさえたいせつなすずりはこの依田様のところへ、祐筆頭に取りなしてもらったお礼がわりの進物として贈られているということがわかりましたゆえ、どうぞして取り返そうと、夫ともども心を砕いておりましたところ、じつに大口様は人外なおかたでござります。その夫を、あろうことか、あるまいことか――」
「よし、それでわかりました。あばかれては身は破滅、いっそ毒食わばさらまで、事の露見しないうちに、やみからやみへ葬ろうと、依田の重三郎に力を借りて、あのとおり雪で焼き殺したというのでござりまするな」
「ではないかと存じまして、けさ早く変死を遂げておりましたのを知るといっしょに、あの絵図面をわたくしが書きしたためまして、あのふびんな死にざまをなさいましたおかたに、あなたさまのところへ、飛んでいっていただいたのでござります。さっそくにお出役くださいましたゆえ、もうだいじょうぶと心ひそかに喜んでおりましたら、依田様もいいようのない人非人でござります。秘密を知られてはならぬと、あの鐘楼の上から恐ろしい矢を射かけたのでござります。そればかりか、ふたりでしめし合わせて、このわたくしをこんなところへ、手ごめ同様に押しこめ、妻になれの、はだを許せのと、けがらわしいことばっかり、今まで責めさいなんでいたのでござります。わたくしには何から何までのご恩人、ただもううれしくて、あなたさまのお顔も見ることができませぬ。お察しくだされませ」
 言うまも悲しみ喜び、いちどきにこみあげてきたとみえて、おこよはよろめきながら床の間へ近づくと、子持ちすずりの桐箱を抱きすくめるように取りあげて、おろおろと泣きつづけました。
「ちくしょうめッ。これで伝六様も早腰を抜かさずに済んだというもんだ。これからが忙しいんだ。野郎どもはなわにするんでしょうね」
「決まってらあ。ふたりとも並べてつないで引っ立てな!」
 立とうとしたところへ、不意に庭先へ、すうと人影が浮きあがりました。うしろに若侍をふたり従えて、眼(がん)のくばり、体のこなし、おのずから貫禄(かんろく)品位の見える老武家です。ずいと静かに、名人右門のほうへ歩みよると、重々しく呼びかけました。
「いろいろとお手数ご苦労でござった。ふらちなその両名、てまえにお渡しくださらぬか」
「あなたさまは!」
「なにも聞いてくださるな。名も名のりとうはない。当加賀家に仕えておる者じゃ。さればこそ、加賀家の面目思うて、この一条、世にも知らさずに葬りたいのじゃ。家臣の者が顔を見せなんだのもそれがため。お渡しくださらば、てまえ必ずおこよどのに力を添えて、夫のあだ討たせましょう。いかがでござる。ご不承か」
 いうことばのはしばし、名は名のらなかったが、まさしく加賀家のお重役です。名人の顔に会心げな笑(え)みがのぼりました。
「なるほど、筋の通ったおことば、しかとわかりました。百万石のご家名に傷がついては、一藩を預かるおかたとして、さぞやご心痛でござりましょう。ご所望ならば、お渡しする段ではござりませぬ」
「かたじけない。――すぐさまその両名をひっ立てて、あだ討ちの用意させい! おこよどのも参られよ」
 あい、とばかりに、おこよは泣き喜びながら、子持ちすずりをしっかとかかえて、なわつきのふたりのあとを追いました。
「うれしいことになりゃがったね」
 見ながめて、伝六がくすりとやりました。
「でも、ちょっとあっしゃ気になることがあるんだがね」
「なんだよ」
「あの美しいおこよさん。うれしそうに子持ちすずりを抱いていったはいいが、きょうから赤い信女のおひとり者になるんだ。どんな仏さまから子宝を授かるかと思うと、気がもめるんですよ」
 しかし、名人はにこりとも、くすりともせずに、黙々ともう五、六間先でした。




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