湖水の鐘
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著者名:鈴木三重吉 

 妖女の王さまや、小さな妖女たちは、だいじな王女が人間にさらはれてしまつたので、それはそれは悔しがつて、いきなり湖水のそこから、大きな/\大浪(おほなみ)を立てゝ、どん/\岸へぶつけ/\しました。大浪(おほなみ)はまるで悪魔のやうに荒れ狂つて、夜どほし、がう/\と岸へ乗り上げ、そこいらの森の立木(たちき)といふ立木を、すつかり引きぬいて持つていきました。
 若ものゝふた親は息子がうつくしいお嫁をつれてかへつたので、たいへんによろこんで、すぐに御婚礼をさせました。村中の人は、その美しいお嫁さんを見て、びつくりしないものはありませんでした。しかし、家(うち)の人でさへも、まさかそれが妖女だらうとは気がつきませんでした。
 若い二人は、ちやうど二つの小鳩(こばと)のやうに仲よくくらしました。みんなは、二人を見て、世の中にこれほど仕合(しあは)せな人はないだらうと思ひました。
 妖女はどこを見てもちつとも人間とちがつたところはありませんでした。たゞよく気をつけて見ると、妖女が手にさはつたものは、かならず、そこだけしめり気がつきました。暑い/\夏の日にしをれて頭をかしげてゐる庭の花でも、妖女がそばへ来ると、ぢきに勢(いきほひ)よく頭をもち上げました。妖女はそのかはいらしいまつ白な指の先から、水のしづくを出して、あはれな花を生きかへらせるのでした。
 若ものゝお母さまは、よくものに気のつく人でした。そのお母さまだけは、嫁の手がさはつたところには、きつとしめり気がのこるのを見て、一人でへんだ/″\と思ひました。


    五

 そのうちに、ぢきに一年たちました。すると妖女(えうぢよ)のお嫁さんには、男の子が一人生れました。
 妖女は、人がだれもゐないときには、そつとたらひに水を入れて、生れたばかりの赤ん坊をその中へ入れました。すると、赤ん坊は魚のやうに、自由に水の中を泳ぎまはりました。その子どもは丈夫にどん/\大きくなりました。村中の人はみんな、その子のだいたんなことゝ、水を上手に泳ぐのとに、びつくりしてしまひました。男の子は、湖水を、こちらの岸から一ばん向うの遠い岸まで、さつさと泳いでわたりました。それから、人が何でも湖水の中へ落すと、すぐに水のそこへもぐつて、どんなものでも、またゝく間にさがし出して来ました。
 それから、いく年もたつて、男の子は大きな大人になりました。お祖父(ぢい)さんやお祖母(ばあ)さんは、もうとつくになくなつてしまひました。お父さんも、もうだいぶ年よりになりました。
 ところがたつた一人、お母さんの妖女だけは、いつまでたつても、お嫁に来たときとちつともかはらず、まるで息子の若ものと同じ年ぐらゐに見えました。
 と、或(ある)夏、その地方にはたいへんなひでりがつゞきました。村々の畠(はたけ)といふ畠はすつかりこげついたやうに荒れてしまひますし、果物の畠も、そこらの木といふ木も一本ものこらず枯れてしまひました。それから、どこの家の井戸も、水がきれいに干上つてしまつたので、みんなはこまつて大さわぎをしました。
 ところが例の湖水だけは、あべこべに、どん/\水がふえて、だん/\と岸の上へあふれ出して来ました。今までひでりでさわいでゐた村の人は、今度はまた急に大水におどろかされてあわて出しました。
 湖水の水は見てゐるうちに、おそろしい勢(いきほひ)で四方にひろがつて、今にも村中がのこらず、つかりさうになりました。
 若ものゝお母さんの妖女は、そのまゝぢつとしてゐると、じぶんたちの命もあぶないので、息子の若ものをつれて水のふちへ行つて、こつそりと、湖水の秘密を話しました。
「この湖水の下には私(わたし)のお父さまの、王さまが、水晶の御殿の中に住んでゐるのです。私たちは三人の姉妹(きやうだい)だけれど、三人ともみんなお母さまがちがつてゐて、一ばんのお姉さまを生んだのは、大空の雲だし、中のお姉さまは地に湧(わ)く泉のお腹(なか)に生れ、私(わたし)は草の葉にふる露のお腹(なか)に出来たのです。
 お父さまの王さまは、それは/\気のみじかいひどい人で、人間と、人間の住んでゐるこの地面とがにくゝなると、すぐに、私(わたし)たち三人のお母さまを湖水の底へよびよせて、一と間へおしこめてしまふのです。それだから、今度も地の上がすつかりひでりになつてしまつて、そのかはりに、湖水の水だけがこんなにどん/\ふえて来たのです。
 これなりはふつておくと、おまへのお父さんもおまへも私も、今にみんな、村中の人と一しよにおぼれて死なゝければなりません。
 それで、ごくらうだが、お前はこれから急いで湖水の底へ行つて来て下さい。あすこにまるめろといふ木が生えてゐるでせう? あの枝を一本をつて、それを持つて水の下へもぐつておいきなさい。さうすると、いろんなお化(ばけ)が出て来て、追ひかへさうとするから、そのときにはまるめろの枝でなぐつてやれば、お化はみんなおそれてにげてしまひます。
 それからなほずん/\いくと、黄色いすゐれんの花がたくさんさいてゐるところへ来ます。その花の向うに、お祖父(ぢい)さまの水晶の御殿があるのです。水晶だから壁もすつかりすきとほつて、中に何千となくならんでゐる部屋/″\が一と目に見えます。その部屋は、どれもみんな、大きなダイヤモンドやエメラルドでかざつてあつて、柱にはルービーがいくつもはまつてゐます、部屋の戸口戸口には、羽根の生えた竜(りゆう)が、二ひきづゝ番をしてゐます。
 その竜がゐてもけつしておそれるにはおよびません、まるめろの枝でなぐつてやれば、みんな石になつてしまひます。その部屋/″\をとほりぬけて、どこまでも、まつすぐに進んでいくと、一ばんしまひに、エメラルドの戸のはまつた、りつぱなお部屋へ来ます。そこがお祖父さんの寝室です。
 そのお部屋は、天井が真珠で張つてあつて、床はすつかり貝のからで出来てゐます。その中へはいると、いくつもならんでゐる大きな花瓶(くわびん)に、珊瑚(さんご)のやうな花と、黄金のやうな果物のなつてゐる木とがさしてあります。四方の壁には大きな水草(みづぐさ)の中からふき出てゐる、綿のやうな蜘蛛(くも)の網が、一ぱいたれてゐます。その壁かけの上には、小さなうす赤い色をした蛙(かへる)が、いくひきもとまつてゐて、青い蜘蛛たちと一しよに、きれいな声で歌をうたつてゐます。
 そのお部屋に、長い/\青いひげの生えた王さまが、緑色のびろうどの着物を着て、帯のかはりに、銀色の蛇(へび)をまきつけて、椅子(いす)にかけてゐます。
 その両側には、私の二人のお姉さまが坐(すわ)つて、魚のひれでお父さまをあふいでゐます。
 おまへが行くと、お父さまやお姉さまは、みんなでおまへのごきげんを取つて、宝物のおくらへつれて行つて、金や銀やダイヤモンドを上げようと言ふにきまつてゐます。しかし、そんなものには一さい手をふれてはいけません。それよりも、そのおくらの中には、小さなびんが十二はいつてゐる、硝子(がらす)のはこが一つあるから、それをおもらひなさい。
 それから、そのつぎには同じおくらのすみの方にかくしてある、さびついた鐘をおもらひなさい。それは、あすこの、あの礼拝堂の鐘なのです。
 もし、その鐘だけはやられないと言つたら、そんならまるめろの枝でその鐘をたゝくよと言つておどかしてごらんなさい。さうすれば、きつとくれます。
 十二のびんは、もらつたらすぐに口をお開けなさい。そして鐘だけもつてかへつていらつしやい。
 しかしよく言つておくが、王さまの御殿を出てしまふまでは、けつしてその鐘は鳴らしてはいけませんよ。何かへぶつけてひとりでに鳴つてもいけないのだから、よく気をつけてね。
 そして御殿を出て、戸口を少しはなれたら、お前のありたけの力を出して、その鐘を三べんおたたきなさい。分つたね。それでおまへの行つた用事はすむのです。」
 お母さまはかう言つて、くはしくをしへました。


    六

 若ものはすぐにまるめろの枝を一と枝をつて、湖水の中へとびこみました。すると、いつの間にか、数のしれないほど大ぜいの、おそろしいお化(ばけ)が、ぐるりとまはりをとりまきました。見ると、頭が三つあつて、火のやうな目がたくさん光つてゐる化物(ばけもの)や、頭の先の平つたいのや、円いのがゐるかと思ふと、顔だけ人間でからだが大きな/\大とかげになつてゐるのや、そのほか、馬の頭をつけた竜(りゆう)だの、草や木に巻きついて、それを片はしから食つてしまふやうな、動物見たいな藻草(もぐさ)だの、それは/\いろ/\さま/″\の大きなお化や小さなお化がうよ/\むらがつて、若ものをおそひにかゝりました。しかし若ものは少しもおそれないで、飛びかゝつて来るお化を片はしからまるめろの枝でぽん/\なぐりつけました。するとお化どもは、みんなちゞみ上(あが)つて、どん/\にげてしまひました。
 若ものはやがて黄色いすゐれんの花の中をとほりぬけて、水晶の御殿の廊下へ上(あが)つていきました。
 すると、眠つてゐた小さな妖女(えうじよ)たちは、その足音にびつくりして、目をさまし、大あわてにあわてゝ王さまのところへしらせにいきました。
 若ものは部屋/″\の戸口に番をしてゐる竜を、片はしから石にして、ずん/\王さまの寝室へ近づきました。王さまは、それを見るとたいへんに怒つて、
「何ものかツ。」と、どなりながら、手にもつてゐた金のむちで、いきなり若ものゝ顔をぶちました。
 若ものは、すばやく身をかはして、まるめろの枝でそのむちをたゝきおとしました。
 すると、王さまはおそれて飛びのきました。王さまのそばについてゐた姉妹(きやうだい)二人の妖女は、若ものゝまへゝ来て膝(ひざ)をついて、
「どうぞおゆるしなすつて下さいまし。あすこのおくらには、金や銀やダイヤモンドや、ルービーや、珊瑚(さんご)や真珠が一ぱいはいつてをりますから、おいりになるだけお取り下さいまし。そしてもうどうぞ、このまゝおかへりになつて下さいまし。」
 かう言つて、若ものをおくらへつれていきました。若ものは、
「私(わたし)はそんなものがほしくて来たのではない。それよりも、あすこの硝子(がらす)のはこにはいつてゐるびんを下さい。」と言ひました。
 妖女は仕方なしにその十二のびんを出してわたしました。若ものはそれをうけとると、すぐに、片はしからびんの口を開けました。するとその中から、たくさんの白い形をしたものが、うれしさうに大声をあげてさけびながら、どん/\飛び出して、御殿の外へかけ出しました。それは妖女たちがさらつて行つた人間のたましひでした。
 二人の妖女は若ものゝきげんをとつて、どうぞこちらへ入らしつて、ごちそうをめし上つて下さいと言ひました。しかし若ものは、
「それよりもあなた方は、礼拝堂の鐘をこのくらにかくしてゐるでせう? 早くそれをこゝへお出しなさい。」と言ひました。
 すると二人の妖女も、小さな妖女たちも、たちまちぶる/\ふるへながら、大声を上げて泣き出しました。妖女の王さまも、小さくなつて、がた/\ふるへ出しました。
 でも、仕方がないので、二人の妖女は、とう/\その鐘を出してわたしました。若ものは、鐘のさびをきれいにふきおとして、いそいで御殿を出ていきました。そして、御殿から少しはなれるとすぐに、ありたけの力を出して、鐘をじやアんと鳴らしました。
 すると、今までりつぱにたつてゐた水晶の御殿は、またゝく間に、音もたてずに、ほろ/\とくだけて、珊瑚の柱も、真珠の天井も、みんな粉になつて、水の底の砂の上にちつてしまひました。
 若ものはつゞけてもう一つじやアんと鳴らしました。すると今度は、湖水中のお化や、すべての小さな妖女が、一どに湖水の底へきえてしまひました。
 若ものが三度目にじやアんと鳴らしますと、二ひきのほそい銀色の魚が、くづれおちた御殿のまはりを、ぐる/\およぎまはりはじめました。それから一ぴきの大きなかうもりが、こはれおちてゐる煙筒(えんとつ)の上へ来てとまりました。それは、二人の王女と、妖女の王さまとが、さういふ魚とかうもりとになつてしまつたのでした。かうもりになつたのは妖女の王さまでした。


    七

 若ものはそのまゝ鐘をもつて、いそいで岸へ上りました。
 すると、さつきまでどん/\あふれてゐた湖水は、いつの間にか、もとのとほりに水が引いてゐました。若ものはそれを見て安心して、家(うち)へかへりかけますと、向うから、それは/\年を取つたよぼ/\のおぢいさんが出て来て、若ものゝ足下にひざをついて、ぽろ/\と涙をながしながら、いくどもいくどもお礼を言ひました。そのおぢいさんのくびには、これまで、例のふしぎな黒い牡牛(をうし)のくびにつけてあつた綱がまきついてゐました。
 それは、鐘をぬすんで湖水へ投げこんだ、あの牛飼(うしかひ)でした。牛飼は、妖女(えうぢよ)の王さまの魔法にかゝつて、こんなよぼ/\のおぢいさんになるまで、永い間牛にされてゐたのが、若ものが鐘を鳴らしてくれたおかげで魔法がやぶれて、やつともとの人間にかへれたのでした。
 若ものは、間もなく家(うち)へかへつて見ますと、だれだか知らない、年を取つたおばあさんがうれしさうに出て来て、
「おゝ、お前か。よく鐘を鳴らしておくれだつた。」と言ひ/\、若ものに頬(ほほ)ずりをしました。若ものはへんな顔をして家(うち)の中へはいつて、
「母さんはどこにゐます。」と、お父さんにたづねました。お父さんは、
「そら、あれがお前の母さんだよ。」と言ひながら、さつきのおばあさんのそばへつれていきました。
 若ものはびつくりして、じろ/\とおばあさんの顔を見さぐりました。お父さんは、
「おまへがおどろくのは無理もない。じつはおまへの留守の間に、あのわか/\しかつた母さんが私(わたし)の見てゐる目のまへでずん/\年をとつて、とう/\こんなに、私と同じやうな年よりになつてしまつたのだ。
 それからおまへが鳴らした、一ばんはじめの鐘の音が聞えると、母さんは、もう妖女ではなくてあたりまへの人間になつたのだ。これからは三人で楽しくくらしていきませう。」
 かう言つて、手を合せて、なが/\と神さまにおいのりを上げました。




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