邪宗門
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著者名:北原白秋 

近代白耳義の所謂フアンドシエクルの神経には柑桂酒の酸味に竪笛の音色を思ひ浮かべ梅酒に喇叭を嗅ぎ、甘くして辛き茴香酒にフルウトの鋭さをたづね、あるはまたウヰスキイをトロムボオンに、キユムメル、ブランデイを嚠喨として鼻音を交へたるオボイの響に配して、それそれ匂強き味覚の合奏に耽溺すと云へど、こはさる驕りたる類にもあらず。黴くさき穴倉の隅、曇りたる色硝子の□より洩れきたる外光の不可思議におぼめきながら煤びたるフラスコのひとつに湛ゆるは火酒か、阿刺吉か、又はかの紅毛の※[#「酉+珍のつくり」、169-8]□の酒か、えもわかねど、われはただ和蘭わたりのびいどろの深き古色をゆかしみて、かのわかき日のはじめに秘め置きにたる様々の夢と匂とに執するのみ。
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  恋慕ながし

春ゆく市(いち)のゆふぐれ、
角(かく)なる地下室(セラ)の玻璃(はり)透き
うつらふ色とにほひと
見惚(みほ)れぬ。――潤(う)るむ笛の音(ね)。

しばしは雲の縹(はなだ)と、
灯(ひ)うつる路(みち)の濡色(ぬれいろ)、
また行く素足(すあし)しらしら、――
あかりぬ、笛の音色(ねいろ)も。

古き醋甕(すがめ)と街衢(ちまた)の
物焼く薫(くゆり)いつしか
薄らひ饐(す)ゆれ。――澄みゆく
紅(あか)き音色(ねいろ)の揺曳(ゆらびき)

このとき、玻璃(はり)も真黒(まくろ)に
四輪車(しりんしや)軋(きし)るはためき、
獣(けもの)の温(ぬる)き肌(はだ)の香(か)
過(よ)ぎりぬ。――濁(にご)る夜(よ)の色。

ああ眼(め)にまどふ音色(ねいろ)の
はやも見わかぬかなしさ。
れんほ、れれつれ、消えぬる
恋慕(れんぼ)ながしの一曲(ひとふし)。
四十年二月

  煙草

黄(き)のほてり、夢のすががき、
さはあまきうれひの華(はな)よ。
ほのに汝(な)を嗅(か)ぎゆくここち、
QURACIO(キユラソオ) の酒もおよばじ。

いつはあれ、ものうき胸に
痛(いたみ)知るささやきながら、
わかき火のにほひにむせて
はばたきぬ、快楽(けらく)のうたは。

そのうたを誰かは解(と)かむ。
あえかなる罪のまぼろし、――
濃(こ)き華の褐(くり)に沁みゆく
愛欲(あいよく)の千々(ちぢ)のうれひを。

向日葵(ひぐるま)の日に蒸すにほひ、
かはたれのかなしき怨言(かごと)
ゆるやかにくゆりぬ、いまも
絶間(たえま)なき火のささやきに。

かくてわがこころひねもす
傷(いた)むともなくてくゆりぬ、
あな、あはれ、汝(な)が香(か)の小鳥
そらいろのもやのつばさに。
四十年九月

  舗石

夏の夜(よ)あけのすずしさ、
氷載せゆく車の
いづちともなき軋(きしり)に、
潤(うる)みて消ゆる瓦斯(がす)の火。

海へか、路次(ろじ)ゆみだれて
大族(おほうから)なす鵞(が)の鳥
鳴きつれ、霧のまがひに
わたりぬ――しらむ舗石(しきいし)。

人みえそめぬ。煙草(たばこ)の
ただよひ湿(しめ)るたまゆら、
辻なる□の絵硝子(ゑがらす)
あがりぬ――ひびく舗石(しきいし)。

見よ、女(め)が髪のたわめき
濡れこそかかれ、このとき
つと寄(よ)り、男、みだらの
接吻(くちつけ)――にほふ舗石(しきいし)。

ほど経て□を閑(さ)す音(おと)。
枝垂柳(しだれやなぎ)のしげみを、
赤き港の自働車(じどうしや)
けたたましくも過(す)ぎぬる。

ややあり、ほのに緋(ひ)の帯、
水色うつり過(す)ぐれば、
縺(もつ)れぬ、はやも、からころ、
かろき木履(きぐつ)のすががき。
四十年九月

  驟雨前

長月(ながつき)の鎮守(ちんじゆ)の祭(まつり)
からうじてどよもしながら、
雨(あめ)もよひ、夜(よ)もふけゆけば、
蒸しなやむ濃(こ)き雲のあし
をりをりに赤(あか)くただれて、
月あかり、稲妻(いなづま)すなる。

このあたり、だらだらの坂(さか)、
赤楊(はん)高き小学校の
柵(さく)尽きて、下(した)は黍畑(きびばた)
こほろぎぞ闇に鳴くなる。
いづこぞや女声(をみなごゑ)して
重たげに雨戸(あまど)繰(く)る音(おと)。

わかれ路(みち)、辻(つじ)の濃霧(こぎり)は
馬やどののこるあかりに
幻燈(げんとう)のぼかしのごとも
蒸し青(あを)み、破(や)れし土馬車(つちばしや)
ふたつみつ泥(どろ)にまみれて
ひそやかに影を落(おと)しぬ。
泥濘(ぬかるみ)の物の汗(あせ)ばみ
生(なま)ぬるく、重き空気(くうき)に
新しき木犀(もくせい)まじり、
馬槽(うまぶね)の臭気(くさみ)ふけつつ、
懶(もの)うげのさやぎはたはた
暑(あつ)き夜(よ)のなやみを刻(きざ)む。

足音(あしおと)す、生血(なまち)の滴(した)り
しとしととまへを人かげ、
おちうどか、ほたや、六部(ろくぶ)か、
背(せ)に高き龕(みづし)をになひ、
青き火の消えゆくごとく
呻(うめ)きつつ闇にまぎれぬ。

生騒(なまさや)ぎ野をひとわたり。
とある枝(え)に蝉は寝(ね)おびれ、
ぢと嘆(なげ)き、鳴きも落つれば
洞(ほら)円(まろ)き橋台(はしだい)のをち、
はつかにも断(き)れし雲間(くもま)に
月黄(き)ばみ、病める笑(わら)ひす。

夜(よ)の汽車の重きとどろき。
凄まじき驟雨(しゆうう)のまへを、
黒烟(くろけぶり)深(ふか)き峡(はざま)は
一面(いちめん)に血潮ながれて、
いま赤く人轢(し)くけしき。
稲妻す。――嗚呼夜(よ)は一時(いちじ)。
三十九年九月

  解纜

解纜(かいらん)す、大船(たいせん)あまた。――
ここ肥前(ひぜん)長崎港(ながさきかう)のただなかは
長雨(ながあめ)ぞらの幽闇(いうあん)に海(うな)づら鈍(にぶ)み、
悶々(もんもん)と檣(ほばしら)けぶるたたずまひ、
鎖(くさり)のむせび、帆のうなり、伝馬(てんま)のさけび、
あるはまた阿蘭船(おらんせん)なる黒奴(くろんぼ)が
気(き)も狂(くる)ほしき諸ごゑに、硝子(がらす)切る音(おと)、
うち湿(しめ)り――嗚呼(ああ)午後(ごご)七時――ひとしきり、落居(おちゐ)ぬ騒擾(さやぎ)。

解纜(かいらん)す、大船あまた。
あかあかと日暮(にちぼ)の街(まち)に吐血(とけつ)して
落日(らくじつ)喘(あへ)ぐ寂寥(せきれう)に鐘鳴りわたり、
陰々(いんいん)と、灰色(はいいろ)重き曇日(くもりび)を
死を告(つ)げ知らすせはしさに、響は絶(た)えず
天主(てんしゆ)より。――闇澹(あんたん)として二列(ふたならび)、
海波(かいは)の鳴咽(おえつ)、赤(あか)の浮標(うき)、なかに黄(き)ばめる
帆は瘧(ぎやく)に――嗚呼(ああ)午後七時――わなわなとはためく恐怖(おそれ)。

解纜(かいらん)す、大船(たいせん)あまた。――
黄髪(わうはつ)の伴天連(ばてれん)信徒(しんと)蹌踉(さうらう)と
闇穴道(あんけつだう)を磔(はりき)負ひ駆(か)られゆくごと
生(なま)ぬるき悔(くやみ)の唸(うなり)順々(つぎつぎ)に、
流るる血しほ黒煙(くろけぶ)り動揺(どうえう)しつつ、
印度、はた、南蛮(なんばん)、羅馬、目的(めど)はあれ、
ただ生涯(しやうがい)の船がかり、いづれは黄泉(よみ)へ
消えゆくや、――嗚呼(ああ)午後七時――鬱憂(うついう)の心の海に。
三十九年七月

  日ざかり

嗚呼(ああ)、今(いま)し午砲(ごはう)のひびき
おほどかにとどろきわたり、
遠近(をちこち)の汽笛(きてき)しばらく
饑(う)うるごと呻(うめ)きをはれば、
柳原(やなぎはら)熱(あつ)き街衢(ちまた)は
また、もとの沈黙(しじま)にかへる。

河岸(かし)なみは赤き煉瓦家(れんぐわや)。
牢獄(ひとや)めく工場(こうば)の奥ゆ
印刷(いんさつ)の響(ひびき)たまたま
薄鉄葉(ブリキ)切る鋏(はさみ)の音(おと)と、
柩(ひつぎ)うつ槌と、鑢(やすり)と、
懶(もの)うげにまじりきこえぬ。

片側(かたかは)の古衣屋(ふるぎや)つづき、
衣紋掛(えもんかけ)重き恐怖(おそれ)に
肺(はひ)やみの咳(しはぶき)洩(も)れて、
饐(す)えてゆく物のいきれに、
陰湿(いんしつ)のにほひつめたく
照り白(しら)み、人は黙坐(もくざ)す。

ゆきかへり、やをら、電気車(でんきしや)
鉛(なまり)だつ体(たい)をとどめて
ぐどぐどとかたみに語り、
鬱憂(うついう)の唸(うなり)重げに
また軋(きし)る、熱(あつ)く垂れたる
ひた赤(あか)き満員(まんゐん)の札(ふだ)。

恐ろしき沈黙(しじま)ふたたび
酷熱(こくねつ)の日ざしにただれ、
ぺんき塗(ぬり)褪(さ)めし看板(かんばん)
毒(どく)滴(た)らし、河岸(かし)のあちこち
ちぢれ毛(げ)の痩犬(やせいぬ)見えて
苦(くる)しげに肉(にく)を求食(あさ)りぬ。
油(あぶら)うく線路(レエル)の正面(まとも)、
鉄(てつ)重(おも)き橋の構(かまへ)に
雲ひとつまろがりいでて
くらくらとかがやく真昼(まひる)、
汗(あせ)ながし、車曳(ひ)きつつ
匍匐(は)ふがごと撒水夫(みづまき)きたる。
三十九年九月

  軟風

ゆるびぬ、潤(うる)む罌粟(けし)の火は
わかき瞳の濡色(ぬれいろ)に。
熟視(みつ)めよ、ゆるる麦の穂の
たゆらの色のつぶやきを。

たわやになびく黒髪の
君の水脈(みを)こそ身に翻(あふ)れ。――
うかびぬ、消えぬ、火の雫(しづく)
匂の海のたゆたひに。

ふとしも歎(なげ)く蝶のむれ
ころりんころと……頬(ほ)のほめき、
触(ふ)るる吐息(といき)に縺(もつ)るれば、
色も、にほひも、つぶやきも、

同じ音色(ねいろ)の揺曳(ゆらびき)に
倦(うん)じぬ、かくて君が目も。――
あはれ、皐月(さつき)の軟風(なよかぜ)に
ゆられてゆめむわがおもひ。
四十年六月

  大寺

大寺(おほてら)の庫裏(くり)のうしろは、
枇杷あまた黄金(こがね)たわわに、
六月の天(そら)いろ洩るる
路次(ろじ)の隅、竿(さを)かけわたし
皮交り、襁褓(むつき)を乾(ほ)せり。
そのかげに穢(むさ)き姿(なり)して
面子(めんこ)うち、子らはたはぶれ、
裏店(うらだな)の洗流(ながし)の日かげ、
顔青き野師(やし)の女房ら
首いだし、煙草吸ひつつ、
鈍(にぶ)き目に甍(いらか)あふぎて、
はてもなう罵りかはす。
凋(しを)れたるもののにほひは
溝板(どぶいた)の臭気(くさみ)まじりに
蒸し暑(あつ)く、いづこともなく。
赤黒き肉屋の旗は
屋根越に垂れて動かず。
はや十時、街(まち)の沈黙(しじま)を
しめやかに沈(ぢん)の香しづみ、
しらじらと日は高まりぬ。
三十九年八月

  ひらめき

十月(じふぐわつ)のとある夜(よ)の空。
北国(ほつこく)の郊野(かうや)の林檎
実(み)は赤く梢(こずゑ)にのこれ、
はや、里の果物採(くだものとり)は
影絶えぬ、遠く灯(ひ)つけて
ただ軋(きし)る耕作(かうさく)ぐるま。
鬱憂(うついう)に海は鈍(にば)みて
闇澹(あんたん)と氷雨(ひさめ)やすらし。
灰(はひ)濁(だ)める暮雲(ぼうん)のかなた
血紅(けつこう)の火花(ひばな)ひらめき
燦(さん)として音(おと)なく消えぬ。
沈痛(ちんつう)の呻吟(うめき)この時、
闇重き夜色(やしよく)のなかに
蓬髪(ほうはつ)の男蹌踉(よろめ)き
落涙(らくるゐ)す、蒼白(あをじろ)き頬(ほ)に。
三十九年八月

  立秋

憂愁(いうしう)のこれや野の国、
柑子(かうじ)だつ灰色のすゑ
夕汽車(ゆふぎしや)の遠音(とほね)もしづみ、
信号柱(シグナル)のちさき燈(ともしび)
淡々(あはあは)とみどりにうるむ。

ひとしきり、小野(をの)に細雲(ほそぐも)。
南瓜畑(かぼちやばた)北へ練(ね)りゆく
旗赤き異形(ゐぎやう)の列(れつ)は
戯(おど)けたる広告(ひろめ)の囃子(はやし)
賑(にぎ)やかに遠くまぎれぬ。

うらがなし、落日(いりひ)の黄金(こがね)
片岡(かたおか)の槐(ゑんじゆ)にあかり、
鳴きしきる蜩(かなかな)、あはれ
誰(たれ)葬(はふ)るゆふべなるらむ。
三十九年八月

  玻璃罎

うすぐらき窖(あなぐら)のなか、
瓢状(ひさごなり)、なにか湛(たた)へて、
十(とを)あまり円(まろ)うならべる
夢(ゆめ)いろの薄(うす)ら玻璃罎(はりびん)。

静(しづ)けさや、靄(もや)の古(ふる)びを
黄蝋(わうらふ)は燻(くゆ)りまどかに
照りあかる。吐息(といき)そこ、ここ、
哀楽(あいらく)のつめたきにほひ。

今(いま)しこそ、ゆめの歓楽(くわんらく)
降(ふ)りそそげ。生命(いのち)の脈(なみ)は
ゆらぎ、かつ、壁にちらほら
玻璃(はり)透(す)きぬ、赤き火の色。
三十九年八月

  微笑

朧月(ろうげつ)か、眩(まば)ゆきばかり
髪むすび紅(あか)き帯して
あらはれぬ、春夜(しゆんや)の納屋(なや)に
いそいそと、あはれ、女子(をみなご)。

あかあかと据(す)ゑし蝋燭(らふそく)
薔薇(さうび)潮(さ)す片頬(かたほ)にほてり、
すずろけば夜霧(よぎり)火のごと、
いづこにか林檎(りんご)のあへぎ。

嗚呼(ああ)愉楽(ゆらく)、朱塗(しゆぬり)の樽(たる)の
差口(だぶす)抜き、酒つぐわかさ、
玻璃器(ぎやまん)に古酒(こしゆ)の薫香(かをりか)
なみなみと……遠く人ごゑ。

やや暫時(しばし)、瞳かがやき、
髪かしげ、微笑(ほほゑ)みながら
なに紅(あか)む、わかき女子(をみなご)。
母屋(もや)にまた、おこる歓語(さざめき)……
三十九年八月

  砂道

日の真昼(まひる)、ひとり、懶(ものう)く
真白なる砂道(さだう)を歩む。
市(いち)遠く赤き旗見ゆ、
風もなし。荒蕪地(かうぶち)つづき、
廃(すた)れ立つ礎(いしずゑ)燃(も)えて
烈々(れつれつ)と煉瓦(れんぐわ)の火気(くわき)に
爛(ただ)れたる果実(くわじつ)のにほひ
そことなく漂(ただよ)湿(しめ)る。

数百歩、娑婆(しやば)に音なし。

ふと、空に苦熱(くねつ)のうなり、
見あぐれば、名しらぬ大樹(たいじゆ)
千万(ちよろづ)の羽音(はおと)に糜(しら)け、
鈴状(すずなり)に熟(う)るる火の粒
潤(しめ)やかに甘き乳(ち)しぶく。
楽欲(げうよく)の渇(かわき)たちまち
かのわかき接吻(くちつけ)思ひ、
目ぞ暈(くら)む。

真夏の原に
真白(ましろ)なる砂道(さだう)とぎれて
また続く恐怖(おそれ)の日なか、
寂(せき)として過(よ)ぎる人なし。
三十九年八月

  凋落

寂光土(じやくくわうど)、はたや、墳塋(おくつき)、
夕暮(ゆふぐれ)の古き牧場(まきば)は
なごやかに光黄ばみて
うつらちる楡(にれ)の落葉(らくえふ)、
そこ、かしこ。――暮秋(ぼしう)の大日(おほひ)
あかあかと海に沈めば、
凋落(てうらく)の市(いち)に鐘鳴り、
絡繹(らくえき)と寺門(じもん)をいづる
老若(らうにやく)の力(ちから)なき顔、
あるはみな青き旗垂れ
灰(はひ)濁(だ)める水路(すゐろ)の靄に
寂寞(じやくまく)と繋(かか)る猪木舟(ちよきぶね)、
店々の装飾(かざり)まばらに、
甃石(いしだたみ)ちらほら軋る
空(から)ぐるま、寒き石橋。――
鈍(にぶ)き眼(め)に頭(かしら)もたげて
黄牛(あめうし)よ、汝(な)はなにおもふ。
三十九年八月

  晩秋

神無月、下浣(すゑ)の七日(しちにち)、
病(や)ましげに落日(いりひ)黄ばみて
晩秋(ばんしう)の乾風(からかぜ)光り、
百舌(もず)啼かず、木の葉沈まず、
空高き柿の上枝(ほづえ)を
実はひとつ赤く落ちたり。
刹那(せつな)、野を北へ人霊(ひとだま)、
鉦(かね)うちぬ、遠く死の歌。
君死にき、かかる夕(ゆふべ)に。
三十九年五月

  あかき木の実

暗(くら)きこころのあさあけに、
あかき木(こ)の実(み)ぞほの見ゆる。
しかはあれども、昼はまた
君といふ日にわすれしか。
暗(くら)きこころのゆふぐれに、
あかき木(こ)の実(み)ぞほの見ゆる。
四十年十月

  かへりみ

みかへりぬ、ふたたび、みたび、
暮れてゆく幼(をさな)の歩(あゆみ)
なに惜(をし)みさしもたゆたふ。
あはれ、また、野辺(のべ)の番紅花(さふらん)
はやあかきにほひに満つを。
四十年十二月

  なわすれぐさ

面□(ぎぬ)のにほひに洩(も)れて、
その眸(ひとみ)すすり泣くとも、――
空(そら)いろに透(す)きて、葉かげに
今日(けふ)も咲く、なわすれの花。
四十一年五月

  わかき日の夢

水(みづ)透(す)ける玻璃(はり)のうつはに、
果(み)のひとつみづけるごとく、
わが夢は燃(も)えてひそみぬ。
ひややかに、きよく、かなしく。
四十一年五月

  よひやみ

うらわかきうたびとのきみ、
よひやみのうれひきみにも
ほの沁むや、青みやつれて
木のもとに、みればをみなも。
な怨みそ。われはもくせい、
ほのかなる花のさだめに、
目見(まみ)しらみ、うすらなやめば
あまき香(か)もつゆにしめりぬ。
さあれ、きみ、こひのうれひは
よひのくち、それもひととき、
かなしみてあらばありなむ、
われもまた。――月はのぼれり。
三十九年四月

  一瞥

大月(たいげつ)は赤くのぼれり。
あら、青む最愛(さいあい)びとよ。
へだてなき恋の怨言(かごと)は
見るが間(ま)に朽ちてくだけぬ。
こは人か、
何らの色(いろ)ぞ、
凋落(てうらく)の鵠(くぐひ)か、鷭(ばん)か。
後(しりへ)より、
冷笑(れいせう)す、あはれ、一瞥(いちべつ)。
我(われ)、こころ君を殺(ころ)しき。
三十九年七月

  旅情

――さすらへるミラノひとのうた。

零落(れいらく)の宿泊(やどり)はやすし。
海ちかき下層(した)の小部屋(こべや)は、
ものとなき鹹(しほ)の汚(よ)ごれに、
煤(すす)けつつ匂(にほ)ふ壁紙(かべがみ)。
広重(ひろしげ)の名をも思(おもひ)出づ。

ほどちかき庖厨(くリや)のほてり、
絵草子(ゑざうし)の匂(にほひ)にまじり
物(もの)あぶる騒(さや)ぎこもごも、
焼酎(せうちう)のするどき吐息(といき)
針(はり)のごと肌(はだ)刺(さ)す夕(ゆふべ)。

ながむれば葉柳(はやなぎ)つづき、
色硝子(いろがらす)濡(ぬ)るる巷(こうぢ)を、
横浜(はま)の子が智慧(ちゑ)のはやさよ、
支那料理(しなれうり)、よひの灯影(ほかげ)に
みだらうたあはれに歌(うた)ふ。

ややありて月はのぼりぬ。
清らなる出窓(でまど)のしたを
からころと軋(きし)む櫓(ろ)の音(おと)。
鉄格子(てつかうし)ひしとすがりて
黄金髪(こがねがみ)わかきをおもふ。

数(かず)おほき罪に古(ふ)りぬる
初恋(はつこひ)のうらはかなさは
かかる夜(よ)の黒(くろ)き波間(なみま)を
舟(ふな)かせぎ、わたりさすらふ
わかうどが歌(うた)にこそきけ。

色(いろ)ふかき、ミラノのそらは
日本(ひのもと)のそれと似(に)たれど、
ここにして摘(つ)むによしなき
素馨(ジエルソミノ)、海のあなたに
接吻(くちつけ)のかなしきもあり。

国を去り、昨(きそ)にわかれて
逃(のが)れ来し身にはあれども、
なほ遠く君をしぬべば、
ほうほう……と笛はうるみて、
いづらへか、黒船(くろふね)きゆる。

廊下(らうか)ゆく重き足音(あしおと)。
みかへれば暗(くら)きひと間(ま)に
残(のこ)る火は血のごと赤く、
腐(くさ)れたる林檎(りんご)のにほひ、
そことなく涙をさそふ。
三十九年九月

  柑子

蕭(しめ)やかにこの日も暮(く)れぬ、北国(きたぐに)の古き旅籠屋(はたごや)。
物(もの)焙(あ)ぶる炉(ゐろり)のほとり頸(うなじ)垂れ愁(うれ)ひしづめば
漂浪(さすらひ)の暗(くら)き山川(やまかは)そこはかと。――さあれ、密(ひそ)かに
物ゆかし、わかき匂(にほひ)のいづこにか濡れてすずろぐ。

女(め)あるじは柴(しば)折り燻(くす)べ、自在鍵(じざいかぎ)低(ひく)くすべらし、
鍋かけぬ。赤ら顔して旅(たび)語る商人(あきうど)ふたり。
傍(かたへ)より、笑(ゑ)みて静かに籠(かたみ)なる木の実撰(え)りつつ、
家(いへ)の子は卓(しよく)にならべぬ。そのなかに柑子(かうじ)の匂(にほひ)。

ああ、柑子(かうじ)、黄金(こがね)の熱味(ほてり)嗅(か)ぎつつも思ひぞいづる。
晩秋(おそあき)の空ゆく黄雲(きぐも)、畑(はた)のいろ、見る眼(め)のどかに
夕凪(ゆふなぎ)の沖に帆あぐる蜜柑(みかん)ぶね、暮れて入る汽笛(ふえ)。
温かき南の島の幼子(をさなご)が夢のかずかず。

また思ふ、柑子(かうじ)の店(たな)の愛想(あいそ)よき肥満(こえ)たる主婦(あるじ)、
あるはまた顔もかなしき亭主(つれあひ)の流(なが)す新内(しんない)、
暮(く)れゆけば紅(あか)き夜(よ)の灯(ひ)に蒸(む)し薫(く)ゆる物の香(か)のなか、
夕餉時(ゆふげどき)、街(まち)に入り来(く)る旅人がわかき歩みを。

さては、われ、岡の木(こ)かげに夢心地(ゆめここち)、在(あ)りし静けさ
忍ばれぬ。目籠(めがたみ)擁(かか)へ、黄金(こがね)摘(つ)み、袖もちらほら
鳥のごと歌ひさまよふ君ききて泣きにし日をも。――
ああ、耳に鈴(すず)の清(すず)しき、鳴りひびく沈黙(しじま)の声音(いろね)。

柴(しば)はまた音(おと)して爆(は)ぜぬ、燃(も)えあがる炎(ほのほ)のわかさ。
ふと見れば、鍋の湯けぶり照り白らむ薫(かをり)のなかに、
箸とりて笑(ゑ)らぐ赤ら頬(ほ)、夕餉(ゆふげ)盛(も)る主婦(あるじ)、家の子、
皆、古き喜劇(きげき)のなかの姿(すがた)なり。涙ながるる。
三十九年五月

  内陣

ほのかなる香炉(かうろ)のくゆり、
日のにほひ、燈明(みあかし)のかげ、――

文月(ふづき)のゆふべ、蒸し薫(くゆ)る三十三間堂(さんじふさんげんだう)の奥(おく)
空色(そらいろ)しづむ内陣(ないぢん)の闇ほのぐらき静寂(せいじやく)に、
千一体(せんいつたい)の観世音(くわんぜおん)かさなり立たす香(か)の古(ふる)び
いと蕭(しめ)やかに後背(こうはい)のにぶき列(つらね)ぞ白(しら)みたる。

いづちとも、いつとも知らに、
かすかなる素足(すあし)のしめり。

そと軋(きし)むゆめのゆかいた
なよらかに、はた、うすらかに。

ほのめくは髪のなよびか、
衣(きぬ)の香(か)か、えこそわかたね。

女子(をみなご)の片頬(かたほ)のしらみ
忍びかの息(いき)の香(か)ぞする。

舞ごろも近づくなべに、
うつらかにあかる薄闇(うすやみ)。

初恋の燃(も)ゆるためいき、
帯の色、身内(みうち)のほてり。

だらりの姿(すがた)おぼろかになまめき薫(く)ゆる舞姫(まひひめ)の
ほのかに今(いま)したたずめば、本尊仏(ほんぞんぶつ)のうすあかり
静(しづ)かなること水のごと沈(しづ)みて匂ふ香(か)のそらに、
仰(あふ)ぐともなき目見(まみ)のゆめ、やはらに涙さそふ時(とき)。

甍(いらか)より鴿(はと)か立ちけむ、
はたはたとゆくりなき音(ね)に。

ふとゆれぬ、長(たけ)の振袖(ふりそで)
かろき緋(ひ)のひるがへりにぞ、

ほのかなる香炉(かうろ)のくゆり、
日のにほひ、燈明(みあかし)のかげ、――

もろもろの光はもつれ、
あな、しばし、闇にちらぼふ。
四十年七月

  懶き島

明けぬれどものうし。温(ぬる)き土(つち)の香を
軟風(なよかぜ)ゆたにただ懈(たゆ)く揺(ゆ)り吹くなべに、
あかがねの淫(たはれ)の夢ゆのろのろと
寝恍(ねほ)れて醒(さ)むるさざめ言(ごと)、起(た)つもものうし。

眺むれどものうし、のぼる日のかげも、
大海原(おおうなばら)の空燃(も)えて、今日(けふ)も緩(ゆる)ゆる
縦(たて)にのみ湧(わ)くなる雲の火のはしら
重(おも)げに色もかはらねば見るもものうし。

行きぬれどものうし、波ののたくりも、
懈(たゆ)たき砂もわが悩(なやみ)ものうければぞ、
信天翁(あはうどり)もそろもそろの吐息(といき)して
終日(ひねもす)うたふ挽歌(もがりうた)きくもものうし。

寝(ね)そべれどものうし、円(まろ)に屯(たむろ)して
正覚坊(しやうがくばう)の痴(しれ)ごこち、日を嗅(か)ぎながら
女らとなすこともなきたはれごと、
かくて抱けど、飽(あ)きぬれば吸ふもものうし。

貪(むさぼ)れどものうし、椰子(やし)の実(み)の酒も、
あか裸(はだか)なる身の倦(た)るさ、酌(く)めども、あほれ、
懶怠(をこたり)の心の欲(よく)のものうげさ。
遠雷(とほいかづち)のとどろきも昼はものうし。

暮れぬれどものうし、甘き髪の香も、
益(えう)なし、あるは木を擦(す)りて火ともすわざも。
空腹(ひだるげ)の心は暗(くら)きあなぐらに
蝮(はみ)のうねりのにほひなし、入れどものうし。

ああ、なべてものうし、夜(よる)はくらやみの
濁れる空に、熟(う)みつはり落つる実のごと
流星(すばるぼし)血を引き消ゆるなやましさ。
一人(ひとり)ならねど、とろにとろ、寝(ね)れどものうし。
四十年十二月

  灰色の壁

灰色(はいいろ)の暗(くら)き壁、見るはただ
恐ろしき一面(いちめん)の壁の色(いろ)。
臘月(らふげつ)の十九日(じふくにち)、
丑満(うしみつ)の夜(よ)の館(やかた)。
龕(みづし)めく唐銅(からかね)の櫃(ひつ)の上(うへ)、
燭(しよく)青うまじろがずひとつ照(て)る。
時にわれ、朦朧(もうろう)と黒衣(こくえ)して
天鵝絨(びろうど)のもの鈍(にぶ)き床(ゆか)に立ち、
ひたと身は鉄(てつ)の屑(くず)
磁石(じしやく)にか吸はれよる。
足はいま釘(くぎ)つけに痺(しび)れ、かの
黄泉(よみ)の扉(と)はまのあたり額(ぬか)を圧(お)す。

灰色(はひいろ)の暗(くら)き壁、見るはただ
恐ろしき一面(いちめん)の壁の色(いろ)。
暗澹(あんたん)と燐(りん)の火し
奈落(ならく)へか虚(うつろ)する。
表面(うはべ)ただ古地図(ふるちづ)に似て煤(すす)け、
縦横(たてよこ)にかず知れず走る罅(ひび)
青やかに火光(あかり)吸ひ、じめじめと
陰湿(いんしつ)の汗(あせ)うるみ冷(ひ)ゆる時、
鉄(てつ)の気(き)はうしろより
さかしまに髪を梳(す)く。
はと竦(すく)む節々(ふしふし)の凍(こほ)る音(おと)。
生きたるは黒漆(こくしつ)の瞳のみ。

灰色(はひいろ)の暗(くら)き壁、見るはただ
恐ろしき一面(いちめん)の壁の色(いろ)。
熟視(みつ)む、いま、あるかなき
一点(いつてん)の血の雫(しづく)。
朱(しゆ)の鈍(にば)み星のごと潤味(うるみ)帯(お)び
光る。聞く、この暗き壁ぶかに
くれなゐの皷(つづみ)うつ心(しん)の臓(ざう)
刻々(こくこく)にあきらかに熱(ほて)り来(く)れ。
血けぶり。刹那(せつな)ほと
かすかなる人の息(いき)。
みるがまに罅(ひび)はみなつやつやと
金髪(きんぱつ)の千筋(ちすぢ)なし、さと乱(みだ)る。

灰色の暗き壁、見るはただ
恐ろしき一面(いちめん)の壁の色。
なほ熟視(みつ)む。……髣髴(はうふつ)と
浮びいづ、女の頬(ほ)
大理石(なめいし)のごと腐(くさ)れ、仰向(あふの)くや
鼻(はな)冷(ひ)えてほの笑(わら)ふちひさき歯
しらしらと薄玻璃(うすはり)の音(ね)を立つる。
眼(め)をひらく。絶望(ぜつまう)のくるしみに
手はかたく十字(じふじ)拱(く)み、
みだらなる媚(こび)の色
きとばかり。燭(しよく)の火の青み射(さ)し、
銀色(ぎんいろ)の夜(よ)の絹衣(すずし)ひるがへる。

灰色(はひいろ)の暗(くら)き壁、見るはただ
恐(おそ)ろしき一面(いちめん)の壁(かべ)の色(いろ)。
『彼。』とわが憎悪心(ぞうをしん)

むらむらとうちふるふ。
一斉(いつせい)に冷血(れいけつ)のわななきは
釘(くぎ)つけの身を逆(さか)にゑぐり刺(さ)す。
ぎくと手は音(おと)刻(きざ)み、節(ふし)ごとに
機械(からくり)のごと動(うご)く。いま怪(あや)し、
おぼえあるくらがりに
落ちちれる埴(はに)と鏝(こて)。
つと取るや、ひとつ当(あ)て、左(ひだり)より
額(ぬか)をまづひしひしと塗(ぬ)りつぶす。

灰色(はひいろ)の暗き壁、見るはただ
恐ろしき一面(いちめん)の壁の色。
朱(しゆ)のごとき怨念(をんねん)は
燃(も)え、われを凍(こほ)らしむ。
刹那(せつな)、かの驕(おご)りたる眼鼻(めはな)ども
胸かけて、生(なま)ぬるき埴(はに)の色
ひと息に鏝(こて)の手に葬(はうむ)られ
生(い)きながら苦(くる)しむか、ひくひくと
うち皺む壁の罅(ひび)、
今、暗き他界(たかい)より
凄きまで面(おも)変(かは)り、人と世を
呪(のろ)ふにか、すすりなき、うめきごゑ。

灰色(はひいろ)の暗(くら)き壁、見るはただ
恐ろしき一面(いちめん)の壁の色。
悪業(あくごふ)の終(をは)りたる
時に、ふとわれの手は
物握(にぎ)るかたちして見出(みいだ)さる。
ながむれば埴(はに)あらず、鏝(こて)もなし。
ただ暗き壁の面(おも)冷々(ひえびえ)と、
うは湿(しめ)り、一点(いつてん)の血ぞ光る。
前(さき)の世の恋か、なほ
骨髄(こつずゐ)に沁みわたる
この怨恨(うらみ)、この呪咀(のろひ)、まざまざと
人ひとり幻影(まぼろし)に殺したる。

灰色(はひいろ)の暗(くら)き壁、見るはただ
恐ろしき一面(いちめん)の壁の色(いろ)。
臘月(らふげつ)の十九日(じふくにち)、
丑満(うしみつ)の夜(よ)の館(やかた)。
龕(みづし)めく唐銅(からかね)の櫃(ひつ)の上(うへ)
燭(しよく)青(あを)うまじろがずひとつ照る。
時になほ、朦朧(もうろう)と黒衣(こくえ)して
天鵝絨(びろうど)のものにぶき床(ゆか)に立ち、
わなわなと壁熟視(みつ)め、
ひとり、また戦慄(せんりつ)す。
掌(て)ひらけば汗(あせ)はあな生(なま)なまと
さながらに人間(にんげん)の血のにほひ。
三十九年十二月

  失くしつる

失(な)くしつる。
さはあるべくもおもはれね。
またある日には、
探(さが)しなば、なほあるごともおもはるる。
色青き真珠(しんじゆ)のたまよ。
四十一年七月[#改ページ]

装幀………………………………………………………………石井柏亭
 「エツキスリプリス」及「幼児磔殺」………………………石井柏亭
挿画『澆季』……………………………………………………石井柏亭
挿画『真昼』……………………………………………………山本 鼎
私信『四十一年七月廿一日便』………………………………太田正雄
挿画『硝子吹く家』………………………………………………石井柏亭
 扉絵及欄画十葉………………………………………………石井柏亭
彫版………………………………………………………………山本 鼎




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