邪宗門
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著者名:北原白秋 

やや暗き Fontainebleau の森より曇れる道を巴里の市街に出づれば Seine の河、そが上の船、河に臨める Caf□ の、皆「刹那」の如くしるく明かなる Manet の陽光に輝きわたれるに驚くならむ。そは Velazquez の灰色より俄に現れいでたる午后の日なりき。あはれ日はやうやう暮れてぞゆく。金緑に紅薔薇を覆輪にしたりけむ Monet の波の面も青みゆき、青みゆき、ほのかになつかしくはた悲しき Cafin の夕は来る。燈の薄黄は Whistler の好みの色とぞ。月出づ。Pissarro のあをき衢を Verlaine の白月の賦など口荒みつつ過ぎゆくは誰が家の子ぞや。太田正雄[#改ページ]

  冷めがたの印象

あわただし、旗ひるがへし、
朱(しゆ)の色の駅逓(えきてい)馬車(ぐるま)跳(をど)りゆく。

曇日(くもりび)の色なき街(まち)は
清水(しみづ)さす石油(せきゆ)の噎(むせび)、
轢(し)かれ泣く停車場(ていしやば)の鈴(すゞ)、溝(みぞ)の毒(どく)、
昼の三味(しやみ)、鑢(やすり)磨(す)る歌、
茴香酒(アブサン)の青み泡だつ火の叫(さけび)、
絶えず眩(くる)めく白楊(やまならし)、遂に疲れて
マンドリン奏(かな)でわづらふ風の群(むれ)、
あなあはれ、そのかげに乞食(かたゐ)ゆきかふ。

くわと来り、燃(も)えゆく旗は
死に堕(お)つる、夏の光のうしろかげ。

灰色の亜鉛(とたん)の屋根に、
青銅(せいどう)の擬宝珠(ぎぼしゆ)の錆(さび)に、
また寒き万象(ものみな)の愁(うれひ)のうへに、
爛(たゞ)れ弾(ひ)く猩紅熱(しやうこうねつ)の火の調(しらべ)、
狂気(きやうき)の色と冷(さ)めがたの疲労(つかれ)に、今は
ひた嘆(なげ)く、悔(くい)と、悩(なやみ)と、戦慄(をのゝき)と。

あかあかとひらめく旗は
猥(みだ)らなるその最終(いやはて)の夏の曲(きよく)。

あなあはれ、あなあはれ、
あなあはれ、光消えさる。
四十年十一月

  赤子

赤子啼く、
急(はや)き瀬(せ)の中(うち)。

壁重き女囚(ぢよしう)の牢獄(ひとや)、
鉄(てつ)の門(もん)、
淫慾(いんよく)の蛇の紋章(もんしやう)
くわとおびえ、
水に、落日(いりひ)に
照りかへし、
黄ばむひととき。

赤子(あかご)啼(な)く、
急(はや)き瀬(せ)の中(うち)。
四十一年六月

  暮春

ひりあ、ひすりあ。
しゆツ、しゆツ……

なやまし、河岸(かし)の日のゆふべ、
日の光。

ひりあ、ひすりあ。
しゆツ、しゆツ……

眼科(がんくわ)の窓(まど)の磨硝子(すりがらす)、しどろもどろの
白楊(はくやう)の温(ぬる)き吐息(といき)にくわとばかり、
ものあたたかに、くるほしく、やはく、まぶしく、
蒸し淀(よど)む夕日(ゆふひ)の光。
黄(き)のほめき。

ひりあ、ひすりあ。
しゆツ、しゆツ……

なやまし、またも
いづこにか、
なやまし、あはれ、
音(ね)も妙(たへ)に
紅(あか)き嘴(はし)ある小鳥らのゆるきさへづり。

ひりあ、ひすりあ。
しゆツ、しゆツ……

はた、大河(おほかは)の饐(す)え濁(にご)る、河岸(かし)のまぢかを
ぎちぎちと病(や)ましげにとろろぎめぐる
灰色(はいいろ)黄(き)ばむ小蒸汽(こじようき)の温(ぬ)るく、まぶしく、
またゆるくとろぎ噴(ふ)く湯気(ゆげ)
いま懈(た)ゆく、
また絶えず。

ひりあ、ひすりあ。
しゆツ、しゆツ……

いま病院(びやうゐん)の裏庭(うらには)に、煉瓦のもとに、
白楊(はくやう)のしどろもどろの香(か)のかげに、
窓の硝子(がらす)に、
まじまじと日向(ひなた)求(もと)むる病人(やまうど)は目(め)も悩(なや)ましく
見ぞ夢む、暮春(ぼしゆん)の空と、もののねと、
水と、にほひと。

ひりあ、ひすりあ。
しゆツ、しゆツ……

なやまし、ただにやはらかに、くらく、まぶしく、
また懈(た)ゆく。

ひりあ、ひすりあ。
しゆツ、しゆツ……
四十一年三月

  噴水の印象

噴水(ふきあげ)のゆるきしたたり。――
霧しぶく苑(その)の奥、夕日(ゆふひ)の光、
水盤(すゐばん)の黄(き)なるさざめき、
なべて、いま
ものあまき嗟嘆(なげかひ)の色。

噴水(ふきあげ)の病(や)めるしたたり。――
いづこにか病児(びやうじ)啼(な)き、ゆめはしたたる。
そこここに接吻(くちつけ)の音(おと)。
空は、はた、
暮れかかる夏のわななき。

噴水(ふきあげ)の甘きしたたり。――
そがもとに痍(きず)つける女神(ぢよじん)の瞳。
はた、赤き眩暈(くるめき)の中(うち)、
冷(ひや)み入る
銀(ぎん)の節(ふし)、雲のとどろき。

噴水(ふきあげ)の暮るるしたたり。――
くわとぞ蒸(む)す日のおびえ、晩夏(ばんか)のさけび、
濡れ黄ばむ憂鬱症(ヒステリイ)のゆめ
青む、あな
しとしとと夢はしたたる。
四十一年七月

  顔の印象 六篇

   A 精舎

うち沈む広額(ひろびたひ)、夜(よ)のごとも凹(くぼ)める眼(まなこ)――
いや深く、いや重く、泣きしづむ霊(たまし)の精舎(しやうじや)。
それか、実(げ)に声もなき秦皮(とねりこ)の森のひまより
熟視(みつ)むるは暗(くら)き池、谷そこの水のをののき。
いづこにか薄日(うすひ)さし、きしりこきり斑鳩(いかるが)なげく
寂寥(さみしら)や、空の色なほ紅(あけ)ににほひのこれど、
静かなる、はた孤独(ひとり)、山間(やまあひ)の霧にうもれて
悔(くい)と夜(よ)のなげかひを懇(ねもごろ)に通夜(つや)し見まもる。

かかる間(ま)も、底ふかく青(あを)の魚盲(めし)ひあぎとひ、
口そそぐ夢の豹(へう)水の面(も)に血音(ちのと)たてつつ、
みな冷(ひ)やき石の世(よ)と化(な)りぞゆく、あな恐怖(おそれ)より。

かくてなほ声もなき秦皮(とねりこ)よ、秘(ひそ)に火ともり、
精舎(しやうじや)また水晶と凝(こご)る時(とき)愁(うれひ)やぶれて
響きいづ、響きいづ、最終(いやはて)の霊(たま)の梵鐘(ぼんしよう)。
以下五篇――四十一年三月

   B 狂へる街

赭(あか)らめる暗(くら)き鼻、なめらかに禿(は)げたる額(ひたひ)、
痙攣(ひきつ)れる唇(くち)の端(はし)、光なくなやめる眼(まなこ)
なにか見る、夕栄(ゆふばえ)のひとみぎり噎(むせ)ぶ落日(いりひ)に、
熱病(ねつびやう)の響(ひびき)する煉瓦家(れんぐわや)か、狂へる街(まち)か。

見るがまに焼酎(せうちう)の泡(あわ)しぶきひたぶる歎(なげ)く
そが街(まち)よ、立てつづく尖屋根(とがりやね)血ばみ疲(つか)れて
雲赤くもだゆる日、悩(なや)ましく馬車(ばしや)駆(か)るやから
霊(たましひ)のありかをぞうち惑(まど)ひ窓(まど)ふりあふぐ。

その窓(まど)に盲(めし)ひたる爺(をぢ)ひとり鈍(にぶ)き刃(は)研(と)げる。
はた、唖(おふし)朱(しゆ)に笑ひ痺(しび)れつつ女(をみな)を説(と)ける。
次(つぎ)なるは聾(ろう)しぬる清き尼(あま)三味線(しやみせん)弾(ひ)ける。

しかはあれ、照り狂ふ街(まち)はまた酒と歌とに
しどろなる舞(まひ)の列(れつ)あかあかと淫(たは)れくるめき、
馬車(ばしや)のあと見もやらず、意味(いみ)もなく歌ひ倒(たふ)るる。


   C 醋の甕

蒼(あを)ざめし汝(な)が面(おもて)饐(す)えよどむ瞳(ひとみ)のにごり、
薄暮(くれがた)に熟視(みつ)めつつ撓(たわ)みちる髪の香(か)きけば――
醋(す)の甕(かめ)のふたならび人もなき室(むろ)に沈みて、
ほの暗(くら)き玻璃(はり)の窓ひややかに愁(うれ)ひわななく。

外面(とのも)なる嗟嘆(なげかひ)よ、波もなきいんくの河に
旗青き独木舟(うつろぶね)そこはかと巡(めぐ)り漕ぎたみ、
見えわかぬ悩(なやみ)より錨(いかり)曳(ひ)き鎖(くさり)巻かれて、
伽羅(きやら)まじり消え失(う)する黒蒸汽(くろじようき)笛(ふえ)ぞ呻(うめ)ける。

吊橋(つりばし)の灰白(はひじろ)よ、疲(つか)れたる煉瓦(れんぐわ)の壁(かべ)よ、
たまたまに整(ととの)はぬ夜(よ)のピアノ淫(みだ)れさやげど、
ひとびとは声もなし、河の面(おも)をただに熟視(みつ)むる。
はた、甕(かめ)のふたならび、さこそあれ夢はたゆたひ、
内と外(そと)かぎりなき懸隔(へだたり)に帷(とばり)堕(お)つれば、
あな悲し、あな暗(くら)し、醋(す)の沈黙(しじま)長くひびかふ。

   D 沈丁花

なまめけるわが女(をみな)、汝(な)は弾(ひ)きぬ夏の日の曲(きよく)、
悩(なや)ましき眼(め)の色に、髪際(かうぎは)の紛(こな)おしろひに、
緘(つぐ)みたる色あかき唇(くちびる)に、あるはいやしく
肉(ししむら)の香(か)に倦(う)める猥(みだ)らなる頬(ほ)のほほゑみに。

響(ひび)かふは呪(のろ)はしき執(しふ)と欲(よく)、ゆめもふくらに
頸(うなじ)巻く毛のぬくみ、真白(ましろ)なるほだしの環(たまき)
そがうへに我ぞ聴(き)く、沈丁花(ぢんてうげ)たぎる畑(はたけ)を、
堪(た)へがたき夏の日を、狂(くる)はしき甘(あま)きひびきを。

しかはあれ、またも聴く、そが畑(はた)に隣(とな)る河岸(かし)側(きは)、
色ざめし浅葱幕(あさぎまく)しどけなく張りもつらねて、
調(しら)ぶるは下司(げす)のうた、はしやげる曲馬(チヤリネ)の囃子(はやし)。

その幕の羅馬字(らうまじ)よ、くるしげに馬は嘶(いなな)き、
大喇叭(おほらつぱ)鄙(ひな)びたる笑(わらひ)してまたも挑(いど)めば
生(なま)あつき色と香(か)とひとさやぎ歎(なげ)きもつるる。

   E 不調子

われは見る汝(な)が不調(ふてう)、――萎(しな)びたる瞳の光沢(つや)に、
衰(おとろへ)の頬(ほ)ににほふおしろひの厚き化粧(けはひ)に、
あはれまた褪(あ)せはてし髪の髷(まげ)強(つよ)きくゆりに、
肉(ししむら)の戦慄(わななき)を、いや甘き欲(よく)の疲労(つかれ)を。

はた思ふ、晩夏(おそなつ)の生(なま)あつきにほひのなかに、
倦(う)みしごと縺(もつ)れ入るいと冷(ひ)やき風の吐息(といき)を。
新開(しんかい)の街(まち)は□(さ)びて、色赤く猥(みだ)るる屋根を、
濁りたる看板(かんばん)を、入り残る窓の落日(いりひ)を。

なべてみな整(ととの)はぬ色の曲(ふし)……ただに鋭(するど)き
最高音(ソプラノ)の入り雑(まじ)り、埃(ほこり)たつ家(や)なみのうへに、
色にぶき土蔵家(どざうや)の江戸芝居(えどしばゐ)ひとり古りたる。

露(あら)はなる日の光、そがもとに三味(しやみ)はなまめき、
拍子木(へうしぎ)の歎(なげき)またいと痛(いた)し古き痍(いたで)に、
かくてあな衰(おとろへ)のもののいろ空(そら)は暮れ初む。

   F 赤き恐怖

わかうどよ、汝(な)はくるし、尋(と)めあぐむ苦悶(くもん)の瞳(ひとみ)、
秀でたる眉のゆめ、ひたかわく赤き唇(くちびる)
みな恋の響なり、熟視(みつ)むれば――調(しらべ)かなでて
火のごとき馬ぐるま燃(も)え過ぐる窓のかなたを。

はた、辻の真昼(まひる)どき、白楊(はこやなぎ)にほひわななき、
雲浮かぶ空(そら)の色生(なま)あつく蒸しも汗(あせ)ばむ
街(まち)よ、あな音もなし、鐘はなほ鳴りもわたらね、
炎上(えんじやう)の光また眼(め)にうつり、壁ぞ狂(くる)へる。

人もなき路のべよ、しとしとと血を滴(したた)らし
胆(きも)抜(ぬ)きて走る鬼、そがあとにただに餞(う)ゑつつ
色赤き郵便函(ポスト)のみくるしげにひとり立ちたる。

かくてなほ窓の内(うち)すずしげに室(むろ)は濡(ぬ)るれど、
戸外(とのも)にぞ火は熾(さか)る、………哀(あは)れ、哀(あは)れ、棚(たな)の上(へ)に見よ、
水もなき消火器(せうくわき)のうつろなる赤き戦慄(をののき)。


  盲ひし沼

午後六時(ごごろくじ)、血紅色(けつこうしよく)の日の光
盲(めし)ひし沼にふりそそぎ、濁(にごり)の水の
声もなく傷(きずつ)き眩(くら)む生(なま)おびえ。
鉄(てつ)の匂(にほひ)のひと冷(ひや)み沁(し)みは入れども、
影うつす煙草(たばこ)工場(こうば)の煉瓦壁(れんぐわかべ)。
眼(め)も痛(いた)ましき香(か)のけぶり、機械(きかい)とどろく。

鳴ききたる鵝島(がてう)のうから
しらしらと水に飛び入る。

午後六時、また噴(ふ)きなやむ管(くだ)の湯気(ゆげ)、
壁に凭(よ)りたる素裸(すはだか)の若者(わかもの)ひとり
腕(かいな)拭(ふ)き鉄(てつ)の匂にうち噎(むせ)ぶ。
はた、あかあかと蒸気鑵(じようきがま)音(おと)なく叫び、
そこここに咲きこぼれたる芹(せり)の花、
あなや、しとどにおしなべて日ぞ照りそそぐ。

声もなき鵞鳥(がてう)のうから
色みだし水に消え入る

午後六時、鵞鳥(がてう)の見たる水底(みなぞこ)は
血潮したたる沼(ぬま)の面(も)の負傷(てきず)の光
かき濁る泥(どろ)の臭(くさ)みに疲(つか)れつつ、
水死(すゐし)の人の骨のごとちらぼふなかに
もの鈍(にぶ)き鉛の魚のめくるめき、
はた浮(うか)びくる妄念(まうねん)の赤きわななき。

逃(に)げいづる鵞鳥(がてう)のうから
鳴きさやぎ汀(みぎは)を走(はし)る。

午後六時、あな水底(みそこ)より浮びくる
赤きわななき――妄念の猛(たけ)ると見れば、
強き煙草に、鉄(てつ)の香(か)に、わかき男に、
顔いだす硝子(がらす)の窓の少女(をとめ)らに血潮したたり、
歓楽(くわんらく)の極(はて)の恐怖(おそれ)の日のおびえ、
顫(ふる)ひ高まる苦痛(くるしみ)ぞ朱(あけ)にくづるる。

刹那、ふと太(ふと)く湯気(ゆげ)吐き
吼(ほ)えいづる休息(やすらひ)の笛。
四十一年七月

  青き光

哀(あは)れ、みな悩(なや)み入る、夏の夜(よ)のいと青き光のなかに、
ほの白き鉄(てつ)の橋、洞(ほら)円(まろ)き穹窿(ああち)の煉瓦(れんぐわ)、
かげに来て米炊(かし)ぐ泥舟(どろぶね)の鉢(はち)の撫子(なでしこ)、
そを見ると見下(みおろ)せる人々(ひとびと)が倦(う)みし面(おもて)も。

はた絶えず、悩(なや)ましの角(つの)光り電車すぎゆく
河岸(かし)なみの白き壁あはあはと瓦斯も点(とも)れど、
うち向ふ暗き葉柳(はやなぎ)震慄(わなな)きつ、さは震慄(わなな)きつ、
後(うしろ)よりはた泣くは青白き屋(いへ)の幽霊(いうれい)。

いと青きソプラノの沈みゆく光のなかに、
饐(す)えて病むわかき日の薄暮(くれがた)のゆめ。――
幽霊の屋(いへ)よりか洩れきたる呪(のろ)はしの音(ね)の
交響体(ジムフオニ)のくるしみのややありて交(まじ)りおびゆる。

いづこにかうち囃(はや)す幻燈(げんとう)の伴奏(あはせ)の進行曲(マアチ)、
かげのごと往来(ゆきき)する白(しろ)の衣(きぬ)うかびつれつつ、
映(うつ)りゆく絵(ゑ)のなかのいそがしさ、さは繰りかへす。――
そのかげに苦痛(くるしみ)の暗(くら)きこゑまじりもだゆる。

なべてみな悩(なや)み入る、夏の夜(よ)のいと青き光のなかに。――
蒸し暑(あつ)き軟(なよ)ら風(かぜ)もの甘(あま)き汗(あせ)に揺(ゆ)れつつ、
ほつほつと点(と)もれゆく水(みづ)の面(も)のなやみの燈(ともし)、
鹹(しほ)からき執(しふ)の譜(ふ)よ………み空には星ぞうまるる。

かくてなほ悩み顫(ふる)ふわかき日の薄暮(くれがた)のゆめ。――
見よ、苦(にが)き闇(やみ)の滓(をり)街衢(ちまた)には淀(よど)みとろげど、
新(あらた)にもしぶきいづる星の華(はな)――泡(あわ)のなげきに
色青き酒のごと空(そら)は、はた、なべて澄みゆく。
四十一年七月

  樅のふたもと

うちけぶる樅(もみ)のふたもと。
薄暮(くれがた)の山の半腹(なから)のすすき原(はら)、
若草色(わかくさいろ)の夕(ゆふ)あかり濡れにぞ濡るる
雨の日のもののしらべの微妙(いみじ)さに、
なやみ幽(かす)けき Chopin(シオパン) の楽(がく)のしたたり
やはらかに絶えず霧するにほやかさ。
ああ、さはあかれ、嗟嘆(なげかひ)の樅(もみ)のふたもと。

はやにほふ樅(もみ)のふたもと。
いつしかに色にほひゆく靄のすそ、
しみらに燃(も)ゆる日の薄黄(うすぎ)、映(うつ)らふみどり、
ひそやかに暗(くら)き夢弾(ひ)く列並(つらなみ)の
遠(とほ)の山々(やまやま)おしなべてものやはらかに、
近(ちか)ほとりほのめきそむる歌(うた)の曲(ふし)。
ああ、はやにほへ、嗟嘆(なげかひ)の樅(もみ)のふたもと。

燃えいづる樅(もみ)のふたもと。
濡れ滴(した)る柑子(かうじ)の色のひとつらね、
深き青みの重(かさな)りにまじらひけぶる
山の端(は)の縺(もつ)れのなやみ、あるはまた
かすかに覗(のぞ)く空のゆめ、雲のあからみ、
晩夏(おそなつ)の入日(いりひ)に噎(むせ)ぶ夕(ゆふ)ながめ。
ああ、また燃(も)ゆれ、嗟嘆(なげかひ)の樅(もみ)のふたもと。

色うつる樅(もみ)のふたもと。
しめやげる葬(はふり)の曲(ふし)のかなしみの
幽(かす)かにもののなまめきに揺曳(ゆらひ)くなべに、
沈(しづ)みゆく雲の青みの階調(シムフオニヤ)、
はた、さまざまのあこがれの吐息(といき)の薫(くゆり)、
薄れつつうつらふきはの日のおびえ。
ああ、はた、響け、嵯嘆(なげかひ)の樅(もみ)のふたもと。

饐(す)え暗(くら)む樅のふたもと。
燃えのこる想(おもひ)のうるみひえびえと、
はや夜(よ)の沈黙(しじま)しのびねに弾きも絶え入る
列並(つらなみ)の山のくるしみ、ひと叢(むら)の
柑子(かうじ)の靄のおぼめきも音(ね)にこそ呻(うめ)け、
おしなべて御龕(みづし)の空(そら)ぞ饐(す)えよどむ。
ああ、見よ、悩(なや)む、嗟嘆(なげかひ)の樅(もみ)のふたもと。

暮れて立つ樅(もみ)のふたもと。
声もなき悲願(ひぐわん)の通夜(つや)のすすりなき
薄らの闇に深みゆく、あはれ、法悦(ほふえつ)、
いつしかに篳篥(ひちりき)あかる谷のそら、
ほのめき顫(ふる)ふ月魄(つきしろ)のうれひ沁みつつ
夢青む忘我(われか)の原の靄の色。
ああ、さは顫(ふる)へ嗟嘆(なげかひ)の樅(もみ)のふたもと。
四十一年二月

  夕日のにほひ

晩春(おそはる)の夕日(ゆふひ)の中(なか)に、
順礼(じゆんれい)の子はひとり頬(ほ)をふくらませ、
濁(にご)りたる眼(め)をあげて管(くだ)うち吹ける。
腐(くさ)れゆく襤褸(つづれ)のにほひ、
酢(す)と石油(せきゆ)……にじむ素足(すあし)に
落ちちれる果実(くだもの)の皮、赤くうすく、あるは汚(きた)なく……

片手(かたて)には噛(かぢ)りのこせし
林檎(りんご)をばかたく握(にぎ)りぬ。
かくてなほ頬(ほ)をふくらませ
怖(おづ)おづと吹きいづる………珠(たま)の石鹸(しやぼん)よ。

さはあれど、珠(たま)のいくつは
なやましき夕暮(ゆふぐれ)のにほひのなかに
ゆらゆらと円(まろ)みつつ、ほつと消(き)えたる。
ゆめ、にほひ、その吐息(といき)……

彼(かれ)はまた、
怖々(おづおづ)と、怖々(おづおづ)と、……眩(まぶ)しげに頬(ほ)をふくらませ
蒸(む)し淀(よど)む空気(くうき)にぞ吹きもいでたる。

あはれ、見よ、
いろいろのかがやきに濡(ぬ)れもしめりて
円(まろ)らにものぼりゆく大(おほ)きなるひとつの珠(たま)よ。
そをいまし見あげたる無心(むしん)の瞳(ひとみ)。

背後(そびら)には、血しほしたたる
拳(こぶし)あげ、
霞(かす)める街(まち)の大時計(おほどけい)睨(にら)みつめたる
山門(さんもん)の仁王(にわう)の赤(あか)き幻想(イリユウジヨン)……

その裏(うら)を
ちやるめらのゆく……
四十一年十二月

  浴室

水落つ、たたと………浴室(よくしつ)の真白き湯壺(ゆつぼ)
大理石(なめいし)の苦悩(なやみ)に湯気(ゆげ)ぞたちのぼる。
硝子(がらす)の外(そと)の濁川(にごりがは)、日にあかあかと
小蒸汽(こじようき)の船腹(ふなばら)光るひとみぎり、太鼓ぞ鳴れる。

水落つ、たたと………‥灰色(はひいろ)の亜鉛(とたん)の屋根の
繋留所(けいりうじよ)、わが窓近き陰鬱(いんうつ)に
行徳(ぎやうとく)ゆきの人はいま見つつ声なし、
川むかひ、黄褐色(わうかつしよく)の雲のもと、太皷ぞ鳴れる。

水落つ、たたと…………両国(りやうごく)の大吊橋(おほつりばし)は
うち煤(すす)け、上手(かみて)斜(ななめ)に日を浴(あ)びて、
色薄黄(き)ばみ、はた重く、ちやるめらまじり
忙(せは)しげに夜(よ)に入る子らが身の運(はこ)び、太皷ぞ鳴れる。

水落つ、たたと…………もの甘く、あるひは赤く、
うらわかきわれの素肌(すはだ)に沁(し)みきたる
鉄(てつ)のにほひと、腐(くさ)れゆく石鹸(しやぼん)のしぶき。
水面(みのも)には荷足(にたり)の暮れて呼ぶ声す、太皷ぞ鳴れる。

水落つ、たたと…………たたとあな音色(ねいろ)柔(やは)らに、
大理石(なめいし)の苦悩(なやみ)に湯気(ゆげ)は濃(こ)く、温(ぬ)るく、
鈍(にぶ)きどよみと外光(ぐわいくわう)のなまめく靄に
疲(つか)れゆく赤き都会(とくわい)のらうたげさ、太皷ぞ鳴れる。
四十一年八月

  入日の壁

黄(き)に潤(しめ)る港の入日(いりひ)、
切支丹(きりしたん)邪宗(じやしゆう)の寺の入口(いりぐち)の
暗(くら)めるほとり、色古りし煉瓦(れんぐわ)の壁に射かへせば、
静かに起る日の祈祷(いのり)、
『ハレルヤ』と、奥にはにほふ讃頌(さんしよう)の幽(かす)けき夢路(ゆめぢ)。

あかあかと精舎(しやうじや)の入日。――
ややあれば大風琴(おほオルガン)の音(ね)の吐息(といき)
たゆらに嘆(なげ)き、白蝋(はくらふ)の盲(し)ひゆく涙。――
壁のなかには埋(うづ)もれて
眩暈(めくるめ)き、素肌(すはだ)に立てるわかうどが赤き幻(まぼろし)。

ただ赤き精舎(しやうじや)の壁に、
妄念(まうねん)は熔(とろ)くるばかりおびえつつ
全身(ぜんしん)落つる日を浴(あ)びて真夏(まなつ)の海をうち睨(にら)む。
『聖(サンタ)マリヤ、イエスの御母(みはは)。』
一斉(いつせい)に礼拝(をろがみ)終(をは)る老若(らうにやく)の消え入るさけび。
はた、白(しら)む入日の色に
しづしづと白衣(はくえ)の人らうちつれて
湿潤(しめり)も暗き戸口(とぐち)より浮びいでつつ、
眩(まぶ)しげに数珠(じゆず)ふりかざし急(いそ)げども、
など知らむ、素肌(すはだ)に汗(あせ)し熔(とろ)けゆく苦悩(くなう)の思(おもひ)。

暮れのこる邪宗(じやしゆう)の御寺(みてら)
いつしかに薄(うす)らに青くひらめけば
ほのかに薫(くゆ)る沈(ぢん)の香(かう)、波羅葦増(ハライソ)のゆめ。
さしもまた埋(うも)れて顫(ふる)ふ妄念(まうねん)の
血に染みし踵(かがと)のあたり、蟋蟀(きりぎりす)啼きもすずろぐ。
四十一年八月

  狂へる椿

ああ、暮春(ぼしゆん)。

なべて悩(なや)まし。
溶(とろ)けゆく雲のまろがり、
大(おほ)ぞらのにほひも、ゆめも。

ああ、暮春。

大理石(なめいし)のまぶしきにほひ――
幾基(いくもと)の墓の日向(ひなた)に
照りかへし、
くわと入る光。
ものやはき眩暈(くるめき)の甘き恐怖(おそれ)よ。
あかあかと狂ひいでぬる薮椿(やぶつばき)、
自棄(やけ)に熱(ねつ)病(や)む霊(たま)か、見よ、枝もたわわに
狂ひ咲き、
狂ひいでぬる赤き花、
赤き□言(うはごと)。

そがかたへなる崖(がけ)の上(うへ)、
うち湿(しめ)り、熱(ほて)り、まぶしく、また、ねぶく
大路(おほぢ)に淀(よど)むもののおと。
人力車夫(じんりきしやふ)は
ひとつらね青白(あをじろ)の幌(ほろ)をならべぬ。
客を待つこころごころに。

ああ、暮春。

さあれ、また、うちも向へる
いと高く暗き崖(がけ)には、
窓(まど)もなき牢獄(ひとや)の壁の
長き列(つら)、はては閉(とざ)せる
灰黒(はひぐろ)の重き裏門(うらもん)。

はたやいま落つる日ひびき、
照りあかる窪地(くぼち)のそらの
いづこにか、
さはひとり、
湿(しめ)り吹きゆく
幼(をさな)ごころの日のうれひ、
そのちやるめらの
笛の曲(ふし)。

笛の曲(ふし)…………
かくて、はた、病(や)みぬる椿(つばき)、
赤く、赤く、狂(くる)へる椿(つばき)。
四十一年六月

  吊橋のにほひ

夏の日の激(はげ)しき光
噴(ふ)きいづる銀(ぎん)の濃雲(こぐも)に照りうかび、
雲は熔(とろ)けてひたおもて大河筋(おほかはすぢ)に射かへせば、
見よ、眩暈(めくるめ)く水の面(おも)、波も真白に
声もなき潮のさしひき。

そがうへに懸(かか)る吊橋。
煤(すす)けたる黝(ねずみ)の鉄(てつ)の桁構(けたがまへ)、
半月形(はんげつけい)の幾円(いくまろ)み絶えつつ続くかげに、見よ、
薄(うす)らに青む水の色、あるは煉瓦(れんぐわ)の
円柱(まろはしら)映(うつ)ろひ、あかみ、たゆたひぬ。

銀色(ぎんいろ)の光のなかに、
そろひゆく櫂(オオル)のなげきしらしらと、
或(あるひ)は仄(ほの)の水鳥(みづとり)のそことしもなき音(ね)のうれひ、
河岸(かし)の氷室(ひむろ)の壁も、はた、ただに真昼の
白蝋(はくらふ)の冷(ひや)みの沈黙(しじま)。

かくてただ悩(なや)む吊橋(つりはし)、
なべてみな真白き水(み)の面(も)、はた、光、
ただにたゆたふ眩暈(くるめき)の、恐怖(おそれ)の、仄(ほの)の哀愁(かなしみ)の
銀(ぎん)の真昼(まひる)に、色重き鉄(てつ)のにほひぞ
鬱憂(うついう)に吊られ圧(お)さるる。

鋼鉄(かうてつ)のにほひに噎(むせ)び、
絶えずまた直裸(ひたはだか)なる男の子
真白(ましろ)に光り、ひとならび、力(ちから)あふるる面(おもて)して
柵(さく)の上より躍(をど)り入る、水の飛沫(しぶき)や、
白金(はつきん)に濡(ぬ)れてかがやく。

真白(ましろ)なる真夏(まなつ)の真昼(まひる)。
汗(あせ)滴(した)るしとどの熱(ねつ)に薄曇(うすくも)り、
暈(くら)みて歎(なげ)く吊橋のにほひ目当(めあて)にたぎち来る
小蒸汽船(こじようきせん)の灰(はひ)ばめる鈍(にぶ)き唸(うなり)や、
日は光り、煙うづまく。
四十一年八月

  硝子切るひと

君は切る、
色あかき硝子(がらす)の板(いた)を。
落日(いりひ)さす暮春(ぼしゆん)の窓に、
いそがしく撰(えら)びいでつつ。

君は切る、
金剛(こんがう)の石のわかさに。

茴香酒(アブサン)のごときひとすぢ
つと引きつ、切りつ、忘れつ。

君は切る、
色あかき硝子(がらす)の板を。

君は切る、君は切る。
四十年十二月

   悪の窓 断篇七種


   一 狂念

あはれ、あはれ、
青白(あをじろ)き日の光西よりのぼり、
薄暮(くれがた)の灯のにほひ昼もまた点(とも)りかなしむ。

わが街(まち)よ、わが窓よ、なにしかも焼酎(せうちう)叫(さけ)び、
鶴嘴(つるはし)のひとつらね日に光り悶(もだ)えひらめく。

汽車(きしや)ぞ来(く)る、汽車(きしや)ぞ来(く)る、真黒(まくろ)げに夢とどろかし、
窓もなき灰色(はひいろ)の貨物輌(くわもつばこ)豹(へう)ぞ積みたる。
あはれ、はや、焼酎(せうちう)は醋(す)とかはり、人は轢(し)かれて、
盲(めし)ひつつ血に叫ぶ豹(へう)の声遠(とほ)に泡(あわ)立つ。

   二 疲れ

あはれ、いま暴(あら)びゆく接吻(くちつけ)よ、肉(ししむら)の曲(きよく)。……

かくてはや青白く疲(つか)れたる獣(けもの)の面(おもて)
今日(けふ)もまた我(われ)見据(みす)ゑ、果敢(はか)なげに、いと果敢(はか)なげに、
色濁(にご)る窓(まど)硝子(がらす)外面(とのも)より呪(のろ)ひためらふ。

いづこにかうち狂(くる)ふ□オロンよ、わが唇(くちびる)よ、
身をも燬(や)くべき砒素(ひそ)の壁(かべ)夕日さしそふ。

   三 薄暮の負傷

血潮したたる。

薄暮(くれがた)の負傷(てきず)なやまし、かげ暗(くら)き溝(みぞ)のにほひに、
はた、胸に、床(ゆか)の鉛(なまり)に……

さあれ、夢には列(つら)なめて駱駝(らくだ)ぞ過(す)ぐる。
埃及(えじぷと)のカイロの街(まち)の古煉瓦(ふるれんが)
壁のひまには砂漠(さばく)なるオアシスうかぶ。
その空にしたたる紅(あか)きわが星よ。……

血潮したたる。

   四 象のにほひ

日をひと日。
日をひと日。

日をひと日、光なし、色も盲(めし)ひて
ふくだめる、はた、病(や)めるなやましきもの
□ふたぎ□ふたぎ気倦(けだ)るげに唸(うな)りもぞする。

あはれ、わが幽鬱(いううつ)の象(ざう)
亜弗利加(あふりか)の鈍(にぶ)きにほひに。

日をひと日。
日をひと日。

   五 悪のそびら

おどろなす髪の亜麻色(あさいろ)
背(そびら)向け、今日(けふ)もうごかず、
さあれ、また、絶えずほつほつ
息しぼり『死』にぞ吹くめる、
血のごとき石鹸(しやぼん)の珠(たま)を。

   六 薄暮の印象

うまし接吻(くちつけ)……歓語(さざめごと)……

さあれ、空には眼(め)に見えぬ血潮(ちしほ)したたり、
なにものか負傷(てお)ひくるしむ叫(さけび)ごゑ、
など痛(いた)む、あな薄暮(くれがた)の曲(きよく)の色、――光の沈黙(しじま)。

うまし接吻(くちつけ)……歓語(さざめごと)……

   七 うめき

暮(く)れゆく日、血に濁る床(ゆか)の上にひとりやすらふ。
街(まち)しづみ、□しづみ、わが心もの音(おと)もなし。

載(の)せきたる板硝子(いたがらす)過(す)ぐるとき車燬(や)きつつ
落つる日の照りかへし、そが面(おもて)噎びあかれば
室内(むろぬち)の汚穢(けがれ)、はた、古壁に朽ちし鉞(まさかり)
一斉(ひととき)に屠(はふ)らるる牛の夢くわとばかり呻(うめ)き悶(もだ)ゆる。

街(まち)の子は戯(たはむ)れに空虚(うつろ)なる乳(ち)の鑵(くわん)たたき、
よぼよぼの飴売(あめうり)は、あなしばし、ちやるめらを吹く。

くわとばかり、くわとばかり、
黄(き)に光る向(むか)ひの煉瓦(れんぐわ)
くわとばかり、あなしばし。――
悪の□ 畢――四十一年二月

  蟻

おほらかに、
いとおほらかに、
大(おほ)きなる鬱金(うこん)の色の花の面(おも)。

日は真昼(まひる)、
時は極熱(ごくねつ)、
ひたおもて日射(ひざし)にくわつと照りかへる。

時に、われ
世(よ)の蜜(みつ)もとめ
雄蕋(ゆうずゐ)の林の底をさまよひぬ。

光の斑(ふ)
燬(や)けつ、断(ちぎ)れつ、
豹(へう)のごと燃(も)えつつ湿(し)める径(みち)の隈(くま)。

風吹かず。
仰ふげば空(そら)は
烈々(れつれつ)と鬱金(うこん)を篩(ふる)ふ蕋(ずゐ)の花。

さらに、聞く、
爛(ただ)れ、饐(す)えばみ、
ふつふつと苦痛(くつう)をかもす蜜の息。

楽欲(げうよく)の
極みか、甘き
寂寞(じやくまく)の大光明(だいくわうみやう)、に喘(あへ)ぐ時。

人界(にんがい)の
七谷(ななたに)隔(へだ)て、
丁々(とうとう)と白檀(びやくだん)を伐(う)つ斧(をの)の音(おと)。
四十年三月

  華のかげ

時(とき)は夏、血のごと濁(にご)る毒水(どくすゐ)の
鰐(わに)住む沼(ぬま)の真昼時(まひるどき)、夢ともわかず、
日に嘆(なげ)く無量(むりやう)の広葉(ひろは)かきわけて
ほのかに青き青蓮(せいれん)の白華(しらはな)咲けり。

ここ過(よ)ぎり街(まち)にゆく者、――
婆羅門(ばらもん)の苦行(くぎやう)の沙門(しやもん)、あるはまた
生皮(なまかわ)漁(あさ)る旃陀羅(せんだら)が鈍(にぶ)き刃(は)の色、
たまたまに火の布(きれ)巻ける奴隷(しもべ)ども
石油(せきゆ)の鑵(くわん)を地に投(な)げて鋭(するど)に泣けど、
この旱(ひでり)何時(いつ)かは止(や)まむ。これやこれ、
饑(うゑ)に堕(お)ちたる天竺(てんぢく)の末期(まつご)の苦患(くげん)。
見るからに気候風(きこうふう)吹く空(そら)の果(はて)
銅色(あかがねいろ)のうろこ雲湿潤(しめり)に燃(りも)えて
恒河(ガンヂス)の鰐(わに)の脊(せ)のごとはらばへど、
日は爛(ただ)れ、大地(たいち)はあはれ柚色(ゆずいろ)の
熱黄疸(ねつわうだん)の苦痛(くるしみ)に吐息(といき)も得せず。

この恐怖(おそれ)何に類(たぐ)へむ。ひとみぎり
地平(ちへい)のはてを大象(たいざう)の群(むれ)御(ぎよ)しながら
槍(やり)揮(ふる)ふ土人(どじん)が昼の水かひも
終(を)へしか、消ゆる後姿(うしろで)に代(かは)れる列(れつ)は
こは如何(いか)に殖民兵(しよくみんへい)の黒奴(ニグロ)らが
喘(あへ)ぎ曳き来る真黒(まくろ)なる火薬(くわやく)の車輌(くるま)
掲(かか)ぐるは危嶮(きけん)の旗の朱(しゆ)の光
絶えず饑(う)ゑたる心臓(しんざう)の呻(うめ)くに似たり。

さはあれど、ここなる華(はな)と、円(まろ)き葉の
あはひにうつる色、匂(にほひ)、青みの光、
ほのほのと沼(ぬま)の水面(みのも)の毒の香も
薄(うす)らに交(まじ)り、昼はなほかすかに顫(ふる)ふ。
四十年十二月

  幽閉

色濁(にご)るぐらすの戸(と)もて
封(ふう)じたる、白日(まひるび)の日のさすひと間(ま)、
そのなかに蝋(らふ)のあかりのすすりなき。

いましがた、蓋(ふた)閉(とざ)したる風琴(オルガン)の忍(しの)びのうめき。
そがうへに瞳(ひとみ)盲(し)ひたる嬰児(みどりご)ぞ戯れあそぶ。
あはれ、さは赤裸(あかはだか)なる、盲(めし)ひなる、ひとり笑(ゑ)みつつ、
声たてて小さく愛(めぐ)しき生(うまれ)の臍(ほぞ)をまさぐりぬ。

物病(や)ましさのかぎりなる室(むろ)のといきに、
をりをりは忍び入るらむ戯(おど)けたる街衢(ちまた)の囃子(はやし)、
あはれ、また、嬰児(みどりご)笑ふ。

ことことと、ひそかなる母のおとなひ
幾度(いくたび)となく戸を押せど、はては敲(たた)けど、
色濁る扉(とびら)はあかず。
室(むろ)の内(うち)暑く悒鬱(いぶせ)く、またさらに嬰児(みどりご)笑ふ。

かくて、はた、硝子(がらす)のなかのすすりなき
蝋(らふ)のあかりの夜(よ)を待たず尽きなむ時よ。
あはれ、また母の愁(うれひ)の恐怖(おそれ)とならむそのみぎり。

あはれ、子はひたに聴き入る、
珍(めづ)らなるいとも可笑(をか)しきちやるめらの外(そと)の一節(ひとふし)。
四十一年六月

  鉛の室

いんきは赤し。――さいへ、見よ、室(むろ)の腐蝕(ふしよく)に
うちにじみ倦(うん)じつつゆくわがおもひ、
暮春(ぼしゆん)の午後(ごご)をそこはかと朱(しゆ)をば引(ひ)けども。

油じむ末黒(すぐろ)の文字(もじ)のいくつらね
悲しともなく誦(ず)しゆけど、響(ひび)らぐ声(こゑ)は
□(さ)びてゆく鉛(なまり)の悔(くやみ)、しかすがに、

強(つよ)き薫(くゆり)のなやましさ、鉛(なまり)の室(むろ)は
くわとばかり火酒(ウオツカ)のごとき噎(むせ)びして
壁の湿潤(しめり)を玻璃(はり)に蒸す光の痛(いた)さ。

力(ちから)なき活字(くわつじ)ひろひの淫(たは)れ歌(うた)、
病(や)める機械(きかい)の羽(は)たたきにあるは沁み来(こ)し
新(あた)らしき紙の刷(す)られの香(か)も消(き)ゆる。

いんきや尽きむ。――はやもわがこころのそこに
聴くはただ饐(す)えに饐(す)えゆく匂(にほひ)のみ、――
はた、滓(をり)よどむ壺(つぼ)を見よ。つとこそ一人(ひとり)、

手を棚(たな)へ延(の)すより早く、とくとくと、
赤き硝子(がらす)のいんき罎(びん)傾(かた)むけそそぐ
一刹那(いつせつな)、壺(つぼ)にあふるる火のゆらぎ。

さと燃(も)えあがる間(ま)こそあれ、飜(かへ)ると見れば
手に平(ひら)む吸取紙(すひとりがみ)の骸色(かばねいろ)
爛(ただ)れぬ――あなや、血はしと、と卓(しよく)に滴(したた)る。
四十年九月

  真昼

日は真昼(まひる)――野づかさの、寂寥(せきれう)の心(しん)の臓(ざう)にか、
ただひとつ声もなく照りかへす硝子(がらす)の破片(くだけ)。
そのほとり WHISKY(ウヰスキイ) の匂(にほひ)蒸(む)す銀色(ぎんいろ)の内(うち)、
声するは、密(ひそ)かにも露吸ひあぐる、
色赤き、色赤き花の吐息(といき)……
四十一年十二月[#改丁]

このさんたくるすは三百年まへより大江村の切支丹のうちに忍びかくして守りつたへたるたつときみくるすなり。これは野中に見いでたり。
天草島大江村天主堂秘蔵

   天草雅歌


四十年八月、新詩社の諸友とともに遠く天草島に遊ぶ。こはその紀念作なり。
「四十年十月作」[#改ページ]

   天艸雅歌

  角を吹け

わが佳□(とも)よ、いざともに野にいでて
歌はまし、水牛(すゐぎう)の角(つの)を吹け。
視よ、すでに美果実(みくだもの)あからみて
田にはまた足穂(たりほ)垂れ、風のまに
山鳩のこゑきこゆ、角(つの)を吹け。
いざさらば馬鈴薯(ばれいしよ)の畑(はた)を越え
瓜哇(ジヤワ)びとが園に入り、かの岡に
鐘やみて蝋(らふ)の火の消ゆるまで
無花果(いちじゆく)の乳(ち)をすすり、ほのぼのと
歌はまし、汝(な)が頸(くび)の角(つの)を吹け。
わが佳□(とも)よ、鐘きこゆ、野に下りて
葡萄樹(じゆ)の汁(つゆ)滴(した)る邑(むら)を過ぎ、
いざさらば、パアテルの黒き袈裟(けさ)
はや朝の看経(つとめ)はて、しづしづと
見えがくれ棕櫚(しゆろ)の葉に消ゆるまで、
無花果(いちじゆく)の乳(ち)をすすり、ほのぼのと
歌はまし、いざともに角(つの)を吹け、
わが佳□(とも)よ、起き来れ、野にいでて
歌はまし、水牛(すゐぎう)の角(つの)を吹け。

  ほのかなる蝋の火に

いでや子ら、日は高し、風たちて
棕櫚(しゆろ)の葉のうち戦(そよ)ぎ冷(ひ)ゆるまで、
ほのかなる蝋(らふ)の火に羽(は)をそろへ
鴿(はと)のごと歌はまし、汝(な)が母も。
好(よ)き日なり、媼(おうな)たち、さらばまづ
祷(いの)らまし賛美歌(さんびか)の十五番(じふごばん)、
いざさらば風琴(オルガン)を子らは弾け、
あはれ、またわが爺(おぢ)よ、なにすとか、
老眼鏡(おいめがね)ここにこそ、座(ざ)はあきぬ、
いざともに祷(いの)らまし、ひとびとよ、
さんた・まりや。さんた・まりや。さんた・まりや。
拝(をろが)めば香炉(かうろ)の火身に燃えて
百合のごとわが霊(たま)のうちふるふ。
あなかしこ、鴿(はと)の子ら羽(は)をあげて
御龕(みづし)なる蝋(らふ)の火をあらためよ。
黒船(くろふね)の笛きこゆいざさらば
ほどもなくパアテルは見えまさむ、
さらにまた他(た)の燭(そく)をたてまつれ。
あなゆかし、ロレンゾか、鐘鳴らし、
まめやかに安息(あんそく)の日を祝(ほ)ぐは、
あな楽し、真白(ましろ)なる羽をそろへ
鴿(はと)のごと歌はまし、わが子らよ。
あはれなほ日は高し、風たちて
棕櫚(しゆろ)の葉のうち戦(そよ)ぎ冷(ひ)ゆるまで、
ほのかなる蝋(らふ)の火に羽をそろへ
鴿(はと)のごと歌はまし、はらからよ。

  □を抜けよ

はやも聴け、鐘鳴りぬ、わが子らよ、
御堂(みだう)にははや夕(よべ)の歌きこえ、
蝋(らふ)の火もともるらし、□(ろ)を抜(ぬ)けよ。
もろもろの美果実(みくだもの)籠(こ)に盛りて、
汝(な)が鴿(はと)ら畑(はた)に下り、しらしらと
帰るらし夕(ゆふ)づつのかげを見よ。
われらいま、空色(そらいろ)の帆(ほ)のやみに
新(あらた)なる大海(おほうみ)の香炉(かうろ)採(と)り
籠(こ)に□(た)きぬ、ひるがへる魚を見よ。
さるほどに、跪き、ひとびとは
目(ま)見(み)青き上人(しやうにん)と夜に祷(いの)り、
捧げます御(み)くるすの香(か)にや酔ふ、
うらうらと咽ぶらし、歌をきけ。
われらまた祖先(みおや)らが血によりて
洗礼(そそ)がれし仮名文(かなぶみ)の御経(みきやう)にぞ
主(しゆう)よ永久(とは)に恵みあれ、われらも、と
鴿(はと)率(ゐ)つつ祷らまし、帆をしぼれ。
はやも聴け、鐘鳴りぬ、わが子らよ、
御堂(みだう)にははや夕(よべ)の歌きこえ、
蝋(らふ)の火もくゆるらし、□(ろ)を抜けよ、


  汝にささぐ

女子(をみなご)よ、
汝(な)に捧(ささ)ぐ、
ただひとつ。
然(しか)はあれ、汝(な)も知らむ。
このさんた・くるすは、かなた
檳榔樹(びろうじゆ)の実(み)の落つる国、
夕日(ゆふひ)さす白琺瑯(はくはふらう)の石の階(はし)
そのそこの心の心、――
えめらるど、あるは紅玉(こうぎよく)、
褐(くり)の埴(はに)八千層(やちさか)敷ける真底(まそこ)より、
汝(な)が愛を讃(たた)へむがため、
また、清き接吻(くちつけ)のため、
水晶の柄(え)をすげし白銀(しろかね)の鍬をもて、
七つほど先(さき)の世(よ)ゆ世を継(つ)ぎて
ひたぶるに、われとわが
採(と)りいでし型(かた)、
その型(かた)を
汝(な)に捧(ささ)ぐ、
女子(をみなご)よ。


  ただ秘めよ

曰(い)ひけるは、
あな、わが少女(をとめ)、
天艸(あまくさ)の蜜(みつ)の少女(をとめ)よ。
汝(な)が髪は烏(からす)のごとく、
汝(な)が唇(くち)は木(こ)の実(み)の紅(あけ)に没薬(もつやく)の汁(しゆ)滴(したた)らす。
わが鴿(はと)よ、わが友よ、いざともに擁(いだ)かまし。
薫(くゆり)濃(こ)き葡萄の酒は
玻璃(ぎやまん)の壺(つぼ)に盛(も)るべく、
もたらしし麝香(じやかう)の臍(ほぞ)は
汝(な)が肌の百合に染めてむ。
よし、さあれ、汝(な)が父に、
よし、さあれ、汝(な)が母に、
ただ秘(ひ)めよ、ただ守れ、斎(いつ)き死ぬまで、
虐(しひたげ)の罪の鞭(しもと)はさもあらばあれ、
ああただ秘(ひ)めよ、御(み)くるすの愛(あい)の徴(しるし)を。


  さならずば

わが家(いへ)の
わが家(いへ)の可愛(かあ)ゆき鴿(はと)を
その雛(ひな)を
汝(なれ)せちに恋ふとしならば、
いでや子よ、
逃(のが)れよ、早も邪宗門(じやしゆうもん)外道(げだう)の教(をしへ)
かくてまた遠き祖(おや)より伝(つた)ヘこし秘密(ひみつ)の聖磔(くるす)
とく柱より取りいでよ。もし、さならずば
もろもろの麝香(じやかう)のふくろ、
桂枝(けいし)、はた、没薬(もつやく)、蘆薈(ろくわい)
および乳(ちち)、島の無花果(いちじゆく)、
如何に世のにほひを積むも、――
さならずば、
もしさならずば――
汝(なれ)いかに陳(ちん)じ泣くとも、あるは、また
護摩(ごま)□(た)き修し、伴天連(ばてれん)の救(すくひ)よぶとも、
ああ遂に詮(せん)業(すべ)なけむ。いざさらば
接吻(くちつけ)の妙(たへ)なる蜜(みつ)に、
女子(をみなご)の葡萄の息(いき)に、
いで『ころべ』いざ歌へ、わかうどよ。


  嗅煙艸

『あはれ、あはれ、深江(ふかえ)の媼(おば)よ。
髪も頬(ほ)も煙艸色(たばこいろ)なる、
棕櫚(しゆろ)の根に蹲(うづく)む媼(おば)よ。
汝(な)が持てる象牙(ざうげ)の壺(つぼ)は
また薫(くゆ)る褐(くり)なる粉(こな)は
何ぞ。また、せちに鼻つけ
涙垂れ、あかき眼(め)擦(す)るは。』
このときに渡(わたり)の媼(おうな)
呻(によ)ぶらく。『わが葡萄牙(ほるとがる)、
こを嗅(か)ぎてわかきは思ふ。』
『さらば、汝(な)は。』『責(せ)めそ、さな、さな、
養生(やしなひ)を骸(から)はただ欲(ほ)れ。
さればこそ、この嗅煙艸(かぎたばこ)。』


  鵠

わかうどなゆめ近よりそ、
かのゆくは邪宗(じやしゆう)の鵠(くぐひ)、
日のうちに七度(ななたび)八度(やたび)
潮(うしほ)あび化粧(けはひ)すといふ
伴天連(ばてれん)の秘(ひそ)の少女(をとめ)ぞ。
地になびく髪には蘆薈(ろくわい)、
嘴(はし)にまたあかき実(み)を塗(ぬ)る
淫(みだ)らなる鳥にしあれば、
絶えず、その真白羽(ましろは)ひろげ
乳香(にふかう)の水したたらす。
されば、子なゆめ近よりそ。
視よ、持つは炎(ほのほ)か、華(はな)か、
さならずば実(み)の無花果(いちじゆく)か、
兎(と)にもあれ、かれこそ邪法(じやはふ)。
わかうどなゆめ近よりそ。


  日ごとに

日ごとにわかき姿(すがた)して
日ごとに歌ふわが族(ぞう)よ、
日ごとに紅(あか)き実(み)の乳房(ちぶさ)
日ごとにすてて漁(あさ)りゆく。


  黄金向日葵

あはれ、あはれ、黄金(こがね)向日葵(ひぐるま)
汝(みまし)また太陽(ひ)にも倦(あ)きしか、
南国(なんごく)の空の真昼(まひる)を
かなしげに疲(つか)れて見ゆる。


  一□

香炉(かうろ)いま
一□(いつす)のかをり。
 あはれ、火はこころのそこに。

さあれ、その
一□(いつす)のけむり、
 かの空(そら)の青き龕(みづし)に。
[#改丁]

   青き花


南紀旅行の紀念として且はわが羅曼底時代のあえかなる思出のために、この幼き一章を過ぎし日の友にささぐ。
「四十年二、三両月中作」[#改ページ]

  青き花

そは暗(くら)きみどりの空に
むかし見し幻(まぼろし)なりき。
青き花
かくてたづねて、
日も知らず、また、夜(よ)も知らず、
国あまた巡(めぐ)りありきし
そのかみの
われや、わかうど。

そののちも人とうまれて、
微妙(いみじ)くも奇(く)しき幻(まぼろし)
ゆめ、うつつ、
香(か)こそ忘れね、

かの青き花をたづねて、
ああ、またもわれはあえかに
人(ひと)の世(よ)の
旅路(たびぢ)に迷ふ。


  君

かかる野に
何時(いつ)かありけむ。
仏手柑(ぶしゆかん)の青む南国(なんごく)
薫(かを)る日の光なよらに
身をめぐりほめく物の香(か)、
鳥うたひ、
天(そら)もゆめみぬ。

何時(いつ)の世か
君と識(し)りけむ。
黄金(こがね)なす髪もたわたわ、
みかへるか、あはれ、つかのま
ちらと見ぬ、わかき瞳(ひとみ)に
にほひぬる
かの青き花。


  桑名

夜(よ)となりぬ、神世(かみよ)に通ふやすらひに
早や門(かど)鎖(とざ)す古伊勢(ふるいせ)の桑名(くわな)の街(まち)は
路(みち)も狭(せ)に高き屋(や)づくり音(おと)もなく、
陰森(いんしん)として物の隈(くま)ひろごるにほひ。
おほらかに零落(れいらく)の戸を瞰下(みおろ)して
愁ふるがごと月光(げつくわう)は青に照せり。
参宮(さんぐう)の衆(しゆう)にかあらむ、旅(たび)びとの
二人(ふたり)三人(みたり)はさきのほどひそかに過(す)ぎぬ。
貸(かし)旅籠(はたご)札(ふだ)のみ白き壁つづき
ほとほと遠く、物ごゑの夜風(よかぜ)に消えて、
今ははた数(かず)添(そ)はりゆく星くづの
天(そら)なる調(しらべ)やはらかに、地は闌(ふ)けまさる。

時になほ街(まち)はづれなる老舗(しにせ)の戸
少し明(あか)りて火は路(みち)へひとすぢ射(さ)しぬ。
行燈(あんどう)のかげには清き女(め)の童(わらは)物縫(ものぬ)ふけはひ、
そがなかにたわやの一人(ひとり)髪あげて
戸外(とのも)すかしぬ。――事もなき夜(よ)のしづけさに。


  朝

――汽車のなかにて――

わが友よ、はや眼(め)をさませ。
玻璃(はり)の戸にのこる灯(ひ)ゆらぎ、
夜(よ)はわかきうれひに明けぬ。
順礼はつとにめざめて
あえかなる友をかおもふ。
清(すず)しげの髪のそよぎに
笈(おひづる)のいろもほのぼの。

わが友よ、はや眼(め)をさませ。
かなた、いま白(しら)む野のそら、
薔薇(さうび)にはほのかに薄(うす)く
菫よりやや濃(こ)きあはひ、
かのわかき瞳(ひとみ)さながら
あけぼのの夢より醒(さ)めて
わだつみはかすかに顫(ふる)ふ。


  紅玉

かかるとき、
海ゆく船に
まどはしの人魚(にんぎよ)か蹤(つ)ける。
美くしき術(じゆつ)の夕(ゆふべ)に、
まどろみの香油(かうゆ)したたり、
こころまた
けぶるともなく、
幻(まぼろし)の黒髪きたり、
夜(よ)のごとも
わが眼(め)蔽(おほ)へり。
そことなく
おほくのひとの
あえかなるかたらひおぼえ、
われはただひしと凝視(みつ)めぬ。
夢ふかき黒髪の奥(おく)
朱(しゆ)に喘ぐ
紅玉(こうぎよく)ひとつ、
これや、わが胸より落つる
わかき血の
燃(もゆ)る滴(したたり)。


  海辺の墓

われは見き、
いつとは知らね、
薄(うす)あかるにほひのなかに
夢ならずわかれし一人(ひとり)、
ものみなは涙のいろに
消えぬとも。
ああ、えや忘る。
かのわかき黒髪のなか、
星のごと濡れてにほひし
天色(そらいろ)の勾玉(まがたま)七つ。

われは見ぬ、
漂浪(さすら)ひながら、
見もなれぬ海辺の墓に
うつつにも眠れる一人(ひとり)
そことなき髪のにほひの
ほのめきも、
ああ、えや忘る。
いま寒き夕闇(ゆふやみ)のそこ、
星のごと濡れてにほへる
天色(そらいろ)の露草(つゆくさ)七つ。


  渚の薔薇

紀(き)の南(みなみ)、白良(しらら)の渚(なぎさ)、
荒き灘(なだ)高く砕(くだ)けて
天(そら)暗(くら)う轟(とどろ)くほとり、
ひとならび夕陽(ゆふひ)をうけて
面(おも)ほてり、むらがり咲ける
色紅(あか)き薔薇(さうび)の族(ぞう)よ。
瞬(またた)く間(ま)、間近(まぢか)に寄せて
崩(なだ)れうつ浪の穂を見よ。
今しさと滴(したた)るばかり
激瀾(おほなみ)の飛沫(しぶき)に濡れて、
弥(いや)さらに匂ひ閃(ひら)めく
火のごとき少女(をとめ)のむれよ。
寄せ返し、遠く消えゆく
塩□(しほなわ)暗き音(ね)を聴け。
ああ薔薇(さうび)、汝(なれ)にむかへば
わかき日のほこりぞ躍る。
薔薇(さうび)、薔微(さうび)、あてなる薔薇(さうび)。


  紐

海の霧にほやかなるに
灯(ひ)も見ゆる夕暮のほど、
ほのかなる旅籠(はたご)の窓に
在(あ)るとなく暮(く)れもなやめば、
やはらかき私語(ささやき)まじり
咽(むせ)びきぬ、そこはかとなく、
火に焼くる薔薇(さうび)のにほひ。

ああ、薔薇(さうび)、暮れゆく今日(けふ)を
そぞろなり、わかき喘(あへぎ)に
図(はか)らずも思ひぞいづる。
そは熱(あつ)き夏の渚辺(なぎさべ)、
濡髪(ぬれがみ)のなまめかしさに、
女(をみな)つと寝(ね)がへりながら、
みだらなる手して結びし
色紅(あか)き韈(くつした)の紐(ひも)。


  昼

蜜柑船(みかんぶね)凪(なぎ)にうかびて
壁白き浜のかなたは
あたたかに物売る声す。
波もなき港の真昼(まひる)、
白銀(しろがね)の挿櫛(さしぐし)撓(たは)み
いま遠く二つら三つら
水の上(へ)をすべると見つれ。
波もなき港の真昼、
また近く、二つら三つら
飛(とび)の魚すべりて安(やす)し。


  夕

あたたかに海は笑(わら)ひぬ。
花あかき夕日の窓に、
手をのべて聴くとしもなく
薔薇(さうび)摘(つ)み、ほのかに愁(うれ)ふ。
いま聴くは市(いち)の遠音(とほね)か、
波の音(ね)か、過ぎし昨日(きのふ)か、
はた、淡(あは)き今日(けふ)のうれひか。

あたたかに海は笑ひぬ。
ふと思ふ、かかる夕日(ゆふひ)に
白銀(しろがね)の絹衣(すずし)ゆるがせ、
いまあてに花摘(つ)みながら
かく愁(うれ)ひ、かくや聴(き)くらむ、
紅(くれなゐ)の南極星下(なんきよくせいか)
われを思ふ人のひとりも。


  羅曼底の瞳

この少女はわが稚きロマンチツクの幻象也、仮にソフィヤと呼びまゐらす。

美(うつ)くしきソフィヤの君(きみ)。
悲(かな)しくも恋(こひ)しくも見え給ふわがわかきソフィヤの君(きみ)。
なになれば日もすがら今日(けふ)はかく瞑目(めつぶ)り給ふ。
美(うつ)くしきソフィヤの君(きみ)、
われ泣けば、朝な夕(ゆふ)なに、
悲(かな)しくも静(しづ)かにも見ひらき給ふ青き華(はな)――少女(をとめ)の瞳(ひとみ)。
ソフィヤの君(きみ)。
[#改丁]

   古酒

こは邪宗門の古酒なり。
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