邪宗門
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著者名:北原白秋 

 父上に献ぐ

父上、父上ははじめ望み給はざりしかども、児は遂にその生れたるところにあこがれて、わかき日をかくは歌ひつづけ候ひぬ。もはやもはや咎め給はざるべし。
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  邪宗門扉銘

ここ過ぎて曲節(メロデア)の悩みのむれに、
ここ過ぎて官能の愉楽のそのに、
ここ過ぎて神経のにがき魔睡に。
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詩の生命は暗示にして単なる事象の説明には非ず。かの筆にも言語にも言ひ尽し難き情趣の限なき振動のうちに幽かなる心霊の欷歔をたづね、縹渺たる音楽の愉楽に憧がれて自己観想の悲哀に誇る、これわが象徴の本旨に非ずや。されば我らは神秘を尚び、夢幻を歓び、そが腐爛したる頽唐の紅を慕ふ。哀れ、我ら近代邪宗門の徒が夢寝にも忘れ難きは青白き月光のもとに欷歔く大理石の嗟嘆也。暗紅にうち濁りたる埃及の濃霧に苦しめるスフィンクスの瞳也。あるはまた落日のなかに笑へるロマンチツシユの音楽と幼児磔殺の前後に起る心状の悲しき叫也。かの黄臘の腐れたる絶間なき痙攣と、□オロンの三の絃を擦る嗅覚と、曇硝子にうち噎ぶウヰスキイの鋭き神経と、人間の脳髄の色したる毒艸の匂深きためいきと、官能の魔睡の中に疲れ歌ふ鶯の哀愁もさることながら、仄かなる角笛の音に逃れ入る緋の天鵞絨の手触の棄て難さよ。
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昔(むかし)よりいまに渡(わた)り来(く)る黒船(くろふね)縁(えん)がつくれば鱶(ふか)の餌(ゑ)となる。サンタマリヤ。
『長崎ぶり』[#改丁]

     例言

一、本集に収めたる六章約百二十篇の詩は明治三十九年の四月より同四十一年の臘月に至る、即最近三年間の所作にして、集中の大半は殆昨一年の努力に成る。就中『古酒』中の「よひやみ」「柑子」「晩秋」の類最も旧くして『魔睡』中に載せたる「室内庭園」「曇日」の二篇はその最も新しきものなり。一、予が真に詩を知り初めたるは僅に此の二三年の事に属す。されば此の間の前後に作られたる種々の傾向の詩は皆予が初期の試作たるを免れず。従て本集の編纂に際しては特に自信ある代表作物のみを精査し、少年時の長篇五六及その後の新旧作七十篇の余は遺憾なく割愛したり。この外百篇に近き『断章』と『思出』五十篇の著作あれども、紙数の制限上、これらは他の新しき機会を待ちて出版するの已むなきに到れり。一、予が象徴詩は情緒の諧楽と感覚の印象とを主とす。故に、凡て予が拠る所は僅かなれども生れて享け得たる自己の感覚と刺戟苦き神経の悦楽とにして、かの初めより情感の妙なる震慄を無みし只冷かなる思想の概念を求めて強ひて詩を作為するが如きを嫌忌す。されば予が詩を読まむとする人にして、之に理知の闡明を尋ね幻想なき思想の骨格を求めむとするは謬れり。要するに予が最近の傾向はかの内部生活の幽かなる振動のリズムを感じその儘の調律に奏でいでんとする音楽的象徴を専とするが故に、そが表白の方法に於ても概ねかの新しき自由詩の形式を用ゐたり。一、或人の如きは此の如き詩を嗤ひて甚しき跨張と云ひ、架空なる空想を歌ふものと做せども、予が幻覚には自ら真に感じたる官能の根抵あり。且、人の天分にはそれそれ自らなる相違あり、強ひて自己の感覚を尺度として他を律するは謬なるべし。一、本来、詩は論ふべききはのものにはあらず。嘗て幾多の譏笑と非議と謂れなき誤解とを蒙りたるにも拘らず、予の単に創作にのみ執して、一語もこれに答ふる所なかりしは、些か自己の所信に安じたればなり。一、終に、現時の予は文芸上の如何なる結社にも与らず、又、如何なる党派の力をも恃む所なき事を明にす。要は只これらの羈絆と掣肘とを放れて、予は予が独自なる個性の印象に奔放なる可く、自由ならんことを欲するものなり。一、尚、本集を世に公にする事を得たる所以のものは、これ一に蒲原有明、鈴木皷村両氏の深厚なる同情に依る、ここに謹謝す。  明治四十二年一月
著者識[#改丁]

  魔睡

余は内部の世界を熟視めて居る。陰鬱な死の節奏は絶えず快く響き渡る……と神経は一斉に不思議の舞踏をはじめる。すすりなく黒き薔薇、歌うたふ硝子のインキ壺、誘惑の色あざやかな猫眼石の腕環、笑ひつづける空眼の老女等はこまかくしなやかな舞踏をいつまでもつづける。余は一心に熟視めて居る……いつか余は朱の房のついた長い剣となつて渠等の内に舞踏つてゐる………長田秀雄[#改ページ]

  邪宗門秘曲

われは思ふ、末世(まつせ)の邪宗(じやしゆう)、切支丹(きりしたん)でうすの魔法(まはふ)。
黒船(くろふね)の加比丹(かひたん)を、紅毛(こうまう)の不可思議国(ふかしぎこく)を、
色(いろ)赤(あか)きびいどろを、匂(にほひ)鋭(と)きあんじやべいいる、
南蛮(なんばん)の桟留縞(さんとめじま)を、はた、阿刺吉(あらき)、珍□(ちんた)の酒を。

目見(まみ)青きドミニカびとは陀羅尼(だらに)誦(ず)し夢にも語る、
禁制(きんせい)の宗門神(しゆうもんしん)を、あるはまた、血に染む聖磔(くるす)、
芥子粒(けしつぶ)を林檎のごとく見すといふ欺罔(けれん)の器(うつは)、
波羅葦僧(はらいそ)の空(そら)をも覗(のぞ)く伸(の)び縮(ちゞ)む奇(き)なる眼鏡(めがね)を。

屋(いへ)はまた石もて造り、大理石(なめいし)の白き血潮(ちしほ)は、
ぎやまんの壺(つぼ)に盛られて夜(よ)となれば火点(とも)るといふ。
かの美(は)しき越歴機(えれき)の夢は天鵝絨(びろうど)の薫(くゆり)にまじり、
珍(めづ)らなる月の世界の鳥獣(とりけもの)映像(うつ)すと聞けり。

あるは聞く、化粧(けはひ)の料(しろ)は毒草(どくさう)の花よりしぼり、
腐(くさ)れたる石の油(あぶら)に画(ゑが)くてふ麻利耶(まりや)の像(ざう)よ、
はた羅甸(らてん)、波爾杜瓦爾(ほるとがる)らの横(よこ)つづり青なる仮名(かな)は
美(うつ)くしき、さいへ悲しき歓楽(くわんらく)の音(ね)にかも満つる。

いざさらばわれらに賜(たま)へ、幻惑(げんわく)の伴天連(ばてれん)尊者(そんじや)、
百年(もゝとせ)を刹那(せつな)に縮(ちゞ)め、血の磔(はりき)脊(せ)にし死すとも
惜(を)しからじ、願ふは極秘(ごくひ)、かの奇(く)しき紅(くれなゐ)の夢、
善主麿(ぜんすまろ)、今日(けふ)を祈(いのり)に身(み)も霊(たま)も薫(くゆ)りこがるる。
四十一年八月

  室内庭園

晩春(おそはる)の室(むろ)の内(うち)、
暮れなやみ、暮れなやみ、噴水(ふきあげ)の水はしたたる……
そのもとにあまりりす赤(あか)くほのめき、
やはらかにちらぼへるヘリオトロオブ。
わかき日のなまめきのそのほめき静(しづ)こころなし。

尽(つ)きせざる噴水(ふきあげ)よ………
黄(き)なる実(み)の熟(う)るる草、奇異(きゐ)の香木(かうぼく)、
その空にはるかなる硝子(がらす)の青み、
外光(ぐわいくわう)のそのなごり、鳴ける鶯(うぐひす)、
わかき日の薄暮(くれがた)のそのしらべ静(しづ)こころなし。

いま、黒(くろ)き天鵝絨(びろうど)の
にほひ、ゆめ、その感触(さはり)………噴水(ふきあげ)に縺(もつ)れたゆたひ、
うち湿(しめ)る革(かは)の函(はこ)、饐(す)ゆる褐色(かちいろ)
その空に暮れもかかる空気(くうき)の吐息(といき)……
わかき日のその夢の香(か)の腐蝕(ふしよく)静(しづ)こころなし。
三層(さんかい)の隅(すみ)か、さは
腐(くさ)れたる黄金(わうごん)の縁(ふち)の中(うち)、自鳴鐘(とけい)の刻(きざ)み……
ものなべて悩(なや)ましさ、盲(し)ひし少女(をとめ)の
あたたかに匂(にほひ)ふかき感覚(かんかく)のゆめ、
わかき日のその靄に音(ね)は響(ひゞ)く、静(しづ)こころなし。

晩春(おそはる)の室(むろ)の内(うち)、
暮れなやみ、暮れなやみ、噴水(ふきあげ)の水はしたたる……
そのもとにあまりりす赤くほのめき、
甘く、またちらぼひぬ、ヘリオトロオブ。
わかき日は暮(く)るれども夢はなほ静(しづ)こころなし。
四十一年十二月

  陰影の瞳

夕(ゆふべ)となればかの思(おもひ)曇硝子(くもりがらす)をぬけいでて、
廃(すた)れし園(その)のなほ甘(あま)きときめきの香(か)に顫(ふる)へつつ、
はや饐(す)え萎(な)ゆる芙蓉花(ふようくわ)の腐(くさ)れの紅(あか)きものかげと、
縺(もつ)れてやまぬ秦皮(とねりこ)の陰影(いんえい)にこそひそみしか。

如何(いか)に呼(よ)べども静(しづ)まらぬ瞳(ひとみ)に絶(た)えず涙して、
帰(かへ)るともせず、密(ひそ)やかに、はた、果(はて)しなく見入(みい)りぬる。
そこともわかぬ森かげの鬱憂(メランコリア)の薄闇(うすやみ)に、
ほのかにのこる噴水(ふきあげ)の青きひとすぢ……
四十一年十月

  赤き僧正

邪宗(じやしゆう)の僧ぞ彷徨(さまよ)へる……瞳据(す)ゑつつ、
黄昏(たそがれ)の薬草園(やくさうゑん)の外光(ぐわいくわう)に浮きいでながら、
赤々(あか/\)と毒のほめきの恐怖(おそれ)して、顫(ふる)ひ戦(をのゝ)く
陰影(いんえい)のそこはかとなきおぼろめき
まへに、うしろに……さはあれど、月の光の
水(み)の面(も)なる葦(あし)のわか芽(め)に顫(ふる)ふ時。
あるは、靄ふる遠方(をちかた)の窓の硝子(がらす)に
ほの青きソロのピアノの咽(むせ)ぶ時。
瞳据(す)ゑつつ身動(みじろ)かず、長き僧服(そうふく)
爛壊(らんゑ)する暗紅色(あんこうしよく)のにほひしてただ暮れなやむ。

さて在るは、曩(さき)に吸(す)ひたる
Hachisch(ハシツシユ) の毒のめぐりを待てるにか、
あるは劇(はげ)しき歓楽(くわんらく)の後の魔睡(ますゐ)や忍ぶらむ。
手に持つは黒き梟(ふくろう)
爛々(らん/\)と眼(め)は光る……

……そのすそに蟋蟀(こほろぎ)の啼く……
四十一年十二月

  WHISKY.

夕暮(ゆふぐれ)のものあかき空(そら)、
その空(そら)に百舌(もず)啼(な)きしきる。
Whisky(ウイスキイ) の罎(びん)の列(れつ)
冷(ひや)やかに拭(ふ)く少女(をとめ)、
見よ、あかき夕暮(ゆふぐれ)の空(そら)、
その空(そら)に百舌(もず)啼(な)きしきる。
四十一年十一月

  天鵝絨のにほひ

やはらかに腐れつつゆく暗(やみ)の室(むろ)。
その片隅(かたすみ)の薄(うす)あかり、背(そびら)にうけて
天鵝絨(びろうど)の赤(あか)きふくらみうちかつぎ、
にほふともなく在(あ)るとなく、蹲(うづく)み居れば。

暮れてゆく夏の思と、日向葵(ひぐるま)の
凋(しを)れの甘き香(か)もぞする。……ああ見まもれど
おもむろに悩(なや)みまじろふ色の陰影(かげ)
それともわかね……熱病(ねつびやう)の闇のをののき……

Hachisch(ハシツシユ) か、酢(す)か、茴香酒(アブサン)か、くるほしく
溺(おぼ)れしあとの日の疲労(つかれ)……縺(もつ)れちらぼふ
Wagner(ワグネル) の恋慕(れんぼ)の楽(がく)の音(ね)のゆらぎ
耳かたぶけてうち透(す)かし、在(あ)りは在(あ)れども。

それらみな素足(すあし)のもとのくらがりに
爛壊(らんゑ)の光放(はな)つとき、そのかなしみの
腐(くさ)れたる曲(きよく)の緑(みどり)を如何(いか)にせむ。
君を思ふとのたまひしゆめの言葉(ことば)も。

わかき日の赤(あか)きなやみに織りいでし
にほひ、いろ、ゆめ、おぼろかに嗅(か)ぐとなけれど、
ものやはに暮れもかぬれば、わがこころ
天鵝絨(びろうど)深くひきかつぎ、今日(けふ)も涙す。
四十一年十二月

  濃霧

濃霧(のうむ)はそそぐ……腐(くさ)れたる大理(だいり)の石の
生(なま)くさく吐息(といき)するかと蒸し暑く、
はた、冷(ひや)やかに官能(くわんのう)の疲(つか)れし光――
月はなほ夜(よ)の氛囲気(ふんゐき)の朧(おぼろ)なる恐怖(おそれ)に懸(かゝ)る。

濃霧(のうむ)はそそぐ……そこここに虫の神経(しんけい)
鋭(と)く、甘く、圧(お)しつぶさるる嗟嘆(なげき)して
飛びもあへなく耽溺(たんでき)のくるひにぞ入る。
薄ら闇、盲唖(まうあ)の院(ゐん)の角硝子(かくがらす)暗くかがやく。

濃霧(のうむ)はそそぐ……さながらに戦(をのゝ)く窓は
亜刺比亜(アラビヤ)の魔法(まはふ)の館(たち)の薄笑(うすわらひ)。
麻痺薬(しびれぐすり)の酸(す)ゆき香(か)に日ねもす噎(む)せて
聾(ろう)したる、はた、盲(めし)ひたる円頂閣(まるやね)か、壁の中風(ちゆうふう)。

濃霧(のうむ)はそそぐ……甘く、また、重く、くるしく、
いづくにか凋(しを)れし花の息づまり、
苑(その)のあたりの泥濘(ぬかるみ)に落ちし燕や、
月の色半死(はんし)の生(しやう)に悩(なや)むごとただかき曇る。

濃霧(のうむ)はそそぐ……いつしかに虫も盲(し)ひつつ
聾(ろう)したる光のそこにうち痺(しび)れ、
唖(おうし)とぞなる。そのときにひとつの硝子(がらす)
幽魂(いうこん)の如(ごと)くに青くおぼろめき、ピアノ鳴りいづ。

濃霧(のうむ)はそそぐ……数(かず)の、見よ、人かげうごき、
闌(ふ)くる夜(よ)の恐怖(おそれ)か、痛(いた)きわななきに
ただかいさぐる手のさばき――霊(たま)の弾奏(だんそう)、
盲目(めしひ)弾き、唖(おうし)と聾者(ろうじや)円(つぶ)ら眼(め)に重(かさ)なり覗(のぞ)く。

濃霧(のうむ)はそそぐ……声もなき声の密語(みつご)や。
官能(くわんのう)の疲(つか)れにまじるすすりなき
霊(たま)の震慄(おびえ)の音(ね)も甘く聾(ろう)しゆきつつ、
ちかき野に喉(のど)絞(し)めらるる淫(たは)れ女(め)のゆるき痙攣(けいれん)。

濃霧(のうむ)はそそぐ……香(か)の腐蝕(ふしよく)、肉(にく)の衰頽(すゐたい)、――
呼吸(いき)深く□□□謨(コロロホルム)や吸ひ入るる
朧(ろう)たる暑き夜(よ)の魔睡(ますゐ)……重く、いみじく、
音(おと)もなき盲唖(まうあ)の院(ゐん)の氛囲気(ふんゐき)に月はしたたる。
四十一年十月

  赤き花の魔睡

日(ひ)は真昼(まひる)、ものあたたかに光素(エエテル)の
波動(はどう)は甘(あま)く、また、緩(ゆ)るく、戸(と)に照りかへす、
その濁(にご)る硝子(がらす)のなかに音(おと)もなく、
□□□謨(コロロホルム)の香(か)ぞ滴(したた)る……毒(どく)の□言(うはごと)……

遠(とほ)くきく、電車(でんしや)のきしり……
………棄(す)てられし水薬(すゐやく)のゆめ……

やはらかき猫(ねこ)の柔毛(にこげ)と、蹠(あなうら)の
ふくらのしろみ悩(なや)ましく過(す)ぎゆく時(とき)よ。
窓(まど)の下(もと)、生(せい)の痛苦(つうく)に只(たゞ)赤(あか)く戦(そよ)ぎえたてぬ草(くさ)の花
亜鉛(とたん)の管(くだ)の
湿(しめ)りたる筧(かけひ)のすそに……いまし魔睡(ますゐ)す……
四十一年十二月

  麦の香

嬰児(あかご)泣く……麦の香(か)の湿(しめ)るあなたに、
続(つゞ)け泣く……やはらかに、なやましげにも、
香(か)に噎(むせ)び、香(か)に噎(むせ)び、あはれまた、嬰児(あかご)泣きたつ……
夏の雨さと降(ふ)り過(す)ぎて
新(あらた)にもかをり蒸(む)す野の畑(はた)いくつ湿(しめ)るあなたに、
赤き衣(きぬ)一(ひと)きは若(わか)く、にほやかにけぶる揺籃(ゆりご)や、
磨硝子(すりがらす)、あるは窓枠(まどわく)、濡(ぬ)れ濡(ぬ)れて夕日(ゆふひ)さしそふ。
四十一年十二月

  曇日

曇日(くもりび)の空気(くうき)のなかに、
狂(くる)ひいづる樟(くす)の芽(め)の鬱憂(メランコリア)よ……
そのもとに桐(きり)は咲く。
Whisky(ウイスキイ) の香(か)のごときしぶき、かなしみ……

そこここにいぎたなき駱駝(らくだ)の寝息(ねいき)、
見よ、鈍(にぶ)き綿羊(めんやう)の色のよごれに
饐(す)えて病(や)む藁(わら)のくさみ、
その湿(しめ)る泥濘(ぬかるみ)に花はこぼれて
紫(むらさき)の薄(うす)き色鋭(するど)になげく……
はた、空(そら)のわか葉(ば)の威圧(ゐあつ)。

いづこにか、またもきけかし。
餌(ゑ)に饑(う)ゑしベリガンのけうとき叫(さけび)、
山猫(やまねこ)のものさやぎ、なげく鶯(うぐひす)、
腐(くさ)れゆく沼(ぬま)の水蒸(む)すがごとくに。

そのなかに桐は散(ち)る…… Whisky(ウイスキイ) の強きかなしみ……

もの甘(あま)き風のまた生(なま)あたたかさ、
猥(みだ)らなる獣(けもの)らの囲内(かこひ)のあゆみ、
のろのろと枝(え)に下(さが)るなまけもの、あるは、貧(まづ)しく
眼(め)を据(す)ゑて毛虫(けむし)啄(つ)む嗟歎(なげかひ)のほろほろ鳥(てう)よ。

そのもとに花はちる……桐のむらさき……

かくしてや日は暮(く)れむ、ああひと日。
病院(びやうゐん)を逃(のが)れ来(こ)し患者(くわんじや)の恐怖(おそれ)、
赤子(あかご)らの眼(め)のなやみ、笑(わら)ふ黒奴(くろんぼ)
酔(ゑ)ひ痴(し)れし遊蕩児(たはれを)の縦覧(みまはり)のとりとめもなく。

その空(そら)に桐(きり)はちる……新(あたら)しきしぶき、かなしみ……

はたや、また、園(その)の外(そと)ゆく
軍楽(ぐんがく)の黒(くろ)き不安(ふあん)の壊(なだ)れ落ち、夜(よ)に入る時(とき)よ、
やるせなく騒(さや)ぎいでぬる鳥獣(とりけもの)。
また、その中(なか)に、
狂(くる)ひいづる北極熊(ほつきよくぐま)の氷なす戦慄(をののき)の声(こゑ)。

その闇(やみ)に花はちる…… Whisky(ウイスキイ) の香(か)の頻吹(しぶき)……桐の紫(むらさき)……
四十一年十二月

  秋の瞳

晩秋(おそあき)の濡(ぬ)れにたる鉄柵(てすり)のうへに、
黄(き)なる葉の河やなぎほつれてなげく
やはらかに葬送(はうむり)のうれひかなでて、
過ぎゆきし Trombone(トロムボオン) いづちいにけむ。

はやも見よ、暮れはてし吊橋(つりばし)のすそ、
瓦斯(がす)点(とも)る……いぎたなき馬の吐息(といき)や、
騒(さわ)ぎやみし曲馬師(チヤリネし)の楽屋(がくや)なる幕の青みを
ほのかにも掲(かゝ)げつつ、水(み)の面(も)見る女(をんな)の瞳(ひとみ)。
四十一年十二月

  空に真赤な

空(そら)に真赤(まつか)な雲(くも)のいろ。
玻璃(はり)に真赤(まつか)な酒(さけ)の色(いろ)。
なんでこの身(み)が悲(かな)しかろ。
空(そら)に真赤(まつか)な雲(くも)のいろ。
四十一年五月

  秋のをはり

腐(くさ)れたる林檎(りんご)のいろに
なほ青(あを)きにほひちらぼひ、
水薬(すゐやく)の汚(し)みし卓(つくゑ)に
瓦斯(がす)焜炉(こんろ)ほのかに燃(も)ゆる。

病人(やまうど)は肌(はだ)ををさめて
愁(うれ)はしくさしぐむごとし。
何(な)ぞ湿(しめ)る、医局(いきよく)のゆふべ、
見(み)よ、ほめく劇薬(げきやく)もあり。

色(いろ)冴(さ)えぬ室(むろ)にはあれど、
声(こゑ)たててほのかに燃(も)ゆる
瓦斯(がす)焜炉(こんろ)………空(そら)と、こころと、
硝子戸(がらすど)に鈍(に)ばむさびしさ。

しかはあれど、寒(さむ)きほのほに
黄(き)の入日(いりひ)さしそふみぎり、
朽(く)ちはてし秋(あき)の□オロン
ほそぼそとうめきたてぬる。
四十一年十二月

  十月の顔

顔なほ赤(あか)し……うち曇り黄(き)ばめる夕(ゆふべ)、
『十月(じふぐわつ)』は熱(ねつ)を病(や)みしか、疲(つか)れしか、
濁(にご)れる河岸(かし)の磨硝子(すりがらす)脊(せ)に凭りかかり、
霧の中(うち)、入日(いりひ)のあとの河(かは)の面(も)をただうち眺(なが)む。

そことなき櫂(かい)のうれひの音(ね)の刻(きざ)み……
涙のしづく……頬にもまたゆるきなげきや……

ややありて麪包(パン)の破片(かけら)を手にも取り、
さは冷(ひや)やかに噛(か)みしめて、来(きた)るべき日の
味(あぢ)もなき悲しきゆめをおもふとき……

なほもまた廉(やす)き石油(せきゆ)の香(か)に噎(むせ)び、
腐(くさ)れちらぼふ骸炭(コオクス)に足も汚(よ)ごれて、
小蒸汽(こじやうき)の灰(はひ)ばみ過(す)ぎし船腹(ふなばら)に
一(ひと)きは赤(あか)く輝(かが)やきしかの□枠(まどわく)を忍ぶとき……

月光(つきかげ)ははやもさめざめ……涙さめざめ……
十月(じふぐわつ)の暮れし片頬(かたほ)を
ほのかにもうつしいだしぬ。
四十一年十二月

  接吻の時

薄暮(くれがた)か、
日のあさあけか、
昼か、はた、
ゆめの夜半(よは)にか。

そはえもわかね、燃(も)えわたる若き命(いのち)の眩暈(めくるめき)、
赤き震慄(おびえ)の接吻(くちつけ)にひたと身(み)顫(ふる)ふ一刹那(いつせつな)。

あな、見よ、青き大月(たいげつ)は西よりのぼり、
あなや、また瘧(ぎやく)病(や)む終(はて)の顫(ふるひ)して
東へ落つる日の光、
大(おほ)ぞらに星はなげかひ、
青く盲(めし)ひし水面(みのも)にほ薬香(くすりが)にほふ。
あはれ、また、わが立つ野辺(のべ)の草は皆色も干乾(ひから)び、
折り伏せる人の骸(かばね)の夜(よ)のうめき、
人霊色(ひとだまいろ)の
木(き)の列(れつ)は、あなや、わが挽歌(ひきうた)うたふ。

かくて、はや落穂(おちぼ)ひろひの農人(のうにん)が寒き瞳よ。
歓楽(よろこび)の穂のひとつだに残(のこ)さじと、
はた、刈り入るる鎌の刃(は)の痛(いた)き光よ。
野のすゑに獣(けもの)らわらひ、
血に饐(す)えて汽車(きしや)鳴き過(す)ぐる。

あなあはれ、あなあはれ、
二人(ふたり)がほかの霊(たましひ)のありとあらゆるその呪咀(のろひ)。

朝明(あさあけ)か、
死(し)の薄暮(くれがた)か、
昼か、なほ生(あ)れもせぬ日か、
はた、いづれともあらばあれ。

われら知る赤き唇(くちびる)。
四十一年六月

  濁江の空

腐(くさ)れたる林檎(りんご)の如き日のにほひ
円(まろ)らに、さあれ、光なく甘(あま)げに沈む
晩春(おそはる)の濁(にごり)重(おも)たき靄の内(うち)、
ふと、カキ色(いろ)の軽気球(けいききう)くだるけはひす。

遠方(をちかた)の曇(くも)れる都市(とし)の屋根(やね)の色
たゆげに仰(あふ)ぐ人はいま鈍(にぶ)くもきかむ、
濁江(にごりえ)のねぶたき、あるは、やや赤(あか)き
にほひの空のいづこにか洩(も)るる鉄(てつ)の音(ね)。

なやましき、さは江(え)の泥(どろ)の沈澱(おどみ)より
あかるともなき灰紅(くわいこう)の帆のふくらみに
伝(つた)へくる潜水夫(もぐりのひと)が作業(さげふ)にか、
饐(す)えたる吐息(といき)そこはかと水面(みのも)に黄(き)ばむ。

河岸(かし)になほ物見(ものみ)る子らはうづくまり、
はや倦(う)ましげに人形(にんぎやう)をそが手に泣かす。
日暮(ひくれ)どき、入日(いりひ)に濁る靄(もや)の内(うち)、
また、ふくらかに軽気球(けいききう)くだるけはひす。
四十一年八月

  魔国のたそがれ

うち曇(くも)る暗紅色(あんこうしよく)の大(おほ)き日の
魔法(まはふ)の国に病(や)ましげの笑(ゑみ)して入れば、
もの甘(あま)き驢馬(ろば)の鳴く音(ね)にもよほされ、
このもかのもに悩(なや)ましき吐息(といき)ぞおこる。

そのかみの激(はげ)しき夢や忍(しの)ぶらむ。
鬱黄(うこん)の百合(ゆり)は血(ち)ににじむ眸(ひとみ)をつぶり、
人間(にんげん)の声(こゑ)して挑(いど)み、飛びかはし
鸚鵡(あうむ)の鳥はかなしげに翅(つばさ)ふるはす。

草も木もかの誘惑(いざなひ)に化(な)されつる
旅のわかうど、暮れ行けば心ひまなく
えもわかぬ毒(どく)の怨言(かごと)になやまされ、
われと悲しき歓楽(くわんらく)に怕(おそ)れて顫(ふる)ふ。

日は沈み、たそがれどきの空(そら)の色
青き魔薬(まやく)の薫(かをり)して古(ふ)りつつゆけば、
ほのかにも誘(さそ)はれ来(きた)る隊商(カラバン)の
鈴(すず)鳴る……あはれ、今日(けふ)もまた恐怖(おそれ)の予報(しらせ)。

はとばかり黙(つぐ)み戦(をのの)くものの息(いき)。
色天鵝絨(いろびろうど)を擦(す)るごとき裳裾(もすそ)のほかは
声もなく甘く重(おも)たき靄(もや)の闇(やみ)、
はやも王女(わうぢよ)の領(し)らすべき夜(よ)とこそなりぬ。
四十一年八月

  蜜の室

薄暮(くれがた)の潤(うる)みにごれる室(むろ)の内(うち)、
甘くも腐(くさ)る百合(ゆり)の蜜(みつ)、はた、靄(もや)ぼかし
色赤きいんくの罎(びん)のかたちして
ひそかに点(とも)る豆らんぷ息(いき)づみ曇る。

『豊国(とよくに)』のぼやけし似顔(にがほ)生(なま)ぬるく、
曇硝子(くもりがらす)の□のそと外光(ぐわいくわう)なやむ。
ものの本(ほん)、あるはちらぼふ日のなげき、
暮れもなやめる霊(たましひ)の金字(きんじ)のにほひ。

接吻(くちつけ)の長(なが)き甘さに倦(あ)きぬらむ。
そと手をほどき靄の内(うち)さぐる心地(こゝち)に、
色盲(しきまう)の瞳(ひとみ)の女(をんな)うらまどひ、
病(や)めるペリガンいま遠き湿地(しめぢ)になげく。

かかるとき、おぼめき摩(なす)る Violon(□オロン) の
なやみの絃(いと)の手触(てさはり)のにほひの重(おも)さ。
鈍(にぶ)き毛(け)の絨氈(じゆうたん)に甘き蜜(みつ)の闇(やみ)
澱(おど)み饐(す)えつつ……血のごともらんぷは消ゆる。
四十一年八月

  酒と煙草に

酒(さけ)と煙草(たばこ)にうつとりと、
倦(う)めるこころを見まもれば、
それとしもなき霊(たま)のいろ
曇(くも)りながらに泣きいづる。

なにか嘆(なげ)かむ、うきうきと、
三味(しやみ)に燥(はし)やぐわがこころ。
なにか嘆(なげ)かむ、さいへ、また
霊(たま)はしくしく泣きいづる。
四十一年五月

  鈴の音

日は赤し、窓(まど)の上(へ)に恐怖(おそれ)の烏(からす)
ひた黙(つぐ)み暮れかかる砂漠(さばく)を熟視(みつ)む。

今日(けふ)もまたもの鈍(にぶ)き駱駝(らくだ)をつらね、
一群(ひとむれ)のわがやから消(き)えさりゆきぬ。
もの甘き鈴の音(おと)、ああそを聴(き)けよ。
からら、からら、ら、ら、ら……

暮(く)れのこるピラミドの暗紅色(あんこうしよく)よ。
そが空のうち濁(にご)る重き空気(くうき)よ。
いづこにか月の色ほのめくごとし。
からら、からら、ら、ら、ら……

かの群(むれ)よ、靄(もや)ふかく、いまかひろぐる
色鈍(にぶ)き、幽鬱(いううつ)の毛織(けおり)の天幕(てんと)。
駱駝(らくだ)らのためいきもそこはかとなく。
からら、からら、ら、ら、ら……

もの青く暮れてみな蒸しも見わかね。
饐(す)え温(ぬ)るむ空(そら)のをち、薄(うす)らあかりに、
ほのかにも此方(こなた)見るスフィンクスの瞳。
からら、からら、ら、ら、ら……

あはれ、その静(しづ)かなるスフィンクスの瞳。
ああ暗示(あんじ)……えもわかぬ夢の象徴(シムボル)。
またくいま埃及(えじぷと)の夜(よ)とやなるらむ。
からら、からら、ら、ら、ら……

烏いまはたはたと遠く飛び去り、
窓(まど)にただ色あかき燈火(ともしび)点(とも)る。
四十一年八月

  夢の奥

ほのかにもやはらかきにほひの園生(そのふ)。
あはれ、そのゆめの奥(おく)。日(ひ)と夜(よ)のあはひ。
薄(うす)あかる空の色ひそかに顫(ふる)ひ
暮れもゆくそのしばし、声なく立てる
真白(ましろ)なる大理石(なめいし)の男(をとこ)の像(すがた)、
微妙(いみ)じくもまた貴(あて)に瞑目(めつぶ)りながら
清(きよ)らなる面(おも)の色かすかにゆめむ。

ものなべてさは妙(たへ)に女(をみな)の眼(め)ざし
あはれそが夢ふかき空色(そらいろ)しつつ、
にほやかになやましの思(おもひ)はうるむ。
そがなかに埋(う)もれたる素馨(そけい)のなげき、
蒸(む)し甘き沈丁(ぢんてう)のあるは刺(さ)せども
なにほどの香(か)の痛(いた)み身にしおぼえむ。
わかうどは声もなし、清(きよ)く、かなしく。

薄暮(たそがれ)にせきもあへぬ女(をんな)の吐息(といき)
あはれその愁(うれひ)如(な)し、しぶく噴水(ふきあげ)
そことなう節(ふし)ゆるうゆらゆるなべに、
いつしかとほのめきぬ月の光も。
その空に、その苑(その)に、ほのの青みに
静かなる欷歔(すすりなき)泣きもいでつつ、
いづくにか、さまだるる愛慕(あいぼ)のなげき。

やはらかきほの熱(ほて)る女の足音(あのと)
あはれそのほめき如(な)し、燃(も)えも生(あ)れゆく
ゆめにほふ心音(しんのん)のうつつなきかな。
大理石(なめいし)の身の白(しろ)み、面(おも)もほのかに、
ひらきゆくその眼(め)ざし、なかば閉ぢつつ、
ゆめのごと空仰(あふ)ぎ、いまぞ見惚(みほ)るる。
色わかき夜(よる)の星、うるむ紅(くれなゐ)。
四十一年七月

  窓

かかる窓ありとも知らず、昨日(きのふ)まで過(す)ぎし河岸(かはきし)。
今日(けふ)は見よ、
色赤き花に日の照り、かなしくも依依児(ええてる)匂ふ。
あはれまた病(や)める Piano(ピアノ) も……
四十一年九月

  昨日と今日と

わかうどのせはしさよ。
さは昨日(きのふ)世をも厭ひて重格魯密母(ぢゆうクロヲム)求(と)めも泣きしか、
今朝(けさ)ははや林檎吸ひつつ霧深き河岸路(かしぢ)を辿る。
歌楽し、鳴らす木履(きぐつ)に……
四十一年十一月

  わかき日

『かくまでも、かくまでも、
わかうどは悲しかるにや。』
『さなり、女(をみな)、
わかき日には、
ましてまた才(さい)ある身には。』
四十一年十一月[#改丁]

  朱の伴奏

凡て情緒也。静かなる精舎の庭にほのめきいでて紅の戦慄に盲ひたる□オロンの響はわが内心の旋律にして、赤き絶叫のなかにほのかに啼けるこほろぎの音はこれ亦わが情緒の一絃によりて密かに奏でらるる愁也。なげかひ也。その他おほむね之に倣ふ。
[#改ページ]

  謀坂

ひと日、わが精舎(しやうじや)の庭(には)に、
晩秋(おそあき)の静かなる落日(いりひ)のなかに、
あはれ、また、薄黄(うすぎ)なる噴水(ふきあげ)の吐息(といき)のなかに、
いとほのに□オロンの、その絃(いと)の、
その夢の、哀愁(かなしみ)の、いとほのにうれひ泣(な)く。

蝋(らふ)の火と懺悔(ざんげ)のくゆり
ほのぼのと、廊(らう)いづる白き衣(ころも)は
夕暮(ゆふぐれ)に言(もの)もなき修道女(しうだうめ)の長き一列(ひとつら)。
さあれ、いま、□オロンの、くるしみの、
刺(さ)すがごと火の酒の、その絃(いと)のいたみ泣く。

またあれば落日(いりひ)の色(いろ)に、
夢燃(も)ゆる、噴水(ふきあげ)の吐息(といき)のなかに、
さらになほ歌もなき白鳥(しらとり)の愁(うれひ)のもとに、
いと強き硝薬(せうやく)の、黒き火の、
地の底の導火(みちび)燬(や)き、□オロンぞ狂ひ泣く。

跳(をど)り来(く)る車輌(しやりやう)の響(ひびき)、
毒(どく)の弾丸(たま)、血(ち)の烟(けむり)、閃(ひら)めく刃(やいば)、
あはれ、驚破(すは)、火とならむ、噴水(ふきあげ)も、精舎(しやうじや)も、空も。
紅(くれなゐ)の、戦慄(わななき)の、その極(はて)の
瞬間(たまゆら)の叫喚(さけび)燬(や)き、□オロンぞ盲(めし)ひたる。
四十年十二月

  こほろぎ

微(ほの)にいまこほろぎ啼(な)ける。
日か落つる――眼(め)をみひらけば
朱(しゆ)の畏怖(おそれ)くわと照(て)りひびく。
内心(ないしん)の苦(にが)きおびえか、
めくるめく痛(いた)き日の色
眼(め)つぶれど、はた、照りひびく。

そのなかにこほろぎ啼ける。

とどろめく銃音(つゝおと)しばし、
痍(きず)つける悪(あく)のうごめき
そこここに、あるは疲(つか)れて
轢(し)きなやむ砲車(はうしや)のあへぎ、
逃げまどふ赤きもろごゑ。

そのなかにこほろぎ啼ける。

盲(めし)ひ、ゆく恋のまぼろし――
その底に疼(うず)きくるしむ
肉(ししむら)の鋭(するど)き絶叫(さけび)、
はた、暗(くら)き曲(きよく)の死(し)の楽(がく)
霊(たましひ)ぞ弾きも連(つ)れぬる。

そのなかにこほろぎ啼ける。

あなや、また呻吟(うめき)は洩(も)るる。
鉛(なまり)めく首のあたりゆ
幽界(いうかい)の呪咀(のろひ)か洩るる。
寝(ね)がへれば血に染み顫(ふる)ふ
わが敵(かたき)面(おも)ぞ死にたる。

そのなかにこほろぎ啼ける。

はた、裂(さ)くる赤き火の弾丸(たま)
たと笑ふ、と見る、我(われ)燬(や)き
我ならぬ獣(けもの)のつらね
真黒(まくろ)なる楽(がく)して奔(はし)る。
執念(しふねん)の闇曳き奔(はし)る。

そのなかにこほろぎ啼ける。

日や暮るる。我はや死ぬる。
野をあげて末期(まつご)のあらび――
暗(くら)き血の海に溺(おぼ)るる
赤き悲苦(ひく)、赤きくるめき、
ああ、今し、くわとこそ狂へ。

微(ほの)になほこほろぎ啼(な)ける。
四十年十二月

  序楽

ひと日、わが想(おもひ)の室(むろ)の日もゆふべ、
光、もののね、色、にほひ――声なき沈黙(しじま)
徐(おもむろ)にとりあつめたる室(むろ)の内(うち)、いとおもむろに、
薄暮(くれがた)のタンホイゼルの譜(ふ)のしるし
ながめて人はゆめのごとほのかにならぶ。

壁はみな鈍(にぶ)き愁(うれひ)ゆなりいでし
象(ざう)の香(か)の色まろらかに想(おもひ)鎖(さ)しぬれ、
その隅に瞳の色の窓ひとつ、玻璃(はり)の遠見(とほみ)に
冷(ひ)えはてしこの世のほかの夢の空
かはたれどきの薄明(うすあかり)ほのかにうつる。

あはれ、見よ、そのかみの苦悩(なやみ)むなしく
壁はいたみ、円柱(まろはしら)熔(とろ)けくづれて
朽(く)ちはてし熔岩(ラヴア)に埋(うも)るるポンペイを、わが幻(まぼろし)を。
ひとびとはいましゆるかに絃(いと)の弓、
はた、もろもろの調楽(てうがく)の器(うつは)をぞ執る。

暗みゆく室内(むろぬち)よ、暗みゆきつつ
想(おもひ)の沈黙(しじま)重たげに音(おと)なく沈み、
そことなき月かげのほの淡(あは)くさし入るなべに、
はじめまづ□オロンのひとすすりなき、
鈍色(にびいろ)長き衣(ころも)みな瞳をつぶる。

燃えそむるヴヱス□アス、空のあなたに
色新(あたら)しき紅(くれなゐ)の火ぞ噴(ふ)きのぼる。
廃(すた)れたる夢の古墟(ふるつか)、さとあかる我(わが)室(むろ)の内、
ひとときに渦巻(うづま)きかへす序(じよ)のしらべ
管絃楽部(オオケストラ)のうめきより夜(よ)には入りぬる。
四十一年二月

  納曾利

入日のしばし、空はいま雲の震慄(おびえ)のあかあかと
鋭(するど)にわかく、はた、苦(にが)く狂ひただるる楽(がく)の色。
また、高□の鬱金香(うこんかう)。かげに斃(たふ)るる白牛(しろうし)の
眉間(みけん)のいたみ、憤怒(いきどほり)。血に笑(ゑ)む人がさけびごゑ。

さあれ、いま納曾利(なそり)のなげき……
鈍(にぶ)き思(おもひ)の灰色(はひいろ)の壁の家内(やぬち)に、
吹(ふ)き鳴らす古き舞楽(ぶがく)の笙(せう)の節(ふし)、
納曾利(なそり)のなげき……

納曾利(なそり)のなげき、ひとしなみ
おほらににほふ雅楽寮(うたれう)の古きいみじき日の愁(うれひ)、
納曾利(なそり)の舞(まひ)の
人のゆめ、鈍(にぶ)くものうき足どりの裾ゆるらかに、
おもむろの振(ふり)のみやびの舞(まひ)あそび、
納曾利(なそり)のなげき……

くりかへし、さはくりかへし、
ゆめのごと後(しりへ)に連(つ)るる笙(せう)の節(ふし)、
笛(ふえ)のねとりもすずろかに、広(ひろ)き家内(やぬち)に、
おなじことおなじ嫋(なよび)にくりかへし、
舞(ま)へる思(おもひ)の
倦(う)める思(おもひ)のにほやかさ、
ゆるき鞨皷(かつこ)の
音(ね)もにぶく、
古(ふる)き納曾利(なそり)の舞(まひ)をさめ……

今(いま)しも街(まち)の空(そら)高(たか)く消(き)ゆる光(ひかり)のわななきに、
ほのかに青(あを)く、なほ苦(にが)く顫(ふる)ひくづるる雲(くも)の色(いろ)。
また、浮(う)きのこる鬱金香(うこんかう)。暮(く)れて果(は)てたる白牛(しろうし)の
声(こえ)なき骸(むくろ)。人(ひと)だかり、血(ち)を見(み)て黙(もだ)す冷笑(ひやわらひ)。
四十一年七月

  ほのかにひとつ

罌粟(けし)ひらく、ほのかにひとつ、
また、ひとつ……

やはらかき麦生(むぎふ)のなかに、
軟風(なよかぜ)のゆらゆるそのに。

薄(うす)き日の暮るとしもなく、
月(つき)しろの顫(ふる)ふゆめぢを、

縺(もつ)れ入るピアノの吐息(といき)
ゆふぐれになぞも泣かるる。

さあれ、またほのに生(あ)れゆく
色あかきなやみのほめき。

やはらかき麦生(むぎふ)の靄に、
軟風(なよかぜ)のゆらゆる胸に、

罌粟(けし)ひらく、ほのかにひとつ、
また、ひとつ……
四十一年二月

  耽溺

あな悲(かな)し、紅(あか)き帆(ほ)きたる。
聴(き)けよ、今(いま)、紅(あか)き帆(ほ)きたる。

白日(はくじつ)の光の水脈(みを)に、
わが恋の器楽(きがく)の海に。

あはれ、聴け、光は噎(むせ)び、
海顫ひ、清(すが)掻(がき)焦(こ)がれ
眩暈(めくる)めく悲愁(かなしみ)の極(はて)、
苦悶(もだえ)そふ歓楽(よろこび)のせて
キユラソオの紅(あか)き帆(ほ)ひびく。

弾(ひ)けよ、弾(ひ)け、毒(どく)の□オロン
吹けよ、また媚薬(びやく)の嵐。
あはれ歌、あはれ幻(まぼろし)、
その海に紅(あか)き帆(ほ)光る。
海の歌きこゆ、このとき、
『噫(あゝ)、かなし、炎(ほのほ)よ、慾(よく)よ、
接吻(くちつけ)よ。』

聴けよ、また苦(にが)き愛着(あいぢやく)、
肉(しゝむら)のおびえと恐怖(おそれ)、
『死ねよ、死ね』、紅(あか)き帆(ほ)響(ひゞ)く、
『恋よ、汝(な)よ。』

弾(ひ)けよ、弾(ひ)け、毒の□オロン
吹けよ、また媚薬(びやく)の嵐。

一瞬(ひととき)よ、――光よ、水脈(みを)よ、
楽(がく)の音(ね)よ――酒のキユラソオ、
接吻(くちつけ)の非命(ひめい)の快楽(けらく)、
毒水(どくすゐ)の火のわななきよ。
狂(くる)へ、狂(くる)へ、破滅(ほろび)の渚(なぎさ)、
聴くははや楽(がく)の大極(たいきよく)、
狂乱(きやうらん)の日の光吸(す)ふ
紅(あか)き帆の終(つひ)のはためき。

死なむ、死なむ、二人(ふたり)は死なむ。

紅(あか)き帆(ほ)きゆる。
紅(あか)き帆(ほ)きゆる。
四十年十二月

  といき

大空(おほそら)に落日(いりひ)ただよひ、
旅しつつ燃えゆく黄雲(きぐも)。
そのしたの伽藍(がらん)の甍(いらか)
半(なかば)黄(き)になかばほのかに、
薄闇(うすやみ)に蝋(らふ)の火にほひ、
円柱(まろはしら)またく暮れたる。

ほのめくは鳩の白羽(しらは)か、
敷石(しきいし)の闇にはひとり
盲(めしひ)の子ひたと膝つけ、
ほのかにも尺八(しやくはち)吹(ふ)ける、
あはれ、その追分(おひわけ)のふし。
四十年十二月

  黒船

黒煙(くろけぶり)ほのにひとすぢ。――
あはれ、日は血を吐く悶(もだえ)あかあかと
濡れつつ淀(よど)む悪(あく)の雲そのとどろきに
燃え狂ふ恋慕(れんぼ)の楽(がく)の断末魔(だんまつま)。
遠目(とほめ)に濁る蒼海(わだつみ)の色こそあかれ、
黒潮(くろしほ)の水脈(みを)のはたての水けぶり、
はた、とどろ撃(う)つ毒の砲弾(たま)、清(すず)しき喇叭(らつぱ)、
薄暮(くれがた)の朱(あけ)のおびえの戦(たゝかひ)に
疲れくるめく衰(おとろへ)ぞああ音(ね)を搾(しぼ)る。

黒煙(くろけぶり)またもふたすぢ。――
序(じよ)のしらべ絶(た)えつ続きつ、いつしかに
黒(くろ)き悩(なやみ)の旋律(せんりつ)ぞ渦(うづ)巻(ま)き起る。
逃(に)げ来(く)るは密猟船(みつれうせん)の旗じるし、
痍(きずつ)き噎(むせ)ぶ血と汚穢(けがれ)、はた憤怒(いきどほり)
おしなべて黄ばみ騒立(さわだ)つ楽(がく)の色。
空には苦(にが)き嘲笑(あざけり)に雲かき乱れ、
重(おも)りゆく煩悶(もだえ)のあらびはやもまた
黒き恐怖(おそれ)のはたためき海より煙る。

黒煙三すぢ、五すぢ。――
幻法(げんぱふ)のこれや苦(くる)しき脅迫(おびやかし)
いと淫(みだ)らかに蒸し挑(いど)む疾風(はやち)のもとに、
現れて真黒(まくろ)に歎(なげ)く楽(がく)の船、
生(なま)あをじろき鱶(ふか)の腹ただほのぼのと、
暮れがての赤きくるしみ、うめきごゑ、
血の甲板(かふはん)のうへにまた爛(たゞ)れて叫ぶ
楽慾(げうよく)の破片(はへん)の砲弾(たま)ぞ慄(わなゝ)ける。
ああその空にはたためく黒き帆のかげ。

黒煙終に七すぢ。――
吹きかはす銀(ぎん)の喇叭もたえだえに、
渦巻き猛(たけ)る楽(がく)の極(はて)、蒼海(わだつみ)けぶり、
悪(あく)の雲とどろとどろの乱擾(らんぜう)に
急忙(あわたゞ)しくも呪(のろ)はしき夜(よ)のたたずまひ。
濡れ焙(い)ぶる水無月ぞらの日の名残(なごり)
はた掻き濁し、暗澹(あんたん)と、あはれ黒船(くろふね)、
真黒なる管絃楽(オオケストラ)の帆の響(ひゞき)
死(し)と悔恨(くわいこん)の闇擾(みだ)し壊(くづ)れくづるる。
四十一年二月

  地平

あな哀(あは)れ、今日(けふ)もまた銅(あかがね)の雲をぞ生める。
あな哀(あは)れ、明日(あす)も亦鈍(にぶ)き血の毒(どく)をや吐かむ。

見るからにただ熱(あつ)し、心は重し。
察(はか)るだにいや苦(くる)し、愁(うれひ)はおもし。

かの青き国(くに)のあこがれ、
つねに見る地平(ちへい)のはてに、
大空(おほぞら)の真昼(まひる)の色と、
連(つ)れて弾(ひ)く緑(みどり)ひとつら。

その緑(みどり)琴柱(ことぢ)にはして、
弾きなづむ鳩の羽の夢、
幌(ほろ)の星(ほし)、剣(つるぎ)のなげき、
清掻(すががき)はほのかに薫(く)ゆる。

さては、日の白き恐怖(おそれ)に
静かなる太鼓(たいこ)のとろぎ、
昼(ひる)領(し)らす神か拊(う)たせる、
ころころとまたゆるやかに。

また絶えず、吐息(といき)のつらね
かなたより笛してうかび、
こなたより絃(いと)して消ゆる、――
ほのかなる夢のおきふし。

しかはあれ、ものなべて圧(お)す
南国(なんごく)の熱病雲(ねつやみぐも)ぞ
猥(みだ)らなる毒(どく)の□言(うはごと)
とどろかに歌かき濁(にご)す。

おもふ、いま水に華(はな)さき、
野(の)に赤き駒(こま)は斃(たふ)れむ。
うらうへに病(や)ましき現象(きざし)
今日(けふ)もまたどよみわづらふ。

あな哀(あは)れ、昨(きそ)の日も銅(あかがね)のなやみかかりき。
あな哀(あは)れ、明日(あす)もまた鈍(にぶ)き血の濁(にごり)かからむ。

聴くからにただ熱(あつ)し、心は重し。
思ふだにいやくるし、愁は重し。
四十年十二月

  ふえのね

ほのかに見ゆる青き頬(ほ)、
あな、あな、玻璃(はり)のおびゆる。

かなたにひびく笛のね、……
青き頬(ほ)ほのに消えゆく。

室(むろ)にもつのるふえのね、……
ふたつのにほひ盲(し)ひゆく。

きこえずなりぬふえのね、……
内(うち)と外(そと)とのなげかひ。

またしも見ゆる青き頬(ほ)。
あな、また玻璃(はり)のおびゆる。
四十一年二月

  下枝のゆらぎ

日はさしぬ、白楊(はくやう)の梢(こずゑ)に赤く、
さはあれど、暮れ惑(まど)ふ下枝(しづえ)のゆらぎ……

水(みづ)の面(も)のやはらかきにほひの嘆(なげき)
波もなき病(や)ましさに、瀞(とろ)みうつれる
晩春(おそはる)の□閉(とざ)す片側街(かたかはまち)よ、
暮れなやむ靄の内皷(うちつづみ)をうてる。
いづこにか、もの甘き蜂の巣(す)のこゑ。
幼子(をさなご)のむれはまた吹笛(フルウト)鳴らし、
白楊(はくやう)の岸(きし)にそひ曇り黄(き)ばめる
教会(けうくわい)の硝子□(がらすまど)ながめてくだる。

日はのこる両側(もろがは)の梢(こずゑ)にあかく、
さはあれど、暮れ惑(まど)ふ下枝(しづえ)のゆらぎ……

またあれば、公園(こうゑん)の長椅子(ベンチ)にもたれ、
かなたには恋慕(れんぼ)びと苦悩(なやみ)に抱く。
そのかげをのどやかに嬰児(あかご)匍(は)ひいで
鵞(が)の鳥(とり)を捕(と)らむとて岸(きし)ゆ落ちぬる。

水面(みのも)なるひと騒擾(さやぎ)、さあれ、このとき、
驀然(ましぐら)に急ぎくる一列(ひとつら)の郵便馬車(いうびんばしや)よ、
薄闇(うすやみ)ににほひゆく赤き曇(くもり)の
快(こころよ)さ、人はただ街(まち)をばながむ。

灯(あかり)点(とも)る、さあれなほ梢(こずゑ)はにほひ、
全(また)くいま暮れはてし下枝(しづえ)のゆらぎ……
四十一年八月

  雨の日ぐらし

ち、ち、ち、ち、と、もののせはしく
刻(きざ)む音(おと)……

河岸(かし)のそば、
黴(かび)の香(か)のしめりも暗し、

かくてあな暮れてもゆくか、
駅逓(えきてい)の局(きよく)の長壁(ながかべ)
灰色(はひいろ)に、暗きうれひに、
おとつひも、昨日(きのふ)も、今日(けふ)も。

さあれ、なほ薫(くゆ)りのこれる
一列(ひとつら)の紅(あか)き花(はな)罌粟(けし)
かたかげの草に濡れつつ、
うちしめり浮きもいでぬる。

雨はまたくらく、あかるく、
やはらかきゆめの曲節(めろでい)……

ち、ち、ち、ち、と絶えずせはしく
刻(きざ)む音……
角□の玻璃(はり)のくらみを
死(し)の報知(しらせ)ひまなく打電(う)てる。
さてあればそこはかとなく
出でもゆく
薄ぐらき思(おもひ)のやから
その歩行(あるき)夜(よ)にか入るらむ。

しばらくは
事もなし。
かかる日の雨の日ぐらし。

ち、ち、ち、ち、ともののせはしく
刻(きざ)む音(おと)……
さもあれや、
雨はまたゆるにしとしと
暮れもゆくゆめの曲節(めろでい)……

いづこにか鈴(すゞ)の音(ね)しつつ、
近く、
はた、速のく軋(きしり)、
待ちあぐむ郵便馬車(いうびんばしや)の
旗の色(いろ)見えも来なくに、
うち曇る馬の遠嘶(とほなき)。

さあれ、ふと
夕日さしそふ。
瞬間(たまゆら)の夕日さしそふ。

あなあはれ、
あなあはれ、
泣き入りぬ罌粟(けし)のひとつら、
最終(いやはて)に燃(も)えてもちりぬ。

日の光かすかに消ゆる。
ち、ち、ち、ち、ともののせはしく
刻(きざ)む音(おと)……
雨の曲節(めろでい)……

ものなべて、
ものなべて、
さは入らむ、暗き愁に。
あはれ、また、出でゆきし思のやから
帰り来なくに。

ち、ち、ち、ち、ともののせはしく
刻(きざ)む音(おと)……
雨の曲節(めろでい)……

灰色(はひいろ)の局(きよく)は夜(よ)に入る。
四十一年五月

  狂人の音楽

空気(くうき)は甘し……また赤し……黄(き)に……はた、緑(みどり)……

晩夏(おそなつ)の午後五時半の日光(につくわう)は□(かげり)を見せて、
蒸し暑く噴水(ふきゐ)に濡(ぬ)れて照りかへす。
瘋癲院(ふうてんゐん)の陰鬱(いんうつ)に硝子(がらす)は光り、
草場(くさば)には青き飛沫(しぶき)の茴香酒(アブサント)冷(ひ)えたちわたる。

いま狂人(きやうじん)のひと群(むれ)は空うち仰ふぎ――
饗宴(きやうえん)の楽器(がくき)とりどりかき抱(いだ)き、自棄(やけ)に、しみらに、
傷(きず)つける獣(けもの)のごとき雲の面(おも)
ひたに怖れて色盲(しきまう)の幻覚(まぼろし)を見る。
空気(くうき)は重し……また赤し……共に……はた緑(みどり)……
  *   *   *   *
    *   *   *   *
オボイ鳴る……また、トロムボオン……
狂(くる)ほしき□オラの唸(うなり)……

一人(ひとり)の酸(す)ゆき音(ね)は飛びて怜羊(かもしか)となり、
ひとつは赤き顔ゑがき、笑(わら)ひわななく
音(ね)の恐怖(おそれ)……はた、ほのしろき髑髏舞(どくろまひ)……

弾(ひ)け弾(ひ)け……鳴らせ……また舞踏(をど)れ……

セロの、喇叭(らつぱ)の蛇(へび)の香(か)よ、
はた、爛(たゞ)れ泣く□オロンの空には赤子飛びみだれ、
妄想狂(まうさうきやう)のめぐりにはバツソの盲目(めしひ)
小さなる骸色(しかばねいろ)の呪咀(のろひ)して逃(のが)れふためく。

弾け弾け……鳴らせ……また舞踏(をど)れ……

クラリネッ卜の槍尖(やりさき)よ、
曲節(メロヂア)のひらめき緩(ゆる)く、また急(はや)く、
アルト歌者(うたひ)のなげかひを暈(くら)ましながら、
一列(ひとつらね)、血しほしたたる神経(しんけい)の
壁の煉瓦(れんぐわ)のもとを行(ゆ)く……

弾け弾け……鳴らせ……また舞踏(をど)れ……、

かなしみの蛇(へび)、緑(みどり)の眼(め)
槍(やり)に貫(ぬ)かれてまた歎(なげ)く……

弾け弾け……鳴らせ……また舞踏(をど)れ……

はた、吹笛(フルウト)の香(か)のしぶき、
青じろき花どくだみの鋭(するど)さに、
濁りて光る山椒魚(さんしようを)、沼(ぬま)の調(しらべ)に音(ね)は瀞(とろ)む。

弾け弾け……鳴らせ……また舞踏(をど)れ……

傷(きずつ)きめぐる観覧車(くわんらんしや)、
はたや、太皷(たいこ)の悶絶(もんぜつ)に列(つら)なり走(はし)る槍尖(やりさき)よ、
□の硝子(がらす)に火は叫(さけ)び、
月琴(げつきん)の雨ふりそそぐ……

弾(ひ)け弾(ひ)け……鳴らせ……また舞踏(をど)れ……

赤き神経(しんけい)……盲(めし)ひし血……
聾(ろう)せる脳の鑢(やすり)の音(ね)……

弾け弾け……鳴らせ……また舞踏(をど)れ……
  *   *   *   *
    *   *   *   *
空気(くうき)は酸(すゆ)し……いま青し……黄(き)に……なほ赤く……

はやも見よ、日の入りがたの雲の色
狂気(きやうき)の楽(がく)の音(ね)につれて波だちわたり、
悪獣の蹠(あなうら)のごと血を滴(たら)す。

そがもとに噴水(ふきゐ)のむせび
濡れ濡れて薄闇(うすやみ)に入る……

空気(くうき)は重し……なほ赤し……黄(き)に……また緑(みどり)……

いつしかに蒸汽(じようき)の鈍(にぶ)き船腹(ふなばら)の
ごとくに光りかぎろひし瘋癲院(ふうてんゐん)も暮れゆけば、
ただ冷(ひ)えしぶく茴香酒(アブサント)、鋭(するど)き玻璃(はり)のすすりなき。

草場(くさば)の赤き一群(ひとむれ)よ、眼(め)ををののかし、
躍(をど)り泣き弾(ひ)きただらかす歓楽(くわんらく)の
はてしもあらぬ色盲(しきまう)のまぼろしのゆめ……
午後の七時の印象(いんしやう)はかくて夜(よ)に入る。

空気は苦(にが)し……はや暗(くら)し……黄(き)に……なほ青く……
四十一年九月

  風のあと

夕日(ゆふひ)はなやかに、
こほろぎ啼(な)く。
あはれ、ひと日、木の葉ちらし吹き荒(すさ)みたる風も落ちて、
夕日(ゆふひ)はなやかに、
こほろぎ啼く。
四十一年八月

  月の出

ほのかにほのかに音色(ねいろ)ぞ揺(ゆ)る。
かすかにひそかににほひぞ鳴る。
しみらに列(なみ)立(た)つわかき白楊(ぽぴゆら)、
その葉のくらみにこころ顫(ふる)ふ。

ほのかにほのかに吐息(といき)ぞ揺る。
かすかにひそかに雫(しづく)ぞ鳴る。
あふげばほのめくゆめの白楊(ぽぴゆら)、
愁(うれひ)の水(み)の面(も)を櫂(かい)はすべる。

吐息(といき)のをののき、君が眼(め)ざし
やはらに縺(もつ)れてたゆたふとき、
光のひとすぢ――顫(ふる)ふ白楊(ぽぴゆら)
文月(ふづき)の香炉(かうろ)に濡れてけぶる。

さてしもゆるけくにほふ夢路(ゆめぢ)、
したたりしたたる櫂(かい)のしづく、
薄らに沁(し)みゆく月のでしほ
ほのかにわれらが小舟(をふね)ぞゆく。

ほのめく接吻(くちつけ)、からむ頸(うなじ)、
いづれか恋慕(れんぼ)の吐息(といき)ならぬ。
夢見てよりそふわれら、白楊(ぽぴゆら)、
水上(みなかみ)透(す)かしてこころ顫(ふる)ふ。
四十一年二月[#改丁]

  外光と印象

近世仏国絵画の鑑賞者をわかき旅人にたとへばや。もとより Watteau の羅曼底、Corot の叙情詩は唯微かにそのおぼろげなる記憶に残れるのみ。やや暗き Fontainebleau の森より曇れる道を巴里の市街に出づれば Seine の河、そが上の船、河に臨める Caf□ の、皆「刹那」の如くしるく明かなる Manet の陽光に輝きわたれるに驚くならむ。
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