邪宗門
是非お友達にも!
■暇つぶし何某■

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著者名:北原白秋 

 父上に献ぐ

父上、父上ははじめ望み給はざりしかども、児は遂にその生れたるところにあこがれて、わかき日をかくは歌ひつづけ候ひぬ。もはやもはや咎め給はざるべし。
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  邪宗門扉銘

ここ過ぎて曲節(メロデア)の悩みのむれに、
ここ過ぎて官能の愉楽のそのに、
ここ過ぎて神経のにがき魔睡に。
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詩の生命は暗示にして単なる事象の説明には非ず。かの筆にも言語にも言ひ尽し難き情趣の限なき振動のうちに幽かなる心霊の欷歔をたづね、縹渺たる音楽の愉楽に憧がれて自己観想の悲哀に誇る、これわが象徴の本旨に非ずや。されば我らは神秘を尚び、夢幻を歓び、そが腐爛したる頽唐の紅を慕ふ。哀れ、我ら近代邪宗門の徒が夢寝にも忘れ難きは青白き月光のもとに欷歔く大理石の嗟嘆也。暗紅にうち濁りたる埃及の濃霧に苦しめるスフィンクスの瞳也。あるはまた落日のなかに笑へるロマンチツシユの音楽と幼児磔殺の前後に起る心状の悲しき叫也。かの黄臘の腐れたる絶間なき痙攣と、□オロンの三の絃を擦る嗅覚と、曇硝子にうち噎ぶウヰスキイの鋭き神経と、人間の脳髄の色したる毒艸の匂深きためいきと、官能の魔睡の中に疲れ歌ふ鶯の哀愁もさることながら、仄かなる角笛の音に逃れ入る緋の天鵞絨の手触の棄て難さよ。
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昔(むかし)よりいまに渡(わた)り来(く)る黒船(くろふね)縁(えん)がつくれば鱶(ふか)の餌(ゑ)となる。サンタマリヤ。
『長崎ぶり』[#改丁]

     例言

一、本集に収めたる六章約百二十篇の詩は明治三十九年の四月より同四十一年の臘月に至る、即最近三年間の所作にして、集中の大半は殆昨一年の努力に成る。就中『古酒』中の「よひやみ」「柑子」「晩秋」の類最も旧くして『魔睡』中に載せたる「室内庭園」「曇日」の二篇はその最も新しきものなり。一、予が真に詩を知り初めたるは僅に此の二三年の事に属す。されば此の間の前後に作られたる種々の傾向の詩は皆予が初期の試作たるを免れず。従て本集の編纂に際しては特に自信ある代表作物のみを精査し、少年時の長篇五六及その後の新旧作七十篇の余は遺憾なく割愛したり。この外百篇に近き『断章』と『思出』五十篇の著作あれども、紙数の制限上、これらは他の新しき機会を待ちて出版するの已むなきに到れり。一、予が象徴詩は情緒の諧楽と感覚の印象とを主とす。故に、凡て予が拠る所は僅かなれども生れて享け得たる自己の感覚と刺戟苦き神経の悦楽とにして、かの初めより情感の妙なる震慄を無みし只冷かなる思想の概念を求めて強ひて詩を作為するが如きを嫌忌す。されば予が詩を読まむとする人にして、之に理知の闡明を尋ね幻想なき思想の骨格を求めむとするは謬れり。要するに予が最近の傾向はかの内部生活の幽かなる振動のリズムを感じその儘の調律に奏でいでんとする音楽的象徴を専とするが故に、そが表白の方法に於ても概ねかの新しき自由詩の形式を用ゐたり。一、或人の如きは此の如き詩を嗤ひて甚しき跨張と云ひ、架空なる空想を歌ふものと做せども、予が幻覚には自ら真に感じたる官能の根抵あり。且、人の天分にはそれそれ自らなる相違あり、強ひて自己の感覚を尺度として他を律するは謬なるべし。一、本来、詩は論ふべききはのものにはあらず。嘗て幾多の譏笑と非議と謂れなき誤解とを蒙りたるにも拘らず、予の単に創作にのみ執して、一語もこれに答ふる所なかりしは、些か自己の所信に安じたればなり。一、終に、現時の予は文芸上の如何なる結社にも与らず、又、如何なる党派の力をも恃む所なき事を明にす。要は只これらの羈絆と掣肘とを放れて、予は予が独自なる個性の印象に奔放なる可く、自由ならんことを欲するものなり。一、尚、本集を世に公にする事を得たる所以のものは、これ一に蒲原有明、鈴木皷村両氏の深厚なる同情に依る、ここに謹謝す。  明治四十二年一月
著者識[#改丁]

  魔睡

余は内部の世界を熟視めて居る。陰鬱な死の節奏は絶えず快く響き渡る……と神経は一斉に不思議の舞踏をはじめる。すすりなく黒き薔薇、歌うたふ硝子のインキ壺、誘惑の色あざやかな猫眼石の腕環、笑ひつづける空眼の老女等はこまかくしなやかな舞踏をいつまでもつづける。余は一心に熟視めて居る……いつか余は朱の房のついた長い剣となつて渠等の内に舞踏つてゐる………長田秀雄[#改ページ]

  邪宗門秘曲

われは思ふ、末世(まつせ)の邪宗(じやしゆう)、切支丹(きりしたん)でうすの魔法(まはふ)。
黒船(くろふね)の加比丹(かひたん)を、紅毛(こうまう)の不可思議国(ふかしぎこく)を、
色(いろ)赤(あか)きびいどろを、匂(にほひ)鋭(と)きあんじやべいいる、
南蛮(なんばん)の桟留縞(さんとめじま)を、はた、阿刺吉(あらき)、珍□(ちんた)の酒を。

目見(まみ)青きドミニカびとは陀羅尼(だらに)誦(ず)し夢にも語る、
禁制(きんせい)の宗門神(しゆうもんしん)を、あるはまた、血に染む聖磔(くるす)、
芥子粒(けしつぶ)を林檎のごとく見すといふ欺罔(けれん)の器(うつは)、
波羅葦僧(はらいそ)の空(そら)をも覗(のぞ)く伸(の)び縮(ちゞ)む奇(き)なる眼鏡(めがね)を。

屋(いへ)はまた石もて造り、大理石(なめいし)の白き血潮(ちしほ)は、
ぎやまんの壺(つぼ)に盛られて夜(よ)となれば火点(とも)るといふ。
かの美(は)しき越歴機(えれき)の夢は天鵝絨(びろうど)の薫(くゆり)にまじり、
珍(めづ)らなる月の世界の鳥獣(とりけもの)映像(うつ)すと聞けり。

あるは聞く、化粧(けはひ)の料(しろ)は毒草(どくさう)の花よりしぼり、
腐(くさ)れたる石の油(あぶら)に画(ゑが)くてふ麻利耶(まりや)の像(ざう)よ、
はた羅甸(らてん)、波爾杜瓦爾(ほるとがる)らの横(よこ)つづり青なる仮名(かな)は
美(うつ)くしき、さいへ悲しき歓楽(くわんらく)の音(ね)にかも満つる。

いざさらばわれらに賜(たま)へ、幻惑(げんわく)の伴天連(ばてれん)尊者(そんじや)、
百年(もゝとせ)を刹那(せつな)に縮(ちゞ)め、血の磔(はりき)脊(せ)にし死すとも
惜(を)しからじ、願ふは極秘(ごくひ)、かの奇(く)しき紅(くれなゐ)の夢、
善主麿(ぜんすまろ)、今日(けふ)を祈(いのり)に身(み)も霊(たま)も薫(くゆ)りこがるる。
四十一年八月

  室内庭園

晩春(おそはる)の室(むろ)の内(うち)、
暮れなやみ、暮れなやみ、噴水(ふきあげ)の水はしたたる……
そのもとにあまりりす赤(あか)くほのめき、
やはらかにちらぼへるヘリオトロオブ。
わかき日のなまめきのそのほめき静(しづ)こころなし。

尽(つ)きせざる噴水(ふきあげ)よ………
黄(き)なる実(み)の熟(う)るる草、奇異(きゐ)の香木(かうぼく)、
その空にはるかなる硝子(がらす)の青み、
外光(ぐわいくわう)のそのなごり、鳴ける鶯(うぐひす)、
わかき日の薄暮(くれがた)のそのしらべ静(しづ)こころなし。

いま、黒(くろ)き天鵝絨(びろうど)の
にほひ、ゆめ、その感触(さはり)………噴水(ふきあげ)に縺(もつ)れたゆたひ、
うち湿(しめ)る革(かは)の函(はこ)、饐(す)ゆる褐色(かちいろ)
その空に暮れもかかる空気(くうき)の吐息(といき)……
わかき日のその夢の香(か)の腐蝕(ふしよく)静(しづ)こころなし。
三層(さんかい)の隅(すみ)か、さは
腐(くさ)れたる黄金(わうごん)の縁(ふち)の中(うち)、自鳴鐘(とけい)の刻(きざ)み……
ものなべて悩(なや)ましさ、盲(し)ひし少女(をとめ)の
あたたかに匂(にほひ)ふかき感覚(かんかく)のゆめ、
わかき日のその靄に音(ね)は響(ひゞ)く、静(しづ)こころなし。

晩春(おそはる)の室(むろ)の内(うち)、
暮れなやみ、暮れなやみ、噴水(ふきあげ)の水はしたたる……
そのもとにあまりりす赤くほのめき、
甘く、またちらぼひぬ、ヘリオトロオブ。
わかき日は暮(く)るれども夢はなほ静(しづ)こころなし。
四十一年十二月

  陰影の瞳

夕(ゆふべ)となればかの思(おもひ)曇硝子(くもりがらす)をぬけいでて、
廃(すた)れし園(その)のなほ甘(あま)きときめきの香(か)に顫(ふる)へつつ、
はや饐(す)え萎(な)ゆる芙蓉花(ふようくわ)の腐(くさ)れの紅(あか)きものかげと、
縺(もつ)れてやまぬ秦皮(とねりこ)の陰影(いんえい)にこそひそみしか。

如何(いか)に呼(よ)べども静(しづ)まらぬ瞳(ひとみ)に絶(た)えず涙して、
帰(かへ)るともせず、密(ひそ)やかに、はた、果(はて)しなく見入(みい)りぬる。
そこともわかぬ森かげの鬱憂(メランコリア)の薄闇(うすやみ)に、
ほのかにのこる噴水(ふきあげ)の青きひとすぢ……
四十一年十月

  赤き僧正

邪宗(じやしゆう)の僧ぞ彷徨(さまよ)へる……瞳据(す)ゑつつ、
黄昏(たそがれ)の薬草園(やくさうゑん)の外光(ぐわいくわう)に浮きいでながら、
赤々(あか/\)と毒のほめきの恐怖(おそれ)して、顫(ふる)ひ戦(をのゝ)く
陰影(いんえい)のそこはかとなきおぼろめき
まへに、うしろに……さはあれど、月の光の
水(み)の面(も)なる葦(あし)のわか芽(め)に顫(ふる)ふ時。
あるは、靄ふる遠方(をちかた)の窓の硝子(がらす)に
ほの青きソロのピアノの咽(むせ)ぶ時。
瞳据(す)ゑつつ身動(みじろ)かず、長き僧服(そうふく)
爛壊(らんゑ)する暗紅色(あんこうしよく)のにほひしてただ暮れなやむ。

さて在るは、曩(さき)に吸(す)ひたる
Hachisch(ハシツシユ) の毒のめぐりを待てるにか、
あるは劇(はげ)しき歓楽(くわんらく)の後の魔睡(ますゐ)や忍ぶらむ。
手に持つは黒き梟(ふくろう)
爛々(らん/\)と眼(め)は光る……

……そのすそに蟋蟀(こほろぎ)の啼く……
四十一年十二月

  WHISKY.

夕暮(ゆふぐれ)のものあかき空(そら)、
その空(そら)に百舌(もず)啼(な)きしきる。
Whisky(ウイスキイ) の罎(びん)の列(れつ)
冷(ひや)やかに拭(ふ)く少女(をとめ)、
見よ、あかき夕暮(ゆふぐれ)の空(そら)、
その空(そら)に百舌(もず)啼(な)きしきる。
四十一年十一月

  天鵝絨のにほひ

やはらかに腐れつつゆく暗(やみ)の室(むろ)。
その片隅(かたすみ)の薄(うす)あかり、背(そびら)にうけて
天鵝絨(びろうど)の赤(あか)きふくらみうちかつぎ、
にほふともなく在(あ)るとなく、蹲(うづく)み居れば。

暮れてゆく夏の思と、日向葵(ひぐるま)の
凋(しを)れの甘き香(か)もぞする。……ああ見まもれど
おもむろに悩(なや)みまじろふ色の陰影(かげ)
それともわかね……熱病(ねつびやう)の闇のをののき……

Hachisch(ハシツシユ) か、酢(す)か、茴香酒(アブサン)か、くるほしく
溺(おぼ)れしあとの日の疲労(つかれ)……縺(もつ)れちらぼふ
Wagner(ワグネル) の恋慕(れんぼ)の楽(がく)の音(ね)のゆらぎ
耳かたぶけてうち透(す)かし、在(あ)りは在(あ)れども。

それらみな素足(すあし)のもとのくらがりに
爛壊(らんゑ)の光放(はな)つとき、そのかなしみの
腐(くさ)れたる曲(きよく)の緑(みどり)を如何(いか)にせむ。
君を思ふとのたまひしゆめの言葉(ことば)も。

わかき日の赤(あか)きなやみに織りいでし
にほひ、いろ、ゆめ、おぼろかに嗅(か)ぐとなけれど、
ものやはに暮れもかぬれば、わがこころ
天鵝絨(びろうど)深くひきかつぎ、今日(けふ)も涙す。
四十一年十二月

  濃霧

濃霧(のうむ)はそそぐ……腐(くさ)れたる大理(だいり)の石の
生(なま)くさく吐息(といき)するかと蒸し暑く、
はた、冷(ひや)やかに官能(くわんのう)の疲(つか)れし光――
月はなほ夜(よ)の氛囲気(ふんゐき)の朧(おぼろ)なる恐怖(おそれ)に懸(かゝ)る。

濃霧(のうむ)はそそぐ……そこここに虫の神経(しんけい)
鋭(と)く、甘く、圧(お)しつぶさるる嗟嘆(なげき)して
飛びもあへなく耽溺(たんでき)のくるひにぞ入る。
薄ら闇、盲唖(まうあ)の院(ゐん)の角硝子(かくがらす)暗くかがやく。

濃霧(のうむ)はそそぐ……さながらに戦(をのゝ)く窓は
亜刺比亜(アラビヤ)の魔法(まはふ)の館(たち)の薄笑(うすわらひ)。
麻痺薬(しびれぐすり)の酸(す)ゆき香(か)に日ねもす噎(む)せて
聾(ろう)したる、はた、盲(めし)ひたる円頂閣(まるやね)か、壁の中風(ちゆうふう)。

濃霧(のうむ)はそそぐ……甘く、また、重く、くるしく、
いづくにか凋(しを)れし花の息づまり、
苑(その)のあたりの泥濘(ぬかるみ)に落ちし燕や、
月の色半死(はんし)の生(しやう)に悩(なや)むごとただかき曇る。

濃霧(のうむ)はそそぐ……いつしかに虫も盲(し)ひつつ
聾(ろう)したる光のそこにうち痺(しび)れ、
唖(おうし)とぞなる。そのときにひとつの硝子(がらす)
幽魂(いうこん)の如(ごと)くに青くおぼろめき、ピアノ鳴りいづ。

濃霧(のうむ)はそそぐ……数(かず)の、見よ、人かげうごき、
闌(ふ)くる夜(よ)の恐怖(おそれ)か、痛(いた)きわななきに
ただかいさぐる手のさばき――霊(たま)の弾奏(だんそう)、
盲目(めしひ)弾き、唖(おうし)と聾者(ろうじや)円(つぶ)ら眼(め)に重(かさ)なり覗(のぞ)く。

濃霧(のうむ)はそそぐ……声もなき声の密語(みつご)や。
官能(くわんのう)の疲(つか)れにまじるすすりなき
霊(たま)の震慄(おびえ)の音(ね)も甘く聾(ろう)しゆきつつ、
ちかき野に喉(のど)絞(し)めらるる淫(たは)れ女(め)のゆるき痙攣(けいれん)。

濃霧(のうむ)はそそぐ……香(か)の腐蝕(ふしよく)、肉(にく)の衰頽(すゐたい)、――
呼吸(いき)深く□□□謨(コロロホルム)や吸ひ入るる
朧(ろう)たる暑き夜(よ)の魔睡(ますゐ)……重く、いみじく、
音(おと)もなき盲唖(まうあ)の院(ゐん)の氛囲気(ふんゐき)に月はしたたる。
四十一年十月

  赤き花の魔睡

日(ひ)は真昼(まひる)、ものあたたかに光素(エエテル)の
波動(はどう)は甘(あま)く、また、緩(ゆ)るく、戸(と)に照りかへす、
その濁(にご)る硝子(がらす)のなかに音(おと)もなく、
□□□謨(コロロホルム)の香(か)ぞ滴(したた)る……毒(どく)の□言(うはごと)……

遠(とほ)くきく、電車(でんしや)のきしり……
………棄(す)てられし水薬(すゐやく)のゆめ……

やはらかき猫(ねこ)の柔毛(にこげ)と、蹠(あなうら)の
ふくらのしろみ悩(なや)ましく過(す)ぎゆく時(とき)よ。
窓(まど)の下(もと)、生(せい)の痛苦(つうく)に只(たゞ)赤(あか)く戦(そよ)ぎえたてぬ草(くさ)の花
亜鉛(とたん)の管(くだ)の
湿(しめ)りたる筧(かけひ)のすそに……いまし魔睡(ますゐ)す……
四十一年十二月

  麦の香

嬰児(あかご)泣く……麦の香(か)の湿(しめ)るあなたに、
続(つゞ)け泣く……やはらかに、なやましげにも、
香(か)に噎(むせ)び、香(か)に噎(むせ)び、あはれまた、嬰児(あかご)泣きたつ……
夏の雨さと降(ふ)り過(す)ぎて
新(あらた)にもかをり蒸(む)す野の畑(はた)いくつ湿(しめ)るあなたに、
赤き衣(きぬ)一(ひと)きは若(わか)く、にほやかにけぶる揺籃(ゆりご)や、
磨硝子(すりがらす)、あるは窓枠(まどわく)、濡(ぬ)れ濡(ぬ)れて夕日(ゆふひ)さしそふ。
四十一年十二月

  曇日

曇日(くもりび)の空気(くうき)のなかに、
狂(くる)ひいづる樟(くす)の芽(め)の鬱憂(メランコリア)よ……
そのもとに桐(きり)は咲く。
Whisky(ウイスキイ) の香(か)のごときしぶき、かなしみ……

そこここにいぎたなき駱駝(らくだ)の寝息(ねいき)、
見よ、鈍(にぶ)き綿羊(めんやう)の色のよごれに
饐(す)えて病(や)む藁(わら)のくさみ、
その湿(しめ)る泥濘(ぬかるみ)に花はこぼれて
紫(むらさき)の薄(うす)き色鋭(するど)になげく……
はた、空(そら)のわか葉(ば)の威圧(ゐあつ)。

いづこにか、またもきけかし。
餌(ゑ)に饑(う)ゑしベリガンのけうとき叫(さけび)、
山猫(やまねこ)のものさやぎ、なげく鶯(うぐひす)、
腐(くさ)れゆく沼(ぬま)の水蒸(む)すがごとくに。

そのなかに桐は散(ち)る…… Whisky(ウイスキイ) の強きかなしみ……

もの甘(あま)き風のまた生(なま)あたたかさ、
猥(みだ)らなる獣(けもの)らの囲内(かこひ)のあゆみ、
のろのろと枝(え)に下(さが)るなまけもの、あるは、貧(まづ)しく
眼(め)を据(す)ゑて毛虫(けむし)啄(つ)む嗟歎(なげかひ)のほろほろ鳥(てう)よ。

そのもとに花はちる……桐のむらさき……

かくしてや日は暮(く)れむ、ああひと日。
病院(びやうゐん)を逃(のが)れ来(こ)し患者(くわんじや)の恐怖(おそれ)、
赤子(あかご)らの眼(め)のなやみ、笑(わら)ふ黒奴(くろんぼ)
酔(ゑ)ひ痴(し)れし遊蕩児(たはれを)の縦覧(みまはり)のとりとめもなく。

その空(そら)に桐(きり)はちる……新(あたら)しきしぶき、かなしみ……

はたや、また、園(その)の外(そと)ゆく
軍楽(ぐんがく)の黒(くろ)き不安(ふあん)の壊(なだ)れ落ち、夜(よ)に入る時(とき)よ、
やるせなく騒(さや)ぎいでぬる鳥獣(とりけもの)。
また、その中(なか)に、
狂(くる)ひいづる北極熊(ほつきよくぐま)の氷なす戦慄(をののき)の声(こゑ)。

その闇(やみ)に花はちる…… Whisky(ウイスキイ) の香(か)の頻吹(しぶき)……桐の紫(むらさき)……
四十一年十二月

  秋の瞳

晩秋(おそあき)の濡(ぬ)れにたる鉄柵(てすり)のうへに、
黄(き)なる葉の河やなぎほつれてなげく
やはらかに葬送(はうむり)のうれひかなでて、
過ぎゆきし Trombone(トロムボオン) いづちいにけむ。

はやも見よ、暮れはてし吊橋(つりばし)のすそ、
瓦斯(がす)点(とも)る……いぎたなき馬の吐息(といき)や、
騒(さわ)ぎやみし曲馬師(チヤリネし)の楽屋(がくや)なる幕の青みを
ほのかにも掲(かゝ)げつつ、水(み)の面(も)見る女(をんな)の瞳(ひとみ)。
四十一年十二月

  空に真赤な

空(そら)に真赤(まつか)な雲(くも)のいろ。
玻璃(はり)に真赤(まつか)な酒(さけ)の色(いろ)。
なんでこの身(み)が悲(かな)しかろ。
空(そら)に真赤(まつか)な雲(くも)のいろ。
四十一年五月

  秋のをはり

腐(くさ)れたる林檎(りんご)のいろに
なほ青(あを)きにほひちらぼひ、
水薬(すゐやく)の汚(し)みし卓(つくゑ)に
瓦斯(がす)焜炉(こんろ)ほのかに燃(も)ゆる。

病人(やまうど)は肌(はだ)ををさめて
愁(うれ)はしくさしぐむごとし。
何(な)ぞ湿(しめ)る、医局(いきよく)のゆふべ、
見(み)よ、ほめく劇薬(げきやく)もあり。

色(いろ)冴(さ)えぬ室(むろ)にはあれど、
声(こゑ)たててほのかに燃(も)ゆる
瓦斯(がす)焜炉(こんろ)………空(そら)と、こころと、
硝子戸(がらすど)に鈍(に)ばむさびしさ。

しかはあれど、寒(さむ)きほのほに
黄(き)の入日(いりひ)さしそふみぎり、
朽(く)ちはてし秋(あき)の□オロン
ほそぼそとうめきたてぬる。
四十一年十二月

  十月の顔

顔なほ赤(あか)し……うち曇り黄(き)ばめる夕(ゆふべ)、
『十月(じふぐわつ)』は熱(ねつ)を病(や)みしか、疲(つか)れしか、
濁(にご)れる河岸(かし)の磨硝子(すりがらす)脊(せ)に凭りかかり、
霧の中(うち)、入日(いりひ)のあとの河(かは)の面(も)をただうち眺(なが)む。

そことなき櫂(かい)のうれひの音(ね)の刻(きざ)み……
涙のしづく……頬にもまたゆるきなげきや……

ややありて麪包(パン)の破片(かけら)を手にも取り、
さは冷(ひや)やかに噛(か)みしめて、来(きた)るべき日の
味(あぢ)もなき悲しきゆめをおもふとき……

なほもまた廉(やす)き石油(せきゆ)の香(か)に噎(むせ)び、
腐(くさ)れちらぼふ骸炭(コオクス)に足も汚(よ)ごれて、
小蒸汽(こじやうき)の灰(はひ)ばみ過(す)ぎし船腹(ふなばら)に
一(ひと)きは赤(あか)く輝(かが)やきしかの□枠(まどわく)を忍ぶとき……

月光(つきかげ)ははやもさめざめ……涙さめざめ……
十月(じふぐわつ)の暮れし片頬(かたほ)を
ほのかにもうつしいだしぬ。
四十一年十二月

  接吻の時

薄暮(くれがた)か、
日のあさあけか、
昼か、はた、
ゆめの夜半(よは)にか。

そはえもわかね、燃(も)えわたる若き命(いのち)の眩暈(めくるめき)、
赤き震慄(おびえ)の接吻(くちつけ)にひたと身(み)顫(ふる)ふ一刹那(いつせつな)。

あな、見よ、青き大月(たいげつ)は西よりのぼり、
あなや、また瘧(ぎやく)病(や)む終(はて)の顫(ふるひ)して
東へ落つる日の光、
大(おほ)ぞらに星はなげかひ、
青く盲(めし)ひし水面(みのも)にほ薬香(くすりが)にほふ。
あはれ、また、わが立つ野辺(のべ)の草は皆色も干乾(ひから)び、
折り伏せる人の骸(かばね)の夜(よ)のうめき、
人霊色(ひとだまいろ)の
木(き)の列(れつ)は、あなや、わが挽歌(ひきうた)うたふ。

かくて、はや落穂(おちぼ)ひろひの農人(のうにん)が寒き瞳よ。
歓楽(よろこび)の穂のひとつだに残(のこ)さじと、
はた、刈り入るる鎌の刃(は)の痛(いた)き光よ。
野のすゑに獣(けもの)らわらひ、
血に饐(す)えて汽車(きしや)鳴き過(す)ぐる。

あなあはれ、あなあはれ、
二人(ふたり)がほかの霊(たましひ)のありとあらゆるその呪咀(のろひ)。

朝明(あさあけ)か、
死(し)の薄暮(くれがた)か、
昼か、なほ生(あ)れもせぬ日か、
はた、いづれともあらばあれ。

われら知る赤き唇(くちびる)。
四十一年六月

  濁江の空

腐(くさ)れたる林檎(りんご)の如き日のにほひ
円(まろ)らに、さあれ、光なく甘(あま)げに沈む
晩春(おそはる)の濁(にごり)重(おも)たき靄の内(うち)、
ふと、カキ色(いろ)の軽気球(けいききう)くだるけはひす。

遠方(をちかた)の曇(くも)れる都市(とし)の屋根(やね)の色
たゆげに仰(あふ)ぐ人はいま鈍(にぶ)くもきかむ、
濁江(にごりえ)のねぶたき、あるは、やや赤(あか)き
にほひの空のいづこにか洩(も)るる鉄(てつ)の音(ね)。

なやましき、さは江(え)の泥(どろ)の沈澱(おどみ)より
あかるともなき灰紅(くわいこう)の帆のふくらみに
伝(つた)へくる潜水夫(もぐりのひと)が作業(さげふ)にか、
饐(す)えたる吐息(といき)そこはかと水面(みのも)に黄(き)ばむ。

河岸(かし)になほ物見(ものみ)る子らはうづくまり、
はや倦(う)ましげに人形(にんぎやう)をそが手に泣かす。
日暮(ひくれ)どき、入日(いりひ)に濁る靄(もや)の内(うち)、
また、ふくらかに軽気球(けいききう)くだるけはひす。
四十一年八月

  魔国のたそがれ

うち曇(くも)る暗紅色(あんこうしよく)の大(おほ)き日の
魔法(まはふ)の国に病(や)ましげの笑(ゑみ)して入れば、
もの甘(あま)き驢馬(ろば)の鳴く音(ね)にもよほされ、
このもかのもに悩(なや)ましき吐息(といき)ぞおこる。

そのかみの激(はげ)しき夢や忍(しの)ぶらむ。
鬱黄(うこん)の百合(ゆり)は血(ち)ににじむ眸(ひとみ)をつぶり、
人間(にんげん)の声(こゑ)して挑(いど)み、飛びかはし
鸚鵡(あうむ)の鳥はかなしげに翅(つばさ)ふるはす。

草も木もかの誘惑(いざなひ)に化(な)されつる
旅のわかうど、暮れ行けば心ひまなく
えもわかぬ毒(どく)の怨言(かごと)になやまされ、
われと悲しき歓楽(くわんらく)に怕(おそ)れて顫(ふる)ふ。

日は沈み、たそがれどきの空(そら)の色
青き魔薬(まやく)の薫(かをり)して古(ふ)りつつゆけば、
ほのかにも誘(さそ)はれ来(きた)る隊商(カラバン)の
鈴(すず)鳴る……あはれ、今日(けふ)もまた恐怖(おそれ)の予報(しらせ)。

はとばかり黙(つぐ)み戦(をのの)くものの息(いき)。
色天鵝絨(いろびろうど)を擦(す)るごとき裳裾(もすそ)のほかは
声もなく甘く重(おも)たき靄(もや)の闇(やみ)、
はやも王女(わうぢよ)の領(し)らすべき夜(よ)とこそなりぬ。
四十一年八月

  蜜の室

薄暮(くれがた)の潤(うる)みにごれる室(むろ)の内(うち)、
甘くも腐(くさ)る百合(ゆり)の蜜(みつ)、はた、靄(もや)ぼかし
色赤きいんくの罎(びん)のかたちして
ひそかに点(とも)る豆らんぷ息(いき)づみ曇る。

『豊国(とよくに)』のぼやけし似顔(にがほ)生(なま)ぬるく、
曇硝子(くもりがらす)の□のそと外光(ぐわいくわう)なやむ。
ものの本(ほん)、あるはちらぼふ日のなげき、
暮れもなやめる霊(たましひ)の金字(きんじ)のにほひ。

接吻(くちつけ)の長(なが)き甘さに倦(あ)きぬらむ。
そと手をほどき靄の内(うち)さぐる心地(こゝち)に、
色盲(しきまう)の瞳(ひとみ)の女(をんな)うらまどひ、
病(や)めるペリガンいま遠き湿地(しめぢ)になげく。

かかるとき、おぼめき摩(なす)る Violon(□オロン) の
なやみの絃(いと)の手触(てさはり)のにほひの重(おも)さ。
鈍(にぶ)き毛(け)の絨氈(じゆうたん)に甘き蜜(みつ)の闇(やみ)
澱(おど)み饐(す)えつつ……血のごともらんぷは消ゆる。
四十一年八月

  酒と煙草に

酒(さけ)と煙草(たばこ)にうつとりと、
倦(う)めるこころを見まもれば、
それとしもなき霊(たま)のいろ
曇(くも)りながらに泣きいづる。

なにか嘆(なげ)かむ、うきうきと、
三味(しやみ)に燥(はし)やぐわがこころ。
なにか嘆(なげ)かむ、さいへ、また
霊(たま)はしくしく泣きいづる。
四十一年五月

  鈴の音

日は赤し、窓(まど)の上(へ)に恐怖(おそれ)の烏(からす)
ひた黙(つぐ)み暮れかかる砂漠(さばく)を熟視(みつ)む。

今日(けふ)もまたもの鈍(にぶ)き駱駝(らくだ)をつらね、
一群(ひとむれ)のわがやから消(き)えさりゆきぬ。
もの甘き鈴の音(おと)、ああそを聴(き)けよ。
からら、からら、ら、ら、ら……

暮(く)れのこるピラミドの暗紅色(あんこうしよく)よ。
そが空のうち濁(にご)る重き空気(くうき)よ。
いづこにか月の色ほのめくごとし。
からら、からら、ら、ら、ら……

かの群(むれ)よ、靄(もや)ふかく、いまかひろぐる
色鈍(にぶ)き、幽鬱(いううつ)の毛織(けおり)の天幕(てんと)。
駱駝(らくだ)らのためいきもそこはかとなく。
からら、からら、ら、ら、ら……

もの青く暮れてみな蒸しも見わかね。
饐(す)え温(ぬ)るむ空(そら)のをち、薄(うす)らあかりに、
ほのかにも此方(こなた)見るスフィンクスの瞳。
からら、からら、ら、ら、ら……

あはれ、その静(しづ)かなるスフィンクスの瞳。
ああ暗示(あんじ)……えもわかぬ夢の象徴(シムボル)。
またくいま埃及(えじぷと)の夜(よ)とやなるらむ。
からら、からら、ら、ら、ら……

烏いまはたはたと遠く飛び去り、
窓(まど)にただ色あかき燈火(ともしび)点(とも)る。
四十一年八月

  夢の奥

ほのかにもやはらかきにほひの園生(そのふ)。
あはれ、そのゆめの奥(おく)。日(ひ)と夜(よ)のあはひ。
薄(うす)あかる空の色ひそかに顫(ふる)ひ
暮れもゆくそのしばし、声なく立てる
真白(ましろ)なる大理石(なめいし)の男(をとこ)の像(すがた)、
微妙(いみ)じくもまた貴(あて)に瞑目(めつぶ)りながら
清(きよ)らなる面(おも)の色かすかにゆめむ。

ものなべてさは妙(たへ)に女(をみな)の眼(め)ざし
あはれそが夢ふかき空色(そらいろ)しつつ、
にほやかになやましの思(おもひ)はうるむ。
そがなかに埋(う)もれたる素馨(そけい)のなげき、
蒸(む)し甘き沈丁(ぢんてう)のあるは刺(さ)せども
なにほどの香(か)の痛(いた)み身にしおぼえむ。
わかうどは声もなし、清(きよ)く、かなしく。

薄暮(たそがれ)にせきもあへぬ女(をんな)の吐息(といき)
あはれその愁(うれひ)如(な)し、しぶく噴水(ふきあげ)
そことなう節(ふし)ゆるうゆらゆるなべに、
いつしかとほのめきぬ月の光も。
その空に、その苑(その)に、ほのの青みに
静かなる欷歔(すすりなき)泣きもいでつつ、
いづくにか、さまだるる愛慕(あいぼ)のなげき。

やはらかきほの熱(ほて)る女の足音(あのと)
あはれそのほめき如(な)し、燃(も)えも生(あ)れゆく
ゆめにほふ心音(しんのん)のうつつなきかな。
大理石(なめいし)の身の白(しろ)み、面(おも)もほのかに、
ひらきゆくその眼(め)ざし、なかば閉ぢつつ、
ゆめのごと空仰(あふ)ぎ、いまぞ見惚(みほ)るる。
色わかき夜(よる)の星、うるむ紅(くれなゐ)。
四十一年七月

  窓

かかる窓ありとも知らず、昨日(きのふ)まで過(す)ぎし河岸(かはきし)。
今日(けふ)は見よ、
色赤き花に日の照り、かなしくも依依児(ええてる)匂ふ。
あはれまた病(や)める Piano(ピアノ) も……
四十一年九月

  昨日と今日と

わかうどのせはしさよ。
さは昨日(きのふ)世をも厭ひて重格魯密母(ぢゆうクロヲム)求(と)めも泣きしか、
今朝(けさ)ははや林檎吸ひつつ霧深き河岸路(かしぢ)を辿る。
歌楽し、鳴らす木履(きぐつ)に……
四十一年十一月

  わかき日

『かくまでも、かくまでも、
わかうどは悲しかるにや。』
『さなり、女(をみな)、
わかき日には、
ましてまた才(さい)ある身には。』
四十一年十一月[#改丁]

  朱の伴奏

凡て情緒也。静かなる精舎の庭にほのめきいでて紅の戦慄に盲ひたる□オロンの響はわが内心の旋律にして、赤き絶叫のなかにほのかに啼けるこほろぎの音はこれ亦わが情緒の一絃によりて密かに奏でらるる愁也。なげかひ也。その他おほむね之に倣ふ。
[#改ページ]

  謀坂

ひと日、わが精舎(しやうじや)の庭(には)に、
晩秋(おそあき)の静かなる落日(いりひ)のなかに、
あはれ、また、薄黄(うすぎ)なる噴水(ふきあげ)の吐息(といき)のなかに、
いとほのに□オロンの、その絃(いと)の、
その夢の、哀愁(かなしみ)の、いとほのにうれひ泣(な)く。

蝋(らふ)の火と懺悔(ざんげ)のくゆり
ほのぼのと、廊(らう)いづる白き衣(ころも)は
夕暮(ゆふぐれ)に言(もの)もなき修道女(しうだうめ)の長き一列(ひとつら)。
さあれ、いま、□オロンの、くるしみの、
刺(さ)すがごと火の酒の、その絃(いと)のいたみ泣く。

またあれば落日(いりひ)の色(いろ)に、
夢燃(も)ゆる、噴水(ふきあげ)の吐息(といき)のなかに、
さらになほ歌もなき白鳥(しらとり)の愁(うれひ)のもとに、
いと強き硝薬(せうやく)の、黒き火の、
地の底の導火(みちび)燬(や)き、□オロンぞ狂ひ泣く。

跳(をど)り来(く)る車輌(しやりやう)の響(ひびき)、
毒(どく)の弾丸(たま)、血(ち)の烟(けむり)、閃(ひら)めく刃(やいば)、
あはれ、驚破(すは)、火とならむ、噴水(ふきあげ)も、精舎(しやうじや)も、空も。
紅(くれなゐ)の、戦慄(わななき)の、その極(はて)の
瞬間(たまゆら)の叫喚(さけび)燬(や)き、□オロンぞ盲(めし)ひたる。
四十年十二月

  こほろぎ

微(ほの)にいまこほろぎ啼(な)ける。
日か落つる――眼(め)をみひらけば
朱(しゆ)の畏怖(おそれ)くわと照(て)りひびく。
内心(ないしん)の苦(にが)きおびえか、
めくるめく痛(いた)き日の色
眼(め)つぶれど、はた、照りひびく。

そのなかにこほろぎ啼ける。

とどろめく銃音(つゝおと)しばし、
痍(きず)つける悪(あく)のうごめき
そこここに、あるは疲(つか)れて
轢(し)きなやむ砲車(はうしや)のあへぎ、
逃げまどふ赤きもろごゑ。

そのなかにこほろぎ啼ける。

盲(めし)ひ、ゆく恋のまぼろし――
その底に疼(うず)きくるしむ
肉(ししむら)の鋭(するど)き絶叫(さけび)、
はた、暗(くら)き曲(きよく)の死(し)の楽(がく)
霊(たましひ)ぞ弾きも連(つ)れぬる。

そのなかにこほろぎ啼ける。

あなや、また呻吟(うめき)は洩(も)るる。
鉛(なまり)めく首のあたりゆ
幽界(いうかい)の呪咀(のろひ)か洩るる。
寝(ね)がへれば血に染み顫(ふる)ふ
わが敵(かたき)面(おも)ぞ死にたる。

そのなかにこほろぎ啼ける。

はた、裂(さ)くる赤き火の弾丸(たま)
たと笑ふ、と見る、我(われ)燬(や)き
我ならぬ獣(けもの)のつらね
真黒(まくろ)なる楽(がく)して奔(はし)る。
執念(しふねん)の闇曳き奔(はし)る。

そのなかにこほろぎ啼ける。

日や暮るる。我はや死ぬる。
野をあげて末期(まつご)のあらび――
暗(くら)き血の海に溺(おぼ)るる
赤き悲苦(ひく)、赤きくるめき、
ああ、今し、くわとこそ狂へ。

微(ほの)になほこほろぎ啼(な)ける。
四十年十二月

  序楽

ひと日、わが想(おもひ)の室(むろ)の日もゆふべ、
光、もののね、色、にほひ――声なき沈黙(しじま)
徐(おもむろ)にとりあつめたる室(むろ)の内(うち)、いとおもむろに、
薄暮(くれがた)のタンホイゼルの譜(ふ)のしるし
ながめて人はゆめのごとほのかにならぶ。

壁はみな鈍(にぶ)き愁(うれひ)ゆなりいでし
象(ざう)の香(か)の色まろらかに想(おもひ)鎖(さ)しぬれ、
その隅に瞳の色の窓ひとつ、玻璃(はり)の遠見(とほみ)に
冷(ひ)えはてしこの世のほかの夢の空
かはたれどきの薄明(うすあかり)ほのかにうつる。

あはれ、見よ、そのかみの苦悩(なやみ)むなしく
壁はいたみ、円柱(まろはしら)熔(とろ)けくづれて
朽(く)ちはてし熔岩(ラヴア)に埋(うも)るるポンペイを、わが幻(まぼろし)を。
ひとびとはいましゆるかに絃(いと)の弓、
はた、もろもろの調楽(てうがく)の器(うつは)をぞ執る。

暗みゆく室内(むろぬち)よ、暗みゆきつつ
想(おもひ)の沈黙(しじま)重たげに音(おと)なく沈み、
そことなき月かげのほの淡(あは)くさし入るなべに、
はじめまづ□オロンのひとすすりなき、
鈍色(にびいろ)長き衣(ころも)みな瞳をつぶる。

燃えそむるヴヱス□アス、空のあなたに
色新(あたら)しき紅(くれなゐ)の火ぞ噴(ふ)きのぼる。
廃(すた)れたる夢の古墟(ふるつか)、さとあかる我(わが)室(むろ)の内、
ひとときに渦巻(うづま)きかへす序(じよ)のしらべ
管絃楽部(オオケストラ)のうめきより夜(よ)には入りぬる。
四十一年二月

  納曾利

入日のしばし、空はいま雲の震慄(おびえ)のあかあかと
鋭(するど)にわかく、はた、苦(にが)く狂ひただるる楽(がく)の色。
また、高□の鬱金香(うこんかう)。かげに斃(たふ)るる白牛(しろうし)の
眉間(みけん)のいたみ、憤怒(いきどほり)。血に笑(ゑ)む人がさけびごゑ。

さあれ、いま納曾利(なそり)のなげき……
鈍(にぶ)き思(おもひ)の灰色(はひいろ)の壁の家内(やぬち)に、
吹(ふ)き鳴らす古き舞楽(ぶがく)の笙(せう)の節(ふし)、
納曾利(なそり)のなげき……

納曾利(なそり)のなげき、ひとしなみ
おほらににほふ雅楽寮(うたれう)の古きいみじき日の愁(うれひ)、
納曾利(なそり)の舞(まひ)の
人のゆめ、鈍(にぶ)くものうき足どりの裾ゆるらかに、
おもむろの振(ふり)のみやびの舞(まひ)あそび、
納曾利(なそり)のなげき……

くりかへし、さはくりかへし、
ゆめのごと後(しりへ)に連(つ)るる笙(せう)の節(ふし)、
笛(ふえ)のねとりもすずろかに、広(ひろ)き家内(やぬち)に、
おなじことおなじ嫋(なよび)にくりかへし、
舞(ま)へる思(おもひ)の
倦(う)める思(おもひ)のにほやかさ、
ゆるき鞨皷(かつこ)の
音(ね)もにぶく、
古(ふる)き納曾利(なそり)の舞(まひ)をさめ……

今(いま)しも街(まち)の空(そら)高(たか)く消(き)ゆる光(ひかり)のわななきに、
ほのかに青(あを)く、なほ苦(にが)く顫(ふる)ひくづるる雲(くも)の色(いろ)。
また、浮(う)きのこる鬱金香(うこんかう)。暮(く)れて果(は)てたる白牛(しろうし)の
声(こえ)なき骸(むくろ)。人(ひと)だかり、血(ち)を見(み)て黙(もだ)す冷笑(ひやわらひ)。
四十一年七月

  ほのかにひとつ

罌粟(けし)ひらく、ほのかにひとつ、
また、ひとつ……

やはらかき麦生(むぎふ)のなかに、
軟風(なよかぜ)のゆらゆるそのに。

薄(うす)き日の暮るとしもなく、
月(つき)しろの顫(ふる)ふゆめぢを、

縺(もつ)れ入るピアノの吐息(といき)
ゆふぐれになぞも泣かるる。

さあれ、またほのに生(あ)れゆく
色あかきなやみのほめき。

やはらかき麦生(むぎふ)の靄に、
軟風(なよかぜ)のゆらゆる胸に、

罌粟(けし)ひらく、ほのかにひとつ、
また、ひとつ……
四十一年二月

  耽溺

あな悲(かな)し、紅(あか)き帆(ほ)きたる。
聴(き)けよ、今(いま)、紅(あか)き帆(ほ)きたる。

白日(はくじつ)の光の水脈(みを)に、
わが恋の器楽(きがく)の海に。

あはれ、聴け、光は噎(むせ)び、
海顫ひ、清(すが)掻(がき)焦(こ)がれ
眩暈(めくる)めく悲愁(かなしみ)の極(はて)、
苦悶(もだえ)そふ歓楽(よろこび)のせて
キユラソオの紅(あか)き帆(ほ)ひびく。

弾(ひ)けよ、弾(ひ)け、毒(どく)の□オロン
吹けよ、また媚薬(びやく)の嵐。
あはれ歌、あはれ幻(まぼろし)、
その海に紅(あか)き帆(ほ)光る。
海の歌きこゆ、このとき、
『噫(あゝ)、かなし、炎(ほのほ)よ、慾(よく)よ、
接吻(くちつけ)よ。』

聴けよ、また苦(にが)き愛着(あいぢやく)、
肉(しゝむら)のおびえと恐怖(おそれ)、
『死ねよ、死ね』、紅(あか)き帆(ほ)響(ひゞ)く、
『恋よ、汝(な)よ。』

弾(ひ)けよ、弾(ひ)け、毒の□オロン
吹けよ、また媚薬(びやく)の嵐。

一瞬(ひととき)よ、――光よ、水脈(みを)よ、
楽(がく)の音(ね)よ――酒のキユラソオ、
接吻(くちつけ)の非命(ひめい)の快楽(けらく)、
毒水(どくすゐ)の火のわななきよ。
狂(くる)へ、狂(くる)へ、破滅(ほろび)の渚(なぎさ)、
聴くははや楽(がく)の大極(たいきよく)、
狂乱(きやうらん)の日の光吸(す)ふ
紅(あか)き帆の終(つひ)のはためき。

死なむ、死なむ、二人(ふたり)は死なむ。

紅(あか)き帆(ほ)きゆる。
紅(あか)き帆(ほ)きゆる。
四十年十二月

  といき

大空(おほそら)に落日(いりひ)ただよひ、
旅しつつ燃えゆく黄雲(きぐも)。
そのしたの伽藍(がらん)の甍(いらか)
半(なかば)黄(き)になかばほのかに、
薄闇(うすやみ)に蝋(らふ)の火にほひ、
円柱(まろはしら)またく暮れたる。

ほのめくは鳩の白羽(しらは)か、
敷石(しきいし)の闇にはひとり
盲(めしひ)の子ひたと膝つけ、
ほのかにも尺八(しやくはち)吹(ふ)ける、
あはれ、その追分(おひわけ)のふし。
四十年十二月

  黒船

黒煙(くろけぶり)ほのにひとすぢ。――
あはれ、日は血を吐く悶(もだえ)あかあかと
濡れつつ淀(よど)む悪(あく)の雲そのとどろきに
燃え狂ふ恋慕(れんぼ)の楽(がく)の断末魔(だんまつま)。
遠目(とほめ)に濁る蒼海(わだつみ)の色こそあかれ、
黒潮(くろしほ)の水脈(みを)のはたての水けぶり、
はた、とどろ撃(う)つ毒の砲弾(たま)、清(すず)しき喇叭(らつぱ)、
薄暮(くれがた)の朱(あけ)のおびえの戦(たゝかひ)に
疲れくるめく衰(おとろへ)ぞああ音(ね)を搾(しぼ)る。

黒煙(くろけぶり)またもふたすぢ。――
序(じよ)のしらべ絶(た)えつ続きつ、いつしかに
黒(くろ)き悩(なやみ)の旋律(せんりつ)ぞ渦(うづ)巻(ま)き起る。
逃(に)げ来(く)るは密猟船(みつれうせん)の旗じるし、
痍(きずつ)き噎(むせ)ぶ血と汚穢(けがれ)、はた憤怒(いきどほり)
おしなべて黄ばみ騒立(さわだ)つ楽(がく)の色。
空には苦(にが)き嘲笑(あざけり)に雲かき乱れ、
重(おも)りゆく煩悶(もだえ)のあらびはやもまた
黒き恐怖(おそれ)のはたためき海より煙る。

黒煙三すぢ、五すぢ。――
幻法(げんぱふ)のこれや苦(くる)しき脅迫(おびやかし)
いと淫(みだ)らかに蒸し挑(いど)む疾風(はやち)のもとに、
現れて真黒(まくろ)に歎(なげ)く楽(がく)の船、
生(なま)あをじろき鱶(ふか)の腹ただほのぼのと、
暮れがての赤きくるしみ、うめきごゑ、
血の甲板(かふはん)のうへにまた爛(たゞ)れて叫ぶ
楽慾(げうよく)の破片(はへん)の砲弾(たま)ぞ慄(わなゝ)ける。
ああその空にはたためく黒き帆のかげ。

黒煙終に七すぢ。――
吹きかはす銀(ぎん)の喇叭もたえだえに、
渦巻き猛(たけ)る楽(がく)の極(はて)、蒼海(わだつみ)けぶり、
悪(あく)の雲とどろとどろの乱擾(らんぜう)に
急忙(あわたゞ)しくも呪(のろ)はしき夜(よ)のたたずまひ。
濡れ焙(い)ぶる水無月ぞらの日の名残(なごり)
はた掻き濁し、暗澹(あんたん)と、あはれ黒船(くろふね)、
真黒なる管絃楽(オオケストラ)の帆の響(ひゞき)
死(し)と悔恨(くわいこん)の闇擾(みだ)し壊(くづ)れくづるる。
四十一年二月

  地平

あな哀(あは)れ、今日(けふ)もまた銅(あかがね)の雲をぞ生める。
あな哀(あは)れ、明日(あす)も亦鈍(にぶ)き血の毒(どく)をや吐かむ。

見るからにただ熱(あつ)し、心は重し。
察(はか)るだにいや苦(くる)し、愁(うれひ)はおもし。

かの青き国(くに)のあこがれ、
つねに見る地平(ちへい)のはてに、
大空(おほぞら)の真昼(まひる)の色と、
連(つ)れて弾(ひ)く緑(みどり)ひとつら。

その緑(みどり)琴柱(ことぢ)にはして、
弾きなづむ鳩の羽の夢、
幌(ほろ)の星(ほし)、剣(つるぎ)のなげき、
清掻(すががき)はほのかに薫(く)ゆる。

さては、日の白き恐怖(おそれ)に
静かなる太鼓(たいこ)のとろぎ、
昼(ひる)領(し)らす神か拊(う)たせる、
ころころとまたゆるやかに。

また絶えず、吐息(といき)のつらね
かなたより笛してうかび、
こなたより絃(いと)して消ゆる、――
ほのかなる夢のおきふし。

しかはあれ、ものなべて圧(お)す
南国(なんごく)の熱病雲(ねつやみぐも)ぞ
猥(みだ)らなる毒(どく)の□言(うはごと)
とどろかに歌かき濁(にご)す。

おもふ、いま水に華(はな)さき、
野(の)に赤き駒(こま)は斃(たふ)れむ。
うらうへに病(や)ましき現象(きざし)
今日(けふ)もまたどよみわづらふ。

あな哀(あは)れ、昨(きそ)の日も銅(あかがね)のなやみかかりき。
あな哀(あは)れ、明日(あす)もまた鈍(にぶ)き血の濁(にごり)かからむ。

聴くからにただ熱(あつ)し、心は重し。
思ふだにいやくるし、愁は重し。
四十年十二月

  ふえのね

ほのかに見ゆる青き頬(ほ)、
あな、あな、玻璃(はり)のおびゆる。

かなたにひびく笛のね、……
青き頬(ほ)ほのに消えゆく。

室(むろ)にもつのるふえのね、……
ふたつのにほひ盲(し)ひゆく。

きこえずなりぬふえのね、……
内(うち)と外(そと)とのなげかひ。

またしも見ゆる青き頬(ほ)。
あな、また玻璃(はり)のおびゆる。
四十一年二月

  下枝のゆらぎ

日はさしぬ、白楊(はくやう)の梢(こずゑ)に赤く、
さはあれど、暮れ惑(まど)ふ下枝(しづえ)のゆらぎ……

水(みづ)の面(も)のやはらかきにほひの嘆(なげき)
波もなき病(や)ましさに、瀞(とろ)みうつれる
晩春(おそはる)の□閉(とざ)す片側街(かたかはまち)よ、
暮れなやむ靄の内皷(うちつづみ)をうてる。
いづこにか、もの甘き蜂の巣(す)のこゑ。
幼子(をさなご)のむれはまた吹笛(フルウト)鳴らし、
白楊(はくやう)の岸(きし)にそひ曇り黄(き)ばめる
教会(けうくわい)の硝子□(がらすまど)ながめてくだる。

日はのこる両側(もろがは)の梢(こずゑ)にあかく、
さはあれど、暮れ惑(まど)ふ下枝(しづえ)のゆらぎ……

またあれば、公園(こうゑん)の長椅子(ベンチ)にもたれ、
かなたには恋慕(れんぼ)びと苦悩(なやみ)に抱く。
そのかげをのどやかに嬰児(あかご)匍(は)ひいで
鵞(が)の鳥(とり)を捕(と)らむとて岸(きし)ゆ落ちぬる。

水面(みのも)なるひと騒擾(さやぎ)、さあれ、このとき、
驀然(ましぐら)に急ぎくる一列(ひとつら)の郵便馬車(いうびんばしや)よ、
薄闇(うすやみ)ににほひゆく赤き曇(くもり)の
快(こころよ)さ、人はただ街(まち)をばながむ。

灯(あかり)点(とも)る、さあれなほ梢(こずゑ)はにほひ、
全(また)くいま暮れはてし下枝(しづえ)のゆらぎ……
四十一年八月

  雨の日ぐらし

ち、ち、ち、ち、と、もののせはしく
刻(きざ)む音(おと)……

河岸(かし)のそば、
黴(かび)の香(か)のしめりも暗し、

かくてあな暮れてもゆくか、
駅逓(えきてい)の局(きよく)の長壁(ながかべ)
灰色(はひいろ)に、暗きうれひに、
おとつひも、昨日(きのふ)も、今日(けふ)も。

さあれ、なほ薫(くゆ)りのこれる
一列(ひとつら)の紅(あか)き花(はな)罌粟(けし)
かたかげの草に濡れつつ、
うちしめり浮きもいでぬる。

雨はまたくらく、あかるく、
やはらかきゆめの曲節(めろでい)……

ち、ち、ち、ち、と絶えずせはしく
刻(きざ)む音……
角□の玻璃(はり)のくらみを
死(し)の報知(しらせ)ひまなく打電(う)てる。
さてあればそこはかとなく
出でもゆく
薄ぐらき思(おもひ)のやから
その歩行(あるき)夜(よ)にか入るらむ。

しばらくは
事もなし。
かかる日の雨の日ぐらし。

ち、ち、ち、ち、ともののせはしく
刻(きざ)む音(おと)……
さもあれや、
雨はまたゆるにしとしと
暮れもゆくゆめの曲節(めろでい)……

いづこにか鈴(すゞ)の音(ね)しつつ、
近く、
はた、速のく軋(きしり)、
待ちあぐむ郵便馬車(いうびんばしや)の
旗の色(いろ)見えも来なくに、
うち曇る馬の遠嘶(とほなき)。

さあれ、ふと
夕日さしそふ。
瞬間(たまゆら)の夕日さしそふ。

あなあはれ、
あなあはれ、
泣き入りぬ罌粟(けし)のひとつら、
最終(いやはて)に燃(も)えてもちりぬ。

日の光かすかに消ゆる。
ち、ち、ち、ち、ともののせはしく
刻(きざ)む音(おと)……
雨の曲節(めろでい)……

ものなべて、
ものなべて、
さは入らむ、暗き愁に。
あはれ、また、出でゆきし思のやから
帰り来なくに。

ち、ち、ち、ち、ともののせはしく
刻(きざ)む音(おと)……
雨の曲節(めろでい)……

灰色(はひいろ)の局(きよく)は夜(よ)に入る。
四十一年五月

  狂人の音楽

空気(くうき)は甘し……また赤し……黄(き)に……はた、緑(みどり)……

晩夏(おそなつ)の午後五時半の日光(につくわう)は□(かげり)を見せて、
蒸し暑く噴水(ふきゐ)に濡(ぬ)れて照りかへす。
瘋癲院(ふうてんゐん)の陰鬱(いんうつ)に硝子(がらす)は光り、
草場(くさば)には青き飛沫(しぶき)の茴香酒(アブサント)冷(ひ)えたちわたる。

いま狂人(きやうじん)のひと群(むれ)は空うち仰ふぎ――
饗宴(きやうえん)の楽器(がくき)とりどりかき抱(いだ)き、自棄(やけ)に、しみらに、
傷(きず)つける獣(けもの)のごとき雲の面(おも)
ひたに怖れて色盲(しきまう)の幻覚(まぼろし)を見る。
空気(くうき)は重し……また赤し……共に……はた緑(みどり)……
  *   *   *   *
    *   *   *   *
オボイ鳴る……また、トロムボオン……
狂(くる)ほしき□オラの唸(うなり)……

一人(ひとり)の酸(す)ゆき音(ね)は飛びて怜羊(かもしか)となり、
ひとつは赤き顔ゑがき、笑(わら)ひわななく
音(ね)の恐怖(おそれ)……はた、ほのしろき髑髏舞(どくろまひ)……

弾(ひ)け弾(ひ)け……鳴らせ……また舞踏(をど)れ……

セロの、喇叭(らつぱ)の蛇(へび)の香(か)よ、
はた、爛(たゞ)れ泣く□オロンの空には赤子飛びみだれ、
妄想狂(まうさうきやう)のめぐりにはバツソの盲目(めしひ)
小さなる骸色(しかばねいろ)の呪咀(のろひ)して逃(のが)れふためく。

弾け弾け……鳴らせ……また舞踏(をど)れ……

クラリネッ卜の槍尖(やりさき)よ、
曲節(メロヂア)のひらめき緩(ゆる)く、また急(はや)く、
アルト歌者(うたひ)のなげかひを暈(くら)ましながら、
一列(ひとつらね)、血しほしたたる神経(しんけい)の
壁の煉瓦(れんぐわ)のもとを行(ゆ)く……

弾け弾け……鳴らせ……また舞踏(をど)れ……、

かなしみの蛇(へび)、緑(みどり)の眼(め)
槍(やり)に貫(ぬ)かれてまた歎(なげ)く……

弾け弾け……鳴らせ……また舞踏(をど)れ……

はた、吹笛(フルウト)の香(か)のしぶき、
青じろき花どくだみの鋭(するど)さに、
濁りて光る山椒魚(さんしようを)、沼(ぬま)の調(しらべ)に音(ね)は瀞(とろ)む。

弾け弾け……鳴らせ……また舞踏(をど)れ……

傷(きずつ)きめぐる観覧車(くわんらんしや)、
はたや、太皷(たいこ)の悶絶(もんぜつ)に列(つら)なり走(はし)る槍尖(やりさき)よ、
□の硝子(がらす)に火は叫(さけ)び、
月琴(げつきん)の雨ふりそそぐ……

弾(ひ)け弾(ひ)け……鳴らせ……また舞踏(をど)れ……

赤き神経(しんけい)……盲(めし)ひし血……
聾(ろう)せる脳の鑢(やすり)の音(ね)……

弾け弾け……鳴らせ……また舞踏(をど)れ……
  *   *   *   *
    *   *   *   *
空気(くうき)は酸(すゆ)し……いま青し……黄(き)に……なほ赤く……

はやも見よ、日の入りがたの雲の色
狂気(きやうき)の楽(がく)の音(ね)につれて波だちわたり、
悪獣の蹠(あなうら)のごと血を滴(たら)す。

そがもとに噴水(ふきゐ)のむせび
濡れ濡れて薄闇(うすやみ)に入る……

空気(くうき)は重し……なほ赤し……黄(き)に……また緑(みどり)……

いつしかに蒸汽(じようき)の鈍(にぶ)き船腹(ふなばら)の
ごとくに光りかぎろひし瘋癲院(ふうてんゐん)も暮れゆけば、
ただ冷(ひ)えしぶく茴香酒(アブサント)、鋭(するど)き玻璃(はり)のすすりなき。

草場(くさば)の赤き一群(ひとむれ)よ、眼(め)ををののかし、
躍(をど)り泣き弾(ひ)きただらかす歓楽(くわんらく)の
はてしもあらぬ色盲(しきまう)のまぼろしのゆめ……
午後の七時の印象(いんしやう)はかくて夜(よ)に入る。

空気は苦(にが)し……はや暗(くら)し……黄(き)に……なほ青く……
四十一年九月

  風のあと

夕日(ゆふひ)はなやかに、
こほろぎ啼(な)く。
あはれ、ひと日、木の葉ちらし吹き荒(すさ)みたる風も落ちて、
夕日(ゆふひ)はなやかに、
こほろぎ啼く。
四十一年八月

  月の出

ほのかにほのかに音色(ねいろ)ぞ揺(ゆ)る。
かすかにひそかににほひぞ鳴る。
しみらに列(なみ)立(た)つわかき白楊(ぽぴゆら)、
その葉のくらみにこころ顫(ふる)ふ。

ほのかにほのかに吐息(といき)ぞ揺る。
かすかにひそかに雫(しづく)ぞ鳴る。
あふげばほのめくゆめの白楊(ぽぴゆら)、
愁(うれひ)の水(み)の面(も)を櫂(かい)はすべる。

吐息(といき)のをののき、君が眼(め)ざし
やはらに縺(もつ)れてたゆたふとき、
光のひとすぢ――顫(ふる)ふ白楊(ぽぴゆら)
文月(ふづき)の香炉(かうろ)に濡れてけぶる。

さてしもゆるけくにほふ夢路(ゆめぢ)、
したたりしたたる櫂(かい)のしづく、
薄らに沁(し)みゆく月のでしほ
ほのかにわれらが小舟(をふね)ぞゆく。

ほのめく接吻(くちつけ)、からむ頸(うなじ)、
いづれか恋慕(れんぼ)の吐息(といき)ならぬ。
夢見てよりそふわれら、白楊(ぽぴゆら)、
水上(みなかみ)透(す)かしてこころ顫(ふる)ふ。
四十一年二月[#改丁]

  外光と印象

近世仏国絵画の鑑賞者をわかき旅人にたとへばや。もとより Watteau の羅曼底、Corot の叙情詩は唯微かにそのおぼろげなる記憶に残れるのみ。やや暗き Fontainebleau の森より曇れる道を巴里の市街に出づれば Seine の河、そが上の船、河に臨める Caf□ の、皆「刹那」の如くしるく明かなる Manet の陽光に輝きわたれるに驚くならむ。そは Velazquez の灰色より俄に現れいでたる午后の日なりき。あはれ日はやうやう暮れてぞゆく。金緑に紅薔薇を覆輪にしたりけむ Monet の波の面も青みゆき、青みゆき、ほのかになつかしくはた悲しき Cafin の夕は来る。燈の薄黄は Whistler の好みの色とぞ。月出づ。Pissarro のあをき衢を Verlaine の白月の賦など口荒みつつ過ぎゆくは誰が家の子ぞや。太田正雄[#改ページ]

  冷めがたの印象

あわただし、旗ひるがへし、
朱(しゆ)の色の駅逓(えきてい)馬車(ぐるま)跳(をど)りゆく。

曇日(くもりび)の色なき街(まち)は
清水(しみづ)さす石油(せきゆ)の噎(むせび)、
轢(し)かれ泣く停車場(ていしやば)の鈴(すゞ)、溝(みぞ)の毒(どく)、
昼の三味(しやみ)、鑢(やすり)磨(す)る歌、
茴香酒(アブサン)の青み泡だつ火の叫(さけび)、
絶えず眩(くる)めく白楊(やまならし)、遂に疲れて
マンドリン奏(かな)でわづらふ風の群(むれ)、
あなあはれ、そのかげに乞食(かたゐ)ゆきかふ。

くわと来り、燃(も)えゆく旗は
死に堕(お)つる、夏の光のうしろかげ。

灰色の亜鉛(とたん)の屋根に、
青銅(せいどう)の擬宝珠(ぎぼしゆ)の錆(さび)に、
また寒き万象(ものみな)の愁(うれひ)のうへに、
爛(たゞ)れ弾(ひ)く猩紅熱(しやうこうねつ)の火の調(しらべ)、
狂気(きやうき)の色と冷(さ)めがたの疲労(つかれ)に、今は
ひた嘆(なげ)く、悔(くい)と、悩(なやみ)と、戦慄(をのゝき)と。

あかあかとひらめく旗は
猥(みだ)らなるその最終(いやはて)の夏の曲(きよく)。

あなあはれ、あなあはれ、
あなあはれ、光消えさる。
四十年十一月

  赤子

赤子啼く、
急(はや)き瀬(せ)の中(うち)。

壁重き女囚(ぢよしう)の牢獄(ひとや)、
鉄(てつ)の門(もん)、
淫慾(いんよく)の蛇の紋章(もんしやう)
くわとおびえ、
水に、落日(いりひ)に
照りかへし、
黄ばむひととき。

赤子(あかご)啼(な)く、
急(はや)き瀬(せ)の中(うち)。
四十一年六月

  暮春

ひりあ、ひすりあ。
しゆツ、しゆツ……

なやまし、河岸(かし)の日のゆふべ、
日の光。

ひりあ、ひすりあ。
しゆツ、しゆツ……

眼科(がんくわ)の窓(まど)の磨硝子(すりがらす)、しどろもどろの
白楊(はくやう)の温(ぬる)き吐息(といき)にくわとばかり、
ものあたたかに、くるほしく、やはく、まぶしく、
蒸し淀(よど)む夕日(ゆふひ)の光。
黄(き)のほめき。

ひりあ、ひすりあ。
しゆツ、しゆツ……

なやまし、またも
いづこにか、
なやまし、あはれ、
音(ね)も妙(たへ)に
紅(あか)き嘴(はし)ある小鳥らのゆるきさへづり。

ひりあ、ひすりあ。
しゆツ、しゆツ……

はた、大河(おほかは)の饐(す)え濁(にご)る、河岸(かし)のまぢかを
ぎちぎちと病(や)ましげにとろろぎめぐる
灰色(はいいろ)黄(き)ばむ小蒸汽(こじようき)の温(ぬ)るく、まぶしく、
またゆるくとろぎ噴(ふ)く湯気(ゆげ)
いま懈(た)ゆく、
また絶えず。

ひりあ、ひすりあ。
しゆツ、しゆツ……

いま病院(びやうゐん)の裏庭(うらには)に、煉瓦のもとに、
白楊(はくやう)のしどろもどろの香(か)のかげに、
窓の硝子(がらす)に、
まじまじと日向(ひなた)求(もと)むる病人(やまうど)は目(め)も悩(なや)ましく
見ぞ夢む、暮春(ぼしゆん)の空と、もののねと、
水と、にほひと。

ひりあ、ひすりあ。
しゆツ、しゆツ……

なやまし、ただにやはらかに、くらく、まぶしく、
また懈(た)ゆく。

ひりあ、ひすりあ。
しゆツ、しゆツ……
四十一年三月

  噴水の印象

噴水(ふきあげ)のゆるきしたたり。――
霧しぶく苑(その)の奥、夕日(ゆふひ)の光、
水盤(すゐばん)の黄(き)なるさざめき、
なべて、いま
ものあまき嗟嘆(なげかひ)の色。

噴水(ふきあげ)の病(や)めるしたたり。――
いづこにか病児(びやうじ)啼(な)き、ゆめはしたたる。
そこここに接吻(くちつけ)の音(おと)。
空は、はた、
暮れかかる夏のわななき。

噴水(ふきあげ)の甘きしたたり。――
そがもとに痍(きず)つける女神(ぢよじん)の瞳。
はた、赤き眩暈(くるめき)の中(うち)、
冷(ひや)み入る
銀(ぎん)の節(ふし)、雲のとどろき。

噴水(ふきあげ)の暮るるしたたり。――
くわとぞ蒸(む)す日のおびえ、晩夏(ばんか)のさけび、
濡れ黄ばむ憂鬱症(ヒステリイ)のゆめ
青む、あな
しとしとと夢はしたたる。
四十一年七月

  顔の印象 六篇

   A 精舎

うち沈む広額(ひろびたひ)、夜(よ)のごとも凹(くぼ)める眼(まなこ)――
いや深く、いや重く、泣きしづむ霊(たまし)の精舎(しやうじや)。
それか、実(げ)に声もなき秦皮(とねりこ)の森のひまより
熟視(みつ)むるは暗(くら)き池、谷そこの水のをののき。
いづこにか薄日(うすひ)さし、きしりこきり斑鳩(いかるが)なげく
寂寥(さみしら)や、空の色なほ紅(あけ)ににほひのこれど、
静かなる、はた孤独(ひとり)、山間(やまあひ)の霧にうもれて
悔(くい)と夜(よ)のなげかひを懇(ねもごろ)に通夜(つや)し見まもる。

かかる間(ま)も、底ふかく青(あを)の魚盲(めし)ひあぎとひ、
口そそぐ夢の豹(へう)水の面(も)に血音(ちのと)たてつつ、
みな冷(ひ)やき石の世(よ)と化(な)りぞゆく、あな恐怖(おそれ)より。

かくてなほ声もなき秦皮(とねりこ)よ、秘(ひそ)に火ともり、
精舎(しやうじや)また水晶と凝(こご)る時(とき)愁(うれひ)やぶれて
響きいづ、響きいづ、最終(いやはて)の霊(たま)の梵鐘(ぼんしよう)。
以下五篇――四十一年三月

   B 狂へる街

赭(あか)らめる暗(くら)き鼻、なめらかに禿(は)げたる額(ひたひ)、
痙攣(ひきつ)れる唇(くち)の端(はし)、光なくなやめる眼(まなこ)
なにか見る、夕栄(ゆふばえ)のひとみぎり噎(むせ)ぶ落日(いりひ)に、
熱病(ねつびやう)の響(ひびき)する煉瓦家(れんぐわや)か、狂へる街(まち)か。

見るがまに焼酎(せうちう)の泡(あわ)しぶきひたぶる歎(なげ)く
そが街(まち)よ、立てつづく尖屋根(とがりやね)血ばみ疲(つか)れて
雲赤くもだゆる日、悩(なや)ましく馬車(ばしや)駆(か)るやから
霊(たましひ)のありかをぞうち惑(まど)ひ窓(まど)ふりあふぐ。

その窓(まど)に盲(めし)ひたる爺(をぢ)ひとり鈍(にぶ)き刃(は)研(と)げる。
はた、唖(おふし)朱(しゆ)に笑ひ痺(しび)れつつ女(をみな)を説(と)ける。
次(つぎ)なるは聾(ろう)しぬる清き尼(あま)三味線(しやみせん)弾(ひ)ける。

しかはあれ、照り狂ふ街(まち)はまた酒と歌とに
しどろなる舞(まひ)の列(れつ)あかあかと淫(たは)れくるめき、
馬車(ばしや)のあと見もやらず、意味(いみ)もなく歌ひ倒(たふ)るる。


   C 醋の甕

蒼(あを)ざめし汝(な)が面(おもて)饐(す)えよどむ瞳(ひとみ)のにごり、
薄暮(くれがた)に熟視(みつ)めつつ撓(たわ)みちる髪の香(か)きけば――
醋(す)の甕(かめ)のふたならび人もなき室(むろ)に沈みて、
ほの暗(くら)き玻璃(はり)の窓ひややかに愁(うれ)ひわななく。

外面(とのも)なる嗟嘆(なげかひ)よ、波もなきいんくの河に
旗青き独木舟(うつろぶね)そこはかと巡(めぐ)り漕ぎたみ、
見えわかぬ悩(なやみ)より錨(いかり)曳(ひ)き鎖(くさり)巻かれて、
伽羅(きやら)まじり消え失(う)する黒蒸汽(くろじようき)笛(ふえ)ぞ呻(うめ)ける。

吊橋(つりばし)の灰白(はひじろ)よ、疲(つか)れたる煉瓦(れんぐわ)の壁(かべ)よ、
たまたまに整(ととの)はぬ夜(よ)のピアノ淫(みだ)れさやげど、
ひとびとは声もなし、河の面(おも)をただに熟視(みつ)むる。
はた、甕(かめ)のふたならび、さこそあれ夢はたゆたひ、
内と外(そと)かぎりなき懸隔(へだたり)に帷(とばり)堕(お)つれば、
あな悲し、あな暗(くら)し、醋(す)の沈黙(しじま)長くひびかふ。

   D 沈丁花

なまめけるわが女(をみな)、汝(な)は弾(ひ)きぬ夏の日の曲(きよく)、
悩(なや)ましき眼(め)の色に、髪際(かうぎは)の紛(こな)おしろひに、
緘(つぐ)みたる色あかき唇(くちびる)に、あるはいやしく
肉(ししむら)の香(か)に倦(う)める猥(みだ)らなる頬(ほ)のほほゑみに。

響(ひび)かふは呪(のろ)はしき執(しふ)と欲(よく)、ゆめもふくらに
頸(うなじ)巻く毛のぬくみ、真白(ましろ)なるほだしの環(たまき)
そがうへに我ぞ聴(き)く、沈丁花(ぢんてうげ)たぎる畑(はたけ)を、
堪(た)へがたき夏の日を、狂(くる)はしき甘(あま)きひびきを。

しかはあれ、またも聴く、そが畑(はた)に隣(とな)る河岸(かし)側(きは)、
色ざめし浅葱幕(あさぎまく)しどけなく張りもつらねて、
調(しら)ぶるは下司(げす)のうた、はしやげる曲馬(チヤリネ)の囃子(はやし)。

その幕の羅馬字(らうまじ)よ、くるしげに馬は嘶(いなな)き、
大喇叭(おほらつぱ)鄙(ひな)びたる笑(わらひ)してまたも挑(いど)めば
生(なま)あつき色と香(か)とひとさやぎ歎(なげ)きもつるる。

   E 不調子

われは見る汝(な)が不調(ふてう)、――萎(しな)びたる瞳の光沢(つや)に、
衰(おとろへ)の頬(ほ)ににほふおしろひの厚き化粧(けはひ)に、
あはれまた褪(あ)せはてし髪の髷(まげ)強(つよ)きくゆりに、
肉(ししむら)の戦慄(わななき)を、いや甘き欲(よく)の疲労(つかれ)を。

はた思ふ、晩夏(おそなつ)の生(なま)あつきにほひのなかに、
倦(う)みしごと縺(もつ)れ入るいと冷(ひ)やき風の吐息(といき)を。
新開(しんかい)の街(まち)は□(さ)びて、色赤く猥(みだ)るる屋根を、
濁りたる看板(かんばん)を、入り残る窓の落日(いりひ)を。

なべてみな整(ととの)はぬ色の曲(ふし)……ただに鋭(するど)き
最高音(ソプラノ)の入り雑(まじ)り、埃(ほこり)たつ家(や)なみのうへに、
色にぶき土蔵家(どざうや)の江戸芝居(えどしばゐ)ひとり古りたる。

露(あら)はなる日の光、そがもとに三味(しやみ)はなまめき、
拍子木(へうしぎ)の歎(なげき)またいと痛(いた)し古き痍(いたで)に、
かくてあな衰(おとろへ)のもののいろ空(そら)は暮れ初む。

   F 赤き恐怖

わかうどよ、汝(な)はくるし、尋(と)めあぐむ苦悶(くもん)の瞳(ひとみ)、
秀でたる眉のゆめ、ひたかわく赤き唇(くちびる)
みな恋の響なり、熟視(みつ)むれば――調(しらべ)かなでて
火のごとき馬ぐるま燃(も)え過ぐる窓のかなたを。

はた、辻の真昼(まひる)どき、白楊(はこやなぎ)にほひわななき、
雲浮かぶ空(そら)の色生(なま)あつく蒸しも汗(あせ)ばむ
街(まち)よ、あな音もなし、鐘はなほ鳴りもわたらね、
炎上(えんじやう)の光また眼(め)にうつり、壁ぞ狂(くる)へる。

人もなき路のべよ、しとしとと血を滴(したた)らし
胆(きも)抜(ぬ)きて走る鬼、そがあとにただに餞(う)ゑつつ
色赤き郵便函(ポスト)のみくるしげにひとり立ちたる。

かくてなほ窓の内(うち)すずしげに室(むろ)は濡(ぬ)るれど、
戸外(とのも)にぞ火は熾(さか)る、………哀(あは)れ、哀(あは)れ、棚(たな)の上(へ)に見よ、
水もなき消火器(せうくわき)のうつろなる赤き戦慄(をののき)。


  盲ひし沼

午後六時(ごごろくじ)、血紅色(けつこうしよく)の日の光
盲(めし)ひし沼にふりそそぎ、濁(にごり)の水の
声もなく傷(きずつ)き眩(くら)む生(なま)おびえ。
鉄(てつ)の匂(にほひ)のひと冷(ひや)み沁(し)みは入れども、
影うつす煙草(たばこ)工場(こうば)の煉瓦壁(れんぐわかべ)。
眼(め)も痛(いた)ましき香(か)のけぶり、機械(きかい)とどろく。

鳴ききたる鵝島(がてう)のうから
しらしらと水に飛び入る。

午後六時、また噴(ふ)きなやむ管(くだ)の湯気(ゆげ)、
壁に凭(よ)りたる素裸(すはだか)の若者(わかもの)ひとり
腕(かいな)拭(ふ)き鉄(てつ)の匂にうち噎(むせ)ぶ。
はた、あかあかと蒸気鑵(じようきがま)音(おと)なく叫び、
そこここに咲きこぼれたる芹(せり)の花、
あなや、しとどにおしなべて日ぞ照りそそぐ。

声もなき鵞鳥(がてう)のうから
色みだし水に消え入る

午後六時、鵞鳥(がてう)の見たる水底(みなぞこ)は
血潮したたる沼(ぬま)の面(も)の負傷(てきず)の光
かき濁る泥(どろ)の臭(くさ)みに疲(つか)れつつ、
水死(すゐし)の人の骨のごとちらぼふなかに
もの鈍(にぶ)き鉛の魚のめくるめき、
はた浮(うか)びくる妄念(まうねん)の赤きわななき。

逃(に)げいづる鵞鳥(がてう)のうから
鳴きさやぎ汀(みぎは)を走(はし)る。

午後六時、あな水底(みそこ)より浮びくる
赤きわななき――妄念の猛(たけ)ると見れば、
強き煙草に、鉄(てつ)の香(か)に、わかき男に、
顔いだす硝子(がらす)の窓の少女(をとめ)らに血潮したたり、
歓楽(くわんらく)の極(はて)の恐怖(おそれ)の日のおびえ、
顫(ふる)ひ高まる苦痛(くるしみ)ぞ朱(あけ)にくづるる。

刹那、ふと太(ふと)く湯気(ゆげ)吐き
吼(ほ)えいづる休息(やすらひ)の笛。
四十一年七月

  青き光

哀(あは)れ、みな悩(なや)み入る、夏の夜(よ)のいと青き光のなかに、
ほの白き鉄(てつ)の橋、洞(ほら)円(まろ)き穹窿(ああち)の煉瓦(れんぐわ)、
かげに来て米炊(かし)ぐ泥舟(どろぶね)の鉢(はち)の撫子(なでしこ)、
そを見ると見下(みおろ)せる人々(ひとびと)が倦(う)みし面(おもて)も。

はた絶えず、悩(なや)ましの角(つの)光り電車すぎゆく
河岸(かし)なみの白き壁あはあはと瓦斯も点(とも)れど、
うち向ふ暗き葉柳(はやなぎ)震慄(わなな)きつ、さは震慄(わなな)きつ、
後(うしろ)よりはた泣くは青白き屋(いへ)の幽霊(いうれい)。

いと青きソプラノの沈みゆく光のなかに、
饐(す)えて病むわかき日の薄暮(くれがた)のゆめ。――
幽霊の屋(いへ)よりか洩れきたる呪(のろ)はしの音(ね)の
交響体(ジムフオニ)のくるしみのややありて交(まじ)りおびゆる。

いづこにかうち囃(はや)す幻燈(げんとう)の伴奏(あはせ)の進行曲(マアチ)、
かげのごと往来(ゆきき)する白(しろ)の衣(きぬ)うかびつれつつ、
映(うつ)りゆく絵(ゑ)のなかのいそがしさ、さは繰りかへす。――
そのかげに苦痛(くるしみ)の暗(くら)きこゑまじりもだゆる。

なべてみな悩(なや)み入る、夏の夜(よ)のいと青き光のなかに。――
蒸し暑(あつ)き軟(なよ)ら風(かぜ)もの甘(あま)き汗(あせ)に揺(ゆ)れつつ、
ほつほつと点(と)もれゆく水(みづ)の面(も)のなやみの燈(ともし)、
鹹(しほ)からき執(しふ)の譜(ふ)よ………み空には星ぞうまるる。

かくてなほ悩み顫(ふる)ふわかき日の薄暮(くれがた)のゆめ。――
見よ、苦(にが)き闇(やみ)の滓(をり)街衢(ちまた)には淀(よど)みとろげど、
新(あらた)にもしぶきいづる星の華(はな)――泡(あわ)のなげきに
色青き酒のごと空(そら)は、はた、なべて澄みゆく。
四十一年七月

  樅のふたもと

うちけぶる樅(もみ)のふたもと。
薄暮(くれがた)の山の半腹(なから)のすすき原(はら)、
若草色(わかくさいろ)の夕(ゆふ)あかり濡れにぞ濡るる
雨の日のもののしらべの微妙(いみじ)さに、
なやみ幽(かす)けき Chopin(シオパン) の楽(がく)のしたたり
やはらかに絶えず霧するにほやかさ。
ああ、さはあかれ、嗟嘆(なげかひ)の樅(もみ)のふたもと。

はやにほふ樅(もみ)のふたもと。
いつしかに色にほひゆく靄のすそ、
しみらに燃(も)ゆる日の薄黄(うすぎ)、映(うつ)らふみどり、
ひそやかに暗(くら)き夢弾(ひ)く列並(つらなみ)の
遠(とほ)の山々(やまやま)おしなべてものやはらかに、
近(ちか)ほとりほのめきそむる歌(うた)の曲(ふし)。
ああ、はやにほへ、嗟嘆(なげかひ)の樅(もみ)のふたもと。

燃えいづる樅(もみ)のふたもと。
濡れ滴(した)る柑子(かうじ)の色のひとつらね、
深き青みの重(かさな)りにまじらひけぶる
山の端(は)の縺(もつ)れのなやみ、あるはまた
かすかに覗(のぞ)く空のゆめ、雲のあからみ、
晩夏(おそなつ)の入日(いりひ)に噎(むせ)ぶ夕(ゆふ)ながめ。
ああ、また燃(も)ゆれ、嗟嘆(なげかひ)の樅(もみ)のふたもと。

色うつる樅(もみ)のふたもと。
しめやげる葬(はふり)の曲(ふし)のかなしみの
幽(かす)かにもののなまめきに揺曳(ゆらひ)くなべに、
沈(しづ)みゆく雲の青みの階調(シムフオニヤ)、
はた、さまざまのあこがれの吐息(といき)の薫(くゆり)、
薄れつつうつらふきはの日のおびえ。
ああ、はた、響け、嵯嘆(なげかひ)の樅(もみ)のふたもと。

饐(す)え暗(くら)む樅のふたもと。
燃えのこる想(おもひ)のうるみひえびえと、
はや夜(よ)の沈黙(しじま)しのびねに弾きも絶え入る
列並(つらなみ)の山のくるしみ、ひと叢(むら)の
柑子(かうじ)の靄のおぼめきも音(ね)にこそ呻(うめ)け、
おしなべて御龕(みづし)の空(そら)ぞ饐(す)えよどむ。
ああ、見よ、悩(なや)む、嗟嘆(なげかひ)の樅(もみ)のふたもと。

暮れて立つ樅(もみ)のふたもと。
声もなき悲願(ひぐわん)の通夜(つや)のすすりなき
薄らの闇に深みゆく、あはれ、法悦(ほふえつ)、
いつしかに篳篥(ひちりき)あかる谷のそら、
ほのめき顫(ふる)ふ月魄(つきしろ)のうれひ沁みつつ
夢青む忘我(われか)の原の靄の色。
ああ、さは顫(ふる)へ嗟嘆(なげかひ)の樅(もみ)のふたもと。
四十一年二月

  夕日のにほひ

晩春(おそはる)の夕日(ゆふひ)の中(なか)に、
順礼(じゆんれい)の子はひとり頬(ほ)をふくらませ、
濁(にご)りたる眼(め)をあげて管(くだ)うち吹ける。
腐(くさ)れゆく襤褸(つづれ)のにほひ、
酢(す)と石油(せきゆ)……にじむ素足(すあし)に
落ちちれる果実(くだもの)の皮、赤くうすく、あるは汚(きた)なく……

片手(かたて)には噛(かぢ)りのこせし
林檎(りんご)をばかたく握(にぎ)りぬ。
かくてなほ頬(ほ)をふくらませ
怖(おづ)おづと吹きいづる………珠(たま)の石鹸(しやぼん)よ。

さはあれど、珠(たま)のいくつは
なやましき夕暮(ゆふぐれ)のにほひのなかに
ゆらゆらと円(まろ)みつつ、ほつと消(き)えたる。
ゆめ、にほひ、その吐息(といき)……

彼(かれ)はまた、
怖々(おづおづ)と、怖々(おづおづ)と、……眩(まぶ)しげに頬(ほ)をふくらませ
蒸(む)し淀(よど)む空気(くうき)にぞ吹きもいでたる。

あはれ、見よ、
いろいろのかがやきに濡(ぬ)れもしめりて
円(まろ)らにものぼりゆく大(おほ)きなるひとつの珠(たま)よ。
そをいまし見あげたる無心(むしん)の瞳(ひとみ)。

背後(そびら)には、血しほしたたる
拳(こぶし)あげ、
霞(かす)める街(まち)の大時計(おほどけい)睨(にら)みつめたる
山門(さんもん)の仁王(にわう)の赤(あか)き幻想(イリユウジヨン)……

その裏(うら)を
ちやるめらのゆく……
四十一年十二月

  浴室

水落つ、たたと………浴室(よくしつ)の真白き湯壺(ゆつぼ)
大理石(なめいし)の苦悩(なやみ)に湯気(ゆげ)ぞたちのぼる。
硝子(がらす)の外(そと)の濁川(にごりがは)、日にあかあかと
小蒸汽(こじようき)の船腹(ふなばら)光るひとみぎり、太鼓ぞ鳴れる。

水落つ、たたと………‥灰色(はひいろ)の亜鉛(とたん)の屋根の
繋留所(けいりうじよ)、わが窓近き陰鬱(いんうつ)に
行徳(ぎやうとく)ゆきの人はいま見つつ声なし、
川むかひ、黄褐色(わうかつしよく)の雲のもと、太皷ぞ鳴れる。

水落つ、たたと…………両国(りやうごく)の大吊橋(おほつりばし)は
うち煤(すす)け、上手(かみて)斜(ななめ)に日を浴(あ)びて、
色薄黄(き)ばみ、はた重く、ちやるめらまじり
忙(せは)しげに夜(よ)に入る子らが身の運(はこ)び、太皷ぞ鳴れる。

水落つ、たたと…………もの甘く、あるひは赤く、
うらわかきわれの素肌(すはだ)に沁(し)みきたる
鉄(てつ)のにほひと、腐(くさ)れゆく石鹸(しやぼん)のしぶき。
水面(みのも)には荷足(にたり)の暮れて呼ぶ声す、太皷ぞ鳴れる。

水落つ、たたと…………たたとあな音色(ねいろ)柔(やは)らに、
大理石(なめいし)の苦悩(なやみ)に湯気(ゆげ)は濃(こ)く、温(ぬ)るく、
鈍(にぶ)きどよみと外光(ぐわいくわう)のなまめく靄に
疲(つか)れゆく赤き都会(とくわい)のらうたげさ、太皷ぞ鳴れる。
四十一年八月

  入日の壁

黄(き)に潤(しめ)る港の入日(いりひ)、
切支丹(きりしたん)邪宗(じやしゆう)の寺の入口(いりぐち)の
暗(くら)めるほとり、色古りし煉瓦(れんぐわ)の壁に射かへせば、
静かに起る日の祈祷(いのり)、
『ハレルヤ』と、奥にはにほふ讃頌(さんしよう)の幽(かす)けき夢路(ゆめぢ)。

あかあかと精舎(しやうじや)の入日。――
ややあれば大風琴(おほオルガン)の音(ね)の吐息(といき)
たゆらに嘆(なげ)き、白蝋(はくらふ)の盲(し)ひゆく涙。――
壁のなかには埋(うづ)もれて
眩暈(めくるめ)き、素肌(すはだ)に立てるわかうどが赤き幻(まぼろし)。

ただ赤き精舎(しやうじや)の壁に、
妄念(まうねん)は熔(とろ)くるばかりおびえつつ
全身(ぜんしん)落つる日を浴(あ)びて真夏(まなつ)の海をうち睨(にら)む。
『聖(サンタ)マリヤ、イエスの御母(みはは)。』
一斉(いつせい)に礼拝(をろがみ)終(をは)る老若(らうにやく)の消え入るさけび。
はた、白(しら)む入日の色に
しづしづと白衣(はくえ)の人らうちつれて
湿潤(しめり)も暗き戸口(とぐち)より浮びいでつつ、
眩(まぶ)しげに数珠(じゆず)ふりかざし急(いそ)げども、
など知らむ、素肌(すはだ)に汗(あせ)し熔(とろ)けゆく苦悩(くなう)の思(おもひ)。

暮れのこる邪宗(じやしゆう)の御寺(みてら)
いつしかに薄(うす)らに青くひらめけば
ほのかに薫(くゆ)る沈(ぢん)の香(かう)、波羅葦増(ハライソ)のゆめ。
さしもまた埋(うも)れて顫(ふる)ふ妄念(まうねん)の
血に染みし踵(かがと)のあたり、蟋蟀(きりぎりす)啼きもすずろぐ。
四十一年八月

  狂へる椿

ああ、暮春(ぼしゆん)。

なべて悩(なや)まし。
溶(とろ)けゆく雲のまろがり、
大(おほ)ぞらのにほひも、ゆめも。

ああ、暮春。

大理石(なめいし)のまぶしきにほひ――
幾基(いくもと)の墓の日向(ひなた)に
照りかへし、
くわと入る光。
ものやはき眩暈(くるめき)の甘き恐怖(おそれ)よ。
あかあかと狂ひいでぬる薮椿(やぶつばき)、
自棄(やけ)に熱(ねつ)病(や)む霊(たま)か、見よ、枝もたわわに
狂ひ咲き、
狂ひいでぬる赤き花、
赤き□言(うはごと)。

そがかたへなる崖(がけ)の上(うへ)、
うち湿(しめ)り、熱(ほて)り、まぶしく、また、ねぶく
大路(おほぢ)に淀(よど)むもののおと。
人力車夫(じんりきしやふ)は
ひとつらね青白(あをじろ)の幌(ほろ)をならべぬ。
客を待つこころごころに。

ああ、暮春。

さあれ、また、うちも向へる
いと高く暗き崖(がけ)には、
窓(まど)もなき牢獄(ひとや)の壁の
長き列(つら)、はては閉(とざ)せる
灰黒(はひぐろ)の重き裏門(うらもん)。

はたやいま落つる日ひびき、
照りあかる窪地(くぼち)のそらの
いづこにか、
さはひとり、
湿(しめ)り吹きゆく
幼(をさな)ごころの日のうれひ、
そのちやるめらの
笛の曲(ふし)。

笛の曲(ふし)…………
かくて、はた、病(や)みぬる椿(つばき)、
赤く、赤く、狂(くる)へる椿(つばき)。
四十一年六月

  吊橋のにほひ

夏の日の激(はげ)しき光
噴(ふ)きいづる銀(ぎん)の濃雲(こぐも)に照りうかび、
雲は熔(とろ)けてひたおもて大河筋(おほかはすぢ)に射かへせば、
見よ、眩暈(めくるめ)く水の面(おも)、波も真白に
声もなき潮のさしひき。

そがうへに懸(かか)る吊橋。
煤(すす)けたる黝(ねずみ)の鉄(てつ)の桁構(けたがまへ)、
半月形(はんげつけい)の幾円(いくまろ)み絶えつつ続くかげに、見よ、
薄(うす)らに青む水の色、あるは煉瓦(れんぐわ)の
円柱(まろはしら)映(うつ)ろひ、あかみ、たゆたひぬ。

銀色(ぎんいろ)の光のなかに、
そろひゆく櫂(オオル)のなげきしらしらと、
或(あるひ)は仄(ほの)の水鳥(みづとり)のそことしもなき音(ね)のうれひ、
河岸(かし)の氷室(ひむろ)の壁も、はた、ただに真昼の
白蝋(はくらふ)の冷(ひや)みの沈黙(しじま)。

かくてただ悩(なや)む吊橋(つりはし)、
なべてみな真白き水(み)の面(も)、はた、光、
ただにたゆたふ眩暈(くるめき)の、恐怖(おそれ)の、仄(ほの)の哀愁(かなしみ)の
銀(ぎん)の真昼(まひる)に、色重き鉄(てつ)のにほひぞ
鬱憂(うついう)に吊られ圧(お)さるる。

鋼鉄(かうてつ)のにほひに噎(むせ)び、
絶えずまた直裸(ひたはだか)なる男の子
真白(ましろ)に光り、ひとならび、力(ちから)あふるる面(おもて)して
柵(さく)の上より躍(をど)り入る、水の飛沫(しぶき)や、
白金(はつきん)に濡(ぬ)れてかがやく。

真白(ましろ)なる真夏(まなつ)の真昼(まひる)。
汗(あせ)滴(した)るしとどの熱(ねつ)に薄曇(うすくも)り、
暈(くら)みて歎(なげ)く吊橋のにほひ目当(めあて)にたぎち来る
小蒸汽船(こじようきせん)の灰(はひ)ばめる鈍(にぶ)き唸(うなり)や、
日は光り、煙うづまく。
四十一年八月

  硝子切るひと

君は切る、
色あかき硝子(がらす)の板(いた)を。
落日(いりひ)さす暮春(ぼしゆん)の窓に、
いそがしく撰(えら)びいでつつ。

君は切る、
金剛(こんがう)の石のわかさに。

茴香酒(アブサン)のごときひとすぢ
つと引きつ、切りつ、忘れつ。

君は切る、
色あかき硝子(がらす)の板を。

君は切る、君は切る。
四十年十二月

   悪の窓 断篇七種


   一 狂念

あはれ、あはれ、
青白(あをじろ)き日の光西よりのぼり、
薄暮(くれがた)の灯のにほひ昼もまた点(とも)りかなしむ。

わが街(まち)よ、わが窓よ、なにしかも焼酎(せうちう)叫(さけ)び、
鶴嘴(つるはし)のひとつらね日に光り悶(もだ)えひらめく。

汽車(きしや)ぞ来(く)る、汽車(きしや)ぞ来(く)る、真黒(まくろ)げに夢とどろかし、
窓もなき灰色(はひいろ)の貨物輌(くわもつばこ)豹(へう)ぞ積みたる。
あはれ、はや、焼酎(せうちう)は醋(す)とかはり、人は轢(し)かれて、
盲(めし)ひつつ血に叫ぶ豹(へう)の声遠(とほ)に泡(あわ)立つ。

   二 疲れ

あはれ、いま暴(あら)びゆく接吻(くちつけ)よ、肉(ししむら)の曲(きよく)。……

かくてはや青白く疲(つか)れたる獣(けもの)の面(おもて)
今日(けふ)もまた我(われ)見据(みす)ゑ、果敢(はか)なげに、いと果敢(はか)なげに、
色濁(にご)る窓(まど)硝子(がらす)外面(とのも)より呪(のろ)ひためらふ。

いづこにかうち狂(くる)ふ□オロンよ、わが唇(くちびる)よ、
身をも燬(や)くべき砒素(ひそ)の壁(かべ)夕日さしそふ。

   三 薄暮の負傷

血潮したたる。

薄暮(くれがた)の負傷(てきず)なやまし、かげ暗(くら)き溝(みぞ)のにほひに、
はた、胸に、床(ゆか)の鉛(なまり)に……

さあれ、夢には列(つら)なめて駱駝(らくだ)ぞ過(す)ぐる。
埃及(えじぷと)のカイロの街(まち)の古煉瓦(ふるれんが)
壁のひまには砂漠(さばく)なるオアシスうかぶ。
その空にしたたる紅(あか)きわが星よ。……

血潮したたる。

   四 象のにほひ

日をひと日。
日をひと日。

日をひと日、光なし、色も盲(めし)ひて
ふくだめる、はた、病(や)めるなやましきもの
□ふたぎ□ふたぎ気倦(けだ)るげに唸(うな)りもぞする。

あはれ、わが幽鬱(いううつ)の象(ざう)
亜弗利加(あふりか)の鈍(にぶ)きにほひに。

日をひと日。
日をひと日。

   五 悪のそびら

おどろなす髪の亜麻色(あさいろ)
背(そびら)向け、今日(けふ)もうごかず、
さあれ、また、絶えずほつほつ
息しぼり『死』にぞ吹くめる、
血のごとき石鹸(しやぼん)の珠(たま)を。

   六 薄暮の印象

うまし接吻(くちつけ)……歓語(さざめごと)……

さあれ、空には眼(め)に見えぬ血潮(ちしほ)したたり、
なにものか負傷(てお)ひくるしむ叫(さけび)ごゑ、
など痛(いた)む、あな薄暮(くれがた)の曲(きよく)の色、――光の沈黙(しじま)。

うまし接吻(くちつけ)……歓語(さざめごと)……

   七 うめき

暮(く)れゆく日、血に濁る床(ゆか)の上にひとりやすらふ。
街(まち)しづみ、□しづみ、わが心もの音(おと)もなし。

載(の)せきたる板硝子(いたがらす)過(す)ぐるとき車燬(や)きつつ
落つる日の照りかへし、そが面(おもて)噎びあかれば
室内(むろぬち)の汚穢(けがれ)、はた、古壁に朽ちし鉞(まさかり)
一斉(ひととき)に屠(はふ)らるる牛の夢くわとばかり呻(うめ)き悶(もだ)ゆる。

街(まち)の子は戯(たはむ)れに空虚(うつろ)なる乳(ち)の鑵(くわん)たたき、
よぼよぼの飴売(あめうり)は、あなしばし、ちやるめらを吹く。

くわとばかり、くわとばかり、
黄(き)に光る向(むか)ひの煉瓦(れんぐわ)
くわとばかり、あなしばし。――
悪の□ 畢――四十一年二月

  蟻

おほらかに、
いとおほらかに、
大(おほ)きなる鬱金(うこん)の色の花の面(おも)。

日は真昼(まひる)、
時は極熱(ごくねつ)、
ひたおもて日射(ひざし)にくわつと照りかへる。

時に、われ
世(よ)の蜜(みつ)もとめ
雄蕋(ゆうずゐ)の林の底をさまよひぬ。

光の斑(ふ)
燬(や)けつ、断(ちぎ)れつ、
豹(へう)のごと燃(も)えつつ湿(し)める径(みち)の隈(くま)。

風吹かず。
仰ふげば空(そら)は
烈々(れつれつ)と鬱金(うこん)を篩(ふる)ふ蕋(ずゐ)の花。

さらに、聞く、
爛(ただ)れ、饐(す)えばみ、
ふつふつと苦痛(くつう)をかもす蜜の息。

楽欲(げうよく)の
極みか、甘き
寂寞(じやくまく)の大光明(だいくわうみやう)、に喘(あへ)ぐ時。

人界(にんがい)の
七谷(ななたに)隔(へだ)て、
丁々(とうとう)と白檀(びやくだん)を伐(う)つ斧(をの)の音(おと)。
四十年三月

  華のかげ

時(とき)は夏、血のごと濁(にご)る毒水(どくすゐ)の
鰐(わに)住む沼(ぬま)の真昼時(まひるどき)、夢ともわかず、
日に嘆(なげ)く無量(むりやう)の広葉(ひろは)かきわけて
ほのかに青き青蓮(せいれん)の白華(しらはな)咲けり。

ここ過(よ)ぎり街(まち)にゆく者、――
婆羅門(ばらもん)の苦行(くぎやう)の沙門(しやもん)、あるはまた
生皮(なまかわ)漁(あさ)る旃陀羅(せんだら)が鈍(にぶ)き刃(は)の色、
たまたまに火の布(きれ)巻ける奴隷(しもべ)ども
石油(せきゆ)の鑵(くわん)を地に投(な)げて鋭(するど)に泣けど、
この旱(ひでり)何時(いつ)かは止(や)まむ。これやこれ、
饑(うゑ)に堕(お)ちたる天竺(てんぢく)の末期(まつご)の苦患(くげん)。
見るからに気候風(きこうふう)吹く空(そら)の果(はて)
銅色(あかがねいろ)のうろこ雲湿潤(しめり)に燃(りも)えて
恒河(ガンヂス)の鰐(わに)の脊(せ)のごとはらばへど、
日は爛(ただ)れ、大地(たいち)はあはれ柚色(ゆずいろ)の
熱黄疸(ねつわうだん)の苦痛(くるしみ)に吐息(といき)も得せず。

この恐怖(おそれ)何に類(たぐ)へむ。ひとみぎり
地平(ちへい)のはてを大象(たいざう)の群(むれ)御(ぎよ)しながら
槍(やり)揮(ふる)ふ土人(どじん)が昼の水かひも
終(を)へしか、消ゆる後姿(うしろで)に代(かは)れる列(れつ)は
こは如何(いか)に殖民兵(しよくみんへい)の黒奴(ニグロ)らが
喘(あへ)ぎ曳き来る真黒(まくろ)なる火薬(くわやく)の車輌(くるま)
掲(かか)ぐるは危嶮(きけん)の旗の朱(しゆ)の光
絶えず饑(う)ゑたる心臓(しんざう)の呻(うめ)くに似たり。

さはあれど、ここなる華(はな)と、円(まろ)き葉の
あはひにうつる色、匂(にほひ)、青みの光、
ほのほのと沼(ぬま)の水面(みのも)の毒の香も
薄(うす)らに交(まじ)り、昼はなほかすかに顫(ふる)ふ。
四十年十二月

  幽閉

色濁(にご)るぐらすの戸(と)もて
封(ふう)じたる、白日(まひるび)の日のさすひと間(ま)、
そのなかに蝋(らふ)のあかりのすすりなき。

いましがた、蓋(ふた)閉(とざ)したる風琴(オルガン)の忍(しの)びのうめき。
そがうへに瞳(ひとみ)盲(し)ひたる嬰児(みどりご)ぞ戯れあそぶ。
あはれ、さは赤裸(あかはだか)なる、盲(めし)ひなる、ひとり笑(ゑ)みつつ、
声たてて小さく愛(めぐ)しき生(うまれ)の臍(ほぞ)をまさぐりぬ。

物病(や)ましさのかぎりなる室(むろ)のといきに、
をりをりは忍び入るらむ戯(おど)けたる街衢(ちまた)の囃子(はやし)、
あはれ、また、嬰児(みどりご)笑ふ。

ことことと、ひそかなる母のおとなひ
幾度(いくたび)となく戸を押せど、はては敲(たた)けど、
色濁る扉(とびら)はあかず。
室(むろ)の内(うち)暑く悒鬱(いぶせ)く、またさらに嬰児(みどりご)笑ふ。

かくて、はた、硝子(がらす)のなかのすすりなき
蝋(らふ)のあかりの夜(よ)を待たず尽きなむ時よ。
あはれ、また母の愁(うれひ)の恐怖(おそれ)とならむそのみぎり。

あはれ、子はひたに聴き入る、
珍(めづ)らなるいとも可笑(をか)しきちやるめらの外(そと)の一節(ひとふし)。
四十一年六月

  鉛の室

いんきは赤し。――さいへ、見よ、室(むろ)の腐蝕(ふしよく)に
うちにじみ倦(うん)じつつゆくわがおもひ、
暮春(ぼしゆん)の午後(ごご)をそこはかと朱(しゆ)をば引(ひ)けども。

油じむ末黒(すぐろ)の文字(もじ)のいくつらね
悲しともなく誦(ず)しゆけど、響(ひび)らぐ声(こゑ)は
□(さ)びてゆく鉛(なまり)の悔(くやみ)、しかすがに、

強(つよ)き薫(くゆり)のなやましさ、鉛(なまり)の室(むろ)は
くわとばかり火酒(ウオツカ)のごとき噎(むせ)びして
壁の湿潤(しめり)を玻璃(はり)に蒸す光の痛(いた)さ。

力(ちから)なき活字(くわつじ)ひろひの淫(たは)れ歌(うた)、
病(や)める機械(きかい)の羽(は)たたきにあるは沁み来(こ)し
新(あた)らしき紙の刷(す)られの香(か)も消(き)ゆる。

いんきや尽きむ。――はやもわがこころのそこに
聴くはただ饐(す)えに饐(す)えゆく匂(にほひ)のみ、――
はた、滓(をり)よどむ壺(つぼ)を見よ。つとこそ一人(ひとり)、

手を棚(たな)へ延(の)すより早く、とくとくと、
赤き硝子(がらす)のいんき罎(びん)傾(かた)むけそそぐ
一刹那(いつせつな)、壺(つぼ)にあふるる火のゆらぎ。

さと燃(も)えあがる間(ま)こそあれ、飜(かへ)ると見れば
手に平(ひら)む吸取紙(すひとりがみ)の骸色(かばねいろ)
爛(ただ)れぬ――あなや、血はしと、と卓(しよく)に滴(したた)る。
四十年九月

  真昼

日は真昼(まひる)――野づかさの、寂寥(せきれう)の心(しん)の臓(ざう)にか、
ただひとつ声もなく照りかへす硝子(がらす)の破片(くだけ)。
そのほとり WHISKY(ウヰスキイ) の匂(にほひ)蒸(む)す銀色(ぎんいろ)の内(うち)、
声するは、密(ひそ)かにも露吸ひあぐる、
色赤き、色赤き花の吐息(といき)……
四十一年十二月[#改丁]

このさんたくるすは三百年まへより大江村の切支丹のうちに忍びかくして守りつたへたるたつときみくるすなり。これは野中に見いでたり。
天草島大江村天主堂秘蔵

   天草雅歌


四十年八月、新詩社の諸友とともに遠く天草島に遊ぶ。こはその紀念作なり。
「四十年十月作」[#改ページ]

   天艸雅歌

  角を吹け

わが佳□(とも)よ、いざともに野にいでて
歌はまし、水牛(すゐぎう)の角(つの)を吹け。
視よ、すでに美果実(みくだもの)あからみて
田にはまた足穂(たりほ)垂れ、風のまに
山鳩のこゑきこゆ、角(つの)を吹け。
いざさらば馬鈴薯(ばれいしよ)の畑(はた)を越え
瓜哇(ジヤワ)びとが園に入り、かの岡に
鐘やみて蝋(らふ)の火の消ゆるまで
無花果(いちじゆく)の乳(ち)をすすり、ほのぼのと
歌はまし、汝(な)が頸(くび)の角(つの)を吹け。
わが佳□(とも)よ、鐘きこゆ、野に下りて
葡萄樹(じゆ)の汁(つゆ)滴(した)る邑(むら)を過ぎ、
いざさらば、パアテルの黒き袈裟(けさ)
はや朝の看経(つとめ)はて、しづしづと
見えがくれ棕櫚(しゆろ)の葉に消ゆるまで、
無花果(いちじゆく)の乳(ち)をすすり、ほのぼのと
歌はまし、いざともに角(つの)を吹け、
わが佳□(とも)よ、起き来れ、野にいでて
歌はまし、水牛(すゐぎう)の角(つの)を吹け。

  ほのかなる蝋の火に

いでや子ら、日は高し、風たちて
棕櫚(しゆろ)の葉のうち戦(そよ)ぎ冷(ひ)ゆるまで、
ほのかなる蝋(らふ)の火に羽(は)をそろへ
鴿(はと)のごと歌はまし、汝(な)が母も。
好(よ)き日なり、媼(おうな)たち、さらばまづ
祷(いの)らまし賛美歌(さんびか)の十五番(じふごばん)、
いざさらば風琴(オルガン)を子らは弾け、
あはれ、またわが爺(おぢ)よ、なにすとか、
老眼鏡(おいめがね)ここにこそ、座(ざ)はあきぬ、
いざともに祷(いの)らまし、ひとびとよ、
さんた・まりや。さんた・まりや。さんた・まりや。
拝(をろが)めば香炉(かうろ)の火身に燃えて
百合のごとわが霊(たま)のうちふるふ。
あなかしこ、鴿(はと)の子ら羽(は)をあげて
御龕(みづし)なる蝋(らふ)の火をあらためよ。
黒船(くろふね)の笛きこゆいざさらば
ほどもなくパアテルは見えまさむ、
さらにまた他(た)の燭(そく)をたてまつれ。
あなゆかし、ロレンゾか、鐘鳴らし、
まめやかに安息(あんそく)の日を祝(ほ)ぐは、
あな楽し、真白(ましろ)なる羽をそろへ
鴿(はと)のごと歌はまし、わが子らよ。
あはれなほ日は高し、風たちて
棕櫚(しゆろ)の葉のうち戦(そよ)ぎ冷(ひ)ゆるまで、
ほのかなる蝋(らふ)の火に羽をそろへ
鴿(はと)のごと歌はまし、はらからよ。

  □を抜けよ

はやも聴け、鐘鳴りぬ、わが子らよ、
御堂(みだう)にははや夕(よべ)の歌きこえ、
蝋(らふ)の火もともるらし、□(ろ)を抜(ぬ)けよ。
もろもろの美果実(みくだもの)籠(こ)に盛りて、
汝(な)が鴿(はと)ら畑(はた)に下り、しらしらと
帰るらし夕(ゆふ)づつのかげを見よ。
われらいま、空色(そらいろ)の帆(ほ)のやみに
新(あらた)なる大海(おほうみ)の香炉(かうろ)採(と)り
籠(こ)に□(た)きぬ、ひるがへる魚を見よ。
さるほどに、跪き、ひとびとは
目(ま)見(み)青き上人(しやうにん)と夜に祷(いの)り、
捧げます御(み)くるすの香(か)にや酔ふ、
うらうらと咽ぶらし、歌をきけ。
われらまた祖先(みおや)らが血によりて
洗礼(そそ)がれし仮名文(かなぶみ)の御経(みきやう)にぞ
主(しゆう)よ永久(とは)に恵みあれ、われらも、と
鴿(はと)率(ゐ)つつ祷らまし、帆をしぼれ。
はやも聴け、鐘鳴りぬ、わが子らよ、
御堂(みだう)にははや夕(よべ)の歌きこえ、
蝋(らふ)の火もくゆるらし、□(ろ)を抜けよ、


  汝にささぐ

女子(をみなご)よ、
汝(な)に捧(ささ)ぐ、
ただひとつ。
然(しか)はあれ、汝(な)も知らむ。
このさんた・くるすは、かなた
檳榔樹(びろうじゆ)の実(み)の落つる国、
夕日(ゆふひ)さす白琺瑯(はくはふらう)の石の階(はし)
そのそこの心の心、――
えめらるど、あるは紅玉(こうぎよく)、
褐(くり)の埴(はに)八千層(やちさか)敷ける真底(まそこ)より、
汝(な)が愛を讃(たた)へむがため、
また、清き接吻(くちつけ)のため、
水晶の柄(え)をすげし白銀(しろかね)の鍬をもて、
七つほど先(さき)の世(よ)ゆ世を継(つ)ぎて
ひたぶるに、われとわが
採(と)りいでし型(かた)、
その型(かた)を
汝(な)に捧(ささ)ぐ、
女子(をみなご)よ。


  ただ秘めよ

曰(い)ひけるは、
あな、わが少女(をとめ)、
天艸(あまくさ)の蜜(みつ)の少女(をとめ)よ。
汝(な)が髪は烏(からす)のごとく、
汝(な)が唇(くち)は木(こ)の実(み)の紅(あけ)に没薬(もつやく)の汁(しゆ)滴(したた)らす。
わが鴿(はと)よ、わが友よ、いざともに擁(いだ)かまし。
薫(くゆり)濃(こ)き葡萄の酒は
玻璃(ぎやまん)の壺(つぼ)に盛(も)るべく、
もたらしし麝香(じやかう)の臍(ほぞ)は
汝(な)が肌の百合に染めてむ。
よし、さあれ、汝(な)が父に、
よし、さあれ、汝(な)が母に、
ただ秘(ひ)めよ、ただ守れ、斎(いつ)き死ぬまで、
虐(しひたげ)の罪の鞭(しもと)はさもあらばあれ、
ああただ秘(ひ)めよ、御(み)くるすの愛(あい)の徴(しるし)を。


  さならずば

わが家(いへ)の
わが家(いへ)の可愛(かあ)ゆき鴿(はと)を
その雛(ひな)を
汝(なれ)せちに恋ふとしならば、
いでや子よ、
逃(のが)れよ、早も邪宗門(じやしゆうもん)外道(げだう)の教(をしへ)
かくてまた遠き祖(おや)より伝(つた)ヘこし秘密(ひみつ)の聖磔(くるす)
とく柱より取りいでよ。もし、さならずば
もろもろの麝香(じやかう)のふくろ、
桂枝(けいし)、はた、没薬(もつやく)、蘆薈(ろくわい)
および乳(ちち)、島の無花果(いちじゆく)、
如何に世のにほひを積むも、――
さならずば、
もしさならずば――
汝(なれ)いかに陳(ちん)じ泣くとも、あるは、また
護摩(ごま)□(た)き修し、伴天連(ばてれん)の救(すくひ)よぶとも、
ああ遂に詮(せん)業(すべ)なけむ。いざさらば
接吻(くちつけ)の妙(たへ)なる蜜(みつ)に、
女子(をみなご)の葡萄の息(いき)に、
いで『ころべ』いざ歌へ、わかうどよ。


  嗅煙艸

『あはれ、あはれ、深江(ふかえ)の媼(おば)よ。
髪も頬(ほ)も煙艸色(たばこいろ)なる、
棕櫚(しゆろ)の根に蹲(うづく)む媼(おば)よ。
汝(な)が持てる象牙(ざうげ)の壺(つぼ)は
また薫(くゆ)る褐(くり)なる粉(こな)は
何ぞ。また、せちに鼻つけ
涙垂れ、あかき眼(め)擦(す)るは。』
このときに渡(わたり)の媼(おうな)
呻(によ)ぶらく。『わが葡萄牙(ほるとがる)、
こを嗅(か)ぎてわかきは思ふ。』
『さらば、汝(な)は。』『責(せ)めそ、さな、さな、
養生(やしなひ)を骸(から)はただ欲(ほ)れ。
さればこそ、この嗅煙艸(かぎたばこ)。』


  鵠

わかうどなゆめ近よりそ、
かのゆくは邪宗(じやしゆう)の鵠(くぐひ)、
日のうちに七度(ななたび)八度(やたび)
潮(うしほ)あび化粧(けはひ)すといふ
伴天連(ばてれん)の秘(ひそ)の少女(をとめ)ぞ。
地になびく髪には蘆薈(ろくわい)、
嘴(はし)にまたあかき実(み)を塗(ぬ)る
淫(みだ)らなる鳥にしあれば、
絶えず、その真白羽(ましろは)ひろげ
乳香(にふかう)の水したたらす。
されば、子なゆめ近よりそ。
視よ、持つは炎(ほのほ)か、華(はな)か、
さならずば実(み)の無花果(いちじゆく)か、
兎(と)にもあれ、かれこそ邪法(じやはふ)。
わかうどなゆめ近よりそ。


  日ごとに

日ごとにわかき姿(すがた)して
日ごとに歌ふわが族(ぞう)よ、
日ごとに紅(あか)き実(み)の乳房(ちぶさ)
日ごとにすてて漁(あさ)りゆく。


  黄金向日葵

あはれ、あはれ、黄金(こがね)向日葵(ひぐるま)
汝(みまし)また太陽(ひ)にも倦(あ)きしか、
南国(なんごく)の空の真昼(まひる)を
かなしげに疲(つか)れて見ゆる。


  一□

香炉(かうろ)いま
一□(いつす)のかをり。
 あはれ、火はこころのそこに。

さあれ、その
一□(いつす)のけむり、
 かの空(そら)の青き龕(みづし)に。
[#改丁]

   青き花


南紀旅行の紀念として且はわが羅曼底時代のあえかなる思出のために、この幼き一章を過ぎし日の友にささぐ。
「四十年二、三両月中作」[#改ページ]

  青き花

そは暗(くら)きみどりの空に
むかし見し幻(まぼろし)なりき。
青き花
かくてたづねて、
日も知らず、また、夜(よ)も知らず、
国あまた巡(めぐ)りありきし
そのかみの
われや、わかうど。

そののちも人とうまれて、
微妙(いみじ)くも奇(く)しき幻(まぼろし)
ゆめ、うつつ、
香(か)こそ忘れね、

かの青き花をたづねて、
ああ、またもわれはあえかに
人(ひと)の世(よ)の
旅路(たびぢ)に迷ふ。


  君

かかる野に
何時(いつ)かありけむ。
仏手柑(ぶしゆかん)の青む南国(なんごく)
薫(かを)る日の光なよらに
身をめぐりほめく物の香(か)、
鳥うたひ、
天(そら)もゆめみぬ。

何時(いつ)の世か
君と識(し)りけむ。
黄金(こがね)なす髪もたわたわ、
みかへるか、あはれ、つかのま
ちらと見ぬ、わかき瞳(ひとみ)に
にほひぬる
かの青き花。


  桑名

夜(よ)となりぬ、神世(かみよ)に通ふやすらひに
早や門(かど)鎖(とざ)す古伊勢(ふるいせ)の桑名(くわな)の街(まち)は
路(みち)も狭(せ)に高き屋(や)づくり音(おと)もなく、
陰森(いんしん)として物の隈(くま)ひろごるにほひ。
おほらかに零落(れいらく)の戸を瞰下(みおろ)して
愁ふるがごと月光(げつくわう)は青に照せり。
参宮(さんぐう)の衆(しゆう)にかあらむ、旅(たび)びとの
二人(ふたり)三人(みたり)はさきのほどひそかに過(す)ぎぬ。
貸(かし)旅籠(はたご)札(ふだ)のみ白き壁つづき
ほとほと遠く、物ごゑの夜風(よかぜ)に消えて、
今ははた数(かず)添(そ)はりゆく星くづの
天(そら)なる調(しらべ)やはらかに、地は闌(ふ)けまさる。

時になほ街(まち)はづれなる老舗(しにせ)の戸
少し明(あか)りて火は路(みち)へひとすぢ射(さ)しぬ。
行燈(あんどう)のかげには清き女(め)の童(わらは)物縫(ものぬ)ふけはひ、
そがなかにたわやの一人(ひとり)髪あげて
戸外(とのも)すかしぬ。――事もなき夜(よ)のしづけさに。


  朝

――汽車のなかにて――

わが友よ、はや眼(め)をさませ。
玻璃(はり)の戸にのこる灯(ひ)ゆらぎ、
夜(よ)はわかきうれひに明けぬ。
順礼はつとにめざめて
あえかなる友をかおもふ。
清(すず)しげの髪のそよぎに
笈(おひづる)のいろもほのぼの。

わが友よ、はや眼(め)をさませ。
かなた、いま白(しら)む野のそら、
薔薇(さうび)にはほのかに薄(うす)く
菫よりやや濃(こ)きあはひ、
かのわかき瞳(ひとみ)さながら
あけぼのの夢より醒(さ)めて
わだつみはかすかに顫(ふる)ふ。


  紅玉

かかるとき、
海ゆく船に
まどはしの人魚(にんぎよ)か蹤(つ)ける。
美くしき術(じゆつ)の夕(ゆふべ)に、
まどろみの香油(かうゆ)したたり、
こころまた
けぶるともなく、
幻(まぼろし)の黒髪きたり、
夜(よ)のごとも
わが眼(め)蔽(おほ)へり。
そことなく
おほくのひとの
あえかなるかたらひおぼえ、
われはただひしと凝視(みつ)めぬ。
夢ふかき黒髪の奥(おく)
朱(しゆ)に喘ぐ
紅玉(こうぎよく)ひとつ、
これや、わが胸より落つる
わかき血の
燃(もゆ)る滴(したたり)。


  海辺の墓

われは見き、
いつとは知らね、
薄(うす)あかるにほひのなかに
夢ならずわかれし一人(ひとり)、
ものみなは涙のいろに
消えぬとも。
ああ、えや忘る。
かのわかき黒髪のなか、
星のごと濡れてにほひし
天色(そらいろ)の勾玉(まがたま)七つ。

われは見ぬ、
漂浪(さすら)ひながら、
見もなれぬ海辺の墓に
うつつにも眠れる一人(ひとり)
そことなき髪のにほひの
ほのめきも、
ああ、えや忘る。
いま寒き夕闇(ゆふやみ)のそこ、
星のごと濡れてにほへる
天色(そらいろ)の露草(つゆくさ)七つ。


  渚の薔薇

紀(き)の南(みなみ)、白良(しらら)の渚(なぎさ)、
荒き灘(なだ)高く砕(くだ)けて
天(そら)暗(くら)う轟(とどろ)くほとり、
ひとならび夕陽(ゆふひ)をうけて
面(おも)ほてり、むらがり咲ける
色紅(あか)き薔薇(さうび)の族(ぞう)よ。
瞬(またた)く間(ま)、間近(まぢか)に寄せて
崩(なだ)れうつ浪の穂を見よ。
今しさと滴(したた)るばかり
激瀾(おほなみ)の飛沫(しぶき)に濡れて、
弥(いや)さらに匂ひ閃(ひら)めく
火のごとき少女(をとめ)のむれよ。
寄せ返し、遠く消えゆく
塩□(しほなわ)暗き音(ね)を聴け。
ああ薔薇(さうび)、汝(なれ)にむかへば
わかき日のほこりぞ躍る。
薔薇(さうび)、薔微(さうび)、あてなる薔薇(さうび)。


  紐

海の霧にほやかなるに
灯(ひ)も見ゆる夕暮のほど、
ほのかなる旅籠(はたご)の窓に
在(あ)るとなく暮(く)れもなやめば、
やはらかき私語(ささやき)まじり
咽(むせ)びきぬ、そこはかとなく、
火に焼くる薔薇(さうび)のにほひ。

ああ、薔薇(さうび)、暮れゆく今日(けふ)を
そぞろなり、わかき喘(あへぎ)に
図(はか)らずも思ひぞいづる。
そは熱(あつ)き夏の渚辺(なぎさべ)、
濡髪(ぬれがみ)のなまめかしさに、
女(をみな)つと寝(ね)がへりながら、
みだらなる手して結びし
色紅(あか)き韈(くつした)の紐(ひも)。


  昼

蜜柑船(みかんぶね)凪(なぎ)にうかびて
壁白き浜のかなたは
あたたかに物売る声す。
波もなき港の真昼(まひる)、
白銀(しろがね)の挿櫛(さしぐし)撓(たは)み
いま遠く二つら三つら
水の上(へ)をすべると見つれ。
波もなき港の真昼、
また近く、二つら三つら
飛(とび)の魚すべりて安(やす)し。


  夕

あたたかに海は笑(わら)ひぬ。
花あかき夕日の窓に、
手をのべて聴くとしもなく
薔薇(さうび)摘(つ)み、ほのかに愁(うれ)ふ。
いま聴くは市(いち)の遠音(とほね)か、
波の音(ね)か、過ぎし昨日(きのふ)か、
はた、淡(あは)き今日(けふ)のうれひか。

あたたかに海は笑ひぬ。
ふと思ふ、かかる夕日(ゆふひ)に
白銀(しろがね)の絹衣(すずし)ゆるがせ、
いまあてに花摘(つ)みながら
かく愁(うれ)ひ、かくや聴(き)くらむ、
紅(くれなゐ)の南極星下(なんきよくせいか)
われを思ふ人のひとりも。


  羅曼底の瞳

この少女はわが稚きロマンチツクの幻象也、仮にソフィヤと呼びまゐらす。

美(うつ)くしきソフィヤの君(きみ)。
悲(かな)しくも恋(こひ)しくも見え給ふわがわかきソフィヤの君(きみ)。
なになれば日もすがら今日(けふ)はかく瞑目(めつぶ)り給ふ。
美(うつ)くしきソフィヤの君(きみ)、
われ泣けば、朝な夕(ゆふ)なに、
悲(かな)しくも静(しづ)かにも見ひらき給ふ青き華(はな)――少女(をとめ)の瞳(ひとみ)。
ソフィヤの君(きみ)。
[#改丁]

   古酒

こは邪宗門の古酒なり。近代白耳義の所謂フアンドシエクルの神経には柑桂酒の酸味に竪笛の音色を思ひ浮かべ梅酒に喇叭を嗅ぎ、甘くして辛き茴香酒にフルウトの鋭さをたづね、あるはまたウヰスキイをトロムボオンに、キユムメル、ブランデイを嚠喨として鼻音を交へたるオボイの響に配して、それそれ匂強き味覚の合奏に耽溺すと云へど、こはさる驕りたる類にもあらず。黴くさき穴倉の隅、曇りたる色硝子の□より洩れきたる外光の不可思議におぼめきながら煤びたるフラスコのひとつに湛ゆるは火酒か、阿刺吉か、又はかの紅毛の※[#「酉+珍のつくり」、169-8]□の酒か、えもわかねど、われはただ和蘭わたりのびいどろの深き古色をゆかしみて、かのわかき日のはじめに秘め置きにたる様々の夢と匂とに執するのみ。
[#改ページ]

  恋慕ながし

春ゆく市(いち)のゆふぐれ、
角(かく)なる地下室(セラ)の玻璃(はり)透き
うつらふ色とにほひと
見惚(みほ)れぬ。――潤(う)るむ笛の音(ね)。

しばしは雲の縹(はなだ)と、
灯(ひ)うつる路(みち)の濡色(ぬれいろ)、
また行く素足(すあし)しらしら、――
あかりぬ、笛の音色(ねいろ)も。

古き醋甕(すがめ)と街衢(ちまた)の
物焼く薫(くゆり)いつしか
薄らひ饐(す)ゆれ。――澄みゆく
紅(あか)き音色(ねいろ)の揺曳(ゆらびき)

このとき、玻璃(はり)も真黒(まくろ)に
四輪車(しりんしや)軋(きし)るはためき、
獣(けもの)の温(ぬる)き肌(はだ)の香(か)
過(よ)ぎりぬ。――濁(にご)る夜(よ)の色。

ああ眼(め)にまどふ音色(ねいろ)の
はやも見わかぬかなしさ。
れんほ、れれつれ、消えぬる
恋慕(れんぼ)ながしの一曲(ひとふし)。
四十年二月

  煙草

黄(き)のほてり、夢のすががき、
さはあまきうれひの華(はな)よ。
ほのに汝(な)を嗅(か)ぎゆくここち、
QURACIO(キユラソオ) の酒もおよばじ。

いつはあれ、ものうき胸に
痛(いたみ)知るささやきながら、
わかき火のにほひにむせて
はばたきぬ、快楽(けらく)のうたは。

そのうたを誰かは解(と)かむ。
あえかなる罪のまぼろし、――
濃(こ)き華の褐(くり)に沁みゆく
愛欲(あいよく)の千々(ちぢ)のうれひを。

向日葵(ひぐるま)の日に蒸すにほひ、
かはたれのかなしき怨言(かごと)
ゆるやかにくゆりぬ、いまも
絶間(たえま)なき火のささやきに。

かくてわがこころひねもす
傷(いた)むともなくてくゆりぬ、
あな、あはれ、汝(な)が香(か)の小鳥
そらいろのもやのつばさに。
四十年九月

  舗石

夏の夜(よ)あけのすずしさ、
氷載せゆく車の
いづちともなき軋(きしり)に、
潤(うる)みて消ゆる瓦斯(がす)の火。

海へか、路次(ろじ)ゆみだれて
大族(おほうから)なす鵞(が)の鳥
鳴きつれ、霧のまがひに
わたりぬ――しらむ舗石(しきいし)。

人みえそめぬ。煙草(たばこ)の
ただよひ湿(しめ)るたまゆら、
辻なる□の絵硝子(ゑがらす)
あがりぬ――ひびく舗石(しきいし)。

見よ、女(め)が髪のたわめき
濡れこそかかれ、このとき
つと寄(よ)り、男、みだらの
接吻(くちつけ)――にほふ舗石(しきいし)。

ほど経て□を閑(さ)す音(おと)。
枝垂柳(しだれやなぎ)のしげみを、
赤き港の自働車(じどうしや)
けたたましくも過(す)ぎぬる。

ややあり、ほのに緋(ひ)の帯、
水色うつり過(す)ぐれば、
縺(もつ)れぬ、はやも、からころ、
かろき木履(きぐつ)のすががき。
四十年九月

  驟雨前

長月(ながつき)の鎮守(ちんじゆ)の祭(まつり)
からうじてどよもしながら、
雨(あめ)もよひ、夜(よ)もふけゆけば、
蒸しなやむ濃(こ)き雲のあし
をりをりに赤(あか)くただれて、
月あかり、稲妻(いなづま)すなる。

このあたり、だらだらの坂(さか)、
赤楊(はん)高き小学校の
柵(さく)尽きて、下(した)は黍畑(きびばた)
こほろぎぞ闇に鳴くなる。
いづこぞや女声(をみなごゑ)して
重たげに雨戸(あまど)繰(く)る音(おと)。

わかれ路(みち)、辻(つじ)の濃霧(こぎり)は
馬やどののこるあかりに
幻燈(げんとう)のぼかしのごとも
蒸し青(あを)み、破(や)れし土馬車(つちばしや)
ふたつみつ泥(どろ)にまみれて
ひそやかに影を落(おと)しぬ。
泥濘(ぬかるみ)の物の汗(あせ)ばみ
生(なま)ぬるく、重き空気(くうき)に
新しき木犀(もくせい)まじり、
馬槽(うまぶね)の臭気(くさみ)ふけつつ、
懶(もの)うげのさやぎはたはた
暑(あつ)き夜(よ)のなやみを刻(きざ)む。

足音(あしおと)す、生血(なまち)の滴(した)り
しとしととまへを人かげ、
おちうどか、ほたや、六部(ろくぶ)か、
背(せ)に高き龕(みづし)をになひ、
青き火の消えゆくごとく
呻(うめ)きつつ闇にまぎれぬ。

生騒(なまさや)ぎ野をひとわたり。
とある枝(え)に蝉は寝(ね)おびれ、
ぢと嘆(なげ)き、鳴きも落つれば
洞(ほら)円(まろ)き橋台(はしだい)のをち、
はつかにも断(き)れし雲間(くもま)に
月黄(き)ばみ、病める笑(わら)ひす。

夜(よ)の汽車の重きとどろき。
凄まじき驟雨(しゆうう)のまへを、
黒烟(くろけぶり)深(ふか)き峡(はざま)は
一面(いちめん)に血潮ながれて、
いま赤く人轢(し)くけしき。
稲妻す。――嗚呼夜(よ)は一時(いちじ)。
三十九年九月

  解纜

解纜(かいらん)す、大船(たいせん)あまた。――
ここ肥前(ひぜん)長崎港(ながさきかう)のただなかは
長雨(ながあめ)ぞらの幽闇(いうあん)に海(うな)づら鈍(にぶ)み、
悶々(もんもん)と檣(ほばしら)けぶるたたずまひ、
鎖(くさり)のむせび、帆のうなり、伝馬(てんま)のさけび、
あるはまた阿蘭船(おらんせん)なる黒奴(くろんぼ)が
気(き)も狂(くる)ほしき諸ごゑに、硝子(がらす)切る音(おと)、
うち湿(しめ)り――嗚呼(ああ)午後(ごご)七時――ひとしきり、落居(おちゐ)ぬ騒擾(さやぎ)。

解纜(かいらん)す、大船あまた。
あかあかと日暮(にちぼ)の街(まち)に吐血(とけつ)して
落日(らくじつ)喘(あへ)ぐ寂寥(せきれう)に鐘鳴りわたり、
陰々(いんいん)と、灰色(はいいろ)重き曇日(くもりび)を
死を告(つ)げ知らすせはしさに、響は絶(た)えず
天主(てんしゆ)より。――闇澹(あんたん)として二列(ふたならび)、
海波(かいは)の鳴咽(おえつ)、赤(あか)の浮標(うき)、なかに黄(き)ばめる
帆は瘧(ぎやく)に――嗚呼(ああ)午後七時――わなわなとはためく恐怖(おそれ)。

解纜(かいらん)す、大船(たいせん)あまた。――
黄髪(わうはつ)の伴天連(ばてれん)信徒(しんと)蹌踉(さうらう)と
闇穴道(あんけつだう)を磔(はりき)負ひ駆(か)られゆくごと
生(なま)ぬるき悔(くやみ)の唸(うなり)順々(つぎつぎ)に、
流るる血しほ黒煙(くろけぶ)り動揺(どうえう)しつつ、
印度、はた、南蛮(なんばん)、羅馬、目的(めど)はあれ、
ただ生涯(しやうがい)の船がかり、いづれは黄泉(よみ)へ
消えゆくや、――嗚呼(ああ)午後七時――鬱憂(うついう)の心の海に。
三十九年七月

  日ざかり

嗚呼(ああ)、今(いま)し午砲(ごはう)のひびき
おほどかにとどろきわたり、
遠近(をちこち)の汽笛(きてき)しばらく
饑(う)うるごと呻(うめ)きをはれば、
柳原(やなぎはら)熱(あつ)き街衢(ちまた)は
また、もとの沈黙(しじま)にかへる。

河岸(かし)なみは赤き煉瓦家(れんぐわや)。
牢獄(ひとや)めく工場(こうば)の奥ゆ
印刷(いんさつ)の響(ひびき)たまたま
薄鉄葉(ブリキ)切る鋏(はさみ)の音(おと)と、
柩(ひつぎ)うつ槌と、鑢(やすり)と、
懶(もの)うげにまじりきこえぬ。

片側(かたかは)の古衣屋(ふるぎや)つづき、
衣紋掛(えもんかけ)重き恐怖(おそれ)に
肺(はひ)やみの咳(しはぶき)洩(も)れて、
饐(す)えてゆく物のいきれに、
陰湿(いんしつ)のにほひつめたく
照り白(しら)み、人は黙坐(もくざ)す。

ゆきかへり、やをら、電気車(でんきしや)
鉛(なまり)だつ体(たい)をとどめて
ぐどぐどとかたみに語り、
鬱憂(うついう)の唸(うなり)重げに
また軋(きし)る、熱(あつ)く垂れたる
ひた赤(あか)き満員(まんゐん)の札(ふだ)。

恐ろしき沈黙(しじま)ふたたび
酷熱(こくねつ)の日ざしにただれ、
ぺんき塗(ぬり)褪(さ)めし看板(かんばん)
毒(どく)滴(た)らし、河岸(かし)のあちこち
ちぢれ毛(げ)の痩犬(やせいぬ)見えて
苦(くる)しげに肉(にく)を求食(あさ)りぬ。
油(あぶら)うく線路(レエル)の正面(まとも)、
鉄(てつ)重(おも)き橋の構(かまへ)に
雲ひとつまろがりいでて
くらくらとかがやく真昼(まひる)、
汗(あせ)ながし、車曳(ひ)きつつ
匍匐(は)ふがごと撒水夫(みづまき)きたる。
三十九年九月

  軟風

ゆるびぬ、潤(うる)む罌粟(けし)の火は
わかき瞳の濡色(ぬれいろ)に。
熟視(みつ)めよ、ゆるる麦の穂の
たゆらの色のつぶやきを。

たわやになびく黒髪の
君の水脈(みを)こそ身に翻(あふ)れ。――
うかびぬ、消えぬ、火の雫(しづく)
匂の海のたゆたひに。

ふとしも歎(なげ)く蝶のむれ
ころりんころと……頬(ほ)のほめき、
触(ふ)るる吐息(といき)に縺(もつ)るれば、
色も、にほひも、つぶやきも、

同じ音色(ねいろ)の揺曳(ゆらびき)に
倦(うん)じぬ、かくて君が目も。――
あはれ、皐月(さつき)の軟風(なよかぜ)に
ゆられてゆめむわがおもひ。
四十年六月

  大寺

大寺(おほてら)の庫裏(くり)のうしろは、
枇杷あまた黄金(こがね)たわわに、
六月の天(そら)いろ洩るる
路次(ろじ)の隅、竿(さを)かけわたし
皮交り、襁褓(むつき)を乾(ほ)せり。
そのかげに穢(むさ)き姿(なり)して
面子(めんこ)うち、子らはたはぶれ、
裏店(うらだな)の洗流(ながし)の日かげ、
顔青き野師(やし)の女房ら
首いだし、煙草吸ひつつ、
鈍(にぶ)き目に甍(いらか)あふぎて、
はてもなう罵りかはす。
凋(しを)れたるもののにほひは
溝板(どぶいた)の臭気(くさみ)まじりに
蒸し暑(あつ)く、いづこともなく。
赤黒き肉屋の旗は
屋根越に垂れて動かず。
はや十時、街(まち)の沈黙(しじま)を
しめやかに沈(ぢん)の香しづみ、
しらじらと日は高まりぬ。
三十九年八月

  ひらめき

十月(じふぐわつ)のとある夜(よ)の空。
北国(ほつこく)の郊野(かうや)の林檎
実(み)は赤く梢(こずゑ)にのこれ、
はや、里の果物採(くだものとり)は
影絶えぬ、遠く灯(ひ)つけて
ただ軋(きし)る耕作(かうさく)ぐるま。
鬱憂(うついう)に海は鈍(にば)みて
闇澹(あんたん)と氷雨(ひさめ)やすらし。
灰(はひ)濁(だ)める暮雲(ぼうん)のかなた
血紅(けつこう)の火花(ひばな)ひらめき
燦(さん)として音(おと)なく消えぬ。
沈痛(ちんつう)の呻吟(うめき)この時、
闇重き夜色(やしよく)のなかに
蓬髪(ほうはつ)の男蹌踉(よろめ)き
落涙(らくるゐ)す、蒼白(あをじろ)き頬(ほ)に。
三十九年八月

  立秋

憂愁(いうしう)のこれや野の国、
柑子(かうじ)だつ灰色のすゑ
夕汽車(ゆふぎしや)の遠音(とほね)もしづみ、
信号柱(シグナル)のちさき燈(ともしび)
淡々(あはあは)とみどりにうるむ。

ひとしきり、小野(をの)に細雲(ほそぐも)。
南瓜畑(かぼちやばた)北へ練(ね)りゆく
旗赤き異形(ゐぎやう)の列(れつ)は
戯(おど)けたる広告(ひろめ)の囃子(はやし)
賑(にぎ)やかに遠くまぎれぬ。

うらがなし、落日(いりひ)の黄金(こがね)
片岡(かたおか)の槐(ゑんじゆ)にあかり、
鳴きしきる蜩(かなかな)、あはれ
誰(たれ)葬(はふ)るゆふべなるらむ。
三十九年八月

  玻璃罎

うすぐらき窖(あなぐら)のなか、
瓢状(ひさごなり)、なにか湛(たた)へて、
十(とを)あまり円(まろ)うならべる
夢(ゆめ)いろの薄(うす)ら玻璃罎(はりびん)。

静(しづ)けさや、靄(もや)の古(ふる)びを
黄蝋(わうらふ)は燻(くゆ)りまどかに
照りあかる。吐息(といき)そこ、ここ、
哀楽(あいらく)のつめたきにほひ。

今(いま)しこそ、ゆめの歓楽(くわんらく)
降(ふ)りそそげ。生命(いのち)の脈(なみ)は
ゆらぎ、かつ、壁にちらほら
玻璃(はり)透(す)きぬ、赤き火の色。
三十九年八月

  微笑

朧月(ろうげつ)か、眩(まば)ゆきばかり
髪むすび紅(あか)き帯して
あらはれぬ、春夜(しゆんや)の納屋(なや)に
いそいそと、あはれ、女子(をみなご)。

あかあかと据(す)ゑし蝋燭(らふそく)
薔薇(さうび)潮(さ)す片頬(かたほ)にほてり、
すずろけば夜霧(よぎり)火のごと、
いづこにか林檎(りんご)のあへぎ。

嗚呼(ああ)愉楽(ゆらく)、朱塗(しゆぬり)の樽(たる)の
差口(だぶす)抜き、酒つぐわかさ、
玻璃器(ぎやまん)に古酒(こしゆ)の薫香(かをりか)
なみなみと……遠く人ごゑ。

やや暫時(しばし)、瞳かがやき、
髪かしげ、微笑(ほほゑ)みながら
なに紅(あか)む、わかき女子(をみなご)。
母屋(もや)にまた、おこる歓語(さざめき)……
三十九年八月

  砂道

日の真昼(まひる)、ひとり、懶(ものう)く
真白なる砂道(さだう)を歩む。
市(いち)遠く赤き旗見ゆ、
風もなし。荒蕪地(かうぶち)つづき、
廃(すた)れ立つ礎(いしずゑ)燃(も)えて
烈々(れつれつ)と煉瓦(れんぐわ)の火気(くわき)に
爛(ただ)れたる果実(くわじつ)のにほひ
そことなく漂(ただよ)湿(しめ)る。

数百歩、娑婆(しやば)に音なし。

ふと、空に苦熱(くねつ)のうなり、
見あぐれば、名しらぬ大樹(たいじゆ)
千万(ちよろづ)の羽音(はおと)に糜(しら)け、
鈴状(すずなり)に熟(う)るる火の粒
潤(しめ)やかに甘き乳(ち)しぶく。
楽欲(げうよく)の渇(かわき)たちまち
かのわかき接吻(くちつけ)思ひ、
目ぞ暈(くら)む。

真夏の原に
真白(ましろ)なる砂道(さだう)とぎれて
また続く恐怖(おそれ)の日なか、
寂(せき)として過(よ)ぎる人なし。
三十九年八月

  凋落

寂光土(じやくくわうど)、はたや、墳塋(おくつき)、
夕暮(ゆふぐれ)の古き牧場(まきば)は
なごやかに光黄ばみて
うつらちる楡(にれ)の落葉(らくえふ)、
そこ、かしこ。――暮秋(ぼしう)の大日(おほひ)
あかあかと海に沈めば、
凋落(てうらく)の市(いち)に鐘鳴り、
絡繹(らくえき)と寺門(じもん)をいづる
老若(らうにやく)の力(ちから)なき顔、
あるはみな青き旗垂れ
灰(はひ)濁(だ)める水路(すゐろ)の靄に
寂寞(じやくまく)と繋(かか)る猪木舟(ちよきぶね)、
店々の装飾(かざり)まばらに、
甃石(いしだたみ)ちらほら軋る
空(から)ぐるま、寒き石橋。――
鈍(にぶ)き眼(め)に頭(かしら)もたげて
黄牛(あめうし)よ、汝(な)はなにおもふ。
三十九年八月

  晩秋

神無月、下浣(すゑ)の七日(しちにち)、
病(や)ましげに落日(いりひ)黄ばみて
晩秋(ばんしう)の乾風(からかぜ)光り、
百舌(もず)啼かず、木の葉沈まず、
空高き柿の上枝(ほづえ)を
実はひとつ赤く落ちたり。
刹那(せつな)、野を北へ人霊(ひとだま)、
鉦(かね)うちぬ、遠く死の歌。
君死にき、かかる夕(ゆふべ)に。
三十九年五月

  あかき木の実

暗(くら)きこころのあさあけに、
あかき木(こ)の実(み)ぞほの見ゆる。
しかはあれども、昼はまた
君といふ日にわすれしか。
暗(くら)きこころのゆふぐれに、
あかき木(こ)の実(み)ぞほの見ゆる。
四十年十月

  かへりみ

みかへりぬ、ふたたび、みたび、
暮れてゆく幼(をさな)の歩(あゆみ)
なに惜(をし)みさしもたゆたふ。
あはれ、また、野辺(のべ)の番紅花(さふらん)
はやあかきにほひに満つを。
四十年十二月

  なわすれぐさ

面□(ぎぬ)のにほひに洩(も)れて、
その眸(ひとみ)すすり泣くとも、――
空(そら)いろに透(す)きて、葉かげに
今日(けふ)も咲く、なわすれの花。
四十一年五月

  わかき日の夢

水(みづ)透(す)ける玻璃(はり)のうつはに、
果(み)のひとつみづけるごとく、
わが夢は燃(も)えてひそみぬ。
ひややかに、きよく、かなしく。
四十一年五月

  よひやみ

うらわかきうたびとのきみ、
よひやみのうれひきみにも
ほの沁むや、青みやつれて
木のもとに、みればをみなも。
な怨みそ。われはもくせい、
ほのかなる花のさだめに、
目見(まみ)しらみ、うすらなやめば
あまき香(か)もつゆにしめりぬ。
さあれ、きみ、こひのうれひは
よひのくち、それもひととき、
かなしみてあらばありなむ、
われもまた。――月はのぼれり。
三十九年四月

  一瞥

大月(たいげつ)は赤くのぼれり。
あら、青む最愛(さいあい)びとよ。
へだてなき恋の怨言(かごと)は
見るが間(ま)に朽ちてくだけぬ。
こは人か、
何らの色(いろ)ぞ、
凋落(てうらく)の鵠(くぐひ)か、鷭(ばん)か。
後(しりへ)より、
冷笑(れいせう)す、あはれ、一瞥(いちべつ)。
我(われ)、こころ君を殺(ころ)しき。
三十九年七月

  旅情

――さすらへるミラノひとのうた。

零落(れいらく)の宿泊(やどり)はやすし。
海ちかき下層(した)の小部屋(こべや)は、
ものとなき鹹(しほ)の汚(よ)ごれに、
煤(すす)けつつ匂(にほ)ふ壁紙(かべがみ)。
広重(ひろしげ)の名をも思(おもひ)出づ。

ほどちかき庖厨(くリや)のほてり、
絵草子(ゑざうし)の匂(にほひ)にまじり
物(もの)あぶる騒(さや)ぎこもごも、
焼酎(せうちう)のするどき吐息(といき)
針(はり)のごと肌(はだ)刺(さ)す夕(ゆふべ)。

ながむれば葉柳(はやなぎ)つづき、
色硝子(いろがらす)濡(ぬ)るる巷(こうぢ)を、
横浜(はま)の子が智慧(ちゑ)のはやさよ、
支那料理(しなれうり)、よひの灯影(ほかげ)に
みだらうたあはれに歌(うた)ふ。

ややありて月はのぼりぬ。
清らなる出窓(でまど)のしたを
からころと軋(きし)む櫓(ろ)の音(おと)。
鉄格子(てつかうし)ひしとすがりて
黄金髪(こがねがみ)わかきをおもふ。

数(かず)おほき罪に古(ふ)りぬる
初恋(はつこひ)のうらはかなさは
かかる夜(よ)の黒(くろ)き波間(なみま)を
舟(ふな)かせぎ、わたりさすらふ
わかうどが歌(うた)にこそきけ。

色(いろ)ふかき、ミラノのそらは
日本(ひのもと)のそれと似(に)たれど、
ここにして摘(つ)むによしなき
素馨(ジエルソミノ)、海のあなたに
接吻(くちつけ)のかなしきもあり。

国を去り、昨(きそ)にわかれて
逃(のが)れ来し身にはあれども、
なほ遠く君をしぬべば、
ほうほう……と笛はうるみて、
いづらへか、黒船(くろふね)きゆる。

廊下(らうか)ゆく重き足音(あしおと)。
みかへれば暗(くら)きひと間(ま)に
残(のこ)る火は血のごと赤く、
腐(くさ)れたる林檎(りんご)のにほひ、
そことなく涙をさそふ。
三十九年九月

  柑子

蕭(しめ)やかにこの日も暮(く)れぬ、北国(きたぐに)の古き旅籠屋(はたごや)。
物(もの)焙(あ)ぶる炉(ゐろり)のほとり頸(うなじ)垂れ愁(うれ)ひしづめば
漂浪(さすらひ)の暗(くら)き山川(やまかは)そこはかと。――さあれ、密(ひそ)かに
物ゆかし、わかき匂(にほひ)のいづこにか濡れてすずろぐ。

女(め)あるじは柴(しば)折り燻(くす)べ、自在鍵(じざいかぎ)低(ひく)くすべらし、
鍋かけぬ。赤ら顔して旅(たび)語る商人(あきうど)ふたり。
傍(かたへ)より、笑(ゑ)みて静かに籠(かたみ)なる木の実撰(え)りつつ、
家(いへ)の子は卓(しよく)にならべぬ。そのなかに柑子(かうじ)の匂(にほひ)。

ああ、柑子(かうじ)、黄金(こがね)の熱味(ほてり)嗅(か)ぎつつも思ひぞいづる。
晩秋(おそあき)の空ゆく黄雲(きぐも)、畑(はた)のいろ、見る眼(め)のどかに
夕凪(ゆふなぎ)の沖に帆あぐる蜜柑(みかん)ぶね、暮れて入る汽笛(ふえ)。
温かき南の島の幼子(をさなご)が夢のかずかず。

また思ふ、柑子(かうじ)の店(たな)の愛想(あいそ)よき肥満(こえ)たる主婦(あるじ)、
あるはまた顔もかなしき亭主(つれあひ)の流(なが)す新内(しんない)、
暮(く)れゆけば紅(あか)き夜(よ)の灯(ひ)に蒸(む)し薫(く)ゆる物の香(か)のなか、
夕餉時(ゆふげどき)、街(まち)に入り来(く)る旅人がわかき歩みを。

さては、われ、岡の木(こ)かげに夢心地(ゆめここち)、在(あ)りし静けさ
忍ばれぬ。目籠(めがたみ)擁(かか)へ、黄金(こがね)摘(つ)み、袖もちらほら
鳥のごと歌ひさまよふ君ききて泣きにし日をも。――
ああ、耳に鈴(すず)の清(すず)しき、鳴りひびく沈黙(しじま)の声音(いろね)。

柴(しば)はまた音(おと)して爆(は)ぜぬ、燃(も)えあがる炎(ほのほ)のわかさ。
ふと見れば、鍋の湯けぶり照り白らむ薫(かをり)のなかに、
箸とりて笑(ゑ)らぐ赤ら頬(ほ)、夕餉(ゆふげ)盛(も)る主婦(あるじ)、家の子、
皆、古き喜劇(きげき)のなかの姿(すがた)なり。涙ながるる。
三十九年五月

  内陣

ほのかなる香炉(かうろ)のくゆり、
日のにほひ、燈明(みあかし)のかげ、――

文月(ふづき)のゆふべ、蒸し薫(くゆ)る三十三間堂(さんじふさんげんだう)の奥(おく)
空色(そらいろ)しづむ内陣(ないぢん)の闇ほのぐらき静寂(せいじやく)に、
千一体(せんいつたい)の観世音(くわんぜおん)かさなり立たす香(か)の古(ふる)び
いと蕭(しめ)やかに後背(こうはい)のにぶき列(つらね)ぞ白(しら)みたる。

いづちとも、いつとも知らに、
かすかなる素足(すあし)のしめり。

そと軋(きし)むゆめのゆかいた
なよらかに、はた、うすらかに。

ほのめくは髪のなよびか、
衣(きぬ)の香(か)か、えこそわかたね。

女子(をみなご)の片頬(かたほ)のしらみ
忍びかの息(いき)の香(か)ぞする。

舞ごろも近づくなべに、
うつらかにあかる薄闇(うすやみ)。

初恋の燃(も)ゆるためいき、
帯の色、身内(みうち)のほてり。

だらりの姿(すがた)おぼろかになまめき薫(く)ゆる舞姫(まひひめ)の
ほのかに今(いま)したたずめば、本尊仏(ほんぞんぶつ)のうすあかり
静(しづ)かなること水のごと沈(しづ)みて匂ふ香(か)のそらに、
仰(あふ)ぐともなき目見(まみ)のゆめ、やはらに涙さそふ時(とき)。

甍(いらか)より鴿(はと)か立ちけむ、
はたはたとゆくりなき音(ね)に。

ふとゆれぬ、長(たけ)の振袖(ふりそで)
かろき緋(ひ)のひるがへりにぞ、

ほのかなる香炉(かうろ)のくゆり、
日のにほひ、燈明(みあかし)のかげ、――

もろもろの光はもつれ、
あな、しばし、闇にちらぼふ。
四十年七月

  懶き島

明けぬれどものうし。温(ぬる)き土(つち)の香を
軟風(なよかぜ)ゆたにただ懈(たゆ)く揺(ゆ)り吹くなべに、
あかがねの淫(たはれ)の夢ゆのろのろと
寝恍(ねほ)れて醒(さ)むるさざめ言(ごと)、起(た)つもものうし。

眺むれどものうし、のぼる日のかげも、
大海原(おおうなばら)の空燃(も)えて、今日(けふ)も緩(ゆる)ゆる
縦(たて)にのみ湧(わ)くなる雲の火のはしら
重(おも)げに色もかはらねば見るもものうし。

行きぬれどものうし、波ののたくりも、
懈(たゆ)たき砂もわが悩(なやみ)ものうければぞ、
信天翁(あはうどり)もそろもそろの吐息(といき)して
終日(ひねもす)うたふ挽歌(もがりうた)きくもものうし。

寝(ね)そべれどものうし、円(まろ)に屯(たむろ)して
正覚坊(しやうがくばう)の痴(しれ)ごこち、日を嗅(か)ぎながら
女らとなすこともなきたはれごと、
かくて抱けど、飽(あ)きぬれば吸ふもものうし。

貪(むさぼ)れどものうし、椰子(やし)の実(み)の酒も、
あか裸(はだか)なる身の倦(た)るさ、酌(く)めども、あほれ、
懶怠(をこたり)の心の欲(よく)のものうげさ。
遠雷(とほいかづち)のとどろきも昼はものうし。

暮れぬれどものうし、甘き髪の香も、
益(えう)なし、あるは木を擦(す)りて火ともすわざも。
空腹(ひだるげ)の心は暗(くら)きあなぐらに
蝮(はみ)のうねりのにほひなし、入れどものうし。

ああ、なべてものうし、夜(よる)はくらやみの
濁れる空に、熟(う)みつはり落つる実のごと
流星(すばるぼし)血を引き消ゆるなやましさ。
一人(ひとり)ならねど、とろにとろ、寝(ね)れどものうし。
四十年十二月

  灰色の壁

灰色(はいいろ)の暗(くら)き壁、見るはただ
恐ろしき一面(いちめん)の壁の色(いろ)。
臘月(らふげつ)の十九日(じふくにち)、
丑満(うしみつ)の夜(よ)の館(やかた)。
龕(みづし)めく唐銅(からかね)の櫃(ひつ)の上(うへ)、
燭(しよく)青うまじろがずひとつ照(て)る。
時にわれ、朦朧(もうろう)と黒衣(こくえ)して
天鵝絨(びろうど)のもの鈍(にぶ)き床(ゆか)に立ち、
ひたと身は鉄(てつ)の屑(くず)
磁石(じしやく)にか吸はれよる。
足はいま釘(くぎ)つけに痺(しび)れ、かの
黄泉(よみ)の扉(と)はまのあたり額(ぬか)を圧(お)す。

灰色(はひいろ)の暗(くら)き壁、見るはただ
恐ろしき一面(いちめん)の壁の色(いろ)。
暗澹(あんたん)と燐(りん)の火し
奈落(ならく)へか虚(うつろ)する。
表面(うはべ)ただ古地図(ふるちづ)に似て煤(すす)け、
縦横(たてよこ)にかず知れず走る罅(ひび)
青やかに火光(あかり)吸ひ、じめじめと
陰湿(いんしつ)の汗(あせ)うるみ冷(ひ)ゆる時、
鉄(てつ)の気(き)はうしろより
さかしまに髪を梳(す)く。
はと竦(すく)む節々(ふしふし)の凍(こほ)る音(おと)。
生きたるは黒漆(こくしつ)の瞳のみ。

灰色(はひいろ)の暗(くら)き壁、見るはただ
恐ろしき一面(いちめん)の壁の色(いろ)。
熟視(みつ)む、いま、あるかなき
一点(いつてん)の血の雫(しづく)。
朱(しゆ)の鈍(にば)み星のごと潤味(うるみ)帯(お)び
光る。聞く、この暗き壁ぶかに
くれなゐの皷(つづみ)うつ心(しん)の臓(ざう)
刻々(こくこく)にあきらかに熱(ほて)り来(く)れ。
血けぶり。刹那(せつな)ほと
かすかなる人の息(いき)。
みるがまに罅(ひび)はみなつやつやと
金髪(きんぱつ)の千筋(ちすぢ)なし、さと乱(みだ)る。

灰色の暗き壁、見るはただ
恐ろしき一面(いちめん)の壁の色。
なほ熟視(みつ)む。……髣髴(はうふつ)と
浮びいづ、女の頬(ほ)
大理石(なめいし)のごと腐(くさ)れ、仰向(あふの)くや
鼻(はな)冷(ひ)えてほの笑(わら)ふちひさき歯
しらしらと薄玻璃(うすはり)の音(ね)を立つる。
眼(め)をひらく。絶望(ぜつまう)のくるしみに
手はかたく十字(じふじ)拱(く)み、
みだらなる媚(こび)の色
きとばかり。燭(しよく)の火の青み射(さ)し、
銀色(ぎんいろ)の夜(よ)の絹衣(すずし)ひるがへる。

灰色(はひいろ)の暗(くら)き壁、見るはただ
恐(おそ)ろしき一面(いちめん)の壁(かべ)の色(いろ)。
『彼。』とわが憎悪心(ぞうをしん)

むらむらとうちふるふ。
一斉(いつせい)に冷血(れいけつ)のわななきは
釘(くぎ)つけの身を逆(さか)にゑぐり刺(さ)す。
ぎくと手は音(おと)刻(きざ)み、節(ふし)ごとに
機械(からくり)のごと動(うご)く。いま怪(あや)し、
おぼえあるくらがりに
落ちちれる埴(はに)と鏝(こて)。
つと取るや、ひとつ当(あ)て、左(ひだり)より
額(ぬか)をまづひしひしと塗(ぬ)りつぶす。

灰色(はひいろ)の暗き壁、見るはただ
恐ろしき一面(いちめん)の壁の色。
朱(しゆ)のごとき怨念(をんねん)は
燃(も)え、われを凍(こほ)らしむ。
刹那(せつな)、かの驕(おご)りたる眼鼻(めはな)ども
胸かけて、生(なま)ぬるき埴(はに)の色
ひと息に鏝(こて)の手に葬(はうむ)られ
生(い)きながら苦(くる)しむか、ひくひくと
うち皺む壁の罅(ひび)、
今、暗き他界(たかい)より
凄きまで面(おも)変(かは)り、人と世を
呪(のろ)ふにか、すすりなき、うめきごゑ。

灰色(はひいろ)の暗(くら)き壁、見るはただ
恐ろしき一面(いちめん)の壁の色。
悪業(あくごふ)の終(をは)りたる
時に、ふとわれの手は
物握(にぎ)るかたちして見出(みいだ)さる。
ながむれば埴(はに)あらず、鏝(こて)もなし。
ただ暗き壁の面(おも)冷々(ひえびえ)と、
うは湿(しめ)り、一点(いつてん)の血ぞ光る。
前(さき)の世の恋か、なほ
骨髄(こつずゐ)に沁みわたる
この怨恨(うらみ)、この呪咀(のろひ)、まざまざと
人ひとり幻影(まぼろし)に殺したる。

灰色(はひいろ)の暗(くら)き壁、見るはただ
恐ろしき一面(いちめん)の壁の色(いろ)。
臘月(らふげつ)の十九日(じふくにち)、
丑満(うしみつ)の夜(よ)の館(やかた)。
龕(みづし)めく唐銅(からかね)の櫃(ひつ)の上(うへ)
燭(しよく)青(あを)うまじろがずひとつ照る。
時になほ、朦朧(もうろう)と黒衣(こくえ)して
天鵝絨(びろうど)のものにぶき床(ゆか)に立ち、
わなわなと壁熟視(みつ)め、
ひとり、また戦慄(せんりつ)す。
掌(て)ひらけば汗(あせ)はあな生(なま)なまと
さながらに人間(にんげん)の血のにほひ。
三十九年十二月

  失くしつる

失(な)くしつる。
さはあるべくもおもはれね。
またある日には、
探(さが)しなば、なほあるごともおもはるる。
色青き真珠(しんじゆ)のたまよ。
四十一年七月[#改ページ]

装幀………………………………………………………………石井柏亭
 「エツキスリプリス」及「幼児磔殺」………………………石井柏亭
挿画『澆季』……………………………………………………石井柏亭
挿画『真昼』……………………………………………………山本 鼎
私信『四十一年七月廿一日便』………………………………太田正雄
挿画『硝子吹く家』………………………………………………石井柏亭
 扉絵及欄画十葉………………………………………………石井柏亭
彫版………………………………………………………………山本 鼎




是非お友達にも!
◇暇つぶし何某◇

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