職工と微笑
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著者名:松永延造 

そっと扉を動かして、中の様子を窺うのが私の背中へ感ぜられた。私は寝返りを打つ事も出来ず、息苦しい気分になって、顔を皺めた。私はもう戦いに敗けたようであった。
 足音は静かに室内へと移った。そして私の寝台へ向ってゆっくりと進んで来た。私は心を締められるように緊張した。そして名状しがたい畏怖の念でガバと起き上った。振り返って、足音の主を見詰めた時、私は到頭、
「アッ!」と云う声を絞り出した。足音の主は四囲を見廻し、私の叫びが決して遠い室々へ迄は達(とど)かぬのを推察した。そして、
「静かに……」と手で制した。「驚くことはない、驚く事は……」けれどその声は少し慌て気味であり、自ら怯えているようであった。一体何事であったのか?
 其処に立っているのは確かに院長であった。然も平常の院長ではない。その点が私を脅やかした大きな原因であった。彼は異人風の寝巻を長々と着、房を垂らし、それから哲学者が冠り相な夜帽を戴いていた。私は斯んな院長の姿を見るのは実に初めてであった。それ許りなら未だ何でもない。彼は片手に大きな壺を抱いて、平常は青い顔を真紅にし、私を眤っと見下していたのである。この妙な行動の半分が狂気から出来ていないと誰が云い得よう。
「何うなさったのです。先生……」と私は呆気に取られつつ小声で云った。小声にである。
「いや……」と院長は口を尖らして呟くと、抱えていた壺をゆっくりと床へ下し、再び私を柔和に打ち眺めたのである。
「その壺は……」と私は段々声を細めた。
「何でもない……」と院長は自分の身体で壺を隠すようにした。
「院長さん。貴方は私を何うかなさろうと云うんですね……」私は怖え乍ら辛うじて之丈を早口に云い終った。けれど未だ何も云わない様な気がしたので、もう一度少し声を力づけて、「院長さん! 貴方は私を殺す気じゃないんですか?」と本統の所を口走った。私は本当に死の予感に打たれたのである。
「お前の言葉は何時も誇張的で困るよ。私は本統に誤解されるのが苦しいのだ。」院長は之丈云うと歩き労れた旅人のように寝台へと崩れかかって来た。私は一層心を緊縮させて、院長がブカブカに緩い寝巻の下から毒薬でも出しはしないかと眼を見張った。ああ、此の紫色の室は他の人の居る室から遙かに隔っている。私は何よりそれを恐れた。そして院長が私を此の室へ寝るようにさせたのは矢張り未知の目的の為めであった事も察せられた。だが問題はそんな点にはないのである。
「しまった!」と私は歯を喰いしばった。私は一つの兇器をも此処へ運んではいなかったのである。いや、慌てた私は咄嗟の間に何も考えたのではなかった。
「それは確かに……」と院長は案外打ち萎れて何事かを語り出した。「確かにだね。二人の人間がずっと他の目から隔離された所で一緒に居るとだね。相手に何か害を加えてやろうなんて心を起し易いものなんだ。他の多くの眼からの隔離、それは実に驚く可き恐る可き悪化を齎らし易いものだ。」
「それで……」と私は力を入れた。
「いや、お前はいけない。殺すとか、殺されるとか、そんな動詞を容易(たやす)く使うのは好い事ではない。」
「そうです。そして云うのではなく、その行為を実行するのは更に悪い事です。」 と私は少し巫山戯(ふざけ)て云った。何故なら私は院長の挙動に何の悪意も見えないのが分って来たからである。とは云え私に何が分ったのであろう。
 沈黙が続いた。院長は堪えがた相に頭を拳で叩きつつ室内を歩き廻った。私も静かに口を閉して、院長が何んな事をするか、じっと注目した。勿論、息のつまる注目である。
「……私は……」と彼は軈(やがて)て思い余るものの如く口走った。「私は此の頃、悪い悲痛に取りつかれている。お前にそれを察して貰いたいのだ。」
 私は不思議に感じた。斯んな老人と云うものは、決して若い者へ自分の弱身を表わさないのが普通であるのに、何うして彼は斯んなに老人的高慢心をなくして了ったのであろう。
「ね、お前、私は妙な癖に落ちている。一つの悔恨を想起すると、直ぐそれに関連して他の悔恨が、又それに引っかかって、更に古い悔恨が出て来る。斯うして三分の間に一生の悔恨が塊りになって私の心を押したおし、何が何だか分らない総括的なつまり象徴的な悲痛であたりが真っ暗になって了うのだ。」
 私は以上の言葉に正直な注意を向けた。そして院長が少しも偽りを云っているのではないと云う直覚で院長へ同情した。然し不思議ではないか。何故院長は不信用な私へ向って斯んな懺悔を敢てするのか?
 私は一つの推定法を知っている。若し女が自分の悲しみや苦しみを一人の男へ訴える場合がありとすれば、その悲苦が何んな種類のものであろうと、結局彼の女自身の恋愛を打ち明けているのだ。
 若しも院長が女性であったなら、彼は明かに私へ恋を打ち明けている事になる。彼は静かに足を忍ばせて私一人の居る室へ来た。そして、誰も聞かぬ所で、私に彼自身の悲しみを話しているではないか?
 私には分らなかった。分る訳がない。
「先生は私にその悲しみを打ち明ける為めに、私を此の室へ眠らせたのですね。それが本統の目的で、私の頭を平静にさせるのなんか、二の次若しくは三の次なんですね。」私は快活に笑った。
「いや、そう思われては困る……」と痩せた老人は皺だらけな笑い方をした。そして泣き相に興奮して私を見詰めた。それらの行為は皆決して尋常ではなかった。何かしら秘密が影を造って、我々の間を暗くしていた。
「それは……お前は可愛らしい。それに相違ない……」と軈て彼は独語する如くに云い捨てた。「けれど、お前が可愛らしいから、私が悲しみを訴えると思い取っては困る。私は色々のものを恐れるが、その中でも一番誤解を恐れるのだ。」
 此の言葉は私を一驚させた。他の目がない所で、一人の相手に悲しみを打ち明けるのは、恋を打ち明けるのと同じだと云う推定法を此の老人も心得ていたのである。
「奇態ですな……」と私は一人で云った。
「全く、奇態と云っても……まあ好いだろう……それに近い。」と院長は無茶苦茶に答えた。彼は又慌て出していたのである。
「例えば此の壺だが……」と老人は稍悲壮な表情になった。私も眤(じ)っと壺を睨めた。私の興味は俄かに動いた。何故なら私は骨董品が大好きであり、その為めに段々と奥深く入って、斯う云う趣味が矢張り悪と同じであり、又此の趣味が私の悪心から出ていることを悟るようにさえなったのである。□之は一般の骨董品愛好家には当て嵌まらぬ説であるが、私に丈は適切なものであり、又私自身が経験から割り出した思想なのであるから、私丈には間違いでない。モルヒネ中毒者や変態性慾者、精神病者、悪人それらの人は主に小さく部分的な人工美を愛する傾向があり、愛情の広い人、ゆっくりと落ち着いた博識の哲学者、農夫、健康の人等は遠く広く、やや粗雑な広角的な自然美を愛する性情を持つと云う点は私が態々主張する迄もなく一般の事実である。たとえ時々例外はあっても、その為めに如上の通則が全然破れる事は出来ないであろう。もう一度云う。悪人は近視的であるが、その眼球はアナスチグマットレンズのようにシャープである。善人は遠視眼である。それで、遠くの地平とか天空とか云う大まかなものをデテール抜きにしてぼんやりと鈍感に眺めやるのである。そして之等の規則は半分許り真実である。□
「此の壺を何う思う……」と老人は首を下へ向け、胃を縮めて貧相に尋ねた。
「奇態な壺ですな。」と私は改めて検べた。高さ二尺程の素焼である。其の他の何者でもない。
「此の唐草文をお前は何う思う。」
「それは飛鳥朝の時代のものですか?」私は此の方面に少し暗かった。
「之はアラビヤ文様だ……」
「先生はそんな事迄知って居るのですか。」
「検べれば分る。分らないものだって、分って来るさ。覚えて置きなさい。今に色々の事が分って来るから。」
「ですが、之には支那文様の趣きがないとは云えませんね。」
「それは寧ろ支那がアラビヤの感化を受けたのだろう。」
 院長は壺に就いての説教でもう夢中になって来た。私は此の老人の心持が殆ど解せなくなった。何うして彼はそんなに夢中にならねばいけないのであろうか。彼は何でも、自分の家の庭で之を掘り出したと云っている。そして、彼が之を黙って自分の手に入れて了った事を誰一人知っていないと云っている。然も此の二尺程の器の中には人骨が入っている。彼は臆病な手つきで、それを拾い出して私に見せたのである。
 最後に彼は思い出して云った。
「もう時間が過ぎた。」そうして壺を抱えると、悲痛な足どりをして紫色の室を去って行って了ったのである。
 私は独りになってから一層興奮した。眠れぬ眼を大きく開くと、沈思しつつ室を歩いた。
「そうだ。あの壺には何の訳もないのだ。院長は恋を打ち明けそこなったら、あの壺でも見せて、それを室へ忍び寄った理由にしようと用心して来たのだ。」此の考察は正しい如くに見えた。何故なら、彼は帰りしなに斯う云ったからである。
「……此の壺は秘密にして蔵ってあるんだ。それでないと警察へ取り上げられて了うんだ。人の骨が入っているんだからね。それで誰にも見せないんだが、まあ、お前丈にはな……」
 私はそんな壺を見せて貰える程に、院長から好意を持たれているのが、矢張り厭であった。壺の中の人骨を見た事、院長が室へ侵入した事、之等の不快な事実が私を粗暴な感情へと導かずには置かなかった。「畜生! 私は……あの婦人病患者と関係してやろう。」腹立ちまぎれに、そう決心したのは其の夜の明け方であった。私は割合臆病な人間であったので、私が一つ悪事を働く前には、必ずそれを起させる誘導的な凶事が先駆せねばならなかったらしい。院長に心を乱された事が私を再び悪い情熱へと追いやって行ったのである。考えれば、皆壺の骨に根本の罪が秘(ひそ)むのであった。

    木偶流動

 私はその後も出来る丈心を平静にして、むしろ沈鬱な日を過した。其の間に起った不慮な事件は幾つかを数え出される事が出来よう。けれどその中で一番大きな二つを選ぶならば院長の急死と、院長の子息の怪我であった。斯う並べると人間は全くヒ弱い構造を持ったものだと云う考えで悲しまされよう。だが其れに間違いがあろうか。大体の事を話せば、子息の方は今迄何処かの水産講習所や臨海実験場へ行って居たのであるが、最近に海岸の漁師達と知り合いになって、彼等が漁に出る時、その舟へ同乗させて貰ったのが悪かったのである。此の漁師達が或る魚の大きい群を見出した時、他の側に居た漁船も其れを見附けたので、両方の漁師は到頭舟を接して殴り合いを初めるに至ったのである。院長の子息は一緒になって、殴ったり殴られたりしたが、終いに頬骨を打たれて気絶したのだと云われている。斯う書いて来ると人間が全く木偶のように思えてならぬではないか。実際人間は振り子の調子につれて、カタカタと動きパタリと倒れる木偶(でく)のようではないか。私は自分が以前あの例の娘を見初めて通いつくした頃もそんな考えに苦しめられたものである。私が歩いて行くと、娘の方も表れる。私が近附くと向うが隠れ、私が遠のくと向うがバタバタとついて来たのではないか。
「畜生。」此の頃でも私は自分を木偶以上に進歩させたとは思えない。現にあの婦人病患者がバタバタとやって来る。私はそれが心に響く。ガタガタと動く漁師の喧嘩場が眼の前に浮き上がる。愛するために近づき合い、争うために吸引し合う其れ等の事象は意識もなにも持っては居ない自然現象のようではないか。
 若い人達が内省的な心理学をきらって、唯表面の変化丈を観察し、検定する事で、外面的心理学を樹立させようといきまくのはきっと彼等も私と同じような「木偶感」に縛されているからであろう。一切の形容詞を抜き去り、出来る丈動詞を多く使って日記を書き、或いは小説のようなものを書こうとする人があれば、彼も亦「木偶感」に憑かれている事が直ぐ分る筈である。
 院長は、バタバタと死んでしまった。この情景は唯スクリーンの上の映画に過ぎない。うしろへ廻っても霊なぞを踏みつぶすような危険もなにもありはしない。之は何だか厭な事実ではないか。ふり返って見ると、彼の残したのは莫大な借財丈であった。鼻柱の折れた子息は寝台の上で落ち着いては居られなかった。彼は振り子のように寝返りを打った。令嬢は兄を気づかったり、私を懐ったりして唯廊下を足音で響かせていた。
「何がバタバタだ。畜生共!」と私は時々独語せねばならなかった。
 病院は愈よ維持の困難を感じていた。院長はあんなに大きな借財をして居乍ら、何うしてあんなに呑気にしていたか? 此の点は私の大きな疑問となって残った。ことによったら彼は自殺して了ったのではなかろうか? 此の疑念は死を残忍視する私にとって当然のものであらねばならぬ。
 私は病院に飼われていた間中、遊び通していた訳ではなかった。へり下った心で受附け掛りもし、薬局へ入っては坐薬をねったり、消毒ガーゼを造ったりして働いていたのである。けれど院長が死んで、子息が暗い顔をしているのを見ると、もはや私が此処に留まる事はよくないように思われた。気の利いた私は半分無断で病院を去った。そして子息は大変にこの事を喜んでいたと私丈で推察した。
 三ヶ月後、私は到頭あの婦人病患者――もう治って太り返っているが――と関係して了った。けれど、それと同時に彼の女の妹とも関係する事が出来るようになったのは何と云う厭な廻り合せだろう。
 其の初め終りを話すのは私に取って愉快であるが、此の事件を惹き起す為めに、用いられた所の計略は何も私の独創ではない。私は少し許り知り合になった或る男から教示された通りを応用した迄なのである。
 私は妹の方を一目見ると、それが姉の方より、遙かに私の慾を吸引するのを知った。それで姉なぞの事は忘れて、妹の方へ夢中になって了った。私は例によってバタバタと行ったり来たりした。生け垣の傍の石も前の女の場合と同じような状態であった。
「生け垣が似ているのは好いとして、おお何故石迄がそこに転がっているのだ!」私は恐怖もし憤怒もした。自然が余り趣向をかえて呉れない事が私の怨恨をかり立てた。
「畜生め! お能の舞台みたいに、何時でも松の樹がありやがる!」
 私は石と生け垣の為めに今度の恋愛を尠(すくな)からず破壊された。以前にはこの上もなく懐かしかった其れ等のものが、今ではもううるさいような気がしてならなかったのである。けれど斯んな小さい事を気にするのは未だ恋に慣れぬ男である。何故ならば、郊外なぞに立っている家々は初めから皆双子同志のように似ているのだ……。
 或る暗い夜、悪い運命の橋が筋交いに十字を切る所の私の室から、私と云う一つの蝋燭が消えたとする。だが、私は死んだのであろうか。思って見て貰い度い。私は橋を何の方角に向って走ったか? 運河の真中を、時計台の鐘が十二時を打つ時、その音の余波で動いて行く一つの舟で、灯が消えたなら、何が起ったのであるかを考えよ。死ではない。唯、死に似た様な強さの情事が想起されぬであろうか?
 暗い水面へと続く、黒い大きな石段の様で、私の罪悪は何時初まったかが分明していない。下の半分は寧ろ影に過ぎない。そして水の様に冷かなのである。残りの半分は、前の半分の影で出来、過去に依って漸く色附けられる無色の現在、それが私の持つ現在であった。昔の劇場が今牢獄に変更されたとすれば、それが私の心なのである。
 いや、私はもっと燈火の届く所迄這い出して、聴き手に顔を視せよう。私は斯んな醜い人間である。だが、彼の女等は恐ろしく美しかった。実際、彼の女等の為めに、大理石さえが愛嬌を見せて凹む程であった。誇張ではない。私は石の笑靨を経験した。私は元石の様な冷たい人間だったのである。私の心はもうアカンザスの様にフワフワと浮いて来た。私の周囲にはナポリの暖風が漲って来た。スリッパから飛び出した足の様に、私の気持はスガスガした。だが、それもほんの一時である。
 考え度くない幾つかの事を、私は話さねばならない。
 彼の女等の顔は何んなであったか? それは美しかった。だが別れて来ると何うも思い出せない様な顔であった。彼の女等は何んの特長も消し去った美しさで輝く。彼の女等は鏡の様に光って然も「無」なるものであった、私が彼の女等に近附いたとせよ。私は唯私自身の姿を見るのに過ぎないのかも知れなかった。然も此処に二つの恋愛が成り立ったのを思えば、鏡は何かしら性を持っていたのである。
 ああ彼の女等の顔には変化がない。余り定まっている整いの為めに、忘れられ易いのだ。定住は無に似ている。雪が積もり過ぎたとせよ。もはや写真機を持って出掛ける必要はなくなる。後ろも前も一色の平坦! 何処へでも、坐って居る所から、レンズを勝手に向けるが好い。一と云う字が撮影されよう。それだ! 彼の女等はその一なのである。後ろ姿も横姿も見て廻る必要はない。山や森はポンペイの市街の様に下層に隠されて了ったのである。
 だから本統の彼の女等を知ろうと云うには、何でも骨を折って、廻旋階段を降りて行かねばならない。其処に初めて廃墟の様な彼の女等の冷たい心が見出されるのである。彼の女等は精緻の替りに純野を持つ埃及彫刻と丁度反対のものであった。仕掛けの細かい贋造紙幣印刷機と同じで、結果を見ない間は精巧な一つの価値で輝くのが彼の女等であった。
 愚昧の過剰から、私は彼の女等の頬へ、非現実的、骨董的な磨きを掛けて、自分丈の置物にしようと試みたが、花瓶には罅が入って了ったのである。もう之等二人は私につまらないものであった。私にはそれが口惜しくてならなかったが、人の力で何うとも治す術は見つからなかったではないか。
「女は矢張り詰らないものだ」
 私は段々遠ざかった。それもこれも私が「木偶」だからなのか? 私は振子の響きに合してカタカタと場所を変えて行くパンチと云う人形に過ぎぬのか。
 私はぼんやり街を歩いた。そして少しばかり知り合いの人に会った。
「君は未だ健康なの?」と私は不健全な問いを発した。すると私の相手も亦乗り気になって答えた。
「私はある理学者の弟子になったがね。お蔭で随分達者過ぎるよ。ウムそれに、近頃面白い事があったのだ。私の体はその儘で磁石の働きをするんだ。面白いじゃないか。私の腕に依って磁針の方角を変化させることが出来るのだ。何でも両腕が恰度両極になってるんだ。いや足の方にも同じ性能があるんだ。試験をした理学者も驚いていたよ。私位い強い磁力を持った男は少い相だ。ね君。人間は一様でない、と云うのが私の理論なんだ。」
 知り合いの男は何でもそんな風に話した。私は細かい点をもう記憶していない。私が知っているのは唯自分の淋しさ丈であった。私は海岸を歩き乍ら涙をこぼした。それから暗澹たる夜空を眺めた。遠くに火事が起っているらしく、空の一点丈が赤く色づいていた。
「人間は一様でない? 馬鹿な! 別々のものが一つに見える。姉と妹とは段々似て来る。此の頃では嫉妬の喧嘩もしない。却って彼の女等は二人で慰め合い、二人で心を合せて私を怨んでいるのだ。別々のものが一つになったのだ。」
 私は向う見ずに歩いた。と云うよりは足に体が引きずられ、体に足が引きずられて行ったのである。
 暗の中にはもう一人別の知り合いが立って考えていた。そして何時もの通り、私をさぐるような目つきで近づいて来ると
「例のバタバタは何うなっている?」と問いつめた。知り合いの眼には悲痛な色があった。
「依然としてバタバタだ。」と私はうなだれて答えた。
「ああ悲しい事ではないか。それは現象自身がバタバタなのではない。君の心! それが大変傷ついているから起るのだ。同情、……君分るかね、同情だよ、同情を以て朝顔の蔓を見てやり給え。蔓の先にはカタツムリのと同じ眼があるのさえ分るだろう。バタバタは同情の欠けた所に直ぐ起って来る一つの破壊的な渦流なのさ。それは恐ろしい。人間がべルトやシャフトや電球のフィラメントやセルロイドの切り屑に見えてよいものだろうか。」
「私を此の上苦しめるのか?」私は夢中になってその知り合いに刃向った。勿論唯斯う書き流すと、その知り合いはダイヤモンドのようなものに思い取られ勝ちであるが、実を云うと、私の周囲には私を何時も戒めて呉れるある免職教員が実在したのである。それは事実に於いてはもっと自然的に私の前へ表れて来るのであるが、私は彼を恐怖する余り、闇の中で彼の声を不意に聞くような錯覚的な記憶丈より他に何ももたないのであった。
「君は冷静なのでない、苛酷なのだ。君は自然主義の小説家のように唯一面的に苛酷なのだ。老子のように柔しく広く無関心なのではない。獄吏のように首斬り台の音丈を音楽だと主張しているのだ。悲しいではないか。バタバタは狂気の一歩前なのだよ。おお、そしてあの火事を見たまえ。病院の方ではないか。」
「そうだ。」私は萎(しお)れて答えた。何がそうだと答えたのか? 勿論両方の話し、即ち私が何うしても苛酷な事と、火事の方角が病院の近くである事の二つに対してである。

    罪は常に他の罪から起る

 急に新らしい事件である。
 火事! そして燃え上っている。病院が焼けて倒れる。それが何よりも明らかな事実であった。
 それは未だ良い。悪いのはもう一つの事であった。火事が厳密に検べられた時、私の妹丈が怯えて答えを曇らした。ああ、そして、何たる運命の狂いであるか。妹の行李が荷造り迄されて、病院から遠い物置に隠してあった事実が発見されると、眼の早い警官達は、妹に放火の疑いをかけた。
「妹! お前がやったのか? そして、昼間の中に自分の行李を焼けない所へ持って行って置いたのか? おお、それが低能の証拠なのだ! 何よりの印なのだ。」
 私は悲愁と絶望と低能な妹の代りに受けねばならぬ責任感とで、体を折られるようなつらい思いを味わった。
「兄さん。仕事がつらくてね。病院を焼いたら家へ帰れるかと思って……」
「それが低能な女の考えなのだ、世間に好くある例の一つなのだ。」全く読者よ。低能な女は他の低能な女の精神をまるで模倣でもしているようではないか? 一ヶ月新聞を読み続けた人は必ず如上の実例を二つ三つは見掛けるに相違ない。然も何うであろう。妹は全く独創的に此の犯罪を犯したのである。之が白痴に取って最大の発明なのか? そして、馬鈴薯からは馬鈴薯が出来ると云う悲しい事実を語っているのであるか?
 妹の裁判は大変に厳しかった。そして精神鑑定係りと呼ばるる自痴に近い医師は彼の女が白痴と見なさる可きでない事を主張した。□之は東京から遠い地方の事である。東京の裁判所では多くの医学博士が何かしらをしていて、犯人が白痴であるか何うかを、色々と相談する。そして、彼等は博士なのである。□
 妹は九年の懲役と極められた。
 私は何んなに沈鬱な日を送ったろう。そして何んなに妹のための罪減ぼしとして、善良な仕事と行為とを望んだであろう。此の悲しい動機に依って、私は徐々に正しい道を踏む事が出来そうになって来た。
 そして私は正直な人間に改まったか?
 否又しても大きな障碍は持ち来された。
 火事の際に焼け死んだ看護婦長の黒焦になった屍体を何時迄も記憶から除く事の出来ない私に取って、婦長の実弟である若い薬剤師と時々顔を合せるのは随分とつらい刑罰であった。私は彼を見ると釘附けにされたように血が凍り、冷たい沼の底へ落ちて行くような慚愧の念でなやまされた。ある時の如きは、狂気になったように、その弟へ縋り附いて、私は地面に坐った儘、許しを乞うた事もあったのである。
「あの白痴娘の責任は全部私に転嫁されているのです。あれを怨まずに、私を罰して下さい。私を……」
「いや、人を怨む必要はないのです。犯罪は常に一種の過失ですもの。」諦め深い若い薬剤師は人なつこく私を慰撫した。
「けれど、貴方は内心思っていらっしゃる、他の事を! 他の事を!」
「いいえ、之丈です。貴方の妹は寧ろ罪がなさ過ぎた。それが今度の過失の原因なのです。」
「貴方は何かしら私と別の考え方をしていますね?」
「そうです。探索している内に、段々と真相が別って来たのです。」
「真相?」私は直立して斯う叫んだ。
「そうです。もっと検べたら、一層真実となる所の真相です。……妹さんは単に仕事がつらい丈で火を附けたのでしょうか。え? 之は可笑しいです。いや、此処に何か秘密が隠れて居そうではないでしょうか。妹さんは力の沢山ある、そして労働をいとわない質の女であったのを私はよく知っています。それが急にナゲヤリな気を出し、仕事をなまけ初めたので、私も実は不思議に思っていたのですが、すると間もなくあんな大事をやってしまったんです。」と薬剤師は声をひそめた。
「何故妹は放火の以前、なまけだしたのでしょう。病気か過労かに依るのでしょうか?」
「其処です。勿論労れているようではあったが、病気とは見えませんでした。此の機会に貴方へ話して置きますが、妹さんは恋――たしかに恋のようなものをしていたと推定せねばなりませんよ。」
「それは過ちでしょう。第一相手になる男がないでしょう。」
「いや、男は意地の汚いものです。そして恐らく女だってね……」
「では妹は懊悩のために、仕事をなまけていたのですね。」
「恐らくそうです。」
「相手は……妹の相手は一体誰なんですか。」
「私は断言しますが……それは院長と、それから次には院長の子息ですよ。」
「え? 院長の子息! そして院長も?」
「私は此の眼で見たんですからね。[#「ですからね。」は底本では「ですからね」]」
「何を……いまわしい事をですか?」
「妹さんは紫色の室で寝た事があるんですよ。」
「え。あの小さい噴水のある室?」
「ハハハハ院長の大好きな室なんだ。あの室へ入って助かった女はないんだからな。」
「そして、院長の死んだ後には、その子息があの室を使ったのですか?」
「それは見達(とど)けてないのですが。他の場所で、二人の立って居る所を私は一寸見掛けたのです。そして私は二人の間に何かしら恋愛の火花が行交うているのを感じたんです。勿論その時は感じた丈なんですが……」
「では……あとで、もっと委しく判明したと仰言るんですね。」
「不幸な事に、その通りなんです。」
「何を見たんです。云って下さい。何うか遠慮なしに……」
「貴方! 紫色の室の直ぐ隣りは未だ人の入った事もない不用の室ですが、知って居ますか。あの室は全く何の目的もなしに空いているんです。貴方の妹さんはあの室を一週間に一度丈掃除するのですが、それに掛る時間は何時も二十分なんです。薬局の前を通って行って、又帰って来ると二十分丈何時も過ぎるんです。それが或時、三十分たっても帰って来ないんです。□私はその時或る薬を煮ていて、一定の煮沸時間を知るため、時計に注意していたんですがね。□可笑しいな、と私は考えました。一寸した戯れの心から、私はあの不用の室へ様子を見に行ったんです。すると何うでしょう。扉がしまっていて、私が押しても引いても動かないんですね。ははあ之は中から鍵がかけてある、そして、鍵がその儘、鍵穴へ嵌っている、と私は感づきました。そして室を掃除するのに、鍵を掛けると云うのは何より理に合わない話しではありませんか?」
「妹は……中に居ったのですか? 泣いてでもいたんですか?」兄である私は当然他人よりも熱心になって訊いた。
「私は悪い所へ来て了ったと思いました。唯それ丈です。勿論ハタキの音も何も聞えませんでした。それから、ずっと後になって妹さんに鍵を持っているのかと尋ねて見たんです。答えは私の予想通り、若い主人が持っているのだと云うことでした。私は単なる興味丈で、そう云う事を探るのは罪だと思いましてね、その先を突き詰めて聞くのを態と避けたのですが、今になって見ると、もっと深く知って置けばよかったと悔いているのです。と云うのは……」と薬剤師は悲しげに、私の方へ顔を寄せた。
「先へ伺って置きたいのですが、あの放火と、その恋愛とには、何か関係があるのでしょうか?」私は斯う念を入れた。
「あるからこそ、お話ししてるんです。」
「では、何故、判決以前に知らして呉れないんです。」
「その頃はね、何しろ、姉の非業な最期のために、私も反省や洞察の力を全然失って了っていたし、未だ、本統の急所は気附かずにいたものですからね。」
「そうです。貴方の姉さんの死の事を考えると、私はもう肋骨を引きはがされるようなんです。」と私は下を向いて呟いた。
「油で黒くなって、眼球から湯気の立っていた有様を私は何うしても忘れ去れないんです。」薬剤師は涙をためて私を怨めし相に睨め、それから又思い出して続けた。
「もう云いますまいね。貴方も私も不快になる丈ですから。……いや、それより、あの院長の子息が大変好色な事は死んだ姉からもよく聞きました。姉へも妙な話を持ち掛けたんだ相ですからね。それから貴方も姉に云い寄った事があるそうですね。姉は貴方を讃めていましたよ。」
「それは何かの間違いでしょう。貴方の姉さんは私にそれとなく何かを仰言ったり、手紙を呉れたりしましたがね。未だ何でもなかったんです。私から云い寄るなんて、そんな事はありませんでした……」私は黒焦げの女を思い出しつつ気味悪く否定した。
 会話は長く続けられた。そして何でも一番の罪は院長の子息にあるらしいと云う判定に到着した。一部の噂に依ると、息子は父の残した大きな借財の始末に窮し果てていたのである。そして院長の死後急に寂れ出した大きな病院の維持も覚つかなくなっていたらしい。「焼けて了った方が結局利益になる。保険金が入れば、それで他の小さい事業に移れる訳だ。」と云う考えは当然息子の頭の中を往来したのであろう。けれども自分で放火すれば陰謀は直ぐ発覚して了うに相違ない。色仕掛けで心を捕えて、白痴の娘を利用しようと云う悪辣な考案が何うして続いて起らずにいるだろうか。
「それなんです。」と薬剤師は恐ろしい形相をして云いよどんだ。
「確かですか?」
「恐らく之より確かなことはない筈だ。貴方が女から生れたと云う事より、もっと確かだ。分りますか? 然も貴方が女から生れかかっている所を誰も見たのではないんです。」
「それで息子の罪については、何の證拠もないと云うのですか?」
「少しはあるんです。妹さんは時々独り言を云う癖があるでしょう。或る時、洗濯物を抱えた儘で『貴方、貴方、貴方!』と口走っていたんです。誰だって、自分の事を貴方なんて云いはしませんからね。」
「それは證拠とは云えませんね。」と私は薬剤師を少し疑った。けれども、私は妹が院長の息子のために貞操を傷けられ、その上、詐欺的犯罪の犠牲となって、獄舎へ迄も引かれたのだと云う漠然とした観念を植えつけられずにはいなかった。
 怨恨と憤怒とは再び私の心を領した。薬剤師と心を組んで、色々の噂や、息子の様子を探れば探る程、疑いは真実と代って行った。
 残忍な内謀は日に日に私の心の中で育って行った。読者は忘れたであろうか? 私は一時自暴自棄と依怙地とから、犬殺しにさえ進んでなった、暗怪な青年である。
 私は殺人を夢み、又妄想し、遂に意図し、企画し初めたのである。刃物は用意され、逃げる道が地図の上に赤い線で記された。
 ある人は私の愚を詰って云うであろう。何故お前は真の犯人たる院長の息子を其の筋へ訴えないのか? と。
 けれど、それは私の眼から見るなら無駄事としか思われない。起訴した処で、我々が敗けるのは初めから判明しているのではないか。
 息子は妹を強いて姦したと云うのではない。又放火を教唆したとしても、その證拠は上っていない。それに裁判官達にも名誉と云うものが必要である。そして之は真理を葬ることに慣れた一地方に起った事である。間違った判決をその儘で通すのが、彼等に取って最も利益であるのは判り過ぎているではないか。それが彼等の妻子を安全に暮させる最上の方法である。それが彼等の鬚に滋養をつけ、一層上方へ伸び上げるようにする最適の方法なのである。裁判長の鬚は後ろからでも見える――その鬚こそ此の地方での最も誇る可き名物だったのだ。裁判長は神経衰弱に落ちて、カルシュームを含むカルピスと精力素と云う薬と、ヘモグロピンとヴィタモーゲンとを服用し、その上にビフステキを食べるのだが、其れが皆鬚になって了うのである。

    朝鮮人を憐む支那人

 何うして忘れ得よう。そして何を忘れようと云うのであるか。いや、反対に、私は記憶のあらゆる粒を一時に思い浮べるのだ。
 私は歯がみをし、骨が響きを発する程に腕を振り、又眼前の物体は何に限らず蹴返した。あの沈着で痩薄な院長、彼が恐らく病的に迄も進んでいた色魔であったことを、私は今漸くにハッキリと思い当たる。私が紫色の室に休んでいた時も、記憶力の鈍い院長は誰か女性を閉じ込めてあるように錯覚して、私のもとへ忍んで来たのかも知れなかった。あの赤くなった顔、私に媚びを作る猫のように光った眼なぞが、一時に私の頭の中を這い廻った。おお、そして院長の子息も斯んな卑しい気質を残らず遺伝していたのである。妹は何と云う哀れな娘であったろう。彼の女は二人の乞食の耻を、一人で受けたようなものではないか。
 それだのに、私の復讐心は何故もっと強烈に燃え上らないのか? 私は実に自分が中気病みででもあるかの如く、町や室中をよろめき歩いた。けれど、何時迄待っても妄想が実行に変化する機会を捕え得なかったのは一体何故なのであろうか――私は自分に聞いて見ている――勇気! それから真心! この二つが欠けた所に、興味中心の残忍性丈が狂い廻っているのではないか? そして私は遂に心の弱い青年――悩む事を知って、切り抜ける事を悟れぬ愚かな男に過ぎなかったのであろうか。
 興味から来る残忍! それは多くの殺人者に取って必須の要件である。けれど、私の場合では、その興味を求める願望が本能的と云える程には狂暴でなかったに相違ない。
「駄目なのか? 本統に実行出来ないのか?」私は自分の胸を棒で打っては斯う問い続けたのである。
 私は実に、斯んな工合であった。自分を嘲ける悪魔の声が、自分の心の中で聞え初めた時、私は何んなに絶望して床の砂を嘗めたであろう。悪人ぶると云うことを誇る程、私は未だ幼稚で善良であったのか? 殺人の妄想は単に脆弱な心の強がりであったのか? 曲った心の敗け惜しみに過ぎなかったのか? 之が問題なのであった。と云っても、私は何一つ弁解しようとは思わない。自分はやはり、結局、こんな工合で中気病みを続けた丈なのである。
 その頃、私は自ら進んで、ある免職の小学教員と知り合いになった。事の初まりは、私が彼の落した財布を送り達(とど)けてやったと云う些末な点に過ぎない。けれども、私達は直ぐ親しく語り、連れ合って散歩する迄に友誼を進める事が出来たのであった。
 或る日――二人は約束に依って、裁判所の前で出会い、此の町で起った一つの大きな事件――朝鮮人の十三人斬り――に関する裁判を傍聴した。その小学教員は「社会から不当な取り扱いを受けた哀れな男が、如何に彼自身も亦社会を不当に取り扱うか。」と云う事の実例を求めるため、私は又私の流儀で、十三人の人を斬るには何んな決意と勇気とを要するかを知るために、耳を澄ましたのである。
 約(つづ)めて云って了えば斯うである。哀れな被告、高と云う名の朝鮮人は、裁判長のやさしい質問に対し、一気に答えるのであった。
「私は馬鹿者です。何故この日本へやって来たのか? それが分らないのです。いや分っている。故郷で義理の兄にえらく侮辱され、蹴飛ばされたんです。その有様を、私の恋している女が見て笑ったのです。それで日本が大変恋しくなって、そこへ行ったら、お金にもなり、やさしい人が待っていて呉れるように思えて、到頭、跣足になる程貧乏しながら、このお国へ渡って来たのです。それから六神丸と云う薬と翡翠とを行商して日を暮し、もっと悪い事もしながら、夜学で法律普通科を半分やりました。電車の車掌になってからは、日本人の女工を妻に貰いましたが、その女は私の子を妊んで呉れないのです。「何うか一人丈でも好いから生んで呉れ。」と願っても、女は唯笑っていて、やはり生んでは呉れないのです。私はそれが不思議で困りました。きっと私を愛していないのだと気づくと淋しくて、又帰郷したくなりました。斯んなつらい思いをしながら、私は妻の兄夫婦と一軒の家を借り、半分ずつ使って、半分ずつ家賃を払っていました。所が義理の兄は子供が二人もあると云う口実で、段々室を大きく使い、台所も自分等丈で使うようにシキリをして了うし、私が寝ていると、態とまたいで便所へ行き来し、その上、私の妻へ一人の男の子を抱いて寝かさせ、私は戸棚を開けてそれへ二本の足を突込んで寝なければならない程、場所をふさげられました。そんな事を忍べば忍ぶ程、兄夫婦やその子は私を馬鹿扱いにし、嘲けり笑い、私が卸した許りの手拭いで泥の手をふいたり、私の茶碗へつぶした南京虫を一杯入れたり、六神丸を無断で売って、その金を使って了ったり、私が買った炭を平気で盗み、その度に私へ悪口をつくのです。兇行の前の日、兄の妻が私の金だらいへ穴を明けて、知らぬふりでいるから我慢出来ないで、二言三言云い争いをしたが、その事を兄へ云いつけたと見えて、兄は醤油の壜で私をなぐったのです。血と醤油とに染って私は眼を開く事も出来ずに、唯暴れていると、兄の妻は口惜しまぎれに私の急所をつかんだので、私は気絶して了ったんです。ああその時です。私に水を呉れたのは私の妻だったんです。お前は……お前丈は私の味方なのかと云って私は妻に泣き縋りました。妻は姉の毛を引張って、後ろ倒しにしてやった事を涙乍らに語りました。私はその涙を見たばかりで一切の立腹をこらえようと決心しました。皆から憎まれている時、たった一人の者に愛された気持を誰か知っている人はありませんか。おお……」と彼は手ばなしで泣いた。その時、傍聴席の一角からも細い女の歔欷が聞えて来たので、その方を見ると、高の妻らしい貧乏な女が顔を脹らして泣いていたのを私達は知った。
「それからY署へ連れて行かれたが、巡査たちが皆兄の方を信用し、私を危険人物のように睨め廻すんです。疑い深い沢山の眼に取りかこまれて、私は又頼り所のない淋しさと憤怒とを感ぜずにはいられませんでした。兄は『あの金ダライは元私のもので、高は勝手に彼の名をペンキで書いて、自分のものだと云い張るんです。』と誠らしく訴えました。警部は直ぐその言葉を信用して了って、はては多くの巡査や、集って来た車掌迄が、さんざん私を嘲笑したんです。いくら私が異国のものだと云って、之はあんまりひどい。ひどすぎます。私は眼がつぶれたように悲しくなり、そこいらが真暗になって了う程、耻辱を感じました。なんぼ朝鮮人だって、心と云うものは持っています。何方を見ても真暗で、自分の本統の心持や、正直な考えを聴いて呉れる人がないのを知る時、人は無人島へ行ったよりつらくなって了います。無人島に着いた男は王者のように自由です。けれども此処では……闇にとりまかれた盲目で跛の奴隷が見出される丈です。信頼していた警官たちまで、こんなに私を憎み、私を疑い、卑怯な片手落ちをして少しも自ら耻じないんです。此の上は自分の憤りの治る迄人を殺し、自分も地獄へ堕ちて、新らしい世界に住もうと云う心が起きずにはいられないではありませんか。おおそれが何故無理なんです。いいえ、私はもう決心しました。私は刀を磨ぎ初めました。すると隣りの親切な老人が、『高さんは遠い所から来ていて淋しいんだもの。何事も公平にし、喧嘩の元を引き起さないように……』と兄の妻へ話しているのが聞えました。ああその時、私は何んなに刀を磨ぐのを控え、感謝の心を以て怒りを飲み込み、こらえ、しのんだでしょう。私の妻も声を立てて泣いて居りました。」
 高は途切れ途切れに以上のような告白を語り明したのである。傍聴席の妻女は到頭狂的に泣き出して、誰かの注意で外へ押し出された。
 小学教員は沈んだ顔になって、私とは別の事を考え続けていた。
「ああ」と私は体をふるわし、自分のと他人のとを一緒に混ぜた涙をためて独語した。それから□後になって考えて見ると□私は夢中で駈け出したに相違ない。朝鮮人の妻に追いついた私は、彼の女の恐れるのをも構わず、彼の女の肩を撫で、髪についていた藁屑をつまみ取ってやった。
「何すんの?」女性は私を怪しみ訝った。
「無理はない。貴方も私も疑い深くなっている。お互いに殻を背負っている。私が恐く見えても、ああ、それは構わない。我々はセンチメンタルな事はきらいなのだ。だのに私は此の通りなんだ。」そう云うと私は真赤な眼から大粒の涙をふり落し、軈(やが)て、男らしくない挙動を耻じるように、女性の前から姿を消し、溝の中へ持ち合した四十銭を捨てて了った。
 朝鮮人、支那人、それから彼等に似た日本人、可哀想な彼等の中に、此の私も一員として加っている。それが事実でないと誰が云おう。私は自ら痛みつつ又彼等を痛み愍れんだ。あの一人の朝鮮人に、私の生命の半分がつながっている。私を見ようと思えば、彼を見るが好い。若し私が彼であったら、私は彼のなした通りをせねばならなかったであろう。いや、聖者と呼ばるる特別の人を除いたあらゆる普通の人なら、彼の如き境遇の中で、その徳と智慧とを完全に保つ事は六ヶ敷いであろう。
 彼は悪い男である。それに何の間違いがあろう。けれど私は余りに好く知っている。他の事を、他の事を、斯んな種類の悪は自身で自然に湧き起る力のないことを! 之は善を隔たる一歩のものであることを!

    復讐の代償

 未だ何かが続いている。
 私の所へ不愉快な手紙が達いている。それは例の哀れな姉妹からであった。彼等は初めの中こそアバズレであったが、今ではまるで継子のように言葉も少くなって了っていたのである。男を知ってから縮み上って大人しくなる女は決して少くない。私のある知り合いは電車の中である女と近づきになった。二人は図々しく郊外の畑道を歩いた。男は好い気になって女と関係し、それから小使いを呉れとせがんだ。女は一円呉れて、あとはお前と一緒に連れ添うてからやると云った。男は承知しないでもっと出せとせがんだ。すると女は怒って男の襟をつかみ、ふり廻し、「私を唯の女と思ってるのか?」とおどした。男も黙っていなかった。「この畜生!」と怒鳴ると女の首を絞めた。女は手を合せて拝み、それからは大人しく何でも男の云う事に従った。何か新らしい事を教えると女は男を尊敬するようになるのである。
 それだから、あのアバズレ共が今になって何れ程私から新しい世界を見せられ、そこへ導かれたかは云う迄もないであろう。
 来た手紙には斯う書いてあった。
「……本統に私達は生きていたくありません。生きていたって、生きている気持がしていませんわ。」私は口惜しそうにそれを破きすてた。
 又その次に姉丈が一人で手紙を寄越した。
「……貴方は何んと云う方でしょう。愛する印だと云って私の腕へSと云う形の傷をおつけになりましたね。そして、ああ何と云う事でしょう。妹の腕を見たら……そこにも矢張り、Nと云う傷がありましたわ。私は貴方の心持が分らないで泣いて居ります。」之が新らしい教えの一つである。
 又その次に妹の方がサッサとよこした。
「………私丈を連れて逃げて下さい。私は怨んでいますよ。」
 それから別々に沢山来た。又一緒に書いても来た。もう無茶苦茶に書いてあったり、丁寧に考えて書いてあったりした。大概は馬鹿な事が云われ、時には利巧な事も云われてあった。無為に然も急速に時がたって、又手紙が来た。
「……貴方は何故何うにかして下さらないのです。私達は之から何うなりますのでしょう。ああ、困ります。
 今日或る人が噺した事を聴いて、私達はふるえました。それは斯うで御座います。
 去る十二日、身元不明の妊娠女の溺死体が石油庫の前の川へ流れて参りますと、続いて又異った妊娠女の死体が出て参りました。一方は初めから浮いていました。もう一つの方は呼ばれたように底から出て来て、浮いてる方のそばへ行きました。すると両方の鼻から血が出たと云う事でした。あとで検べたら、二人は同じ模様の長襦袢を着ていました。二人は姉と妹であったのです。姉は妊娠四ヶ月妹は五ヶ月であった相です。妹の方が一ヶ月先へ妊娠していたのです。ああ、貴方何う云うお積りなのですか。分りません。私達は泣いて居ります。この人々のようになったら何うしましょう。そして、この人々のようになるのは随分たやすい事ですわ。二人で心を痛めておりますわ。ああお怨み申します。」
 まずい文章ではあるが思っている事の十分の一位は表現出来ている。二人はそんな話をきいて悲しみのあまり手紙を書いたのであろう。そして可哀想に文章にはその悲しみさえよくは表れていないのである。
 その又次には妹がよこした。
「……姉はあんな病気をしたのですもの。決して心配はありません。きっとまだ出来ては居りませんでしょう。又そんな事をきいても見ません。けれど私は丁度年も宜敷く、丈夫な身ですもの、今度こそは妊娠だと思います。ああ、あなたは何うして下さいますか。此の前のように間違いであったら好いと思っていますが。今度は何うしても間違いではありません。何うしてもそうのようです。怨みます。もう死んで了います。早く来て下さい。私丈と逃げて下さい。」
 姉の方は姉の方でやっていた。
「……貴方はあんまりです。私は川へ入って死んで了います。妹と一緒に死にます。あの此の間あった話のように。……妹は毎日吐いています。あれは妊娠したのです。けれど貴方の子ではありません。あれはまだ他に古い馴染を持っています。貴方はそれを信じないのですか。」
 未だ未だ手紙は来ては破かれ、捨てられた。
「畜生!」と私は独りで怒鳴った。「手前達二人に情死なぞ出来るものか? お互いに殺しっこをしても自分は救われようとしている癖に、二人で川へなぞ入れるものかい、馬鹿! 手前等は引き潮の時に潮干狩りでもしやがれ。二人で引かき合え。喰いつき合え。だが何うして一緒に姉妹心中なんかが出来るもんかい。」ああ之は何と云う無慈悲であったろう。
 妹の冤罪で憤怒し狂乱している私の心は全く悪辣になった。私は自分でそれを悲しみ、泣き、悔い、又怒った。そして結局は何も悲しまず、悔いないのと同じであった。
 そして時には、自分と自分の周囲とを忘却するために、憎んでいる女等のもとに走っては、獣の如きことを繰返した。女等はその度に思い出して私を怨み、時には柔かな手で私の頬を打った。何故か私は「打て、もっと打て!」と叫びつつ、少しも抵抗しなかった。それは相手を憐愍するから起る忍耐ではなく、ああ実に、聴く人があらば聴いて貰いたい、実に、それは、自分から自分を侮辱し軽蔑する自棄と放胆とから生じた忍耐であった。
 では之が一切であったか。之が起った事の凡てであったか。いや、之からが本統の話しになるのである。
 云い忘れて了ったが、私は病院に寄食していた頃、カリエス患者のコルセットを造るため、セルロイドを取り扱う事に習熟したので、その後もあるセルロイド工場へ入って生活費を得ていたのである。
 そして、他を罰してやるためには、自分を出来る丈正しく保たねばならないと云う考えで、自分を鞭打った。けれども之が私に取って無効なる痛みに過ぎなかったのは、何と云う悲しさであったろう。
 正直に云って了う。一つの憤怒を抱いた人間は、却ってその憤怒のために堕落しやすいものである。ああ、私は何れ程心の平静を望んだ事であろう。此の憤怒! この動乱がいけないんだ、と叫んでは、自分の爪で自分の胸を掻きむしった。之は何と云う矛盾した心理であろうか。憤怒があればこそ罰を謀(たくら)むのであり、罰を謀むから、正しい心を欲するのであるのに、正しい心を持つには、憤激それ自身が邪魔となるのである。
「えい! 何たる苦しみの鼬ごっこだ!」何度操返しても、それは実に同じであった。
 然し私は心を取り直した。□少くともそう思われる。□同じ工場に通う老いた職工が火傷のために休職し、喰うにも困っているのを聞くと、私は深甚な同情のようなものに刺戟され、そして、露店を出してセルロイドの櫛やシャボン入れや、その他の小さい道具を小売りし、儲けた利益丈をその老人と家族へ恵んでやろうと云う企画で私を喜ばした。
 実際、私はその企画を実行する勇気を持つ事が出来た。ほんの宵の中丈露店を開くのではあるが、疵物なぞを安く割引して売るために、客の足は思ったよりも繁かった。そこ迄は実によく行ったのである。その先は何と云う悲惨であろう。
 私は薄暗い燈火を前にして、地面の上に坐ってい乍ら、眼前に蹲踞んで、櫛を漁っている美しい若い女性を横目で見た。彼の女の挙動には強いて落ち着を見せようとするため、却って慌てているような風が窺われた。いやそれのみではない。彼の女が私の眼から隠れて、一本の櫛を盗み取り相にする所を私は不意と直覚した。勿論その時に、私が眼を正面へ向けたならば、女性は罪を犯し得なかったに相違ない。けれど意地の悪くなっている私は自然にそうする事を耐えて了った。
「待てよ。あの女は盗もうとしている。だが私の注意を恐れて、躊躇している。悪い女め! 私が何も知らないと思っているのか? 私がお前を罪に陥してやろうとして、態と見ぬふりをしているのが分らないのか?」
 之は何よりも悪い思想である。盗む機会を態と与えてやる人は、恐らくその機会に引き入れられて、盗みを行う人よりもより多く有罪であるに違いない。
 私の不注意と無関心とを覘っていた娘は、不意に一本の櫛を抜き取って、袖の下へ隠した、立ち上ると、今度は袂の中へ押し込んで、急いで闇の濃い方へ消え去ろうとした。
 痛々しい生活に疲れて、何の慰みもない私は、此の時久しぶりに淋しい微笑を洩らしたのである。それは何とも云えぬ意地悪い、悪魔的な笑いであった。私は網を掛けて太った鴨を捕えた百姓と同じ心持になって立ち上った。
 私は或る露店で女性の後ろ姿に追いついた。
「へへへへへ―へへへへへ」と私は唯笑って跡に従った。けれど、「貴方は盗んだね。」と難詰する事を何故か控えて了った。此の忍耐が何よりも悪かったのである。私は何も弁解しまい。私には実を云うと私の心理がよく分らない。痛み――何か漠然とした痛みがあった丈なのである。
 娘は一寸振返った。彼の女は確かに驚いた如く見えた。見えたと云っても、其処は全くの闇の中だったので、或いは彼の女は私を見なかったかも知れない。又私を見たとしても、それがセルロイドやエボナイトの商人だとは感附かなかったかも知れないのである。
 私は忍耐した。それは実に悪性の忍耐であった。露店の方を捨てて置く訳に行かないのを感附いた私は、盗人の娘から分れると直ぐ道を取って返した。ところが半ば迄帰って来ると一つの悪心が明瞭にカマ首を持ち上げて来たのを、私は闇の中に見附けた。
「店は何うでもなれ! 私は面白い事の方へ行くんだ!」
 私は再び娘を追った。そして何処迄も声を掛けずに跡をつけた。娘は一つの家の前に止まり、中へ入ろうとして一寸注意深そうに後ろを見た。その時である!
「お嬢さん。へへへへへ」と私は闇から首を伸ばした。娘は血が凍ったように直立した。そして、何処からか漂うて来る極く僅かな燈光で私の顔を見入った。彼の女は初め歯の根も合わぬ口を動かして、何か云い出そうとするようであったが、不図思い返したように恐る恐る袂から例の櫛をそっと出して、今度は力強く突きつけた。
「そんなもの、地面へお捨てなさい。へへへそんなもの入りません。へへへ」と私は低い劬るような声で呟いた。それが却って娘を戦慄させたらしかった。彼の女は唖のように唯オオオオオと口走った。事に依ったら本統の唖かも知れなかったのである。
「お嬢さんの名は?」と私は試しに尋ねた。
「ミサ……」と女性は服従的に答えた。
 おお此の女性は本当の悪人ではない。彼の女はすっかり恐怖している。そして私を巡査と同じように尊敬している。人が悪事を後悔した瞬間程屈従的な心に変ずるものはない。そんな時には弱い子供に打たれても、打ち返す力さえ出ないのである。
「之、貴方の家?」私は少し威嚇的に訊ねた。屈従に対して威嚇を強いるのは人間の持ち前である。
「ええ……」
「あしたの晩、ここへ忍んで来るから会って下さいね。私は貴方を美しいと思ってるんです。」私はやさしく、大人しく頼んだ。
 女性の顔は再び変った。彼の女はよろけながら後じさりをした。困惑と絶望とが体中に見えた。
「ああ……それは……」
「いけないと云うんですか?」
「でも……」
「あの事……あの事が世間へ知れたら困りますよ。分ってますね。」
「分ってます。さ。お返ししますわ。許して下さいましね。」娘は初めて涙を落した。
「それは入りません。そのハンカチを下さい。」私は斯う云って女性の手にあるハンケチを取り上げた。
「では、きっと私に会って下さいね。私はもう、貴方に恋して了っているんです。」
 女性は私を眤と見詰めた。そして恐怖しながらも、私の顔が嫌いでないのを感じた如くに見受けられた。彼の女は少しの間、目を閉じて考え続け、やがて黙って家へ入ろうとした。
「あしたの晩の八時! 間違いなくね。それでないと世間へ知れますからね。」
「え! 考えときますわ。」
「今、承知して下さい!」
「では、八時!」
 娘は家の裏へ逃げて行った。私は緊張の後の疲れを感じて、淋し相に店の方へ帰った。
 ああ何と云う悲しい陰惨な計略!
 私は闇を歩き乍ら、自分を憐愍して、女のように嘆いた。本当に電柱へ縋って嘆いたのであった。
 全体之は何であるか? 私は何を悩み、何を為しつつあったか?
 私には全く反省力が欠けているのか?
 否、私は自分の心の闇を見詰めるのが恐ろしいのであった。然もそれは結局発(あば)かれずに済まされないものだった。
 私は静かに注意力を集め、見る可きものを指摘せねばならない。分っている。私が本来望んでいるのは女性を虐待する事ではなかったではないか。妹のための復讐! それが初めでもあり、終りでもある唯一のそして重要な予定ではなかったか?
 皆分って了っている。今更弁解は一切不用であろう。分っている。実に、人々よ。鬱積せる復讐心、満たさるる事なき一つの願望、それが目的の道を閉ざされた時には、必ず曲った方向へ外れて行かねばならない。
 精神分析家はそんな傾向から来る悪い行為を「復讐の代償」と呼ぶが好い。私は実に新しい相手へ向って無意識的に「代償」を実行したに相違ないではないか。自分の苦悩を軽減するために、他人の苦悩するさまを見て楽しむとは……ああ、それは虎にも獅子にも具わっていない特異なる残忍性の発露である。私が男らしくなく泣き崩れ、何処にも救いを見出せない闇の中を這い廻ったのは、以上の事に気附いたからであった。
 蛇と鰐と狐とを混ぜ合して煮ても、私の心よりひどい濁りは浮いて来まい。
 今、今ならば何うにか直せそうである。早く、早く、私はあの娘にもう一度会って、私の醜い謀みを詫びよう。ああ彼の女は何んなに眠れぬ時間を持ち扱い、悔恨と困惑とで懊悩している事であろう。彼の女は罠に陥ちた兎よりも、もっと憐れ深く悶えているに相違ないのであった。
「復讐の代償」……そんな卑怯な陰惨なものがあって好いだろうか? 実にもう何の弁解も入りはしない。唯一つ云って置こう。弱い心と卑怯とは同じものを意味するのである。

    悪心の中に包まれ育つ善心

 闇は限りなく濃くなって、気体でなく、固体――油じみた古い布団のように私を圧した。眠ろうとしても心の静かにならない哀れさ。髪の毛の生え目は一つ一つに痛み、眼や鼻は硫黄の煙りで害されたように渋く充血した。
 道を曲げてはいけない! 一つの目的を明確に意識せねばならない! 復讐の相手の顔から眼を外らしてはいけない!
 正直な心、曲らぬ心、何故それをはっきりと保ち得ないのか?
 けれど軈て私は熱っぽい眠りに堕ちて行った。夢は再び私を悲しく覚醒させた。何でも太って赭い顔の男が私に斯う話したのである、
「兄弟を殺しても、御免なさいと云やあ、それで済んだ時代があったさ。時代、時代がね。」
 それから想起し得ない混乱の後に、私の亡父が表れ、不快な舌を以て呟いた。
「帽子を盗んでも、首を切っても、同じ位の罪しか感ぜぬ人間もあった。それから、それで好い時代もあった。時代も。」
 私は恐怖する。之等の夢の示現は何を意味しているのか? 私は心の奥底から後悔していない為めに、斯んな荒れた考えを夢みるであろうか?
 私には分らない。あまり信用のおけぬ潜在意識下に何か私の顕在意識と異った思想が埋没されていて、それが浅間しくも夢の姿で現れて来るのか? 私は根からの悪人なのか? それとも、之は何か心の狂いに過ぎぬのか?
「楽しい場合にも、苦しい場合にも、お前達は互いに人と人との間の深い縁を感じあえよ。楽しい場合には、それに依って楽しみが倍になるし、苦しい場合には、その苦しみが和らげられるのではないか。」
 私は此の頃強く痛く如上の言葉の正しさを感じているのだ。それは簡単な教えである。
「愛してやれよ。」と云う声が上から聞え、
「愛して下さい。」と云う声が下に聞えているではないか。
 私が火傷した老職工の家庭を助けてやろうと考え、又それを実行して来たのは一体何故であり、何の目的であったか? 之をも「復讐の代償」と呼び捨てる無慈悲な人が何処にいるだろう。ああ之が自暴自棄から起った業とらしい忍苦だと誰が判断するか?
 おお、眼にはっきりと見えて来る。老人は爛れた神経の尖に熱した針の苦痛を味って床の上を転がり廻っている。幼い子供は恐ろしがって南京鼠のように怯え、慌て、這い廻っている。一番小さい子丈が平気で、お椀へ一杯砂を盛り上げて、何の真似か知らぬが、小さい手を合せて拝んでいる。
 之は何でもない事だと、耳で聴いた人は云うであろう。だが眼で見たものが、此の哀れな生きものたちへ「復讐の代償」を試みる勇気があろうか? 「愛してやって呉れよ。
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