東京人の堕落時代
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著者名:夢野久作 URL:../../index_pages/person969

各地から新しい職業婦人を輸入して、千束町に代るべき頽廃気分を作るためであった。又、そうでなければ当局が許可する筈もなかった。
 しかしその結果が可笑(おか)しな事になった。東京市内の遊蕩児の相手になる女は、全体から見て却(かえ)って増加した事になった。つまり浅草では、六百人の女がタタキ散らされたあとに、又六百人の女が公然備え付けられた事になった。

 しかもそれ許りに止まらぬ。
 浅草は震災前から特別な処である。しかも震災後、各種の興行物や飲食店なぞが作る、所謂浅草気分は数層倍濃厚になった。これに吸い寄せられて来る人々も震災前に数倍した。
 ところで浅草気分に浸(ひた)りに来る人々は皆、或る種の欲求を持って来る人々である。その欲求の大部分は芸者では満たされない。一円五六十銭から七八円の女を求めて来る者が、二三十円から四五十円の女を求めて来る者よりずっと多いのは無論である。
 こうした低級な享楽的要求に満ち満ちた浅草界隈に、こうした低級な享楽気分を売る店が出来るのは当然である。券番だけで足りないのは当り前である。事実、浅草の千束町が潰れると、浅草全体が千束町となった。もっと華やかな、もっと濃厚な、そうしてもっと広い区域になった……と知るや知らずや、その筋のお役人は、千束町のあとに並んだ果物屋だけを勘定して、浅草は廓清(かくせい)されたと云っている。
 それだけならまだいい。

     醜業道の奨励、宣伝、講習のためその筋の鞭に追われて

 吉原の遊女は震災前より約一千人程減った。おまけに千束町が潰れた。
 一方に、東京市民の淫蕩気分は弥(いや)が上に甚だしくなって来る。どこかにセリ出されねば納まりが付かぬ。
 ところで、千束町に居た六百人の私娼はどこに行ったかと云うと、亀井戸、柳島、玉の井、尾久の方面に固まって逃げ込んだ。そのせいか、震災後のその方面の繁昌は恐ろしい程だという。
 御存じの方は御存じであろうが、警察官やその方面の営業者の話に依ると、千束町の女は日本全国のどこの女にもない特徴を持っている。何という事はなしにお客を引きつける力を持っている。その代り一度千束町に落ち込んだ女は、永久に醜業を止めようとしない。この傾向は一般の醜業婦にもあるが、千束町のは特別だという。
 こうした特徴を持つ千束町の女が逃げ込んだ処の女たちは、皆非常に刺戟された。イヤでも腕を研(みが)かなければならなくなった。一方にお客の方でも、なじみであるなしにかかわらずそんな方面を撰んで押かけて、そんな女を奪い合って遊ぶようになった。何の事はない、千束町の女は、醜業道の宣伝と奨励と講習のため、その筋の鞭に追われて、東京市内外の各所に派遣されたようなわけになった。

     何百何千の女の祟(たた)り

 記者は私娼公娼の廃絶論に満腔の敬意を払うものである。同時にその議論が事実上常に裏切られつつある事を悲しむものである。
 東京の千束町を只一ヶ所たたき潰したために、東京はその何層倍の呪いを受けている。この上吉原まで潰したらどんな事になるかわからない。
 宗教上、道徳上、社会政策上、又は単なる体裁上、私娼公娼の存在に反対する人々は大切な事を忘れている。女というものは殺すと化けて出るものである。況(ま)して、何百何千の無恥無教育の女の生業を奪うような事をしたら、どれ位祟られるかわからない。
 目的は要するに一般の風俗の改善である。この目的が達せられない限り、私娼公娼の絶滅論は考えものである。本(もと)を忘れて末(すえ)に走った議論である。或る一時の人気取りの議論であると云われても仕方があるまいと思われる。
 これは議論に対する議論でない。
 議論に対する事実である。
 東京人の堕落時代が明瞭に証拠立てた事実である。
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   不良少年少女



     東京に行きたがる子女

「東京に行きたい」と、あこがれ望む少年少女は、天下に何人あるかわからぬ。その子女を東京に遣っている父兄、又はこれから東京に遣ろうとする親達も現在どれ程あるかわからぬ。東京は若い国民の教育の中心地である。同時に少年少女の魂の華やかな自由境である。殊に地方に在る子女が、監督者の手を離れ、知人朋友の注視から逃れて、腹一パイに新しい空気を吸いに行く処である。
 そこの空気が如何にみだりがわしく汚れているか。如何に甘い病毒に満ち満ちているか。殊に最近の腐敗が如何に爛熟を極めているかを描く事は心ない業(わざ)でなければならぬ。
 しかし止むを得ない。
 記者はそのような人々のために特に慎重にこの筆を執(と)らねばならぬ。出来る限り露骨に真相を伝えねばならぬ。

     不良性と震災後の推移

 清浄無垢な少年少女の空前の不浄化は、東京人の堕落の中でも最も深刻な意味を持っている。
 不良少年少女の激増は、東京人の堕落時代を最も深く裏書するものである。その時代相は日本文化の欠陥そのものを指さし示している。そうしてその堕落ぶりは、将来に於ける日本民族の堕落ぶりを暗示しているものと考えられねばならぬ。
 不良という意味にはいろいろある。喧嘩や恐喝をやる式、泥棒や万引きをやる式、女をたらす式、又はこれ等をまぜこぜにやる式と、大体に於て四通りある。尤(もっと)も不良少女の方は喧嘩はやらぬ。やっても掴み合わないからわからぬ。しかし恐喝以下は皆やる。
 震災前の東京の不良少年には、喧嘩、恐喝の傾向が漸次減少しかけていた。浅草あたりで初心な少年少女を脅かして金を捲き上げるために、喧嘩を吹っかけたり、短刀を見せたりするのがある位のものであった。それ以上の乱暴や無鉄砲を働くものは、壮士か不良青年に属すべきものであった。それが震災直後には急に殺伐になった。
 自警団やその他のやり口にかぶれたものかどうか知らぬが、団体を組んで長い物をふりまわしたり、又は焼け残りの刀剣類を荷(かつ)いだりして喧嘩をしてまわった。

     殺伐から淫靡へ急変

 この時代は東京市中の混乱時代で、取締りが不行き届きであったため、一層彼等は乱暴を働いた。方々の焼け野原でよく乱闘が行われた。そのほか、個人的に兇器を持ったり、棒を持ったりして衝突してあるいた奴はどれ位あるか知れぬ。
 東京の不良少年がこんなに乱暴になったのは、明治初年以来の事だそうな。日清戦後当時、一時気が荒くなったが、これ程ではなかったと警視庁では云っている。
 あまり甚だしいので、警視庁令で三寸五分以上のものを所持する事を禁止したが、これはかなり効果があったという。
 この殺伐な傾向は間もなく脅迫、泥棒、掻(か)っ浚(さら)い式に変化し、続いて急激な速度で淫靡な傾向とかわって来た。
 その淫猥化の速かさ、深さ、広さは真に驚くべきものがあった。殊に昨大正十三年の春から夏へかけては、その絶頂に達したかと思われた。

     不良性は如何にして地方に伝わるか

 どこでもそうであるが、不良少年少女の活躍が最も眼に立つのは春から秋へかけてである。そうしてその活躍の影響が地方に及ぶのは、夏と冬と春の休暇後である。殊に冬の間は、表面上不良性の潜伏期であると同時に、内実は蔓延期であるらしい。東京の不良性を受けた者が、冬と春の二度の休暇に帰って来て、地方の子女に直接に病毒を感染させる時季であるらしい。
 昨年の夏から秋へかけての東京の子女の不良ぶりが、吾が九州地方の少年少女に如何に影響しているかがわかるのは今からでなければならぬ。その病的傾向は各地でこの春に芽を吹き、来るべき夏に全盛期を見せ、秋に到って固定するというのが順序である。
 新東京の堕落時代……あの大震火災の翌年、即ち大正十三年度中に見せた東京人の腐敗堕落が、如何に地方に影響しているかがわかるのはこれからである。

     青春の悩みと社会

 少年少女(青年処女をも含む)時代には先祖代々からの遺伝がみんな出て来るという。
 獣(けもの)のような本能、鳥のような虚栄心、犯罪性、残虐性、破壊性、耽溺性などいうのが下等の部類に属するのだそうである。上等の方では事業欲、権勢欲、趣味欲、研究心、道徳心、宗教心、英雄崇拝心なぞいずれも数限りない。
 この中で下等の方は堕落性、上等の方は向上性とでも云うべきものであろうが、今の社会ではこの向上性をも一種の危険性と認めて、この堕落性と共に不良性の中に数えている場合が多い。少年少女がこんな性質を無暗(むやみ)に発揮してくれると、教育家は月給や首に関係し、父母は面目や財産に関係し、当局は取締に手古(てこ)ずるからであろう。
 要するに、今の社会が少年少女の不良性とか危険性とか名づけているものは皆、若い人間の心に燃え上る人間性に外ならぬ。
 或る哲学者はこの時代を人間の最もキタナイ時代だと云った。又或る者はこの悩みを世界苦とも名づけた。
 この青春の悩みを煎じ詰めると、芳烈純真なる生命の火となって永劫に燃えさかえる。この世界苦を打って一丸として百練千練すると、人類文化向上の一路を貫ぬく中心力が生れるという。しかし、そんな事を体現したり、指導したりするような、物騒な教育家は居ないようである。
 だから、彼等少年少女は、自分勝手に迷い、疑い、悩んで行かねばならぬ。何か掴みたいとワクワクイライラしながら、夢うつつの時間を過ごさねばならぬ。だから、ちょっとした事でも死ぬ程亢奮させられる。

     大人の堕落性の子女に対する影響

 かような少年少女の悩みに対して、日本人の大人はどんな指導を与えて来たか。どんな模範を示して来たか。
 彼等少年少女の宗教心、道徳心、芸術心、野心、権勢欲、成功欲等のあこがれの対象物である宗教家、教育家、芸術家、政治家、富豪等は皆、その誘惑に対する抵抗力が零であることを示して来た。
 彼等偉人たちは、すこし社会的に自由が利くようになると、ドシドシ堕落してしまった。豪(えら)い人間は皆、堕落していい特権があるような顔をして来た。えらいと云われる人間ほど、破倫、不道徳、不正をして来た。
 それを世間の人間は嘆美崇拝した。そうして、そんな事の出来ない人間を蔑(さげす)み笑った。つまらない人間、淋しいみすぼらしい人間として冷笑した。
 そんな堕落――不倫――放蕩――我儘をしたいために、世間の人々は一生懸命に働いているかのように見えた。
 この有様を見た少年少女は、えらいという意味をそんな風に考えるようになった。成功というのは、そんな意味を含んでいるものと思うようになった。日本中の少年少女の人生観の中で、最も意義あり、力あり、光明ある部分は、こうして初めから穢(よご)された。その向上心の大部分は二葉(ふたば)の中(うち)から病毒に感染させられた。
 彼等少年少女の心は暗くならざるを得なかった。その人生に対する煩悶と疑いは、いよいよ深くならねばならなかった。
 今でもそうである――否、もっと甚だしいのである。

     教育に対する少年少女の不平と反感

 一方に、こうした彼等の悩みを、今日までの教育家はどんな風に指導して来たか。
 現代の教育家は商売人である。
 だからその人々の教育法は事なかれ主義である。
 その説(と)くところ、指導するところは、昔の野(や)に在る教育家の、事あれ主義を目標にした修養論と違って、何等の生命をも含まぬものばかりであった。そうして、哲学や、宗教や、主義主張、又は血も涙も、人間性も……彼等少年少女の心に燃え上るもの一切を危険と認めて圧殺しようとする教育法は、あとからあとから生れて来る少年少女の不平と反感を買うに過ぎなかった。
 彼等少年少女の向上心は、これ等の教育家の御蔭で次第次第に冷却された。現代の日本の教育家が尊重するものは、どれもこれもいやな不愉快なものと思われて来た。残るところは堕落した本能ばかりである。彼等少年少女は、そのような心をそそるものばかりを見たがり、聞きたがり、欲しがるよりほかに生きて行くところがなくなった。
 幸いにして堕落しなかった者は、持って生れた用心深さや、気の弱さ、又は利害の勘定に明らかなために、只無意味にじっと我慢しているに過ぎない。
 今から五六年前までの教育及社会対不良少年少女の関係はこんな調子になっていた。

     全人類の不良傾向

 ところが、この事なかれ式の圧迫的教育法が、最近数年の間に大きなデングリ返しを打った。
 理窟詰めの禁欲論、味もセセラもない利害得失論で少年少女の不良性を押さえつける事が不可能な事を知った学校と社会とは、慌てて方針を立て直した。正反対の自由尊重主義に向った。
 この傾向には過般の欧州大戦が影響している。
 欧州大戦は民族性や個性の尊重、階級打破、圧迫の排斥なぞいう、いろんな主義を生んだ。それは皆、今まで束縛され、圧迫されていたものの解放と自由を意味するものであった。
 世紀末的の様子や主張、ダダイズム、耶教崇拝、変態心理尊重等いう、人類思想の頽廃的傾向がこの中から生み出されて、更に更に極端な解放と自由とを求むる叫びが全世界に漲(みなぎ)った。
「自分の権利はどこまでも主張する。同時に何等の義務も責任も感じないのが自由な魂である」
 というような考えが全人類の思想の底を流れた。
 このような思想は不幸にして、人間の人間味を向上させるためには無効力であった。却って不良性を増長させるのに持って来いの傾向であった。全人類の享楽性はここから湧いた。

     学校と父兄が生徒に頭が上らぬ

 日本人の頭は何等の中心力を持たぬ。「正しい」とか「間違っている」とかいう判断の標準を持たぬ。「善」とか「悪」とかいう言葉よりも、「新しい」とか「古い」とかいう言葉の方がはるかに強い響を与える。
 そこへこの世界的不良傾向が流れ込んだからたまらない。
 政治、宗教、芸術、教育方面には特に著しくこの傾向が現われた。昇格問題や徴兵猶予、又は無試験入学に関する各種の運動、又は官私立の区別撤廃といったような叫びが起った。
 自発的教授法、自由画、自由作文、児童の芸術心を尊重するという童謡、童話劇、児童劇なぞが盛に流行した。何事も子供のためにという子供デーなぞが行われた。「子供を可愛がって下さい」というような標語が珍らし気に街頭で叫ばれた。
 それまではまだ無難である。
 尋常一年生位が遅刻しても、
「まだ子供ですから」
 という理由で叱らない方針の学校が出来た。大抵の不良行為は、「自尊心を傷つける」という理由で咎(とが)めない中学校が出来始めた。
 親が子供を学校にやる時代から、子供が学校に行ってやる世の中になりかけて来た。
 先生が生徒に頭を下げて、どうぞ勉強して下さいという時代に変化しかけて来た。
 学校へ行くという事のために、子供は親にいくらでも金を要求していい権利が出来そうになって来た。同時に服装の自由はもとより、登校の自由、聴講の自由までも許さなければ、学校の当局がわからず屋だと云われる時勢となって来た。

     東京に鬱積した不良性

 金取り本位、人気取り専門の私立学校や職業学校、又はその教師たちは、先を争ってこの新しい傾向に共鳴した。前に述べた各種の運動でねうちを削られた官立の諸学校も、多少に拘らず、こんな私立学校とこんな競争をしなければならぬというような気合になって来た。
 学生の自由は到る処に尊重された。無意味に束縛されていた人々が、今度は無意味に解放されるようになった。
 その結果は、益(ますます)男女学生の自堕落を助長するのみであった。
 若い人々に無意味の自由を与えるという事は、無意味に金を与えるのと同じ結果になる。いい方に使おうとしないのが大部分である。
 最近の日本の無力な宗教家、道徳家、政治家、教育家及一般社会の人々は、総掛りで少国民の向上心を遮った。堕落の淵に落ち込むべく余儀なくしてしまった、と云っても過言でない。
 そうして、この傾向の最も甚だしかったのは震災前の東京であった。
 都会の少年少女は取りわけて敏感で早熟である。就中(なかんずく)東京の少年少女は最も甚だしい。東京人がその敏感と早老を以て誇(ほこり)としているように、少年少女もその早熟と敏感とをプライドとしているかのように見える位である。
 彼等少年少女は逸早くこの世紀……〔以下数行分欠〕……
 性教育の必要はその中から叫ばれ始めた。これは解放教育の結果がよくないのを見て、まだ解放し足りないところまで公開せよ、そうしてあきらめをつけさせろという議論である。
 ところへ過般の大地震が来た。解放も解放……実に驚天動地の解放教育を彼等子女に施した。
  ………連載一回分(二千字前後)欠………

     男女共学と異性の香

 震災後、東京の各学校の大多数は、一種の男女共学を試みねばならなかった。
 焼け出された女の学校が、男学校の放課後を借りて授業を続けた。倒れた学校の男学生が、女学校の校舎を借りて夜学をしたなぞいう例がいくらもあった。
 これがわるかったと警視庁では云う。
 都会の子女は敏感である。彼等は、僅の時間を隔てて同じ机に依る事に、云い知れぬ魅惑をおぼえた。そこに残る異性の手すさびのあと、そこにほのめく異性の香(か)はこの上もなくなつかしまれた。そこに落ちている紙一枚、糸一筋さえも、彼等には云い知れぬ蠱惑(こわく)的なものに見えた。殊にその校舎の中の案内を知ったという事は、その子女の不良化に非常な便宜を与えたという。
 こうして彼等はその異性の通う学校に云い知れぬ親しみを感ずるようになった。そうした男女共学が止んでも、その魂はその校舎の中をさまようた。その筋に上げられた子女、又は記者と語った不良少年で、この心持ちを有りのままに白状したものが珍らしくない。

     地震後の学校のサボの自由

 男の学校を借りて男の生徒を教育したのにも弊害が出来た。
 午前、午後、夜間と引き続いて教授をしたところなぞは殊にそうであった。
 そうした学校の付近の飲食店やミルクホール、カフェーなぞは不良学生の巣窟となった。午前中から来る学生は、放課後そんな処に居残って、午後に来る少年を待ち受ける。夜間に来る不良生徒は、早くから来て飲み喰いをしながら、純良な美しい少年を引っかけようと試みる……といった風で、どちらにしてもいい事は一つもなかった事も原因している。
 そうしたさなかの事とて、学校当局はもとより、父兄側の取締の不充分であった事も勿論であった。
 このような一時間(ま)に合わせの授業が、校舎の都合や教師の不足等のため、授業開始や放課の時間を改めたり、又は場所を換えたりするのは止むを得なかった。
 そのために生徒は何度も面喰らわせられた。うっかりすると真面目な生徒にでさえも、この頃の課業はいい加減なものだという感じを抱かせた。
 一方、父兄も共に、子女が「今日は学校は午後です」とか、「今日は午前です」とか、「学校がかわったから」とか、「一時休みです」とかいうので、かなり間誤付(まごつ)かせられた。
 このような事実は、なまけものの生徒にとって、この上もない有り難い口実であった。震災後の、万事に慌ただしい、猫の眼のようにうつりかわる気分に慣れた父兄は、わけもなく胡麻化(ごまか)された。日が暮れて帰って来ても、「今日は課業が夜になっちゃって」と済ますことが出来た。
 こうしたエス(学校を勝手に休む事)の自由が、どれだけ学生の堕落性を誘発したか知れぬ。

     吹きまくる不良風

 震災前、東京には各種の学校が、著しい増加の傾向を示した。
 私塾程度のものから、半官立と云っていいもの、又は純然たる官立のものまで、あらゆる階級と種類がミッシリと揃った。そのために官立は真面目なもの、私立はズボラなものという、昔の区別が曖昧になって来た。
 同時に、私立に通う男女生徒の服装に、官立と見分けのつかないのが殖えて来た。殊に私学の権威が高まったこと等は、一層、この官立の真面目さと、私立の不真面目さを歩み寄らせた。
 男の生徒では、私立の職業学校生徒も、官立の生徒も、睨みの利き方が同等になって来た。女学生では、私塾の生徒も、大きな学校の生徒も、幅の利け方が似寄って来た。
 官立も、私立も鳥打帽が大流行で、職業婦人の卵も、賢母良妻の雛(ひよ)っ子も、踵(かかと)の高い靴を穿いた。
 取締のゆるい学校生徒が、厳重な学校生徒を恐れなくなって来た。
 こんなのが震災後ゴチャゴチャになって、時間を隔てた――又は隔てない共学をやった影響がどんなものであるかという事は想像に難くない。
 不良風はその後益(ますます)増加した各種学校の官私立を隔てずに吹きまくった。驚くべく悲しむべき出来事が到る処に起った。

     家庭の価値(ねうち)がゼロ

 東京は昔から不良少年少女の製造地として恐れられていた。そこへこの間の欧州大戦が思想上から、又、大正十二年の大地震が実際上から影響して、今のように多数の不良少年少女を生み出すに到った順序は今までに述べて来た。
 あとに残って少年少女の堕落を喰い止めるものは、唯家庭の感化ばかりである。
 ところが、現在の東京人の家庭の多数はこの力を失っている。お父様やお母様の威光、又は兄さまや姉さまのねうちが零になっている家庭が多い。
 第一に、現在の親たちと、その子女たちとは思想の根柢が違う事。
 第二に、上中下各階級の家庭が冷却、又は紊乱している事。
 主としてこの二つの原因があるために、現在の東京の子女には、その家庭に対するなつかしみや敬意を持てなくなっているのが多い。

     明治思想と大正思想

 東京は明治大正時代の文化の中心地である。だから、そこに居る子女の父兄たちは、大抵明治時代のチャキチャキにきまっている。
 明治時代は、日本が外国の物質的文明を受け入れて、一躍世界の一等国となった時代である。だから、その時代に育った人の頭は物質本位、権力本位でかたまっている。
 ところがその子女となると、大抵明治の末から大正の初めの生れで、その頭には欧米の物質文明が生み出した、するどい精神文明が影響している。
 共産、過激、虚無、その他あらゆる強烈な思想が、宣伝ビラや小冊子となって、欧州大戦の裡面を波打ち流れた――ツァールの帝国主義、カイゼルの軍国主義と戦った――そうして遂に大勝利を博した事を知っている。
 欧州戦争の結末は独逸(ドイツ)に対する聯合軍の勝利でない、我が鉄砲玉に勝った結果であるというような事を小耳に挟んでいる。そうして、その結論として、「個性を尊重するためにはすべてを打ちこわしても構わない」というような声を、どこから聞くともなく心の奥底に受け入れている。
 だから、明治時代の人々の頭に残っている家族主義や国家主義なぞは、とても古臭くて問題にならぬ、何等(なんら)の科学的根柢を持たぬ――何等の生命を含まぬ思想位に思っている。科学が何やら、生命がどんなものやら知らないままにそう信じている。
 まだある。

     家を飛び出したい

 現代の少年少女がその親達から聴くお説教は、大抵、生活難にいじけた倫理道徳である。物質本位の利害得失論を組み合わせた、砂を噛むような処世法である。殊に震災後の強烈な生存競争に疲れ切った親達は、もうそんな理窟を編み出す力さえ無くなったらしい、大昔から何の効能もないときまった、「恩の押し売り」を試みる位が関の山らしい。あとは学校の先生に任せて、「どうぞよろしく」という式が殖えて来たらしい。
 単純な少年少女の頭は、そんな親たちの云う通りになったら、坊主にでもなった気で味気ない一生を送らねばならぬようにしか思われぬ。親のために生れたので、自分のために生れたのではないようにしか思われぬ。とてもやり切れたものでない。「おやじ教育」なぞいう言葉が痛快がられるのは、このような社会心理からと思われる。
 少年少女は、だから一日も早く、こんな家庭から逃げ出そうとする。何でも早く家を出よう、独立して生活しよう、そうして享楽しよう……なぞと思うのは上等の方であろう。
 こうした気持ちは東京の子女ばかりではない。地方の子女も持っている。地方の若い人々が「東京に行きたい」と思う心の裡面には、こうした気持ちが多分に含まれているであろう。
 明治生れの親たちが、その子女から嫌われて、馬鹿にされている裡面には、こんな消息が潜んでいる。
 なおこのほかに今一つ重大なのがある。

     お乳から悲喜劇

 ついこの頃のこと……。
 九州方面のある有名な婦人科病院で、こんな悲喜劇があった。
 或る名士の若夫人が入院して初子(ういご)を生んだ。安産で、男子で、経過(ひだち)も良かったが、扨(さて)お乳を飲ませる段になると、若夫人が拒絶した。
「妾(あたし)は社交や何かで、これから益(ますます)忙しくなるのです。とても哺乳の時間なぞはありません」
 というのが理由であった。付添(つきそい)や看護婦は驚いた。慌てて御主人に電話をかけた。
 やって来た御主人は言葉を尽して愛児のために夫人を説いた。しかし夫人は受け入れなかった。頑固に胸を押えた。
 御主人は非常に立腹した。
 そんな不心得な奴は離縁すると云い棄てて帰った。
 夫人は切羽詰まって泣き出した。大変に熱が高まった。
 付添と看護婦はいよいよ驚いて、一生懸命になって夫人を説き伏せた。夫人が泣く泣く愛児を懐に抱くのを見届けて、又御主人に電話をかけた。
「奥様が坊ちゃまにお乳をお上げになっています」
 御主人はプンプン憤(おこ)って来たが、この様子を見ると心解(と)けて離縁を許した。
 夫人の熱は下った。無事に目出度く退院した。
 これを聴いた記者は又驚いた。
 東京風(ふう)がもう九州に入りかけている。今にわざわざ愛児を牛乳で育てる夫人が殖えはしまいかと。

     上流家庭に不良が出るわけ

 東京の社交婦人の忙しさは、とても九州地方の都会のそれと比べものにならぬ。哺乳をやめ、産児制限をやり、台所、縫物、そのほか家事一切をやめて、朝から晩まで自動車でかけ持ちをやっても追付(おっつ)かぬ方がおいでになる位である。その忙しさの裡面には風儀の紊乱が潜んでいる場合が多い。遠慮なく云えば、上流の夫人ほど我ままをする時間と経済の余裕を持っている。
 そんな人の子女に限って家庭教師につけられているのが多い。その又家庭教師にも大正の東京人が多いのである。
 震災前の不良少年は、大抵、下層社会の、割合いに無教育な親を持つ子弟であった。それが震災後は反対になって来た。上流の方が次第に殖えて来たと東京市内の各署では云う。
 こんな冷たい親たちを持つ上流の子弟が不良化するのは無理もない。
 そんな親様がいくら意見したとて利く筈はない。
 それでも親としてだまって頭を下げているのは、只お金の関係があるからばかりでなければならぬ。

     青春の享楽を先から先へ差し押える親

 明治時代の親たちが、大正時代の少年少女の気持ちを理解し得ないのは当り前である。「権利と義務は付き物」という思想では、「人間には権利だけあって義務はない」と思う新しい頭を理解し得られる筈がない。
 今の少年少女にとっては、学校は勉強しに行く処でない。卒業しに行く処である。又は親のために行ってやるところである。も一つ進んで云えば、学資をせしめて青春を享楽しに行く処である。
 親はそんな事は知らぬ。
 早く卒業させよう――働かせよう――又嫁や婿を取らせようと、青春の享楽の種を先から先へと差し押えようとする。
 少年少女はいよいよたまらなくなる。益(ますます)家庭から離れよう、せめて精神的にでも解放されようとあせる。
 華やかな、明るい、面白い、刺戟の強い、甘い、浮き浮きした方へと魂を傾けて行く。そうしていつの間にか不良化して行く。
 親はこれを知らない。
 現代の子女がどんな刺戟に生きているかを、明治時代の頭では案じ得ぬ。

     良心から切り離されて

 台湾征伐、熊本籠城、日清日露の両戦役、又は北清事変、青島征伐等を見た明治人、勤倹尚武思想を幾分なりとも持っている明治人は、科学文明で煎じ詰められた深刻な享楽主義をとても理解し得ない。日本化された近代芸術が生む不可解な詩――鋭い文――デリケートな画――音楽――舞踊――そんなものの中に含まれている魅惑的な段落やポーズ、挑発的な曲線や排列の表現を到底見破り得ない。
 一方、都市生活で鋭敏にされた少年少女の柔かい頭には、そんなものが死ぬ程嬉しくふるえ込む。メスのように快く吸い込まれる。
 その近代芸術、又は思想の底に隠されている冷たい青白いメスは、彼等少年少女の精神や感情を、一つ一つ道義と良心から切り離して行く……その快さ……。
 彼等少年少女は、言わず語らずのうちにそんな感情を味わい慣れている――街頭から――書物から――展覧会から――活動から――芝居から――レコードから――そうして、そんなもののわからぬ親たちを馬鹿にしている。
 明治人はこうして、大正人であるその子弟から軽蔑されなければならなくなった。それは嘗て自分たちが天保人を時代後(おく)れと罵ったのと同じ意味からであった。
 因果応報なぞと笑ってはいられぬ。時代後れが出来る毎に日本は堕落して行く。亡国のあとを追うて行くのだから。
 明治人はしかしこれを自覚しない。明治時代と大正時代の思想の差が、旧藩時代と明治時代のそれよりもずっと甚だしい事すら知らない。

     世界一の不良境

 東京の子女が不良化して行く経路は極めてデリケートである。殊に現在の不良化の速かさ、不可思議さは世界一かも知れない。
 都会の子女は生意気だという。それだけ都会が刺戟に満ちているからである。
 震災後の東京は殊に甚だしい。毒々しい、薄っぺらな色彩のバラック街……眼まぐるしく飛び違う車や人間……血走った生存競争……そんな物凄い刺戟や動揺(どよ)めきをうけた柔かい少年少女の脳髄は、どれもこれも神経衰弱的に敏感になっている。ブルブルと震え、クラクラと廻転しつつ、百色眼鏡式に変化し続けている――赤い主義から青い趣味へ――黄色い夢幻界から黒い理想境へ――と寸刻も止まらぬ。その底にいつも常住不断の真理の如く固定して、彼等を刺戟し続けているものは、本能性や堕落性ばかりである。
 このような刺戟に対する敏感さと、これを相手に伝える手段の巧妙さと新しさとは、彼等都会の子女が常に誇りとしているところである。
 生活にいじけ固まった明治生れの親達は、こんな気持ちを忘れている。

     ボンヤリする心

 彼等都会の少年少女は、その頭の鋭さ、デリケートさに相応する相手を求むべく、飢えかわき、ふるえおののいている。――秘密、犯罪等を扱った科学雑誌等を読みたがっている。――その中に隠されている、人生に対する皮肉、反逆、嘲罵の巧妙さを直感して快がっている。そうしていつの間にか、そんな事をやって見たい気持ちになっている。
 内外の小説に極めて繊巧に、又は露骨に描かれた挑発的な場面を、紙背に徹する程眼を光らして読んでいる。
 友達と話が出来ないというので活動に這入る。先ず俳優の名前を覚えて、その表情から日常生活まで研究する。そうしてこれを嘆美したり、崇拝したり、通を誇ったりする。
 その中(うち)に世間が活動のように見えて来る。或る場面が自分の境遇のように思える。あの人があの俳優のように見える。圧迫から逃れて恋に生きる場面が、自分を中心にいく度(たび)か妄想される。そうしてボンヤリと明かし暮らす。
 親はそんなことに気付かぬ。

     ルパシカを着る息子

 たとえば息子がルパシカを着て喜んでいるとする。
 親は、単純な物好きか、又は社会主義にカブレたのかと思って叱り付ける。
 ところが見当違いである。本人は物好きでも社会主義者でもない。
 近頃の東京の若い女、殊に自堕落な気分に浸(ひた)る女の中には、そんな風な男を好く国もない。家もない。思想的に日本よりもはるかに広く思われる露西亜(ロシア)、政治上の最高権威者が労働者と一緒に淫売買いに行く国、婦人子供国有論が生れる国――そんな国にあこがれているために日本の社会から虐げられている青白い若い男……そんな男は小説を読む淫売なぞに特にもてはやされることをその息子は知っている。だからそんな風をするのだ。
 ……と知ったら、親はどれ位なげくであろう。
 まだある。
 机にかける布(ぬの)切り子やセルロイドの筆立て、万年ペンのクリップ、風呂敷、靴にまで現われている趣味を通じて、その子女が世紀末的思想から生れた頽廃趣味に陥っていることを見破り得る親は先ずあるまい。
 その持っているノートの黒い小さなゴムの栞(しおり)や、万年筆用の黒いクリップが、ナイフや針で文字を彫って、異性の家の壁や約束の立ち木やに隠して、秘密通信をやるのに便利な事を知っている監督者も先ずあるまい。
 男のような字を書く娘、女のような字を書く息子が、変名を使って異性と通信しているに違いない事を看破し得る父兄もあまりあるまいと思う。
 まだまだ驚く事がある。

     大人に対する反逆

 近頃の少女はハンケチを畳んで、胸の肌に直接に押し当てている。又、男の子は帽子の中にハンケチを入れて冠っている。
 それは、少女はお乳をふくらすため、又、男の子は香水を湿(しめ)して入れておくためと思っていたら大違いだと、一人の不良少年が笑った。
 そんなら交換して異性の香(におい)を偲ぶためかときいたら、
「まあ、そんなところでしょう。ハハハハ」
 と又笑った。その笑い方が変だったから、根掘り葉掘り尋ねたら、彼は一種皮肉な、イヤな笑い方をしながら、こう答えた。
「それあ云ってもよござんすがね、あなた方に必要のない事なんです……何故ってあなた方は皆、情欲の方のブルジョアなんでしょう。奥さんもおなりになれば、芸者買いも出来る。だから必要はないんです……若いものはみんなみじめな肉欲のプロですからね……女の子だってそうです。大人が受けている自由を吾々は禁ぜられているのです……ですから異性の香(におい)を嗅ぎながら眼を閉じて……」
 記者はこれ以上書く勇気を持たぬ。しかし何という巧(たくみ)な議論であろう。何という不愉快な風潮であろう。
 少年少女の不良行為が、大人の専制に対する反逆的意味を持っていようとは、この時まで気が付かなかった。記者も矢張り明治人であった。
 こうした反逆気分は、少年少女が使う新しい言葉にもうかがわれる。

     おやじのシャッポ

 新しい言葉の字引きなぞいう書物が近頃流行するが、現在の東京の少年少女が使う新しい言葉は、その中には一つも見当らぬと云っていい。又見つかる筈もない。日毎に月毎に、次から次へと新熟語が出来て、或は親たちを馬鹿にするために、又はいい人と秘密通信をするために用いられている。
 ブル、プロ、ファン、セット位しか知らない明治人に、彼等の会話や手紙が理解されよう筈がない。
「おやじのシャッポ(ポコペンとか駄目とかいう意味)がホームラン(流連(いつづけ)のこと)」だの、「彼女のラジオ(色眼)がミシン(意味深長)」なぞ云って、わかる気づかいは毛頭ない。
 否、こんなのももう古い。記者がこう書いている間にも、新しい単語が本場の東京でドンドン殖えているに違いない。
 こんな事のすべてに対して、今日までの生活本位の親たち、月給取り本位の教育家、月謝取り本位の学校、政党本位の当局は注意が行き届かなかった。
 これからもそうに違いない。
 御蔭で不良少年少女は大手を振って殖えて行く。禁漁区の魚のように新東京のバラック街をさまようている。

     若い女性の享楽気分

 ここで是非特筆大書しておかねばならぬ事は、最近の東京に於ける若い女性の享楽気分である。
 よく「女は女らしく」、「男は男らしく」と云うが、今の東京では、その「男らしい」と「女らしい」との意味が昔と違っている。「男が人間なら女も人間だわ」という意味である。だから、今の東京の女らしい女は、なかなか活溌で、華やかで、積極的で、魅惑的である。
 そんなのの前に男らしく跪(ひざまず)いて、堂々と満身の愛を告白する。昔のように自己を偽って見識ばらぬ。そんなのが「男らしい男」らしい。
「神様が男の粕(かす)から女を作った」の、「女は家庭の付属物」だのと心得ているのは、中世紀か封建時代の思想である。その粕が馬に乗って民衆運動の先登(せんとう)に立った時代も過去の事である。新しい婦人が吉原へ女郎買いに行ったのは更に古い時代である。議会で男の席までも占領したとて、ちっとも驚く事はない。
 婦人参政――被教育権の主張――その他社会的の地位を要求する黄色い声は、天下に満ち満ちて来た。
 産児制限に依て象徴される、婦人の享楽的権利の主張は、医術と薬剤の発達でドシドシ貫徹されている。
 職業婦人の増加に依って、婦人の独立生活、享楽生活の容易な事は明らかに証明されている。
 女性崇拝の外国映画は盛にこの傾向の太鼓を持つ。
 欧米の新思想は又、精神的方面からこの傾向を刺戟して、目下八度五分位の熱を出しているところである。
 新しい女の先覚者の活躍時代は過ぎた。今は一般に普及しつつある時代である。男女同権――否、女尊男卑がドシドシ流行する。

     反(そ)り女に屈(かが)み男

 呆れても驚いても追付かぬ。東京の女は男と同様に自由である。眼に付いた異性に対して堂々とモーションをかける。異性を批判し、玩味し、イヤになったらハイチャイをきめていい権利を、男と同じ程度に振りまわしている。只、全部が全部でないだけである。
 こうした傾向にカブレた東京の少女は、知らぬ男から顔を見られても、耳を赤くしてうつむいたりなんぞしない。アベコベにジッと見返すだけの気概? を持っているのが多い。これはどなたでも東京に行って御試験になればわかる。
 往来を歩く姿勢も、昔と違って前屈みでない。昔は「屈み女に反り男」であったが、今では「反り女に反り男」の時代になった。今に「反り女に屈み男」の時代が来るかも知れぬ。
 表情も昔と違ってキリリとなった。触(さわ)らば落ちむ風情なぞは滅多に見当らぬ。八方睨みを極めてあるきながら、たまたま男と視線が合っても、じっと一睨みしてから、「チッ」とか「フン」とかいった風に眼を外(そ)らして通り抜けるのさえある。
 田舎からポット出の学生なぞは、あべこべに赤面させられそうである。

     同性愛の新傾向

 女学生間に同性愛が流行したのは震災前が最も甚だしかった。
 先ず同級か下級の生徒の中で、好ましい風(ふう)付きと性質の少女(ひと)を見付け出して同性愛(シスター)関係を結ぶ。二人切りで秘密の名前をつける。手紙のやり取りをする。持物や服装を人知れずお揃いにする。これが嵩じて、情死する迄愛するのもある。これは「性」の悩みの不自然な慰め方として憂慮されていた。
 その話がこの頃下火になった。異性愛流行の結果、あっても目立たなくなったのか、それとも異性との交際が自由になったために、そんな必要がなくなって減少した者かと、一部の教育家は首をひねっている。
 一方に或る私立女学校の舎監であった人は記者にこんな話をした。
 ――男学生の悪いのは下宿屋住居(ずまい)で、女学生のいけないのは寄宿舎と、あらかた相場が極っている。その女学校の寄宿舎に来る手紙を、学校によっては舎監が一先ず受け取って、怪しいと思われるのは、秘密に開封した上で渡したり、又は握り潰しているところがある。そうでもしなければ、絶対に学校の風紀は保たれないと云っていい。
 その手紙の中には、女文字の男の手紙がいくらもある。封筒だけ女生徒が書いて送ったのもある。その内容を見ると、女生徒が出した手紙の内容を察せられるのもある。そのほかいろいろあるが、中には舌を捲くような名文や、際(きわ)どい告白がある。芸者の内証(ないしょう)話にも負けない位である。
 ――そんなのの中には、同性愛と認められるのも珍らしくない。震災前より殖えるとも、減っていない事を明言出来る。但、異性関係のそれと比べると問題にならぬ。
 私の学校では、上級生と下級生とを、一人か二人宛(ずつ)組み合わせて一室に入れている。その中で一番上級の年嵩(としかさ)なのを「お母さん」と呼ばせて、一切の世話と取締をやらせる。そのほかの目上の生徒は「姉さま」と呼ばせ、下級生は「何子さん」と呼ばせて、家族みたいな生活をさせている。
 ところで、以前、怪しい文句の手紙が来るのは、三年生以上に限られていたが、それも現在の十分の一位で、大抵は同性愛式のものであった。それが今では、三年生以上に来る男の手紙が殖えると同時に、入学し立てのホヤホヤの生徒に迄同性愛が及んで来た。或は小学生時代から持って来た習慣ではあるまいかと思われる節がある。
 というのは、或る立派な家庭のお嬢様が、優等の成績で入学しながら、何故か学校に来ない。その両親から沢山の寄付が学校にしてある関係から、学校側でも心配して、内密に欠席の理由を調べて見ると、そのお嬢さんと同性愛に落ちている生徒が、不成績で入学していないからであることがわかった。
 そんな例がある一方に、上級生の堕落やおのろけや、落(おと)し文(ぶみ)が、下級生を刺戟しているのではあるまいかと考えられる廉(かど)もあるから、いっその事、同級生ばかりを一室に入れて成績を見てはどうかという意見が教員間に持ち上っている……云々。
 この話だけでも、東京の女性の積極化傾向が如何に急激であるかが、充分に裏書されている。

     持てる一高と帝大生

 麹町(こうじまち)の某署の刑事は、こんな事を記者に話した。
「東京の女学生の好き嫌いは大抵きまっています。明治や慶応の生徒はニヤケているからダメ、早稲田は豪傑ぶるからイヤ。一高と帝大が一番サッパリしていて、性格が純だからつき合いいいと云います。それから、そんな学生の中でも一番好かれるのは運動家で、その次が音楽の上手、演説、文章、絵の上手はその又次だそうです。学生以外で好かれるのは活動俳優で、とても一生懸命です。『日本の男俳優は肉体美がないから駄目』なぞとよく云っています。運動選手を好くのはそんなところからでしょう」云々。
 昔の少女はかぐわしい夢のようなヴェールを透して世界を見た。今の少女はそのヴェールをかなぐり棄て、現実界を直視している。
 先年、英国皇太子が日本を訪(と)われた時、
「英国の皇(こう)チャーン」
 とか何とか連呼してハンケチや旗をふりまわしたはまだしも、本郷付近で算を乱して自動車のあとを追っかけた女学生の群があったと聴いた時、記者はまさかと思った。
 ところが、今度上京して見て驚いた。とてもそれどころでない。

     式前にふざける花嫁

 警察で自由恋愛論をやった女学生があった事は前に書いた。
 結婚式の始まらぬ前から婿殿の処へ押かけて、キャッキャと笑い話をした某勅撰議員の令嬢があった。そのほか、式の最中から色眼を使ったり、式が済むと直ぐに倚り添って、ねえあなた式のそぶりや口の利き方をする花嫁が殖えたという某神官の話はまだ書かぬ。
 某女学校で震災前に投書箱を据え付けたが、一人も投書するものがなかった。それが震災後急に殖えたはいいが、大部分は仲間同志の不品行を中傷したものであった。最も甚だしいのは、昨年の秋の事、二三十人申し合わせたらしく、性教育の必要を高唱した投書が、しかも堂々と署名して箱一パイに投げ込まれた……という事も今初めて書く。
「あたし、電車の中で不良少年から手を握られたのよ。癪に障ったからギュッと握り返してやったわ」と友達に自慢話をするような少女、「あなた、この頃メランコリーね。ホルモンが欠乏したの」と笑いくずれる程度の女学生なぞはザラに居る。
 これ位積極化すれば沢山である。

     二匹の白い蛾

 東京の若い女の享楽気分は、日に増し眼に余って行く。そうして、「性の悩み」に魘(うな)される少女を、次第に東京に殖やして行く。
 或る女学生が、不良行為をやって警察に引っぱられて行く途中で、懐中からマッチ箱を出してソッと棄てた。刑事が気付いて拾って見ると、中には一枚の厚紙があって、雌雄二匹の白い蛾が、生きながら二本のピンで止められて、ブルブルふるえていた……。
 記者はこの話をきいた時、馬鹿馬鹿しいと笑う気になれなかった。その少女がそんな事をした時の気持ちをよく考えているうちに、恐ろしいような、悲しいような、一種形容し難い鬼気に襲われた。
 孕(はら)み女の腹を裂かせてニッコリと笑った支那の古王妃の気持ち――それを近代式にデリケートにした気持ちを味わいつつ、その女学生は二匹の白い蛾を生きながらピンで突き刺したのではあるまいか。その二匹がブルブルとふるえつつも離れ得ぬ苦しみをマッチ箱に封じて、懐に入れて、独りほほえんでいたのではあるまいか。そうして、この頃の若い女性の胸にあふるる「性」のなやみの、云うに云われぬ深刻さ、残忍さ、堪え方さ、弱々しさが、そこにありありとあらわれているのではあるまいか。

     堕落して冷静に

 各種の避姙薬は彼女たちに安全な堕落の道を教える。化粧品屋は彼女達に永久の美を保証する。活動女優の表情はいつしらず彼女達に乗り移る。そうして、彼女達にその芸術的表情を実演すべき場面を心の底から求めさせる。
 気の利いた女学校の先生は、この時代相に迎合して、「そもそも姙娠という事は……」と性教育を試みる。生徒は真青(まっさお)に緊張してそれを聴く。
 このような気分に蒸し焼きをされる若い女性がどうして堪え得よう。実際に異性の香(か)を知らぬまでも、禁欲の苦痛を感じずにはいられぬ。
 その苦痛を一度でも逃れた経験を持つ女性は、必ずや男性に対する感じ方が違って来る。昔のように赤くなったり、オズオズする気持ちは出そうと思っても出ない。同時にそんな感じを超越して男性を見たり、批評したり、交渉したりする心のゆとりが出来て来るわけである。
 彼女たちはこうして益(ますます)その批評眼を高くし、享楽趣味を深くし、独立自由の気分を男子と同等にまで高潮させて行く。親の厄介になって好かぬ結婚に縛られるより、職業婦人になってもというような意味の向学心を強めて行く。
 これは男子学生とても同様である。
 将来の日本には独身の男女が嘸(さぞ)かし殖えることであろう。

     交際の場所と機会

 さて、かような異性同志の交際はどんな風に結ばれて行くか。
 学校や家庭の眼を忍んで、若い同志享楽したりすると、九州地方では直ぐに「不良」呼ばわりをされる。記者も九州の人間だから、そんなのを不良の中に数え入れたわけである。
 しかし、東京ではそんな心配はない。よしんば八釜(やかま)しく云う者が居るにしても、この頃の東京の少年少女は滅多に尻尾を押えさせぬ。探偵小説的、又は活動写真的の巧妙な手段で、警察でも友人でも煙に捲こうとする。そんな事をわざわざやって喜ぶ位である。
 しかも東京にはそんな手腕を揮う場所と機会が無暗(むやみ)に多い。
 震災後の東京には街頭の展覧会が殖えた。写真、絵、彫刻、ポスター、技芸品といったようなものを、目抜の町の或る家の階上や階下、わかり易い横町の空屋などに並べて見せる。新聞、ビラ、掲示なぞを気をつけていれば、すぐにわかる。東京市中で毎日十箇所を下るまい。
 これが少年少女の落ち合い場所になり勝ちである。人に怪しまれずに見に行けるし、いつまでも相手を待っていられる。来れば何やかや見るふりをして、極めて自然に寄り添えるといったようなわけである。
 学校の運動会も、この頃は異性の入場を許す傾向になった。許すと素敵にハズムという。
 剛健質朴を以て天下に鳴った一高の生徒たちにカルメンと持てはやされる一人の少女が居る。昨年あたりは、学生仲間の会合や催しによく顔を出したものだそうな。一説には、これが、現在、東京で最も有力な不良少女団の団長だともいう(後に詳しく説明する)。が、そこを特に突止め得なかったのは惜かった。

     眼と眼――心と心

 近頃は福岡にも出来たが、東京のカフェーその他の飲食店では、テーブルとテーブルの間を仕切るのが流行(はや)る。そこにはよく若い男女が同席してヒソヒソやっている。
 東京の市内電車が素敵に混雑(こ)むのも便利である。同じ吊り革にブラ下ったり、膝っ小僧で押合ったり、いろんな事が出来る。
 省線の電車も朝と夕方は一パイである。郊外から通う人が大部分なのと、停留場が遠い関係から、市内のようにザワザワしない。その間(かん)に眼と眼と見合ったのが度(たび)重なって、心と心へという順序である。
「殊に不良少年は郊外の方が多いのですよ。毎日見ているとよくわかります。後の方が空いているのに前のに乗ろうとしますから、無理に止めたら、泣き出した娘がありました。誰かと約束してたんだなと、あとで気が付きました」
 と一人の車掌は語った。
 音楽や舞踊、英語等の先生の処で出来た社交関係も随分多いらしく、新聞や雑誌によく出る。
 浅草の奥山、上野の森、その他の公園の木といわず石といわず、若い人々の眼じるしにされて飽きている。上野の西郷銅像の前に夜の十時過ぎにしゃがんでいれば、待っている男女、連れ立って去る男女の二十や三十は一時間の中(うち)に見付かる。西郷さんが怒鳴り付けたらと思う位である。
 バラック街は電燈で一パイであるが、裏通りには歯の抜けたように暗い空地がある。そのほか、公園の暗(やみ)、郊外の夜の木立ちをさまよい蠢(うごめ)く、うら若い魂と魂のささやきは数限りもない。行きずりの人も怪しまぬ。

     夥しい会合、催し、年中行事

 泰平が続くせいか、いろんな芸術的の催しが盛になった。家庭的、個人的、小団体的といろいろある。
 東京はその流行の中心地である。
 子供のために舞台を作った富豪がある。アトリエを持っている中学生がある。活動写真機を持っている家も多い。ピアノの無い小学校が稀であると同時に、中流以上の家庭で蓄音機の無い処は些(すく)ない方であろう。レコードなんぞは縁日で売っている。
 こんな調子だから「催し」も夥しい。やれ野外劇、それレコードコンサート、又は新舞踊、芸術写真、その他在来の趣味や、新しい道楽の会、切手、書物、絵葉書、ポスター、レコード等の交換会、奥様やお嬢様御自身のおすしやおでんの会、坊ちゃまお嬢様のオモチャの取かえっこの会なぞと、大人のため、子供のため、男のため、女のためとお為づくしである。マージャンの会は今が盛りである。ラジオの会はこれからであろう。
 年中行事の多い事も東京が一番である。
 三大節、歌留多(かるた)会、豆撒き、彼岸、釈迦まつり、雛(ひな)と幟(のぼり)の節句、七夕の類、クリスマス、復活祭、弥撒(ミサ)祭なぞと世界的である。そのほか花の日、旗の日、慈善市、同窓会、卒業祝、パス祝、誰さんの誕生日まで数え込んだら大変であろう。又、そんなのに一々義理を立てたら、吾家(うち)の晩御飯をいただく時はなくなりそうである。
 少年少女が又こんなのに行きたがる事、奇妙である。

     案内書の秘密

 美しいお嬢さんの居る家に一枚のビラが配られた。青白い上等の紙に新活字で印刷してある。
   ……………………
 ××社交クラブ成立案内書
大正の大震火災後社会の風潮は著しく悪化して参りました。良家の子女は今や全く社交を禁ぜられているかの観があります。(中略)吾々はここに見るところあり、××社交クラブを組織し、(中略)特に良配偶を求めらるる子女及び父兄のためには、この会ほど安全で適当なものは他にあるまいことを信じて疑いませぬ次第であります。(下略)
 大正十三年九月一日
 とあって、賛助員に後藤新平、中村是公、目賀田種太郎、金子堅太郎なぞいう名士の名がズラリと並び、発起人に何々会社重役、何々病院長、何々ビルディング支配人なぞいうのから、肩書も何も無いのまで、綺羅星(きらぼし)の如く並んでいる。その先の方に「案内」とあって、小さな活字がギッシリ詰っている。
▽会費 一ヶ月金三円(毎月三回会合)。▽会合の種類 (第一類)音楽、絵画、その他芸術的の集まり、展覧会等。(第二類)政治、外交、社会問題に対する質問会。文化、学術講演会。(第三類)洋食、技芸、洋式作法講習会等。(第四類)慈善市、各種交換会等。▽備考 (一)加入者は品行方正の証明(父兄、学校、青年処女会)ある青年処女に限る。(二)会合の種類に依り父兄同伴随意。(三)何等宗教的意味を含まず。 といったようなもので、仮申込所を東京府下中野○○番地、松居博麿(仮名)方としてある。
 この案内書を貰ってポケットに畳込んだ記者は、そのまま省線に飛び乗って中野で降りた。決して名探偵を気取ったわけではない。流石(さすが)東京と実は大(おおい)に感心させられた。その会合の遣方(やりかた)を習ったら、九州へのいいお土産が出来ると考えたからであった。
 ペンキ塗りの小ぢんまりした文化住宅に、「マツイ」と小さな表札を見つけて案内を乞うと、都合よく御主人在宅であった。本紙記者の名刺を出して応接間に通されると、卓子(テーブル)の上に博多人形の「マリア」が置いてあったので一寸(ちょっと)嬉しかった。
 松居博麿氏は青白い貴公子然とした人で、大島の三つ揃いを着て、叮嚀な口の利きようをする人であったが、記者が大正社交クラブの事を尋ねると、又かというような情ない笑い方をした。弱々しい咳払いをして云った。
「どうも困りましたね。あれは僕の知らない事なんで……」
 記者はポカンとなった。
 ところへ、恐ろしくハイカラな金紗の奥様が這入って来た。こぼるるばかりの表情をして、御主人の話を引き取った。
「まあ。矢張りあの事で――! どうも困っちまうんですよ。宅の名前が通っているものですから、あんなお名前と一緒に並べ立てて(下略)」
 記者は恐ろしくテレて来た。
「ヘエー。それじゃ誰があんな計画をしているかお心当りでも」
「それがないので困っているんですよ。警視庁の知り合いにも電話で頼んでいますし、(中略)方々からの質問でホントにウンザリしているのですよ。そうしてあなたはやはり九州の……まあ、こんな処まで……よくおわかりになりましたのね……まあ、九州(おくに)の方はいい処だそうですね……まあ、およろしいじゃありませんか……今紅茶を……」
 記者は這々(ほうほう)の体(てい)で此家(ここ)を出た。
 出ると同時にサッパリ訳がわからなくなった。
 ポケットから例の案内書を出して見つめながら、頭をゴシゴシ掻きまわしたが、わからないものはどうしてもわからない。それかといって、今一度引返してあの奥さんを詰問する勇気もなくなっていた。
 翌(あく)る日から記者は用事の序にポツポツと賛助員の諸名士を訪問して見た。一軒は不在で、二軒は多忙であった。しかし三日目に四軒目の家の玄関に立った時、又新発見をした。
 玄関の敷石の打水の上に、赤い紙に刷った「文化生活研究会案内書」というのがヘバリ付いていた。その発起人の名前は半分以上違っているが、最後に松井広麻呂というのがあって、上に(申込書)と割り註がしてある。
 記者は昂奮した。すぐに中野の文化住宅に行ったら、もう遅かった。「マツイ」の表札はあったが、家はガラ空きであった。近所の人にきいても、どこに行ったか知らぬ――家主は蒲田に居るという。
 記者は取りあえずガッカリしたが、なお念のためきいて見ると、松居氏の家には若い男女がチョイチョイ出入りしていたそうな。一度レコードコンサートらしいことをやっていたが、夜遅くまでかかったかどうかは知らないと云った。それから、交番の巡査にきいて見ると、子供上りのような巡査で、その文化住宅の番地だけしか知らなかった。
 郵便局へ名刺を出して見ると、親切に答えてくれたが、
「あの家はあまり手紙を出しません。来るのはかなり来ますが」
 というのが結論であった。
 記者はそれでもあきらめが付かなかった。
「マツイ」氏が名士であろうがなかろうが、そんな事はどうでもよくなった。
「何のためにこんな宣伝ビラを配るか」
 という疑問が晴れるまではと、不断に気を配っていた。
 ビラを配る男さえ見れば、傍へ寄って何のビラかのぞいて見た。しかし運悪く、「松居」もしくは「松井」の名前を刷込んだのは一度も見当らなかった。
 その中(うち)にウンザリして来た。
 成るべく東京の同業の助力を借りずに材料を集めようと決心していた記者も、とうとう兜(かぶと)を脱いで、或る雑誌記者にこの事を尋ねたら、その記者は腹を抱えた。
「君はまだ不良少年少女の仕事が資本化した事を知らないね」
 と云った。
 この時記者が受けた暗示は極めて大きなものであった。この暗示に依って得た材料が、この中にどれ位あるかわからない。少なくとも、今まで信ぜられぬと思った事が信ぜられるようになったと同時に、疑問にしていた事が一時に解決されたような気がしたのであった。
 財産を持って遊んでいるような若夫婦の中には、道楽に少年少女を集めて喜んでいるのがあるという。中には夫婦了解の上で、夫人は少年を、又、主人は少女を堕落させて楽しんでいるのもある。
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