白髪小僧
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:夢野久作 URL:../../index_pages/person969

   第一篇 赤おうむ


     一 銀杏(いちょう)の樹

 昔或る処に一人の乞食小僧が居りました。この小僧は生れ付きの馬鹿で、親も兄弟も何も無い本当の一人者で、夏も冬もボロボロの着物一枚切り、定(きま)った寝床さえありませんでしたが、唯(ただ)名前ばかりは当り前の人よりもずっと沢山に持っておりました。
 その第一の名前は白髪(しらが)小僧というのでした。これはこの小僧の頭が雪のように白く輝いていたからです。
 第二は万年小僧というので、これはこの小僧がいつから居るのかわかりませぬが、何でも余程昔からどんな年寄でも知らぬものは無いのにいつ見ても十六七の若々しい顔付きをしていたからです。又ニコニコ小僧というのは、この小僧がいつもニコニコしていたからです。その次に唖(おし)小僧というのは、この小僧が口を利いた例(ためし)が今迄一度もなかったからです。王様小僧というのは、この乞食が物を貰った時お辞儀をした事がなく、又人に物を呉(く)れと云った事が一度も無いから付けた名前で、慈善小僧というのは、この小僧が貰った物の余りを決して蓄(た)めず他の憐(あわ)れな者に惜(お)し気(げ)もなく呉れて終(しま)い、万一他人の危(あやう)い事や困った事を聞くと生命(いのち)を構わず助けるから附けた名前です。その他不思議小僧、不死身小僧、無病小僧、漫遊小僧、ノロノロ小僧、大馬鹿小僧など数えれば限りもありませぬ。人々は皆この白髪小僧を可愛がり敬(うやま)い、又は気味悪がり恐れておりました。
 けれども白髪小僧はそんな事には一切お構いなしで、いつもニコニコ笑いながら悠々(ゆうゆう)と方々の村や都をめぐり歩いて、物を貰ったり人を助けたりしておりました。
 或る時白髪小僧は王様の居る都に来て、その街外(まちはず)れを流れる一つの川の縁に立っている大きな銀杏の樹の蔭でウトウトと居睡(いねむ)りをしておりました。ところへ不意に高いけたたましい叫び声が聞こえましたから眼を開いて見ると、つい眼の前の川の中にどこかの美しいお嬢さんが一冊の本を持ったまま落ち込んで、浮きつ沈みつ流れて行きます。
 これを見た白髪小僧は直ぐに裸体(はだか)になって川の中に飛び込んでその娘を救い上げましたが、間もなく人々の知らせで駈けつけた娘の両親は、白髪小僧に助けられて息を吹き返した娘の顔を見ると、只(ただ)もう嬉(うれ)し泣きに泣いて、濡(ぬ)れた着物の上から娘をしっかりと抱き締めました。そして直ぐに雇った馬車に娘と白髪小僧を乗せて自分の家に連れて行きましたが、その家の大きくて美しい事、王様の住居(すまい)はこんなものであろうかと思われる位で、お出迎えに出て来た娘の同胞(きょうだい)や家来共の着物に附けている金銀宝石の飾りを見ただけでも当り前の者ならば眼を眩(ま)わして終う位でした。併(しか)し白髪小僧は少しも驚きませんでした。相も変らずニコニコ笑いながら悠々と娘の両親に案内されて奥の一室(ひとま)に通って、そこに置いてある美事な絹張りの椅子に腰をかけました。
 ここで家(うち)中の者は着物を着かえた娘を先に立てて白髪小僧の前に並んでお礼を云いましたが、白髪小僧は返事もしませぬ。矢張りニコニコ笑いながら皆の顔を見まわしているばかりでした。
 お礼を済ました家(うち)中の者が左右に開いて白髪小僧を真中にして居並ぶと、やがて向うの入り口から大勢の家来が手に手に宝石やお金を山盛りに盛った水晶の鉢(はち)を捧げて這入(はい)って来て、白髪小僧の眼の前にズラリと置き並べました。その時娘のお父さんは白髪小僧の前に進み出て叮嚀(ていねい)に一礼して申しました。
「これは貴方(あなた)の御恩の万分の一に御礼するにも当りませぬが、唯(ただ)ほんの印ばかりに差し上げます。御受け下さるれば何よりの仕合わせで御座います」
 白髪小僧はそんなものをマジマジ見まわしました。けれども別段有り難そうな顔もせず、又要らないというでもなく、家来共の顔や両親や娘の顔を見まわしてニコニコしているばかりでした。この様子を見た娘の父親は何を思ったか膝を打って、
「成(な)る程(ほど)、これは私が悪う御座いました。こんな物は今まで御覧になった事がないと見えます。それではもっと直ぐにお役に立つものを差し上げましょう」
 と云いながら家来の者共に眼くばせをしますと、大勢の家来は心得て引き下がって、今度は軽くて温かそうで美しい着物や帽子や、お美味(い)しくて頬(ほお)ベタが落ちそうな喰べ物などを山のように持って来て、白髪小僧の眼の前に積み重ねました。けれども白髪小僧は矢張りニコニコしているばかりで、その中(うち)に最前の午寝(ひるね)がまだ足りなかったと見えて、眼を細くして眠(ね)むたそうな顔をしていました。
 大勢の人々は、こんな有り難い賜物(たまもの)を戴(いただ)かぬとは、何という馬鹿であろう。あれだけの宝物があれば、都でも名高い金持ちになれるのにと、呆(あき)れ返ってしまいました。娘の両親も困ってしまって、何とかして御礼を為様(しよう)としましたが、どうしてもこれより外に御礼の仕方はありませぬ。とうとう仕方なしに、誰でもこの白髪小僧さんが喜ぶような御礼の仕方を考え付いたものには、ここにある御礼の品物を皆遣(や)ると云い出しました。けれども何しろ相手が馬鹿なのですから、まるで張り合いがありませんでした。
「貴方をこの家(うち)に一生涯養って、どんな贅沢(ぜいたく)でも思う存分為(さ)せて上げます」と云っても、又「この都第一等の仕立屋が作った着物を、毎日着換えさせて、この都第一等の御料理を差し上げて、この街第一の面白い見せ物を見せて上げます」と云っても、「山狩りに行こう」と云っても、「舟遊びに連れて行く」と云っても、ちっとも嬉しがる様子はなく、それよりもどこか日当りの好い処へ連れて行って、午睡(ひるね)をさしてくれた方が余(よ)っ程(ぽど)有り難いというような顔をして大きな眼を瞬いておりました。
 とうとう皆持てあまして愛想を尽かしてしまいました処へ、最前(さっき)から椅子に腰をかけてこの様子を見ながら、何かしきりに溜息(ためいき)をついて考え込んでいた娘は、この時徐(しず)かに立ち上って清(すず)しい声で、
「お父様、お母様。白髪小僧様は仮令(たとい)どんな貴(たっと)い品物を御礼に差し上げても、又どんな面白い事をお目にかけても、決して御喜びなさらないだろうと思います。妾(わたし)はその理由(わけ)をよく知っています」
 と申しました。
「何、白髪小僧さんにどんな御礼をしても無駄だと云うのかえ。それはどういうわけです」
 と両親は言葉を揃えて娘に尋ねました。傍に居た大勢の人々も驚いて皆一時(いちどき)に娘の顔を見つめました。皆から顔を見られて、娘は恥かしそうに口籠(くちご)もりましたが、とうとう思い切って、
「その訳(わけ)はこの書物にすっかり書いて御座います」
 と云いながら、懐(ふところ)から黒い表紙の付いた一冊の書物を出しました。
「この書物に書いてある事を読んで見ますと、白髪小僧様は今までこの国の人々が見た事も聞いた事もない不思議な国の王様なので御座います。ですからこの世の中でどんなに貴い物を差し上げても、どんなに面白い物を御目にかけても、御喜びになる気遣(きづか)いはあるまいと思います。そうしてそればかりでなく、白髪小僧様が妾(わたし)の命を御助け下さるという事は、ずっと前から定(き)まっていた事で、その証拠にはこの書物には、妾が水に落ちましてから、助けられる迄の事が、ちゃんと書いてあるので御座います。決して御礼を貰おうなどいう卑(さも)しい御心で御助け下さったのでは御座いませぬ」
 と決然(きっぱり)とした言葉で申しました。
 両親は云うに及ばず、大勢の人々もこの娘の不思議な言葉に、心の底から驚いてしまって、暫(しばら)くはぼんやりと娘の顔と白髪小僧の顔とを見比べていましたが、何しろあんまり不思議な話しで、どうも本当(ほんと)らしくない事ですから、父様は頭を左右に振りながら――
「これ娘、お前は本気でそんな事を云うのか。私はどうしてもお前の話しを本当(ほんと)にする事は出来ない。一体お前はどこでそんな奇妙な書物を手に入れたのだ」
 と言葉せわしく尋ねました。娘はどこまでも真面目(まじめ)で沈(お)ち着(つ)いて返事を致しました――
「いいえ、妾はちっとも気が狂ってはおりませぬ。そして又この書物に書いてある事を疑う心は少しも御座いませぬ。お父様でもお母様でもどなたでも、一度この書物に書いてあるお話しを御聞き遊ばしたならば、矢張(やっぱ)り屹度(きっと)妾と同じように本当に遊ばすに違いありませぬ。でもこの書物には白髪小僧様と、妾の身の上に就(つ)いて、今まであった事や、行く末の事が些(すこ)しも間違いなく委(くわ)しく書いてあるので御座いますもの。ですからこの書物を読みさえすれば妾がどうしてこの書物を手に入れたかという事も、すっかりおわかりになるので御座います。又今から後(のち)白髪小僧様と妾の身の上がどうなって行くかという事も、追々とおわかりになる事と思います」
 皆の者は、聞けば聞く程不思議な話に、驚いた上にも驚いて、開(あ)いた口が塞(ふさ)がりませんでした。
 両親もとうとう思案に余って、とにかくそれでは娘にこの書物を読まして一通り聞いた上で、本当(ほんと)か嘘(うそ)か考えてみようという事に定(き)めました。
 両親の許しを受けて娘が書物を読み初めると、室(へや)中の者は、皆(みんな)水を打ったように森(しん)となりました。只その中で白髪小僧ばかりは何の事やら訳がわからずに大きな眼をパチパチさせながら、娘の美しい声に聞き惚(と)れていましたが、間もなく聞き疲れてしまって、又うとうとと居睡(いねむ)りを初めました。
 お嬢様はそれには構わずに、書物を繰り拡げて高らかに読み初めました。その話しはこうでした。

     二 黒い表紙の書物

 この書物に書いてある事は、世界一の利口者と世界一の馬鹿者との身の上に起った、世界一の不思議な面白いお話しである。
 この話しを読む人は誰もこの中に書いてある事を本当(ほんと)に為(し)ないであろう。皆そんな馬鹿気た不思議な事がこの世の中に在るものかと思うであろう。唯世界一の利口な人と世界一の馬鹿な人だけは、これを本当(ほんと)にして読むのである。今のところそんな人はこの世の中(うち)に唯二人しかいない。その一人はニコニコ王様の長生(ながいき)の乞食の白髪小僧で、今一人はこの国の総理大臣の美留楼(みるろう)公爵の末娘美留女姫(みるめひめ)である。そうしてこの書物の持ち主は、この書物に書いてある事を、初めからおしまいまで本当(ほんと)にして読む人――つまりこの白髪小僧と美留女姫二人より他には無いのである。
 この書物にはその持ち主が、自分や他人の身の上について知りたいと思う事、又は他(た)の人に知らせたい、話して聞かせたいと思う事が、自由自在に挿(さ)し絵(え)や文字となって現われて来る。今美留女姫は自分がこの書物を手に入れた仔細(わけ)を、両親(ふたおや)やその他の人々に読んで聞かせたいと思っているから、このお話しは先(ま)ず美留女姫の身の上の事から始まらなければならない。
 今この書物を声高らかに読んでいる美留女姫は前にもある通り、この国第一の金持ちで、この国第一の貴(たっと)い役目と身分とを持っている公爵美留楼という人の末娘で、今年十四になったばかりであるが、生れ付きお話が大好きで、毎日一ツ宛(ずつ)新しいお話を聞かねばその晩眠る事が出来ないのが癖(くせ)であった。姫の両親(ふたおや)はそのために、毎日毎日新しいお話の書物を一冊宛(ずつ)買ってやったが、今は最早(もはや)その書物が五ツの倉庫(くら)に一パイになってしまった。この上にはどこの書物屋を探しても、今までと違った新しいお話の書物は、一冊も無いようになってしまった。
 ところがここに一ツ困った事には、この美留女姫は大層物憶(ものおぼ)えがよくて、どんなに古く聞いた話でも少しも間違わずにはっきりと記憶(おぼ)えていて、初めの二言三言聞けばすぐにあとの話を皆思い出してしまうから、古い書物を二度読んで聞かせる訳には行かなかった。それかといって、この上に新しいお話は世界中に只の一ツも無いのだから、姫は毎日毎晩新らしいお話が聞きたくて聞きたくて夜もおちおち眠る事が出来なかった。
 けれども姫は両親(ふたおや)にこの事を話すと、却(かえっ)て心配をかけると思ったから、毎晩故意(わざ)とよく眠ったふりをして我慢(がまん)しながら、どうかして新しい珍らしいお話を聞く工夫はないかと、そればかり考えていた。
 ところが或る日の朝の事であった。姫は昨夜も夜通しまんじりとも為(し)なかったので、呆然(ぼんやり)しながら起き上って顔を洗い御飯を喰べて、何気なく縁側に出て庭の景色に見とれた。丁度秋の半ば頃で庭には秋の草花が露に濡れて、眼眩(めまぐる)しい程咲き乱れていたが、姫は又もやお話の事を思い出して、吁(ああ)、あの花が皆善(い)い魔物か何かで、一ツ一ツに面白い話しを為(し)てくれればいいものを、彼(か)の林の中に囀(さえず)っている小鳥が天人か何かで、方々飛びまわって見て来た事を話して聞かせるといいいものをと独(ひと)りで詰(つま)らなく思っていると、不意に耳の傍で――
「美留女姫、美留女姫」
 と奇妙な声で呼ばれたので、吃驚(びっくり)してふり向いた。見るとそれはつい昨日(きのう)の事、美留女姫の兄様の美留矢(みるや)が、明日(あす)王様に差し上げるからそれまで飼っておいてくれと云って、美留女姫に預けた一羽の赤い鸚鵡(おうむ)で、美留矢の家来が東の山から捕(と)って来たものであった。美留女姫はこれを見ると淋(さび)しい笑みを浮かめて――
「まあ、お前だったのかい、今呼んだのは。まあ、何という利口な鳥でしょうねえ。最早(もう)妾の名前を覚えたの。大方お父様かお母様の真似でも為(し)ているのでしょう。本当にお前は感心だわねえ」
 と云いながら、籠(かご)の傍に近寄った。けれども鸚鵡は籠の真中の撞木に止まりながら、矢張(やっぱ)り姫の名を呼び続けた――
「美留女姫、美留女姫、美留女姫」
 これを聞くと姫は益々笑いながら――
「まあ、可笑(おか)しい鸚鵡だ事。わかったよ、わかったよ、妾はここに来ているではないの。そうして妾に何か用でもあるの」
 と尋ねた。すると不思議なことには赤鸚鵡が忽(たちま)ち姫の前の金網へ飛び付いて、姫の顔を真赤(まっか)な眼で見つめながら――
「美留女姫、美留女姫、用がある。話がある、面白い話しがある」
 と呼んだ。
 美留女姫はこれを聞くと、真青になって驚いた。真逆(まさか)こんな鳥が、人間と同じように、しかも自分に話しかけようとは夢にも思わなかったのだから、怪しんだのも無理はない。余りの事に呆(あき)れて口も利けなくなって、茫然(ぼんやり)と鸚鵡を見つめていると、赤鸚鵡は構わずに叫び続けた――
「怪しむな、驚くな、美留女姫、美留女姫。
 お前の願いは今叶(かな)った。
 新規の話しを聞きたいという。
 お前の願いは今叶った。
 行け行け、街に行け。
 たった独(ひと)りで街に行け。
 この広い街中で一番長く生きている。
 白髪(しらが)頭の人に聞け。
 不思議な姿の人に聞け。
 その人の身の上話しを……
 悧口な美留女姫。
 賢い美留女姫。
 疑うな、怪しむな、夢でない、本当だぞ。
 疑うな、怪しむな、夢でない、本当だぞ」
 美留女姫はこの時やっと吾(わ)れに帰って、夢から覚めたように思いながら、鸚鵡の言葉を一心に聞いていた。そうして心の中(うち)で、この不思議な鳥の言葉を、驚き怪しみながらも亦(また)、その云う事が決して偽(いつわ)りでも出鱈目(でたらめ)でも何でもなく、本当に珍らしい話しを聞くのに、一等都合の宜(よ)い巧(うま)い工夫を教えている事が解(わ)かって、心から感心した。成る程この街で、一番珍しい奇妙な風体(なり)をしている、一番長生(ながいき)の白髪頭の老人を見付け出して、その人の身の上話しを聞かしてもらえば、屹度(きっと)面白い新規の話を聞く事が出来るに違いない。又仮令(たとい)そんな人でなくとも、身の上話しならばどんな人を捕まえても、十人が十人違っている筈(はず)だから、同じ話を二度聞かされる心配はない。そうしてその御礼には、書物を一冊買うだけのお銭(あし)を遣れば、貧乏人等は喜んで話して聞かせるに違いないと、こう考え付くと美留女姫は、最早(もう)一秒時間も我慢が出来なくなった。眼の前の鸚鵡の事も忘れてしまって、直ぐに自分の室(へや)に帰って帽子を頭に載(の)せるが早いか、たった一人で家を出て只(と)ある人通りの多い橋の袂(たもと)へ駈けて来た。
 そこに暫(しばら)くの間立って待っていると、間もなくよい都合に向うから、お誂(あつら)え通りの奇妙な風体(なり)をした白髪頭の人が遣って来たから、姫は天にも昇らんばかりに喜んで、いきなりその人の前に駈け寄って袖(そで)に縋(すが)りながら十円の金貨を出して、身の上話をしてくれと頼んだ。その人は頭に高い帽子を三段も重ねて耳の処まで冠(かむ)っていた。そして身には赤い襯衣(しゃつ)を着て、青い腰巻の下から出た毛だらけの素足に半長(はんなが)の古靴を穿(は)いていたが、赤い顔に白髪髯(しらがひげ)を茫々(ぼうぼう)と生(は)やして酒嗅(さけくさ)い呼吸(いき)を吐(は)きながら、とろんこ眼で姫の顔を呆れたように見つめていた。けれども姫から大略(あらまし)の仔細(わけ)を聞くと、大きな口を開いて笑い出した――
「アハ……。そうか。ではお前はここまでお話しを買いに来たのか。成る程、それは巧い思い付きだ。そうして第一番に俺を捕(つか)まえたのは感心だ。
 世界中で俺位面白い愉快な身の上を持っているものは、他に唯の一人も無いのだからな。では今から話すからよく聞きなよ。俺は小さい時から酒が好きで、どうしても止められなかったんだ。親が死んでも構わずに酒を飲んだ。嬶(かかあ)や小供が死んでも矢張(やっぱ)り酒を飲んだ。家(うち)が火事になっても、打(う)っ棄(ちゃ)っておいて酒を飲んでいた。嬉(うれ)しいと云っちゃ飲んだ。悲しいと云っちゃ飲んだ。昨日(きのう)も飲んだ。今日もたった今まで飲んだところだ。明日(あした)も明後日(あさって)も……大方死ぬまで飲むんだろう。今からも亦(また)、お前のお金で飲んで来ようと思うんだ。これでお仕舞い……目出度(めでた)し目出度しかね。ハハハ。イヤ有り難う。左様なら」
 と云ううちに姫の掌(てのひら)の中の十円の金貨を引ったくって、よろよろとよろめいて行った。
 姫は大層面白い話だとは思ったが、何しろあんまり短くて張り合いがなかった。だから今度はなるべく長く委(くわ)しく話してもらおうと思って、酔(よ)っ払(ぱら)いのあとから通りかかったお婆さんの傍へ寄って、事情(わけ)を話して身の上話しを聞かしてくれと頼んだ。
 このお婆さんも不思議な風体(ふうてい)で、頭は白髪が茫々(ぼうぼう)と乱れているのに、藁(わら)で編んだ笠を冠(かむ)り、身には長い穀物(こくもつ)の袋に穴を明けたのに両手と首を通して着ていて、足には片方(かたっぽう)にスリッパ、片方には膝まで来る長靴を穿(は)いて、一尺ばかりの杖を突張って地面に這い付く程に腰を曲げていた。そうして矢張(やっぱ)り最前の酔払いと同じように、美留女姫が出し抜けに奇妙な事を頼んだのに驚いたと見えて、杖につかまって腰を伸ばしながら、霞んだ眼を真(ま)ン円(まる)にして姫の顔を見ていたが、やがてニヤリと笑いながら金貨を貰ってそのまま杖を突張って行こうとした。姫は慌てて袖に縋(すが)って――
「アレお婆さん。お話しはどうしたのです。何卒(どうぞ)あなたの身の上話を聞かして下さいな」
「何も話す事はありませぬ。只(ただ)三万日の間つまらなく長く生きていたばかりで御座います」
「まあ三万日……八十年ですわね。でもその間に何か珍しい事があったでしょう」
「アア。そうそうたった二ツありましたよ」
「それはどんな事ですか?」
「一ツは生れてはじめてお話気違いというものを見た事で御座います」
「オヤ。いつ、どこで?」
「今、ここで」
「マア。ではも一ツは?」
「十円の金貨というものをこの手に生れて初めて握った事で御座います。ほんとに有り難う御座いました。さようなら」
 と云いながら袖をふり払ってどこかへ行ってしまった。
 こんな風に遇(あ)う者も遇う者も皆姫を気違いか馬鹿扱いにして、散々嘲弄(からか)ってはお銭(あし)を持って行ってしまったから、一時間と経たぬうちに姫の財布はすっかり空っぽになってしまった。その中(うち)でも非道(ひど)い奴はお金も何も取らない代りに――
「俺は今忙がしいんだ。そんな馬鹿の相手になってはいられない」
 と剣突(けんつく)を喰(くら)わして行ったものもあった。
 姫はもうすっかり気を落してしまって、迚(とて)もこんな塩梅(あんばい)では一生涯面白い珍らしい話を聞く事は出来ないであろう。彼(か)の赤鸚鵡(おうむ)は嘘を吐(つ)いたのか知らん。もし本当にこれから一ツも新しいお話を聞く事が出来なければ、もう一生涯何の楽しみも無くなってしまったのだから、死んだ方がいくら良(い)いか知れない。噫(ああ)、情ない事になった。詰(つま)らない事になったと、しくしく泣きながら、街外れの只(と)ある河岸まで来るともなく歩いて来ると、そこに立っている大きな銀杏(いちょう)の樹の根元に腰をかけて、疲れた足を休めようとした。けれどもまだ腰をかけぬ前に姫はその銀杏の樹の根元に思いがけないものを見つけて、忽(たちま)ち躍(おど)り上らんばかりに喜んだ。その時姫が見付けたのがこの白髪小僧と題した不思議なお話の書物であった。
 姫はこの書物が、竜(りゅう)のようにうねった銀杏の樹の根本に乗っているのを見つけると直ぐに、この書物こそ自分が今まで一度も見た事のない書物だと思って、思わず駆(か)け寄って手に取ろうとしたが、又ハッと気が付いて立ち止まった。見れば大分古びた書物のようだから、これは屹度(きっと)誰かがここに置き忘れて行ったものに違いない。して見ればこれを黙って開いて見るのは泥棒と同じ事だと思って、出しかけた手を引っこめた。
 姫は折角こんな有り難い事に出くわしながら、指一本指す事も出来ず、持ち主の来るのを待っていなくてはならぬのが、自烈度(じれった)くて堪(たま)らなかった。早く持ち主が来てくれればいい。そうして自分にこの書物を貸してくれればいいと、足摺りをして立っていた。けれどもどういうものか、持ち主は愚(おろ)か人間らしいものは一人も遣って来ないで、その代りに空から銀杏の葉が黄金(こがね)の雪のようにチラチラと降って来て、書物のまわりに次第次第に高く積りはじめた。そうしてその黒い表紙がだんだんと見えなくなって、もうあと一二枚落ちるとすっかり銀杏の葉で隠れてしまいそうになると、最前(さっき)から我慢の出来るだけ我慢をしていた姫は、もう堪(たま)らなくなって、我れ知らず傍に走り寄って、銀杏の葉を掻(か)き除(の)けて書物を拾い上げて、表紙を一枚夢中でめくって見た。
 すると姫は又もやそこに夢ではないかと思う程不思議なものを見つけた。その初めの処にはっきりとした文字で『白髪小僧と美留女姫(みるめひめ)』という言葉が、チャンと二行に並んで書いてあったのである。姫は白髪小僧の事は兼々(かねがね)お附の女中から委(くわ)しく聞いて知っていたが、今目の前に自分の名前と一緒にチャンと並べて書いてあるのを見ると、どうしても誰かの悪戯(いたずら)としか思われなかった。
 けれども姫が又急いで次の頁(ページ)を開いて見ると、今度はいよいよ二人の名前が出鱈目(でたらめ)に並べてあるのではなく、この書物には本当に、自分と白髪小僧の身の上に起った事が書いてあるのだという事がわかった。その第三頁目には王冠を戴(いただ)いた白髪小僧の姿と美事な女王の衣裳を着けた美留女姫が莞爾(にっこ)と笑いながら並んでいる姿が描(か)いてあった。
 もう姫はこの書物から、一寸(ちょっと)の間(ま)も眼を離す事が出来なくなった。すぐに第四枚目を開いてそこに書いてあるお話を次から次へと読んで行くと、疑いもない自分の身の上の事で、姫がお話の好きな事から、身の上話を買いに出かけた事、そうして銀杏の根本でこの書物を見つけたところまで、すっかり詳(くわ)しく書いてあるものだから、全く夢中になってしまって、これから先どうなる事だろうと、先から先へと頁を繰りながら、家(うち)の方へ歩いているうちに、一足宛(ずつ)川岸の石崖の上に近づいて来た。折からそこを通りかかった二三人の人々はこの様子を見て胆(きも)を潰(つぶ)し――
「危いッ、お嬢様危い。ソラ落ちる」
 と大声揚げて駈け附けた。
 併(しか)し姫は書物に気を取られていたから人々の叫び声も何も耳に入らなかった。
 矢張(やっぱ)り平地(ひらち)を歩いているつもりで片足を石垣の外に踏み出すや否や、アッと云う間もなく水煙(みずけむり)を立てて落ち込んでドンドン川下へ流れて行った。
 けれども仕合わせと白髪小僧の御蔭(おかげ)で危い命を拾ったが、これが縁となって美留女姫は白髪小僧を吾(わ)が家(や)へ連れて来て、両親を初め皆の者に白髪小僧と自分との身の上に起った、今までの不思議な出来事を読んで聞かせると、皆心から驚いて、一体これはその書物に書いてあるお話しか、それとも本当に二人の身の上に起った事かと疑った。そうして今の話で、この間赤い鸚鵡が云った一番長生(ながいき)の白髪頭の奇妙な姿をした老人というのはお爺さんでもお婆さんでも何でもなく、この白髪小僧の事に違いないことがわかった。成程、白髪小僧ならば、世界中で二人とない不思議な身の上話を持っているに違いない。そうしてそれを聞くのは世界中でこの人達が初めてで、しかもそれが美留女姫の身の上と一所になって、どこかまだ知らぬ国の王様と女王になるらしく思われたから、皆の者は最早(もう)先が待ち遠しくて堪(たま)らなくなって――
「それからどうしたのです。早く先を読んで下さい」
 と口々に催促(さいそく)をした。

     三 青い眼

 美留女姫も同じ事で、最前(さっき)水に落ちたのを、白髪小僧に救い上げられてから今までの出来事は、皆本当に自分の身の上に起っている事か、それともこの書物に書いてあるお話しかと疑った。そうして皆から催促される迄もなく、白髪小僧と自分の身の上のお話がどうなるか、早く読みたくて堪らなかったけれども、一先ずじっと気を落ち着けて皆の顔を見まわしながらニッコリと笑った。そうして――
「待って下さい。妾(わたし)もこれから先どうなるか知らないのです。今から先を読みますから静かにして聞いていて下さい」
 と云いながら、胸を躍らせて次の頁を開いた。
 見ると……どうであろう。次の頁は只の白紙(しらかみ)で、一字も文字が書いて無いではないか。これは不思議……今まであった話が途中で切れる筈(はず)はないと思いながら、慌てて次の頁を開いたがここも白紙(はくし)で何も書いて無い。その次その次とお終い迄バラバラ繰り拡げて見たが矢張(やっぱ)り同じ事。真逆(まさか)白髪小僧と自分の身の上が、これでおしまいになった訳ではあるまいと、美留女姫は胸が張り裂ける程驚き慌てて、今度は前の方を引っくりかえして見ると又驚いた。今まであんなに書き続けてあった文字が一字も無く、この書物は全くの白紙(しらかみ)の帳面と同じ事になっていた。
 美留女姫はあまりの事に驚き呆(あき)れて思わず書物から眼を離すと又不思議、今までたしかに大広間の中で大勢の人に取りまかれて、書物を読んでいた筈なのに、今見まわせばそんなものは、書物の文字や挿(さ)し絵(え)と一所に、どこかへ綺麗(きれい)に消え失せてしまって、自分は矢張り最前の銀杏(いちょう)の根本に、書物を持ったままぼんやりと突立っているのであった。しかも眼の前の最前書物の置いてあった銀杏の樹の根本には、いつの間にどこから来たか、白髪小僧が腰をかけていて、お話を聞きながらうとうとと居睡(いねむ)りをしているではないか。姫は何だかサッパリ訳がわからなくなった。最前からのいろいろの不思議の出来事は、矢張り本当の事ではなく、皆この書物を読みながらそのお話しの通りに自分が為(し)たように思っただけで、本当は矢張り最前(さっき)からここに立ったままで、白髪小僧は自分の気付かぬ間(ま)にここに来て眠っているのだとしか思われなかった。姫は益々呆れてしまって、思わず手に持っていた書物をパタリと地上(じべた)に取り落すと、間もなく颯(さっ)と吹いて来た秋風に、綴(と)じ目(め)がバラバラと千切れて、そのまま何千何万とも知れぬ銀杏の葉になって、そこら中一杯に散り拡がった。見るとその葉の一枚毎(ごと)に一字宛(ずつ)、はっきりと文字が現われている様子である。
 重ね重ねの不思議に姫は全く狐に憑(つま)まれた形で、ぼんやりと突立って見ていると、その内に又もや風が一しきり渦巻(うずま)き起(た)って、字の書いてある銀杏の葉をクルクルと巻き立てて山のように積み重ねてしまった。
 するとそこへどこからか眼の玉と髪毛(かみのけ)と鬚(ひげ)が真青な、黄色い着物を着た一人のお爺(じい)さんが出て来たが、この銀杏の葉の山を見ると、これも何故(なぜ)だか余程驚いた様子で――
「これは大変な事になった。一時(いっとき)も棄てておかれぬ」
 と云いながら直ぐ傍(そば)の石作りの門の中に這入ったが、やがて大きな袋と箒(ほうき)を持って来てすっかり銀杏の葉をその中へ掃(は)き込(こ)んで、どこかへ荷(かつ)いで行く様子である。これを見ていた姫はこの時はっと気が付いて、あの銀杏の葉に書いてある字を集めると、屹度(きっと)今までのお話しの続きがわかるのに違いないと思ったから、持って行かれては大変と急に声を立てて――
「お爺さん、一寸待って下さい」
 と呼び止めた。
 けれども青い眼の爺様は見向きもしないで唯(ただ)――
「何の用事だ」
 と云い棄ててずんずん先へ急いで行った。
 美留女姫はこれを見ると、慌ててお爺さんに追(お)い縋(すが)って――
「お爺さん。何卒(どうぞ)御願いですから待って下さい。そうしてその銀杏の葉に書いてある字を妾に読まして下さい」
 と叮嚀(ていねい)に頼んだ。けれどもお爺さんは矢張り不機嫌な声で――
「馬鹿な事を云うな。これは悪魔の文字だ。これを見ると悪魔に魅入られるのだ。見せる事は出来ない」
 と答えながらなおも足を早めて急いで行く。
 美留女姫は気が気でなくなおもお爺さんに追い縋って尋ねた――
「では貴方(あなた)はそれをどうなさるのですか」
「うるさい女の子だな。山へ持って行って焼いてしまうのだ」
「エエッ。それはあんまり勿体(もったい)ないじゃありませんか。それには面白いお話しが沢山書いてあるのです。妾はそれを読んでしまわなければ、今夜から眠る事が出来ませぬ。明日(あした)からは生きている甲斐(かい)が無くなります。何卒(どうぞ)、何卒(どうぞ)後生ですから妾を助けると思って、その銀杏の葉に書いてある字を読まして下さい。ね。ね」
 と泣かんばかりに頼みながら、老人に追い付いて袖に縋ろうとした。けれども爺さんは尚も意地悪くふり払って――
「そんな事を俺が知るものか。この銀杏の葉に書いてある文字は、藍丸国(あいまるこく)の大切な秘密のお話しで、これをうっかり読んだり聞いたりすると、藍丸国に大変な事が起るのだ。とてもお前達に見せる事は出来ない。諦(あきら)めて早く帰れ」
 と云いながら一層足を早めて歩き出した。
 するとこの様子を見ていた白髪小僧は、何と思ったか忽(たちま)ちむっくり起き上って、大急ぎであとを追っかけはじめた。その中(うち)に美留女姫も一生懸命に走ってお爺さんに追い付いて、何を為(す)るかと思うと、懐(ふところ)から小さな鋏(はさみ)を取り出して、お爺さんが荷(かつ)いで行く袋の底を少しばかり切り破った。そうして、その破れ目から落ちる銀杏の葉を、お爺さんが気付かぬように、ずっと後ろから拾って行きながら、その上に書いてある一字一字を清(すず)しい声で読み初めたが、その一字一字は不思議にも順序よく続き続いて、次のような歌の文句になっていた。

     四 石神の歌

「三千年の春毎(ごと)に、栄え栄えた銀杏の樹。
 三千年の夏毎に、茂り茂った銀杏の樹。
 梢(こずえ)に近い大空を、月が横切る日が渡る。

 流るる星の数々は、枝の間に散り落ちて、
 千万億の葉をふるう、今年の秋の真夜中の、
 霜に染(そ)め出(だ)す文字の数、繋(つな)ぎ繋がる物語。

 春はどこから来るのやら。秋はどっちへ行くのやら。
 毎年(まいとし)毎年花が咲き、毎年毎年葉をふるう。
 昔ながらの世の不思議、今眼の前に現われて、
 眼は見え耳はきこえても、手足は軽く動いても、
 昨日(きのう)為(し)た事今日忘れ、先刻(さっき)した事今忘れ、
 自分の事も他事(ひとごと)も、忘れ忘れていつ迄も、
 限りない年生き延びた、聞こえ聾(つんぼ)の見え盲目(めくら)。
 不思議な王の知ろし召(め)す、奇妙な国の物語。

 昔々のその昔、世界に生きたものが無く、
 只(ただ)岩山と濁(にご)り海、真暗闇(まっくらやみ)のその中(うち)に、
 或る火の山の神様と、ある湖の神様と、
 二人の間に生れ出た、たった一人の大男。
 金剛石の骨組に、肉と爪とは大理石。
 黒曜石の髪の毛に、肌は水晶血は紅玉(ルビー)。

 岩角ばかりで敷き詰めた、広い曠野(あれの)の真中で、
 大の字形(なり)の仰向(あおむ)けに、何万年と寝ていたが、
 或る時天の向うから、大きな星が飛んで来て、
 寝てる男の横腹へ、ドシンとばかりぶつかった。

 男はウンと云いながら、青玉の眼を見開いて、
 どこが果ともわからない、暗(やみ)の大空見上ぐれば、
 左の眼からは日の光り、右の眼からは月の影、
 金と銀とに輝やいて、二ツ並んで浮み出し、
 一ツは昼の国に照り、一ツは夜の国に行く。

 瞬(まばた)きすれば星となり、呼吸をすれば風となり、
 嚏(くしゃみ)をすれば雷(らい)となり、欠伸(あくび)をすれば雲となる。

 男はやがてむっくりと、山より大きな身を起し、
 ずっと周囲(まわり)を見まわせば、四方(あたり)は岩と土ばかり。
 もとより生きた者とては、艸(くさ)一本も生えて無い。

 男はあまりの淋しさに、オーイオーイと呼んで見た。
 けれどもあたりに一人(いちにん)も、人間らしい影も無く、
 大石小石の果も無い、世界に自分は唯一人。

 青い空には雲が湧く。幾個(いくつ)も幾個も連れ立って、
 さも楽し気に西へ行く。けれども自分は唯一人。

 黒い海には波が立つ。仲よく並んでやって来て、
 岸に砕けて遊んでる。けれども自分は唯一人。

 もとより不思議の大男。家(うち)も着物も喰べ物も、
 何んにも要らぬ身ながらに、相手といっては人間や、
 鳥や獣(けもの)はまだ愚か、艸(くさ)一本も眼に入らぬ、
 広い野原の恐ろしさ。石の野原の凄(すさま)じさ。

 折角生れて来たものの、話し相手も何も無い、
 淋しさつらさ情なさ。男はとうとう焦(じ)れ出して、
 一体誰がこの俺を、こんな野原に生み出した。
 一体誰がこの俺を、こんな荒野(あれの)に連れて来た。

 寧(いっ)そ眠っているならば、死ぬまで眠っているならば、
 こんな淋しい情ない、つらい思いはしまいもの。
 一体誰がこの俺を、ドシンとなぐって起したと、
 ぬっくとばかり立ち上り、声を限りに怒鳴(どな)ったが、
 答えるものは山彦の、野末に渡る声ばかり。

 青い空には雲が湧く。けれども自分は只一人。
 黒い海には波が立つ。けれども自分は只一人。

 男はとうとう怒り出し、吾れと吾が髪引掴み、
 赤く血走る眼を挙げて、遠い青空睨(にら)みつつ、
 大声揚げて泣きながら、天も響(ひび)けと罵(ののし)った。

 大空も聞け土も聞け、山も野も聞け海も聞け。
 目に見えるもの見えぬ者、あらゆる者よ皆(みんな)聞け。
 俺は死ぬのだ今直ぐに、この場で死んで了(しま)うのだ。
 われと自分の淋しさに、天地を怨(うら)んで死ぬるのだ。
 こんな淋しい恐ろしい、所に長く生きていて、
 悲しい思いするよりは、死んでしまった方が好い。

 こんな眼玉があったとて、面白いもの見なければ、
 綺麗なものを見なければ、何の役にも立たないと、
 われと吾が眼をえぐり出し、虚空(こくう)はるかに投げ棄てた。
 その投げ上げた眼の玉が、地面(じべた)に落ちたその時は、
 一字も文字の書いて無い、巻いた書物となっていた。

 二ツの耳もこの上に、面白い事聴かれねば、
 他人(ひと)の話しもきかれねば、何の役にも立たないと、
 両方一度に引き千切り、地面の上に打ち付けた。
 すると二ツ耳も亦、地面に落ちると一時(いちどき)に、
 一ツも穴の明いて無い、重たい石の笛となる。

 鼻はあっても見る限り、咲く花も無い広い野の、
 埃(ほこり)に噎(む)せるばかりでは、却(かえっ)て邪魔(じゃま)にしかならぬ、
 糞(くそ)の役にも立たないと、これも千切って打ち付けた。
 するとガタンと音がして、糸を張らない月琴(げっきん)が、
 この大男の足もとの、石の間に落っこちた。

 又一人(いちにん)も話しする、相手が無ければこの舌も、
 無駄なものだと云ううちに、ブツリとばかり噛み切って、
 石の間に吐(は)き棄(す)てた。それと一緒にコロコロと
 振り子の附かない木の鈴が、地面の上に転がった。

 こうして我れと吾が身をば、咀(のろ)い尽(つく)した大男、
 息は忽(たちま)ち絶え果てて、石の野原に打ちたおれ、
 手足も頭もバラバラに、胴と離れて転がった。

 折しも四方に雲が湧き、雷が鳴り風が吹き、
 月日の光りも真暗に、砂や小石を吹き上げて、
 車軸を流す大雨を、泥や小砂利の滝にして、
 彼(か)の大男の亡骸(なきがら)も、埋もるばかりにふりかけた。

 その時海も野も山も、砕くるばかりに鳴り渡る、
 さも物凄い恐ろしい、真暗闇のただ中に、
 彼(か)の石男の眉間(みけん)から、赤い光りが輝やいて、
 額の骨が真二(まっぷた)ツに、パッと割れたと思ううち、
 真赤な鸚鵡が飛び出して、東の方へ飛んで行(っ)た。

 又石男の胸からは、青い光りが輝やいて、
 身に宝石の鱗(うろこ)着た、細い海蛇(かいだ)を巻き付けた、
 大きな鏡が現われて、南の方へ飛んで行(っ)た。

 やがて空には雲が晴れ、地には嵐が吹き止んで、
 泥の野原に泥の山、濁った海のその他は、
 何にも見えぬその涯(はて)に、真赤な真赤な太陽が、
 ぐるぐるぐると渦巻いて、眩(まぶ)しく沈みかけていた。

 その時地面のドン底の、彼(か)の石男の亡骸(なきがら)の、
 数限りない毛穴から、何億万とも数知れぬ、
 大きい小さい様々の、石の卵が湧き出して、
 暖かい日に照らされて、一ツ一ツにかえり出す。

 足から出たのは艸(くさ)や木に、胴から出たのは虫けらに、
 手から出たのは鳥獣(とりけもの)、水に沈めば魚(うお)くずに、
 又頭から湧いたのは、数限りない人間に、
 われて這い出て世の中に、今の通りに散らばって、
 一ツの国が出来上り、藍丸という名が付いた。

 扨(さて)その中に只一つ、臍(へそ)の中から湧き出した、
 小さい白い一粒は、気高い尊い御姿の、
 若いお方に抜けかわり、藍丸国の王様の、
 位に即(つ)いてそのままに、何千何万何億と、
 数限りない年月(としつき)を、無事に治めておわします。

 この藍丸の国のうち、津々浦々に到るまで、
 皆正直に働いて、この珍しい長生(ながいき)の、
 王に忠義を尽(つく)す故、王はおいでになりながら、
 広い国中何一つ、御気にかかった事もなく、
 いつも御殿の奥深く、銀の寝台(ねだい)に身を休め、
 現(うつつ)ともなく夢ぞとも、御存じのない魂は、
 他の世界へ抜け出でて、他の世界の人々に、
 王の心の気楽さを、示し歩いておわします」[#最後の5行は底本では字下げなし]

 ここまで読んで来ると生憎(あいに)く、先に立ったお爺さんは、この時不図(ふと)袋が軽くなったのに気が付いて、変だと思いながらふり返って見ると、自分の背中の袋から落ちた銀杏の葉が、ずっと背後(うしろ)まで長く続いているのを見付けた。これは大変と吃驚(びっくり)して袋を調べて見ると、最前(さっき)美留女姫が鋏で切り破った穴が、袋の底に三角に開(あ)いている。お爺さんはこれを見ると憤(おこ)るまい事か――
「奴(おの)れ小娘、覚悟をしろ。こんな悪戯(わるさ)をして俺の大切な役目を破ったからには生かしておく事は出来ないぞ。どうするか見ておれ」
 と大きな声で怒鳴りながら、忽(たちま)ち鬼のような顔になって袋も何も打(う)っ棄(ちゃ)って、あと引かえして追っかけて来た。
 美留女姫は二度吃驚(びっくり)。もう銀杏の葉の字を読むどころの沙汰(さた)ではない。慌てて逃げ出して、後(あと)から来た白髪小僧の袖に縋って――
「あれ、助けて頂戴。白髪小僧さん。助けて頂戴。あのお爺様に殺されます。妾(わたし)を助けて頂戴。連れて逃げて頂戴。早く。早く」
 と云いながら、もう先へ立って駈け出した。この様子を見たお爺さんは益々腹を立てて真赤になって、
「奴(おの)れ悪魔の娘、逃げようとて逃がすものか。空の涯までも追っかけて引っ捕えてくれる。引っ捕えたら生かしてはおかないぞ。あとから行く白髪の男、貴様も待て。二人共悪魔であろう。国を乱す悪魔であろう。石神の文(ふみ)を読んだからには悪魔の片われに違いない。逃がす事は出来ないぞ。生かしておく事は出来ないぞ」
 と大きな声で喚(わめ)きながら追っかけた。
 ところがこの時白髪小僧は、美留女(みるめ)姫に誘われて一所にあとから逃げながら、このお爺さんの喚(わ)めき声を聞き付けて不図うしろをふり返ると、その顔を一目見るや否や、お爺さんは又もや腰の抜ける程驚いた様子で――
「ヤヤ。貴方(あなた)様は藍丸国王様では御座いませぬか。どうしてここにお出で遊ばしました。そうしてそのお姿は……まあ、何という恐れ多い……浅ましいお姿……」
 と呆気(あっけ)に取られて立ち止まった。けれども美留女姫は少しも気が付かずに先へ走るし、白髪小僧もそのあとからくっついて、お爺さんが立ち止まった隙(ひま)にドンドン駈け出して行った。この様子を見るとお爺様(さん)はもう狂気(きちがい)のように周章(あわて)出して――
「あれ。王様。王様。これはどうした事で御座います。お待ち下さりませ。お待ち遊ばせ。その女は悪魔……大悪魔で御座いますぞ。飛んでもない。飛んでもない。お待ち……お待ち遊ばせ。王様。王様」
 と息を機(はず)ませて、又もや宙を飛んで追っかけた。
 こうして三人は追いつ逐(お)われつ、だんだん人里遠く走って来たが、美留女姫はもう苦しくて苦しくて堪(たま)らないような声を出して――
「白髪小僧さん……白髪小僧さん……」
 と呼びながらふり返りふり返り走って行く。うしろからはお爺さんが青い眼玉を血走らして――
「藍丸王様……王様……藍丸様ア」
 と呼びながら追っかける。白髪小僧は只無暗(むやみ)に息を切らして駈け続けた。
 やがて夕日は西の山にとっぷりと落ち込んで、あたりが冷たく薄暗くなった。野原には露が降りて、空には星が光り初めた。けれどもお爺さんは追っかける事を止めなかった。とうとう山の中へ分け入って、小さな池の縁をめぐって、深い大きな杉の森に這入った時は、あたりがすっかり真暗になって、あとにも先にももう何にも見えず、只怖ろしさの余り声を震わして泣いて行く美留女姫の声を便りに、木の幹を手探りにして追うて行った。その内に白髪小僧は、ヒョロヒョロに疲れて、息をぜいぜい切らすようになった。それでも構わずに走っていると、あっちの根っ子に引っかかり、こっちの幹に打(ぶ)っつかり、もうこの上には一足も行かれないようになって――
「オーッ」
 と呼んだと思うと、そのままそこによろめき倒れてしまった。

     五 七ツの灯火

 すると不思議な事には今呼んだ声が、誰かの耳に這入ったものと見えて、遠くで高らかに――
「オ――オ……」
 と返事をする声がきこえた。白髪小僧はじっと顔を挙げて向うを見ると、丁度(ちょうど)今声の聞こえたあたりに小さな燈光(あかり)が一ツチラリと光り初めた。やがて、その光りが三ツになった。五ツになった。七ツになった。と思う間もなくその七ツの燈火(ともしび)が行儀よく並んでこちらへ進んで来た。その七ツの燈火(ともしび)に照らされた向うの有様を見ると、見事な飾りをした広い廊下で、天井(てんじょう)や壁に飾り付けてある宝石だか金銀だかが五色(ごしき)の光りを照り返して、まことに眼も眩(くら)むばかりの美しさである。そのうちに燈火(あかり)はだんだん近附いて、やがて持っている人の姿がはっきりと見えるようになった。
 見ると七人の持(も)ち人(て)の内真中の一人だけは黄色の着物を着たお爺さんで、あとの六人は皆空色の着物を着た十二三の男の児であった。そうしてそのお爺さんは、最前(さっき)美留女姫と白髪小僧とを追っかけた、眼の玉の青いお爺さんに相違(ちがい)なかった。その中(うち)に七人は直ぐに自分の傍まで近付いて来たが、その持っている手燭(てしょく)の光りで四方(あたり)を見ると、ここは又大きい広い、そうして今の廊下よりもずっと見事な室(へや)である。そうして白髪小僧自身の姿をふりかえって見ると、こは如何(いか)に。最前(さっき)までは粗末な着物を着た乞食姿で、土の上に倒れていた筈なのに、今は白い軽い絹の寝巻を着て、柔らかい厚い布団(ふとん)の中に埋もっている。その上に自分の顔にふりかかる髪毛(かみのけ)を見るとどうであろう! 今まで滝の水のように白かった筈なのが、今は濃い緑色の光沢(つや)のある房々とした髪毛(かみのけ)になって、振り動かす度(たんび)に云うに云われぬ美しい芳香(かおり)が湧き出すのであった。重ね重ねの奇妙不思議に当り前の者ならば、屹度(きっと)気絶でもするか、それとも夢を見ているのだと思って身体(からだ)でも抓(つね)って見るところだが、併(しか)し白髪小僧は平気であった。昨夜(ゆうべ)も一昨夜(おととい)もそのずっと前からここに居て、たった今眼が覚めたような顔をして、先に立ったお爺さんの顔を横になったまま見ていた。
 お爺さんは六人の小供を従えて、寝台(ねだい)の前に来て叮嚀にお辞儀をした。そうして畏(おそ)る畏る口を開いた――
「藍丸王様。青眼爺(あおめじい)で御座います。お召しに依って参りました。何の御用で入らせられまするか。何卒(どうぞ)何なりと御仰せ付けを願います」
 白髪小僧はこう尋ねられても何(なんに)も返事をせずに、只ぼんやりと青眼爺さんの顔を見ていた。
 するとお爺さんは何やら思い当る事があると見えて、傍の小供に眼くばせをしたが、やがてその中(うち)の一人(にん)が玉のような水を水晶の盃(さかずき)に掬(く)んで来て、謹(つつ)しんで眼の前に差し出したから、取り上げて飲んで見ると……その美味(おい)しかった事……そうしてその水には何か貴(たっと)い薬でも這入っていたものと見えて、今までの疲れも苦しさもすっかりと忘れてしまって、身体(からだ)中に新らしい元気が満ち渡るように思った。
 青眼爺様(じいさん)は白髪小僧の藍丸王が飲み干した盃を受け取って、傍の小供に渡すと直ぐに又眼くばせをして、六人の小供を皆遠くの廊下へ退(しりぞ)けて、只(ただ)独(ひと)り王の前に蹲(ひざまず)いて恐る恐る口を開いた――
「王様。恐れながら王様は只今何か夢を御覧遊ばしたのでは御座いませぬか」
 藍丸王は又もや言葉がよく解らないために返事が出来なかった。只何だかわからないという徴(しるし)に、頭を軽く左右に振って見せた。けれども青眼爺は何だか心配で堪(たま)らぬように、じっと藍丸王の顔を見つめていた。そうして重ねて一層叮嚀な言葉で恐る恐る尋ねた。
「王様。私は今日迄王様のお守り役で御座いました。で御座いますから、今まで何事も私にお隠し遊ばした事は一ツとして御座いませんでした。私は王様を御疑い申し上げる訳では御座いませぬけれども、もしや王様は、只今御覧遊ばした夢を御忘れ遊ばしたのでは御座いませぬか。白い着物を着た悪魔の娘と一所に、私の跡をお追い遊ばして、銀杏の葉に書いた文字を御覧遊ばしたのでは御座いませぬか。屹度、屹度御覧遊ばしませぬか。もし御隠し遊ばすと王様の御身(おみ)の上やこの国の行く末に容易ならぬ災(わざわ)いが起りまするぞ」
 青眼の言葉は次第に烈(はげ)しくなって来た。そしてさも恐ろしそうに王の顔を見入りながら、力を籠(こ)めて問い詰めた。
 青眼がどうしてこんな事を尋ねるのか、又あの銀杏の葉に書いてあったお話が何故こんなに気にかかるのか。そうして又あのお話を聞けば何故そんな災いがふりかかるのか――そして青眼はどうしてそれを知っているのであろうか。藍丸王がもし当り前の人間ならば、こんないろいろの疑いを起して青眼にその仔細(わけ)を尋ねるであろう。ところが藍丸王は旧来(もと)の白髪小僧の通り白痴(ばか)で呑気(のんき)でだんまりであった。第一今の身の上と最前(さっき)までの身の上とはどっちが本当(ほんと)なのか嘘なのか、それすら全く気にかけなかった。その上に自分が白髪小僧であった事なぞは疾(とっ)くの昔に忘れてしまっている。そして只眼を丸く大きくパチパチさせながら頭を今一度軽く左右に振った切りであった。
 青眼は、いよいよ王があの夢を見ていないのだと思うと、急に安心したらしく、ほっと嬉(うれ)しそうな溜(た)め息(いき)をした。そして又恭(うやうや)しく長いお辞儀をしながら――
「王様。私はこのように安堵(あんど)致した事は御座いませぬ。夜分にお邪魔を致しましていろいろ失礼な事を申し上げた段は、幾重(いくえ)にも御許し下さいまし。最早(もう)夜が明けて参りました。小供達を喚(よ)んで朝のお支度を致させましょう」
 と云った。
 老人が又改めて長い最敬礼をして退くと、入れ交(かわ)って空色の着物を来た最前(さっき)の小供等が六人、今度は手に手に種々(いろいろ)な化粧の道具を捧げながら行列を立てて這入って来て、藍丸王に朝の身支度をさせた。
 一人がやおら手を取って王を寝床から椅子へ導くと、一人は大きな黄金(きん)の盥(たらい)に湯を張ったのを持って、その前に立った。傍の一人は着物を脱がせる。他の一人は嗽(うがい)をさせる。も一人は身体(からだ)中を拭(ぬぐ)い上げる。残った一人はうしろから髪を梳(す)く。おしまいの一人は香油(においあぶら)を振りかける。皆順序よく静かに役目をつとめて、先(ま)ず黒い地に金モールを附けた着物を着せ、柔らかい青い革の靴を穿(は)かせ、金銀を鏤(ちりば)めた剣を佩(は)かせて、おしまいに香油を塗った緑色の髪を長く垂らした上に、見事な黄金(きん)の王冠を戴(いただか)せて、その上に厚い白い、床に引きずる位長い毛皮の外套(がいとう)を着せたから、今まで着物一枚に跣足(はだし)でいた白髪小僧の藍丸王は、急に重たく窮屈なものに縛(しば)られて、身動きも出来ない位になった。それから六人の小供達は三組に分れて、室(へや)の三方に付いている六ツの窓を開いて、朝の清らかな光りと軽い風とを室一パイに流れ込ませた。そうして暁の透(す)き通った青い光りの裡(うち)にうつらうつら瞬く星と、夢のように並び立っている宮殿(ごてん)と、その前の花園と、噴水と、そのような美しい景色を見て恍惚(うっとり)としている藍丸王を残して、種々(いろいろ)の化粧道具と一所に、六人の小供はどこへか音も無く退いてしまった。

     六 大臣と漁師

 これから後(のち)、藍丸王が見たいろいろの出来事は、当り前の者ならばその都度(つど)驚いて、眼でも眩(ま)わして終わなければならぬような事ばかりであった。
 今日は藍丸国王の御誕生日だというので、紅木(べにき)公爵という、丈の高い、黒い髪を生やした、あの美留女(みるめ)姫のお父様によく肖(に)た総理大臣と、沢山の護衛の兵士に連れられて、お城の北の紫紺樹(しこんじゅ)という樹の林の中に在る、石神の御廟(みたまや)に朝の御参りをしたが、その時沢山の兵士が皆一時に剣を捧げて敬礼をした時の神々(こうごう)しかった事。それから宮中の大広間に出て、大勢の尊い役人や、この国の四方を守る四人の王様や、その家来達から、一々御祝いの言葉を受けた時の厳(おご)そかだった事。又は美事な十二頭立の馬車に乗って、前後を騎兵に守らせながらお城の南の広い野原に出て、何万何千とも知れぬ兵隊の観兵式を行(や)らせた時の勇ましかった事。それから夜になって、宮中に催された大音楽会と、大舞踏会と、大晩餐会(だいばんさんかい)の大袈裟(おおげさ)であった事。その他見る者聞くもの何一ツとして、眼を驚かし耳を驚かさぬものはなかった。
 けれども白痴(ばか)の白髪小僧の藍丸王は、相変らず悠々と落ち付いて、まるで生れながらの王ででもあるように、ニコニコ笑いながら澄まし込んで、大勢の家来に平常(ふだん)よりずっと気高く有り難く思わせた。
 けれどもこの日の内に藍丸王が心から美しい、可愛らしい、珍しい、不思議だと感心したらしいものが只一ツあった。それは一羽の赤い羽子(はね)を持った鸚鵡であった。この鸚鵡は最前(さっき)の紅木という総理大臣の息子で、平生(ふだん)王の御遊び相手として毎日宮中に来ている紅矢(べにや)という児(こ)が、今日は少し加減が悪くて御機嫌伺いに参りかねます故(から)、代りの御慰(おなぐさ)みにと云って遣(よこ)したもので、王の室(へや)の真中の象牙張(ぞうげば)りの机の上に籠(かご)に入れて置いてあったが、奇妙な事にはその歌う声が昨夜(ゆうべ)夢の中(うち)で聞いた美留女姫の声にそっくりで、眼を瞑(つぶ)って聞いていると姫が直ぐ側に来ているように思われた。
 その上にも不思議な事には、何事に依らず見た事は見たまま、聞いた事は聞いたままその場限りで綺麗に忘れて了(しま)う白髪小僧の藍丸王が、彼(か)の美留女姫の姿や声だけははっきりとよく記憶(おぼ)えていたものと見えて、今しも宴会が済んで自分の室(へや)に連れられて帰ると直ぐに、この赤鸚鵡の声に耳を留(と)めて、着物を着かえる間(ま)も待ち遠しそうに、急いで傍の銀の椅子に腰を卸(おろ)すとそのまま一心にその歌に聞き惚(と)れた。
 その歌の節は云うに及ばず、文句までも昨夜(ゆうべ)の夢の美留女の読み上げた歌によく似ていた。
「青い空には雲が湧く、けれども直ぐに消え失せる。
 黒い海には波が立つ、それでも直ぐに消えて行く。
 昔ながらの世の不思議、見たか聞いたか解かったか。

 昨夕(ゆうべ)妾(わたし)が見た夢の、扨(さて)も不思議さ恐ろしさ。
 白髪小僧の物語。そして妾の物語。

 その又夢の中で見た、この身の上のおしまいに、
 昨夜(ゆうべ)どこかの森中(なか)へ、白髪小僧と逃げ込んで、
 樹の根に倒れたそれ迄は、妾は美留楼(みるろう)公爵の、
 第三番目の女の子、名をば美留女というたのに、
 今朝(けさ)眼が覚めて気が付けば、扨も不思議や見も知らぬ、
 藍丸国の大臣で、紅木と名乗る公爵の、
 第三番目のお姫様(ひいさま)、これはどうした事でしょう。

 着物も家も何もかも、すっかり変って吾が名さえ、
 美紅(みべに)とかわっておりまする。只変らぬは御両親、
 お兄様や姉様や、又は家来の顔ばかり。

 これは夢かと疑えば、傍から皆(みんな)笑い出し、
 お前は何を云うのです、何か夢でも見たのかえ。
 お前は旧来(もと)からこの家(うち)の、可愛い可愛い美紅姫。

 ずっと前からお話が、何より何より大好きで、
 御本ばかりを読み続け、夢中になっておった故、
 いくらか気持が変になり、十幾年のその間、
 他(た)の処へ居たという、馬鹿気た長い夢を見て、
 それを本当にして終い、寝ぼけているのに違いない、
 可笑(おか)しい人と皆(みんな)から、お笑い草にされました。

 けれども妾はどうしても、今の妾が本当か、
 昔の妾が夢なのか、疑わしくてなりませぬ。

 妾の今が夢ならば、あれだけ皆(みんな)で笑われて、
 また疑っている筈は、どう考えてもありませぬ。
 昔の妾が本当(ほんと)なら、まだ夢を見ぬその前を、
 少しも思い出す事が、出来ない筈はありませぬ。
 今も昔も本当(ほんと)なら、又はどちらも夢ならば、
 妾は居るのか居ないのか、解らぬようになりまする。

 よし夢にせよ何にせよ、妾の不思議な身の上を、

次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:220 KB

担当:undef