押絵の奇蹟
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著者名:夢野久作 

お二人とも私を喰べてしまいたいほど可愛がっておいでになりましたので、私が弾くたんびにお褒(ほ)めになっては、いろいろなお菓子を御褒美に下さるのでした。
「コヤツ(福岡の人は吾が児のことをよくこんなに申します)は俺のお祖母様の血すじを引いとるらしい。今にあの阿古屋のように琴が上手になるじゃろう。弾く手つきまでがあの押絵の通りじゃ」
 とお父様がよく仰有いました。
 けれども不思議なことに、お父様のそのような事を仰有るたんびに、お母様は、はかばかしく御返事をなさいませんでした。只「エエ」とか「ハア」とか弱々しい返事をなすって、あの淋しいような悲しいような微笑をなされながら、針や絵筆を動かしておいでになるのでした。時々は眼の中に涙を溜めておいでになる事さえありました。
 けれどもお父様はそんな事を一度もお気付きになりませんでしたようです。ただ私だけがとっくに気が付いておりまして、子供心にいつかはお母様にお尋ねしてみようみようと思いながらツイそのままになってしまいました。
 そのうちに私は十二歳の春を迎えました。お父様が三十八で、お母様が二十九におなりになりましたが、このころはもう余程うちの都合がよくなっておりましたらしく、お父様は家(うち)の処々を修繕なすったり、犬や猫が畠を荒らさぬように家(うち)のまわりの生垣を取り払って、その頃流行(はや)り初めました赤い煉瓦の塀にしたりなすったので、何もかも見ちがえるように立派になりました。その中を親子三人で見まわりながらお父様は、
「なぜコヤツの下(私の妹か弟の事)が生れぬのじゃろか。今一人か二人か居らんと家が広過ぎるがなあ」
 と云われた事がありましたが、その時もお母様は何ともいえない暗いような冷たいような顔をなすった事を、おぼえております。
 うちがこのように立派になりましたにつれて、お母様も前のように安いお仕事ばかりをお引き受けにならぬようになりました。お稽古に来る近所のお弟子にお教えになる外(ほか)は、極く上等の押絵や刺繍のようなものばかりを作っておいでになりましたが、それでも中々沢山ある上に、手間の安い仕事の五倍も十倍もかかるような物ばかりなので、お忙がしくないように見えて、なかなかお骨が折れるのでした。その押絵のメンモクはやはり皆、私とお母様の眼鼻が入れ交(まじ)っておりますので、上等のものであればある程、お母様は私の眼鼻をよけいにお使いになるので子供心にも不思議に思い思いしておりました。
 けれどもその中(うち)に、タッタ二度ほど、お父様のお顔をお使いになったことがありました。
 それはどちらも私が十二歳になりました春の事で――初めの時は、大阪の或る店から外国の金持ちに売るのだと申しまして、金の額ぶち入りの押絵を頼んで来たのでしたが、その時にお母様はいろいろ工夫をなされまして、外国の事だから、日本の人物よりはというので支那三国志の関羽、張飛、玄徳の三人を極く念入りにお造りになりました。それについてその顔(メンモク)のお手本は錦絵の通りにしますと関羽が団十郎、張飛が左団次、玄徳が円蔵(でしたと思います。違っているかも知れませぬ)ということになっておりましたが、その錦絵はもうスッカリ鼠色にボヤケてしまった昔の版でありましたために、お母様のお気に入らなかったのでしょう。お父様に頼んで、火鉢の前に坐って頂いて幾つも幾つも顔を書きかえておいでになりました。その時に、
「俺は貴様の押絵になって外国へ行って異人どもを睨み殺してくれるのじゃ。……こういう風に……」
 と云いながらお父様が不意に立て膝をなすって、ヒンガラ眼をしてお母様をお白眼(にら)みになりましたが、そのお顔の怖ろしかった事……私もお母様もハッとして飛びのいたほどで御座いました。そうして、そのあとで三人が笑いこけました時の可笑(おか)しかったこと、私は死ぬかと思いました。
「まあまあ御覧なさい。筆が火鉢に落ちました」
 と云いながら、お母様が灰だらけの毛書(けが)き筆を火箸(ひばし)でお拾いになりましたので、三人は又涙の出る程笑いこけましたが、お母様がこんなに心からお笑いになるのを見ましたのは、後にも先にもこの時だけであったように思います。
 こうして顔が出来上りますと、それに鬚(ひげ)や髪の毛を植えて、関羽と張飛は眉まで植えまして、お母様のお得意の浮き出し人形が出来上りますとその厳(いか)めしさと立派さは眼もさめるようで、ことにその中でも張飛の眼は、お父様に生き写しのように思われました。それを聞き伝え云い伝えして見に来る人が又沢山にありましたが、その中にはあのお金持ちの柴忠さんも見えまして一生懸命に力んで感心をしながら、こんな事を云われました。
「どうも奥さんのお手並には今更ながら感心しました。失礼ですがこの前の阿古屋の琴責めの時よりもズンと名人におなりになったようです。つきましては、お忙がしうも御座いましょうが今一つこの通りのを作って頂いて博多ッ子の氏神の櫛田神社にあの阿古屋の琴責めと並べて奉納致したいと思いますが如何でしょうか。実を申しますとこの前の阿古屋のお人形を家(うち)に置いておきますと、そのためのお客がうるさくてたまりませんので、娘の名前で櫛田神社に奉納したのですが、その当時はあれを見に来る人のために、お宮の賽銭(さいせん)が違ったと申す位で……イヤイヤ決してお世辞を云うのでは御座いませぬ。流石(さすが)に博多は諸芸の都だけあると皆(みんな)、感心をしておりましたので……そこへちょうど私が櫛田様へ御願(おがん)を立てて運動に取りかかりました株式の取引所が、このごろ鰯町(いわしまち)の私の地所に来る事になりましたので、その御願ほどきのために奥様の押絵を上げましたならば神様もきっとお喜びになる事と思って伺いました次第です。よい錦絵が御入用なら何程でも取り寄せて差上げます。この頃は汽車というものがありますから、東京へ電報を打てば十日足らずで着きますから」
 というようなお話でした。
 その時のお母様のお喜びになった御様子は今でも眼に残っております。手を揉(も)み合せて顔を真赤にして、さも心配に眼を潤ませて、お父様の御返事を待っておいでになる物ごしが、まるで赤ん坊のようにイジラシク見えました。
 お父様は直ぐにお許しになりました。しかも大乗気の御様子で、
「奥(お母様のこと)はわしの顔を手本にしてこの三国志の人形を作ったのでナ」
 とその時の模様を大自慢でお話しになりましたので、お母様は恥かしがって真赤になったままお台所の方へ逃げておいでになりました。私もすぐにあとから追っかけて参いりましたが不思議なことにお母様は、いつの間にか青い顔におなりになって、台所の上り口に腰をかけてシクシク泣いておいでになりましたので私もビックリしました。そうしてどうなすったのかと思ってお傍へ行ってお顔を覗(のぞ)き込みますと、お母様はもう大きくなっている私の身体(からだ)を赤ん坊のように抱き寄せて、私の鼻のお化粧を鼻紙でお直しになりながら、
「私は錦絵さえいただけばお金なんか要(い)らんのに、お父様はいつまでも慾の深いことばかり仰有って………」
 と、さも口惜しそうに唇を噛んでホロホロと涙をお流しになりました。その時にお座敷の方から、お父様と柴忠さんの大きな笑い声が聞こえて来ましたので、私も急に悲しくなりましてお母様と抱き合って泣いたことを記憶(おぼ)えております。
 それから何日か経ちますと東京から大きなお菓子の箱みたようなものが、お母様のお名前で送って来ましたから、お父様が釘抜きと金槌で開いて御覧になるとどうでしょう。その中には錦絵が一パイに詰まっているのでは御座いませんか。
「まあ……これ……みんな絵ばかり……」
 と仰有って真青になったまま口紅の処を押えておいでになるお母様の小指がワナワナとふるえていたのを私はハッキリとおぼえております。
 その錦絵の美しかったこと……そうしてその紙と絵の具の匂いの何ともいえずなつかしう御座いましたこと……ちょうど夏になり口で十畳のお座敷のお縁が一パイに明け放してありましたが散り拡がった錦絵の色と香(にお)いで、そこいら中が明るくなったように思いました。まずお父様が御覧になった絵を私が見てお母様にお渡しするのでしたが、三人共申し合わせたように溜め息をしては褒め、ほめては溜め息をしておりますうちに、ついお昼の御飯をいただくのを忘れてしまった位でした。
 その中には関羽、張飛、玄徳の三枚続きの絵が二三通りありましたが、みんなお母様のお持ちのと違って絵の具が眼の醒(さ)めるように美しくて、金や銀の色がピカピカ光っておりました。これをお母様がお作りになったらどんなにか綺麗だろうと思っておりましたが、お母様は案外にも、そんな絵の中から八犬伝の中で犬塚信乃と犬飼現八と捕方三人を描いた五枚続きのをお選(え)り出しになりました。
「私はこれを作って見とう御座います。そうしてこの屋根の瓦と、現八の前垂れを本物のようにして見とう御座います」
 とお父様に御相談をなさいました。
 お父様もその時に一寸(ちょっと)案外という顔をなすったようですが、
「ウン。それもよかろう。どれ見せろ」
 と仰有って信乃と現八の顔をウットリと見ておいでになりました。
 けれどもその信乃の顔を横からのぞき込みました時の私の驚きはどんなで御座いましたろう。
 その顔のすぐ横にある赤い小さな短冊の中には中村珊玉(さんぎょく)という四文字が書いてありましたので、あなたのお父様が御改名をなすったことを存じませぬ私は、別の人かしらんとチョット思ったので御座いました。けれども、それでもあの阿古屋の顔を左向きにして、男らしい長い眉をつけただけで、ソックリそのまま信乃の顔になることが子供心にすぐとわかりました。それと一緒に、お母様がその錦絵をお選(えら)みになったホントのお心持ちが初めてわかったような……けれどもまた、あからさまにはわからぬような……不思議なような恐ろしいような……そうしてそのわけを打ち明けて、お母様にお尋ねする事も出来ないような息苦しい気もちに打たれて、私の小さな胸がどんなにワクワクと致しましたことでしょう。けれどもその時の私には、そんなにまで深く自分の気もちを考えてみるような力はありませんでした。ただ何かしら悪い事をしたのを隠しているような怖い怖い気持ちになって、お父様とお母様の顔を見上げる事も出来ないままに、お煙草盆の頭を傾けながら一心に、信乃と現八の顔を見比べていたように思います。
 もっともその時にもお父様は、何もお気付きにならなかったようでしたが、おおかたそれは、あなたのお父様のお名前がかわっていたせいで御座いましたろう。
「この瓦をどうして本物の通りにするか」
 なぞとニコニコして、お母様に尋ねておいでになったように思います。
 お母様はその日からその五枚続きの絵を雁皮紙(がんぴし)に写し取って、合わせ紙に貼り付けたり切り抜いたりして、お仕事にかかられまして五日目には立派に仕上ったのを楠(くすのき)の一枚板に貼り付けておしまいになりました。
 その楠の板は木目が雲のようになっておりまして、その上に芳流閣の金の鯱鉾(しゃちほこ)と青い瓦とが本物のように切りつけられておりました。その金の鯱の前に片膝をついて刀を振り上げている信乃の顔は、お母様が私の眼や鼻をソックリ男のようにお描(か)きになりましたもので、それに向い合って身構えている現八の顔にはお父様の眼と鼻が生き生きと睨みかえっておりました。わけてもその現八の前垂れの美しかったこと……それはスッカリ本物の通りの刺繍をお入れになったので……こればかりで一寸四方いくらの値打ちがある。櫛田神社の絵馬堂に上げても盗まれぬように工夫せねば……と見に来た柴忠さんが云っておられたそうです。
 その押絵は、その春の末、博多で名高い山笠のお祭りのある前に櫛田神社の絵馬堂にあがりました。その額はやはり柴忠さんの工夫で厚い硝子張りの箱に封じた上から唐金(からかね)の網に入れて、絵馬堂の東の正面に、阿古屋の琴責めの人形と並んで上がったのですが、檜の香気(かおり)のために、何もかも真白になる程色が落ちている阿古屋の人形と見比べますと、ホントに眼が醒めるようで、一時は絵馬堂が人で一パイになるくらい評判が立ったそうで御座います。
 するとその評判をお聞きになったものかどうか存じませぬが、お父様は、忘れもしませぬ明治二十四年の五月二十四日のお昼前に、
「俺はちょっとその見物人を見て来る」
 と仰有って新しい飛白(かすり)の着物にいつもの小倉(こくら)の角帯(かくおび)を締めてお出かけになりました。
 その日は太陽がカンカン照っておりましたが、お父様は、
「雨になるかも知れぬ」
 と云って大きな白ケンチウ張りの洋傘(こうもり)を持って、竹細工の山高帽を冠って、中足高(ちゅうあしだか)をお穿(は)きになりました。私も行きたいと思いましたがお父様が、
「人が大勢居ると危ないから又連れて行ってやる。土産を買(こ)うて来てやるから待っとれ」
 と云い棄てて川端を水車橋の方へお出でになりました。そのニコニコと歩いてお出でになった横顔を私は今でも眼の前に思い浮かめることが出来ます。

 お父様をお見送りしますと私は、お床の間に立てかけてあった琴を出して昨日(きのう)習いました「葵(あおい)の上(うえ)」の替(かえ)の手を弾きはじめました。お母様はお台所で髪(おぐし)を上げておいでになったようですが、私が「葵の上」を弾いて、「青柳(あおやぎ)」を弾いて、それから久しく弾かなかった「乱(みだれ)」を弾きますと指が疲れましたので、四角い爪をいじりながら西向きのお庭の泉水(せんすい)に咲いているお父様の御自慢の花菖蒲(はなしょうぶ)をボンヤリ見ておりましたが、今までカンカン照っていたお日様に雲がかかったかしてフッと暗くなりました。お台所の物音も止んでいたように思います。
 その時に玄関の格子戸を荒々しく開く音がして誰か這入って来たようでした。私は何故ともなくハッとして立ちかけると間もなく、お父様がツカツカと這入ってお出でになりましたので私は又ビックリしまして、
「お帰り遊ばせ」
 と手を支(つか)えました。このような事は今までに一度もありませんでしたので、いつもお帰りの時には玄関にお立ちになって、
「おお……今帰ったぞ」
 とお母様をお呼びになるのでした。
 お父様のその時のお顔はまるで病人か何ぞのように血の気がなくて幽霊のようにヒョロヒョロしておいでになったようです。そうして平生(いつも)のように私の頭を撫でようとなされずに、ドスンドスンと私の琴を跨(また)ぎ越して、お床の間に置いてある鹿の角の刀掛(かたなかけ)の処にお出でになって、そこに載せてある黒い長い刀の鞘(さや)を抜いてチョッと御覧になりました。
 それを又元の処にお架(か)けになると、今度は怖い怖い、今思い出しても身体(からだ)の縮むような眼つきをしてジーッと私の顔を御覧になりましたが、やがて気味のわるい笑みをお浮かべになりながら、ふるえる私をお抱き上げになって、又お床の間の前に来てお坐りになりますと、やはり私の顔を見入っておいでになりました。口元が見る見るうちに、わななき歪(ゆが)んでその大きな眼から涙をポロポロとお落しになりました。
 私は泣くには泣かれずに、唯、怖いような悲しいような思いで一パイになって、お父様の顔ばかり見ておりました。すると、お父様は何とお思いになりましたことか、突然に私を突き放しざま、私の左の頬を力一パイお打ちになりましたので、私は畳の上にひれ伏したまま、ワッと大きな声を立てて泣き出しました。私がお父様に打たれましたのは後にも先にも、これが初めてのお終(しま)いでした。
「まあ……あなた……何をなさいます」
 という声が台所の方から聞えて、お母様が走ってお出でになる気はいが致しました。それで私は起き上ってお母様の方へ行こうとしましたが、いつの間にか私はお父様から帯際(おびぎわ)を捉えられておりまして、息が止まるほど強く畳の上に引き据えられました。その拍子に私は、あまりの恐ろしさのためから泣き止んでしまったように記憶(おぼ)えています。
 お母様は結(ゆ)い上げたばかりの艶々(つやつや)しい丸髷(まるまげ)に薄化粧をして、御自分でお染めになった青い帷子(かたびら)を着ておいでになりました。そうして手を拭いておられた紙を左手の袂に入れながらお座敷の入り口で三ツ指をついて、
「お帰り遊ばせ……まあ……あなたは何故そのようなお手荒いことを……」
 と云いながら私に近寄ろうとなさいますと、私の背後(うしろ)から、お父様のお声が大砲のようにきこえました。
「……黙れッ。……そこへ坐れッ」
 お母様はビックリした顔をなされながら素直にお坐りになりました。そうして両手を支(つか)えながら、
「ハイ……」
 と云い云い私の打たれた頬と、お父様のお顔とを見比べておいでになりました。けれどもまだ涙はお見せになりませんでした。
「もっとこっちへ寄れッ」
 とお父様は押しつけるように云われました。
「ハイ……」
 とお母様はしとやかにお進みになって、丁度十畳のお座敷のまん中近くまで来て又、三ツ指をおつきになりました。
 お父様は黙ってお母様の顔を睨んでおいでになるようでしたが、私はお母様の方に向けられて足を投げ出したまま、帯際をしっかりと捉えられておりましたので見えませんでした。
 お母様も一心に、お父様の顔を見ておいでになりましたが、その大きな美しい眼で二度ほどパチパチと瞬(まばたき)をされました。
「……キ……貴様は……ナ……中村半太夫と不義をした覚えがあろう」
 というお父様の声が、間もなく私のうしろから雷のように響きました。私の帯を掴んでおられるお父様の手がブルブルとふるえました。
「あっ……まあ……」
 とお母様は眼を大きくして驚きさま、うしろ手をつかれましたが、たちまち膝の前に両袖を重ねてワッと泣き伏しておしまいになりました。
 お父様は黙ってその姿を見ておいでになる御様子でしたが、暫くして又今度は低い押しつけるような声で、静かに云われました。
「おぼえがあろうの……」
「エエッ……ぞんじがけもない……夢にも……マア」
 とお母様は青白い顔と、紅くなった眼をお上げになりました。
「黙れっ」
 とお父様のお声は又、雷のように私のうしろからはためきました。私の右の耳がジイーンと鳴る位でした。
「おぼえがないとて証拠があるぞッ」
 お母様はそう云われるお父様のお顔をジッと御覧になりながら、飛白(かすり)の前垂れの上に両手をチャンと重ねて、無理に気を落ちつけようとしておられるようでしたが、その悩ましくも痛々しいお姿を私は死んでも忘れますまい。けれどもお母様のお声はいつもと違って、ふるえてカスレておりました。
「……ど……どのような……」
「黙れ黙れッ。どのようなとは白々(しらじら)しい……あの櫛田神社の犬塚信乃の押絵の顔は誰に似せて作ったッ」
 お母様は長い長い溜め息をホーッとなされました。静かに私の顔を見ながら云われました。
「そのトシ子に肖(に)せて作りました」
「そのトシ子の……こやつの顔は誰に似ている」
 と云うなり、お父様は両手で私のお煙草盆に結(ゆ)っている頭をガッシと掴んで、お母様の方へお向けになりました。
「エエッ……」
 というお母様の声だけは聞こえましたが、私の左の眼に、お父様のどの指かが這入りまして、ビクビクと痛みましたので私は眼をあけることが出来なくなって、お父様の手を掴まえて藻掻(もが)いておりました。そのうちにお父様の声は、なおも続きました。
「俺は今日がきょうまで知らなんだ。けれども最前あの櫛田神社の額を見ながら、人の噂をきいているうちに、あの犬塚信乃の押絵の顔が、中村半太夫の舞台に生き写しであることがわかった。そればかりでない。貴様の作った人形の顔が上物(じょうもの)になればなる程、中村半太夫に似ていることも、そこに居った人の噂で初めて気が付いた。コヤツ(私)の眼鼻立ちが中村半太夫と瓜二つになっていることは近所の子守女まで知っていることもあの絵馬堂で初めてきいた。……この年月(としつき)貴様に子が生まれぬわけも今はじめてわかった。……キ……貴様は、よくもよくもこの永い間俺に恥をかかせおったナ」
 こうした声が響き渡るうちにお父様は片方の手を私の頭から離されましたので、私はやっと眼を開(あ)くことが出来ました。
 お母様は畳の上に両袖を重ねて突伏(つっぷ)しておられました。そうして声を押えて泣き続けておいでになりましたが、不思議と一言も云い訳をしようとはなさいませんでした。
 私は、いつもお父様がカンシャクをお起しになった時のようにお母様はすぐにお詫びになることとばかり思っておりましたけれども、お母様はこの時ばかりはどうした訳(わけ)か只お泣きになるばかりで、しまいには、その声さえ包まずに心ゆくばかり泣いておいでになったようです。
 その声をジッと聞いておいでになったらしいお父様は、やがて武士らしい威厳のある声でこう云われました。
「おれは覚悟した。貴様の返事一つでは、その場を立たせずにこの刀で成敗をしてくれる。先祖の位牌を汚した申訳にするつもりだ。サア、返事をせぬか」
 と云いながらお父様は私の頭から手を放して、又帯際をお掴まえになりました。
 その時にお母様はピッタリと泣き止んで静かに顔をお上げになりました。うつむいたまま紺飛白(こんがすり)の前垂れを静かに解いて、丁寧に畳んで横にお置きになって、それから鼻紙でお顔の乱れを直して、ほおけかかった髪を丸櫛で、掻き上げてから、やおら眼をあげてお父様を御覧になりましたが、その時のお母様の神々(こうごう)しかったこと……悲しみも、驚きも、何もかもなくなった、女神のような清浄なお方に見えました。
 お母様はそれから両手をチャンと、畳の上に揃えながらジッとお父様のお顔を見上げながら云われました。
「申訳御座いません……お疑いは御尤(ごもっと)もで御座います」
 と云ううちに新しい涙がキラキラと光って長い睫(まつげ)から白い頬に伝わり落ちましたが、お母様はそのまま言葉をお続けになりました。
「どうぞ、お心のままに遊ばしませ。私は不義を致しましたおぼえは……」
「何ッ……何ッ……」
「不義を致しましたおぼえは毛頭御座いませぬが……この上のお宮仕えはいたしかねます」
「……………」
「お名残り惜しうは御座いますが、あなたのお手にかかりまして……」
「何ッ……何じゃと……」
 と云いつつお父様はグイグイと私を、おゆすぶりになりました。
 お母様はハフリ落つる涙を鼻紙でお押えになりました。
「ただ、そのトシ子だけは、おゆるし下さいますように……。それは正(まさ)しくあなた様の……」
「何をッ……又してもぬけぬけと……」
「イイえ……こればっかりは正(まさ)しく……」
「エエッ……まだ云うかッ……」
「イエ……こればかりは……」
「黙れッ……ならぬッ」
 とお父様が仰有る途端に私を、お突き放しになりましたので、私はバッタリと倒れて、お琴の上にひれ伏しました。それと一緒に琴柱(ことじ)が二つか三つたおれてパチンパチンと烈しい音がしたように思います。
 私はこれから先の事を書くに忍びませぬ。
 けれどもこれから先の事を書きませぬと、何もかも疑問のままになると思いますから、記憶(おぼ)えております通りに記し止めさして頂きます。
 私がようやっと、お琴の上から起き直りました時には、畳の上に正座して、両手を膝の上に置いたまま、うなだれておいでになるお母様と、それに向い合って、突立っておいでになるお父様のお姿が、暗いお庭を背景にして見えましたが、その時にお父様は、右手に刀を提(さ)げておいでになった筈でしたけれども、その刀はお父様の身体(からだ)の蔭になって、私の目には這入りませんでした。只、お母様のうしろの壁に、赤い花びらのような滴(したた)りが、五ツ六ツ、バラバラと飛びかかっているのが見えましたが、その時は何やらわかりませんでした。
 そのうちにお母様の白い襟すじから、赤いものがズーウと流れ出しました。……と思うと左の肩の青いお召物の下から、深紅のかたまりがムラムラと湧き出して、生きた虫のようにお乳の下へ這い拡がって行きました。お母様の左手にも赤いものが糸のように流れ出していたように思います。それと一緒に、その青いお召物の襟の処が三角に切れ離れて、パラリと垂れ落ちますと、血の網に包まれたような白いまん丸いお乳の片っ方が見えましたけれども、お母様は、うつ向いたままチャンと両手を膝の上に重ねて坐っておいでになりました。
 私はその時に夢中になって、お母様に飛びついて行ったように思います。それをお母様はお抱き寄せになったようにも思いますがハッキリとは記憶致しませぬ。その時に、私の背中と胸へ、何か火のように熱いものが触ったように思いながら、お母様の上へ折り重なって倒れたようにも思いますが、これとても夢中になっておりましたのですから、どんな気もちだったかハッキリとは思い出し得ませぬ。どちらに致しましても私は、それ切り何もかもわからなくなりましたので、気がつきました時にはどこかの病院の寝台の上に寝かされて、白い着物を着た人達に取り巻かれておりました。
 お母様の肩を斬られたあとで、お母様と私とを一緒に突き刺されたお父様の刀は、私の肺を避けておりましたので助かったのだそうで御座います。けれどもお母様は心臓を貫かれておいでになりましたので、その場で絶息しておいでになったそうですが、それでも片手で、シッカリと私を抱き締めておいでになったということで御座います。
 又、お父様は、そのあとで、袴(はかま)をお召しになって、納戸(なんど)のお仏壇の前で見事に切腹しておいでになったそうですが詳しい事は存じません。
 あとあとの事は、何もかも柴忠さんが始末をして下すったそうですが、その時の事を誰が尋ねましても、柴忠さんは苦い顔をして返事をなさらぬとの事で御座いますから、私も気をつけまして、柴忠さんにだけは両親の事を尋ねないように致しておりました。

 私はお乳の下の傷が治りましてから後(のち)、丸三年の間、博多大浜の芝忠さんのお宅にお厄介になっておりました。それから福岡の小学校へ通わして頂いたので御座いますが、その間の芝忠さん御夫婦の御親切というものは、それはそれは筆にも言葉にも尽されませんでした。わけても私のお母様が阿古屋の押絵人形を作ってお上げになったお嬢様には、もう御養子がお見えになっておりましたが、お二人とも私を親身の妹のように可愛がって下さいました。
 けれども私は十六の年の春に高等小学校を卒業致しますと間もなく、思い切って芝忠さんにお暇(いとま)を願って東京の音楽学校に入る決心を致しました。それは、ちょうどその頃に、大浜から程近い市小路(いちこうじ)という町に在ります教会で、オルガンというものを弾き習いまして、西洋音楽というものが面白くて面白くてたまらなかったからで御座いましょうが、今一つには、もうこの上にどんなに辛棒しようと思いましても、生れ故郷の福岡には居られないような気持ちになったからでも御座いました。
 そのわけと申しますのは、ほかでも御座いませぬ。……あれは新聞に出た不義者の子よ……東京一の女形(おやま)俳優と、福岡一の別嬪(べっぴん)夫人の間に出来た謎の子よと、指さし眼ざしされておりますことが、成長いたしますにつれてわかって来たからで御座いました。
 学校の修身の時間なぞに、先生が何の気もなく貞女のお話なぞをしておられまするうちに、私の顔を御覧になるとフイと妙な顔になって、口を噤(つぐ)まれました時の心苦しさ。切なさ。子供ながらに級全体のお友達の視線が、私の身体(からだ)に焼きついているように思って、うつむいて泣いておりました時の情なさ。
「こちらには中村半太夫の舞台姿にソックリの娘さんが居るそうですが、チョット見たいものですネエ」
 というお客の声に対して柴忠さんが、
「ヘエ。それは今お茶を持って来ましょうから、その時によう御覧なさいませ。ハハハハハ」
 と力なく笑われる声を、障子の外で聞きまして、そのまま、お納戸(なんど)に隠れて泣き伏しました時の口惜しう御座いましたこと。
 それから又、私はすこし大きくなりますと、身体の疵(きず)を人に見られるのが恥かしくてたまらないようになりましたので、ソッと奥様にお願いしまして、わざと夜中過ぎに、奥のお湯に入れていただいておったので御座いますが、或る冬の夜(よ)のこと、切り戸の外で、
「見えようが……」
「ウン。見える見える。恐ろしい大きな疵ばい。ナルホド……」
 というような下男たちの囁(ささや)きが聞こえましたので、そのまま浴槽(ゆぶね)のなかに首まで沈みながら、お湯が冷たくなるまで我慢しておりました時の情のう御座いましたこと……あとでふるえながら夜具の中にちぢこまって、夜通し寝もやらずに泣いて泣いて泣き明かした事でございました。私のお母様に限ってそんな事をなさる筈がない……と幾たび思い直そうとしましても、私の眼鼻立ちが中村珊玉様の舞台姿に似ているという事実ばかりは、どうにも致しようがないのでした。
 そればかりでは御座いません。私が東京に行こうと決心致しましたに就きましては、私自身にもわかりませぬ、もっともっと不思議なわけがあるので御座いました。
 私はそんな風にして泣かされているにはおりましたものの、それでも毎晩お終(しま)い湯に這入りましてお掃除を済ましたあとで、お湯殿の姿見鏡(すがたみ)をのぞいて見ないことは御座いませんでしたが、その中(うち)に、いつからともなく奇妙な事に気がつきはじめました。それは私の思いなしか、それともその日その日の気もちから来たことも御座いましたでしょうか。そんな風にして柴忠さんのお家中(うちじゅう)が寝静まられた後(あと)に、たった一人でお湯殿の鏡に向い合っておりますと、その中に映っております私の顔が、だんだんとあなたのお父様に似て参りますばかりでなく、あの櫛田神社の絵馬堂の額になっております犬塚信乃の顔と、阿古屋の顔と二つのうち、どちらか一つに似て来ますので、それが又、日によりまして昨日(きのう)は信乃の顔……今夜は阿古屋の顔という風に、まるで感じが違っている事に気がついたので御座いました。
 それは何とも申しようのない……ただ私一人だけしか気づいておりませぬ不思議な出来事で私は毎晩毎晩それを見るのが、云うに云われぬ一つの秘密の楽しみにさえなって来たので御座いました。何だか存じませぬがそうした事が、みじめにも短かい一生をお送りになったお母様の、人間の世界に対する復讐ではないかとさえ思われて来まして、われと自分のやわらかい、あたたかい頬を押えながらゾーッと致しますことがよくありました。
 私は普通の女の子ではない。お母様のこの世に残された思いの固まりなのだ。……この上もなく美しく、又となくむごたらしい目に遭(あ)いながら、何も仰有らずにお果てになったお母様のお心が、そのままに私の姿にあらわれているのだ。私はこうしたお母様の怨(うら)みが尽きるまで生きておればそれでよいのだ。……ああお母様……私はこうして達者に生きております。……けれども……けれども私はこれからどうしたらいいのでしょうか。……ああお母さん……。というような気持ちを鏡の中の自分の顔に問いかけながら、涙を流したことも度々で御座いました。
 そうかと思いますと……お笑いになるかも知れませんけど……そんなにして泣きましたあとで、嬉しいのか悲しいのかわからぬ空(から)っぽのような気もちになりますと、鏡の中の自分の顔をあの唇を噛みしめて刀を振り上げている勇ましい信乃の表情にしてみたり、琴を弾いている阿古屋の悩ましい姿にしてみたりして遊んでは、たった一人で気持ちよくホホと笑うことさえありました。そうして、それがお母様の世間に対する腹癒(はらい)せであるかのように思われまして「不義者の子」という名前が、何ともいえず気持ちよくさえ思われて来るので御座いました。
 こんな事まで申上げて、失礼とは存じますけれどこれは私の十二の年から十四五歳になります間のことで、私が何となく、男の方の御親切を喜ばぬような性質になりましたのも、その頃の事ではなかったかと思われるので御座います。
 けれども、そのうちに十四五にもなりますと、私の気もちが又いくらかずつかわって来たように思います。
 今も申しましたようにその頃までは毎晩家中(うちじゅう)寝静まられましてから、たった一人でお湯殿の鏡台の前に坐るのが、私の秘密の楽しみのようになっておりました。そうして毎夜毎夜そのような物思いをくり返しては、泣いたり笑ったりしないことは御座いませんでしたが、そのうちにフト鏡の中の私の顔の輪廓が、どことなく亡くなられたお母様にも似て来たのに気が付いてビックリすることが度々あるようになりました。それは前とちっとも変らぬ眼鼻立ちでありながら、心持ち面長になって、頤(あご)や、襟すじに、ほの白い青味がかって参りますと、お白粉(しろい)なぞはちっともつけないままに、そのあたりがお母様と生きうつしの恰好に見えて来るので御座いました。毎日毎日見るたんびに、それがハッキリとわかって参りまして、しまいには、あの犬塚信乃と阿古屋の眼鼻や唇をつけたお母様が、チャンと鏡の中に、御坐りになって私を見ておいでになるとしか思えない位になって参りました。
 そのお母様のお姿は、又、奇妙にも、あのお父様からお斬られになるすこし前の、何ともいえない神々(こうごう)しい、清らかなお姿に見えて来てしようがないので御座いました。そうして、そのお姿を一心に見つめておりますと、そのうちに、その鏡の中のお母様の唇が、おのずと動き出しまして、その間際に仰有ったお言葉が凜々(りんりん)とすき透って、私の耳に響いて来るのでした。
「私は、不義を致しましたおぼえは毛頭御座いませぬ……けれども、この上のお宮仕えはいたしかねます」
 というように……。
 そのお声をきくたびに、私はいつもハッとして、うしろを振り返らずにはおられませんでした。そうして、そこいらに誰も居ないことをたしかめますと、今一度自分の口の中で、こうしたお母様の謎のようなお言葉をくり返しながら、あの時にお母様がお流しになった通りの涙を、ホロホロと流さずにはおられないのでございました。
 私はそれから、だんだんと鏡を見るのが怖くなって来ました。鏡の中に映っております私の顔が、世にも不思議な気味のわるいものに思えたり、そうかと思いますとこの上もなくなつかしいものに見えたりしますので、その都度(つど)に鏡というものが、世にも取り止めのない、馬鹿らしいような、恐ろしいような、又はたまらなく苛立たしい品物のように思われてならないので御座いました。しまいには学校の行き帰りに、よその店の硝子窓を見てさえも悲しくて気味わるくて、胸がドキドキするようになりました。そうしていつからともなく、
 ……もうどんな事があっても鏡というものを見まい。お化粧もしまい。髪も引き詰めてグルグル巻きにしておきましょう。そうして、あのお母様の謎のようなお言葉のホントウの意味がわかるまでは結婚というものをしまい。
 私は直ぐにも東京に上って「中村珊玉様」にお眼にかかって「私は不義を致しましたおぼえは毛頭御座いません……けれどもこの上のお宮仕えは致しかねます」とキッパリ仰有ったお母様のお言葉の意味を説き明かして頂きましょう……そうして私がお母様の不義の子でないことをハッキリとたしかめるまでは、死んでも男の方の御親切を身に受けまい……
 というような男のような、気もちになってしまいました。
 こうした決心を致しますと、私はある夕方ソッと柴忠さんの家(うち)を脱け出しまして博多築港の石垣の上に参りました。そうしてたった一つ持っておりました粗末な懐中鏡を帯の間から取り出しまして自分の顔とお別れを致しますと、青々と満ちております汐水(しおみず)の中に投げ込みました。そうしてその鏡が一丈ばかり深く、丸いゆるやかな波に揺られて、キラキラと光りながら底の方に見えなくなるまで見送っておりました。
 それが私の十六の年の春で御座いました。

 柴忠さんは、このような私の勝手なお願いを快よく聞き入れて下さいました。
「それは結構なことと思います。ちょうど東京の音楽学校の講師で、帝大の教授をやっている岡沢というのが、私の幼友達(おさなともだち)ですから、それに紹介状を書いて上げましょう。気心のいい夫婦者ですが子供がないのですから喜んでお引きうけするでしょう。中洲のおやしきを売ったお金は私がお預りしておりますから、御入用の時はいつでも云ってよこして下さい。それから、これは私の寸志ですが、これだけは盗まれぬようにして肌身につけておいでなさい。他国に旅行くと万一の事が多いものですから……それにあなたはもう只今では、井ノ口家の一粒種になっておられるのですからね……」
 というような何から何まで御親切なお言葉で、旅費のほかに、生れて初めて見ました百円のお札を一枚と紹介状を書いて下さいました。
 その紹介状は開き封になっておりまして、柴忠さんから是非一度読んでおくように云われました。それから別に岡沢先生に宛てて柴忠さんから出される郵便の中味も見せて頂きましたが、どちらにも私の事を死んだ友人の一人娘と書いてありまして、両親の事なぞはすこしも洩らしてありませんでしたので、ほっと安心したことで御座いました。

 女のつまりませぬくり言を長々と書きつけまして嘸(さぞ)かしお倦(あ)きになったことで御座いましょう。
 けれども、その時の私は一生けんめいの思いで御座いました。そうしてそのせいか、門司から備後(びんご)の尾ノ道まで乗りました汽船にも酔いもせずに、三日三夜かかって新橋に着きますと、岡沢先生御夫婦のお迎えを受けまして谷中(やなか)の閑静なお宅に御厄介になりましたが、それから後(のち)というもの、今日は中村珊玉様をお訪ねしようか、明日(あした)は歌舞伎座へ行こうかと思いながらも、これという手蔓は愚か方角さえもわかりませぬ情なさ……と申して岡沢先生に、このようなことをお打ち明けする訳にも参りませず、途方に暮るるばかりで御座いました。それに東京のめまぐるしさと賑やかさと、とりあえず這入っておりました上野の仏和女学校の学科の難かしさと、それからもう一つ、生れて初めて岡沢先生に教えて頂いたピアノの面白さに夢中になってしまいまして一年ばかりは夢のように過ごしてしまいました。
 そうして間もなく翌年の春になりますと、或るお夕飯時のことで御座いました。奥様のお酌で盃を重ねておられました岡沢先生が、思いもかけずこんな事を云い出されました。
「トシ子さんは、まだ歌舞伎座を見たことがなかったっけね」
 私はその時に思わずハッとしまして、そう仰言った岡沢先生のお顔を見上げながら真赤になってしまいました。私の心の奥の奥に隠しております秘密を云い当てられたような気もちが致しますと一緒に岡沢先生が何かしらそんな事について御存じで、それとない御親切からこんなことを仰言るのではないかと思いまして……。
 けれどもその横から何も御存じないらしい奥様が優しくお笑いになりました。
「マア。ホントニ。トシ子さんはもうすっかり東京通と思っていたら、大切(だいじ)の大切の歌舞伎座を落っことしていたわね。ホホホホ。何なら明日(あした)は日曜ですから連れてって下さいませんか。私もトシ子さんぐらい久し振りですから……」
 すると岡沢先生も、何も御存じないらしくニコニコして二人の顔を御覧になりました。
「ウン。俺もそう思うとったところだ。歌舞伎座は田舎者が見るもの位に思うておったのじゃからツイ、ウッカリして忘れておった。ハハハハハ。しかし何ぼ何でも、そんな引っこき詰めのグルグル巻の頭では不可(いか)んぞ。伊豆の大島に岡沢の親戚(しんるい)[#「親戚」は底本では「親威」]があるように思われては困るからの……」
「……まあ。あんな可哀想なことを……」
 そんな御冗談のうちに先生御夫婦はいろいろと私に歌舞伎芝居のお話をしてお聞かせになりました。音楽と劇の関係とか拍子木(ひょうしぎ)の音楽的価値と舞台表現の関係とかいうような、興味深いお話が、それからそれへと尽きませんでしたが、私はただもう上(うわ)の空で、ともすれば出かかる溜め息を押え押え御飯を口に運んでおりましたので、みんな忘れてしまいました。ただその中で耳に止まりましたのは奥様から聞きましたお話で、明日の芸題の中心になっておりますのが、それこそ不思議な因縁と申すもので御座いましょう、あなた様のお家の芸となっております阿古屋の琴責めにきまっておりますこと。その阿古屋をおつとめになるのが私と同じ年で今年十七におなりになったばかりの中村半次郎丈(じょう)……外(ほか)ならぬ貴方様で、そんなにお若くて立女形(たておやま)になられた俳優のお話は昔から一つも伝わっていないこと。そのお衣裳の重さが十三貫目もあるのを、そんなお若さで自由にお使いになるのが又、大変な評判になっていること。そうして此度(こんど)の歌舞伎座の興行は昨年の春お亡くなりになった貴方様のお父様、中村珊玉様のお追善(ついぜん)のためであったこと……なぞでございました。
 私はその時に御飯を何杯頂きましたか、それとも一杯しか頂きませんでしたか、すこしもおぼえていないので御座います。ただ夢心地で岡沢先生御夫婦のお給仕をしながら外の事ばかり考えておりましたようです。
 岡沢先生は「ウッカリして私に歌舞伎座を見せるのを忘れていた」と云われましたが、ホントウは私こそウッカリしておりましたので、何のために柴忠さんの処からお暇(いとま)を頂きましたか、そうして何の目的で東京に参りましたのか。その時までスッカリ忘れていたでは御座いませんか。そうしてウカウカと致しておりますうちに、お母様の大切な秘密を唯一人御存じの中村珊玉様がお亡くなりになった事さえも気付かずにいたでは御座いませんか。これが一年前でありましたならば、こんなよい折は願ってもない筈でしたのに……そうして井の口の娘と名乗って中村珊玉様にお眼にかかる機会が出来たかも知れないのに……私は、まあ何という不幸者であったろうと思いますと、思わず口惜し涙が出そうになりましたので、そのままお湯を取りに行くふりをしてお台所の方へ行きました。
 けれどもそのお夕飯後になりますと先生の御用で、二三町先の荒物屋の前まで郵便を出しに参りましたので、そのついでに私は大急ぎで遠まわりをしまして、裏町の小さな文具屋兼業の雑誌屋からその月の「歌舞伎時代」という雑誌を一冊買って参りました。そうしてお二階の私の室(へや)に帰りますと夕明りのさす窓際に坐って、怖いものでも見るようにソッと開いて見ました。
 私は、それまでそのような雑誌に手を触れたことすらありませぬホントの田舎娘で御座いました。もっとも俳優の方のお名前は、ほかの方よりも沢山に存じておったかも知れませぬけれども、それはお母様の錦絵についておりました古い古いお方の名前ばかりで、近頃のお方のお名前は一人も存じませんでした。まして中村珊玉様に男のお子さんがおありになる事だの、それが私とおない年でおいでになる貴方様で、中村半次郎様と仰有る事なぞ夢にも存じませんでしたので、そうと知りますと、もう不思議なおなつかしさが一パイになりまして、まだ表紙を開きませぬうちから顔が熱(あ)つくなるように思いました。
 申すまでもなく、あなた様と、お父様の、お素顔の写真を拝見致しましたのはその時が初めてで御座いました。そうして、まことに失礼では御座いますけれど、最初に大きく出ておりました貴方様のお父様の、十徳を召したお顔をジイと見上げておりますうちに、柴忠さんの処のお湯殿の鏡の中で見ておりました私の顔が、マザマザと浮き出して参りました時の私の胸の轟きはどんなで御座いましたでしょう。今更に不思議なような、恐ろしいような……そうしてたまらなくおなつかしいような……それでもそう思ってはならぬと……いうような何ともいえませぬ思いにわななきながら、いつまでそのお写真を見入っておりましたことでしょうか。
 けれども、そうした私の思いは、その次の頁(ページ)を開きますと一緒にかき消されてしまいました。
 たとえ、ま昼に幽霊に出会いましたとても、私は、あの時ほどに慄(ふ)るえわななきは致しませんでしょう。……その頁にやはり大きく七分身におうつりになっている貴方様のお洋服姿を拝見致しました時に、お母様の変装かと思うほどよく肖(に)ておいで遊ばすことが、ただ一眼でわかってしまったので御座いました。その時に私は畳の上に両手をついて、あなた様のお写真を見入ったまま……不思議の上にも重なる不思議に、すっかりおびやかされてしまったので御座いました。そうして何もかもがわからなくなりましたまま、今にも気絶しそうに息苦しく喘(あえ)ぎつづけていたように思います。しまいには両方の手首が痺(しび)れて来まして、髪の毛が顔の前に乱れかかって参りましてもやはり身動きすら出来ないままに次から次へと恐ろしい思いに迷いつづけていたように思います。
「私は不義を致したおぼえは毛頭御座いません」
 と仰有ったお母様のお言葉をハッキリと思い出しながら……。
 けれども、そのうちに室(へや)の中が真暗(まっくら)になってしまったのに気がつきますと、私はやっと気を取り直しました。机の端に置きました小(こ)ラムプに火を灯(つ)けまして、ふるえる指で目次にありましたあなた様の感想談のところを開いてみましたが、それを読んで行きますうちに私は、もう今にも声を立てて泣きたいようになりましたのを、袖を噛みしめ噛みしめしてやっと我慢し通したことで御座いました。
 それは今度の追善興行につきまして、あなた様が雑誌記者にお洩らしになった御感想のお話でしたが、その時にお写真と一緒に切り抜いて大切に仕舞っておりましたのをここに挟んでおきます。古い事で御座いますからもうお忘れになっているかも知れぬと存じまして……。

     初の大役「琴責め」
中村半次郎丈談 ありがとう存じます。
 おかげで熱も出なくなりましたし、場合が場合ですから生命(いのち)がけで勉強しております。
 この阿古屋の琴責めというのは、当家の六代前の先祖で白井半之助というのから伝わっておりますので、父の代になってから方々で演じて、いつも当りを取ったものだと申します。着付はその代々の好みになっているのですが、父の代になりましてからは牡丹(ぼたん)に蝶々ということに定(き)めてしまいました。帯は黒地に金銀の唐草模様で、きまっていないのは襟(えり)だけですが、父のように黒とか黄とかいうような凝(こ)った渋好みのものは僕みたいに未熟な者には迚(とて)も使えませんから、もっとほかの古代紫か水色か何かにしようと思っています。父親の追善ですから白襟にしようかとも思っていますが、どうも僕の力では、そんな気分が出せそうにもありませんので、どうしようかと考えているところです。
 十三貫目の衣裳の由来ですか……それは詳しい事は知りませんが、何でも僕が生れました年の正月(明治二十四年)から父は関西地方の興行に出かけまして、長崎から博多を打ち止めにして、三月のお芝居に間に合うように帰って来たそうです。その時にどこかで何かを見て感じたのでしょう。今度の旅行のお土産だといって、こんな衣裳を工夫し出しますと、これが一番いいというので一代改めなかったのだそうです。
 しかし御承知の通り父はとても凝(こ)り性(しょう)でしたので、指(さ)し図(ず)がなかなか八釜(やかま)しくて職人は面喰い通しだったそうです。型の方も特にこの衣裳のために改めた箇所があります位で、初め「あずまや」と申しまして某家の御秘蔵品を模した唐織好みの草色の裲襠(うちかけ)を着て出て来るのですが、琴にかかる前にうしろ向きになって、その裲襠を脱いで、正面に直るまでに衣裳の全体を皆様にお眼にかけるようになっております。
 ところで、その牡丹の花の中で開いている五ツと、その上に飛んでいる三ツの蝶々は、造り物で浮かしてありまして、シグサのたんびにユラユラと動くようにしてありますので、衣裳に台座を作っておいて、裲襠を脱ぐ時に一々手早く止めさせるという凝りようです。そのほか、隅々まで舞台栄(ば)えばかりを主眼にしてありまして、利き処利き処には無闇と針金や鯨鬚(くじらひげ)や鉛玉(なまり)なんぞを使ってあるのですが、それでいてスッキリと、しなやかにという注文ですから職人もよっぽど屁古垂(へこた)れたことでしょう。
 父の方も元来が凝り性なのに、この衣裳ばかりは又特別で、うわごとにまで云う位だったそうで、スッカリ気に入るまでには小(こ)一年もかかりまして、僕が生れると間もない翌年の春狂言にやっと間に合った位だそうです。その前に父は二度ばかりどこか(多分関西でしょう)へ行きまして、この衣裳のお手本を見て来ていろいろ細かい指図をし直しましたし、春芝居の間際になってから、着付けと身体(からだ)の極(きま)り工合を今一度見に出かけたと後(のち)になって僕に話しておりましたが、しかし、そのお手本の正体が錦絵だったか押絵だったか。又、それがどこに在ったものやら、そんな事は一度も話したことがありませんので、僕も今だに不思議に思っております。
 それに皆様も御承知か存じませぬが、父はよく女に化けて旅行する癖がありましたそうで、ジミな十徳を着て、お高祖頭巾(こそずきん)を冠って、養生(ようじょう)眼鏡をかけますとチョットしたお金持ちの後家(ごけ)さん位に見えましたそうで、興行中でも何か気に入らぬ事がありますと、そんな風にして姿を隠して、太夫元(たゆうもと)が困っているのをすぐ傍から見ていて面白がったりしたそうです。ですからその時の旅行もキットそんな姿で汽車に乗って行ったのでしょう。父の姿を見かけたものは一人もなかったので、この衣裳のお手本の正体ばかりは、とうとうどこにあるのかわからず仕舞(じま)いになってしまいました。
 そのうちに、その春興行の前後から父は眼に見えて健康を損ねて来ましたので、仕立屋なぞは衣裳の祟(たた)りだなぞと蔭口を云っていたそうですが、もともとひよわな体質なのに無理な旅行なぞをしたせいでしょう。そんな秘密の旅行もフッツリと止めてしまいまして、舞台に立つ時のほかは静養ばかりしながらやっと昨年の春まで持ちこたえて来たのです。
 一方に僕もまた親ゆずりの病身者で、おまけに早くから母に別れた牛乳育ちの弱虫だったもんですから、父から伝えられました事は大抵口伝(くでん)ばかりと云っていいのでした。本当の仕込みは伯父さん(芝猿丈(しえんじょう))と築地(つきじ)のお師匠さん(藤田勘十郎氏)のお蔭なのですが、それとても、身体(からだ)が弱いために本当の勉強が出来ておりませんので、トテモお恥かしい訳なのです。
 そんなところへ今度のお芝居は父の追善のためというので、皆様の一方ならぬお引立てを受けまして、舞台に立たせて頂きますばかりか、夢にも思いがけなかった大役の御注文が出ておりますことを、まだ熱が出て寝ておりました僕の枕元に伯父が駈けつけて来て知らせてくれました時はスッカリ胆(きも)を潰(つぶ)してしまいました。初めのうちは、いつもの伯父の癖で、僕をカラカッているのだとばかり思って、いい加減な返事をしながら笑っておりましたが、そのうちに八丁堀の大旦那様(大沼氏)や平川町の先生(紫紅(しこう)氏)方がお見えになって、いよいよ本当だとわかりますと僕は思わず手放しで泣き出してしまいました。そうしてこのお芝居が済んだら、あとはどうなっても構わないつもりで稽古を初めたのですが、都合のいい事に父も僕も心もちヒョロ長い方で肩幅から何からよく合っていますので、衣裳の方はあまり手を入れずに済みました。
 しかし何しろこの扮装(こしらえ)は総体で十三貫目もありましてシャグマだけでも一貫目近くあります。それをまだ芸も身体もコンマ以下の弱虫が着るのですから、平生(ふだん)だと立ち上るだけでも大変なのですが、それでも生命(いのち)がけの女の気もちになって舞台に出てみますと、不思議なくらい楽に動けますので、これは大方亡くなりました父の霊が衣裳に乗り移って軽くしてくれるのだろうと思っております。云々(うんぬん)。

 私はこの時、この記事の上に突伏しまして、どんなにか泣きましたことでしょう。
 私のお母様の押絵を御覧になった貴方様のお父様が、それほどまでに牡丹と蝶々の着付けを大切にかけてお用いになりました、そのお心のウラをお察ししました時に、私はもう立っても居てもいられぬようになりました。
 中村半次郎様と私とは、お話にきいた事のある夫婦児(めおとご)だったに違いない。一人はお母様に似て、一人はお父様に似た双生児(ふたご)だったに違いない。そうしてお母様は私達二人をお生みになると間もなく、お父様に知れないように男の子の方を本当のお父様の処へお遣りになったので、そんな事を何もかも引き受けてお手伝いしたのは、あのオセキ婆さんだったに違いない。そうと考えるよりほかに考えようがないのをどうしましょう。
「ああ。中村珊玉様……あなたはそれほどまでに私のお母様を……そうして又私のお母様も……」
 と叫びかけて私はハッとしながら、自分の手で自分の口を押えました。
 今から考えますと私はどうしてこの時に発狂しなかったのでしょうと不思議に思われる位で御座います。
 いいえ。私はそれから後(のち)暫くの間、発狂していたのかも知れませぬ。その夜(よ)遅くに岡沢先生のところのお湯殿で、もう二度と見ない決心をしておりました鏡の前に丸一年ぶりに坐りまして、その中に坐っておられるお母様の顔を見つめながらいつまでもいつまでも涙を流しておりました私の姿を、もしお兄様が御覧になりましたならば、きっと気が変になったものとお思いになったでしょう。
 お兄様……ああ……おなつかしいお兄さま……。そう申し上げてはわるいのかも知れませぬけれども、どうぞおゆるし下さいませ。私はその夜(よ)から貴方様を私のタッタ一人のお兄さまときめてしまっていたのですから。そうしてもしホントのお兄さまでおいでにならないのでしたら、そのホントのお兄さまよりももっともっとおなつかしい大切の大切の秘密のお兄様と思って恋い焦れながら死んで行きたいと、そればかりを神様にお願いするようになりましたのは、その夜(よ)からの事で御座いましたから……。
 そのあくる朝になりますと、私は熱が出ましたようで、時々クラクラとたおれそうになりましたが、一生けんめいに我慢をしまして、思い切り白くお化粧をして顔色の悪いのを隠してしまいました。
 それを奥様が御覧になって、
「マア。トシ子さんたら。何て慌て方でしょう」
 とお笑いになりながら髪結(かみゆ)いさんを呼んで来て下すったのですが、その時に私は「生れて初めて他人に髪を結ってもらうのだ」と思い思い鏡と向い合ってはおりましたが、心の中は睡(ねむ)ってばかりおりましたようで、気が付いた時にはもうスッカリ高島田に結い上げてありましたのを見て思わず「アラッ」と云って髪結いさんに笑われました。
 それから故郷を出ますときに柴忠さんのお嬢さまから頂いた一張羅(いっちょうら)の着物と着かえまして、先生御夫婦のお伴をして上野から鉄道馬車に乗りましたが、久し振りに厚ぼったい帯をシッカリと締めましたので気がシャンとしましたためか、それともまだ外はつめたい風が吹いておりましたせいか、馬車に乗っております間は居眠りをしなかったようで御座います。けれども歌舞伎座へ這入って平土間に坐りますと間もなく、人イキレであたたかくなりましたせいか、又もウットリとなりまして、お芝居通の先生や奥様が色々と説明して下さるのを、夢うつつに聞いているばかりで御座いました。
 お兄様が阿古屋に扮(ふん)して出てお出でになりましても、同じように睡くて睡くてボンヤリしておりましたようで、それを我慢しいしい眼を瞠(みは)っておりました苦しさを、今だにシミジミとおぼえております。あとでのお話によりますと、お兄様もその日はお加減がわるかったのを、無理におつとめになりましたのだそうで、その悩ましいお姿が、琴責めの時にたいそうよくうつったとの事でしたが、私はただ、その白いお下着の襟に刺してありました銀糸(ぎんし)の波形の光りを不思議なくらいハッキリとおぼえておりますだけで、そのほかは白いお顔と、赤いお召物とが、ボーッとした水彩画のように眼に残っておりますばかり……筋なぞは一つもわからないままで御座いました。そうして、家に帰りましてから、
「面白かったか」
 と先生に聞かれましても、何一つお答えが出来なかった時の恥かしう御座いましたこと……。
 それでも私は、とうとう自分の病気を隠しおおせました。
 この胸の疵(きず)を、お医者様に見られる位なら死んだ方がいい。……イイエ。私はこの病気がだんだん非道(ひど)くなって死ぬ時が近づいて来るのを待ちましょう。そうしてあの世で待っておいでになるお母様の処へ行って、思い切り抱きついて泣きましょう。ほかの事はみんな違っていても私のお母様だけは私の本当のお母様に違いないのだから……と、そんな風に思い込みまして、ともすれば熱のために夢のような心地になりかけますのを、唇が痛くなるほど噛みしめて我慢しいしいそのあくる日も、その又あくる日も無理やりに学校へ行ったので御座いましたが、そのうちにいつからともなく不思議と病気が癒(なお)ってしまったので御座います。これはおおかたお兄様に是非とも一度お目にかからなければなりませぬ運命を、私が持っておりましたせいでしょうと思いますけれども……。
 けれども、その時の私は何故この病気も癒ったのだろうと、つくづく天道様(てんとうさま)を怨(うら)んだことで御座いました。
 それから後(のち)の私は「不義者の子」という大きな札をホントに間違いなくピッタリと貼りつけられたように思って仕舞ったので御座います。
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