いなか、の、じけん
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著者名:夢野久作 

     大きな手がかり

 村長さんの処の米倉から、白米を四俵(ひょう)盗んで行ったものがある。
 あくる朝早く駐在の巡査(おまわり)さんが来て調べたら、俵(たわら)を積んで行ったらしい車の輪のあとが、雨あがりの土にハッキリついていた。そのあとをつけて行くと、町へ出る途中の、とある村外(はず)れの一軒屋の軒下に、その米俵を積んだ車が置いてあって、その横の縁台の上に、頬冠(ほおかぶ)りをした男が大の字になって、グウグウとイビキをかいていた。引っ捕えてみるとそれは、その界隈で持てあまし者の博奕打(ばくちう)ちであった。
 博奕打ちは盗んだ米を町へ売りに行く途中、久し振りに身体(からだ)を使ってクタビレたので、チョットのつもりで休んだのが、思わず寝過ごしたのであった。
 腰縄を打たれたまま車を引っぱってゆく男の、うしろ姿を見送った人々は、ため息して云った。
「わるい事は出来んなあ」

     按摩(あんま)の昼火事

 五十ばかりになって一人住居(ずまい)をしている後家(ごけ)さんが、ひる過ぎに近所まで用足しに行って帰って来ると、開け放しにしておいた自分の家(うち)の座敷のまん中に、知り合いの按摩(あんま)がラムプの石油を撒(ま)いて火を放(つ)けながら、煙に噎(む)せて逃げ迷っている……と思う間もなく床柱に行き当って引っくり返ってしまった。
 後家さんは、めんくらった。
「按摩さんが火事火事」
 と大声をあげて村中を走りまわったので、忽(たちま)ち人が寄って来て、大事に到らずに火を消し止めた。気絶した按摩は担(かつ)ぎ出されて、水をぶっかけられるとすぐに蘇生したので、あとから駈けつけた駐在巡査に引渡された。
 大勢に取り捲かれて、巡査の前の地べたに坐った按摩は、水洟(みずばな)をこすりこすりこう申し立てた。
「まったくの出来心で御座います。声をかけてみたところが留守だとわかりましたので……」
「それからどうしたか」
 と巡査は鉛筆を嘗(な)めながら尋ねた。皆はシンとなった。
「それで台所から忍び込みますと、ラムプを探り当てましたので、その石油を撒いて火をつけましたが、思いがけなく、うしろの方からも火が燃え出して熱くなりましたので、うろたえまして……雨戸は閉まっておりますし、出口の方角はわからず……」
 きいていた連中がゲラゲラ笑い出したので、按摩は不平らしく白い眼を剥(む)いて睨みまわした。巡査も吹き出しそうになりながら、ヤケに鉛筆を舐(な)めまわした。
「よしよし。わかっとるわかっとる。ところで、どういうわけで火を放(つ)けたんか」
「ヘエ。それはあの後家めが」
 と按摩は又、そこいらを睨みまわしつつ、土の上で一膝進めた。
「あの後家めが、私に肩を揉(も)ませるたんびに、変なことを云いかけるので御座います。そうしてイザとなると手ひどく振りますので、その返報に……」
「イイエ、違います。まるでウラハラです……」
 と群集のうしろから後家さんが叫び出した。
 みんなドッと吹き出した。巡査も思わず吹き出した。しまいには按摩までが一緒に腹を抱えた。
 その時にやっと後家さんは、云い損ないに気が付いたらしく、生娘(きむすめ)のように真赤になったが、やがて袖に顔を当てるとワーッと泣き出した。

     夫婦の虚空蔵(こくうぞう)

「あの夫婦は虚空蔵さまの生れがわり……」
 という子守娘の話を、新任の若い駐在巡査がきいて、
「それは何という意味か」
 と問い訊(ただ)してみたら、
「生んだ子をみんな売りこかして、うまいものを喰うて酒を飲まっしゃるから、コクウゾウサマ……」
 と答えた。巡査はその通り手帳につけた。それからその百姓の家(うち)に行って取り調べると、五十ばかりの夫婦が二人とも口を揃えて、
「ハイ。みんな美しい着物を着せてくれる人の処へ行きたいと申しますので……」
 と済まし返っている。
「フーム。それならば売った時の子供の年齢は……」
「ハイ。姉が十四の年で、妹が九つの年。それから男の子を見世物師に売ったのが五つの年で……。ヘエ。証文がどこぞに御座いましたが……間違いは御座いません。ついこの間のことで御座いますから。ヘエ……」
 巡査はこの夫婦が馬鹿ではないかと疑い初めた。しかも、なおよく気をつけてみると、今一人の子供が女房の腹の中に居るようす……。
 巡査は変な気持ちになって帳面を仕舞(しま)いながら、
「フーム。まだほかに子供は無いか」
 と尋ねると、夫婦は忽ち真青になってひれ俯した。
「実は四人ほど堕胎(おろ)しましたので……喰うに困りまして……どうぞ御勘弁を――」
 巡査は驚いて又帳面を引き出した。
「ウーム不都合じゃないか。何故そんな勿体ないことをする」
 というと、青くなっていた亭主が、今度はニタニタ笑い出した。
「ヘヘヘヘヘヘ。それほどでも御座いません。酒さえ飲めばいくらでも出来ますので……」
 巡査は気味がわるくなって逃げるようにこの家(うち)を飛び出した。
「この事を本署に報告しましたら古参の巡査から笑われましたヨ。何でも堕胎罪で二度ほど処刑されている評判の夫婦だそうです。二人とも揃って低能らしいので、誰も相手にしなくなっていたのだそうです」
 と、その巡査の話。

     汽車の実力試験

「この石を線路に置いたら、汽車が引っくり返るか返らないか」
「馬鹿な……それ位の石はハネ飛ばして行くにきまっとる」
「インニャ……引き割って行くじゃろうて……」
「論より証拠やってみい」
「よし来た」
 間もなく来かかった列車は、轟然(ごうぜん)たる音響と共に、その石を粉砕して停車した。見物していた三人の青年は驚いて逃げ出した。
 あくる朝三人が、村の床屋で落ち合ってこんな話をした。
「昨日(きのう)は恐ろしかったな。あんまり大きな音がしたもんで、おらあ引っくり返ったかと思うたぞ」
「ナアニ。機関車は全部鉄造りじゃけにな。あんげな石ぐらい屁(へ)でもなかろ」
「しかし、引き砕いてから停まったのは何故じゃろか。車の歯でも欠けたと思ったんかな」
「ナアニ。人を轢(ひ)いたと思ったんじゃろ」
 こうした話を、頭を刈らせながらきいていた一人の男は、列車妨害の犯人捜索に来ていた刑事だったので、すぐに三人を本署へ引っぱって行った。
 その中の一人は署長の前でふるえながらこう白状した。
「三人の中で石を置いたのは私で御座います。けれどもはね飛ばしてゆくとばかり思うておりましたので……罪は一番軽いので……」
 と云い終らぬうちに巡査から横面(よこつら)を喰(くら)わせられた。
 三人は同罪になった。

     スットントン

 漁師の一人娘で生れつきの盲目(めくら)が居た。色白の丸ポチャで、三味線なら何でも弾(ひ)くのが自慢だったので、方々の寄り合い事に、芸者代りに雇われて重宝がられていた。
 ある時、近くの村の青年の寄り合いに雇われたが、案内に来た青年は馬方(うまかた)で、馬力(ばりき)の荷物のうしろの方に空所(あき)を作って、そこに座布団を敷いて、三味線と、下駄を抱えた女を乗せると、最新流行のスットントン節を唄いながら、白昼の国道を引いて行った。
 ところがその馬力が、正午(ひる)過ぎに村へ帰りつくと、荷物のうしろには座布団だけしか残っていないことが発見されたので、忽ち大騒ぎになった。
「途中の松原で畜生が小便した時までは、たしかに女が坐っておった」
 という馬方の言葉をたよりに、村中総出でそこいらの沿道を探しまわったが、それらしい影も無い。村長や、区長や、校長先生や巡査が青年会場に集まって、いろいろに首をひねったけれども、第一、居なくなった原因からしてわからなかった。
 結局、娘の親たちへ知らせなければなるまい……というので、とりあえず青年会員が二人、娘のうちへ自転車を乗りつけると、晴れ着をホコリダラケにしたその娘が、おやじに引き据えられて、泣きながら打(ぶ)たれている。
 二人の青年は顔を見合わせたが、ともかくも飛び込んで押し止めて、
「これはどうした訳ですか」
 と尋ねると、おやじは面目なさそうに頭を掻いた。
「ナアニ。こいつがこの頃流行(はや)るスットントンという歌を知らんちうて逃げて帰って来たもんですけに……どうも申訳ありませんで……」
 二人の青年はいよいよ訳がわからなくなった。そこで、なおよく事情をきいてみると、最前女を馬力に乗せて引いて行った青年が、途中でスットントン節をくり返しくり返し唄った。それは娘に初耳であったので、先方(さき)で弾かせられては大変と思って、一生懸命に耳を澄ましたが、あいにくその青年が調子外れ(音痴)だったので、歌の節が一々変テコに脱線して、本当の事がよくわからない。これではとても記憶(おぼ)えられぬと思うと、女心のせつなさに、下駄と三味線を両手に持って、死ぬる思いで馬力から飛び降りて逃げ帰ったものと知れた。
 青年の一人はこの話をきくと非常に感心したらしく、勢い込んで云った。
「実に立派な心がけです。しかし心配することはない。私たちと一緒に来なさい。これから夜通しがかりで青年会をやり直します。歌は途中で私が唄ってきかせます」

     花嫁の舌喰い

 一部落挙(こぞ)って、不動様を信心していた。
 その中で、夫婦と子供三人の一家が夕食の最中に、主人が箸(はし)をガラリと投げ出して、
「タッタ今おれに不動様が乗り移った」
 と云いつつ凄い顔をして坐り直した。お神(かみ)さんは慌てて畳の上にひれ伏した。ビックリして泣き出した三人の子供も、叱りつけて拝ました。
 この噂(うわさ)が伝わると、そこいらじゅうの信心家が、あとからあとから押しかけて来て「お不動様」の御利益(ごりやく)にあずかろうとしたので、家の中は夜通し寝ることも出来ないようになった。
 そのまん中に、木綿の紋付き羽織を引っかけた不動様が坐って、恐ろしい顔で睨みまわしていたが、やがて、うしろの方に坐っている、紅化粧した別嬪(べっぴん)をさし招いた。その女は二三日前近所へ嫁入って来たものであった。
「もそっと前へ出ろ。出て来ぬと金縛りに合わせるぞ。ズッと私の前に来い。怖がる事はない。罪を浄めてやるのだ。サアよいか。お前は前の生(しょう)に恐ろしい罪を重ねている。その罪を浄めてやるから舌を出せ。もそっと出せ。出さぬと金縛りだぞ……そうだそうだ……」
 こう云いつつその舌に顔をさし寄せて、ジッと睨んでいた不動様は、不意にパクリとその舌を頬張ると、ズルリズルリとシャブリ初めた。
 女は衆人環視の中で舌をさし出したまま、眼を閉じてブルブルふるえていた。すると不動様は何と思ったか突然に、その舌を根元からプッツリと噛み切って、グルグルと嚥(の)み込んでしまった。
 女は悶絶したまま息が絶えた。
 あとで町から医者や役人が来て取調べた結果、不動様の脳髄がずっと前から梅毒に犯されていることがわかった。
 この事実がわかると、その村の不動様信心がその後パッタリと止んだ。不動様を信仰すると梅毒になるというので……。

     感違いの感違い

 駐在巡査が夜ふけて線路の下の国道を通りかかると、頬冠(ほおかぶ)りをした大男が、ガードの上をスタスタと渡って行く。何者だろう……とフト立ち停まると、その男が一生懸命に逃げ出したので、巡査も一生懸命に追跡を初めた。
 やがてその男が村の中の、とある物置へ逃げ込んだので、すぐに踏み込んで引きずり出してみると、それは村一番の正直者で、自分の家の物置に逃げ込んだものであることがわかった。
 巡査はガッカリして汗を拭き拭き、
「馬鹿めが。何もしないのに何でおれの姿を見て逃げた」
 と怒鳴りつけると、その男も汗を拭き拭き、
「ハイ。泥棒と間違えられては大変と思いましたので……どうぞ御勘弁を……」

     スウィートポテトー

 心中のし損ねが村の駐在所に連れ込まれた……というのでみんな見に行った。
 十燭(しょく)の電燈に照らされた板張りの上の小さな火鉢に、消し炭が一パイに盛られている傍に、男と女が寄り添うようにして跼(うずく)まって、濡(ぬ)れくたれた着物の袖(そで)を焙(あぶ)っている。どちらも都の者らしく、男は学生式のオールバックで、女は下町風の桃割れに結っていた。
 硝子(ガラス)戸の外からのぞき込む人間の顔がふえて来るにつれて、二人はいよいよくっつき合って頭を下げた。
 やがて四十四五に見える駐在巡査が、ドテラがけで悠然と出て来た。一パイ飲んだらしく、赤い顔をピカピカ光らして、二人の前の椅子にドッカリと腰をかけると、酔眼朦朧とした身体(からだ)をグラグラさせながら、いろんな事を尋ねては帳面につけた。そのあげくにこう云った。
「つまりお前達二人はスウィートポテトーであったのじゃナ」
 硝子戸の外の暗(やみ)の中で二三人クスクスと笑った。
 すると、うつむいていた若い男が、濡れた髪毛(かみのけ)を右手でパッとうしろへはね返しながら、キッと顔をあげて巡査を仰いだ。異状に興奮したらしく、白い唇をわななかしてキッパリと云った。
「……違います……スウィートハートです……」
「フフ――ウム」
 と巡査は冷やかに笑いながらヒゲをひねった。
「フ――ム。ハートとポテトーとはどう違うかナ」
「ハートは心臓で、ポテトーは芋(いも)です」
 と若い男はタタキつけるように云ったが、硝子戸の外でゲラゲラ笑い出した顔をチラリと見まわすと、又グッタリとうなだれた。
 巡査はいよいよ上機嫌らしくヒゲを撫でまわした。
「フフフフフ。そうかな。しかしドッチにしても似たもんじゃないかナ」
 若い男は怪訝(けげん)な顔をあげた。硝子戸の外の笑い声も同時に止んだ。巡査は得意らしく反(そ)り身(み)になった。
「ドッチもいらざるところで芽を吹いたり、くっつき合うて腐れ合うたりするではないか……アーン」
 人が居なくなったかと思う静かさ……と思う間もなく、硝子戸の外でドッと笑いの爆発……。
 若い男はハッと両手を顔にあてて、ブルブルと身をふるわした。初めから嘲弄されていたことがわかったので……同時に、横に居た桃割れも、ワッとばかり男の膝に泣き伏した。
 硝子戸の外の笑い声が止め度もなく高まった。
 巡査も腕を組んだまま天井をあおいだ。
「アアハアハアハア。馬鹿なやつどもじゃ。アアハアアアハア……」

     空家(あきや)の傀儡踊(あやつり)

 みんな田の草を取りに行っていたし、留守番の女子供も午睡(ひるね)の真最中であったので、只さえ寂(さ)びれた田舎町の全体が空ッポのようにヒッソリしていた。その出外れの裏表二間(ふたま)をあけ放した百姓家の土間に、一人の眼のわるい乞食爺(こじきじじい)が突立って、見る人も無く、聞く人も無いのにアヤツリ人形を踊らせている。
 人形は鼻の欠けた振(ふ)り袖(そで)姿で、色のさめた赤い鹿(か)の子(こ)を頭からブラ下げていた。
「観音シャマを、かこイつウけエて――。会いに――来たンやンら。みンなンみンやンら。……振りイ――の――たンもンとンにイ――北ンしよぐウれエ。晴れン間(ま)も――。さンら――にイ……。な――かア……」
 歯の抜けた爺さんの義太夫はすこぶる怪しかったが、それでもかなり得意らしく、時々霞(かす)んだ眼を天井に向けては、人形と入れ違いに首をふり立てた。
「ヘ――イ。このたびは二の替りといたしまして朝顔日記大井川の段……テテテテテ天道(てんどう)シャマア……きこえまシェぬきこえまシェぬきこえまシェぬ……チン……きこえまシェぬわいニョ――チッチッチッチッ」
「妻ア――ウワア。なンみンだンにイ――。か――き――くンるえ――テヘヘヘヘ。ショレみたんよ……光(みつ)ウ秀(ひで)エどンの……」
 振り袖の人形が何の外題(げだい)でも自由自在に次から次へ踊って行くにつれて、爺さんのチョボもだんだんとぎれとぎれに怪しくなって行った。
 しかし爺さんは、どうしたものかナカナカ止めなかった。ヒッソリした家の中で汗を拭き拭きシャ嗄(が)れた声を絞りつづけたので、人通りのすくない時刻ではあったが、一人立ち止まり二人引っ返ししているうちに、近所界隈の女子供や、近まわりの田に出ていた連中で、表口が一パイになって来た。
「狂人(きちがい)だろう」
 と小声で云うものもあった。
 そのうちに誰かが知らせたものと見えて、この家(や)の若い主人が帰って来た。手足を泥だらけにした野良着(のらぎ)のままであったが、肩を聳(そび)やかして土間に這入(はい)るとイキナリ、人形をさし上げている爺さんの襟首(えりくび)に手をかけてグイと引いた。振袖人形がハッと仰天した。そうして次の瞬間にはガックリと死んでしまった。
 見物は固唾(かたず)をのんだ。どうなることか……と眼を瞠(みは)りながら……。
「……ヤイ。キ……貴様は誰にことわって俺の家(うち)へ這入った……こんな人寄せをした……」
 爺さんは白い眼を一パイに見開いた。口をアングリとあけて呆然となったが、やがて震える手で傍(かたわら)の大きな信玄袋の口を拡げて、生命(いのち)よりも大切(だいじ)そうに人形を抱え上げて落し込んだ。それから両手をさしのべて、破れた麦稈(むぎわら)帽子と竹の杖を探りまわし初めた。
 これを見ていた若い主人は、表に立っている人々をふり返ってニヤリと笑った。人形を入れた信玄袋をソッと取り上げて、うしろ手に隠しながらわざと声を大きくして怒鳴った。
「サア云え。何でこんな事をした。云わないと人形を返さないぞ」
 何かボソボソ云いかけていた見物人が又ヒッソリとなった。
 麦稈帽を阿弥陀(あみだ)に冠(かぶ)った爺さんは、竹の杖を持ったままガタガタとふるえ出した。ペッタリと土間に坐りながら片手をあげて拝む真似をした。
「……ど……どうぞお助け……御勘弁を……」
「助けてやる。勘弁してやるから申し上げろ。何がためにこの家に這入ったか。何の必要があれば……最前からアヤツリを使ってコンナに大勢の人を寄せたのか。ここを公会堂とばし思ってしたことか」
 爺さんは見えぬ眼で次の間(ま)をふり返って指(さ)した。
「……サ……最前……私が……このお家に這入りまして……人形を使い初めますと……ア……あそこに居られたどこかの旦那様が……イ……一円……ク下さいまして……ヘイ……おれが飯を喰っている間(ま)に……貴様が知っているだけ踊らせてみよ……トト、……おっしゃいましたので……ヘイ……オタスケを……」
「ナニ……飯を喰ったア……一円くれたア……」
 若い主人はメンクラッたらしく眼を白黒さしていたが、忽ち青くなって信玄袋を投げ出すと、次の間(ま)の上(あが)り框(かまち)に駈け寄った。そこにひろげられた枕屏風(まくらびょうぶ)の蔭に、空っぽの飯櫃(めしびつ)がころがって、無残に喰い荒された漬物の鉢と、土瓶(どびん)と、箸(はし)とが、飯粒(めしつぶ)にまみれたまま散らばっている。そんなものをチラリと見た若い主人の眼は、すぐに仏壇の下に移ったが、泥足のままかけ上って、半分開いたまんまの小抽出しを両手でかきまわした。
「ヤラレタ……」
 と云ううちに見る見る青くなってドッカリと尻餅を突いた。頭を抱えて縮み込んだ。表の見物人はまん丸にした眼を見交(みかわ)した。
「……マア……可哀相に……留守番役のおふくろが死んだもんじゃけん」
「キット流れ渡りの坑夫のワルサじゃろ……」
 その囁(ささや)きを押しわけてこの家(や)の若い妻君が帰って来た。やはり野良行きの姿であったが、信玄袋を探し当てて出て行く乞食爺の姿を見かえりもせずに、泥足のままツカツカと畳の上にあがると、若い主人の前にベッタリと坐り込んだ。頭の手拭を取って鬢(びん)のほつれを掻き上げた。無理に押しつけたような声で云った。
「お前さんは……お前さんは……この小抽出しに何を入れておんなさったのかえ……妾(わたし)に隠して……一口も云わないで……」
 若い主人はアグラを掻いて、頭を抱えたまま、返事をしなかった。やがて濡れた筒ッポウの袖口で涙を拭いた。
 下唇を噛んだまま、ジッとこの様子をながめていた妻君の血相がみるみる変って来た。不意に主人の胸倉(むなぐら)を取ると、猛烈に小突きまわし初めた。
「……えエッ。口惜しいッ。おおかた大浜(白首街(しらくびまち))のアンチキショウの処へ持って行く金じゃったろ。畜生畜生……二人で夜(よ)の眼を寝ずに働いた養蚕(ようさん)の売り上げをば……いつまでも渡らぬと思うておったれば……エエッ……クヤシイ、クヤシイ」
 しかしいくら小突かれても若い主人はアヤツリのようにうなだれて、首をグラグラさせるばかりであった。
 二三人見かねて止めに這入って来たが、一番うしろの男は表の人だかりをふり返って、ペロリと赤い舌を出した。
「これがホンマのアヤツリ芝居じゃ」
 みんなゲラゲラ笑い出した。
 妻君が主人の胸倉を取ったままワーッと泣き出した。

     一ぷく三杯

 お安さんという独身者(ひとりもの)で、村一番の吝(けち)ン坊(ぼう)の六十婆さんが、鎮守様のお祭りの晩に不思議な死にようをした。
 ……たった一人で寝起きをしている村外れの茶屋の竈(かまど)の前で、痩せ枯(かれ)た小さな身体(からだ)が虚空(こくう)を掴んで悶絶していた。平生(ふだん)腰帯にしていた絹のボロボロの打ち紐(ひも)が、皺(しわ)だらけの首に三廻(みまわ)りほど捲かれて、ノドボトケの処で唐結(からむす)びになったままシッカリと肉に喰い込んでいたが、その結び目の近まわりが血だらけになるほど掻き□(むし)られている。しかし何も盗まれたもようは無く、外から人の這入った形跡も無い。法印さんの処から貰って帰ったお重詰めは、箸をつけないまま煎餅布団(せんべいぶとん)の枕元に置いてあった。貯金の通(かよ)い帳(ちょう)は方々探しまわったあげく、竈の灰の下の落し穴から発見された。その遺産を受け継ぐべき婆さんのたった一人の娘と、その婿になっている電工夫は、目下東京に居るが、急報によって帰郷の途中である。婆さんの屍体は大学で解剖することになった……近来の怪事件……というので新聞に大きく出た。
 お安婆さんの茶店は、鉄道の交叉点のガードの横から、海を見晴らしたところにあった。古ぼけた葭簀(よしず)張りの下に、すこしばかりの駄菓子とラムネ。渋茶を煮出した真黒な土瓶。剥げた八寸膳の上に薄汚ない茶碗が七ツ八ツ……それでも夏は海から吹き通しだし、冬の日向きがよかったので、街道通いの行商人なぞがスッカリ狃染(なじみ)になっていた。
 主人公の婆さんは三十いくつかの年に罹(かか)った熱病以来、腰が抜けて立(た)ち居(い)が不自由になると、生れて間もない娘を置き去りにして亭主が逃げてしまったので、田畠を売り払ってここで茶店を開いた。その娘がまたなかなかの別嬪(べっぴん)の利発もので、十九の春に、村一番の働き者の電工夫を婿養子に取ったが、今は夫婦とも東京の会社につとめて月給を貰っているとか。
「その娘夫婦が東京に孫を見に来い見に来いと云いますけれども、まあなるたけ若い者の足手まといになるまいと思うて、この通りどうやらこうやらしております。自分の身のまわりの事ぐらいは足腰が立ちますので……娘夫婦もこの頃はワタシに負けて、その中(うち)に孫を見せに帰って来ると云うておりますが……」
 と云いながら婆さんは、青白い頬をヒクツカせて、さも得意そうにニヤリとするのであった。
「……フフン。それでも独りで淋しかろ……」
 と聞き役になったお客が云うと、婆さんは又、オキマリのようにこう答えた。
「ヘエあなた。二度ばかり泥棒が這入りましてなあ。貴様は金を溜めているに違いないと申しましたけれどもなあ。ワタシは働いたお金をみんな東京の娘の処に送っております。それでも、あると思うならワタシを殺すなりどうなりしてユックリと探しなさいと云いましたので、茶を飲んで帰りました」
 しかしこの婆さんが千円の通い帳を二ツ持っているという噂を、本当にしないものは村中に一人も居なかった。それ位にこの婆さんの吝ン坊は有名で、殆んど喰うものも喰わずに溜めていると云ってもいい位であった。そんな評判がいろいろある中(うち)にも小学校の生徒まで知っているのは「お安さん婆さんの一服三杯」という話で……。
「フフン。その一服三杯というのは飯のことかね……」
 と村の者の云うことをきいていた巡査は手帳から眼を離した。
「ヘエ。それはソノ……とても旦那方にお話し致しましても本当になさらないお話で……しかしあの婆さんが死にましたのは、確かにソノ一服三杯のおかげに違いないと皆申しておりますが……」
「フフン。まあ話してみろ。参考になるかもしれん」
「ヘエ。それじゃアまアお話ししてみますが、あの婆さんは毎月一度宛(ずつ)、駅の前の郵便局へ金を預けに行く時のほかは滅多に家(うち)を出ません。いつもたった一人で、あの茶店に居るので御座いますが、それでも村の寄り合いとか何とかいう御馳走ごとにはキット出てまいります。それも前の晩あたりから飯を食わずに、腹をペコペコにしておいて、あくる日は早くから店を閉めて、松葉杖を突張って出て来るので御座いますが、いよいよ酒の座となりますと、先ず猪口(ちょこ)で一パイ飲んで、あの青い顔を真赤にしてしまいます。それから飯ばっかりを喰い初めて、時々お汁(したじ)をチュッチュッと吸います。漬け物もすこしは喰べますが、大抵六七八杯は請け合いのようで……それからいよいよ喰えぬとなりますと、煙草を二三服吸うて、一息入れてから又初めますので、アラカタ二三杯位は詰めこみます。それからあとのお平(ひら)や煮つけなぞを、飯と一緒に重箱に一パイ詰めて帰って、その日は何もせずに、あくる日の夕方近くまで寝ます。それからポツポツ起きて重箱の中のものを突(つ)ついて夕飯にする。御承知の通り、この辺の御馳走ごとの寄り合いは、大抵時候のよい頃に多いので、どうかすると重箱の中のものが、その又あくる日の夕方までありますそうで……つまるところ一度の御馳走が十ペン位の飯にかけ合うことに……」
「ウ――ム。しかしよく食傷して死なぬものだな」
「まったくで御座います旦那様。あの痩せこけた小さな身体(からだ)に、どうして這入るかと思うくらいで……」
「ウ――ム。しかしよく考えてみるとそれは理窟に合わんじゃないか。そんなにして二日も三日も店を閉めたら、つまるところ損が行きはせんかな」
「ヘエ。それがです旦那様。最前お話し申上げましたその娘夫婦も、それを恥かしがって東京へ逃げたのだそうでございますが、お安さん婆さんに云わせますと……『自分で作ったものは腹一パイ喰べられぬ』というのだそうで……ちょうどあの婆さんが死にました日が、ここいらのお祭りで御座いましたが、法印さんの処で振舞いがありましたので、あの婆さんが又『一服三杯』をやらかしました。それが夜中になって口から出そうになったので勿体なさに、紐(ひも)でノド首を縛(しば)ったものに違いない。そうして息が詰まって狂い死にをしたのだろう……とみんな申しておりますが……」
「アハハハハハ。そんな馬鹿な……いくら吝(けち)ン坊(ぼう)でも……アッハッハッハッ……」
 巡査は笑い笑い手帳と鉛筆を仕舞って帰った。
 しかしお安さん婆さんの屍体解剖の結果はこの話とピッタリ一致したのであった。

     蟻(あり)と蠅(はえ)

 山の麓に村一番の金持ちのお邸(やしき)があって、そのまわりを十軒ばかりの小作人の家が取り巻いて一部落を作っていた。
 お邸の裏手から、山へ這入るところに柿の樹と、桑の畑があったが、梅雨(つゆ)があけてから小作人の一人が山へ行きかかると、そこの一番大きい柿の樹の根方から、赤ん坊の足が一本洗い出されて、蟻と蠅が一パイにたかっているのを発見したので真青になって飛んで帰った。
 やがて駐在所から、新しい自転車に乗った若い巡査がやって来て掘り出してみると、六ヶ月位の胎児で、死後一週間を経過していると推定されたので、いくらもないその部落の中の女が一人一人に取り調べられたが、怪しい者は一人も居なかった。結局残るところの嫌疑者は、この頃、都の高等女学校から帰省して御座る、お邸のお嬢さん只一人……しかもすこぶるつきのハイカラサンで、大旦那が遠方行きの留守中を幸いに、ゴロゴロ寝てばかり御座る様子がどうも怪しいということになった。
 若い巡査は或る朝サアベルをガチャガチャいわせてそのお邸の門を潜った。
「ソラ御座った。イヨイヨお嬢さんが調べられさっしゃる」
 と家中(うちじゅう)のものが鳴りを静めた。野良(のら)からこの様子を見て走って来るものもあった。
 玄関に巡査を出迎えて、来意をきいた娘の母親が、血の気の無くなった顔をして隠居部屋に来てみると、細帯一つで寝そべって雑誌を読んでいた娘は、白粉(おしろい)の残った顔を撫でまわしながら蓬々(ほうほう)たる頭を擡(もた)げた。
「何ですって……妾(わたし)が堕胎(だたい)したかどうか巡査が調べに来ているんですって……ホホホホホ生意気な巡査だわネエ。アリバイも知らないで……」
 玄関に近いので母親はハラハラした。眼顔で制しながら恐る恐る問うた。
「……ナ……何だえ。その蟻とか……蠅とかいうのは……アノ胎児(はらみご)の足にたかっていた虫のことかえ……」
「ホホホホホホそんなものじゃないわよ。何でもいいから巡査さんにそう云って頂戴……妾にはチャンとしたアリバイがありますから、心配しないでお帰んなさいッテ……」
 母親はオロオロしながら玄関に引返した。
 しかし巡査は娘の声をきいていたらしかった。少々興奮の体(てい)で仁王立ちになって、ポケットから手帳を出しかけていたが、母親の顔を見るとまだ何も云わぬ先にグッと睨みつけた。
「そのアリバイとは何ですか」
 母親はふるえ上った。よろめきたおれむばかりに娘のところへ駈け込むと、雑誌の続きを読みかけていた娘は眉根を寄せてふり返った。
「ウルサイわねえ。ホントニ。そんなに妾が疑わしいのなら、妾の処女膜を調べて御覧なさいッて……ソウおっしゃい……失礼な……」
 母親はヘタヘタと坐り込んだ。巡査も真赤になって自転車に飛び乗りながら、逃げるように立ち去った。
 それ以来この部落ではアリバイという言葉が全く別の意味で流行している。

     赤い松原

 海岸沿いの国有防風林の松原の中に、托鉢坊主(たくはつぼうず)とチョンガレ夫婦とが、向い合わせの蒲鉾小舎(かまぼこごや)を作って住んでいた。
 三人は極めて仲がいいらしく、毎朝一緒に松原を出て、一里ばかり離れた都会に貰いに行く。そうして帰りには又どこかで落ち合って、何かしら機嫌よく語り合いながら帰って来るのであった。月のいい晩なぞは、よくその松原から浮き上るような面白い音がきこえるので、村の若い者が物好きに覗いてみると蒲鉾小舎の横の空地で、チョンガレ夫婦のペコペコ三味線と四つ竹(肉の厚い竹片(たけべら)を、二枚宛(ずつ)両手に持って、打ち合わせながら囃(はや)すもの)の拍子に合わせて、向う鉢巻の坊主が踊っていたりした。横には焚火(たきび)と一升徳利(どくり)なぞがあった。
 そのうちに世間が不景気になるにつれて、坊主の方には格別の影響も無い様子であるが、チョンガレ夫婦の貰いが、非常に減った模様で、松原へ帰る途中でも、そんな事かららしく、夫婦で口論(いさかい)をしていることが珍らしくなくなった。或る時なぞは村外れで掴み合いかけているのを、坊主が止めていたという。
 ところがそのうちに三人の連れ立った姿が街道に見られなくなって、その代りに頭を青々と丸めて、法衣(ころも)を着たチョンガレの托鉢姿だけが、村の人の眼につくようになった。
 ……コレは可怪(おか)しい。和尚(おしょう)の方は一体何をしているのか……と例によってオセッカイな若い者が覗きに行ってみると、坊主はチョンガレの女房を、自分の蒲鉾小屋に引きずり込んで、魚なぞを釣って納まり返っている。夕方にチョンガレが帰って来ても、女房は平気で坊主のところにくっ付いているし、チョンガレも独りで煮タキして独りで寝る……おおかた法衣(ころも)と女房の取り換えっこをしたのだろう……というのが村の者の解釈であった。
 ところが又その後(のち)になるとチョンガレの托鉢姿が、いつからともなく松原の中に見えなくなった。しかし蒲鉾小舎は以前のままで、チョンガレの古巣は物置みたように、枯れ松葉や、古材木が詰め込まれていた。そうして坊主がもとの木阿弥(もくあみ)の托鉢姿に帰って、松原から出て行くと、女房は女房で、坊主と別々にペコペコ三味線を抱えて都の方へ出かける。夜は一緒に寝ているのであった。
「坊主も遊んでいられなくなったらしい」
 と村の者は笑った。
 そのうちに冬になった。
 或る夜ケタタマシク村の半鐘が鳴り出したので、人々が起きてみると、その松原が大火焔を噴き出している。アレヨアレヨといううちに西北の烈風に煽られて、見る間に数十町歩を烏有(うゆう)に帰したので、都の消防が残らず駈けつけるなぞ、一時は大変な騒ぎであったが、幸いに人畜に被害も無く、夜明け方に鎮火した。火元は無論その蒲鉾小舎で、二軒とも引き崩して積み重ねて焼いたらしい灰の下から、半焼けの女房の絞殺屍体と、その下の土饅頭(どまんじゅう)みたようなものの中から、半分骸骨になったチョンガレの屍体があらわれた。しかもそのチョンガレの頭蓋骨が掘り出されると、噛み締めた白い歯が自然と開(あ)いて、中から使いさしの猫イラズのチューブがコロガリ出たので皆ゾッとさせられた。

     郵便局

 鎮守の森の入口に、村の共同浴場と、青年会の道場が並んで建っていた。夏になるとその辺で、撃剣の稽古を済ました青年たちが、歌を唄ったり、湯の中で騒ぎまわったりする声が、毎晩のように田圃越(たんぼご)しの本村(ほんむら)まで聞こえた。
 ところが或る晩の十時過の事。お面(めん)お籠手(こて)の声が止むと間もなく、道場の電燈がフッと消えて人声一つしなくなった。……と思うとそれから暫くして、提灯(ちょうちん)の光りが一つ森の奥からあらわれて、共同浴場の方に近づいて来た。
「来たぞ来たぞ」「シッシッ聞こえるぞ」「ナアニ大丈夫だ。相手は耳が遠いから……」
 といったような囁きが浴場の周囲の物蔭から聞こえた。ピシャリと蚊をたたく音だの、ヒッヒッと忍び笑いをする声だのが続いて起って、又消えた。
 提灯の主は元五郎といって、この道場と浴場の番人と、それから役場の使い番という三ツの役目を村から受け持たせられて、森の奥の廃屋(あばらや)に住んでいる親爺(おやじ)で、年の頃はもう六十四五であったろうか。それが天にも地にもたった一人の身よりである、お八重(やえ)という白痴の娘を連れて、仕舞湯(しまいゆ)に入りに来たのであった。
 親爺は湯殿に這入ると、天井からブラ下がっている針金を探って、今日買って来たばかりの五分心(ぶしん)の石油ラムプを吊して火を灯(つ)けた。それから提灯を消して傍の壁にかけて、ボロボロ浴衣(ゆかた)を脱ぐと、くの字なりに歪(ゆが)んだ右足に、黒い膏薬(こうやく)をベタベタと貼りつけたのを、さも痛そうにラムプの下に突き出して撫でまわした。
 その横で今年十八になったばかりのお八重も着物を脱いだが、村一等の別嬪(べっぴん)という評判だけに美しいには美しかった。しかし、どうしたわけか、その下腹が、奇妙な恰好にムックリと膨らんでいるために、親爺の曲りくねった足と並んで、一種異様な対照を作っているのであった。
「ホントウダホントウダ」「ふくれとるふくれとる」「ドレドレ俺にも見せろよ」「フーン誰の子だろう」「わかるものか」「俺ア知らんぞ」「嘘吐(こ)け……お前の女だろうが」「馬鹿云えコン畜生」「シッシッ」
 というようなボソボソ話が、又も浴場のまわりで起った。しかし親爺は耳が遠いので気がつかないらしく、黙って曲った右足を湯の中に突込んだ。お八重もそのあとから真似をするように右足をあげて這入りかけたが、フイと思い出したようにその足を引っこめると、流し湯へ跼(かが)んでシャーシャーと小便を初めた。
 元五郎親爺はその姿を、霞(かす)んだ眼で見下したまま、妙な顔をしていたが、やがてノッソリと湯から出て来て、小便を仕舞(しま)ったばかりの娘の首すじを掴むと、その膨れた腹をグッと押えつけた。
「これは何じゃえ」
「あたしの腹じゃがな」
 と娘は顔を上げてニコニコと笑った。クスクスという笑い声が又、そこここから起った。
「それはわかっとる……けんどナ……この膨れとるのは何じゃエ……これは……」
「知らんがな……あたしは……」
「知らんちうことがあるものか……いつから膨れたのじゃエこの腹はコンゲニ……今夜初めて気が付いたが……」
 と親爺は物凄い顔をしてラムプをふりかえった。
「知らんがナ……」
「知らんちうて……お前だれかと寝やせんかな。おれが用達(ようた)しに行っとる留守の間(ま)に……エエコレ……」
「知らんがナ……」
 と云い云いふり仰ぐお八重の笑顔は、女神のように美しく無邪気であった。
 親爺は困惑した顔になった。そこいらをオドオド見まわしては新らしいラムプの光りと、娘の膨れた腹とを、さも恨めしげに何遍(なんべん)も何遍も見比べた。
「オラ知っとる……」「ヒッヒッヒッヒッ」
 という小さな笑い声がその時に入口の方から聞えた。
 その声が耳に這入ったかして、元五郎親爺はサッと血相をかえた。素裸体(すっぱだか)のまま曲った足を突張って、一足(いっそく)飛びに入口の近くまで来た。それと同時に、
「ワ――ッ」「逃げろッ」
 という声が一時に浴場のまわりから起って、ガヤガヤガヤと笑いながら、八方に散った。そのあとから薪割用の古鉈(ふるなた)を提(ひっさ)げた元五郎親爺が、跛(びっこ)引き引き駆け出したが、これも森の中の闇に吸い込まれて、足音一つ聞こえなくなった。
 その翌(あく)る朝の事。元五郎親爺は素裸体に、鉈をしっかりと掴んだままの死体になって、鎮守さまのうしろの井戸から引き上げられた。又娘のお八重は、そんな騒ぎをちっとも知らずに廃屋(あばらや)の台所の板張りの上でグーグー睡っていたが、親爺の死体が担ぎ込まれても起き上る力も無いようす……そのうちにそこいらが変に臭いので、よく調べてみると、お八重は叱るものが居なくなったせいか、昨夜(ゆうべ)の残りの冷飯(ひやめし)の全部と、糠味噌(ぬかみそ)の中の大根や菜(な)っ葉(ぱ)を、糠(ぬか)だらけのまま残らず平らげたために、烈しい下痢を起して、腰を抜かしていることがわかった。
 そのうちに警察から人が来て色々と取調べの結果、昨夜(ゆうべ)からの事が判明したので、元五郎親爺の死因は過失から来た急劇脳震盪(のうしんとう)ということに決定したが、一方にお八重の胎児の父はどうしてもわからなかった。
 初めはみんな、撃剣を使いに行く青年たちのイタズラであろうと疑っていたが、八釜(やかま)し屋(や)の区長さんが主任みたようになって、一々青年を呼びつけて手厳しく調べてみると、この村の青年ばかりでなく、近所の村々からもお八重をヒヤカシに来ていた者があるらしい。それでお八重には郵便局という綽名(あだな)がついていることまで判明したので、区長さんは開いた口が塞(ふさ)がらなくなった。
 すると、その区長さんの長男で医科大学に行っている駒吉というのが、ちょうどその時に帰省していて、この話をきくと恐ろしく同情してしまった。実地経験にもなるというので、すぐに学生服を着て、お八重の居る廃屋へやって来て、新しい聴診器をふりまわしながら親切に世話をし初めた。母親に頼んで三度三度お粥(かゆ)を運ばせたり、自身に下痢止めの薬を買って来て飲ませたりしたので「サテは駒吉さんの種であったか」という噂がパッと立った。しかし駒吉はそんな事を耳にもかけずに、休暇中毎日のようにやって来て診察していると、今度はその駒吉が、お八重の裸体の写真を何枚も撮って、机の曳出(ひきだ)しに入れていることが、誰云うとなく評判になったので、流石(さすが)の駒吉も閉口したらしく、休暇もそこそこに大学に逃げ返った。そうすると又、あとからこの事をきいた区長さんがカンカンに怒り出して、母親がお八重の処へ出入りするのを厳重にさし止めてしまった。
「お八重が子供を生みかけて死んでいる」という通知が、村長と、区長と、駐在巡査の家(うち)へ同時に来たのは、それから二三日経っての事であった。それは鎮守の森一パイに蝉の声の大波が打ち初めた朝の間(ま)の事であったが、その森蔭の廃屋へ馳けつけた人は皆、お八重の姿が別人のように変っていたのに驚いた。誰も喰い物を与えなかったせいか、美しかった肉付きがスッカリ落ちこけて、骸骨のようになって仰臥(ぎょうが)していたが、死んだ赤子の片足を半分ばかり生み出したまま、苦悶しいしい絶息したらしく、両手の爪をボロ畳に掘り立てて、全身を反(そ)り橋のように硬直させていた。その中(うち)でも取りわけて恐ろしかったのは、蓬々(ぼうぼう)と乱れかかった髪毛(かみのけ)の中から、真白くクワッと見開いていた両眼であったという。
「お八重の婿どん誰かいナア
 阿呆鴉(あほうがらす)か梟(ふくろ)かア
 お宮の森のくら闇で
 ホ――イホ――イと啼(な)いている。
 ホイ、ホイ、ホ――イヨ――」
 という子守唄が今でもそこいらの村々で唄われている。

     赤玉

「ナニ……兼吉(かねきち)が貴様を毒殺しようとした?……」
 と巡査部長が眼を光らすと、その前に突立った坑夫体(こうふてい)の男が、両手を縛られたまま、うなだれていた顔をキッと擡(もた)げた。
「ヘエ……そんで……兼吉をやっつけましたので……」
 と吐き出すように云って、眼の前の机の上に、新聞紙を敷いて横たえてある鶴嘴(つるはし)を睨みつけた。その尖端の一方に、まだ生々しい血の塊(かた)まりが粘りついている。
 巡査部長は意外という面(おも)もちで、威儀を正すかのように坐り直した。
「フーム。それはどうして……何で毒殺しようとしたんか……」
「ヘエそれはこうなので……」
 と坑夫体の男は唾を呑み込みながら、入口のタタキの上に、筵(むしろ)を着せて横たえてある被害者の死骸をかえりみた。
「私が一昨日(おとつい)から風邪を引きまして、納屋(なや)に寝残っておりますと、昨日(きのう)の晩方の事です。あの兼(かね)の野郎が仕事を早仕舞(はやじま)いにして帰って来て『工合はどうだ』と訊(き)きました」
「……ふうん……そんなら兼と貴様は、モトから仲が悪かったという訳じゃないな」
「……ヘエ……そうなんで……ところで旦那……これはもう破れカブレでぶちまけますが、大体あの兼の野郎と私との間には六百ケンで十両ばかりのイキサツがありますので……尤(もっと)も私が彼奴(あいつ)に十両貸したのか……向うから私が十両借りたのか……そこんところが、あんまり古い話なので忘れてしまいまして……チッポケナ金ですから、どうでも構わんと思っていても、兼の顔さえ見ると、奇妙にその事が気にかかってしようがなくなりますので……けんどそのうちに兼が何とか云って来たらどっちが借りたか、わかるだろうと思って黙っていたんですが……そんで……私は見舞いを云いに来た兼の顔を見ると又、その事を思い出しました。そうして……どうも熱が出たようで苦しくて仕様がない。こんな事は生れて初めてだから、事に依ると俺は死ぬんかもしれない……と云いますと兼の野郎が……そんだら俺が医者を呼んで来てやろうと云って出て行きましたが、待っても待っても帰って来ません。私は兼の野郎が唾を引っかけて行きおったに違いないと思ってムカムカしておりましたが、そのうちに十二時の汽笛が鳴りますと、どこかで喰らって真赤になった兼が、雨にズブ濡(ぬ)れになって帰って来て私の枕元にドンと坐ると、大声でわめきました。何でも……事務所の医者(炭坑医)は二三日前から女郎買いに失せおって、事務所を開けてケツカル……今度出会ったら向う脛をぶち折ってくれる……というので……」
「……フム……不都合だなそれは……」
「……ネエ旦那……あいつらア矢っ張り洋服を着たケダモノなんで……」
「ウムウム。それから兼はどうした」
「それから山の向うの村の医者ン所へ行ったら、此奴(こいつ)も朝から鰻(うなぎ)取りに出かけて……」
「ナニ鰻取り……」
「ヘエ。そうなんで……この頃は毎日毎日鰻取りにかかり切りで、家(うち)には滅多にうせおらんそうで……よくきいてみるとその医者は、本職よりも鰻取りの方が名人なんで……」
「ブッ……馬鹿な……余計な事を喋舌(しゃべ)るな」
「ヘエ……でも兼の野郎がそう吐(ぬ)かしましたので……」
「フーム。ナルホド。それからどうした」
「それから兼は、その村の荒物屋を探し出して、風邪引きの妙薬はないかちうて聞きますと……この頃風邪引きが大バヤリで売り切れてしまったが、馬の熱さましで赤玉(あかだま)ちうのならある。馬の熱が取れる位なら人間の熱にも利くだろうが……とその荒物屋の親仁(おやじ)が云うので買って来た……しかし畜生は薬がよく利くから、分量が少くてよいという事を俺はきいている。だから人間は余計に服(の)まなければ利くまいと思って、その赤玉ちうのを二つ買って来た。これを一時(いちどき)に服んだら大抵利くだろう。金は要らぬから、とにかく服んで見イ……と云ううちに兼は白湯(さゆ)を汲んで来て、薬の袋と一緒に私の枕元へ並べました。私は兼の親切に涙がこぼれました。このアンバイでは俺が兼に十円借りていたに違いないと思い思い薬の袋を破ってみますと、赤玉だというのに青い黴(かび)が一パイに生えておりまして、さし渡しが一寸近くもありましたろうか……それを一ツ宛(ずつ)、白湯で丸呑みにしたんですがトテも骨が折れて、息が詰まりそうで、汗をビッショリかいてしまいました」
「……フーム。それで風邪は治ったか」
「ヘエ……今朝(けさ)になりますと、まだ些(すこ)しフラフラしますが、熱は取れたようですから、景気づけに一パイやっておりますところへ、昨日(きのう)、兼からの言伝(ことづて)をきいたと云って、鰻取りの医者が自転車でやって来ました。五十位の汚いオヤジでしたが、そいつを見ると私は無性に腹が立ちましたので……この泥掘り野郎……貴様みたいな藪医者に用は無い。憚(はばか)りながら俺の腹の中には、赤玉が二つ納まっているんだぞ……と怒鳴りつけてやりましたら、その医者は青くなって逃げ出すかと思いの外(ほか)……ジーッと私の顔を見て動こうとしません」
「フーム。それは又何故(なぜ)か」
「その爺(じじい)は暫く私の顔を見ておりましたが……それじゃあお前は、その二ツの赤玉を、いつ飲んだんか……と云ううちにブルブル震え出した様子なので、私も気味が悪くなりまして……ナニ赤玉には違いないが、青い黴の生えた奴を、昨夜(ゆんべ)十二時過に白湯で呑んだんだ。そのおかげで今朝はこの通り熱がとれたんだが、それがどうしたんか……とききますと医者の爺(じじい)はホッとしたようすで……それは運が強かった。青い黴が生えていたんで、薬の利き目が弱っていたに違いない。あの赤玉の一粒に使ってある熱さましは、人間に使う分量の何層倍にも当るのだから、もし本当に利いたら心臓がシビレて死んで終(しま)う筈だ……どっちにしても今酒を呑むのはケンノンだから止めろと云って、私の手を押えました」
「フーム。そんなもんかな」
「この話をきくと私は、すぐに納屋を出まして坑(まぶ)へ降りて、仕事をしている兼を探し出して、うしろから脳天を喰らわしてやりました。そうして旦那の処へ御厄介を願いに来ましたので……逃げも隠れも致しません。ヘエ……」
「フーム。しかしわからんナ。どうも……その兼をやっつけた理由が……」
「わかりませんか旦那……兼の野郎は私が病気しているのにつけ込んで、私を毒殺して、十両ゴマ化そうとしたに違いないのですぜ。あいつはもとから物識(ものし)りなのですからね。ネエ旦那そうでしょう、一ツ考えておくんなさい」
「ウップ……たったそれだけの理由か」
「それだけって旦那……これだけでも沢山じゃありませんか」
「……バ……馬鹿だナア貴様は……それじゃ貴様が、兼に十両貸したのは、間違いない事実だと云うんだナ」
「ヘエ。ソレに違いないと思うので……そればっかりではありません。兼の野郎が私を馬と間違えたと思うと矢鱈(やたら)に腹が立ちましたので……」
「アハハハハ……イヨイヨ馬鹿だナ貴様は……」
「ヘエ……でも私は恥を掻(か)かされると承知出来ない性分で……」
「ウーン。それはそうかも知れんが……しかし、それにしても貴様の云うことは、ちっとも訳が解らんじゃないか」
「何故ですか……旦那……」
「何故というて考えてみろ。兼のそぶりで金の貸し借りを判断するちう事からして間違っているし……」
「間違っておりません……あいつは……ワ……私を毒殺しようとしたんです……旦那の方が無理です」
「黙れッ……」
 と巡査部長は不意に眼を怒らして大喝した。坑夫の云い草が機嫌に触(さわ)ったらしく、真赤になって青筋を立てた。
「黙れ……不埒(ふらち)な奴だ。第一貴様はその証拠に、その薬で風邪が治っとるじゃないか」
「ヘエ……」
 と坑夫は毒気を抜かれたように口をポカンと開(あ)いた。そこいらを見まわしながら眼を白黒さしていたが、やがてグッタリとうなだれると床の上にペタリと坐り込んだ。涙をポトポト落してひれ伏した。
「……兼……済まない事をした……旦那……私を死刑にして下さい」

     古鍋

「金貸し後家(ごけ)」と言えば界隈で知らぬ者は無い……五十前後の筋骨逞ましい、二(ふ)タ目と見られぬ黒アバタで……腕っ節なら男よりも強い強慾者で……三味線が上手(じょうず)で声が美しいという……それが一人娘のお加代というのと、たった二人切りで、家倉(いえくら)の立ち並んだ大きな家に住んでいた。しかし娘のお加代というのは死んだ親爺(おやじ)似かして、母親とは正反対の優しい物ごしで、色が幽霊のように白くて、縫物が上手という評判であった。
 そのお加代のところへ、隣り村の畳屋の次男坊で、中学まで行った勇作というのが、この頃毎晩のように通って来るというので、兼ねてからお加代に思いをかけていた村の青年たちが非常に憤慨して、寄り寄り相談を初めた。そのあげく五月雨(さみだれ)の降る或る夕方のこと、手に手に棒千切(ぼうちぎり)を持った十四五人が「金貸し後家」の家(うち)のまわりを取り囲むと、強がりの青年が三人代表となって中に這入(はい)って、後家さんに直接談判を開始した。
「今夜この家に、隣り村の勇作が這入ったのを慥(たし)かに見届けた。尋常に引渡せばよし、あいまいな事を云うなら踏み込んで家探しをするぞ……」
 という風に……。
 奥から出て来た後家さんは、浴衣(ゆかた)を両方の肩へまくり上げて、黒光りする右の手でランプを……左手に団扇(うちわ)を持っていたが、上(あが)り框(かまち)に仁王立ちに突立ったまま、平気の平左で三人の青年を見下した。
「アイヨ……来ていることは間違いないよ……だけんど……それを引渡せばどうなるんだえ」
「半殺しにして仕舞うのだ。この村の娘には、ほかの村の奴の指一本指(さ)させないのが、昔からの仕来(しきた)りだ。お前さんも知っているだろう」
「アイヨ……知っているよ。それ位の事は……ホホホホホ。けれどそれはホントにお生憎(あいにく)だったネエ。そんな用なら黙ってお帰り!」
「ナニッ……何だと……」
「何でもないよ、勇作さんは私の娘の処へ通っているのじゃないよ」
「嘘を吐(つ)け。それでなくて何で毎晩この家(うち)に……」
「ヘヘヘヘヘ。妾(わたし)が用があるから呼びつけているのさ……」
「エッ……お前さんが……」
「そうだよ。ヘヘヘヘヘ。大事な用があってね……」
「……そ……その用事というのは……」
「それは云うに云われぬ用事だよ……けんど……いずれそのうちにはわかる事だよ……ヘッヘッヘッヘッ」
 青年たちは顔を見合わせた。白い歯を剥(む)き出してニタニタ笑っているアバタ面(づら)を見ているうちに、皆気味がわるくなったらしかったが、やがてその中の一人が勿体らしく、咳払いをした。
「……ようし……わかった……そんなら今夜は勘弁してやる。しかし約束を違えると承知しないぞ」
 という、変梃(へんてこ)な捨科白(すてぜりふ)を残しながら三人は、無理に肩を聳(そびやか)して出て行った。
 勇作はそれから後(のち)、公々然とこの家に入浸りになった。
 ところが、やがて五六ヶ月経って秋の収穫期(とりいれどき)になると、後家さんの下ッ腹が約束の通りにムクムクとセリ出して来たのでドエライ評判になった。どこの稲扱(いねこ)き場(ば)でもこの噂で持ち切った。しかもその評判が最高度(ぜっちょう)に達した頃に村役場へ「勇作を娘の婿養子にする」という正式の届出(とどけで)が後家さんの手で差し出されたので、その評判は一層、輪に輪をかけることになった。
「これはどうもこの村の風儀上面白くない」と小学校の校長さんが抗議を申込んだために、村長さんがその届を握り潰している……とか……村の青年が近いうちに暴れ込む手筈になっている……とか……町の警察でも内々で事実を調べにかかっている……とかいう穿(うが)った噂まで立ったが、そのせいか「金持ち後家」の一家三人は、裏表の戸をピッタリと閉め切って、醤油買いにも油買いにも出なくなった。いつもだと後家さんは、収穫後(とりいれご)の金取り立てで忙しいのであったが、今年はそんなもようがないので、借りのある連中は皆喜んだ。
 ところが又そのうちに、収穫(とりいれ)が一通り済んで、村中がお祭り気分になると、後家さんの家(うち)がいつまでも閉め込んだ切り、煙一つ立てない事にみんな気が付き初めた。初めのうちは「後家さんが、どこかへ子供を生みに行ったんだろう」なぞと暢気(のんき)なことを云っていたが、あんまり様子が変なので、とうとう駐在所の旦那がやって来て、区長さんと立ち合いの上で、裏口の南京錠をコジ離して這入ってみると、中には人ッ子一人居ない。そうして家具家財はチャンとしているようであるが、その中で唯一つ金庫の蓋が開(あ)いて、現金と通い帳が無くなっているようす……その前に男文字の手紙が一通、読みさしのまま放り出してあるのを取り上げて読んでみると、あらかたこんな意味の事が書いてあった。
「お母さん。あなたがあの時に、勇作さんを助けて下すった御恩は忘れません。けれども、それから後(のち)の、あなたの勇作さんに対する、恩着せがましい横暴な仕うちは、イクラ恨んでも恨み切れません。妾(わたし)はもう我慢出来なくなりましたから、勇作さんと一緒に、どこか遠い所へ行ってスウィートホームを作ります。私たちは当然私たちのものになっている財産の一部を持って行きます。さようなら。どうぞ幸福に暮して下さい。
    月   日
勇作妻加代   母上様
 それでは後家さんはどこへ行ったのだろうと、家中を探しまわると、物置の梁(はり)から、半腐りの縊死体(いしたい)となってブラ下っているのが発見された。その足下にはボロ切れに包んだ古鍋が投げ棄ててあった。

     模範兵士

 御維新後、煉瓦(れんが)焼きが流行(はや)った際に、村から半道ばかり上(かみ)の川添いの赤土山を、村の名主どんが半分ばかり切り取って売ってしまった。そのあとの雑木林の中から清水が湧くのを中心にして、いつからともなく乞食の部落が出来ているのを、村の者は単に川上川上と呼んでいた。
 部落といっても、見すぼらしい蒲鉾小舎(かまぼこごや)が、四ツ五ツ固まっているきりであったが、それでも郵便や為替(かわせ)も来るし、越中富山の薬売りも立ち寄る。それに又この頃は、日ごとに軍服厳(いか)めしい兵隊さんが帰省して来るというので、急に村の注意を惹き出した。何でも立派な身分の人の成(な)れの果(はて)が隠れているらしいという噂であった。
 その兵隊さんというのは、郵便局員の話によると西村さんというので、眼鼻立ちのパッチリした、活動役者のように優しい青年であるが、この部落の仲間では新米らしく、すこし離れた所に蒲鉾小舎を作って、その中に床に就いたままの女を一人匿(かく)まっている。その女の顔はよくわからないが年の頃は四十ばかりで、気味の悪いほど色の白い上品な顔で、西村さんがお土産(みやげ)をさし出すと、両手を合わせて泣きながら受け取っているのを見た……と……これは村の子守(こもり)たちの話であった。
 それから後(のち)西村さんの評判は、だんだん高くなるばかりであった。その女は西村さんの何であろうか……と噂が取り取りであったが、そのうちに、村でたった一軒だけ荒物屋に配達されている新聞に、西村さんの事が大きく写真入りで出た。
――西村二等卒は元来、東北の財産家の一人息子であったが、十三の年に父親が死ぬと間もなく一家が分散したので、母親に連れられて長崎の親類の処へ行くうちに、あわれや乞食にまで零落して終(しま)った。それから七年の間、方々を流浪していると、昨年の春から母親が癆症(ろうしょう)で、腰が抜けたので、とうとうこの川上の部落に落ちつく事になったが、丁度その時が適齢だったので、呼び出されて検査を受けると、美事に甲種で合格した。しかし西村二等卒は入営しても決して贅沢をしなかった。
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