あやかしの鼓
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:夢野久作 

 私は嬉しい。「あやかしの鼓(つづみ)」の由来を書いていい時機が来たから……
「あやかし」という名前はこの鼓の胴が世の常の桜や躑躅(つつじ)と異(ちが)って「綾(あや)になった木目を持つ赤樫(あかがし)」で出来ているところからもじったものらしい。同時にこの名称は能楽でいう「妖怪(アヤカシ)」という意味にも通(かよ)っている。
 この鼓はまったく鼓の中の妖怪である。皮も胴もかなり新らしいもののように見えて実は百年ばかり前に出来たものらしいが、これをしかけて打ってみると、ほかの鼓の、あのポンポンという明るい音とはまるで違った、陰気な、余韻の無い……ポ……ポ……ポ……という音を立てる。
 この音は今日(こんにち)迄の間に私が知っているだけで六、七人の生命を呪った。しかもその中の四人は大正の時代にいた人間であった。皆この鼓の音を聞いたために死を早めたのである。
 これは今の世の中では信ぜられぬことであろう。それ等の呪われた人々の中で、最近に問題になった三人の変死の模様を取り調べた人々が、その犯人を私――音丸久弥(おとまるきゅうや)と認めたのは無理もないことである。私はその最後の一人として生き残っているのだから……。
 私はお願いする。私が死んだ後(のち)にどなたでもよろしいからこの遺書を世間に発表していただきたい。当世の学問をした人は或(あるい)は笑われるかも知れぬが、しかし……。
 楽器というものの音が、どんなに深く人の心を捉えるものであるかということを、本当に理解しておられる人は私の言葉を信じて下さるであろう。
 そう思うと私は胸が一パイになる。

 今から百年ばかり前のこと京都に音丸久能(くのう)という人がいた。
 この人はもとさる尊とい身分の人の妾腹(しょうふく)の子だという事であるが、生れ付き鼓をいじることが好きで若いうちから皮屋へ行っていろいろな皮をあつらえ、また材木屋から様々の木を漁(あさ)って来て鼓を作るのを楽しみにしていた。そのために親からは疎(うと)んぜられ、世間からは蔑(さげ)すまれたが、本人はすこしも意としなかった。その後さる町家から妻を迎えてからは、とうとうこれを本職のようにして上(うえ)つ方(がた)に出入りをはじめ、自ら鼓の音に因(ちな)んだ音丸という苗字を名宣(なの)るようになった。
 久能の出入り先で今大路(いまおおじ)という堂上方(どうじょうがた)の家に綾姫(あやひめ)という小鼓に堪能な美人がいた。この姫君はよほどいたずらな性質(たち)で色々な男に関係したらしく、その時既に隠し子まであったというが、久能は妻子ある身でありながら、いつとなくこの姫君に思いを焦(こ)がすようになった揚句(あげく)、ある時鼓の事に因(よ)せて人知れず云い寄った。
 綾姫は久能にも色よい返事をしたのであった。しかしそれとてもほんの一時のなぐさみであったらしく、間もなく同じ堂上方で、これも小鼓の上手ときこえた鶴原卿(つるはらきょう)というのへ嫁(かた)づくこととなった。
 これを聞いた久能は何とも云わなかった。そうしてお輿入(こしい)れの時にお道具の中に数えて下さいといって自作の鼓を一個さし上げた。
 これが後(のち)の「あやかしの鼓」であった。
 鶴原家に不吉なことが起ったのもそれからのことであった。
 綾姫は鶴原家に嫁づいて後その鼓を取り出して打って見ると、尋常と違った音色が出たので皆驚いた。それは恐ろしく陰気な、けれども静かな美くしい音であった。
 綾姫はその後何と思ったか、一室(ひとま)に閉じこもってこの鼓を夜となく昼となく打っていた。そうして或る朝何の故ともなく自害をして世を早めた。するとそれを苦に病んだものかどうかわからぬが、鶴原卿もその後病気勝ちになって、或る年関東へお使者に行った帰り途(みち)に浜松とかまで来ると血を吐いて落命した。今でいう結核か何かであったろう。その跡目は卿の弟が継いだそうである。
 しかしその鼓を作った久能も無事では済まなかった。久能はあとでこの鼓をさし上げたことを心から苦にして、或る時鶴原卿の邸内へ忍び入ってこの鼓を取り返そうとすると、生憎(あいにく)その頃召し抱えられた左近という若侍に見付けられて肩先を斬られた。そのまま久能は鼓を取り得ずに逃げ帰って間もなく息を引き取ったが、その末期(いまわ)にこんなことを云った。
「私は私があの方に見すてられて空虚(うつろ)となった心持ちをあの鼓の音(ね)にあらわしたのだ。だから生き生きとした音を出させようとして作った普通(なみ)の鼓とは音色が違う筈である。私はこれを私の思うた人に打たせて『生きながら死んでいる私』の心持ちを思い遣ってもらおうと思ったのだ。ちっとも怨(うら)んだ心持ちはなかった。その証拠にはあの鼓の胴を見よ。あれは宝の木といわれた綾模様の木目を持つ赤樫の古材で、日本中に私の鑿(のみ)しか受け付けない木だ。その上に外側の蒔絵(まきえ)まで宝づくしにしておいた。あれはお公卿(くげ)様というものが貧乏なものだから、せめてあの方の嫁(ゆ)かれた家(うち)だけでも、お勝手許(かってもと)の御都合がよいようにと祈る心からであった。それがあんなことになろうとは夢にも思い設けなんだ。誰でもよい。私が死に際のお願いにあの鼓を取り返して下さらんか。そうして又と役に立たんように打ち潰して下さらんか。どうぞどうぞ頼みます」
 これが久能の遺言となったが、誰も鶴原家に鼓を取り返しに行く者なぞなかった。それどころでなく変死であったので、ごく秘密で久能の死骸を葬った。

 しかしこの遺言はいつとなく噂となって世間に広まり、果は鶴原家の耳にも入るようになった。鶴原家ではそれからその鼓をソックリ箱に蔵(おさ)めて、土蔵の奥に秘めて虫干しの時にも出さないようにした。それと一緒に誰云うとなく「あやかしの鼓」という名が附いて、その箱の蓋を開いただけでも怪しいことがある……その代りこの鼓を持ち伝えてさえおれば家(うち)の中に金が湧くと言い伝えられた。そのおかげかどうかわからぬが、その後の鶴原家には別に変ったこともなく却(かえ)ってだんだんと勝手向きもよくなって維新後は子爵を授けられたが、大正の初めになると京都を引き上げて東京の東中野に宏大な邸(やしき)を構えた。
 これと反対に綾姫の里方の今大路家はあまり仕合せがよくなかった。綾姫が鶴原家に嫁(かた)づいたたあとで、血統(ちすじ)が絶えそうになったが綾姫の隠し子があったのを探し出して表向きを都合よくして、やっと跡目を立てたような始末であった。しかしその後しだいに零落してしまって維新後はどうなったか、わからなくなっているという。
 こうして「あやかしの鼓」に関係のある二軒の家が一軒は栄え一軒は落ちぶれている一方に、音丸久能の子の久伯(きゅうはく)と、その子の久意(きゅうい)は久能のあとを継いで鼓いじりを商売にしてどうにか暮らしているにはいた。けれども二人とも久能の遺言を本気に受けて鶴原家からアヤカシの鼓を引き取ろうというようなことはしなかった。
 この久能の孫の久意が私の父であった。
 私の父は京都にいる時分から鼓の修繕(ていれ)や仲買い見たようなことをやっていた。けれども手職(てしょく)が出来たらしい割りにお客の取り付きがわるく、最初に生れた男の子の久禄(きゅうろく)というのは生涯音信不通で、六ツの年に他家(よそ)へ遣るという有り様であった。これを東京の九段におられる能小鼓の名人で高林弥九郎という人が見かねて東京に呼び寄せ、牛込の筑土(つくど)八幡の近くに小さな家(うち)を借りて住まわせて下すったので父はやっと息を吐(つ)いたという事である。
 しかし明治三十六年になって母が私を生み残して死ぬと、どうしたものか父は仕事を怠け初めて貸本ばかり読むようになった。それから大正三年の夏に脊髄病に罹(かか)って大正五年の秋まで足かけ三年の間私に介抱されたあげく肺炎で死んだ。その時が五十五であった。
 その死ぬすこし前のことであった。
 私が復習(おさらえ)を済ましてから九段の老先生から借りて来た「近世説美少年録」という本を読んできかせようとすると父は、
「ちょっと待て、今日はおれが面白い話をしてきかせる」
 と云いながらポツポツと話し出した。それが「アヤカシの鼓」の由来で私にとっては全く初耳の話であった。
 ……ところで……
 と父は白湯(さゆ)を一パイ飲んで話し続けた。
「……実はおれもこの話をあまり本気にしなかった。名高い職人にはよくそんな因縁ばなしがくっついているものだから……東京に来ても鶴原家がどこにあるやら気も付かず、また考えもしなかった。
 すると今から三年ばかり前の春のこと、朝早くおれが表を掃いていると二十歳(はたち)ばかりの若い美しいはいからさんが来て、この鼓の調子を出してくれと云いながら綺麗な皮と胴を出した。おれは何気なく受け取って見ると驚いた。胴の模様は宝づくしで材木は美事な赤樫だ。話にきいた『あやかしの鼓』に違いないのだ。そのはいからさんはその時こんなことを云った。
『私は中野の鶴原家のもので九段の高林先生の処でお稽古を願っているものだが、この鼓がうちにあったから出して打って見たんだけど、どうしても音(ね)が出ない。何でもよっぽどいい鼓だと云い伝えられているのだから、音が出ない筈はないと思うのだけど』
 と云うんだ。おれは試しに、
『ヘエ。その云い伝えとはどんなことで……』
 と引っかけて見たが奥さんはまだ鶴原家に来て間もないせいか、詳しいことは知らないらしかった。只、
『赤ん坊のような名前だったと思います』
 と云ったのでおれはいよいよそれに違いないと思った。おれはその鼓を一先ず預ることにして別嬪(べっぴん)さんをかえした。そのあとですぐに仕かけて打って見ると……おれは顫(ふる)え上った。これは只の鼓じゃない。祖父(じい)さんの久能の遺言は本当であった。鶴原家に祟(たた)るというのも嘘じゃないと思った。
 とはいうものの鶴原家がこの鼓を売るわけはないし、どんなに考えてもこっちのものにする工夫が附かなかったので、おれはそのあくる日中野の鶴原家に鼓を持って行って奥さんに会ってこんな嘘を吐(つ)いた。
『この鼓はどうもお役に立ちそうに思えませぬ。第一長い事打たずにお仕舞(しま)いおきになっておりましたので皮が駄目になっております。胴もお見かけはまことに結構に出来ておりますが、材が樫で御座いますからちょっと音(ね)が出かねます。多分これは昔の御縁組みの時のお飾り道具にお用い遊ばしたものと存じますが……その証拠には手擦(カンニュウ)があまり御座いませんので……お模様も宝づくしで御座いますから……』
 これは家業の一番六(むず)かしいところで、こっちの名を捨ててお向う様のおためを思わねばならぬ時のほか、滅多に吐(つ)いてはならぬ嘘なのだ。ところが若い奥さんはサモ満足そうにうなずいたよ。
『妾(わたし)もおおかた、そんな事だろうと思ったヨ。妾の手がわるいのかと思っていたけど、それを聞いて安心しました。じゃ大切(だいじ)にして仕舞っておきましょう』
 って云って笑ってね。十円札を一枚、無理に包んでくれたよ。それから間もなく俺は脊髄にかかって仕事が出来なくなったし、その奥さんも別に仕事を持って来なかった。
 けれども俺は何となく気になるから、その後九段へ伺うたんびに内弟子の連中から鶴原家の様子を聞き集めて見ると……どうだ……。
 鶴原の子爵様というのは元来、お家柄自慢の気の小さい人で、なかなかお嫁さんが定(き)まらないために三十まで独身(ひとりみ)でいた位だったそうだが、その前の年の暮にチョットした用事で大阪へ行くと、世間でいう魔がさしたとでもいうのだろう。どこで見初(みそ)めたものか今の奥さんに思い付かれて夢中になったらしく、とうとう子爵家へ引っぱり込んでしまった。するとその奥さんの素性(すじょう)がわからないというので、親類一統から義絶された揚げ句、京都におれなくなって、東京の中野に移転して来たものだった。
 ところでそれはまあいいとしてその奥さんは、名前をたしかツル子さんといったっけが……東京へ越して来て鼓のお稽古を初めると間もなく、子爵様の留守の間(ま)に、お附きの女中が青くなって止めるのもきかないで『あやかしの鼓』を出して打って見たものだ。それをあとから子爵様が聞いてヒドク叱ったそうだが、それを気に病んだものか子爵様は間もなく疳が昂ぶり出して座敷牢みたようなものの中へ入れられてしまった。それからツル子夫人は中野の邸を売り払って麻布(あざぶ)の笄町(こうがいちょう)に病室を兼ねた小さな家(うち)を建てて住んだものだが、そうして病人の介抱をしいしい若先生のところへお稽古に来ているうちに子爵様はとうとう糸のように痩せ細って、今年の春亡くなってしまった。
 そうすると鶴原の未亡人(ごけさん)は、そのあとへ、自分の甥(おい)とかに当る若い男を連れて来て跡目にしようとしたが、鶴原の親類はみんなこの仕打ちを憤(おこ)ってしまって、お上(かみ)に願って華族の名前を除くといって騒いでいる。おまけに若未亡(わかごけ)のツル子さんについても、よくない噂ばかり……ドッチにしても鶴原家のあとは断絶(たえ)たと同様になってしまった。
 おれは誰にも云わないが、これはあの『あやかしの鼓』のせいだと思う。そうして、それにつけておれはこの頃から決心をした。お前は俺の子だけあって鼓のいじり方がもうとっくにわかっている。今にきっと打てるようになると思う。
 けれども俺はお前に云っておく。お前はこれから後(のち)、忘れても鼓をいじってはいけないぞ。これは俺の御幣担(ごへいかつ)ぎじゃない。鼓をいじると自然いい道具が欲しくなる。そうしておしまいにはキットあの鼓に心を惹かされるようになるから云うんだ。あのアヤカシの鼓は鼓作りの奥儀をあらわしたものだからナ……。
 そうなったらお前は運の尽きだ。あの鼓の音をきいて妙な気もちにならないものはないのだから。狂人(きちがい)になるか変人になるかどっちかだ。
 お前は勉強をしてほかの商売人か役人かになって東京からずっと離れた処へ行け。鶴原家へ近寄らないようにしろ。
 おれはこのごろこの事ばかり気にしていた。いずれ老先生にもよくお願いしておくつもりだが、お前がその気にならなければ何にもならない。
 いいか……忘れるな……」

 私はお伽噺(とぎばなし)でも聞くような気になってこの話を聞いていた。しかし別段鼓打ちになろうなぞとは思わなかったから、温柔(おとな)しくうなずいてばかりいた。
 父は安心したらしかった。

 その年の秋に父が死んで九段の老先生の処へ引き取られると、間もなく私は丸々と肥って元気よく富士見町小学校へ通い続けた。「あやかしの鼓」の話なぞは思い出しもしなかった。
 老先生は小柄な、日に焼けた、眼の光りの黒いお爺さんであった。年はその時が六十一で還暦のお祝いがその春にある筈であったのが、思いがけなく養子の若先生が家出をされたのでその騒ぎのためにおやめになった。
 若先生は名を靖二郎といった。私は会ったことがないが老先生と反対にデップリと肥った気の優しい人で、鼓の音(ね)ジメのよかった事、東京や京阪で催しのある毎(ごと)に一流の芸者がわざわざ聞きに来た位であったという。家出された時が二十歳(はたち)であったが着のみ着のままで遺書(かきおき)なぞもなく、また前後に心当りになるような気配もなかったので探す方では途方に暮れた。一方に気の早い内弟子はもう後釜をねらって暗闘を初めているらしい事なぞをおしゃべりの女中からきいた。
「あなたが大方あと継ぎにおなりになるんでショ」なぞとその女中は云った。
 しかし老先生は私に鼓打ちになれなぞとは一口も云われなかった。只無暗(むやみ)に可愛がって下さるばかりであった。
 けれども家(うち)が家(うち)だけに鼓の音(ね)は朝から晩まで引っ切りなしにきこえた。そのポンポンポンポンという音をウンザリする程きかされているうちに私の耳は子供ながら肥えて来た。初めいい音だと思ったのがだんだんつまらなく思われるようになった。内弟子の中で一番上手だという者の鼓の音〆(ねじめ)はほかの誰のよりもまん丸くて、キレイで、品がよかったがそれでも私は只美しいとしか感じなかった。もうすこし気高い……神様のように静かな……または幽霊の声のように気味のわるい鼓の音はないものか知らん……などと空想した。
 私は老先生の鼓が聞きたくてたまらなくなった。
 しかし老先生が打たれる時は舞台か出稽古の時ばかりで、うちでは滅多に鼓を持たれなかった。一方に私も学校へ通っていたので、高林家へ来て暫くの間は一度も老先生の鼓をきくことが出来なかった。只一度正月のお稽古初めの時に吉例の何とかいうものを打たれたそうであるが、その時は生憎お客様のお使いをしていたために聞き損ねた。

 こうして一夜明けた十六の年の春、高等二年の卒業免状を持って九段に帰ると、私はすぐ裏二階の老先生の処へ持って行ってお眼にかけた。すると向うむきになって朱筆で何か書いておられた老先生はふり返ってニッコリしながら、
「ウム。よしよし」
 とおっしゃって茶托に干菓子を山盛りにして下さった。それをポツポツ喰べている私の顔を老先生はニコニコして見ておられたが、やがて床の間の横の袋戸から古ぼけた鼓を一梃出して打ち初められた。
 そのゝゝゝ(チチチ)○○○(ポポポ)という音をきいた時、私はその気高さに打たれて髪の毛がゾーッとした。何だか優しいお母さんに静かに云い聞かされているような気もちになって胸が一パイになった。
「どうだ鼓を習わないか」
 と老先生は真白な義歯(いれば)を見せて笑われた。
「ハイ、教えて下さい」
 と私はすぐに答えた。そうしてその日から安っぽい稽古鼓で『三ツ地(じ)』や『続け』の手を習った。
 けれども私の鼓の評判はよくなかった。第一調子が出ないし、間(ま)や呼吸なぞもなっていないといって内弟子からいつも叱られた。
「大飯を喰うから頭が半間(はんま)になるんだ。おさんどん見たいに頬(ほっ)ペタばかり赤くしやがって……」
 なぞと寄ってたかって笑い物にした。けれども私はちっとも苦にならなかった。――鼓打ちなんぞにならなくてもいい。老先生が死なれるまで介抱をして御恩報じをしたら、あとは坊主になって日本中を旅行してやろう――なぞと思っていたから、なおのこと大飯を喰って元気を養った。
 その年が過ぎて翌年の春のおしまいがけになると、若先生はいよいよ亡くなられたことにきまったので、極(ご)く内輪でお菓子とお茶ばかりの御法事が老先生のお室(へや)であった。その席上で老先生の親類らしい胡麻(ごま)塩のおやじが、
「早く御養子でもなすっては……」
 と云ったら並んでいる内弟子の三、四人が一時に私の方を見た。老先生は苦笑いをされた。
「サア、靖(やす)(若先生)のあとは、ちょっとありませんね。ドングリばかりで……」
 とみんなの顔を一渡り見られた。内弟子はみんな真赤になった。
 私はこの時急に若先生に会って見たくなった。――きっとどこかに生きておられるに違いない。そうして鼓を打っておられるような気がする。その音(ね)がききたいな――と夢のようなことを考えながら、老先生のうしろにある仏壇のお燈明の間に白く光っている若先生のお位牌を見ていると、不意に、
「その久弥さんはどうです」
 と胡麻塩おやじが又出しゃばって云ったので私は胸がドキンとした。
「イヤ。これはいわば『鼓の唖(おし)』でね……調子がちっとも出ないたちです。生涯鳴らないかも知れません。こんなのは昔から滅多にいないものですがね」と云いながら私の頭を撫でられた。私もとうとう真赤になった。
「その児(こ)はものになりましょうか」
 と内弟子の中の兄さん株が云った。吹き出したものもあった。
「物になった時は名人だよ」
 と老先生は落ち付いて云われた。みんなポカンとした顔になった。

 みんなが裏二階を降りると老先生は私に取っときの洋羮を出して下さった。そうして長い煙管(きせる)で刻煙草(きざみ)を吸いながらこんなことを云われた。
「お前はなぜ鼓の調子を出さないのだえ。いい音(ね)が出せるのに調子紙を貼ったり剥(は)がしたりして音色を消しているが、どうしてお前はあんなことをするのだえ」
 私はおめず臆せず答えた。
「僕の好きな鼓がないんです。どの鼓もみんな鳴り過ぎるんです」
「フーン」
 と老先生はすこし御機嫌がわるいらしく、白い煙を一服黒い天井の方へ吹き出された。
「じゃどんな音色が好きなんだ」
「どの鼓でもポンポンポンって『ン』の字をいうから嫌なんです。ポンポンの『ン』の字をいわない……ポ……ポ……ポ……という響のない……静かな音を出す鼓が欲しいんです」
「……フーム……おれの鼓はどうだえ」
「好きです僕は……。けれどもポオ……ポオ……ポオ……といいます。その『オ』の字も出ない方がいいと思うんです」
 老先生は又天井を向いてプーッと煙を吹きながら、目をショボショボと閉じたり明けたりされた。
「先生」と私はいくらか調子に乗って云った。
「鶴原様のところに名高い鼓があるそうですが、あれを借りてはいけないでしょうか」
「飛んでもない」
 と老先生は私の顔を見られた。私はこの時ほど厳重な老先生の顔を見たことがなかった。私はうなだれて黙り込んだ。
「あの鼓を出すとあの家(うち)に不吉なことがあるというじゃないか。たとい嘘にしろ他人の家に災難があるようなことを望むものじゃないぞ。いいか。気に入った鼓がなければ生涯舞台に出ないまでのことだ」
 私は生れて初めて老先生にこんなに叱られて真青になった。けれども心から恐れ入ってはいなかった。
「あやかしの鼓」が私のあこがれの的となったのはこの時からであった。

 それから間もなく老先生は私を高林家の後嗣(あとつぎ)にきめられて披露をされた。内弟子たちはみんな不承不承に私を若先生と云った。
 しかし私は落胆(がっかり)した。――とうとう本物の鼓打ちになるのか。一生涯下手糞(へたくそ)の御機嫌を取って暮らさなければならないのか。――と思うとソレだけでもウンザリした。――老先生の御恩に背いてはならぬぞ――と、いつも云って聞かせた父の言葉が恨(うら)めしかった。同時に若先生が家出をされた原因もわかったような気がして、若先生に対するなつかしさがたまらなく弥増(いやま)した。しかし若先生に会いたいという望みは「あやかしの鼓」を見たいという望みよりももっと果敢(はか)ない空想であった。
 私は相も変らず肥え太りながらポコリポコリという鼓を打った。
 こうして大正十一年――私が二十一歳の春が来た。その三月のなかばの或る日の午後、老先生は私を呼び付けて、
「これを鶴原家へ持ってゆけ」と四角い縮緬(ちりめん)の風呂敷包みを渡された。
 鶴原家ときくとすぐに例の鼓のことを思い出したので、私は思わず胸を躍らせて老先生の顔を見た。老先生もマジマジと私の顔を見ておられたが、
「誰にも知れないようにするんだよ。家(うち)は笄町の神道本局の筋向うだ。樅(もみ)の木に囲まれた表札も何もない家(うち)だ」と眼をしばたたかれた。
 私は鳥打に紺飛白(こんがすり)、小倉袴(こくらばかま)、コール天の足袋、黒の釣鐘マントに朴歯(ほおば)の足駄といういでたちでお菓子らしい包みを平らに抱えながら高林家のカブキ門を出た。
 麻布笄町の神道本局の桜が曇った空の下にチラリと白くなっていた。その向うに樅の木立ちにかこまれた陰気な平屋建てがある。セメントの高土塀にも檜(ひのき)作りの玄関にも表札らしいものが見えず、軒燈の丸い磨硝子(すりガラス)にも何とも書いてない。この家(うち)だと思いながら私は前の溝川に架かった一間ばかりの木橋を渡った。
 玄関の格子戸をあけると間もなく障子(しょうじ)がスーッと開(あ)いて、私より一つか二つ上位に見える痩せこけた紺飛白の書生さんが顔を出して三つ指をついた。髪毛(かみのけ)をテカテカと二つに分けて大きな黒眼鏡をかけている。
「鶴原様はこちらで……私は九段の高林のうちのものですが……老先生からこれを……」
 と菓子箱を風呂敷ごとさし出した。
 書生さんは受け取って私の顔をチラリと見たが、私の眼の前で風呂敷を解くと中味は杉折りを奉書(ほうしょ)に包んだもので黒の水引がかかっていて、その上に四角張った字で「妙音院高誉靖安居士……七回忌」と書いた一寸幅位の紙片(かみきれ)が置いてあった。
 私はオヤと思った。ちょっとも気が付かずに持って来たが、これは若先生の七回忌のお茶だ。若先生の御法事はごく内輪で済まされていて、素人弟子には全く知らせないことになっていたのに老先生は何でこんなことをなさるのであろう。鶴原未亡人が差し出てお香典でも呉れたのか知らんと思いながら見ていると、書生さんもその戒名を手に取って青白い顔をしながら何べんも読み返している。何だか様子が変なあんばいだ。
 そのうちに書生さんはニッと妙な笑い方をしながら私の顔を見て、
「どうも御苦労様です……ちょっとお上りになりませんか……今私一人ですが……」
 と云った。その声は非常に静かで女のような魅力があった。私はどうしようかと思った。上ってはいけないような気がする一方に、何だか上りたくてたまらぬような気がして立ったまま迷っていると書生さんは箱を抱えて立ち上りがけに躊躇しいしい又云った。
「……いいでしょう……それに……すこしお頼みしたいことも……ありますから」
 私は思い切って下駄を脱いだ。書生さんは私を玄関の横の、もと応接間だったらしい押し入れのない室(へや)へ連れ込んだ。見ると八畳の間一パイに新聞や小説や雑誌の類が柳行李(やなぎこうり)や何かと一緒に散らばっていて、真中の鉄瓶のかかった瀬戸物の大火鉢のまわりすこしばかりしか坐るところがない。書生さんはそこいらに散らばっている茶器を押し除(の)けて、奥から座布団を持って来て私にあてがうと、
「私は妻木(つまき)というものです。鶴原の甥です」
 と挨拶をした。
 さてはこの人がそうかと思いながら私は改めて頭を下げていると、妻木君はその物ごしのやさしいのにも似ず、私が見ている前で杉折りをグッと引き寄せるとポツンと水引を引き切った。オヤと思ううちに蓋をあけて中にある風月のモナカを一つ抓(つま)んで自分の口に入れてから私のほうにズイと押し進めた。
「いかがです」
 私は少々度胆を抜かれた。しかしそのうちに妻木君の唇の両端が豆腐のように白く爛(ただ)れているのに気が付くと、やっとわかった。妻木君は甘い物中毒で始終こんなことをやっているのだ。そのために胃をメチャメチャに壊しているのだ。そうして、かかり合いにするつもりで私を呼び上げたものらしい。用事とはこの事かと思うと私は急にこの青年と心安くなったような気がしてすすめられるままに手を出した。
 ところが妻木君の喰い方の荒っぽいのには又流石(さすが)の私も舌を捲かれた。初めに四つ五つ私を追い越して喰っているばかりでなく、私が三つ喰ううちに四つか五つの割りで頬張って飲み込むので、見る見るうちに箱の半分以上が空っぽになってしまった。
 私はとうとう兜(かぶと)を抜いで茶を一パイ飲んだ。すると妻木君はあと二つばかり口に入れてから、うしろの書物の間から古新聞を出して、その中に残ったモナカの二十ばかりをザラザラとあけてグルグルと包んで書物のうしろに深く隠した。それから杉折りを取り上げるとペキンペキンと押し割って薪(まき)のように一束にして、戒名と一緒に奉書の紙に包んだ上から黒水引きでグルグル巻きに縛った。
「どうも済みませんが……」と妻木君はそれを私の前に差し出した。
「これをお帰りの時にどこかへ棄ててくれませんか」
 それを私が微笑しながら受け取ると、妻木君の顔が小児(こども)のように輝やいた。そうして前よりも一層丁寧に云った。
「それからですね。ほんとに済みませんけどもこの事はお宅の先生へも秘密にしてくれませんか」
 私は思わず吹き出すところであった。
「ええええ大丈夫です。僕からもお願いしたい位です」
「有り難う御座います。御恩は死んでも忘れません」
 と云いつつ妻木君は不意に両手をついて頭を畳にすりつけた。
 その様子があまり馬鹿丁寧で大袈裟なので私は又変な気もちになった。鶴原子爵は狂気(きちがい)で死んだというがこの青年も何だか様子が変である。ことによるとやっぱり「あやかしの鼓」に呪われているのじゃないかと思った。
 しかしそう思うと同時に又「あやかしの鼓」が見たくてたまらなくなって来た。しかもそれを見るのには今が一番いい機会じゃないかというような気がしはじめた。
「この人に頼んだらことに依ると『あやかしの鼓』を見せてくれるかも知れない。今がちょうどいいキッカケだ。そうして今よりほかにその時機がないのだ。この家(うち)に又来ることがあるかないかはわからないのだから」
 と考えたが一方に何だか恐ろしく気が咎(とが)めるようにもあるので、心の中で躊躇しいしい妻木君の顔を見ていると、妻木君も黒い眼鏡越しに私の顔をジッと見ている。そうして何の意味もないらしい微笑をフッと唇のふちに浮かべた。私はその笑顔に釣り込まれたようにポツンと口を利いた。
「『あやかしの鼓』というのがこちらにおありになるそうですが……」
 妻木君の笑顔がフッと消えた。私は勇を鼓して又云った。
「すみませんが内密で僕にその鼓を見せて頂けないでしょうか」
「……………」
 妻木君は返事をしないで又も私の顔をシゲシゲと見ていたが、やがて今までよりも一層静かな声で云った。
「およしなさい。つまらないですよあの鼓は……変な云い伝えがあるのでね、鼓の好きな人の中には見たがっている人もあるようですがね……」
「ヘエ」と私は半ば失望しながら云った。こんな書生っぽに何がわかるものかと思いながら……すると妻木君は私をなだめるように、いくらか勿体ぶって云った。
「あんな伝説なんかみんな迷信ですよ。あの鼓の初めの持ち主の名が綾姫といったもんですから謡曲の『綾の鼓』だの能仮面の『あやかしの面』などと一緒にして捏(でっ)ち上げた碌(ろく)でもない伝説なんです。根も葉もないことです」
「そうじゃないように聞いているんですが」
「そうなんです。あの鼓は昔身分のある者のお嫁入りの時に使ったお飾りの道具でね。音(ね)が出ないものですから皆怪しんでいろんなことを……」
 私はここまで聞くと落ち付いて微笑しながら妻木君の言葉を押し止めた。
「ちょっと……そのお話は知っています。それはこちらの奥さんが或る鼓の職人から欺(だま)されていらっしゃるのです。その職人はこの家(うち)のおためを思ってそう云ったのです。本当はとてもいい鼓……」
 と云いも終らぬうちに妻木君の表情が突然物凄いほどかわったのに驚いた。眉が波打ってピリピリと逆立った。口が力なくダラリと開くとまだモナカの潰(つぶ)し餡(あん)のくっ付いている荒れた舌がダラリと見えた。
 私は水を浴びたようにゾッとした。これはいけない。この青年はやっぱり気が変なのだ。それも多分あやかしの鼓に関係した事かららしい。飛んでもないことを云い出した……と思いながらその顔を見詰めていた。
 けれどもそれはほんの一寸(ちょっと)の間(ま)のことであった。妻木君の表情は見る見るもとの通りに冷たく白く落付くと同時に、ふるえた長い溜め息がその鼻から洩れた。それから眼と唇を閉じて腕を拱(く)んでジッと何か考えていたが、やがて眼を開くと同時にハッキリした口調で云った。
「承知しました。お眼にかけましょう」
「エッ見せて下さいますか」と私は思わず釣り込まれて居住居(いずまい)を直した。
「けれども今日は駄目ですよ」
「いつでも結構です」
「その前にお尋ねしたいことがあります」
「ハイ……何でも」
「あなたはもしや音丸という御苗字ではありませんか」
 私はこの時どんな表情(かおつき)をしたか知らない。唯妻木君の顔を穴のあく程見詰めてやっとのことうなずいた。そうして切れ切れに尋ねた。
「……どうして……それを……」
 妻木君は深くうなずいた。悄然(しょうぜん)としていった。
「しかたがありません。私は本当のことを云います。あなたのお家(うち)の若先生から聞きました。私は若先生にお稽古を願ったものですが……」
 私はグッと唾を飲み込んだ。妻木君の言葉の続きを待ちかねた。
「……若先生は伯母(おば)からあの鼓のことを聞かれたのです。あの鼓はほんのお飾りでホントの調子は出ないものだと或る職人が云ったが、本当でしょうかってね。そうすると若先生は……サア……それを打って見なければわからぬが、とにかく見ましょうということになってね……七年前のしかもきょうなんです……この家(うち)へ来られてその鼓を打たれたんです。それからこの家(うち)を出られたのですがそのまんま九段へも帰られないのだそうです」
「若先生は生きておられるのですか」
 と私は畳みかけて問うた。妻木君は黙ってうなずいた。それから静かに云った。
「……この鼓に呪われて……生きた死骸とおんなじになって……しかしそれを深く恥じながら……自分を知っているものに会わないようにどこにか……姿をかくしておられます」
「あなたはどうしてそれがおわかりになりますか」
「……私は若先生にお眼にかかりました……私にこの事だけ云って行かれたのです。そうして……私の後継ぎにはやはり音丸という子供が来ると……」
 私は思わずカッと耳まで赤くなった。若先生にまで見込まれていたのかと思うと空恐ろしくなったので……。
 それと一緒に眼の前に居る妻木という書生さんがまるで違ったえらい人に思われて来た。若先生がそんなことまで打ち明けられる人ならば、よほど芸の出来た人に違いないからである。私はすぐにも頭を下げたい位に思いながら恭(うやうや)しく聞いた。
「それからあなたは……どうなさいましたか」
 妻木君も私と一緒に心持ち赤くなっていたようであったが、それでも前より勢い込んで話し出した。
「私はこの事をきくと腹が立ちました。高(たか)の知れた鼓一梃が人の一生を葬るような音(ね)を立てるなんて怪(け)しからぬ。鼓というものはその人の気持ちによって、いろんな音色を出すもので、鼓の音が人の心を自由にするもんじゃない。どうかしてその鼓を打って見たい。そうしてそのような人を呪うような音色でなく当り前の愉快な調子を打ち出して、若先生の讐(かたき)を取りたいものだと思っている矢先へ伯母が私を呼び寄せたのです。私は得たり賢しで勉強をやめて此家(ここ)に来ました」
「……で……その鼓をお打ちになりましたか」
 と私は胸を躍らしてきいた。しかし妻木君は妙な冷やかな顔をしてニヤニヤ笑った切り返事をしない。私は自烈度(じれった)くなって又問うた。
「その鼓はどんな恰好でしたか」
 妻木君はやはり妙な顔をしていたが、やがて力なく投げ出すように云った。
「僕はまだその鼓を見ないのです」
「エッ……まだ」と私は呆気(あっけ)にとられて云った。
「エエ。伯母が僕に隠してどうしても見せないんです」
「それは何故ですか」と私は失望と憤慨とを一緒にして問うた。妻木君は気の毒そうに説明をした。
「伯母は若先生が打たれた『あやかしの鼓』の音をきいてから、自分でもその音が出したくなったのです。そうして音が出るようになったら、それを持ち出して高林家の婦人弟子仲間に見せびらかしてやろうと思っているのです。ですからそれ以来高林へ行かないのです」
「じゃ何故あなたに隠されるのですか」
 と私は矢継早(やつぎばや)に問うた。その熱心な口調にいくらか受け太刀(だち)の気味になった妻木君は苦笑しいしい云った。
「おおかた僕がその鼓を盗みに来たように思っているのでしょう」
「じゃどこに隠してあるかおわかりになりませんか」
 と私の質問はいよいよぶしつけになったので、妻木君の返事は益々受け太刀の気味になった。
「……伯母は毎日出かけますのでその留守中によく探して見ますけれども、どうしても見当らないのです」
「外へ出るたんびに持って出られるのじゃないですか」
「いいえ絶対に……」
「じゃ伯母さんは……奥さんはいつその鼓を打たれるのですか」
 この質問は妻木君をギックリさせたらしく心持ち羞恥(はにか)んだ表情をしたが、やがて口籠(くちごも)りながら弁解をするように云った。
「私は毎晩不眠症にかかっていますので睡眠薬を服(の)んで寝るのです。その睡眠薬は伯母が調合をして飲ませますので私が睡ったのを見届けてから伯母は寝るのです。その時に打つらしいのです」
「ヘエ……途中で眼のさめるようなことはおありになりませんか」
「ええ。ありません……伯母はだんだん薬を増すのですから……けれどもいつかは利かなくなるだろうと、それを楽しみに待っているのです。もう今年で七年になります」
 と云うと妻木君は悄然(しょんぼり)とうなだれた。
「七年……」と口の中で繰り返して私は額に手を当てた、この家中に充ち満ちている不思議さ……怪しさ……気味わるさ……が一時に私に襲いかかって頭の中で風車(かざぐるま)のように回転し初めたからである。この家中のすべてが「あやかしの鼓」に呪われているばかりでなく、私もどうやら呪われかけているような……。
 しかし又この青年の根気の強さも人並ではない。そんな眼に会いながら七年も辛抱するとは何という恐ろしい執念であろう。しかもそうした青年をこれ程までにいじめつけて鼓を吾が物にしようとする鶴原夫人の残忍さ……それを通じてわかる「あやかしの鼓」の魅力……この世の事でないと思うと私は頸すじが粟立つのを感じた。
 私は殆んど最後の勇気を出してきいた。
「じゃ全くわからないのですね」
「わかりません。わかれば持って逃げます」
 と妻木君は冷やかに笑った。私は私の愚問を恥じて又赤面した。
「こっちへお出(いで)なさい。家(うち)の中をお眼にかけましょう。そうすれば伯母がどんな性格の女だかおわかりになりましょう。ことによると違った人の眼で見たら鼓の隠してあるところがわかるかも知れません」
 と云ううちに妻木君は立ち上った。私は鼓のことを殆んど諦めながらも、云い知れぬ好奇心に満たされて室(へや)を出た。

 応接間を出ると左は玄関と、以前人力車を入れたらしいタタキの間(ま)がある。妻木君は右へ曲って私を台所へ連れ込んだ。
 それは電気と瓦斯(ガス)を引いた新式の台所で、手入れの届いた板の間がピカピカ光っている。そこの袋戸棚から竈(かまど)の下とその向う側、洗面所の上下の袋戸、物置の炭俵や漬物桶の間、湯殿と台所との間の壁の厚さ、女中部屋の空っぽの押入れ、天井裏にかけた提灯(ちょうちん)箱なぞいうものを、妻木君は如何にも慣れた手付きで調べて見せたが何一つ怪しいところはなかった。
「女中はいないんですか」と私は問うた。
「ええ……みんな逃げて行きます。伯母が八釜(やかま)しいので……」
「じゃお台所は伯母さんがなさるのですね」
「いいえ。僕です」
「ヘエ。あなたが……」
「僕は鼓よりも料理の方が名人なのですよ。拭き掃除も一切自分でやります。この通りです」
 と妻木君は両手を広げて見せた。成る程今まで気が附かなかったがかなり荒れている。
 ボンヤリとその手を見ている私を引っ立てて妻木君は台所を出た。右手の日本風のお庭に向かって一面に硝子障子(ガラスしょうじ)がはまった廊下へ出て、左側の取っ付きの西洋間の白い扉(ドア)を開くと妻木君は先に立って這入った。私も続いて這入った。
 初めはあまり立派なものばかりなので何の室(へや)だかわからなかったが、やがてそれが広い化粧部屋だということがわかった。うっかりすると辷(すべ)り倒れそうなゴム引きの床の半分は美事な絨毯(じゅうたん)が敷いてある。深緑のカアテンをかけた窓のほかは白い壁にも扉(ドア)の内側にも一面に鏡が仕掛けてあって、室中(へや)のものが涯(は)てしもなく向うまで並び続いているように見える――西洋式の白い浴槽(ゆぶね)、黒い木に黄金色(きん)の金具を打ちつけた美事な化粧台、着物かけ、タオルかけ、歯医者の手術室にあるような硝子(ガラス)戸棚、その中に並んだ様々な化粧道具や薬品らしいもの、室(へや)の隅の電気ストーブ、向うの窓際の大きな長椅子、天井から下った切り子細工の電燈の笠――。
 妻木君はその中に這入って先ず化粧台の下からあらため初めた。しかし私はその時鼓を探すということよりもかなり年増になっている筈の鶴原未亡人が、こんな女優のいそうな室でお化粧をしている気持ちを考えながら眼を丸くしていた。
「この室も不思議なことはないんです」
 と妻木君は私の顔を見い見い微笑して扉(ドア)を閉じた。そうして次に今一つある西洋間の青い扉(ドア)の前を素通りにして一番向うの廊下の端にある日本間の障子に手をかけた。
「この室は……」と私は立ち止まって青い扉(ドア)を指した。
「その室は問題じゃないんです。一面にタタキになって真中に鉄の寝台が一つあるきりです。問題じゃありません」
 と妻木君は何だかイマイマしいような口つきで云った。
「ヘエ……」
 と云いながら私はわれ知らず鍵穴に眼を近づけて内部(なか)をのぞいた。
 青黒く地並になった漆喰(しっくい)の床と白い古びた土壁が向うに見える。あかり窓はずっと左の方に小さいのがあるらしく、その陰気で淋しいことまるで貧乏病院の手術室である。隣の化粧室と比べるととても同じ家の中に並んで在る室とは思えない。
「その室に僕は毎晩寝るのです。監獄みたいでしょう」
 妻木君は冷笑(あざわら)っているらしかったが、その時は私の眼に妙なものが見えた。それは正面の壁にかかっている一本の短かい革製の鞭で、初め私は壁の汚染(しみ)かと思っていたものだった。
「その室で伯父(おじ)は死んだのです。」
 という声がうしろから聞こえると同時に私はゾッとして鍵穴から眼を退(の)けた。同時に妻木君の顔一面に浮んだ青白い笑いを見ると身体(からだ)がシャンと固(こわ)ばるように感じた。むろん今の鞭の事なぞ尋ねる勇気はなかった。
「こっちへお這入りなさい。この室で伯母は鼓を打つらしいのです」
 私はほっと溜め息をして奥の座敷に這入った――この家(うち)にはこれ切りしか室がないのだ――と思いながら……。

 奥の一室(ひとま)の新しい畳を踏むと、私は今まで張り詰めていた気分が見る見る弛(ゆる)んで来るように思った。
 青々とした八畳敷の向うに月見窓がある。外には梅でも植えてありそうに見える。
 その下に脚の細い黒塗りの机があって、草色の座布団と華奢(きゃしゃ)な桐の角火鉢とが行儀よく並んでいる。その左の桐の箪笥(たんす)の上には大小の本箱が二つと、大きな硝子(ガラス)箱入りのお河童(かっぱ)さんの人形が美しい振り袖を着て立っている。
 右手には机に近く茶器を並べた水屋(みずや)と水棚があって、壁から出ている水道の口の下に菜種(なたね)と蓮華草(れんげそう)の束が白糸で結(ゆ)わえて置いてある。その右手は四尺の床の間と四尺の違い棚になっているが床の間には唐美人の絵をかけて前に水晶の香炉を置き、違い棚には画帖らしいものが一冊と鼓の箱が四ツ行儀よく並べてある。その上下の袋戸と左側の二間一面の押し入れに立てられた新しい芭蕉布の襖(ふすま)や、つつましやかな恰好の銀色の引き手や、天井の真中から下っている黒枠に黄絹張りの電燈の笠まで何一つとして上品でないものはない。
 私は思わず今一度溜め息をさせられた。
「これが伯母の居間です」
 といううちに妻木君は左側の押し入れの襖を無造作にあけて、青白い二本の手を突込んで中のものを放り出し初めた……縮緬(ちりめん)の夜具、緞子(どんす)の座布団、麻のシーツ、派手なお召の掻(か)い巻(ま)き、美事な朱総(しゅぶさ)のついた括(くく)り枕(まくら)と塗り枕、墨絵を描いた白地の蚊帳(かや)……。
「ええ……もう結構です……」
 と私は妙に気が退(ひ)けて押し止めた。しかし妻木君はきかなかった。放り出した夜具類を、もとの通りに片付けると今度は隣り側の襖を開いて内部一面に切り組んである衣装棚を引き出し初めた。
「イヤ。わかりました。わかりました。あなたがお調べになったのなら間違いありません」
「そうですか……それじゃ箪笥を……」
「もう……もう本当に結構です」
「じゃ御参考に鼓だけお眼にかけておきましょう」
 と云ううちに右手の違い棚から一つ宛(ずつ)四ツの鼓箱を取り下した。私はそれを受け取って室(へや)の真中に置いた。
 箱から取り出された四ツの仕掛け鼓が私の前に並んだ時私は何となく胸が躍った。この中に「あやかしの鼓」が隠れていそうな気がしたからである。
 この道にすこしでも這入った人は皆知っている通り、鼓の胴と皮とは人間でいえば夫婦のようなもので、元来別々に出来ていて皮には皮の性(しょう)があり胴には胴の性がある。その二つの性が合って始めて一つの音色が出るので、仮令(たとい)どんな名器同志の皮と胴でも、性が合わなければなかなか鳴らない。調子皮を貼って性を合わせたにしても、今までとは全く違った音色が出るので、今ここに四ツの皮と胴とがあるとすれば、鳴る鳴らぬに拘(かか)わらず総計で十六通りの音色が出るわけである。鶴原未亡人はそれを知っていて、ふだん胴と皮とをかけ換えているのではないか……。
 しかしこの考えが浅墓(あさはか)であることは間もなくわかった。妻木君は私と向い合って坐るとすぐに云った。
「私はこの四つの胴と皮とをいろいろにかけ換えてみました。けれどもどれもうまく合いませんでやっぱりもとの通りが一番いい事になります」
「つまりこの通りなんですね」
「そうです」
「みんなよく鳴りますか」
「ええ。みんな伯母が自慢のものです。胴の模様もこの通り春の桜、夏の波、秋の紅葉(もみじ)、冬の雪となっていて、その時候に打つと特別によく鳴るのです。打って御覧なさい」
「伯母さまがお帰りになりはしませんか」
「大丈夫です。今三時ですから。帰るのはいつも五時か六時頃です」
「じゃ御免下さい」と一礼して羽織を脱いだ。妻木君も居住居(いずまい)を直した。
 私は手近の松に雪の模様の鼓から順々に打って行ったが、九段にいる時と違って一パイに出す調子を妻木君は身じろぎもせずに聞いてくれた。
「結構なものばかりですね」
 と御挨拶なしに賞めつつ私は秋の鼓、夏の鼓と打って来て、最後に桜の模様の鼓を取り上げたが、その時何となく胸がドキンとした。ほかの鼓の胴は皆塗りが古いのに、この胴だけは新らしかった。大方この鼓だけ蒔絵(まきえ)の模様が時候と合わないために、春の模様に塗りかえさしたものであろうが、その前の模様はもしや「宝づくし」ではなかったろうか。
 私はまだ打たぬうちに妻木君に問うた。
「この鼓はいつ頃お求めになったのでしょうか」
「サア。よく知りませんが」
「ちょっと胴を拝見してもいいでしょうか」
「エエ。どうぞ」と妻木君は変にカスレた声で云った。
 私は黄色くなりかけている古ぼけた調緒(しらべ)をゆるめて胴を外(はず)して、乳袋(ちぶくろ)の内側を一眼見るとハッと息を詰めた。
 久能張(くのうば)りのサミダレになった鉋目(かんなめ)がまだ新しく見える胴の内側には、蛇の鱗ソックリに綾取った赤樫の木目が目を刺すようにイライラと顕(あら)われていたからである。私の両手は本物の蛇を掴んだあとのようにわななき出して思わず胴を取り落した。胴はコロコロと私の膝の上から転がり落ちて、横に坐っている妻木君の膝にコツンとぶつかった。
「アッハッハッハッハッ」
 と不意に妻木君が笑い出した。たまらなくコミ上げて来る笑いと一緒に、身体(からだ)をよじって腹を押えて、しまいには畳の上にたおれてノタ打ちまわりながら、ヒステリー患者のように笑いつづけた。
「アッハッハッハッハハハハハ、とうとう一パイ喰いましたね……ヒッヒッホッホッホホハハハハハ。ヒッヒッヒッヒッ……」
 私は歯の根も合わぬ位ふるえ出した。恐ろしいのか気味悪いのか、それとも腹立たしいのかわからぬまま、妻木君の黒い眼鏡を見つめて戦(おのの)いていたが、やがてその笑いが静まって来ると私の心持ちもそれにつれて不思議に落ち付いて来た。あとには只頭の毛がザワザワするのを感ずるばかりになった。
 妻木君は涙を拭い拭い笑い止んだ。
「ああ可笑(おか)しい。ああ面白かった。アハ……アハ……。御免なさい音丸君……じゃない高林君。僕は君を欺(だま)したんです。本当にこの鼓の伝説を知っておられるかどうか試して見たんです。さっきから僕が家(うち)の中を案内なんかしたりしたものだから、君は本当に僕がこの鼓を知らないものと思ったのです。ここに鼓があろうとは思わなかったんです……アハ……アハ……眠り薬の話なんかみんな嘘ですよ。僕は毎日伯母と二人でこの鼓を打っているのですよ……」
 私は開いた口が閉(ふさ)がらなかった。茫然と妻木君の顔を見ていた。
「君は失敬ですけれど正直な立派な方です。そうして本当にこの鼓の事を知って来られたんです……」
「それがどうしたんですか」
 と私は急に腹が立ったように感じて云った。こんなに真剣になっているのに笑うなんてあんまりだと思って……。すると妻木君は眼鏡の下から涙を拭き拭き坐り直したが、今度は全く真面目になってあやまった。
「失敬失敬。憤(おこ)らないでくれ給えね。僕は君を馬鹿にしたんじゃないんです。出来るならこの鼓を絶対に見つからないことにして諦らめてもらって、君をこの鼓の呪いから遠ざけようとしたのです。ですから疑わぬ先にと思ってこの鼓をお眼にかけたのです。けれども見事に失敗しました。この胴の木目のことまで御存じとすれば君は、君のお父さんから本当に遺言をきいて来られたに違いありません。君はこの鼓を手に入れて打ち壊してしまいたいと思っているのでしょう」
 青天の霹靂(へきれき)……私は全身の血が頭にのぼった。……と思う間もなく冷汗がタラタラと腋(わき)の下を流れると、手足の力が抜けてガックリとうなだれつつ畳の上に手を支(つか)えた。
「今まで隠していたが……」と妻木君は黒い眼鏡を外しながら怪しくかすれた声で云った「僕は七年前に高林家を出た靖二郎……ですよ」
「アッ。若先生……」
「……………」
 二人の手はいつの間にかシッカリと握り合っていた。年の割に老(ふ)けた若先生の近眼らしい眼から涙がポロリと落ちた。
「会いとう御座いました……」
 と私はその膝に泣き伏した。それと一緒に誰一人肉親のものを持たぬ私の淋しさがヒシヒシと身に迫って来て、いうにいわれぬ悲しさがあとからあとからこみ上げて来た。
 若先生も私の背中に両手を置きながら暫く泣いておられるようであったが、やがて切れ切れに云われた。
「よく来た……と云いたいが……僕は……君が……高林家に引き取られたときいた時から……心配していた。もしや……ここへ来はしまいかと……」
 私は父の遺言を思い出した。――鼓をいじるとだんだんいい道具が欲しくなる。そうしておしまいにはきっと「あやかしの鼓」に引きつけられるようになる――といった運命の力強さをマザマザと思い知ることが出来た。けれどもそれと同時に若先生と私の膝の前に転がっている「あやかしの鼓」の胴が何でもない木の片(はし)のように思われて来たのは、あとから考えても実に不思議であった。
 そのうちに若先生は私をソッと膝から離して改めて私の顔を見られた。
「何もかもすっかりわかったでしょう」
「わかりました。……只一つ……」と私は涙を拭いて云った。
「若先生は……あなたはなぜこの鼓を持って高林家へお帰りにならないのですか」
 若先生の眉の間に何ともいえぬ痛々しい色が漂った。
「わかりませんか君は……」
「わかりません」と私は真面目にかしこまった。若先生は細いため息を一つされた。
「それではこの次に君が来られる時自然にわかるようにして上げよう。そうしてこの鼓も正当に君のものになるようにして上げよう」
「エ……僕のものに……」
「ああ。その時に君の手でこの鼓を二度と役に立たないように壊してくれ給え。君の御先祖の遺言通りに……」
「僕の手で……」
「そうだ。僕は精神上肉体上の敗残者なのだ。この鼓の呪いにかかって……痩せ衰えて……壊す力もなくなったのだ」
 と云いつつすこし暗くなった外をかえり見て独言(ひとりごと)のように云われた。
「もう来るかも知れぬ、鶴原の後家さんが……」

 私はうな垂れて鶴原家の門を出た。
 この日のように頭の中を掻きまわされたことは今までになかった。こんな家(うち)が世の中にあろうとは私は夢にも思い付かなかった。何もかも夢の中の出来事のように変梃(へんてこ)なことばかりでありながらその一つ一つが夢以上に気味わるく、恐ろしく、嬉しく、悲しかった。
 恩義を棄て、名を棄て、自分の法事のお菓子を喰べられる若先生――それを甥(おい)だと偽って吾が家に封じこめて女中同様にコキ使っているらしい鶴原子爵未亡人……そうしてあの美しい化粧室、あの薄気味のわるい病室、皮革(かわ)の鞭、「あやかしの鼓」――何という謎のような世界であろう。何というトンチンカンな家庭であろう。眼で見ていながら信ずる事が出来ない――。
 こんなことを考えて歩いているうちに、私はふと自分の懐中が妙にふくらんでいるのに気が付いた。見れば今しがた玄関で若先生が押し込んだ菓子折の束がのぞいている。私はそれを引き出してどこに棄てようかと考えながら頭を上げた。そのはずみに向うからうつむいて来た婦人にブツカリそうになったので私はハッと立ち止(とど)まった。
 向うも立ち止まって顔を上げた。
 それは二十四、五位に見える色の白い品のいい婦人であった。髪は大きくハイカラに結っていた。黒紋付きに白襟(しろえり)をかけていたが芝居に出て来る女のように恰好がよかった。手に何か持っていたようであるがその時はわからなかった。
 私はその時何の意味もなくお辞儀をしたように思う。その婦人もしとやかにお辞儀をしてすれ違った。その時に淡い芳香が私の顔を撫でて胸の奥までほのめき入った。
 私は今一度ふり返って見たくてたまらないのを我慢して真直ぐに歩いたために汗が額にニジミ出た。そうして、やっと笄橋(こうがいばし)の袂(たもと)まで来ると、不意に左手の坂から俥(くるま)が駆け降りて来て私とすれ違った。私はその拍子にチラリとふり向いた。
 黒い姿が紫色の風呂敷包みを抱えて鶴原家の前の木橋の上に立っていた。白い顔がこっちを向いていた。
 私は逃げるように横町に外(そ)れた。

この間は失礼しました。
私はあの鼓の魔力にかかって精魂を腐らした結果御覧の通りの無力の人間に成り果てました。しかしその核心には、まだ腐り切っていない或るものが残っていることを君は信じて下さるでしょう。私もそう信じてこの手紙を書きます。
二十六日の午後五時キッカリに鶴原家にお出(いで)が願えましょうか。御都合がわるければそれ以後のいつでもよろしいから、きめて下さい。時間はやはりその頃にお願いしたいのです。
今度お出での時にはあやかしの鼓がきっと君のものになる見込みが附きました。尚その時に君がまだ御存じのない秘密もおわかりになることと思います。それは矢張り音丸家と鶴原家に古くから重大な関係を持っていることで、君にとっては非常に意外な、且(か)つ不可思議な事実であろうことを信じます。
しかし来られる時に誠に失礼ですが御註文申し上げたいことがあります。奇怪に思われるかも知れませんが是非左様(さよう)願いたいと思います。
二十六日までにまだ十日ばかりありますからその間に君は一切の服装を新調して来て頂きたい。鼓の家元の若先生らしく、そうして出来るだけ立派な外出姿に扮装して来て頂きたい。無論誰にも秘密でです。理由はお出(いで)になればすぐわかります。東洋銀行の小切手金一千円也を封入致しておきます。鶴原未亡人の名前ですが私の貯金の一部です。私の後を継いで下すった御礼の意味とお祝いの意味を兼ねて誠に軽少ですが差し上げます。尚私たちお互いの身の上は今まで通りとして一切を秘密にして下さい。鶴原家に来られてもです。
あやかしの鼓が百年の間に作って来た悪因縁が、君の手で断ち切れるか切れないかは二十六日の晩にきまるのです。同時に七年間一歩もこの家の外に出なかった僕が解放されるか否かも決定するのです。君の救いの手を待ちます。
  三月十七日高林靖二郎 音丸久弥様

 私はこの手紙を細かく引き裂いて自動車の窓から棄てた。ちょうど芝公園を走り抜けて赤羽橋の袂を右へ曲ったところであった。
 眼の前の硝子(ガラス)板に私の姿が映ってユラユラと揺れている。
 三越の番頭が見立ててくれた青い色の袷(あわせ)に縫紋(ぬいもん)、白の博多帯、黄色く光る袴(はかま)、紫がかった羽織、白足袋にフェルト草履(ぞうり)、上品な紺羅紗(こんらしゃ)のマントに同じ色の白リボンの中折れという馬鹿馬鹿しくニヤケた服装が、不思議に似合って神妙な遊芸の若先生に見えた。ふだんなら吹き出したかも知れないがこの時はそれどころではなかった。
 私はこの数日間のなやみに窶(やつ)れた頬を両手で押えながら、運転手のうしろの硝子板に顔を近寄せて見た。頭を刈って顔を剃ったばかりなのに年が二つ位老(ふ)けたような気がする。赤かった頬の色もすっかり消え失せているようである。

次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:82 KB

担当:undef