けむりを吐かぬ煙突
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:夢野久作 

理想化(リファイン)された図書館の様式(スタイル)とは全然調和しないばかりでなく、そのまわりを取囲むコンモリした杉木立の風趣までもブチコワしてしまっていた。まるでどこかの火葬場といった感じであった。
 私はズット前から、この煙突の正体を怪しんでいた。……というのは、この煙突が出来てから、一(ひ)と冬越した翌年の春になっても、煙を吐いた形跡がなかったからであった。
 この事実を初めて発見した時には流石(さすが)の私も首をひねらせられた。往来のマン中に突立ったまま暫くの間、茫然と、その煙突の絶頂の避雷針を見上げていた。その避雷針の上を横切る鱗雲(うろこぐも)を凝視していたものであった。
 しかし、わからないものはイクラ空(くう)へ考えてもわからなかった。
 図書館にはズット以前から昼間の動力線と瓦斯(ガス)が引いてあった。同時に石炭やコークスの屑が附近に散らばっていた形跡はミジンもなかったばかりでなく、そんな商人が出入りした事実も未(いま)だ曾(かつ)て発見されなかった。……にも拘わらず石炭を焚(た)く以外には必要のなさそうな赤煉瓦の煙突を、何のために取付けたものであろう。ストーブの火気抜(いきぬき)ならば立派な化粧煉瓦と対(つい)のものが、玄関に向って右手の室(へや)の壁にチャント附いている。又、普通の意味の通気筒ならばモット手軽い、品のいい、理想的のものがイクラでも在る。台所も電気と瓦斯だけで片付けているに違いないのに、何の目的でコンナ殺風景なものをオッ立てたのであろう……なぞと考えれば考える程、私は不思議でたまらなくなって来た。一度室内に忍び込んで、様子を見てやろうか……と思った事も、何度あるかわからなかった。
 ところが又、そのうちに一年も経ってその煙突に火の気(け)が通らない証拠に、何とかいう葉の大きい蔓草(つるくさ)が、根元の方からグングン這い登り始めた。その蔓草は麹町(こうじまち)区内のC国公使館の壁を包んでいるのと同じ外国種の見事なものであったが、生長が馬鹿に早いらしく、二(ふた)夏ばかり過すうちに絶頂の避雷針の処まで捲き上げてしまって、房々と垂れ下る位になった。すると又それに連れて図書館の外側の手入れが不充分になったらしく、スレート屋根の上にタンポポだのペンペン草だのがチラチラと生(は)え始めた。緑色の鉄のブラインドには赤錆(あかさび)が吹き始めた。それにつれて煙突を登り詰めた蔓草が今度は横に手を伸ばしはじめて、二年も経つうちには殆んど図書館の半分以上を包んでしまった。その上にお庭の立木にも植木屋の手が這入(はい)らなくなったらしい。枯れ枝がブラ下ったり、杉の木が傾いたりして、だんだんと廃墟じみた感じをあらわし始めた。
 今まで不調和であった煙突が、今度は正反対に建物や立木とよくうつり合って来た。一種のエキゾチックな風趣をさえあらわすようになって来た。恰(あたか)も、その主人公の心理状態のあるものを自然に象徴しているかのように……。
 そんな光景を見過して来るうちに私は、いつの間にか煙突の不思議を忘れてしまっていた。煙の出ないのが当然の事のように思い込んでしまって煙突とは全然無関係としか思えない、ほかのネタを探ることばかりに没頭していた。……思えばこれも不思議な心理作用ではあったが……。
 しかも私の頭が一旦、煙突の問題を離れると、彼女の裏面の秘密に関する私の調査がグングン進捗(しんちょく)し始めたのは重ね重ねの不思議であった。
 私は彼女が、わざわざ遠方から大久保の自邸に呼び寄せているタキシーの番号を一々ノートに控えた。その番号から運転手の名前を探り出して、鼻薬を使いながら未亡人の行先を尋ねてみると、私の着眼が一々的中している事が裏書きされて来た。……のみならず、まだ私の知らない、意外な処に在るスキャンダルの坩堝(るつぼ)までも発見する事が出来た。そんな場所は、普通の記者や探偵の眼が届かない高い、奥深い処に隠れているのであったが、そんな方面の秘密に手蔓の多い私にとっては、かえって便利であったばかりでなく、そんな坩堝の中で彼女と熔け合いに来る紳士たちは皆、別に探索する必要を認めないくらい、世間に知れ渡っている顔である事を発見した。
 馬鹿馬鹿しい話であるが、私は今更のように東京の広さに呆れさせられた。
 そこで私は潮時を見計らって南堂家に出入りしているタッタ一人の家政婦の自宅を突き止めた。膝詰めで買収にかかってみた。
 その家政婦の自宅と名前は可哀相な筋合いがあるからここには書かないが、××戦争で死んだ勇士の未亡人であったことは間違いない。その癖に、気の弱い中婆さんで、一人娘の嫁入り先に迷惑をかけたくなかったから……とか何とか涙まじりにクドクドと云い訳をしながら、大久保の自邸に於ける未亡人の乱行と、その時刻と、それから相手を女装して、連れ込むその奇抜巧妙を極めた方法とを、相手の種類と名前がアラカタ見当が付く程度にまで詳細にわたって白状したのは私にとっての大収穫であった。
 しかし、まだ何かしら重大な秘密を隠しているらしい恐怖心が、その態度や口ぶりに見え透(す)いていたので、モウ一度その自宅を訪問してネタをタタキ上げるべく心構えをしていると、意外にもその家政婦が突然に行方を晦(くら)ましてしまった。キチンと家賃の払いを済ましてどこかへ引越したものらしく、大久保の南堂家へもパッタリと出入りしなくなった。その代りに若い無邪気な小娘が、やはり昼間だけ通勤で南堂家へ通うようになった。
 これは、たしかに私の不注意であった。重要な手がかりを探す手がかりが全く絶えた。せめてその一人娘の嫁入り先だけでも聞いておくところであったが……。
 しかし一方に伯爵未亡人が案外に手剛(てごわ)いらしいのにも驚いた。これはモウすこし様子を見てシッカリしたところを押えてから火蓋を切った方が有効、かつ安全と思ったので、それから暫くのあいだ躊躇するともなく躊躇していた。
 ところが、この家政婦の行方不明をキッカケにして、忘れかけていた煙突問題が、又もや、生き生きと私の頭に蘇って来たから不思議であった。
 それは私の第六感というものよりもモット鋭敏な或る神経の判断作用らしく感ぜられた。むろんあの煙突が伯爵の死後に起工されたことも、こうした判断を有力に裏書しているにはいたが……。
 しかしこの秘密を具体的に探り出すのはナカナカ容易な仕事でないことが最初からわかり切っていた。探りを入れるにしても大凡(おおよそ)の見当を付けてからの事にしなければならないと考えたが、そのアラカタの見当が、なかなか付かなかった。

 伯爵家の不動産が担保に這入りかけているという事実を、意外な方面からチラリと聞き出したのは、その頃の事であった。
 その話を聞かしてくれたのはC国公使のグラクス君であったが、そう聞いた瞬間に、これは棄てておけないぞ……と私は思った。マゴマゴしているうちに粕(かす)を絞らせられるような事になっては堪らぬと気が付いたので、すぐに一通の偽筆、匿名の手紙を書いて、面会の時日を東都日報、中央夕刊の二つに広告しろと云ってやったら、その翌る朝、まだアパートで寝ているうちに、東都日報から……という電話がかかった。
 私は慌てて飛び起きて受話器を取上げた。……又事件か……と思って、本能的にイヤな顔をしながら……。
「……オーイ……何だア……」
「……あの……お手紙ありがとう御座いました。今夜の十二時半キッカリに自宅の裏門でお眼にかかりましょう。おわかりになりまして……今夜の十二時半……わたくしの家(うち)の裏門……」
 という未亡人自身の声がした。そうしてソレッキリ切れてしまった。
 私は身内が引締まるのを感じた。
 相手は何もかも知っているのだ。……ことによると明日(あした)が私の休み日になっている事までも知っているかも知れない。
 そう思い思い私は充分の準備と警戒をしてコッソリとアパートを出た。
 ……何糞(なにくそ)……と冷笑しながら……。

 指定された通りに裏門の潜(くぐ)り戸から這入ると、そこいらのベンチに待っていたらしい訪問着姿の未亡人が出迎えた。無言のままシッカリと私の手を握ったので又も緊張させられた。私が時間にキチョウメンな事まで知っているらしい。
 しかし恐るる事はない。誘惑するつもりなら、されても構わない。要点だけは一歩も譲らないぞ……と思いながら、夜目にも荒れ果てた庭草の間を手を引かれて行くと、森蔭のジメジメした闇の道伝いに、杉木立の中の図書館の玄関から引っぱり込まれた。そうして燈火(あかり)も何もつけない短かい廊下を通り抜けると正面の真暗(まっくら)な室(へや)のマン中に立たされた。
 そこで私の手を離した未亡人が、室の真中まで行って電燈の紐(ひも)をコチンと引っぱった。
 私はアンマリ眩(まぶ)しいので二三度瞬(またた)きをした。……が、そのうちにこの家が、私の最初からの予想通り、名ばかりの図書館であることをたしかめた。
 すくなくとも私が連れ込まれた室は、南堂伯爵が、生前に寝室にしていたものに相違なかった。そうして伯爵の死後、未亡人が秘密の享楽場としていたものに相違なかった。
 ムンムンと蒸(む)れかえる瓦斯(ガス)仕掛の大暖炉の蘊気(うんき)と一緒に、早くも彼女の濃厚な化粧と、旺盛な肌の匂いが漂い初めていた。
 しかし私は平気であった。入口と正反対側に在るグランド・ピアノの上に外套と帽子を置くと、黒い、薄い、婦人用の絹手袋をはめたまま、おなじように冷静な彼女と向い合って椅子に就いた。
 二人は手軽く頭を下げ合って初対面の挨拶をすると同時に、申し合わせたようにスピードアップした会話を、剃刀(かみそり)で切ったように交換し初めた。お互いに双方の顔色の動きに関心し合いながら……。
「お電話ありがとう御座いました。……ほんとにお手数をかけまして済みませんでした。お手紙はお返しいたします」
「……ハ……たしかに……」
「……で……あの新聞の原稿は、お持ちになりまして……」
「相済みません。原稿と申しましたのは嘘です。実は僕のアタマの中に在るんです。原稿にして差上げたって同じ事だと思いましたから……」
「……まあ……では、あの以外にまだ御存じなのですか」
「この間、本国へ帰任したC国公使と貴方(あなた)との御関係以外にですか」
「ええ」
「そう余計にも存じませんがね。大変に失礼ですけど、故伯爵とお別れになった後(のち)の貴女(あなた)は、非常に皮肉な御生活をお始めになったようですね。婦人正風会長になって日本中の婦人の憧憬を、御一身にお集めになる一面には、あらゆる方法であらゆる紳士方の裏面を御研究になったのですからね。もっとも貴女が研究の対象としてお選びになった方々の全部は、そうした紳士道を心得ている外国人や、秘密行動に慣れた貴顕紳士に限られておりましたので、そんな御研究の内容が今日まで一度も外へ洩れなかった訳ですがね……実は貴女の御聡明に敬服しているのですが」
「ホホホホ。貴方の仰言(おっしゃ)る資本主義末期の女でしょうよ。……ですけど……よくお調べになりましたのね」
 私は相手が意外に早く兜を脱いでくれたので内心ホッとさせられた。同時に、こうした仕事に対する私の「顔」の効果(ききめ)を自認しない訳には行かなかった。
「……僕は……その末期資本主義社会の寄生虫ですからね」
「……まあ……でも、お話と仰言るのは、それだけでしょうか」
「……モット買って頂けるでしょうか」
「……ええ……なにほどでも……チビリチビリだとかえって御面倒じゃないでしょうか」
「……御尤(ごもっとも)です……では全部纏めまして、おいくら位……」
「貴方の新聞をやめて頂くぐらい……」
「ハハハ。御存じでしたか。それじゃ、すこしお負けしておきましょう。ええと……只今二百五十七号を二千部ほど刷っているところですから、全部、買収して頂くとなれば一万ぐらいお願いしなければならないのです。私としては毎月二百円位の収入がなくなる訳ですからね。しかし何もかも御存じの事ですから、ズットお負けしまして半額の五千円ぐらいでは如何でしょうか」
「それでおよろしいですの」
「結構です」
 未亡人は卓子(テーブル)の下からハンドバックを取出して札(さつ)を勘定し始めた。それを見ながら私は腹案を立てていた。新しい名前で第一号から新聞を発行するには千円もあれば沢山だ。今度は学芸新聞を創刊してインチキ病院や、インチキ興行をイジメてやるかな……それとも全然河岸(かし)を換えて最新式の安アパートでも初めながら、原稿生活を続けてやろうかナ……なぞと……。
 そのうちに未亡人は札を数え終った。
「……あの……六千二百円ばかり御座います。ハシタが附きまして失礼ですけど、用意しておいたのですから……」
「……それは……多過ぎます……」
「イイエ。あの失礼ですけど、わたくしの寸志で御座いますから……」
「ありがとう存じます。お約束は固く守ります」
 私は思わず頭を下げさせられた。今更に伯爵未亡人の名声が高大な理由を認めない訳に行かなかった。
 しかも、こんな場合本能的に、そうした気前を見せる相手の心理状態に、是非とも探り入らずには措(お)かぬ習慣を持っている私のアタマが、この時に限って痲痺したようになっていたのは何故であったろうか。自分でも気付かないうちに未亡人の魔力に毒されていたのであろうか。それとも相手の頭の良さにまいっていたのであろうか。……千円やそこらのお負けにポーッとなるような私ではなかったが……。
 ……さもあらばあれ……。
 大小取交(とりま)ぜた分厚い札束を、いい加減に二分して左右の内ポケットに突込んだ私は、すこし寛(くつろ)いだ気持になった。すすめられるまにまに細巻の金口(きんぐち)を取って火を点(つ)けた。この際私に危害を加えるような、ヘマな相手でない事がハッキリと直感されたから……。
 その間に未亡人は紅茶を入れて来た。そうして自分も細巻を取上げた。
「……では、あの、お伺い出来ますかしら……今のお話と仰言るのを……」
「……あ……お話ししましょう。これはお負けですがね。お負けの方が大きいかも知れませんが……ハハハハ……」
「すみませんね。どうぞ……」
「ほかでもありませんがね。今申しました貴女と古いお識合(しりあ)いのC国公使のグラクス君が、ツイこの間帰任しがけに面白いものを見せてくれたのです。いわば貴女の御不運なんですがね」
「……妾(わたし)の不運……」
「そうです。貴女はグラクス君が、世界でも有名なミステリー・ハンターという事を御存じなかったでしょう。……ね……そのグラクスが僕に素晴らしいネタを呉れたのです。僕が或る珍しい倶楽部(くらぶ)に紹介してやったので、そのお礼の意味で提供してくれたんですがね。お思い当りになりませんか」
「……さあ。それだけではね。ちょっと……」
「そうですか。それじゃ、もうすこしお話してみましょう。つまりグラクスの話によりますと、貴女のような深刻な趣味を持った婦人はどこの国にも一人や二人は居る筈だって云うんです。そうしてその趣味が深刻化して行く経路が皆似ているって云うんです。もちろんその中でも貴女は最も著しい特徴を持った方で、しかも、今では、そうした猟奇趣味の最後の段階まで降りて来ていられるとグラクス君が云うのです」
「……最後の段階って……」
「そうです。その証拠はコレだと云ってグラクスが見せてくれましたのは、白紙に包んだ一掴みの爪だったのです」
「……爪……?……」
「そうなんです。色んな恰好をした少年の爪の切屑(きりくず)なんです。十二三人分もありましたろうか……おわかりになりませんか」
「まあ。そんなものが妾と何の関係が……」
 そう云ううちに未亡人は何となく気味わるそうな表情になった。わざと指環をはめないで、化粧だけした両手の指を、これ見よがしに卓子(テーブル)の上に並べながら、ウットリと遠い所に眼を遣った。
 私はその視線を追っかけた。冷ややかに笑いながら……。
「そんなにシラをお切りになっちゃ困りますね」
 未亡人は私の顔を正視した。
「……わたくし……何も白ばくれてはおりませんが……」
「それじゃ僕から説明して上げましょうか。これでも貴女ぐらいの程度には苦労しているつもりですからね。蛇(じゃ)の道は蛇(へび)ですよ」
 と叱咤するような口調で云ってみた。実はその爪の屑が、何を意味するものなのか、この時まで全然わからなかったのだから……。
 すると果して反応があった。私の顔を穴のあく程みつめていた未亡人の頬に見る見るポーッと紅がさして、眼がこの上もなく美しくキラキラと輝やき初めた。
「ホホホホホ。わかりましたわ。あの家政婦からお聞きになったのでしょう。説明なさらなくともいいのよ。白状して上げるから待ってらっしゃい」
 未亡人の言葉つきが急にゾンザイになった。同時に椅子に腰をかけたまま左手をズーッと白くさし伸ばして背後の書物棚から青い液体を充(み)たした酒瓶とグラスを取出した。
「……貴方お一つどう……オホホ……おいや……では妾(わたし)だけ頂くわ。失礼ですけど……まだ妾の気心がおわかりにならないんですからね。仕方がないわ。よござんすか……よく聞いて頂戴よ」
 見る見る雄弁になった未亡人は、深いグラスに注(つ)いだ青い液体をゴクゴクと飲み干した。フーッと長い息を吐くと、芳烈な緑色の香気が私の顔を打った。
 しかし私は瞬(またたき)一つしないまま未亡人の顔を凝視した。俄(にわ)かに変って来たその態度を通じて、告白の内容を予想しながら……。
「……まったく……貴方のお察しの通りなのよ。妾は妾の手にかけた少年たちの爪を取り集めて、向うの机の抽斗(ひきだ)しに仕舞(しま)っといたのよ。西洋の貴婦人たちが媾曳(あいびき)の時のお守護(まもり)にするそうですからね。その包みの中のどれか一つをグラクスさんが妾の寝ている間に盗んで行ったのでしょう。妾との関係が切れないようにね。ホホホ」
 彼女は又もフーッと青臭い息を私にマトモに吹きかけた。
 私は固くなってドキンドキンと胸を躍らせながら……。
「……あたし主人と別れてからこっちというもの時々たまらない憂鬱に襲われることがあるの。あれが妾のヒステリーっていうものかも知れないけど、そのたんびに妾よく男装して方々に活動を見に行ったんですよ。ハンチングを冠ってロイドの色眼鏡をかけて、ニカボカを着るとまるで人相が変るんですからね。帝劇のトーキー披露会で貴方とスレ違ったこともあるわ……御存じなかったでしょう」
 私は正直にうなずいた。
「……ね……そうして不良少年(チンピラ)らしい顔立ちのいい少年(こども)を往来で見付けると、お湯に入れて、頭を苅らして、着物を着せて、ここへ連れて来るのが楽しみで楽しみで仕様がなくなったの……もっとも最初のうちは爪だけ貰うつもりで連れて来たんですけどね。そのうちに少年(こども)の方から附き纏って離れなくなってしまうもんですから困ってしまってカルモチンを服(の)ましてやったのです……そうして地下室の古井戸の中から、いい処へ旅立たしてやったんです。ここの地下室の古井戸は随分深い上にピッチリと蓋が出来るようになっていて、息抜きがアノ高い煙突の中へ抜け通っているんです。妾が設計したんですからね。誰にもわからないんですの。……でも貴方にはトウトウわかったのね……ホホホ……モウ随分前からの事ですからかなりの人数(にんず)になるでしょう……御存じの家政婦も入れてね……ホホホホホ……」
 私は見る見る血の気を喪(うしな)って行く自分自身を自覚した。タマラナイ興奮と、恐怖のために全身ビッショリと生汗(あせ)を流しながら、身動き一つ出来ずにいた。
 これに反して相手は一語一語毎(ごと)に、その美くしさを倍加して行った。そうして話し終りながら如何(いか)にも誇らしげに立上ると、寝台(ベッド)のクションの間に白い両手を突込んで探りまわしていたが、そのうちに一冊の巨大な緞子(どんす)張りの画帳をズルズルと引っぱり出した。重たそうに両手で引っ抱えて来て石のように固くなっている私の膝の上にソッと置いて、手ずから表紙を繰りひろげて見せた。
 私は正直に白状する。重たい画帳を載せると同時に両方の膝頭がガクガクと戦(おのの)いているのに気が付いた。画帳を開こうとすると指がわなないて自由にならなかった。話にしか聞いた事のない恐ろしい変態殺人鬼が、現在タッタ今、眼の前に居ることをヤット意識し初めて……その殺人鬼に誘惑されながら、ドウする事も出来なくなっている自分自身を発見して……。
 未亡人は、そうした私の傍に突立ったまま嫣然(えんぜん)と見下していた。私の意気地なさを冷笑するかのように……私を圧迫して絶対の服従を命ずるかのように……。
 私は、そうした妖気に包まれながら、わななく指で左右の手袋の釦(ボタン)をシッカリとかけ直していたように思う。……何故ともなしに……そうして絹本(けんぽん)を表装した分厚い画帳を恐る恐る繰り拡げていたように思う。
 それは歴史画の巨匠、梅沢狂斎が筆を揮(ふる)った殷紂(いんちゅう)、夏桀(かけつ)、暴虐の図集であった。支那風の美人、美少女、美少年が、あらゆる残忍酷烈な刑に処せられて笞打たれ、絞め殺され、焙(あぶ)られ、焼かれ、煮(に)られ、引き裂かれ、又は猛獣の餌食にあたえられて行く凄愴、陰惨を極めた場面の極彩色密画であった。その一枚一枚毎(ごと)に息苦しくなってゆくような……それでいて次の頁(ページ)を開かずにはいられないような……。
「ホホホ。感心なすって……。妾にそうした趣味を教えてくれたのはこの画帳なんですよ。もっとハッキリ云うと亡くなった主人なのよ。……主人は亡くなりがけに、自分が生きている間じゅう許さなかった女の楽しみをスッカリ妾に許して行ったんです。そんなにまで主人は妾を愛していたんですの……ですから妾は、そんな遊戯の真似を、この室(へや)でするたんびに、主人の霊魂がどこからか見守っていて、微笑していてくれるような気がしてならないのよ」
「……ウ――ム……」と私は唸(うな)った。同時に私の頭の中に高く高く積み重なっていた硝子(ガラス)器の山が一時にガラガラガラッと崩れ落ち始めたような気がした。
「……ね。安心なすったでしょう……ホホホホホこれだけ打ち明けたらモウいいでしょう」
 未亡人の声が神様のように高い処から響き落ちて来た。
 私はブルブルと身ぶるいをした。
 眼をシッカリと閉じた。
 画帳の上に突伏した。

 それから私がドンナ事をしたか順序を立てて書く事が出来ない。
 頭がグラグラするほど酔っていたことを記憶している。
 何でもカンでも未亡人の云う通りになっていたことを記憶している。
 その中(うち)に、ただ一つ酔っ払い式の片意地を張って、左右の手にはめた黒い手袋をドウしても脱がなかったので、未亡人から臆病者とか何とか云って散々に冷かされていた事も忘れていない。
 併(しか)し最後にトウトウその手袋を脱がされた。そうして、見るからに外国製らしい銀色の十字型の短刀を夫人から渡されると、その冴切(さえき)った刃尖(はさき)を頭の上のシャンデリヤに向けながら、大笑いした自分の声を、今でもハッキリと記憶している。
「ハッハッハッハッハッ、これで自殺しろと云うんですか」
 私は室の中央に突立ったまま何度も何度も舌なめずりをしていた。そのダラシのない姿が、寝台(ベッド)の上に寝そべっている夫人の姿と重なり合って、室の奥の大鏡にアリアリと映っていた。
「そうじゃないのよ。妾を殺して頂戴って云うのよ」
「……ハハハ……死にたいんですか」
「……ええ……死にたいの」
「……どうして……」
「……だって妾は破産しているんですもの」
「……ヘエ……ホントウですか」
「貴方に上げたのが妾の最後の財産よ。今夜が妾の楽しみのおしまいよ」
「……ウソ……ウソバッカリ……」
「嘘なもんですか。妾は一番おしまいに貴方の手にかかって殺されるつもりでいたのよ。そうして妾の秘密を洗い泄(ざら)い貴方の筆にかけて頂いて、妾の罪深い生涯を弔(とむら)って頂こうと思って、そればっかりを楽しみにしていたのよ」
「……アハハハハアハハハハ……」
「イイエ。真剣なのよ。貴方の手がモウ妾の肩にかかって来るか来るかと思って、待ち焦れていたんですよ」
「……フーム……」
 私は短刀を片手に提げたまま頭(くび)をガックリと傾けた。理窟を考えよう考えようとしたが、自分の両足の下の藍色の絨緞(じゅうたん)と、その上に散乱した料理や皿の平面が、前後左右にユラリユラリと傾きまわるばっかりで、どうしても考えを纏めることが出来なかった。
 私は鏡の中の自分の姿を、眩(まぶ)しいシャンデリヤ越しに振り返ってみた。真白く酔い痴(し)れた顔が大口を開(あ)いて笑っていた。
「アッハッハッハッハッ。……よしッ……殺してやろう……」
 といううちに私は、短剣を逆手(さかて)に振り翳(かざ)しながら、寝台(ベッド)の上に仰臥している未亡人の方へ、よろめきかかって行った。




ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:29 KB

担当:undef