悪魔祈祷書
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著者名:夢野久作 

 あそこは店の中でも一番暗い処で、私(あっし)が珍本と思った本だけをソーッと固めて置いとく処ですからね。あそこに来てジイッと突立っておいでになる方はイツモ大抵きまっているんですからね。持ってお出でになった方もアラカタ見当が……。
 オヤッ……先生のお顔色はドウなすったんです。御気分でもお悪いんですか……ヘエ。ヘエッ……これは三百円のお金……今月のお月給の全部……私(あっし)に下さるんで……ヘエッ……あの聖書のお手附け……千円の内金と仰言るんで……これはどうも恐れ入りましたナ。あの本は先生がお持ちになったんで……ヘエ。それはドウモ何ともハヤ……ヘエヘエ……何と仰言る……。
 ヘエエ……今年の春から先生の奥様にピアノを教えにお出でになっている音楽学校出の若いピアニストの方が、あの本を偶然に御覧になって、大変に珍しがって借りておいでになった。先生もその時までは普通の聖書と思って何の気もなくお貸しになった。ヘエヘエッ……ド……ドッ……どうぞお落付きになって……お落付きになって……お静かに……お静かに……御ゆっくりお話し下さいまし……ナナ……なる程。ヘエヘエ。
 それから一週間ばかり経って、奥様が流産をなすった……妊娠三箇月で……成る程。お医者様の御診察ではその前にお二人で××にドライブをなすったのが悪かった……ナル程。あの国道はこの頃悪くなりましたな。無理は御座んせんよ。自動車が矢鱈(やたら)に殖(ふ)えましたからナ。県の土木費はモトの通りなのに……まだある。ヘエ……。
 タッタお一人のお坊ちゃんが、牛乳ばっかりで育てておいでになったのが、四、五日前に急にお亡くなりになった。食餌中毒という診断だが、怪しいと仰言るんで……ヘエ。ドウ怪しいんで……ヘエ。あの本を借りて行かれたピアノの教師(せんせい)が、あの本の中の毒薬を使っているに違いない。この頃、貴方様も胃のお工合が宜しくない。胃がシクシクお痛みになる。×××××、×××かも知れない。ヘエ。つまり貴方様はズット前からそのピアノの教師(せんせい)を疑っておいでになったんですね。成る程。そのピアノの教師は芸術家気取のノッペリした青年……奥様は二度目の奥様で、大阪新聞の美人投票で一等賞……アッ……。
 ワ――ッ……先生ッ。チョチョチョチョットお待ち下さい。チョットチョット。いいえ放しませぬ。チョットお待ち下さい。血相をお変えになってどこへお出でになるんで……ナ何ですって……。そのピアノ教師(せんせい)をお訴えになる。あの本を取返して使った毒薬を発見してやる……ま……ま……待って下さい。……ト……飛んでもない事です。まあお聴き下さい。落ち付いて……とにかくここへ今一度おかけ下さい。私(あっし)のお話をお聞き下さい。御事情は私(あっし)が見貫(みぬ)いております。事件の真相は私(あっし)がチャンと存じておりますから、残らずお話し致しましょう。急(せ)いてはいけません。短気は損気です……ああビックリした……。
 飛んでもない事ですよ先生、ソレは……。もし先生がソンナ事をなされますとあの本をどこから手に入れたという事が、警察でキット問題になりますよ。その時に私(あっし)が警察へ呼ばれまして正直のところを申立てましたら、先生の御身分は一体どうなるんですか。
 ハハハ。それ御覧なさい。まあまあモウ一度ここへお掛け下さい。このお茶の熱いところを一服めし上って下さい。私(あっし)が何もかもネタを割ってお話し致します。モトを申しますと何もかも私(あっし)が悪いのです。
 ソ……ソンナにビックリなさることは御座いません。コレ……この通りお詫びを申上げます。何もかも私(あっし)が悪いので御座います。ヘエヘエ。この通りアヤマリます。どうぞ御勘弁を……。
 何をお隠し申しましょう……只今まで私(あっし)がお話致しました事は、みんなヨタなんです。出鱈目(でたらめ)なんです。根も葉もない作り話なんでゲス。ハハハ。吃驚(びっくり)なさいましたか。ハハハ……。
 あの御本はヤッパリ普通の聖書なんです。もちろん一六八〇年度の英国の筆写本なんでゲスから相当の珍本には間違い御座んせん。三百両ぐらいの価値(ねうち)は確かで御座いますがトテモ千両なんて踏めるシロモノじゃ御座んせん。御自身で読んで御覧になれあ、おわかりになります。初めからおしまいまで普通の聖書の通りの文句で、一字一字毎(ごと)に狂いのないところを見ますと、よっぽど信仰の深い僧侶(ぼう)さんが三拝九拝しながら写したもんですね。とにかく滅多に出て来っこない珍本ですからドウゾお大切にお仕舞いおき願いますよ。こうしてお代金を頂戴いたしましたからには、惜しゅうは御座いますが、お譲り致します。
 実は先生が、大学でも有名な御本集めの名人でおいでになる事を、法文科の中江先生からズット以前に伺っておりました。今度、○○科へ本集めの名人が来たぜ。あの男は東京に居る時分から俺の好敵手で、どうして集めるんだか判らないが、俺の狙っている本を片端(かたはし)から浚(さら)って行ってしまいやがる。あの男が来ると俺の道楽は上ったりだ……ってね。よくソウ仰言っておられましたよ。
 ……ですから実はソノ……ヘヘヘ。先生があの本をお持ちになった時も私(あっし)はよく存じておりましたからね。その中(うち)に奥様にでもお代を頂戴に行こうかと思っておりますところへ、今日ヒョックリ先生がお見えになる……トタンに今の夕立で御座いましょう。店には格別お珍しいものも御座んせんし、先生も雨上がりをお待ちになっておいでになる御様子ですし、私(あっし)も朝から店に座っていてすこし頭がボンヤリして来たようですから、ツイ退屈凌(しの)ぎに根も葉もないヨタ話を一席伺いました訳で……若い中(うち)にナマジッカな学問をしたり寄席へ出たり致しました者は、ツイ余計なお喋舌(しゃべ)りが出て参りますようで……ヤクザな学問ほど溢(あふ)れ出したがるようでヘヘヘ。……ヘエヘエやっぱりコウして書物の中に埋まっておりましても探偵小説が一番面白いようで……まったくで御座います。どうかするとツイ探偵小説を地で行ってみたいような気にフラフラッとなりますから妙なもんで……ヘエ。思いもかけませぬお代を頂戴致しまして恐れ入りました。全く根も葉もない作り事を申上げまして、御心配をおかけ申しました段は、幾重にも御勘弁を……。
 ヘエ。モウ降り止んだようで御座います。だいぶ明るくなって参りました。明日はお天気になりましょう。
 ヘイ。御退屈様。毎度ありがとう存じます。ドウゾ奥様をお大事に……。




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