能とは何か
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著者名:夢野久作 

第一外題や筋がパッとしないし、文句の意味がチンプンカンプンでエタイがわからない。それを演ずるにも、泣くとか、笑うとか、怒るとかいう表情を顔に出さないでノホホンの仮面式に押し通すのだから、これ位たよりない芸術はない。二足か三足ソーッと歩いたばかりで何百里歩いた事になったり、相手も無いのに切り結んだり、何万人も居るべき舞台面にタッタ二三人しか居なかったりする。まるで芸術表現の詐欺取財だ。あんなものが高尚な芸術なら、水を飲んで酔っ払って、空気を喰って満腹するのは最高尚な生活であろう。お能というのは、おおかた、ほかの芸術の一番面白くない処や辛気臭い処、又は無器用な処や、乙(おつ)に気取った内容の空虚な処ばかりを取集めて高尚がった芸術で、それを又ほかの芸術に向かない奴が、寄ってたかって珍重するのだろう……」
 というような諸点がお能嫌いの人々の、お能に対する批難の要点らしく思われる。
 更に今一歩進んで、
「能というものは要するに封建時代の芸術の名残りである。謡も、舞も、囃子(はやし)も、すべてが伝統的の型を大切に繰り返すだけで、進歩も発達もない空虚なものである。手早く云えば一種の骨董芸術で、現代人に呼びかけるところは一つもない。世紀から世紀へ流動転変して行く芸術の生命とは無論没交渉なものである」
 なぞと云うのは、まだ多少お能の存在価値を認める人々の言葉である。
「仮面を冠って舞うなんて芸術の原始時代の名残りだ。その証拠に能楽の謡の節(ふし)や、囃子の間拍子や、舞の表現方法までも幼稚で、西洋のソレとは比較にならない程不合理である。あんな芸術が盛んになるのは太平の余慶で、寧(むし)ろ亡国の前兆である」
 と云うに到っては、正に致命的の酷評と云っていいであろう。

     能 好 き

 ところがそんな能ぎらいの人々の中の百人に一人か、千人に一人かが、どうかした因縁で、少しばかりの舞か、謡か、囃子かを習ったとする。そうすると不思議な現象が起る。
 その人は今まで攻撃していた「能楽」の面白くないところが何ともいえず面白くなる。よくてたまらず、有り難くてたまらないようになる。あの単調な謡の節の一つ一つに云い知れぬ芸術的の魅力を含んでいる事がわかる。あのノロノロした張り合いのないように見えた舞の手ぶりが、非常な変化のスピードを持ち、深長な表現作用をあらわすものであると同時に、心の奥底にある表現慾をたまらなくそそる作用を持っている事が理解されて来る。どうしてこのよさが解らないだろうと思いながら誰にでも謡って聞かせたくなる。処構(ところかま)わず舞って見せたくなる。万障繰り合わせて能を見に行きたくなる。
 今まで見た実例によると、能ぎらいの度が強ければ強いほど、能好きになってからの熱度も高いようで、その変化の烈しさは実例を見なければトテモ信ぜられない。実に澄ましたものである。
 しかし、そんな能好きの人々に何故そんなに「能」が有難いのか、「謡曲」が愉快なのかと訊いてみても満足な返事の出来る人はあまりないようである。
「上品だからいい」「稽古に費用がかからないからいい」「不器用な者でも不器用なままやれるからいい」なぞと色々な理屈がつけられている。又、実際、そうには相違ないのであるが、しかし、それはホンの外面的の理由で、「能のどこがいい」とか「謡の芸術的生命と、自分の表現慾との間にコンナ霊的の共鳴がある」とかいうような根本的の説明には触れていない。要するに、
「能というものは、何だか解からないが幻妙不可思議な芸術である。そのヨサを沁(し)みじみ感じながら、そのヨサの正体がわからない。襟(えり)を正して、夢中になって、涙ぐましい程ゾクゾクと共鳴して観ておりながら、何故そんな気持ちになるのか説明出来ない芸術である」
 というのが衆口の一致するところらしい。
 正直のところ、筆者もこの衆口に一致してしまいたいので、この以上に能のヨサの説明は出来ない事を自身にハッキリと自覚している。又、真実のところ、能のヨサの正体をこれ以上に説明すると、第二義、第三義以下のブチコワシ的説明に堕するので、能のヨサを第一義的に自覚するには、「日本人が、自分自身で、舞か、囃子をやって見るのが一番捷径(しょうけい)」と固く信じている者である。
 これは、この記事の読者を侮辱する意味に取られると困るが決してそうでない。以下陳(の)ぶるところの第二義以下の説明を読み終られたならば、筆者の真意の存するところを諒とせらるるであろう。

     能という名前

「能」を説明しようとする劈頭(へきとう)第一に「能」という言葉の註釈からして行き詰まらねばならぬ。
「能」という言葉自身は支那語の発音で、才能、天性、効力、作用、内的潜在力、などいう色々な意味が含まれているようである。しかしそんなものの美的表現と註釈しても、あまりに抽象的な、漠然たる感じで、あの松の絵を背景とした舞台面で行われる「お能」の感じとピッタリしない。「仮面と装束を中心生命とする綜合芸術」と註釈しても、何だか外国語を直訳したようで、日本の檜(ひのき)舞台で行われる、実物のお能の感じがない。とはいえ「能」は事実上そんな物には違いないのであるが、云わば、そんなものを煎じ詰めて、ランビキにかけた精髄で、火を点(つ)ければ痕跡も止めず燃えてしまうようなものである。その感じ、もしくは、そのあらわれを「能」と名付けた……とでも云うよりほかに云いようがないであろう。
 別の方面から考えるとコンナ事も云える。人間の仕事もしくは動作は数限りない。歩く。走る。漕ぐ。押す。引く。馬に乗る。物を投げる。鉄鎚を振る。掴み合う。斬り合う。撃ち合う……なぞと無限に千差万別しているのであるが、そんな動作の一つ一つが繰り返し繰り返し洗練されて来ると、次第に能に近づいて来る。
 たとえば、剣術の名手と名手が、静かに一礼して、立ち上って、勝敗を決する迄の一挙一動は、その悉(ことごと)くが五分の隙のない、洗練された姿態美の変化である。極度に充実緊張した、しかも、極度に軽い精神と肉体の調和である。その静止している時には、無限のスピードを含んだ霊的の高潮度が感ぜられる。又は烈しく切り結んでいるうちに、底知れぬ霊的の冷静味がリズム化して流れている事を、客観的にアリアリと感ぜられる。……そうした決闘はそれ自身が「能」である。
 弓を弾く人は知って居られるであろう。弓を構えて、矢を打ち番(つが)えて、引き絞って、的に中(あた)った音を聞いてから、静かに息を抜くまでの刹那刹那に、云い知れぬ崇高な精神の緊張が、全身に均衡を取って充実して、正しい、美しい、且つ無限の高速度をもった霊的リズムの裡(うち)に、変化し推移して行く事を、自分自身に感ずるであろう。能を演ずる者の気持ちよさはそこに根柢を置いている。能の気品はそうした立脚点から生れて来るのである。
 こうした「能」のあらわれは、格風を崩さぬ物の師匠の挙動、正しいコーチと場数を踏んだスポーツマンのフォームやスタイルの到るところにも発見される。……否、そのような特殊の人々のみに限らず、広く一般の人々にも、能的境界に入り、又は能的表現をする人々が多々あるので、そうした実例は十字街頭の到る処に発見される。
 千軍万馬を往来した将軍の風格、狂瀾怒濤に慣れた老船頭の態度等に現わるる、犯すべからざる姿態の均整と威厳は見る人々に云い知れぬ美感と崇高感を与える。その他一芸一能に達した者、又は、或る単純な操作を繰り返す商人もしくは職人等のそうした動作の中には多少ともに能的分子を含んでいないものはない。
 筆者をして云わしむれば人間の身体のこなしと、心理状態の中から一切のイヤ味を抜いたものが「能」である。そのイヤ味は、或る事を繰返し鍛錬することによって抜き得るので、前に掲げた各例は明かにこれを裏書している。
 畢竟(ひっきょう)「能」は吾人の日常生活のエッセンスである。すべての生きた芸術、技術、修養の行き止まりである。洗練された生命の表現そのものである。そうして、その洗練された生命の表現によって、仮面と装束とを舞わせる舞台芸術を吾人は「能」と名付けて、鑑賞しているのである。
 右に就いて私の師匠である喜多六平太(ろっぺいた)氏は、筆者にコンナ話をした事がある。
「熊(漢音ゆう)の一種で能(のう)という獣が居るそうです。この獣はソックリ熊の形でありながら、四ツの手足が無い。だから能の字の下に列火が無いのであるが、その癖に物の真似がトテモ上手で世界中に有(あり)とあらゆるものの真似をするというのです。『能』というものは人間が形にあらわしてする物真似の無調法さや見っともなさを出来るだけ避けて、その心のキレイさと品よさで、すべてを現わそうとするもので、その能(のう)という獣の行き方と、おんなじ行き方だというので能と名付けたと云います。成る程、考えてみると手や足で動作の真似をしたり、眼や口の表情で感情をあらわしたり、背景で場面を見せたりするのは、技巧としては末の末ですからね」
「能」という名前の由来、もしくは「能」の神髄に関する説明で、これ位穿(うが)った要領を得た話はない。東洋哲学式に徹底していると思う。

     能と芝居

 能と芝居とを比較してみる。前述の六平太氏の話が具体的に説明されるばかりでなく、芸術界に於ける能の立場が一層ハッキリとなると思う。
 誰でも知っている通り、一般の芝居の舞台面には写実の分子が夥(おびただ)しく含まれている。……背景をパノラマ式にする。月を切り抜いて見せる。雨や雪を降らせる。前景には本物の家や木立を並べる。火を燃やし湯を沸かす。生きた猿や馬を曳(ひ)き出す。風や浪の音。鳥や虫の声。汽車の音まで写実を利かせる。又、斬られると血を流し、死にかけると青い粉を顔に塗るなど、数えれば数限りもない。
 併(しか)し遺憾ながら似せ物は本物に敵(かな)わない。小豆と石油缶の音は、実物の汽車よりも間の抜けた音を出す。人工のスパークは大空のスパークほど凄くない。結局するところ、そのような写実装置の真実味を観客に受け取らせるのはその中で芝居をやる俳優の技巧、心境、腕前という事になる。ドンナ立派な背景や大道具、小道具を使っても、役者がヘボだと、ただそんな物の並んでいるだけの、間の抜けた舞台面になる。これに反して名優が演ずると、すべての道具が生きて来る事が誰の眼にもわかる。
 そこを悟ったものかドウかわからぬが、この頃の新しい劇で背景を白と黒の線、又は単純色幕の組合わせで感じだけ扱って行く研究が行われているとか聞いた。多分西洋の事と思うが、それでもその背景の感じを活(い)かすのがその出演者の腕一つである事は云う迄もない。
 こうした出演者の表現能力のみをもって舞台面を一パイにして行く行き方に、日本では所作事式のものが色々ある。中には背景の代りに合唱隊や、囃方が、むき出しに並んでいるのもあるが、そんなものは出演者の表現力に掻き消されて、チットモ邪魔にならない。のみならずその合唱隊や囃子方の揃った服装や、気合い揃った動きは、気分的に厳粛な背景を作って、演舞者の所作があらわす気分を、弥(いや)が上にも引っ立てて行く。観客の観賞心理を深め、陶酔気分を高めて、純乎たる芸術の世界まで観客の頭を高めて行く。
 そのようなものを見る観客のアタマは、写実一方の舞台に感心する観衆のソレよりも遥かに進歩している。芸術的に洗練、純化されている。それは人の好き好きで、どちらが高いの低いのというのは間違っているという意見も時々聞くが、芝居好きになればなる程、背景や所作の写実的なのが低級なものに感ぜられて来る……というのは衆口の一致するところである。そうしてこの傾向が進んで来ると、或る個人の一定の型による舞台表現によって、その人間の個性……すなわち芸力や持ち味が如何に発揮されるかを見て喜ぶという傾向になる。歌舞伎十八番なぞはその一例で、平生の芝居でも、誰の何々はこうこう……なぞいうところに観衆のこうした観賞欲が含まれている。
 もっと進んだ芝居好きになると、扮装も背景も無い素舞いを見て随喜の涙をこぼすのがある。
 能はこうした舞台表現の中でも、一番いい処……すなわち芸術的に格調の高い処ばかりを撰り抜いて綜合、研成して来たものである。

     能の起原

 能は今から数百年前……たしかな事は記憶しないが、日本が今の王政でなく、その前の徳川幕府以前の、戦国時代のモウ一ツ以前の足利将軍時代に出来たもので、その当時はこれを猿楽と云っていた。この猿楽が能の初まりである事は確実らしいので、能の曲目に選ばれている伝説や史実に、その以前の鎌倉時代以後の事がないのを見てもわかる。
 猿楽の前身が何であったかに就いては、色々な学者の説があるそうであるが、私にはわからない。もしかするとその頃までに相当発達していたであろう芝居、物真似、田楽(でんがく)、狂言、民謡、又は神楽、雅楽、催馬楽(さいばら)なぞいうものの中から、芸術的に高潮した……イイナア……と思われる処だけを抜き萃(あつ)めて、仮面舞踊として演出しているうちに一つの演出の型が出来上ったのかも知れない。たとえば主演者と助演者の科白や、所作の振り割りとか、舞、謡、囃子の演出に関する芸術的責任の分野とか、次第、道行き、一声(いっせい)、サシ、下歌(さげうた)、上歌(あげうた)、初同(しょどう)、サシクセ、ロンギ、笛の舞、切りというような演出の順序とかいうものが、舞、謡、囃子の舞台効果を目標として洗練されて行くうちに自から生れ出たものではないかとも考えられる。それに色々な出来事や、物語を嵌め込んで、能と名付けて興行したものかとも考えられるのであるが、しかし、これは要するに一ツの推量で、当てにはならない。正直に云うと私は只、猿楽と名の付いた以後の「能」に就いてしか考え得ないのである。
 その猿楽という名前が、どこから来たものかという事に就いても、色々の説があるらしいが、私にはサッパリわからない。能はよく物の真似をして舞うために、よく人の真似をする猿の名を冠せたものではあるまいかという人もあるそうであるが、もしそうとすれば、現在の舞の手ぶりの中には、その真似の分子も沢山あると同時に、真似でなくて直接にその物(月なら月、風なら風)をそのままに現わす舞い方が又、非常に沢山あるのを考え合わせると、その原始的な物真似から蝉脱(せんだつ)して来た表現の進化が、如何に甚しいかがわかる。

     脚  本

 能としての作曲の型が出来ると同時に、その型に当て嵌(はま)った脚本が沢山に出来たらしい。現在伝わっている曲の名前だけでも千何百とかいう位である。
 しかし、そんな作者、もしくは脚色家は、極めて少数であったらしく思われる。すなわち作者の名前として伝わっているのが極めて少数である事……能に盛り込まれている人生観や、宗教観、又は、その文句や脚色にニジミ出している個性や癖なぞに、共通的なにおいがかなり多い事……なぞから、そうした事実があらかた察せられる。もしかすると、全部同一人ではないかとさえ疑わるる位である。
 ところで、そんなに沢山に出来た能の曲目は、能の興隆と共に次第に減少して来た。すなわち、芸術的価値の低い……演(や)る方も、見る方も張り合いがない……という種類のものは、だんだん舞い捨てられて、遂に現在の二百番内外にまで減少してしまった。その二百番の中でも近来久しく上演されないもので、遠からず廃曲になりそうなのが何十という程ある。一方に、アトに残った芸術価値の高い、僅少な能の曲目は繰り返し繰り返し演出されて、益々洗練を重ねられる。演出価値と観賞価値とを同時に高められて行く。ほかの芸術が新作新作といって無限に殖(ふ)えて行くのとは全然正反対の進化向上の仕方を「能」はして行くので、このような芸術は世界にあまり類例があるまい。事によると、世界唯一のものかも知れないと思われる。
 なお、こうした珍らしい「能」の進化については、もっとよく考えてから今一度話してみたい。能の根本生命……即ち能のヨサはそこから生れて来るのだから……。

     囃  子

 能の初期時代は、能をやる人間が、現在の素人のように、めいめいに入れ代り立ち代り、舞ったり、謡ったり、囃したりしたものではあるまいかと思う。
 ところがその後、各人の天分、好き嫌い等の色々な事情で次第次第に分業になって来ると同時に、その楽器の種類も太鼓、大鼓、小鼓、笛の四ツになってしまったらしい。しかもその一つ一つのために一人の芸術家が一代を擲(なげう)って修業する事になったものと考えられる。従ってその専門とする器楽の演出の、能のリズムに対するタッチが必然的に洗練され、且つ高められて来た事は云うまでもない。
 尚、能の演出の中に鈴、琵琶、鼓の一種でカッコなぞいうものが取り入れてあるが、これは舞を助ける小道具、作物の一種とも見るべきもので実際には奏しない。尤(もっと)も鈴だけは音を立てて拍子を取るが、これは狂言方と云って能役者とは別種の、道化役みたようなものが、三番叟(さんばそう)という舞の中に限って使うに過ぎない。
 尚、前述の太鼓、大鼓、小鼓の三種は能楽演出のリズムを、打音の間拍子で囃すのであるが、そのリズムに対するタッチは全然能楽一流の行き方である。科学的には全然説明出来ないと考えられる位で、容易に説明出来ないからここには略する。笛も亦(また)能楽独特の行き方で、謡の音階や間拍子に合わせるような事は絶対にない。謡の中で吹く時は、謡の音調と全然かけ離れた非音階音を引きまわしたり、波打たせたりしつつ、謡と三種の楽器とが作るリズムの裏を美しく取り扱って、舞台気分を高潮させるに止まる。しかし謡から離れて笛ばかりで舞台気分を作る時は、音階音の中間音を取り交ぜた、独得のリズムを以て舞のテムポに調和させつつ、三種の打音楽をリードして行くので、これとても科学的に的確な説明は出来ないと考えられる。唯、芸術的、もしくは批判的な説明で辛うじて理解されはしまいかと考えられる位だから、矢張りここには略する事にしよう。
 これを要するに、謡に合わせて演奏する伴奏楽器は一つも無い事になるのであるが、これは謡というものの間拍子や節扱いが、極めて自由に、非論理的に、もしくは非科学的に出来ていて(芸術的には極度に厳密である。だから合唱が出来る)雑音を到る処に用いたり、調子を勝手に変改したり(たとえばA調からB調へ)する場合が非常に多いので、これと合奏する事は絶対に不可能だからである。一面から見れば音階音で以て声楽と合わせる伴奏楽器は舞台表現上極めて低級な役割りしかつとめ得ない……同時に能の楽器は現在の四種類以上に増加する必要は絶対にないという事が、能を見るたんびに直感される。

     仮  面

 仮面は装束と共に能の中心生命を支配するもので、主演者が着けている仮面と装束の舞台効果以外に能は存在しない。換言すれば仮面の芸術的生命がその曲の生命になるので、この目的を一刹那でも忘れた舞、謡、囃子は如何に上手でもその一刹那だけ舞台面上の邪魔な存在になる事が、観ている方で一々、手に取る如くわかる。あとでその演者がイクラ巧妙に弁解しても実際にそう感ずるのだから仕方がない。
 これを逆に云うと、その曲の最高潮した、あらゆる感触を表現すべく、仮面は遺憾ないものでなければならぬ。無表情の中にあらゆる表情を含んでいなければならぬ。無気分のうちに、あらゆる気分を漂わし得るほどのものでなければならぬ……という最も不自然な……同時に最も自然な要求に合したものでなければならぬ。
 そんな六ケしい芸術表現は理屈上この世に存在していよう筈がないのであるが、他国は知らず、日本には沢山に在るので、能を見るたんびに、思い半ばに過ぐるものである。ただ不思議というよりほかに仕様がないくらいである。
 私の知っている大学生で、世界各国の仮面を研究している人があるが、その人の話によると、現在の能の仮面が生まれる迄には、いろいろな研究が遂げられたものらしい。奈良や京都に在る古代の仮面を見てもわかる事で、頭からスッポリ冠ったり、顔半分を突込んだり、鼻や、眼玉や、口が動くようにしたり、そのほか様々の舞台効果を目標とした極端な表情の仮面が行われた。そのあげくヤット現在の中庸を取った無表情式のものが生まれた訳で、能が生まれたのも多分それと一緒ではなかったかと考えられる。
 能の仮面は、そうした高潮した芸術的要素を含んだものだけに、昔の芸術家が精英を尽して、続々と製作したものらしい。その種類も初めは随分多かったらしいが、これも、能の曲目が減るのと同様の意味……すなわち能式の進化の途中で振い落されて、現在では全く用いられないものや、殆んど用いられぬものが、そのままに夥しく残っている。
 その代り、或る種類のものは盛んに使用される。たとえば処女、年増、武者、若い男、爺、天狗なぞで、これはそんなものを仕組んだ曲が割合に多く残っているせいでもある。

     装  束

 現在の能の扮装を見た人は、到る処に思い切った時代錯誤や、身分錯誤? を発見して驚き呆(あき)れらるるであろう。
 芝居ならば裸一貫であるべき漁師が、大臣と同じ袴(はかま)を穿(は)いたり、キチガイの乞食女が宮女と同様のキモノを着ていたり、そうかと思うと大昔の軍人と、中昔の軍人とが同じ扮装であったりするので、話だけ聞くと嘘のようであるが、それでいて表現能率は充分に上って行く。否。史実なぞによって扮装を凝(こ)らす芝居なぞよりも遥かに舞台効果が大きいのである。
 こうした現象は、やはり扮装の能的単純化から来たものである。すなわち昔は、その役々によって色々の扮装をしたものが、舞台効果を主として洗練されて行くうちに、次第に単純化され共通化されてしまったもので、現在でも、そうした方向にドシドシ進化しつつある。譬(たと)えば大昔の軍人と中昔の軍人と、又は身分の高い狂女と低い狂女とを区別するために、写実的な服装を着せたとすると、仮面という非現実なものの表現とは全然照応しない事になる。服装が写実的ならば、顔も写実的に化粧でも塗って、それらしくメーキアップしなければならぬので、そうなると又パノラマ式の背景がなければならず、演者の挙動や言葉も写実式に行かなければウツラなくなる。すなわち、芝居になってしまって、「舞う」という事が不可能になり、「能」の本領を喪う事になって来るであろう。それよりも軍人なら軍人、狂女なら狂女という風に一定した……仮面に一番よくうつると同時に最も舞台効果ある服装の洗練純美化されたものを着せる。あれは軍人、あれは狂女と一眼でわかるようにする。すなわち観客に余計な頭を使わせないで、ただ仮面と、キモノと、舞台との非現実的に美しい調和の裡に、その主演者の表現能力のみを味わせた方が、はるかに舞曲らしいであろう。

     造り物と小道具

 これは能の舞台面に用いる家とか舟とか、樹木とか、又は演出を補助する糸車、鏡、桶、釣竿、なぞいうものであるが、これも初めはかなり写実的なもので種類も沢山あったのを、次第に単純化されたり、廃棄されたりして来た形跡がある。
 たとえば船は一々布で張って、船の形にしていたのが、今日では只、四角い枠の前後に、半楕円形に曲げた竹を取りつけて、それから白い布で巻いただけである。丁度小児がチョークで描いた西洋浴槽(バス)みたようなもので、船の位置だけを見せるようなものである。それを船頭が一人で提げて来ても誰も笑わない。否(いな)。もう一歩進んで、その船さえも無しに海上の表現をした方が、仮面舞踊の表現としては自然だと考えられている位である。そのほかの家、門、車、樹木等も皆前の舟と同様な単純な、象徴的な形のもので、仮面の装束の象徴的な表現と如何にして調和させるかという舞台効果のみを主眼として選択、改廃されて来たものである。
 その他、日月星辰、風雨明暗、山川草木等の森羅万象に関する背景、その他の大道具、小道具、舞台設備等いうものは絶無で、ひたすらに舞い手(主として主演者)の表現力によって、実物以上に深刻に美しく印象させられて行くばかりである。
 一方から見れば、昔沢山にあった大道具、小道具は、次第に舞い手と謡い手と囃し手の表現能力(即ち仮面と装束の超自然的に偉大な表現力)の中に取り入れられて消滅してしまった……という事が出来る。

     出 演 者

 ここに云う出演者は地謡い(合唱隊)と囃方と後見とを除いたもので、扮装をして出て来る、曲中の人物のみを指す。
 これも昔は必要に応じて、各種の人物を大勢出したものを、出来るだけ少数にして舞台効果を高めるべく努力して来た。多数の人間を登場さして舞台面の空弱な処を埋めたり、その人数の多さに依って演出の価値を向上させたりする行き方とは正反対である。
 能楽では、何万という登場者があるべき舞台面を僅かに二人か三人で片付ける事が珍らしくない。そうしてその何万という群集の感じは演者の表現力……逆に云えば観客の芸術的直感力に訴えて現実以上に印象深く描き表わされるので、受ける感じの美くしさも亦幾層倍するのである。すなわち現実に何万人を並べた感じは、見物に客観的な事実感を与えるだけの力しかないが、それが舞い手……殊に仮面の舞台効果(面(おもて)のこうした不可思議な且つ偉大な表現力がどこから生れて来るか……という事は後に述べる)によって描きあらわされると、それだけの人間が居る気分、もしくは情緒だけが観客に受け取られるばかりで、そんな夥しい実在物の息苦しい、重々しい、且つ間の抜けた感じは絶対に受けない事になるのである。
 現在の能で最も出演者の多いのは十四五名であるが、これは特別で、普通は五六名以下である。その中で見た眼に感銘が深く、演る方も気が乗って緊張した舞台面を作り得るのは二人切りのもので、曲そのものもよく出来ているのが多いし、曲の数も亦些(すくな)くない。
 その出演者は、主演者一人(シテ)、主演者補助一人又は数人(シテツレ)、子役一人もしくは数名(コガタ)、助演者一人(ワキ)、助演者補助一人又は数名(ワキツレ)の五種類で、大別すると主演者の一団(シテ方)と助演者の一団(ワキ方)となる。二人切りの能は主演者と助演者と二人だけである。
 能の曲目の大部分は主演者一人を舞わせるのを主眼としてあるので、その他の四種類の登場者は、その主演者の相手役、背景、もしくは主演者の舞を釣り出すべき舞台気分の演出役として登場して、主演者の演出を引立てる事のみに専念する。従(したが)って動き等も主演者より遥かに些いのが通例である。
 尚この他に、狂言方という一種の道化役があって、能の一要素となっているが、こちらは私に体験がないから説明を略する。ただ、前述の助演者の一団と、狂言方の一団とは、主演者の一団と相対峙(たいじ)して、それぞれ専門的の研究を遂げ、一家を成している事を付言しておく。

     監  督

 能を見ると、前述の舞い手、謡い手、囃方のほかに、謡い手と同じ礼装をした人間が一人もしくは二人、舞台の後方に座っている。これは後見(コウケン)というもので、二人居る場合には、向って左側に居るのが舞台監督、右側に居るのがその補助者である。
 監督はその能の一曲の初めから終るまでの舞台面に対して一切の責任を持っている。
 譬えば出演中の主演者とか、その他の登場者とかに事故が出来て演主が不可能になった場合は、礼服のまま代って勤める。だから監督は通常の場合、主演者と同等以上の芸力がなければならぬ。第一流の人が主演者となった場合には、止むを得ずその主演者の最高の弟子が監督を引き受ける。又監督はその能の舞台面に於ける凡ての欠点を、謡、舞、囃子、装束、道具、その他何によらず出来るだけ眼に付かぬように正さねばならぬ。すなわちその能の最後の責任は常に監督の双肩に在るので、監督が確(しっか)りしていないと主演者は安心して舞えない。
 ここでチョット演出に関する出演者の責任関係を述べる。囃子のリズムをリードする責任者は普通太鼓で、太鼓が出ると、太鼓がリード役になる。そうして囃方は一団となって地謡い(合唱隊)や主演者、助演者の謡もしくは笛のリズムにくっ付いて行く。
 合唱の責任者は中央(二列の場合は後方の中央……二列以上の場合はない)の一人で、合唱全部をリードしつつ、舞い手(主演、助演の各役)の舞いぶりや謡いぶりにリードされつつ調和し変化して行く。
 舞い手は自分の仮面と装束とによって全局のリズムを支配しつつ、背後の監督に対して責任を負いつつ舞う。=註に曰(いわ)く=これは私だけの考えかも知れない。しかし能はかくあるべきものと思う。何故かと云うと、観客に対して責任を負う芸術は必ずや極めて堕落したものに違いないからで、結局、向う受け本位の芸術となるからである。芸術のための芸術として能が存在している以上、舞い手は観客の観賞眼を本位としてはならぬ。自分の芸の欠点を最も看破し易い位置に座っている監督の耳目に対して責任を負いつつ舞い謡うのが正直と思う。
 こう云って来ると、能の全局面で、観客に対して責任を負うている者は監督唯一人となる。しかもその演出が失敗した場合は全然監督の責任に帰するが、無事成功の場合は監督の手柄にはならない。唯楽屋に這入(はい)ってから、舞い手にお礼を云われるだけである。馬鹿馬鹿しい話であるが、能の真面目はそこに在ると思う。
 尚、前に述べたような間違いのない場合には監督の責任は極めて単純である。只常に緊張した注意を全局に払って居ればよい。そうして舞い手が扮装する場合、又は笠とか杖とか、刀とか扇とかを棄てる場合は一定しているから、その場合に眼立たぬ態度で拾って来る。又は造物(つくりもの)、床几(しょうぎ)等を出したり入れたり按配(あんばい)したりする加減に注意するので、そんな仕事のない能では、初めからしまいまで唯座っているきりである。
 いずれにしても能の舞台面で一番エライ人は、何と云っても監督で、その舞台面の現実的な守り神である。
 能は常に以上の諸要素を以て、舞台面上に別乾坤(けんこん)を形成して行く。

     彫刻のたとえ

 能楽は過去現在未来を貫いて、如何なる方面に進化して行きつつあるか……という事は以上述べて来たところに依って、あらかた察せられた事と思う。
 併(しか)し、尚ここに別項を設けて、今些(すこ)しハッキリと私見を述べておきたいと思う。
 すなわち、能楽の進化の中心を一直線にして云いあらわすと繁雑から単純へ……換言すれば外形的から内面的へ……客観から主観へ……写実から抽象へ……もう一つ突込んで云えば物質から精神へ……という事になる。
 私は思う。すべての芸術の進化の方面は唯二つしかない……と……。
 たとえば先ず、ここに一人の芸術家アルファがあらわれて、初めて彫刻という芸術を創始したとする。そうして一生の中にA、B、C、D、E……という風に色々の標題の彫刻を作って死ぬ。
 そうするとその後を嗣(つ)いだ弟子のビータは、師たり、先輩たるアルファの残した作品を観賞研究し、更に今一歩進んだ芸術的心境を盛り込んだL、M、N、O、P、Q……という数百千の彫刻を作って死ぬ。その次のガムマも亦同様の仕事を繰返して死ぬ……という順序で、人類世界に存在する彫刻作品の数は殖(ふ)えるばかり。すなわち、その芸術が進歩向上して行くに連れて、新しい作品が無限に数を増して行く……という……これが芸術の進化の一方法で、現在地球の表面上に於ける大部分の芸術はこの方法によって進化向上しつつあるようである。
 然るに今一つの進化の仕方はこれと正反対で、進歩すると共に減って行くという行き方である。
 すなわち、第一代の彫刻家Aが作った甲乙丙丁以下数百千の彫刻を第二代のBが鑑賞し批判しつつ、毎日毎日精魂を凝らして眺めているうちに、どうも気に入らぬ処が出来て来る。あそこを削ったら……又は、あそこを今少し高めたら……とか思うようになる。そんな処を甲乙丙丁の一つ一つに就いて、慎重に研究しては直し、直しては研究しつつ、一生を終る。そのあとを第三代のCが引き受けて、やはり同じ仕事を繰り返しつつ、その彫刻の価値を益々向上させて死ぬ。一方に、BもCも手を入れる気にならぬような、つまらないものは、そのままに残って、第四代のDに渡る。
 こうして代を重ねて行くうちに、第一代のAが作った数千の彫刻の中で、芸術的価値の高いものは益々手を入れられてよくなるし、手を入れる張合いのないようなものは、いつまでも放ったらかされて、忘れられてしまう。遂には廃棄せられて、毀(こわ)れてしまう。すなわち現世に存在する彫刻の数が減って行くのであるが、そんな事は、些(すこ)しも気にかけられずに益々よいものを良くして悪いものを棄てて行こうとする。最も芸術的に高潮した作品が一つでも残れば……という考えで進んで行く。
 これは「減って行く進化の形式」であるが、これと正反対の「殖えて行く進化の形式」を執(と)る世界一般の芸術も、つまるところ同じ所に行きつくのであるまいか……只、その途中に於て、時間的、空間的に恐ろしく大きな無駄をする事は明らかな道理で、能のように減って行く式の進化の方法を執る方が遥かに有利ではあるまいか……芸術的に高潮して行く度合いが何層倍か早くはあるまいかと考えられる。従って世界中でただ独り? そうした形式で進化して来た能は、つまるところ世界中で最高度に洗練された芸術である。そうして常にその時代の芸術と格段な距離を作ってトップを切り、且つこれをリードして行く芸術であるという三段論法が大掴みながら考えられる。
 こうした芸術進化の二方式の優劣論は暫くお預りとして、事実「能」は斯様(かよう)な進化の方法を非常な努力と自信の下に執って来た、世界に稀な芸術である。しかもそうした進化の方法の有利さを実際に証明しつつあり、且つ将来に於て益々証明せんとしている。云わば吾等日本民族が、先祖代々から、子々孫々に到るまで、総がかりで完成すべく努めている綜合芸術のエッセンスであろう。
 ヘブライ文化が基督(キリスト)教を、支那文化が儒教を、印度文化が仏教をそれぞれ数千年がかりで生んだ。その通りに何千年か、何万年か生存すべき日本民族の一代がかりで能を完成しつつある。酔い易い日本民族が、終始一貫した努力を払って……。

     能楽成立以前

 能の曲の内容をよくよく翫味(がんみ)してみると、実に雑然として混沌たるものがある。乞食歌もあれば、お経文もある。純日本式の思想もあれば、支那、印度の思想も取り入れられている。装束の模様、彫刻の刀法、その他、何から何まで陳紛漢紛(ちんぷんかんぷん)のゴモクタ芸術であるが、それを純日本人式の芸術的表現力を以て、最高度に統一支配して、透きとおるほど切実に観る者、聴くものに迫って来る。そうした事実を尚深く遡って考えると、能が出来る迄には雅楽、幸若舞(こうわかまい)、田楽、何々舞、何々狂言なぞいう、能楽の前身とも云うべきものが非常に発達していたらしい。しかもそうした諸般の演出物は、或は芸術的の迷妄に陥り、又は民衆に媚びて堕落し、又は儀礼的に高踏し過ぎて、芸術的の迷妄や行き詰りに陥りつつも、何かしらより高尚な、より充実した……或るタマラナイ表現慾を満足させ得べき芸術……すなわち能を生み出すべく、生みの悩みを続けていたものらしい。
 そのような慾求の中から生まれたものが能である事を信じたい。能は、こしらえたものでなく、出来たものである事を私は飽く迄も信じたい。
 私は学者でないから、そのような事を如実に考証する力はないが、今日迄色々聞いた話や、又は能の各曲が「いつ頃、誰の手によって出来たものである」というハッキリした記録が無いらしい事実なぞを考え合わせると、どうもそんな気がしてならない。
 能の作者は色々伝えられているようであるが、どれも彼(か)もが結び付けて伝えたらしい感じがする。且つ、義太夫なぞは、手を付けた三味線引きや、初めて興行された劇場の種類、初めて演出した俳優や人形使いの名前なぞと一所(いっしょ)に、作者の名前が演出の手法の上に大きな影響をするものと聞いたが、能ではそんな事は絶対に顧慮されない。従って能の作者の名前は時代と共に忘れられて行く。
 能の作者は、かくして結局、神秘的存在となって行くように思うのは私が無学だからであろうか。それとも思い做(な)しであろうか。
 いずれにしても私は自分の無学と共に確信している。能は作ったものでない。自然と生れ出たものである。そうして事実上、生まれ出たものと同様の生命と進化力を持っている。進化の途中に在る色々な不完全さと、どこまで向上するかわからぬ溌溂さを持っている。
 能は日本民族最高の表現慾が生んだものに相違ない。作者の有無に拘(かか)わらず……と……。

     曲の進化

 最初に能の曲目が千番か二千番存在していたとすると、能役者の表現慾は、その中でもいいものを今一度演(や)って見たいと要求する。一方に観客の観賞慾も亦同様に、あれを今一度見たいと願う。双方相俟(あいま)って、ここに真剣な芸術の研成機運が生まれる。即ち玄人(くろうと)と素人、芸術と批評、実際と理想……と、そうした裏と表の両面から篩(ふるい)にかけて選み出されたものはキット内容の充実した……舞台表現として成功した曲にきまっている。
 そこでこれを幾度も幾度も繰返し繰返し演出してみると、まだ足りない処や余計な処があるのが発見される。全体から見てはいいけれども焦点がハッキリしない……重点の置き処がズレている。……出来過ぎた処がある……ダレた処がある……ああでもない、こうでもいけない……と演出される度毎(たびごと)に洗練され、煎じ詰められて来る。
 こうして洗練されて来るうちに、洗練し甲斐のない事が判明して来た曲目は一つ一つに棄てられて行く。すなわちどこか喰い足りないために見物が見たがらないし、役者の方も張り合いがないというわけで、次第に演ずる度合いが些(すくな)くなって行く。それでも暫くは保存されているが、遂には廃せられてしまう。
 これに反して、いいものはわるいものよりもはるかに度数をかけて洗練される結果、いよいよ立派なものになって行く。後世の人々の血も涙も無い観賞眼、又は演者の芸術的良心によって益々芸術的に光ったものとなされて行く。……全体の調和と変化が極く必要な部分だけ残されて、曲の緊張味とか、余裕とかいうものが、あくまでも適当に按配され、シックリさせられて行く。その装束の極めて小さな部分、舞の一手、謡の一句一節、鼓の手の一粒に到るまでも、古名人が代を重ねて洗練して来た芸術的良心の純真純美さが籠(こ)もって来る。
 かくして能の表現は次第次第に写実を脱却して象徴? へ……俗受けを棄てて純真へ……華麗から率直へ……客観から主観へ……最高の芸術的良心の表現へ……透徹した生命の躍動へと進化して行く。画で云えば、未来派、構成派、感覚派、印象派なぞいう式の表現のなやみは夙(とっ)くの昔に通過してしまった。狩野派、土佐派、何々流式の線や色の主張も、飄逸(ひょういつ)も、洒脱(しゃだつ)も、雄渾も、枯淡も棄て、唯一気に生命本源へ突貫して行く芸術になってしまった。そうした遺跡が現在の能の中に重なり合い、閃めき合いつつ残っている。真剣な玄人は知、不知の中にそうした進化の跡を辿り味わいつつ自分の芸を向上させつつある。一心に能を渇仰(かつごう)し、欣求(ごんぐ)しつつある。……技巧から魂へ……魂から霊へ……霊から一如へ……。
 だから目下の能は、芝居なぞに比較すると、その表現が遥かに単純率直である。元始のままの処が残っている。元始の状態へ逆戻りしつつある処さえあるらしい。しかしその表現の内容、陰影、余韻などいう芸術的の要素は新作新作と大衆に迎合して行く他の芸術と比較されぬくらい深く、鋭く、貴く、美しく純化され、一如化されて来ている。
 一方にその舞、謡、囃子は、手法が簡単であるために、あまり天分のない素人にまでも習われ易くなっている。そうしてこれを習ってみると、初め異様に、不可解に感ぜられていた舞の手、謡の節、囃子の一クサリの中から、理屈なしに或る気持ちのいい芸術的の感銘を受けられる。そこに含まれている古人の芸術的良心……すなわちそんな単純さにまで洗練された人間性の純真純美さが天分に応じ、練習に応じて、次第次第に深く感得されるようになっている。すなわち能は非常に高踏的な芸術であると同時に、一方から見ると、極端に大衆的になっている。貴族的であると同時に平民的であり得るところまで、単純素朴化され、純真純美化されている。
 この道理は小謡の一節、囃子の一クサリ、舞の一と手を習っても、直に不言不語の裡にうなずかれる。昨日(きのう)の喰わず嫌いが、きょうは能狂になるくらい端的である。
 尚、能の進化は家元制度を参考すると一層よく解る。

     家元制度

 能は日本の封建時代から生れて来たものであるから、能を職分とする者が世襲制度を執(と)るのは自然の傾向かも知れぬ。しかし、能楽が家元制度の下に発達したに就いては別にモット深い、万止むを得ない理由がある。
 能楽の主演者の家元に五つの流派がある。金春、金剛、観世、宝生、喜多(発生の年代順)がそれである。
 金春の流風は古雅なプリミチブな技巧を多く含んだ流儀で、極く昔の能楽の姿や精神を見るにはこの流儀の演出を見るがいいようである。
 金剛流は金春を今些し世俗向きにしたようなもので、写実的要素やキワドイ変化の手法を多く取り入れられているようである。
 観世流は以上の如く変化して来た能楽に、又一転期を劃したもので、部分的にも全体的にも華麗円満な演出を理想としている。金春を下絵、金剛を荒彫りとすれば、観世は彫り上げて磨きをかけて角々を丸くしたようなもので、見方によっては金春の古雅を転化して円満味とし、金剛の尖鋭さを消化して華麗味としたものかとも考えられる。能楽愛好者の九十何パーセントがこの流儀に属しているのは無理もない。
 宝生流は観世流に次いで起ったものだそうである。その流風は観世の円満味を多角的に分解し、華麗味を直線的に引直して、威厳を増した……とでも形容しようか。その流儀の主張は謹厳剛直に在るらしく、殊にその謡方(うたいかた)にそうした特徴があらわれている。
 観世は円満華麗という能の肉付を尊重し、宝生は謹厳剛直という能の骨格を見せていると評しようか。観世の下手がイヤ味になり、宝生の下手が滑稽味に陥り易いのを見ても二流の主張の相違がわかる。いずれにしても二者共にその流風は完成されたものとなっていて、その主張が一般の能楽同好者によく理解される。現在ポピュラーな流儀としてこの二流が動かすべからざる根柢を張っているのは当然である。
 喜多流は最も新しく起ったものである。その主張は外面から見れば各流のいい処ばかり採ったもの……即ち各流の無駄な表現を除いて演出を単純化したもので、素直、玲朗をモットーとしている。内面的に云えば在来の能の表現を一層求心的にしたもので、喜多流の能が完成すれば最も単純な、最も透徹した仮面舞台表現が出現する訳である。
 尚この他に梅若派というのが最近に観世流から分派したが、一流と認めるか認めないかで紛議中と聞くからここには略する。唯、その一派の芸風は観世の円満華麗を一層あらわにキワドくしたようなものである事を云い添えるだけにしておく。
 以上の五流は、それぞれ家元制度によって分派され、守護され、洗練されて来たものであるが、その家元制度の内容はナカナカ複雑多様である。

     家元の組織と仕事

 家元の組織と仕事は、流儀によって異同があるが、ここではいい加減に取捨して話す。
 能楽の家元はそれぞれ自流所属の舞台、楽屋、住宅を持ち、自流の能の演出、発表に必要な舞い手、又は謡い手として必要な内弟子を養っている。理想を云えば、助演者や、囃方、狂言方までも自流専属のものを養って、自流の主張と調和させ、演出を徹底せしむべく教養したいのであるが、これは色々な関係から中々実現し難い事情に在る。だから現在では何流の家元でも自流の内弟子だけしか養成していない。
 その内弟子は日本国中の同流の愛好者から紹介されたり、又は自ら望んで来たり、又は内弟子の有力者や、家元自身が見込んで連れて来た者なぞ色々である。皆家元の家来もしくは書生同様に育てられるので、稚(おさな)いうちは学校に遣ってもらう、傍(かたわ)ら兄弟子から芸を仕込まれたり、自分で研究したりする。つまり一種の天才教育である。
 やがて一通り芸が出来るようになると、教授の資格を貰い、舞台に出演を許される。同時に家元の所に来る素人のお弟子にお稽古をつける事になるが、その収入は無論家元のものになる。その他に自分自身で素人のお弟子の家に出稽古に行くが、これは自分の収入となる。そうして軈(やが)て相当の年輩となり、独立の見込みが立つと、家元の寄食生活を出て、家を持つ。
 家元は、これ等の内弟子を教養すると同時に、各地方地方でその流派の盛んな処へ自分の弟子を稽古に遣る。その振り割りは家元の責任であり且つ権利であるが、なるべく不平の起らぬようにしてやらねばならぬ。そうした地盤の事や何かで弟子仲間に紛擾(ふんじょう)が起れば、無論家元が裁判せねばならぬ。
 又、家元は各地方に散在する教授とか師範とかいうものの芸道を取り締り、且つ指導せねばならぬので、これを怠るとその流儀の衰亡を招くわけになる。同時に、その師範や教授、又は内弟子が教えている素人弟子の免状を発行してその料金を取る。教えている師範や教授の免状も同様である。
 又家元は自流の舞台で毎月、又は年に何回の能を催し入場料を取る。又、自流の名を冠した会を起し、会費を取り、いろいろの催しや、刊行物なぞを出しているのもある。
 又、家元は自流に属する謡本や、その他、能楽関係の書類の刊行権、又は版権を持っていて、重要な収入として取扱っている。
 又、家元は自分自身にも身分ある人々の処や何かの処へ稽古をつけに行く。又、中央都市や地方の定期の会、その他の催しに於ける演能の諾否を決定し、曲目を撰み、出演者の役割りをきめる。
 又、家元は、自流の能楽の演出、維持、興隆その他に就いて、他流の主演者、助演者、狂言方、囃方等との極めて面倒な交渉の最後の決定権を握るほかに、流儀内の素人、玄人を通じて来る芸道上の質問その他に就いて最後の断定を与え、流儀の向上普及、堕落防止に努め、傍ら装束、仮面等を手入れ新調しつつ、能楽の向上研成を期せねばならぬ。
 こう説明して来ると家元というものはなかなか大変なもので、生やさしい人物がなれるものでない。最高級の芸術家と、政治家と、興行家とを兼ねたような仕事が、実際上一人で兼ねられるものか知らんと思う人もあるらしいが、実際上出来ても出来なくても、能楽の家元となった以上そうしなければならぬ理由がある。
 元来能楽の家元というものは、政治や何かの方で云う大統領とか、首相とか、親分(ボス)なぞいう実世間的な仕事をするものと違って、自流の芸術的主張を維持し研成する任務を持っている、芸術本位の世界の中心人物である。
 ところで、政治や何かだと代議制度とか、共和制度とかでやって行けるかも知れないが、芸術の世界はそうは行かない。家元が自身鍛練した芸風によって、自流の世界を統一薫化すると同時に、他流の世界と闘って自流の流是を貫いて行かねばならぬ。だから、家元ばかりはドンナ事があっても衣食に困らないようにして、芸道の研究に生涯を捧げ、時流に媚びず、批評家に過(あや)またれず、一意専心、自己の信念に向って精進せねばならぬ。
 家元は自己の芸が能楽の向上進化の中心線に合致していると信ずる以上、自己の演出が天下一般に理解されなくともよい。自他の流儀の玄人、素人に笑われてもよい。自流の最上級の二三人に理解されるだけでよい。否、時としてはそのような人間最高の理解さえも求めずに、一意信念に向って邁進しなければならぬ。一切の他人から下手とか邪道とか認められて、自流の権威が地に堕ちても構わぬ決心さえ必要である。
 実際そのような高級な芸術家が昔居たらしいが、後世からはなかなかわからない。
 しかし普通の場合は家元の芸のよしあしに伴って流儀が盛衰興亡するのが原則となっていると同時に、自分の芸を中心とした弟子を養ったり、宣伝をしたり、家元としての体面を保ったり、交際を広めたりしなければ、その流儀は世俗の軽蔑を受けることになる。極めて上流の生活を営みつつ、所謂親分の仕事をやって行かねば結局喰えない事になる。
 芸というものは人間の仕事として最後のもので、無用の閑事業中の無用の閑事業である。その中でも亦、最高第一等の閑事業と見られている能……非常に尨大で、しかも娯楽的の実用価値さえも含まぬと考えられている能を保存して、発展向上させるためには、色々の無理や矛盾が出来て来るのは止むを得ない。能楽家はこうした無理や矛盾と、寝ても醒めても闘わねばならぬ。わけても新興の流儀に属する人々は特にそうである。
 前記の諸収入を基礎とした、芸術家、興行家、兼政治家式の家元中心制度が生まれるのは誠に是非もない事である。
 各流の家元の中には、芸が下手なばかりでなく、品性や品行の点にも大きな欠陥を持った人も随分あった。随って前記の諸収入が「流儀のため」という目的以外の、家元の私的生活に濫費された例は珍しくないようである。しかしそれでも極端でない限り、家元として保護され、尊敬されて来た例が、やはり珍らしくない。この事実は吾国民の芸術愛好慾が、如何に底強いかを裏書しているとも考えられる。
 又一面から見て、能楽は絵や彫刻なぞと違って、後に残らない。何月何日に何流の何某が舞った何々の曲は、それを見た人の印象に残り、話に伝わるのみである。今にトーキーか何かで伝わるようになるかも知れぬが……。だから、その流儀の勢力拡張のためばかりでなく、その流儀の保存のために、家元の世襲制度が必要となって来る。

     家元の世襲制度

 家元の世襲制度には実子後継と養子後継と二種類ある。実子後継の方は、どうにも工合がわるいらしい。どんな名人でも実子が自分の天分を受け継いでいるとは限らない。受け継いでいるように見えても実は単に、見慣れ聞き慣れ、見よう見真似に過ぎなかったりする。本当に受け継いでいるにしても、親の贔屓(ひいき)目という本能が邪魔をして徹底した教育鍛練が行われ難い。又、子は子で、親の威光や、お譲りの名前や技巧に依頼する心が無意識に働らくので、修業に弛(ゆる)みが出来るらしい。吾が子を思い切り仮借せずに鍛い上げた例話が芸界の美談として残っているが、その間にも親子の情愛が動くのは止むを得ない。純一な芸道教育にまで徹底し得なかった消息がたやすくうかがわれる。
 これに反して養子制度の方は工合よく行くもののようである。ここに一人の名人があって、能楽はかくあるべきものと信じて苦心研鑽をして来た結果、前途に疑いもない大光明を認め、遂に一流の開祖となって旧来の各流と相対峙し、弟子を養い、流風を宣揚するとする。同時にその人は当時第一流の芸術家や名僧智識達にも容易に理解されない程の深遠な芸術の哲理を体得しているので、どうかしてこれを後世に伝えたいと思うが、これを理解するものが一人も無いとする。
 普通の芸術だと、こうした玄妙を後世に伝えるのは不可能である。殊に色にも音にも残らないものならば、結局一人一代限りとなるべき筈であるが、能楽に限ってはこれを後世に伝える事が必ずしも不可能でない。
 その方法が家元の養子制度である。
 能は前にも述べたように、代々の名人上手によって洗練に洗練を重ねられて来た型(舞、謡、囃子等の全部を含む)に自己を当てはめて、更にソレを洗練に洗練した型を残す……という方法で、代を重ねて向上して来たもので、能とは要するに、人間の表現慾の極致、芸術的良心の精髄を、色にも型にも残らぬ型というものによって伝えて行くものである。だから、その型を理解し得ないものは、その型は舞えない事になっており、その一節、その一クサリと全曲との関係を味い得ないものには、その曲は謡えず囃(はや)せない事になっている(最も厳正な意味から云って)。
 たとえば邯鄲(かんたん)という曲に於て、主演者の盧生という人物が、能を終って引っこみがけに、自分の持っていた団扇(うちわ)を、舞台に置き忘れたまま幕に入る型がある(通常は持って引っ込む)。これは昔或る名人が、本当に人生を達観した盧生の気持ちになっていたために、本当に置き忘れて引っ込んだので、今以て、いい型として残っているが、サテ誰もこの型を再びやる者が居ない。何となれば、忘れようとして忘れたのは本当に忘れたのではない。真実の型とは云えないから誰一人として演るものが居ない。或はこの型が残ったために、後世に於ても永久にこの型をやる者が無くなるかも知れぬ。
 能の型は、それ程に神聖なもので、その境地に本当に這入った者でなければ、その型の精神はわからない。その演者の個性がそこまで洗練され、その人間の芸術的良心が、そこまで高潮されなければ、絶対に体得出来ないのが能の型であるという事が断言出来る。この意味から、或る一流の家元となった名人は、色々な深刻な、高潮した型を残して、後世に伝えようとする。しかし生やさしい者には伝えられない。
 こうなると吾児(わがこ)の幸福なぞは問題でない。吾児以外の誰でもいい。若い、頭のある、見込みのある者を自身に教育して、その人間の「能」を自分の程度にまで向上させて、自分の型を理解させるよりほかに方法がなくなる。そこで、一所懸命になって、そんな人間を探し出して、自分の流派の後継者として、精彩を尽して薫育をする。
 その教育方法は、随分、思い切って手酷いもので、時と場合によってはその養子の生命をさえかえりみない。これに堪え得ないような芸術的向上心の薄いものは、将来の流儀の精神と、物質的繁栄の根元たるべき家元の地位を預けるに足らぬ者と考えられているようである。
 尤(もっと)もかような厳しい教育は、凡(すべ)ての芸術教育に在り勝ちの傾向で、能楽に限った事ではないようであるが、しかし、能楽者の子弟の教育は特に斯様に厳格でなければならぬ大きな理由がある。
 前にも述べた通り、「能楽」という芸術は、新作物を受け付けぬどころでなく、逆に旧作のものの中でも芸術価値の薄いものは、容赦なく自然消滅をさせつつ発達向上して行く芸術である。だから現在選み残されている二百番足らずの曲目のドレ一つとして古名人の心血を絞っていないものはない。その一節、一手、一句切りと雖(いえど)も、実に古人の生涯を賭した百繰千練の賜でないものはないのである。能の隅々までも行き渡っている、云い知れぬ「アリガタサ」や「ヨサ」はかくして生み出され、伝えられたものに外ならないのである。
 後に生れた者は素人も玄人も共に、そんな古人の苦心をソックリそのまま無代価で頂戴している。その「ヨサ」や「アリガタサ」を学ぶだけの苦労で、これを楽しみ、これによって衣食する事が出来るのである。よしや古人の苦心なぞ理解し得ずとも、習った通りに演じておりさえすれば、トニモカクニモおまんまが喰って行けるのである。
 こうした「芸の祖先」の恩を知らない玄人は能を知らない者である。能楽師たる資格のない者である。素人と玄人との本当の区別はこの心がけの在る無しによって決定する。
 新作物を出すなぞいう者は、やはり能の使命を理解し得ない芸術界の浅薄児、狂躁輩である。流石(さすが)に玄人にこのような企てをする人が居ないのはさもあるべき事である。
 しかし玄人でも、こうして生まれた能のヨサ、有り難さが解かっていながらに、一と通り芸が出来るようになると、自分独りで豪(えら)くなったように思って、恣(ほしいまま)に羽根を伸したり、新手を編み出したりする者があれば、それは能楽界の外道である。能の堕落の誘因にこそなれ、能楽向上の足しにはならない。
 能を今日に伝えた先祖代々の苦心を察して、その恩を忘れない能楽師ならば、その芸は如何に下手でも、必ず能としての本当の品位を保っているものである。現代に於て名ある達者上手でも、この心掛けのない人の芸は、表面如何に立派でも、その奥に能楽独得の芸的高貴さが光らない。
「心を空しくして恩を感じ、身を励ます」という事は人間最高の心掛けである。この心を片時も忘るる時は、その片時から芸が堕落しはじめる。
 能はかくして人間最高の心がけを要求する芸術である……その心掛けのみを唯一の中心生命として今日に伝わり、生きて輝やき、時代に超然として、時代芸術のトップを切って行きつつある。だから少し油断をすると直ぐに堕落し易い。況(いわ)んや今日のように能楽師が各自にめいめいの芸を売って生活しなければならなくなれば尚更である。祖先が折角向上させた能を堕落させて大衆に媚びつつ生活して行くのを当然の権利と心得、結局能楽を自滅させるに到るであろう事は明白である。
 能楽師の芸術教育が特に厳格でなければならぬ理由は最早説明を要しないであろう。
 能楽師はこの意味でその子弟を鍛えねばならぬ。その型の仕込みの一つ一つに諸先輩の苦労を思い知らせねばならぬ。自分の相伝された時の艱難(かんなん)を覚らせねばならぬ。「先祖代々の形容に絶した苦心の集積を譲り受けて衣食するのだぞ。そのおかげで他人の師となって、尊敬を受けて行く事が出来るのだぞ。この恩のわからない奴は能のわからない奴だぞ」……という心をどこまでもタタキ込んで行かねばならぬ。
 これが能楽師たる者の最高の職分である。
 これが能の生命の根源である。
 ところが能をやる者は人間である。人間である以上、めいめい自分の頭の程度に能を解釈して勝手に羽根を伸ばしたい。一番イヤな恩なぞは感じたくない……というのが人情である。そうして識らず識らずの間に自分の芸を堕落させて大衆に迎合して行く。能楽界の外道となって行くのが多い勝ちである。
 これを喰い止めて行く最後の責任者は家元である。家元が祖先の恩を忘れたならば、その流儀の能は遠からず、あらゆる意味に於て滅亡して行く。否。その忘れた瞬間から滅亡し初める。

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