梅津只円翁伝
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著者名:夢野久作 URL:../../index_pages/person969

家業ではないか」と云って頑として稽古を続けた。

          ◇

 弟子に対する稽古の厳重、慎重であった事は、事柄が事柄だけに最も多く云い伝えられている。殆んど数限りがない位である。
 翁の弟子には素人玄人の区別がなかった。又弟子の器用無器用、年齢の高下、謝礼の多少なぞは一切問題にせずに、殆んど弟子をタタキ殺しかねまじき勢いで稽古を鍛い込んだ。一人も稽古人が来なくなっても構わない勢いで残忍、酷忍、酷烈なタタキ込み方をした。むろん御機嫌を取って弟子を殖(ふ)やそうなぞいう気は毛頭なかったので、現今のような幇間(ほうかん)式お稽古の流行時代だったら瞬く間に翁の門下は絶滅していたであろう。
 翁のこうした稽古振の裡面には、よしや日本中の能楽が滅亡するとも、自分の信ずる能楽の格だけは断じて崩すまい。その精神で上は神明に仕え下は自己の修養に資しようという無敵、潔白の自負と、いい加減な弟子を後世に残して流風を堕落させては師匠の相伝に対して相済まぬ。それよりも自分の門下を絶った方が正しいという非常時的な大決心が一貫していた事が、明らかに認められる。
 能楽は平時の武士道の精華である。舞台はその戦場である。だから稽古は生命を棄てて芸道に生きる方便である。すなわち「捨身成仏(しゃしんじょうぶつ)」が芸道の根本精神でなければならぬ……というのが翁自身のモットーであり、数々の訓戒に含まれている不言不語の点睛であったらしい。次のような逸話の数々が残っている。

          ◇

 翁は初心者が復習する事を禁じた。新しい小謡を習った青少年達が帰りがけに翁の表門を出ると、直ぐに大きな声で嬉しそうに連吟して行くのを聞き付けた翁は、その次の稽古日に必ず訓戒した。
「お前達はあのような自分勝手な謡を自分勝手に謡うことはならぬ。必ず私の前に来て謡いなさい。そうせねば謡が崩れて悪い癖が付く。一度悪い癖が付くとなかなか直らぬものだ」
 弟子達は皆恥じて小さくなった。しかし、それでも謡いたいので、門を出ると翁に聞こえぬ位の小声で謡って、だんだん遠くなると大声で怒鳴りながら家へ帰ると、いよいよ大得意になって習い立ての小謡を謡った。家人も梅津先生から習い立ての謡というと謹んで聞いたものだという。
 ところがその次の翁の稽古日に翁の前で復習させられると、直ぐに我儘謡を謡った事を看破されて驚き且つ赤面した。
「そげな節をば誰から習うたか。又、自分で勝手に復習しつろう」
 と云うのであった。そのたんびに、子供心に「どこが違うのだろう。習った通りに稽古したつもりだが」……と不思議に思い思いしたという。(佐藤文次郎氏談)

          ◇

 高弟梅津朔造氏はもう五十を越していた。斑白頭(はんぱくあたま)の瘠せこけた病身の人で、喘息(ぜんそく)が持病であったが、頑健な翁によく舞台の上で突飛ばされた。当時二十歳前後の屈強の青年であった梅津利彦氏なども、やはり突飛ばされた組で、当時九歳か十歳であった筆者ですらもその例に洩れなかった。
 但し筆者は幼少であった故(ゆえ)か、こうした体刑を受けた事は極めて稀であった代りに、「ソラソラ……又……又ッ」という大喝の下に遣り直させられた事が、大人よりも多かったように思う。
 中の舞の初段の左右の型のところで気が掛からないと云って十遍ばかり遣り直させられてスッカリ涙ぐんだあとで、利彦氏が同じ稽古(男舞)で又やり直し十数回の後、とうとう突飛ばされてしまったのを見て、「出来ないのは自分ばかりじゃないな」と窃(ひそか)に得意になった事もある。
 翁の晩年の弟子の中で最も嘱望(しょくぼう)されていたのは斎田惟成氏であった。この人の稽古振りや能の舞いぶりを筆者は在京中であったために、あまり見ていなかったが、よほど烈しいものがあったと伝え聞いている。
 やはり五十近かった氏に、口の開き方が悪いと云って張扇を突込んだり、「首が縮む、シャンとせよ」と云って張扇で鼻の下からハネ上げて鼻血を出させたりしたという話である。しかもそれが冬の極寒の時であったというから随分辛かったであろう。むろんその鼻血ぐらいの事で稽古中止にはならない。斎田氏は襟元を血だらけにしたまま舞い続けたという。

          ◇

 梅津朔造氏の「安宅」の披露能の時であった。勧進帳が済んで関所を越え、下曲(くせ)前のサシ謡のところへ来るとシテの朔造氏がホッとしたものか、急に持病の喘息が差込んで来て、「たださながらに十余人」の謡を謡いさしたまま息を呑んでシテ座に平伏してしまった。
 そこで謡を誰が代りに謡ったか記憶しないが下曲を終り、ワキとの懸合(かけあ)いに入ると、やっと朔造氏が気息を繕(つくろ)って顔色蒼然たるまま謡い出し、山伏舞を勤め終ったが、その焦瘁(しょうすい)疲労の状は見るも気の毒な位であった。
 朔造氏は幕に這入ると、装束のまま楽屋の畳の上に平伏して息も絶え絶えに噎(む)せ入ったが、その背後から翁が、
「ええい……このヒョロヒョロ弁慶……ヒョロヒョロ弁慶……」
 と罵倒する大声が、舞台、見所(けんしょ)は勿論、近隣までも響き渡ったので、観衆は皆眼を丸くして顔を見合わせていた。
 その時の筆者は十四五歳であったろうか。何事かと思って見所から楽屋を覗きに行ったものであったが、その時の翁の声と顔付の恐ろしかった事を想起すると、今でも肌に粟を生ずる思いがある。

          ◇

 梅津利彦氏が十七八歳頃の事であったろうか。右手に赤塗のお盆を持って翁の後から舞台に行くので、子供心に何事かと思って随(つ)いて行った。
 元来利彦氏のお稽古は、翁が自分の芸の後継者と思っていたのであろう。極度の酷烈を極めたものであったので、私は見るに忍びないために滅多にお稽古を拝見せず、外で遊ぶ事にきめていたのであった。
 ところが舞台に入ってみると、「野守(のもり)」の「切(きり)」のお稽古で、その稽古振りの猛烈なこと、とても形容の及ぶところでない。武道、その他の勝負等の場合には、相手の調子によって気合いが抜ける場合がないとも限らないが、能の仕舞の如きは、体力、芸力の気合いが寸分の隙間もなく続いて行かねばならぬ。……その気合いを抜いて上手に舞おうと心掛けるのは負けて逃げるのと同じこと。喜多流では許さぬ。「それじゃけに喜多流は六(むず)かしい」……と翁が人に話していた言葉を記憶しているが、正にその通りで、殊に「野守」の仕舞の如きは、その前後に見た翁の稽古の中でも最も峻厳、酷烈を極めたものであったように思う。舞台面のモノスゴサに惹きつけられて、身動きも出来ず見ているうちに、体を緩めたり、気を抜く余裕なんか只の一刹那もないところを翁が教育している事が、子供心にもハッキリとわかった。
 血気盛んな利彦氏が渾身の気合いをかけて前進し、非常な勢いで身をかわして踏み止まろうとするが、止まれない。腰が浮き上ってノメリそうになる。そこを全力を上げて踏み止まると、鏡代用の赤いお盆を持つ左手の気が抜けている。
 翁は「ホラホラッ。それで鏡に見えるかッ」とか、「鬼ぞ鬼ぞ。地獄の鬼ぞ。鬼神ぞ鬼神ぞ。ヒョロヒョロ腰の人間ではないぞないぞ」と皮肉を怒号しながら滅多無性に張扇をタタキまくる。
 利彦氏の顔は見る見る汗と涙にまみれて、肩は大浪を打ち、息は嵐のように息吹(いぶ)き初める。精も根も尽き果てながら舞い終って片膝を突くと、「さあ、今一度舞え。最後の気合いが途中で抜けちゃ詰まらん。鬼ぞ鬼ぞ。地獄の鬼神ぞ。ええか……おそろしや打火かがやく鏡の面に……」とアシライはじめる。さながらの地獄の光景である。
 そのうちに利彦氏の腰付が心気の疲労のためいよいよ危くなって来ると、とうとう翁が癇癪(かんしゃく)を起して、張扇を二本右手に持ってヒョロヒョロと立上って来た。この頃から翁は軽い中風の気味で、左足を引擦(ひきず)っていたのであるが、利彦氏が突飛ばされた拍子に投出した赤いお盆を拾い取ると、翁は自身で朗々と謡いながら舞い初めたが驚いた。
 その身体(からだ)の軽い事。まるで木の葉のようにヒラヒラと身を翻(ひるが)えす。赤いお盆がそれこそサーチライトのようにギラリギラリと輝きまわり屈折しまわる。おしまいに三尺ばかり飛上って座った翁の膝の下から起った音響の猛烈だったこと、板張が砕けたかと思った。
「この通り……ようと(充分の意)稽古しておきなさい」
 と窘(たしな)めておいて、翁は筆者を振返った。
「さあ。今度はアンタじゃ。『敦盛』じゃったのう」
「ハイ」
 と答えたまま筆者は後見座に釘付になって立上れなかった事を記憶している。あんまり固くなって足がシビレていたのだ。

          ◇

 翁の皮肉も亦(また)、尋常でなかった。何やらの地謡の申合わせの時に、翁の居間の机の前に六七人並んで謡(うたい)合わせながら翁に聴いてもらっていた。
 その中の某氏(名前は預かる)が謡の文句をつないでいなかったらしく、小さな声で地頭の謡にくっ付いて行った。
 それを聞き咎(とが)めた翁はアシライの手をピタリと止めて、皆の顔を覗き込むように見まわした。
「誰かいな。誰か一人小さい声で謡い居るが、聞き苦しゅうてたまらん。誰かいな」
 とギョロギョロ見まわした。ナアニ……翁はその小さい声の主をちゃんと知っていたのであるが、特に窘(たしな)めるために故意とこうした意地の悪い態度を執(と)ったものである。
 そうして幾度も幾度も根気強く「誰かいな誰かいな」を繰返して、トウトウ「私で御座います」と白状させた。
「怪しからん。充分謡が出来もせぬ癖に大切なお能の舞台に出ようとするけに、他人(ひと)に迷惑をかけて、要らざる恥を掻きなさる。その心掛がいかん。私は出来ませんと云うて、何故最初から遠慮しなさらんかいな。鍛練に鍛練を重ねても十分につとまるかどうか判らぬとがお能の常習(つね)じゃ。そげな卑屈な心掛で舞台に出ても宜(え)えものと思うて居(お)んなさるとな。私の眼の黒いうちは其様(そげ)な事は許さん。今度の地謡にはアンタ一人出席を断る。この次から了簡を入れ換えて来なさい」
 とうとうその場で某氏は抓(つま)みのけられてしまった。
 そのお能の当日の地謡の真剣さというものは恐ろしい位の出来であったという。(故林直規氏談)

          ◇

 或る時、やはり五六人の門下が並んで同吟していた。相当出来た人ばかりであったが、その中の一人が正座した足趾(あしゆび)の先で拍子を取っているのを敏感な翁が発見した。
「コラコラ。お前は足の先で拍子をとり居ろうが」
 その人は愕然(がくぜん)として色を失った。翁は怫然として言葉を続けた。
「拍子謡はならぬと云うのに何故コソコソと拍子を取んなさるか。其様(そげ)に拍子を取って謡いたいならほかの遊芸をば稽古しなさい。まっと面白かもんのイクラでもある」(桐山孫二郎氏談)

          ◇

 度々筆者自身の事を書くので如何にも名聞がましくて気が差すが平にお許しを願いたい。
 筆者の祖父は旧名三郎平、黒田藩の応接方で後、灌園と号し漢学を教えて生活していた。私は生れると間もなくからその祖父母の手一つで極度に甘やかして育てられたものであった。
 祖父は旧藩時代から翁のお相手のワキ役を仰付られ、春藤流(今は絶えた)脇方の伝書聞書を持っていた。
 そのせいか祖父灌園は非常というよりも、むしろ狂に近い只圓翁の崇拝者であった。筆者の父や叔父、親類連中は勿論のこと、同郷出身の相当の名士や豪傑が来ても頭ごなしに遣り付ける、漢学者一流の頑固な見識屋であったにも拘らず、翁の前に出ると、筆者が五遍ぐらいお辞儀をする間、額を畳にスリ付けてクドクドと何か挨拶をしていた。まるで何か御祈祷をしているようであった。
 翁から何か云われると、犬ならば尻尾を振切るくらい嬉しそうに、
「ハイ。ハイ。ハイハイハイハイ……」
 と云ってウロタエまわった。
 その祖父灌園は方々の田舎で漢学を教えてまわった挙句(あげく)、やっと福岡で落ち付いて、筆者が大名小学校の四年生に入学すると直ぐに翁の許に追い遣った。
「武士の子たる者が乱舞を習わぬというのは一生の恥じゃ」
 といった論法で、面喰っている筆者の手を引いて中庄の翁の処を訪うて、翁の膝下(しっか)に引据えて、サッサと入門させてしまった。その怖い怖い祖父が、翁の前に出ると、さながら二十日鼠(はつかねずみ)のように一(ひ)と縮みになるのを見て筆者も文句なしに一縮みになった。封建時代の師弟の差は主従の差よりも甚だしくはなかったかと今でも思わせられている位であった。
 まだ十歳未満の筆者が、座ったまま翁と応待していると、祖父が背後からイキナリ筆者の頸筋を掴まえて鼻の頭と額をギュウと畳にコスリ付けた事があった。礼儀が足りないという意味であったらしい。

          ◇

 筆者の祖父は馬鹿正直者で、見栄坊で、負けん気で、誰にも頭を下げなかったが、しかし只圓翁にだけはそれこそ生命(いのち)がけで心服していた。
 神事能や翁の門下の月並能の番組が決定すると、祖父の灌園は総髪に臘虎(らっこ)帽、黄八丈に藤色の拝領羽織、鉄色献上の帯、インデン銀煙管(ぎせる)の煙草入、白足袋に表付下駄、銀柄の舶来洋傘(筆者の父茂丸が香港から買って来たもので当時として稀有のハイカラの贅沢品)という扮装(いでたち)で、喰う米も無い(当時一升十銭時代)貧窮のただ中に大枚二円五十銭の小遣(催能の都度に祖父が費消する定額)を渫(さら)って弟子の駈り出しに出かけたので、祖母や母はかなり泣かされたものだという。
 祖父はこうして翁門下の家々をまわって番組を触れまわる。舞台の世話、装束のまわりまで「その分心得候え」を繰返して奔走しては、出会う人毎に自分が行かないと能が出来ないような事を云っていたらしい。二三十銭の会費を出し渋ったり、役不足を云ったり、稽古を厭がったりする者があると、帰って来てからプンプン憤(おこ)って、「老先生に済まん済まん」と涙を流していたという。

          ◇

 その頃博多に梅津朔造氏等の先輩で××という人が居たが、非常に器用な人で師伝を受けずに自分の工夫で舞って素人の喝采を博していた。その人が翁の稽古を肯(がえ)んぜず、色々と難癖を附けて翁を誹謗(ひぼう)したので、祖父は出会う度に喧嘩をした。
「彼奴は流儀の御恩を知らぬ奴じゃ。お能で飯を喰うて行きよるけに老先生も大目に見て御座るが、今に見よれ。罰というものはあのような奴に当るものじゃ」
 と口を極めて悪態を吐(つ)いていたが、あんまり度々云うので筆者はその科白(せりふ)を暗記してしまった。どうやら××氏には祖父の方が云い負けていたらしい悪口ぶりであった。

          ◇

 筆者の祖父は装束扱いがお得意で、楽屋の取まわしが好きだったらしい。舞台から引込んで来ると、自分の装束を脱がないまま他人の装束を着けている姿をよく見かけた。
 月並能の後、一人頭二三十銭宛切り立てて舞台で御馳走を喰うのが習慣になっていたが、御馳走といっても、味飯(かやくめし)に清汁(すまし)、煮〆程度の極めて質素なものであった。ところで、その席上で気に入らぬ事があると、祖父は只圓翁を促してサッサと席を立った。
 そのまま筆者の手を引いて帰る事もあった。
「老先生に対して済まぬという考えがない。あいつは下司(げす)下郎じゃ」
 という事をアトでよく云ったが、何の事やら誰の事やらむろんわからなかった。とにかく祖父は何もかも只圓翁を中心にして考えていたらしい。

          ◇

 そんな訳で筆者は九歳から十七歳まで十年足らずの間翁のお稽古を受けた。
 翁も亦そんな因縁からであったろう。筆者を引立てて可愛がってくれて、僅かの間にシテ、ツレ、ワキ役を通じて記憶(おぼ)え切れぬ位数多く舞台を踏ましてくれたものであったが、正直のところを云うと筆者は最初から終いまでお能というものに興味を持っていなかった。ただ子供心に他人から賞められたり、感心されたり、祖父母から、
「お能の稽古をせねば逐い出す」
 と云われるのが怖ろしさに、遊びたい一パイの放課後を不承不承に翁の処へ通っていたものであった。実に相済まぬ面目ない話であるが、実際だったから仕方がない。
 翁もこの点では気付いていたと見えて、筆者が翁の門口を這入ると、
「おお。よう来なさったよう来なさった」
 と云って喜んでくれた。別に褒美を呉れるという事もなかったが、ほかの子供達とは違った慈愛の籠った叮嚀な口調で、
「あんたは『俊成忠度』じゃったのう。よしよし。おぼえておんなさるかの……」
 といった調子で筆者の先に立って舞台に出る。
「イヨー。ホオーホオー。イヨオー」
 と一声(いっせい)の囃子をあしらい初めるのであるが、それがだんだん調子に乗って熱を持って来ると、翁の本来の地金をあらわしてトテモ猛烈な稽古になって来る。私もツイ子供ながら翁の熱心さに釣込まれて一生懸命になって来る。
「そらそら。左手左手。左手がブラブラじゃ。ちゃんと前へ出いて。肱を張って。そうそう。イヨオー。ホオーホオー。ホオ。ホオウ」
「前途程遠し。思いを雁山の夕の雲に馳す」
「そうそう。まっと長う引いて……イヨー。ホオホオ」
「いかに俊成の卿……」
「ソラソラ。ワキは其様(そげ)な処には居らん。何度云うてもわからん。コッチコッチ」
 といった塩梅で双方とも知らず知らず喧嘩腰になって来るから妙であった。

          ◇

 翁は筆者のような鼻垂小僧でも何でも、真正面から喧嘩腰になって稽古を附けるのが特徴であった。
 張扇をバタバタと叩いて「ソラソラ」と云う時は軽い時で、笛の笙(しょう)歌を「オヒャラリヒウヤ」とタタキ附けるように云う時は筆者の気が抜けているのを呼び醒ますためであった。もっとも最初は、それほどこの「ヒウヤ」が怖くなかったが、そのうちに翁が笙歌を云いながら立上って来て、「ヒウヤ」と耳の傍で憎々しく云うと筆者を突飛ばしたので、それ以来この「ヒウヤ」を聞くたんびにドキンとして緊張した。

          ◇

 翁は甚だしく憤(おこ)ると、
「ホラホラホラホラッ」
 と怒鳴って立上りがけに上の総義歯(そういれば)を舞台に吹き落すことがあった。それを慌てて又、口の中へ拾い込んで立って来るので、門弟連中の笑話になっていたが、その場になるとその見幕が恐ろしいので笑いごとどころではなかった。

          ◇

 幾度も同じ舞いの順序を間違えると翁はやはり立上って来て、筆者の襟首を捉まえて舞台を引きずりまわしながら、
「ソラソラ。廻り返し、仕かけ開き……今度が左右じゃ」
 といった風に一々号令して教え込んだ。翁に亀の子のように吊り提げられながら、その通りに手足を動かして行く筆者の姿は随分珍な図であったろうと思う。翁はその序(ついで)に遺恨骨髄に徹している筆者の頭を張扇でポンとたたいて、
「……片端から忘れるなあ、アンタは……ここには何の這入っておるとな」
 と皮肉った事もあった。
 遺憾ながらその頃の筆者は頭の中に脳味噌が詰まっている事を知らなかったが、翁は知っていたと見える。

          ◇

 一番情なかったのは「小鍛冶(こかじ)」の稽古であった。
 筆者が十二歳になった春と思う。光雲(てるも)神社の神事能の初番に出るというので、祖父母、筆者と共に翁も非常な意気込であったらしいが、それだけに稽古も烈しかった。
 当日まで一箇月ばかりは毎日のように中庄の翁の舞台へ逐い遣られたものであった。途中で溝の中の蛙をイジメたり、白蓮華(れんげ)を探したりして、道草を喰い喰い、それこそ屠所の羊の思いで翁の門を潜ると、待ち構えている翁は虎が兎を掠(かす)めるように筆者を舞台へ連れて行く。「壁に耳。岩のもの云う」と子供心にも面白くない初同が済んで、「そオれ漢王三尺のげいの剣」という序になると、翁はそれから先の上羽(あげは)前の下曲(くせ)の文句の半枚余りを「ムニャムニャムニャ」と一気に飛ばして、「思い続けて行く程に――イヨー。ホオ」とハッキリ仕手の謡を誘い出すのが通例であった。
 ところが生憎(あいにく)な事に舞台の背後が、一面の竹藪になっている。春先ではあるがダンダラ縞(じま)のモノスゴイ藪蚊(やぶか)がツーンツーンと幾匹も飛んで来て、筆者の鼻の先を遊弋(ゆうよく)する。動きの取れない筆者の手の甲や向う脛(ずね)に武者振付いて遠慮なく血を吸う。痒(かゆ)くてたまらないのでソーッと手を遣って掻こうとすると、直ぐに翁の眼がギラリと光る。
「ソラソラッ」
 と張扇が鳴り響いて謡は又も、
「そオれ漢王三尺の……」
 と逆戻りする。今度は念入りに退屈な下曲(くせ)の文句が一々伸び伸びと繰返される。藪蚊がますますワンワンと殖えて顔から首すじ、手の甲、向う脛、一面にブラ下る。痒いの何のって丸で地獄だ。たまらなくなって又掻こうとすると筆者の手が動くか動かないかに又、
「ソラソラッ」
 と来る。「そオれ漢王三尺の」と文句が逆戻りする。筆者の頬に泪(なみだ)が伝い落ちはじめる。
 何故この時に限って翁がコンナに残忍な拷問を筆者に試みたか筆者には今以てわからないが、何にしてもあんまり非道(ひど)すぎたように思う。当日の光栄ある舞台の上で、つまらない粗忽をしないように、シテの品位と気位を崩させないように特に翁が細心の注意を払ったものではないかとも思える。或はその頃筆者の背丈が急に伸びたために、急に大人並に扱い初めたのだという祖母の解釈も相当の理由があるように思えるが、それにしてもまだ甘え切っていた筆者にとっては正直のところ何等の有難味もない地獄教育であった。ただ情なくて悲しくて涙がポロポロと流れるばかりであった。

          ◇

 とにかくそんなに酷い目にあわされていながら、翁を恨む気には毛頭なれなかったから不思議であった。ただ縛られているのと同様の不自由な身体(からだ)に附け込んで、ワンワン寄って来る藪蚊の群が金輪際怨めしかった。
 だから或時筆者は稽古が済んでから藪の中へ走り込んで、思う存分タタキ散らしていたら翁が見てホホホと笑った。
「蚊という奴は憎い奴じゃのう。人間の血を吸いよるけに……」

          ◇

 そんな目に毎日毎日、会わせられるので筆者は、
「もう今日限り稽古には来ぬ」
 と思い込んで走って家に帰っても、又あくる日になると祖父母に叱られ叱られ稽古に行った。そんな次第で、やっと「小鍛冶」の上羽の謡になると型の動きが初まるので、蚊責めの難から逃れてホッとした。
 それから下曲が済んで中入前の引込みの難しかったこと。
「……静かに……静かにッ……」
 という翁の怒鳴り声が暗い舞台の中に雷のように反響して私を縮み上らした。又もワンワンと寄って来る蚊の群を怖れ怖れシテ柱をまわる時の息苦しかったこと。

          ◇

 それからやっと「小鍛冶」の後シテになって、翁と二人で台を正面へ抱え出す。その上に翁が張盤を据えて、翁は自分の膝で早笛をあしらい初める。それがトテも猛烈なものでよく膝が痛まないものだと思ううちにシテの出になる。
 その時の運びの六(むず)かしかったこと。一度出来てもその次にはダレてしまって出来ない。むろん今は出来ないどころか記憶にさえ残っていないが、しまいには翁が自分で足袋(たび)を穿(は)いて来て演(や)ってみせた。その白足袋の眼まぐるしく板に辷(すべ)ってゆく緊張した交錯の線が今でも眼にはハッキリ残っているようであるが、やはり説明も出来ず真似も出来ない。
 その序に翁は台の上からビックリする程高く宙に飛んで、板張りの上に片膝をストンと突いて見せたが、これは筆者も真似て大いに成功したらしい。
「よしよし」
 と賞められた。註をしておくが翁は滅多に芸を賞めた事がない。「まあソレ位でよかろう」とか、「それでは外のものを稽古しよう」と云われたら一生一パイの上出来と思っていなければならないので、「よしよし」と云われた人は余りいない筈である。
 さて光雲神社神事能当日の私の「小鍛冶」の成績はどうであったか。翁は黙っていたのでわからなかった。ただ祖父母は勿論、知りもしない人から色々な喰物を沢山に貰った。饅頭、煎餅、豆平糖(まめへいとう)、おはぎ、生菓子、黒砂糖飴、白紙に包んだおすし、強飯(こわめし)なぞを中位の風呂敷一パイぐらい。
 もっとも二番目の「七騎落」の遠平になった半ちゃん(故白木半次郎君)も大抵同じ位貰っていたからあんまり自慢にはならないが。

          ◇

 因(ちなみ)にこの頃聞いたところによると、その頃の筆者は恐ろしく小器用な謡で、只圓門下に似合わないコマシャクレた舞を舞っていたそうである。門弟たちが苦々しく思って、或る時翁にこの事を訴えたら、
「うむ。あれは灌園(祖父)が教えるけに、ああなるのじゃ」
 と不興げに答えたという。(宇佐元緒氏談)

          ◇

 誰であったか名前は忘れたが、「松風」の能のお稽古が願いたいと申出た事があった。翁は知らん顔をして、
「おお。稽古してやらん事もないが。先ず謡を謡うてみなさい」
 という訳で初同を謡わせられた。本人ここぞと神妙に謡ったが翁は聞き終ると、
「それ見なさい。謡さえマンゾクに謡いきらんで舞おうなぞとは以ての外……」
 とキメ付けられたので、本人はどこが悪いのかわからないまま一縮みになって引退った。(柴藤精蔵氏談)

          ◇

 梅津朔造氏の歿後は斎田惟成氏が門下を牛耳っていたが、或る時門弟を代表して翁の前に出て、
「皆今度のお能に『松風』を出して頂きたいと申しておりますが……」
 と恐る恐る伺いを立てたところ、翁は言下に頭を振った。
「まあだ『松風』はいかん。『花筐(はながたみ)』にしておきなさい」(宇佐元緒氏談)

          ◇

 当時四国で一番と呼ばれた喜多流の謡曲家池内信嘉氏が或る時、わざわざ只圓翁を尋ねて来て、何かしら一曲聞いてもらった。聞いたアトで翁はただ、
「結構なお謡い――御器用なことで――」
 とか何とか云ったきり何も云わない。それでも是非遠慮のないところを……と請益(せいえき)したら只圓翁の曰(いわ)く、
「貴方のお謡いはアンマリ拍子に合い過ぎる。それでは謡いとは云われぬ。謡いは言葉の心持ちを謡うもので拍子を謡うものでない。拍子がちゃんとわかっておって、それを通り越した自由自在な謡でなければ能の役には立たぬ」(林直規氏談)

          ◇

 翁は単に稽古のみならず、楽屋内の礼儀にまでも到れり尽せりの厳重さを恪守(かくしゅ)していた。楽屋内で冗談でも云う者があると即刻に破門しかねまじき勢いであった。神事能の時など楽屋内で神社からの振舞酒を飲んで大きな声を出す者なぞがあると、誰にも断らずにサッサと杖を突張って帰宅した。「不埒(ふらち)な奴だ。楽屋の行儀が悪うして舞台が立派に出来ると思うか。お能の精神のわからぬ奴どもの催すお能は受持てん」と云って憤慨したり、
「慰みに遣るのなら、ほかの芸を神様に献上しなさい。神様に上ぐる芸は能よりほかにない道理がわからんか。下司下郎のお能は下司下郎だけで芝居小舎ででも演(や)んなさい。神様の前に持って来る事はならぬ」と頑張って何と云っても聞かない。仲に立った人や宮世話人を手古摺(てこず)らせた事が毎度であった。(野中到氏その他数氏談)

          ◇

 次のような例もある。
 筆者が十二三歳の折、中庄の翁の舞台で先代松本健三翁の追善能が催された。
 筆者はその時、「小袖曾我」のシテを承っていたが、筆者の装束を着けていた高弟の某氏(秘名)が筆者の小さなチンポコを指の先でチョイと弾じいた。筆者は直ぐに両手でそこを押えて、「痛い痛い」と金切声を揚げたので近まりに居た高弟諸氏がドッと笑い崩れた。
 隣の居間から見ていた翁の顔色が見る見る変った。某氏を呼付けて非常な見幕で叱責した。
「楽屋を何と心得ているか。子供とはいえシテはシテである。シテは舞台の神様で能の守(まもり)本尊である。そのシテを戯弄するような不心得の者は許さぬ。直ぐに帰れ。一刻も楽屋に居る事はならぬ。装束は俺が付ける。帰れ帰れ」
 といったような文句であったと思う。
 某氏は平あやまりに詫まった。ほかの一緒に笑った人々も代る代る翁に取做(とりな)したので結局、翁の命令でその笑った四五人の中老人ばかりが、床几に腰をかけている筆者の前にズラリと両手を支えてあやまった。
「ただ今は存じがけもない御無礼を仕りまして……今後、決して致しませぬけに、何卒御勘弁を……」
 筆者は弱った。どうしていいかわからないまま固くなって翁の顔を見た。翁はまだ眉を逆立てたまま向うから睨み付けていた。

          ◇

 こんな風だったから翁が恐れられていた事は非常なものであった。実に秋霜烈日の如き威光であった。
 能の進行中、すこし気に入らぬ事があると楽屋に端座している翁は眼を据えて、唇を一文字に閉じた怖い顔になりながらムクムクと立上って、鏡の間に来る。幕の間から顔を出して舞台を睨むと、不思議なもので誰が気付くともなく舞台が見る見る緊張して来る。
 翁が物見窓から舞台を覗いている時は、機嫌のいい時である事がその顔色で推量されたが、それでも何となく舞台が引緊まって来た。囃子方の声や拍子が真剣になり、地謡に張りが附き、シテが固くなってヒョロヒョロしたから妙であった。実に霊験アラタカといおうか現金と形容しようか。子供心にも馬鹿馬鹿しい位であった。
 出演者自身の述懐によると……翁が覗いて御座るナ……と思ったトタンに囃子方は手を忘れ、地謡は文句を飛ばし、シテは膝頭がふるえ出したという。自分の未熟を翁に塗り付ける云い草であったかも知れないが……。

          ◇

 能管の金内吉平氏は翁の生存当時の能管の中でも一番の年少者で、体格も弱少であったが、或る時、「敦盛」の男舞を吹いている最中に翁が覗いているのに気が付いたので固くなったらしく、笛がパッタリ鳴らなくなった。それでも翁が恐ろしさに、なおも一生懸命に位を取りながら吹くとイヨイヨ調子が消え消えとなる。そこで死物狂いになってスースーフウフウと音無しの笛を吹き立てたが、とうとう鳴らないまま一曲を終えて、どんなに叱られるかと思い思い楽屋へ這入ると、翁は非常な御機嫌であった。
「結構結構。きょうの意気と位取りはよかったよかった」
 と賞められた時の嬉しかったこと……初めて能管としての自信が出来たという。(金内吉平氏談)

          ◇

 前述のような数々の逸話は、翁一流の天邪鬼(あまのじゃく)の発露と解する人が在るかも知れぬが、そうばかりではないように思う。
 翁は意気組さえよければ型の出来栄えは第二第三と考えていたらしい実例がイクラでも在る。
 現在の型では肩が凝(こ)ったり、手首が曲ったり、爪先が動いたりする事を嫌うようであるが、翁の稽古の時には全身に凝っていても、又は手首なんか甚だしく曲っていても、力が這入っておりさえすれば端々の事はあまり八釜(やかま)しく云わなかったようである。
 只圓翁門下の高足、斎田惟成氏なんかの仕舞姿の写真を見ても、その凝りようはかなり甚だしいものがある。記憶に残っている地謡連中の、マチマチに凝った姿勢を見てもそうであった。凝って凝って凝り抜いて、突っ張るだけ突っ張り抜いて柔かになったのでなければ真の芸でないというのが翁の指導の根本精神である事が、大きくなるにつれてわかって来た。
 だから小器用なニヤケた型は翁の最も嫌うところで、極力罵倒しタタキ付けたものであった。そんな先輩連の真似をツイうっかりでも学ぶと、非道い眼に会わされた。

          ◇

 翁が稽古中に先輩や筆者を叱った言葉の中で記憶に残っているものを、云われた人名と一緒に左に列記してみる。アトから他人に聞いた話もある。
「お前が、そげな事をばするけにほかの者が真似する。喜多流にはそげな左右はない。どこを見て来たか……云え……云いなさい……馬鹿ッ」(梅津朔造氏へ)
「扇はお前の心ぞ。武士の刀とおなじもんぞ。チャント両手で取んなさい」(筆者へ)
「イカンイカン。扇の先ばっかりチョコチョコさせるのは踊りじゃ踊りじゃ――。心が生きねば扇も生きん。お能ぞお能ぞ……踊りじゃないぞ」(筆者へ)
「俺が足の悪い真似をお前がする事は要らん。お前はお前。俺は俺じゃ。馬鹿ッ」(梅津朔造氏へ)
「人に真似されるような芸は本物じゃないぞ」(梅津利彦氏へ)
 =シンミリした穏かな口調で=「謡は芸当じゃない。心持ちとか口伝とかいうて加減するのが一番の禁物じゃ。私が教えた通りに真直(まっすぐ)に謡いなさい。心持ちとか口伝とかいうものはないものと思いなさい。そうせぬと謡が下劣になる」(山本毎氏ほか地謡一同へ)
 =或る天狗能楽師の悪口を云った後=「能は芝居や踊りのように上手な人間が作ったものではない。代々の名人聖人の心から生まれたものじゃ。その人達の真似をさせてもらいよるのじゃ。出来ても自慢にはならぬ。自分のたしなみだけのものじゃ。それを自慢にする奴は先祖なしに生まれた人間のような外道(げどう)じゃ。勿体ない奴じゃ」(梅津朔造氏。山本毎氏等々へ)
 =或る囃子方の悪口を云って=「彼奴のような高慢な奴が鼓を打つと向うへ進まれぬ。後退(あとしざ)りしとうなる」
 =光雲神社の鏡の間で囃子方へ=「馬鹿どもが。仕手がまだ来んとに調べを打って何になるか。貴様達だけで能をするならせい。この馬鹿どもが」

          ◇

 筆者が「夜討曾我」のお稽古を受けている時であった。
 後シテの御所の五郎丸組討(くみうち)の場になるとキット翁が立上って来て、背後から組付いて肩の外(はず)し工合を実地に演(や)らせる。それから五郎丸の投げ方の稽古であるが、投げ方が悪いと翁が途方もない力でシッカと獅噛(しが)み付いて離れないので困った。
 これは最初筆者が、子供ながら翁のような老人を本気に投げていいかどうか迷って躊躇したのが翁に悪印象を残したのに原因していたらしい。実に意地の悪い不愉快な爺さんだと思った。
 そればかりでない。
 遠慮のないところを告白すると翁は総義歯(そういれば)をしていたのであるが、その呼吸(いき)が堪らなく臭い事を発見したので最初からウンザリした。背後から筆者の肩を抱締めたまま筆者の耳の処に顔を持って来て、
「本気で、本気で投げんと不可(いか)ん。投げんと殺されるぞ。力一パイ。肩を外(はず)いて。そうそう」
 というソノ息吹きの臭いこと。とても息苦しくてムカムカして来てしようがなかった。

          ◇

 高弟梅津朔造氏の令息で、梅津昌吉という人が居た。今四谷の喜多宗家に居られる梅津兼邦君の父君であるが、翁の歿後は脇方専門のようになっていた。
 元来無器用な人であったらしく、狂言から仕手方に転向した上村又次郎氏と共にいつも翁から叱られるので有名であったが、それでも屈せず撓(たゆ)まぬ勉強によって福岡地方で押しも押されもせぬ師家になられた事実が、同時に有名であった。
 氏は、正直一途な性格で、あんまり翁から叱られて、真剣になり過ぎたらしく「虚眼」というのになってしまった。虚眼というのは、お能一番初まってから終るまで一時間か二時間の間、瞬きを一つもしないことで、昌吉氏が真白くクワッと眼を見開いて舞台の空間を凝視したままでいるのが、矢張り只圓翁門下一統の名物のようになっていた。
「昌吉は、あんまり一生懸命になり過ぎたんですね。あんなにしていると肝腎の眼が死んでしまいます。あんなのを虚眼と云ってね。時々ありますよ」
 と現六平太先生が評された。
 只圓翁は一生懸命になり過ぎる分ならイクラなり過ぎようとも、出来損っても咎(とが)めなかったので、昌吉氏の虚眼もお咎めを免れたものと思う。

          ◇

 これに引続いた話であるが、前記河原田平助氏の櫛田神社に於ける還暦祝賀能に「大仏供養」が出た。シテの景清が梅津利彦氏で、ワキの畠山重忠が前記梅津昌吉氏であった。
 その頃互いに二十代であった両氏の意気組は非常なもので稽古もずいぶん猛烈であったが、サテ能の当日になると文字通り焦げ附くような暑さであった。それに装束を着けて舞うのだから大変で、
「名乗れ名乗れと責めかけられ」
 と畠山が景清を橋がかりへ追込む時の如き、二人とも満面夕立のような汗が烏帽子(えぼし)際から滴り落ちるのであった。
 揚幕を背にした景清の利彦氏は真赤に上気して、血走った眼を互い違いにシカメつつ流れ込む汗に眩(くら)まされまいとしている真剣な努力が見物人によくわかった。これに対して畠山に扮した梅津昌吉氏は真青になったまま、イクラ汗が眼に流れ込んでも瞬き一つしない。爛々と剥き出した眼光でハッタと景清を睨み据えたまま引返して舞台に入り、
「言語道断」
 と云った。その勢いのモノスゴかったこと。
「今日のような『大仏供養』を見た事がない」
 と楽屋で老人連が口を極めて賞讃したのに対し翁はタッタ一言、
「ウフフ。面白かったのう」
 と微笑した。昌吉氏はズット離れた処で装束を脱ぎながら、
「汗が眼に這入って困りましたが、橋がかりに這入ると向うの幕の間から先生の片眼がチラリと見えました。それなりけり気が遠うなって、何もかもわからんようになりました」
 と云って皆を笑わせていた。

          ◇

 或る時中庄の只圓翁の舞台で催された月並能で、大賀小次郎という人が何かしら大□(おおべし)ものを舞った。
 その後シテの時にどこからか舞台に舞い込んで来た一匹の足長蜂が大□の面の鼻の穴から匐(は)い込んで、出口を失った苦し紛れに大賀氏の顔面をメチャメチャに刺しまわった。
 大賀氏は気が遠くなった。しかし例によって幕の間から翁が見ているのが恐ろしさに後見を呼ぶ事さえ忘れて舞い続けた。「舞台は戦場舞台は戦場」と思い直し思い直し一曲を終った。
 幕へ這入って仮面を脱ぐと大賀氏の顔が一面に腫れ上って、似ても似つかぬ顔になっているので皆驚いた。(柴藤精蔵氏談)

          ◇

 翁の門下の催能にワキをつとめた人は筆者の祖父灌園以外に船津権平氏兄弟及その令息の権平氏が居た。観世の関屋庄太郎氏も出ていた。
 そのほか他流の人で翁の門下同様の指導を受けていた人々には観世の不破国雄、山崎友来氏等がある。
 しかし翁は他流の人や囃子方、狂言方には、あまり八釜(やかま)しい指導をしなかった。翁が八釜しく云うのは何といっても喜多流の仕手方で、その中でも梅津朔造氏が一番激しくイジメられたりコキ使われたりした。
 翁は事ある毎に、
「朔造朔造」
 と呼んだ。その声がトテモ大きくて烈しいので舞台から見所まで筒抜けに聞こえた。
 その声が聞こえると朔造氏はどこへ居ても直ぐに飛んで来て、持病の喘息を咳入り咳入り翁の用を足した。翁の「朔造朔造」は催能の際の名物であり風景であった。

          ◇

 粟生弘氏は翁の門下でも古株で相当年輩の老人であったが、或る時新米の古賀得四郎氏が稽古に行くと、大先輩の粟生氏が「箙(えびら)」の切(きり)の謡を習っている。それが老巧の粟生氏の技倆を以ってしてもナカナカ翁の指南通りに出来ないので、何度も何度も遣り直しを喰(くら)っている。新米の古賀氏は何の「箙」ぐらいと思っていたのに案に相違して震え上った。「箙」なぞを滅多に習うものじゃないと思った。
 そのうちに粟生氏が「箙」の切の或る一個所をかれこれ二三十遍も遣直(やりなお)させられたと思うと、老顔に浴びるように汗の滝を流しながら、精も気根も尽き果てた体で謡本(うたいほん)の前に両手を突いて、
「今日はこれ位で、どうぞ御勘弁を……」
 と白旗を揚げた。古賀氏は今更に只圓翁の稽古腰の強いのに驚いていると翁は平然たる顔で、粟生氏を一睨して、
「そげな事じゃ不可(いか)ん。良く稽古しておきなさい」
 と誡(いま)しめてからクルリと古賀氏の方に向き直ってニコニコした。
「アンタにはあのように云わんばい」(古賀得四郎氏談)

          ◇

 芸の方も去る事ながら、癇癖と稽古の厳重さで正しく只圓翁の後を嗣いでいたのは斎田惟成氏であった。
 翁の歿後、師を喪った初心者で斎田氏の門下に馳せ参じた者も些少ではなかったが、斎田氏の八釜しさが出藍(しゅつらん)の誉(ほまれ)があったものと見えて、しまいには佐藤文次郎氏一人だけ居残るという惨況であった。
 それでも余りに斎田氏の稽古振りが酷烈なので、夫人が襖の蔭からハラハラしながら出て来て、
「そんなにお叱りになっては……」
 と諫(いさ)めにかかると斎田氏の癇癪が一層高潮した。
「女風情が稽古場に出入りするかッ」
 といった見幕で一気に撃退してしまった。
「叱られて習うたお謡じゃけに、叱って教えねば勘定が合わぬ」
 などと門弟に云い訳をする事もあった。
 その後斎田氏は勤務先の福岡裁判所から久留米に転勤すると、タッタ一人残っている門弟佐藤文次郎氏のためにワザワザ久留米から汽車で福岡まで出て来て稽古をしてやった。弟子よりも先生の方がよっぽど熱心であった。
 その稽古腰の強いこともたしかに翁の衣鉢(いはつ)を嗣(つ)いでいた。(佐藤文次郎氏談)

          ◇

 翁の門下には名物と云われていた人が三人在った。一人は間辺某という人で、梅津朔造氏、山本毎氏等の先輩に当り、筆者なぞは全然顔も知らない。謡が実に立派で、蔭で聞いていると只圓翁と間違う位であった。いつも翁の能の地頭を拝命していた高足であったが、同じ翁門下の地頭格山本毎氏と争い、非常に憤激して自宅に帰り謡曲の本を全部焼棄して二度と翁に見えなかった。(宇佐元緒氏談)
 詳しい事情は判明しないが、間辺氏の斯様(かよう)な態度は栗山大膳以来の片意地な黒田武士の本色であったと同時に、只圓翁門下の頑固な気風を端的に露出したものであったという。(林直規氏談)

          ◇

 今一人は現教授佐藤文次郎氏の姻戚に当る吉本董三氏で、美髭を生やした眉の太く長い、眼と口の大きい、いかにも豪傑らしい風貌の巨漢であった。
 氏は金貸を業としていたにも似合わず、翁のために献身的に働く純情家であった。何か費用の要る事があるとお能の際に、楽屋から観衆席を巡回して目星い人間を片端から引捕えて、自身の山高帽を突付けながら喚(わ)めき立てた。
「貴公は金持じゃけに五円出しなさい」
「あんたも三円ぐらい奮発しなさい」
「お前は一円に負けるけに出せ。ナニ無い。横着な事を云う。蟇口(がまぐち)をば開けて見い」
 といった調子で有無を言わさず捻じ上げて行くので能率の上る事非常であったという。
 しかし能の方は滅法好きな癖に天下無敵の下手であった。翁がイクラ教えてもその通りには決して出来なかったし、自分でも諦めていたと見えて思い切った蛮声を張上げて思う存分、勝手気儘な舞い方をした。長刀(なぎなた)を持たせると大喜びでノサバリまわって危険この上もないので地謡が皆中腰で謡ったという。流石(さすが)の只圓翁もこの人物には兜(かぶと)を脱いでいたらしく稽古の時にも決して叱らなかった。
 のみならず同氏が地謡に座って謡いながら翁の前で行燈袴(あんどんばかま)をまくって、毛ムクジャラな尻から太股まで丸出しにして痒(かゆ)い処をバリバリと掻きまわるような事があっても翁は見ないふりをしていた。
 こんな人物は多分翁の苦手であったろう。いつも翁の事を「爺が爺が」と呼棄てにしていたので、皆「吉本のキチガイ」と云っていた。実に愛すべき豪傑であった。(柴藤、宇佐両氏談)

          ◇

 モウ一人只圓翁の苦手が居た。これは本人が現存しているから特に姓名を遠慮するが、この人もかなりの無器用で、同時に相当の天狗様であったらしい。或る時はじめて翁に謡のお稽古を願ったら、翁は一応稽古を附けて後でブッスリと云った。
「モウお前は稽古に来るには及ばぬ。私はお前の先生にはアンマリ上等過ぎる」
 これは二三人から聞いた話だから事実としてここに書いておく。腹が立つと、それ位の事は云いかねない翁であったから。
 ところが感心な事に、その劣等生氏は、それでも断然屁古垂(へこた)れなかった。それ以来降っても照っても頑強に押しかけて来たので、翁もその熱心に愛(め)でたものであろう、叱り叱り稽古を付けてやったが、翁が歿前かなりの重態に陥って、稽古を休んでいる時までも毎日毎日執拗に押かけて来て、枕元で遠慮なく本を開いて謡い出したので、とうとう翁が腹を立てた。
「そう毎日来ては堪らん。大概にしなさい」
 稽古腰のあれ程強い翁に白旗を上げさせたのは古往今来この人一人であろう。同氏は現在梅津正利師範の手で有伝者に取立てられて、大勢の弟子を持っていてなかなか忙しいという。

          ◇

 翁は痩せた背丈の高い人であった。五尺七八寸位あったように思う。日に焼けた頑健な肉附と、どこから見ても達人らしい風格を備えたシャンとした姿勢であった。肩が張って、肋骨が出て、皺(しわ)だらけの長大な両足の甲に真白い大きな坐胝(すわりだこ)がカジリ附いていた。
 冬は地味な、粗末な綿入の上に渋茶色のチャンチャンコ、茶色の小倉帯、紺飛白(こんがすり)の手縫足袋。客が来るとその上からコオリ山(灰白色の紬(つむぎ)の一種)の羽織を羽織った。
 麻製渋色の胸当て(金太郎式の)は夏冬共に離さなかった。

          ◇

 後頭部に心持ち黄色い白毛が半月型に残っているのを綺麗に櫛目を入れていた。顔は長大で、鼻が西洋人みたように鷲型で、白い眉が房々として、高い小鼻の左右に眼窩が深く落凹(おちくぼ)んで、心持ち内斜視の老眼が鋭く光っていた。口は大きく一文字に閉じて、凹んだ両眼と、巨大な顎と共に一歩も退かぬ一徹の気象をあらわしていた。
 横頬から特に前頭部へかけて黒い斑(まだら)の長生□(ちょうせいちょう)が群着していた。又首筋へ労働者でなければ見受けられない深い皺が重なり合っていたが、これは翁自身の過激な肉体的習練の結果か、又は好物の畠イジリと網打ちの結果ではなかったろうかと思われる。
 要するに健康そのもののようにガッチリと逞しい、声の太い、大きな爺さんであった。

          ◇

 稽古は二五八、三六九の日に分けて、四の日七の日十の日が翁の休日であったらしい。何かの都合で、その休みの日に行くと翁はセッセと野菜畑で働いていたりしたが、直ぐに足を洗って来て稽古をしてくれた。休み日だからといって決して悪い顔をしたり稽古を断ったりしなかった。
 初めて小謡を習いに行くと、翁は半紙を一帖出して自分で紙縒(こより)をひねって綴じる。それから墨を磨って表紙に「小謡」と書いて、その右下に弟子の姓名を書く。その一枚をめくって、
「サア、何がよかろうのう」
 なぞとニコニコ独言(ひとりごと)を云いながら、二句ぐらいの簡単な和吟に胡麻節(ごまふし)を附けたのを書いて投与える。それを畳の上に置いて待っていると、翁が机の横から這い出して来て真正面に座る。
「そうそう。チャンと両手を膝に置いて」
 とお行儀を教えながら二度程繰り返して附けてくれる。それでも出来ないと、蠅打の柄や、張扇で頭をピシャリとたたく事もあった。
 その次に来ると今一度謡わせられて、恙(つつが)なく記憶(おぼ)えていると又一つ新しいのを書いてもらえる。すこし上達して来ると、
「節の附かんとも時々は良かろう」
 と云って文句ばかりを書いてくれることもあった。最初は面喰ったが後には慣れて来た。
 翁が書いてくれた小謡本には略字や変体仮名が多いので、習って帰ると直ぐに朱で仮名を附けたものであったが、翁は別に咎めなかった。

          ◇

 毎年一月の四日にはお鏡開きといって、お稽古に来る子供ばかりを座敷に集めて、翁が小豆雑煮(ぜんざいのようなもの)を振舞った。それがトテモ美味しくて熱いので、喰っている子供連は一人残らず鼻汁を垂らしたのをススリ上げススリ上げしていた。
 翁はニコニコと眺めていた。(佐藤文次郎氏談)

          ◇

 だんだん上達して来ると本番(全曲)を習う。
 筆者は三歳ぐらいから祖父に仕込まれていて、翁の処へ入門した時は数番の謡を丸暗記していたのでイキナリ本番を習ったものであったが、むろんこちらから曲目を撰む事は出来なかった。翁が本人の器量に応じて次の月並能の番組を斟酌(しんしゃく)しながら撰んでくれるのであった。
 翁の処へ稽古に行くと、玄関の上り框(がまち)の処(机に向っている翁の背後)に在る本箱から一冊引出して開いてくれる。時には、
「その本箱を開けてみなさい。その何冊目の本の何という標題の処を開けてみなさい」
 と指図する事もあった。
 それを最初から一枚ぐらい宛(ずつ)、念を入れて直されながら附けてもらうので、やはり二度ほど繰り返しても記憶(おぼ)え切れないと叱られるのであった。
 その本はたしか安政二年版行の青い表紙で、「ウキ」「ヲサヘ」や「ヤヲ」「ヤヲハ」又は廻し節、呑み節を叮嚀に直した墨の痕跡と胡粉(ごふん)の痕跡が処々残っている極めて読みづらい本であった。
 この翁の遺愛の本は現在神奈川県茅ヶ崎の野中家に保存して在る筈である。

          ◇

 翁は一番の謡を教えると必ずその能を舞わせる方針らしかった。
 筆者は九歳の時に「鍾馗(しょうき)」の一番を上げると直ぐにワキに出された。シテはたしか故大野徳太郎君であったと思うが、お互に受持の言葉を暗記するかしないかに二人向き合って申合わせをさせられたので、間違うたんびに笑っては叱られた。
 そんな風であったから筆者は小謡とか仕舞とか囃子とかいうものが存在している事をかなり後まで知らずに過ごした。

          ◇

 こうして習っては舞い習っては舞いした稽古順は大略左の通りである。これ以て誠に名聞(みょうもん)がましいが、何かの参考になるかも知れないと思って記憶している通りを書き止めておく次第である。
(一)鍾馗ワキ(二)同シテ(三)鞍馬天狗ツレ(四)経政(五)嵐山半能(六)俊成忠度(七)花月(八)敦盛(九)土蜘ツレ(十)巻絹ツレ(十一)小袖曾我(十二)夜討曾我――これ以後の順序明瞭に記憶せず、(十三)猩々(十四)小鍛冶(十五)岩船半能(十六)烏帽子折子方(十七)田村(十八)殺生石直面(十九)羽衣ワキ(二十)是界(二十一)蘆苅(二十二)箙(えびら)(二十三)湯谷(ゆや)ツレ(二十四)景清ツレ――但これは稽古だけで能は中止(二十五)船弁慶ツレ、及、海人子方同時(二十六)田村(二十七)土蜘――但し稽古だけにて能は舞わず(以上)
 その他「清経」シテ、「三井寺(みいでら)」ツレ等が四五番あったと思うが、ハッキリ記憶しない。
 そのうちに十六七歳になったので、翁は舞台に立った筆者を見上げ見下してニコニコした。
「ほう。これは大きゅうなった。もう面(おもて)をかけんとおかしいのう。面をかけると序の舞やら楽(がく)やら舞うけに面白いがのう。ハテ。何にしようか。今度一度だけ『小督(こごう)』にしようか。うむ、『小督』にしよう『小督』にしよう。『土蜘』もええが糸の投げようがチット六かしかろう」
 筆者は「土蜘」が舞いたくて舞いたくてたまらなかった。ずっと以前に河原田翁の追善能で見た金剛某氏の仏倒れや一の松への宙返りをやって見たくて仕様がなかったが、翁が勝手に「小督」にきめてしまったので頗(すこぶ)る悲観した。
 その中(うち)に中学を落第しそうになって稽古を休んだのをキッカケにとうとう翁の処へ行かなくなった。唯「湯谷(ゆや)」のツレと「景清」のツレで面をかけて稽古した切り、シテとしては面を掛けずに終った。
 その永い間翁が筆者に傾注してくれた精魂がドレ位であったろうか。その広大な師恩をアトカタもなく返上してしまった不孝の程は悔いても及ばない今日である。

          ◇

 いよいよ謡の稽古が済むと、まだ文句のつながらないうちにサッサと舞台にかかる。
 翁は筆者が謡い終って本を閉じると(誰に対しても同様であった)張扇を二本右手に持って、
「サア」
 と筆者を一睨(ひとにらみ)しながら立上る。心持ち不叶(ふかな)いな左足を引ずり引ずり舞台に出る。この頃から既に、お能の神様、兼、カンシャクの神様が翁に乗り移っていたように思う。

          ◇

 舞台は京間ではなかったように思う。普通の六尺三間、橋がかり三間で、平生は橋掛り共に雨戸がピッタリと閉まって真暗い。
 鏡板の松は墨絵で、シテ座後方の鴨居に「安和堂」と達筆に墨書した木額が上げて在った。たしか侯爵黒田長成公の筆であったと聞いている。
 その雨戸を翁に手伝って北と東と橋がかりを各一枚宛開いて、あとを平均五六寸宛隙(す)かす。それから翁はワキ座と地謡座のちょうど中間の位置に在る張盤の前に敷いた薄い茶木綿の古座布団上に座る。
 初めのうちは誰でもワキの詞(ことば)を云う翁に向ってアシラッたのでよく叱られた。翁の詞がいつでも真剣だったので、ツイその方向に釣り込まれる傾向もあった。

          ◇

 ところでこちらは幕の前に引返して立っていると翁はこっちをジロリと見て、今一度「サア」と云う。同時に一声とか次第とかをアシライ初める。
「イヨオオ――。ハオオーハオオー」
 と云ううちに坦々蕩々たるお能らしい緊張味が薄暗い舞台一面に漲(みなぎ)り渡る。そのうちに大小の頭(かしら)が来ると翁がソッと横目でこっちを見る。見ない事もあるが、大抵見る場合が多いのだからその時に要領よく受けて出るので、後(おく)れたり早過ぎたりすると翁がパチパチと張扇を叩いて今一度、一声なり次第なりを繰返しながら遣直(やりなお)させる。しかもそのタタキ加減がその日の低気圧のバロメーターになるので、これは老幼を問わず同様の感想であったらしい。
 翁はアシライが中々達者で、役者が橋がかりへ這入る時に打つ次第のヨセ工合がなかなかよかったので囃子方が皆感心して耳を傾けたという。

          ◇

 翁は普通の稽古を附ける場合には袴(はかま)を穿(は)かなかった。これは謹厳な翁に似合わぬ事であったが事実であった。荒い型をして見せる時には着流しの裾の間から白い短い腰巻と黒い骨だらけの向脛(むこうずね)が露出した。

          ◇

 翁は張盤の前に正座した時、必ず足の拇指(おやゆび)を重ね合わせていた。その重なり合った拇指がいつ動くかと思って、大野君と二人で翁の背後の脇桟敷から長い事凝視していた事があったが、決して動かないので根負けした事があった。
 張扇は大抵眼の高さの処まで上げた。肱は両脇から柔かく離し、向うへ伸ばして軽くバタバタとたたいた。肱から手首と張扇の尖端が柔かい一直線を描いて、上っても下っても狂わなかった。
 張扇が張盤を離れるのと掛声が起るのが同時だったので、どうかすると張扇が声を出しているような錯覚を感じた。遠くから見ていると一層そんな感じがした。
 張扇は必ず自分で貼った。筆者も一度貼り方を習ったが忘れてしまった。
「この角の処をこうして……」
 と云う翁の声だけが耳に残っている。
 掛声をかけたり、地謡を謡ったりしているうちに、翁の上顎の義歯(いれば)が外れ落ちてガチャリと下歯にぶつかる事が度々であった。
「衣笠山……ガチャリ。モグモグ……ムニャムニャ……面白の夜遊(やゆう)や……ガチャリ……モグモグ……ヨオチポポオポッポヨオイチョン……ホラホラしおりしおり……ガチャリ……モグモグ……ホオホオ」
 といった調子であった。吾々子供連は、よくその真似をしていたものであるが、その中でも一番上手なのは故大野徳太郎君であった。

          ◇

 毎朝翁は、暗いうちに起きて自分の稽古をする。それから利彦氏を起して稽古をつける。冬でも朝食前に一汗かかぬと気持ちが悪かったらしい。これは翁の長寿に余程影響した事と思う。

          ◇

 食事は三度三度粥食(かゆしょく)であった。
「年を老(と)ると身体(からだ)を枯らさぬといかん」
 とよく門弟の老人たちに云い聞かせたそうである。

          ◇

 筆者が十四五歳の頃であったか。
 ある春の麗(うら)らかな日曜日の朝お稽古に行ったら、稽古が済んでから翁は筆者を机の前に招き寄せて云った。
「まことに御苦労じゃが、あんた筥崎(はこざき)までお使いに行ってやんなさらんか」
 門下生は翁の御用をつとめるのを無上の名誉と心得ていたので、筆者は何の用事やらわからないままに喜んで、
「行って来まっしょう」
 と請合った。
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