梅津只円翁伝
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:夢野久作 URL:../../index_pages/person969

          ◇

 翁は一番の謡を教えると必ずその能を舞わせる方針らしかった。
 筆者は九歳の時に「鍾馗(しょうき)」の一番を上げると直ぐにワキに出された。シテはたしか故大野徳太郎君であったと思うが、お互に受持の言葉を暗記するかしないかに二人向き合って申合わせをさせられたので、間違うたんびに笑っては叱られた。
 そんな風であったから筆者は小謡とか仕舞とか囃子とかいうものが存在している事をかなり後まで知らずに過ごした。

          ◇

 こうして習っては舞い習っては舞いした稽古順は大略左の通りである。これ以て誠に名聞(みょうもん)がましいが、何かの参考になるかも知れないと思って記憶している通りを書き止めておく次第である。
(一)鍾馗ワキ(二)同シテ(三)鞍馬天狗ツレ(四)経政(五)嵐山半能(六)俊成忠度(七)花月(八)敦盛(九)土蜘ツレ(十)巻絹ツレ(十一)小袖曾我(十二)夜討曾我――これ以後の順序明瞭に記憶せず、(十三)猩々(十四)小鍛冶(十五)岩船半能(十六)烏帽子折子方(十七)田村(十八)殺生石直面(十九)羽衣ワキ(二十)是界(二十一)蘆苅(二十二)箙(えびら)(二十三)湯谷(ゆや)ツレ(二十四)景清ツレ――但これは稽古だけで能は中止(二十五)船弁慶ツレ、及、海人子方同時(二十六)田村(二十七)土蜘――但し稽古だけにて能は舞わず(以上)
 その他「清経」シテ、「三井寺(みいでら)」ツレ等が四五番あったと思うが、ハッキリ記憶しない。
 そのうちに十六七歳になったので、翁は舞台に立った筆者を見上げ見下してニコニコした。
「ほう。これは大きゅうなった。もう面(おもて)をかけんとおかしいのう。面をかけると序の舞やら楽(がく)やら舞うけに面白いがのう。ハテ。何にしようか。今度一度だけ『小督(こごう)』にしようか。うむ、『小督』にしよう『小督』にしよう。『土蜘』もええが糸の投げようがチット六かしかろう」
 筆者は「土蜘」が舞いたくて舞いたくてたまらなかった。ずっと以前に河原田翁の追善能で見た金剛某氏の仏倒れや一の松への宙返りをやって見たくて仕様がなかったが、翁が勝手に「小督」にきめてしまったので頗(すこぶ)る悲観した。
 その中(うち)に中学を落第しそうになって稽古を休んだのをキッカケにとうとう翁の処へ行かなくなった。唯「湯谷(ゆや)」のツレと「景清」のツレで面をかけて稽古した切り、シテとしては面を掛けずに終った。
 その永い間翁が筆者に傾注してくれた精魂がドレ位であったろうか。その広大な師恩をアトカタもなく返上してしまった不孝の程は悔いても及ばない今日である。

          ◇

 いよいよ謡の稽古が済むと、まだ文句のつながらないうちにサッサと舞台にかかる。
 翁は筆者が謡い終って本を閉じると(誰に対しても同様であった)張扇を二本右手に持って、
「サア」
 と筆者を一睨(ひとにらみ)しながら立上る。心持ち不叶(ふかな)いな左足を引ずり引ずり舞台に出る。この頃から既に、お能の神様、兼、カンシャクの神様が翁に乗り移っていたように思う。

          ◇

 舞台は京間ではなかったように思う。普通の六尺三間、橋がかり三間で、平生は橋掛り共に雨戸がピッタリと閉まって真暗い。
 鏡板の松は墨絵で、シテ座後方の鴨居に「安和堂」と達筆に墨書した木額が上げて在った。たしか侯爵黒田長成公の筆であったと聞いている。
 その雨戸を翁に手伝って北と東と橋がかりを各一枚宛開いて、あとを平均五六寸宛隙(す)かす。それから翁はワキ座と地謡座のちょうど中間の位置に在る張盤の前に敷いた薄い茶木綿の古座布団上に座る。
 初めのうちは誰でもワキの詞(ことば)を云う翁に向ってアシラッたのでよく叱られた。翁の詞がいつでも真剣だったので、ツイその方向に釣り込まれる傾向もあった。

          ◇

 ところでこちらは幕の前に引返して立っていると翁はこっちをジロリと見て、今一度「サア」と云う。同時に一声とか次第とかをアシライ初める。
「イヨオオ――。ハオオーハオオー」
 と云ううちに坦々蕩々たるお能らしい緊張味が薄暗い舞台一面に漲(みなぎ)り渡る。そのうちに大小の頭(かしら)が来ると翁がソッと横目でこっちを見る。見ない事もあるが、大抵見る場合が多いのだからその時に要領よく受けて出るので、後(おく)れたり早過ぎたりすると翁がパチパチと張扇を叩いて今一度、一声なり次第なりを繰返しながら遣直(やりなお)させる。しかもそのタタキ加減がその日の低気圧のバロメーターになるので、これは老幼を問わず同様の感想であったらしい。
 翁はアシライが中々達者で、役者が橋がかりへ這入る時に打つ次第のヨセ工合がなかなかよかったので囃子方が皆感心して耳を傾けたという。

          ◇

 翁は普通の稽古を附ける場合には袴(はかま)を穿(は)かなかった。これは謹厳な翁に似合わぬ事であったが事実であった。荒い型をして見せる時には着流しの裾の間から白い短い腰巻と黒い骨だらけの向脛(むこうずね)が露出した。

          ◇

 翁は張盤の前に正座した時、必ず足の拇指(おやゆび)を重ね合わせていた。その重なり合った拇指がいつ動くかと思って、大野君と二人で翁の背後の脇桟敷から長い事凝視していた事があったが、決して動かないので根負けした事があった。
 張扇は大抵眼の高さの処まで上げた。肱は両脇から柔かく離し、向うへ伸ばして軽くバタバタとたたいた。肱から手首と張扇の尖端が柔かい一直線を描いて、上っても下っても狂わなかった。
 張扇が張盤を離れるのと掛声が起るのが同時だったので、どうかすると張扇が声を出しているような錯覚を感じた。遠くから見ていると一層そんな感じがした。
 張扇は必ず自分で貼った。筆者も一度貼り方を習ったが忘れてしまった。
「この角の処をこうして……」
 と云う翁の声だけが耳に残っている。
 掛声をかけたり、地謡を謡ったりしているうちに、翁の上顎の義歯(いれば)が外れ落ちてガチャリと下歯にぶつかる事が度々であった。
「衣笠山……ガチャリ。モグモグ……ムニャムニャ……面白の夜遊(やゆう)や……ガチャリ……モグモグ……ヨオチポポオポッポヨオイチョン……ホラホラしおりしおり……ガチャリ……モグモグ……ホオホオ」
 といった調子であった。吾々子供連は、よくその真似をしていたものであるが、その中でも一番上手なのは故大野徳太郎君であった。

          ◇

 毎朝翁は、暗いうちに起きて自分の稽古をする。それから利彦氏を起して稽古をつける。冬でも朝食前に一汗かかぬと気持ちが悪かったらしい。これは翁の長寿に余程影響した事と思う。

          ◇

 食事は三度三度粥食(かゆしょく)であった。
「年を老(と)ると身体(からだ)を枯らさぬといかん」
 とよく門弟の老人たちに云い聞かせたそうである。

          ◇

 筆者が十四五歳の頃であったか。
 ある春の麗(うら)らかな日曜日の朝お稽古に行ったら、稽古が済んでから翁は筆者を机の前に招き寄せて云った。
「まことに御苦労じゃが、あんた筥崎(はこざき)までお使いに行ってやんなさらんか」
 門下生は翁の御用をつとめるのを無上の名誉と心得ていたので、筆者は何の用事やらわからないままに喜んで、
「行って来まっしょう」
 と請合った。むろん翁も喜んだらしい。ニコニコしてもっとこっちに寄れと云う。その通りにすると今度は両手を突いて頭を下げよと云うので、又その通りにすると翁は自筆の短冊を二枚美濃紙に包んで紙縒(こより)で縛ったものを筆者の襟元から襦袢(じゅばん)と着物の間へ押し込んだ。
「それを持って筥崎宮の二番目の中の鳥居の傍(そば)に在る何某(失名)という茶屋に行って、そこに居る禿頭(はげあたま)の瘠せこけた婆さんへ、その短冊を渡してオオダイを下さいと云いなさい。オオダイ……わかるかの」
「オオダイ」
「そうそう。オオダイ。それを貰うたなら落さんように持って帰って来なさい」
「オーダイ」
「そうそう。オオダイじゃ。雷除けになるものじゃ。わかったかの」
 筆者は何となくアラビアン・ナイトの中の人間になったような気持で田圃通りに筥崎へ向った。オオダイとは、どんな品物だろうと色々に想像しながら……。
 中庄から筥崎までタップリ一里ぐらいはあったろう。途中の田圃には菜種の花が一面に咲いていた。涯てしもなく見晴らされる平野の家々に桃や桜がチラホラして、雲雀(ひばり)があとからあとから上った。
 瓦町の入口で七輪を造る土捏(つちこ)ねを長い事見ていた。櫛田神社の境内では大道(だいどう)手品に人だかりがしていた。
 筥崎松原にはまだ大学校が無かった。小鳥が松の梢一パイに群れていたり、鼬(いたち)が道を横切ったりした。少々淋しくて気味が悪かった。
 こうしてずいぶん道草を喰いながら筥崎に着くと、中の鳥居の横の茶屋は一軒しかなかったので直ぐにわかった。
 中に這入(はい)ると三十四五の女房と、蟇(がま)みたような顔をした歯の無い婆さんが出て来た。いやに眼のギョロリした婆さんであったが、先に出て来て筆者を見上げ見下すと、
「あんたは何しに来なさったな」
 と詰問した。なるほど頭がテカテカに禿(はげ)ている。着物のお蔭でやっと爺さんに見えないような婆さんである。
 筆者は長い道中の間に用向きをハタと忘れているのに気が付いた。背中に短冊が這入っている事なんか恐らく翁の門を出た時から忘れていたろう。どうして何のために来たかイクラ考えてもわからないので泣出したくなった。
 頭の禿げた婆さんは口をモグモグさせながら、怖い眼付で筆者を今一度見上げ見下した。
「どこから来なさったな」
「梅津の先生のお使いで来ました。あの……あの……」
 今度は貰いに来た品物の名前を忘れている事に気が付いた。
 婆さんは歯の無い口を一パイに開いて笑った。
「アッハッハッハッ。オオダイじゃろう」
「はい。オオダイ」
「ふうん。そんならそこへ手を突いてみなさい」
 筆者は上り框へ両手を支(つ)いた。
「頭を下げなさい。そうそう」
 婆さんは痩せ枯れた冷たい手で筆者の背中を探りまわして短冊を引っぱり出した。押頂いて、眼鏡もかけずにスラスラと読んでから又押頂いた。
 それから奥へ這入って神棚の上から一本の薪の半分ばかりの燃えさしを大切そうに持って来て、勿体らしく白紙で包んで、紙縒で結わえながら筆者の懐中に押込んでくれた。
「よう来なさった。これを上げます」
 と云って女房の持って来た駄菓子の紙包みを筆者の手に持たした。筆者は懐中から薪の燃えさしを今一度引っぱり出して見まわした。恐らく妙な顔をしていた事と思う。
「これがオオダイだすな」
 婆さんがうなずいた。
「うんうん。それはなあ。この筥崎様で毎年旧の節分の晩になあ。大松明(たいまつ)を燃やさっしゃる。その燃え残りを頂くとたい。……これから夏になると雷神(かみなり)が鳴ります。その時にこれを火鉢に燻(くす)べると雷神(かみなり)様が落ちさっしゃれんちうてなあ……梅津の爺さんは身体(からだ)ばっかり大きいヘコヒキ(褌引き……臆病者の意)じゃけに雷神(かみなり)様が嫌いでなあ。毎年頼まれて短冊とカエキ(交易)しますとたい」
 やっと理窟がわかった筆者はホッとしながら、小学校の帽子を脱いでお辞儀しいしい帰途に就いた。何だか梅津の先生が非常に損な交易をして御座るような気がして、この婆さんが横着な怪しからぬ婆(ばばあ)に見えて仕様がなかった。後から聞くとこの婆さんは只圓翁よりも高齢であったという。上には上が在ると思ったが、しかし、どうした因縁で翁と識合いになったかは今以てわからない。
 その時の事を思い出すと百年も昔のような気がする。

          ◇

 翁は滅多に外へ出かけない癖に天気の事を始終気にする人であった。それは能を催したり、網打ちに行ったり、歌を詠(よ)んだりするために自然と、そんな習慣が出来たのかも知れないが、そればかりでもなかったように思う。
 舞台上の翁を見た人は翁を全面的に、傲岸(ごうがん)不屈な一本槍の頑固親爺と思ったかも知れぬが、それは大変な誤解であった。勿論能楽の事に関しては一流の定見を持っていて一切を断定的にドシドシ事を運んだが、しかし日常の事に関しては非常に気が弱くて、夫人は勿論、門人や女中にでも遣り込められると、
「成る程のう。よしよし……」
 と眼をつむって云う事を聞いていた。

          ◇

 恩に感ずる事なぞも非常に強く深かった。愛婿野中到氏の言葉なぞは無条件で受容れていたらしい話が残っている。所謂(いわゆる)虫も殺さぬという風で、何か不本意な場合に立ったり、他人の不幸を聞いたりしてオロオロ声になって落涙している事も二三度見受けた位である。
 これは翁の家人以外の人々には意外と思われる話かも知れぬ。しかし、こうした性格があの舞台上の獅子王の如き翁の半面に在る事を思う時、筆者は翁の人格がいよいよ高く、いよいよ深く仰げども及ばぬ心地がして来るのである。
 翁はそうした気の優しさを、いつも単純率直にあらわしていた。老人や子供には非常に細かく気を遣った。天気が悪いと弟子の行き帰りに、
「おお。シロ(辛労)しかろうなあ」
 と眼をしばたたいた。その云い方は普通人の所謂挨拶らしい感じが爪の垢ほどもなかった。心持ちカスレた真情の籠もった声であった。

          ◇

 老夫人と差向いの時に「お日和(ひより)がこう続いては麦の肥料(こえ)が利くまいのう」とか、「悪い時に風が出たなあ。非道(ひど)うならにゃ宜(え)えが」
 とか云って田の事を心配している事もあった。
 翁は自身で畠イジリをするせいか百姓の労苦をよく知っていた。その点は筆者の祖父灌園なぞも屡々(しばしば)他人に賞めていた。
「老先生の話を聞くと太平楽は云われんのう」
「ほんなこと。お能ども舞いよると罰が当るのう。ハハハハ」
 なぞと親友の桐山氏と話合っていた。
 只圓翁が暴風(あらし)模様の庭に出て、うしろ手を組んで雲の往来を眺めている。その云い知れぬ淋しい、悲しげな表情を見た人は皆、そうした優しい、平和を愛する翁の真情を端的に首肯したであろう。

          ◇

 翁の逸話はまだまだ後に出て来るのであるが、それ等の逸話を、ただ漫然と読むよりも、その逸話を一貫する翁の真面目を、この辺で一応考察しておいた方が、有意義ではないかと思う。すなわち、こうした翁の強気と弱気の裏表のどちらが翁の真骨頂か。どちらが先天的で、どちらが後天的のものか、ちょっと看別出来ないようである。
 しかし只圓翁の性格の表裏が徹底的に矛盾しているところに、世を棄てて世を捨て得ない翁の真情が一貫して流露していた事が今にして思い当られて、自ら頭が下るのである。聖人でもなければ俗人でもない。「恭倹持己(おのれをじし)、博愛及衆(しゅうにおよぶ)」の聖訓、「上求菩提。下化衆生」の仏願が、渾然たる自然人、ありのままの梅津只圓翁の風格となって、いつまでもいつまでも尊く、ありがたく、涙ぐましく仰がれるように思う。
 現代の能楽師の如く流祖代々の鴻恩(こうおん)を忘れて、浅墓な自分の芸に慢心し、日常の修養を放漫にする。又は功利、卑屈な世間の風潮にカブレ、良い加減な幇間的な稽古と取持で弟子の機嫌を取って謝礼を貪る。生活が楽になると本業の研究向上は忘れてセイラパンツを穿いてダンスホールに行く。茶屋小屋を飲みまわる。女性を引っかけまわるといったような下司っぽい増長者は、こうした翁の謙徳と精進に対して愧死(きし)しても足りないであろう。
 真の能楽師は僅少の例外を除き翁の後に絶えたと云ってもいい。憤慨する人があったら幸である。

          ◇

 翁の芸風を当時の一子方に過ぎない筆者が批評する事は、礼、非礼の問題は例としても不可能事である。
 しかし筆者としては及ばずながらこの機会に出来る限り偽わらざる感想を述べておきたい。門外漢の田夫野人の言葉でも古名人の境界を伝えている事が屡々あるのだから。同時に翁の芸風を知り過ぎる位知って居られる現家元喜多六平太氏や、熊本の友枝御兄弟の批評などは容易に得られないと思うから……。

          ◇

 前記明治二十五年喜多能静氏追善能のため只圓翁は上京し、野中到氏宅に滞在していたが、翁は毎夜のように侯爵黒田長知侯のお召を受けて霞ヶ関に伺候した。
 その節のこと。或る時翁は藤堂伯(先代)から召されて「蝉丸」の道行の一調謡の御所望を受けたが、相手の小鼓は名にし負う故大倉利三郎氏で、予々(かねがね)翁の技倆を御存じの藤堂伯も非常な興味をもって傾聴された。利三郎氏も内心翁を一介の田舎能楽師と思っていたらしいが、無事に一調が済んでお次の間に退くと利三郎氏は余程驚いたものと見えて、直ぐさま翁の前に両手を支(つ)いて、
「実にどうも……」
 と云って他は云わず低頭挨拶したという。翁の実力を直接に評価する参考材料としてはこの逸話がたった一つ残っているきりである。但、野中到氏の手簡に、
「右藤堂様より伯父(只圓翁)帰宅後、小生今晩は何の御所望なりしやと問いしに右様の次第を話して、あの謙遜家にも聊(いささ)か得意の色見え申候」
 とあるところを見ると、この逸話は翁の生涯中の秀逸ではないかと思われる。

          ◇

 筆者は不幸にして装束を着けた翁の舞台姿を一度も見た事がない。
 ただ一度翁の八十八賀能の前日の申合わせの夜であったと思う。門弟中の地謡で翁が「海人」の仕舞を舞ったのを見た。そのほか日々の稽古や他人の稽古を直して御座るのを横から見た姿を思い合わせると、翁の舞台姿がどうやら眼前に彷彿されるようである。
 甚だ要領を得難い評かも知れないが、翁の型を見た最初に感ずる事は、その動きが太い一直線という感じである。同時に少々穿(うが)ち過ぎた感想ではあるが、翁の芸風は元来器用な、柔かい、細かいものであったのを尽(ことごと)く殺しつくして、喜多流の直線で一貫した修養の痕跡が、どこかにふっくりと見えるような含蓄のある太い、逞しい直線であったように思う。曲るにしても太い鋼鉄の棒を何の苦もなく折り曲げるようなドエライ力を、その軽い動きと姿の中に感ずる事が出来た。
 後年九段能楽堂で名人に準ぜられている某氏の「野守」の仕舞を見た事があるが、失礼ながらあのような天才的な冴えから来た擬古的な折れ曲りとは違う。もっと大きく深い、燃え上るような迫力を持った……何となく只圓一流と云いたい動きであった。
 同じ「野守」でも只圓翁のは時間的には非常に急迫した、急転直下式の感じに圧倒されながら、あとから考えると誠にユッタリした神韻縹渺たる感じが今に残っている。
「海人」の仕舞でも地謡(梅津朔造氏、山本毎氏)が切々と歌っているのに、翁は白い大きな足袋を静かに静かに運んでいた身体(からだ)附が一種独特の柔か味を持っていた。且つ、その左足が悪いために右手で差す時に限って身体がユラユラと左に傾いた。その姿が著しくよかったので大野徳太郎君、筆者等の子方連は勿論、門弟連中が皆真似た。それを劈頭(へきとう)第一に叱られたのが前記の通り梅津朔造氏であった。

          ◇

 シオリは今のように高くなかった。シオリの高さは能によって違う……といったような翁の訓戒が記憶に残っているようにも思う。
 そんな事が在るかどうか知らぬ。筆者の聞き違いかも知れないが書添ておく。

          ◇

 梅津朔造氏の「安宅」の稽古の時に翁は自分で剛力の棒を取って、「散々にちょうちゃくす」の型の後でグッと落ち着いて、大盤石のように腰を据えながら、「通れとこそ」と太々しくゆったりと云った型が記憶に残っている。梅津朔造氏が後で斎田氏と一緒に筆者の祖父を見舞いに来た時に、祖父の前で同じ型を演って見せたが、
「ここが一番六かしい。私のような身体(からだ)の弱いものには息が続かぬ。……芝居ではない……と何遍叱られたかわからぬ」
 と云ううちに最早(もう)汗を掻いていた。
 それからずっと後、先年の六平太先生の在職五十年のお祝で「安宅」を拝見した時に、同じ処で行き方は違うが、同じような大きな気品の深い落付きを拝見して、成る程と思い出した事であった。大変失礼な比喩ではあるが、とにかく恐ろしく古風な感じのするコックリとした型であったように思う。

          ◇

 只圓翁の「山姥」と「景清」が絶品であった事は今でも故老の語艸(かたりぐさ)に残っている。これに反して晩年上京の際、家元の舞台で、翁自身に進み望んで直面(ひためん)の「景清」を舞ったが、この時の「景清」は聊(いささ)か可笑(おか)しかったという噂が残っているが、どうであったろうか。
「烏頭(うとう)」(シテ桐山氏)の仕舞のお稽古の時に、翁は自身に桐山氏のバラバラの扇を奪って「紅葉の橋」の型をやって見せているのを舞台の外から覗いていたが、その遠くをジイッと見ている翁の眼の光りの美しく澄んでいたこと。平生の翁には一度も見た事のない処女のような眼の光りであった。

          ◇

 扇でも張扇でも殆んど力を入れないで持っていたらしく、よく取落した。
 その癖弟子がそんな事をすると非道く叱った。弟子連中は悉(ことごと)く不満であったらしい。
 夏なぞは弟子に型を演って見せる時素足のままであったが、それでも弟子連中よりもズットスラスラと動いた。足拍子でも徹底した音がした。
 平生は悪い方の左足を内蟇(うちがま)にしてヨタヨタと歩いていたが、舞台に立つとチャンと外蟇になって運んだ。
 型の方は上述の通り誠に印象が薄いが、これに反して謡の方はハッキリと記憶に残っている。謡本を前にして眼を閉じると、翁のその曲の謡声(うたいごえ)が耳に聞こえるように思う。ところが自分が謡出してみると、思いもかけぬキイキイ声が出るので悲観する次第である。
 何よりも先に翁の謡は舞いぶりとソックリの直線的な大きな声であった。むろん割鐘(われがね)式ではない。錆の深い、丸い、朗かな、何の苦もない調子であった。
 梅津朔造氏の調子は凜々(りんりん)と冴える、仮名扱いの綺麗な、派手なものであった。
 山本毎氏のは咽喉を開放した、九州地方一流の発音のハッキリし過ぎた、間拍子のキチンとしたもので、いつも地頭を承っていた。
 桐山孫次郎氏のは底張りの柔かな含み声であった。一番穏当な謡と翁門下で云われていた。
 又斎田氏のは凝った、響の強いイキミ声で、謡っている顔付きが能面のように恐ろしかった。
 梅津利彦氏のは声が全く潰れた張りばっかりの一本調子で、どうかすると翁の声と聞き誤られた。
 いずれも翁の謡振りの或る一部分を伝えたものであったらしいが、それ等の謡い盛りの一同の地謡の中に高齢の只圓翁が一人座り込むと、ほかの声は何の苦もなく翁の楽々とした調子の中に消え込んで行った。
 吉本董三氏か大野仁平氏であったと思う。
「先生の傍に座ると、イクラ気張っても紡績会社の横で木綿車を引いているような気持ちになる」
 と云って皆を笑わせていたが、全く子供ながらも、そんな感じを受けた。ツクヅク翁の紡績会社振りに驚嘆させられていた。
 喜多六平太氏は右に就いて筆者に斯(か)く語った。
「ナアニ。声量の問題じゃない。只圓の張りが素晴らしく立派だったからですよ。全く鍛練の結果ああなったのですね。ですから只圓が死ぬと、皆が皆彼の張りの真似をして、間拍子も何も構わないで、ただ死物狂いに張上げるのです。これが只圓先生の遺風だ。ほんとうの喜多流だってんで、二人集まると怒鳴りくらが初まる。お能の時など吾も吾もと張上げて、地頭の謡を我流でマゼ返すので百姓一揆みたいな地謡になっちまう。その無鉄砲な我武者羅(がむしゃら)なところが喜多流だと思って喜んでいるのだから困りものですよ」
 又、梅津利彦氏(現牟田口利彦氏)は翁の型についてこう語った。
「二十歳ぐらいまではただ鍛われるばっかりで、何が何やら盲目(めくら)滅法でしたがそのうちにダンダン出来のよし悪しがわかって来て、腹の中で批評的に他人の能を見るようになりました。只圓の力量もだんだんわかって来るように思いましたが、同じ力と申しましても、只圓は何の苦もなく遣っているようですから、そのつもりで真似をしてみるとすぐに叱られる。なかなかその通りに出来ないし、第一お能らしくない事を自分でも感ずる。只圓の通りに遣るのにはそれこそ死物狂いの気合を入れてまだ遠く及ばない事がわかって、その底知れぬ謹厳な芸力にヘトヘトになるまで降参させられ襟を正させられたものでした」

          ◇

 牟田口利彦氏の話によると、翁は平生極めて気の弱い、涙もろい性分で、家庭百般の事について角立った口の利き方なんか滅多にしなかったが、それでも能の二三月前になると何となく眼の光りが冴えて来て、口の利き方が厳重になった。大抵の事は大まかに見逃していたものが、能前の昂奮期に入ると、「それはいかん」と云う口の下から自身で立上って始末したという。
 こうして月並能であれ祭事能であれ、催能が近付いて来ると翁の態度が、何となく目に立って昂奮して来るのであった。能の当日になると、夏ならば生帷子(かたびら)の漆紋(加賀梅鉢)に茶と黄色の細かい縦縞、もしくは鉄色無地の紬(つむぎ)の仕舞袴。冬は郡山(灰色の絹紬)に同じ袴を穿いていた。皺だらけの咽喉(のど)の下の白襟が得も云われず神々しかった。
 光雲(てるも)神社の祭能の時は拝領の藤巴の紋の付いた、鉄色の紋付に、これも拝領物らしい、茶筋の派手な袴を穿いている事もあった。その時の襟は茶か水色であったように思う。老夫人が能の前日、広袖の襦袢に火のしをかけて襟を附け換えて御座った。

          ◇

 稽古を離れると翁は実になつかしい好々爺であった。地獄の鬼から急に極楽の仏様に変化するのが子供心に不思議で仕様がなかった。たとえば八十八賀の時、能のアトで、
「元気は元気じゃが、倅の方が先にお浄土参りしてしもうた。クニャクニャになって詰まらん」
 と云って門弟連中を絶倒させた。それから赤い頭巾に赤い緞子(どんす)(であったと思う)のチャンチャンコを引っかけて、鳩の杖を突いて、舞台の宴会場から帰りしなに、
「乳の呑みたい。乳のもう乳のもう」
 と七十歳近い老夫人に戯れたりした。

          ◇

「さあ飴を食うぞ」
 と翁が云うと老夫人が、大きな茶碗に水を入れたのを翁の前に捧げる。翁はそれに上下の義歯(いれば)を入れてから水飴やブッキリ飴を口に抓(つま)み込んでモグモグやる。長い翁の顔が小田原提灯を畳んだようになるのを小謡組の少年連が不思議そうに見上げていると、
「フムフム。可笑(おか)しいのう」
 と云って翁自身も笑った。
 しかしその飴を分けてくれた事は一度もなかった。喰い余りを旧(もと)の通り叮嚀に竹の皮に包んで老夫人に渡すと、茶碗の中の義歯(いれば)を静かに頬張って、以前の厳格な顔に還った。弟子の方を向いて張扇を構えた。
「モグモグ。さあ謡いなさい」

          ◇

 夕方になると翁は一合入の透明な硝子(ガラス)燗瓶に酒を四分目ばかり入れて、猫板の附いた火鉢の上に載せるのをよく見受けた。前記喜多六平太氏の談によると翁は七五三に酒を飲んだというが、これは晩の七の分量に相当する分であったろう。
 翁の嗜好は昔から淡白で、油濃いものが嫌いと老夫人がよく他人に吹聴して居られた。
 筆者も稽古が遅くなった時、二三度夕食のお相伴をしたことがあるが、遠慮のないところ無類の肉類好きの祖父の影響を受けた自宅(うち)の夕食よりも遥かに粗末な、子供心に有難迷惑なものであった。
 そのうちに翁は真赤になった顔を巨大な皺だらけの平手で撫でまわして、「モウ飯」と云った。燗瓶には必ず盃一杯分ばかり残していた。

          ◇

 翁から直筆の短冊を貰った人は随分多いであろうと思う。筆者も七八枚持っていたが、人々に所望されて現在巻頭の二枚しか残っていない。[#巻頭に梅津只圓翁の写真と合わせて3枚の写真あり]
 筆跡は巻頭に掲ぐる通り、二川様に、お家様、定家様、唐様等を加味したらしい雅順なものである。舞台上の翁の雄渾豪壮な風格はミジンも認められないが、恐らく翁の本性をあらわしたものであろう。歌意は歌詞と共に、能楽の気品情操を一歩も出でない古風なもので月並と云えば、それまでであるが、翁はそれを短冊に自筆して人に与えるのがなかなかの楽みであったらしい。気が向くと弟子の帰りを待たしておいて悠々と墨を磨りながら一二枚宛書いて与えた。
 因(ちなみ)に翁の和歌は誰かに師事したものには相違なかったが、その師が誰であったかは遺憾ながら詳(つまびらか)でない。宇佐元緒、大熊浅次郎両氏の談によると有名な大隈言道氏は、翁の存命中、翁の住家に近い薬院今泉に住んでいたから、翁も師事していたかも知れない。その後、言道氏の旧宅に小金丸金生氏が住んでいて、この人に師事していたことはたしかであったという。なおこの他に末永茂世氏が春吉に住んでいたというが、この人に学んだかどうかは詳でない。
 福岡の人林大寿氏は奇特の人で、只圓翁の自筆の短冊数十葉を蒐集し、同翁の門下生に分与しようとされたものが現在故あって一纏めにして古賀得四郎氏の手許に預けられている。古賀氏の尽力で、表装されて只圓翁肉筆の歌集として世に残る筈である。翁の歌風を知るには誠に便宜と思うからその和歌を左に掲げておく。
    行路荻               (八十七歳時代)
夕附日荻のはこしにかたむきて
      ふく風さむしのべのかよひ路
    帰雁
桜さくおぼろ月夜にかりがねの
      かへるとこよやいかにのとけき
    河暮春               (八十八歳時代)
ちる花もはるもながれてゆく河に
      なにをかへるのひとりなくらん
    河暮春
大井河花のわかれをしとふまに
      はるは流れて暮にけるかな
    雉
春雨のふりてはれぬるやま畑の
      すゝしろかくれ雉子なくなり
    寒松風
枯はてしこすへはしらぬ夜あらしを
      あつめてさむき松の声かな
    船中月
心なきあま人さへもをのつから
      あはれと見えん船のうへの月
    夏草
秋になく虫の音きかんたよりにと
      はらひのこしゝ庭の夏草
    葵
神祭るけふのみあれのあふひ草
      とる袖にこそ露はかけゝれ
    夕春雨
椿ちる音もしすけき夕くれの
      こけちの庭に春雨のふる
    葵
加茂山にをふる二葉のあふひ草
      とりかさしつゝ神まつるなり
    夏草
はたちかふ牛のすかたも見えぬまで
      しけりあひたる野への夏草
    夕春雨
春雨のふるともわかで夕ぐれの
      のきのしのふにつとふ玉水
    庭菊
折とりてかさゝぬ袖もさく菊の
      はなの香うつす庭の秋風
    群雁
いくつらの落きてこゝにあそふらん
      堅田のうちにむるゝかりかね
    庭菊
くる人もなき菊そのゝ花さけば
      はゝき手にとる庭の面かな
    蚊遣火
蚊遣火はとまやのうちにたき捨て
      しほのひかたにすむ海人の子
    新年山
こそのはる花みし峰に年たちて
      かすみもにほふよしのゝ山
    群雁
治れる御代のしるしと大君の
      みいけの雁の数もしられず
    船中月
棹さしてうたふ声さへすみにけり
      つきになるとの浦の舟人
    更衣                (八十九歳時代)
人並にぬきかへぬれと老の身の
      またはたさむき夏衣かな
    夜蛙
せとちかき苗代小田にかけやとす
      月のうへにもなく蛙かな
    埋火
桜炭さしそへにけりをもふとち
      はなのまとひに春こゝちして
    池鴛鴦               (九十二歳時代)
山かけの池の水さえ浅かれと
      ことしも来鳴をしの声かな
    寒雁啼
露霜のふかき汀の蘆のはに
      こゑもしをれて雁そ啼なる
    春木                (九十三歳時代)
しはしこそ梅をくれけれ春来ても
      いつかさくらと人にまたれつ
    夏獣
重荷おひてゆきゝ隙なき牛車
      なつのあつさに舌もこかれつ
    友獣
をく山の青葉をつたふ木のは猿
      つはさなき身も枝うつりして
    名所恋               (九十四歳時代)
しのひねの泪の波のかゝるか那
      つかしき妙の袖のみなとに

          ◇

 茶の湯とか俳諧とかいう趣味は翁にはなかったように思う。ところが最近知人武田信次郎氏から、高川邦子女史の茶室で茶杓(ちゃしゃく)を取った翁の態度に寸分の隙もなかったので、座中皆感じ入ったという通信があった。筆者は聊(いささ)か意外に思って、事の詳細を今一度同氏に問合わせたところ折返して左の通返事が来たから、無躾(ぶしつけ)ながらここに抜き書さしてもらう事にした。(原文のまま)
「高川邦子女史は高川勝太夫と申す士分の息女にて令妹藤子女史と共に幼稚園小学校等の教師を勤め姉妹ながら孝行の由聞之候。東瀛(とうえい)禅師に参禅し南坊流の茶道を究め南坊録を全写し大乗寺山内の居に茶室を営まれ候。(中略)同庵の茶室の炉縁(ろぶち)は奥州征討の際若松城下よりの分捕として有名なりしが、今は其の茶室の跡もなく炉縁も何処へ伝はり候や不明、姉妹共故人となられ其後の事存じ申さず候。只圓翁の茶事に疎(うと)かりし事は御説の通りに候。そこに只圓翁の尊さが出て来るのに候。只圓翁の茶の手前は決してうまいものにては無かりし筈に候。それに唯翁が茶杓の一枝を手に取りて構へられたる形のみが厳然として寸毫の隙を見せざる其の不思議さは何の姿に候ぞと人々はこの点を驚嘆せしものに候。南坊流の始祖南坊禅師は茶道の堕落を慨して茶事を捨て去つて再び世に出でず。その終る処を知らず候。茶道は能楽以上の技巧の末に走り富裕人の弄(もてあそ)びものに堕(お)ちつくし全く其精神を亡し候。斯(かか)る世に芸術の神とも仰ぐ可き能楽家只圓翁が茶道に接すれば自然に紛々たる技巧の堕気を破つて卓然その神をこの茶杓の形に示現せしめしものと存候。(下略)」
 又翁が博多北船の梅津朔造氏宅に出向いた際、折節山笠の稚児流れの太鼓を大勢の子供が寄ってたたいているのを、翁が立寄って指の先で撥(ばち)を作って打ち方を指導していた姿が、何ともいえず神々しかったという逸話もある。(前同氏談)一道に達した人だから大抵の事はわかったのであろう。
 書画骨董の趣味も鑑識は在ったに相違ないが、生活が質素なせいか格別、玩弄した事実を見聞しなかった。勝負事なんか無論であった。

          ◇

 一面に翁はナカナカ器用だったという話もある。翁の門下で木原杢之丞という人が福岡市内荒戸町に住んでいた。余程古い門下であったらしく、翁が舞った「安宅」のお能を見たそうで、「方々は何故に」と富樫に立ちかかって行く翁の顔がトテモ恐ろしかった……とよく人に話していたという。
 その木原氏の処へ翁が或る時屏風の張り方を習いに来た。平面の処や角々は翁自身の工夫でどうにか出来たが、蝶番(ちょうつが)いの処がわからないので習いに来たのであったという。
 その時に翁は盃二三杯這入る小さな瓢箪(ひょうたん)を腰に結び付けて来ていたが、屏風張の稽古が一通りわかるとその瓢箪を取出して縁側で傾けた。如何にも嬉しそうであったという。(栗野達三郎氏談)

          ◇

 明治二十八年頃知人(門下?)に大山忠平という人が居た。なかなかの親孝行な人で、老母が病臥しているのを慰めるため真宗の『二世安楽和讃』を読んで聞かせる事が毎度であった。
 老母は大の真宗信者で且、只圓翁崇拝家であったが、或る時忠平氏に、
「お前の読み方では退屈する。只圓先生に節(ふし)を附けてもろうたらなあ」
 と云った。忠平氏は難しい註文とは思ったが、ともかくも翁にこの事を願い出ると、元来涙脆(もろ)い翁は一も二もなく承諾して、自分で和吟の節を附けて忠平氏に教えてやった。(栗野達三郎氏談)

          ◇

 翁の愛婿、前記野中到氏が富士山頂に日本最初の測候所を立てて越冬した明治二十六年の事、翁は半紙十帖ばかりに自筆の謡曲を書いて与えた。「富士山の絶頂で退屈した時に謡いなさい」というので暗に氏の壮挙を援けたい意味であったろう。その曲目は左の通りであった。
 柏崎、三井寺、桜川、弱法師(よろぼうし)、葵上(あおいのうえ)、景清、忠度(囃子)、鵜飼(うかい)、遊行柳(囃子)
 野中氏は感激して岳父の希望通りこの一冊を友としつつ富士山頂に一冬を籠居したが、その時に「景清」の「松門謡」に擬した次のような戯(ざ)れ謡(うたい)が出来たといって、古い日記中から筆者に指摘して見せた。
「氷雪堅く閉じて。光陰を送り。天上音信を得ざれば。世の風声を弁(わきま)えず。闇々たる石窟に蠢々(しゅんしゅん)として動き、食満々と与えざれば、身心□骨(きょうこつ)と衰えたり。国のため捨つるこの身は富士の根の富士の根の雪にかばねを埋むとも何か恨みむ今はただ。我父母に背く科(とが)。思えば憂しや我ながら。いずれの時かなだむべきいずれの時かなだむべき」
 この戯謡の文句を見ると野中到氏は両親の諫止をも聴かず、富士山頂測候所設立の壮挙を企てたものらしい。そうして只圓翁の凜烈(りんれつ)の気象は暗にこれに賛助した事になるので、翁の愛嬢で絶世の美人といわれた到氏夫人千代子女史が、夫君の後を趁(お)うて雪中を富士山頂に到り夫君と共に越冬し、満天下の男女を後に撞着せしめた事実も、さもこそとうなずかれる節があるやに察せられる。

          ◇

 翁は家のまわりをよく掃除した。畑を作って野菜を仕立てた。
 畑は舞台の橋がかり裏の茶の畝と梅と柿とハタン杏(きょう)の間に挟まった数十坪であった。手拭の折ったのを茶人みたように禿頭に載せたり浅い姉さん冠り式にしたりして、草を□(むし)ったり落葉を掻いたりした。熊手を振りまわして、そんなものを掻き集めて畑の片隅で焼肥を焼いている事もあった。大抵素跣足(すはだし)で尻をからげていた。
 毛虫と蛙はさほどでもなかったが、蛇を見付けると、
「おおおお。喰付くぞ喰付くぞ。打ち殺せ打ち殺せ」
 と指をさして逃げまわった。

          ◇

 翁の家の門は槙(まき)の生垣の間に在る、小さな土壁の屋形門であった。只圓翁の筆跡で書いた古い表札が一枚打って在った。敬神家の翁の仕業であろう、傍(かたわら)に大きい、小さい、色々の御守護札が貼り付けてあった。
 或る日の事、その門の敷居を跨ぐと、翁が南天の根の草を□っていたので、
「先生。きょうは朔造(梅津)さんは病気で稽古を休みますと言伝(ことづて)がありました」
 と云ったら、翁は「ウフウフ」と微苦笑して、
「今の若い者は弱いけに詰まらん」
 と云った。その時の朔造氏は六十近かったと思う。
 この話を帰ってから中風にかかっていた祖父灌園に話したら、泣き中風の祖父は叶わぬ口で、
「先生はイツモ御元気じゃのう。ありがたい事じゃ」
 と云ってメソメソ泣き出した。

          ◇

 翁はよく網打ちに行った。それも目堰(めせき)網といって一番網目の小さい網をセッセと自分で繕(つくろ)って、那珂(なか)川の砂洲を渡り歩いたものであった。
 その扮装(いでたち)は古手拭で禿頭に頬冠りをした上から古い小さい竹の子笠を冠り、紺のツギハギ着の尻をからげて古足袋を穿いた跣足で、腰に魚籠(びく)を括(くく)り付けていた。
 その頃の那珂川の水は透明清冽で博多織糸の漂白場(さらしば)であったが、ずっと上流まで博多湾から汐がさして、葦原と白砂の洲が到る処に帯のように続いていた。その水深約一尺以内の処にはハラジロ(沙魚(はぜ)の子ともいい別種ともいう)が一面に敷いたように居るのを翁が目堰網で引っ被せてまわる。
 ハラジロは形が小さいので、獲ったアト始末が面倒なために普通の網打人(あみうち)は相手にしなかったから、いつも沢山に獲れた。その獲れる事と、獲ったアトの面倒さと、喰べる時の風味のよさが翁の楽みとし得意とするところらしかった。
 霜の真白い浅瀬に足を踏張(ふんば)って網を投げている翁の壮者を凌(しの)ぐ腰付を筆者が橋の上から見下して、こちらを向かれたら、お辞儀をしようと思っていると、背後を通りかかった見知らぬ人がよく、
「ああ。まだ只圓先生はお元気そうな」
 と云い云い立佇(たちど)まって眺めたり、そのまま通り過ぎて行ったりした。翁の存在を誇りとして仰いでいた福岡人士の気持ちがよくわかる。
 翁は網打ちに行くといつもまだ日足の高いうちに自宅に帰って、獲れた魚の料理にかかる。
 大きいのは三寸位の本物の沙魚やドンク(ダボハゼの方言)の二三十位から、一寸にも足らぬハラジロの無数を、一々切出小刀で腹を割いて一列に竹串に刺し、行燈型の枠を取付けた白角い七輪のトロ火で焙(あぶ)り乾かして、麦稈(むぎわら)を枕大に束ねて筒切りにしたホテというもの一面に刺して天日に乾かす。乾くと水飴と砂糖と醤油でカラカラに煮上げて、十匹ぐらいずつ食膳に供する。何ともいえない雅味のある小皿ものであった。
 また俎板に残った臓腑は白子、真子を一々串の尖端(さき)で選り分けて塩辛に漬ける。これが又非常に贅沢な風味のあるものらしかった。
 翁自身は勿論、老夫人や女中も総がかりでこの仕末をする。筆者も翁の姪に当る荒巻トシ子嬢と二人で手伝った事があったが、ナカナカ面倒なのでじきに飽きてしまった。
 いよいよ獲物が片付く頃は日が暮てしまって、日に焼けた翁の顔が五分芯のラムプに赤々と光る。
 そこで例の一合足らずの硝子燗瓶が傾いて翁の顔がイヨイヨ海老色に染まる。ニコニコと限りなく嬉しそうにしている翁の前に筆者は頭を下げてお暇(いとま)をする。
「おお。御苦労じゃった。又来なさい」

          ◇

 只圓翁は重い曲を容易に弟子に教えなかったばかりでなく、謡の中の秘伝、口伝はもとより、稽古の時に叱って直した理由なぞは滅多に説明しなかったらしい。後で質問しても、
「インマわかる。稽古が足らん稽古が足らん」
 とか何とか追払われたものらしい。高足の人達が、
「私も老年になりましたから一つ何々のお稽古を……」
 とか何とか云って甘たれかかっても、
「稽古に年齢(とし)はない。年齢は六十でも稽古は孩児(あかご)じゃ」
 なぞと手厳しく弾付(はねつ)けられたという話が時折耳に這入った。又、
「ここのところはどういう心持ちで……」
 なぞと大切な事を尋ねても、
「尋ねて解るものなら教える。尋ねずとも解る位にならねば教えてもわからぬ」
 と面皮を剥(は)いで追っ払ったり、
「心持ちなぞはない。教えた通りに真直(まっすぐ)に謡いなさい。いらざる心配しなさんな」
 なぞと叱っているのを見受けた。

          ◇

 ところで翁の弟子で一番熱心な前記斎田惟成氏はよく翁の網打ちのお供をした。魚籠(びく)を担いで川までお供して行く途中の長い長い田圃道の徒然(つれづれ)なままに翁と雑談をしながら何気なく質問をすると、翁は上機嫌なままに大事な口伝や秘伝を不用意に洩らすことがあった。どうかした時には師匠能静氏から指導された時の有益な苦心談などを述懐まじりで話して行く事もあったらしい。
 これは斎田氏の稽古の秘伝で、後にその心持ちで謡ったり舞ったりして翁から賞められた事が度々あったので、とうとうこの斎田氏の秘伝のお稽古法が露見してしまった。そうして、それから後斎田氏は高弟連中から色々な質問を委託されて翁の網打ちのお伴をしなければならなくなったが、時に依ると翁が意地悪く口を緘して一言も洩らさない事があった。
「昨日は不漁(しけ)じゃった」
 と斎田氏が翌る日、他の弟子連中に云う。知らない者は翁のホテの魚の串を見て……あんなに沢山獲れているのに……と思ったらしいが、何ぞ計らん。斎田氏の不漁(しけ)は秘伝口伝の不漁であった。(林直規氏談)

          ◇

 翁の謡には「三ツ地」も「ツヅケ」もないと誰かが云っていた事を記憶している。むろんその当時の筆者には「三ツ地」が何やら「ツヅケ」が何やら解らなかったが、翁の後までも生きていた囃子方の古賀幸吉氏や栗原伊平氏は、
「実に打ちよくて、大きくて気乗りがした」
 と云っていた。
「拍子の当りなぞを気にかけるような謡は謡ではないぞ。能の本体はシテの面と装束じゃ。それを着けて舞うているシテの位取りを勘取って地謡が謡う。それを囃子方が囃すのじゃ。それじゃけに地謡は、いつも囃子方にこう打てと押え付けて行くだけの力がなくては勤まらぬものじゃ。力のある囃子方は時々自分の思う通りに位を取直そうとするものじゃが、そげな事をされるような地謡は舞台の上で腹を切らねばならぬ。間違うても囃子方の尻に付いてはならぬ」
 と翁は度々山本氏等に云っていた。

          ◇

 翁の歿後、右の言葉は直訳的に福岡の同流を風靡(ふうび)した傾向がある。同時に翁は間拍子のメチャメチャな所謂、我武者羅謡を推奨していたかのように誤解している間拍子嫌いの人も多かったらしいが、決してそんな事ではなかった。
 もちろん幼少未熟の筆者には、そんな事はわからなかったが、しかし翁の門下でも梅津朔造、山本毎、斎田惟成氏などは間拍子の研究がよほど出来ていたものと信ずべき理由がある。
 その中でも梅津朔造氏は囃子方、シテ方を通じての教頭格らしかった。能の前になるとよく囃子方諸氏が朔造氏の前に集まって申合せを行い、位取りや何かの叱正を受けている光景を見た。朔造氏が山本氏の中音の地謡を自身に張扇であしらって見せて、「ここの掛声をこういう風に一段と引っ立てて」なぞと指導している前で、囃子方諸老が低頭平身している情景なぞが記憶に残っている。とにかく朔造氏はよほど万事心得た人であったらしい。

          ◇

 山本毎氏は別に間拍子の研究をしなかったそうである。「一生懸命謡い居れば間拍子は自然とわかる」という翁の言葉を真正面から信じて、糞馬力(くそばりき)と糞勉強を一貫して大成したものだそうである。
 福岡県庁の低い吏員をつとめながら毎朝、蝋燭(ろうそく)を一挺持って中庄の翁の舞台に来て、夜の明ける迄謡う。それから出勤するという熱心振りで、間拍子なぞも出来るどころか、あんまりキチンとして囃子方に附合い過ぎるので翁から叱られる位であったという。

          ◇

 又斎田惟成氏は比較的後進だったので特にこの方面の研究を急いだらしく、出勤の途中でも、銭湯の中でも妙な放神状態で両手を動かして地拍子の取り通しであった。氏の居住地薬院附近では、これが名物だったので、道で遊んでいる子供等までも氏が来ると、
「斎田さん斎田さん」
 と云って両手を鰭(ひれ)のように動かしながら反り身になって氏の背後から跟(つ)いて行って、氏が振返ると逃げて来た。現教授佐藤文次郎君などもその真似上手の一人であったという。
 そんな次第であったから翁の門下の高足の人は、決して翁の歿後に福岡地方で流行したような我武者羅謡ではなかった。むしろ拍子の当りが確か過ぎるのを只圓翁が嫌って、今一層向上させるべく鞭撻(べんたつ)していたのを後人が、自分の力の足りなさから、自己流に解釈して、芸道を堕落させたものに相違ないのである。
 以上は拍子嫌いの我儘流諸氏、もしくば地拍子天狗の諸氏にとっては共に不愉快な記事かも知れぬが、翁の歿後、翁の訓言が如何に強く響き残っていたかという例証としてここに掲げておく。

          ◇

 故男爵安川敬一郎氏は先年筆者にかく語った。
「私が能に志したのは六十歳の時であった。当時福岡は只圓翁のお蔭で喜多流全盛の時代であった。喜多流に非ざれば能楽に非ずという勢いであった。そこでそれならば自分は一つ宝生流を福岡に広めてやろう。喜多流ばかりが能でないという事を事実に証明してやろう……という程のことでもなかったが、それ位の意気組でわざと宝生流のために尽力した。そのような訳合いで健次郎(松本氏)などと違うて私は翁の直門という訳ではない。しかし鼓を担いで翁の門下の人々の能をつとめたのは六十歳の時以来度々であった。あのような立派な先生が又現われるかどうかわかったものでない。私は今でも鼓と、宝生流の研究では若い者に負けないつもりである。年齢こそ八十の坂を越しているが、能に入ったのが六十歳だから能楽の弟子としてはまだ二十歳の血気盛りのつもりでいる。なまけてはいられぬと思うが、何しろ年で、鼓が肩の上でコロコロと運動するのでなあ。ハッハッハッ」

          ◇

 只圓翁は前記の通り稽古の上で素人と玄人の区別をしなかった。大勢の弟子を取っている人でも、自分一人の楽みにしている人間でも老若を問わず一列一体の厳格さでタタキ付けた。生半(なまなか)な喜多流を残すよりはタタキ潰した方が天意に叶うと思っていたらしい精進ぶりであった。
 そのために翁の歿後、翁の遺風を継ぎ、翁の衣鉢(いはつ)を伝えるに足る中心人物が、今の福岡には一人も居ない。
 これは筆者の俗情には相違ないが、只圓翁が今少しく理想を低くして俗情になずみ、その指導振りをモット素人向きに、わかり易く門下の芸能と調和させていてくれたならば、こんな事にはならなかったであろう……なぞと時折り思う事がある。筆者も翁の門下から途中で逃げ出した一人だから斯様な事をいう資格はないが。
 しかし又、一方から考えると只圓翁のような大達人は歴史上の英雄と同様、百年に一人出るか出ないかわからないのが通例である。況(いわ)んや福岡のような僻地に於てをやである。それだからといって言句を絶し、情理を超越した真の能楽の精神を強いて言句、情理の末に残そうとするのは、後に非常な弊害を残すことになる。それよりも「絶後の悲哀を覚悟していい加減な相伝者を残さぬ」という翁の行き方の方が、真の能楽の精神を後世に伝うる所以であったかも知れぬ。「命は天に在り。人間の工夫何の用か成さむ。斃(たお)れて後止む」というのが翁の末期の一念であった事が今にして思い当られるようである。
 翁百世の後、翁の像を仰いで襟を正す人在りや無しや。
 思うて此に到る時、自から胸が一パイになる。
[#改ページ]


   只圓翁歿後の事


 これは蛇足かも知れないが、只圓翁歿後の福岡の喜多流界の状況を序(ついで)に簡単に書き添えておく。
 翁の歿後は前記梅津朔造氏、同昌吉氏及び斎田惟成氏が立方(たちかた)を指導し、山本毎氏が謡曲方面を宣揚していた。この諸氏が相前後して歿した後は河村、林、上原、水上(泰生氏父君)、持山、藤原の諸氏が謡曲を指導し、又能の方は大野徳太郎、柴藤精蔵両氏が熊本の大家故友枝三郎翁に師事し、次で現師範友枝為城氏、敏樹氏の両大家に参じ、観世流の諸氏と協力して各神社の祭事能を継続し、その他大小の能、囃子等を受持って東都家元六平太師を招いて、只圓翁の追善能記念事業を計画するなぞ福岡の斯界(しかい)を風靡していた。
 而して今から二十余年前大野徳太郎氏の歿後、福岡喜多会が成立するや、博多喜多流関係の能装束等の保管方を依頼されていた柴藤精蔵教授これが会長となり、或は梅津正保師範の来福指導に、又は家元六平太先生を中心とする演能の開催に努力し、その他数次の演能を開催して流風の宣揚に力(つと)めたものであるが、大正の大震災後に至り現師範梅津正利氏が来福するや更に一段の緊張を来し、両者相提携して同地方の能楽に於ける研究法の是正と、流勢の拡張に努力した。
 かくの如く福岡の喜多流の今日在るは全く故只圓翁の遺徳を基礎としたもので、翁の遺訓は今以て他流の人士の間にも伝わり、翁の清廉無慾と翁の堂々たる芸風とは今も尚流内の人口に膾炙(かいしゃ)している。
 然るに博多順正寺に在る只圓翁の墓は、後嗣梅津謙助氏が遠隔の地に居らるる故か久しく忘れられていた。ただ旧門下で小謡組であった佐藤文次郎氏が毎年忌日忌日に参詣するほか、藤原宏樹氏、柴藤精蔵氏が時折参詣するばかりで、正月の元旦に梅を持って参詣に行く事にきめていた筆者もその後怠り勝ちになって、勝手な時や序の時に立寄って拝む位の不孝さに陥っていた。

 然るに昨昭和八年の七月初旬に例年の如く只圓翁の墓を訪うた佐藤文次郎氏は、「梅津只圓翁墓」と刻んだ墓石がいつの間にか「梅津家累代墓」一基に合葬されてアトカタもなくなっているのに驚き、急に主となって奔走して旧門下古賀得四郎氏、同柴藤精蔵氏、同筆者等に謀(はか)った結果、銅像建設の議が起った。しかし前述の通り旧門下といっても指を屈する程度にしか残存していないので、大きな計画は無論出来ない。そのために前記諸氏の間で色々評議を重ねているところへ古賀得四郎氏の友人、春吉の医師松田盛氏の紹介で糸島出身の彫塑(ちょうそ)家津上昌平氏がこの評議に参加した。
 津上氏は帝展に数回特選され、数多の名士の銅像を作った人であるが、席上梅津只圓翁の人格を聞き、次いでその写真数葉を見るに及んで非常に感激し、吶々(とつとつ)たる口調で、
「実に立派な人ですなあ。私はこんなお爺さんの顔を見るのは初めてです。失礼ですが私は私費を投じてもこのお爺さんの銅像を製作したいです。是非一つ思う存分に作らせて下さい」
 と云うので間もなく、昭和九年春の大寒中、古賀氏住宅附近の空屋に泊り込み、寝食を忘れて製作に熱中し出した。
 そうして筆者等の予算計画の約二倍大に当る等身大の座像をグングン捏(こ)ね上げ初め、十数日後には、筆者等が見ても故人に生写しと思われる程の手法鮮かな、生けるが如き原型を作り上げた。それから毎晩半徹夜の努力を払って自ら石膏の型を取り、自身に荷造りして即刻東京に持帰る途中、岡山で土台石まで自身に選択し、東都で自身監督の下に鋳造させるという感激振りを示した。
 翁の塑像製作中、津上氏は古賀氏、佐藤氏、筆者等が傍(かたわら)で語る只圓翁の逸事を聞きながら、
「愉快ですなあ。立派な人ですなあ。製作するのに気持ちがいいですなあ」
 と打喜び、東京へ出発の際翁の石膏像を動かしながら、
「私は大きな拾い物をしました」
 と眼をしばたたいた程の感激振りであった。そうしてまだ発起人連中の予算の相談も纏まらぬ中(うち)に、前掲の如き見事な銅像と土台石が津上氏から古賀得四郎氏の許へ到着したので、筆者等は少なからず狼狽させられながらも津上氏の感激振りに心から感激した。同時に今更のように只圓翁の遺徳の高大さを仰いだ次第であった。
 しかしここに困った事は津上氏の感激のために、ほかの場合では一番最後に後(おく)れて出来上り勝ちの銅像が、まだ何事も決定しない一番先に出来上ってしまった事である。敷地は既に翁の後嗣梅津謙助氏の好意で薬院中庄の翁の旧宅跡に決定されたが、右につき津上氏の誠意は別の事としても、そのためには最初の計画の約二倍、すなわち約二千円の寄附金を集めなければならぬ。そのために発起人会を後から催して運動を初めねばならぬという滑稽且つ、悲惨な順序に陥ってしまったのみならず、その寄附金を集むべく種々奔走の結果、予定の二千円のやっと半額程度しか集まらず、製作者津上氏が自弁していた銅像建設の実費を弁償し得た以上には、ほとんど謝礼らしい謝礼すら出来ないという窮況に陥ってしまった事であった。
 これは一に筆者等数名の不調法で赤面の外ない。製作者津上氏の素志如何に拘らず、誠に慚愧(ざんき)お気の毒に堪えない次第であるが、これも翁の歿後を飾る一つの大きな、美しい話柄……翁の遺徳のために吾々の微力が圧倒された事蹟として大方の憫笑に価すれば幸である。
 事は故翁から習ったに過ぎない一教授佐藤文次郎氏の謝恩の一念から起り、全くの赤の他人である彫塑家津上昌平氏の感激から来た犠牲的熱意によって完成された事業である。その他関係者諸氏の目に見えない犠牲を加算したならば、翁の遺徳の世道人心に入る事の如何に深く且つ大きいかは到底想像も及ばない位であろう。
 もしこの不況険悪の時勢に於て無用不廉(ふれん)の事を起し一時の名聞(みょうもん)を求むるものとして一笑に附する人士が在ったならば、それは余りにも心なき人々として吾々は怨(うら)まざるを得ない。

次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:140 KB

担当:undef