梅津只円翁伝
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著者名:夢野久作 URL:../../index_pages/person969

          ◇

 能管の金内吉平氏は翁の生存当時の能管の中でも一番の年少者で、体格も弱少であったが、或る時、「敦盛」の男舞を吹いている最中に翁が覗いているのに気が付いたので固くなったらしく、笛がパッタリ鳴らなくなった。それでも翁が恐ろしさに、なおも一生懸命に位を取りながら吹くとイヨイヨ調子が消え消えとなる。そこで死物狂いになってスースーフウフウと音無しの笛を吹き立てたが、とうとう鳴らないまま一曲を終えて、どんなに叱られるかと思い思い楽屋へ這入ると、翁は非常な御機嫌であった。
「結構結構。きょうの意気と位取りはよかったよかった」
 と賞められた時の嬉しかったこと……初めて能管としての自信が出来たという。(金内吉平氏談)

          ◇

 前述のような数々の逸話は、翁一流の天邪鬼(あまのじゃく)の発露と解する人が在るかも知れぬが、そうばかりではないように思う。
 翁は意気組さえよければ型の出来栄えは第二第三と考えていたらしい実例がイクラでも在る。
 現在の型では肩が凝(こ)ったり、手首が曲ったり、爪先が動いたりする事を嫌うようであるが、翁の稽古の時には全身に凝っていても、又は手首なんか甚だしく曲っていても、力が這入っておりさえすれば端々の事はあまり八釜(やかま)しく云わなかったようである。
 只圓翁門下の高足、斎田惟成氏なんかの仕舞姿の写真を見ても、その凝りようはかなり甚だしいものがある。記憶に残っている地謡連中の、マチマチに凝った姿勢を見てもそうであった。凝って凝って凝り抜いて、突っ張るだけ突っ張り抜いて柔かになったのでなければ真の芸でないというのが翁の指導の根本精神である事が、大きくなるにつれてわかって来た。
 だから小器用なニヤケた型は翁の最も嫌うところで、極力罵倒しタタキ付けたものであった。そんな先輩連の真似をツイうっかりでも学ぶと、非道い眼に会わされた。

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 翁が稽古中に先輩や筆者を叱った言葉の中で記憶に残っているものを、云われた人名と一緒に左に列記してみる。アトから他人に聞いた話もある。
「お前が、そげな事をばするけにほかの者が真似する。喜多流にはそげな左右はない。どこを見て来たか……云え……云いなさい……馬鹿ッ」(梅津朔造氏へ)
「扇はお前の心ぞ。武士の刀とおなじもんぞ。チャント両手で取んなさい」(筆者へ)
「イカンイカン。扇の先ばっかりチョコチョコさせるのは踊りじゃ踊りじゃ――。心が生きねば扇も生きん。お能ぞお能ぞ……踊りじゃないぞ」(筆者へ)
「俺が足の悪い真似をお前がする事は要らん。お前はお前。俺は俺じゃ。馬鹿ッ」(梅津朔造氏へ)
「人に真似されるような芸は本物じゃないぞ」(梅津利彦氏へ)
 =シンミリした穏かな口調で=「謡は芸当じゃない。心持ちとか口伝とかいうて加減するのが一番の禁物じゃ。私が教えた通りに真直(まっすぐ)に謡いなさい。心持ちとか口伝とかいうものはないものと思いなさい。そうせぬと謡が下劣になる」(山本毎氏ほか地謡一同へ)
 =或る天狗能楽師の悪口を云った後=「能は芝居や踊りのように上手な人間が作ったものではない。代々の名人聖人の心から生まれたものじゃ。その人達の真似をさせてもらいよるのじゃ。出来ても自慢にはならぬ。自分のたしなみだけのものじゃ。それを自慢にする奴は先祖なしに生まれた人間のような外道(げどう)じゃ。勿体ない奴じゃ」(梅津朔造氏。山本毎氏等々へ)
 =或る囃子方の悪口を云って=「彼奴のような高慢な奴が鼓を打つと向うへ進まれぬ。後退(あとしざ)りしとうなる」
 =光雲神社の鏡の間で囃子方へ=「馬鹿どもが。仕手がまだ来んとに調べを打って何になるか。貴様達だけで能をするならせい。この馬鹿どもが」

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 筆者が「夜討曾我」のお稽古を受けている時であった。
 後シテの御所の五郎丸組討(くみうち)の場になるとキット翁が立上って来て、背後から組付いて肩の外(はず)し工合を実地に演(や)らせる。それから五郎丸の投げ方の稽古であるが、投げ方が悪いと翁が途方もない力でシッカと獅噛(しが)み付いて離れないので困った。
 これは最初筆者が、子供ながら翁のような老人を本気に投げていいかどうか迷って躊躇したのが翁に悪印象を残したのに原因していたらしい。実に意地の悪い不愉快な爺さんだと思った。
 そればかりでない。
 遠慮のないところを告白すると翁は総義歯(そういれば)をしていたのであるが、その呼吸(いき)が堪らなく臭い事を発見したので最初からウンザリした。背後から筆者の肩を抱締めたまま筆者の耳の処に顔を持って来て、
「本気で、本気で投げんと不可(いか)ん。投げんと殺されるぞ。力一パイ。肩を外(はず)いて。そうそう」
 というソノ息吹きの臭いこと。とても息苦しくてムカムカして来てしようがなかった。

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 高弟梅津朔造氏の令息で、梅津昌吉という人が居た。今四谷の喜多宗家に居られる梅津兼邦君の父君であるが、翁の歿後は脇方専門のようになっていた。
 元来無器用な人であったらしく、狂言から仕手方に転向した上村又次郎氏と共にいつも翁から叱られるので有名であったが、それでも屈せず撓(たゆ)まぬ勉強によって福岡地方で押しも押されもせぬ師家になられた事実が、同時に有名であった。
 氏は、正直一途な性格で、あんまり翁から叱られて、真剣になり過ぎたらしく「虚眼」というのになってしまった。虚眼というのは、お能一番初まってから終るまで一時間か二時間の間、瞬きを一つもしないことで、昌吉氏が真白くクワッと眼を見開いて舞台の空間を凝視したままでいるのが、矢張り只圓翁門下一統の名物のようになっていた。
「昌吉は、あんまり一生懸命になり過ぎたんですね。あんなにしていると肝腎の眼が死んでしまいます。あんなのを虚眼と云ってね。時々ありますよ」
 と現六平太先生が評された。
 只圓翁は一生懸命になり過ぎる分ならイクラなり過ぎようとも、出来損っても咎(とが)めなかったので、昌吉氏の虚眼もお咎めを免れたものと思う。

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 これに引続いた話であるが、前記河原田平助氏の櫛田神社に於ける還暦祝賀能に「大仏供養」が出た。シテの景清が梅津利彦氏で、ワキの畠山重忠が前記梅津昌吉氏であった。
 その頃互いに二十代であった両氏の意気組は非常なもので稽古もずいぶん猛烈であったが、サテ能の当日になると文字通り焦げ附くような暑さであった。それに装束を着けて舞うのだから大変で、
「名乗れ名乗れと責めかけられ」
 と畠山が景清を橋がかりへ追込む時の如き、二人とも満面夕立のような汗が烏帽子(えぼし)際から滴り落ちるのであった。
 揚幕を背にした景清の利彦氏は真赤に上気して、血走った眼を互い違いにシカメつつ流れ込む汗に眩(くら)まされまいとしている真剣な努力が見物人によくわかった。これに対して畠山に扮した梅津昌吉氏は真青になったまま、イクラ汗が眼に流れ込んでも瞬き一つしない。爛々と剥き出した眼光でハッタと景清を睨み据えたまま引返して舞台に入り、
「言語道断」
 と云った。その勢いのモノスゴかったこと。
「今日のような『大仏供養』を見た事がない」
 と楽屋で老人連が口を極めて賞讃したのに対し翁はタッタ一言、
「ウフフ。面白かったのう」
 と微笑した。昌吉氏はズット離れた処で装束を脱ぎながら、
「汗が眼に這入って困りましたが、橋がかりに這入ると向うの幕の間から先生の片眼がチラリと見えました。それなりけり気が遠うなって、何もかもわからんようになりました」
 と云って皆を笑わせていた。

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 或る時中庄の只圓翁の舞台で催された月並能で、大賀小次郎という人が何かしら大□(おおべし)ものを舞った。
 その後シテの時にどこからか舞台に舞い込んで来た一匹の足長蜂が大□の面の鼻の穴から匐(は)い込んで、出口を失った苦し紛れに大賀氏の顔面をメチャメチャに刺しまわった。
 大賀氏は気が遠くなった。しかし例によって幕の間から翁が見ているのが恐ろしさに後見を呼ぶ事さえ忘れて舞い続けた。「舞台は戦場舞台は戦場」と思い直し思い直し一曲を終った。
 幕へ這入って仮面を脱ぐと大賀氏の顔が一面に腫れ上って、似ても似つかぬ顔になっているので皆驚いた。(柴藤精蔵氏談)

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 翁の門下の催能にワキをつとめた人は筆者の祖父灌園以外に船津権平氏兄弟及その令息の権平氏が居た。観世の関屋庄太郎氏も出ていた。
 そのほか他流の人で翁の門下同様の指導を受けていた人々には観世の不破国雄、山崎友来氏等がある。
 しかし翁は他流の人や囃子方、狂言方には、あまり八釜(やかま)しい指導をしなかった。翁が八釜しく云うのは何といっても喜多流の仕手方で、その中でも梅津朔造氏が一番激しくイジメられたりコキ使われたりした。
 翁は事ある毎に、
「朔造朔造」
 と呼んだ。その声がトテモ大きくて烈しいので舞台から見所まで筒抜けに聞こえた。
 その声が聞こえると朔造氏はどこへ居ても直ぐに飛んで来て、持病の喘息を咳入り咳入り翁の用を足した。翁の「朔造朔造」は催能の際の名物であり風景であった。

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 粟生弘氏は翁の門下でも古株で相当年輩の老人であったが、或る時新米の古賀得四郎氏が稽古に行くと、大先輩の粟生氏が「箙(えびら)」の切(きり)の謡を習っている。それが老巧の粟生氏の技倆を以ってしてもナカナカ翁の指南通りに出来ないので、何度も何度も遣り直しを喰(くら)っている。新米の古賀氏は何の「箙」ぐらいと思っていたのに案に相違して震え上った。「箙」なぞを滅多に習うものじゃないと思った。
 そのうちに粟生氏が「箙」の切の或る一個所をかれこれ二三十遍も遣直(やりなお)させられたと思うと、老顔に浴びるように汗の滝を流しながら、精も気根も尽き果てた体で謡本(うたいほん)の前に両手を突いて、
「今日はこれ位で、どうぞ御勘弁を……」
 と白旗を揚げた。古賀氏は今更に只圓翁の稽古腰の強いのに驚いていると翁は平然たる顔で、粟生氏を一睨して、
「そげな事じゃ不可(いか)ん。良く稽古しておきなさい」
 と誡(いま)しめてからクルリと古賀氏の方に向き直ってニコニコした。
「アンタにはあのように云わんばい」(古賀得四郎氏談)

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 芸の方も去る事ながら、癇癖と稽古の厳重さで正しく只圓翁の後を嗣いでいたのは斎田惟成氏であった。
 翁の歿後、師を喪った初心者で斎田氏の門下に馳せ参じた者も些少ではなかったが、斎田氏の八釜しさが出藍(しゅつらん)の誉(ほまれ)があったものと見えて、しまいには佐藤文次郎氏一人だけ居残るという惨況であった。
 それでも余りに斎田氏の稽古振りが酷烈なので、夫人が襖の蔭からハラハラしながら出て来て、
「そんなにお叱りになっては……」
 と諫(いさ)めにかかると斎田氏の癇癪が一層高潮した。
「女風情が稽古場に出入りするかッ」
 といった見幕で一気に撃退してしまった。
「叱られて習うたお謡じゃけに、叱って教えねば勘定が合わぬ」
 などと門弟に云い訳をする事もあった。
 その後斎田氏は勤務先の福岡裁判所から久留米に転勤すると、タッタ一人残っている門弟佐藤文次郎氏のためにワザワザ久留米から汽車で福岡まで出て来て稽古をしてやった。弟子よりも先生の方がよっぽど熱心であった。
 その稽古腰の強いこともたしかに翁の衣鉢(いはつ)を嗣(つ)いでいた。(佐藤文次郎氏談)

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 翁の門下には名物と云われていた人が三人在った。一人は間辺某という人で、梅津朔造氏、山本毎氏等の先輩に当り、筆者なぞは全然顔も知らない。謡が実に立派で、蔭で聞いていると只圓翁と間違う位であった。いつも翁の能の地頭を拝命していた高足であったが、同じ翁門下の地頭格山本毎氏と争い、非常に憤激して自宅に帰り謡曲の本を全部焼棄して二度と翁に見えなかった。(宇佐元緒氏談)
 詳しい事情は判明しないが、間辺氏の斯様(かよう)な態度は栗山大膳以来の片意地な黒田武士の本色であったと同時に、只圓翁門下の頑固な気風を端的に露出したものであったという。(林直規氏談)

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 今一人は現教授佐藤文次郎氏の姻戚に当る吉本董三氏で、美髭を生やした眉の太く長い、眼と口の大きい、いかにも豪傑らしい風貌の巨漢であった。
 氏は金貸を業としていたにも似合わず、翁のために献身的に働く純情家であった。何か費用の要る事があるとお能の際に、楽屋から観衆席を巡回して目星い人間を片端から引捕えて、自身の山高帽を突付けながら喚(わ)めき立てた。
「貴公は金持じゃけに五円出しなさい」
「あんたも三円ぐらい奮発しなさい」
「お前は一円に負けるけに出せ。ナニ無い。横着な事を云う。蟇口(がまぐち)をば開けて見い」
 といった調子で有無を言わさず捻じ上げて行くので能率の上る事非常であったという。
 しかし能の方は滅法好きな癖に天下無敵の下手であった。翁がイクラ教えてもその通りには決して出来なかったし、自分でも諦めていたと見えて思い切った蛮声を張上げて思う存分、勝手気儘な舞い方をした。長刀(なぎなた)を持たせると大喜びでノサバリまわって危険この上もないので地謡が皆中腰で謡ったという。流石(さすが)の只圓翁もこの人物には兜(かぶと)を脱いでいたらしく稽古の時にも決して叱らなかった。
 のみならず同氏が地謡に座って謡いながら翁の前で行燈袴(あんどんばかま)をまくって、毛ムクジャラな尻から太股まで丸出しにして痒(かゆ)い処をバリバリと掻きまわるような事があっても翁は見ないふりをしていた。
 こんな人物は多分翁の苦手であったろう。いつも翁の事を「爺が爺が」と呼棄てにしていたので、皆「吉本のキチガイ」と云っていた。実に愛すべき豪傑であった。(柴藤、宇佐両氏談)

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 モウ一人只圓翁の苦手が居た。これは本人が現存しているから特に姓名を遠慮するが、この人もかなりの無器用で、同時に相当の天狗様であったらしい。或る時はじめて翁に謡のお稽古を願ったら、翁は一応稽古を附けて後でブッスリと云った。
「モウお前は稽古に来るには及ばぬ。私はお前の先生にはアンマリ上等過ぎる」
 これは二三人から聞いた話だから事実としてここに書いておく。腹が立つと、それ位の事は云いかねない翁であったから。
 ところが感心な事に、その劣等生氏は、それでも断然屁古垂(へこた)れなかった。それ以来降っても照っても頑強に押しかけて来たので、翁もその熱心に愛(め)でたものであろう、叱り叱り稽古を付けてやったが、翁が歿前かなりの重態に陥って、稽古を休んでいる時までも毎日毎日執拗に押かけて来て、枕元で遠慮なく本を開いて謡い出したので、とうとう翁が腹を立てた。
「そう毎日来ては堪らん。大概にしなさい」
 稽古腰のあれ程強い翁に白旗を上げさせたのは古往今来この人一人であろう。同氏は現在梅津正利師範の手で有伝者に取立てられて、大勢の弟子を持っていてなかなか忙しいという。

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 翁は痩せた背丈の高い人であった。五尺七八寸位あったように思う。日に焼けた頑健な肉附と、どこから見ても達人らしい風格を備えたシャンとした姿勢であった。肩が張って、肋骨が出て、皺(しわ)だらけの長大な両足の甲に真白い大きな坐胝(すわりだこ)がカジリ附いていた。
 冬は地味な、粗末な綿入の上に渋茶色のチャンチャンコ、茶色の小倉帯、紺飛白(こんがすり)の手縫足袋。客が来るとその上からコオリ山(灰白色の紬(つむぎ)の一種)の羽織を羽織った。
 麻製渋色の胸当て(金太郎式の)は夏冬共に離さなかった。

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 後頭部に心持ち黄色い白毛が半月型に残っているのを綺麗に櫛目を入れていた。顔は長大で、鼻が西洋人みたように鷲型で、白い眉が房々として、高い小鼻の左右に眼窩が深く落凹(おちくぼ)んで、心持ち内斜視の老眼が鋭く光っていた。口は大きく一文字に閉じて、凹んだ両眼と、巨大な顎と共に一歩も退かぬ一徹の気象をあらわしていた。
 横頬から特に前頭部へかけて黒い斑(まだら)の長生□(ちょうせいちょう)が群着していた。又首筋へ労働者でなければ見受けられない深い皺が重なり合っていたが、これは翁自身の過激な肉体的習練の結果か、又は好物の畠イジリと網打ちの結果ではなかったろうかと思われる。
 要するに健康そのもののようにガッチリと逞しい、声の太い、大きな爺さんであった。

          ◇

 稽古は二五八、三六九の日に分けて、四の日七の日十の日が翁の休日であったらしい。何かの都合で、その休みの日に行くと翁はセッセと野菜畑で働いていたりしたが、直ぐに足を洗って来て稽古をしてくれた。休み日だからといって決して悪い顔をしたり稽古を断ったりしなかった。
 初めて小謡を習いに行くと、翁は半紙を一帖出して自分で紙縒(こより)をひねって綴じる。それから墨を磨って表紙に「小謡」と書いて、その右下に弟子の姓名を書く。その一枚をめくって、
「サア、何がよかろうのう」
 なぞとニコニコ独言(ひとりごと)を云いながら、二句ぐらいの簡単な和吟に胡麻節(ごまふし)を附けたのを書いて投与える。それを畳の上に置いて待っていると、翁が机の横から這い出して来て真正面に座る。
「そうそう。チャンと両手を膝に置いて」
 とお行儀を教えながら二度程繰り返して附けてくれる。それでも出来ないと、蠅打の柄や、張扇で頭をピシャリとたたく事もあった。
 その次に来ると今一度謡わせられて、恙(つつが)なく記憶(おぼ)えていると又一つ新しいのを書いてもらえる。すこし上達して来ると、
「節の附かんとも時々は良かろう」
 と云って文句ばかりを書いてくれることもあった。最初は面喰ったが後には慣れて来た。
 翁が書いてくれた小謡本には略字や変体仮名が多いので、習って帰ると直ぐに朱で仮名を附けたものであったが、翁は別に咎めなかった。

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 毎年一月の四日にはお鏡開きといって、お稽古に来る子供ばかりを座敷に集めて、翁が小豆雑煮(ぜんざいのようなもの)を振舞った。それがトテモ美味しくて熱いので、喰っている子供連は一人残らず鼻汁を垂らしたのをススリ上げススリ上げしていた。
 翁はニコニコと眺めていた。(佐藤文次郎氏談)

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 だんだん上達して来ると本番(全曲)を習う。
 筆者は三歳ぐらいから祖父に仕込まれていて、翁の処へ入門した時は数番の謡を丸暗記していたのでイキナリ本番を習ったものであったが、むろんこちらから曲目を撰む事は出来なかった。翁が本人の器量に応じて次の月並能の番組を斟酌(しんしゃく)しながら撰んでくれるのであった。
 翁の処へ稽古に行くと、玄関の上り框(がまち)の処(机に向っている翁の背後)に在る本箱から一冊引出して開いてくれる。時には、
「その本箱を開けてみなさい。その何冊目の本の何という標題の処を開けてみなさい」
 と指図する事もあった。
 それを最初から一枚ぐらい宛(ずつ)、念を入れて直されながら附けてもらうので、やはり二度ほど繰り返しても記憶(おぼ)え切れないと叱られるのであった。
 その本はたしか安政二年版行の青い表紙で、「ウキ」「ヲサヘ」や「ヤヲ」「ヤヲハ」又は廻し節、呑み節を叮嚀に直した墨の痕跡と胡粉(ごふん)の痕跡が処々残っている極めて読みづらい本であった。
 この翁の遺愛の本は現在神奈川県茅ヶ崎の野中家に保存して在る筈である。

          ◇

 翁は一番の謡を教えると必ずその能を舞わせる方針らしかった。
 筆者は九歳の時に「鍾馗(しょうき)」の一番を上げると直ぐにワキに出された。シテはたしか故大野徳太郎君であったと思うが、お互に受持の言葉を暗記するかしないかに二人向き合って申合わせをさせられたので、間違うたんびに笑っては叱られた。
 そんな風であったから筆者は小謡とか仕舞とか囃子とかいうものが存在している事をかなり後まで知らずに過ごした。

          ◇

 こうして習っては舞い習っては舞いした稽古順は大略左の通りである。これ以て誠に名聞(みょうもん)がましいが、何かの参考になるかも知れないと思って記憶している通りを書き止めておく次第である。
(一)鍾馗ワキ(二)同シテ(三)鞍馬天狗ツレ(四)経政(五)嵐山半能(六)俊成忠度(七)花月(八)敦盛(九)土蜘ツレ(十)巻絹ツレ(十一)小袖曾我(十二)夜討曾我――これ以後の順序明瞭に記憶せず、(十三)猩々(十四)小鍛冶(十五)岩船半能(十六)烏帽子折子方(十七)田村(十八)殺生石直面(十九)羽衣ワキ(二十)是界(二十一)蘆苅(二十二)箙(えびら)(二十三)湯谷(ゆや)ツレ(二十四)景清ツレ――但これは稽古だけで能は中止(二十五)船弁慶ツレ、及、海人子方同時(二十六)田村(二十七)土蜘――但し稽古だけにて能は舞わず(以上)
 その他「清経」シテ、「三井寺(みいでら)」ツレ等が四五番あったと思うが、ハッキリ記憶しない。
 そのうちに十六七歳になったので、翁は舞台に立った筆者を見上げ見下してニコニコした。
「ほう。これは大きゅうなった。もう面(おもて)をかけんとおかしいのう。面をかけると序の舞やら楽(がく)やら舞うけに面白いがのう。ハテ。何にしようか。今度一度だけ『小督(こごう)』にしようか。うむ、『小督』にしよう『小督』にしよう。『土蜘』もええが糸の投げようがチット六かしかろう」
 筆者は「土蜘」が舞いたくて舞いたくてたまらなかった。ずっと以前に河原田翁の追善能で見た金剛某氏の仏倒れや一の松への宙返りをやって見たくて仕様がなかったが、翁が勝手に「小督」にきめてしまったので頗(すこぶ)る悲観した。
 その中(うち)に中学を落第しそうになって稽古を休んだのをキッカケにとうとう翁の処へ行かなくなった。唯「湯谷(ゆや)」のツレと「景清」のツレで面をかけて稽古した切り、シテとしては面を掛けずに終った。
 その永い間翁が筆者に傾注してくれた精魂がドレ位であったろうか。その広大な師恩をアトカタもなく返上してしまった不孝の程は悔いても及ばない今日である。

          ◇

 いよいよ謡の稽古が済むと、まだ文句のつながらないうちにサッサと舞台にかかる。
 翁は筆者が謡い終って本を閉じると(誰に対しても同様であった)張扇を二本右手に持って、
「サア」
 と筆者を一睨(ひとにらみ)しながら立上る。心持ち不叶(ふかな)いな左足を引ずり引ずり舞台に出る。この頃から既に、お能の神様、兼、カンシャクの神様が翁に乗り移っていたように思う。

          ◇

 舞台は京間ではなかったように思う。普通の六尺三間、橋がかり三間で、平生は橋掛り共に雨戸がピッタリと閉まって真暗い。
 鏡板の松は墨絵で、シテ座後方の鴨居に「安和堂」と達筆に墨書した木額が上げて在った。たしか侯爵黒田長成公の筆であったと聞いている。
 その雨戸を翁に手伝って北と東と橋がかりを各一枚宛開いて、あとを平均五六寸宛隙(す)かす。それから翁はワキ座と地謡座のちょうど中間の位置に在る張盤の前に敷いた薄い茶木綿の古座布団上に座る。
 初めのうちは誰でもワキの詞(ことば)を云う翁に向ってアシラッたのでよく叱られた。翁の詞がいつでも真剣だったので、ツイその方向に釣り込まれる傾向もあった。

          ◇

 ところでこちらは幕の前に引返して立っていると翁はこっちをジロリと見て、今一度「サア」と云う。同時に一声とか次第とかをアシライ初める。
「イヨオオ――。ハオオーハオオー」
 と云ううちに坦々蕩々たるお能らしい緊張味が薄暗い舞台一面に漲(みなぎ)り渡る。そのうちに大小の頭(かしら)が来ると翁がソッと横目でこっちを見る。見ない事もあるが、大抵見る場合が多いのだからその時に要領よく受けて出るので、後(おく)れたり早過ぎたりすると翁がパチパチと張扇を叩いて今一度、一声なり次第なりを繰返しながら遣直(やりなお)させる。しかもそのタタキ加減がその日の低気圧のバロメーターになるので、これは老幼を問わず同様の感想であったらしい。
 翁はアシライが中々達者で、役者が橋がかりへ這入る時に打つ次第のヨセ工合がなかなかよかったので囃子方が皆感心して耳を傾けたという。

          ◇

 翁は普通の稽古を附ける場合には袴(はかま)を穿(は)かなかった。これは謹厳な翁に似合わぬ事であったが事実であった。荒い型をして見せる時には着流しの裾の間から白い短い腰巻と黒い骨だらけの向脛(むこうずね)が露出した。

          ◇

 翁は張盤の前に正座した時、必ず足の拇指(おやゆび)を重ね合わせていた。その重なり合った拇指がいつ動くかと思って、大野君と二人で翁の背後の脇桟敷から長い事凝視していた事があったが、決して動かないので根負けした事があった。
 張扇は大抵眼の高さの処まで上げた。肱は両脇から柔かく離し、向うへ伸ばして軽くバタバタとたたいた。肱から手首と張扇の尖端が柔かい一直線を描いて、上っても下っても狂わなかった。
 張扇が張盤を離れるのと掛声が起るのが同時だったので、どうかすると張扇が声を出しているような錯覚を感じた。遠くから見ていると一層そんな感じがした。
 張扇は必ず自分で貼った。筆者も一度貼り方を習ったが忘れてしまった。
「この角の処をこうして……」
 と云う翁の声だけが耳に残っている。
 掛声をかけたり、地謡を謡ったりしているうちに、翁の上顎の義歯(いれば)が外れ落ちてガチャリと下歯にぶつかる事が度々であった。
「衣笠山……ガチャリ。モグモグ……ムニャムニャ……面白の夜遊(やゆう)や……ガチャリ……モグモグ……ヨオチポポオポッポヨオイチョン……ホラホラしおりしおり……ガチャリ……モグモグ……ホオホオ」
 といった調子であった。吾々子供連は、よくその真似をしていたものであるが、その中でも一番上手なのは故大野徳太郎君であった。

          ◇

 毎朝翁は、暗いうちに起きて自分の稽古をする。それから利彦氏を起して稽古をつける。冬でも朝食前に一汗かかぬと気持ちが悪かったらしい。これは翁の長寿に余程影響した事と思う。

          ◇

 食事は三度三度粥食(かゆしょく)であった。
「年を老(と)ると身体(からだ)を枯らさぬといかん」
 とよく門弟の老人たちに云い聞かせたそうである。

          ◇

 筆者が十四五歳の頃であったか。
 ある春の麗(うら)らかな日曜日の朝お稽古に行ったら、稽古が済んでから翁は筆者を机の前に招き寄せて云った。
「まことに御苦労じゃが、あんた筥崎(はこざき)までお使いに行ってやんなさらんか」
 門下生は翁の御用をつとめるのを無上の名誉と心得ていたので、筆者は何の用事やらわからないままに喜んで、
「行って来まっしょう」
 と請合った。むろん翁も喜んだらしい。ニコニコしてもっとこっちに寄れと云う。その通りにすると今度は両手を突いて頭を下げよと云うので、又その通りにすると翁は自筆の短冊を二枚美濃紙に包んで紙縒(こより)で縛ったものを筆者の襟元から襦袢(じゅばん)と着物の間へ押し込んだ。
「それを持って筥崎宮の二番目の中の鳥居の傍(そば)に在る何某(失名)という茶屋に行って、そこに居る禿頭(はげあたま)の瘠せこけた婆さんへ、その短冊を渡してオオダイを下さいと云いなさい。オオダイ……わかるかの」
「オオダイ」
「そうそう。オオダイ。それを貰うたなら落さんように持って帰って来なさい」
「オーダイ」
「そうそう。オオダイじゃ。雷除けになるものじゃ。わかったかの」
 筆者は何となくアラビアン・ナイトの中の人間になったような気持で田圃通りに筥崎へ向った。オオダイとは、どんな品物だろうと色々に想像しながら……。
 中庄から筥崎までタップリ一里ぐらいはあったろう。途中の田圃には菜種の花が一面に咲いていた。涯てしもなく見晴らされる平野の家々に桃や桜がチラホラして、雲雀(ひばり)があとからあとから上った。
 瓦町の入口で七輪を造る土捏(つちこ)ねを長い事見ていた。櫛田神社の境内では大道(だいどう)手品に人だかりがしていた。
 筥崎松原にはまだ大学校が無かった。小鳥が松の梢一パイに群れていたり、鼬(いたち)が道を横切ったりした。少々淋しくて気味が悪かった。
 こうしてずいぶん道草を喰いながら筥崎に着くと、中の鳥居の横の茶屋は一軒しかなかったので直ぐにわかった。
 中に這入(はい)ると三十四五の女房と、蟇(がま)みたような顔をした歯の無い婆さんが出て来た。いやに眼のギョロリした婆さんであったが、先に出て来て筆者を見上げ見下すと、
「あんたは何しに来なさったな」
 と詰問した。なるほど頭がテカテカに禿(はげ)ている。着物のお蔭でやっと爺さんに見えないような婆さんである。
 筆者は長い道中の間に用向きをハタと忘れているのに気が付いた。背中に短冊が這入っている事なんか恐らく翁の門を出た時から忘れていたろう。どうして何のために来たかイクラ考えてもわからないので泣出したくなった。
 頭の禿げた婆さんは口をモグモグさせながら、怖い眼付で筆者を今一度見上げ見下した。
「どこから来なさったな」
「梅津の先生のお使いで来ました。あの……あの……」
 今度は貰いに来た品物の名前を忘れている事に気が付いた。
 婆さんは歯の無い口を一パイに開いて笑った。
「アッハッハッハッ。オオダイじゃろう」
「はい。オオダイ」
「ふうん。そんならそこへ手を突いてみなさい」
 筆者は上り框へ両手を支(つ)いた。
「頭を下げなさい。そうそう」
 婆さんは痩せ枯れた冷たい手で筆者の背中を探りまわして短冊を引っぱり出した。押頂いて、眼鏡もかけずにスラスラと読んでから又押頂いた。
 それから奥へ這入って神棚の上から一本の薪の半分ばかりの燃えさしを大切そうに持って来て、勿体らしく白紙で包んで、紙縒で結わえながら筆者の懐中に押込んでくれた。
「よう来なさった。これを上げます」
 と云って女房の持って来た駄菓子の紙包みを筆者の手に持たした。筆者は懐中から薪の燃えさしを今一度引っぱり出して見まわした。恐らく妙な顔をしていた事と思う。
「これがオオダイだすな」
 婆さんがうなずいた。
「うんうん。それはなあ。この筥崎様で毎年旧の節分の晩になあ。大松明(たいまつ)を燃やさっしゃる。その燃え残りを頂くとたい。……これから夏になると雷神(かみなり)が鳴ります。その時にこれを火鉢に燻(くす)べると雷神(かみなり)様が落ちさっしゃれんちうてなあ……梅津の爺さんは身体(からだ)ばっかり大きいヘコヒキ(褌引き……臆病者の意)じゃけに雷神(かみなり)様が嫌いでなあ。毎年頼まれて短冊とカエキ(交易)しますとたい」
 やっと理窟がわかった筆者はホッとしながら、小学校の帽子を脱いでお辞儀しいしい帰途に就いた。何だか梅津の先生が非常に損な交易をして御座るような気がして、この婆さんが横着な怪しからぬ婆(ばばあ)に見えて仕様がなかった。後から聞くとこの婆さんは只圓翁よりも高齢であったという。上には上が在ると思ったが、しかし、どうした因縁で翁と識合いになったかは今以てわからない。
 その時の事を思い出すと百年も昔のような気がする。

          ◇

 翁は滅多に外へ出かけない癖に天気の事を始終気にする人であった。それは能を催したり、網打ちに行ったり、歌を詠(よ)んだりするために自然と、そんな習慣が出来たのかも知れないが、そればかりでもなかったように思う。
 舞台上の翁を見た人は翁を全面的に、傲岸(ごうがん)不屈な一本槍の頑固親爺と思ったかも知れぬが、それは大変な誤解であった。勿論能楽の事に関しては一流の定見を持っていて一切を断定的にドシドシ事を運んだが、しかし日常の事に関しては非常に気が弱くて、夫人は勿論、門人や女中にでも遣り込められると、
「成る程のう。よしよし……」
 と眼をつむって云う事を聞いていた。

          ◇

 恩に感ずる事なぞも非常に強く深かった。愛婿野中到氏の言葉なぞは無条件で受容れていたらしい話が残っている。所謂(いわゆる)虫も殺さぬという風で、何か不本意な場合に立ったり、他人の不幸を聞いたりしてオロオロ声になって落涙している事も二三度見受けた位である。
 これは翁の家人以外の人々には意外と思われる話かも知れぬ。しかし、こうした性格があの舞台上の獅子王の如き翁の半面に在る事を思う時、筆者は翁の人格がいよいよ高く、いよいよ深く仰げども及ばぬ心地がして来るのである。
 翁はそうした気の優しさを、いつも単純率直にあらわしていた。老人や子供には非常に細かく気を遣った。天気が悪いと弟子の行き帰りに、
「おお。シロ(辛労)しかろうなあ」
 と眼をしばたたいた。その云い方は普通人の所謂挨拶らしい感じが爪の垢ほどもなかった。心持ちカスレた真情の籠もった声であった。

          ◇

 老夫人と差向いの時に「お日和(ひより)がこう続いては麦の肥料(こえ)が利くまいのう」とか、「悪い時に風が出たなあ。非道(ひど)うならにゃ宜(え)えが」
 とか云って田の事を心配している事もあった。
 翁は自身で畠イジリをするせいか百姓の労苦をよく知っていた。その点は筆者の祖父灌園なぞも屡々(しばしば)他人に賞めていた。
「老先生の話を聞くと太平楽は云われんのう」
「ほんなこと。お能ども舞いよると罰が当るのう。ハハハハ」
 なぞと親友の桐山氏と話合っていた。
 只圓翁が暴風(あらし)模様の庭に出て、うしろ手を組んで雲の往来を眺めている。その云い知れぬ淋しい、悲しげな表情を見た人は皆、そうした優しい、平和を愛する翁の真情を端的に首肯したであろう。

          ◇

 翁の逸話はまだまだ後に出て来るのであるが、それ等の逸話を、ただ漫然と読むよりも、その逸話を一貫する翁の真面目を、この辺で一応考察しておいた方が、有意義ではないかと思う。すなわち、こうした翁の強気と弱気の裏表のどちらが翁の真骨頂か。どちらが先天的で、どちらが後天的のものか、ちょっと看別出来ないようである。
 しかし只圓翁の性格の表裏が徹底的に矛盾しているところに、世を棄てて世を捨て得ない翁の真情が一貫して流露していた事が今にして思い当られて、自ら頭が下るのである。聖人でもなければ俗人でもない。「恭倹持己(おのれをじし)、博愛及衆(しゅうにおよぶ)」の聖訓、「上求菩提。下化衆生」の仏願が、渾然たる自然人、ありのままの梅津只圓翁の風格となって、いつまでもいつまでも尊く、ありがたく、涙ぐましく仰がれるように思う。
 現代の能楽師の如く流祖代々の鴻恩(こうおん)を忘れて、浅墓な自分の芸に慢心し、日常の修養を放漫にする。又は功利、卑屈な世間の風潮にカブレ、良い加減な幇間的な稽古と取持で弟子の機嫌を取って謝礼を貪る。生活が楽になると本業の研究向上は忘れてセイラパンツを穿いてダンスホールに行く。茶屋小屋を飲みまわる。女性を引っかけまわるといったような下司っぽい増長者は、こうした翁の謙徳と精進に対して愧死(きし)しても足りないであろう。
 真の能楽師は僅少の例外を除き翁の後に絶えたと云ってもいい。憤慨する人があったら幸である。

          ◇

 翁の芸風を当時の一子方に過ぎない筆者が批評する事は、礼、非礼の問題は例としても不可能事である。
 しかし筆者としては及ばずながらこの機会に出来る限り偽わらざる感想を述べておきたい。門外漢の田夫野人の言葉でも古名人の境界を伝えている事が屡々あるのだから。同時に翁の芸風を知り過ぎる位知って居られる現家元喜多六平太氏や、熊本の友枝御兄弟の批評などは容易に得られないと思うから……。

          ◇

 前記明治二十五年喜多能静氏追善能のため只圓翁は上京し、野中到氏宅に滞在していたが、翁は毎夜のように侯爵黒田長知侯のお召を受けて霞ヶ関に伺候した。
 その節のこと。或る時翁は藤堂伯(先代)から召されて「蝉丸」の道行の一調謡の御所望を受けたが、相手の小鼓は名にし負う故大倉利三郎氏で、予々(かねがね)翁の技倆を御存じの藤堂伯も非常な興味をもって傾聴された。利三郎氏も内心翁を一介の田舎能楽師と思っていたらしいが、無事に一調が済んでお次の間に退くと利三郎氏は余程驚いたものと見えて、直ぐさま翁の前に両手を支(つ)いて、
「実にどうも……」
 と云って他は云わず低頭挨拶したという。翁の実力を直接に評価する参考材料としてはこの逸話がたった一つ残っているきりである。但、野中到氏の手簡に、
「右藤堂様より伯父(只圓翁)帰宅後、小生今晩は何の御所望なりしやと問いしに右様の次第を話して、あの謙遜家にも聊(いささ)か得意の色見え申候」
 とあるところを見ると、この逸話は翁の生涯中の秀逸ではないかと思われる。

          ◇

 筆者は不幸にして装束を着けた翁の舞台姿を一度も見た事がない。
 ただ一度翁の八十八賀能の前日の申合わせの夜であったと思う。門弟中の地謡で翁が「海人」の仕舞を舞ったのを見た。そのほか日々の稽古や他人の稽古を直して御座るのを横から見た姿を思い合わせると、翁の舞台姿がどうやら眼前に彷彿されるようである。
 甚だ要領を得難い評かも知れないが、翁の型を見た最初に感ずる事は、その動きが太い一直線という感じである。同時に少々穿(うが)ち過ぎた感想ではあるが、翁の芸風は元来器用な、柔かい、細かいものであったのを尽(ことごと)く殺しつくして、喜多流の直線で一貫した修養の痕跡が、どこかにふっくりと見えるような含蓄のある太い、逞しい直線であったように思う。曲るにしても太い鋼鉄の棒を何の苦もなく折り曲げるようなドエライ力を、その軽い動きと姿の中に感ずる事が出来た。
 後年九段能楽堂で名人に準ぜられている某氏の「野守」の仕舞を見た事があるが、失礼ながらあのような天才的な冴えから来た擬古的な折れ曲りとは違う。もっと大きく深い、燃え上るような迫力を持った……何となく只圓一流と云いたい動きであった。
 同じ「野守」でも只圓翁のは時間的には非常に急迫した、急転直下式の感じに圧倒されながら、あとから考えると誠にユッタリした神韻縹渺たる感じが今に残っている。
「海人」の仕舞でも地謡(梅津朔造氏、山本毎氏)が切々と歌っているのに、翁は白い大きな足袋を静かに静かに運んでいた身体(からだ)附が一種独特の柔か味を持っていた。且つ、その左足が悪いために右手で差す時に限って身体がユラユラと左に傾いた。その姿が著しくよかったので大野徳太郎君、筆者等の子方連は勿論、門弟連中が皆真似た。それを劈頭(へきとう)第一に叱られたのが前記の通り梅津朔造氏であった。

          ◇

 シオリは今のように高くなかった。シオリの高さは能によって違う……といったような翁の訓戒が記憶に残っているようにも思う。
 そんな事が在るかどうか知らぬ。筆者の聞き違いかも知れないが書添ておく。

          ◇

 梅津朔造氏の「安宅」の稽古の時に翁は自分で剛力の棒を取って、「散々にちょうちゃくす」の型の後でグッと落ち着いて、大盤石のように腰を据えながら、「通れとこそ」と太々しくゆったりと云った型が記憶に残っている。梅津朔造氏が後で斎田氏と一緒に筆者の祖父を見舞いに来た時に、祖父の前で同じ型を演って見せたが、
「ここが一番六かしい。私のような身体(からだ)の弱いものには息が続かぬ。……芝居ではない……と何遍叱られたかわからぬ」
 と云ううちに最早(もう)汗を掻いていた。
 それからずっと後、先年の六平太先生の在職五十年のお祝で「安宅」を拝見した時に、同じ処で行き方は違うが、同じような大きな気品の深い落付きを拝見して、成る程と思い出した事であった。大変失礼な比喩ではあるが、とにかく恐ろしく古風な感じのするコックリとした型であったように思う。

          ◇

 只圓翁の「山姥」と「景清」が絶品であった事は今でも故老の語艸(かたりぐさ)に残っている。これに反して晩年上京の際、家元の舞台で、翁自身に進み望んで直面(ひためん)の「景清」を舞ったが、この時の「景清」は聊(いささ)か可笑(おか)しかったという噂が残っているが、どうであったろうか。
「烏頭(うとう)」(シテ桐山氏)の仕舞のお稽古の時に、翁は自身に桐山氏のバラバラの扇を奪って「紅葉の橋」の型をやって見せているのを舞台の外から覗いていたが、その遠くをジイッと見ている翁の眼の光りの美しく澄んでいたこと。平生の翁には一度も見た事のない処女のような眼の光りであった。

          ◇

 扇でも張扇でも殆んど力を入れないで持っていたらしく、よく取落した。
 その癖弟子がそんな事をすると非道く叱った。弟子連中は悉(ことごと)く不満であったらしい。
 夏なぞは弟子に型を演って見せる時素足のままであったが、それでも弟子連中よりもズットスラスラと動いた。足拍子でも徹底した音がした。
 平生は悪い方の左足を内蟇(うちがま)にしてヨタヨタと歩いていたが、舞台に立つとチャンと外蟇になって運んだ。
 型の方は上述の通り誠に印象が薄いが、これに反して謡の方はハッキリと記憶に残っている。謡本を前にして眼を閉じると、翁のその曲の謡声(うたいごえ)が耳に聞こえるように思う。ところが自分が謡出してみると、思いもかけぬキイキイ声が出るので悲観する次第である。
 何よりも先に翁の謡は舞いぶりとソックリの直線的な大きな声であった。むろん割鐘(われがね)式ではない。錆の深い、丸い、朗かな、何の苦もない調子であった。
 梅津朔造氏の調子は凜々(りんりん)と冴える、仮名扱いの綺麗な、派手なものであった。
 山本毎氏のは咽喉を開放した、九州地方一流の発音のハッキリし過ぎた、間拍子のキチンとしたもので、いつも地頭を承っていた。
 桐山孫次郎氏のは底張りの柔かな含み声であった。一番穏当な謡と翁門下で云われていた。
 又斎田氏のは凝った、響の強いイキミ声で、謡っている顔付きが能面のように恐ろしかった。
 梅津利彦氏のは声が全く潰れた張りばっかりの一本調子で、どうかすると翁の声と聞き誤られた。
 いずれも翁の謡振りの或る一部分を伝えたものであったらしいが、それ等の謡い盛りの一同の地謡の中に高齢の只圓翁が一人座り込むと、ほかの声は何の苦もなく翁の楽々とした調子の中に消え込んで行った。
 吉本董三氏か大野仁平氏であったと思う。
「先生の傍に座ると、イクラ気張っても紡績会社の横で木綿車を引いているような気持ちになる」
 と云って皆を笑わせていたが、全く子供ながらも、そんな感じを受けた。ツクヅク翁の紡績会社振りに驚嘆させられていた。
 喜多六平太氏は右に就いて筆者に斯(か)く語った。
「ナアニ。声量の問題じゃない。只圓の張りが素晴らしく立派だったからですよ。全く鍛練の結果ああなったのですね。ですから只圓が死ぬと、皆が皆彼の張りの真似をして、間拍子も何も構わないで、ただ死物狂いに張上げるのです。これが只圓先生の遺風だ。ほんとうの喜多流だってんで、二人集まると怒鳴りくらが初まる。お能の時など吾も吾もと張上げて、地頭の謡を我流でマゼ返すので百姓一揆みたいな地謡になっちまう。その無鉄砲な我武者羅(がむしゃら)なところが喜多流だと思って喜んでいるのだから困りものですよ」
 又、梅津利彦氏(現牟田口利彦氏)は翁の型についてこう語った。
「二十歳ぐらいまではただ鍛われるばっかりで、何が何やら盲目(めくら)滅法でしたがそのうちにダンダン出来のよし悪しがわかって来て、腹の中で批評的に他人の能を見るようになりました。只圓の力量もだんだんわかって来るように思いましたが、同じ力と申しましても、只圓は何の苦もなく遣っているようですから、そのつもりで真似をしてみるとすぐに叱られる。なかなかその通りに出来ないし、第一お能らしくない事を自分でも感ずる。只圓の通りに遣るのにはそれこそ死物狂いの気合を入れてまだ遠く及ばない事がわかって、その底知れぬ謹厳な芸力にヘトヘトになるまで降参させられ襟を正させられたものでした」

          ◇

 牟田口利彦氏の話によると、翁は平生極めて気の弱い、涙もろい性分で、家庭百般の事について角立った口の利き方なんか滅多にしなかったが、それでも能の二三月前になると何となく眼の光りが冴えて来て、口の利き方が厳重になった。大抵の事は大まかに見逃していたものが、能前の昂奮期に入ると、「それはいかん」と云う口の下から自身で立上って始末したという。
 こうして月並能であれ祭事能であれ、催能が近付いて来ると翁の態度が、何となく目に立って昂奮して来るのであった。能の当日になると、夏ならば生帷子(かたびら)の漆紋(加賀梅鉢)に茶と黄色の細かい縦縞、もしくは鉄色無地の紬(つむぎ)の仕舞袴。冬は郡山(灰色の絹紬)に同じ袴を穿いていた。皺だらけの咽喉(のど)の下の白襟が得も云われず神々しかった。
 光雲(てるも)神社の祭能の時は拝領の藤巴の紋の付いた、鉄色の紋付に、これも拝領物らしい、茶筋の派手な袴を穿いている事もあった。その時の襟は茶か水色であったように思う。老夫人が能の前日、広袖の襦袢に火のしをかけて襟を附け換えて御座った。

          ◇

 稽古を離れると翁は実になつかしい好々爺であった。地獄の鬼から急に極楽の仏様に変化するのが子供心に不思議で仕様がなかった。たとえば八十八賀の時、能のアトで、
「元気は元気じゃが、倅の方が先にお浄土参りしてしもうた。クニャクニャになって詰まらん」
 と云って門弟連中を絶倒させた。それから赤い頭巾に赤い緞子(どんす)(であったと思う)のチャンチャンコを引っかけて、鳩の杖を突いて、舞台の宴会場から帰りしなに、
「乳の呑みたい。乳のもう乳のもう」
 と七十歳近い老夫人に戯れたりした。

          ◇

「さあ飴を食うぞ」
 と翁が云うと老夫人が、大きな茶碗に水を入れたのを翁の前に捧げる。翁はそれに上下の義歯(いれば)を入れてから水飴やブッキリ飴を口に抓(つま)み込んでモグモグやる。長い翁の顔が小田原提灯を畳んだようになるのを小謡組の少年連が不思議そうに見上げていると、
「フムフム。可笑(おか)しいのう」
 と云って翁自身も笑った。
 しかしその飴を分けてくれた事は一度もなかった。喰い余りを旧(もと)の通り叮嚀に竹の皮に包んで老夫人に渡すと、茶碗の中の義歯(いれば)を静かに頬張って、以前の厳格な顔に還った。弟子の方を向いて張扇を構えた。
「モグモグ。さあ謡いなさい」

          ◇

 夕方になると翁は一合入の透明な硝子(ガラス)燗瓶に酒を四分目ばかり入れて、猫板の附いた火鉢の上に載せるのをよく見受けた。前記喜多六平太氏の談によると翁は七五三に酒を飲んだというが、これは晩の七の分量に相当する分であったろう。
 翁の嗜好は昔から淡白で、油濃いものが嫌いと老夫人がよく他人に吹聴して居られた。
 筆者も稽古が遅くなった時、二三度夕食のお相伴をしたことがあるが、遠慮のないところ無類の肉類好きの祖父の影響を受けた自宅(うち)の夕食よりも遥かに粗末な、子供心に有難迷惑なものであった。
 そのうちに翁は真赤になった顔を巨大な皺だらけの平手で撫でまわして、「モウ飯」と云った。燗瓶には必ず盃一杯分ばかり残していた。

          ◇

 翁から直筆の短冊を貰った人は随分多いであろうと思う。筆者も七八枚持っていたが、人々に所望されて現在巻頭の二枚しか残っていない。[#巻頭に梅津只圓翁の写真と合わせて3枚の写真あり]
 筆跡は巻頭に掲ぐる通り、二川様に、お家様、定家様、唐様等を加味したらしい雅順なものである。舞台上の翁の雄渾豪壮な風格はミジンも認められないが、恐らく翁の本性をあらわしたものであろう。歌意は歌詞と共に、能楽の気品情操を一歩も出でない古風なもので月並と云えば、それまでであるが、翁はそれを短冊に自筆して人に与えるのがなかなかの楽みであったらしい。気が向くと弟子の帰りを待たしておいて悠々と墨を磨りながら一二枚宛書いて与えた。
 因(ちなみ)に翁の和歌は誰かに師事したものには相違なかったが、その師が誰であったかは遺憾ながら詳(つまびらか)でない。宇佐元緒、大熊浅次郎両氏の談によると有名な大隈言道氏は、翁の存命中、翁の住家に近い薬院今泉に住んでいたから、翁も師事していたかも知れない。その後、言道氏の旧宅に小金丸金生氏が住んでいて、この人に師事していたことはたしかであったという。なおこの他に末永茂世氏が春吉に住んでいたというが、この人に学んだかどうかは詳でない。
 福岡の人林大寿氏は奇特の人で、只圓翁の自筆の短冊数十葉を蒐集し、同翁の門下生に分与しようとされたものが現在故あって一纏めにして古賀得四郎氏の手許に預けられている。古賀氏の尽力で、表装されて只圓翁肉筆の歌集として世に残る筈である。翁の歌風を知るには誠に便宜と思うからその和歌を左に掲げておく。
    行路荻               (八十七歳時代)
夕附日荻のはこしにかたむきて
      ふく風さむしのべのかよひ路
    帰雁
桜さくおぼろ月夜にかりがねの
      かへるとこよやいかにのとけき
    河暮春               (八十八歳時代)
ちる花もはるもながれてゆく河に
      なにをかへるのひとりなくらん
    河暮春
大井河花のわかれをしとふまに
      はるは流れて暮にけるかな
    雉
春雨のふりてはれぬるやま畑の
      すゝしろかくれ雉子なくなり
    寒松風
枯はてしこすへはしらぬ夜あらしを
      あつめてさむき松の声かな
    船中月
心なきあま人さへもをのつから
      あはれと見えん船のうへの月
    夏草
秋になく虫の音きかんたよりにと
      はらひのこしゝ庭の夏草
    葵
神祭るけふのみあれのあふひ草
      とる袖にこそ露はかけゝれ
    夕春雨
椿ちる音もしすけき夕くれの
      こけちの庭に春雨のふる
    葵
加茂山にをふる二葉のあふひ草
      とりかさしつゝ神まつるなり
    夏草
はたちかふ牛のすかたも見えぬまで
      しけりあひたる野への夏草
    夕春雨
春雨のふるともわかで夕ぐれの
      のきのしのふにつとふ玉水
    庭菊
折とりてかさゝぬ袖もさく菊の
      はなの香うつす庭の秋風
    群雁
いくつらの落きてこゝにあそふらん
      堅田のうちにむるゝかりかね
    庭菊
くる人もなき菊そのゝ花さけば
      はゝき手にとる庭の面かな
    蚊遣火
蚊遣火はとまやのうちにたき捨て
      しほのひかたにすむ海人の子
    新年山
こそのはる花みし峰に年たちて
      かすみもにほふよしのゝ山
    群雁
治れる御代のしるしと大君の
      みいけの雁の数もしられず
    船中月
棹さしてうたふ声さへすみにけり
      つきになるとの浦の舟人
    更衣                (八十九歳時代)
人並にぬきかへぬれと老の身の
      またはたさむき夏衣かな
    夜蛙
せとちかき苗代小田にかけやとす
      月のうへにもなく蛙かな
    埋火
桜炭さしそへにけりをもふとち
      はなのまとひに春こゝちして
    池鴛鴦               (九十二歳時代)
山かけの池の水さえ浅かれと
      ことしも来鳴をしの声かな
    寒雁啼
露霜のふかき汀の蘆のはに
      こゑもしをれて雁そ啼なる
    春木                (九十三歳時代)
しはしこそ梅をくれけれ春来ても
      いつかさくらと人にまたれつ
    夏獣
重荷おひてゆきゝ隙なき牛車
      なつのあつさに舌もこかれつ
    友獣
をく山の青葉をつたふ木のは猿
      つはさなき身も枝うつりして
    名所恋               (九十四歳時代)
しのひねの泪の波のかゝるか那
      つかしき妙の袖のみなとに

          ◇

 茶の湯とか俳諧とかいう趣味は翁にはなかったように思う。ところが最近知人武田信次郎氏から、高川邦子女史の茶室で茶杓(ちゃしゃく)を取った翁の態度に寸分の隙もなかったので、座中皆感じ入ったという通信があった。筆者は聊(いささ)か意外に思って、事の詳細を今一度同氏に問合わせたところ折返して左の通返事が来たから、無躾(ぶしつけ)ながらここに抜き書さしてもらう事にした。(原文のまま)
「高川邦子女史は高川勝太夫と申す士分の息女にて令妹藤子女史と共に幼稚園小学校等の教師を勤め姉妹ながら孝行の由聞之候。東瀛(とうえい)禅師に参禅し南坊流の茶道を究め南坊録を全写し大乗寺山内の居に茶室を営まれ候。(中略)同庵の茶室の炉縁(ろぶち)は奥州征討の際若松城下よりの分捕として有名なりしが、今は其の茶室の跡もなく炉縁も何処へ伝はり候や不明、姉妹共故人となられ其後の事存じ申さず候。只圓翁の茶事に疎(うと)かりし事は御説の通りに候。そこに只圓翁の尊さが出て来るのに候。只圓翁の茶の手前は決してうまいものにては無かりし筈に候。それに唯翁が茶杓の一枝を手に取りて構へられたる形のみが厳然として寸毫の隙を見せざる其の不思議さは何の姿に候ぞと人々はこの点を驚嘆せしものに候。南坊流の始祖南坊禅師は茶道の堕落を慨して茶事を捨て去つて再び世に出でず。その終る処を知らず候。茶道は能楽以上の技巧の末に走り富裕人の弄(もてあそ)びものに堕(お)ちつくし全く其精神を亡し候。斯(かか)る世に芸術の神とも仰ぐ可き能楽家只圓翁が茶道に接すれば自然に紛々たる技巧の堕気を破つて卓然その神をこの茶杓の形に示現せしめしものと存候。(下略)」
 又翁が博多北船の梅津朔造氏宅に出向いた際、折節山笠の稚児流れの太鼓を大勢の子供が寄ってたたいているのを、翁が立寄って指の先で撥(ばち)を作って打ち方を指導していた姿が、何ともいえず神々しかったという逸話もある。(前同氏談)一道に達した人だから大抵の事はわかったのであろう。
 書画骨董の趣味も鑑識は在ったに相違ないが、生活が質素なせいか格別、玩弄した事実を見聞しなかった。勝負事なんか無論であった。

          ◇

 一面に翁はナカナカ器用だったという話もある。翁の門下で木原杢之丞という人が福岡市内荒戸町に住んでいた。余程古い門下であったらしく、翁が舞った「安宅」のお能を見たそうで、「方々は何故に」と富樫に立ちかかって行く翁の顔がトテモ恐ろしかった……とよく人に話していたという。
 その木原氏の処へ翁が或る時屏風の張り方を習いに来た。平面の処や角々は翁自身の工夫でどうにか出来たが、蝶番(ちょうつが)いの処がわからないので習いに来たのであったという。
 その時に翁は盃二三杯這入る小さな瓢箪(ひょうたん)を腰に結び付けて来ていたが、屏風張の稽古が一通りわかるとその瓢箪を取出して縁側で傾けた。如何にも嬉しそうであったという。(栗野達三郎氏談)

          ◇

 明治二十八年頃知人(門下?)に大山忠平という人が居た。なかなかの親孝行な人で、老母が病臥しているのを慰めるため真宗の『二世安楽和讃』を読んで聞かせる事が毎度であった。
 老母は大の真宗信者で且、只圓翁崇拝家であったが、或る時忠平氏に、
「お前の読み方では退屈する。只圓先生に節(ふし)を附けてもろうたらなあ」
 と云った。忠平氏は難しい註文とは思ったが、ともかくも翁にこの事を願い出ると、元来涙脆(もろ)い翁は一も二もなく承諾して、自分で和吟の節を附けて忠平氏に教えてやった。(栗野達三郎氏談)

          ◇

 翁の愛婿、前記野中到氏が富士山頂に日本最初の測候所を立てて越冬した明治二十六年の事、翁は半紙十帖ばかりに自筆の謡曲を書いて与えた。「富士山の絶頂で退屈した時に謡いなさい」というので暗に氏の壮挙を援けたい意味であったろう。その曲目は左の通りであった。
 柏崎、三井寺、桜川、弱法師(よろぼうし)、葵上(あおいのうえ)、景清、忠度(囃子)、鵜飼(うかい)、遊行柳(囃子)

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