梅津只円翁伝
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著者名:夢野久作 URL:../../index_pages/person969

   梅津只圓翁の生涯


 故梅津只圓(うめづしえん)翁の名前を記憶している人が現在、全国に何人居るであろうか。翁の名はその姻戚故旧の死亡と共に遠からずこの地上から平々凡々と消え失せて行きはしまいか。
 只圓翁から能楽の指導を受けた福岡地方の人々の中で、私の記憶に残っている現存者は僅々(きんきん)左の十数氏に過ぎない。(順序不同)
牟田口利彦(旧姓梅津)、野中到、隈本有尚、中江三次、宇佐元緒、松本健次郎、加野宗三郎、佐藤文次郎、堺仙吉、一田彦次、藤原宏樹、古賀得四郎、柴藤精蔵、小田部正二郎、筆者(以上仕手(して)方)
安川敬一郎、古賀幸吉、今石作次郎、金内吉平(以上囃子(はやし)方)
小嶺武雄、宮野儀助(以上狂言方)
 その他故人となった人々では(順序不同)、
間辺――、梅津正保、山本毎、梅津朔造、同昌吉、桐山孫次郎、川端久五郎、上原貢、戸川槌太郎、小山筧、中江正義、粟生弘、沢木重武、斎田惟成、中尾庸吉、石橋勇三郎、上村又次郎、斉村霞栖、大賀小次郎、吉本董三、白木半次郎、大野仁平、同徳太郎、河村武友、林直規、尾崎臻、鬼木栄二郎、上野太四郎、船津権平、岩佐専太郎、杉山灌園(以上仕手、脇方。その他囃子方、狂言方等略)
 まだこの他に遺漏忘失が多数ある事と思う。氏名なども間違っている人があるかも知れないが筆者の記憶の粗漏として諒恕御訂正を仰ぎたい。
 その生存している僅かな人々と相会して翁の旧事を語ると誠に感慨無量なものがある。
 翁の一生涯は極めて、つつしまやかな単純なものであった。
 維新後、西洋崇拝の弊風が天下を吹きめぐって我国固有の美風良俗が地を払って行く中に毅然として能楽の師家たる職分を守り、生涯を貫いて倦まず。悔いず。死期の数刻前までも本分の指導啓発を念としつつ息を引取った……というだけの生涯であった。翁はその九十幾年の長生涯を一貫して、全然、実社会と無関係な仕事に捧げ終った。名聞(みょうもん)を求めず。栄達を願わず。米塩をかえりみずして、ただ自分自身の芸道の切瑳琢磨と、子弟の鞭撻(べんたつ)に精進した……という、ただそれだけの人物であった。
 もしも、それが聊(いささ)かでも実社会に関係のある仕事であったならば……又は同じ芸術でも、絵画とか、文章とか、劇とか、音曲とか多少世俗に受け入れられ易い仕事に関係していられたならば……そうしてあれだけの精彩努力を傾注されたならば、翁は優に一代の偉人、豪傑もしくは末世の聖賢として名を青史に垂れていたであろう。
 況(いわ)んや翁程の芸力と風格を持った人で、聊(いささ)かでも名聞を好み、俗衆の心を執る考えがあったならば、恐らく世界の文化史上に名を残す位の事は易々たるものがあったであろう。
 これは決して筆者の一存の誇張した文辞ではない。その当時の翁の崇拝者は、不言不語の中に皆しかく信じていたものである。そういう筆者も翁の事を追懐する毎に、そうした感を深めて行くものである。

 翁の偉大なる人格と、その卓絶したる芸風は、維新後より現在に亘る西洋崇拝の風潮、もしくは滔々(とうとう)たる尖端芸術の渦の底に蔽われて、今や世人から忘れられかけている。翁も亦(また)、不言不語の間にこの事を覚悟し満足していたらしい事が、その生涯を通じた志業の裡に認められる。そうして今は何等の伝うるところもなく博多下祇園町順正寺の墓地に灰頭土面している。墓を祭る者もあるか無しの状態である。その由緒深い昔の私宅や舞台も、見窄(みすぼ)らしい借家に改造されて、軒傾き、瓦辷り、壁が破れて、覗(のぞ)いて見ただけでも胸が一パイになる有様である。
 しかし翁の真面目はそこに在る。翁の偉大さ崇高さは、そうした灰頭土面の消息裡に在る。生涯の光輝と精彩とを塵芥、衆穢の中に埋去して惜しまなかったところに在る。
 画に於ける仙崖、東圃、学に於ける南冥、益軒、業に於ける加藤司書、平野次郎、野村望東尼は尚赫々(かっかく)たる光輝を今日に残している。しかも我が梅津只圓翁の至純至誠の謙徳は、それ等の人々よりも勝れていたであろうに、何等世に輝き残るところなく黙々として忘れられて行きつつ在る。
 繰返して云う。
 現在の日本は維新後の西洋崇拝熱から眼ざめつつ在る。国粋万能を叫ぶ声が津々浦々に満ち満ちて、今まで棄ててかえり見られなかった郷土の産物、芸術が、国粋の至宝として再認識され、珍重され初めつつ在る。能楽の如きも老人の閑技、骨董芸術として、忘却されていたものが、明治の末年頃から西洋人の注意を惹(ひ)いて以来、日本の識者間に再認識され、騒がれ初めた。そうして現在の民族芸術尊重熱の炎波に乗って唯一無上の国粋芸術として一般の知識階級、学生層に洪水の如く普及しつつある。
 梅津只圓翁はこの時代を見ずして世を去った。しかも維新後、能楽没落のただ中に黙々として斯道(しどう)の研鑽(けんさん)を怠らなかった。東都の能楽師等が時勢の非なるを覚(さと)って、装束を売り、能面を売って手内職や薄給取りに転向している際にも翁は頑として能楽の守護神の如く子弟を鞭撻し続けていた。
 明治の後年になって東都の能楽師がボツボツ喰えるようになって互いに門戸を張り合って来た時、翁の如き一代の巨匠が中央に乗出していたならば、当時の能界の巨星と相並んで声威を天下に張る事が容易であったかも知れぬ。しかも翁はそのような栄達、名聞(みょうもん)を求めず。一意、旧藩主の恩顧と、永年奉仕して来た福岡市内各社の祭事能に関する責務を忘れず、一身を奉じつくして世を終った。
 風雲に際会して一時の功名を遂げるのは比較的容易であると聞く。権を負い、才力を恃(たの)んで天下に呼号するのは英雄豪傑の会心事でなければならぬ。
 しかし純忠の志を地下に竭(つく)し、純誠の情涙を塵芥裡に埋めて、軽棄されたる国粋の芸道に精進し、無用の努力として世人に忘却されつつ、満足して世を去るという事は普通の日本人……世間並の国粋流者の能(よ)くするところでない。
 旧藩以来福岡市内薬院(やくいん)に居住し、医業を以て聞こえている前医師会理事故権藤寿三郎氏(現病院長健児氏令兄)は梅津只圓翁の係医として翁の臨終まで診察した人であるが、嘗(かつ)て筆者にかく語った。
「私は謡曲とか能楽とかいうものは些(すこ)しも解からず、又面白いとも思わない。しかし医師として梅津只圓翁の高齢と元気とには全く敬服していた。私は翁を健康な高齢者の標本として研究していたので、爾後(じご)幾多の老人の診察に際して非常な参考となった事を感謝している。晩年といっても翁が九十二歳、明治四十一年から三年間病臥して居られたが、それといっても決して病気ではない。ただ樹木の枯れるように手足が不叶いになられただけで、健康には申分なく、そのまま枯れ果てて三年後の夏の何日であったかに、眠るが如く世を去られたまでの事であった。
 その亡くなられた当日の朝の事であった。
 門下の中でも一番の故老らしい品のいい二人の老人が、無論お名前なぞ忘れてしまったが、わざわざ私に面会に来られて翁の容態を色々尋ねられた後、実は老先生が亡くなられる前に聞いておきたい謡曲の秘事が唯一つ在る。それをお尋ねせずに老先生に亡くなられては甚だ残念であるが、その事を老先生にお尋ねする事を主治医の貴下にお許しを受けに伺った次第ですが……というナカナカ叮重(ていちょう)なお話であった。
 これには私も当惑した。むろん梅津先生は御重態どころではない。その前日の急変以来眼も、耳も、意識も全く混濁しているとしか思えないので、単に呼吸して居られる。脈が微(かすか)に手に触れるというだけの御容態である。御家族の方や私が御気分をお尋ねしても御返事をなさらない事が数日に及んでいる折柄で、面会などは主治医として当然、お断り申上げなければならない場合であったが、しかし又一方から考えてみると、その時は、その面会謝絶すらも無用と思わるる絶望状態で、何を申上げてもお耳に入る筈はない。御臨終の妨げになる心配はないと考えたから、折角(せっかく)の御希望をお止めするのは却(かえ)って心ない業ではあるまいかと気が付いて……それならば折角のお話ですから私が立会いの上でお尋ね下さい……と御返辞した。
 二人の老人は非常に喜ばれた。即刻、私と同伴して、程近い中庄(なかしょう)の老先生の枕頭に来られて、出来るだけ大きな声で、私にはチンプンカンプンわからない謡曲の秘伝らしい事を繰返し繰返し質問されたが、私の推察通り意識不明の御容態の事とて、老先生が御返事をなさる筈がない。短い息の下にスヤスヤと眠って居られるばかりである。
 二人の老人は暗然として顔を見合わせた。仕方なしに今度は御臨終に近い老先生の枕元で本を開いて、二人の御老人が同吟に謡い出した。
 それが何の曲であったか、もとより私の記憶に残っていよう筈もないが、たしか開かれた一枚の真中あたりまで謡って来られたと思ううちに老先生の呼吸が少し静かになって来た。そうして間もなく私が執っていた触れるか触れないか程度の脈搏が見る見るハッキリとなり、突然に喘鳴(ぜんめい)が聞こえ初めたと思うと、老先生は如何にも立腹されたらしく、仰臥して眼を閉じたまま眉根を寄せて不快そうに垢(あか)だらけの頭を左右に動かされた。
 二人の老人は真青になって汗を拭き拭き顔を見交わした。そうして二人で二三度同じ処を謡い直されたと思ったが、間もなく左右に振り続けて居られた老先生の頭が安定し、喘鳴がピッタリと止んで『その通りその通り』という風に老先生の頭が枕の上で二三度縦に緩やかに動いたと思うと、又旧(もと)の通りの短い呼吸の裡にスヤスヤと眠って行かれた。家内の御方が慌てて何か云うて居られたがモウ何の御返事もなかった。
 二人の老人はそのお枕元の畳に両手を突いて暫く涙に暮れていたが、私が『モウ宜しいですか』と念を押すと、『お蔭で』と非常に感謝されたので、そのまま御内の方に御注意を申上げて退出した。
 老先生はそのままその夜の中に御他界になったが、その時の医師としての私の驚きは非常なものがあった。
 あのような深い昏睡に陥って居られる、申さば断末魔の老先生が御門弟の謡の間違いを聞きわけられる。これを是正されるという事は如何に芸術の力とはいえ医学上あり得べき事でない。一つの途方もない奇蹟、もしくは驚異的な出来事である。してみると人間の精神の力は肉体が死んでも生き残るものかも知れない……とつくづく思わせられた事であった」
 この話を筆者と一緒に聞いて居られた権藤夫人は現存して居られる。又前医師会理事権藤寿三郎氏が言葉を飾る人でなかった事は周知の事実である。
 筆者は、まだ、これ程の偉大崇高な臨終を見た事も聞いた事もない。翁は九州の土が生んだ最も高徳な人ではなかったろうか。
 その銅像の銘には古賀得四郎氏揮毫の隷書で左の意味の文句が刻んで在る。

       梅津只圓翁

翁ハ旧黒田藩喜多流ノ能楽師ナリ。明治四十三年九十四歳ヲ以テ歿ス。弱冠ニシテ至芸、切磋一家ヲ成ス。喜多流宗家六平太(ろっぺいた)氏未ダ壮ナラズ、嘱セラレテ之ヲ輔導ス。屡(しばしば)雲上高貴ニ咫尺(しせき)シ、身ヲ持スルコト謹厳恬淡(てんたん)ニシテ、芸道ニ精進シテ米塩ヲカヘリミズ。ソノ人ニ接スルヤ温乎玉ノ如ク、子弟ヲ薫陶スルヤ極メテ厳正ニ、老ニ到ツテ懈(おこた)ラズ。福岡地方神社ノ祭能ヲ主宰シ恪勤(かっきん)衆ニ過グ。一藩人士翁ノ名ヲ聞キテ襟ヲ正サザルナシ。歿後二十五年、旧門下追慕措(お)カズ、大方ノ喜捨ヲ請フテ之ヲ建ツ。
 隠れたる偉人、梅津只圓翁の略歴は下記の通りである。勿論僅かに残っている翁の手記等によって、微力な筆者が調査、推測想像したものだから遺漏敗欠が少くない事と思うが、そのような点は引続き大方の御指摘是正を蒙って、老師の真伝記を完成する事が出来たならば、筆者の幸福これに過ぐるものはない。ただ粗漏蕪雑(ぶざつ)のまま大体を取纏めて公表を急がなければならなくなった筆者の苦衷を御諒恕の程幾重にも伏願する次第である。

 梅津家は代々非常な遠祖から歌舞音曲の家柄であったという。山城国葛野郡に現在梅津という地名が在って、梅津家は代々ここに定住し、そうした家業を司っていたらしい。但し如何なる種類の歌舞音曲であったかは的確に判明しないが、後に同家の家系の中から梅若九郎右衛門なぞいう名家を分派したところを見ると、相当の繁栄を遂げていた事が推測される。梅若というのは梅津の一字を残し、若の一字を附け加えて芸名とし、旧来の梅津家の伝統と区別して華やかに披露をしたところから起った家名らしく、今の梅若家の祖先であるという。なお詳細は不明であるけれども、平安朝時代にその梅津家の一人が九州筑後高良山玉垂神社所属の田楽法師(でんがくほうし)として下向し、久留米市の南方一里ばかりの所に現存する朝日村を所領として家業を伝えた。(坂元雪鳥、山崎楽堂両氏談)今でもその朝日村に梅津家の墓石が現存しているという。
 もちろんその当初には、まだ能楽なるものが発生していなかったのだから、いずれ田楽、もしくは里神楽(さとかぐら)類似の神事舞曲の司となっていたもので、後に能楽が流行して来るにつれて、自から転向して家業とし、祭事能を司って来たものであろうと考えられる。その喜多流を酌(く)んだ由来も、もとより詳(つまびらか)でないが、元亀天正の乱世に、肥前に似我という忠勇無双の士が居た。太鼓に堪能で喜多流の大家であったというような話を筆者が幼少の時代に祖父から聞き伝えているところから考えると、喜多流なる流派の存在は現在伝うるところよりもズット古く戦国時代から既に存在していて、九州地方にも流行していた。従って梅津家も、その流を酌んでいたものではないかとも考えられるようであるが、しかし、これは単なる臆測類似の聞き伝えで、或(あるい)は筆者の聞き誤りか記憶違いかも知れない。況(いわ)んや宗家の記録と甚しい時代の相違があり、引例考証らしいものすら絶無であるから、ただ何かの参考としてここに記載しておくに止める。
 それから物変り星移って徳川時代に入り、筑前福岡が黒田の城下となった時、その梅津の本家の方は博多に在住してその頃の所謂(いわゆる)町役者となり、山笠に名高い博多の氏神、櫛田(くしだ)神社の神事能を受持っていた。現梅津正利師範は故梅津正保師範と共にこの家系の末に当っているのであるが、同時にその分家である今一軒の梅津氏は観世流の藤林家と相並んで藩公黒田家のお抱えとなり、邸宅と舞台を薬院中庄(なかしょう)に賜わり士分に列せられていた。
 その後裔(こうえい)に当る黒田藩士梅津源蔵正武氏(正利氏令息で隠居して一朗といった)と、その妻判女(児玉氏)との間に一女二男が生まれた。
 兄は文化十四年丁丑四月十七日出生、梅津源蔵利春という。初め政之進、又は栄と名のっていたが、藩主長溥公の御沙汰によって改名したものである。それが後に隠居して只圓と号した。すなわち我が只圓翁であった。
 利春(只圓翁)の妻は黒田家播磨殿家士、梅津羽左衛門の娘で弘化三年に縁組したが、元治元年十一月に三十五歳で死別したので、明治三年七月、後妻として野中勝良氏の姉イト子と縁組した。尚、参考のため翁の姻戚関係を左に掲げておく。(翁生前の手記に拠る)
◇姉セキ 弘化四年未六月一日生る。明治五年佐々木啓次郎に嫁す。◇嫡子 梅津栄重利、嘉永三年戌二月十六日生る。明治四年未十月家督。明治十二年一月十八日卒す。無涯と号す。◇二女マサ 嘉永五年子十一月六日生る。明治二年牟田口重蔵に嫁す。同二十五年八月十日卒す。(以上先夫人の所生)◇三女千代 明治四年未九月晦日生る。明治二十四年野中到に嫁す。◇養子 梅津利彦。牟田口重蔵三男。明治十五年十月二十五日生る。明治二十四年六月に養子す。明治三十年四月改名。明治三十七年十二月事故有て離別す。◇養子 梅津健介。佐々木啓次郎次男。明治十一年六月十六日生る。同三十八年養子す。同年十月家督譲る。◇弟 梅津九郎助。荒巻軍平養子となり伊右衛門という。後軍治と改めその後行度と改む。明治九年三月二十日卒す。行栄という。行年五十四歳。
 元来梅津家は前記の通り、黒田藩お抱えの能楽師の家柄として喜多流を相伝していたので、利春は幼少の頃から部屋住のまま藩主斉清公の前に出て御囃子や仕舞(しまい)を度々相勤めて御感に入り、いつも御褒美を頂戴していた。
 続いて天保三年の春、師家へ入門の手続をして直ぐに秘曲「翁(おきな)」の相伝を受けた。時に利春十六歳と伝えられているが、これはその時代の事であるから直接上京して入門した訳ではないようである。大藩黒田侯の御取済によって、地方の神社祭事に是非とも奉納しなければならぬ神曲「翁」の允可(いんか)を受けたものであろう。ただ弱冠十六歳で、能楽師家担当の重大責務ともいうべき神曲「翁」の相伝を受けたという一事によって、その当時の黒田藩内の能楽界に於ける利春の声望と実力の如何に隆々たるものであったかが想像される次第である。
 それから利春は十二年後の弘化元年の春(二十八歳)と嘉永元年春(三十二歳)と両度上京した。喜多十三世能静(のうせい)氏に就いて能楽を修業し、重習能(おもならいのう)、小習(こならい)等を相伝したという。
 次の話は翁のその頃の苦心をあらわすもので、或は逸話の部類に入れるべき事柄かも知れぬ。又出所等も詳(つまびら)かでないが、筆者が何かの大衆雑誌で読んだ事である。
 翁が能静氏の門下で修業中、名曲「融(とおる)」の中入(なかいり)後、老人の汐汲(しおくみ)の一段で「東からげの潮衣――オ」という引節(ひきふし)の中で汐を汲み上げる呼吸がどうしても出来なかった。そこで能静氏から小言を云われっ放しのまま残念に思って帰郷の途中、須磨の海岸で一休みしながら同地の名物の汐汲みを眺めていたが、打ち寄せる波が長く尾を引いて、又引き返して逆巻こうとするその一刹那をガブリと担い桶に汲み込んで、そのまま波に追われながら後退(あとしざ)りして来る海士(あま)の呼吸を見てやっと能静氏の教うる「汐汲み」の呼吸がわかった。同時に「潮衣――オ――」という引節に含まれた波打際の妙趣がわかったので、感激しながら帰途に就いたという。
 前記の通り事の真偽は知らないが、斯様(かよう)な話が世に伝えられているところを見ると、この当時の翁の苦心が多少に拘らず世に伝えられていた証左としてここに附記しておく。
 これより前、弘化三年三月、父正武氏の退隠により利春氏が家督を相続した。時に利春三十歳。翌弘化四年、三十一歳の時に父を喪(うしな)った。
 父を喪った後の利春は藩内の能楽に関する重責を一身に負い、その晩年に窺われた非凡の気魄、必死の丹精と同様……もしくはそれ以上の精彩を凝らして斯道の研鑽に努力した事が察しられる。その手記には「その後、御能、囃子等度々相勤むる」と極めて謙遜した簡短な文辞が挟んで在るだけであるが……。

 嘉永五年の三月に利春は、中庄の私宅舞台(福岡市薬院)に於て相伝の神曲「翁」の披露能を催した。相伝後正に二十年目に初めて披露をした訳である。翁一流の慎重な謙遜振りがこの時にも現われている。
 これは晩年の翁の気象から推察して、相伝後、自分が満足するまで練りに練り、稽古に稽古を重ねた結果と思われるが、更に今一歩深く翁の性格から推し考えてみると、翁は決して自分一人を鞭撻(べんたつ)していたのではあるまいと思われる。
 能楽は元来綜合的な舞台芸術である。だから仕手方(シテかた)を本位とする地謡(じうたい)、囃子方(はやしかた)、狂言等に到るまで、同曲の荘厳と緊張味とを遺憾なく発揮し得なければ、如何に達者な仕手方(翁自身)と雖(いえど)も十分の舞台効果を挙げる事が出来ない筈である。
 しかも地方僻遠(へきえん)の地で「翁」ほどの秘曲を理解し、これを演出し得る程に真剣な囃子方、狂言方等は容易に得られない関係から、当地方の能楽界の技倆が、その程度にまで向上する時機を待っていたものか、もしくはその程度に達するまで、翁が挺身して一同を鞭撻し続けて来たものではあるまいかという事実が、前述の理由から想像される。
 そうして万一そうとすれば、只圓翁のこの披露は、当節の披露の如き手軽い意味のものでない。正に福岡地方の能楽界に一紀元を画した重大事件であったろうと思われる。同時に翁のそこまでの苦心とこれに対する一般人士の翹望(ぎょうぼう)は非常なものがあったに違いない事が想像されるので、その能が両日に亘り、黒田藩のお次(第二種)装束の拝借を差許される程の大がかりのものであった事実を見ても、さもこそと首肯される次第である。
 いずれにしてもこの「翁」披露能は一躍只圓翁をして福岡地方の能楽界の重鎮たらしめる程の大成功を収めたらしい。能後、翁は藩公より藩の御装束預かりを仰付(おおせつけ)られた。これは藩の能楽家柄として最高無上の名誉であると同時に、藩内の各流各種の催能はすべて翁の支配下に属しなければならぬという大責任が、それから後翁の双肩に落下した訳である。
 かくしてこの神曲「翁」披露能後に認められた翁の人格と芸能の卓抜さがその後引続いて如何に名誉ある活躍を示したか……そうしてその間に於ける翁の精進が如何に不退転なもので在ったかは、後掲の記録を一見しただけでも一目瞭然であろう。
 不幸にしてその頃は封建時代で、その時代特有の窮屈な規範に縛られ易い能楽の事とて、翁の声価も極めて小範囲に限って認められていた憾(うら)みがある。前にも述べた通り万一これが、ほかの大衆的な芸術で、封建の障壁が取払われている現代であったならば、芸術界に於ける翁の威望はどの範囲にまで及んでいたであろうか。
 嘉永七年(安政元年利春三十八歳)三月。福岡市天神町水鏡天満宮二百五十年御神祭につき、表舞台(今の城内練兵場、旧射的場附近御下屋敷所在)で三日とも翁附の大能を拝命した。殊に藩公の御所望で、物習能(ものならいのう)(普通の能ではない、達人でなければ舞えない秘伝の曲目)を仰付られた。右つとめ終って後、御目録を頂戴し荒巻軍治氏(翁の令弟)に祝言を仰付られた。
 又文久元年九月(利春四十五歳)、宰相公(長知(ながとも))御昇進御祝につき、表舞台で同二十八日より三日共翁附の御能を仰付られた。
 同じく文久元年十月十五日に藩公から翁に御用召があったので、何事かと思って御館へ罷出(まかりで)たところ御月番家老黒田大和殿から御褒美があった。すなわち「利春事、家業の心掛よろしく、別して芸道丈夫である。のみならず平日の心得方よろしく暮し向万事質素で、門弟の引立方等が深切に行届いている段が藩公の御耳に達し、奇特に思召(おぼしめ)され、御目録の通り下し賜わり、弥々(いよいよ)出精せよという有難きお言葉である」という御沙汰であった。且つ、「格別の御詮議を以て御納戸組(おなんどぐみ)馬廻(うままわり)格に加入仰付られ候事」というので無上の面目を施して退出した。
 右の御褒美の中に「平日の心掛宜敷(よろしく)」「暮し向万事質素」「門弟引立方深切」云々という事実は筆者等が翁の晩年に於ても親しく実見したところで、後に掲ぐる翁の逸話を一読されたならば思い半(なかば)に過ぐるであろう。
 もしそれ翁の「芸道の丈夫」云々の一事に至っては、吾々門下の云為(うんい)すべき事柄でないかも知れないが、しかし、そうした芸風は翁の晩年に於ても吾々が日常に感銘させられ過ぎる位感銘させられていた事実であった。
 翁が頽齢(たいれい)に及んで起居自由ならず所謂ヨボヨボ状態に陥って居られても、一度舞台に立たれると、豪壮鬼神の如く、軽快鳥の如しとでも形容しようか。その丈夫な事血気の壮者を凌(しの)ぐどころでない。さながらに地面から生えた大木か、曠野に躍り出た獅子のように、人々を驚嘆渇仰せしめていた事を想起する。
 以上を要するに翁の生涯は「恭倹己を持し、博愛衆に及ぼし」の御勅語を国粋中の国粋たる能楽道に於て丈夫に一貫したものである事実が、この記録によっても明らかに立証されているであろう。
 文久三年(利春四十七歳)一月元旦、御謡初御囃子の節、藩主長知(ながとも)公御手ずから御袴を拝領仰付られた。これは能楽師として格外の名誉で、武功者が主君の御乗馬を拝領したのと同格である。
 明治元年(翁五十二歳)、藩主長知公京都へ御上洛の節、同地紫野(むらさきの)大徳寺内、龍光院に御宿陣が定められた。その節御供した御納戸組九人の中、翁は長知公の御招待客席で、御囃子、仕舞等度々仰付られた。そのほか所々に召連れられて御囃子、仕舞等を仰付られたとあるが、察するところ長知公も翁の至芸が余程の御自慢であったらしい。
 明治元年といえば鳥羽伏見の戦(いくさ)を初め、江戸城の明渡、会津征伐等、猫の眼の如く変転する世相、物情騒然たる時節であったが、その中に、かほどの名誉ある優遊を藩公と共にしていた翁の感懐はどんなものであったろうか。
 晩年の翁が栄達名聞を棄て、一意旧藩主の知遇に奉酬する態度を示した心境は或(あるい)はこの間に培われたものではあるまいか。

 明治二年四月四日、長知公は新都東京へ上られた。翁も例によって御供をして荒戸の埠頭から新造の黒田藩軍艦環瀛(かんえい)丸に乗り、十三日東京着。隔日の御番(当番)出仕で、夜半二時迄の不寝番をつとめた。毎月お扶持方として金十五円二歩を賜わった。
 この時翁の師匠、喜多能静氏(喜多流十三世家元。現家元六平太氏は十四世)は根岸に住んでいたが、その寓居を訪うた翁は「到って静かで師を尋ねて来る人もなかった」と手記している。
 しかしこれは矢張り翁独特のつつしまやかな形容に過ぎなかったらしく察しられる。
 その能静氏の根岸の寓居は現在もソックリそのままの姿で石川子爵が住んで居られる。まことに堂々たる構えであるが、しかもこの明治二年前後は、能楽師が極度の窮迫に沈淪していた時代であった。現家元六平太氏が家元として引継がれた品物は僅かに張扇(はりおうぎ)一対というのが事実であったから、能静氏も表面は立派な邸宅に住みながら、内実は余程微禄した佗しい生活に陥って居られたものであろう。
 そうして、他の能楽師のように別の商売に転向する芸もなく、権門に媚びる才もなく、売れない能楽を守って空しく月日を送って居られたものであろう。
「到って静かで、師を訪うて来る人もない」
 という只圓翁の簡素な手記の中には、その時に翁の胸を打った或るものが籠められていたことがわかる。歌道を嗜(たしな)み礼儀に篤(あつ)い翁が、一切をつくした名文ではなかったろうかと思われる。
 こうした純芸術家肌の能静氏の処へ今を時めく宰相公のお納戸組馬廻りの格式を持った翁が恭(うやうや)しく訪問した情景は正に劇的……小説的なものであったろう。能静氏の喜び、翁の感激は、どんなであったろうか。
 能静氏の芸風は、極めてガッチリした、不器用な、そうして大きな感じのするものであったという。現家元六平太氏が常に先代先代といって例に引くのはこの人の事である。
 翁は非番の日には必ず能静氏を訪うて稽古を受けた。遠からず滅亡の運命に瀕しつつある能楽喜多流の命脈を僅かに残る一人の老師から受け継ぐべく精進した。
 又藩公へお客様の時には、翁は囃子、仕舞、一調(いっちょう)等を毎々つとめた。他家へお供して勤めた事もあったが、同時に師匠の能静師の事が藩公へ聞こえたのであろう。師匠と共に藩公の御前へ召出されて共々に勤めた事が度々であった。
 翁が能静氏から「道成寺」「卒都婆(そとば)小町」を相伝したのはこの時であった。それから後、翁の出精(しゅっせい)がよかったのであろうか。それとも能静氏が、自分の死期の近い事を予覚したものであろうか。最も重き習物「望月」「石橋(しゃっきょう)」までも相伝したのであったが、ここに困った事が一つ出来た。
 これ程に師匠から見込まれて、大層な奥儀まで譲られたのに対しては、弟子として相当の謝礼をしなければならないものである。勿論能静氏は、そんなつもりで教えたのではなかったであろう。廃(すた)れて行く能楽の真髄、別して自分の窮めた喜多流の奥儀を、せめて九州の一角にでも残しておきたいという一念から翁を見込んで相伝したものに違いなかったであろうが、それでも徳義に篤い只圓翁としては、そのままに過ごす事が出来なかったのであろう。しかも僅か十五円五十銭ぐらいの薄給では到底師恩相当の礼をつくす事が出来ないので非常に苦悩したらしい。
 しかし、さりとて他所から借金して融通するような器用な真似の出来る翁ではないので、とうとう思案に詰まった上、黒田家奥頭取(おくとうどり)の処へ翁自身に出頭して実情をありのままに申述べ、金子(きんす)借用方をお願いしたところ、何をいうにもお気に入りの翁が、一生に一度の切なる御願いというので殿様も、その篤実な志に御感心なすったのであろう。御内々で金十円也を謝礼用として賜わり、ほかに別段の思召として金子その他を頂戴したので翁は感泣して退出した。大喜びで本懐の礼を尽したという。翁が如何に師匠能静氏から見込まれていたか。同時に又藩公から如何に知遇されておったかがこの事によっても十分窺われる。
 然るに同年五月二十四日、予(かね)てから不快であった能静氏が、重態となったので、態々(わざわざ)翁を呼寄せて書置を与えたという。
 その書置の内容が何であったかは知る由もないが、「師恩の広大なることを忘却仕間敷」と翁の手記に在る。尚引続いた翁の手記に、
「明治四年辛未十月下拙(げせつ)(翁)退隠。栄家督。其後栄病死す。只圓のみ相続す」
 と在る。この前後数年の間に翁は二つの大きな悲痛事に遭遇したわけである。
 明治十一年春(翁六十二歳)、長知公御下県になり、福岡市内薬院、林毛(りんもう)、黒田一美殿下屋敷(今の原町林毛橋附近南側)というのに滞在された。御滞在中幾度となく翁を召されて囃子、半能等を仰付られた。
 その後、長知公が市内浜町別邸(現在)に住まわれるようになってからも、御装束能、御囃子等度々の御催しがあり御反物、金子等を頂戴した。
 明治十三年三月三十日、翁六十四歳の時に又も上京したが、この時翁は在福の門下から鈴木六郎、河原田平助両人を同行した。多分藩公、御機嫌伺いのためと師匠の墓参りのためであったろう。
 この時の在京中藩公の御前は勿論、喜多流の能楽堪能(皆伝)と聞こえた藤堂伯邸へも度々召出されて御能、お囃子等を仰付られた。
 その時長知公の御所望で「石橋」をつとめた事があるという。舞台は判然しないが、その「石橋」で翁の相手をした人々は宝生新朔、清水然知、清水半次郎、長知公、一噌要三郎と記録されている。いずれもが、その時の脇師、囃子方中の名誉の人々であったことは説明する迄もない。
 かくて無上の面目を施した翁は四月六日東京出立、同二十七日無事帰県したが、この時の上京を前後として翁の芸風が漸く円熟期に入ったものではないかと思われる理由がある。勿論翁の斯道に対する研鑽(けんさん)と、不退転の猛練習とは晩年に到っても懈(おこた)る事がなかった筈であるが、しかしこの以後の修養は所謂(いわゆる)悟り後の聖胎長養時代で、この前の六十余年は翁の修業時代と思うのが適当のようである。
 すなわち翁はこの前後に重き習物の能を陸続(りくぞく)と披露している。
 ▼明治六年(五十七歳)望月
 ▼同 七年(五十八歳)正尊、景清
 ▼同十一年(六十二歳)卒都婆小町
 ▼同十三年(六十四歳)石橋(前記)
 ▼同十四年(六十五歳)赤頭道成寺、定家
 この明治十四年の「定家」披露後は明治二十五年まで(翁六十五歳より七十六歳に到る)格別の事もなかったらしい。何等の記録も残っていないが、しかもこの十年ばかりの間こそ、翁が芸道保存のために最惨澹たる苦楚(くそ)を嘗(な)めた時代で、同時に翁の真面目が最もよく発揮された時代であった。
 明治十四年から同二十五年の間といえば、維新後滔天(とうてん)の勢を以て日本に流れ込んで来た西洋文化の洪水が急転直下の急潮を渦巻かせている時代であった。人間の魂までも舶来でなければ通用しなくなっていた時代であった。
 人々は吾国(わがくに)固有の美風である神仏の崇拝、父母師友の恩義を忘れて個人主義、唯物主義的な権利義務の思想に走ること行燈(あんどん)とラムプを取換えるが如く、琴、三味線、長唄、浄瑠璃を蹴飛ばしてピアノ、バイオリン、風琴、オルガンを珍重すること傘を洋傘に見換える如くであった。朝野の顕官は鹿鳴館に集まって屈辱ダンスの稽古に夢中になり、洋行帰りの尊敬される事神様の如く、怪しげな洋服、ステッキ、金時計が紳士の資格として紋付袴以上の尊敬と信用を払われた事は無論であった。
 こうした浅ましい時代の勢いを真実に回顧し得る人々は、国粋中の国粋芸術たる能楽がその当時如何に衰微の極に達していたかを容易に首肯されるであろう。その当時の能楽は全く長押(なげし)の槍(やり)、長刀(なぎなた)以上に無用化してしまって、誰一人として顧みる者がなかったと云っても決して誇張ではないであろう。
 事実、維新直後から能楽各流の家元は衰微の極に達し、こんなものは将来廃絶されるにきまっているというので、古物商は一寸四方何両という装束を焼いて灰にして、その灰の中から水銀法によって金分を採る。能面は刀の鍔(つば)と一緒に捨値で西洋人に買われて、西洋の応接室の壁の装飾に塗込まれるという言語道断さで、能楽はこの時に一度滅亡したと云っても過言でなかった。
 能評家の第一人者坂元雪鳥氏の記録するところを見ても思い半(なかば)に過ぐるものがある。
 専門の技芸の外には、世間に役立つ程の学才智能があるのではなし、銭勘定さえ知らない程に世事に疎(うと)かった能役者は幕府の禄こそ多くなかったが、諸大名からの夥しい扶持を得て前記の如き贅沢な安逸に耽っているのであるから、すべての禄に離れて、自活を余儀なくされた能役者の困惑は言語に絶するものであった。中には蓄財のあった家もあるが、静にそれを守り遂げる事が出来ないで、馴れない商売で損亡を招く者が多く、又蓄える事を知らなかった人々は、急転直下して極端な貧窮状態に陥る外なかったのである。
 その頃の事を目の当り見聞した人も漸く少くなったが、その窮状を語る話は数々あった。何とも転向の出来ない者は手内職をするとか、小商売を開くというのであったが、内職といっても団扇(うちわ)を貼るとか楊枝(ようじ)を削るとかいう程度で、それで一家を支えるなどは思いも寄らない事であった。商売といっても家財を店先に並べて古道具屋を出す位で、それも一般家庭に役立つ物は少く、已(や)むを得ず二束三文に売り飛ばすと、あとは商品を仕入れる余裕がないから、屑屋同様になって店を仕舞うという有様であった。明治時代の大家と呼ばれた人の中に夜廻りをやって見たり、植木屋の手伝いをして見たりした人もある。芝居役者と共同の興行をやって見て、遂にその方へ這入った人もある。
 という実に今から考えても夢のような惨澹たる時代であった。
 こうした傾向の中心たる東京の真只中で窮乏に安んじながら能楽を捨てなかった翁の恩師能静氏の如きは実に鶏群中の一鶴と称すべきであったろう。
 もとより生一本の能楽気質の翁が、こうした能静氏の風格を稟(う)け継いだ事は云う迄もない。
 翁は九州に帰って後、そうした惨澹たる世相の中に毅然として能楽の研鑽と子弟の薫育を廃しなかった。野中到氏(翁の愛娘千代子さんの夫君で、後に富士山頂に測候所を建て有名になった人)と、翁の縁家荒巻家からの扶助によって衣食していたとはいえ全く米塩をかえりみず。謝礼の多寡(たか)を問わず献身的に斯道の宣揚のために精進した。
 七八つの子供から六十歳以上の老人に到るまで苟(いやしく)も翁の門を潜るものは一日も休む事なく心血を傾けて指導した。その教授法の厳格にして周到な事、格を守って寸毫も忽(ゆるがせ)にしなかった事、今思っても襟を正さざるを得ないものがある。(後出逸話参照)

 さもしい話ではあるが、そうした熱心な教育を受けた弟子が、謝礼として翁に捧ぐるものは盆と節季に砂糖一斤、干鰒(ほしふく)一把程度の品物であったが、それでも翁は一々額に高く押戴いて、「はああ……これはこれは……御念の入りまして……」
 と眼をしばたたきつつ頭を下げたものであった。無慾篤実の人でなければ出来る事でない。
 そればかりでない。
 翁は市内櫛田(くしだ)神社(素戔男尊(すさのおのみこと)、奇稲田姫(くしなだひめ)を祭る)、光雲(てるも)神社(藩祖両公を祀る)、その他の神事能を、衷心から吾事として主宰し、囃子方、狂言方、その他の稽古に到るまで一切を指導準備し、病を押し、老衰を意とせず斎戒沐浴し、衣服を改めて、真に武士の戦場に出づる意気組を以て当日に臨んだ。これは普通人ならば正に酔狂の沙汰と見られるところであったろうが、これを本分と覚悟している翁の態度は誰一人として怪しむ者もなく、当然の事として見慣れていたくらい真剣に恪勤(かっきん)したものであった。
 これも逸話に属する話かも知れぬが、当時の出演者はシテ方、ワキ方は勿論、囃子方といわず狂言方といわず、見物人の批評を恐るる者は一人も居なかった。ただ楽屋に控えている翁の耳と眼ばかりを恐れて戦々兢々(せんせんきょうきょう)として一番一曲をつとめ終り、翁の前に礼拝してタッタ一言「おお御苦労……」の挨拶を聞くまでは、殆んど生きた心地もなかったと云っても甚だしい誇張ではなかった。その当時十二三か四五程度の子供であった筆者でさえも大人の真似をして翁の顔色ばかり心配していたものであった。

 かようにして毅然たる翁の精進によってこの九州の一角福岡地方だけは昔に変らぬ厳正な能楽神祭が継続された。囃子方、狂言方は勿論の事、他流……主として観世流の人々までも翁の風格に感化されて、真剣の努力を以て能楽にいそしんだ形跡がある。甚だしきに到っては元来上懸(かみがかり)の発声と仮名扱いを以て謡うべき観世流の人々までが、滔々(とうとう)として翁一流の下懸(しもがかり)式呂張(りょはり)を根柢とした豪壮一本調子な喜多流擬(まが)いの節調を学び初め、観世流の美点を没却した憾(うらみ)があった。
 かような翁の無敵の感化力が如何に徹底したものであったかは、後年観世流を学んでいた吉村稱氏が翁の歿後一度上京して帰来するや、
「福岡の観世流は間違っている。皆只圓先生の真似をして喜多流の節(ふし)を謡っている。観世流は上懸で声の出所が違うのだから節も違わなければならぬ」
 と大声疾呼して大いに上懸式の謡い方を鼓吹した一事を以てしても十分に察せられるであろう。
 日本の辺鄙(へんぴ)福岡地方の能楽を率いて洋風滔々の激流に対抗し、毅然としてこの国粋芸術を恪守(かくしゅ)し、敬神敦厚(とんこう)の美風を支持したのは翁一人の功績であった。翁は福岡の誇りとするに足る隠れたる偉人高士であったと断言しても、決して過当でない事が、茲(ここ)に於て首肯されるであろう。
 同時にその間に於て翁が如何に酬いられぬ努力を竭(つく)し、人知れぬ精魂を空費して来たか。国粋中の国粋たる能楽の神髄を体得してこれを人格化し凜々(りんりん)たる余徳を今日に伝えて来たか。その渾然たる高風の如何に凡を超え聖を越えていたかを察する事が出来るであろう。
 明治二十五年(翁七十六歳)九月、先師喜多能静氏の年回(二十五回忌)として追善能が東都に於て催さるる事となった。
 当時東京では喜多流皆伝の藤堂伯その他の斡旋により、現十四世喜多流家元六平太氏、当時幼名千代造氏が能静氏の血縁に当る故を以て弱冠ながら家元の地位に据わり、異常の天分を抽(ぬき)んで、藤堂伯その他の故老に就てお稽古に励んでいた。しかも前記の通り家元として伝えられた能楽の用具は僅かに張扇一対という、全然、空無廃絶に等しい状態から喜多流今日の基礎を築くべく精進し初めている時代であった。
 ところで、その能静氏の追善能に就いては只圓翁にも上京してくれるように喜多宗家から度々掛合って来たので、翁は無上の名誉として上京したが、早速藩公長知公の御機嫌を伺い、喜多家へも伺ったところ、その後、千代造氏(六平太氏幼名)と、翁と同行にて霞が関へ出頭せよという藩公からの御沙汰があった。
 ところが出仕してみると華族池田茂政、前田利鬯(としか)、皇太后宮亮林直康氏等が来て居られて、色々とお話の末、池田、前田両氏が親しく翁を召されて、「新家元、千代造の輔導の大役を引受けてくれぬか」という懇(ねんごろ)な御言葉であった。
 その当時の前後の状況は筆者は詳しく知らないが、いずれにしてもこの依頼が翁にとって非常な重責であったことは云う迄もない。
 しかしこの時の翁の立場から見ると、徒(いたず)らな俗情的な挨拶や謙遜を以て己を飾るべき場合でなかったようである。翁も亦、能静氏の恩命を思い、流儀の大事を思い、翁の本分を省み、且つ、依頼者の知遇を思えば、引くに引かれぬ場合と思ったのであろう。
「重々難有(ありがたき)御言葉。何分老年と申し覚束(おぼつか)なき事に存候(ぞんじそうろう)。しかし御方様よりの仰せに付、畏(かしこ)まり奉る。まことに身に余る面目。老体を顧ず滞京、千代造稽古の儀御請(おうけ)申上(もうしあげ)候」
 と翁の手記に在る。
 同年一月十九日、芝能楽堂で亡能静師の追善能があった。翁も能一番(当麻(たえま)?)をつとめた筈であるが、その当時の記録は今、喜多宗家に伝わっている事と思う。
 その後、毎日もしくは隔日に翁は飯田町家元稽古場に出て千代造氏に師伝を伝え、又所々の能、囃子に出席する事一年余、明治二十六年十一月に帰県したが、何をいうにも、流儀の一大事、翁の一生の名誉あるお稽古とてこの間の丹精は非常なものがあったらしい。もっとも現六平太氏が、千代造時代に師事した人々は只圓翁一人ではなかった。又熊本の友枝三郎翁も、千代造氏輔導役の相談を受けたのを、平に謝絶して只圓翁に譲ったという佳話も残っている。又只圓翁以外の千代造氏の輔導役は幼少の千代造氏を遇する事普通の弟子の如く、嵩(かさ)にかかった手厳しい薫育を加えたものであるが、これに反して只圓翁は極めて叮嚀懇切なものがあった。何事を相伝するにも平たく、物静かに包み惜しむところがなかったので、却(かえ)って得るところが些(すく)ないのを怨んだという佳話が残っているそうであるが、その辺にも礼節格式を重んずる翁一流の謙虚な用意が窺われて云い知れぬ床しさが偲(しの)ばれるようである。因(ちなみ)にこの時の只圓翁の上京問題に就ては当時在京の内田寛氏(信也氏父君)、米田與七郎氏(米田主猟頭令兄)が蔭ながら非常な尽力をされたそうである。
 尚この時に翁は能楽装束附(しょうぞくづけ)の大家斎藤五郎蔵氏に就いて装束附方(つけかた)を伝習した。尤(もっと)も斎藤氏は初め翁を田舎の貧弱な老骨能楽師と思ったらしく中々伝習を承知しなかったそうであるが、現家元その他の熱心な尽力によってやっと承知した。現家元厳君、故宇都鶴五郎氏(能静氏愛婿)は屡々(しばしば)只圓翁の装束附お稽古のために呼出されてお人形に使われたという。
 その時代の事に就いて六平太氏は筆者にもこんな追懐談をした。前記の只圓翁の心用意を裏書きするに足るであろう。
「只圓は私を教えてくれた他の故老たちと違って、傲(おご)った意地の悪いところが些(すこ)しもなく、極めて叮嚀懇切に稽古をしてくれましたよ。不審な点なぞも勿体ぶらずにスラスラと滞りなく説明してくれました」
 なお六平太氏は只圓翁について語る。
「色々思い出す事も多いですが、只圓は字が上手でしたからね。私から頼んで家元に在る装束の畳紙(たたみがみ)に装束の名前を書いてもらいました。只圓は装束の僅少な田舎にいたものですから大した骨折ではないとタカを括(くく)って引受けたらしいのです。ところが、口広いお話ですが家元の装束と申しましても中々大層なものでね。先ず唐織から書き初めてもらいましたのを、只圓は何の五六枚と思って墨を磨っていたのがアトからアトから際限もなく出て来る。何十枚となく抱え出されるので余程驚いたらしいですね。閉口しながらウンウン云って書いておりましたっけ」
「酒は好きだったらしいですね。私は七五三に飲みますと云っておりました。多分朝が三杯で昼が五杯で晩が七杯だったのでしょう。小さな猪口(ちょこ)でチビチビやるのですからタカは知れておりますが、それでも飲まないと工合が悪かったのでしょう。『今日は朝が早う御座いましたので三杯をやらずに家を出まして、途中で一杯引っかけて参りました。申訳ありませぬ』と真赤な顔をしてあやまりあやまり稽古をしてくれる事もありました」
「面白いのは梅干の種子(たね)を大切にする事で(註曰。翁は菅公崇拝者)、一々紙に包んで袂(たもと)に入れておりました。或る時私が只圓の着物を畳んでいる時に偶然にそれが出て来ましたのでね。開いてみると梅干の種子(たね)なので何気なく庭先へポイと棄てたら只圓が恐ろしく立腹しましたよ。『勿体ない事をする』というのでね。恐ろしい顔をして見せました。後にも先にも私が只圓から叱られたのはこの時だけでしたよ」
 云々……と。師弟の順逆。老幼の間の情愛礼譲の美しさ。聞くだに涙ぐましいものがある。
 かくて新家元へ相伝の大任を終った翁が、藩公長知侯にお暇乞(いとまご)いに伺ったところ、御垢付(あかつき)の御召物を頂戴したという。
 因に翁のこの時の帰郷の際には、藤堂伯、前田子、林皇后太夫、その他数氏の懇篤なる引留め運動があったらしいが、翁は国許の門弟を見棄てるに忍びないからという理由で聊(いささ)か無理をして帰ったらしい。しかもその以前から内々で引続いていた野中、荒巻両家からの只圓翁に対する扶助はこの以後も継続されたので、国許の門弟諸氏はその意味に於て荒巻、野中両家に対し感謝すべき理由がある事をここに書添えておく。

 明治三十三年の春頃であったか、福岡名産、平助筆の本舗として有名な富豪、故河原田平助翁の還暦の祝賀能が二日間博多の氏神櫛田神社で催された。番組は記憶しないが、京都から金剛謹之介氏が下って来て、その門下の「土蜘(つちぐも)」、謹之介氏の「松風」「望月」なぞが出た。筆者はその時十二歳で「土蜘」のツレ胡蝶をつとめた。
 その謹之介氏の「松風」の時、翁は自身に地頭(じがしら)をつとめたが中の舞後の大ノリ地で「須磨の浦半の松のゆき平」の「松」の一句を翁は小乗(このり)に謡った。これは申合わせの時にもなかったので皆驚いたらしかったが、何事もなく済んでから、シテの謹之介氏は床几を下って、「松の行平(ゆきひら)はまことに有難う御座いました」と翁に会釈したという。

 明治三十七年十月八日九日両日、門弟中からの発起で翁の八十八歳の祝賀があった。能は両日催されたが、翁の真筆の賀祝の短冊、土器(かわらけ)、斗掻(とかき)、餅を合せて二百組ほど諸方に送った。
 二日の能が済んだ後、稽古所で祝宴があった。能の祝宴も皆弟子中の持寄りで、極めて質素な平民的なものであった。

 明治二十五年四月一日二日の両日、太宰府天満宮で菅公一千年遠忌大祭の神事能が催された。
 この大祭は催能前の二箇月間に亘って執行されたもので、祭能当時は日本全国、朝野の貴顕紳士が参向したほかに、古市公威、前田利鬯子爵等が下県して能を舞われた。
 同社に保管されている番組を見ると、その能組の豪華盛大さと、これを主宰した翁の苦心が首肯されるばかりでなく、その当時の翁の門下、当地方の能楽界一流どころの名前が歴然として残っている。現在生存して居られる知人故旧の人々の、思い出の種として、略するに忍びないから左に掲げておく。
      御能組(第一日)
◇翁 (シテ)梅津利彦 (三番叟)高原神留 (千歳)生熊生 (大鼓)高畠元永 (小鼓頭取)栗原伊平 (脇鼓)本松卯七郎、石橋英七 (笛)中上正栄◇老松 (シテ)梅津朔造 (シテツレ)大賀小次郎 (ワキ)小畑久太郎 (ワキツレ)梅津昌吉 (大鼓)宮崎逸朔 (小鼓)河原田平助 (太鼓)国吉静衛 (笛)杉野助三郎 (間)岩倉仁郎◇粟田口 (狂言)野田一造、野村祐利、高原神留◇八島 (シテ)山崎友樹 (シテツレ)戸畑宗吉 (ワキ)高木儀七 (大鼓)竹尾吉三郎 (小鼓)石橋英七 (笛)辻儀七 (間、那須語)高原神留◇抜売 (狂言)岸本作太、在郷三五郎◇羽衣 和合舞(シテ)古市公威 (ワキ)小畑久太郎 (ワキツレ)諸岡勝兵衛 (大鼓)吉村稱 (小鼓)河原田平助 (太鼓)国吉静衛 (笛)中上正栄◇花盗人 (狂言)岩倉仁郎、高原神留、野田一造、城戸甚次郎、秋吉見次、野村久、生熊生◇鞍馬天狗 白頭(シテ)前田利鬯 (シテツレ)石蔵利吉、石蔵利三郎、加野宗三郎 (ワキ)西島一平 (大鼓)清水嘉平 (小鼓)栗原伊平 (太鼓)国吉静衛 (笛)杉野助三郎 (間)野村祐利、在郷三五郎、生熊生      御能組(第二日)
◇巻絹(まきぎぬ) (シテ)梅津利彦 (シテツレ)梅津昌吉 (ワキ)西島一平 (大鼓)清水嘉平 (小鼓)藤田正慶 (太鼓)国吉静衛 (笛)杉野助三郎 (間)在郷三五郎◇棒縛(ぼうしばり) (狂言)在郷三五郎、岩倉仁郎、高原神留◇夜討曾我 (シテ)大野徳太郎 (シテツレ)梅津利彦、小田部正次郎、藤田平三郎、楢崎徳助、梅津昌吉、井上善作、諸岡勝兵衛 (大鼓)宮崎逸朔 (小鼓)栗原伊平 (笛)杉野助三郎 (間)在郷三五郎、生熊生◇禰宜山伏(ねぎやまぶし) (狂言)野村祐利、岸本作太、野田一造、秋吉見次◇花筐(はながたみ) (シテ)前田利鬯 (シテツレ)山崎友樹、安永要助 (ワキ)西島一平 (大鼓)吉村稱 (小鼓)河原田平助 (笛)中上正栄◇鷺 (仕舞)梅津只圓◇山姥 (囃子)(シテ)南郷茂光 (大鼓)吉村稱 (小鼓)河原田平助 (太鼓)国吉静衛 (笛)中上正栄◇鉢木(はちのき) (シテ)古市公威 (シテツレ)山田清太郎 (ワキ)小畑久太郎 (ワキツレ)吉浦彌平 (大鼓)高畠元永 (小鼓)斉村霞栖 (笛)中上正栄 (間)生熊生◇鬮罪人(くじざいにん) (狂言)高原神留、岩倉仁郎、生熊生、野村久、城戸甚次郎、秋吉見次◇烏帽子折(えぼしおり) (シテ)梅津朔造 (シテツレ)白木半蔵、上村又次郎、梅津昌吉、吉浦彌平、大野徳太郎、小田部正次郎、藤田平三郎、井上善作 (ワキ)小出久太郎 (ワキツレ)諸岡勝兵衛 (大鼓)宮崎逸朔 (小鼓)上田勇太郎 (太鼓)国吉静衛 (笛)辻儀七 (間)野村久、城戸甚次郎、野村祐利、岸本作太、高原神留◇附祝言
 この能の両日、楽屋を指導監督していた翁の姿を見られた古市公威氏が帰途、車中で嘆息しながら独語賛嘆された。
「梅津只圓という者は聞きしに勝る立派な人物である。あのような品位ある能楽師を余はまだ嘗(かつ)て見た事がない」
 という話柄が今日に伝わっている。
 明治四十一年頃から翁の身体の不自由が甚だしくなって、座っていられない位であったが、それでも稽古は休まなかった。
 その明治四十一年か二年かの春であったと思う。梅津朔造氏が「隅田川」の能のお稽古を受けた。それは翁の最後のお能のお稽古であったが、翁は地謡(じうたい)座の前の椅子に腰をかけ、前に小机を置いてその上に置いた張盤(はりばん)を打って朔造氏の型を見ていた。地頭は例によって山本毎氏であったが、身体は弱っても翁の気象は衰えぬらしく、平生と変らぬ烈しい稽古ぶりであった。
 ところがその途中で翁が突然にウームと云って椅子の上に反(そ)り返ったので、近まわりの人々が馳け寄って抱き止めた。それから大騒ぎになって、附近の今泉に住んでいる権藤国手(こくしゅ)を呼んで来る。親類に急報する。注射よ。薬よという混雑を呈したが、間もなく翁が寝床の上で正気付き、気息が常態に復して皆に挨拶し、権藤国手も安心して帰ったので皆ホッと愁眉を開いた。
 ところが梅津朔造氏がその枕頭に手を突いて、
「それでは、これでお暇(いとま)を……」
 と御挨拶をすると翁がムックリ頭を擡(もた)げて左右に振った。
「おお。朔造か、いかんいかん。まだ帰ることはならん。今一度舞台へ来なさい。あげなザマではいかん」
 と云い出して頑として諾(き)かない。
 皆舌を捲いて驚き且つ惑うた。この非凡な翁の介抱に顔を見合わせて困り合ったが、結局、翁の頑張りに負けて今一度、稽古を続ける事になった。
 門弟連中が又も舞台に招集された。その中で、翁は元の通り椅子に凭(もた)れて稽古を続けたが、今度は疲れないように翁の胴体を帯で椅子に縛り付け、弟子の一人が背後からシッカリと抱えて「隅田川」一番の稽古を終った。
 翁は、それ以来全く床に就き切りになったが、それでも仰臥したまま、夜具の襟元の処に脚の無い将棋盤のような板を置き張扇でバタバタとたたいて弟子の謡を聞いた。
 明治四十三年の四月、桜の真盛りに、福岡市の洲崎お台場の空地(今の女専所在地)で九州沖縄八県聯合の共進会があった。頗(すこぶ)る大規模の博覧会同様のものであった上に、日露戦争直後であったため非常な人気で、福岡名物、全市無礼講の松囃子が盛大に催されて賑った。
 翁の門下の人々は高齢で臥床中の翁に赤い頭巾と赤い胴衣を着せ、俥(くるま)で東中洲「菊廼屋(きくのや)」(今の足袋の広告塔下ビール園、支那料理屋附近)という料亭に運び、そこで食事を進めて後、その頃はまだ珍らしかった籐(とう)の寝椅子に布団を展(の)べて翁を横たえ、二本の棒を通し、人夫に担架させ、門弟諸氏が周囲を取巻いて、翁に共進会場を見物させた。
 これは翁の門下岩佐専太郎氏の思い付であったらしいが、全福岡市の称讃を博し、新聞にも翁の担架姿が写真入りで大きく芽出度く書き立てられた。

 翁の病臥後、門下の人々はさながらに基督(キリスト)門下の十二使徒のような勢で流勢の拡張に努力した。梅津朔造氏は南大牟田市を中心として三池地方に勢力を張り、山本毎氏は東田川郡を中心として伊田、後藤寺に根を下し、炭坑地方を開拓した。
 その他の門下諸氏も福岡市外に門戸を張って子弟を誘導し、各神社の催能を盛大にしたが、一方に在福の連中の中でも既に三年間翁に師事していた故梅津正保氏等を含む一団の高弟連中は毎月一回宛(ずつ)、村上彦四郎氏邸や、その他の寺院等で謡会を開いた。
 その中心となって指導していたのは斎田惟成氏(当時福岡地方裁判所勤務)で、その会を開く前日は必ず翁の枕頭に集まって役割の通りに謡って翁の叱正を受けた。万一翁のお稽古が出来ない場合には会の方を延期するという真剣さであった。
 その素謡(すうたい)会の席上で梅津正保君の調子が余りに大きいので、調子の小さい河村武友氏が嫌って前列に逐(お)い遣ったという挿話などがあった。
 翁の臨終の前年頃になると、翁の老衰の程度が、時々段落を附けて深くなったものであろう。出張教授をしている梅津朔造氏や山本毎氏等の処へ度々至急電報が飛んだ。
 最初のうちは両氏等も倉皇として翁の枕頭に駈け付けたが、その後同じような至急電報が頻々として打たれたので、両氏も自然と狼狽しなくなった。そう急に死ぬ老先生ではないというような一種の信念が出来たものらしかった。
 そのうち明治何年であったか、京都で何かの大能が催さるるとかで、翁の状態を知らぬ旧知、金剛謹之介氏から翁に出演の勧誘状が来た。
 その手紙を見た翁は直ぐに傍(かたわら)をかえりみて云った。
「折角の案内じゃけに行こう。まだ舞えると思うけに京都迄行って、一生の思い出に直面(ひためん)の『遊行柳(ゆぎょうやなぎ)』を舞うてみよう」
 傍(かたわら)の人々は驚いた。急遽門弟を招集して評議した結果、翁の健康状態が許さぬ理由の下に翁を諫止(かんし)してしまった。万事に柔順な翁は、この諫止に従ったらしいが嘸(さぞ)かし残念であったろうと思う。こうした出来事には人道問題、常識問題等が加味して来るから一概には是非を云えないが、まことに翁のために、又は能楽のために残り惜しい気がして仕様がない。舞台で倒れるのは翁の本懐であったに違いなかったのだから……。後年、熊本の友枝三郎翁が、「雨月」を舞い終ると同時に楽屋で急逝したことは心ある人々の讃嘆するところであった位だから。

 明治四十三年(翁九十四歳)、日韓合併の年の七月二日、風雨の烈しい日であった。
 柴藤(しばとう)精蔵氏(当時二十三歳)は朝から翁の所へ行って謡のお稽古を受けていたが、その途中で翁が突然に「オーン」と唸り声を上げた。同時に容態が急変したらしいので、枕頭にいた老夫人と女中も狼狽して柴藤氏をして医師を呼びに遣った。
 柴藤氏は狼狽の余り跣足(はだし)で戸外に飛出したが、風雨の中の非常な泥濘をズブ濡れの大汗で、権藤病院に馳け付けて巻頭に掲げた翁の主治医寿三郎先生を引っぱって来た。
 寿三郎先生の手当で翁の容態の急変は一時落付く事になったが、寿三郎氏はその時既に「最早(もはや)絶望」と思ってしまったという。だから冒頭に掲げた翁の臨終の逸話は、その翌日の事である。
 翁の容態の急変が三度が三度とも能楽のお稽古の最中であった事は、翁の能楽師としての生涯の崇高さを一層悲痛に高潮させる所以ではあるまいか。
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   梅津只圓翁の逸話


 翁の逸話として何よりも先に挙げなければならないのは、翁自身の勉強の抜群さと、子弟の教育の厳格さであった。
 翁は毎朝未明(夏冬によって時刻は違うが)に必ず起上ってタッタ一人で袴(はかま)を着け、扇を持って舞台に出て、自分で謡って仕舞の稽古をする。翁の養子になっていた梅津利彦氏(現牟田口利彦氏)などは遠方の中学校へ行くために早く起きようとすると、早くも翁の足踏の音が舞台の方向に聞こえるので、又夜具の中へ潜り込んだという利彦氏の直話である。こうした刻苦精励が翁の終生を通じて変らなかった事は側近者が皆実見したところであった。
 前記の通り晩年、足腰が不叶(ふかな)いになって臥床するようになっても、稽古人が来ると喜んで、仰臥したまま夜具の襟元でアシライつつ稽古を附けてやった。傍(かたわら)の人が、余りつとめられると身体に障るからといって心配しても、「何を云う。家業ではないか」と云って頑として稽古を続けた。

          ◇


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