父杉山茂丸を語る
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著者名:夢野久作 

 私は父の熱誠に圧伏されながらも、生涯の楽しみを奪われた悲しさに涙をポトポトと落しながら聞いていた。

 その訓戒が済んでから茶を一パイ飲むと父は私を連れて裏庭に出て自分で指(ゆびさ)しながら、木立の枝を私に卸(おろ)させた。私が筋肉薄弱で鎌(かま)が切れず、持て余しているのを見た父は、自分で鎌と鉈(なた)を揮(ふる)って、薪(まき)の束を作り初めたが、その上手なのに驚いてしまった。カチカチ山の狸と兎が背負っているような、恰好のいい蒔の束が、見る間に幾個(いくつ)も幾個も出来たのを、土蔵の背後(うしろ)に高々と積上げた。出入りの百姓で父の幼少時代を知っている老人が、父の野良仕事の上手なのを賞めていたのは決して作り事でもオベッカでもない事を知った。
 多分、父は早速私に農業の実地教育をしたつもりであったろう。

 十九の時に私は母親に無断で上京して、お祖母様と母親を何故九州に放置しておくか……という事に付いて、猛烈に父に喰ってかかった。すると最後まで黙って聞いていた父はニンガリと笑って云った。
「ウム。貴様の神経過敏はまだ治癒(なお)らぬと見えるな。よし、それでは今から俺が直接に教育してやろう。母さんも東京へ呼んでやろう……」
 私は三拝九拝して又涙を流した。
「それには先ず中学を卒業して来い。現在の社会で成功するのに中学以上の学力は要らぬ。それから軍隊へ這入(はい)れ。どこでもええから貴様の好きな聯隊に入れてやる」

 中学を出て福岡の市役所に出頭し、徴兵検査を早く受けたいと願ったら、吏員から五月蠅(うるさ)がられたので、母等と共に上京して鎌倉に居住し、麻布聯隊区に籍を移し、たしか乙種で不合格となったのを志願して無理にパスした。身長五尺五寸六分、体量十三貫(がん)に足りなかった。こうした私の入営に対する熱意を父母は非常に喜んでくれた。

 明治四十一年兵として近衛歩兵第一聯隊に配属された私は、極度の過労と、慣れない空気のために見る見る弱り果てて、とうとう第一期の検閲直前に肺炎で入院した。その四十度の高熱の中に、その頃の最新流行の鼠色の舶来中折(なかおれ)を冠って見舞に来た父の厳粛そのもののような顔を見て、私はモウ死ぬのかなと思った。
「貴様が死なずに少尉になって帰って来たら、この帽子を遣る」
 と父は云った。私は病床でその帽子を冠って、ちょうどいいかどうかを試みながら、是非なおって見せる……この帽子を冠らずには措(お)かぬと心に誓った。
「直樹(私の旧名)の奴は俺の子供だけにダイブ変っている。死にかかっていても、油断のならぬところがある」
 とその直後に母に語った……と母から聞いた時、私は息苦しい程赤面させられた。

 軍隊を出ると体力に自信が出来たので九州に下って地所を買い(現在の香椎村)果樹園を営んだ。その時にも私が思わず赤面するような事を他人に語ったそうである。
「彼奴(あいつ)は全く油断のならぬ奴だ。抵当に這入っている地面を無代価みたようにタタキ落して買うような腕前をいつの間に養っておったか知らん。おまけにアイツは地面の代金が余ったと云って五百円の札束を知らん顔をして俺に返したが、ナアニまだ五百円か千円ぐらい暖めている奴だ。アイツはタダの正直者じゃない」
 全く以てその通りであった。

 その後(のち)度々上京したが、時々思い出したようにコンナ事を云った。
「俺が今死んだら貴様はドウするか、他人の厄介にならずに葬式が出来るか」
 この言葉は平生、父が口癖のように云っている「子孫のために美田を買わず」という言葉と明らかに矛盾していたが、私はドチラも父の真情である事を知っていたので、わざと冷笑していた。「俺のような人間になるな」という事もよく云ったものであるが、これも父の或る悲しい、淋しい心理の一角を露出した言葉と察して、謹(つつし)んで、うなだれていた。
 その都度(つど)に私は母に説いて「お父さんが亡くなられたら私は簡単に火葬にして、お母さんや妹と一緒に三等車で九州へ引上げて、極く手軽い葬式をするつもりです。いいですか」と念を押していた。母はいつも涙ながらニコニコしてうなずいていた。
 今年の七月十七日、香椎の球場で西部高専野球の予選を見ている中(うち)に、雇人(やといにん)の小母(おば)さんが泣きながら電報を持って走って来た。
「チチノウイツケツスクコイ」
 私は一所(いっしょ)に見物していた中学生の子供二人と一所にタクシーで家に帰り、妻に金の準備を命じ、そのままの服装で、ポケット四書と丘浅次郎氏の進化論講話を携えて又もタクシーに飛乗り全速力で博多駅に駈けつけ、富士に乗後(のりおく)れてサクラに間に合った。
 途中小郡で東京に病状を問合わせ、糸崎で返電を受取った。
「ジウタイノママジゾクセリ」
 私は直ぐに持久戦を覚悟した。中風で重態のまま三箇月も持続した例を知っていたから……。
 それからグッスリと眠った。不思議なほど安眠した。そうして姫路で眼がさめた。それから先の一日の永かったこと。

 東京駅に着いて父が意識不明の病状をハッキリ聞いた時に初めてガッカリした。そうして、そのままの心理状態を今日まで持続している。

 翌朝、七月十九日の午前十時二十二分に三年町の自宅自室で父が七十二歳の息を引取った時、私は脱脂綿を巻いた箸(はし)と、水を容れたコップの盆を両手に支えて、枕頭に集まっていた数十名の人々に捧げ、父の唇を濡らしてもらったが、私は金城鉄壁泣かないつもりで、故意に冷然と構えていた。この際、つまらない顔をして見せるのは、他人様の迷惑であるとさえ考えていた。
 ところが、その綿を巻いた箸に手を出す人々の指が皆わなないて箸を取り得なかった。もちろん一人残らず顔を引歪(ひきゆが)めていた。その顔があとからあとから引続いて来て、ギクギクと声を立てながら父の顔に手を合わせて行く姿を見送っているうちに、次第次第に私の手がわなないて来た。
 私の背後(うしろ)には昨夜から父の最後の喘(あえ)ぎを一心に凝視して御座った羽織袴の頭山さんが、キチント椅子に腰かけて、両手を膝に置いて御座るので、醜体を演じてはならぬと一生懸命に唇を噛んでいたがトテモ我慢し切れなかった。
 もちろん母や妹、看護婦なぞいう女共が泣くのは何ともなかったが、男の人達が一々唇をわななかし、咽喉(のど)をヒクヒクさせて行かれるのが一々胸にコタエた。最後に、色の黒い若い、田舎の百姓さんが、泣き濡れた顔を私の真正面に持って来て思い切り引き歪めて見せた時には、全く何もかもわからなくなってしまった。今にもコップとお盆を投出そうかと思い思い我慢し通した。

 それから間もなく、父の友人で、永い間、私等の家族の世話をして下さった人々が協議された結果、私を別室に招いて次のような事を云われた。
「貴方(あなた)のお父さんは貴方個人のお父さんと思ってはいけないと思います。吾々のお父さんであると同時に社会のお父さん……すなわち公人であると思います。だからこの際、相済みませぬが、貴方の個人としての弔意を捨てて、吾々に葬式をさせて頂けますまいか」
 そうした誠意に満ち満ちた言葉は、何もわからぬ程、色々の思い出に混乱していた私の頭を北極の氷のような冷静さに返らせた。そうして一切の覚悟をきめた私は即座にありがたくお受けをした。直ぐに母の前に走って行って頭を下げながら、私の専断の許しを請うと、母は涙に暮れながら、私の手をシッカリと握って云った。
「モウ、これからは何もかもアンタの思い通りにしなさい」
 それから混雑の中を押し分け押し分け妹婿(いもうとむこ)や、養子達に一々、この事を報告してまわった。皆、泣いて頭を下げた。その泣顔と、お辞儀の交換の中に私はダンダンと、そこいら中が明るくなって来るように思った。万事が、一直線に片付いて行きそうな確信が出来た。
 間もなく郷里の福岡で玄洋社葬にしたいという電報が来たから、これも独断で拝承して後(のち)に一同に報告した。
 父は生前、死体の全部を大学に寄附する旨を大勢の人に云っていたので、母が情なさそうな顔をするのを押し切って、その通りに決行した。その前に父のデスマスクを斎藤という人が取って下すったが、そのデスマスクを取る直前の父の顔は実に満足そうな……生前に見たドノ顔よりも気高い、懐しい微笑を含んでいた。さてはこれが父のホントウの顔であったかナと思うと、又タマラなくなりそうになったので慌てて湯殿に行って顔を洗った。

 葬式は増上寺で盛大に行われた。色々、大勢の人々がやって来て告別の焼香をして下すったが、その中に古びたカンカン帽、素足に駒下駄、浴衣がけにステッキ一本の書生さんが、アッサリと焼香し、叮嚀に叩頭(こうとう)して行ったのを、参列の人々の中で喜んでいる人が相当あった。
「アイツは愉快な奴だ。故人はアンナ調子の人間が一番好きだったからね。あの気軽く焼香に来てくれた心意気が嬉しいじゃないか」
「一層の事、告別式をどこかの野ッ原に持出して、野人葬とすればよかったかも知れないね。野辺送りという位だから……ハハハ」

 悔状(くやみじょう)は一々私が開封して眼を通したが、やはり愉快なのが混っていた。
「私は近所の爺さんから頼まれて杉山さんの霊前にこの和歌を捧げてくれという事ですから、この手紙を上げます。私は杉山という人がドンな人だか、よく知りませんが謹んでお悔みを申上げます」
 といったような朗らかなのや、お悔みのつもりであろう、
「杉山先生が亡くなられても、君に忠義という事は決して忘れません」
 と簡単に楷書して泣かせるのや、
「先生は私にとって実の親よりも有難い人でした。どうぞ今後も、お父さんに代って私を可愛がって下さい」
 といった、いじらしい意味の長文や、
「新聞で見てビックリしました。香奠(こうでん)十円送ります」
 という奇特な方や、色々であったが、一番痛快でタタキ付けられたのは敬弔の文字を印刷したカードを二銭の開封にして来た一通であった。この人は日本国中を皆殺しにするつもりで、こんなカードをフンダンに印刷して用意しているのじゃないか知らんと思って茫然となった。

 九州で玄洋社葬をして頂くために、東京駅を出発したのは八月二十八日であった。
 駅頭まで見送りに来た頭山満先生が、父の遺骨を安置した車の前に立ちながら、見栄も何も構わずに涙をダクダクと流していられるのを見た時に、私は顔を上げ得なかった。
 広田弘毅閣下も泣いておられたそうであるが、これは気付かなかった。
「頭山さんが頭山さんが」
 と云って、今年六十七になる母親が、国府津(こうづ)附近まで泣き止まなかったのには全く閉口した。慰める言葉が無かった。

 父が生前に社会の父であったかドウか私は知らない。けれども生前の父をこれ程までに思って、葬式までして下すった世間の方々が、今からは疑いもなく私の父の死後の父になって下すった訳である。
 あらゆる意味に於て不肖(ふしょう)の子である私は、父の生前に思わしい孝行を尽し得なかった。これからは父の死後の父に、心の限り孝行をして行きたい。




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