近眼芸妓と迷宮事件
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著者名:夢野久作 

 愛子はウンと気絶したまま椅子から床の上へ転がり落ちてしまった。残忍な話だが、俺はその時に思わず微笑したよ。この気絶は彼女の話の真実性を全部裏書きしたようなものだったからね。
 警察医が来て愛子を介抱している間に、俺達は紫塚造船所に乗込んで、机の曳出(ひきだし)を片付けている最中の大深を、有無を云わさず引っ捕えた。大深はその頃芽生えかけていた社会主義者のチャキチャキで幸徳秋水の崇拝者だった。目的のためには手段を択まずという訳で、露西亜(ロシア)へ行く旅費を得るために、製図屋仲間の評判から愛子の旦那の金兵衛に眼を附けて、愛子の口から様子を探ると、仕事用のニッケル鍍金(めっき)の四角い鉄棒を持って熱心に跟(つ)けまわしている中(うち)に、屏風(びょうぶ)を建てまわしたような材木置場で、絶好の機会に恵まれたので断然、絶対安全な兇行を遂げたんだね。
 しかし大深はタッタ一度の馴染(なじみ)なもんだから愛子の近眼に気付いていなかったし、愛子の方も、そんな事までは打明けなかったんだね。だから愛子の例の通りの潤んだ、惚れ惚れとした眼付きでジイッと見られた時に、スッカリ感違いをしてしまったんだね。元来が主義にカブレた青二才で、ホントの悪党じゃなかったもんだから、ほんの一時の自惚(うぬぼ)れから身を滅ぼしてしまった訳だ。
 手錠をかけたアトで例の手紙を見せると大深は、青い顔になってうなずいた。
「馬鹿だなあ……この手紙を他人(ひと)に見せるなんて……もっとも俺の方がよっぽど馬鹿だったんだが……アハハハ……」
 と空虚(うつろ)な高笑いをしたっけ。実にサッパリしたいい度胸だったが、聞いてる吾々は笑おうにも笑えない気持がしたよ。
 むろん癪(しゃく)に障っていたから大深の就縛は新聞社には知らせなかった。そのまま暗(やみ)から暗(やみ)へと死刑になってしまったが、可哀そうなのは愛子で、それから後(のち)チョイチョイ大深へ差入れなんかをしていたらしい。そうして彼が死刑になった事が新聞に出た晩に、自宅の台所で首を縊(くく)って死んでしまった。
 遺書も何もなかったので原因はわからないが、自分の口一つから金兵衛を殺し、又大深を殺した事がわかったので、すっかり悲観して思い詰めてしまったんじゃないかと思う。
 何……君にはわかっている……?
 愛子は最初、大深に初恋を感じていたのを自分でも気付かずにいたんだ。それがあの手紙を見て焦(こ)げ付くほど燃え上った。そうして大深の死刑と一緒にこの世が暗闇(くらやみ)になった。
 ふうん。恐ろしい間(ま)だるっこい惚れ方をしたもんじゃないか。惚れていた事がわかるまでに人間を二人も殺してさあ。
 ふうん。ほんとうに純真な、内気な女なんてソンナもんだ、そこがこの話のスゴイところだ……小説になるところだっていうのかね。
 アハハ。成る程ねえ……。




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