暗黒公使
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著者名:夢野久作 

……のみならずバード・ストーン団長を初めとして皆パッパと金を遣(つか)うらしく、新聞界や花柳界にわいわいと騒がれているなぞ、見る毎(ごと)に聞く毎に私自身が馬鹿にされたり、当てつけられたりしているような感じがしているところであった。その私の疑いと、憤慨の当の相手の曲馬団にこの少年が属していたというのだから、私が驚いたのは無理もないであろう。腹の底から唸り出したのは当然であろう。
 私は暫くの間、瞑目して考えた後(のち)に、おもむろに眼を見開いて少年の顔を見た。
 少年も私の顔をじっと見ていたが、その眼の底には一種の光りが流れていた。
「……それでは君はあの曲馬団から脱け出して来たのですね」
「ハイ。あの曲馬団は私の敵ですから」
 この少年の言葉には今までと違った凜々(りん)とした響があった。私は躍る心を押えながら、一層大きく眼を※(みは)った。
「どうしてあの曲馬団が敵なのですか」
「あの曲馬団長のバード・ストーンは私の両親を苛め殺したのです。直接に手を当てて殺す以上に非道(ひど)い眼に会わして殺したのです」
「……フーム……それはどんな手段で……」
 少年は答えなかった。いかにも無念そうに唇をきっと結んだまま、私が持っていた曙新聞を受け取って、同じ一昨年の十月十四日の夕刊の社会面を開いて、前の広告と同様の赤丸を施した標題(みだし)を指さし示した。それは初号活字三段抜きの大標題で、次のような記事が殆んど社会面の全面を蔽うばかりに掲載されていた。

   東京駅ホテルにて[#大文字、太字]
     富豪紳士毒殺さる[#大文字、太字]
          昨夜深更の出来事[#中文字]
        本日午後三時端緒つく
      狭山鬼課長出動活躍[#ゴシック体]

 昨十三日夜、東京駅ステーションホテル第十四号室に約一週間前より滞在せる印度(インド)貿易商岩形圭吾(いわがたけいご)氏(四五)は、昨夜泥酔して帰来したるが、本朝に至り着のみ着のまま寝室のベッドの上に横臥して死しおれるを、同室(へや)附きのボーイが発見して大騒ぎとなり、吾が鬼課長狭山九郎太氏が出動して検屍したるに、同岩形氏の横死の裏面に重大なる犯罪の伏在しおるを認め、全力を竭(つく)して活動の結果、犯罪発見後数時間を出でざる本日午後三時に至り、その裏面の秘密を尽(ことごと)く発(あば)きつくせる事実を、本社は遺憾なく探知するを得たり。而(しか)してその事実の経過を見るに、実に容易ならざる犯罪事件にして、その犯行の原因の不可解なる、又、加害者と被害者の行動の異状なる、而してその犯罪の巧妙にして深刻なる、実に近来稀(まれ)に見る怪事件にして、これを解決したる狭山課長の苦心、亦(また)実に手に汗を握るものあり。今その詳細に就き本社が特に探り得たるところを記さん。初めに、

   岩形氏の変死を[#大文字]
   発見したる給仕[#大文字]

 山本千太郎(一八)はこの由を直ちにホテルの支配人竹村氏に知らせたるを以(もっ)て、同氏は直ちに現場に到りしに、岩形氏は紺羅紗(こんらしゃ)の服に、茶褐色の厚き外套を着し、泥靴を穿(は)きたるまま、寝台の上に南を枕にして西向きに横たわり、帽子は枕元に正しく置きてあり。双(そう)の掌(て)と、外套の袖口と、膝の処が泥だらけになりおれども、顔面には何等苦悶の痕(あと)なく、明け放ちたる入り来(きた)る冷風に吹かれおり。ボーイ山本千太郎の言に依れば、窓は初めより明け放ちありて入口の方を背にして横たわりおりしを以て全く泥酔して帰りたるまま横臥し、朝風に吹かれいるものと思い、近づきて呼び試みたるに返事なかりしより疑いを起したるものにして、なお入口の扉(ドア)も屍体発見以前より鍵がかかりおらず。暫くノックしても返事なかりしを以て、無断にて開きたる旨陳述せり。急報に接し日比谷署より司法主任野元(のもと)警部、戸次(とつぐ)刑事部長以下刑事二名が現場に出張したるが、その結果、一本の注射器と毒物の容器とおぼしき空瓶が発見され、更に屍体を詳細に調査したる結果

     左腕上膊部に小[#大文字]
     さき注射の痕跡[#大文字]

 あり。その部分のシャツが上下二枚とも同一箇所を重ねて鋏様(はさみよう)のものにて截(き)り破りある事実が発見されたり。然(しか)れどもその他の室内の物品は何一つ紛失、または攪乱されたる形跡なく、岩形氏所持の大型金時計は正確に、その時の時刻七時四十一分を示しおり。ただ敷き詰めたる絨毯の上に、岩形氏の泥靴の痕跡が、廊下より続きて入り来(きた)れるのを見るのみ。ここに於て日比谷署の司法主任野元警部はその容易ならざる怪屍体なることを認定し、この旨を警視庁、及(および)、検事局に報告するところあり。警視庁よりは第一捜索課志免主任警部、飯村刑事部長、金丸、轟二刑事、鑑識課員の数名と共に時を移さず現場に出張し、又、検事局よりは新進明察の聞え高き熱海(あたみ)検事と古木書記とが臨場して詳細なる調査を遂げたるが、その結果は更に幾多の怪事実の発見となり、疑問に疑問を重ぬるのみ。殆んど、その自殺なるか他殺なるかの判断さえも不可能なる状況となりしを以て、遂(つい)に吾が狭山第一捜索課長の出動を待つに一決し、電話を以てこの旨を警視庁に急報せり。

   鬼課長の出動活躍[#大文字]
     ――遂に他殺と決定す――[#大文字]

 ………………………………………………………………………………………………………………………………………………。

 ここまで読んで来ると私は思わず赤面した。
 この事件に関する私の活躍は、表面上大成功として都下の新聞に謳歌(おうか)されているのであるが、実は尻切れトンボ式の大失敗に終っているのである。ことにこの変死した岩形圭吾と名乗る紳士こそは……私は最初から事実を暴露しておく。その方が面白いと思うから……某国から日本に派遣されたその第一回の暗黒公使であることを発見し得べき奇怪な手がかりが、新聞記事にまでハッキリと描きあらわしてあったにも拘(かか)わらず、うっかりと見逃してしまって、あとで吃驚(びっくり)させられたのは返す返すも醜態であった。……しかし度々余談に亘るようであるが、この岩形圭吾氏の変死事件は、第二回の暗黒公使事件に参考すべき予備知識として、必要欠くべからざる重大事項であると同時に、私がJ・I・C秘密結社の内容を真剣に研究し初めた、その最初の動機になっているのだから止むを得ない。ここにすべてを打ち明けて、私の失敗に関する裏面の消息を明かにしておきたいと思う。
 以上の事実をそれから間もない正八時に登庁して、電話で聴き取った私が、迎えの自動車で現場に到着したのは、岩形氏の屍体が発見されてから約一時間半の後(のち)であったが、ホテルの玄関まで出迎えた部下の二刑事と連れ立って十四号室の前まで来る間に、そこここの室(へや)から、男や女の顔がいくつも出たり引っ込んだりした。皆、今朝(けさ)の出来事を耳にしているらしく、脅えたような眼付きをしていたが、私はそんなものには眼もくれずに、まだ扉(ドア)を閉じて寝ているらしい室(へや)の番号だけを記憶に止めた。一寸(ちょっと)した注意であるが同宿の者の中(うち)に犯人があって、自分が殺しておきながら知らん顔をして寝ていたという実例が数え切れない程ある。そんな疑いのある者は喚び起して眼の球(たま)を見れば亢奮して充血しているのか、睡眠不足で充血しているのか、又は、酒のためか、病気のためか、それとも本当に安眠していたのかという事が、今迄の経験上、大抵一眼でわかるので、いよいよ見極めが付かぬ時は、その手段を執るより外に方法はないのである。
 問題の第十四号室は、宮城の方に向って降りて行く階段の処から右へ第五番目の室(へや)であった。その室(へや)の内外は最早(もはや)、既に、鑑識課の連中が、志免警部の指揮の下に、残る隈なく調べ上げている筈であったが、私は念のため入口の扉(ドア)に近付いて、強力な懐中電燈を照しかけながら、その附近に在る足跡を調べて見ると、すぐに眼に付いたのは大きな泥だらけの足跡で、入口の処で、扉(ドア)を推し開くために左右に広く踏みはだけてある。これは疑いもない岩形氏の足跡で、岩形氏が昨夜(ゆうべ)泥酔して帰った事実が容易に推測される。それから私は黄色くピカピカ光っているワニス塗りの扉(ドア)にも、無造作に懐中電燈の光りを投げかけてみると、扉(ドア)の上半部に在る大きな新しい両手の指紋の殆んど全部と、把手(ノッブ)の上に在る右手の不完全な指紋が直ぐに眼に付いた。しかも、それ等の指紋には一つ残らず、ハッキリと白い泥の粉末が附着しているのであったが、これは矢張り今の推測を裏書するもので、岩形氏はどこかで酔っ払って転んで、手を泥だらけにして帰って来て、先ず扉(ドア)によろけかかって、それから右手でノッブを捻(ね)じって、室(へや)の中によろめき込んだものと察せられる。
 私はここまで見届けてから懐中電燈のスウィッチを切ろうとすると、ついうっかりして取り落したが、電燈は大きな音を立てて床の上に転がったまま線が切れもしないで光っている。それを拾い上げようとして腰を屈めかけた私は、志免警部から電話で聞いた報告の中に無い、意外なものを発見したので急に手を引っこめながら左右をかえりみた。傍に立っている二刑事に電燈を指し示して、
「見たまえ」
 と云った。
 二人の刑事は直ぐに顔をさし寄せて見たが、軽い溜息をしいしい顔を上げて、私と眼くばせをした。その懐中電燈の光線が、鋭い抛物線を描いて、横筋(すじ)かいに照し出している茶色のリノリウム張りの床の上には、そうと察して見なければ解らない程のウッスリとした、細長い、女の右足の爪先だけの靴痕が印(しる)されているのであった。こんな風に電燈を真正面から垂直に照しかけても見えないものが、真横(まよこ)から水平に近く照しかけると見え出して来るという事実は、実につまらない偶然の事ではあるが、私にとっては初めての経験で、この際としては特に貴重な発見でなければならなかった。
 私は早速、電燈を取り上げて、同じように光線を横から床の上に這わせながら、女の左足の痕を探したが、それは右足のすぐ近くに、殆んど扉(ドア)とすれすれの位置に残っている。但しこれは爪先の形が右足のそれよりも稍(やや)ハッキリと現われていて、身体(からだ)の重みが幾分余計に、左足にかかっていた事を証明している。
 私はそれから腰を屈めて、床の上の女の足跡がどこから来たか探し初めたが、これはさほど困難な仕事ではなかった。足痕は人の通らない端の方ばかりを選(よ)って歩いているために、殆んど一つも踏み消されたものはなく、昇降口の階段の処まで続いて来て、そこからずっと階下(した)まで敷き詰められた絨氈(マット)の上まで来て消え失せている。
 私はその足跡の主が、階段を降りて行く後姿を眼の前に見るように思いつつ、階段の下の方まで見送っていたが、間もなく引返して、日比谷署と、警視庁と、検事局から詰めかけている連中に会うべく十四号室の扉(ドア)をノックして開いた。
 そこは岩形氏の屍骸が横たわっている寝室と隣合わせの稍(やや)広い居間(プライベート)で、一流のホテルらしい上等ずくめの……同時に鉄道のホテルに共通ともいうべき無愛想な感じのする家具や、装飾品が、きちんきちんと並んでいたが、そんなものに気をつけて見まわす間もなく、ふと室(へや)の向側を見ると、窓に近い赤模様の絨毯の上に突立った志免警部と飯村部長が、色の黒い、眼の球(たま)のクリクリした、イガ栗頭の茶目らしいボーイと向い合っている。何か訊問をしているらしい態度であったが、私を見るとちょっと眼顔で挨拶をしてから又、二人でボーイの顔を凝視した。
 私はこのボーイが岩形氏の変死を最初に発見したボーイに違いないと思った。同時にそのボーイが頭をがっくりと下げたまま、口を確(しっ)かりと噤(つぐ)んでいる横顔が、何かしら一言も云うまいと決心しているのに気付いた。それを志免と飯村の二人が無理やりに問い詰めて、いよいよこじらしているらしい様子を見て取ったので、これはこの際一大事と思ってつかつかと室(へや)の中央のテーブルをまわって行った。すると、それと殆んど同時に、隣の寝室で岩形氏の屍体を取り巻いていた熱海検事以下十余名の同勢がどかどかと寝室から出て来て私の背後を取り巻いたので、只さえぶるぶると顫(ふる)えながら立っていたボーイはいよいよ顫え上ってしまったらしく、傍に近寄って行く私の顔を、命でも取られるかのように身構えをして見上げた。眼の球を真白に剥き出して、唇の色まで失(な)くしてしまった。
 私はわざと、その顔を見向きもしないまま見知り越の、熱海検事を振り返って中折帽を取った。
「何かあれからタネが上りましたか。電話で承わりました以外に……」
 まだ若い熱海検事は無言のまま恭(うやうや)しく帽子を脱(と)った。そうして静かに志免警部をかえりみた。
「……ええ。この山本というボーイが何か知っているらしいのですけども……」
 と引き取って答えながら飯村警部は又ボーイの顔を見た。
「……ワ……私は……何も知らないんです。何もしやしないんです。僕は……僕は……僕は……」
 と突然にボーイが叫び出した。唇はわなわなと顫えて、涙が蒼(あお)ざめた頬を伝い落ちた。私はわざと朗かに笑い出した。
「ハハハハハ。誰もお前を犯人とは思っていないから安心しろ。しかし、お前一寸(ちょっと)その靴を両方とも見せてくれないか」
 こう云うとボーイはもとより室(へや)の中の一同は妙な顔をした。しかしボーイは素直に白い半靴を脱いで差出したので、私はそれを両方に提(さ)げて廊下に出たが、やがて帰って来ると、靴をボーイに返して飯村警部に代って訊問し初めた。
「お前は岩形さんを受持っていたんだろう」
「そうです」
「いくつになるね」
「十八になります」
「ハハハハ。十八にしちゃ意気地がなさ過ぎるじゃないか。お前が犯人でない事は……俺が……この狭山が保証する。その代り知っている事は何でもしっかりと返事しなければ駄目だぞ」
「ハイ……」
 とボーイはすすり上げながら頭を低(た)れた。私は一層、言葉を柔らげた。
「岩形さんが帰って来たのは昨夜(ゆうべ)の何時頃だったかね」
「……十二時半近くでした。それまで僕は……私は他のお客の相手をして玉を突いてました。そうしたら、仲間の江木がやって来て、お前の旦那は一時間ばかり前に帰って来ているんだぞ。知らないのかと申しましたから、私はすぐにキューを江木に渡して二階に駈け上りました。けれどもその時は……」
「扉(ドア)に錠が掛かっていたろう」
「そうです。それですぐに……自分の室(へや)に帰って寝てしまったんです」
 と云いながらボーイは深いふるえた溜息をした。私はそこで一つ意味ありげに首肯(うなず)いて見せた。
「あの岩形さんは、いつもそんな風にして寝てしまうのかね」
「いいえ。岩形さんはいつでもお帰りになるとすぐに私をお呼びになりますから、私はお手伝いをして、寝巻を着かえさせて、ベッドに寝かして上げるのです。どんなに酔っておいでになりましても、私に黙ってお寝(やす)みになった事は一度もありません。……貴様が女なら直ぐに女房にしてやるがなあ……なんて仰言(おっしゃ)った事もあります」
 この無邪気過ぎる言葉の不意打ちには室(へや)の中(うち)の十余名が一時に失笑させられた。隣の室(へや)にそう云った本人の屍骸が横わっているので一層滑稽に感じられたのであろう。謹厳そのもののような熱海検事までも顔を引っ釣らして我慢しかねた位であった。しかし無知なボーイは皆の笑い顔を見て安心したものか、見る見る血色を恢復して来た。そうして私の問いに任せて、岩形氏の平素(ふだん)の行状をぽかぽかと語り出したが、その概要を今までの調査の内容と綜合してみると結局こんな事になるのであった。
 岩形圭吾氏は現在印度(インド)貿易商という触れ込みで、こうした東京一流のホテルに泊っている人物で、又、実際に金持ちらしく見えていたのであるが、その財産というのは、米国の加州辺で稼ぎ溜めたものらしい。これはその服装の好みと、日に焼けた色合いが同地方から来る日本人に共通しているところから、ボーイ頭(がしら)の折井という男が睨んでいたものだという。そうしてその金は山下町の東洋銀行という銀行に十四万円ばかり当座預金にしてあったのを一昨十二日の午後に殆んど五分の四以上を引き出してしまったので、その銀行の支配人は弱っているだろうという噂(うわさ)である。その事情はやはりこのホテルの会計方の一人で宇田川という男が東洋銀行員の一人と懇意なために、ボーイ仲間の二三人に洩れたものらしい。
 それから岩形氏がこのホテルへ来たのは、ちょうど東洋銀行へ金を預け入れた日と同じ日らしかったが、印度貿易商と名乗りながらこれという仕事もないらしく、荷物でも皆無といっていい新しいトランク一つと、やはり新しいスートケース一個で、訪問客も、手紙も来ず、電話一つ掛って来ない。おまけにいつも外出勝ちで、朝飯のほかは昼も晩もホテルで喰う事は稀であった。のみならず帰って来るのはいつも夜の十時過ぎで、しかもベロベロに酔っている事が多かった。しかしボーイやホテルに対する仕打ちは慣れたもので、金遣いも綺麗だったから誰も怪しむ者はなく、蔭では皆十四番の黒さんと云いながら、表面では普通よりもすこし丁寧な扱いをしていた。ただ一度帳場の誰かが、
「十四番の黒さんは毎晩几帳面に帰って来るから可笑(おか)しいじゃねえか」
 と云い出した事がある。すると又誰かが、
「全くなあ。それに手紙が一本も来ねえお客も珍らしいぜ」
 と云い足した。けれどもその時にボーイ頭の折井がちょうど来合わせて、
「野暮な事を云うなえ。この節じゃ寝る処と仕事をする処とを別にするのが流行(はや)りなんだ。それとおんなじに気保養をする処も別にするんだ。毛唐等あみんなそうしてるんだぜ……みんな一緒にしちゃ息が抜けないからな。奴さんそこで一杯飲んで来るのよ。手紙なんざ事務所の方に行ってるに極(き)まってらあ。何も不思議はねえさ」
 と云い消したので、それっきりになっている。岩形氏が昼間のあいだどこで何をしているかというようなこともそれなりに問題にならないまんまで、おしまいになったので、岩形氏の身の上に就(つ)いては、それだけの事実しか上っていない。
「……よろしい……」
 と私はうなずいた。そうして言葉を改めてボーイに問うた。
「それではこの紳士が、ホテルへ帰るとすぐに自分で鍵をかけて寝たのは昨夜(ゆうべ)が初めてなんだな」
「そうです。だから僕も直ぐに寝ちゃったんです」
 と云いながらボーイは又、凝然(じっ)とうなだれた。その顔を覗き込むようにして私は半歩ばかり近づいた。
「そうではあるまい。お前は昨夜(ゆうべ)、この室(へや)へ来て、鍵がかかっているのを見た帰りがけに、一人の洋装をした日本人の女が中から出て来るのを見たろう。そうしてその女とお前は、あの廊下で立って話をしたろう。その女の靴の痕(あと)と、お前の新しいゴム底の靴の跡(あと)とがハッキリと残っているのだ……嘘を云うと承知せぬぞ」
 ボーイは殆んど雷に打たれたように、うしろの方へ辷(すべ)り倒れかけた。それをやっと踏み止まって真青になったまま助けを乞うように私を見上げたが、その唇は物を云う事が出来なかった。そうして中気(ちゅうき)病みのようにわななく手を左のポケットに突込んで、新しい手の切れるような二十円札を一枚、私の前に差し出した。
 私は受け取って裏表を改めながら問うた。
「お前はこれをその女に貰って口止(くちどめ)をされたんだろう……妾(わたし)がここへ来た事を誰にも云ってくれるな……と云って……」
 ボーイは頭をぎくぎくと左右に振った。
「……ち……違います。そ……それを玄関で……も……貰っ……て……」
「……ウン……そうか。そうして岩形さんの室(へや)まで案内したんだな……誰にもわからないように……」
 ボーイは一つうなずいたと思うと、そのまま頭を上げなかった。ウーンと云って引っくり返ってしまった。
 ボーイが杉川医師の応急手当を受けて室(へや)を運び出されると、私は直ぐに金丸刑事を呼んで、ボーイが貰った二十円札(さつ)を東洋銀行に持って行かせた。そうしてもし札の番号が控えてあるならば、この札が一昨日(おととい)の午後、岩形氏に支払ったものかどうか調べて来るように……そのほか岩形氏の身辺について出来るだけ細大洩らさず聞き込んで来るように命じた。
 それから鑑識課の仕事を一応聞き取った私は、やっと隣の室(へや)に這入(はい)って、熱海検事以下数名立会の上で、もう一度岩形氏の変死体を検査する段取りになった
 その検査の結果は大要左(さ)の通りである。むろんこの記述は前の記述と重複するところが少なくないのであるが、この紳士の死状、その他の外表的徴候は、ずっと後(のち)までもこの事件と、呉井嬢次と名乗る怪少年に関する重大な秘密の扉を、順々に開いて行く鍵になっているのだから、念のために記憶に残っている中(うち)で必要と認める全部を、初めから繰返して箇条書にしておく。その中(うち)でも特に注意を要する諸点(中には私が何の気も付かずに見のがしていて、あとで大失策を演じてから、やっと気が付いたようなデリケートの事実もある)には一々黒点を施して、これを参考にして行けば岩形氏の変死に関する秘密が、裏から裏へと解けて行くようにしておいた。

   岩形氏の死状[#ゴシック体]

 ◆屍体が発見された場所 東京駅ステーション・ホテル第十四号特別寝室。
 ◆死亡推定時間 大正七年十月十四日午前零時前後。
 ◆屍体発見当時の室内の状況 電燈は点けたまま。窓も明け放したまま[#「窓も明け放したまま」に傍点]であるが、そこから何者かが出入りした形跡は無い。ただ窓枠の上下際に岩形氏の泥の指痕(ゆびあと)が附着しているのみ。なお、スチーム暖房は止めてある。
 ◆屍体の外見状況 帽子は栓をした小瓶や注射器と一緒に、枕元に正しく置いてある。そうして泥靴を穿いて、右手の袖口を泥まみれにした外套と上衣を着て膝の処を左右とも泥だらけにしたズボンを穿いて[#「右手の袖口を」から「ズボンを穿いて」まで傍点]、南を枕にして、左手を下に[#「左手を下に」に傍点]敷いた西向きに横臥し、眼を一ぱいに見開いて、窓の外を凝視したまま[#「窓の外を凝視したまま」に傍点]死んでいる。そのワイシャツと、その下のラクダの襯衣(シャツ)は両方とも、同じ左腕[#「左腕」に傍点]上膊部を二枚重ねて横に三寸程鋏様(はさみよう)のもので截(き)り裂いてあって、そこから注射をした痕は、絆創膏(ばんそうこう)を貼ってないために、淡(うす)い血と淋巴(りんぱ)液が襯衣(シャツ)の裏面に粘り付いている。

   容貌と体格[#ゴシック体]

 ◆容貌 蒙古人種(モンゴリアン)系の大きな顔で、赤味がかった頭髪はまだ左程(さほど)に禿(は)げていず、全体に醜くはないが、好男子という程でもない。しかしどことなくノッペリしたところは貴族的で婦人に敬愛されそうな顔立ちである。かなり高い顳※骨(しょうじゅこつ)と、薄い眉とは犯罪性をあらわし、狭く尖(とが)った鼻の頭と、稍(やや)角張った大きな顎(あご)は敗け惜しみの強い性格をあらわしているが、小さな分厚い唇はどちらかといえば考えの浅い、お人好しの性格を見せている。これに反して広い平ったい額は疑い深い、もしくは底意地の強い才智の働きを表明し、耳は又、女性的で温順(おとな)しい恰好をしているなぞ、随分矛盾した特徴を持った顔で、全体を綜合した印象から云っても、ちょっとどんな性格か要領の得難(えにく)い表情と云わねばならぬ。ただ、眼だけは誰が見ても酒精(アルコール)中毒で、白眼が黄色く濁って、暴風雨の後(のち)の海を見るような気味のわるい光りを放っている。
 ◆体格 身長五尺六寸余。酒肥りにデブデブ肥っていて体量も二十貫位ありそうに見える。顔も手足も真黒く日に焼けているが地肌は酒で色付いている胸部を除いては、白い方である。又、昔はかなり烈しい労働に従事したらしく手足の皮が厚くなっているし、腕力も相当にあるらしく、左の腕に一度小さな刺青(いれずみ)をして焼き消した痕がある。しかし、それがずっと前に東京市内で流行した不良少年用の花型のものか、外国の無頼漢用の骸骨(スケレトン)式のものか、それとも普通の恋愛沙汰から来たハート型に頭文字(イニシアル)の組合わせ式のものかというような事は、ちょっと判別出来なかった。

   服装[#ゴシック体]

 ◆服装 外套は焦茶色の本駱駝(ほんらくだ)で、裏は鉄色の繻子(しゅす)。襟(えり)は上等の川獺(かわうそ)。服は紺無地(こんむじ)羅紗(らしゃ)背広(せびろ)の三つ揃いで、裏は外套同様。仕立屋の名前はサンフランシスコ・モーリー洋服店と入っている。持主の頭文字(イニシアル)は初めから縫い付けてないらしく引き剥がした痕跡もない。外套、上衣とも襟の処には葉巻の芳香と、熟柿(じゅくし)臭い臭気とが沁(し)み込んでプンプンと匂っている。帯革は締めず。青い革のズボン吊り。本麻、赤縞ワイシャツに猫目石のカフスボタン。三つボタンは十八金。襟飾(ネクタイ)は最近流行し初めた緑色の派手なペルシャ模様。留針(タイピン)は物々しい金台の紅玉(ルビー)。腕輪はニッケルの撥条(ばね)。帽子は舶来の緑色ベロアに同じ色のリボン七吋(インチ)四分の三。但し内側はかなり汗じみている。青スコッチの靴下。靴は舶来のボックス十二文で俗にいうブルドッグ型編上である。

   携帯品[#ゴシック体]――右、左、内、外、後とあるのはポケットの位置を示す――

 ◆外套 【右外】何かを拭いたらしい棒のように絞り固めた白麻のハンカチ一つ。敷島らしい煙草の屑。【左内】ハバナ製葉巻を三本容(い)れた鉄製の容器一個。岩形氏の掌(てのひら)と同様の泥の指紋が附着した小さな鋏一個。
 ◆上衣 【右内】万年筆のインキの切れかかったままのもの一本。鰐皮(わにがわ)の紙入れ一個。その内容は百円札七枚、十円札二枚、五十銭札五枚。一銭銅貨二枚。計七百二十二円五十二銭也(なり)。岩形圭吾と印刷した名刺十三枚。外にもう一枚岩形の形という字の上部から横に破り取った下半分の名刺。及び、岩形と彫った小型の水晶印一個。【左外】濃紫色の女持絹ハンカチ一枚[#「濃紫色の女持絹ハンカチ一枚」に傍点]……その他中略……。
 ◆胴着(チョッキ) 【左外】ウォルサム製廿型(にじゅうがた)金時計。金鎖。蓋附磁石。十四金鉛筆附。いずれも頗(すこぶ)る古いもので、その時の正確な時間十時十五分を示している。
 ◆ズボン ……一部中略……【右後】残弾四発を有する旧式五連発ニッケル鍍金(めっき)小型拳銃(ピストル)。旋条がかなり磨滅し、撃鉄や安全環はニッケルが剥落して黒い生地(きじ)を露(あらわ)し、握りの処のエボナイトの浮彫(うきぼり)も、手擦れで磨滅してしまっている。少くとも十年以上使用したものである。
 ◆附記 注射器は日本製で岩代屋(いわしろや)の刻印があり、最近に求めたものらしく、針は予備針とも、最小のしなやかなものである。又、注射用の毒薬を入れた小瓶は普通の茶色の小瓶で、買った店の受取証のようなものは無論見当らず、中には極少量の薬液が附着しているようであるが、何が入っていたものか見当が付かない。ただ軽いアルコールらしい臭気が残っているばかりである。そうして注射器の筒にも、茶色の小瓶の栓や外側にも、岩形氏の掌(てのひら)と同様の泥の指紋が真白に附着している。
 ◆備考 (一)岩形氏の持物の中(うち)で注意を要するものは、この外(ほか)に一個もない。但し押入れの中のトランクもスートケースも、その中に投げ込んである毛布、長靴、その他のござござも皆、最近に買ったらしい新品である事と、状袋(じょうぶくろ)、レターペーパー等という書信用の品物を一つも持たず、ホテル備え付の分を使用した模様もない事が、注目に価する位のものである。
 ◆備考 (二)遺書、もしくはそれに類するものはどこにも発見されなかった[#「遺書」から「発見されなかった」まで傍点]。

 私はこれだけの事実を極度の注意を払って検査した上で、もう一度、岩形氏の枕元に在る注射器と茶色の小瓶と、ポケットから出た小鋏とを更(かわ)る代(がわ)る取り上げてみた。そうしてもう一度、内部のアルコールらしい臭いを嗅いでみたり、光線に透かしてみたり、硝子(ガラス)の栓を瓶と合わせてみたり、又は鋏をきちきち合わせてみたりなぞ、無用の努力を五六分間繰返しながら、内心では色々と推理を組み立てては壊し、判断してみては考え直してみた。しかし何度繰返して考え直して見ても、私の推理は同じ鉄壁にぶつかって一歩も進めなくなるばかりであった。この推理観察の金的(きんてき)ともいうべきこの瓶と注射器と、鉄に附着している指紋が、岩形氏以外の誰のものでもない事と、その附着した位置や、力の入り工合が如何にも自然で、あとから故意にくっ付けたものではないという一同の意見が一致している以上、ほかの情況証拠がいくら他殺らしく見えていても、他殺と断言する事は不可能であった。もっと有力な他殺の形跡が発見されない限りは……であった。況(いわ)んやこの屍体を取り巻く幾多の情況が、他殺とも見え、自殺とも見えるに於てをやであった……。
 私は心の底で人知れず溜息をしいしい三つの品物を岩形氏の枕元に投げ出した。……こんな掴みどころのない、得体のわからない変死体に出会(でくわ)した事は、実に、生れて初めてだったからである。これだけ腕を揃えた連中が判断に苦しんだのは尤も至極だと思ったからである。
 読者諸君ももう既に気付いていられるであろう。見たところ岩形氏の死状はどうしても自殺と考えるのが至当らしいという事を……。すなわち岩形氏は、昨夜誰も居ないうちに自分で外套と上衣を脱いで、自分の鋏でシャツを切り破って、そこから自分の注射器でアルコール臭を有する毒液の注射をして、それから寒くなったのでもう一度上衣と外套を引っかけて、寝台の上に転がったもの……と見る事が出来るので、注射の個所を消毒した形跡もなく、絆創膏を貼った痕もないところ……又は帽子と注射器を枕元に正しく置いて絶息しているところなぞを見たら、ほかの条件がどんなものであろうともとりあえず自殺と決定したくなるであろうことを……。
 しかしこの時の私の頭にはどうしてもこの決定が閃(ひら)めかなかったから不思議であった。しかも、それは私がこの十四号室に這入る前に発見した、彼女の靴跡が先入主になっていたせいでもなければ、岩形氏が手を洗い浄めないまま注射をした……もしくは遺書を認(したた)める間もなく、衣服を改める隙(ひま)もなく、腕をまくる隙(すき)もない程急迫な自殺をした……という事が、私を疑い迷わせたからでもなかった。それよりももっと直接な、大きな疑問……すなわち現在眼の前に横わって、冷たく強直してしまっている岩形氏の屍体の姿そのもの[#「屍体の姿そのもの」に傍点]が、今まで見た事のない、何とも説明の出来ない異常な感じをあらわしている……その異常な感じそのもの[#「異常な感じそのもの」に傍点]が、それをじっと見下ろしている私に向って何事かを訴えるべく、無言のまま呼びかけているのではないか……というような疑問がちらちらと私の頭の中に閃めいて仕様がないからであった。
[#ここから1字下げ]
……もっと私の屍体を研究して下さい。もっとよく調べて下さい。私の死んだ原因は、普通の人間には絶対に解りません。ただ貴方だけにしか解らないようになっているのです。……私は貴方がお出でになるのを待っていたのです。私のこの異常な死方(しにかた)の裏面に隠されている、或る驚くべく、恐るべき秘密を看破して下さるのを一刻千秋の思いで待っていたのです。……私のこの異状な、不自然な、奇抜な死方(しにかた)をもっともっとよく研究して下さい。そうして私の死を無駄にしないようにして下さい。どうぞどうぞお願いします……。
[#ここで字下げ終わり]
 ……と身動きも出来ず、声も出せない憐れな姿のままに、刻一刻と私に呼びかけているのではないか……というような深刻な疑問が私の頭の中一ぱいに渦巻いて、どうしても屍体の側を離れることが出来なかったからであった。
 けれども遺憾ながらこの時の私の頭はこの疑問を解剖するだけの観察力と推理力をあらわす事が出来なかった。ただ、同じ疑問を扇風機のように頭の中で廻転させながら一ぱいに開いた屍体の黄色い眼を凝視するばかりであった。そうして、やがてもう一度心の奥底で溜息をしながら……これでは俺の頭は傍に立っている三人の頭と大差ない事になる……と思いながら、何気なく岩形氏の屍体の鼻の先に置いてある、絞り固めたハンカチを取り上げてみた。これは前記の通り岩形氏の外套の右の外側のポケットから取り出したものであるが、掌(てのひら)が泥だらけになったままでいるのに一体何を拭いたものであろう……又何か拭いたにしてもこんなハンカチの一つぐらい棄ててしまいそうなもの……と思うと、何となく岩形氏に不似合な所持品と思われたので、溺れかかった人間が藁(わら)でも掴むような気持で検査してみる気になったものであった。
 そのハンカチの棒のように絞り固めた中心(なか)の方はまだ薄じめりしているらしく、外側の捩(よ)じれた皺(しわ)の上には、今まで入っていたポケットの内側の染料が赤く波形に染み付いていた。鼻に当てて嗅いでみるとウイスキーと珈琲(コーヒー)との交(まじ)った臭気がぷんとしている。これは多分ウイスキー入りの珈琲がこぼれたのを拭いたもので、ポケットの内側の色が染み付いたのは多分アルコールの作用であろうと思いながら、念のためにポケットの内側を覗いてみると、それは赤い色ではなく、他の処と同様に鉄色の繻子(しゅす)であった。そうしてその奥底の方のハンカチの潤いを吸うた部分だけがハッキリとした赤黄色に変色しているのであった。
 私はそのハンカチを持ったまま、衆人環視の中をつかつかと、窓の処に近づいて行った。そうして出来るだけ方々に指を触れないようにそのハンカチを引き拡げて、隅の両端を摘(つま)んで、皺を伸ばすために二つ三つはたくと、粘り付いていた煙草の粉が皆飛んでしまった。それを間もなく照り出した日の光りに透かしてみると、半乾きのハンカチの繊維が皆、真白に輝いて見えた。
 ハンカチの向うの広場には、電車や、人力車や、自動車や、自転車が引っきりなしに音を立てて通った。オーイオーイと呼ぶ人間の声も聞えた。太陽が明るくなり、又暗くなった。朝風がそよそよ窓から入って来て私の持っているハンカチを弄(もてあそ)んだ。その間じゅう私は、自分の眼の前にぶら下っている一尺四方ばかりの白いハンカチの中から順々に現われて来る怪現象に見惚(みと)れて、身動き一つ出来なくなっていた。
 珈琲の汚染(しみ)は殆んど全部に亘っていて、汚れていない処は右上の角の一部分しかない。そこ、ここに、ポケットの内側の変色した部分と同じ色の淡(うす)い汚染(しみ)が、両端の尖った波の形をして散らばっている……その中に、巻煙草の粉の形をした小さな短冊型が薄青く輝きながら、群をなして現われて来た。それからその真中あたりに、茶色にぼやけた半円形が二つ半? ばかり辛(かろ)うじて見えて来たのは指を拭いた痕跡らしく、大方脂肪分が変色したものであろうと考えられる。そのほか極めて淡(うす)い雲のような汚染(しみ)の形が処々に見えるが、何の痕跡だか推定出来ない。
 そんなものを一渡り見まわした私は、最後に、右上の端の珈琲の汚染(しみ)の附いていない処に眼を注いだ。そこには極めて鮮麗な紫色がかすれたようになって附着しているが、その色が珈琲の汚染(しみ)になった処に這入ると急に流れ拡がって、淡い緑色に流れ出している。この紫色はもう一つの絹ハンカチの色とは違って、眼に沁みるほど華やかで、確かにタイプライターのリボンを抓(つま)んだ指を拭いた痕跡に違いないと思われた。それから私はハンカチの上の両端を左右の拇指(おやゆび)と食指(くすりゆび)でしっかりと摘んで、強く左右に引っぱって見たが、まだそんなに力を入れもしないうちにハンカチは何の苦もなくびりびりと裂けて、左右の二つに別れてしまった。
 私は思わずほっと一息しながらハンカチから眼を離したが……振り返って見ると私の周囲にはいつの間にか二三十の眼が集まって、私のやる事を不思議そうな顔をして見ていた。
「この室(へや)にはタイプライターは……」
 と私は独言(ひとりごと)のように云いながら見まわした。
「いえ。ないのです。この紳士の指は太くて固くて、とてもそんな小まめな器械はいじれません。そしてインキの代りに泥が爪の中までこびり付いています」
 と志免警部は即座に答えた。私の背後(うしろ)から覗き込んで紫の汚染(しみ)に気が付いていたものと見える。
 私は引き裂いたハンカチをそっと寝台の上に置いて、隣の室(へや)に行って洗面器で手を洗って来た。直ぐにもう一つの紫の女持(おんなもち)絹ハンカチを摘み上げて、同じように窓の明りで透かしてみたが、これには何も見当らず、ただ強いヘリオトロープの香気がしただけであった。……この香水はこのハンカチとは調和しない。紫のハンカチには大抵バイオレット系の香水が振りかけてあるものだが……とその時に私は思った。
「ヘリオトロープの香水はどこにもなかったね」
「ありませんでした。只洗面台の処に濃いリニー香水と仏国製のレモン石鹸があっただけです」
 と又も志免警部が即答した。私のする事を一々眼に止めながら……。
 私は考えに沈んでこつこつと室内を歩きまわり初めた。
 ほかの連中は多少の倦怠を感じて来たらしい。熱海検事は小声で何事か古木書記に口授し初めた。志免警部は両手を背後(うしろ)に廻して、屍体の頭のてっぺんから足の爪先まで見まわし初めた。そのほかの連中も窓の近くでぼそぼそ話をしたり外を眺めてこっそり欠伸(あくび)をしたりしていた。
 私はその間に今のハンカチが見せてくれた奇怪な暗示材料を、岩形氏の死状と照し合わせて、万に一つも間違いのない結論に到達しようと努力した。そうしてほんのもう一歩か二歩で結論に手が達(とど)きそうな気持ちになっているところへ、最前から所在なさにぼんやりと煙草(たばこ)ばかり吹かしていた杉川医師が突然思い出したように私の方を振り返った。
「最早(もう)ボーイが気付いているでしょう。一寸(ちょっと)行って見ます」
 私はちょっとの間(ま)眼に見えないものを取り逃がしたようにいらいらしたが、すぐに落着いて答えた。
「……どうか……もし意識がたしかになっているようでしたら今些(すこ)し問いたい事があります」
 杉川医師は首肯(うなず)きながらすぐに室(へや)を出て行ったが、その足音が廊下に消え去ると間もなく、隣の室の卓上電話が突然にけたたましく鳴り出した。
 私はすぐに飛んで行って受話器を外(はず)した。
「……もしもし……もしもし……貴方(あなた)はステーションホテルですか。十四号室に居られる狭山さんを……」
「僕だ僕だ。君は金丸君だろう」
「あ。貴下(あなた)でしたか……では報告します」
「銀行から掛けているのかね」
「そうです。報告の内容はここに居る人が皆知っている事ばかりです」
「ああいいよ。どうだったね」
「意外な事があるのです。この銀行から岩形氏の金を受け取って行ったのは岩形氏自身ではありません。岩形氏の小切手を持った日本婦人です」
「ふむ。それでやっとわかった。そんな事だろうと思った」
「……はあ……私は意外でした」
「まあいい……その婦人の服装は……」
「……思い切った派手なもので、しかも非常な美人だったと云うのです。顔は丸顔で……もしもし……顔は丸顔で髪は真黒く、鏝(こて)か何かで縮らした束髪に結って、大きな本真珠らしい金足(きん)のピンで止めてあったと云います。眉は濃く長く、眼は黒く大きく、口元は極く小さくて締まっていたそうです。額は明瞭な富士額で鼻と腮(あご)はハッキリわかりませんが……もしもし……ハッキリと判りませんが兎(と)に角(かく)中肉中背の素晴らしい美人で、顔を真白く塗って、頬紅をさしていたそうで……非常に誘惑的で妖艶な眼の覚めるような……ちょっと君等……ちょっと笑わずにいてくれ給え……どうも電話が卓上電話なので……もしもし妖艶とも云うべきものだったそうです。しかし服装はあまり大したものではなく普通の上等程度だったそうで……被布(ひふ)は紫縮緬(むらさきちりめん)に何かちらちらと金糸の刺繍(ししゅう)をしたもので、下は高貴織りか何からしく、派手な柄で、何でも俗悪な色っぽいものだったそうですが、まだ冬にもならぬのに黒狐の襟巻をして、時計入りの皮の手提げと、濃い空色に白縁を取った洋傘(パラソル)と紫色のハンカチを持っていたそうです」
「金はどうして渡したのか」
「それがです……それが怪訝(おか)しいのです。金を預けてから三日も経たぬ十日の朝に岩形氏は電話でもって支配人を呼び出して、近いうちに自分の預金全部を引き出すかも知れないから、そのつもりでいてくれと宣告したそうです。それで支配人はどこかの銀行へお送りになるのならばこちらで手続きをしましょうかと云ったら……いや全部現金で引き出すのだ。しかしまだ一日や二日の余裕があるから、それまでに準備しておいてくれ。但し、利子だけは残しておくと云ったそうです。支配人は少々困ったのでこう云ったそうです。どうも現金が十万円以上となるとどこの銀行でも一寸には揃いかねます。他の銀行か何かへお組み換えになるのか何だったら今日只今でも宜しゅう御座いますが……と云うと岩形氏は多少怒気を帯びた声で……これだから日本の銀行は困る。自分が一昨日(おととい)預けた時は現金で十四万円を行李に詰めて持って来たではないか。その時には黙って受取っておきながら今更そんな事を云っては困る。これは自分が金を扱う方法だから仕方がない。君の銀行はこの間から大株でかなり儲かっている筈だから、それ位の事はどうにかならぬ事はあるまい……と高飛車で図星を刺されましたので仕方なしに承知をしたのでした。実は支配人も驚いたのだそうです。取引所の事情を知り抜いている話ぶりなので……そうして内々で準備をしていると一昨々日(さきおととい)……十一日の朝になって岩形氏がひょっこり遣って来て、いつもの通りの態度で三千円の小切手を出した序(ついで)に、例の金の準備はどうだと尋ねたそうです。これに対して支配人は、準備はちゃんと出来ている。しかし何とかしてもらえまいかと頼みますと岩形氏はじっと考えたあげく極めて無造作な口調で、それではその五分の四だけ引き出す事にしよう。そうして受取り人には田中春(はる)という極く確かな女を出すからよろしく頼む。なお間違いのないように、割(わ)り符(ふだ)を渡しておこう……と云って自分の名刺を半分に割(さ)いて、一つを支配人に渡し、残りの一つを自分のポケットに入れたそうです」
「ええと。一寸待ってくれ。その名刺の半分はそこに在るのかね」
「はい。私がここに持っております」
「それは名刺の上半部で、岩形の形という字の上が残っていはしないか」
「そうです。どうしておわかりになりますか……」
「その下の半分はこっちに在る。岩形氏の背広のポケットから出て来た」
「……………」
「それからどうした」
「一寸支配人が代ってお話をしたいとの事ですが宜しいですか」
「ああどうか。まだ報告があるかね」
「ありません……それだけです」
「それじゃ君はもっと詳しくその婦人の様子を銀行員から聞き出してくれ給え。俥(くるま)に乗って来たかどうか。どっちから来てどっちの方へ去ったか。金はどんなものに入れて持って行ったか、その他服装や顔立ちなぞをもっと細かく……そして直ぐ帰って来て……」
「アア……モシモシ……アア……モシモシ……狭山さんですか。初めてで失礼ですが……私が当行の支配人石持(いしもち)です。どうも飛んだ御手数で……先程の二十円札はたしかに当行から岩形さんの代理のお方にお渡ししたものです。実は岩形さんの件に就きましては、その中(うち)に一度お調べを願おうかと思っておりました次第で……岩形圭吾というのは紳士録には青森県の富豪と載っているにはおります。しかし昨日(きのう)、同地方出身の友人に会いましたから、それとなく様子を聞き糺(ただ)してみますと、その岩形圭吾氏と申しますのは本年の二月に肺炎で死亡致しておりますそうで……」
「岩形氏の事は今調べているところです。いずれわかったらお知らせします。……で、それに就いて少々お訊ねしたい事がありますから何卒(どうぞ)御腹蔵なく……」
「は、はい。それはお言葉までもなく……」
 それから私が問い糺したところによると、石持氏は流石(さすが)に小銀行の支配人だけあって、相当苦労をしているらしく、着眼点が普通と違っていた。石持氏が真先に気付いたのは、女が平生あまり化粧をした者でない事であった。真白くコテコテと塗り立てているにはいたが、それは処々ムラになっていて、額の生え際なぞは汗で剥げかかっていた。尤も地肌は白い方であったが眉は正(まさ)しく描いたもので、本来の眉よりはずっと幅広く長く見せかけてあった。背丈は普通より稍(やや)高く、五尺三寸位のところで、着物の着こなしがどことなく身体(からだ)にそぐわぬように見えた。姿勢は非常にいい方で、日本人の女としては幾分反(そ)り気味に見えた。その顔の特徴は二重瞼の張りのある眼と、女にしては強過ぎる程きりりと締まった口元とであった。しかしその言葉付きと眼の光りは、如何にも日本婦人らしい清(すず)しさをあらわしていて、混血児らしいところや、支那婦人らしい物ごしは毛頭感じなかった。
 その女は一昨十二日の午後一時きっかりに東洋銀行の表口へ俥を乗りつけて、応接間で石持氏に面会すると、革の手提袋から岩形氏の名刺の下半分と、岩形氏直筆の十一万五千円の受取証と、それから田中春と書いた小型の名刺を出して、つつましやかに石持氏に渡した。石持氏はそれを一応調べると、店員に命じて紙幣を丸テーブルの上に積み上げさせて、念のために今一応自身で勘定をして見せたが、相当時間がかかったにも拘わらず、女は極めて注意深く石持氏の手許を見詰めていたようであった。それから石持氏は、
「どうしてお持ちになりますか」
 と訊ねてみると、女は矢張りつつましやかに、
「どうぞ恐れ入りますが新聞紙で真四角に包んで頂きとうございます」
 と云ったからその通りにしてやると、女は手提の中から大きな白金巾(かなきん)の風呂敷を出して、丁寧に包んで、それから俥屋を呼ぶと新橋二五〇九と染め抜いた法被(はっぴ)を着た、若い二十代の俥屋が這入って来た。そうして白い風呂敷包を金とは気が付かぬらしく、女が命ずるままに無雑作に抱え出して俥に乗せた。女はそのまま丁寧に挨拶をして俥に乗って、帝国ホテルの方へ行ってしまったが、支配人と店員の一二名とは見送ったまま門口に突立って、俥のうしろ姿が見えなくなるまで見送っていた。
「その婦人はどんな香水の香りがしていましたか」
 と私は語り終った支配人を追っかけるように訊ねた。支配人は面喰ったらしく急に返事をしなかった。
「……さあ……どんな香水でしたか……アハハ……どうも……」
「そうして岩形氏の預金は、あとにどれ位残っておりますか」
「たしか三万円足らずであったと思います」
「どうも有り難う。いずれ身元がわかったらお知らせします。あ……それから貴下(きか)は岩形氏の住所を御存じですか」
「はい。鎌倉材木座の八五六で岩形と承わっておりますが……」
「その他に、東京の方で事務所か何か御存じですか……通知なぞを出されるような……」
「別に存じませぬ。何分極く最近の取引で、こちらでも行届きかねておりましたような事で……御用の節はいつも岩形さんが御自身にお見えになりましたので……」
「いや有難う。いずれ又……」
 と云い棄てて電話を切った。そうして急いで寝室に引っ返して、彼(か)の半分に裂けた岩形氏の名刺を鼻に当てて嗅いでみると果して……果して極めて淡(うす)いながら、疑いもないヘリオトロープの香気が仄(ほの)めいて来た。この名刺が一度、岩形氏の手から女に渡されて、又、何かの理由で岩形氏のポケットに帰って来たものである事は、もはや十中九分九厘まで疑う余地がなくなった。
 私は事件のまとまりが、やっと付いたように思ったので内心でほっと安心をした。そうして今聞いた電話の要点だけを熱海検事に報告したが、そのうちに今まで熱心に岩形氏の屍骸の周囲(まわり)を検査していた志免警部は、突然つかつかと私の傍へ近づいて来て、岩形氏の泥靴を私の鼻の先へ突き付けた。
「……何だ……」
 と私は面喰って身を引きながら云ったが、志免刑事がそうした理由は直ぐに判然(わか)った。その靴の踵(かかと)の処と、爪先の処に両方とも、普通と違った赤い色の土が、極く細かな線になってこびり付いていた。
「……うん……赤煉瓦(れんが)の水溜りだね。あそこの家(うち)の……」
 と云いながら私はうなずいた。
「……だろうと思うんですが……他の処にはないようですから……」
 私はもう一度深くうなずいた。
 すると殆んど同時に入口の扉(ドア)が開(あ)いて金丸刑事が帰って来たが、汗を拭き拭き私に一枚の名刺を渡した。それは女持ちの小型なアイボリー紙で上等のインキで小さく田中春と印刷してある。それを受け取るとすぐに鼻に当ててみたが思わずニッコリ笑った。すると飯村は、それを冗談とでも思ったのか一緒になって笑い出した。
「いや銀行でも弱ったんです。私が女の事を貴下(あなた)にお話しているうちに、若い行員どもが、引っ切りなしにゲラゲラ笑うんで困りました」
 私は事件の緒(いとぐち)がいよいよハッキリと付いて来たので急に気が浮き浮きして来た。
「ああ。いい臭いだ。おれが犬なら直ぐに女を探し出すんだがなあ。……こんな時にスコットランドヤードの探偵犬(ボッブ)が居るといいんだがなあ」
 この時に杉川医師も階下(した)から上って来た。
「ボーイがやっと意識を回復したようですが。……どうもヒステリーの被告みたいに、神経性の熱を四十度も出しやがって譫言(うわごと)ばかり……」
「どんな譫言を……」
 と私は急に真面目になって問うた。
「黒い洋服だ。黒い洋服だ。美人美人。素敵だ素敵だなぞと……そうして今眼をあけると直ぐに起き上って、側に居たボーイ頭に、もう正午(ひる)過ぎですかと尋ねたりしておりましたが、馬鹿な奴で……貴下(あなた)に睨まれたのが余程こたえたと見えまして……」
「ははは。意気地のない奴だ」
「何かお尋ねになりますか……」
「いや、もう宜しい。犯人はもう解っている」
「え」
 と皆は一時に私の顔を見た。私はちょっと眼を閉じて頭の中を整理すると、すぐに又見開いて、皆の顔を見まわした。
「犯人はやはりその女です。その女……田中春というのは多分偽名でしょうが……その女は泥酔している紳士に麻酔剤か何か嗅がして、シャツの上膊部を切り破って、薬液を注射して殺した。そうして覚悟の自殺と見せるために、瓶や鋏に被害者自身の指紋をつけたばかりでなく、上衣の外套を着せて、泥靴まで穿かせて、帽子や注射器までもきちんと整理して出て行った」
「その女を犯人と認める理由は……」
 という質問が極めて自然に熱海検事の口から出た。私はその方にちょっと頭を下げながら説明を続けた。
「第一の理由を述べると、女はその前にも一度、この紳士を殺そうとしていることを、今しがた私が引き割いたこの白い麻のハンカチが証明している。すなわち今から二十四時間経たない以前にこの紳士は、その女と一緒に或るカフェーでウイスキー入りの珈琲(コーヒー)を飲んでいるらしいが、その珈琲にはアルカリ性の毒薬が入れてあった。その毒薬というのは私の知っている範囲では多分支那産のもので、『婆鵲三秘(ばしゃくさんぴ)』という書に載っている『魚目(ぎょもく)』という劇毒らしい。実物を手に入れた事がないから分析的な内容は判然しないが、強いアルカリ性のものである事は間違いないようである。すなわちこの毒を検するに彩糸(さいし)を以てす。黒糸(こくし)を黄化す、青糸(せいし)を赤変す。綾羅錦繍(りょうらきんしゅう)触るるもの皆色を変ず。粒化(りゅうか)して魚目に擬し、陶壺中(とうこちゅう)に鉛封(えんぷう)す。酒中(しゅちゅう)神効(しんこう)あり。一粒(りゅう)の用、命(めい)半日(はんにち)を出でず。死貌、悪食(あくじき)に彷彿すとあるが、ちょうどそれと同じような作用を、このハンカチに浸(にじ)んだ毒薬が起しているので、如何に烈しい毒であるかは、このアルカリ分に触れたものが皆色を吸収されて変色しているばかりでなく、ハンカチ自体でも、直ぐに裂ける位に地が弱っているのを見てもわかる。
 ……女がこのウイスキー入りの珈琲を紳士に勧めると、紳士は直ちに毒と覚(さと)って引っくり返して、自分の鼻をかむハンカチで拭いた。女は、それが後日の証拠になる事を恐れて、自分の紫のハンカチを男に遣って、汚れたのと交換しようとしたが、紳士はその手には乗らずに、濡れたハンカチを絞り固めて外套の衣嚢(かくし)に入れたばかりでなく、女の紫のハンカチと一緒に、金受取りの割符にした名刺の半分までも取り上げて仕舞い込んでしまった。そのために、女は一層殺意を早めて、その夜の中(うち)にここに来て、被害者にアルコール類似の毒液を注射し、遂にその目的を遂げた。
 ところで私の知っている範囲ではアルコール臭を有する猛毒はメチール系統のもので、泥酔者に注射をすると殆んど即死するものがあると聞いているが、被害者に用いられたものもその一種ではないかと考えられる。しかし木精(メチール)系統の毒薬は非常に興味があるにも拘わらず、分析の範囲があまりに広過ぎるために私は研究を後まわしにしていたので、目下のところこの毒物が何であるかは明言出来ない。尚(なお)、また、日本でこの種の毒物が使用された事実をまだ聞かない事と、高等な医学と有機化学の知識と、優秀な看護婦程度の経験が、この毒物の製造と応用に必要な点から推して、この女が容易ならぬ学識手腕を持っているか、又は女の背後に意外に深刻な魔手が隠れて、女を操(あやつ)っているのではないか……という仮定が成立しそうに思えるが、しかしこれは単に仮定であって軽々しくは断定出来ない。何故かと云うと、この女の犯罪行為の中(うち)には如何にも素人じみた失策が幾つも在るので、この女を使用してこんな犯罪を遂行させた人間がもしいるとすれば、それは殆んど女と同等の素人でなければならぬとも考えられるからである。だからこの場合は、全然毒殺の経験を持たない女が、この紳士に対して殺意を持っているうちに、このような毒物を手に入れたので、俄(にわ)かに思い付いた犯罪と見るのが、至当ではないかと考えられる。
 ……ところでその女の失策というのは、今数えて見ると四つばかりある。
 その第一は自分の手に、紫のアニリン染料が附いているのを気付かないで、紳士の濡れたハンカチを取ろうとしたために、隅の方に紫の指痕を附けた。その変色していない部分は布地(きれじ)が乾燥していたために化学変化を起さなかったので、そのためにこの女はタイプライターを扱う女という事実が推測され得る事になった。
 その第二はこの室(へや)に来ておりながら、毒薬を拭いたハンカチを奪い返さずに立ち去った事で、その第三は鍵を掛けないで逃げて行った事である。これは何かに驚いたためではないかと考えられるのであるが、しかしこの第三の鍵を掛けなかった失策は、その以前にボーイに大枚二十円を与えて口止めをしていたので大した失策にならずに済んだ。
 ……最後にこの女は、非常に注意深い性質でありながら、犯罪行為には慣れないと見えて、到る処に大きな犯跡を残している。その中でも指紋に関する知識はまだ一般に普及されていないから、ワニス塗りの扉(ドア)に手を触れたのは咎(とが)めないとしても、油引きの廊下の左端の方を選(よ)って歩いたのは、如何にも馬鹿馬鹿しい不注意である。足跡を残すのはまだいいとしても、万一辷りたおれでもしたら、それこそ大変な事になったであろう。
 ……なお他殺という事は、この紳士の性質と行動を見ればわかる。この紳士が、ずっと以前に人気の荒い南部加州あたりで労働をしていたらしい事と、その趣味が余り高くない事は、その風采と、所持品と、強い酒精(アルコール)中毒であろうと推定される。それからその後に、最近まで引続いて長い間、生命(いのち)がけの仕事をしていたことは、その所持しているピストルが、非常な旧式を使い狎(な)らしたもので、且つ銃口(つつぐち)の旋条が著しく磨滅しているのを見れば、容易にうなずかれる。つまり手狎(てな)れているために出し入れが迅速で、従って近距離の命中が確実なために、がたがたピストルながら手離しかねていたものと見るべきで、殊に、その五連発の中(うち)から最近に一発撃ち出されているのは決して無意味でない。所持品の中に予備弾のケースが見当らない以上、この紳士は多分一週間前に、このピストルを一挺だけ持って、どこからか逃げ出して来たものである。しかもその貴重な五発の中の一発を発射したのは余程の危険に迫られた結果と見る事が出来る。
 ……なおこの紳士が外国から逃げて来たもので、今も尚行方を晦(くら)ましている者らしい事は、預金の取り扱い方と、手荷物の皆新しい事と、着物にも帽子にも名前(イニシャル)が付いていない事と、手紙の類を一通も出さず、ホテルの名前入りの状袋(じょうぶくろ)や紙も無論使用しなかった事と、銀行の支配人に出鱈目(でたらめ)の住所や名前を云った事と、訪問客も手紙も絶無であった事などによって明かに推測される。
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