暗黒公使
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著者名:夢野久作 

厩から出てゆっくり歩きながらここまで来る間(ま)に三分かかっている訳だ。あとは僅に十七分間である。女の事なぞ考えている隙(ひま)はない。
 場内は一寸(ちょっと)居ない間(ま)に著しく暗くなって夕暗(ゆうやみ)のような色を漂わしている。これは太陽が雲に隠れたためで、見物は水を打ったように静かだ。演技場の真中には今、中位の象かと思われる巨大な白葦毛(あしげ)の挽馬が、手綱も鞍も何も着けずに出て来て、小さな斑(ぶち)のテリア種の犬と鼻を突き合わせて何かひそひそ話をしている体(てい)である。そこへ赤白だんだらのピエロ服を着て骸骨のように眼鼻を黒くした小男が、抜き足さし足近づいて来て、妙な腰付きをして耳に手を当てがいながら、馬と犬の内証話を聞こうとした。これを見付けた犬は急に憤(おこ)ってワンワン吠えながら道化男に噛み付こうとする。道化男は危機一髪の間(ま)に悲鳴を揚げて逃げまわる。楽隊が囃(はや)し立てる。見物はただ訳もなく笑った。
 馬と小犬は道化役者(ピエロ)を楽屋口の柱の上に追い上げると又、広場の真中に来て内証話を初める。
 私は又時計を出して睨み初めた。もう二分経っている。あと十五分……。
 道化男は又、前の失敗を二度ほど繰返した。見物席に駈け上ったり、木戸口から飛び出したりした。しまいには馬の腹の下に這入って、前足の間から二匹の内証話を聞こうとした。それを犬が素早く発見して吠え付いた。馬は棹立(さおだ)ちになった。そうして二匹とも今度は勘弁ならぬという体(てい)で逐(お)いまわし初めた。
 あと十二分……。
 道化男は馬の腹の下や、前足や後足の間を飛鳥(ひちょう)のように潜り抜けて巧みに飛び付いて来る馬と犬を引っ外(ぱず)した。見物の中に拍手の声が起った。結局道化男は逃げ場を失った苦し紛れに裸馬に飛び乗った。馬は憤(おこ)って前に飛び横に跳ね、棹立ちになったり前膝を突いたりして、一生懸命に振り落そうと藻掻(もが)いたが、道化男はいつも千番に一番の兼ね合いで踏みこたえる。拍手の音が急霰(きゅうさん)のように場内一面に湧き起った。その響きの裡(うち)に道化男は、裸馬に乗ったまま犬に吠え立てられつつ楽屋の中に駈け込んで行った。
 ……三時二十分きっかり……。
 ……あと十分間……。
 ……私の胸の動悸が急に高まった。嬢次少年が云った最少限度の二十分よりも五分以上早く演技が終ったのだ。この次の「馬上の奇術」は演技者が居ないからやらない事は明白である。
 ……あとは順序通りに行けば、幕間(まくあい)二三分乃至四五分の後に始まるであろう、馬の舞踏会である。戦慄すべき馬の舞踏……。
 ……瞬間……おそるべき幻影がまざまざと私の眼の前に描き出された。
 ……場内に数十頭の裸馬が整列する……。
 ……その間に軽羅(うすもの)を纏うた数十名の美人が立ち交(こも)って、愉快な音楽に合わせて一斉に舞踏を初める……。
 ……けれどもそれは、まだ十分と経たない中(うち)に見る見る悽惨を極めた修羅場と化する……。
 ……数十頭の馬が突然棹立ちになって狂いはじめる……。
 ……噛み付く……。
 ……蹴飛ばす……。
 ……飛びかかる……。
 ……抱き倒す……。
 ……蹂(ふ)み躙(にじ)る……。
 ……数十名の美人は悲鳴を揚げて逃げ惑いつつ片端から狂馬の蹄鉄にかかって行く……肉が裂ける……骨が砕ける……血が飛沫(しぶ)く……咆哮……怒号……絶叫……苦悶……叫喚……大叫喚……。
 ……大虐殺の見世物……。
 ……活地獄(いきじごく)のオーケストラ……。
 ……私の罪……。
 ……肝魂(きもたま)が消え失せるとはこの時の私の事であったろう。頭の中がグワーンと鳴った。眼の前に灰色の靄(もや)がズ――ウと降りて来た。立ち上ろうとしたが膝が石のように固まって動かない。叫ぼうとしたが胸が鉄より重くなって呼吸(いき)が出来ない。やっとの思いで、わななく手を額に当てたが、その額は硝子(ガラス)のように冷たかった。
 忽ち粗(まば)らな拍手が起った。その音に連れて、眼の前の靄がズ――ウと開いた。楽屋の入口から燕尾服(えんびふく)を着た日本人と、水色の礼服を着たカルロ・ナイン嬢が静々と歩み出して来るのが見えた。
 私は長い、ふるえた溜息をホ――ッとした。同時に全身の緊張が弛んで、腋(わき)の下から滴(したた)る冷汗を押える事が出来た。
 ナイン嬢と燕尾服の男は広場の真中まで来ると並んで立ち止った。
 二人が見物に対して丁重な敬礼を終ると、ナイン嬢が流暢(りゅうちょう)な英語で左(さ)の意味の事を述べた。
「……満場の淑女……紳士方よ……。
 妾(わたし)は先ほど皆様にお目見得致しまして、拙(つたな)い技を御覧に入れました露西亜(ロシア)少女カルロ・ナインでございます。
 わたくしは今、バード・ストーン曲馬団の団員一同を代表致しまして、謹んで皆様にお詫び致さなければなりませぬ事が出来ましたのを深く深く遺憾に存じている者でございます。
 わたくしは包まず申上げます。
 この一座の花形として、皆様から一方(ひとかた)ならぬ御贔屓(ごひいき)を賜わっておりました、あの伊太利(イタリー)少年のジョージ・クレイはどうした訳か存じませぬが今朝(けさ)から行方がわからない事に相成りました」
 嬢がここで一寸息を切ると場内の処々(しょしょ)に軽い……けれども深い驚きの響きを籠めた囁きの声が、悲風のように起った……と思ううちに又ピタリと静まった。
「それで団員一同は八方に手を別けて探しているのでございますが、只今になりましてもやはり、その行方が判らないのでございます。……でございますから私共団員一同は、私共の不注意のために、折角皆様が楽しみにしておいでになりました、お眼当ての演技を、今日の番組から除かなければなりませぬのを深く深くお詫び申し上げなければなりませぬ。
 申すまでもなく警察方面にもお願いして、出来るだけの事を尽して探しているのでございますから近いうちに皆様の御満足になるような結果を得られます事と、わたくし共は固く信じております次第でございます。……それで誠に失礼な、又は身勝手千万な致し方とは存じますが、せめて今日の不都合のお詫びの印と致したい心から、この次に御買求めになります切符の半額券を、お帰りの節に入口の処で差上げる事に致しておりますから、何卒御遠慮なくお持ち下さるようにお願い致します。
 実は団長のバード・ストーンが自身に皆様にお詫びを致しまして、このような御挨拶を申上げなければ相済みませぬのでございますが、只今その事で、警察から横浜の方へ参っておりますから、不調法ではございますが、わたくしが代りまして、お詫びをさして頂く次第でございます。
 かような訳で、わたくしども団員一同は、ジョージ少年が帰って参りますまで、全力を挙げまして新番組を色々差し加えまして皆様の御機嫌を取り結ぶ覚悟でございますから、何卒(どうぞ)わたくし共一同の佯(いつわ)りのない赤心(まごころ)をお酌み取り下さいまして、この上とも末永く御贔屓を賜わりますように、団員一同を代表致しまして、わたくしから幾重にもお願い申上る次第でございます」
 それは僅か十五六の少女にしては立派過ぎた挨拶ぶりであった。多分ハドルスキーか何かが教えたものであろうが、それにしてもよくこれだけ整って記憶出来たものである。更にこれを述べた嬢の態度は、実に真情に満ち満ちていて、衷心から……相済みませぬ……という感情に充たされていたために、英語の解らぬ人々までも同情を惹いたらしくあとで傍に立っている燕尾服の男が通訳をすると、皆割れるような喝采をして嬢の謝意に対する好意を表した。
 けれどもその喝采の声は間もなくぴたりと止んだ。見物一同の眼はこの時、嬢と燕尾服の男を離れて、楽屋口から二人の人夫に運び出されて来る高さ二間幅一間ぐらいの大きな立看板に集まった。その表面には墨黒々と左(さ)のような文句が記されて、赤インキで二重圏点が附けてある。

 三万円の懸賞[#「三万円の懸賞」に二重丸傍点]

    ジョージ・クレイを見知り給う人々に急告す。
今後一週間以内にジョージ・クレイの居所を通知し賜わりたる方々には先着者に一千円を、その他の方々に五百円宛を贈呈す。又同少年を同伴し賜わりたる御方には現金三万円[#「現金三万円」に二重丸傍点]を贈呈す。尚、同少年を御見識りなき方々は表の絵看板を御覧ありたし。

     麹町区内幸町帝国ホテル内バード・ストーン曲馬団事務所
 見物一同は暫くの間鳴りを鎮めてこの立看板を見詰めていたが、やがて前とは違った深い驚きのどよめきが一隅から起って、忽ち見物席の全部に及んだ。
 三万円……高が一少年の行方を求むるために三万円の懸賞……あの少年が出場しないという事は、それ程にこの曲馬団に打撃を与えるのであろうか。一介の少年ジョージ・クレイの技術はそれ程に価値のあるものであろうか。そうして又、何という手早い、思いきった処置の取り方であろう。少年の失踪は今朝(けさ)の事ではないか……というような意味の驚きのどよめきでそれはあったろう。これは無理もない話で、事情を知っている私でさえもちょっと驚かされた位である。
 人夫は立看板を抱えたまま、見物の前二三間の処まで来て場内を一周した。最後にこの掲示が見物席の正面、楽屋の出入口に持って行って、あとから出来上ったらしい赤インキの滴(したた)り流れた英文の立看板と一緒に立てかけられると、いつの間にか楽屋に引込んでしまったカルロ・ナイン嬢のあとに、たった一人残っていた燕尾服の男は、一際声に力をこめて云った。
「只今御覧に入れました懸賞の広告は、既にその筋へお届けが済んでおりまして、明日(あす)の新聞紙にも掲載致す手筈に相成っておりますのを取り敢えず皆様に御報告申上げた次第でございます。内容は御覧になりまする通りで、別に御説明申上ぐる迄もございませぬから差し控えますが、これはお客様御一同に対しまする当曲馬団の責任と致しまして、一日も早く当曲馬団の花形と相成っておりますジョージ・クレイの演技を御覧に入れなければ相済まぬという考えから、かように取り計らいましたので、結局、当曲馬団が蒙りまする損害は一切勘定に入れず、唯、お客様御一同に対しまする当曲馬団の責任のみを重んじまして、かように決定致しました次第でございます。かような次第でございますから何卒お客様御一同に対しまする当曲馬団の誠意の程を御酌量賜わりまして、倍旧のお引立あらん事を伏してお願い申上ぐる次第でございます」
 陳(の)べ了(おわ)った燕尾服の男は恭(うやうや)しく一礼して見物席を見まわした。けれども一人として拍手する者がなかった。これは恐らく前のカルロ・ナイン嬢の言葉と比較して、この男の説明が余りに現金的で外国式なために、見物の同情を惹かなかったのであろう。全く別の見物人のように冷淡な、反響のない群衆と化してしまっていた。
 燕尾服は一寸張合抜けの体(てい)であったが、又勇を鼓して一歩踏み出して附け加えた。
「……ええ……なお一言申上げます。実は只今身支度のため楽屋へ引取りましたカルロ・ナイン嬢は、只今から演じまする馬の舞踏会には今日(こんにち)まで出演致した事は一度もないのでございますが、今日(こんにち)は特に、皆様へお詫びの心を現わしまするために、平生愛乗致しておりまするあの御承知の白馬『崑崙(こんろん)号』と共に参加致したいとの希望……」
 あとの言葉は耳が潰れたかと思われる拍手の音で聞えなくなってしまった。その中(うち)に燕尾服は腰を二重に折り曲げて最敬礼をした。
 ……三時二十八分……あと二分……。
 又一としきり大波のように拍手の音が渦巻き返った。
 同時に楽屋の入口に垂れ下っている緑色の揚げ幕の中から、嚠喨(りゅうりょう)たる音楽の音(ね)が、静かに……静かに流れ出して来た…………………………………。
 私の頭髪が一時に逆立った。全身の血が心臓を蹴って逆流した。思わず椅子から立ち上って絶叫した。
「待てッ…………」
 ……それからどうしたか記憶しない。気が付いた時にはもう広場の真中に駈け出していて、向うから走って来た最前の鬚武者(ひげむしゃ)の巨漢ハドルスキーに背後から羽がい締めにされていた。
「きちがいだきちがいだ」
「摘(つま)み出せ――ッ」
 なぞ云う声が八方から聞える。巡査と西洋人と人夫らしい男が二三名走って来るのが見える。
 けれども私はそんな者を相手にする隙(ひま)はなかった。それこそ本当の狂人(きちがい)のように身を藻掻きながら絶叫し続けた。
「……ここを放せ……放せ。危険だ。危険だ。次の番組をやってはいけない。馬の舞踏をやってはいかん。途中で馬が……馬が……ええっ。ここ放せ……ハドルスキー……放さぬか……ええッ……」
 私の声は徒(いたず)らに空(くう)を劈(つんざ)いた。場内は空しくワーワーと湧き立った。しかしハドルスキーは平気であった。足を宙に振り舞わして暴れる私を楽々と引っかかえて、一歩楽屋の入口の方へ歩み出した。その時に今まで静かであった音楽が、急に浮き浮きしたワンステップの愉快な調子に変った。これは演技が初まった事を知らせるので、この音楽に連れて楽屋の入口から、馬と美人が入れ違いに並んで、踊りながら出て来るのであろう。
 私は無言のまま、死力を尽して羽がい締めから脱け出そうとしたが無効であった。私の力量は庁内でも有名なもので、狭山は鉄の棒を曲げるとまで云われていた。鬼という綽名(あだな)も一つはそうした意味で附けられたのであるが、このハドルスキーの金剛力には遠く及ばなかった。彼は籐椅子(とういす)を一つ抱える位の力で私を締め上げている事が、明かに私の背中に感じられた。そうして自信のある柔道の手を施す術(すべ)もないうちに私の両肩は、巨大な噛締機(バイト)にかかったように痺(しび)れ上って、抵抗する力もなくなってしまったばかりでなく、肋骨がメリメリと音を立てて千切(ちぎ)れて行くような……今にも肺臓が引き裂かれて、呼吸(いき)が止まりそうな大苦痛を感じ初めたのであった。
 ……死ぬのだ……俺は殺されるのだ……楽屋に連れて行かれて……。
 ……そうした絶望的な予感が二三度頭の中に閃めいて、私の抵抗力を無理に振い起させた。私はただ力なく藻掻きまわった。
 ……突然……大砲を連発するような響きが楽屋の方に起った。それと一緒に狂わしい馬の嘶(いなな)きと、助けを呼ぶ外国人の声とが乱れて聞えた。馬が狂い出して厩の羽目板を蹴っているのだ。
 その音を聞くと私は気の抜けた風船玉のようにぐったりとなった。
 けれども騒ぎの方は次第に烈しくなった。とうとう三十頭の馬が皆騒ぎ出したらしく、どかんどかんばりばりと板を蹴破る音、嘶く声、急を呼ぶ人々の叫びが暴風のように、又は戦争のように場内に響き渡った。その中から髪を振り乱した素跣足(はだし)の女が十人ばかり、肉襦袢ばかりの、だらしない姿のまま悲鳴をあげて場内へ逃げ込んで来た。
 これを見たハドルスキーは私を抱えたまま立ち止まって二三秒の間じっと考えているらしかったが急に私を放して巡査と人足に渡して、巧みな日本語で、
「此奴(こいつ)を逃がさないようにして下さい。罪人ですから……」
 と云い捨てたまま、他の西洋人と一緒に楽屋の方に走って行った。
 私は四人の巡査と人足にしっかりと手足を押えられたまま、気抜けしたようになって立っていたが忽ち巡査を振り放した。組み付いて来る人足を跳ね飛ばし投げ付けて、落ちた帽子を拾うが否や、ハドルスキーの後を逐うて行った。私を欺いた憎むべき悪少年、呉井嬢次を捕えるためである。
 見物は総立ちになった。吾も吾もと仕切りの柵を越えて、演技場の中に走り込んで、一時に楽屋の入口の方へ殺到した。いつ這入って来たものか四五名の巡査が手を挙げて制しているが、野次馬は益々殖えるばかり……楽屋の入口は見る間に人足と巡査と見物の群で、押すな押すなの大雑沓を極めた。
 しかし私はそんな騒ぎを後にして一直線に楽屋の中を眼がけて突進した。そうして巡査と押し合う人間の袂(たもと)の下をかいくぐって、躓(つまず)きたおれんばかりに楽屋の奥へ転がり込むと、楽屋の連中は皆、外へ逃げ出すか、馬の処へ駈け付けるかしているために、どの室(へや)も森閑と静まり返っている。
 荷物部屋らしい室(へや)の前に来ると、ここばかりは他の室(へや)と違って、壁が亜鉛(トタン)張りになっていて、やはり亜鉛(トタン)張りの頑丈な扉(ドア)が付いている。その扉(ドア)を開くと苦もなく開(あ)いたが、中に這入って扉(ドア)を締めると真暗になる。懐中電燈を点(とも)してみると嬢次少年が云った通り、向うの隅に真鍮(しんちゅう)張りの大トランクがあって表に白い文字でGEORGE・CRAYと書いてあるが、その鍵の処には、白い小さい紙布(かみきれ)が挟んであるようである。近付いてよく見ると、それは嬢次少年自身の名刺で、その裏面には鉛筆で羅馬(ローマ)綴りの走り書きにしてある。
「この中の黒い鞄は頂戴致しました。御心配かけました」

 …………………………………………………………………私はどこをどう歩いて来たのか丸で記憶しない。いつこのカフェー・ユートピアの二階へ上り込んだのか……どうして今、眼の前に並んでいる四種の料理……「豆スープ」と「黒麺麭(パン)」と「ハムエッグス」と「珈琲(コーヒー)」を誂(あつら)えたのか……一つも頭の中に残っていなかった。
 窓の外を覗くと、往来には夕暗(ゆうやみ)の色が仄(ほの)かに漂い初(そ)めている。向家(むかい)の瓦屋根の上を行く茶色の雲に反映する光りを見ると、太陽は殆んど地平線下に沈みかけているようである。頭の上の右手には花電燈がほっかりと点(つ)いていて、周囲には大勢の客が笑いさざめいている。中には曲馬団の帰りらしい学生の一組も居て、頻(しき)りに高声で話をしている。
「……面白かったな」
「うん。あのキチガイみたいなハイカラ紳士と、ハドルスキーの活劇が素敵だった。もう五十銭出してもいい……明日(あす)も遣るんなら……」
「一円呉れりゃあ俺が遣ってやらあ……」
「遣るよ一円ぐらい……」
「ダメよ。見物がみんな呉れなくちゃア……」
「チエ……慾張ってやがら……」
「何だろうな。あの紳士は一体……」
「キチガイだよ毛唐の……英語で何だか呶鳴(どな)ってたじゃねえか」
「最初は日本語だったぜ。待てッ……とか何とか……」
「……ウン……しかし何だってあんなに呶鳴り出したんだろう。だし抜けに……」
「ジョージ・クレイの居所を知っていたんじゃねえかナ」
「……どうしてわかる……」
「そいつが三万円の懸賞を見て気が変になったんじゃねえかと思うんだが……ハハン……」
「そうかも知れねえ。だから馬が共鳴して暴れ出したんだろう……馬い話だってんで……」
「アハハハ……違(ちげ)えねえ」
「ワハハハハハハ……」
「しかし三万円は大きいじゃねえか。たった一人の小僧っ子に……」
「なあに……あれあ広告よ。毛唐はよくあんな事をして人気を呼ぶそうだから……事によると両方狎(な)れ合いでやっているのかも知れねえぜ」
「キチガイ紳士も馴れ合いか」
「序(ついで)に馬も馴れ合いにしちまえ」
「しかし三万円てえと一寸(ちょっと)使えるな。誰か希望者は居ないか」
「カルロ・ナイン嬢なら只でも探しに行かあ」
「初めやがった好色漢(すけべえ)野郎!」
「いや真剣に……」
「なお悪いや」
「一体ジョージの野郎は何だって曲馬団を飛び出したんだろう」
「さあ……そいつはわからねえ」
「なあに。ちゃんと判っている。給金の事で団長と喧嘩(けんか)したんだ」
「イヨ。名探偵。どうして判った」
「芸当がジョージになったからもっと給金をクレイって云ったんだ」
「アハハハハ初まった初まった」
「ふざけるな」
「いやまったく。それで団長が憤(おこ)ったんだ。そんな金はカルロ・ナインだと」
「そこで談判がバードしたんだろう」
「ストーンと御免蒙ったってね」
「止(よ)せ止せ」
 一同は哄(どっ)と噴き出した。
 私は両手をポケットに突込んだ。双眼鏡と懐中電燈がある。それから金容(かねいれ)も……ピストルも……万年筆も……時計も……今四時四分を示している。ただ鼈甲縁(べっこうぶち)の眼鏡と、紫檀(したん)のステッキがない。そうして身体(からだ)を動かす拍子に両肩と首すじがピリピリと痛むのに気が付いた。大方ハドルスキーに抱きすくめられた時に暴れて磨(す)り剥(む)いたのであろう。
 私はあれから約三十分ばかりの間、どこで何をしていたか。
 私は眼を閉じてじっと記憶を辿ってみた。
 私の記憶の中から高い赤煉瓦(れんが)の建物の二階に並んだ窓の二つが、ぎらぎらと夕陽に輝いて現れて来るようである。それから夥(おびただ)しく並んだ自動車の間を抜けて来るうちにT3588と番号を打った自動車を発見してはっとした記憶が浮み出て来るようである。それから長い長い砂利道を色々な人間とすれ違いながら歩いて来るうちに、どこか遠くでポンポンポンと撃ち出す試験射撃みたような銃声を聞いたようにも思う。頭の上を轟々(ごうごう)と音を立てて高架線の列車が走ったり、電車とすれすれに道を横切って誰かに叱られたようにも記憶するが、しかしそれが果して今日のことか、それともずっと以前の記憶の再現か、その辺がどうもハッキリしないようである。
 それから枯れ柳の並木の間に、青黒い瓦斯(ガス)灯のポールが並んだ狭い街に這入った。それから入口に赤い煉瓦を敷いた家……ここだ……ここに這入ったのだ。して見ると私は曲馬場の前に出て、鍛冶(かじ)橋を渡って、電車通りから弥左衛門町に這入ってここへ来たものらしい。とにかくあの曲馬場の楽屋で嬢次少年が書いた文句、
「この中の黒い鞄は頂戴致しました。御心配かけました」
 というのを読んでから今までの間の私の頭の中はオムレツにされかけた卵のように混乱していた。嬢次少年に欺かれ、弄(もてあそ)ばれたという憤怒の焔(ほのお)に熱し切っていた。そうしてその中に、今日の出来事の原因結果を整理しようと焦躁(あせ)っていた。
 ……何のために私をあれ程に欺いたのか。……何故に十四五分で済む演技を二十分以上もかかると嘘を吐(つ)いたか。何故に私を死ぬ程心配させたか……と考えては考え、考えつくしては又考え直した。けれどもそれはただ私の頭を混乱させるばかりで、何等の判断力も決定力も与えなかった。
 ……否……たった一つ……私がハドルスキーに抱きすくめられて藻掻(もが)いているうちに……まだ多少の推理力が頭の片隅に残っているうちにてっきりそれに違いないと思い込んだ事がある。そう気がつくと同時に一層猛烈に藻掻きまわって、嬢次少年を一刻も早く引っ捕えるべく、焦躁(あせ)りまわらずにはいられなくなった事がある。
 それは他でもない。嬢次少年の「復讐」という事であった。嬢次少年はその両親の讐敵(かたき)を取るべく私を手先に使って、曲馬団に致命的の打撃を与えているのだ……という私の直覚? であった。
 私はこうした事実を頭の片隅で推理すると同時に、ほんとうにキチガイになりかねないくらい恐怖戦慄したのであった。絶叫し狂乱したのであった。……如何にJ・I・Cが日本民族の敵とはいえ、如何に曲馬団が兇悪無残の無頼漢の集まりとはいえ、又、バード・ストーン団長が如何に両親の仇(かたき)とはいえ、これに致命的の打撃を与える手段として、何の罪も報いもない数十名の美人を狂馬の蹄鉄にかけて蹴殺させるというような極悪残忍な所業(しわざ)が、果して人間の……しかも一少年の頭から割り出され得ることであろうか。東洋文化の真只中、大東京の中心地として、馬場先の聖域と東京駅と、警視庁とを鼻の先に控えた晴れの場所で、ついこの間まで現役の探偵として多少共に人に知られた私をタマに遣(つか)って実行された事であろうか……というような疑問と驚愕とを一時に頭の中に閃めかせつつも、死に物狂いに虚空を掴んだのであった。
 しかし、その騒動が事なく済んだ事がわかると、私はぐったりと喪神状態に陥りながらも、その一瞬間に私のそうした推理に幾多の矛盾がある事に気付いたのであった。……親のために泣くような純な心を持った少年が、こんな残忍冷血な計画を思い付く筈はない……「正義」というものに対してあれ程敏感な人間が、これ程の卑怯無道な手段を択(えら)む筈はない……というような色々な反証を思い浮めると同時に、ただ、何かなしに欺された、飜弄された……という極めて低級な憤怒に駆られたのであったが、その憤怒も亦(また)、少年が書き残した「御心配かけました」の一句でパンクさせられてしまうと、とどの結局(つまり)、私は何が何やらわからない五里霧中の空間に投げ出されてしまったのであった。そうして何が何やらわからないままここまで来てしまったのであった。
 私はこれ程非道(ひど)い手違いをして、これ程痛烈な心配をして、これ程無茶な眼に合わされて、これ程にベラボーな大きな恥をかかされた事は今まで嘗て一度もなかった。そうしてもし本当に私を、これ程の眼に合わせ得る者があるとすれば、今のところあの少年嬢次よりほかにない筈である。これだけはどっちから見ても疑いない事実である。
 ……宜(よ)し……俺は嬢次少年を見事に取って押えてくれよう。そうして事実、俺を愚弄したものであるかどうかを白状さしてくれよう。
 やっとそれだけの決心をすると、やがて眼の前のスープの皿が眼に付いた。これは私が無我夢中の中(うち)に註文したものらしいが、果してその通りかどうかを考える前に……私は何もかもなく冷たくなったスープ皿を引き寄せて音を立てて貪(むさぼ)り吸うた。それと一緒に俄(にわ)かに空腹を感じて来たので、そこにあった黒麺麭(パン)を左手に掴み、右手で肉叉(フォーク)を使ってハムエッグスを掬(すく)いながら、野獣のように噛じり、頬張り、且つ呑み込んだ。そうして最後に角砂糖をガリガリと噛み砕きながら、冷え切った珈琲(コーヒー)をガブガブと呑み干してしまった。するとそれは普通(ただ)の珈琲でなくてウイスキーを割ったものであることが、飲んだ後から解ったので、酒に弱い私は慌てて水瓶を持って来させて、コップで二三杯立て続けに飲んでアルコール分を弱めようとしたがもう遅かった。最前からの疲れと、アルコールの利き目とが一緒にあらわれたものであろう。爪楊枝(つまようじ)を使う間もなく崩れ落ちるように睡くなった。全身の筋肉が綿のようにほごれて、骨の継ぎ目継ぎ目がぐらりぐらりと弛んで……足の裏が腫れぼったく熱くなって……頭の中が空っぽになって……その身体(からだ)をぐったりと椅子に寄せかけて……眼を閉じて……全身の疲れが快よく溶けて……流れて……恍惚となって……………………………………………………………………………………。
 ……そのうちにどこかの階段を慌しく駈け上って来る靴の音を、夢うつつのように聞いていた。
「大変だ大変だ」
「何だ何だ」
「火事か……喧嘩か……」
「戦争だ戦争だ。今撃ち合っているんだ。早く来い早く……」
「馬鹿にするな」
「いや本当だ。早く早く……」
「どこだどこだ」
「帝国ホテルだ……」
「嘘を吐(つ)け……担(かつ)ぐんだろう」
 そんな夢のような会話と、階段を降りて行くオドロオドロしい五六人の足音を、やはり遠い世界の出来事のように聞いていた。そうして、その会話の通りの戦争を夢とも空想とも附かぬ世界にうつらうつらと描いていた。
 カーキ色の城砦のような帝国ホテルの上空に、同じ色の山のような層雲がユラユラと流れかかって来る……その中から一台の、矢張りカーキ色をした米国の飛行船が現われて帝国ホテルの上空をグルグルと旋回し初める……帝国ホテルの屋上には何千何百ともわからぬ全裸体の美人の群れがブロンドの髪を振り乱して立ち並んで、手に手に銀色のピストルを差し上げながらポンポンポンポンと飛行船を目がけて撃ち放す……飛行船はタラタラと爆弾を落すと、見事に帝国ホテルに命中して、一斉に黄金色の火と煙を噴き上げる……美人の手足や、首や胴体がバラバラになって、木の葉のように虚空に散乱する。……帝国ホテルが真赤な血の色に染まって行く……飛行船も大火焔を噴き出して独楽(こま)のようにキリキリと廻転し初める……それを日比谷の大通りから米国の軍楽隊が囃(はや)し立てる……数万の見物が豆を焙(い)るように拍手喝采する……それを警視の正装した私が馬に乗って見廻りながら、これは困った事になって来た。どうしたらいいだろう。米国公使館に電話をかけてやろうか。どうしようか。……それともこれは見世物じゃないか知らん。それとも何かの広告かしら……なぞと色々心配しているうちにとうとうほんとうに眠ってしまったらしい……。
 ……それはおよそ二時間足らずの睡眠であったらしい。けれども疲れた頭と身体(からだ)を休めて、新しい元気を回復するには十分であった。そのうちにふっと気が付いてみると眼の前に十二三の見習いらしいボーイが立っている。そうして肩を怒らしながら紫色のハンカチで包んだ四角いハガキ大のものを私の鼻の先に突き付けている。
 私は無言のまま何気なくその包みを受取った。結び目を解いて中味を検(あらた)めて見ると、何でもない古新聞紙で、ただ紫のハンカチを包みらしく見せかけるために包んだもののように見えた。
 私はそう気付くと同時にハッとした。そうして眼の前に空しく並んだ四つの皿をジイーと睨み付けた。
 その時にボーイは横柄(おうへい)な態度で云った。
「さっき表を通った方(かた)が、貴方(あなた)に渡してくれと云ったんです。……ですけど、ちょうどお寝(やす)みでしたから待っていたんです」
 その言葉が終るか終らないかに私は椅子を蹴って立ち上った。ボーイはその剣幕に驚いて一寸後退(あとじさ)りをしたが、魘(おび)えた眼付きをして私を見上げた。
「それはいつ頃だ」
「一時間……二時間ぐらい前です」
「どんな人間だ……」
「……よく……わかりません。俥(くるま)の幌の中から差し出したんですから……けれども何でも若い女の方のようでした」
「何と云った」
「エ……?」
「そいつが何と云った」
「二階の窓のすぐ側の西側の隅っ子の卓子(テーブル)に灰色の外套を着て、腰をかけて居眠りをしている紳士の方に差上げてくれと……」
「それだけか」
「ハイ……」
 私は窓の外を見た。私の姿は窓の外から見えないようになっている。
「俥の番号は記憶(おぼ)えているか」
「よくわかりませんでした」
「どっちへ行った」
「新橋の方へ……」
 私は紫のハンカチを新聞紙と一緒に内ポケットへ突込んで、机の上に五十銭玉を五つ投げ出した。
「お釣銭(つり)はお前に遣る」
 と云ううちに帽子を掴んで表に飛び出しかけたが又立ち止まってボーイを振り返った。
「俺が今喰った……その四皿の料理はスープとハムエッグスと黒麺麭(パン)と珈琲(コーヒー)だったナ……ウイスキー入りの……」
「ハイ……貴方が御註文なすったんです」
 ボーイは叱られるのを待っているような顔をした。
「よし。この家(うち)には電話があるか」
「御座います」
「数寄屋橋タキシーに電話をかけて早いのを一台大至急でここへ……」
「タキシーなら一軒隣りに二台あります」
 私はその声を半分階段の途中で聞きながら表へ飛び出した。ボーイが指した方向の一軒隣りに駈け付けて、たった今帰って来たばかりの新フォードに飛び乗ると、ニキビだらけの運転手に五円札を二枚握らした。
「新宿駅まで……全速力だぞ……車内照明(ルーム)を点(つ)けないで……」
 運転手は札(さつ)を握ったまま恨めしそうに振り返った。
「この頃はルーム点けないと八釜(やかま)しいんです。直ぐに赤自動自転車(アカバイ)が追っかけて来るんです」
「構わない……俺は警視庁と心安いんだ……」

 話が又、少々傍道(わきみち)へ這入るようであるが、しかしここでちょっと脱線を許してもらわないと、話の筋道が無意味になりそうだから止むを得ない。
 あれ程、昏迷に昏迷を重ねて来た私が、何故にこのような猛然たる活躍を初めたか。もっと具体的に云えば、前記の通り取り付く島もないほどへたばり込んで、涙も出ないほど叩き付けられていた私が、たった今、カフェー・ユートピアで紫のハンカチを受け取って、自分が註文して喰ってしまった四皿の料理の名前をもう一度確かめると同時に、何に驚いてタクシーに飛び乗って、全速力の一直線で、狂人(きちがい)のように新宿めがけて飛び出したか……という理由を説明するには、是非とも私の体験と観察から生れた「第六感論」なるものを少々ばかり御披露させてもらわねばならぬ。そうして兎(と)にも角(かく)にも世間の所謂(いわゆる)「第六感」なるものが決して非科学的な、もしくは荒唐無稽なものでない。寧ろ恐ろしく科学的な、非常に深刻偉大な実在現象である事を、幾分なりとも認めてもらわなければ、かんじんのところで話の眼鼻がつかなくなると思うからである。
 読者も御承知の事と思うが、すべて新聞記者とか、刑事とかいうものは多少に拘らず第六感というものが発達しているものである。私は近い中(うち)にこの第六感が活躍する実例を種類別にして、纏めて、「第六感」と題する書物にして出版するつもりだから、苟(いやし)くも探偵事件に興味を持つ人々は、是非とも一読せられたい……いや……これは広告になって申訳ないが、ここにはその内容の大要だけを述べさしてもらう事にする。
 ところで冒頭に断っておくがこの第六感というものは、千里眼、又は催眠術なぞという迷信的なものとは全然別物なので、あんなあやふやな奇蹟的なものではない。儼然(げんぜん)たる科学の範囲に属する感覚である事である。
 すなわち普通の人が知っている眼、耳、鼻、口等の五官の作用以外に存在する凡(すべ)ての直覚力を仮りに「第六感」と名付けたもので、手近く人間の第六感で例を引けば、或る人間が或る一瞬間に、理窟も何も考えないで、ただ「これはこうだナ」とか「それはそうだナ」とか感じた事が百発百中図星(ずぼし)に的中(あた)っている事で、新聞記者が朝眼を覚ますと同時に「今日は何か事件の起りそうな日だな」と思ったり、又は刑事巡査が犯罪の現場に来ると直ぐに「犯人はまだ近くに居るな」と感じたりするのが、まるで偶然のように事実と符合して行くのは皆、この第六感の作用に他ならないのである。その他、博奕打(ばくちうち)が相手の懐合(ふところあ)いを勘定したり、掏摸(すり)やインチキ師が「感付かれたな」と感付いたり、馬道(うまみち)あたりの俥屋が、普通の客としか見えない男を捕えて「吉原(なか)まで如何(いかが)です」と図星を指したりするのも皆この「第六感」の一種に数えられるのである。
 しかも、私の考えに依ると、斯(か)ような第六感の作用は人間ばかりに限ったものでない。広く動植物界を見渡してみると誠に思い半ばに過ぐるものがある……否……人間世界に現われる第六感の実例よりもずっと甚しい、深刻な現象を到る処に発見する事が出来るので一々数えてはおられない位である。早い話が地平線下に居る獅子を発見して駱駝(らくだ)が慄(ふる)え出したり、山の向うに鷹が来ているのを七面鳥が感付いて騒ぎ立てたりする。蛭(ひる)が数時間後の暴風を予知して水底に沈み、蜘蛛(くも)が巣を張って明日(あす)の好天気を知らせ、象が月の色を見て狼群(ろうぐん)の大襲来を察し、星を仰いだ獺(かわうそ)が上流から来る大洪水を恐れて丘に登る。そのほか、犬、猫、伝書鳩が故郷に帰る能力なぞ、五官の活用ばかりでは絶対に説明出来ない事である。しかもこれがもっと下等な生物になるともっと明瞭に現われて来るので、朝顔の蔓(つる)が眼も何もないのに竹の棒を探り当て、銀杏(いちょう)の根が密封した死人の甕(かめ)を取り囲む。又は林の木の枝がお互同志に一本でも附着(くっつ)き合ったり、押し合ったりしているものはなく、皆お互に相談をして譲り合ったかのように、程よく隔たりを置いているのも、この考えから見れば何の不思議もないので、換言すれば下等な生物になればなる程……耳や鼻や口がなくなって、五官の活用がなくなればなくなる程……第六感ばかりで生活している事になる訳である。
 だから人間の中でも文化程度の低いものほど「第六感」が発達している理由がよくわかって来る。野蛮人は磁石なしに方角を知り、バロメーターなしに悪天候を前知する。又は敵の逃げた方向を察し獲物の潜伏所を直覚するなぞ、その第六感の活用は驚くべきものがある。これは我々文明人が、あまりに眼とか耳とかいう五官の活用に信頼し過ぎたり、理詰めの器械を迷信し過ぎたりするために、この非常に貴い、この上もなく明白な「天賦の能力」を忘れているからで、一つは近頃の世の中が、あまりに科学や常識を尚(たっと)ぶために、人間の頭が悪く理窟で固まってしまって「神秘」とか「不思議」とか「超自然」とかいう理窟に当て箝(は)まらない事を片端(かたはし)から軽蔑して罵倒してしまうのを、文明人の名誉か何ぞのように心得ているために、このような大きな自然界の事実を見落しているものと思う。
 その証拠にはこの問題を普通の人に持ちかけると皆、符節を合わせたように同じ返事をする。
「それは特に貴下のような特別の職業に従事している人に限って発達している一種の能力で、我々は及びもつかぬ事でしょう」
 と云う。そこで私が追(お)っ蒐(か)けて、
「いやそうでないのです。凡ての生命(いのち)あるものは皆、この能力を持っているものです。私共にだけあって貴方(あなた)がたにないという理窟はありませぬ。この宇宙間には眼で見え、耳で聞え、鼻に匂い、舌で味(あじわ)われ、手で触れられるもの以外に、まだまだ沢山の感じられ得るものがあるのです。下等な動物は五官の作用を持たないままに、そんなものを直覚して生活しているのです。それがだんだん高等な動物になって、手が生え、舌が出来、眼が開(あ)き、耳が備わって来るにつれて、そんな五官の作用ばかりをたよりにするようになって、ほかの直覚作用を信じなくなって来るために、そんな作用がだんだん退化して来るのです。殊に文明人となると、五官の働きを基礎とした学問や常識ばかりをたよりにして電信電話以外に遠方の事はわからない。X光線以外に物は透かして見えない。指紋足跡の鑑識と、三段論法式の推理と、三等訊問法以外に犯罪の探偵方法はない……と固く信じているために、これ程に明白な第六感の存在を首肯する事が出来ないのです」
 と説明しても、
「へえ。そうですかね。どうも貴方の議論は高尚過ぎて、われわれには解りかねます」
 とか何とか云って逃げてしまう。そうして大神宮のお札(ふだ)売りか、大道易者にでも捕まったように、表面(うわべ)では尊敬して、内心では大いに軽蔑した表情をする。しかもその心の底では「どうもそんな事がありそうだ。時々そんな気がする事がある。或(あるい)は事実かも知れぬ」と感じながらも、それを押し隠そうと努力している。その証拠には、隠しても隠し切れぬ苦笑いがその表情の中に浮き出して来る。これはその人の心の底に隠れている第六感と、常識とが互に相争っているからで、この傾向は相手に地位があればある程、又は教育があればあるだけそれだけ甚しい。こうして現代の唯物科学的文明は、この大問題を見向きもしないで振り棄てて行くので、私はこれを人類文明の大損害と思っている。
 ところでここでもう一つ傍道(わきみち)に這入って説明しておかなければならぬ事は、人間が「第六感」を感ずる場合に三種類ある事である。
 元来この第六感というものは、今まで説明したところでもあらかた察しられる通り、人間が普通の常識とか、妄想とか、空想とか、又は智慧分別とかいう雑念の一切合財から綺麗に離れた、純真純一な空(から)っぽの頭になった時に感ずるもので、その第一例としては、和漢の高僧、名知識と呼ばれる人々が、遠方の出来事を直感したり、将来の一大事変を予知した話が、屡々(しばしば)世に伝えられている実例がある。しかし、これは余程修養の積んだ、悟りの開けた人間に限った話で、吾々のような俗物が、いつもかもそんな澄み切った、超人的な気持ちで澄まし込んで、無線電信のアンテナ見たいに、ふんだんに第六感ばかりを感じている訳には行かない。だから、これは第一種の特別の部類として敬遠しておく事にするが、しかしながら、かような第六感を感じ得るのは何もそんな名僧知識に限ったものではないのである。吾々のようなありふれた俗物でも、時々、名僧知識と同様の何の気もない無心状態になって「第六感」を受けている場合は屡々あり得るので、その場合を私は又、仮りに二種類に分けて考えているのである。
 その第一種は昔から俗に云う「虫の知らせ」という奴で、細かく分けると「鴉(からす)鳴きが悪い」とか、「下駄の鼻緒が切れた」とか「鼬(いたち)が道を切った」とか、又は「夢見が悪い」とか「鳥影がさした」とかいうあれである。これはその人間の第六感が或る事を感じていながら、まだ意識のうちに現われて来なかったのが、そんな出来事に出会った拍子にひょいと現われて、何かの異変を知らせているので、決して迷信とか旧弊といって排斥すべきものではないのである。
 譬(たと)えば鴉がいつもと違った陰気な低い声で「カアア……」と啼(な)く。おやと思ってその方を見る。その瞬間、その人の頭の中にあるいろいろのあり触れた妄念が綺麗に消え失せて、只ぽかんとした空(から)っぽの頭になる。そこに「第六感」がアリアリと浮かみ現われて、その日のうちに起りかけている悪い出来事を感じている。
 鼬がすらりと道を横切る。……アレ……と思ってその影を見送るはずみに、今まで考えて来た事をふッと忘れる。あとには「第六感」だけが残って、行く手の災難を予覚している。
 誰でも下駄の鼻緒が切れるとハッと思う。何も考えずにジッと見詰める。その心の空虚に「第六感」が閃めきあらわれて、誰かの大病を感付いている。
 夢を見て覚めた瞬間はどんな英雄豪傑でもぽかんとしている。その時に第六感が働く。夢が悪いのではない。その夢を見て覚めた瞬間に第六感が凶事を感ずるから、今見た夢が何かしら悪いしらせのように感じられるので、そんなのが後(のち)に正夢となって思い合わされるのである。
 前に挙げた数例でも同様で、別に鴉や、鼻緒や、鼬が凶事を知らせている訳ではない。その瞬間に受けた「第六感」の感じがよくなかったのを錯覚して、鴉や、鼻緒や、鼬が気を悪くさせたかのように人に話す……そうすると、そんな感じを経験した人が案外多いために、吾れも吾れもと共鳴してこんな迷信を云い伝えるようになったもので、そんな事を云い出すのが、頭の単純な昔の人間や、田舎者であるのを見ても、こうした俗説の起りが「第六感」の作用から起っている事がわかる。
 尚、こうした第六感の錯覚作用は次の例を見れば一層よく解る。
 よく……鳥影がさした。今日はお客があるだろう……なぞいう事があるが、これは普通女に限って云う事で男は滅多にこんな言葉を口にしないようである。しかも女がこんな事を云い出す時は、大抵日当りのいい障子(しょうじ)の側で、静かに縫い物か何かしている時で、ばたばたと忙(せわ)しく働いている時は余り云わぬ。ところで誰でも知っている通り女が縫い物をする時は、眼を絶え間なく小さな針の先に注いでいるために、気持ちが平生(ふだん)よりもずっと澄み切っていて、只いろいろと取り止めもない夢のような事を考えている。つまり女の頭の中には、平生(いつも)の常識的な、理窟ばった考えは微塵(みじん)もなくなって、人間世界を遠く離れたうっとりした気持ちになっている。こんな時が第六感の最も鋭く働く時で、女はその澄み切ったあたまの中に、いつとなく一人の客人が遠くから、自分の家(うち)に向って動いて来るのを感じている。しかしそれは先から先へとめぐって行くシャボン玉より軽い、夢より淡(うす)い空想の蔭になって動いているので、女にはまだハッキリと意識されていない。……そこへぱっと黒い影が障子を横切る。女ははっと思う。夢のシャボン玉がふっと消える。その下から客人が来る……という第六感がまざまざと現われる。そこで女は思わず云う……
「あれ鳥影がさした。誰か来るような気がする」
 と……。けれども女は「第六感」というものが人間にある事を知らないから、すぐに平生(いつも)の常識に立ち帰って、
「……けども家(うち)の人が今ごろ自宅(うち)に居ないのは誰でも知っている筈だ。あんまり当てにはならない」
 なんかと思い消してしまう。しかし女の第六感は承知しない。矢張り何だか気になるから縫物(しごと)を止(よ)して、それとなく茶器なぞを拭いていると、思いもかけぬ人が表口から、
「御免下さい。御無沙汰しました」
 と這入って来る。
「まあ。矢っ張り本当だったわよ」
 と女は思う。
 然(しか)らば吾々の持っている職業的な第六感の動き方はどうかというと、これとは全く正反対である。神経を磨(みが)き澄まし、精神を張り切って、眼にも見えず、耳にも聞えない或る事を考え詰めている時に電光のように閃めき出すもので、その鋭くて、早くて、確かな事はとても無線電波なぞの及ぶものでない。吾ながら驚く程沢山の事実をほんの一瞬間に感じさせたり、又は遠方で起った仕事の手違いを的確に予知させたりするものである。私はずっと前からこの種の第六感の存在を固く信じているもので、これによって重大な事件を解決した例は一つや二つでない。勿論科学的な研究や観察を基礎とした推理なぞを決して軽く見ている訳ではないが、場合によってはそんなものが全く役に立たなくなって、いくら研究して、推理して見ても、考えは唯同じ処をぐるぐる廻るばかりのみじめな状態に陥る事がある。
 大抵の人間はそんな時にすっかり失望して終(しま)って、とても駄目だと諦めて終(しま)うようであるが、私は決してそれを諦めない。なおの事一心不乱になって考え続けて行く。そうすると全身の神経の作用が次第に求心的に凝(こ)り集まって、あるかないかわからない無色透明の結晶体みたようになってしまう。その時に第六感が煌々(こうこう)と、サーチライトを見るように輝き出して、事件の焦点を照し出したり、行くべき方向を示したりするから、それに依って猶予なく敏速な活動を開始する事が出来る。但し、そんな場合に何故そんな風に私が動き出して行くのかという理由は、説明しようとしても説明出来ないのだから、私は難事件になればなる程たった一人で仕事をする事になる訳である。しかもそんな場合に傍(はた)から見ていると、私の行動はまるで狂人(きちがい)のように感じられるそうであるが、その結果を見ると又、奇蹟としか思わない事が多いそうである。これは普通人ばかりでなく私と同じ仕事をしている連中でもそう感じるそうで、現にこの間私を免職した高星総監なぞも、
「君はまるで魔法使いのようだ。事件と何の関係もない事実を見付けては寄せ集めて、その中に事件の核心を発見する」
 と云って舌を捲いた位である。しかし事実は不思議でも何でもない。普通人が常識の範囲内でだけしか仕事が出来ないのを私は「第六感」の範囲まで神経を高潮させて仕事をするからで、現在たった今私がカフェー・ユートピアを飛び出すと一直線に「新宿へ」と命じたのもその最適当した一例であろうと思う。
 この時の私はただ「第六感」ばかりに支配されていた私であった。
 初めカフェー・ユートピアでボーイが私に紫の包みを渡すべく差出した時に、私は殆んど睡りから覚めかけていた。そうして、いつの間にか不思議にがら空(あ)きになっているカフェーの片隅に、たった一人で静かに眼を閉じていると、疲れが休まった身体(からだ)の中にずんずん血がめぐって行く快よさと、頭の中の神経細胞がちゃんと秩序を回復していて気を付けの号令をかけられた軍隊のように整然としている気持ちよさとを、心ゆくまで感じていた。その時に誰か私の前に近づいて来るように思ったから、何気なく眼を開(あ)いて見ると、それは一人のボーイであった。
 ところでそのボーイが差出した紫色の包みを受取って、中味を検(あらた)めようとした時に、その包んだ風呂敷が、紫色の絹ハンカチである事に気付くと同時に、私ははっとさせられた。そうして今日じゅうの出来事……否、二年前の東京駅ホテル殺人事件以来の出来事の裏面に潜む、想像を超越した奇怪な出来事が、一時に解決されかかったように思いつつ、眼の前に並んだ四枚の皿を見まわした。
 それから私は立ち上って出て行きがけに、念のため私が自分で註文した食事が、黒麺麭(パン)とスープとハムエッグスと、ウイスキーを入れた珈琲(コーヒー)の四皿に相違なかったかどうかをボーイに問い確かめてみると、ボーイはその通りですとハッキリ答えた。その時に私は一切の秘密を明かにする裏面の真相が電光のように私の頭に閃めき込むのを感じたのであった。
 私の第六感の作用のすばらしさをハッキリと感じたのであった。
 読者は記憶しておられるであろう。
 去る大正七年十月十四日の朝、東京駅ホテル第十四号室で起った岩形圭吾氏こと、志村浩太郎氏の変死事件を探るために、私はその朝の午前十一時頃カフェー・ユートピアへ来た。そこで一冊の聖書を見付けて、その聖書によって志村氏と、その妻のぶ子がJ・I・Cに関係している事実を発見したことを……。
 ……ところでその時に私が坐っていた卓子(テーブル)は、確かに最前坐っていたのと同じ卓子(テーブル)の同じ椅子で、しかも、その卓子(テーブル)が又その前夜、志村夫婦が差し向いに坐っていたその卓子(テーブル)ではなかったか。……のみならずその卓子(テーブル)に腰をかけていた志村浩太郎氏が、その妻ののぶ子から紫のハンカチを受け取る直前に、その卓子(テーブル)の上に並べていた四皿の料理は、今夜疑問の女から紫のハンカチを受け取る前に並べていた四皿の料理と、そっくりそのままの……黒麺麭と、スープと、ハムエッグスとウイスキー入りの珈琲ではなかったか。
 ……今の世に奇蹟はない。
 ……偶然としては余りに偶然過ぎる。
 しかもこの奇蹟的な偶然を、私の第六感の作用として判断すると、一切の疑問の闇を貫く一道の光明が、サーチライトのようにありありと現われて来るではないか。
 あの時に発見した聖書は、今も警視庁の参考品室の片隅にある、暗号の部と書いた硝子(ガラス)戸棚の中に投(ほう)り込まれたままになっている。たしか二〇一番の札(ふだ)を貼られたまま塵埃(ほこり)に包まれている筈である。
 私も、今朝(けさ)の中(うち)迄はすっかりあの事件を忘れてしまっていた。何もかも忘れて、余生を自然科学の研究に没頭して送るべく、これから追々と買入れねばならぬ器械と、薬と、書物の事ばかり考えていた。
 ところが今日の午後になって、嬢次少年の訪問を受けると又も、新(あらた)にその時の記憶を喚び起したのみならず、その問題の曲馬団の興行を見物に来て、カルロ・ナイン嬢の美しい姿を見て、どこかの華族様の令嬢ではないかと思ったりした。又、自分の直ぐ背後(うしろ)に坐っている女優髷(まげ)の女を見ると、もしや志村のぶ子ではあるまいか……なぞと途方もない事を考えたりした。そのおかげであべこべに女から不良老年と見られて逃げられてしまったが、その時に私は、変な日だなと思った。今日は自分の頭が余程どうかしていると思った。そのほかにも未(ま)だ二つ三つ変だな……と思った事があったが、先の用事に気を取られて、次から次に忘れて行った。おまけに時間の間違いで、大勢の女が舞踏の最中に、馬に蹴殺されそうになった心配の余りに、頭がすっかり混乱してしまって、茫然恍惚とした夢うつつの境をさまよいながら、どこをどう歩いているか解らないまんまにカフェー・ユートピアに来てしまったのである。曲馬団が真赤な偽物である直接の証拠を一つも発見し得ないまま……嬢次少年の復讐を手伝うべき準備偵察も何も出来ないまま……そうして団員のどれもこれもが、皆本物の曲馬師で、素晴らしい腕前を持っているらしいのに感心させられたまま……平生(いつも)の理智と判断力とをめちゃめちゃにたたき付けられて終(しま)いかけていたのである。
 ところが私の「第六感」はそんな甘い事では承知しなかった。それ以上の……殆んど私の生命(いのち)にも拘る或る大きな秘密を掴もうと努力していたのであった。
 あとから考えると私の「第六感」はあの時に色々な材料を提供して、私の判断力の活躍を催促していた。前に述べたカルロ・ナイン嬢が貴族的な……寧ろ皇族的な気品を備えていた事……女優髷の女を見るとすぐに志村のぶ子を聯想させられた事……なぞも勿論、私にとって大切な判断の材料でなければならなかったが、まだこの外にも私の「第六感」は幾多の重要な発見をして次から次に私の脳髄の判断活躍を催促していたのであった。
 ……カルロ・ナイン嬢が乗馬に深い経験を持っていないこと……。
 ……ハドルスキーがいつも嬢の直ぐ後方(うしろ)に馬を立てて、恰(あたか)も嬢を監視しているかのように見えた事……。
 ……そのハドルスキーとカルロ・ナイン嬢とが場内を廻りながら馬上から私をちらりと見た事……等、等、等。
 その他色々と注意すべき点が沢山あったように思うが、その中でも亦、取りわけて重大な意味を含んだ暗示がたった一つあった。それは、すべての暗示材料を一貫して……曲馬団……女優髷……ジョージ・クレイ……志村夫婦……魚目(ぎょもく)と木精(メチール)の毒薬……ピストル……J・I・Cなどいうものの一切合財の裏面の消息を一言で説明している紫のハンカチであった。
 ……カルロ・ナイン嬢が持っていた紫のハンカチ……。
 ……女優髷の女が持っていた紫のハンカチ……。
 ……そうして二年前、志村のぶ子が持っていた紫のハンカチ……。
 ……同じ大きさの同じ色のもの……。
 私はどうしてこれに気付かなかったのであろう……この三人の間にはちゃんとした脈絡のある事を紫のハンカチが遺憾なく証明しているではないか。仮りに志村のぶ子が死んでいるとしても、カルロ・ナイン嬢は私の前で紫のハンカチを振って行ったではないか。私の真背後(まうしろ)に居る女優髷の女に見せるために……。何かの合図をするために……。
 こうした事実が確定して来るとカルロ・ナイン嬢が、私の顔を見て行ったように思われた理由も判明する。カルロ・ナイン嬢は、私を見て行ったのでなくて、私のすぐ背後(うしろ)に居る女優髷の女を見て行ったのだ。二人の女は紫のハンカチでもって何かの意味を通信し合って行ったのだ。
 然らばその通信し合った意味とはどんな意味か……。
 これも私の「第六感」がハッキリと暗示している。私が註文した四種の料理によって、説明し過ぎるほど明瞭に説明している。
 ……紫のハンカチを受取ったものは殺されなければならぬ。
 ……と……。
 何という恐ろしい暗示であろう。
 そうして又、何という明瞭な宣告であろう。
 二年前に志村のぶ子から紫のハンカチを受け取った志村浩太郎氏は、その夜のうちに奇怪な変死を遂げたではないか。今から考えると、志村浩太郎氏の死状は、私の判断も、呉井嬢次の説明も超越した、恐ろしい死に方であったのだ。
 そうして現在の私も、紫のハンカチを、J・I・Cと関係のあるらしい美しい女から渡されて、死の暗示を与えられているではないか。二年前の志村氏と同様の不可思議な「死の運命」の方向へ、ぐんぐんと惹き付けられて行きつつあるではないか。
 ……私がJ・I・Cに殺されなければならぬ理由は数え上げるだけ野暮(やぼ)であろう。私が二年前に、前総監の許可を得て、M男爵から内密に借り受けた名簿によって日本内地に散在するJ・I・C団員を虱潰(しらみつぶ)しに投獄し、又は国外に放逐した事実は、微塵(みじん)も外(ほか)へ洩れていないにしても、最少限J・I・Cの連中の記憶には骨の髄まで徹底している筈である。さもなくとも私が辞職の直前に、現警視総監と大声で云い争った、その半言隻句でも外に洩れたとすれば、それだけで十分である。況(いわん)や私の眼の球の黒いうちはJ・I・Cの影法師でも二重橋橋下に近づけない覚悟でいる事が、万に一つでもJ・I・Cに伝わったとしたらどうであろう。
 否々(いやいや)。彼等はもうとっくの昔に私のこうした決心を感付いている筈である。そうして私を第一番に片付けてから、第二第三の仕事にかかる予定にしていなければならぬ筈である。そうして彼等はこの目的の下に、生命(いのち)知らずの無頼漢をすぐり集めて、曲馬団を組織して捲土重来(けんどちょうらい)したものに違いないのである。これは決して私の自惚(うぬぼ)れや何かで云うのではない。
 然るに私は最前嬢次少年に会ってから後(のち)というものはこんな考えから全然遠ざかっていた。自分の一身に関する危険なぞは変にも考えずに、ただ漫然と様子を見る位の考えで見物に来ていた。そうして嬢次少年の仕事を手伝うこと以外に何等の緊張も、危険も感じないまま双眼鏡をひねくりまわしているに過ぎなかった。そうして思いもかけぬ大失敗をして徹底的にたたき付けられたまま曲馬場を出て来たのであった。
 その時の私の頭の中は、自分自身がどこに居るのか、判断出来ないくらい混乱していた。常識とか理智とかいうものは跡型(あとかた)もなくノック・アウトされた空(から)っぽ同然のあたまを肩の上に乗せて、ふらふらと往来にさまよい出たに過ぎなかった。
 ところがその最中(さなか)にも、その私の空っぽのあたまを決定的に支配し指導しつつ、絶えず重大な暗示を与え続けていた、神秘的なあるもの[#「あるもの」に傍点]があった。そのあるもの[#「あるもの」に傍点]の洞察力は透徹そのものであった。そのあるもの[#「あるもの」に傍点]の記憶は正確そのものであった。
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