暗黒公使
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著者名:夢野久作 

 かくして日本の石油保有量に関する疑問は「日本一蹴(いっしゅう)すべし」という主張の下に樹(た)てられたる前記の東洋米化政策を実行すべきウオル街の金権政治家と、その仕事を引き受けたJ・I・Cの首脳者とが、その政策の実行に先立って、深甚の考慮を払わねばならぬ重大問題と化して来たのであります。

 この問題に関する前記のウオル街、全権代表、G・シュワルト氏と、コンドルと、小生との間に行われました前後数十回の討議は、米国式国民外交の特徴を遺憾なく発揮した波瀾万丈を極めたものでありました。勿論、その会議の中(うち)にはG・シュワルト氏の紹介による匿名の政府吏員も適時参加したのでありましたが、その結果最後の勝利を得たものは、あくまでも強気一点張を以て終始したコンドルの主張でありました。
 すなわち……。
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一、日本の対米硬化は恐るるに足らず。米国政府の極東政策は既定の通り実行すべし。
二、日本の対米外交硬化の原因は、新油田発見の報なき点より見て、石油の秘密購入貯蔵にある事明白なり。又、新動力機関の発明等に非ざるは軍艦、潜航艇等の改造、新設計等が依然として旧態に依るを見ても明かなり。故(ゆえ)に日本内地に於ける石油の秘密貯蔵個所を発見して、万一の際これを爆破するだけの用意を整えおけば、それだけにても戦闘準備は十分なり。
三、日本内地に於ける石油の秘密貯蔵場所を発見する事と、万一の際、これを爆破する準備とは、吾々J・I・Cの一手に委任されたし。
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 ……云々……というのでありますが、尚、御参考までに申添えますと、私共はこの第三項の石油貯蔵場捜索のために、日本内地に居ります○○、及び、△△△△を使いまして、来春の学校休暇を手初めに旅行、或はキャムプ生活を奨励し、全国鉄道の沿線、特に××××沿線附近の私設鉄道の輸送状態を過去四五年に亘って詳細に調査する事に決定したものであります。
 そうしてこの仕事の主任……すなわち、所謂(いわゆる)「暗黒公使(ダーク・ミニスター)」となって日本に渡るべく、米国機密局の白紙命令(ブランクオーダー)を受けました小生が、仕事の確実を期するために、日本内地に散在するJ・I・C団員の本名と国籍とを一々取調べさせております中(うち)に、劈頭(へきとう)第一に内報を受けましたのは小生妻ノブ子の名前でありました。
 小生はかくの如き事情の下に、日本に渡って来たのであります。すなわち妻ノブ子を米本国に逐い返して、自身に代ってこの大事業を遂行すべく、テキサス州の富豪中村文吉と偽り、当座の費用十五万円を携えて去る五日、横浜に到着、直ちに東京に入って帝国ホテルに宿泊し、その翌日外務省に在勤中の妻を呼び出して本郷菊坂ホテルの一室で面会したのであります。
 その時小生は妻に面会しましたならば、烈しく妻の不都合を責め、それを理由として遮二無二米国へ逐い返す考えでありましたが、事実は却って正反対の結果になってしまいました。
 ノブ子の涙ながらの物語によって、同人が小生と愛児嬢次のため非常な辛苦艱難(かんなん)と闘いながら、よく貞節を守り通して来ました事実を、初めて、しかも詳しく承知致しました小生は徹底的にたたき付けられてしまいました。今までの小生の行跡が如何に不都合、非道、且つ無反省なものであったかを心の奥底から覚らせられました。且つ、それと同時に、妻が外務省の反古籠(ほごかご)の中から拾い集めておりました色々な報告によりまして(これもM男爵の所謂逆手段であったかも知れませぬが)満洲王張作霖(ちょうさくりん)は、決してコンドル、及び、グランド・シュワルトが小生に説明せし如き大人物に非ず。その力は支那全土を攪乱するに足らず。その部下と共に良民を苦しめて不義の栄華を楽しむために汲々としておる者で、今日これを援助するにしても、他日に於て、果して米国のために信義を守る者であるかどうか、信用の限りでない事が判明しました。
 かくして小生の良心は漸く眼覚め初めました。一方に妻の貞節に動かされて、今までの行いを後悔致しました小生は、一方に小生が初めから終(しま)いまでコンドルに欺かれておった事を覚りました。酒色のために良心を晦まされて、資本主義的に腐敗堕落した米国一流の悪政治家の野心を感知し得なかった自分の愚を覚りました。民族的自覚を喪った各人種の綜合体である米国の無政府、無国家的唯物資本主義、もしくは黄金万能主義が組織する社会の必然的産物として、夜を日に継いで醸成されつつある、あらゆる不道徳、不自然、不人情、反法律、反逆、破壊、放縦(ほうじゅう)、堕落、淫虐の強烈毒悪なる混合酒に酔わされて、数千年来自然に親しみつつ養い来った日本民族の純情を失いかけていた自分自身をやっとの事で発見しました。そうしてそのなつかしい日本民族の勢力を殺(そ)ぐべき事業のために、残忍非道なる無頼漢の命(めい)を奉じて出て来た今度の旅行が、如何に屈辱的な、非国民的なものであったかを深く深く反省させられました。
 妻ノブ子の純情によって……愛児嬢次に対する純愛の再生によって……。

 小生のこの時の煩悶が如何に甚だしかったかは、御賢察に任せるほかありません。
 それから後(のち)小生は丸二日の間一度も帝国ホテルへ帰りませんでした。市の内外各所の酒場料理店を次から次へと飲みまわって良心の声を聞くまい聞くまいと努力しました。妻らしい女の影を見ますと、良心に追いかけられるように往来をよろめきつつ駈け出しました。夜は又眠られないままに、こっそりホテルを脱け出して、代々木方面の草原(くさはら)に寝て星を仰いで考え明かすなどして、僅かの間に脱獄囚のように窶(やつ)れ果てた一事でも、略(ほぼ)、御賢察が願える事と思います。
 けれども私は遂に良心の追跡から逃れる事が出来ませんでした。
 小生は去る十月八日の早朝、前後不覚に酔いたおれて、どこかわからないまま睡っておりました草原の中から頭を擡(もた)げますと、折りから降り出した時雨(しぐれ)の中に、蒼然(そうぜん)と明け離れて行く宮城の甍(いらか)を仰ぎました瞬間に、思わず濡れた草の中に正座しました。すっかり酔いから醒め果てて、くたくたに疲れきったその時の私の心の底には、もう理想とか、主義とか、意地とか、張りとかいう理窟めいたものは影さえ残っておりませんでした。そうして、そんなもの以上に切実な真実心ばかりが澄みきって残っていたのでありました。
 その澄みきった真実心をもって静かに仰ぎ見ました時に、初めて宮城の気高さと尊さがわかりました。これこそ吾々日本民族が、この真実心を以て守り伝えて来た、その真実心のあらわれに外ならぬ。あの瑞々(みずみず)しい松の一葉(ひとは)一葉、青い甍の一枚一枚、白い壁の隅々、あの石垣の一個一個までも、こうした日本民族の真実心の象徴に外ならぬではないかとしみじみ思い知りました。
 私の心がしずかに、神々しく私に帰って参りました。そうして雨の中に悽愴(せいそう)粛然と明けて行く二重橋を拝しまして、大自然の心の中(うち)にある最も崇高な、清浄な心の結晶が昔ながらに在(おわ)しました事を感謝しました。雨にずぶ濡れになったまま青草の中にひれ伏して、今までの小生の罪を繰返し繰返しお詫び致しました。
 かくして小生は主義も理想もない天空快濶な自然の児(こ)に立ち帰る事が出来ました。二十年前(ぜん)の若い田舎書生の心となって、恐る恐る帝国ホテルに帰って参りました。
 小生はその翌日、前記の如くJ・I・Cの秘密文書をM男爵の手に交付すると同時に、頭を短かく刈り、鬚(ひげ)を剃り落し、服装を改めて東京駅ステーション・ホテルの十四号室に這入りました。それから十五万円の金は正金銀行から引き出して東洋銀行に入れ、荷物は皆、帝国ホテルに放棄しておきました。これは小生が今度の要件のため、急にいずれへか出発したものと見せかけるためでありました。

 かようにして意を安んじました小生は、早くも五月蠅(うるさ)く付き纏う暗殺者の眼を逃れつつ、妻に危険を及ぼさぬように注意して二三度面会致しました結果、ウルスター・ゴンクールが伜(せがれ)を人質に取り、妻を威嚇(いかく)せんと致しております事情を知りました時には、思わず悲憤の情に満たされて、又しても凡(すべ)ての物を呪いたい気持になりました。しかし最早(もはや)、自分自身が、J・I・Cの呪いの的となっておりますばかりでなく、官憲の保護を受くる資格さえ喪っている上に世間から一片の同情をさえ受けられない身の上となっておりますからには、とてもこの運命に抵抗する力が得られない事と深く深く自覚致しましたので、せめてもの事に、自分一人を殺して、妻子の生命(いのち)だけでも救い止めたい決心を致しまして、小生の所持金の全部を妻に与え、残余を以て一身の後始末を致し、万事を貴下に御依頼申上ぐる決意を固めまして、やっと只今その決心の大部分を実行し終ったところであります。
 あとはこの遺書を旧友藤波弁護士に依託して後(のち)、このホテルを脱け出して駅前の広場のまん中にある立木の根方に腰をかけまして、酔っ払いの真似をしながら、この二枚の名刺を埋めて帰れば万事を終る手筈になっておるのであります。

 狭山九郎太氏よ。
 かくの如き無恥、無徳、ほとんど一片の同情にだも価しない売国奴の小生が、正義、法律の執行官たる貴下に対して、かような厚かましい事を御依頼申上ぐる資格がない事は、明かに自覚致しております次第であります。
 しかしながら貴下よ……。
 叶いまする事ならば、小生と、小生の妻子とを同一視なさらないようにお願い致したいのが小生の最後の切ない希望なのであります。
 小生の妻も、妻と生写しの姿と声とを有しております伜の嬢次も共に、純正なる日本民族の血と肉と精神とを保有致しておるに相違ない事を貴下の前に誓わして頂きたいのであります。
 伜の嬢次がコンドルに誘拐されましたのは四歳の時だったそうでありますが、その容貌はもとより皮膚の色から、髪毛(かみげ)の生え際に至るまで妻と生き写しでありまして、少し大きくなりましてからは声までも妻の声と間違いましたそうで、ただ耳だけが小生のと同じ恰好をしていた事を記憶しております。今はどれ位の背丈になっておりますか存じませぬが、ちょうど十五歳になっております訳で、小生が只今宿酔(しゅくすい)から醒めまして、死期の近い事を覚悟致しております気持ちの、異様に澄み切った遥か遥か彼方に、その嬢次の姿が立っておりまして、まだ見ぬ父母を恋い慕いつつ、日本の空をあこがれております心が、ハッキリと感じられておるのであります。
 けれども、それと同時に彼(か)の恐るべき禿鷲(コンドル)の爪が、その愛児嬢次を虚空に掴みつつ、日本に飛んで来まして、その恐ろしい翼で、妻ノブ子を羽搏(はう)とうとしている事実がありありと感じられておるのであります。聞くところに依ればコンドルは目下東部亜米利加(アメリカ)に於て、欧洲各国からアブレて参りました曲馬師連を集め、部下の中(うち)でもこの方面に心得のあるものをこれに配合してバード・ストーン曲馬団なるものを組織し、各地で興行をして大喝采(かっさい)を博しており、近く東洋方面にも興行に出かけるらしい噂を承わっております。これは別にコンドルから直接聞いた訳ではありませぬので、特にコンドルが小生にだけ隠しておる計画ではないかと考えられるのでありますが、しかし、いずれにしても小生はこの噂の実現の真実性を信じて疑わないのであります。

 この小生の死後の敵コンドル事、ウルスター・ゴンクールは前にも申述べました通り、風采の堂々たる好紳士で、表面では口癖のように正義人道を高潮しておりますが、実はアリゾナ生れの兇悍(きょうかん)冷血なる無頼漢で、その強烈なる意志と胆力とによって、不断に部下を畏伏させ、戦慄させておるものであります。彼は酒を飲まず、煙草を用いず、語学は元来不得手の方で、仏、伊の二箇国語を心得ておりますが、日、支、朝鮮、印度方面の東洋語は全然通じませぬ。近頃日本語の研究を初めておるとの事ですが、まだ日常の挨拶程度だそうで、平生語学の達者なものを秘書にして用を弁じておりますので日本文字なぞも無論読めません。……にも拘わらず彼は極度の好色漢でありまして、この方面に独特の怪手腕を持っており、言語の通じないままに各人種の情婦を持っておるのみならず、如何なる良家の夫人、令嬢でも、一度狙ったら最後、必ず自家薬籠中のものとして終(しま)う手腕に至っては団員の斉(ひと)しく舌を巻いておるところであります。
 その他の特徴としては射撃の名手であると同時に、拳闘の重体量選手となったことがあります。殊にその精力の絶倫さは想像を超越したものがありますので、一日平均四時間の睡眠を摂(と)るのみ。二昼夜の間に百余哩(マイル)を徒走した事があると聞いております。その部下は大抵露西亜(ロシア)人、猶太(ユダヤ)人、支那人、印度(インド)人、伊太利(イタリー)人、その他、ケンタッキー、アルカンサス等の南部亜米利加(アメリカ)人で日本人は極く少数しか居りません。いずれも、欧米各地で持てあまされた、警察なぞを物とも思わぬ無鉄砲者の中から、世間を欺くに足る相当の技術を持った者という難かしい条件で、金に飽かして選(よ)り集めたもので、彼は巧みにこれを操縦して事業を遂行しております。殊に団体内の制裁には、前にも申します通り、その違反者に同情なき異国人を使って容赦なく実行させるようにしておりますから、団結の鞏固(きょうこ)な事は非常であります。その仕事の如何に敏活なものがありますかは、小生がM男爵の手に暗号を渡して後(のち)、一夜も経たない中(うち)に小生の死刑を宣告し、一週間も経たないうちに応急的な暗号の鍵を送って、妻ノブ子の死刑を宣告して来たのを御覧になってもお察し出来る事と思います。
 最後に今一言(いちごん)させて頂きます。小生は小生の妻子に対する貴下の御庇護に関する私的御費用の一端として、藤波弁護士の手に保管中の二万円也を貴下に捧呈させて頂きたいのであります。但し、清廉なる貴下は、或(あるい)はこの金を不浄の金としてお受取りにならないかも知れませぬが、しかし貴下よ。由来国際間の事は、人道と法律とを超越したものであります。小生が人類の敵たる秘密結社に反逆を企て、その秘密を発(あば)く事が、国家的立場より見て許されるものでありますならば、小生がこの金をJ・I・Cから奪ったとしましても決して罪悪ではありますまい。況(いわ)んやこの金は日本人の財産を奪ったものではありません。日本を不利の地位に陥れむとするウオル街の全権代表者より個人的に適法の手続(てつづき)を以て小生の手に渡り、合法的に小生の所有となったものでありますから、仮令(たとえ)小生が相手の望み通りの仕事を遂行しなくとも、先方から返還を要求すべき性質のものではありません。況(いわ)んやこの金の代償として要求されている仕事が不正であるに於ては尚更(なおさら)の事であります。小生の妻にはこのような道理を説明してもわかるまいと思いましたから他の意味の金と云って取らせておきましたが、貴下には正直に所信を告白致します。願わくば国家のため、又は小生の妻子のため、枉(ま)げて御受領賜わりまするよう伏願致します。
 狭山氏よ。貴下にお願い申上げたい事、又はお知らせ申上げたいことはこれで終りました。
 小生はかようにして「非国民」もしくは「無頼漢」なる汚名の下に唯一人淋しく葬られなければならぬ運命に立ち至りました。これは小生が自ら求めましたところで、天地の間、どこの何人(なんぴと)を怨みようもありませぬ。
 でありますからして小生は仮令(たとえ)貴下がこの遺書を一笑に附して小生の希望をお容(い)れにならず、あの金は没収、もしくは寄附等となして、小生の妻子の保護は結局小生の妻子の勝手にお任せ下さる事に相成りましても小生は決して貴下をお怨み申上ぐる者ではありません。それは当然の御処置に相違ないので、それ以上の事をお願い申上ぐるのは分を超えておるからであります。
 しかし、その中に唯一つ、只今より申述ぶる最後のお頼みばかりは、如何にしても思い切る事が出来ません。而(そ)して貴下が小生のためにこの唯一事までもお拒みになるほど、罪人に対して厳酷なお方とは想像し得ないのであります。
 そのお願いと申しますのは、外(ほか)でもありませぬ。
 もし貴下が他日どうか致した機会に小生の妻子を御覧になるような事がありましたならば、何卒左(さ)の一事を貴下のお口からお申聞かせ賜わりたいのであります。
「お前の夫、お前の父は非国民の無頼漢であった。けれどもその最後は君国の事を思い、お前達の身の上を悲しんで死んだ。彼は良心の曙光を認めつつ死んだのだ」
 ……と……。
 最後に貴下の御健康を祈らせて頂きます。 頓首 敬白[#「頓首 敬白」は地付き、地より3字アキ]

   大正七年十月十三日午後七時半
     本郷菊坂ホテルにて認(したた)め終る。

 私は片仮名交りのギゴチない文章を横書にした、世にも読み難(にく)いこの遺書をとうとう読み終った。けれども暫くの間は行の末尾を凝視した切り顔を上げる事が出来なかった。
 私はこれ程の信頼と尊敬とを受けた事は未だ曾(かつ)てなかったのである。
 同時にこれ程の面目なさと恥ずかしさを感じた事も未だ曾てなかった。そうして又、これ程の大きな難事業を委託されたのも生れて初めてだったのである。
 そうして又、同時に、これ程の純な気持ちを持った親子が、斯程(かほど)まで残虐な、異常な運命に飜弄されているのを見た事も、今日迄六十余年の生涯を通じてなかったのである。
 泣きも笑いも出来ないとはこの時の私の気持であったろう。
 けれども、やがてそのようなあらゆる感情が雲のように湧き起るのをやっと押し鎮めて、平生の理智を取り返して来ると、私は眼の前に面(おもて)を伏せている少年の姿に、驚異の眼を注がない訳に行かなかった。
 この少年は極めて無邪気な方法で、岩形氏……否、志村浩太郎氏の屍体の秘密をどん底まで透視している。警視庁で鬼と謳われた私の手落を、二年後の今日に至って何の苦もなく看破している。……しかもその証拠は儼(げん)として動かす事が出来ない。現在私の手中にある。
 ……この少年は果してそのような古今の名探偵に比すべき頭脳を、今から備え持っているのであろうか……。
 ……それともこれが世にいう親子の因縁……もしくは目に見えぬ魂の引き合わせとでもいうものであろうか。
 かよう考えて来ると私はもう、自分の考えに堪えられなくなって、思わず遺書をパタリと閉じて、机の上に置いた。居住居(いずまい)を正して少年に問いかけた。
「……成る程……わかりました。しかし君は今しがた、お母さんが何者にか殺されたと云いましたね」
「ハイ……」
 少年は依然として淋しそうな顔を上げた。その睫は涙のために乱れていた。しかし言葉はハッキリとして落ち着いていた。
「ハイ……申しました」
「……その事実はどうして解ったのです」
「だって……生きている筈がないんですもの……」
 と云ううちに少年は又も力なくうなだれてしまった。
「……ハハア……それじゃ、お母さんからのお消息(たより)が、それから後(のち)ちっともないのですね」
 少年はうなずいた。
「……成程(なるほど)。君が曲馬団に居るとすれば、お母さんが何等かの方法で会いに来ない筈はない。すくなくとも無事で居る事を君に知らせない筈はない。それが何の頼りもないところを見れば誰かの手にかかって殺されておられるに違いない。しかも誰かの手にかかって殺されているとすれば、その手はW・ゴンクールの手に違いない……という三段論法が成立する訳ですね」
 少年は前よりも強くうなずいた。どうやら唇を噛んでいるらしい態度である。
「……成程……それでその復讐をするために僕の手伝いを求めに来たのですね」
 少年は微かにうなずいた。又もハンカチを顔に当てて肩を窄(すぼ)めた。
 私は、その姿を見ると堪(た)まらなくなって、机の上に両手を支えた。頭を幾度も幾度も下げて謝罪(あやま)った。
「……済まない……済みません。僕は君の御両親ばかりでなく君に対しても会わせる顔がないのです。僕は君等親子にこれ程の信頼を受ける価値はない人間です。僕は世間で云うような名探偵でも何でもありませぬ。凡クラな、トンチンカンなヘボ探偵に過ぎないのです。それは君にだって解っているでしょう。……それだのに、こんなにまで信頼を受けてはトテモ僕はたまらないのです……こんな、老耄(おいぼれ)のヘボ探偵を、どうして君がそんなにまで信頼してくれるのか、僕は殆んど了解に……」
 ここまで私が立て続けに饒舌(しゃべ)り続けて来ると、少年はその涙に濡れた顔を急に上げながら、片手で私の言葉を遮り止めた。その眼には云い知れぬ敬虔の念が輝き満ち、その片頬には物悲し気な微笑さえ浮んでいた。
「先生……」
 そう云って椅子から立ち上った少年の態度には上官に対するような厳粛さがあった。私はその気合いに押されたようになって沈黙した。
「先生……僕は両親に代って先生に感謝しに来たのです」
「……ナ……何を……」
 と私は面喰って眼をパチパチさせた。
 少年は、又も無言のままポケットを掻い探(さぐ)って一葉の古新聞紙を私の前に差し出した。その第一頁の『東洋日報』という標題(みだし)の上の余白には、

Care Nichibei Kyokai
No. 152. 3. Avenue, East End,
     New York

 という英文字のスタムプが押捺(おうなつ)してある。それを取る手遅しと受取って開いてみるとその第五頁の社会欄と、中央の欄外に一つ宛(ずつ)赤丸が付けてある。大正七年十月十五日の記事である。

    怪死体と怪自動車[#大文字]
        芝浦にて発見さる[#中文字]
       ステーション・ホテル
       毒殺事件続報…………

[#ここから1字下げ]
 昨朝夜半、東京駅ステーション・ホテル第十四号室にて米国帰りの富豪、印度(インド)貿易商岩形圭吾氏が、何者にか毒殺され、鬼課長狭山九郎太氏の出動となり、その結果犯人が、志村のぶ子と称する絶世の美人らしき事判明したるも、鬼課長の一行が土手三番町旧浸礼教会跡なる犯人の潜伏所を探知して逮捕に向いたる時は犯人が既に、警官を載せ行きたる自動車の運転手樫尾初蔵なるものと共に、その自動車T三五八八号にて逃走したる後(のち)なりし事は昨夕刊に報道せる通りなり。
 しかるに該記事締切後十四日午後四時に至り、該自動車が芝浦海岸埋立地に放棄しあるを通行の巡査が発見し、直に警視庁に通報したるを以て狭山課長が単身オートバイにて出張し調査を行いたるに、更に附近の溝渠(こうきょ)中に浮みおる塵芥の下より、繃帯したる咽喉部を撃ち貫かれたる鮮人留学生らしき屍体を発見したり。然れども狭山課長は緘黙(かんもく)して何事も語らず。又別に調査する模様もなく立会の巡査に手伝わせて該屍体を無雑作にT三五八八の自動車に搬入し、空虚となりおれるタンクにオートバイのガソリンを注入し、附近の自動車屋より運転手を雇いて運転させ、自身はオートバイにて先導しつついずれへか立ち去りし趣なるが、該屍体はそのまま共同墓地に仮埋葬し、自動車は数寄屋橋タクシーに返還したる模様なるも、狭山課長の消息はその後全然不明にして、この稿締切までは何等の報告に接せず。然れども、以上の行動を以て察する時は何等か的確なる方針の下に、意外の辺にて意外の活躍をなしおるものなるべく、今明日(こんみょうにち)の中(うち)には何等かの刮目(かつもく)すべき成果を挙げ来(きた)るべく信ぜられつつあり。

 ○コロラド丸出帆[#中文字] 過般来船内にチブス患者発生したるため、横浜に停船を命ぜられおりし沙市(シヤトル)行客船コロラド丸は一昨十二日解禁されたるを以て今十四日午後六時出帆、定期航路に就く事となれり。
[#ここで字下げ終わり]

 私は思わず机をドンとたたいた。
「……豪(えら)い……君が探偵なら正に名探偵だ。僕もシャッポを脱がざるを得ないよ」
 少年は極(きま)り悪げにうつむいた。
「……僕は電話口で芝浦にT三五八八の自動車が……という巡査の慌てた声を聞いた瞬間にそう思ったよ。志村夫人と樫尾運転手は、芝浦海岸から自動端艇(モーターボート)に乗って逃走したに違いない……と……。そこで誰にも云わないで単身、オートバイを乗り付けて調べてみると、一寸(ちょっと)普通人には気が付かないが自動車の幌のまん中に、かなりの近距離から発射したらしいピストルの新しい弾痕がある。これは樫尾がモーターボートを芝浦へ廻す手配を感付いたJ・I・Cの人間が先廻りをして、君のお母さんを狙撃したものに違いないので、人家から数町離れた海岸とはいえ、白昼にこんな危険を犯すのは尋常の目的でない事がすぐにわかるのだ。しかし車内には血痕も何も見当らないのでもしやと思って附近を探すと、かねてから君の両親を狙っていたJ・I・Cの鮮人の屍体を発見したのだ。つまりモーターボートの近くの石垣の蔭に隠れて待ち伏せていたのだね。……それからガソリンがなくなっていたのは無論ガソリンを使いつくす程長距離を走ったものではない。用心のためにボートの中へ持ち込んだものであるが……僕は初めから考えるところがあってそうと察した訳なんだが、君は新聞記事以外に何も見ないまま、一足飛びに僕が気付かなかった欄外記事と結び付けて、乗った船まで推測したところは、たしかに一段上手(うわて)と云わなければならぬ。ところで、これが、どうして僕に感謝する理由になるのですか」
「最初からの新聞記事を一緒にしてそこまで読んで来れば解ります。貴方(あなた)は途中から母の追跡を止めておられます。母を楽に逃げられるようにしてやっていられます。それは中途で母の無罪を認めて下すったからです」
 少年はすらすらとここまで云うと、恰(あたか)も自分自身が両親の罪を背負っているかのように、悄然(しょうぜん)と頭を下げた。
 私は云うべき言葉を知らなかった。……明察神の如し……とはこの少年の事であろうか。只、呆れに呆れてその綺麗に分けた頭を見上げていた。
 けれども、やがて私は吾(われ)に返った。厳粛な態度で椅子から立ち上って、少年の横から近付いて両手をピッタリと肩に当てた。強く二三度ゆすぶりながら云った。
「……よろしい……君の一身は引き受けた。誓って君の両親の仇敵(かたき)を打たして上げる」
 少年は顔を上げた。いかにも嬉しそうに私の顔を見上げながら、両眼から溢れ流るる涙を隠そうともしなかった。
 私も胸が一パイになって来た。
[#改丁]


中巻

新来朝
五国聯合
バード・ストーン一座大曲馬

     プログラム(午後一時開演)
(同 五時終了)

★1……君が代行進曲専属音楽団★2……文字を解し、計算し、地図を読む馬
          米国理学博士 アスタ・セガンチニ夫人★3……二頭立戦車曲芸
       ◇第一戦車
〔伊太利〕 ルビヤ・ベルチニ嬢。アルマ・ドラー嬢。ヤヌヌ・スタチオ(弟)。
       ◇第二戦車
〔伊太利〕 マルテ・コスチニ嬢。イポリタ・ホルマニ嬢。カヌヌ・スタチオ(兄)。
★4……満洲馬曲芸
〔支那〕 張蔡。宝卓。陳亢凱。紫白哥。李勲。黛岳。
★5……自転車新曲芸
〔英国〕 サイラス・ブランド
★6……哥薩克馬曲芸
〔露西亜〕 カルロ・ナイン嬢。ワーシカ・コルニコフ。コンスタンチン・ダレウスキー。ブレボフ・ミハイロウィッチ。アルツバイエフ・ハドルスキー。
★7……美人大曲馬
〔米国〕 エルマ・フランチェスカ嬢。アンネット・シルビア嬢。アンナ・サロン嬢。クララ・ハイン嬢。パオロ・カーマンセラー嬢。
★8……コロンビヤ行進曲
専属音楽団
   小憩 十分間
★9……喜劇大馬と小犬
〔支那〕 珍友三
★10……馬上の奇術
〔伊太利〕 ジョージ・クレイ
★11……馬の大舞踏会
座附美人一同参加
==入場料 一円・二円・三円・七円==   
(以 上)(裏面欧文番組略)
 このプログラムを貰って演技場に這入(はい)って行くと、入口に突立っている巡査は古い顔馴染(なじみ)であったが、一寸(ちょっと)胡散(うさん)臭そうな眼付きをして私を見送っただけで、横の方を向いてしまった。変装はしていたが眼付が違っていたために掏摸(すり)とでも思ったのであろう。私はそのまま円形の見物席の背後を廻って、割合に人の疎(まば)らな正面の特等席の中央(まんなか)あたりの空席に腰を卸(おろ)した。
 見上ぐれば、曲馬場内の五個所から斜めに突き出た軍艦のマストに擬(まが)う大支柱と、その大支柱から分岐した数十本の小支柱とで、巧みに釣り上げられた大天幕の穹窿(きゅうりゅう)の無数の隙間からは、晴れ渡った空の光りが、星のように、又は七宝細工のように眩(まぶ)しく場内に降り落ちて来る。
 その真中の一番高い処から、大きな鳥の姿を金糸で刺繍(ししゅう)にした三間四方もあろうかと思われる真紅の大旗が垂らしてあるが、その近所の天幕の穴が特別に眩しいために、何の鳥だかはっきりとわからない。
 直径三十間以上もあろうかと思われる場内は隅から隅まで光線が明るく行き渡っている。ただ入口に近い側の天幕の斜面には、一面に午後の日ざしが照りかかっていて、そこから洩れ込む光線が、場内に籠っている人いきれと、煙草の煙とを朦朧と照しているために、楽屋から演技場に出て来る通路は黄金色(こがねいろ)の霧に籠められて、そこいらを動きまわる人間が皆、顕微鏡の中の生物(いきもの)のように美しく光って見える。中央の演技場は直径二十間位の円形を成していて、草一本、石ころ一つないように掃き浄められているが、この周囲を取り巻く人間の数は無慮三千以上もあろうか。興行が眼新しいのと、場所がいいのと、入場料が安いのと三拍子揃っている上に、天気がよくて、おまけに風がないと来ているので、満場立錐(りっすい)の余地もない大入りで、色々な帽子やハンカチが場内一面に蠢(うごめ)いている有様は宛然(さながら)あぶらむし[#「あぶらむし」に傍点]の大群のように見える。外国人も、むろんその中に大勢交っていて、私の居る特等席を中心にして場内の方々に散らばっているようである。
 やがて拍手の音が演技場の四方から湧き起ると豪快な露西亜(ロシア)国歌「戦い熟せり。勇めや進め……」のマーチに連れて、四頭の馬に乗ったコサック騎兵が現われた。但し、コサック騎兵とはいうもののその服は青と紫と、赤と、緑の四色の化粧服で、長い槍の尖端もニッケル鍍金(めっき)で光っている。ただ人間と馬だけは本物のコサック産らしく、場内に乗り込んで来ると直ぐに左右に引き別れて槍の試合を初めた。試合といっても、それはほんの武技の型に過ぎなかったが、それでも随分猛烈なもので、マーチに入れ交る野蛮な掛け声と共に、木(こ)ッ葉(ぱ)のように馬を乗りまわし、槍を搦(から)み合わして闘いながら落ちようとして落ちなかったり、馬の腹をぐるぐる這い廻ったりするところは、度々見物を唸(うな)らせた。
 十分間ばかりで試合が済むと見物席に一しきり喝采(かっさい)が湧いた。烈しい口笛を鳴らす者もあった。これは一座の明星カルロ・ナイン嬢の出場を予期した動揺であったらしい。その十分に調子付いた見物の亢奮(こうふん)的喝采の裡(うち)に、コサック式の白い外套、白い帽子、白手袋、白長靴、銀拍車という扮装(いでたち)で、白馬に跨(またが)ったナイン嬢は、手綱を高やかに掻い繰りながら現われたが、私の居る特等席の正面七八間の処まで来て馬を止めると、見物一同に向って嫣然(にこやか)に一礼をした。見ればまだ十五六にしか見えない花恥かしい少女であるが、何もかも眩しい程の白ずくめの中に、黒い縮れた髪に蔽われた頬と、胸に挿した一輪の薔薇(ばら)とが薄紅色をしているばかりである。雪の精というものがもし外国にあるならば、このような姿ではあるまいかと私は思った。
 その瞬間に雷のような喝采が再び湧いた。私はシュミッド特製のオペラグラスを眼に当てた。
 私は決して好色漢ではないつもりであるが、青年時代を西洋で過したお蔭で、美人の鑑定法ぐらいは一通り心得ているつもりである。殊に、美人というものの標準から見れば、日本美人は到底、西洋美人の敵でないという議論は、よく洋画家なぞが口にするところで、自分も固くそう信じているのであるが、不思議にも今まで、あまり共鳴者がないばかりでなく、西洋かぶれの候(そうろう)のと烈しい反対を喰った事さえある。これはこの議論が、日本人特有の負け惜しみ根性を刺戟するせい[#「せい」に傍点]らしいが、それにしても、これ位明白な事が解らぬというのは、余りに尻(けつ)の穴の狭い話で、こんな涙ぐましい愛国心ばかりで固まり合っているから、横着な、図々しい西洋文明にたたき付けられてしまうのだと、私はいつも憤慨していた。殊に今双眼鏡の中に入って来たカルロ・ナイン嬢の姿を見ると一層この感を深(ふこ)うしたのであった。
 ところで西洋美人の最美なるものは、常に黄金(こがね)色の髪の毛と、空色の瞳とを持っているものである。しかし吾々日本人の眼から見ると、露西亜(ロシア)、伊太利(イタリー)、もしくは西班牙(スペイン)系統の美人に見るような、黒い髪と、黒い瞳の方が一層深い親しみと懐しみを感じられるのは無理からぬ訳である。カルロ・ナイン嬢は正(まさ)にその後者の方で、全体に小柄の方であるが、心持玉子(たまご)形をした拉典(ラテン)系統の顔の輪廓と、端麗花を欺(あざむ)く眼鼻立ちと、希臘(ギリシャ)の古彫刻そのままの恰好のいい頸(くび)すじと、気高くしなやかな身体(からだ)付きとは、人種と男女と老若の差別を問わず、満場を恍惚(こうこつ)たらしむる資格を十分に持っている。殊にその白い華奢(きゃしゃ)な長靴に包まれた足首の恰好のいい事……私は決して好色漢ではないが、こんな素晴らしい足首は日本美人には絶対に発見されない。カルロ・ナイン嬢の身体(からだ)にはこれ等のすべての条件が遺憾なく備わっているばかりでなく、その容姿の全体が一種の清らかな、侵し難い気品に包まれている。しかもこの気品は後天的な修養で得られるものではないので、事によるとこの少女は、欧洲のどこかの貴族の出ではあるまいかと疑った位である。いずれにしてもこの曲馬団の花として露西亜趣味の荒っぽい演技の中(うち)に嬢の姿を加えたのは、取り合わせからいっても大成功と云わねばならぬ。満都の人々が嬢の姿を見るためにかように熱狂して集まって来るのも無理はない。
 嬢を加えた演技は疾(とっ)くに再開されていたが、私はただ、喝采の声を耳にするばかりで、レンズに限られた範囲しか見ていなかったから、何をやっているかよく解らなかった。
 眼鏡の中には嬢を初め他の四名の顔が交(かわ)る代(がわ)る現われた。皆汗を掻いていた。ナイン嬢の耳の附け根にある黒い黒子(ほくろ)が、汗で白粉(おしろい)を洗われたらしくハッキリと見えて来た。色の黒い、逞しい鬚武者(ひげむしゃ)の巨漢(おおおとこ)の髪毛は、海藻のように額に粘り付いている。今一人の若い男は、あまり固いカラを着けているために、首の周囲が擦れて輪の形に赤くなっている。その中(うち)に五人は槍を投げ棄てて、外套を脱いだ。下は身体(からだ)にぴったりと合ったコサックの制服で、最前見た嬢次少年の服装と似たり寄ったりである。四人の男はそのまま、カルロ・ナイン嬢を真中に二人宛(ずつ)、前後に一列に並んで場内をぐるぐる廻りはじめた。そうして四人が交る代る嬢の肩を飛び越したり、嬢の左右の鐙(あぶみ)伝いに馬の腹をまわったりして乗馬を交換して行った。それから最後には、場内の正面に持ち出された白い卓子(テーブル)の上に、贅沢なサモワルや、酒瓶や、湯気の立つ露西亜料理を並べたのを、夜会服シルク・ハットの座員が取り巻いて椅子に就いて食事を初める。その上を四頭の馬が交る代る縦横十文字に飛び越し初めたのには肝(きも)を冷した。写真ではこの種の芸当を二三度見た事があるが、実際で見ると感心を通り越して寒心するばかりである。但し、カルロ・ナイン嬢はこれに加わらずに、馬を卓子(テーブル)の一方に立てて長い銀革の鞭(むち)を廻して四人を指揮していた。
 場内から割れるような喝采が起った。同時にこの演技が終りを告げると、嬢を中心にした四人の騎兵が今度は立乗りをしながら、拍手を浴びつつ一列になって場内を廻転しはじめた。
 けれどもその第一周目が終る迄に私はふと妙な事に気が付いていた。ちょっと見たところ、五頭の馬はカルロ・ナイン嬢の銀の鞭で支配されているようであるが、実はそうでない。いつも嬢の直ぐ次に馬を立てるあの色の黒い、鬚武者の巨漢(おおおとこ)が、眼色や身振りで、自在に操っているのである。これは卓子(テーブル)飛び越しの最中に見付けた。それからもう一つはカルロ・ナイン嬢の馬の乗り方があまり上手でない事である。もちろん普通には乗(のり)こなしているに違いないが、他の連中の馬術があまり達者過ぎるために、際立って危なっかしく無調法に見える。しかしこれは、いくらか乗馬の経験を持っている私にそう見えただけで、軽業(かるわざ)見物のつもりで来ている連中には気付かれないかも知れない。
 ところでこれだけの事ならば、別に不思議はないようなものであるが、今の第一周目で、五頭の馬が私の前を馳(は)せ過ぎる時に、中央の白馬に乗っているカルロ・ナイン嬢と、その次に馬を立てている鬚武者とが二人ともちらりちらりと私の顔を見て行ったのを見逃す事は出来なかった。或(あるい)はずっと二三間前から私を見詰めて来たもので、私はただ双眼鏡のレンズに入った間だけしか見なかったのかも知れないが、とにかくその二人の眼は、偶然に私を見た眼付きではなかったようである。二人とも何かしら同じ秘密の意味を以て、私の顔を注視して行ったものとしか思われなかった。
 ……咄嗟の間に私の頭の中はぐるりと一廻転した。
 この曲馬団を真先に……まだ全部が日本に到着しない以前から怪しいと睨んだのは、誰でもないここに居る私で、そのために私は警視総監と意見を衝突さして辞職した位である。そうして今日はその正体を見定めに来ている私である。一つは警視総監の鼻を明かし旁々(かたがた)、呉井嬢次の讐討(かたきう)ちの助太刀(すけだち)をするに就いて、準備的の偵察をこころみるために……それからもう一つは嬢次少年が、生命(いのち)に拘る大切なものを蔵(かく)しているという黒い手提鞄(てさげかばん)を、是非とも楽屋から盗み出しておかねばならぬというので、それを手伝ってやるためにわざわざ出かけて来た者である……が……それを彼等二人は感付いているのであろうか……否……否……そんな事は有り得べき道理がない。この大勢中に、どうして私を見付けられよう。
 殊に……私は変装をしている。胡麻塩(ごましお)頭を真黒に染めて、いつも生やしっ放しの無精髭(ぶしょうひげ)を綺麗に剃って、チェック製黒ベロアの中折(なかおれ)の下に、鼈甲縁(べっこうぶち)の紫外線除けトリック眼鏡を掛けて、ルーズベルト型ダブルカラに土耳古更紗(トルコさらさ)の襟飾(ネクタイ)、黒地のタキシード服と、青灰色の舶来地外套、カンガルー皮入のエナメル靴を穿いて、茶色のキッドの手袋に、銀頭の紫檀(したん)のステッキという十年も若返った姿をしている。実は嬢次少年が注意しなければ、もっと手軽な変装で済ますつもりであったが……、
[#ここから1字下げ]
……仲間にハドルスキーといって団長の片腕になっている露西亜人がいる。この男は鬚武者の巨漢(おおおとこ)の癖に恐ろしく智恵の廻る奴で、この一年ばかりの間、団長と一緒に欧羅巴(ヨーロッパ)[#(ヨーロッパ)は底本では(ヨーヨッパ)と誤記]をメチャメチャに掻きまわして廻ったのは、ハドルスキーの智恵に外ならぬ。だから団長は曲馬団の事をハドルスキーに任せ切っている位である。……ところがこのハドルスキーは、嘗て桑港(シスコ)のホテルで同室した際に、この曙(あけぼの)新聞を私の鞄の底から引き出して、不思議そうに眺めまわしているのを、鍵穴から覗いて見た事がある。その時はまだ東京駅ホテルの記事にも赤丸を附けていなかったので、それと知ったかどうか解らないが、用心のために何もかも察しているものとして、出来るだけ大事を取って、念入りに変装して下さい。団長も貴方(あなた)の顔は新聞の写真や何かで研究してよく知っている筈ですから……。
[#ここで字下げ終わり]
 ……と言葉を尽して忠告したので、その通りに取っときの変装をした物で、ここへ来がけに警視庁へ立ち寄って来た時も……私が志免ですが、何の御用でお見えになりましたか……というステキもない保証を貰って来た位である。見付かる筈は絶対にない。
 私は一寸(ちょっと)の間(ま)に、これだけの考えを廻(めぐ)らして自信を固めた。そうして今のはもしや自分の眼の迷いではなかったかと思いながら、もう一度よく見定めるつもりで、今しも第二周目に這入った五頭の馬を見た。
 第一頭……第二頭……カルロ・ナイン嬢は見物一同の喝采の声に応ずるために紫のハンカチを振って近付いて来た。そうして私の直ぐ背後(うしろ)あたりをチラリと見ただけで通過した。私の顔には視線を落さなかった。その次に来た鬚武者は、馬上に突立ち上って大手を拡げたまま近付いて来たが、これも私の直ぐ背後(うしろ)あたりを見ながら駈けて行った。あの鬚男がハドルスキーだな……ともう一度念のために番組を拡げて見るとハドルスキーの名は最後(ドッサリ)の真打(しんうち)格の位置に書いてある。私はすこし安心した。今のは自分の眼の迷いかも知れないと思った。
 第三周に這入った。今度はこっちからハドルスキーの顔を記憶するつもりで近づいて来るのを待ったが、今度もカルロ・ナイン嬢とハドルスキーは私に視線をくれなかった。前の通りに私のすぐ背後(うしろ)のあたりを見て行った。しかし、そのハドルスキーの後姿をじっと見送っているうちに、私はどこかで見たような男だな……と思った。見たとすれば多分、外国に居る時分の事と思われるが、私はそんな古い事のような気がしない。つい近頃の事のように思われてならぬ。けれどもこの時はどうしても思い出し得なかった。
 五頭の馬が勢よく楽屋の方へ駈け込んで行くと又、場内一面に拍手の音が波打った。カルロ・ナイン嬢の姿が三度ほどアンコールされた。三度目には馬から降りて、徒歩で出て来て一揖(いちゆう)したが、その気高い姿勢と、洗煉された足取りは、疑いもない宮廷舞踊の名手である事を証明していた。
 その姿が満場のどよめきを背後(うしろ)にして楽屋口に消え込むと、見物の中には申し合わせたように番組を出して次の曲目を見る人が多かった。私の前の席に居る霜降りマントに黒山高の白髯(はくぜん)紳士と、左に居る角帽制服のすらりとしたチャップリン髭の青年も大きな声で話を初めたが、二人は識(し)らない同志らしいけれども双方とも余程の馬好きらしく、最前から頻(しき)りに馬の話をし続けているのであった。
「面白かったですね」
「さようさ……最前の満洲馬よりも、馬が立派じゃから引っ立ちますな」
「満洲馬と哥薩克(コザック)馬はあんなに違うものでしょうか」
「違いますともさ。この頃の哥薩克馬には、ノースターや、アラビッシュの血が交っておりますのでな。哥薩克[#「哥薩克」は底本では「哥薩哥」と誤記]の頭目じゃったミスチェンコの乗馬なぞは立派なアングロ・アラビッシュのハンツグロで、しかも哥薩克以上に耐寒耐暑の力が強かったそうですがな」
「へえ……して見ると満洲馬はまるで駄馬ですね。小さくて……」
「さようさよう。あの次に小さいのは日本の対州馬でしょうよ。ハハハハ……しかし、よくこんなに各地の純粋種ばかり集めて乗り馴らしたものですなあ。余程金を費(つか)ったでしょう」
「人間と馬と対(つい)になっているんですからね」
「そうそう。全く感心ですな。この次の美人大曲馬にはどんなのが出て来るか……」
「あっ……美人大曲馬は一番先に済んでしまいましたよ。昨日(きのう)もそうでしたが……」
「ははあ。プログラムの都合ですかな。道理で時間がすこしおかしいと思いました。……それではこの次は『大馬と小犬』が始まる訳ですな」
「そうです。まだ時間がありますが」
「面白いですかな」
「ええ『大馬と小犬』も面白いですがその次の馬上の奇術っていうのが素敵なんです。何でも米国に帰化した伊太利(イタリー)の少年だという事ですが、曲馬と手品を一緒にやるんです。見物に頼んで自分の身体(からだ)を馬の上に縛らしておいて、自由自在に乗りこなす上に、七尺もあるハードルを飛び越したり、火の輪を潜り抜けたりする中(うち)に綺麗に縄を脱けてしまうんです。それから長い長い万国旗を馬の耳から引き出したり、帽子の中から火を燃やして、その中から鳩を掴み出したり、蝋(ろう)の弾丸(たま)を籠めたピストルでそれを撃ち落したり、いろんな事をするんです」
「ほほう……なかなか達者なものですナ」
「まだあるんです。一番おしまいにはビール樽(だる)の中に封じられて二頭の馬の背中に積まれたまま、ぐるぐるまわっているうちに、自分の姿とそっくりの人形を幾個(いくつ)も幾個もビール樽の中から地面(じびた)の上に投げ出すのです。それは確かに空(から)っぽのゴム人形だろうと思うんで、樽の中に仕掛けてある圧搾瓦斯(ガス)か何かで膨らますに違いないと思われるんですが、その投げ出し方が巧妙な上に、馬から落ちるとすぐに駈け付けて抱き上げたり介抱したりする楽屋連中の態度が又、とても真に迫っているので、その人形の一つ一つが生きたジョージ・クレイに見えてしようがないんです。……今のが本物だ……いや今度こそ……なんて皆がワーワー云い出すんです」
「成る程。ハハハ。それは眼新しいですな」
「そのうちに二頭の馬が、向うの真中あたりに来て左右に引き別れると、樽がばらばらになって、中には誰も居ない。それで初めて一番おしまいのゴム人形そっくりに見えたのが、本物のジョージ・クレイだったという事が解るんだそうです」
「ははあ。……何ですかそれじゃ貴方は昨日(きのう)御覧になったのじゃないですか」
「ええ……見ませんとも……友達がみんな話していたんです。このジョージ・クレイと今のカルロ・ナイン嬢がこの曲馬団の花形だって……」
「アハハハ……成る程成る程」
「……それから……その次の馬のダンスも面白いそうです」
 と青年は慌てて云い足した。
「何でも最前から曲馬をやった伊太利や亜米利加の美人や、外にまだ大勢居る座附(ざつき)の女が、全部薄い着物を着た半裸体の姿で、数十頭の裸馬と入れ交って、あの楽屋口から練り出して来て、愉快な音楽に合わせながらダンスを遣るんだそうです」
「ハハハ……。それは嘸(さぞ)かし面白いでしょう。毛唐はそんな事を好くものですからナ」
 青年ははっとしたらしく前後左右を見まわした。しかし近くに西洋人らしい者が居ないのを見て安心したらしかった。
 一方場内には二十名ばかりの音楽隊が輪を作ってコロンビア・マーチを奏していた。義勇兵式の空色のユニフォームに金銀のモールをあしらった綺羅(きら)びやかなバンドで、歯切れのいい鮮かなピッチが満場をしんとさせていた。
 私はその音楽を聞き、又前の二人の話に耳を傾けつつ、時計を出して時間を計(はか)っていた。そうして演奏が済むと同時に立ち上って、見物席の背後(うしろ)に出ようとした。その時にふと気が付いたが、私のすぐ真背後(まうしろ)の席にいつ来たものか十八九のハイカラな女優髷(じょゆうまげ)の女が、青い色眼鏡をかけて、片っ方の眼に薄桃色のガーゼを当てて坐っている。
 もっともそれだけの事ならば別に私の注意を惹きはしない。眼の悪い女は、よくこうしているものだが、私が驚いたのはこの女が、眼元はよくわからないが実に絶世の美人で、最前のカルロ・ナイン嬢に優(まさ)るとも劣らぬ容色を持っている事である。この女を見ると私の持論の「日本美人は西洋美人の敵でない」という主張が、根元からぐら付き出したような気がした。しかも不思議にもこの女は、最前カルロ・ナイン嬢が持っていた紫のハンカチと、同じような色の、同じ位の大きさのハンカチを軽く口の処に当てているのであるが、それが又、この女の着ている派手(はで)な紫色の錦紗縮緬(きんしゃちりめん)の被布(ひふ)や着物と一緒に、化粧を凝(こ)らしたこの女の容色を引っ立てて、妖艶を極めた風情を示している。あまりに俗悪な比喩ではあるが、最前のカルロ・ナイン嬢の容姿を雪の精に見立てるならば、この女は、その化粧の凝らし加減や、その妖艶を極めているところから見て、是非とも花の精と思わなければならぬであろう。それも普通の花の精ではない。たった一眼で人の魂を奪い、生命(いのち)までも取ろうとする毒草の精に譬(たと)えねばならぬ……それ程にこの女は深刻な、艶麗な美しさをもっている。二年前に私の鼻を明かした志村ノブ子を、私は不幸にしてたった一眼チラリと見ただけで、印象に深く残していないが、これも絶世の美人だったそうで、東洋銀行に金を受取りに行った時は、やはりこの女と同様に紫縮緬の被布を着て、紫色のハンカチを持っていたそうである。カルロ・ナイン嬢も最前、紫のハンカチを振っていた。又嘘か本当か知らないが、伝え聞くところに依ると、世界第一の美人として歴史に名高い埃及(エジプト)女王のクレオパトラも紫色が好きだったそうである。紫という色は、ほかの凡(すべ)ての色を打消して、自分の美を擅(ほしいまま)にするものだと何やらの本で見た事があるが、もしそうだとすれば絶世の美人と呼ばれる女の嗜好(しこう)は自然と一致するものではあるまいか。しかも絶世というのはこの世に一人か二人しか居ないという意味であるとすれば、もしやこの女は志村ノブ子であるまいか。
 私は女の容色に魅せられたようになって、こんな柄にもない突飛な疑問を起しながらじっと女の顔を見ていると、女も気が付いたかしてはっとしたように私の顔を見上げた。そうして極り悪そうに俯向(うつむ)いたまま、席を立って出て行った。
 後を見送った私は急に馬鹿馬鹿しくなった。志村ノブ子とは年が二十近くも違っている。おまけにこの女は処女である。処女でなければあんな風に軽い単純な吃驚(びっくり)し方をするものでない。そうして、あんな風に羞恥(はにか)んでおずおずと出て行くものでない。とにかく今日は妙な日だ。よく美しい女だの少年だのに会う日だ。
 その中(うち)に女はどこへか行ってしまった。自分もそのまま席を立って楽屋の前を通り抜けた。楽屋は近いうちに建築される東亜相互生命保険会社の板囲いと背中合せになっていて、そこへ行くのには演技場内から楽屋口を通って行くのと、一度表へ出て裏口から這入るのと二つの道しかない。しかし演技場内から楽屋へ行く通路の近所にはいつも一人か二人の団員が居ない事はないからうっかり這入れば直ぐに咎(とが)められるにきまっている。
 私は改札口に来て係りの女にちょっと用足しに出たいからと云ったら、女は返事をしないで直ぐ傍に腰をかけて、切符を勘定している小柄な、痩せこけた西洋人を見上げた。その男の耳は、よく進化論や遺伝学の書物の挿し絵に出て来るつんと尖(と)んがった動物耳で、見るからに無鉄砲な、冷血な性格をあらわしていたが、その恐ろしく高い鼻の左右から、青い眼をギョロギョロさして私を見ると、黙って……よろしい……という風に頷(うなず)いたまま、又一心に切符を勘定し初めた。その時にそこいらに立っていた二三人の丁稚(でっち)風の子供が、その西洋人と絵看板を見比べて、
「スタチオだ……スタチオだ……」
 と囁(ささや)き合ったので、私はモウ一度振り返ってその横顔を記憶に止めると、何かしらヒヤリとしながら、大急ぎで人混みに紛れ込んだ。ちょっと虎口(ここう)を逃れたような気持ちになって……。
 それから大きな天幕(テント)張りを故意(わざ)と遠い方にぐるりとまわって、東京駅の見える裏通りへ来ると、そこには厩(うまや)があって、凡(およ)そ三十頭位の馬が、共進会見たいに繋いであった。カルロ・ナイン嬢の白馬も向って右から七番目に居る。その前二間ばかりの処を、古い亜鉛(トタン)の低い垣で仕切って「入るべからず」と立札がしてあって、その垣の内外に山のように積んだ秣(まぐさ)の間から、楽屋の一部と、馬の出入口が見える。折よく人は一人も附いていないで、ただ通りかかりの者が十四五人立ち止まって、ぼんやりと馬の顔を見ているだけであった。
 傾いた日光が大天幕(テント)の左上から眩しく映(さ)して、馬の臭いや汚物の臭気が鼻を撲(う)った。
 私は猶予なく三尺ばかりの亜鉛(トタン)壁をヒラリと飛び越すと、恰(あたか)も係りの者であるかのように落ち着いた態度で、馬をいじり初めた。一匹毎(ごと)に鼻面を叩いたり、口を開かせてみたり、眼のふちを撫でたりしてやると、馬は皆温柔(おとな)しくして私が噛ませる黒砂糖包みの錠剤を一粒宛呑み込んだ。この錠剤の内容は前にも一度説明した通り、俗に馬酔木(あしび)とかアセモとかいう灌木の葉から精製したもので、人間に服(の)ませると朝鮮人参と同様の効果があるが、錠剤にして馬に与えるときっかり二十分位で気が荒くなって、狂人(きちがい)のようになって暴れ出す。その代り精製してあるのだから副作用や何かはちっとも起さずに十分か十五分位であっさりと鎮まってしまうので、これはワザワザ陸軍の廃馬を使って実験したものだから間違いはない。
 こうして都合よく誰にも見付からずに……見付かったら騎兵大佐の名刺を出して胡麻化(ごまか)すつもりであった……三十一頭の馬全部に、手早く錠剤を与えてしまうと、折柄、場内に哄(どっ)と大きな笑い声が起った。これは「大馬と小犬」の演技が初まっているので、この演技は、主役の支那人がなかなか上手(じょうず)だから、長くて四十分、短くて二十分以上は請合(うけあい)かかると嬢次少年は云った。その途中でこの厩の馬が一度に暴れ出す。……楽屋の者が総出で取り鎮めに来る。その隙に姿を換えた少年は、荷物部屋の奥に飛び込んでGEORGE(ジョージ)・CRAY(クレイ)と書いた真鍮張りのトランクを開いて、中にある黒い鞄を取り出して逃げるという計画である。
 持主が自分の品物を持って行き易いように手伝ってやるのだから泥棒ではない。しかしこの行為の形式は金箔付きの泥棒の手先で、尠(すくな)くとも曲馬団に対する営業妨害という事だけは断言出来る。ついこの間まで法律の執行者だった私が、こんな事をしようとは夢にも想像しなかった。しかし、これも嬢次少年のためとあれば仕方がない。

 元来私は初めての人間に出会うと、非常に警戒する性質(たち)で、善にまれ、悪にまれ、その人間の本性を底の底まで見抜いてしまった後でなければ、口を利きたくないという性分の男である。そうして一旦交際を初めても、暫くの間はその人間を疑問の圏内に保留しておいて、さり気なく様子を見ているので、この点から云えば私は思い切って卑怯な、疑い深い人間であった。……ところが今度ばかりはまるで調子が違っていて、私のそうした平生の性質とは全然正反対の事ばかりしている。まだ子供とはいえ素性の不確かな、しかも驚く程悧巧(りこう)な人間を直ぐに信用して、その境遇に心(しん)から同情して窃盗の助手を甘んじて引き受けている。これは恐らく私の退職後の気の緩みから来たものかも知れないが、自分でも変だと思って考え直そうとすると、直ぐに少年のあの無邪気な、愛くるしい顔が眼の前に浮んで来て……何卒(なにとぞ)私の生命(いのち)を保護して下さい。私が頼みにするお方は貴方より他にありませぬ……という声が耳底に聞えるように思われる。
 少年はその時私にこう云った。
「私はまだ一つ大切なものを曲馬場に残して来ております。私は是非それを取りに行かねばなりませぬ。それが敵の手にあるうちは、私は危険で一歩も外へ出る事が出来ないのですから……」
 と……。その時に私は、それが唯、黒いボックス革の手提鞄(てさげかばん)というだけで、中に何が入っているのか詳しく問い正しもしないまま直ぐに、
「それは私が取りに行ってやろう」
 と云った。それ位、私はこの少年に気乗りがしていたのである。そうして私が鞄を盗み出す方法について少年の意見を求めると、少年は深い感謝の眼付きをした。
「ありがとうございます。何卒それでは馬に薬を飲ませる仕事だけをお願い致します。馬さえ騒ぎ出せば、あとは私の方が勝手を知っておりますから仕事がしよいと思います。私は新宿から自動車で日蔭町へ行って、馬好きの学生か何かに化けて行くつもりですから……本当にお蔭で助かります」
 そう云った時の嬉しそうな子供子供しい眼付きと言葉は今でもありありと私の眼に残っている。それから私は少年を送り出すと、直ぐに変装をして家(うち)を飛び出して、警視庁(やくしょ)へ来て志免警視に面会して、
「近いうちに大仕事があるかも知れないから腹構えをしておくように……」
 と云い棄ててここへ来たので、後から思えばこの時の私は、嬢次少年を信用していたというよりも、寧ろその姿の美しさと、心根の真実さと、頭脳の明晰さに酔わされていたものと評すべきであろう。
 折から又一しきり場内でゲラゲラという笑い声がどよめいた。時計を出して見るとキッチリ三時十分である。今から約二十分の後(のち)――三時半前後には騒ぎが初まるのだ。私はズラリと並んだ馬の顔を一渡り見まわすと直ぐに亜鉛(トタン)塀を飛び出して、表の入口に来て、今度は切符を見せて無事に場内の特等席に帰った。私の背後(うしろ)に居た女優髷の女はまだ席に帰って来ない。大方私を不良老年と見て取って帰ってしまったのかも知れぬ。つまらない事をしたものだ。
 もう一度時計を出して見ると三時十三分になっている。
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