モルグ街の殺人事件
◇ピンチです!◇
◇暇つぶし何某◇

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著者名:ポーエドガー・アラン 

 サイレーンがどんな歌を歌ったか、またアキリースが女たちの間に身を隠したときどんな名を名のったかは、難問ではあるが、みなみな推量しかねることではない。
トマス・ブラウン卿[#改ページ]


 分析的なものとして論じられている精神の諸作用は、実は、ほとんど分析を許さぬものなのである。ただ結果から見て、それらを感知するにすぎない。そのなかでもわかっていることは、精神の諸作用を過分に身につけている人にとっては、これこそなによりも生き生きとした楽しみの源泉である、ということだ。ちょうど、強健な人が筋肉を働かせる運動を喜んで自分の肉体的能力を誇るのと同じように、分析家はものごとを解き明かす知的活動に熱中する。彼は、この才能を発揮できることなら、どんなつまらない仕事でも楽しんでやるのだ。彼は、謎(なぞ)や、難問や、象形文字が好きで、凡人の理解力では超自然とも見えるほどの明敏さで、それらを解き明かす。しかも、彼がありとあらゆる方法を尽して得た結論は、実のところ、まるで直観にしか見えないのだ。
 分析の能力は数学の研究によって、おそらく大いに活躍させられるだろう。ことに、その最高の部門であって、ただ逆行的なやり方をするというだけで、不当にも、とくに解析学と呼ばれているものによってだ。しかし、計算することはもともと分析することではない。たとえば、将棋(チェス)をさす人は、計算はするが、分析しようとはしない。だから、チェス遊びが心的性質に与える効果などは、ひどい誤解だということになる。私はいま、なにも論文を書いているのではない。ただ、たいへん勝手なことを述べて、いささか風変りな物語の序文にしようとしているだけである。ここでついでに、手が込んでいるわりにつまらないチェスなどよりは、地味な碁(ドラフツ)のほうが、もっと確実にもっと有効に、思索的知性の高い力を働かせるものだと、断言しよう。チェスは、駒がいろいろと奇妙な動き方をするし、その価値もさまざまで、しかも変るものだから、ただ単に複雑だというだけで(よくある誤謬(ごびゅう)だが)、なにか深奥なもののように誤られる。この場合、注意力こそ強く要求されるのだ。ちょっとでも注意がゆるむと、しくじって、大損するか負けになる。しかも駒の動きがまちまちで入り組んでいるために、しくじりのチャンスはますます大きくなる。そして、十中の九までは鋭敏な人よりも、集中力の強い人のほうが勝つ。その反対にドラフツでは、動きが一様(ユニーク)で変化が少なく、しくじる率も少ないし、わりあいに注意力も働かされずにすむので、利益はすべて、どちらかの優れて明敏なほうが得ることになる。もっと具体的に言えば――ドラフツのゲームで、駒が盤面にキング四つだけとなった場合を想像してみよう。もうこうなれば、無論しくじりの起るはずはない。するとこの場合の勝負は(両方の競技者がまったく互角として)、知力を強く働かせた結果としての、念入り(ルシェルシェ)な駒の動かし方だけで決ることは明らかである。普通の手がみな尽きてしまうと、分析家は相手の心のなかに自身を投げこみ、すっかり相手の心になりきって、相手を誘ってしくじらせたり、せきたてて誤算させたりする唯一の方法(ときには実にばかばかしいほど簡単な手なのだが)を、一目で発見することがよくある。
 ホイストは、いわゆる計算力を養うものとして早くから知られていて、最高級の知力を持つ人々はチェスをつまらないものとけなして、ちょっと不思議なほどホイストに凝ったものだ。たしかに、この種のものではホイストほど分析能力を働かせるものはほかにない。キリスト教国中で一番のチェスの名人だといっても、つまりはただチェスの名人だというにすぎない。ところがホイストの上手(じょうず)ということになると、心と心とがたたかうすべての、もっと重大な事業にも成功できるということを意味する。この上手というのは、正当な利益をもたらすすべてのつぼを、それぞれちゃんと知り抜いているといった、技(わざ)の完全な精通を意味するのである。これらのつぼは多種多様で、しかも多くの場合、普通の理解力ではぜんぜん近づきがたい思考の奥深くに隠れているのだ。注意深く観察するということは明瞭に記憶することであって、そこまでなら集中力の優れたチェスの棋客もホイストを十分うまくやるだろうし、またホイルの法則だって(それがゲームの単なるメカニズムに基づいたものである以上)誰にでも十分に理解できるものなのだ。だから、よい記憶で、「方式」どおりにやるということが、うまく勝負をする秘訣(ひけつ)だと一般に考えられている点である。ところが、分析家の腕の見せどころは、単なる法則の限界を越えたところにあるのだ。彼は黙っていながら多くの観察や推理をする。また、たぶん彼の仲間もそうする。それで、そうして得られた知識の範囲の違いは、推理の正しさよりも観察の質にあるのだ。必要な知識は、なにを観察すべきかを知ることなのである。わが分析的競技者は決して自分だけの中に閉じこもることをしないし、またゲームが目的だからといって、ゲーム以外のものごとからの推定を拒んだりはしない。彼はまず味方の顔つきをよく見てから、それを敵方の一人一人の顔つきと念入りに比較する。一人一人の手にある骨牌(かるた)の揃(そろ)え方を考え、ときどき持主が一枚一枚を眺める眼つきから、一つ一つの切札や絵札を数える。彼は競技の進行中ずっと、顔のあらゆる変化に注意し、確信や、驚きや、勝利や、口惜(くや)しさなどの表情の違いから、思惟(しい)の材料を集める。うち出された札を集める様子から、その人がその組でもう一度やれるかどうかを判断する。テーブルの上に札を投げ出す態度から、いかさまの手などはすぐ見破ってしまう。ひょいと、うっかりしゃべったひと言、どうかして札を落したり、表を見せたりして、あわてて引っこめたり、平気でいたりする態度、または、札を数えることや、それを並べる様子、当惑したり、ためらったり、あせったり、あわてたり――といったすべてのことは、見たところ直覚のような彼の知覚能力に、ちゃんとことの真相を示しているのである。だから、初めの二、三回がすむと、彼は一人一人の手にある札をすっかり知ってしまい、あとは、まるで他の連中が持札の全部をさらしてでもいるみたいに、絶対的な確信をもって自分の札を切り出すのである。
 分析力と、単なる工夫力とを、混同してはならない。なぜなら、分析家は工夫がうまいと決っているが、工夫のうまい人でも恐ろしく分析力のない人がときどきあるからである。この工夫力が普通あらわれるのは、構成力とか結合力によってであって、骨相学者たちはこの力を本源的能力と想像して別の器官をこれに割当てている(これは誤っていると私は信ずる)のであるが、この力は他の点ではまるで白痴に近い知力をもつ人々に実にしばしは見られるので、いままでにも倫理学者の間に広く注意をひいたくらいである。工夫力と分析力のあいだには、非常によく似通った性質のものではあるが、空想と想像のあいだの相違よりも、実にもっと大きな相違があるのである。
 これから語す物語は、いままで語った命題の注釈のように、読者諸君には見えるであろう。
 一八――年の春から夏にかけてパリに住んでいたとき、私はC・オーギュスト・デュパン氏という人と知合いになった。この若い紳士は良家の――実際に名家の出であったがいろいろ不運な出来事のために貧乏になり、そのために気力もくじけて、世間に出て活動したり、財産を挽回(ばんかい)しようとする元気もなくしてしまった。それでも、債権者たちの好意で、親ゆずりの財産の残りがまだ少しあったので、それから上がる収入でひどい節約をしながらどうかこうか生活の必需品を手に入れ、余分なもののことなど思いもしなかった。唯一の贅沢(ぜいたく)といえは、実に書物だけで、これはパリでたやすく手に入った。
 我々が初めて会ったのはモンマルトル街の名もない図書館で、そこで二人が偶然にも同じたいへん貴重な稀覯書(きこうしょ)を捜していたことから、いっそう親しくなったのであった。二人はたびたび会った。フランス人が自分のことを語るときにはいつも示すあの率直さで、彼が、詳しく話してくれた彼一家の小歴史は、非常に面白かった。私はまた、彼の読書の範囲のたいそう広いのに驚いた。そしてことに彼の想像力の奔放なはげしさと溌剌(はつらつ)たる清新さとは、私の魂を燃え立たせるように感じた。そのころ、私は求めるものがあってパリで捜していた。で、こういう人と交わることはなににもまさる宝であろうと思い、この気持をはっきり彼にうち明けた。で、とうとう私のパリ滞在中は、一緒に住もうということになった。そして、ちょうど、どんな迷信か問題にもしなかったが、とにかく迷信のために長いこと住み手のなかった、郭外(フォーブール)サン・ジェルマンの辺鄙(へんぴ)な淋しいところにある、崩れかけた、古い、怪しげな邸を借りた。その家賃や、また、二人に共通した気質である、いささか空想的な憂鬱にふさわしいように家具を備えつける費用を、私のほうが彼よりはいくらか暮し向きが楽だったので、私が受け持つことにした。
 ここでの我々の日常生活が世間に知れたなら、我々は狂人と――もっともたぶん、害のない狂人と――思われたにちがいない。我々の隠遁(いんとん)は完全なものであった。訪問者は一人もよせつけなかった。実際、我々の隠れ家は私の以前の仲間たちには注意深く秘密にしておいたし、デュパンがパリで世間と交渉を絶ってからよほど年がたっていた。我々はただ二人だけで暮していた。
 夜そのもののために夜を溺愛(できあい)するというのが、私の友の気まぐれな好み(というよりほかに何と言えよう?)であった。そしてこの奇癖(ビザルリー)にも、他のすべての彼の癖と同様に、私はいつの間にか陥って、まったく投げやりに彼の気違いじみた気まぐれに身をまかせてしまった。漆黒の夜の女神はいつも我々と一緒に住んでいるというわけにはいかない。が、我々は彼女を模造することはできる。ほのぼのと夜が明けかかると、我々はその古い建物の重々しい鎧戸(よろいど)をみんなしめてしまい、強い香りの入った、無気味にほんのかすかな光を放つだけの蝋燭(ろうそく)を二本だけともす。その光で二人は読んだり、書いたり、話したりして――夢想にふけり、時計がほんとうの暗黒の来たことを知らせるまでそうしている。それから一緒に街へ出かけ、昼間の話を続けたり、夜更けるまで遠く歩きまわったりして、にぎやかな都会の奇(く)しき光と影とのあいだに、静かな観察が与えてくれる、無限の精神的興奮を求めるのであった。
 そうしたときに私は、デュパンの特殊な分析的能力を認めたり、感嘆したりせずにはいられなかった(彼の豊富な想像力から十分に期待していたことだが)。
是非お友達にも!
■暇つぶし何某■

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