金色夜叉
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:尾崎紅葉 

 狭山は直(ぢき)に枕の下なる袱紗包(ふくさづつみ)の紙入(かみいれ)を取上げて、内より出(いだ)せる一包(いつぽう)の粉剤こそ、正(まさ)に両個(ふたり)が絶命の刃(やいば)に易(か)ふる者なりけれ。
 女は二つの茶碗(ちやわん)を置並ぶれば、玉の如き真白の粉末は封を披(ひら)きて、男の手よりその内に頒(わか)たれぬ。
「さあ、その酒を取つてくれ。お前のには俺が酌をするから、俺のにはお前が」
「ああ可うござんす」
 雨はこの時漸く霽(は)れて、軒の玉水絶々(たえだえ)に、怪禽(かいきん)鳴過(なきすぐ)る者両三声(さんせい)にして、跡松風の音颯々(さつさつ)たり。
 狭山はやがて銚子(ちようし)を取りて、一箇(ひとつ)の茶碗に酒を澆(そそ)げば、お静は目を閉ぢ、合掌して、聞えぬほどの忍音(しのびね)に、
「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」
 代りて酌する彼の想は、吾手(わがて)男の胸元(むなもと)に刺違(さしちが)ふる鋩(きつさき)を押当つるにも似たる苦しさに、自(おのづ)から洩出(もれい)づる声も打震ひて、
「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)、南無阿弥陀仏、南無(なむ)……阿弥陀(あみだ)……南無阿弥(なむあみ)……陀(だ)……仏(ぶつ)、南無(なむ)……」
 と両個(ふたり)は心も消入らんとする時、俄(にはか)に屋鳴(やなり)震動(しんどう)して、百雷一処に堕(お)ちたる響に、男は顛(たふ)れ、女は叫びて、前後不覚の夢か現(うつつ)の人影は、乍(たちま)ち顕(あらは)れて燈火(ともしび)の前に在り。
「貴方(あなた)方は、怪からん事を! 可けませんぞ」
 男は漸く我に復(かへ)りて、惧(お)ぢ愕(おどろ)ける目を□(みひら)き、
「ああ! 貴方(あなた)は」
「お見覚(みおぼえ)ありませう、あれに居る泊客(とまりきやく)です。無断にお座敷へ入つて参りまして、甚(はなは)だ失礼ぢや御座いますけれど、実に危い所! 貴下方はどうなすつたのですか」
 悄然(しようぜん)として面(おもて)を挙げざる男、その陰に半ば身を潜めたる女、貫一は両個(ふたり)の姿を□(みまは)しつつ、彼の答を待てり。
「勿論(もちろん)これには深い事情がお有んなさるのでせう。ですから込入(こみい)つたお話は承(うけたま)はらんでも宜(よろし)い、但何故(ただなにゆゑ)に貴下方は活(い)きてをられんですか、それだけお聞せ下さい」
「…………」
「お二人が添ふに添れん、と云ふやうな事なのですか」
 男は甚(はなは)だ微(かすか)に頷(うなづ)きつ。
「さやうですか。さうしてその添れんと云ふのは、何故(なにゆゑ)に添れんのです」
 彼は又黙せり。
「その次第を伺つて、私(わたくし)の力で及ぶ事でありましたら、随分御相談合手(あひて)にも成らうかと、実は考へるので。然し、お話の上で到底私如きの力には及ばず、成程活きてをられんのは御尤(ごもつとも)だ、他人の私(わたし)でさへ外に道は無い、と考へられるやうなそれが事情でありましたら、私は決してお止(とど)め申さん。ここに居て、立派に死なれるのを拝見もすれば、介錯(かいしやく)もして上げます。
 私(わたくし)もこの間に入つた以上は、空(むなし)く手を退(ひ)く訳には行かんのです。貴下方を拯(すく)ふ事が出来るか、出来んか、那一箇(どつちか)です。幸(さいはひ)に拯(すく)ふ事が出来たら、私は命の親。又出来なかつたら、貴下方はこの世に亡(な)い人。この世に亡い人なら、如何(いか)なる秘密をここで打明けたところが、一向差支無(さしつかへな)からうと私は思ふ。若(も)し命の親とすればです、猶更(なおさら)その者に裹(つつ)み隠す事は無いぢやありませんか。私は何も洒落(しやれ)に貴下方のお話を聴かうと云ふのぢやありません、可うございますか、顕然(ちやん)と聴くだけの覚悟を持つて聴くのです。さあ、お話し下さい!」

     第五章

 貫一は気を厳粛(おごそか)にして逼(せま)れるなり。さては男も是非無げに声出(いだ)すべき力も有らぬ口を開きて、
「はい御深切に……難有(ありがた)う存じます……」
「さあ、お話し下さい」
「はい」
「今更お裹(つつ)みなさる必要は無からう、と私は思ふ。いや、つい私は申上げんでをつたが、東京の麹町(こうじまち)の者で、間(はざま)貫一と申して、弁護士です。かう云ふ場合にお目に掛るのは、好々(よくよく)これは深い御縁なのであらうと考へるのですから、決して貴下方の不為(ふため)に成るやうには取計ひません。私も出来る事なら、人間両個(ふたり)の命を拯(すく)ふのですから、どうにでもお助け申して、一生の手柄に為て見たい。私はこれ程までに申すのです」
「はい、段々御深切に、難有う存じます」
「それぢや、お話し下さるか」
「はい、お聴に入れますで御座います」
「それは忝(かたじけ)ない」
 彼は始めて心安う座を取れば、恐る惶(おそ)る狭山は先(ま)づその姿を偸見(ぬすみみ)て、
「何からお話し申して宜(よろし)いやら……」
「いや、その、何ですな、貴下方は添ふに添れんから死ぬと有仰(おつしや)る――! 何為(なぜ)添れんのですか」
「はい、実は私は、恥を申しませんければ解りませんが、主人の金を大分遣(つか)ひ込みましたので御座います」
「はあ、御主人持(もち)ですか」
「さやうで御座います。私は南伝馬町(みなみてんまちよう)の幸菱(こうびし)と申します紙問屋の支配人を致してをりまして、狭山元輔(さやまもとすけ)と申しまする。又これは新橋に勤を致してをります者で、柏屋(かしわや)の愛子と申しまする」
 名宣(なの)られし女は、消えも遣(や)らでゐたりし人陰の闇(くら)きより僅(わづか)に躙(にじ)り出でて、面伏(おもぶせ)にも貫一が前に会釈しつ。
「はあ、成程」
「然るところ、昨今これに身請(みうけ)の客が附きまして」
「ああ、身請の? 成程」
「否でもその方へ参らんければ成りませんやうな次第。又私はその引負(ひきおひ)の為に、主人から告訴致されまして、活(い)きてをりますれば、その筋の手に掛りますので、如何(いか)にとも致方(いたしかた)が御座いませんゆゑ、無分別(むふんべつ)とは知りつつも、つい突迫(つきつ)めまして、面目次第も御座いません」
 彼等はその無分別を慙(は)ぢたりとよりは、この死失(しにぞこな)ひし見苦しさを、天にも地にも曝(さら)しかねて、俯(ふ)しも仰ぎも得ざる項(うなじ)を竦(すく)め、尚(なほ)も為ん方無さの目を閉ぢたり。
「ははあ。さうするとここに金さへ有れば、どうにか成るのでせう! 貴方の費消(つかひこみ)だつて、その金額を弁償して、宜(よろし)く御主人に詑(わ)びたら、無論内済に成る事です。婦人の方は、先方で請出すと云ふのなら、此方(こつち)でも請出すまでの事。さうして、貴方の引負(ひきおひ)は若干(いくら)ばかりの額(たか)に成るのですか」
「三千円ほど」
「三千円。それから身請の金は?」
 狭山は女を顧みて、二言三言(ふたことみこと)小声に語合(かたら)ひたりしが、
「何やかやで八百円ぐらゐは要(い)りますので」
「三千八百円、それだけ有つたら、貴下方は死なずに済むのですな」
 打算し来(きた)れば、真に彼等の命こそ、一人前一千九百円に過ぎざるなれ。
「それぢや死ぬのはつまらんですよ! 三千や四千の金なら、随分そこらに滾(ころが)つてゐやうと私は思ふ。就いては何とか御心配して上げたいと考へるのですが、先づとにかく貴下方の身の上を一番(ひとつ)悉(くはし)くお話し下さらんか」
 かかる際(きは)には如何ばかり嬉き人の言(ことば)ならんよ。彼はその偽(いつはり)と真(まこと)とを思ふに遑(いとま)あらずして、遣る方も無き憂身(うきみ)の憂きを、冀(こひねがは)くば跡も留めず語りて竭(つく)さんと、弱りし心は雨の柳の、漸く風に揺れたる勇(いさみ)を作(な)して、
「はい、ついに一面識も御座いません私共、殊(こと)に痴情の果に箇様(かよう)な不始末(ぶしまつ)を為出(しだ)しました、何(なに)ともはや申しやうも無い爛死蛇(やくざもの)に、段々と御深切のお心遣(こころづかひ)、却つて恥入りまして、実に面目次第も御座いません。
 折角の御言(おことば)で御座いますから、思召(おぼしめし)に甘えまして、一通りお話致しますで御座いますが、何から何まで皆恥で、人様の前ではほとほと申上げ兼ねますので御座います。
 実は、只今申上げました三千円の費消(つかひこみ)と申しますのは、究竟(つまり)遊蕩(あそび)を致しました為に、店の金に手を着けましたところ、始の内はどうなり融通も利(き)きましたので、それが病付(やみつき)に成つて、段々と無理を致しまして、長い間に□々(うかうか)穴を開けましたのが、積り積つて大分(だいぶん)に成りましたので御座います。
 然(しか)るところ、もう八方塞(ふさが)つて遣繰(やりくり)は付きませず、いよいよ主人には知れますので、苦紛(くるしまぎ)れに相場に手を出したのが怪我(けが)の元で、ちよろりと取られますと、さあそれだけ穴が大きく成りましたものですから、愈(いよい)よ為方御座いません、今度はどうか、今度はどうかで、もうさう成つては私も死物狂(しにものぐるひ)で、無理の中から無理を致して、続くだけ遣りましたところが、到頭逐倒(おひたふ)されて了ひまして、三千円と申上げました費消(つかひこみ)も、半分以上はそれに注込みましたので御座います。
 然し、これだけの事で御座いますれば、主人も従来(これまで)の勤労(つとめ)に免じて、又どうにも勘弁は致してくれましたので御座います。現にこの一条が発覚致しまして、主人の前に呼付けられました節も、この度(たび)の事は格別を以つて赦(ゆる)し難いところも赦して遣ると、箇様に申してはくれましたので」
「成程□」
「と申すのには、少し又仔細(しさい)が御座いますので。それは、主人の家内の姪(めひ)に当ります者が、内に引取つて御座いまして、これを私に妻(めあは)せやうと云ふ意衷(つもり)で、前々(ぜんぜん)からその話は有りましたので御座いますが、どうも私は気が向きませんもので、何と就かずに段々言延(いひのば)して御座いましたのを、決然(いよいよ)どうかと云ふ手詰(てづめ)の談(はなし)に相成(あひな)りましたので。究竟(つまり)、費消(つかひこみ)は赦して遣るから、その者を家内に持て、と箇様に主人は申すので御座います」
「大きに」
「其処(そこ)には又千百(いろいろ)事情が御座いまして、私の身に致しますと、その縁談は実に辞(ことわ)るにも辞りかねる義理に成つてをりますので、それを不承知だなどと吾儘(わがまま)を申しては、なかなか済む訳の者ではないので御座います」
「ああ、さうなのですか」
「そこへ持つて参つて、此度(こんど)の不都合で御座います、それさへ大目に見てくれやうと云ふので御座いますから、全(まる)で仇(かたき)をば恩で返してくれますやうな、申分(まをしぶん)の無い主人の所計(はからひ)。それを乖(もど)きましては、私は罰(ばち)が中(あた)りますので御座います。さうとは存じながら、やつぱり私の手前勝手で、如何(いか)にともその気に成れませんので、已(や)むを得ず縁談の事は拒絶(ことわり)を申しましたので御座います」
「うむ、成程」
「それが為に主人は非常な立腹で、さう吾儘(わがまま)を言ふのなら、費消(つかひこみ)を償(まと)へ、それが出来ずば告訴する。さうしては貴様の体に一生の疵(きず)が附く事だから、思反(おもひかへ)して主人の指図(さしず)に従へと、中に人まで入れて、未(ま)だ未だ申してくれましたのを、何処(どこ)までも私は剛情を張通して了つたので御座います」
「吁(ああ)! それは貴方が悪いな」
「はい、もう私の善いところは一つでも有るのぢや御座いません。その事に就きまして、主人に書置(かきおき)も致しましたやうな次第で、既に覚悟を極(きは)めました際(きは)まで、心懸(こころがかり)と申すのは、唯そればかりなので御座いました。
 で又その最中にこれの方の身請騒(みうけさわぎ)が起りましたので」
「成程!」
「これの母親と申すのは養母で御座いまして、私も毎々話を聞いてをりますが、随分それは非道な強慾な者で御座います。まあ悉(くはし)く申上げれば、長いお話も御座いますが、これも娘と申すのは名のみで、年季で置いた抱(かかへ)も同様の取扱(とりあつかひ)を致して、為て遣る事は為ないのが徳、稼(かせ)げるだけ稼がせないのは損だと云つたやうな了簡(りようけん)で、長い間無理な勤を為(さ)せまして、散々に搾(しぼ)り取つたので御座います。
 で、私の有る事も知つてはをりましたが、近頃私が追々廻らなく成つて参つたところから、さあ聒(やかまし)く言出しまして、毎日のやうに切れろ切れろで責め抜いてをります際に、今の身請の客が附いたので御座います。丁度去年の正月頃から来出した客で、下谷(したや)に富山銀行といふのが御座います、あれの取締役で」
「え□ 何……何……何ですか!」
「御承知で御座いますか、あの富山唯継(ただつぐ)と云ふ……」
「富山? 唯継!」
 その面色、その声音(こわね)! 彼は言下(ごんか)に皷怒(こど)して、その名に躍(をど)り被(かか)らんとする勢(いきほひ)を示せば、愛子は駭(おどろ)き、狭山は懼(おそ)れて、何事とも知らず狼狽(うろた)へたり。貫一は轟く胸を推鎮(おししづ)めても、なほ眼色(まなざし)の燃ゆるが如きを、両個(ふたり)が顔に忙(せはし)く注ぎて、
「その富山唯継が身請の客ですか」
「はい、さやうで御座いますが、貴方は御存じでゐらつしやいますので?」
「知つてゐます! 好く……知つてゐます!」
 狭山の打惑(うちまど)ふ傍(そば)に、女は密(ひそか)に驚く声を放てり。
「那奴(あいつ)が身請の?」
 問はるる愛子は、会釈して、
「はい、さやうなんで御座います」
「で、貴方は彼に退(ひ)かされるのを嫌(きら)つたのですな」
「はい」
「さうすると、去年の始から貴方はあれの世話に成つてをつたのですか」
「私はあんな人の世話なんぞには成りは致しません!」
「はあ? さうですか。世話に成つてゐたのぢやないのですか」
「いいえ、貴方。唯お座敷で始終呼れますばかりで」
「ああ、さうですか! それぢや旦那(だんな)に取つてをつたと云ふ訳ぢやないのですか」
 女は聞くも穢(けがらは)しと、さすが謂ふには謂れぬ尻目遣(しりめづかひ)して、
「私には、さう云ふ事が出来ませんので、今までついにお客なんぞを取つた事は、全然(まるつきり)無いんで御座います」
「ああ、さうですか! うむ、成程……成程な……解りました、好く解りました」
 狭山は俯(うつむ)きゐたり。
「それではかう云ふのですな、貴方は勤(つとめ)を為てをつても、外の客には出ずに、この人一個(ひとり)を守つて――さうですね」
「さやうです」
「さうして、余所(よそ)の身請を辞(ことわ)つて――富山唯継を振つたのだ! さうですな」
「はい」
 □忽(たちまち)に瞳(ひとみ)を凝(こら)せる貫一は、愛子の面(おもて)を熟視して止(や)まざりしが、やがてその眼(まなこ)の中に浮びて、輝くと見れば霑(うるほ)ひて出づるものあり。
「嗚呼(ああ)……感心しました! 実に立派な者です! 貴方は命を捨てても……この人と……添ひたいのですか!」
 何の故(ゆゑ)とも分かず彼の男泣に泣くを見て、両個(ふたり)は空(むなし)く呆(あき)るるのみ。
 貫一が涙なるか。彼はこの色を売るの一匹婦(いつひつぷ)も、知らず誰(たれ)か爾(なんぢ)に教へて、死に抵(いた)るまで尚(なほ)この頼(よ)り難(がた)き義に頼(よ)り、守り難(かた)き節を守りて、終(つひ)に奪はれざる者あるに泣けるなり。
 其の泣く所以(ゆゑん)なるか。彼はこの人の世に、さばかり清く新くも、崇(たふと)く優くも、高く麗(うるはし)くも、又は、完(まつた)くも大いなる者在るを信ぜざらんと為るばかりに、一度(ひとたび)は目前(まのあたり)睹(み)るを得て、その倒懸の苦を寛(ゆる)うせん、と心□(や)くが如く望みたりしを、今却りて浮萍(うきくさ)の底に沈める泥中の光に値(あ)へる卒爾(そつじ)の歓極(よろこびきは)まれればなり。
「勿論さう無けりや成らん事! それが女の道と謂ふもので、さう有るべきです、さう有るべき事です。今日(こんにち)のこの軽薄極(きはま)つた世の中に、とてもそんな心掛のある人間は、私は決して在るものではないと念つてをつた。で、もし在つたらば、どのくらゐ嬉からうと、さう念つてをつたのです。私は実に嬉い! 今夜のやうに感じた事は有りません。私はこの通泣いてゐる――涙が出るほど嬉いのです。私は人事(ひとごと)とは思はん、人事とは思はん訳が有るので、別して深く感じたのです」

 かく言ひて、貫一は忙々(いそがはし)く鼻洟(はな)打□(うちか)みつ。
「ふむ、それで富山はどうしました」
「来る度(たび)に何のかのと申しますのを、体好(ていよ)く辞(ことわ)るんで御座いますけれど、もう□(うるさ)く来ちや、一頻(ひとつきり)なんぞは毎日揚詰(あげづめ)に為れるんで、私はふつふつ不好(いや)なんで御座います。それに、あの人があれで大の男自慢で、さうして独(ひとり)で利巧ぶつて、可恐(おつそろし)い意気がりで、二言目(ふたことめ)には金々と、金の事さへ言へば人は難有(ありがた)がるものかと思つて、俺がかうと思(おも)や千円出すとか、ここへ一万円積んだらどうするとか、始終そんな有余るやうな事ばかり言ふのが癖だもんですから、衆(みんな)が『御威光』と云ふ仇名(あだな)を附けて了つて、何処へ行つたつて気障(きざ)がられてゐる事は、そりや太甚(ひど)いんで御座います」
「ああ、さうですか」
「そんな風なんですから、体好く辞つたくらゐぢや、なかなか感じは為ませんので、可(い)けもしない事を不相変(あひかはらず)執煩(しつくど)く、何だかだ言つてをりましたけれど、這箇(こつち)も剛情で思ふやうに行かないもんですから、了局(しまひ)には手を易(か)へて、内のお袋へ親談(ぢかだん)をして、内々話は出来たんで御座んせう。どうもそんなやうな様子で、お袋は全で気違のやうに成つて、さあ、私を責めて責めて、もう箸(はし)の上下(あげおろし)には言れますし、狭山と切れろ切れろの聒(やかまし)く成りましたのも、それからなので、私は辛(つら)さは辛し、熟(つくづ)くこんな家業は為る者ぢやないと、何(なんに)も解らずに面白可笑(おもしろをかし)く暮してゐた夢も全く覚めて、考へれば考へるほど、自分の身が余(あんま)りつまらなくて、もうどうしたら可いんだらう、と鬱(ふさ)ぎ切つてゐる矢先へ、今度は身請と来たんで御座います」
「うむ、身請――けれども、貴方を別にどう為たと云ふ事も無くて、直(すぐ)に身請と云ふのですか」
「さうなので」
「変な奴な! さう云ふ身請の為方(しかた)が、然し、有りますか」
「まあ御座いませんです」
「さうでせう。それで、身請をして他(ほか)へ囲(かこ)つて置かうとでも云ふのですか」
「はい、これまで色々な事を申しても、私が聴きませんもんで、末始終気楽に暮せるやうにして遣つたら、言分は無からうと云つたやうな訳で、まあ身請と出て来たんで。何ですか、今の妻君は、あれはどうだから、かう為るとか、ああ為るとか、好いやうな嬉(うれし)がらせを言つちやをりましたけれど」
 眉(まゆ)を昂(あ)げたる貫一、なぞ彼の心の裏(うち)に震ふものあらざらんや。
「妻君に就いてどう云ふ話が有るのですか」
「何んですか知りませんが、あの人の言ふんでは、その妻君は、始終寐てゐるも同様の病人で、小供は無し、用には立たず、有つても無いも同然だから、その内に隠居でもさせて、私を内へ入れてやるからと、まあさう云つたやうな口気(くちぶり)なんで御座います」
「さうして、それは事実なのですか、妻君を隠居させるなどと云ふのは」
「随分ちやらつぽこを言ふ人なんですから、なかなか信(あて)にはなりは致しませんが、妻君の病身の事や、そんなこんなで余(あんま)り内の面白くないのは、どうも全くさうらしいんで御座んす」
「ははあ」
 彼は遽(にはか)に何をや打案ずらん、夢むる如き目を放ちて、
「折合が悪いですか!……病身ですか!……隠居をさせるのですか!……ああ……さうですか!」
 宮の悔、宮の恨、宮の歎(なげき)、宮の悲(かなしみ)、宮の苦(くるしみ)、宮の愁(うれひ)、宮が心の疾(やまひ)、宮が身の不幸、噫(ああ)、竟(つひ)にこれ宮が一生の惨禍! 彼の思は今将(は)たこの憐(あはれ)むに堪へたる宮が薄命の影を追ひて移るなりき。
 貫一はかの生ける宮よりも、この死なんと為る女の幾許(いかばかり)幸(さいはひ)にかつ愚ならざるかを思ひて、又躬(みづから)の、先には己(おのれ)の愛する者を拯(すく)ふ能はずして、今却(かへ)りて得知らぬ他人に恵みて余有る身の、幾許(いかばかり)幸(さち)無くも又愚なるかを思ひて、謂ふばかり無く悲めるなり。
 時に愛子は話を継ぎぬ。貫一は再び耳を傾けつ。
「そんな捫懌(もんちやく)最中に、狭山さんの方が騒擾(さわぎ)に成りましたんで、私の事はまあどうでも、ここに三千円と云ふお金が無い日には、訴へられて懲役に遣られると云ふんですから、私は吃驚(びつくら)して了つて、唯もう途方に昧(く)れて、これは一処に死ぬより外は無いと、その時直(すぐ)にさう念つたんで御座います。けれども、又考へて、背に腹は替へられないから、これは不如(いつそ)富山に訳を話して、それだけのお金をどうにでも借りるやうに為やうかとも思つて見まして、狭山さんに話しましたところ、俺の身はどうでも、お前の了簡ぢや、富山の処へ行くのが可いか、死ぬのが可いか、とかう申すので御座いませう」
「うむ、大きに」
「私はあんな奴に自由に為れるのはさて置いて、これまでの縁を切るくらゐなら死んだ方が愈(まし)だと、初中終(しよつちゆう)言つてをりますんですから、あんな奴に身を委(まか)せるの、不好(いや)は知れてゐます」
「うむ、さうとも」
「さうなんですけれど金ゆゑで両個(ふたり)が今死ぬのも余(あんま)り悔いから、三千円きつと出すか、出さないか、それは分りませんけれど、もし出したらば出さして、なあに私は那裏(あつち)へ行つたつて、直(ぢき)に迯(に)げて来さへすりや、切れると云ふんぢやなし、少(すこし)の間(ま)不好(いや)な夢を見たと思へば、それでも死ぬよりは愈(まし)だらう、と私はさう申しますと、狭山さんは、それは詐取(かたり)だ……」
「それは詐取(かたり)だ! さうとも」
 あだかも我名の出でしままに、男はこれより替りて陳(の)べぬ。
「詐取(かたり)で御座いますとも! 情婦(をんな)を種に詐取を致すよりは、費消(つかひこみ)の方が罪は夐(はるか)に軽う御座います。そんな悪事を働いてまでも活きてゐやうとは、私(わたくし)は決して思ひは致しません。又これに致しましても、あれまで振り通した客に、今と成つて金ゆゑ体を委(まか)せるとは、如何(いか)なる事にも、余(あんま)り意気地が無さ過ぎて、それぢや人間の皮を被(かぶ)つてゐる効(かひ)が御座りませんです。私は金に窮(つま)つて心中なんぞを為た、と人に嗤(わらわ)れましても、情婦(をんな)の体を売つたお陰で、やうやう那奴(あいつ)等は助つてゐるのだ、と一生涯言れますのは不好(いや)で御座います。そんな了簡が出ます程なら、両個(ふたり)の命ぐらゐ助ける方は外に幾多(いくら)も御座いますので。
 ここに活きてゐやうと云ふには、どうでもこの上の悪事を為んければ成りませんので、とても死ぬより外は無い! 私は死ぬと覚悟を為たが、お前の了簡はどうか、と実は私が申しましたので」
「成程。そこで貴方が?」
「私は今更富山なんぞにどうしやうと申したのも、究竟(つまり)私ゆゑにそんな訳に成つた狭山さんが、どうにでも助けたいばかりなんで御座いますから、その人が死ぬと言ふのに、私一箇(ひとり)残つてゐたつて、為様が有りは致しません。貴方が死ぬなら、私も死ぬ――それぢや一処にと約束を致して、ここへ参つたんで御座います」
「いや、善く解りました!」
 貫一は宛然(さながら)我が宮の情急(じようきゆう)に、誠壮(まことさかん)に、凛(りん)たるその一念の言(ことば)を、かの当時に聴くらん想して、独(ひと)り自ら胸中の躍々として痛快に堪(た)へざる者あるなり。
 正にこれ、垠(はてし)も知らぬ失恋の沙漠(さばく)は、濛々(もうもう)たる眼前に、麗(うるはし)き一望のミレエジは清絶の光を放ちて、甚(はなは)だ饒(ゆたか)に、甚だ明(あきら)かに浮びたりと謂はざらん哉(や)。
 彼は幾(ほとん)どこの女の宮ならざるをも忘れて、その七年の憂憤を、今夜の今にして始て少頃(しばらく)も破除(はじよ)するの間(いとま)を得つ。信(まこと)に得難かりしこの間(いとま)こそ、彼が宮を失ひし以来、唯(ただ)これに易(か)へて望みに望みたりし者ならずと為(せ)んや。
 嗚呼(ああ)麗(うるはし)きミレエジ!
 貫一が久渇(きゆうかつ)の心は激く動(うごか)されぬ。彼は声さへやや震ひて、
「さう申しては失礼か知らんが、貴方の商売柄で、一箇(ひとり)の男を熟(じつ)と守つて、さうしてその人の落目に成つたのも見棄てず、一方には、身請の客を振つてからに、後来(これから)花の咲かうといふ体を、男の為には少しも惜まずに死なうとは、実に天晴(あつぱれ)なもの! 余り見事な貴方のその心掛に感じ入つて、私は……涙が……出ました。
 貴方は、どうか生涯その心掛を忘れずにゐて下さい! その心掛は、貴方の宝ですよ。又狭山さんの宝、則(すなは)ち貴下方夫婦の宝なのです!
 今後とも、貴方は狭山さんの為には何日(いつ)でも死んで下さい。何日でも死ぬと云ふ覚悟は、始終きつと持つてゐて下さい。可う御座いますか。
 千万人の中から唯一人見立てて、この人はと念(おも)つた以上は、勿論(もちろん)その人の為には命を捨てるくらゐの了簡が無けりや成らんのです。その覚悟が無いくらゐなら、始から念はん方が可いので、一旦念つたら骨が舎利(しやり)に成らうとも、決して志を変へんと云ふのでなければ、色でも、恋でも、何でもないです! で、若(も)し好いた、惚(ほ)れたと云ふのは上辺(うはべ)ばかりで、その実は移気な、水臭い者とも知らず、這箇(こつち)は一心に成つて思窮(おもひつ)めてゐる者を、いつか寝返(ねがへり)を打れて、突放されるやうな目に遭(あ)つたと為たら、その棄てられた者の心の中は、どんなだと思ひますか」
 彼の声音(こわね)は益す震へり。
「さう云ふのが有ります! 私は世間にはさう云ふのの方が多いと考へる。そんな徒爾(いたづら)な色恋は、為た者の不仕合(ふしあはせ)、棄てた者も、棄てられた者も、互に好(い)い事は無いのです。私は現にさう云ふのを睹(み)てゐる! 睹てゐるから今貴下方がかうして一処に死ぬまでも離れまいと云ふまでに思合つた、その満足はどれ程で、又そのお互の仕合は、実に謂ふに謂はれん程の者であらう、と私は思ふ。
 それに就けても、貴方のその美い心掛、立派な心掛、どうかその宝は一生肌身(はだみ)に附けて、どんな事が有らうとも、決して失はんやうに為て下さい!――可う御座いますか。さうして、貴下方はお二人とも末長く、です、毎(いつ)も今夜のやうなこの心を持つて、睦(むつまじ)く暮して下さい、私はそれが見たいのです!
 今は死ぬところでない、死ぬには及びません、三千円や四千円の事なら、私がどうでも為て上げます」
 聞訖(ききをは)りし両個(ふたり)が胸の中は、諸共(もろとも)に潮(うしほ)の如きものに襲はれぬ。
 未(ま)だ服さざりし毒の俄(にはか)に変じて、この薬と成れる不思議は、喜ぶとよりは愕(おどろ)かれ、愕くとよりは打惑(うちまど)はれ、惑ふとよりは怪(あやし)まれて、鬼か、神か、人ならば、如何(いか)なる人かと、彼等は覚えず貫一の面(おもて)を見据ゑて、更にその目を窃(ひそか)に合せつ。
 四辺(あたり)も震ふばかりに八声(やこゑ)の鶏(とり)は高く唱(うた)へり。
 夜すがら両個(ふたり)の運星蔽(おほ)ひし常闇(とこやみ)の雲も晴れんとすらん、隠約(ほのぼの)と隙洩(すきも)る曙(あけぼの)の影は、玉の緒(を)長く座に入りて、光薄るる燈火(ともしび)の下(もと)に並べるままの茶碗の一箇(ひとつ)に、小(ちひさ)き蛾(が)有りて、落ちて浮べり。
[#改ページ]

  新続金色夜叉


     第一章

 生れてより神仏(かみほとけ)を頼み候事(さふらふこと)とては一度も無御座候(ござなくさふら)へども、此度(このたび)ばかりはつくづく一心に祈念致し、吾命(わがいのち)を縮め候代(さふらふかはり)に、必ず此文は御目(おんめ)に触れ候やうにと、それをば力に病中ながら筆取りまゐらせ候。幸(さいはひ)に此の一念通じ候て、ともかくも御披(おんひらか)せ被下候(くだされさふら)はば、此身は直ぐ相果(あひは)て候とも、つゆ憾(うらみ)には不存申候(ぞんじまをさずさふらふ)。元より御憎悪強(おんにくしみつよ)き私(わたくし)には候(さふら)へども、何卒(なにとぞ)是(これ)は前非を悔いて自害いたし候一箇(ひとり)の愍(あはれ)なる女の、御前様(おんまへさま)を見懸(みか)けての遺言(ゆいごん)とも思召(おぼしめ)し、せめて一通(ひととほ)り御判読(ごはんどく)被下候(くだされさふら)はば、未来までの御情(おんなさけ)と、何より嬉(うれし)う嬉う存上(ぞんじあ)げまゐらせ候。
 扨(さて)とや、先頃に久々とも何とも、御生別(おんいきわかれ)とのみ朝夕(あさゆふ)に諦(あきら)め居(を)り候御顔(おんかほ)を拝し、飛立つばかりの御懐(おんなつか)しさやら、言ふに謂れぬ悲しさやらに、先立つものは涙にて、十年越し思ひに思ひまゐらせ候事何一つも口には出ず、あれまでには様々の覚悟も致し、また心苦(こころぐるし)き御目(おんめ)もじの恥をも忍び、女の身にてはやうやうの思にて参じ候効(さふらふかひ)も無く、誠に一生の無念に存じまゐらせ候。唯其折(ただそのをり)の形見には、涙の隙(ひま)に拝しまゐらせ候御姿(おんすがた)のみ、今に目に附き候て旦暮(あけくれ)忘(わす)れやらず、あらぬ人の顔までも御前様(おんまへさま)のやうに見え候て、此頃は心も空に泣暮し居りまゐらせ候。
 久(ひさし)う御目(おんめ)もじ致さず候中(さふらふうち)に、別の人のやうに総(すべ)て御変(おんかは)り被成(なされ)候も、私(わたくし)には何(なに)とやら悲く、又殊(こと)に御顔の羸(やつれ)、御血色の悪さも一方(ひとかた)ならず被為居候(ゐらせられさふらふ)は、如何(いか)なる御疾(おんわづらひ)に候や、御見上(おんみあ)げ申すも心細く存ぜられ候へば、折角御養生被遊(あそばされ)、何は措(お)きても御身は大切に御厭(おんいと)ひ被成候(なされさふらふ)やう、くれぐれも念じ上(あげ)候。それのみ心に懸り候余(さふらふあまり)、悲き夢などをも見続け候へば、一入(ひとしほ)御案(おんあん)じ申上まゐらせ候。
 私事恥を恥とも思はぬ者との御さげすみを顧(かへりみ)ず、先頃推(お)して御許(おんもと)まで参(さん)し候胸の内は、なかなか御目もじの上の辞(ことば)にも尽し難(がた)くと存候(ぞんじさふら)へば、まして廻らぬ筆には故(わざ)と何も記(しる)し申さず候まま、何卒(なにとぞ)々々宜(よろし)く御汲分(おんくみわけ)被下度候(くだされたくさふらふ)。さやうに候へば、其節(そのせつ)の御腹立(おんはらだち)も、罪ある身には元より覚悟の前とは申しながら、余(あまり)とや本意無(ほいな)き御別(おんわかれ)に、いとど思は愈(まさ)り候(さふらふ)て、帰りて後は頭痛(つむりいた)み、胸裂(むねさく)るやうにて、夜の目も合はず、明る日よりは一層心地悪(あし)く相成(あひなり)、物を見れば唯涙(ただなみだ)こぼれ、何事とも無きに胸塞(むねふさが)り、ふとすれば思迫(おもひつ)めたる気に相成候て、夜昼と無く劇(はげし)く悩み候ほどに、四日目には最早起き居り候事も大儀に相成、午過(ひるすぎ)より蓐(とこ)に就き候まま、今日まで□々(ぶらぶら)致候(いたしさふらふ)て、唯々懐(なつかし)き御方(おんかた)の事のみ思続(おもひつづ)け候(さふらふ)ては、みづからの儚(はかな)き儚き身の上を慨(なげ)き、胸は愈(いよい)よ痛み、目は見苦(みぐるし)く腫起(はれあが)り候て、今日は昨日(きのふ)より痩衰(やせおとろ)へ申候(まをしさふらふ)。
 かやうに思迫(おもひつ)め候気(さふらふき)にも相成候上(あひなりさふらふうへ)に、日毎に闇(やみ)の奥に引入れられ候やうに段々心弱り候へば、疑(うたがひ)も無く信心の誠顕(まことあらは)れ候て、此の蓐(とこ)に就(つ)き候が元にて、はや永からぬ吾身とも存候(ぞんじさふらふ)まま、何卒(なにとぞ)これまでの思出には、たとひ命ある内こそ如何(いか)やうの御恨(おんうらみ)は受け候とも、今はの際(きは)には御前様(おんまへさま)の御膝(おんひざ)の上にて心安く息引取(いきひきと)り度(た)くと存候へども、それは□(かな)はぬ罪深き身に候上は、もはや再び懐(なつかし)き懐き御顔も拝し難く、猶又前非の御ゆるしも無くて、此儘(このまま)相果て候事かと、諦(あきら)め候より外無く存じながら、とてもとても諦めかね候苦しさの程は、此心(このこころ)の外に知るものも、喩(たと)ふるものも無御座候(ござなくさふらふ)。是(これ)のみは御憎悪(おんにくしみ)の中にも少(すこし)は不愍(ふびん)と思召(おぼしめし)被下度(くだされたく)、かやうに認(したた)め居(を)り候内(さふらふうち)にも、涙こぼれ候て致方無(いたしかたな)く、覚えず麁相(そそう)いたし候て、かやうに紙を汚(よご)し申候。御容(おんゆる)し被下度候(くだされたくさふらふ)。
 さ候へば私事(わたくしこと)如何(いか)に自ら作りし罪の報(むくい)とは申ながら、かくまで散々の責苦(せめく)を受け、かくまで十分に懺悔致(ざんげいた)し、此上は唯死ぬるばかりの身の可哀(あはれ)を、つゆほども御前様には通じ候はで、これぎり空(むなし)く相成候が、余(あまり)に口惜(くちをし)く存候故(ぞんじさふらふゆゑ)、一生に一度の神仏(かみほとけ)にも縋(すが)り候て、此文には私一念を巻込め、御許(おんもと)に差出(さしいだ)しまゐらせ候。
 返す返すも悔(くやし)き熱海の御別(おんわかれ)の後の思、又いつぞや田鶴見(たずみ)子爵の邸内にて図らぬ御見致候(ごけんいたしさふらふ)而来(このかた)の胸の内、其後(そののち)途中(とちゆう)にて御変(おんかは)り被成候(なされさふらふ)荒尾様(あらをさま)に御目(おんめ)に懸り、しみじみ御物語(おんものがたり)致候事(いたしさふらふこと)など、先達而中(せんだつてじゆう)冗(くど)うも冗うも差上申候(さしあげまをしさふらふ)。毎度の文にて細(こまか)に申上候へども、一通の御披(おんひらか)せも無之(これなき)やうに仰せられ候へば、何事も御存無(ごぞんじな)きかと、誠に御恨(おんうらめし)う存上候(ぞんじあげさふらふ)。百度千度(ももたびちたび)繰返(くりかへ)し候ても、是非に御耳に入れまゐらせ度存候(たくぞんじさふら)へども、今此の切なく思乱れ居(をり)候折(さふらふをり)から、又仮初(かりそめ)にも此上に味気無(あぢきな)き昔を偲び候事は堪難(たへがた)く候故、ここには今の今心に浮び候ままを書続けまゐらせ候。
 何卒(なにとぞ)余所(よそ)ながらも承(うけたま)はり度(たく)存上候(ぞんじあげさふらふ)は、長々御信(おんたより)も無く居らせられ候御前様(おんまへさま)の是迄(これまで)如何(いか)に御過(おんすご)し被遊候(あそばされさふらふ)や、さぞかし暴(あら)き憂世(うきよ)の波に一方(ひとかた)ならぬ御艱難(ごかんなん)を遊(あそば)し候事と、思ふも可恐(おそろし)きやうに存上候(ぞんじあげさふらふ)を、ようもようも御(おん)めでたう御障無(おんさはりな)う居らせられ、悲き中にも私の喜(よろこび)は是一つに御座候。
 御前様(おんまへさま)の数々御苦労被遊候間(あそばされさふらふあひだ)に、私とても始終人知らぬ憂思(うきおもひ)を重ね候て、此世には苦みに生れ参り候やうに、唯儚(ただはかな)き儚き月日を送りまゐらせ候。吾身(わがみ)ならぬ者は、如何(いか)なる人も皆(みな)可羨(うらやまし)く、朝夕の雀鴉(すずめからす)、庭の木草に至る迄(まで)、それぞれに幸(さいはひ)ならぬは無御座(ござなく)、世の光に遠き囹圄(ひとや)に繋(つなが)れ候悪人(さふらふあくにん)にても、罪ゆり候日(さふらふひ)の楽(たのしみ)は有之候(これありさふらふ)ものを、命有らん限は此の苦艱(くげん)を脱(のが)れ候事(さふらふこと)□(かな)はぬ身の悲しさは、如何に致候(いたしさふら)はば宜(よろし)きやら、御推量被下度候(くだされたくさふらふ)。申すも異な事に候へども、抑(そもそ)も始より我(わたくし)心には何とも思はぬ唯継(ただつぐ)に候へば、夫婦の愛情と申候ものは、十年が間に唯の一度も起り申さず、却(かへ)つて憎き仇(あだ)のやうなる思も致し、其傍(そのそば)に居り候も口惜(くちをし)く、倩(つくづ)く疎(うと)み果て候へば、三四年前(ぜん)よりは別居も同じ有様に暮し居候始末にて、私事一旦の身の涜(けがれ)も漸(やうや)く今は浄(きよ)く相成、益(ますます)堅く心の操(みさを)を守り居りまゐらせ候。先頃荒尾様より御譴(おんしかり)も受け、さやうな心得は、始には御前様に不実の上、今又唯継に不貞なりと仰せられ候へども、其の始の不実を唯今思知り候ほどの愚(おろか)なる私が、何とて後の不貞やら何やら弁(わきま)へ申すべきや。愚なる者なればこそ人にも勾引(かどはか)され候て、帰りたき空さへ見えぬ海山の果に泣倒れ居り候を、誰一箇(たれひとり)も愍(あはれ)みて救はんとは思召し被下候(くだされさふら)はずや。御前様にも其の愚なる者を何とも思召(おぼしめ)し被下候(くだされさふら)はずや。愚なる者の致せし過(あやまち)も、並々の人の過も、罪は同きものに御座候や、重きものに御座候や。
 愚なる者の癖に人がましき事申上候やうにて、誠に御恥(おんはづかし)う存候(ぞんじさふら)へども、何とも何とも心得難(こころえがた)く存上候(ぞんじあげさふらふ)は、御前様(おんまへさま)唯今(ただいま)の御身分に御座候(ござさふらふ)。天地は倒(さかさま)に相成候とも、御前様(おんまへさま)に限りてはと、今猶(いまなほ)私は疑ひ居り候ほど驚入(おどろきいり)まゐらせ候。世に生業(なりはひ)も数多く候に、優き優き御心根にもふさはしからぬ然(さ)やうの道に御入(おんい)り被成候(なされさふらふ)までに、世間は鬼々(おにおに)しく御前様(おんまへさま)を苦め申候(まをしさふらふ)か。田鶴見様方(たずみさまかた)にて御姿(おんすがた)を拝し候後(さふらふのち)始(はじめ)て御噂承(おんうはさうけたま)はり、私は幾日(いくか)も幾日も泣暮し申候。これには定て深き仔細(しさい)も御座候はんと存候へども、玉と成り、瓦(かはら)と成るも人の一生に候へば、何卒(なにとぞ)昔の御身に御立返(おんたちかへ)り被遊(あそばされ)、私の焦れ居りまゐらせ候やうに、多くの人にも御慕(おんしたは)れ被遊候(あそばされさふらふ)御出世の程をば、偏(ひとへ)に偏(ひとへ)に願上(ねがいあげ)まゐらせ候。世間には随分賢からぬ者の好き地位を得て、時めかし居り候も少からぬを見るにつけ、何故(なにゆゑ)御前様(おんまへさま)には然(さ)やうの善からぬ業(わざ)を択(より)に択りて、折角の人に優(すぐ)れし御身を塵芥(ちりあくた)の中に御捨(おんす)て被遊候(あそばされさふらふ)や、残念に残念に存上(ぞんじあげ)まゐらせ候。
 愚なる私の心得違(こころえちがひ)さへ無御座候(ござなくさふら)はば、始終(しじゆう)御側(おんそば)にも居り候事とて、さやうの思立(おもひたち)も御座候節(ござさふらふせつ)に、屹度(きつと)御諌(おんいさ)め申候事も叶(かな)ひ候ものを、返らぬ愚痴ながら私の浅はかより、みづからの一生を誤り候のみか、大事の御身までも世の廃(すた)り物に致させ候かと思ひまゐらせ候へば、何と申候私の罪の程かと、今更御申訳(おんまをしわけ)の致しやうも無之(これなく)、唯そら可恐(おそろ)しさに消えも入度(いりた)く存(ぞんじ)まゐらせ候。御免(おんゆる)し被下度(くだされたく)、御免し被下度(くだされたく)、御免し被下度候。
 私は何故(なにゆゑ)富山に縁付き申候や、其気(そのき)には相成申候や、又何故御前様の御辞(おんことば)には従ひ不申(まをさず)候や、唯今(ただいま)と相成候て考へ申候へば、覚めて悔(くやし)き夢の中のやうにて、全く一時の迷とも可申(まをすべく)、我身ながら訳解らず存じまゐらせ候。二つ有るものの善きを捨て、悪(あし)きを取り候て、好んで箇様(かよう)の悲き身の上に相成候は、よくよく私に定り候運と、思出(おもひいだ)し候ては諦(あきら)め居り申候。
 其節御前様の御腹立(おんはらだち)一層強く、私をば一打(ひとうち)に御手に懸け被下候(くだされさふら)はば、なまじひに今の苦艱(くげん)は有之間敷(これあるまじく)、又さも無く候はば、いつそ御前様の手籠(てごめ)にいづれの山奥へも御連れ被下候(くだされさふら)はば、今頃は如何なる幸(さいはひ)を得候事やらんなど、愚なる者はいつまでも愚に、始終愚なる事のみ考居(かんがへを)り申候。
 嬉くも御赦(おんゆるし)を得、御心解けて、唯二人熱海に遊び、昔の浜辺に昔の月を眺(なが)め、昔の哀(かなし)き御物語を致し候はば、其の心の内は如何に御座候やらん思ふさへ胸轟(むねとどろ)き、書く手も震ひ申候。今も彼(か)の熱海に人は参り候へども、そのやうなる楽(たのしみ)を持ち候ものは一人も有之(これある)まじく、其代(そのかはり)には又、私如(わたくしごと)き可憐(あはれ)の跡を留め候て、其の一夜(いちや)を今だに歎き居り候ものも決して御座あるまじく候。
 世をも身をも捨て居り候者にも、猶(なほ)肌身放(はだみはな)さず大事に致候宝は御座候。それは御遺置(おんのこしおき)の三枚の御写真にて何見ても楽み候はぬ目にも、是(これ)のみは絶えず眺め候て、少しは憂さを忘れ居りまゐらせ候。いつも御写真に向ひ候へば、何くれと当時の事憶出(おもひだ)し候中に、うつつとも無く十年前(ぜん)の心に返り候て、苦き胸も暫(しばし)は涼(すずし)く相成申候。最も所好(すき)なるは御横顔の半身のに候へども、あれのみ色褪(いろさ)め、段々薄く相成候が、何より情無く存候へども、長からぬ私の宝に致し候間は仔細も有るまじく、亡(な)き後には棺の内に歛(をさ)めもらひ候やう、母へは其(それ)を遺言に致候覚悟に御座候。
 ある女世に比無(たぐひな)き錦(にしき)を所持いたし候処(さふらふところ)、夏の熱き盛(さかり)とて、差当(さしあた)り用無く思ひ候不覚より、人の望むままに貸与へ候後は、いかに申せども返さず、其内に秋過ぎ、冬来(ふゆきた)り候て、一枚の曠着(はれぎ)さへ無き身貧に相成候ほどに、いよいよ先の錦の事を思ひに思ひ候へども、今は何処(いづこ)の人手に渡り候とも知れず、日頃それのみ苦に病み、慨(なげ)き暮し居り候折から、さる方にて計らず一人の美き女に逢ひ候処、彼(か)の錦をば華(はなや)かに着飾り、先の持主とも知らず貧き女の前にて散々(さんざん)ひけらかし候上に、恥まで与へ候を、彼女(かのをんな)は其身の過(あやまり)と諦(あきら)め候て、泣く泣く無念を忍び申候事に御座候が、其錦に深き思の繋(かか)り候ほど、これ見よがしに着たる女こそ、憎くも、悔(くやし)くも、恨(うらめし)くも、謂はうやう無き心の内と察せられ申候。
 先達而(せんだつて)は御許(おんもと)にて御親類のやうに仰せられ候御婦人に御目に掛りまゐらせ候。毎日のやうに御出(おんい)で被成候(なされさふらふ)て、御前様の御世話(おんせわ)万事被遊候(あそばされさふらふ)御方(おんかた)の由(よし)に候へば、後にて御前様さぞさぞ御大抵ならず御迷惑被遊候(あそばされさふらふ)御事(おんこと)と、山々御察(おんさつ)し申上候へども、一向さやうに御内合(おんうちあひ)とも存ぜず、不躾(ぶしつけ)に参上いたし候段は幾重にも、御詫申上(おんわびまをしあげ)まゐらせ候。
 尚(なほ)数々(かずかず)申上度(まをしあげたく)存候事(ぞんじさふらふこと)は胸一杯にて、此胸の内には申上度事(まをしあげたきこと)の外は何も無御座候(ござなくさふら)へば、書くとも書くとも尽き申間敷(まをすまじく)、殊(こと)に拙(つたな)き筆に候へば、よしなき事のみくだくだしく相成候ていくらも、大切の事をば書洩(かきもら)し候が思残(おもひのこり)に御座候。惜き惜き此筆止(とど)めかね候へども、いつの限無く手に致し居り候事も叶(かな)ひ難(がた)く、折から四時の明近(あけちか)き油も尽き候て、手元暗く相成候ままはやはや恋(こひし)き御名を認(したた)め候て、これまでの御別(おんわかれ)と致しまゐらせ候。
 唯今(ただいま)の此の気分苦く、何とも難堪(たへがた)き様子にては、明日は今日よりも病重き事と存候(ぞんじさふらふ)。明後日は猶重くも相成可申(あひなりまをすべく)、さやうには候へども、筆取る事相叶(あひかな)ひ候間は、臨終までの胸の内御許に通じまゐらせ度(たく)存候(ぞんじさふら)へば、覚束無(おぼつかな)くも何なりとも相認(あひしたた)め可申候(まをすべくさふらふ)。
 私事空(むなし)く相成候とも、決して余(よ)の病にては無之(これなく)、御前様(おんまへさま)御事(おんこと)を思死(おもひじに)に死候(しにさふらふ)ものと、何卒(なにとぞ)々々御愍(おんあはれ)み被下(くだされ)、其段(そのだん)はゆめゆめ詐(いつはり)にては無御座(ござなく)、みづから堅く信じ居候事に御座候。
 明日(みようにち)は御前様(おんまへさま)御誕生日(ごたんじようび)に当り申候へば、わざと陰膳(かげぜん)を供へ候て、私事も共に御祝(おんいは)ひ可申上(まをしあぐべく)、嬉(うれし)きやうにも悲きやうにも存候。猶くれぐれも朝夕(ちようせき)の御自愛御大事に、幾久く御機嫌好(ごきげんよ)う明日を御迎(おんむか)へ被遊(あそばされ)、ますます御繁栄に被為居候(ゐらせられさふらふ)やう、今は世の望も、身の願も、それのみに御座候。
 まづはあらあらかしこ。

五月二十五日おろかなる女□(より)恋(こひし)き恋き生別(いきわかれ)の御方様(おんかたさま)まゐる
     第二章

 隣に養へる薔薇(ばら)の香(か)の烈(はげし)く薫(くん)じて、颯(さ)と座に入(い)る風の、この読尽(よみつく)されし長き文(ふみ)の上に落つると見れば、紙は冉々(せんせん)と舞延びて貫一の身を□(めぐ)り、猶(なほ)も跳(をど)らんとするを、彼は徐(しづか)に敷据ゑて、その膝(ひざ)に慵(ものう)げなる面杖(つらづゑ)□(つ)きたり。憎き女の文なんど見るも穢(けがらは)しと、前(さき)には皆焚棄(やきす)てたりし貫一の、如何(いか)にしてこたびばかりは終(つひ)に打拆(うちひら)きけん、彼はその手にせし始に、又は読去りし後に、自らその故(ゆゑ)を譲(せ)めて、自ら知らざるを愧(は)づるなりき。
 彼はやがて屈(かが)めし身を起ししが、又直(ただ)ちに重きに堪(た)へざらんやうの頭(かしら)を支へて、机に倚(よ)れり。
 緑濃(こまや)かに生茂(おひしげ)れる庭の木々の軽々(ほのか)なる燥気(いきれ)と、近き辺(あたり)に有りと有る花の薫(かをり)とを打雑(うちま)ぜたる夏の初の大気は、太(はなは)だ慢(ゆる)く動きて、その間に旁午(ぼうご)する玄鳥(つばくら)の声朗(ほがらか)に、幾度(いくたび)か返しては遂(つひ)に往きける跡の垣穂(かきほ)の、さらぬだに燃ゆるばかりなる満開の石榴(ざくろ)に四時過の西日の夥(おびただし)く輝けるを、彼は煩(わづらは)しと目を移して更に梧桐(ごどう)の涼(すずし)き広葉を眺めたり。
 文の主(ぬし)はかかれと祈るばかりに、命を捧げて神仏(かみほとけ)をも驚かししと書けるにあらずや。貫一は又、自ら何の故(ゆゑ)とも知らで、独(ひと)りこれのみ披(ひら)くべくもあらぬ者を披き見たるにあらずや。彼を絡(まと)へる文は猶解けで、巌(いはほ)に浪(なみ)の瀉(そそ)ぐが如く懸(かか)れり。
 そのままに専(ひた)と思入るのみなりし貫一も、漸(やうや)く悩(なやまし)く覚えて身動(みじろ)ぐとともに、この文殻(ふみがら)の埓無(らちな)き様を見て、やや慌(あわ)てたりげに左肩(ひだりがた)より垂れたるを取りて二つに引裂きつ。さてその一片(ひとひら)を手繰(たぐ)らんと為るに、長きこと帯の如し。好き程に裂きては累(かさ)ね、累ぬれば、皆積みて一冊にも成りぬべし。
 かかる間(ま)も彼は自(おのづ)と思に沈みて、その動す手も怠(たゆ)く、裂きては一々読むかとも目を凝(こら)しつつ。やや有りて裂了(さきをは)りし後は、あだかも劇(はげし)き力作に労(つか)れたらんやうに、弱々(よわよわ)と身を支へて、長き頂(うなじ)を垂れたり。
 されど久(ひさし)きに勝(た)へずやありけん、卒(にはか)に起たんとして、かの文殻の委(お)きたるを取上げ、庭の日陰に歩出(あゆみい)でて、一歩に一(ひと)たび裂き、二歩に二たび裂き、木間に入りては裂き、花壇を繞(めぐ)りては裂き、留りては裂き、行きては裂き、裂きて裂きて寸々(すんずん)に作(な)しけるを、又引捩(ひきねぢ)りては歩み、歩みては引捩りしが、はや行くも苦(くるし)く、後様(うしろさま)に唯有(とあ)る冬青(もち)の樹に寄添へり。
 折から縁に出来(いできた)れる若き女は、結立(ゆひたて)の円髷(まるわげ)涼しげに、襷掛(たすきがけ)の惜くも見ゆる真白の濡手(ぬれて)を弾(はじ)きつつ、座敷を覗(のぞ)き、庭を窺(うかが)ひ、人見付けたる会釈の笑(ゑみ)をつと浮べて、
「旦那(だんな)様、お風呂が沸きましたが」
 この姿好く、心信(こころまめや)かなるお静こそ、僅(わづか)にも貫一がこの頃を慰むる一(いつ)の唯一(ただいつ)の者なりけれ。

     (二)の二

 浴(ゆあみ)すれば、下立(おりた)ちて垢(あか)を流し、出づるを待ちて浴衣(ゆかた)を着せ、鏡を据(すう)るまで、お静は等閑(なほざり)ならず手一つに扱ひて、数ならぬ女業(をんなわざ)の効無(かひな)くも、身に称(かな)はん程は貫一が為にと、明暮を唯それのみに委(ゆだ)ぬるなり。されども、彼は別に奥の一間(ひとま)に己(おのれ)の助くべき狭山(さやま)あるをも忘るべからず。そは命にも、換ふる人なり。又されども、彼と我との命に換ふる大恩をここの主(あるじ)にも負へるなり。如此(かくのごと)く孰(いづ)れ疎(おろそか)ならぬ主(あるじ)と夫とを同時に有(も)てる忙(せは)しさは、盆と正月との併(あは)せ来にけんやうなるべきをも、彼はなほ未(いま)だ覚めやらぬ夢の中(うち)にて、その夢心地には、如何(いか)なる事も難(かた)しと為るに足らずと思へるならん。寔(まこと)に彼はさも思へらんやうに勇(いさ)み、喜び、誇り、楽める色あり。彼の面(おもて)は為に謂(い)ふばかり無く輝ける程に、常にも愈(ま)して妖艶(あでやか)に見えぬ。
 暫(しば)し浴後(ゆあがり)を涼みゐる貫一の側に、お静は習々(そよそよ)と団扇(うちは)の風を送りゐたりしが、縁柱(えんばしら)に靠(もた)れて、物をも言はず労(つか)れたる彼の気色を左瞻右視(とみかうみ)て、
「貴方(あなた)、大変にお顔色(かほつき)がお悪いぢや御座いませんか」
 貫一はこの言(ことば)に力をも得たらんやうに、萎(な)え頽(くづ)れたる身を始て揺(ゆす)りつ。
「さうかね」
「あら、さうかねぢや御座いませんよ、どうあそばしたのです」
「別にどうも為はせんけれど、何だかかう気が閉ぢて、惺然(はつきり)せんねえ」
「惺然(はつきり)あそばせよ。麦酒(ビイル)でも召上りませんか、ねえ、さうなさいまし」
「麦酒かい、余り飲みたくもないね」
「貴方そんな事を有仰(おつしや)らずに、まあ召上つて御覧なさいまし。折角私(わたくし)が冷(ひや)して置きましたのですから」
「それは狭山君が帰つて来て飲むのだらう」
「何で御座いますつて□」
「いや、常談ぢやない、さうなのだらう」
「狭山は、貴方、麦酒(ビイル)なんぞを戴(いただ)ける今の身分ぢや御座いませんです」
「そんなに堅く為(せ)んでも可いさ、内の人ぢやないか。もつと気楽に居てくれなくては困る」
 お静は些(ちよ)と涙含(なみだぐ)みし目を拭(ぬぐ)ひて、
「この上の気楽が有つて耐(たま)るものぢや御座いません」
「けれども有物(あるもの)だから、所好(すき)なら飲んでもらはう。お前さんも克(い)くのだらう」
「はあ、私もお相手を致しますから、一盃(いつぱい)召上りましよ。氷を取りに遣りまして――夏蜜柑(なつみかん)でも剥(む)きませう――林檎(りんご)も御座いますよ」
「お前さん飲まんか」
「私も戴きますとも」
「いや、お前さん独(ひとり)で」
「貴方の前で私が独で戴くので御座いますか。さうして貴方は?」
「私は飲まん」
「ぢや見てゐらつしやるのですか。不好(いや)ですよ、馬鹿々々しい! まあ何でも可いから、ともかくも一盃召上ると成さいましよ、ね。唯今(ただいま)直(ぢき)に持つて参りますから、其処(そこ)にゐらつしやいまし」
 気軽に走り行きしが、程無く老婢(ろうひ)と共に齎(もたら)せる品々を、見好げに献立して彼の前に陳(なら)ぶれば、さすがに他の老婆子(ろうばし)が寂(さびし)き給仕に義務的吃飯(きつぱん)を強(し)ひらるるの比にもあらず、やや難捨(すてがた)き心地もして、コップを取挙(とりあぐ)れば、お静は慣れし手元に噴溢(ふきこぼ)るるばかり酌して、
「さあ、呷(ぐう)とそれを召上れ」
 貫一はその半(なかば)を尽して、先(ま)づ息(いこ)へり。林檎を剥(む)きゐるお静は、手早く二片(ふたひら)ばかり□(そ)ぎて、
「はい、お肴(さかな)を」
「まあ、一盃上げやう」
「まあ、貴方――いいえ、可けませんよ。些(ちつ)とお顔に出るまで二三盃続けて召上れよ。さうすると幾らかお気が霽(は)れますから」
「そんなに飲んだら倒れて了ふ」
「お倒れなすたつて宜(よろし)いぢや御座いませんか。本当に今日は不好(いや)な御顔色でゐらつしやるから、それがかう消えて了ふやうに、奮発して召上りましよ」
 彼は覚えず薄笑(うすわらひ)して、
「薬だつてさうは利(き)かんさ」
「どうあそばしたので御座います。何処(どこ)ぞ御体がお悪いのなら、又無理に召上るのは可う御座いませんから」
「体は始終悪いのだから、今更驚きも為んが……ぢや、もう一盃飲まうか」
「へい、お酌。ああ、余(あんま)りお見事ぢや御座いませんか」
「見事でも可かんのかい」
「いいえ、お見事は結構なのですけれど、余(あんま)り又――頂戴……ああ恐入ります」
「いや、考へて見ると、人間と云ふものは不思議な者だ。今まで不見不知(みずしらず)の、実に何の縁も無いお前さん方が、かうして内に来て、狭山君はああして実体(じつてい)の人だし、お前さんは優く世話をしてくれる、私は決して他人のやうな心持は為(せ)んね。それは如何(いか)なる事情が有つてかう成つたにも為よ、那裏(あすこ)で逢(あ)はなければ、何処(どこ)の誰だかお互に分らずに了つた者が、急に一処に成つて、貴方がどうだとか、私(わたくし)がかうだとか、……や、不思議だ! どうか、まあ渝(かは)らず一生かうしてお附合(つきあひ)を為たいと思ふ。けれども私は高利貸だ。世間から鬼か蛇(じや)のやうに謂(いは)れて、この上も無く擯斥(ひんせき)されてゐる高利貸だ。お前さん方もその高利貸の世話に成つてゐられるのは、余り栄(みえ)でも無く、さぞ心苦く思つてゐられるだらう、と私は察してゐる。のみならず、人の生血を搾(しぼ)つてまでも、非道な貨(かね)を殖(こしら)へるのが家業の高利貸が、縁も所因(ゆかり)も無い者に、設(たと)ひ幾らでも、それほど大事の金をおいそれと出して、又体まで引取つて世話を為ると云ふには、何か可恐(おそろし)い下心でもあつて、それもやつぱり慾徳渾成(ずく)で恩を被(き)せるのだらうと、内心ぢやどんなにも無気味に思つてゐられる事だらう、とそれも私は察してゐる。
 さあ、コップを空(あ)けて、返して下さい」
「召上りますの?」
「飲む」
 酒気は稍(やや)彼の面(おもて)に上(のぼ)れり。
「お静さんはどう思ふね」
「私(わたくし)共は固(もと)より命の無いところを、貴方のお蔭ばかりで助(たすか)つてをりますので御座いますから、私共の体は貴方の物も同然、御用に立ちます事なら、どんなにでも遊(あそば)してお使ひ下さいまし。狭山もそんなに申してをります」
「忝(かたじけ)ない。
次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:693 KB

担当:undef