金色夜叉
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著者名:尾崎紅葉 

 その内に漸々(そろそろ)又お極(きま)りの気障(きざ)な話を始めやがつて、這箇(こつち)が柳に受けて聞いてゐて遣りや、可いかと思つて増長して、呆(あき)れた真似(まね)を為やがるから、性の付く程諤々(つけつけ)さう言つて遣つたら、さあ自棄(やけ)に成つて、それから毒吐(どくつ)き出して、やあ店番の埃被(ほこりかぶり)だの、冷飯吃(ひやめしくら)ひの雇人(やとひにん)がどうだのと、聞いちやゐられないやうな腹の立つ事を言やがるから、這箇(こつち)も思切つて随分な悪体(あくたい)を吐(つ)いて遣つたわ、私は。
 さうすると、了局(しまひ)に那奴は何と言ふかと思ふと、幾許(いくら)七顛八倒(じたばた)しても金で縛(しば)つて置いた体だなんぞ、と利(き)いた風な事を言ふんぢやありませんか。だから、私はさう言つて遣つた、お気の毒だが、貴方は大方目が眩(くら)んで、そりやお袋を縛つたんだらうつて」
 聴ゐる狭山は小気味好(こきみよ)しとばかりに頷(うなづ)けり。
「それで那奴(あいつ)は全然(すつかり)慍(おこ)つて了つて、それからの騒擾(さわぎ)でさ。無礼な奴だとか何とか言つて、私は襟(えり)を持つて引擦(ひきず)り仆(たふ)された。随分飲んでゐたから、やつぱり酔つてゐたんでせう。その時はもう全(まる)で夢中で、唯(ただ)那奴の憎らしいのが胸一杯に込上(こみあ)げて、這畜生(こんちくしよう)と思ふと、突如(いきなり)其処(そこ)に在つたお皿を那奴の横面(よこつつら)へ叩付(たたきつ)けて遣つた。丁度それが眉間(みけん)へ打着(ぶつか)つて血が淋漓(だらだら)流れて、顔が半分真赤に成つて了つた。これは居ちや面倒だと思つたから、家中大騒を遣つてゐる隙(すき)を見て、窃(そつ)と飛出した事は飛出したけれど、別に往所(ゆきどころ)も無いから、丹子の阿母(おつか)さんの処へ駈込(かけこ)んだの。
 ところが、好かつた事には、今旅から帰つたと云ふところなんで、時間を見ると、十時余程(よつぽど)廻つてゐるんでせう。□車(きしや)はもう出ず、気ばかりは急(せ)くけれど、若箇道(どつちみち)間に合ふんぢやなし、それに話は有るし為るもんだから、一晩厄介に成る事にして、髪なんぞを結んでもらひながら、些(ちつ)と訳が有つて、貴方と一処に当分身を隠すのだと云ふやうに話を為てね、それから丹子の事も悉(くはし)く言置いて遣りましたら――善い人ね、あの阿母さんは――おいおい泣出して、自分の子の事はふつつりとも言はずに、唯私の身ばかりを案じて、ああのかうのと色々言つてくれたその実意と云つたら……噫(ああ)、同じ人間でありながら、内の阿母さんは、実に、あなた、鬼ですわ! 私もあの子の阿母さんのやうな実の親が有つたらば、こんな苦労は為やしまいし、又貴方のやうな方の有るのを、さぞかし力に念(おも)つて、喜びも為やうし、大事にも為る事だらうと思つたら、もうもう悲くなつて、悲くなつて、如何(いか)に何でも余(あんま)り情無くて、私はどんなに泣きましたらう。
 それに、私をばあんなに頼(たのみ)に為てゐた阿母さんの事だから、当分でも田舎(ゐなか)へ行つて了ふと云ふのを、それは心細がつて、力を落したの何のと云つたら、私も別れるのが気の毒に成るくらゐで、先へ落付いたら、どうぞ一番に住所(ところ)を知せてくれ、初中終(しよつちゆう)旅を出行(である)いてゐる体だから、直(ぢき)に御機嫌伺(ごきげんうかが)ひに出ると、その事をあんなに懇々(くれぐれ)も頼んでゐましたから、後で聞いたら、さぞ吃驚(びつくり)して……きつと疾(わづら)ひでも為るでせうよ。考へて見りや、丹子も可愛(かはい)し、あの阿母さんも怜(いとし)いし。吁(ああ)、吁!」
 歔欷(すすりなき)して彼は悶(もだ)えつ。
「さう云ふ訳ぢや、猶更(なほさら)内ぢや大騒をして捜してゐる事だらう」
「大変でせうよ」
「それだと余(あんま)り遅々(ぐづぐづ)しちやゐられないのだ」
「どうで、狭山さん、先は知れてゐ……」
「さうだ」
「だからねえ、もう早い方が可ござんすよ」
 女は咽(むせ)びて其処(そこ)に泣伏しぬ。狭山は涙を連□(しばたた)きて、
「お静、おい、お静や」
「あ……あい。狭山さん!」
 憐(あはれ)むべし、情極(じようきはま)りて彼等の相擁(あひよう)するは、畢竟(ひつきよう)尽きせぬ哀歎(なげき)を抱(いだ)くが如き者ならんをや。

     (三)の二

 両箇(ふたり)は此方(こなた)にかつ泣きかつ語れる間、彼方(あなた)の一箇(ひとり)は徒然(つれづれ)の柱に倚(よ)りて、やうやう傾く日影に照されゐたり。
 その待人の如何(いか)なる者なるかを見て、疑は決すべしと為せし貫一も、かの伴ひ還りし女を見るに□(およ)びて、その疑はいよいよ錯雑して、しかも新なる怪訝(あやしみ)の添はるのみなり。
 如何(いか)なればや、女の顔色も甚(はなは)だ勝(すぐ)れず、その点の男といと善く似たるは、同じ憂を分つにあらざる無からんや。我聞く、犯罪の底には必ず女有りと、若(も)し信(まこと)なりとせば、彼は正(まさし)く彼女(かのをんな)ゆゑに如何(いか)なる罪をも犯せるならんよ。その罪の故(ゆゑ)に男は苦み、その苦の故に女は憂ふると為(せ)ば、彼等は誠に相愛(あひあい)するの堅き者ならず哉(や)。
 知らず、彼等は何(なに)の故に相率(あひひきゐ)てこの人目稀(まれ)なる山中(やまなか)には来(きた)れる。その罪を□(のが)れんが為か、その苦と憂とを忘れんが為か、或(あるひ)はその愛を全うせんが為か、明(あきらか)に彼等は夫婦ならず、又は、女の芸者風なるも、決して尋常の隠遊(かくれあそび)にあらずして、自(おのづ)から穂に露(あらは)るるところ有り。さては何等(なにら)の密会ならん。
 貫一は彼を以(も)て女を偸(ぬす)みて奔(はし)る者ならずや、と先(まづ)推(すい)しつつ、尚(な)ほ如何にやなど、飽かず疑へる間より、忽(たちま)ち一片の反映は閃(きらめ)きて、朧(おぼろ)にも彼の胸の黯(くら)きを照せり。
 彼はこの際熱海の旧夢を憶(おも)はざるを得ざりしなり。
 世上貫一の外(ほか)に愛する者無かりし宮は、その貫一と奔るを諾(うべな)はずして、僅(わづか)に一瞥(べつ)の富の前に、百年の契を蹂躙(ふみにじ)りて吝(をし)まざりき。噫(ああ)我が当時の恨、彼が今日(こんにち)の悔! 今彼女(かのをんな)は日夜に栄の衒(てら)ひ、利の誘(いざな)ふ間に立ち、守るに難き節を全うして、世の容(い)れざる愛に随(したが)つて奔らんと為るか。
 爾思(しかおも)へる後の彼は、陰(ひそか)にかの両個(ふたり)の先に疑ひし如き可忌(いまはし)き罪人ならで、潔く愛の為に奔る者たらんを、祷(いの)るばかりに冀(こひねが)へり。若しさもあらば、彼は具(つぶさ)に彼等の苦き身の上と切なる志とを聴かんと念(おも)ひぬ。
 心永く痍(きずつ)きて恋に敗れたる貫一は、殊更(ことさら)に他の成敗に就いて観(み)るを欲せるなり。彼は己(おのれ)の不幸の幾許(いかばかり)不幸に、人の幸(さち)の幾許幸ならんかを想ひて、又己の失敗の幾許無残に、人の成効の幾許十分ならんかを想ひて、又己の契の幾許薄く、人の縁(えにし)の幾許深からんかを想ひて、又己の受けし愛の幾許浅く、人の交(かは)せる情(なさけ)の幾許篤からんかを想ひて、又己の恋の障碍(さまたげ)の幾許強く、人の容れられぬ世の幾許狭からんかを想ひて。嗟呼(ああ)、既に己の恋は敗れに破れたり。知るべからざる人の恋の末終(つひ)に如何(いか)ならんかを想ひて。
 昼間の程は勗(つと)めて籠(こも)りゐしかの両個(ふたり)の、夜に入りて後打連(うちつ)れて入浴せるを伺ひ知りし貫一は、例の益(ますま)す人目を避(さく)るならんよと念(おも)へり。
 還り来(き)て多時(しばらく)酒など酌交(くみかは)す様子なりしが、高声一つ立つるにもあらで、唯障子を照す燈(ともし)のみいと瞭(さやか)に、内の寂しさは露をも置きけんやうにて、さてはかの吹絶えぬ松風に、彼等は竟(つひ)に酔(ゑひ)を成さざるならんと覚ゆばかりなりき。
 為(な)す事もあらねば、貫一は疾(と)く臥内(ふしど)に入りけるが、僅(わづか)に□(まどろ)むと為れば直(ぢき)に、寤(さ)めて、そのままに睡(ねむり)は失(うす)るとともに、様々の事思ひゐたり。
 夜の静なるを動かして、かの男女(なんによ)の細語(ひそめき)は洩(も)れ来(き)ぬ。甚(はなは)だ幺微(かすか)なれば聞知るべくもあらねど、□々(びび)として絶えず枕に打響きては、なかなか大いなる声にも増して耳煩(みみわづら)はしかり。
 さなきだに寝難(いねがた)かりし貫一は、益す気の澄み、心の冱(さ)え行くに任せて、又徒(いたづら)にとやかくと、彼等の身上(みのうへ)を推測(おしはか)り推測り思回(おもひめぐ)らすの外はあらず。彼方(あなた)もその幺微(かすか)なる声に語り語りて休(や)まざるは、思の丈(たけ)の短夜(たんや)に余らんとするなるか。
 乍(たちま)ち有りて、迸(ほとばし)れるやうにその声はつと高く揚れり。貫一は愕然(がくぜん)として枕を欹(そばだ)てつ。女は遽(にはか)に泣出(なきいだ)せるなり。
 その時男の声音(こわね)は全く聞えずして、唯独(ひと)り女の縦(ほしいま)まに泣音(なくね)を洩(もら)すのみなる。寤めたる貫一は弥(いや)が上に寤めて、自ら故(ゆゑ)を知らざる胸を轟(とどろか)せり。
 少焉(しばし)泣きたりし女の声は漸(やうや)く鎮りて、又湿(しめ)り勝(がち)にも語り初(そ)めしが、一たび情(じよう)の為に激せし声音は、自(おのづ)から始よりは高く響けり。されどなほその言ふところは聞知り難くて、男の声は却(かへ)りて前(さき)よりも仄(ほのか)なり。
 貫一は咳(しはぶ)きも遣らで耳を澄せり。
 或(あるひ)は時に断ゆれども、又続(つ)ぎ、又続ぎて、彼等の物語は蚕(かひこ)の糸を吐きて倦(う)まざらんやうに、限も知らず長く亘(わた)りぬ。げにこの積る話を聞きも聞せもせんが為に、彼等はここに来つるにやあらん。されども、日は明日(あす)も明後日(あさつて)も有るを、甚(はなは)だ忙(せはし)くも語るもの哉(かな)。さばかり間遠(まどほ)なりし逢瀬(あふせ)なるか、言はでは裂けぬる胸の内か、かく有らでは慊(あきた)らぬ恋中(こひなか)か、など思ふに就けて、彼はさすがに我身の今昔(こんじやく)に感無き能はず、枕を引入れ、夜着(よぎ)引被(ひきかつ)ぎて、寐返(ねがへ)りたり。
 何時罷(いつや)みしとも覚えで、彼等の寐物語は漸く絶えぬ。
 貫一も遂に短き夢を結びて、常よりは蚤(はや)かりけれど、目覚めしままに起出(おきい)でし朝冷(あさびえ)を、走り行きて推啓(おしあ)けつる湯殿の内に、人は在らじと想ひし眼(まなこ)を驚(おどろか)して、かの男女(なんによ)は浴(ゆあみ)しゐたり。
 貫一ははたと閉(とざ)して急ぎ返りつ。

     第四章

 両箇(ふたり)はやや熱かりしその日も垂籠(たれこ)めて夕(ゆふべ)に抵(いた)りぬ。むづかしげに暮山(ぼさん)を繞(めぐ)りし雲は、果して雨と成りて、冷々(ひやひや)と密下(そぼふ)るほどに、宵の燈火(ともしび)も影更(ふ)けて、壁に映(うつろ)ふ物の形皆寂く、憖(なまじ)ひに起きて在るべき夜頃(よごろ)ならず。さては貫一も枕(まくら)に就きたり。
 ラムプを細めたる彼等の座敷も甚(はなは)だ静に、宿の者さへ寐急(ねいそ)ぎて後十一時は鳴りぬ。
 凄(すさまじ)き谷川の響に紛れつつ、小歇(をやみ)もせざる雨の音の中に、かの病憊(やみつか)れたるやうの柱時計は、息も絶気(たゆげ)に半夜を告げわたる時、両箇(ふたり)が閨(ねや)の燈(ともし)は乍(たちま)ち明(あきら)かに耀(かがや)けるなり。
 彼等は倶(とも)に起出でて火鉢(ひばち)の前に在り。
「膳(ぜん)を持つて来ないか」
「ええ」
 女は幺微(かすか)なる声して答へけれど、打萎(うちしを)れて、なかなか立ちも遣(や)らず。
「狭山さん、私(わたし)は何だか貴方(あなた)に言残した事が未(ま)だ有るやうな心持がして……」
「吁(ああ)、もうかう成つちやお互に何も言はないが可(い)い。言へばやつぱり未練が出る」
 彼は熟(じ)と内向(うつむ)きて、目を閉ぢたり。
「貴方、その指環を私のと取替事(とりかへつこ)して下さいね」
「さうか」
 各(おのおの)その手に在るを抜きて、男は実印用のを女の指に、女はダイアモンド入のを男の指に、□(さ)し了(をは)りてもなほ離れかねつつ、物は得言はでゐたり。
 颯(さ)と鳴りて雨は一時(ひとしきり)繁(しげ)く灑(そそ)ぎ来(きた)れり。
「ああ、大相降つて来た」
「貴方は不断から雨が所好(すき)だつたから、きつとそれで……暇(いとま)……乞(ごひ)に降つて来たんですよ」
「好い折だ。あの雨を肴(さかな)に……お静、もう覚悟を為ろよ!」
「あ……あい。狭山さん、それぢや私も……覚……悟したわ」
「酒を持つて来な」
「あい」
 お静も今は心を励して、宵の程誂(あつら)へ置きし酒肴(しゆこう)の床間(とこのま)に上げたるを持来(もてき)て、両箇(ふたり)が中に膳を据れば、男は手早く燗(かん)して、その間(ま)に各(おのおの)服を更(あらた)むる忙(せは)しさは、忽(たちま)ち衣(きぬ)の擦(す)り、帯の鳴る音高く□※(さやさや)[#「糸+察」、436-13]と乱れ合ひて、転(うた)た雨濃(こまやか)なる深夜を驚(おどろ)かせり。
「ええ、もう好(す)かない!」
 帯緊(おびし)めながら女はその端(はし)を振りて身悶(みもだえ)せるなり。
「どうしたのだ」
「なあにね、帯がこんなに結(むす)ばつて了つて」
「帯が結ばつた?」
「ああ! あなた釈(と)いて下さい、よう」
「何か吉(い)い事が有るのだ」
「私はもしも遣損(やりそこな)つて、耻(はぢ)でも曝(さら)すやうな事が有つちやと、それが苦労に成つて耐(たま)らなかつたんだから、これでもう可いわ」
「それは大丈夫だから安心するが可い。けれど、もしもだ、お静、そんな事は無いとは念ふけれど、運悪く遅れたら、俺(おれ)はきつと後から往くから――どんなにしても往くから、恨まずに待つてゐてくれ。よ、可……可いか」
 つと俯(ふ)したるお静は、男の膝を咬(か)みて泣きぬ。
「その代り、偶(ひよつ)としてお前が後になるやうだつたら、俺は死んでも……魂(たましひ)はおまへの陰身(かげみ)を離れないから、必ず心変(こころがはり)を……す、するなよ、お静」
「そんな事を言はないで、一処に……連れて……往つて……下さいよ」
「一処に往くとも!」
「一処に! 一処に往きますよ!」
「さあ、それぢやこ、この世の……別に一盃(いつぱい)飲むのだ。もう泣くな、お静」
「泣、泣かない」
「さあ、那裏(あすこ)へ行つて飲まう」
 男は先づ起ちて、女の手を把(と)れば、女はその手に縋(すが)りつつ、泣く泣く火鉢の傍(そば)に座を移しても、なほ離難(はなれがた)なに寄添ひゐたり。
「猪口(ちよく)でなしに、その湯呑(ゆのみ)に為やう」
「さう。ぢや半分づつ」
 熱燗(あつがん)の酒は烈々(れつれつ)と薫(くん)じて、お静が顫(ふる)ふ手元より狭山が顫ふ湯呑に注がれぬ。
 女の最も悲かりしは、げにこの刹那(せつな)の思なり。彼は人の為に酒を佐(たすく)るに嫻(なら)ひし手も、などや今宵の恋の命も、儚(はかな)き夢か、うたかたの水盃(みづさかづき)のみづからに、酌取らんとは想の外の外なりしを、唄(うた)にも似たる身の上哉(かな)と、漫(そぞろ)に逼(せま)る胸の内、何に譬(たと)へん方(かた)もあらず。
 男は燗の過ぎたるに口を着けかねて、少時(しばし)手にせるままに眺(なが)めゐれば、よし今は憂くも苦くも、久(ひさし)く住慣れしこの世を去りて、永く返らざらんとする身には、僅(わづか)に一盃(いつぱい)の酒に対するも、又哀別離苦(あいべつりく)の感無き能はざるなり。
 念(おも)へ、彼等の逢初(あひそ)めし夕(ゆふべ)、互に意(こころ)有りて銜(ふく)みしもこの酒ならずや。更に両個(ふたり)の影に伴ひて、人の情(なさけ)の必ず濃(こまやか)なれば、必ず芳(かうばし)かりしもこの酒ならずや。その恋中の楽(たのしみ)を添へて、三歳(みとせ)の憂(うさ)を霽(はら)せしもこの酒ならずや。彼はその酒を取りて、吉(よ)き事積りし後の凶の凶なる今夜の末期(まつご)に酬(むく)ゆるの、可哀(あはれ)に余り、可悲(かなし)きに過(すぐ)るを観じては、口にこそ言はざりけれど、玉成す涙は点々(ほろほろ)と散りて零(こぼ)れぬ。
「おまへの酌で飲むのも……今夜きりだ」
「狭山さん、私はこんなに苦労を為て置きながら、到頭一日でも……貴方と一処に成れずに、芸者風情(ふぜい)で死んで了ふのが……悔(くやし)い、私は!」
 聞くも苦しと、男は一息に湯呑の半(なかば)を呷(あふ)りて、
「さあ、お静」
 女は何気無く受けながら、思へば、別の盃(さかづき)かと、手に取るからに胸潰(むねつぶ)れて、
「狭山さん、私は今更お礼を言ふと云ふのも、異な者だけれど、貴方は長い月日の間、私のやうなこんな不束者(ふつつかもの)の我儘者(わがままもの)を、能くも愛相(あいそ)を尽かさずに、深切に、世話をして下すつた。
 私は今まで口には出さなかつたけれど、心の内ぢや、狭山さん、嬉いなんぞと謂ふのは通り越して、実に難有(ありがた)いと思つてゐました。その御礼を為たいにも、知つてゐる通の阿母(おつか)さんが在るばかりに唯さう思ふばかりで、どうと云ふ事も出来ず、本当(ほんと)に可恥(はづかし)いほど行届かないだらけで、これぢや余(あんま)り済まないから、一日も早く所帯でも持つやうに成つて、さうしたら一度にこの恩返しを為ませうと、私は、そればかりを楽(たのしみ)に、出来ない辛抱も為てゐたんだけれど、もう、今と成つちや何もかも水(み)……水(み)……水(みづ)の……泡。
 つい心易立(こころやすだて)から、浸々(しみじみ)お礼も言はずにゐたけれど、狭山さん、私の心は、さうだつたの。もうこれぎりで、貴方も……私も……土に成つて了へば、又とお目には掛れ、ないんだから、せめては、今改めて、狭山さん、私はお礼を申します」
 男は身をも搾(しぼ)らるるばかりに怺(こら)へかねたる涙を出(いだ)せり。
「もうそ、そ、そんな事……言つて……くれるな! 冥路(よみぢ)の障(さはり)だ。両箇(ふたり)が一処に死なれりや、それで不足は無いとして、外の事なんぞは念はずに、お静、お互に喜んで死なうよ」
「私は喜んでゐますとも、嬉いんですとも。嬉くなくてどうしませう。このお酒も、祝つて私は飲みます」
 涙諸共(もろとも)飲干して、
「あなた、一つお酌して下さいな」
 注(つ)げば又呷(あふ)りて、その余せるを男に差せば、受けて納めて、手を把(と)りて、顔見合せて、抱緊(だきし)めて、惜めばいよいよ尽せぬ名残(なごり)を、いかにせばやと思惑(おもひまど)へる互の心は、唯それなりに息も絶えよと祈る可かめり。
 男は抱(いだ)ける女の耳のあたかも唇(くちびる)に触るる時、現(うつつ)ともなく声誘はれて、
「お静、覚悟は可いか」
「可いわ、狭山さん」
「可けりや……」
「不如(いつそ)もう早く」
 狭山は直(ぢき)に枕の下なる袱紗包(ふくさづつみ)の紙入(かみいれ)を取上げて、内より出(いだ)せる一包(いつぽう)の粉剤こそ、正(まさ)に両個(ふたり)が絶命の刃(やいば)に易(か)ふる者なりけれ。
 女は二つの茶碗(ちやわん)を置並ぶれば、玉の如き真白の粉末は封を披(ひら)きて、男の手よりその内に頒(わか)たれぬ。
「さあ、その酒を取つてくれ。お前のには俺が酌をするから、俺のにはお前が」
「ああ可うござんす」
 雨はこの時漸く霽(は)れて、軒の玉水絶々(たえだえ)に、怪禽(かいきん)鳴過(なきすぐ)る者両三声(さんせい)にして、跡松風の音颯々(さつさつ)たり。
 狭山はやがて銚子(ちようし)を取りて、一箇(ひとつ)の茶碗に酒を澆(そそ)げば、お静は目を閉ぢ、合掌して、聞えぬほどの忍音(しのびね)に、
「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」
 代りて酌する彼の想は、吾手(わがて)男の胸元(むなもと)に刺違(さしちが)ふる鋩(きつさき)を押当つるにも似たる苦しさに、自(おのづ)から洩出(もれい)づる声も打震ひて、
「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)、南無阿弥陀仏、南無(なむ)……阿弥陀(あみだ)……南無阿弥(なむあみ)……陀(だ)……仏(ぶつ)、南無(なむ)……」
 と両個(ふたり)は心も消入らんとする時、俄(にはか)に屋鳴(やなり)震動(しんどう)して、百雷一処に堕(お)ちたる響に、男は顛(たふ)れ、女は叫びて、前後不覚の夢か現(うつつ)の人影は、乍(たちま)ち顕(あらは)れて燈火(ともしび)の前に在り。
「貴方(あなた)方は、怪からん事を! 可けませんぞ」
 男は漸く我に復(かへ)りて、惧(お)ぢ愕(おどろ)ける目を□(みひら)き、
「ああ! 貴方(あなた)は」
「お見覚(みおぼえ)ありませう、あれに居る泊客(とまりきやく)です。無断にお座敷へ入つて参りまして、甚(はなは)だ失礼ぢや御座いますけれど、実に危い所! 貴下方はどうなすつたのですか」
 悄然(しようぜん)として面(おもて)を挙げざる男、その陰に半ば身を潜めたる女、貫一は両個(ふたり)の姿を□(みまは)しつつ、彼の答を待てり。
「勿論(もちろん)これには深い事情がお有んなさるのでせう。ですから込入(こみい)つたお話は承(うけたま)はらんでも宜(よろし)い、但何故(ただなにゆゑ)に貴下方は活(い)きてをられんですか、それだけお聞せ下さい」
「…………」
「お二人が添ふに添れん、と云ふやうな事なのですか」
 男は甚(はなは)だ微(かすか)に頷(うなづ)きつ。
「さやうですか。さうしてその添れんと云ふのは、何故(なにゆゑ)に添れんのです」
 彼は又黙せり。
「その次第を伺つて、私(わたくし)の力で及ぶ事でありましたら、随分御相談合手(あひて)にも成らうかと、実は考へるので。然し、お話の上で到底私如きの力には及ばず、成程活きてをられんのは御尤(ごもつとも)だ、他人の私(わたし)でさへ外に道は無い、と考へられるやうなそれが事情でありましたら、私は決してお止(とど)め申さん。ここに居て、立派に死なれるのを拝見もすれば、介錯(かいしやく)もして上げます。
 私(わたくし)もこの間に入つた以上は、空(むなし)く手を退(ひ)く訳には行かんのです。貴下方を拯(すく)ふ事が出来るか、出来んか、那一箇(どつちか)です。幸(さいはひ)に拯(すく)ふ事が出来たら、私は命の親。又出来なかつたら、貴下方はこの世に亡(な)い人。この世に亡い人なら、如何(いか)なる秘密をここで打明けたところが、一向差支無(さしつかへな)からうと私は思ふ。若(も)し命の親とすればです、猶更(なおさら)その者に裹(つつ)み隠す事は無いぢやありませんか。私は何も洒落(しやれ)に貴下方のお話を聴かうと云ふのぢやありません、可うございますか、顕然(ちやん)と聴くだけの覚悟を持つて聴くのです。さあ、お話し下さい!」

     第五章

 貫一は気を厳粛(おごそか)にして逼(せま)れるなり。さては男も是非無げに声出(いだ)すべき力も有らぬ口を開きて、
「はい御深切に……難有(ありがた)う存じます……」
「さあ、お話し下さい」
「はい」
「今更お裹(つつ)みなさる必要は無からう、と私は思ふ。いや、つい私は申上げんでをつたが、東京の麹町(こうじまち)の者で、間(はざま)貫一と申して、弁護士です。かう云ふ場合にお目に掛るのは、好々(よくよく)これは深い御縁なのであらうと考へるのですから、決して貴下方の不為(ふため)に成るやうには取計ひません。私も出来る事なら、人間両個(ふたり)の命を拯(すく)ふのですから、どうにでもお助け申して、一生の手柄に為て見たい。私はこれ程までに申すのです」
「はい、段々御深切に、難有う存じます」
「それぢや、お話し下さるか」
「はい、お聴に入れますで御座います」
「それは忝(かたじけ)ない」
 彼は始めて心安う座を取れば、恐る惶(おそ)る狭山は先(ま)づその姿を偸見(ぬすみみ)て、
「何からお話し申して宜(よろし)いやら……」
「いや、その、何ですな、貴下方は添ふに添れんから死ぬと有仰(おつしや)る――! 何為(なぜ)添れんのですか」
「はい、実は私は、恥を申しませんければ解りませんが、主人の金を大分遣(つか)ひ込みましたので御座います」
「はあ、御主人持(もち)ですか」
「さやうで御座います。私は南伝馬町(みなみてんまちよう)の幸菱(こうびし)と申します紙問屋の支配人を致してをりまして、狭山元輔(さやまもとすけ)と申しまする。又これは新橋に勤を致してをります者で、柏屋(かしわや)の愛子と申しまする」
 名宣(なの)られし女は、消えも遣(や)らでゐたりし人陰の闇(くら)きより僅(わづか)に躙(にじ)り出でて、面伏(おもぶせ)にも貫一が前に会釈しつ。
「はあ、成程」
「然るところ、昨今これに身請(みうけ)の客が附きまして」
「ああ、身請の? 成程」
「否でもその方へ参らんければ成りませんやうな次第。又私はその引負(ひきおひ)の為に、主人から告訴致されまして、活(い)きてをりますれば、その筋の手に掛りますので、如何(いか)にとも致方(いたしかた)が御座いませんゆゑ、無分別(むふんべつ)とは知りつつも、つい突迫(つきつ)めまして、面目次第も御座いません」
 彼等はその無分別を慙(は)ぢたりとよりは、この死失(しにぞこな)ひし見苦しさを、天にも地にも曝(さら)しかねて、俯(ふ)しも仰ぎも得ざる項(うなじ)を竦(すく)め、尚(なほ)も為ん方無さの目を閉ぢたり。
「ははあ。さうするとここに金さへ有れば、どうにか成るのでせう! 貴方の費消(つかひこみ)だつて、その金額を弁償して、宜(よろし)く御主人に詑(わ)びたら、無論内済に成る事です。婦人の方は、先方で請出すと云ふのなら、此方(こつち)でも請出すまでの事。さうして、貴方の引負(ひきおひ)は若干(いくら)ばかりの額(たか)に成るのですか」
「三千円ほど」
「三千円。それから身請の金は?」
 狭山は女を顧みて、二言三言(ふたことみこと)小声に語合(かたら)ひたりしが、
「何やかやで八百円ぐらゐは要(い)りますので」
「三千八百円、それだけ有つたら、貴下方は死なずに済むのですな」
 打算し来(きた)れば、真に彼等の命こそ、一人前一千九百円に過ぎざるなれ。
「それぢや死ぬのはつまらんですよ! 三千や四千の金なら、随分そこらに滾(ころが)つてゐやうと私は思ふ。就いては何とか御心配して上げたいと考へるのですが、先づとにかく貴下方の身の上を一番(ひとつ)悉(くはし)くお話し下さらんか」
 かかる際(きは)には如何ばかり嬉き人の言(ことば)ならんよ。彼はその偽(いつはり)と真(まこと)とを思ふに遑(いとま)あらずして、遣る方も無き憂身(うきみ)の憂きを、冀(こひねがは)くば跡も留めず語りて竭(つく)さんと、弱りし心は雨の柳の、漸く風に揺れたる勇(いさみ)を作(な)して、
「はい、ついに一面識も御座いません私共、殊(こと)に痴情の果に箇様(かよう)な不始末(ぶしまつ)を為出(しだ)しました、何(なに)ともはや申しやうも無い爛死蛇(やくざもの)に、段々と御深切のお心遣(こころづかひ)、却つて恥入りまして、実に面目次第も御座いません。
 折角の御言(おことば)で御座いますから、思召(おぼしめし)に甘えまして、一通りお話致しますで御座いますが、何から何まで皆恥で、人様の前ではほとほと申上げ兼ねますので御座います。
 実は、只今申上げました三千円の費消(つかひこみ)と申しますのは、究竟(つまり)遊蕩(あそび)を致しました為に、店の金に手を着けましたところ、始の内はどうなり融通も利(き)きましたので、それが病付(やみつき)に成つて、段々と無理を致しまして、長い間に□々(うかうか)穴を開けましたのが、積り積つて大分(だいぶん)に成りましたので御座います。
 然(しか)るところ、もう八方塞(ふさが)つて遣繰(やりくり)は付きませず、いよいよ主人には知れますので、苦紛(くるしまぎ)れに相場に手を出したのが怪我(けが)の元で、ちよろりと取られますと、さあそれだけ穴が大きく成りましたものですから、愈(いよい)よ為方御座いません、今度はどうか、今度はどうかで、もうさう成つては私も死物狂(しにものぐるひ)で、無理の中から無理を致して、続くだけ遣りましたところが、到頭逐倒(おひたふ)されて了ひまして、三千円と申上げました費消(つかひこみ)も、半分以上はそれに注込みましたので御座います。
 然し、これだけの事で御座いますれば、主人も従来(これまで)の勤労(つとめ)に免じて、又どうにも勘弁は致してくれましたので御座います。現にこの一条が発覚致しまして、主人の前に呼付けられました節も、この度(たび)の事は格別を以つて赦(ゆる)し難いところも赦して遣ると、箇様に申してはくれましたので」
「成程□」
「と申すのには、少し又仔細(しさい)が御座いますので。それは、主人の家内の姪(めひ)に当ります者が、内に引取つて御座いまして、これを私に妻(めあは)せやうと云ふ意衷(つもり)で、前々(ぜんぜん)からその話は有りましたので御座いますが、どうも私は気が向きませんもので、何と就かずに段々言延(いひのば)して御座いましたのを、決然(いよいよ)どうかと云ふ手詰(てづめ)の談(はなし)に相成(あひな)りましたので。究竟(つまり)、費消(つかひこみ)は赦して遣るから、その者を家内に持て、と箇様に主人は申すので御座います」
「大きに」
「其処(そこ)には又千百(いろいろ)事情が御座いまして、私の身に致しますと、その縁談は実に辞(ことわ)るにも辞りかねる義理に成つてをりますので、それを不承知だなどと吾儘(わがまま)を申しては、なかなか済む訳の者ではないので御座います」
「ああ、さうなのですか」
「そこへ持つて参つて、此度(こんど)の不都合で御座います、それさへ大目に見てくれやうと云ふので御座いますから、全(まる)で仇(かたき)をば恩で返してくれますやうな、申分(まをしぶん)の無い主人の所計(はからひ)。それを乖(もど)きましては、私は罰(ばち)が中(あた)りますので御座います。さうとは存じながら、やつぱり私の手前勝手で、如何(いか)にともその気に成れませんので、已(や)むを得ず縁談の事は拒絶(ことわり)を申しましたので御座います」
「うむ、成程」
「それが為に主人は非常な立腹で、さう吾儘(わがまま)を言ふのなら、費消(つかひこみ)を償(まと)へ、それが出来ずば告訴する。さうしては貴様の体に一生の疵(きず)が附く事だから、思反(おもひかへ)して主人の指図(さしず)に従へと、中に人まで入れて、未(ま)だ未だ申してくれましたのを、何処(どこ)までも私は剛情を張通して了つたので御座います」
「吁(ああ)! それは貴方が悪いな」
「はい、もう私の善いところは一つでも有るのぢや御座いません。その事に就きまして、主人に書置(かきおき)も致しましたやうな次第で、既に覚悟を極(きは)めました際(きは)まで、心懸(こころがかり)と申すのは、唯そればかりなので御座いました。
 で又その最中にこれの方の身請騒(みうけさわぎ)が起りましたので」
「成程!」
「これの母親と申すのは養母で御座いまして、私も毎々話を聞いてをりますが、随分それは非道な強慾な者で御座います。まあ悉(くはし)く申上げれば、長いお話も御座いますが、これも娘と申すのは名のみで、年季で置いた抱(かかへ)も同様の取扱(とりあつかひ)を致して、為て遣る事は為ないのが徳、稼(かせ)げるだけ稼がせないのは損だと云つたやうな了簡(りようけん)で、長い間無理な勤を為(さ)せまして、散々に搾(しぼ)り取つたので御座います。
 で、私の有る事も知つてはをりましたが、近頃私が追々廻らなく成つて参つたところから、さあ聒(やかまし)く言出しまして、毎日のやうに切れろ切れろで責め抜いてをります際に、今の身請の客が附いたので御座います。丁度去年の正月頃から来出した客で、下谷(したや)に富山銀行といふのが御座います、あれの取締役で」
「え□ 何……何……何ですか!」
「御承知で御座いますか、あの富山唯継(ただつぐ)と云ふ……」
「富山? 唯継!」
 その面色、その声音(こわね)! 彼は言下(ごんか)に皷怒(こど)して、その名に躍(をど)り被(かか)らんとする勢(いきほひ)を示せば、愛子は駭(おどろ)き、狭山は懼(おそ)れて、何事とも知らず狼狽(うろた)へたり。貫一は轟く胸を推鎮(おししづ)めても、なほ眼色(まなざし)の燃ゆるが如きを、両個(ふたり)が顔に忙(せはし)く注ぎて、
「その富山唯継が身請の客ですか」
「はい、さやうで御座いますが、貴方は御存じでゐらつしやいますので?」
「知つてゐます! 好く……知つてゐます!」
 狭山の打惑(うちまど)ふ傍(そば)に、女は密(ひそか)に驚く声を放てり。
「那奴(あいつ)が身請の?」
 問はるる愛子は、会釈して、
「はい、さやうなんで御座います」
「で、貴方は彼に退(ひ)かされるのを嫌(きら)つたのですな」
「はい」
「さうすると、去年の始から貴方はあれの世話に成つてをつたのですか」
「私はあんな人の世話なんぞには成りは致しません!」
「はあ? さうですか。世話に成つてゐたのぢやないのですか」
「いいえ、貴方。唯お座敷で始終呼れますばかりで」
「ああ、さうですか! それぢや旦那(だんな)に取つてをつたと云ふ訳ぢやないのですか」
 女は聞くも穢(けがらは)しと、さすが謂ふには謂れぬ尻目遣(しりめづかひ)して、
「私には、さう云ふ事が出来ませんので、今までついにお客なんぞを取つた事は、全然(まるつきり)無いんで御座います」
「ああ、さうですか! うむ、成程……成程な……解りました、好く解りました」
 狭山は俯(うつむ)きゐたり。
「それではかう云ふのですな、貴方は勤(つとめ)を為てをつても、外の客には出ずに、この人一個(ひとり)を守つて――さうですね」
「さやうです」
「さうして、余所(よそ)の身請を辞(ことわ)つて――富山唯継を振つたのだ! さうですな」
「はい」
 □忽(たちまち)に瞳(ひとみ)を凝(こら)せる貫一は、愛子の面(おもて)を熟視して止(や)まざりしが、やがてその眼(まなこ)の中に浮びて、輝くと見れば霑(うるほ)ひて出づるものあり。
「嗚呼(ああ)……感心しました! 実に立派な者です! 貴方は命を捨てても……この人と……添ひたいのですか!」
 何の故(ゆゑ)とも分かず彼の男泣に泣くを見て、両個(ふたり)は空(むなし)く呆(あき)るるのみ。
 貫一が涙なるか。彼はこの色を売るの一匹婦(いつひつぷ)も、知らず誰(たれ)か爾(なんぢ)に教へて、死に抵(いた)るまで尚(なほ)この頼(よ)り難(がた)き義に頼(よ)り、守り難(かた)き節を守りて、終(つひ)に奪はれざる者あるに泣けるなり。
 其の泣く所以(ゆゑん)なるか。彼はこの人の世に、さばかり清く新くも、崇(たふと)く優くも、高く麗(うるはし)くも、又は、完(まつた)くも大いなる者在るを信ぜざらんと為るばかりに、一度(ひとたび)は目前(まのあたり)睹(み)るを得て、その倒懸の苦を寛(ゆる)うせん、と心□(や)くが如く望みたりしを、今却りて浮萍(うきくさ)の底に沈める泥中の光に値(あ)へる卒爾(そつじ)の歓極(よろこびきは)まれればなり。
「勿論さう無けりや成らん事! それが女の道と謂ふもので、さう有るべきです、さう有るべき事です。今日(こんにち)のこの軽薄極(きはま)つた世の中に、とてもそんな心掛のある人間は、私は決して在るものではないと念つてをつた。で、もし在つたらば、どのくらゐ嬉からうと、さう念つてをつたのです。私は実に嬉い! 今夜のやうに感じた事は有りません。私はこの通泣いてゐる――涙が出るほど嬉いのです。私は人事(ひとごと)とは思はん、人事とは思はん訳が有るので、別して深く感じたのです」

 かく言ひて、貫一は忙々(いそがはし)く鼻洟(はな)打□(うちか)みつ。
「ふむ、それで富山はどうしました」
「来る度(たび)に何のかのと申しますのを、体好(ていよ)く辞(ことわ)るんで御座いますけれど、もう□(うるさ)く来ちや、一頻(ひとつきり)なんぞは毎日揚詰(あげづめ)に為れるんで、私はふつふつ不好(いや)なんで御座います。それに、あの人があれで大の男自慢で、さうして独(ひとり)で利巧ぶつて、可恐(おつそろし)い意気がりで、二言目(ふたことめ)には金々と、金の事さへ言へば人は難有(ありがた)がるものかと思つて、俺がかうと思(おも)や千円出すとか、ここへ一万円積んだらどうするとか、始終そんな有余るやうな事ばかり言ふのが癖だもんですから、衆(みんな)が『御威光』と云ふ仇名(あだな)を附けて了つて、何処へ行つたつて気障(きざ)がられてゐる事は、そりや太甚(ひど)いんで御座います」
「ああ、さうですか」
「そんな風なんですから、体好く辞つたくらゐぢや、なかなか感じは為ませんので、可(い)けもしない事を不相変(あひかはらず)執煩(しつくど)く、何だかだ言つてをりましたけれど、這箇(こつち)も剛情で思ふやうに行かないもんですから、了局(しまひ)には手を易(か)へて、内のお袋へ親談(ぢかだん)をして、内々話は出来たんで御座んせう。どうもそんなやうな様子で、お袋は全で気違のやうに成つて、さあ、私を責めて責めて、もう箸(はし)の上下(あげおろし)には言れますし、狭山と切れろ切れろの聒(やかまし)く成りましたのも、それからなので、私は辛(つら)さは辛し、熟(つくづ)くこんな家業は為る者ぢやないと、何(なんに)も解らずに面白可笑(おもしろをかし)く暮してゐた夢も全く覚めて、考へれば考へるほど、自分の身が余(あんま)りつまらなくて、もうどうしたら可いんだらう、と鬱(ふさ)ぎ切つてゐる矢先へ、今度は身請と来たんで御座います」
「うむ、身請――けれども、貴方を別にどう為たと云ふ事も無くて、直(すぐ)に身請と云ふのですか」
「さうなので」
「変な奴な! さう云ふ身請の為方(しかた)が、然し、有りますか」
「まあ御座いませんです」
「さうでせう。それで、身請をして他(ほか)へ囲(かこ)つて置かうとでも云ふのですか」
「はい、これまで色々な事を申しても、私が聴きませんもんで、末始終気楽に暮せるやうにして遣つたら、言分は無からうと云つたやうな訳で、まあ身請と出て来たんで。何ですか、今の妻君は、あれはどうだから、かう為るとか、ああ為るとか、好いやうな嬉(うれし)がらせを言つちやをりましたけれど」
 眉(まゆ)を昂(あ)げたる貫一、なぞ彼の心の裏(うち)に震ふものあらざらんや。
「妻君に就いてどう云ふ話が有るのですか」
「何んですか知りませんが、あの人の言ふんでは、その妻君は、始終寐てゐるも同様の病人で、小供は無し、用には立たず、有つても無いも同然だから、その内に隠居でもさせて、私を内へ入れてやるからと、まあさう云つたやうな口気(くちぶり)なんで御座います」
「さうして、それは事実なのですか、妻君を隠居させるなどと云ふのは」
「随分ちやらつぽこを言ふ人なんですから、なかなか信(あて)にはなりは致しませんが、妻君の病身の事や、そんなこんなで余(あんま)り内の面白くないのは、どうも全くさうらしいんで御座んす」
「ははあ」
 彼は遽(にはか)に何をや打案ずらん、夢むる如き目を放ちて、
「折合が悪いですか!……病身ですか!……隠居をさせるのですか!……ああ……さうですか!」
 宮の悔、宮の恨、宮の歎(なげき)、宮の悲(かなしみ)、宮の苦(くるしみ)、宮の愁(うれひ)、宮が心の疾(やまひ)、宮が身の不幸、噫(ああ)、竟(つひ)にこれ宮が一生の惨禍! 彼の思は今将(は)たこの憐(あはれ)むに堪へたる宮が薄命の影を追ひて移るなりき。
 貫一はかの生ける宮よりも、この死なんと為る女の幾許(いかばかり)幸(さいはひ)にかつ愚ならざるかを思ひて、又躬(みづから)の、先には己(おのれ)の愛する者を拯(すく)ふ能はずして、今却(かへ)りて得知らぬ他人に恵みて余有る身の、幾許(いかばかり)幸(さち)無くも又愚なるかを思ひて、謂ふばかり無く悲めるなり。
 時に愛子は話を継ぎぬ。貫一は再び耳を傾けつ。
「そんな捫懌(もんちやく)最中に、狭山さんの方が騒擾(さわぎ)に成りましたんで、私の事はまあどうでも、ここに三千円と云ふお金が無い日には、訴へられて懲役に遣られると云ふんですから、私は吃驚(びつくら)して了つて、唯もう途方に昧(く)れて、これは一処に死ぬより外は無いと、その時直(すぐ)にさう念つたんで御座います。けれども、又考へて、背に腹は替へられないから、これは不如(いつそ)富山に訳を話して、それだけのお金をどうにでも借りるやうに為やうかとも思つて見まして、狭山さんに話しましたところ、俺の身はどうでも、お前の了簡ぢや、富山の処へ行くのが可いか、死ぬのが可いか、とかう申すので御座いませう」
「うむ、大きに」
「私はあんな奴に自由に為れるのはさて置いて、これまでの縁を切るくらゐなら死んだ方が愈(まし)だと、初中終(しよつちゆう)言つてをりますんですから、あんな奴に身を委(まか)せるの、不好(いや)は知れてゐます」
「うむ、さうとも」
「さうなんですけれど金ゆゑで両個(ふたり)が今死ぬのも余(あんま)り悔いから、三千円きつと出すか、出さないか、それは分りませんけれど、もし出したらば出さして、なあに私は那裏(あつち)へ行つたつて、直(ぢき)に迯(に)げて来さへすりや、切れると云ふんぢやなし、少(すこし)の間(ま)不好(いや)な夢を見たと思へば、それでも死ぬよりは愈(まし)だらう、と私はさう申しますと、狭山さんは、それは詐取(かたり)だ……」
「それは詐取(かたり)だ! さうとも」
 あだかも我名の出でしままに、男はこれより替りて陳(の)べぬ。
「詐取(かたり)で御座いますとも! 情婦(をんな)を種に詐取を致すよりは、費消(つかひこみ)の方が罪は夐(はるか)に軽う御座います。そんな悪事を働いてまでも活きてゐやうとは、私(わたくし)は決して思ひは致しません。又これに致しましても、あれまで振り通した客に、今と成つて金ゆゑ体を委(まか)せるとは、如何(いか)なる事にも、余(あんま)り意気地が無さ過ぎて、それぢや人間の皮を被(かぶ)つてゐる効(かひ)が御座りませんです。私は金に窮(つま)つて心中なんぞを為た、と人に嗤(わらわ)れましても、情婦(をんな)の体を売つたお陰で、やうやう那奴(あいつ)等は助つてゐるのだ、と一生涯言れますのは不好(いや)で御座います。そんな了簡が出ます程なら、両個(ふたり)の命ぐらゐ助ける方は外に幾多(いくら)も御座いますので。
 ここに活きてゐやうと云ふには、どうでもこの上の悪事を為んければ成りませんので、とても死ぬより外は無い! 私は死ぬと覚悟を為たが、お前の了簡はどうか、と実は私が申しましたので」
「成程。そこで貴方が?」
「私は今更富山なんぞにどうしやうと申したのも、究竟(つまり)私ゆゑにそんな訳に成つた狭山さんが、どうにでも助けたいばかりなんで御座いますから、その人が死ぬと言ふのに、私一箇(ひとり)残つてゐたつて、為様が有りは致しません。貴方が死ぬなら、私も死ぬ――それぢや一処にと約束を致して、ここへ参つたんで御座います」
「いや、善く解りました!」
 貫一は宛然(さながら)我が宮の情急(じようきゆう)に、誠壮(まことさかん)に、凛(りん)たるその一念の言(ことば)を、かの当時に聴くらん想して、独(ひと)り自ら胸中の躍々として痛快に堪(た)へざる者あるなり。
 正にこれ、垠(はてし)も知らぬ失恋の沙漠(さばく)は、濛々(もうもう)たる眼前に、麗(うるはし)き一望のミレエジは清絶の光を放ちて、甚(はなは)だ饒(ゆたか)に、甚だ明(あきら)かに浮びたりと謂はざらん哉(や)。
 彼は幾(ほとん)どこの女の宮ならざるをも忘れて、その七年の憂憤を、今夜の今にして始て少頃(しばらく)も破除(はじよ)するの間(いとま)を得つ。信(まこと)に得難かりしこの間(いとま)こそ、彼が宮を失ひし以来、唯(ただ)これに易(か)へて望みに望みたりし者ならずと為(せ)んや。
 嗚呼(ああ)麗(うるはし)きミレエジ!
 貫一が久渇(きゆうかつ)の心は激く動(うごか)されぬ。彼は声さへやや震ひて、
「さう申しては失礼か知らんが、貴方の商売柄で、一箇(ひとり)の男を熟(じつ)と守つて、さうしてその人の落目に成つたのも見棄てず、一方には、身請の客を振つてからに、後来(これから)花の咲かうといふ体を、男の為には少しも惜まずに死なうとは、実に天晴(あつぱれ)なもの! 余り見事な貴方のその心掛に感じ入つて、私は……涙が……出ました。
 貴方は、どうか生涯その心掛を忘れずにゐて下さい! その心掛は、貴方の宝ですよ。又狭山さんの宝、則(すなは)ち貴下方夫婦の宝なのです!
 今後とも、貴方は狭山さんの為には何日(いつ)でも死んで下さい。何日でも死ぬと云ふ覚悟は、始終きつと持つてゐて下さい。可う御座いますか。
 千万人の中から唯一人見立てて、この人はと念(おも)つた以上は、勿論(もちろん)その人の為には命を捨てるくらゐの了簡が無けりや成らんのです。その覚悟が無いくらゐなら、始から念はん方が可いので、一旦念つたら骨が舎利(しやり)に成らうとも、決して志を変へんと云ふのでなければ、色でも、恋でも、何でもないです! で、若(も)し好いた、惚(ほ)れたと云ふのは上辺(うはべ)ばかりで、その実は移気な、水臭い者とも知らず、這箇(こつち)は一心に成つて思窮(おもひつ)めてゐる者を、いつか寝返(ねがへり)を打れて、突放されるやうな目に遭(あ)つたと為たら、その棄てられた者の心の中は、どんなだと思ひますか」
 彼の声音(こわね)は益す震へり。
「さう云ふのが有ります! 私は世間にはさう云ふのの方が多いと考へる。そんな徒爾(いたづら)な色恋は、為た者の不仕合(ふしあはせ)、棄てた者も、棄てられた者も、互に好(い)い事は無いのです。私は現にさう云ふのを睹(み)てゐる! 睹てゐるから今貴下方がかうして一処に死ぬまでも離れまいと云ふまでに思合つた、その満足はどれ程で、又そのお互の仕合は、実に謂ふに謂はれん程の者であらう、と私は思ふ。
 それに就けても、貴方のその美い心掛、立派な心掛、どうかその宝は一生肌身(はだみ)に附けて、どんな事が有らうとも、決して失はんやうに為て下さい!――可う御座いますか。さうして、貴下方はお二人とも末長く、です、毎(いつ)も今夜のやうなこの心を持つて、睦(むつまじ)く暮して下さい、私はそれが見たいのです!
 今は死ぬところでない、死ぬには及びません、三千円や四千円の事なら、私がどうでも為て上げます」
 聞訖(ききをは)りし両個(ふたり)が胸の中は、諸共(もろとも)に潮(うしほ)の如きものに襲はれぬ。
 未(ま)だ服さざりし毒の俄(にはか)に変じて、この薬と成れる不思議は、喜ぶとよりは愕(おどろ)かれ、愕くとよりは打惑(うちまど)はれ、惑ふとよりは怪(あやし)まれて、鬼か、神か、人ならば、如何(いか)なる人かと、彼等は覚えず貫一の面(おもて)を見据ゑて、更にその目を窃(ひそか)に合せつ。
 四辺(あたり)も震ふばかりに八声(やこゑ)の鶏(とり)は高く唱(うた)へり。
 夜すがら両個(ふたり)の運星蔽(おほ)ひし常闇(とこやみ)の雲も晴れんとすらん、隠約(ほのぼの)と隙洩(すきも)る曙(あけぼの)の影は、玉の緒(を)長く座に入りて、光薄るる燈火(ともしび)の下(もと)に並べるままの茶碗の一箇(ひとつ)に、小(ちひさ)き蛾(が)有りて、落ちて浮べり。
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  新続金色夜叉


     第一章

 生れてより神仏(かみほとけ)を頼み候事(さふらふこと)とては一度も無御座候(ござなくさふら)へども、此度(このたび)ばかりはつくづく一心に祈念致し、吾命(わがいのち)を縮め候代(さふらふかはり)に、必ず此文は御目(おんめ)に触れ候やうにと、それをば力に病中ながら筆取りまゐらせ候。幸(さいはひ)に此の一念通じ候て、ともかくも御披(おんひらか)せ被下候(くだされさふら)はば、此身は直ぐ相果(あひは)て候とも、つゆ憾(うらみ)には不存申候(ぞんじまをさずさふらふ)。元より御憎悪強(おんにくしみつよ)き私(わたくし)には候(さふら)へども、何卒(なにとぞ)是(これ)は前非を悔いて自害いたし候一箇(ひとり)の愍(あはれ)なる女の、御前様(おんまへさま)を見懸(みか)けての遺言(ゆいごん)とも思召(おぼしめ)し、せめて一通(ひととほ)り御判読(ごはんどく)被下候(くだされさふら)はば、未来までの御情(おんなさけ)と、何より嬉(うれし)う嬉う存上(ぞんじあ)げまゐらせ候。
 扨(さて)とや、先頃に久々とも何とも、御生別(おんいきわかれ)とのみ朝夕(あさゆふ)に諦(あきら)め居(を)り候御顔(おんかほ)を拝し、飛立つばかりの御懐(おんなつか)しさやら、言ふに謂れぬ悲しさやらに、先立つものは涙にて、十年越し思ひに思ひまゐらせ候事何一つも口には出ず、あれまでには様々の覚悟も致し、また心苦(こころぐるし)き御目(おんめ)もじの恥をも忍び、女の身にてはやうやうの思にて参じ候効(さふらふかひ)も無く、誠に一生の無念に存じまゐらせ候。唯其折(ただそのをり)の形見には、涙の隙(ひま)に拝しまゐらせ候御姿(おんすがた)のみ、今に目に附き候て旦暮(あけくれ)忘(わす)れやらず、あらぬ人の顔までも御前様(おんまへさま)のやうに見え候て、此頃は心も空に泣暮し居りまゐらせ候。
 久(ひさし)う御目(おんめ)もじ致さず候中(さふらふうち)に、別の人のやうに総(すべ)て御変(おんかは)り被成(なされ)候も、私(わたくし)には何(なに)とやら悲く、又殊(こと)に御顔の羸(やつれ)、御血色の悪さも一方(ひとかた)ならず被為居候(ゐらせられさふらふ)は、如何(いか)なる御疾(おんわづらひ)に候や、御見上(おんみあ)げ申すも心細く存ぜられ候へば、折角御養生被遊(あそばされ)、何は措(お)きても御身は大切に御厭(おんいと)ひ被成候(なされさふらふ)やう、くれぐれも念じ上(あげ)候。それのみ心に懸り候余(さふらふあまり)、悲き夢などをも見続け候へば、一入(ひとしほ)御案(おんあん)じ申上まゐらせ候。
 私事恥を恥とも思はぬ者との御さげすみを顧(かへりみ)ず、先頃推(お)して御許(おんもと)まで参(さん)し候胸の内は、なかなか御目もじの上の辞(ことば)にも尽し難(がた)くと存候(ぞんじさふら)へば、まして廻らぬ筆には故(わざ)と何も記(しる)し申さず候まま、何卒(なにとぞ)々々宜(よろし)く御汲分(おんくみわけ)被下度候(くだされたくさふらふ)。さやうに候へば、其節(そのせつ)の御腹立(おんはらだち)も、罪ある身には元より覚悟の前とは申しながら、余(あまり)とや本意無(ほいな)き御別(おんわかれ)に、いとど思は愈(まさ)り候(さふらふ)て、帰りて後は頭痛(つむりいた)み、胸裂(むねさく)るやうにて、夜の目も合はず、明る日よりは一層心地悪(あし)く相成(あひなり)、物を見れば唯涙(ただなみだ)こぼれ、何事とも無きに胸塞(むねふさが)り、ふとすれば思迫(おもひつ)めたる気に相成候て、夜昼と無く劇(はげし)く悩み候ほどに、四日目には最早起き居り候事も大儀に相成、午過(ひるすぎ)より蓐(とこ)に就き候まま、今日まで□々(ぶらぶら)致候(いたしさふらふ)て、唯々懐(なつかし)き御方(おんかた)の事のみ思続(おもひつづ)け候(さふらふ)ては、みづからの儚(はかな)き儚き身の上を慨(なげ)き、胸は愈(いよい)よ痛み、目は見苦(みぐるし)く腫起(はれあが)り候て、今日は昨日(きのふ)より痩衰(やせおとろ)へ申候(まをしさふらふ)。
 かやうに思迫(おもひつ)め候気(さふらふき)にも相成候上(あひなりさふらふうへ)に、日毎に闇(やみ)の奥に引入れられ候やうに段々心弱り候へば、疑(うたがひ)も無く信心の誠顕(まことあらは)れ候て、此の蓐(とこ)に就(つ)き候が元にて、はや永からぬ吾身とも存候(ぞんじさふらふ)まま、何卒(なにとぞ)これまでの思出には、たとひ命ある内こそ如何(いか)やうの御恨(おんうらみ)は受け候とも、今はの際(きは)には御前様(おんまへさま)の御膝(おんひざ)の上にて心安く息引取(いきひきと)り度(た)くと存候へども、それは□(かな)はぬ罪深き身に候上は、もはや再び懐(なつかし)き懐き御顔も拝し難く、猶又前非の御ゆるしも無くて、此儘(このまま)相果て候事かと、諦(あきら)め候より外無く存じながら、とてもとても諦めかね候苦しさの程は、此心(このこころ)の外に知るものも、喩(たと)ふるものも無御座候(ござなくさふらふ)。是(これ)のみは御憎悪(おんにくしみ)の中にも少(すこし)は不愍(ふびん)と思召(おぼしめし)被下度(くだされたく)、かやうに認(したた)め居(を)り候内(さふらふうち)にも、涙こぼれ候て致方無(いたしかたな)く、覚えず麁相(そそう)いたし候て、かやうに紙を汚(よご)し申候。御容(おんゆる)し被下度候(くだされたくさふらふ)。
 さ候へば私事(わたくしこと)如何(いか)に自ら作りし罪の報(むくい)とは申ながら、かくまで散々の責苦(せめく)を受け、かくまで十分に懺悔致(ざんげいた)し、此上は唯死ぬるばかりの身の可哀(あはれ)を、つゆほども御前様には通じ候はで、これぎり空(むなし)く相成候が、余(あまり)に口惜(くちをし)く存候故(ぞんじさふらふゆゑ)、一生に一度の神仏(かみほとけ)にも縋(すが)り候て、此文には私一念を巻込め、御許(おんもと)に差出(さしいだ)しまゐらせ候。
 返す返すも悔(くやし)き熱海の御別(おんわかれ)の後の思、又いつぞや田鶴見(たずみ)子爵の邸内にて図らぬ御見致候(ごけんいたしさふらふ)而来(このかた)の胸の内、其後(そののち)途中(とちゆう)にて御変(おんかは)り被成候(なされさふらふ)荒尾様(あらをさま)に御目(おんめ)に懸り、しみじみ御物語(おんものがたり)致候事(いたしさふらふこと)など、先達而中(せんだつてじゆう)冗(くど)うも冗うも差上申候(さしあげまをしさふらふ)。毎度の文にて細(こまか)に申上候へども、一通の御披(おんひらか)せも無之(これなき)やうに仰せられ候へば、何事も御存無(ごぞんじな)きかと、誠に御恨(おんうらめし)う存上候(ぞんじあげさふらふ)。百度千度(ももたびちたび)繰返(くりかへ)し候ても、是非に御耳に入れまゐらせ度存候(たくぞんじさふら)へども、今此の切なく思乱れ居(をり)候折(さふらふをり)から、又仮初(かりそめ)にも此上に味気無(あぢきな)き昔を偲び候事は堪難(たへがた)く候故、ここには今の今心に浮び候ままを書続けまゐらせ候。
 何卒(なにとぞ)余所(よそ)ながらも承(うけたま)はり度(たく)存上候(ぞんじあげさふらふ)は、長々御信(おんたより)も無く居らせられ候御前様(おんまへさま)の是迄(これまで)如何(いか)に御過(おんすご)し被遊候(あそばされさふらふ)や、さぞかし暴(あら)き憂世(うきよ)の波に一方(ひとかた)ならぬ御艱難(ごかんなん)を遊(あそば)し候事と、思ふも可恐(おそろし)きやうに存上候(ぞんじあげさふらふ)を、ようもようも御(おん)めでたう御障無(おんさはりな)う居らせられ、悲き中にも私の喜(よろこび)は是一つに御座候。
 御前様(おんまへさま)の数々御苦労被遊候間(あそばされさふらふあひだ)に、私とても始終人知らぬ憂思(うきおもひ)を重ね候て、此世には苦みに生れ参り候やうに、唯儚(ただはかな)き儚き月日を送りまゐらせ候。吾身(わがみ)ならぬ者は、如何(いか)なる人も皆(みな)可羨(うらやまし)く、朝夕の雀鴉(すずめからす)、庭の木草に至る迄(まで)、それぞれに幸(さいはひ)ならぬは無御座(ござなく)、世の光に遠き囹圄(ひとや)に繋(つなが)れ候悪人(さふらふあくにん)にても、罪ゆり候日(さふらふひ)の楽(たのしみ)は有之候(これありさふらふ)ものを、命有らん限は此の苦艱(くげん)を脱(のが)れ候事(さふらふこと)□(かな)はぬ身の悲しさは、如何に致候(いたしさふら)はば宜(よろし)きやら、御推量被下度候(くだされたくさふらふ)。申すも異な事に候へども、抑(そもそ)も始より我(わたくし)心には何とも思はぬ唯継(ただつぐ)に候へば、夫婦の愛情と申候ものは、十年が間に唯の一度も起り申さず、却(かへ)つて憎き仇(あだ)のやうなる思も致し、其傍(そのそば)に居り候も口惜(くちをし)く、倩(つくづ)く疎(うと)み果て候へば、三四年前(ぜん)よりは別居も同じ有様に暮し居候始末にて、私事一旦の身の涜(けがれ)も漸(やうや)く今は浄(きよ)く相成、益(ますます)堅く心の操(みさを)を守り居りまゐらせ候。
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