金色夜叉
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著者名:尾崎紅葉 

 暮色はいよいよ濃(こまやか)に、転激(うたたはげし)き川音の寒さを添ふれど、手寡(てずくな)なればや燈(あかり)も持来(きた)らず、湯香(ゆのか)高く蒸騰(むしのぼ)る煙(けむり)の中に、独(ひと)り影暗く蹲(うづくま)るも、少(すこし)く凄(すさまじ)き心地して、程無く貫一も出でて座敷に返れば、床間(とこのま)には百合の花も在らず煌々(こうこう)たる燈火(ともしび)の下に座を設け、膳(ぜん)を据ゑて傍(かたはら)に手焙(てあぶり)を置き、茶器食籠(じきろう)など取揃(とりそろ)へて、この一目さすがに旅の労(つかれ)を忘るべし。
 先づ衣桁(いこう)に在りける褞袍(どてら)を被(かつ)ぎ、夕冷(ゆふびえ)の火も恋(こひし)く引寄せて莨(たばこ)を吃(ふか)しゐれば、天地静(しづか)に石走(いはばし)る水の響、梢(こずゑ)を渡る風の声、颯々淙々(さつさつそうそう)と鳴りて、幽なること太古の如し。
 乍(たちま)ちはたはたと跫音(あしおと)長く廊下に曳(ひ)いて、先のにはあらぬ小婢(こをんな)の夕餉(ゆふげ)を運び来(きた)れるに引添ひて、其処(そこ)に出でたる宿の主(あるじ)は、
「今日(こんにち)は好(よ)うこそ御越(おこ)し下さいまして、さぞ御労様(おつかれさま)でゐらつしやいませうで御座ります。ええ、又唯今程は格別に御茶料を下(くだ)し置れまして、甚(はなは)だ恐入りました儀で、難有(ありがた)う存じまして、厚く御礼を申上げまするで御座います。
 ええ前以(ぜんもつ)てお詑(わび)を申上げ置きまするのは、召上り物のところで御座りまして一向はや御覧の通何も御座りませんで、誠に相済みません儀で御座いまするが、実は、未だ些(ちよつ)と時候もお早いので、自然お客様のお越(こし)も御座りませんゆゑ、何分用意等(とう)も致し置きませんやうな次第で、然し、一両日(いちりようにち)中にはお麁末(そまつ)ながら何ぞ差上げまするやうに取計ひまするで御座いますで、どうぞ、まあ今明日(こんみようにち)のところは御勘弁を下さいまして、御寛(ごゆるり)と御逗留(ごとうりゆう)下さいまするやうに。――これ、早う御味噌汁(おみおつけ)をお易(か)へ申して来ないか」
 主(あるじ)の辞し去りて後、貫一は彼の所謂(いはゆる)何も無き、椀(わん)も皿も皆黄なる鶏子一色(たまごいつしき)の膳に向へり。
「内にはお客は今幾箇(いくたり)有るのだね」
「這箇(こちら)の外にお一方(ひとかた)で御座りやす」
「一箇(ひとり)? あのお客は単身(ひとり)なのか」
「はい」
「先(さつき)に湯殿で些(ちよつ)と遇(あ)つたが、男の客だよ」
「さよで御座りやす」
「あれは病人だね」
「どうで御座りやすか。――そんな事無(ね)えで御座りやせう」
「さうかい。何処(どこ)も不良(わる)いところは無いやうかね」
「無(ね)えやうで御座りやすな」
「どうも病人のやうだが、さうでないかな」
「ああ、旦那様はお医者様で御座りやすか」
 貫一は覚えず噴飯(ふんぱん)せんと為つつ、
「成程、好い事を言ふな。俺は医者ぢやないけれど、どうも見たところが病人のやうだから、さうぢやないかと思つたのだ。もう長く来てゐるお客か」
「いんえ、昨日(きのふ)お出(いで)になりやしたので」
「昨日来たのだ? 東京の人か」
「はい、日本橋の方のお方で御座りやす」
「それぢや商人(あきんど)か」
「私能く知りやせん」
「どうだ、お前達と懇意にして話をするか」
「そりやなさりやす」
「俺と那箇(どつち)が為る」
「旦那様とですけ? そりや旦那様のやうにはなさりやせん」
「うむ、さうすると、俺の方がお饒舌(しやべり)なのだな」
「あれ、さよぢや御座りやせんけれど、那裏(あちら)のお客様は黙つてゐらつしやる方が多う御座りやす。さうして何でもお連様(つれさま)が直(ぢき)にいらしやる筈(はず)で、それを、まあ酷(えら)う待つてお在(いで)なさりやす」
「おお、伴(つれ)が後から来るのか。いや、大きに御馳走(ごちそう)だつた」
「何も御座りやせんで、お麁末様(そまつさま)で御座りやす」
 婢(をんな)は膳を引きて起ちぬ。貫一は顛然(ころり)と臥(ね)たり。
 二十間も座敷の数有る大構(おほがまへ)の内に、唯二人の客を宿せるだに、寂寥(さびしさ)は既に余んぬるを、この深山幽谷の暗夜に蔽(おほは)れたる孤村の片辺(かたほとり)に倚(よ)れる清琴楼の間毎に亘(わた)る長廊下は、星の下行く町の小路より、幾許(いかばかり)心細くも可恐(おそろし)き夜道ならんよ。戸一重外(とひとへそと)には、山颪(やまおろし)の絶えずおどろおどろと吹廻(ふきめぐ)りて、早瀬の波の高鳴(たかなり)は、真に放鬼の名をも懐(おも)ふばかり。
 折しも唾壺(はひふき)打つ音は、二間(ふたま)ばかりを隔てて甚だ蕭索(しめやか)に聞えぬ。
 貫一は何(なに)の故(ゆゑ)とも知らで、その念頭を得放れざるかの客の身の上をば、独り様々に案じ入りつつ、彼既に病客ならず、又我が識(し)る人ならずと為(せ)ば、何を以つて人を懼(おそ)るる態(かたち)を作(な)すならん。抑(そもそ)も彼は何者なりや。又何の尤(とが)むるところ有りて、さばかり人を懼るるや。
 貫一はこの秘密の鑰(かぎ)を獲んとして、左往右返(とさまかうさま)に暗中摸索(もさく)の思(おもひ)を費すなりき。

     (二)の二

 明(あく)る朝(あした)の食後、貫一は先(ま)づこの狭き畑下戸(はたおり)の隅々(すみずみ)まで一遍(ひとわたり)見周(みめぐ)りて、略(ほ)ぼその状況を知るとともに、清琴楼の家格(いへがら)を考へなどして、磧(かはら)に出づれば、浅瀬に架(かか)れる板橋の風情(ふぜい)面白く、渡れば喜十六の山麓(さんろく)にて、十町ばかり登りて須巻(すまき)の滝(たき)の湯有りと教へらるるままに、遂(つひ)に其処(そこ)まで往きて、午(ひる)近き頃宿に帰りぬ。
 汗を流さんと風呂場に急ぐ廊下の交互(すれちがひ)に、貫一はあたかもかの客の湯上りに出会へり。こたびも彼は面(おもて)を見せじとやうに、慌忙(あわただし)く打背(うちそむ)きて過行くなり。
 今は疑ふべくもあらず、彼は正(まさし)く人目を避けんと為るなり。則(すなは)ち人を懼るるなり。故は、自ら尤(とがむ)るなり。彼は果して何者ならん、と貫一は愈(いよい)よ深く怪みぬ。
 昨日(きのふ)こそ誰乎彼(たそがれ)の黯□(くらがり)にて、分明(さやか)に面貌(かほかたち)を弁ぜざりしが、今の一目は、躬(みづから)も奇なりと思ふばかり奇(くし)くも、彼の不用意の間(うち)に速写機の如き力を以てして、その映じ来(きた)りし形を総(すべ)て脱(のが)さず捉(とら)へ得たりしなり。
 貫一はその相貌(そうぼう)の瞥見(べつけん)に縁(よ)りて、直(ただ)ちに彼の性質を占(うらな)はんと試(こころむ)るまでに、いと善く見極(みきは)めたり。されども、いかにせん、彼の相するところは始に疑ひしところと頗(すこぶ)る一致せざる者有り。彼若(も)し実(まこと)に人を懼るると為(せ)ば、彼の人を懼るる所以(ゆゑん)と、我より彼の人を懼るる所以と為(な)す者とは、或(あるひ)は稍(やや)趣(おもむき)を異(こと)にせざらんや。又想ふに、彼は決して自ら尤(とがむ)るところなど有るに非ずして、止(た)だその性(せい)の多羞(シャイ)なるが故のみか、未だ知るべからず。この二者(ふたつ)の前(さき)のをも取り難く、さすがに後のにも頷(うなづ)きかねて、彼は又新(あらた)に打惑(うちまど)へり。
 午飯(ひるめし)の給仕には年嵩(としかさ)の婢(をんな)出でたれば、余所(よそ)ながらかの客の事を問ひけるに、箸(はし)をも取らで今外に出で行きしと云ふ。
「はあ、飯(めし)も食はんで? 何処(どこ)へ行つたのかね」
「何でも昨日(きのふ)あたりお連様(つれさま)がお出(いで)の筈(はず)になつてをりましたので御座いませう。それを大相お待ちなすつてゐらつしやいましたところが、到頭お着が無いもんで御座いますから、今朝(けさ)から御心配遊(あそば)して、停車場(ステエション)まで様子を見がてら電報を掛けに行くと有仰(おつしや)いまして、それでお出ましに成つたので御座います」
「うむ、それは心配だらう。能く有る事だ。然し、飯も食はずに気を揉(も)んでゐるとは、どう云ふ伴(つれ)なのかな。――年寄(としより)か、婦(をんな)ででもあるか」
「如何(いかが)で御座いますか」
「お前知らんのか」
「私(わたくし)存じません」
 彼は覚えず小首を傾(かたむ)くれば、
「旦那(だんな)も大相御心配ぢや御座いませんか」
「さう云ふ事を聞くと、俺(おれ)も気になるのだ」
「ぢや旦那も余程(よつぽど)苦労性の方ですね」
「大きにさうだ」
「それぢやお連様がいらしつて見て、お年寄か、お友達なら宜(よろし)う御座いますけれど、もしも、ねえ、貴方(あなた)、お美(うつくし)い方か何かだつた日には、それこそ旦那は大変で御座いますね」
「どう大変なのか」
「又御心配ぢや御座いませんか」
「うむ、大きにこれはさうだ」
 風恬(かぜしづか)に草香(かを)りて、唯居るは惜き日和(ひより)に奇痒(こそばゆ)く、貫一は又出でて、塩釜の西南十町ばかりの山中なる塩の湯と云ふに遊びぬ。還(かへ)れば寂(さびし)く夕暮るる頃なり。例の如く湯に入(い)りて、上(あが)れば直(ぢき)に膳(ぜん)を持出(もちい)で、燈(あかし)も漸く耀(かがや)きしに、かの客、未(いま)だ帰り来(こ)ず、
「閑寂(しづか)なのも可いけれど、外に客と云ふ者が無くて、全(まる)でかう独法師(ひとりぼつち)も随分心細いね」
 託言(かごと)がましく貫一は言出づれば、
「さやうでゐらつしやいませう、何と申したつてこの山奥で御座いますから。全体旦那がお一人でゐらつしやると云ふお心懸(こころがけ)が悪いので御座いますもの、それは為方が御座いません」
 婢はわざとらしう高笑(たかわらひ)しつ。
「成程、これは恐入つた。今度から善く心得て置く事だ」
「今度なんて仰有(おつしや)らずに、旦那も明日(あした)あたり電信でお呼寄(よびよせ)になつたら如何(いかが)で御座います」
「五十四になる老婢(ばあや)を呼んだつて、お前、始らんぢやないか」
「まあ、旦那はあんな好い事を言つてゐらつしやる。その老婢さんの方でないのをお呼びなさいましよ」
「気の毒だが、内にはそれつきりより居ないのだ」
「ですから、旦那、づつと外(ほか)にお在んなさるので御座いませう」
「そりや外には幾多(いくら)でも在るとも」
「あら、御馳走で御座いますね」
「なあに、能く聴いて見ると、それが皆(みんな)人の物ださうだ」
「何ですよ、旦那。貴方、本当の事を有仰(おつしや)るもんですよ」
「本当にも嘘(うそ)にもその通だ。私(わたし)なんぞはそんな意気な者が有れば、何為(なにし)にこんな青臭い山の中へ遊びに来るものか」
「おや! どうせ青臭い山の中で御座います」
「青臭いどころか、お前、天狗巌(てんぐいわ)だ、七不思議だと云ふ者が有る、可恐(おそろし)い山の中に違無いぢやないか。そこへ彷徨(のそのそ)、閑(ひま)さうな貌(かほ)をして唯一箇(たつたひとり)で遣(や)つて来るなんぞは、能々(よくよく)の間抜(まぬけ)と思はなけりやならんよ」
「それぢや旦那は間抜なのぢや御座いませんか。そんな解らない事が有るものですか」
「間抜にも大間抜よ。宿帳を御覧、東京間抜(まぬけ)一人(いちにん)と附けて在る」
「その傍(そば)に小く、下女塩原間抜一人と、ぢや附けさせて戴(いただ)きませう」
「面白い事を言ふなあ、おまへは」
「やつぱり少し抜けてゐる所為(せゐ)で御座います」
 彼は食事を了(をは)りて湯浴(ゆあみ)し、少焉(しばらく)ありて九時を聞きけれど、かの客は未(いま)だ帰らず。寝床に入(い)りて、程無く十時の鳴りけるにも、水声空(むなし)く楼を繞(めぐ)りて、松の嵐の枕上(ちんじよう)に落つる有るのみなり。
 始よりその人を怪まざらんにはこの咎(とが)むるに足らぬ瑣細(ささい)の事も、大いなる糢糊(もこ)の影を作(な)して、いよいよ彼が疑(うたがひ)の眼(まなこ)を遮(さへぎ)り来(きた)らんとするなりけり。貫一はほとほと疑ひ得らるる限疑ひて、躬(みづから)も其の妄(ぼう)に過(すぐ)るの太甚(はなはだし)きを驚けるまでに至りて、始て罷(や)めんと為たり。
 これに亜(つ)いで、彼は抑(そもそ)も何の故(ゆゑ)有りて、肥瘠(ひせき)も関せざるかの客に対して、かくばかり軽々しく思を費し、又念(おもひ)を懸(かく)るの固執なるや、その謂無(いはれな)き己(おのれ)をば、敢て自ら解かんと試みつ。
 されども、人は往々にして自ら率(ひきゐ)るその己を識る能はず。貫一は抑へて怪まざらんと為(せ)ば、理に於て怪まずしてあるべきを信ずるものから、又幻視せるが如きその大いなる影の冥想(めいそう)の間に纏綿(てんめん)して、或(あるひ)は理外に在る者有る無からんや、と疑はざらんと為る傍(かたはら)より却(かへ)りて惑(まどは)しむるなり。
 表階子(おもてばしご)の口に懸(かか)れる大時計は、病み憊(つか)れたるやうの鈍き響を作(な)して、廊下の闇(やみ)に彷徨(さまよ)ふを、数ふれば正(まさ)に十一時なり。
 かの客はこの深更(しんこう)に及べども未(いま)だ帰り来(こ)ず。
 彼は帰り来らざるなるか、帰り得ざるなるか、帰らざるなるかなど、又思放(おもひはな)つ能はずして、貫一は寝苦(ねぐるし)き枕を頻回(あまたたび)易(か)へたり。今や十二時にも成りなんにと心に懸けながら、その音は聞くに及ばずして遂(つひ)に眠(ねむり)を催せり。日高(ひだか)き朝景色の前に起出づれば、座敷の外を小婢(こをんな)は雑巾掛(ぞうきんがけ)してゐたり。
「お早う御座りやす」
「睡(ねむ)さうな顔をしてゐるな」
「はい、昨夜(よんべ)那裏(あちら)のお客様がお帰(かへり)になるかと思つて、遅うまで待つてをりやしたで、今朝睡うござりやす」
「ああ、あのお客は昨夜(ゆふべ)は帰らずか」
「はい、お帰(かへり)が御座りやせん」
 貫一はかの客の間の障子を開放(あけはな)したるを見て、咥楊枝(くはへようじ)のまま欄杆伝(てすりづた)ひに外(おもて)を眺め行く態(ふり)して、その前を過(すぐ)れば、床の間に小豆革(あづきがは)の手鞄(てかばん)と、浅黄(あさぎ)キャリコの風呂敷包とを並(なら)べて、傍(そば)に二三枚の新聞紙を引※(ひつつく)[#「捏」の「日」に代えて「臼」、418-16]ね、衣桁(いこう)に絹物の袷(あはせ)を懸けて、その裾(すそ)に紺の靴下を畳置きたり。
 さては少(すこし)く本意無(ほいな)きまでに、座敷の内には見出(みいだ)すべき異状も有らで、彼は宿帳に拠(よ)りて、洋服仕立商なるを知りたると、敢(あへ)て背(そむ)くところ有りとも覚えざるなりき。
 拍子抜して返(もど)れる貫一は、心私(こころひそか)にその臆測の鑿(いりほが)なりしを□(は)ぢざるにもあらざれど、又これが為に、直(ただ)ちに彼の濡衣(ぬれぎぬ)を剥去(はぎさ)るまでに釈然たる能はずして、好し、この上はその待人(まちびと)の如何(いか)なる者なるかを見て、疑は決すべしと、やがてその消息を齎(もたら)し来(きた)るべき彼の帰来(かへり)の程を、陰ながら最更(いとさら)に遅しと待てり。
 夜は山精木魅(さんせいもくび)の出でて遊ぶを想はしむる、陰森凄幽(いんしんせいゆう)の気を凝(こら)すに反してこの霽朗(せいろう)なる昼間の山容水態は、明媚(めいび)争(いかで)か画(が)も如(し)かん、天色大気も殆(ほとん)ど塵境以外(じんきよういがい)の感無くんばあらず。黄金(こがね)を織作(おりな)せる羅(うすもの)にも似たる麗(うるはし)き日影を蒙(かうむ)りて、万斛(ばんこく)の珠を鳴す谷間の清韻を楽みつつ、欄頭(らんとう)の山を枕に恍惚(こうこつ)として消ゆらんやうに覚えたりし貫一は、急遽(あわただし)き跫音(あしおと)の廊下を動(うごか)し来(きた)るに駭(おどろか)されて、起回(おきかへ)りさまに頭(かしら)を捻向(ねぢむく)れば、何事とも知らず、年嵩(としかさ)の婢(をんな)の駈着(かけつく)るなり。
「些(ちよい)と旦那、参りましたよ、参りましたよ! 早くいらしつて御覧なさいまし。些と早く」
「何が来たのだ」
「何でも可いんですから、早くいらつしやいましよ」
「何だ、何だよ」
「早く階子(はしご)の所へいらしつて御覧なさい」
「おお、あの客が還つたのか」
 彼ははや飛ぶが如くに引返して、貫一の言(ことば)は五間も後に残されたり。彼が注進の模様は、見るべき待人を伴ひ帰れるならんをと、直(す)ぐに起ちて表階子(おもてはしご)の辺(あたり)に行く時、既に晩(おそ)し両箇(ふたり)の人影は欄(てすり)の上に顕(あらは)れたり。
 鍔広(つばひろ)なる藍鼠(あゐねずみ)の中折帽(なかをれぼう)を前斜(まへのめり)に冠(かむ)れる男は、例の面(おもて)を見せざらんと為れど、かの客なり。引連れたる女は、二十歳(はたち)を二つ三つも越したる可(べ)し。銀杏返(いてふがへし)を引約(ひつつ)めて、本甲蒔絵(ほんこうまきゑ)の挿櫛(さしぐし)根深(ねぶか)に、大粒の淡色瑪瑙(うすいろめのう)に金脚(きんあし)の後簪(うしろざし)、堆朱彫(ついしゆぼり)の玉根掛(たまねがけ)をして、鬢(びん)の一髪(いつぱつ)をも乱さず、極(きは)めて快く結ひ做(な)したり。葡萄茶(えびちや)の細格子(ほそごうし)の縞御召(しまおめし)に勝色裏(かついろうら)の袷(あはせ)を着て、羽織は小紋縮緬(こもんちりめん)の一紋(ひとつもん)、阿蘭陀(オランダ)模様の七糸(しつちん)の袱紗帯(ふくさおび)に金鎖子(きんぐさり)の繊(ほそ)きを引入れて、嬌(なまめかし)き友禅染の襦袢(じゆばん)の袖(そで)して口元を拭(ぬぐ)ひつつ、四季袋(しきぶくろ)を紐短(ひもみじ)かに挈(さ)げたるが、弗(ふ)と此方(こなた)を見向ける素顔の色蒼(あを)く、口の紅(べに)も点(さ)さで、やや裏寂(うらさびし)くも花の咲過ぎたらんやうの蕭衰(やつれ)を帯びたれど、美目の盻(へん)たる色香(いろか)尚濃(なほこまやか)にして、漫(そぞ)ろ人に染むばかりなり。
 両箇(ふたり)は彼の見る目の顕露(あらは)なるに気怯(きおくれ)せる様子にて、先を争ふ如く足早に過行きぬ。貫一もまたその逢着(ほうちやく)の唐突なるに打惑ひて、なかなか精(くはし)く看るべき遑(いとま)あらざりけれど、その女は万々彼の妻なんどにはあらじ、と独(ひと)り合点せり。

     第三章

 かの男女(なんによ)は□(いと)しさに堪(た)へざらんやうに居寄りて、手に手を交(まじ)へつつ密々(ひそやか)に語れり。
「さうなの、だから私はどんなに心配したか知れやしない。なかなか貴方(あなた)がここで想つてゐるやうな訳に行きは為(し)ませんとも。そりや貴方の心配もさうでせうけれど、私の心配と云つたら、本当に無かつたの。察しるが可(い)いつて、そりや貴方、お互ぢやありませんか。吁(ああ)、私は今だに胸が悸々(どきどき)して、後から追掛(おつか)けられるやうな気持がして、何だか落着かなくて可けない」
「まあ何でも、かうして約束通り逢(あ)へりや上首尾なんだ」
「全くよ。一昨日(をととひ)の晩あたりの私の心配と云つたら、こりやどうだかと、さう思つたくらゐ、今考へて見れば、自分ながら好く出られたの。やつぱり尽きない縁なのだわ」
 些(ちよ)と男の顔を盻(みや)りて、濡(ぬ)るる瞼(まぶた)を軽く拭(ぬぐ)へり。
「その縁の尽きないのが、究竟(つまり)彼我(ふたり)の身の窮迫(つまり)なのだ。俺(おれ)もかう云ふ事に成らうとは思はなかつたが、成程、悪縁と云ふ者は為方(しかた)の無いものだ」
 女は尚窃(なほひそか)に泣きゐる面(おもて)を背(そむ)けたるまま、
「貴方は直(ぢき)に悪縁だ、悪縁だと言ふけれど、悪縁ならどうするんです!」
「悪縁だからかうなつたのぢやないか」
「かう成つたのがどうしたんですよ!」
「今更どうするものか」
「当然(あたりまへ)さ! 貴方は一体水臭いんだ□」
「おい、お静(しず)、水臭いとは誰の事だ」
 色を作(な)せる男の眼(まなこ)は、つと湧(わ)く涙に輝けり。
「貴方の事さ!」
 女の目よりは漣々(はらはら)と零(こぼ)れぬ。
「俺の事だ□ お静……手前(てめへ)はそんな事を言つて、それで済むと思ふのか」
「済んでも済まなくても、貴方が水臭いからさ」
「未(ま)だそんな事を言やがる! さあ、何が水臭いか、それを言へ」
「はあ、言ひますとも。ねえ、貴方は他(ひと)の顔さへ見りや、直(ぢき)に悪縁だと云ふのが癖ですよ。彼我(ふたり)の中の悪縁は、貴方がそんなに言(いは)なくたつて善く知つてゐまさね。何も貴方一箇(ひとり)の悪縁ぢやなし、私だつてこれでも随分謂(い)ふに謂(いは)れない苦労を為てゐるんぢやありませんか。それを貴方がさもさも迷惑さうに、何ぞの端(はし)には悪縁だ悪縁だとお言ひなさるけれど、聞(きか)される身に成つて御覧なさいな。余(あんま)り好(い)い心持は為やしません。それも不断ならともかくもですさ、この場になつてまでも、さう云ふ事を言ふのは、貴方の心が水臭いからだ――何がさうでない事が有るもんですか」
「悪縁だから悪縁だと言ふのぢやないか。何も迷惑して……」
「悪縁でも可ござんすよ!」
 彼等は相背(あひそむ)きて姑(しばら)く語無(ことばな)かりしが、女は忍びやかに泣きゐたり。
「おい、お静、おい」
「貴方きつと迷惑なんでせう。貴方がそんな気ぢや、私は……実に……つまらない。私はどうせう。情無い!」
 お静は竟(つひ)に顔を掩(おほ)うて泣きぬ。
「何だな、お前も考へて見るが可いぢやないか。それを迷惑とも何とも思はないからこそ、世間を狭くするやうな間(なか)にも成りさ、又かう云ふ……なあ……訳なのぢやないか。それを嘘(うそ)にも水臭いなんて言(いは)れりや、俺だつて悔(くやし)いだらうぢやないか。余り悔くて俺は涙が出た。お静、俺は何も芸人ぢやなし、お前に勤めてゐるんぢやないのだから、さう思つてゐてくれ」
「狭山(さやま)さん、貴方もそんなに言はなくたつて可いぢやありませんか」
「お前が言出すからよ」
「だつて貴方がかう云ふ場になつて迷惑さうな事を言ふから、私は情無くなつて、どうしたら可からうと思つたんでさね。ぢや私が悪かつたんだから謝(あやま)ります。ねえ、狭山さん、些(ちよい)と」
 お静の顔を打矚(うちまも)りつつ、男は茫然(ぼうぜん)たるのみなり。
「狭山さんてば、貴方何を考へてゐるのね」
「知れた事さ、彼我(ふたり)の身の上をよ」
「何だつてそんな事を考へてゐるの」
「…………」
「今更何も考へる事は有りはしないわ」
 狭山は徐々(おもむろ)に目を転(うつ)して、太息(といき)を□(つ)いたり。
「もうそんな溜息(ためいき)なんぞを□くのはお舎(よ)しなさいつてば」
「お前二十……二だつたね」
「それがどうしたの、貴方が二十八さ」
「あの時はお前が十九の夏だつけかな」
「ああ、さう、何でも袷(あはせ)を着てゐたから、丁度今時分でした。湖月(こげつ)さんのあの池に好いお月が映(さ)してゐて、暖(あつたか)い晩で、貴方と一処に涼みに出たんですよ、善く覚えてゐる。あれが十九、二十、二十一、二十二と、全(まる)三年に成るのね」
「おお、さうさう。昨日(きのふ)のやうに思つてゐたが、もう三年に成るなあ」
「何だか、かう全で夢のやうね」
「吁(ああ)、夢だなあ!」
「夢ねえ!」
「お静!」
「狭山さん!」
 両箇(ふたり)は手を把(と)り、膝(ひざ)を重ねて、同じ思を猶悲(なおかなし)く、
「ゆ……ゆ……夢だ!」
「夢だわ、ねえ!」
 声立てじと男の胸に泣附く女。
「かう成るのも皆(みんな)約束事ぢやあらうけれど、那奴(あいつ)さへ居なかつたら、貴方だつて余計な苦労は為はしまいし。私は私で、ああもかうも思つて、末始終の事も大概考へて置いたのだから、もう少しの間時節が来るのを待つてゐられりや、曩日(いつか)の御神籤通(おみくじどほり)な事に成れるのは、もう目に見えてゐるのを、那奴(あいつ)が邪魔して、横紙(よこがみ)を裂くやうな事を為やがるばかりに大事に為なけりや成らない貴方の体に、取つて返しの付かない傷まで附けさせて、私は、狭山さん、余(あんま)り申訳が無い! 堪(かん)……忍(にん)……して下さい」
「そりやなあに、お互の事だ」
「いいえ、私がもう少し意気地が有つたら、かうでもないんだらうけれど、胸には色々在つても、それが思切つて出来ない性分だもんだから、ついこんな破滅(はめ)にも成つて了つて、私は実に済まないと、自分の身を考へるよりは、貴方の事が先に立つて、さぞ陰ぢや迷惑もしてお在(いで)なんだらうに、逢ふ度(たんび)に私の身を案じて、毎(いつ)も優くして下さるのは仇(あだ)や疎(おろか)な事ぢやないと、私は嬉(うれし)いより難有(ありがた)いと思つてゐます。だものだから、近頃ぢや、貴方に逢ふと直(ぢき)に涙が出て、何だか悲くばかりなるのが不思議だと思つてゐたら、果然(やつぱり)かう云ふ事になる讖(しらせ)だつたんでせう。
 貴方にはお気の毒だ、お気の毒だ、と始終自分が退(ひ)けてゐるのに、悪縁だなんぞと言れると、私は体が縮るやうな心持がして、ああ、さうでもない、貴方が迷惑してゐるばかりなら未だ可いけれど、取んだ者に懸り合つた、ともしや後悔してお在(いで)なんぢやなからうかと思ふと、私だつて好い気持はしないもんだから、つい向者(さつき)はあんなに言過ぎて、私は誠に済みませんでした。それはもう貴方の言ふ通り悪縁には差無(ちがひな)いんだけれど、後生だからそんな可厭(いや)な事は考へずにゐて下さい。私はこれで本望だと思つてゐる」
「生木(なまき)を割(さ)いて別れるよりは、まあ愈(まし)だ」
「別れる? 吁(ああ)! 可厭(いや)だ! 考へても慄然(ぞつ)とする! 切れるの、別れるのなんて事は、那奴(あいつ)が来ない前には夢にだつて見やしなかつたのを、切れろ切れろぢや私もどの位内で責められたか知れやしない。さうして挙句(あげく)がこんな事に成つたのも、想へば皆(みんな)那奴のお蔭だ。ええ、悔(くやし)い! 私はきつと執着(とつつ)いても、この怨(うらみ)は返して遣(や)るから、覚えてゐるが可い!」
 女は身を顫(ふるは)せて詈(ののし)るとともに、念入(おもひい)りて呪(のろ)ふが如き血相を作(な)せり。
 不知(しらず)、この恨み、詈(ののし)り、呪はるる者は、何処(いづく)の誰(だれ)ならんよ。
「那奴も好加減な馬鹿ぢやないか!」
 男は歯咬(はがみ)しつつ苦しげに嗤笑(ししよう)せり。
「馬鹿も大馬鹿よ! 方図の知れない馬鹿だわ。畜生! 所歓(いろ)の有る女が金で靡(なび)くか、靡かないか、些(ちつと)は考へながら遊ぶが可い。来りや不好(いや)な顔を為て遣るのに、それさへ解らずに、もう□(うるさ)く附けつ廻しつして、了局(しまひ)には人の恋中の邪魔を為やがるとは、那奴も能(よ)く能くの芸無猿(げいなしざる)に出来てゐるんだ。憎さも憎し、私はもう悔くて、悔くて、狭山さん、実はね、私はこの世の置土産(おきみやげ)に、那奴の額を打割(ぶちわ)つて来たんでさね」
「ええ、どうして!」

「なあにね、貴方に別れたあの翌日(あくるひ)から、延続(のべつ)に来てゐやがつて、ちつとでも傍(そば)を離さないんぢやありませんか。這箇(こつち)は気が気ぢやないところへ、もう悪漆膠(わるしつこ)くて耐(たま)らないから、病気だと謂(い)つて内へ遁(に)げて来りや、直(すぐ)に追懸(おつか)けて来て、附絡(つきまと)つてゐるんでせう。さうすると寸法は知れてまさね、丁(ちやん)と渉(わたり)が付いてゐるんだから、阿母(おつか)さんは傍(そば)から『ちやほや』して、そりや貴方、真面目(まじめ)ぢや見ちやゐられないお手厚(てあつ)さ加減なんだから、那奴は図に乗つて了つて、やあ、風呂を沸(わか)せだ事の、ビイルを冷(ひや)せだ事のと、あの狭い内へ一個(ひとり)で幅を為(し)やがつて、なかなか動(いご)きさうにも為ないんぢやありませんか。
 私は全で生捕(いけどり)に成つたやうなもので、出るには出られず、這箇(こつち)の事が有るから、さうしてゐる空(そら)は無し、あんな気の揉(も)めた事は有りはしない――本当(ほんと)にどうせうかと思つた。ええ、なあに、あんな奴は打抛出(おつぽりだ)して措(お)いて、這箇(こつち)は掻巻(かいまき)を引被(ひつかぶ)つて一心に考へてゐたんですけれど、もう憤(じ)れたくて耐らなくなつて来たから、不如(いつそ)かまはず飛出して了はうかと、余程(よつぽど)さう念つたものの、丹子(たんこ)の事も、ねえ、考へて見りや可哀(かはい)さうだし、あの子を始め阿母さんまで、私ばかりを頼(たより)に為てゐるものを、さぞや私の亡(な)い後には、どんなにか力も落さうし、又あの子も為ないでも好い苦労を為なけりやなるまいと、そればかりに牽(ひか)されて、色々話も有るものだから、あの子の阿母さんにも逢つて遣りたし、それに、私も出るに就いちや、為て置かなけりやならない事も有るし為るので、到頭遅々(ぐづぐづ)して出損(でそこな)つて了つたんです。
 さうすると、どうでせう、まあ、那奴はその晩二時過までうで付いてゐて、それでも不承々々に還(かへ)つたのは可い。すると翌日(あくるひ)は半日阿母さんのお談義が始まつて、好加減に了簡(りようけん)を極めろでせう。さう言つちや済まないけれど、育てた恩も聞飽きてゐるわ。それを追繰返(おつくりかへ)し、引繰返(ひつくりかへ)し、悪体交(あくたいまじ)りには、散々聴せて、了局(しまひ)は口返答したと云つて足蹴(あしげ)にする。なあに、私は足蹴にされたつて、撲(ぶた)れたつて、それを悔いとは思やしないけれど、這箇(こつち)だつて貴方と云ふ者が有ると思ふから、もう一生懸命に稼(かせ)いで、為るだけの事は丁(ちやん)と為てあるのに、何ぼ慾にきりが無いと謂つても、自分の言条(いひじよう)ばかり通さうとして、他(ひと)には些(ちつと)でも楽を為せない算段を為る。私だつて金属(かね)で出来た機械ぢやなし、さうさう駆使(こきつか)はれてお為にばかり成つてゐちや、這箇(こつち)の身が立ちはしない。
 別にどうしてくれなくても、訳さへ解つてゐてくれりや、辛いぐらゐは私は辛抱する。所歓(いろ)は堰(せ)いて了ふし、旦那取(だんなとり)は為ろと云ふ。そんな不可(いや)な真似(まね)を為なくても、立派に行くやうに私が稼いであるんぢやありませんか。それをさう云ふ無理を言つてからに、素直でないの、馬鹿だのと、足蹴に為るとは……何……何事で……せう!
 それぢや私も赫(かつ)として、もう我慢が為切れなく成つたから、物も言はずに飛出さうと為る途端に、運悪く又那奴(あいつ)が遣つて来たんぢやありませんか。さあ、捉(つかま)つて了つて、其処(そこ)の場図(ばつ)で迯(にげ)るには迯られず、阿母(おつか)さんは得(え)たり賢(かしこ)しなんでせう、一処に行け行けと聒(やかまし)く言ふし、那奴は何でも来いと云つて放さない。私も内を出た方が都合が好いと思つたから、まあ言ふなりに成つて、例の処へ□(ひつぱ)られて行つたとお思ひなさい。あの長尻(ながちり)だから、さあ又還らない、さうして何か所思(おもはく)でも有つたんでせうよ、何だか知らないけれど、その晩に限つて無闇(むやみ)とお酒を強(しひ)るんでさ。這箇(こつち)も鬱勃肚(むしやくしやばら)で、飲めも為ないのに幾多(いくら)でも引受けたんだけれど、酔ひさうにも為やしない。
 その内に漸々(そろそろ)又お極(きま)りの気障(きざ)な話を始めやがつて、這箇(こつち)が柳に受けて聞いてゐて遣りや、可いかと思つて増長して、呆(あき)れた真似(まね)を為やがるから、性の付く程諤々(つけつけ)さう言つて遣つたら、さあ自棄(やけ)に成つて、それから毒吐(どくつ)き出して、やあ店番の埃被(ほこりかぶり)だの、冷飯吃(ひやめしくら)ひの雇人(やとひにん)がどうだのと、聞いちやゐられないやうな腹の立つ事を言やがるから、這箇(こつち)も思切つて随分な悪体(あくたい)を吐(つ)いて遣つたわ、私は。
 さうすると、了局(しまひ)に那奴は何と言ふかと思ふと、幾許(いくら)七顛八倒(じたばた)しても金で縛(しば)つて置いた体だなんぞ、と利(き)いた風な事を言ふんぢやありませんか。だから、私はさう言つて遣つた、お気の毒だが、貴方は大方目が眩(くら)んで、そりやお袋を縛つたんだらうつて」
 聴ゐる狭山は小気味好(こきみよ)しとばかりに頷(うなづ)けり。
「それで那奴(あいつ)は全然(すつかり)慍(おこ)つて了つて、それからの騒擾(さわぎ)でさ。無礼な奴だとか何とか言つて、私は襟(えり)を持つて引擦(ひきず)り仆(たふ)された。随分飲んでゐたから、やつぱり酔つてゐたんでせう。その時はもう全(まる)で夢中で、唯(ただ)那奴の憎らしいのが胸一杯に込上(こみあ)げて、這畜生(こんちくしよう)と思ふと、突如(いきなり)其処(そこ)に在つたお皿を那奴の横面(よこつつら)へ叩付(たたきつ)けて遣つた。丁度それが眉間(みけん)へ打着(ぶつか)つて血が淋漓(だらだら)流れて、顔が半分真赤に成つて了つた。これは居ちや面倒だと思つたから、家中大騒を遣つてゐる隙(すき)を見て、窃(そつ)と飛出した事は飛出したけれど、別に往所(ゆきどころ)も無いから、丹子の阿母(おつか)さんの処へ駈込(かけこ)んだの。
 ところが、好かつた事には、今旅から帰つたと云ふところなんで、時間を見ると、十時余程(よつぽど)廻つてゐるんでせう。□車(きしや)はもう出ず、気ばかりは急(せ)くけれど、若箇道(どつちみち)間に合ふんぢやなし、それに話は有るし為るもんだから、一晩厄介に成る事にして、髪なんぞを結んでもらひながら、些(ちつ)と訳が有つて、貴方と一処に当分身を隠すのだと云ふやうに話を為てね、それから丹子の事も悉(くはし)く言置いて遣りましたら――善い人ね、あの阿母さんは――おいおい泣出して、自分の子の事はふつつりとも言はずに、唯私の身ばかりを案じて、ああのかうのと色々言つてくれたその実意と云つたら……噫(ああ)、同じ人間でありながら、内の阿母さんは、実に、あなた、鬼ですわ! 私もあの子の阿母さんのやうな実の親が有つたらば、こんな苦労は為やしまいし、又貴方のやうな方の有るのを、さぞかし力に念(おも)つて、喜びも為やうし、大事にも為る事だらうと思つたら、もうもう悲くなつて、悲くなつて、如何(いか)に何でも余(あんま)り情無くて、私はどんなに泣きましたらう。
 それに、私をばあんなに頼(たのみ)に為てゐた阿母さんの事だから、当分でも田舎(ゐなか)へ行つて了ふと云ふのを、それは心細がつて、力を落したの何のと云つたら、私も別れるのが気の毒に成るくらゐで、先へ落付いたら、どうぞ一番に住所(ところ)を知せてくれ、初中終(しよつちゆう)旅を出行(である)いてゐる体だから、直(ぢき)に御機嫌伺(ごきげんうかが)ひに出ると、その事をあんなに懇々(くれぐれ)も頼んでゐましたから、後で聞いたら、さぞ吃驚(びつくり)して……きつと疾(わづら)ひでも為るでせうよ。考へて見りや、丹子も可愛(かはい)し、あの阿母さんも怜(いとし)いし。吁(ああ)、吁!」
 歔欷(すすりなき)して彼は悶(もだ)えつ。
「さう云ふ訳ぢや、猶更(なほさら)内ぢや大騒をして捜してゐる事だらう」
「大変でせうよ」
「それだと余(あんま)り遅々(ぐづぐづ)しちやゐられないのだ」
「どうで、狭山さん、先は知れてゐ……」
「さうだ」
「だからねえ、もう早い方が可ござんすよ」
 女は咽(むせ)びて其処(そこ)に泣伏しぬ。狭山は涙を連□(しばたた)きて、
「お静、おい、お静や」
「あ……あい。狭山さん!」
 憐(あはれ)むべし、情極(じようきはま)りて彼等の相擁(あひよう)するは、畢竟(ひつきよう)尽きせぬ哀歎(なげき)を抱(いだ)くが如き者ならんをや。

     (三)の二

 両箇(ふたり)は此方(こなた)にかつ泣きかつ語れる間、彼方(あなた)の一箇(ひとり)は徒然(つれづれ)の柱に倚(よ)りて、やうやう傾く日影に照されゐたり。
 その待人の如何(いか)なる者なるかを見て、疑は決すべしと為せし貫一も、かの伴ひ還りし女を見るに□(およ)びて、その疑はいよいよ錯雑して、しかも新なる怪訝(あやしみ)の添はるのみなり。
 如何(いか)なればや、女の顔色も甚(はなは)だ勝(すぐ)れず、その点の男といと善く似たるは、同じ憂を分つにあらざる無からんや。我聞く、犯罪の底には必ず女有りと、若(も)し信(まこと)なりとせば、彼は正(まさし)く彼女(かのをんな)ゆゑに如何(いか)なる罪をも犯せるならんよ。その罪の故(ゆゑ)に男は苦み、その苦の故に女は憂ふると為(せ)ば、彼等は誠に相愛(あひあい)するの堅き者ならず哉(や)。
 知らず、彼等は何(なに)の故に相率(あひひきゐ)てこの人目稀(まれ)なる山中(やまなか)には来(きた)れる。その罪を□(のが)れんが為か、その苦と憂とを忘れんが為か、或(あるひ)はその愛を全うせんが為か、明(あきらか)に彼等は夫婦ならず、又は、女の芸者風なるも、決して尋常の隠遊(かくれあそび)にあらずして、自(おのづ)から穂に露(あらは)るるところ有り。さては何等(なにら)の密会ならん。
 貫一は彼を以(も)て女を偸(ぬす)みて奔(はし)る者ならずや、と先(まづ)推(すい)しつつ、尚(な)ほ如何にやなど、飽かず疑へる間より、忽(たちま)ち一片の反映は閃(きらめ)きて、朧(おぼろ)にも彼の胸の黯(くら)きを照せり。
 彼はこの際熱海の旧夢を憶(おも)はざるを得ざりしなり。
 世上貫一の外(ほか)に愛する者無かりし宮は、その貫一と奔るを諾(うべな)はずして、僅(わづか)に一瞥(べつ)の富の前に、百年の契を蹂躙(ふみにじ)りて吝(をし)まざりき。噫(ああ)我が当時の恨、彼が今日(こんにち)の悔! 今彼女(かのをんな)は日夜に栄の衒(てら)ひ、利の誘(いざな)ふ間に立ち、守るに難き節を全うして、世の容(い)れざる愛に随(したが)つて奔らんと為るか。
 爾思(しかおも)へる後の彼は、陰(ひそか)にかの両個(ふたり)の先に疑ひし如き可忌(いまはし)き罪人ならで、潔く愛の為に奔る者たらんを、祷(いの)るばかりに冀(こひねが)へり。若しさもあらば、彼は具(つぶさ)に彼等の苦き身の上と切なる志とを聴かんと念(おも)ひぬ。
 心永く痍(きずつ)きて恋に敗れたる貫一は、殊更(ことさら)に他の成敗に就いて観(み)るを欲せるなり。彼は己(おのれ)の不幸の幾許(いかばかり)不幸に、人の幸(さち)の幾許幸ならんかを想ひて、又己の失敗の幾許無残に、人の成効の幾許十分ならんかを想ひて、又己の契の幾許薄く、人の縁(えにし)の幾許深からんかを想ひて、又己の受けし愛の幾許浅く、人の交(かは)せる情(なさけ)の幾許篤からんかを想ひて、又己の恋の障碍(さまたげ)の幾許強く、人の容れられぬ世の幾許狭からんかを想ひて。嗟呼(ああ)、既に己の恋は敗れに破れたり。知るべからざる人の恋の末終(つひ)に如何(いか)ならんかを想ひて。
 昼間の程は勗(つと)めて籠(こも)りゐしかの両個(ふたり)の、夜に入りて後打連(うちつ)れて入浴せるを伺ひ知りし貫一は、例の益(ますま)す人目を避(さく)るならんよと念(おも)へり。
 還り来(き)て多時(しばらく)酒など酌交(くみかは)す様子なりしが、高声一つ立つるにもあらで、唯障子を照す燈(ともし)のみいと瞭(さやか)に、内の寂しさは露をも置きけんやうにて、さてはかの吹絶えぬ松風に、彼等は竟(つひ)に酔(ゑひ)を成さざるならんと覚ゆばかりなりき。
 為(な)す事もあらねば、貫一は疾(と)く臥内(ふしど)に入りけるが、僅(わづか)に□(まどろ)むと為れば直(ぢき)に、寤(さ)めて、そのままに睡(ねむり)は失(うす)るとともに、様々の事思ひゐたり。
 夜の静なるを動かして、かの男女(なんによ)の細語(ひそめき)は洩(も)れ来(き)ぬ。甚(はなは)だ幺微(かすか)なれば聞知るべくもあらねど、□々(びび)として絶えず枕に打響きては、なかなか大いなる声にも増して耳煩(みみわづら)はしかり。
 さなきだに寝難(いねがた)かりし貫一は、益す気の澄み、心の冱(さ)え行くに任せて、又徒(いたづら)にとやかくと、彼等の身上(みのうへ)を推測(おしはか)り推測り思回(おもひめぐ)らすの外はあらず。彼方(あなた)もその幺微(かすか)なる声に語り語りて休(や)まざるは、思の丈(たけ)の短夜(たんや)に余らんとするなるか。
 乍(たちま)ち有りて、迸(ほとばし)れるやうにその声はつと高く揚れり。貫一は愕然(がくぜん)として枕を欹(そばだ)てつ。女は遽(にはか)に泣出(なきいだ)せるなり。
 その時男の声音(こわね)は全く聞えずして、唯独(ひと)り女の縦(ほしいま)まに泣音(なくね)を洩(もら)すのみなる。寤めたる貫一は弥(いや)が上に寤めて、自ら故(ゆゑ)を知らざる胸を轟(とどろか)せり。
 少焉(しばし)泣きたりし女の声は漸(やうや)く鎮りて、又湿(しめ)り勝(がち)にも語り初(そ)めしが、一たび情(じよう)の為に激せし声音は、自(おのづ)から始よりは高く響けり。されどなほその言ふところは聞知り難くて、男の声は却(かへ)りて前(さき)よりも仄(ほのか)なり。
 貫一は咳(しはぶ)きも遣らで耳を澄せり。
 或(あるひ)は時に断ゆれども、又続(つ)ぎ、又続ぎて、彼等の物語は蚕(かひこ)の糸を吐きて倦(う)まざらんやうに、限も知らず長く亘(わた)りぬ。げにこの積る話を聞きも聞せもせんが為に、彼等はここに来つるにやあらん。されども、日は明日(あす)も明後日(あさつて)も有るを、甚(はなは)だ忙(せはし)くも語るもの哉(かな)。さばかり間遠(まどほ)なりし逢瀬(あふせ)なるか、言はでは裂けぬる胸の内か、かく有らでは慊(あきた)らぬ恋中(こひなか)か、など思ふに就けて、彼はさすがに我身の今昔(こんじやく)に感無き能はず、枕を引入れ、夜着(よぎ)引被(ひきかつ)ぎて、寐返(ねがへ)りたり。
 何時罷(いつや)みしとも覚えで、彼等の寐物語は漸く絶えぬ。
 貫一も遂に短き夢を結びて、常よりは蚤(はや)かりけれど、目覚めしままに起出(おきい)でし朝冷(あさびえ)を、走り行きて推啓(おしあ)けつる湯殿の内に、人は在らじと想ひし眼(まなこ)を驚(おどろか)して、かの男女(なんによ)は浴(ゆあみ)しゐたり。
 貫一ははたと閉(とざ)して急ぎ返りつ。

     第四章

 両箇(ふたり)はやや熱かりしその日も垂籠(たれこ)めて夕(ゆふべ)に抵(いた)りぬ。むづかしげに暮山(ぼさん)を繞(めぐ)りし雲は、果して雨と成りて、冷々(ひやひや)と密下(そぼふ)るほどに、宵の燈火(ともしび)も影更(ふ)けて、壁に映(うつろ)ふ物の形皆寂く、憖(なまじ)ひに起きて在るべき夜頃(よごろ)ならず。さては貫一も枕(まくら)に就きたり。
 ラムプを細めたる彼等の座敷も甚(はなは)だ静に、宿の者さへ寐急(ねいそ)ぎて後十一時は鳴りぬ。
 凄(すさまじ)き谷川の響に紛れつつ、小歇(をやみ)もせざる雨の音の中に、かの病憊(やみつか)れたるやうの柱時計は、息も絶気(たゆげ)に半夜を告げわたる時、両箇(ふたり)が閨(ねや)の燈(ともし)は乍(たちま)ち明(あきら)かに耀(かがや)けるなり。
 彼等は倶(とも)に起出でて火鉢(ひばち)の前に在り。
「膳(ぜん)を持つて来ないか」
「ええ」
 女は幺微(かすか)なる声して答へけれど、打萎(うちしを)れて、なかなか立ちも遣(や)らず。
「狭山さん、私(わたし)は何だか貴方(あなた)に言残した事が未(ま)だ有るやうな心持がして……」
「吁(ああ)、もうかう成つちやお互に何も言はないが可(い)い。言へばやつぱり未練が出る」
 彼は熟(じ)と内向(うつむ)きて、目を閉ぢたり。
「貴方、その指環を私のと取替事(とりかへつこ)して下さいね」
「さうか」
 各(おのおの)その手に在るを抜きて、男は実印用のを女の指に、女はダイアモンド入のを男の指に、□(さ)し了(をは)りてもなほ離れかねつつ、物は得言はでゐたり。
 颯(さ)と鳴りて雨は一時(ひとしきり)繁(しげ)く灑(そそ)ぎ来(きた)れり。
「ああ、大相降つて来た」
「貴方は不断から雨が所好(すき)だつたから、きつとそれで……暇(いとま)……乞(ごひ)に降つて来たんですよ」
「好い折だ。あの雨を肴(さかな)に……お静、もう覚悟を為ろよ!」
「あ……あい。狭山さん、それぢや私も……覚……悟したわ」
「酒を持つて来な」
「あい」
 お静も今は心を励して、宵の程誂(あつら)へ置きし酒肴(しゆこう)の床間(とこのま)に上げたるを持来(もてき)て、両箇(ふたり)が中に膳を据れば、男は手早く燗(かん)して、その間(ま)に各(おのおの)服を更(あらた)むる忙(せは)しさは、忽(たちま)ち衣(きぬ)の擦(す)り、帯の鳴る音高く□※(さやさや)[#「糸+察」、436-13]と乱れ合ひて、転(うた)た雨濃(こまやか)なる深夜を驚(おどろ)かせり。
「ええ、もう好(す)かない!」
 帯緊(おびし)めながら女はその端(はし)を振りて身悶(みもだえ)せるなり。
「どうしたのだ」
「なあにね、帯がこんなに結(むす)ばつて了つて」
「帯が結ばつた?」
「ああ! あなた釈(と)いて下さい、よう」
「何か吉(い)い事が有るのだ」
「私はもしも遣損(やりそこな)つて、耻(はぢ)でも曝(さら)すやうな事が有つちやと、それが苦労に成つて耐(たま)らなかつたんだから、これでもう可いわ」
「それは大丈夫だから安心するが可い。けれど、もしもだ、お静、そんな事は無いとは念ふけれど、運悪く遅れたら、俺(おれ)はきつと後から往くから――どんなにしても往くから、恨まずに待つてゐてくれ。よ、可……可いか」
 つと俯(ふ)したるお静は、男の膝を咬(か)みて泣きぬ。
「その代り、偶(ひよつ)としてお前が後になるやうだつたら、俺は死んでも……魂(たましひ)はおまへの陰身(かげみ)を離れないから、必ず心変(こころがはり)を……す、するなよ、お静」
「そんな事を言はないで、一処に……連れて……往つて……下さいよ」
「一処に往くとも!」
「一処に! 一処に往きますよ!」
「さあ、それぢやこ、この世の……別に一盃(いつぱい)飲むのだ。もう泣くな、お静」
「泣、泣かない」
「さあ、那裏(あすこ)へ行つて飲まう」
 男は先づ起ちて、女の手を把(と)れば、女はその手に縋(すが)りつつ、泣く泣く火鉢の傍(そば)に座を移しても、なほ離難(はなれがた)なに寄添ひゐたり。
「猪口(ちよく)でなしに、その湯呑(ゆのみ)に為やう」
「さう。ぢや半分づつ」
 熱燗(あつがん)の酒は烈々(れつれつ)と薫(くん)じて、お静が顫(ふる)ふ手元より狭山が顫ふ湯呑に注がれぬ。
 女の最も悲かりしは、げにこの刹那(せつな)の思なり。彼は人の為に酒を佐(たすく)るに嫻(なら)ひし手も、などや今宵の恋の命も、儚(はかな)き夢か、うたかたの水盃(みづさかづき)のみづからに、酌取らんとは想の外の外なりしを、唄(うた)にも似たる身の上哉(かな)と、漫(そぞろ)に逼(せま)る胸の内、何に譬(たと)へん方(かた)もあらず。
 男は燗の過ぎたるに口を着けかねて、少時(しばし)手にせるままに眺(なが)めゐれば、よし今は憂くも苦くも、久(ひさし)く住慣れしこの世を去りて、永く返らざらんとする身には、僅(わづか)に一盃(いつぱい)の酒に対するも、又哀別離苦(あいべつりく)の感無き能はざるなり。
 念(おも)へ、彼等の逢初(あひそ)めし夕(ゆふべ)、互に意(こころ)有りて銜(ふく)みしもこの酒ならずや。更に両個(ふたり)の影に伴ひて、人の情(なさけ)の必ず濃(こまやか)なれば、必ず芳(かうばし)かりしもこの酒ならずや。その恋中の楽(たのしみ)を添へて、三歳(みとせ)の憂(うさ)を霽(はら)せしもこの酒ならずや。彼はその酒を取りて、吉(よ)き事積りし後の凶の凶なる今夜の末期(まつご)に酬(むく)ゆるの、可哀(あはれ)に余り、可悲(かなし)きに過(すぐ)るを観じては、口にこそ言はざりけれど、玉成す涙は点々(ほろほろ)と散りて零(こぼ)れぬ。
「おまへの酌で飲むのも……今夜きりだ」
「狭山さん、私はこんなに苦労を為て置きながら、到頭一日でも……貴方と一処に成れずに、芸者風情(ふぜい)で死んで了ふのが……悔(くやし)い、私は!」
 聞くも苦しと、男は一息に湯呑の半(なかば)を呷(あふ)りて、
「さあ、お静」
 女は何気無く受けながら、思へば、別の盃(さかづき)かと、手に取るからに胸潰(むねつぶ)れて、
「狭山さん、私は今更お礼を言ふと云ふのも、異な者だけれど、貴方は長い月日の間、私のやうなこんな不束者(ふつつかもの)の我儘者(わがままもの)を、能くも愛相(あいそ)を尽かさずに、深切に、世話をして下すつた。
 私は今まで口には出さなかつたけれど、心の内ぢや、狭山さん、嬉いなんぞと謂ふのは通り越して、実に難有(ありがた)いと思つてゐました。その御礼を為たいにも、知つてゐる通の阿母(おつか)さんが在るばかりに唯さう思ふばかりで、どうと云ふ事も出来ず、本当(ほんと)に可恥(はづかし)いほど行届かないだらけで、これぢや余(あんま)り済まないから、一日も早く所帯でも持つやうに成つて、さうしたら一度にこの恩返しを為ませうと、私は、そればかりを楽(たのしみ)に、出来ない辛抱も為てゐたんだけれど、もう、今と成つちや何もかも水(み)……水(み)……水(みづ)の……泡。
 つい心易立(こころやすだて)から、浸々(しみじみ)お礼も言はずにゐたけれど、狭山さん、私の心は、さうだつたの。もうこれぎりで、貴方も……私も……土に成つて了へば、又とお目には掛れ、ないんだから、せめては、今改めて、狭山さん、私はお礼を申します」
 男は身をも搾(しぼ)らるるばかりに怺(こら)へかねたる涙を出(いだ)せり。
「もうそ、そ、そんな事……言つて……くれるな! 冥路(よみぢ)の障(さはり)だ。両箇(ふたり)が一処に死なれりや、それで不足は無いとして、外の事なんぞは念はずに、お静、お互に喜んで死なうよ」
「私は喜んでゐますとも、嬉いんですとも。嬉くなくてどうしませう。このお酒も、祝つて私は飲みます」
 涙諸共(もろとも)飲干して、
「あなた、一つお酌して下さいな」
 注(つ)げば又呷(あふ)りて、その余せるを男に差せば、受けて納めて、手を把(と)りて、顔見合せて、抱緊(だきし)めて、惜めばいよいよ尽せぬ名残(なごり)を、いかにせばやと思惑(おもひまど)へる互の心は、唯それなりに息も絶えよと祈る可かめり。
 男は抱(いだ)ける女の耳のあたかも唇(くちびる)に触るる時、現(うつつ)ともなく声誘はれて、
「お静、覚悟は可いか」
「可いわ、狭山さん」
「可けりや……」
「不如(いつそ)もう早く」
 狭山は直(ぢき)に枕の下なる袱紗包(ふくさづつみ)の紙入(かみいれ)を取上げて、内より出(いだ)せる一包(いつぽう)の粉剤こそ、正(まさ)に両個(ふたり)が絶命の刃(やいば)に易(か)ふる者なりけれ。
 女は二つの茶碗(ちやわん)を置並ぶれば、玉の如き真白の粉末は封を披(ひら)きて、男の手よりその内に頒(わか)たれぬ。
「さあ、その酒を取つてくれ。お前のには俺が酌をするから、俺のにはお前が」
「ああ可うござんす」
 雨はこの時漸く霽(は)れて、軒の玉水絶々(たえだえ)に、怪禽(かいきん)鳴過(なきすぐ)る者両三声(さんせい)にして、跡松風の音颯々(さつさつ)たり。
 狭山はやがて銚子(ちようし)を取りて、一箇(ひとつ)の茶碗に酒を澆(そそ)げば、お静は目を閉ぢ、合掌して、聞えぬほどの忍音(しのびね)に、
「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」
 代りて酌する彼の想は、吾手(わがて)男の胸元(むなもと)に刺違(さしちが)ふる鋩(きつさき)を押当つるにも似たる苦しさに、自(おのづ)から洩出(もれい)づる声も打震ひて、
「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)、南無阿弥陀仏、南無(なむ)……阿弥陀(あみだ)……南無阿弥(なむあみ)……陀(だ)……仏(ぶつ)、南無(なむ)……」
 と両個(ふたり)は心も消入らんとする時、俄(にはか)に屋鳴(やなり)震動(しんどう)して、百雷一処に堕(お)ちたる響に、男は顛(たふ)れ、女は叫びて、前後不覚の夢か現(うつつ)の人影は、乍(たちま)ち顕(あらは)れて燈火(ともしび)の前に在り。
「貴方(あなた)方は、怪からん事を! 可けませんぞ」
 男は漸く我に復(かへ)りて、惧(お)ぢ愕(おどろ)ける目を□(みひら)き、
「ああ! 貴方(あなた)は」
「お見覚(みおぼえ)ありませう、あれに居る泊客(とまりきやく)です。無断にお座敷へ入つて参りまして、甚(はなは)だ失礼ぢや御座いますけれど、実に危い所! 貴下方はどうなすつたのですか」
 悄然(しようぜん)として面(おもて)を挙げざる男、その陰に半ば身を潜めたる女、貫一は両個(ふたり)の姿を□(みまは)しつつ、彼の答を待てり。
「勿論(もちろん)これには深い事情がお有んなさるのでせう。ですから込入(こみい)つたお話は承(うけたま)はらんでも宜(よろし)い、但何故(ただなにゆゑ)に貴下方は活(い)きてをられんですか、それだけお聞せ下さい」
「…………」
「お二人が添ふに添れん、と云ふやうな事なのですか」
 男は甚(はなは)だ微(かすか)に頷(うなづ)きつ。
「さやうですか。さうしてその添れんと云ふのは、何故(なにゆゑ)に添れんのです」
 彼は又黙せり。
「その次第を伺つて、私(わたくし)の力で及ぶ事でありましたら、随分御相談合手(あひて)にも成らうかと、実は考へるので。然し、お話の上で到底私如きの力には及ばず、成程活きてをられんのは御尤(ごもつとも)だ、他人の私(わたし)でさへ外に道は無い、と考へられるやうなそれが事情でありましたら、私は決してお止(とど)め申さん。ここに居て、立派に死なれるのを拝見もすれば、介錯(かいしやく)もして上げます。
 私(わたくし)もこの間に入つた以上は、空(むなし)く手を退(ひ)く訳には行かんのです。貴下方を拯(すく)ふ事が出来るか、出来んか、那一箇(どつちか)です。幸(さいはひ)に拯(すく)ふ事が出来たら、私は命の親。又出来なかつたら、貴下方はこの世に亡(な)い人。この世に亡い人なら、如何(いか)なる秘密をここで打明けたところが、一向差支無(さしつかへな)からうと私は思ふ。若(も)し命の親とすればです、猶更(なおさら)その者に裹(つつ)み隠す事は無いぢやありませんか。私は何も洒落(しやれ)に貴下方のお話を聴かうと云ふのぢやありません、可うございますか、顕然(ちやん)と聴くだけの覚悟を持つて聴くのです。さあ、お話し下さい!」

     第五章

 貫一は気を厳粛(おごそか)にして逼(せま)れるなり。さては男も是非無げに声出(いだ)すべき力も有らぬ口を開きて、
「はい御深切に……難有(ありがた)う存じます……」
「さあ、お話し下さい」
「はい」
「今更お裹(つつ)みなさる必要は無からう、と私は思ふ。いや、つい私は申上げんでをつたが、東京の麹町(こうじまち)の者で、間(はざま)貫一と申して、弁護士です。かう云ふ場合にお目に掛るのは、好々(よくよく)これは深い御縁なのであらうと考へるのですから、決して貴下方の不為(ふため)に成るやうには取計ひません。私も出来る事なら、人間両個(ふたり)の命を拯(すく)ふのですから、どうにでもお助け申して、一生の手柄に為て見たい。私はこれ程までに申すのです」
「はい、段々御深切に、難有う存じます」
「それぢや、お話し下さるか」
「はい、お聴に入れますで御座います」
「それは忝(かたじけ)ない」
 彼は始めて心安う座を取れば、恐る惶(おそ)る狭山は先(ま)づその姿を偸見(ぬすみみ)て、
「何からお話し申して宜(よろし)いやら……」
「いや、その、何ですな、貴下方は添ふに添れんから死ぬと有仰(おつしや)る――! 何為(なぜ)添れんのですか」
「はい、実は私は、恥を申しませんければ解りませんが、主人の金を大分遣(つか)ひ込みましたので御座います」
「はあ、御主人持(もち)ですか」
「さやうで御座います。私は南伝馬町(みなみてんまちよう)の幸菱(こうびし)と申します紙問屋の支配人を致してをりまして、狭山元輔(さやまもとすけ)と申しまする。又これは新橋に勤を致してをります者で、柏屋(かしわや)の愛子と申しまする」

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