金色夜叉
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著者名:尾崎紅葉 

彼は竟(つひ)に堪へかねたる気色(けしき)にて障子を推啓(おしあく)れば、涼(すずし)き空に懸れる片割月(かたわれづき)は真向(まむき)に彼の面(おもて)に照りて、彼の愁ふる眼(まなこ)は又痛(したた)かにその光を望めり。
「間さん」
 居たるを忘れし人の可疎(うとまし)き声に見返れば、はや背後(うしろ)に坐れる満枝の、常は人を見るに必ず笑(ゑみ)を帯びざる無き目の秋波(しほ)も乾(かわ)き、顔色などは殊(こと)に槁(か)れて、などかくは浅ましきと、心陰(こころひそか)に怪む貫一。
「ああ、未だ御在(おいで)でしたか」
「はい、居りました。お午前(ひるまへ)から私(わたくし)お待ち申してをりました」
「ああ、さうでしたか、それは大きに失礼しました。さうして何ぞ急な用でも」
「急な用が無ければ、お待ち申してをつては悪いので御座いますか」
 語気の卒(にはか)に□(はげし)きを駭(おどろ)ける貫一は、空(むなし)く女の顔を見遣(みや)るのみ。
「お悪いで御座いませう。お悪いのは私能く存じてをります。第一お待ち申してをりましたのよりは、今朝ほど私の参りましたのが、一層お悪いので御座いませう。飛(とん)だ御娯(おたのしみ)のお邪魔を致しまして、間さん、誠に私相済みませんで御座いました」
 その眼色(まなざし)は怨(うらみ)の鋩(きつさき)を露(あらは)して、男の面上を貫かんとやうに緊(きびし)く見据ゑたり。
 貫一は苦笑して、
「貴方(あなた)は何を※(ばか)[#「言+(「荒」の「亡」の代わりに「曷−日−勹」)」、368-16]な事を言つてゐるのですか」
「今更お□(かく)しなさるには及びませんさ。若い男と女が一間(ひとま)に入つて、取付(とつつ)き引付(ひつつ)きして泣いたり笑つたりしてをれば、訳は大概知れてをるぢや御座いませんか。私あれに控へてをりまして、様子は大方存じてをります。七歳(ななつ)や八歳(やつ)の子供ぢや御座いません、それ位の事は誰にだつて直(ぢき)に解りませうでは御座いませんか。
 爾後(それから)貴方がお出掛になりますと私直(ぢき)にここのお座敷へ推掛(おしか)けて参つて、あの御婦人にお目に掛りましたので御座います」
 絮(くど)しと聞流せし貫一も、ここに到りて耳を欹(そばだ)てぬ。
「さうして色々お話を伺ひまして、お二人の中も私能く承知致しました。あの方も又有仰(おつしや)らなくても可ささうな事までお話を作(なさ)いますので、それは随分聞難(ききにく)い事まで私伺ひました」
 為失(しな)したりと貫一は密(ひそか)に術無(じゆつな)き拳(こぶし)を握れり。満枝は猶(なほ)も言足らで、
「然し、間さん、遉(さすが)に貴方で御座いますのね、私敬服して、了ひました。失礼ながら貴方のお腕前に驚きましたので御座います。ああ云つた美婦人を御娯(おたのしみ)にお持ち遊ばしてゐながら、世間へは偏人だ事の、一国者(いつこくもの)だ事のと、その方へ掛けては実に奇麗なお顔を遊ばして、今日の今朝まで何年が間と云ふもの秘隠(ひしかくし)に隠し通してゐらしつたお手際(てぎは)には私実に驚入つて一言(いちごん)も御座いません。能く凄(すご)いとか何とか申しますが、貴方のやうなお方の事をさう申すので御座いませう」
「もうつまらん事を……、貴方何ですか」
「お口ぢやさう有仰(おつしや)つても、実はお嬉(うれし)いので御座いませう。あれ、ああしちや考へてゐらつしやる! そんなにも恋(こひし)くてゐらつしやるのですかね」
 されば我が出行(いでゆ)きし迹(あと)をこそ案ぜしに、果してかかる□(わざはひ)は出で来にけり。由無(よしな)き者の目には触れけるよ、と貫一はいと苦く心跼(こころくぐま)りつつ、物言ふも憂き唇を閉ぢて、唯月に打向へるを、女は此方(こなた)より熟々(つくづく)と見透(みすか)して目も放たず。
「間さん、貴方さう黙つてゐらつしやらんでも宜(よろし)いでは御座いませんか。ああ云ふお美(うつくし)いのを御覧に成つた後では、私如き者には口をお利(き)きに成るのもお可厭(いや)なのでゐらつしやいませう。私お察し申してをります。ですから私決して絮(くど)い事は申上げません。少し聞いて戴きたい事が御座いますのですから、庶(どう)かそれだけ言(いは)して下さいまし」
 貫一は冷(ひややか)に目を転(うつ)して、
「何なりと有仰(おつしや)い」
「私もう貴方を殺して了ひたい!」
「何です□」
「貴方を殺して、あれも殺して、さうして自分も死んで了ひたく思ふのです」
「それも可いでせう。可いけれど何で私(わたし)が貴方に殺されるのですか」
「間さん、貴方はその訳を御存無(ごぞんじな)いと有仰(おつしや)るのですか、どの口で有仰るのですか」
「これは怪(けし)からん! 何ですと」
「怪からんとは、貴方も余(あんま)りな事を有仰るでは御座いませんか」
 既に恨み、既に瞋(いか)りし満枝の眼(まなこ)は、ここに到りて始て泣きぬ。いと有るまじく思掛けざりし貫一は寧(むし)ろ可恐(おそろ)しと念(おも)へり。
「貴方はそんなにも私が憎くてゐらつしやるのですか。何で又さうお憎みなさるのですか。その訳をお聞せ下さいまし。私それが伺ひたい、是非伺はなければ措(お)きません」
「貴方を何日(いつ)私が憎みました。そんな事は有りません」
「では、何で怪からんなどと有仰(おつしや)います」
「怪からんぢやありませんか、貴方に殺される訳が有るとは。私は決(け)して貴方に殺される覚(おぼえ)は無い」
 満枝は口惜(くちを)しげに頭(かしら)を掉(ふ)りて、
「有ります! 立派に有ると私信じてをります」
「貴方が独(ひとり)で信じても……」
「いいえ、独で有らうが何で有らうが、自分の心に信じた以上は、私それを貫きます」
「私を殺すと云ふのですか」
「随分殺しかねませんから、覚悟をなすつてゐらつしやいまし」
「はあ、承知しました」
 いよいよ昇れる月に木草の影もをかしく、庭の風情(ふぜい)は添(そは)りけれど、軒端(のきば)なる芭蕉葉(ばしようば)の露夥(つゆおびただし)く夜気の侵すに堪(た)へで、やをら内に入りたる貫一は、障子を閉(た)てて燈(ひ)を明(あか)うし、故(ことさら)に床の間の置時計を見遣りて、
「貴方、もうお帰りに成つたが可いでせう、余り晩(おそ)くなるですから。ええ?」
「憚(はばか)り様で御座います」
「いや、御注意を申すのです」
「その御注意が憚り様で御座いますと申上げるので」
「ああ、さうですか」
「今朝のあの方なら、そんな御注意なんぞは遊ばさんで御座いませう。如何(いかが)ですか」
 憎さげに言放ちて、彼は吾矢の立つを看(み)んとやうに、姑(しばら)く男の顔色を候(うかが)ひしが、
「一体あれは何者なので御座います!」
 犬にも非ず、猫にも非ず、汝(なんぢ)に似たる者よと思ひけれど、言争(いひあらそ)はんは愚なりと勘弁して、彼は才(わづか)に不快の色を作(な)せしのみ。満枝は益す独り憤(じ)れて、
「旧(ふる)いお馴染(なじみ)ださうで御座いますが、あの恰好(かつこう)は、商売人ではなし、万更の素人(しろうと)でもないやうな、貴方も余程(よつぽど)不思議な物をお好み遊ばすでは御座いませんか。然し、間さん、あれは主有(ぬしあ)る花で御座いませう」
 妄(みだり)に言へるならんと念(おも)へど、如何(いか)にせん貫一が胸は陰(ひそか)に轟(とどろ)けるを。
「どうですか、なあ」
「さう云ふ者を対手(あひて)に遊ばすと、別(べつ)してお楽(たのしみ)が深いとか申しますが、その代(かはり)に罪も深いので御座いますよ。貴方が今日(こんにち)まで巧(たくみ)に隠し抜いてゐらしつた訳も、それで私能く解りました。こればかりは余り公(おほやけ)に御自慢は出来ん事で御座いますもの、秘密に遊ばしますのは実に御尤(ごもつとも)で御座います。
 その大事の秘密を、人も有らうに、貴方の嫌(きら)ひの嫌ひの大御嫌(だいおきら)ひの私に知られたのは、どんなにかお心苦(こころくるし)くゐらつしやいませう。私十分お察し申してをります。然し私に取りましては、これ程幸(さいはひ)な事は無いので御座います。貴方が余り片意地に他(ひと)を苦めてばかりゐらしつたから、今度は私から思ふ様これで苦めて上げるのです。さう思召(おぼしめ)してゐらつしやい!」
 聞訖(ききをは)りたる貫一は吃々(きつきつ)として窃笑(せつしよう)せり。
「貴方は気でも違ひは為(せ)んですか」
「少しは違つてもをりませう。誰がこんな気違(きちがひ)には作(な)すつたのです。私気が違つてゐるなら、今朝から変に成つたので御座いますよ。お宅に詣(あが)つて気が違つたのですから、元の正気に復(なほ)してお還し下さいまし」
 彼は擦寄(すりよ)り、擦寄りて貫一の身近に逼(せま)れり。浅ましく心苦(こころくるし)かりけれど迯(に)ぐべくもあらねば、臭き物に鼻を掩(おほ)へる心地しつつ、貫一は身を側(そば)め側め居たり。満枝は猶(なほ)も寄添はまほしき風情(ふぜい)にて、
「就きましては、私一言(いちごん)貴方に伺ひたい事が有るので御座いますが、これはどうぞ御遠慮無く貴方の思召す通を丁(ちやん)と有仰(おつしや)つてお聞せ下さいまし、宜(よろし)う御座いますか」
「何ですか」
「なんですかでは可厭(いや)です、宜(よろし)いと截然(きつぱり)有仰(おつしや)つて下さい。さあ、さあ、貴方」
「けれども……」
「けれどもぢや御座いません。私の申す事だと、貴方は毎(いつ)も気の無い返事ばかり遊ばすのですけれど、何も御迷惑に成る事では御座いませんのです、私の申す事に就て貴方が思召す通を答へて下されば、それで宜(よろし)いのですから」
「勿論(もちろん)答へます。それは当然(あたりまへ)の事ぢやないですか」
「それが当然(あたりまへ)でなく、極打明けて少しも裹(つつ)まずに言つて戴きたいのですから」
 善(よし)と貫一は頷(うなづ)きつ。
「では、きつと有仰つて下さいまし。間さん、貴方(あなた)は私を□(うるさ)い奴だと思召してゐらつしやるで御座いませう。私始終さう思ひながら、貴方の御迷惑もかまはずにやつぱりかうして附纏(つきまと)つてゐるのは、自分の口から箇様(かよう)な事を申すのも、甚(はなは)だ可笑(をかし)いので御座いますけれど、私、実に貴方の事は片時でも忘れは致しませんのです。それは如何(いか)に思つてをりましたところが、元来(もともと)私と云ふ者を嫌(きら)ひ抜いて御在(おいで)なのですから、あの歌が御座いますね、行く水に数画(かずか)くよりも儚(はかな)きは、思はぬ人を思ふなりけりとか申す、実にその通り、行く水に数を画くやうな者で、私の願の□(かな)ふ事は到底無いので御座いませう。もうさうと知りながら、それでも、間さん、私こればかりは諦(あきら)められんので御座います。
 こんな者に見込れて、さぞ御迷惑ではゐらつしやいませうけれども私がこれ程までに思つてゐると云ふ事は、貴方も御存(ごぞんじ)でゐらつしやいませう。私が熱心に貴方の事を思つてゐると云ふ事で御座います、それはお了解(わかり)に成つてゐるで御座いませう」
「さうですな……そりや或(あるひ)はさうかも知れませんけれど……」
「何を言つてゐらつしやるのですね、貴方は、或(あるひ)はもさうかもないでは御座いませんか! さも無ければ、私何も貴方に□(うるさ)がられる訳は御座いませんさ、貴方も私を□(うるさ)いと思召すのが、現に何よりの証拠で。漆膠(しつこ)くて困ると御迷惑してゐらつしやるほど、承知を遊ばしてお在(いで)のでは御座いませんか」
「それはさう謂へばそんなものです」
「貴方から嫌はれ抜いてゐるにも関(かかは)らず、こんなに私が思つてゐると云ふ事は、十分御承知なので御座いませう」
「さう」
「で、私従来(これまで)に色々申上げた事が御座いましたけれど、些(ちよつ)とでもお聴き遊ばしては下さいませんでした。それは表面の理窟(りくつ)から申せば、無理なお願かも知れませんけれど、私は又私で別に考へるところが有つて、決(け)して貴方の有仰(おつしや)るやうな道に外(はづ)れた事とは思ひませんのです。よしんばさうでありましても、こればかりは外の事とは別で、お互にかうと思つた日には、其処(そこ)に理窟も何も有るのでは御座いません。究竟(つまり)貴方がそれを口実にして遁(に)げてゐらつしやるのは、始から解り切つてゐるので。然し、貴方も人から偏屈だとか、一国だとか謂れてゐらつしやるのですから、成程儀剛(ぎごは)な片意地なところもお有(あん)なすつて、色恋の事なんぞには貪着(とんちやく)を遊ばさん方で、それで私の心も汲分けては下さらんのかと、さうも又思つたり致して、実は貴方の頑固(がんこ)なのを私歯痒(はがゆ)いやうに存じてをつたので御座います……ところが!」
 と言ひも敢(あ)へず煙管(きせる)を取りて、彼は貫一の横膝(よこひざ)をば或る念力(ねんりき)強く痛(したた)か推したり。
「何を作(なさ)るのです!」
 払へば取直すその煙管にて、手とも云はず、膝とも云はず、当るを幸(さいはひ)に満枝は又打ち被(かか)る。
 こは何事と駭(おどろ)ける貫一は、身を避(さく)る暇(いとま)もあらず三つ四つ撃れしが、遂(つひ)に取つて抑へて両手を働かせじと為れば、内俯(うつぷし)に引据ゑられたる満枝は、物をも言はで彼の股(もも)の辺(あたり)に咬付(かみつ)いたり。怪(けし)からぬ女哉(かな)、と怒(いかり)の余に手暴(てあら)く捩放(ねぢはな)せば、なほ辛(から)くも縋(すが)れるままに面(おもて)を擦付(すりつ)けて咽泣(むせびなき)に泣くなりき。
 貫一は唯不思議の為体(ていたらく)に呆(あき)れ惑ひて言(ことば)も出(い)でず、漸(やうや)く泣ゐる彼を推斥(おしの)けんと為たれど、膠(にかは)の附きたるやうに取縋りつつ、益す泣いて泣いて止まず。涙の湿(うるほひ)は単衣(ひとへ)を透(とほ)して、この難面(つれな)き人の膚(はだへ)に沁(し)みぬ。
 捨置かば如何(いか)に募らんも知らずと、貫一は用捨無く※放(もぎはな)[#「(夕+匕)/手」、376-12]して、起たんと為るを、彼は虚(すか)さず□(まつは)りて、又泣顔を擦付(すりつく)れば、怺(こら)へかねたる声を励す貫一、
「貴方は何を為るのですか! 好い加減になさい」
「…………」
「さうして早くお帰りなさい」
「帰りません!」
「帰らん? 帰らんけりや宜(よろし)い。もう明日(あす)からは貴方のここへ足蹈(あしぶみ)の出来んやうに為て了(しま)ふから、さうお思ひなさい」
「私死んでも参ります!」
「今まで我慢をしてゐたですけれど、もう抛(はふ)つて置かれんから、私は赤樫さんに会つて、貴方の事をすつかり話して了ひます」
 満枝は始て涙に沾(うるほ)へる目を挙げたり。
「はあ、お話し下さい」
「…………」
「赤樫に聞えましたら、どう致すので御座います」
 貫一は歯を鳴して急上(せきあ)げたり。
「貴方は……実に……驚入(おどろきい)つた根性ですな! 赤樫は貴方の何ですか」
「間さん、貴方は又赤樫を私の何だと思召してゐらつしやるのですか」
「怪(けし)からん!」
 彼は憎き女の頬桁(ほほげた)をば撃つて撃つて打割(うちわ)る能(あた)はざるを憾(うらみ)と為(す)なるべし。
「定(さだめ)てあれは私の夫だと思召すので御座いませうが、決(け)してさやうでは御座いませんです」
「そんなら何(なん)ですか」
「往日(いつぞや)もお話致しましたが、金力で無理に私を奪つて、遂にこんな体にして了つた、謂はば私の讐(かたき)も同然なので。成程人は夫婦とも申しませうが私の気では何とも思つてをりは致しません。さうですから、自分の好いた方(かた)に惚(ほ)れて騒ぐ分は、一向差支(さしつかへ)の無い独身(ひとりみ)も同じので御座います。
 間さん、どうぞ赤樫にお会ひ遊ばしたら、満枝の奴が惚れてゐて為方が無いから、内の御膳炊(ごぜんたき)に貰つて遣るから、さう思へと、貴方が有仰(おつしや)つて下さいまし。私豊(とよ)の手伝でも致して、此方(こなた)に一生奉公を致します。
 貴方は大方赤樫に言ふと有仰(おつしや)つたら、震へ上つて私が怖(こは)がりでも為ると思召すのでせうが、私驚きも恐れも致しません、寧(むし)ろ勝手なのですけれど、赤樫がそれは途方に昧(く)れるで御座いませう」
 貫一はほとほと答ふるところを知らず。満枝も然(しか)こそは呆(あき)れつらんと思へば、
「それは実際で御座いますの。若し話が一つ間違つて、面倒な事でも生じましたら、私が困りますよりは余程赤樫の方が困るのは知れてゐるのですから、私を遠(とほざ)けやう為に、お話をなさるのなら、徒爾(むだ)な事で御座います。赤樫は私を恐れてをりませうとも、私些(ちよつ)ともあの人を恐れてはをりませんです。けれども、折角さう思召(おぼしめ)すものなら、物は試(ためし)で御座いますから、間さん、貴方、赤樫にお話し遊ばして御覧なさいましな。
 私も貴方の事を吹聴致します。ああ云ふ主(ぬし)有る婦人と関係遊ばして、始終人目を忍んで逢引(あひびき)してゐらつしやる事を触散(ふれちら)しますから、それで何方(どちら)が余計迷惑するか、比較事(くらべつこ)を致しませう。如何(いかが)で御座います」
「男勝(をとこまさ)りの機敏な貴方にも似合はん、さすがは女だ」
「何で御座います?」
「お聞きなさい。男と女が話をしてゐれば、それが直(ただ)ちに逢引(あひびき)ですか。又妙齢(としごろ)の女でさへあれば、必ず主有るに極(きま)つてゐるのですか。浅膚(あさはか)な邪推とは言ひながら、人を誣(し)ふるも太甚(はなはだし)い! 失敬千万な、気を着けて口をお利(き)きなさい」
「間さん、貴方、些(ちよつ)と此方(こちら)をお向きなさい」
 手を取りて引けば、振釈(ふりほど)き、
「ええ、もう貴方は」
「お□(うるさ)いでせう」
「勿論(もちろん)」
「私向後(これから)もつと、もつともつと□くして上げるのです。さあ、貴方、今何と有仰(おつしや)つたので御座います、浅膚(あさはか)な邪推ですつて? 貴方こそも少し気を着けてお口をお利(き)き遊ばせな、貴方も男子でゐらつしやるなら、何為(なぜ)立派に、その通だ。情婦(をんな)が有るのがどうしたと、かう打付(ぶつつ)けて有仰らんのです。間さん、私貴方に向つてそんな事をかれこれ申す権利は無い女なので御座いますよ。幾多(いくら)さう云ふ権利を有ちたくても、有つ事が出来ずにゐるので御座います。それに、何も私の前を憚(はばか)つて、さう向(むき)に成つてお隠し遊ばすには当らんでは御座いませんか。
 私実を申しませうか、箇様(かよう)なので御座います。貴方が余所外(よそほか)に未だ何百人愛してゐらつしやる方(かた)が有りませうとも、それで愛相(あいそ)を尽(つか)して、貴方の事を思切るやうな、私そんな浮気な了簡(りようけん)ではないのです。又貴方の御迷惑に成る秘密を洩(もら)しましたところで、□(かな)はない願が□ふ訳ではないので御座いませう。どう思召してゐらつしやるか存じませんけれど、私それ程卑怯(ひきよう)な女ではない積(つもり)で御座います。
 世間へ吹聴して貴方を困らせるなどと申したのは、あれは些(ほん)のその場の憎まれ口で、私決(け)してそんな心は微塵(みじん)も無いので御座いますから、どうかそのお積で、お心持を悪く遊ばしませんやうに。つい口が過ぎましたのですから、御勘弁遊ばしまして。私この通お詫(わび)を致します」
 満枝は惜まず身を下(くだ)して、彼の前に頭(かしら)を低(さ)ぐる可憐(しをら)しさよ。貫一は如何(いか)にとも為(す)る能はずして、窃(ひそか)に首(かうべ)を掻(か)いたり。
「就(つ)きましては、私今から改めて折入つた御願が有るので御座いますが貴方も従来(これまで)の貴方ではなしに、十分人情を解してゐらつしやる間さんとして宣告を下して戴きたいので御座います。そのお辞(ことば)次第で、私もう断然何方(どちら)に致しても了簡を極めて了ひますですから、間さん、貴方も庶(どう)か歯に衣(きぬ)を着せずに、お心に在る通りをそのまま有仰つて下さいまし。宜(よろし)う御座いますか。
 今更新く申上げませんでも、私の心は奥底まで見通しに貴方は御存(ごぞんじ)でゐらつしやるのです。従来(これまで)も随分絮(くど)く申上げましたけれど、貴方は一図に私をお嫌(きら)ひ遊ばして、些(ちよつと)でも私の申す事は取上げては下さらんのです――さやうで御座いませう。貴方からそんなに嫌(きら)はれてゐるのですから、私もさう何時まで好い耻(はぢ)を掻かずとも、早く立派に断念して了へば宜(よ)いのです。私さう申すと何で御座いますけれど、これでも女子(をんな)にしては極未練の無い方で、手短(てみじか)に一か八(ばち)か決して了ふ側(がは)なので御座います。それがこの事ばかりは実に我ながら何為(なぜ)かう意気地が無からうと思ふ程、……これが迷つたと申すので御座いませう。自分では物に迷つた事と云ふは無い積の私、それが貴方の事ばかりには全く迷ひました。
 ですから、唯その胸の中(うち)だけを貴方に汲んで戴けば、私それで本望なので御座います。これ程に執心致してをる者を、徹頭徹尾貴方がお嫌ひ遊ばすと云ふのは、能く能くの因果で、究竟(つまり)貴方と私とは性が合はんので御座いませうから、それはもう致方(いたしかた)も有りませんが、そんなに為(さ)れてまでもやつぱりかうして慕つてゐるとは、如何(いか)にも不敏(ふびん)な者だと、設(たと)ひその当人はお気に召しませんでも、その心情はお察し遊ばしても宜いでは御座いませんか。決してそれをお察し遊ばす事の出来ない貴方ではないと云ふ事は、私今朝の事実で十分確めてをります。
 御自分が恋(こひし)く思召すのも、人が恋いのも、恋いに差(かはり)は無いで御座いませう。増(ま)して、貴方、片思(かたおもひ)に思つてゐる者の心の中はどんなに切ないでせうか、間さん、私貴方を殺して了ひたいと申したのは無理で御座いますか。こんな不束(ふつつか)な者でも、同じに生れた人間一人(いちにん)が、貴方の為には全(まる)で奴隷(どれい)のやうに成つて、しかも今貴方のお辞(ことば)を一言(ひとこと)聞きさへ致せば、それで死んでも惜くないとまでも思込んでゐるので御座います。其処(そこ)をお考へ遊ばしたら、如何(いか)に好かん奴であらうとも、雫(しづく)ぐらゐの情(なさけ)は懸けて遣(や)らう、と御不承が出来さうな者では御座いませんか。
 私もさう御迷惑に成る事は望みませんです、せめて満足致されるほどのお辞(ことば)を、唯一言(ひとこと)で宜いのですから、今までのお馴染効(なじみがひ)にどうぞ間さん、それだけお聞せ下さいまし」
 終に近く益す顫(ふる)へる声は、竟(つひ)に平生(へいぜい)の調(ちよう)をさへ失ひて聞えぬ。彼は正(まさし)くその一言(いちごん)の為には幾千円の公正証書を挙げて反古(ほぐ)に為んも、なかなか吝(をし)からぬ気色を帯びて逼(せま)れり。息は凝(こ)り、面(おもて)は打蒼(うちあを)みて、その袖(そで)よりは劒(つるぎ)を出(いだ)さんか、その心よりは笑(ゑみ)を出(いだ)さんか、と胸跳(むねをど)らせて片時(へんじ)も苦く待つなりき。
 切なりと謂はば実(げ)に極(きは)めて切なる、可憐(しをら)しと謂はば又極めて可憐き彼の心の程は、貫一もいと善く知れれど、他(た)の己(おのれ)を愛するの故(ゆゑ)を以(も)て直(ただ)ちに蛇蝎(だかつ)に親まんや、と却(かへ)りてその執念をば難堪(たへがた)く浅ましと思へるなり。
 されど又情として□(はげし)く言ふを得ざるこの場の仕儀なり。貫一は打悩(うちなや)める眉(まゆ)を強(しひ)て披(ひら)かせつつ、
「さうして貴方が満足するやうな一言(いちごん)?……どう云ふ事を言つたら可いのですか」
「貴方もまあ何を有仰(おつしや)つてゐらつしやるのでせう。御自分の有仰る事を他(ひと)にお聞き遊ばしたつて、誰が存じてをりますものですか」
「それはさうですけれど、私にも解らんから」
「解るも解らんも無いでは御座いませんか。それが貴方は何か巧い遁口上(にげこうじよう)を有仰(おつしや)らうとなさるから、急に御考も無いので、貴方に対する私、その私が満足致すやうな一言と申したら、間さん、外には有りは致しませんわ」
「いや、それなら解つてゐます……」
「解つてゐらつしやるなら些(ちよつ)と有仰(おつしや)つて下さいましな」
「それは解つてゐますけれど、貴方の言れるのはかうでせう。段々お話の有つたやうな訳であるから、とにかくその心情は察しても可からう、それを察してゐるのが善く解るやうな挨拶(あいさつ)を為てくれと云ふのぢやありませんか。実際それは余程難(むづかし)い、別にどうも外に言ひ様も無いですわ」
「まあ何でも宜(よろし)う御座いますから、私の満足致しますやうな御挨拶をなすつて下さいまし」
「だから、何と言つたら貴方が満足なさるのですか」
「私のこの心を汲んでさへ下されば、それで満足致すので御座います」
「貴方の思召(おぼしめし)は実に難有(ありがた)いと思つてゐます。私は永く記憶してこれは忘れません」
「間さん、きつとで御座いますか、貴方」
「勿論です」
「きつとで御座いますね」
「相違ありません!」
「きつと?」
「ええ!」
「その証拠をお見せ下さいまし」
「証拠を?」
「はあ。口頭(くちさき)ばかりでは私可厭(いや)で御座います。貴方もあれ程確(たしか)に有仰(おつしや)つたのですから、万更心に無い事をお言ひ遊ばしたのでは御座いますまい。さやうならそれだけの証拠が有る訳です。その証拠を見せて下さいますか」
「みせられる者なら見せますけれど」
「見せて下さいますか」
「見せられる者なら。然し……」
「いいえ、貴方が見せて下さる思召ならば……」
 驚破(すはや)、障子を推開(おしひら)きて、貫一は露けき庭に躍(をど)り下りぬ。つとその迹(あと)に顕(あらは)れたる満枝の面(おもて)は、斜(ななめ)に葉越(はごし)の月の冷(つめた)き影を帯びながらなほ火の如く燃えに燃えたり。

     第八章

 家の内には己(おのれ)と老婢(ろうひ)との外(ほか)に、今客も在らざるに、女の泣く声、詬(ののし)る声の聞ゆるは甚(はなは)だ謂無(いはれな)し、我(われ)或(あるひ)は夢むるにあらずやと疑ひつつ、貫一は枕(まくら)せる頭(かしら)を擡(もた)げて耳を澄せり。
 その声は急に噪(さわがし)く、相争(あひあらそ)ふ気勢(けはひ)さへして、はたはたと紙門(ふすま)を犇(ひしめ)かすは、愈(いよい)よ怪(あや)しと夜着(よぎ)排却(はねの)けて起ち行かんとする時、ばつさり紙門の倒るると斉(ひとし)く、二人の女の姿は貫一が目前(めさき)に転(まろ)び出(い)でぬ。
 苛(さいな)まれしと見ゆる方(かた)の髪は浮藻(うきも)の如く乱れて、着たるコートは雫(しづく)するばかり雨に濡(ぬ)れたり。その人は起上り様(さま)に男の顔を見て、嬉(うれ)しや、可懐(なつか)しやと心も空(そら)なる気色(けしき)。
「貫一(かんいつ)さん」と匐(は)ひ寄らんとするを、薄色魚子(うすいろななこ)の羽織着て、夜会結(やかいむすび)に為(し)たる後姿(うしろすがた)の女は躍(をど)り被(かか)つて引据(ひきすう)れば、
「あれ、貫、貫一さん!」
 拯(すくひ)を求むるその声に、貫一は身も消入るやうに覚えたり。彼は念頭を去らざりし宮ならずや。七生(しちしよう)までその願は聴かじと郤(しりぞ)けたる満枝の、我の辛(つら)さを彼に移して、先の程より打ちも詬りもしたりけんを、猶慊(なほあきた)らで我が前に責むるかと、貫一は怺(こら)へかねて顫(ふる)ひゐたり。満枝は縦(ほしいま)まに宮を据(とら)へて些(ちと)も動かせず、徐(しづか)に貫一を見返りて、
「間(はざま)さん、貴方(あなた)のお大事の恋人と云ふのはこれで御座いませう」
 頸髪取(えりがみと)つて宮が面(おもて)を引立てて、
「この女で御座いませう」
「貫一さん、私(わたし)は悔(くやし)う御座んす。この人は貴方の奥さんですか」
「私(わたくし)奥さんならどうしたのですか」
「貫一さん!」
 彼は足擦(あしずり)して叫びぬ。満枝は直(ただ)ちに推伏(おしふ)せて、
「ええ、聒(やかまし)い! 貫一(かんいち)さんは其処(そこ)に一人居たら沢山ではありませんか。貴方より私が間さんには言ふ事が有るのですから、少し静にして聴いてお在(いで)なさい。
 間さん、私想ふのですね、究竟(つまり)かう云ふ女が貴方に腐れ付いてゐればこそ、どんなに申しても私の言(こと)は取上げては下さらんので御座いませう。貴方はそんなに未練がお有り遊ばしても、元この女は貴方を棄てて、余所(よそ)へ嫁に入つて了(しま)つたやうな、実に畜生にも劣つた薄情者なのでは御座いませんか。――私善く存じてゐますわ。貴方も余(あんま)り男らしくなくてお在(いで)なさる。それは如何(いか)にお可愛(かはい)いのか存じませんけれど、一旦愛相(あいそ)を尽(つか)して迯(に)げて行つた女を、いつまでも思込んで遅々(ぐづぐづ)してゐらつしやるとは、まあ何たる不見識な事でせう! 貴方はそれでも男子ですか。私ならこんな女は一息に刺殺(さしころ)して了(しま)ふのです」
 宮は跂返(はねかへ)さんと為(せ)しが、又抑(おさ)へられて声も立てず。
「間さん、貴方、私の申上げた事をば、やあ道ならぬの、不義のと、実に立派な口上を有仰(おつしや)いましたでは御座いませんか、それ程義のお堅い貴方なら、何為(なぜ)こんな淫乱(いんらん)の人非人(にんぴにん)を阿容(おめおめ)活(い)けてお置き遊ばすのですか。それでは私への口上に対しても、貴方男子の一分(いちぶん)が立たんで御座いませう。何為(なぜ)成敗は遊ばしません。さあ、私決(け)してもう二度と貴方には何も申しませんから、貴方もこの女を見事に成敗遊ばしまし。さもなければ、私も立ちませんです。
 間さん、どう遊ばしたので御座いますね、早く何とか遊ばして、貴方も男子の一分をお立てなさらんければ済まんところでは御座いませんか。私ここで拝見致してをりますから、立派に遣つて御覧あそばせ。卒(いざ)と云ふ場で貴方の腕が鈍つても、決して為損(しそん)じの無いやうに、私好(よ)い刃物(きれもの)をお貸し申しませう。さあ、間さん、これをお持ち遊ばせ」
 彼の懐(ふところ)を出でたるは蝋塗(ろぬり)の晃(きらめ)く一口(いつこう)の短刀なり。貫一はその殺気に撲(うた)れて一指をも得動かさず、空(むなし)く眼(まなこ)を輝(かがやか)して満枝の面(おもて)を睨(にら)みたり。宮ははや気死せるか、推伏(おしふ)せられたるままに声も無し。
「さあ、私かうして抑へてをりますから、吭(のど)なり胸なり、ぐつと一突(ひとつき)に遣(や)つてお了(しま)ひ遊ばせ。ええ、もう貴方は何を遅々(ぐづぐづ)してゐらつしやるのです。刀の持様(もちやう)さへ御存じ無いのですか、かうして抜いて!」
 と片手ながらに一揮(ひとふり)揮(ふ)れば、鞘(さや)は発矢(はつし)と飛散つて、電光袂(たもと)を廻(めぐ)る白刃(しらは)の影は、忽(たちま)ち飜(ひるがへ)つて貫一が面上三寸の処に落来(おちきた)れり。
「これで突けば可(よ)いのです」
「…………」
「さては貴方はこんな女に未(ま)だ未練が有つて、息の根を止めるのが惜くてゐらつしやるので御座いますね。殺して了はうと思ひながら、手を下す事が出来んのですね。私代つて殺して上げませう。何の雑作も無い事。些(ちよつ)と御覧あそばせな」
 言下(ごんか)に勿焉(こつえん)と消えし刃(やいば)の光は、早くも宮が乱鬢(らんびん)を掠(かす)めて顕(あらは)れぬ。□呀(あなや)と貫一の号(さけ)ぶ時、妙(いし)くも彼は跂起(はねお)きざまに突来る鋩(きつさき)を危(あやふ)く外(はづ)して、
「あれ、貫一さん!」
 と満枝の手首に縋(すが)れるまま、一心不乱の力を極(きは)めて捩伏(ねぢふ)せ捩伏(ねぢふ)せ、仰様(のけざま)に推重(おしかさな)りて仆(たふ)したり。
「貫、貫一さん、早く、早くこの刀を取つて下さい。さうして私を殺して下さい――貴方の手に掛けて殺して下さい。私は貴方の手に掛つて死ぬのは本望です。さあ、早く殺して、私は早く死にたい。貴方の手に掛つて死にたいのですから、後生だから一思(ひとおもひ)に殺して下さい!」
 この恐るべき危機に瀕(ひん)して、貫一は謂知(いひし)らず自ら異(あやし)くも、敢(あへ)て拯(すくひ)の手を藉(か)さんと為るにもあらで、しかも見るには堪へずして、空(むなし)く悶(もだ)えに悶えゐたり。必死と争へる両箇(ふたり)が手中の刃(やいば)は、或(あるひ)は高く、或は低く、右に左に閃々(せんせん)として、あたかも一鉤(いつこう)の新月白く風の柳を縫(ぬ)ふに似たり。
「貫一さん、貴方は私を見殺(みごろし)になさるのですか。どうでもこの女の手に掛けて殺すのですか! 私は命は惜くはないが、この女に殺されるのは悔(くやし)い! 悔い□ 私は悔い□」
 彼は乱せる髪を夜叉(やしや)の如く打振り打振り、五体(ごたい)を揉(も)みて、唇(くちびる)の血を噴きぬ。彼も殺さじ、これも傷(きずつ)けじと、貫一が胸は車輪の廻(めぐ)るが若(ごと)くなれど、如何(いか)にせん、その身は内より不思議の力に緊縛(きんばく)せられたるやうにて、逸(はや)れど、躁(あせ)れど、寸分の微揺(ゆるぎ)を得ず、せめては声を立てんと為れば、吭(のんど)は又塞(ふさが)りて、銕丸(てつがん)を啣(ふく)める想(おもひ)。
 力も今は絶々に、はや危(あやふ)しと宮は血声を揚げて、
「貴方が殺して下さらなければ、私は自害して死にますから、貫一さん、この刀を取つて、私の手に持せて下さい。さ、早く、貫一さん、後生です、さ、さ、さあ取つて下さい」
 又激く捩合(ねぢあ)ふ郤含(はずみ)に、短刀は戞然(からり)と落ちて、貫一が前なる畳に突立(つつた)つたり。宮は虚(すか)さず躍(をど)り被(かか)りて、我物得つと手に為れば、遣らじと満枝の組付くを、推隔(おしへだ)つる腋(わき)の下より後突(うしろづき)に、□(つか)も透(とほ)れと刺したる急所、一声号(さけ)びて仰反(のけぞ)る満枝。鮮血! 兇器! 殺傷! 死体! 乱心! 重罪! 貫一は目も眩(く)れ、心も消ゆるばかりなり。宮は犇(ひし)と寄添ひて、
「もうこの上はどうで私は無い命です。お願ですから、貫一さん、貴方の手に掛けて殺して下さい。私はそれで貴方に赦(ゆる)された積で喜んで死にますから。貴方もどうぞそれでもう堪忍(かんにん)して、今までの恨は霽(はら)して下さいまし、よう、貫一さん。私がこんなに思つて死んだ後までも、貴方が堪忍して下さらなければ、私は生替(いきかはり)死替(しにかはり)して七生(しちしよう)まで貫一さんを怨(うら)みますよ。さあ、それだから私の迷はないやうに、貴方の口からお念仏を唱(とな)へて、これで一思ひに、さあ貫一さん、殺して下さい」
 朱(あけ)に染みたる白刃(しらは)をば貫一が手に持添へつつ、宮はその可懐(なつかし)き拳(こぶし)に頻回(あまたたび)頬擦(ほほずり)したり。
「私はこれで死んで了へば、もう二度とこの世でお目に掛ることは無いのですから、せめて一遍の回向(えこう)をして下さると思つて、今はの際(きは)で唯一言(ただひとこと)赦して遣ると有仰(おつしや)つて下さい。生きてゐる内こそどんなにも憎くお思ひでせうけれど、死んで了へばそれつきり、罪も恨も残らず消えて土に成つて了ふのです。私はかうして前非を後悔して、貴方の前で潔く命を捨てるのも、その御詑(おわび)が為たいばかりなのですから、貫一さん、既往(これまで)の事は水に流して、もう好い加減に堪忍して下さいまし。よう、貫一さん、貫一さん!
 今思へばあの時の不心得が実に悔(くやし)くて悔くて、私は何とも謂ひやうが無い! 貴方が涙を零(こぼ)して言つて下すつた事も覚えてゐます。後来(のちのち)きつと思中(おもひあた)るから、今夜の事を忘れるなとお言ひの声も、今だに耳に付いてゐるわ。私の一図の迷とは謂ひながら何為(なぜ)あの時に些少(すこし)でも気が着かなかつたか。愚(おろか)な自分を責めるより外は無いけれど、死んでもこんな回復(とりかへし)の付かない事を何で私は為ましたらう! 貫一さん、貴方の罰(ばち)が中(あた)つたわ! 私は生きてゐる空(そら)が無い程、貴方の罰が中つたのだわ! だから、もうこれで堪忍して下さい。よ、貫一さん。
 さうしてとてもこの罰の中つた躯(からだ)では、今更どうかうと思つても、願なんぞの□(かな)ふと云ふのは愚な事、未(ま)だ未だ憂目(うきめ)を見た上に思死(おもひじに)に死にでも為なければ、私の業(ごう)は滅(めつ)しないのでせうから、この世に未練は沢山有るけれど、私は早く死んで、この苦艱(くげん)を埋(う)めて了つて、さうして早く元の浄(きよ)い躯(からだ)に生れ替(かは)つて来たいのです。さう為たら、私は今度の世には、どんな艱難辛苦(かんなんしんく)を為ても、きつと貴方に添遂(そひと)げて、この胸に一杯思つてゐる事もすつかり善く聴いて戴(いただ)き、又この世で為遺(しのこ)した事もその時は十分為てお目に掛けて、必ず貴方にも悦(よろこ)ばれ、自分も嬉(うれし)い思を為て、この上も無い楽い一生を送る気です。今度の世には、貫一さん、私は決してあんな不心得は為ませんから、貴方も私の事を忘れずにゐて下さい。可(よ)うござんすか! きつと忘れずにゐて下さいよ。
 人は最期(さいご)の一念で生(しよう)を引くと云ふから、私はこの事ばかり思窮(おもひつ)めて死にます。貫一さん、この通だから堪忍して!」
 声震はせて縋(すが)ると見れば、宮は男の膝(ひざ)の上なる鋩(きつさき)目掛けて岸破(がば)と伏したり。
「や、行(や)つたな!」
 貫一が胸は劈(つんざ)けて始てこの声を出(いだ)せるなり。
「貫一さん!」
 無残やな、振仰ぐ宮が喉(のんど)は血に塗(まみ)れて、刃(やいば)の半(なかば)を貫けるなり。彼はその手を放たで苦き眼(まなこ)を□(みひら)きつつ、男の顔を視(み)んと為るを、貫一は気も漫(そぞろ)に引抱(ひつかか)へて、
「これ宮、貴様は、まあこれは何事だ!」
 大事の刃を抜取らんと為れど、一念凝(こ)りて些(ちと)も弛(ゆる)めぬ女の力。
「これを放せ、よ、これを放さんか。さあ、放せと言ふに、ええ、何為(なぜ)放さんのだ」
「貫、貫一さん」
「おお、何だ」
「私は嬉い。もう……もう思遺(おもひのこ)す事は無い。堪忍して下すつたのですね」
「まあ、この手を放せ」
「放さない! 私はこれで安心して死ぬのです。貫一さん、ああ、もう気が遠く成つて来たから、早く、早く、赦(ゆる)すと言つて聞せて下さい。赦すと、赦すと言つて!」
 血は滾々(こんこん)と益す流れて、末期(まつご)の影は次第に黯(くら)く逼(せま)れる気色。貫一は見るにも堪(た)へず心乱れて、
「これ、宮、確乎(しつかり)しろよ」
「あい」
「赦したぞ! もう赦した、もう堪……堪……堪忍……した!」
「貫一さん!」
「宮!」
「嬉い! 私は嬉い!」
 貫一は唯胸も張裂けぬ可く覚えて、言(ことば)は出(い)でず、抱(いだ)き緊(し)めたる宮が顔をば紛(はふ)り下つる熱湯の涙に浸して、その冷たき唇(くちびる)を貪(むさぼ)り吮(す)ひぬ。宮は男の唾(つばき)を口移(くちうつし)に辛(から)くも喉(のど)を潤(うるほ)して、
「それなら貫一さん、私は、吁(ああ)、苦(くるし)いから、もうこれで一思ひに……」
 と力を出(いだ)して刳(えぐ)らんと為るを、緊(しか)と抑へて貫一は、
「待て、待て待て! ともかくもこの手を放せ」
「いいえ、止めずに」
「待てと言ふに」
「早く死にたい!」
 漸(やうや)く刀を□放(もぎはな)せば、宮は忽(たちま)ち身を回(かへ)して、輾(こ)けつ転(ころ)びつ座敷の外に脱(のが)れ出づるを、
「宮、何処(どこ)へ行く!」
 遣(や)らじと伸(の)べし腕(かひな)は逮(およ)ばず、苛(いら)つて起ちし貫一は唯一掴(ひとつかみ)と躍り被(かか)れば、生憎(あやにく)満枝が死骸(しがい)に躓(つまづ)き、一間ばかり投げられたる其処(そこ)の敷居に膝頭(ひざがしら)を砕けんばかり強く打れて、□(のめ)りしままに起きも得ず、身を竦(すく)めて呻(うめ)きながらも、
「宮、待て! 言ふことが有るから待て! 豊、豊! 豊は居ないか。早く追掛けて宮を留めろ!」
 呼べど号(さけ)べど、宮は返らず、老婢は居らず、貫一は阿修羅(あしゆら)の如く憤(いか)りて起ちしが、又仆(たふ)れぬ。仆れしを漸く起回(おきかへ)りて、忙々(いそがはし)く四下(あたり)を□(みまは)せど、はや宮の影は在らず。その歩々(ほほ)に委(おと)せし血は苧環(をだまき)の糸を曳きたるやうに長く連(つらな)りて、畳より縁に、縁より庭に、庭より外に何処(いづこ)まで、彼は重傷(いたで)を負ひて行くならん。
 磐石(ばんじやく)を曳くより苦く貫一は膝の疼痛(いたみ)を怺(こら)へ怺へて、とにもかくにも塀外(へいそと)に□(よろぼ)ひ出づれば、宮は未(いま)だ遠くも行かず、有明(ありあけ)の月冷(つきひやや)かに夜は水の若(ごと)く白(しら)みて、ほのぼのと狭霧罩(さぎりこ)めたる大路の寂(せき)として物の影無き辺(あたり)を、唯独(ひと)り覚束無(おぼつかな)げに走れるなり。
「宮! 待て!」
 呼べば谺(こだま)は返せども、雲は幽(ゆう)にして彼は応(こた)へず。歯咬(はがみ)を作(な)して貫一は後を追ひぬ。
 固(もと)より間(あはひ)は幾許(いくばく)も有らざるに、急所の血を出(いだ)せる女の足取、引捉(ひつとら)ふるに何程の事有らんと、侮(あなど)りしに相違して、彼は始の如く走るに引易(ひきか)へ、此方(こなた)は漸く息疲(いきつか)るるに及べども、距離は竟(つひ)に依然として近(ちかづ)く能はず。こは口惜(くちを)し、と貫一は満身の力を励し、僵(たふ)るるならば僵れよと無二無三に走りたり。宮は猶脱(なほのが)るるほどに、帯は忽(たちま)ち颯(さ)と釈(と)けて脚(あし)に絡(まと)ふを、右に左に□払(けはら)ひつつ、跌(つまづ)きては進み、行きては踉(よろめ)き、彼もはや力は竭(つ)きたりと見えながら、如何(いか)に為(せ)ん、其処(そこ)に伏して復(また)起きざる時、躬(みづから)も終(つひ)に及ばずして此処(ここ)に絶入(ぜつにゆう)せんと思へば、貫一は今に当りて纔(わづか)に声を揚ぐるの術(じゆつ)を余すのみ。
「宮!」と奮(ふる)つて呼びしかど、憫(あはれ)むべし、その声は苦き喘(あへぎ)の如き者なりき。我と吾肉を啖(くら)はんと想ふばかりに躁(あせ)れども、貫一は既に声を立つべき力をさへ失へるなり。さては効無(かひな)き己(おのれ)に憤(いかり)を作(な)して、益す休まず狂呼(きようこ)すれば、彼の吭(のんど)は終に破れて、汨然(こつぜん)として一涌(いちゆう)の鮮紅(せんこう)を嘔出(はきいだ)せり。心晦(こころくら)みて覚えず倒れんとする耳元に、松風(まつかぜ)驀然(どつ)と吹起りて、吾に復(かへ)れば、眼前の御壕端(おほりばた)。只看(み)る、宮は行き行きて生茂(おひしげ)る柳の暗きに分入りたる、入水(じゆすい)の覚悟に極(きはま)れりと、貫一は必死の声を搾(しぼ)りて連(しきり)に呼べば、咳入(せきい)り咳入り数口(すうこう)の咯血(かつけつ)、斑爛(はんらん)として地に委(お)ちたり。何思ひけん、宮は千条(ちすぢ)の緑の陰より、その色よりは稍(やや)白き面(おもて)を露(あらは)して、追来る人を熟(じ)と見たりしが、竟(つひ)に疲れて起きも得ざる貫一の、唯手を抗(あ)げて遙(はるか)に留(と)むるを、免(ゆる)し給へと伏拝(ふしをが)みて、つと茂の中(うち)に隠れたり。
 彼は己(おのれ)の死ぬべきを忘れて又起てり。駈寄(かけよ)る岸の柳を潜(くぐ)りて、水は深きか、宮は何処(いづこ)に、と葎(むぐら)の露に踏滑(ふみすべ)る身を危(あやふ)くも淵(ふち)に臨めば、□鞳(どうとう)と瀉(そそ)ぐ早瀬の水は、駭(おどろ)く浪(なみ)の体(たい)を尽(つく)し、乱るる流の文(ぶん)を捲(ま)いて、眼下に幾個の怪き大石(たいせき)、かの鰲背(ごうはい)を聚(あつ)めて丘の如く、その勢(いきほひ)を拒(ふせ)がんと為れど、触るれば払ひ、当れば飜(ひるがへ)り、長波の邁(ゆ)くところ滔々(とうとう)として破らざる為(な)き奮迅(ふんじん)の力は、両岸も為に震ひ、坤軸(こんじく)も為に轟(とどろ)き、蹈居(ふみゐ)る土も今にや崩(くづ)れなんと疑ふところ、衣袂(いべい)の雨濃(あめこまやか)に灑(そそ)ぎ、鬢髪(びんぱつ)の風転(うた)た急なり。
 あな凄(すさま)じ、と貫一は身毛(みのけ)も弥竪(よだ)ちて、縋(すが)れる枝を放ちかねつつ、看れば、叢(くさむら)の底に秋蛇(しゆうだ)の行くに似たる径(こみち)有りて、ほとほと逆落(さかおとし)に懸崖(けんがい)を下(くだ)るべし。危(あやふ)き哉(かな)と差覗(さしのぞ)けば、茅葛(かやかつら)の頻(しきり)に動きて、小笹棘(をざさうばら)に見えつ隠れつ段々と辷(すべ)り行くは、求むる宮なり。
 その死を止(とど)めんの一念より他(た)あらぬ貫一なれば、かくと見るより心も空に、足は地を踏む遑(いとま)もあらず、唯遅れじと思ふばかりよ、壑間(たにま)の嵐(あらし)の誘ふに委(まか)せて、驀直(ましぐら)に身を堕(おと)せり。
 或(あるひ)は摧(くだ)けて死ぬべかりしを、恙無(つつがな)きこそ天の佑(たすけ)と、彼は数歩の内に宮を追ひしが、流に浸(ひた)れる巌(いはほ)を渉(わた)りて、既に渦巻く滝津瀬(たきつせ)に生憎(あやにく)! 花は散りかかるを、
「宮!」
 と後(うしろ)に呼ぶ声残りて、前には人の影も在らず。
 咄嗟(とつさ)の遅(おくれ)を天に叫び、地に号(わめ)き、流に悶(もだ)え、巌に狂へる貫一は、血走る眼(まなこ)に水を射て、此処(ここ)や彼処(かしこ)と恋(こひし)き水屑(みくづ)を覓(もと)むれば、正(まさし)く浮木芥(うきぎあくた)の類とも見えざる物の、十間(じつけん)ばかり彼方(あなた)を揉みに揉んで、波間隠(なみまがくれ)に推流(おしなが)さるるは、人ならず哉(や)、宮なるかと瞳(ひとみ)を定むる折しもあれ、水勢其処(そこ)に一段急なり、在りける影は弦(つる)を放れし箭飛(やとび)を作(な)して、行方(ゆくへ)も知らずと胸潰(むねつぶ)るれば、忽(たちま)ち遠く浮き出でたり。
 嬉しやと貫一は、道無き道の木を攀(よ)ぢ、崖(がけ)を伝ひ、或(あるひ)は下りて水を踰(こ)え、石を躡(ふ)み、巌を廻(めぐ)り、心地死ぬべく踉蹌(ろうそう)として近(ちかづ)き見れば、緑樹(りよくじゆ)蔭愁(かげうれ)ひ、潺湲(せんかん)声咽(こゑむせ)びて、浅瀬に繋(かか)れる宮が骸(むくろ)よ!
 貫一は唯その上に泣伏したり。
 吁(ああ)、宮は生前に於(おい)て纔(わづか)に一刻の前(さき)なる生前に於て、この情(なさけ)の熱き一滴を幾許(いかばかり)かは忝(かたじけ)なみけん。今や千行垂(せんこうた)るといへども効無(かひな)き涙は、徒(いたづら)に無心の死顔に濺(そそ)ぎて宮の魂(こん)は知らざるなり。
 貫一の悲(かなしみ)は窮(きはま)りぬ。
「宮、貴様は死……死……死んだのか。自殺を為るさへ可哀(あはれ)なのに、この浅ましい姿はどうだ。
 刃(やいば)に貫き、水に溺(おぼ)れ、貴様はこれで苦くはなかつたか。可愛(かはい)い奴め、思迫(おもひつ)めたなあ!
 宮、貴様は自殺を為た上身を投げたのは、一つの死では慊(あきた)らずに、二つ命を捨てた気か。さう思つて俺は不敏(ふびん)だ!
 どんな事が有らうとも、貴様に対するあの恨は決して忘れんと誓つたのだ。誓つたけれども、この無残な死状(しにざま)を見ては、罪も恨(うらみ)も皆消えた! 赦したぞ、宮! 俺(おれ)は心の底から赦したぞ!
 今はの際(きは)に赦したと、俺が一言(ひとこと)云つたらば、あの苦い息の下から嬉いと言つたが、宮、貴様は俺に赦されるのがそんなに嬉いのか。好く後悔した! 立派な悔悟だぞ□
 余り立派で、貫一は恥入つた! 宮、俺は面目(めんもく)無い! これまでの精神とは知らずに見殺(みごろし)に為たのは残念だつた! 俺が過(あやまり)だ! 宮、赦してくれよ! 可(い)いか、宮、可いか。
 嗚呼(ああ)死んで了ったのだ※[#感嘆符三つ、396-10]」
 貫一は彼の死の余りに酷(むご)く、余りに潔きを見て、不貞の血は既に尽(ことごと)く沃(そそ)がれ、旧悪の膚(はだへ)は全く洗れて、残れる者は、悔の為に、誠の為に、己(おのれ)の為に捨てたる亡骸(なきがら)の、実(げ)に憐(あはれ)みても憐むべく、悲みても猶(なほ)及ばざる思の、今は唯極(きは)めて切なる有るのみ。
 かの烈々(れつれつ)たる怨念(おんねん)の跡無く消ゆるとともに、一旦涸(か)れにし愛慕の情は又泉の涌(わ)くらんやうに起りて、その胸に漲(みなぎ)りぬ。苦からず哉(や)、人亡(な)き後の愛慕は、何の思かこれに似る者あらん。彼はなかなか生ける人にこそ如何(いか)なる恨をも繋(か)くるの忍び易(やす)きを今ぞ知るなる。
 貫一は腸断(ちようた)ち涙連(なみだつらな)りて、我を我とも覚ゆる能はず。
「宮、貴様に手向(たむ)けるのは、俺のこの胸の中(うち)だ。これで成仏してくれ、よ。この世の事はこれまでだ、その代り今度の世には、貴様の言つた通り、必ず夫婦に成つて、百歳(ひやく)までも添(そひ)、添、添遂(そひと)げるぞ! 忘れるな、宮。俺も忘れん! 貴様もきつと覚えてゐろよ!」
 氷の如き宮が手を取り、犇(ひし)と握りて、永く眠れる面(おもて)を覗(のぞ)かんと為れば、涙急にして文色(あいろ)も分かず、推重(おしかさな)りて、怜(いと)しやと身を悶(もだ)えつつ少時(しばし)泣いたり。
「然し、宮、貴様は立派な者だ。一(ひとた)び罪を犯しても、かうして悔悟して自殺を為たのは、実に見上げた精神だ。さうなけりや成らん、天晴(あつぱれ)だぞ。それでこそ始て人間たるの面目(めんもく)が立つのだ。
 然るに、この貫一はどうか! 一端(いつぱし)男と生れながら、高が一婦(いつぷ)の愛を失つたが為に、志を挫(くぢ)いて一生を誤り、餓鬼(がき)の如き振舞(ふるまひ)を為て恥とも思はず、非道を働いて暴利を貪(むさぼ)るの外は何も知らん。その財(かね)は何に成るのか、何の為にそんな事を為るのか。
 凡(およ)そ人と謂(い)ふ者には、人として必ず尽すべき道が有る。己(おのれ)と云ふ者の外に人の道と云ふ者が有るのだ。俺はその道を尽してゐるか、尽さうと為てゐるか、思つた女と添ふ事が出来ん。唯それだけの事に失望して了つて、その失望の為に、苟(いやし)くも男と生れた一生を抛(なげう)たうと云ふのだ。人たるの効(かひ)は何処(どこ)に在る、人たる道はどうしたのか。
 噫(ああ)、誤つた!
 宮、貴様が俺に対して悔悟するならば、俺は人たるの道に対して悔悟しなけりや済まん躯(からだ)だ。貴様がかうして立派に悔悟したのを見て、俺は実に愧入(はぢい)りも為(す)りや、可羨(うらやまし)くもある。当初(はじめ)貴様に棄てられた為に、かう云ふ堕落をした貫一ならば、貴様の悔悟と共に俺も速(すみや)かに心を悛(あらた)めて、人たるの道に負ふところのこの罪を贖(つぐな)はなけりや成らん訳だ。
 嗟乎(ああ)、然し、何に就(つ)けても苦(くるし)い世の中だ!
 人間の道は道、義務は義務、楽(たのしみ)は又楽で、それも無けりや立たん。俺も鴫沢(しぎさわ)に居て宮を対手(あいて)に勉強してをつた時分は、この人世と云ふ者は唯面白い夢のやうに考へてゐた。
 あれが浮世なのか、これが浮世なのか。
 爾来(あれから)、今日(こんにち)までの六年間、人らしい思を為た日は唯の一日でも無かつた。それで何が頼(たのみ)で俺は活きてゐたのか。死を決する勇気が無いので活きてゐたやうなものだ! 活きてゐたのではない、死損(しにぞくな)つてゐたのだ□
 鰐淵(わにぶち)は焚死(やけし)に、宮は自殺した、俺はどう為(す)るのか。俺のこの感情の強いのでは、又向来(これから)宮のこの死顔が始終目に着いて、一生悲い思を為なければ成らんのだらう。して見りや、今までよりは一層苦(くるしみ)を受けるのは知れてゐる。その中で俺は活きてゐて何を為るのか。
 人たるの道を尽す? 人たるの行(おこなひ)を為る? ああ、□(うるさ)い、□い! 人としてをればこそそんな義務も有る、人でなくさへあれば、何も要らんのだ。自殺して命を捨てるのは、一(いつ)の罪悪だと謂(い)ふ。或(あるひ)は罪悪かも知れん。けれども、茫々然(ぼうぼうぜん)と呼吸してゐるばかりで、世間に対しては何等(なにら)の益するところも無く、自身に取つてはそれが苦痛であるとしたら、自殺も一種の身始末(みじまつ)だ。増(ま)して、俺が今死ねば、忽(たちま)ち何十人の人が助り、何百人の人が懽(よろこ)ぶか知れん。
 俺も一箇(ひとり)の女故(ゆゑ)に身を誤つたその余(あと)が、盗人(ぬすと)家業の高利貸とまで堕落してこれでやみやみ死んで了ふのは、余り無念とは思ふけれど、当初(はじめ)に出損(でそくな)つたのが一生の不覚、あれが抑(そもそ)も不運の貫一の躯(からだ)は、もう一遍鍛直(きたへなほ)して出て来るより外(ほか)為方が無い。この世の無念はその時霽(はら)す!」
 さしも遣る方無く悲(かなし)めりし貫一は、その悲を立(たちどこ)ろに抜くべき術(すべ)を今覚れり。看々(みるみる)涙の頬(ほほ)の乾(かわ)ける辺(あたり)に、異(あやし)く昂(あが)れる気有(きあ)りて青く耀(かがや)きぬ。
「宮、待つてゐろ、俺も死ぬぞ! 貴様の死んでくれたのが余り嬉いから、さあ、貫一の命も貴様に遣る! 来世(らいせ)で二人が夫婦に成る、これが結納(ゆひのう)だと思つて、幾久(いくひさし)く受けてくれ。貴様も定めて本望だらう、俺も不足は少しも無いぞ」
 さらば往きて汝(なんぢ)の陥りし淵(ふち)に沈まん。沈まば諸共(もろとも)と、彼は宮が屍(かばね)を引起して背(うしろ)に負へば、その軽(かろ)きこと一片(ひとひら)の紙に等(ひと)し。怪(あや)しと見返れば、更に怪し! 芳芬(ほうふん)鼻を撲(う)ちて、一朶(いちだ)の白百合(しろゆり)大(おほい)さ人面(じんめん)の若(ごと)きが、満開の葩(はなびら)を垂れて肩に懸(かか)れり。
 不思議に愕(おどろ)くと為れば目覚(めさ)めぬ。覚むれば暁の夢なり。
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  続続金色夜叉


     第一章

 貫一が胸は益(ますます)苦(くるし)く成り愈(まさ)りぬ。彼を念(おも)ひ、これを思ふに、生きて在るべき心地はせで、寧(むし)ろかの怪(あやし)き夢の如く成りなんを、快からずやと疑へるなり。
 彼は空(むなし)く万事を抛(なげう)ちて、懊□(おうのう)の間に三日ばかりを過(すご)しぬ。
 これを語らんに人無く、愬(うつた)へんには友無く、しかも自ら拯(すく)ふべき道は有りや。有りとも覚えず、無しとは知れど、煩(わづら)ふ者の煩ひ、悩む者の悩みて縦(ほしいま)まなるを如何(いか)にせん。彼は実にこの昏迷乱擾(こんめいらんじよう)せる一根(いつこん)の悪障を抉去(くじりさ)りて、猛火に燬(や)かんことを冀(こひねが)へり。その時彼は死ぬべきなり。生か、死か。貫一の苦悶(くもん)は漸(やうや)く急にして、終(つひ)にこの問題の前に首(かうべ)を垂るるに至れり。
 値無き吾が生存は、又同(おなじ)く値無き死亡を以つて畢(を)へしむべき者か。悔に堪(た)へざる吾が生の値無かりしを結ばんには、これを償ふに足る可(べ)き死を以て為(せ)ざる可からざるか、或(あるひ)は、ここに過多(あやまちおほ)き半生の最期(さいご)を遂(と)げて、新(あらた)に他の値ある後半の復活を明日(みようにち)に計るべきか。
 彼は強(あなが)ちに死を避けず、又生を厭(いと)ふにもあらざれど、両(ふたつ)ながらその値無きを、私(ひそか)に屑(いさぎよ)しと為(せ)ざるなり。当面の苦は彼に死を勧め、半生の悔は耻(はぢ)を責めて仮さず。苦を抜かんが為に、我は値無き死を辞せざるべきか、過(あやまち)を償はんが為に、我は楽まざる生を忍ぶべきか。碌々(ろくろく)の生は易(やす)し、死は即(すなは)ち難(かた)し。碌々の死は易し、生は則(すなは)ち難し。我は悔いて人と成るべきか、死してその愚を完(まつた)うすべきか。

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