金色夜叉
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著者名:尾崎紅葉 

 その翌々日なりき、宮は貫一に勧められて行きて医の診察を受けしに、胃病なりとて一瓶(いちびん)の水薬(すいやく)を与へられぬ。貫一は信(まこと)に胃病なるべしと思へり。患者は必ずさる事あらじと思ひつつもその薬を服したり。懊悩(おうのう)として憂(うき)に堪(た)へざらんやうなる彼の容体(ようたい)に幾許(いくばく)の変も見えざりけれど、その心に水と火の如きものありて相剋(あひこく)する苦痛は、益(ますます)募りて止(やま)ざるなり。
 貫一は彼の憎からぬ人ならずや。怪(あやし)むべし、彼はこの日頃さしも憎からぬ人を見ることを懼(おそ)れぬ。見ねばさすがに見まほしく思ひながら、面(おもて)を合すれば冷汗(ひやあせ)も出づべき恐怖(おそれ)を生ずるなり。彼の情有(なさけあ)る言(ことば)を聞けば、身をも斫(き)らるるやうに覚ゆるなり。宮は彼の優き心根(こころね)を見ることを恐れたり。宮が心地勝(すぐ)れずなりてより、彼に対する貫一の優しさはその平生(へいぜい)に一層を加へたれば、彼は死を覓(もと)むれども得ず、生を求むれども得ざらんやうに、悩乱してほとほとその堪(た)ふべからざる限に至りぬ。
 遂(つひ)に彼はこの苦(くるしみ)を両親に訴へしにやあらん、一日(あるひ)母と娘とは遽(にはか)に身支度して、忙々(いそがはし)く車に乗りて出でぬ。彼等は小(ちひさ)からぬ一個(ひとつ)の旅鞄(たびかばん)を携へたり。
 大風(おほかぜ)の凪(な)ぎたる迹(あと)に孤屋(ひとつや)の立てるが如く、侘(わび)しげに留守せる主(あるじ)の隆三は独(ひと)り碁盤に向ひて碁経(きけい)を披(ひら)きゐたり。齢(よはひ)はなほ六十に遠けれど、頭(かしら)は夥(おびただし)き白髪(しらが)にて、長く生ひたる髯(ひげ)なども六分は白く、容(かたち)は痩(や)せたれど未(いま)だ老の衰(おとろへ)も見えず、眉目温厚(びもくおんこう)にして頗(すこぶ)る古井(こせい)波無きの風あり。
 やがて帰来(かへりき)にける貫一は二人の在らざるを怪みて主(あるじ)に訊(たづ)ねぬ。彼は徐(しづか)に長き髯を撫(な)でて片笑みつつ、
「二人はの、今朝新聞を見ると急に思着いて、熱海へ出掛けたよ。何でも昨日(きのふ)医者が湯治が良いと言うて切(しきり)に勧めたらしいのだ。いや、もう急の思着(おもひつき)で、脚下(あしもと)から鳥の起(た)つやうな騒をして、十二時三十分の□車(きしや)で。ああ、独(ひとり)で寂いところ、まあ茶でも淹(い)れやう」
 貫一は有る可からざる事のやうに疑へり。
「はあ、それは。何だか夢のやうですな」
「はあ、私(わし)もそんな塩梅(あんばい)で」
「然(しか)し、湯治は良いでございませう。幾日(いくか)ほど逗留(とうりゆう)のお心算(つもり)で?」
「まあどんなだか四五日と云ふので、些(ほん)の着のままで出掛けたのだが、なあに直(ぢき)に飽きて了(しま)うて、四五日も居られるものか、出(で)養生より内(うち)養生の方が楽だ。何か旨(うま)い物でも食べやうぢやないか、二人で、なう」
 貫一は着更(きか)へんとて書斎に還りぬ。宮の遺(のこ)したる筆の蹟(あと)などあらんかと思ひて、求めけれども見えず。彼の居間をも尋ねけれど在らず。急ぎ出でしなればさもあるべし、明日は必ず便(たより)あらんと思飜(おもひかへ)せしが、さすがに心楽まざりき。彼の六時間学校に在りて帰来(かへりきた)れるは、心の痩(や)するばかり美き俤(おもかげ)に饑(う)ゑて帰来れるなり。彼は空(むなし)く饑ゑたる心を抱(いだ)きて慰むべくもあらぬ机に向へり。
「実に水臭いな。幾許(いくら)急いで出掛けたつて、何とか一言(ひとこと)ぐらゐ言遺(いひお)いて行(い)きさうなものぢやないか。一寸(ちよつと)其処(そこ)へ行つたのぢやなし、四五日でも旅だ。第一言遺く、言遺かないよりは、湯治に行くなら行くと、始(はじめ)に話が有りさうなものだ。急に思着いた? 急に思着いたつて、急に行かなければならん所ぢやあるまい。俺の帰るのを待つて、話をして、明日(あした)行くと云ふのが順序だらう。四五日ぐらゐの離別(わかれ)には顔を見ずに行つても、あの人は平気なのかしらん。
 女と云ふ者は一体男よりは情が濃(こまやか)であるべきなのだ。それが濃でないと為れば、愛してをらんと考へるより外は無い。豈(まさか)にあの人が愛してをらんとは考へられん。又万々(ばんばん)そんな事は無い。けれども十分に愛してをると云ふほど濃ではないな。
 元来あの人の性質は冷淡さ。それだから所謂(いはゆる)『娘らしい』ところが余り無い。自分の思ふやうに情が濃でないのもその所為(せゐ)か知らんて。子供の時分から成程さう云ふ傾向(かたむき)は有(も)つてゐたけれど、今のやうに太甚(はなはだし)くはなかつたやうに考へるがな。子供の時分にさうであつたなら、今ぢや猶更(なほさら)でなければならんのだ。それを考へると疑ふよ、疑はざるを得ない!
 それに引替へて自分だ、自分の愛してゐる度は実に非常なもの、殆(ほとん)ど……殆どではない、全くだ、全く溺(おぼ)れてゐるのだ。自分でもどうしてこんなだらうと思ふほど溺れてゐる!
 これ程自分の思つてゐるのに対しても、も少し情が篤(あつ)くなければならんのだ。或時などは実に水臭い事がある。今日の事なども随分酷(ひど)い話だ。これが互に愛してゐる間(なか)の仕草だらうか。深く愛してゐるだけにかう云ふ事を為(さ)れると実に憎い。
 小説的かも知れんけれど、八犬伝(はつけんでん)の浜路(はまじ)だ、信乃(しの)が明朝(あした)は立つて了ふと云ふので、親の目を忍んで夜更(よふけ)に逢(あ)ひに来る、あの情合(じやうあひ)でなければならない。いや、妙だ! 自分の身の上も信乃に似てゐる。幼少から親に別れてこの鴫沢の世話になつてゐて、其処(そこ)の娘と許嫁(いひなづけ)……似てゐる、似てゐる。
 然し内の浜路は困る、信乃にばかり気を揉(もま)して、余り憎いな、そでない為方(しかた)だ。これから手紙を書いて思ふさま言つて遣(や)らうか。憎いは憎いけれど病気ではあるし、病人に心配させるのも可哀(かあい)さうだ。
 自分は又神経質に過るから、思過(おもひすごし)を為るところも大きにあるのだ。それにあの人からも不断言はれる、けれども自分が思過(おもひすごし)であるか、あの人が情(じよう)が薄いのかは一件(ひとつ)の疑問だ。
 時々さう思ふ事がある、あの人の水臭い仕打の有るのは、多少(いくら)か自分を侮(あなど)つてゐるのではあるまいか。自分は此家(ここ)の厄介者、あの人は家附の娘だ。そこで自(おのづか)ら主(しゆう)と家来と云ふやうな考が始終有つて、……否(いや)、それもあの人に能(よ)く言れる事だ、それくらゐなら始から許しはしない、好いと思へばこそかう云ふ訳に、……さうだ、さうだ、それを言出すと太(ひど)く慍(おこ)られるのだ、一番それを慍るよ。勿論(もちろん)そんな様子の些少(すこし)でも見えた事は無い。自分の僻見(ひがみ)に過ぎんのだけれども、気が済まないから愚痴も出るのだ。然し、若(もし)もあの人の心にそんな根性が爪の垢(あか)ほどでも有つたらば、自分は潔くこの縁は切つて了ふ。立派に切つて見せる! 自分は愛情の俘(とりこ)とはなつても、未(ま)だ奴隷になる気は無い。或(あるひ)はこの縁を切つたなら自分はあの人を忘れかねて焦死(こがれじに)に死ぬかも知れん。死なんまでも発狂するかも知れん。かまはん! どうならうと切れて了ふ。切れずに措(お)くものか。
 それは自分の僻見(ひがみ)で、あの人に限つてはそんな心は微塵(みじん)も無いのだ。その点は自分も能(よ)く知つてゐる。けれども情が濃(こまやか)でないのは事実だ、冷淡なのは事実だ。だから、冷淡であるから情が濃でないのか。自分に対する愛情がその冷淡を打壊(うちこは)すほどに熱しないのか。或(あるひ)は熱し能(あた)はざるのが冷淡の人の愛情であるのか。これが、研究すべき問題だ」
 彼は意(こころ)に満たぬ事ある毎に、必ずこの問題を研究せざるなけれども、未だ曾(かつ)て解釈し得ざるなりけり。今日はや如何(いか)に解釈せんとすらん。

     (六)の二

 翌日果して熱海より便(たより)はありけれど、僅(わづか)に一枚の端書(はがき)をもて途中の無事と宿とを通知せるに過ぎざりき。宛名は隆三と貫一とを並べて、宮の手蹟(しゆせき)なり。貫一は読了(よみをは)ると斉(ひと)しく片々(きれきれ)に引裂きて捨ててけり。宮の在らば如何(いか)にとも言解くなるべし。彼の親(したし)く言解(いひと)かば、如何に打腹立(うちはらだ)ちたりとも貫一の心の釈(と)けざることはあらじ。宮の前には常に彼は慍(いかり)をも、恨をも、憂(うれひ)をも忘るるなり。今は可懐(なつかし)き顔を見る能はざる失望に加ふるに、この不平に遭(あ)ひて、しかも言解く者のあらざれば、彼の慍(いかり)は野火の飽くこと知らで燎(や)くやうなり。
 この夕(ゆふべ)隆三は彼に食後の茶を薦(すす)めぬ。一人佗(わび)しければ留(とど)めて物語(ものがたら)はんとてなるべし。されども貫一の屈托顔(くつたくがほ)して絶えず思の非(あら)ぬ方(かた)に馳(は)する気色(けしき)なるを、
「お前どうぞ為(し)なすつたか。うむ、元気が無いの」
「はあ、少し胸が痛みますので」
「それは好くない。劇(ひど)く痛みでもするかな」
「いえ、なに、もう宜(よろし)いのでございます」
「それぢや茶は可(い)くまい」
「頂戴(ちようだい)します」
 かかる浅ましき慍(いかり)を人に移さんは、甚(はなは)だ謂無(いはれな)き事なり、と自ら制して、書斎に帰りて憖(なまじ)ひ心を傷めんより、人に対して姑(しばら)く憂(うさ)を忘るるに如(し)かじと思ひければ、彼は努めて寛(くつろ)がんとしたれども、動(やや)もすれば心は空(そら)になりて、主(あるじ)の語(ことば)を聞逸(ききそら)さむとす。
 今日文(ふみ)の来て細々(こまごま)と優き事など書聯(かきつら)ねたらば、如何(いか)に我は嬉(うれし)からん。なかなか同じ処に居て飽かず顔を見るに易(か)へて、その楽(たのしみ)は深かるべきを。さては出行(いでゆ)きし恨も忘られて、二夜三夜(ふたよみよ)は遠(とほざ)かりて、せめてその文を形見に思続けんもをかしかるべきを。
 彼はその身の卒(にはか)に出行(いでゆ)きしを、如何(いか)に本意無(ほいな)く我の思ふらんかは能(よ)く知るべきに。それを知らば一筆(ひとふで)書きて、など我を慰めんとは為(せ)ざる。その一筆を如何に我の嬉く思ふらんかをも能く知るべきに。我を可憐(いと)しと思へる人の何故(なにゆゑ)にさは為(せ)ざるにやあらん。かくまでに情篤(なさけあつ)からぬ恋の世に在るべきか。疑ふべし、疑ふべし、と貫一の胸は又乱れぬ。主の声に驚かされて、彼は忽(たちま)ちその事を忘るべき吾(われ)に復(かへ)れり。
「ちと話したい事があるのだが、や、誠に妙な話で、なう」
 笑ふにもあらず、顰(ひそ)むにもあらず、稍(やや)自ら嘲(あざ)むに似たる隆三の顔は、燈火(ともしび)に照されて、常には見ざる異(あやし)き相を顕(あらは)せるやうに、貫一は覚ゆるなりき。
「はあ、どういふ御話ですか」
 彼は長き髯(ひげ)を忙(せはし)く揉(も)みては、又頤(おとがひ)の辺(あたり)より徐(しづか)に撫下(なでおろ)して、先(まづ)打出(うちいだ)さん語(ことば)を案じたり。
「お前の一身上の事に就(つ)いてだがの」
 纔(わづか)にかく言ひしのみにて、彼は又遅(ためら)ひぬ、その髯(ひげ)は虻(あぶ)に苦しむ馬の尾のやうに揮(ふる)はれつつ、
「いよいよお前も今年の卒業だつたの」
 貫一は遽(にはか)に敬はるる心地して自(おのづ)と膝(ひざ)を正せり。
「で、私(わし)もまあ一安心したと云ふもので、幾分かこれでお前の御父様(おとつさん)に対して恩返(おんがへし)も出来たやうな訳、就いてはお前も益(ますます)勉強してくれんでは困るなう。未だこの先大学を卒業して、それから社会へ出て相応の地位を得るまでに仕上げなければ、私も鼻は高くないのだ。どうか洋行の一つも為(さ)せて、指折の人物に為(し)たいと考へてゐるくらゐ、未(ま)だ未だこれから両肌(りようはだ)を脱いで世話をしなければならんお前の体だ、なう」
 これを聞(き)ける貫一は鉄繩(てつじよう)をもて縛(いまし)められたるやうに、身の重きに堪(た)へず、心の転(うた)た苦(くるし)きを感じたり。その恩の余りに大いなるが為に、彼はその中(うち)に在りてその中に在ることを忘れんと為る平生(へいぜい)を省みたるなり。
「はい。非常な御恩に預りまして、考へて見ますると、口では御礼の申しやうもございません。愚父(おやぢ)がどれ程の事を致したか知りませんが、なかなかこんな御恩返を受けるほどの事が出来るものでは有りません。愚父の事は措(お)きまして、私は私で、この御恩はどうか立派に御返し申したいと念(おも)つてをります。愚父の亡(なくな)りましたあの時に、此方(こちら)で引取つて戴(いただ)かなかつたら、私は今頃何に成つてをりますか、それを思ひますと、世間に私ほど幸(さいはひ)なものは恐(おそら)く無いでございませう」
 彼は十五の少年の驚くまでに大人びたる己(おのれ)を見て、その着たる衣(きぬ)を見て、その坐れる□(しとね)を見て、やがて美き宮と共にこの家の主(ぬし)となるべきその身を思ひて、漫(そぞろ)に涙を催せり。実(げ)に七千円の粧奩(そうれん)を随へて、百万金も購(あがな)ふ可からざる恋女房を得べき学士よ。彼は小買の米を風呂敷に提げて、その影の如く痩せたる犬とともに月夜を走りし少年なるをや。
「お前がさう思うてくれれば私(わし)も張合がある。就いては改めてお前に頼(たのみ)があるのだが、聴いてくれるか」
「どういふ事ですか、私で出来ます事ならば、何なりと致します」
 彼はかく潔く答ふるに憚(はばか)らざりけれど、心の底には危むところ無きにしもあらざりき。人のかかる言(ことば)を出(いだ)す時は、多く能(あた)はざる事を強(し)ふる例(ためし)なればなり。
「外でも無いがの、宮の事だ、宮を嫁に遣(や)らうかと思つて」
 見るに堪(た)へざる貫一の驚愕(おどろき)をば、せめて乱さんと彼は慌忙(あわただし)く語(ことば)を次ぎぬ。
「これに就いては私も種々(いろいろ)と考へたけれど、大きに思ふところもあるで、いつそあれは遣つて了(しま)うての、お前はも少(すこ)しの事だから大学を卒業して、四五年も欧羅巴(エウロッパ)へ留学して、全然(すつかり)仕上げたところで身を固めるとしたらどうかな」
 汝(なんぢ)の命を与へよと逼(せま)らるる事あらば、その時の人の思は如何(いか)なるべき! 可恐(おそろし)きまでに色を失へる貫一は空(むなし)く隆三の面(おもて)を打目戍(うちまも)るのみ。彼は太(いた)く困(こう)じたる体(てい)にて、長き髯をば揉みに揉みたり。
「お前に約束をして置いて、今更変換(へんがへ)を為るのは、何とも気の毒だが、これに就いては私も大きに考へたところがあるので、必ずお前の為にも悪いやうには計はんから、可いかい、宮は嫁に遣る事にしてくれ、なう」
 待てども貫一の言(ことば)を出(いだ)さざれば、主(あるじ)は寡(すくな)からず惑へり。
「なう、悪く取つてくれては困るよ、あれを嫁に遣るから、それで我家(うち)とお前との縁を切つて了ふと云ふのではない、可いかい。大(たい)した事は無いがこの家は全然(そつくり)お前に譲るのだ、お前は矢張(やはり)私の家督よ、なう。で、洋行も為せやうと思ふのだ。必ず悪く取つては困るよ。
 約束をした宮をの、余所(よそ)へ遣ると云へば、何かお前に不足でもあるやうに聞えるけれど、決してさうした訳ではないのだから、其処(そこ)はお前が能(よ)く承知してくれんければ困る、誤解されては困る。又お前にしても、学問を仕上げて、なう、天晴(あつぱれ)の人物に成るのが第一の希望(のぞみ)であらう。その志を遂(と)げさへ為れば、宮と一所になる、ならんはどれ程の事でもないのだ。なう、さうだらう、然(しか)しこれは理窟(りくつ)で、お前も不服かも知れん。不服と思ふから私も頼むのだ。お前に頼(たのみ)が有ると言うたのはこの事だ。
 従来(これまで)もお前を世話した、後来(これから)も益世話をせうからなう、其処(そこ)に免じて、お前もこの頼は聴いてくれ」
 貫一は戦(をのの)く唇(くちびる)を咬緊(くひし)めつつ、故(ことさ)ら緩舒(ゆるやか)に出(いだ)せる声音(こわね)は、怪(あやし)くも常に変れり。
「それぢや翁様(をぢさん)の御都合で、どうしても宮(みい)さんは私に下さる訳には参らんのですか」
「さあ、断(た)つて遣れんと云ふ次第ではないが、お前の意はどうだ。私の頼は聴ずとも、又自分の修業の邪魔にならうとも、そんな貪着(とんちやく)は無しに、何でもかでも宮が欲しいと云ふのかな」
「…………」
「さうではあるまい」
「…………」
 得言はぬ貫一が胸には、理(ことわり)に似たる彼の理不尽を憤りて、責むべき事、詰(なじ)るべき事、罵(ののし)るべき、言破るべき事、辱(はぢし)むべき事の数々は沸(わ)くが如く充満(みちみ)ちたれど、彼は神にも勝(まさ)れる恩人なり。理非を問はずその言(ことば)には逆ふべからずと思へば、血出づるまで舌を咬(か)みても、敢(あへ)て言はじと覚悟せるなり。
 彼は又思へり。恩人は恩を枷(かせ)に如此(かくのごと)く逼(せま)れども、我はこの枷の為に屈せらるべきも、彼は如何(いか)なる斧(をの)を以てか宮の愛をば割かんとすらん。宮が情(なさけ)は我が思ふままに濃(こまやか)ならずとも、我を棄つるが如きさばかり薄き情にはあらざるを。彼だに我を棄てざらんには、枷も理不尽も恐るべきかは。頼むべきは宮が心なり。頼まるるも宮が心也(なり)と、彼は可憐(いとし)き宮を思ひて、その父に対する慍(いかり)を和(やはら)げんと勉(つと)めたり。
 我は常に宮が情(なさけ)の濃(こまやか)ならざるを疑へり。あだかも好しこの理不尽ぞ彼が愛の力を試むるに足るなる。善し善し、盤根錯節(ばんこんさくせつ)に遇(あ)はずんば。
「嫁に遣ると有仰(おつしや)るのは、何方(どちら)へ御遣(おつかは)しになるのですか」
「それは未(ま)だ確(しか)とは極(きま)らんがの、下谷(したや)に富山銀行と云ふのがある、それ、富山重平な、あれの息子の嫁に欲いと云ふ話があるので」
 それぞ箕輪の骨牌会(かるたかい)に三百円の金剛石(ダイアモンド)を□(ひけら)かせし男にあらずやと、貫一は陰(ひそか)に嘲笑(あざわら)へり。されど又余りにその人の意外なるに駭(おどろ)きて、やがて又彼は自ら笑ひぬ。これ必ずしも意外ならず、苟(いやし)くも吾が宮の如く美きを、目あり心あるものの誰(たれ)かは恋ひざらん。独(ひと)り怪しとも怪きは隆三の意(こころ)なる哉(かな)。我(わが)十年の約は軽々(かろがろし)く破るべきにあらず、猶(なほ)謂無(いはれな)きは、一人娘を出(いだ)して嫁(か)せしめんとするなり。戯(たはむ)るるにはあらずや、心狂へるにはあらずや。貫一は寧(むし)ろかく疑ふをば、事の彼の真意に出でしを疑はんより邇(ちか)かるべしと信じたりき。
 彼は競争者の金剛石(ダイアモンド)なるを聞きて、一度(ひとたび)は汚(けが)され、辱(はづかし)められたらんやうにも怒(いかり)を作(な)せしかど、既に勝負は分明(ぶんめい)にして、我は手を束(つか)ねてこの弱敵の自ら僵(たふ)るるを看(み)んと思へば、心稍(やや)落ゐぬ。
「は、はあ、富山重平、聞いてをります、偉い財産家で」
 この一言に隆三の面(おもて)は熱くなりぬ。
「これに就いては私(わし)も大きに考へたのだ、何(なに)に為(し)ろ、お前との約束もあるものなり、又一人娘の事でもあり、然(しか)し、お前の後来(こうらい)に就(つ)いても、宮の一身に就いてもの、又私たちは段々取る年であつて見れば、その老後だの、それ等の事を考へて見ると、この鴫沢の家には、お前も知つての通り、かうと云ふ親類も無いで、何かに就けて誠に心細いわ、なう。私たちは追々年を取るばかり、お前たちは若(わか)しと云ふもので、ここに可頼(たのもし)い親類が有れば、どれ程心丈夫だか知れんて、なう。そこで富山ならば親類に持つても可愧(はづかし)からん家格(いへがら)だ。気の毒な思をしてお前との約束を変易(へんがへ)するのも、私たちが一人娘を他(よそ)へ遣つて了ふのも、究竟(つまり)は銘々の為に行末好かれと思ふより外は無いのだ。
 それに、富山からは切(た)つての懇望で、無理に一人娘を貰ふと云ふ事であれば、息子夫婦は鴫沢の子同様に、富山も鴫沢も一家(いつけ)のつもりで、決して鴫沢家を疎(おろそか)には為(せ)まい。娘が内に居なくなつて不都合があるならば、どの様にもその不都合の無いやうには計はうからと、なう、それは随分事を分けた話で。
 決して慾ではないが、良(い)い親類を持つと云ふものは、人で謂(い)へば取(とり)も直(なほ)さず良い友達で、お前にしてもさうだらう、良い友達が有れば、万事の話合手になる、何かの力になる、なう、謂はば親類は一家(いつか)の友達だ。
 お前がこれから世の中に出るにしても、大相(たいそう)な便宜になるといふもの。それやこれや考へて見ると、内に置かうよりは、遣つた方が、誰(たれ)の為彼の為ではない。四方八方が好いのだから、私(わし)も決心して、いつそ遣らうと思ふのだ。
 私の了簡(りようけん)はかう云ふのだから、必ず悪く取つてくれては困るよ、なう。私だとて年効(としがひ)も無く事を好んで、何為(なにし)に若いものの不為(ふため)になれと思ふものかな。お前も能(よ)く其処(そこ)を考へて見てくれ。
 私もかうして頼むからは、お前の方の頼も聴かう。今年卒業したら直(すぐ)に洋行でもしたいと思ふなら、又さう云ふ事に私も一番(ひとつ)奮発しやうではないか。明日にも宮と一処になつて、私たちを安心さしてくれるよりは、お前も私もも少(すこ)しのところを辛抱して、いつその事博士(はかせ)になつて喜ばしてくれんか」
 彼はさも思ひのままに説完(ときおほ)せたる面色(おももち)して、寛(ゆたか)に髯(ひげ)を撫(な)でてゐたり。
 貫一は彼の説進むに従ひて、漸(やうや)くその心事の火を覩(み)るより明(あきらか)なるを得たり。彼が千言万語の舌を弄(ろう)して倦(う)まざるは、畢竟(ひつきよう)利の一字を掩(おほ)はんが為のみ。貧する者の盗むは世の習ながら、貧せざるもなほ盗まんとするか。我も穢(けが)れたるこの世に生れたれば、穢れたりとは自ら知らで、或(あるひ)は穢れたる念を起し、或は穢れたる行(おこなひ)を為(な)すことあらむ。されど自ら穢れたりと知りて自ら穢すべきや。妻を売りて博士を買ふ! これ豈(あに)穢れたるの最も大なる者ならずや。
 世は穢れ、人は穢れたれども、我は常に我恩人の独(ひと)り汚(けがれ)に染(そ)みざるを信じて疑はざりき。過ぐれば夢より淡き小恩をも忘れずして、貧き孤子(みなしご)を養へる志は、これを証して余(あまり)あるを。人の浅ましきか、我の愚なるか、恩人は酷(むご)くも我を欺きぬ。今は世を挙げて皆穢れたるよ。悲めばとて既に穢れたる世をいかにせん。我はこの時この穢れたる世を喜ばんか。さしもこの穢れたる世に唯(ただ)一つ穢れざるものあり。喜ぶべきものあるにあらずや。貫一は可憐(いとし)き宮が事を思へるなり。
 我の愛か、死をもて脅(おびやか)すとも得て屈すべからず。宮が愛か、某(なにがし)の帝(みかど)の冠(かむり)を飾れると聞く世界無双(ぶそう)の大金剛石(だいこんごうせき)をもて購(あがな)はんとすとも、争(いか)でか動し得べき。我と彼との愛こそ淤泥(おでい)の中(うち)に輝く玉の如きものなれ、我はこの一つの穢れざるを抱(いだ)きて、この世の渾(すべ)て穢れたるを忘れん。
 貫一はかく自ら慰めて、さすがに彼の巧言を憎し可恨(うらめ)しとは思ひつつも、枉(ま)げてさあらぬ体(てい)に聴きゐたるなりけり。
「それで、この話は宮(みい)さんも知つてゐるのですか」
「薄々(うすうす)は知つてゐる」
「では未(ま)だ宮(みい)さんの意見は御聞にならんので?」
「それは、何だ、一寸(ちよつと)聞いたがの」
「宮さんはどう申してをりました」
「宮か、宮は別にどうといふ事は無いのだ。御父様(おとつさん)や御母様(おつかさん)の宜(よろし)いやうにと云ふので、宮の方には異存は無いのだ、あれにもすつかり訳を説いて聞かしたところが、さう云ふ次第ならばと、漸(やうや)く得心がいつたのだ」
 断じて詐(いつはり)なるべしと思ひながらも、貫一の胸は跳(をど)りぬ。
「はあ、宮さんは承知を為ましたので?」
「さう、異存は無いのだ。で、お前も承知してくれ、なう。一寸聞けば無理のやうではあるが、その実少しも無理ではないのだ。私(わし)の今話した訳はお前にも能く解つたらうが、なう」
「はい」
「その訳が解つたら、お前も快く承知してくれ、なう。なう、貫一」
「はい」
「それではお前も承知をしてくれるな。それで私も多きに安心した。悉(くはし)い事は何(いづ)れ又寛緩(ゆつくり)話を為やう。さうしてお前の頼も聴かうから、まあ能く種々(いろいろ)考へて置くが可(い)いの」
「はい」

     第七章

 熱海は東京に比して温きこと十余度なれば、今日漸(やうや)く一月の半(なかば)を過ぎぬるに、梅林(ばいりん)の花は二千本の梢(こずゑ)に咲乱れて、日に映(うつろ)へる光は玲瓏(れいろう)として人の面(おもて)を照し、路(みち)を埋(うづ)むる幾斗(いくと)の清香(せいこう)は凝(こ)りて掬(むす)ぶに堪(た)へたり。梅の外(ほか)には一木(いちぼく)無く、処々(ところどころ)の乱石の低く横(よこた)はるのみにて、地は坦(たひらか)に氈(せん)を鋪(し)きたるやうの芝生(しばふ)の園の中(うち)を、玉の砕けて迸(ほとばし)り、練(ねりぎぬ)の裂けて飜(ひるがへ)る如き早瀬の流ありて横さまに貫けり。後に負へる松杉の緑は麗(うららか)に霽(は)れたる空を攅(さ)してその頂(いただき)に方(あた)りて懶(ものう)げに懸(かか)れる雲は眠(ねむ)るに似たり。習(そよ)との風もあらぬに花は頻(しきり)に散りぬ。散る時に軽(かろ)く舞ふを鶯(うぐひす)は争ひて歌へり。
 宮は母親と連立ちて入来(いりきた)りぬ。彼等は橋を渡りて、船板の牀几(しようぎ)を据ゑたる木(こ)の下(もと)を指して緩(ゆる)く歩めり。彼の病は未(いま)だ快からぬにや、薄仮粧(うすげしやう)したる顔色も散りたる葩(はなびら)のやうに衰へて、足の運(はこび)も怠(たゆ)げに、動(とも)すれば頭(かしら)の低(た)るるを、思出(おもひいだ)しては努めて梢を眺(なが)むるなりけり。彼の常として物案(ものあんじ)すれば必ず唇(くちびる)を咬(か)むなり。彼は今頻(しきり)に唇を咬みたりしが、
「御母(おつか)さん、どうしませうねえ」
 いと好く咲きたる枝を飽かず見上げし母の目は、この時漸く娘に転(うつ)りぬ。
「どうせうたつて、お前の心一つぢやないか。初発(はじめ)にお前が適(い)きたいといふから、かう云ふ話にしたのぢやないかね。それを今更……」
「それはさうだけれど、どうも貫一(かんいつ)さんの事が気になつて。御父(おとつ)さんはもう貫一さんに話を為(な)すつたらうか、ねえ御母(おつか)さん」
「ああ、もう為すつたらうとも」
 宮は又唇を咬みぬ。
「私は、御母さん、貫一さんに顔が合されないわね。だから若(も)し適(ゆ)くのなら、もう逢(あ)はずに直(ずつ)と行つて了(しま)ひたいのだから、さう云ふ都合にして下さいな。私はもう逢はずに行くわ」
 声は低くなりて、美き目は湿(うるほ)へり。彼は忘れざるべし、その涙を拭(ぬぐ)へるハンカチイフは再び逢はざらんとする人の形見なるを。
「お前がそれ程に思ふのなら、何で自分から適(い)きたいとお言ひなのだえ。さう何時(いつ)までも気が迷つてゐては困るぢやないか。一日経(た)てば一日だけ話が運ぶのだから、本当にどうとも確然(しつかり)極(き)めなくては可(い)けないよ。お前が可厭(いや)なものを無理にお出(いで)といふのぢやないのだから、断るものなら早く断らなければ、だけれど、今になつて断ると云つたつて……」
「可(い)いわ。私は適くことは適くのだけれど、貫一さんの事を考へると情無くなつて……」
 貫一が事は母の寝覚にも苦むところなれば、娘のその名を言ふ度(たび)に、犯せる罪をも歌はるる心地して、この良縁の喜ぶべきを思ひつつも、さすがに胸を開きて喜ぶを得ざるなり。彼は強(し)ひて宮を慰めんと試みつ。兼ねては自ら慰むるなるべし。
「お父(とつ)さんからお話があつて、貫一さんもそれで得心がいけば、済む事だし、又お前が彼方(あちら)へ適つて、末々まで貫一さんの力になれば、お互の仕合(しあはせ)と云ふものだから、其処(そこ)を考へれば、貫一さんだつて……、それに男と云ふものは思切(おもひきり)が好いから、お前が心配してゐるやうなものではないよ。これなり遇(あ)はずに行くなんて、それはお前却(かへ)つて善くないから、矢張(やつぱり)逢つて、丁(ちやん)と話をして、さうして清く別れるのさ。この後とも末長く兄弟で往来(ゆきかよひ)をしなければならないのだもの。
 いづれ今日か明日(あした)には御音信(おたより)があつて、様子が解らうから、さうしたら還つて、早く支度に掛らなければ」
 宮は牀几(しようぎ)に倚(よ)りて、半(なかば)は聴き、半は思ひつつ、膝(ひざ)に散来る葩(はなびら)を拾ひては、おのれの唇に代へて連(しきり)に咬砕(かみくだ)きぬ。鶯(うぐひす)の声の絶間を流の音は咽(むせ)びて止まず。
 宮は何心無く面(おもて)を挙(あぐ)るとともに稍(やや)隔てたる木(こ)の間隠(まがくれ)に男の漫行(そぞろあるき)する姿を認めたり。彼は忽(たちま)ち眼(まなこ)を着けて、木立は垣の如く、花は幕の如くに遮(さへぎ)る隙(ひま)を縫ひつつ、姑(しばら)くその影を逐(お)ひたりしが、遂(つひ)に誰(たれ)をや見出(みいだ)しけん。慌忙(あわただし)く母親に□(ささや)けり。彼は急に牀几を離れて五六歩(いつあしむあし)進行(すすみゆ)きしが、彼方(あなた)よりも見付けて、逸早(いちはや)く呼びぬ。
「其処(そこ)に御出(おいで)でしたか」
 その声は静なる林を動して響きぬ。宮は聞くと斉(ひとし)く、恐れたる風情(ふぜい)にて牀几の端(はし)に竦(すくま)りつ。
「はい、唯今(ただいま)し方(がた)参つたばかりでございます。好くお出掛でございましたこと」
 母はかく挨拶(あいさつ)しつつ彼を迎へて立てり。宮は其方(そなた)を見向きもやらで、彼の急足(いそぎあし)に近(ちかづ)く音を聞けり。
 母子(おやこ)の前に顕(あらは)れたる若き紳士は、その誰(たれ)なるやを説かずもあらなん。目覚(めざまし)く大(おほい)なる金剛石(ダイアモンド)の指環を輝かせるよ。柄(にぎり)には緑色の玉(ぎよく)を獅子頭(ししがしら)に彫(きざ)みて、象牙(ぞうげ)の如く瑩潤(つややか)に白き杖(つゑ)を携へたるが、その尾(さき)をもて低き梢の花を打落し打落し、
「今お留守へ行きまして、此処(ここ)だといふのを聞いて追懸(おつか)けて来た訳です。熱いぢやないですか」
 宮はやうやう面(おもて)を向けて、さて淑(しとやか)に起ちて、恭(うやうやし)く礼するを、唯継は世にも嬉しげなる目して受けながら、なほ飽くまでも倨(おご)り高(たかぶ)るを忘れざりき。その張りたる腮(あぎと)と、への字に結べる薄唇(うすくちびる)と、尤異(けやけ)き金縁(きんぶち)の目鏡(めがね)とは彼が尊大の風に尠(すくな)からざる光彩を添ふるや疑(うたがひ)無し。
「おや、さやうでございましたか、それはまあ。余り好い御天気でございますから、ぶらぶらと出掛けて見ました。真(ほん)に今日(こんにち)はお熱いくらゐでございます。まあこれへお掛遊ばして」
 母は牀几を払へば、宮は路(みち)を開きて傍(かたはら)に佇(たたず)めり。
「貴方(あなた)がたもお掛けなさいましな。今朝です、東京から手紙で、急用があるから早速帰るやうに――と云ふのは、今度私が一寸した会社を建てるのです。外国へ此方(こちら)の塗物を売込む会社。これは去年中からの計画で、いよいよこの三四月頃には立派に出来上る訳でありますから、私も今は随分忙(せはし)い体(からだ)、なにしろ社長ですからな。それで私が行かなければ解らん事があるので、呼びに来た。で、翌(あす)の朝立たなければならんのであります」
「おや、それは急な事で」
「貴方がたも一所(いつしよ)にお立ちなさらんか」
 彼は宮の顔を偸視(ぬすみみ)つ。宮は物言はん気色(けしき)もなくて又母の答へぬ。
「はい、難有(ありがた)う存じます」
「それとも未(ま)だ御在(おいで)ですか。宿屋に居るのも不自由で、面白くもないぢやありませんか。来年あたりは一つ別荘でも建てませう。何の難(わけ)は無い事です。地面を広く取つてその中に風流な田舎家(ゐなかや)を造るです。食物などは東京から取寄せて、それでなくては実は保養には成らん。家が出来てから寛緩(ゆつくり)遊びに来るです」
「結構でございますね」
「お宮さんは、何ですか、かう云ふ田舎の静な所が御好なの?」
 宮は笑(ゑみ)を含みて言はざるを、母は傍(かたはら)より、
「これはもう遊ぶ事なら嫌(きらひ)はございませんので」
「はははははは誰もさうです。それでは以後(これから)盛(さかん)にお遊(あす)びなさい。どうせ毎日用は無いのだから、田舎でも、東京でも西京(さいきよう)でも、好きな所へ行つて遊ぶのです。船は御嫌(おきらひ)ですか、ははあ。船が平気だと、支那(しな)から亜米利加(アメリカ)の方を見物がてら今度旅行を為て来るのも面白いけれど。日本の内ぢや遊山(ゆさん)に行(ある)いたところで知れたもの。どんなに贅沢(ぜいたく)を為たからと云つて」
「御帰(おかへり)になつたら一日赤坂の別荘の方へ遊びにお出下(いでくだ)さい、ねえ。梅が好いのであります。それは大きな梅林が有つて、一本々々種の違ふのを集めて二百本もあるが、皆老木ばかり。この梅などは全(まる)で為方(しかた)が無い! こんな若い野梅(のうめ)、薪(まき)のやうなもので、庭に植ゑられる花ぢやない。これで熱海の梅林も凄(すさまし)い。是非内のをお目に懸けたいでありますね、一日遊びに来て下さい。御馳走(ごちそう)を為ますよ。お宮さんは何が所好(すき)ですか、ええ、一番所好なものは?」
 彼は陰(ひそか)に宮と語らんことを望めるなり、宮はなほ言はずして可羞(はづか)しげに打笑(うちゑ)めり。
「で、何日(いつ)御帰でありますか。明朝(あした)一所に御発足(おたち)にはなりませんか。此地(こつち)にさう長く居なければならんと云ふ次第ではないのでせう、そんなら一所にお立ちなすつたらどうであります」
「はい、難有(ありがた)うございますが、少々宅の方の都合がございまして、二三日内(うち)には音信(たより)がございます筈(はず)で、その音信(たより)を待ちまして、実は帰ることに致してございますものですから、折角の仰せですが、はい」
「ははあ、それぢやどうもな」
 唯継は例の倨(おご)りて天を睨(にら)むやうに打仰(うちあふ)ぎて、杖の獅子頭(ししがしら)を撫廻(なでまは)しつつ、少時(しばらく)思案する体(てい)なりしが、やをら白羽二重(しろはぶたへ)のハンカチイフを取出(とりいだ)して、片手に一揮(ひとふり)揮(ふ)るよと見れば鼻(はな)を拭(ぬぐ)へり。菫花(ヴァイオレット)の香(かをり)を咽(むせ)ばさるるばかりに薫(くん)じ遍(わた)りぬ。
 宮も母もその鋭き匂(にほひ)に驚けるなり。
「ああと、私これから少し散歩しやうと思ふのであります。これから出て、流に沿(つ)いて、田圃(たんぼ)の方を。私未(ま)だ知らんけれども、余程景色が好いさう。御一所にと云ふのだが、大分跡程(みち)が有るから、貴方(あなた)は御迷惑でありませう。二時間ばかりお宮さんを御貸し下さいな。私一人で歩いてもつまらない。お宮さんは胃が不良(わるい)のだから散歩は極(きは)めて薬、これから行つて見ませう、ねえ」
 彼は杖を取直してはや立たんとす。
「はい。難有(ありがた)うございます。お前お供をお為(し)かい」
 宮の遅(ためら)ふを見て、唯継は故(ことさら)に座を起(た)てり。
「さあ行つて見ませう、ええ、胃病の薬です。さう因循(いんじゆん)してゐては可(い)けない」
 つと寄りて軽(かろ)く宮の肩を拊(う)ちぬ。宮は忽(たちま)ち面(おもて)を紅(あか)めて、如何(いか)にとも為(せ)ん術(すべ)を知らざらんやうに立惑(たちまど)ひてゐたり。母の前をも憚(はばか)らぬ男の馴々(なれなれ)しさを、憎しとにはあらねど、己(おのれ)の仂(はした)なきやうに慙(は)づるなりけり。
 得も謂(い)はれぬその仇無(あどな)さの身に浸遍(しみわた)るに堪(た)へざる思は、漫(そぞろ)に唯継の目の中(うち)に顕(あらは)れて異(あやし)き独笑(ひとりゑみ)となりぬ。この仇無(あどな)き□(いと)しらしき、美き娘の柔(やはらか)き手を携へて、人無き野道の長閑(のどか)なるを語(かたら)ひつつ行かば、如何(いか)ばかり楽からんよと、彼ははや心も空(そら)になりて、
「さあ、行つて見ませう。御母(おつか)さんから御許(おゆるし)が出たから可いではありませんか、ねえ、貴方(あなた)、宜(よろし)いでありませう」
 母は宮の猶羞(なほは)づるを見て、
「お前お出(いで)かい、どうお為(し)だえ」
「貴方、お出かいなどと有仰(おつしや)つちや可けません。お出なさいと命令を為(な)すつて下さい」
 宮も母も思はず笑へり。唯継も後(おく)れじと笑へり。
 又人の入来(いりく)る気勢(けはひ)なるを宮は心着きて窺(うかが)ひしに、姿は見えずして靴の音のみを聞けり。梅見る人か、あらぬか、用ありげに忙(せはし)く踏立つる足音なりき。
「ではお前(まい)お供をおしな」
「さあ、行きませう。直(ぢき)其処(そこ)まででありますよ」
 宮は小(ちひさ)き声して、
「御母(おつか)さんも一処に御出(おいで)なさいな」
「私かい、まあお前お供をおしな」
 母親を伴ひては大いに風流ならず、頗(すこぶ)る妙ならずと思へば、唯継は飽くまでこれを防がんと、
「いや、御母さんには却(かへ)つて御迷惑です。道が良くないから御母さんにはとても可けますまい。実際貴方には切(た)つてお勧め申されない。御迷惑は知れてゐる。何も遠方へ行くのではないのだから、御母さんが一処でなくても可いぢやありませんか、ねえ。私折角思立つたものでありますから、それでは一寸其処までで可いから附合つて下さい。貴女が可厭(いや)だつたら直(すぐ)に帰りますよ、ねえ。それはなかなか好い景色だから、まあ私に騙(だま)されたと思つて来て御覧なさいな、ねえ」
 この時忙(せは)しげに聞えし靴音ははや止(や)みたり。人は出去(いでさ)りしにあらで、七八間彼方(あなた)なる木蔭に足を停(とど)めて、忍びやかに様子を窺ふなるを、此方(こなた)の三人(みたり)は誰(たれ)も知らず。彳(たたず)める人は高等中学の制服の上に焦茶の外套(オバコオト)を着て、肩には古りたる象皮の学校鞄(かばん)を掛けたり。彼は間貫一にあらずや。
 再び靴音は高く響きぬ。その驟(にはか)なると近きとに驚きて、三人(みたり)は始めて音する方(かた)を見遣(みや)りつ。
 花の散りかかる中を進来(すすみき)つつ学生は帽を取りて、
「姨(をば)さん、参りましたよ」
 母子(おやこ)は動顛(どうてん)して殆(ほとん)ど人心地(ひとごこち)を失ひぬ。母親は物を見るべき力もあらず呆(あき)れ果てたる目をば空(むなし)く□(みは)りて、少時(しばし)は石の如く動かず、宮は、あはれ生きてあらんより忽(たちま)ち消えてこの土と成了(なりをは)らんことの、せめて心易(こころやす)さを思ひつつ、その淡白(うすじろ)き唇(くちびる)を啖裂(くひさ)かんとすばかりに咬(か)みて咬みて止(や)まざりき。
 想ふに彼等の驚愕(おどろき)と恐怖(おそれ)とはその殺せし人の計らずも今生きて来(きた)れるに会へるが如きものならん。気も不覚(そぞろ)なれば母は譫語(うはごと)のやうに言出(いひいだ)せり。
「おや、お出(いで)なの」
 宮は些少(わづか)なりともおのれの姿の多く彼の目に触れざらんやうにと冀(ねが)へる如く、木蔭(こかげ)に身を側(そば)めて、打過(うちはず)む呼吸(いき)を人に聞かれじとハンカチイフに口元を掩(おほ)ひて、見るは苦(くるし)けれども、見ざるも辛(つら)き貫一の顔を、俯(ふ)したる額越(ひたひごし)に窺(うかが)ひては、又唯継の気色(けしき)をも気遣(きづか)へり。
 唯継は彼等の心々にさばかりの大波瀾(だいはらん)ありとは知らざれば、聞及びたる鴫沢の食客(しよくかく)の来(きた)れるよと、例の金剛石(ダイアモンド)の手を見よがしに杖を立てて、誇りかに梢を仰ぐ腮(あぎと)を張れり。
 貫一は今回(こたび)の事も知れり、彼の唯継なる事も知れり、既にこの場の様子をも知らざるにはあらねど、言ふべき事は後にぞ犇(ひし)と言はん、今は姑(しばら)く色にも出さじと、裂けもしぬべき無念の胸をやうやう鎮(しづ)めて、苦(くるし)き笑顔(ゑがほ)を作りてゐたり。
「宮(みい)さんの病気はどうでございます」
 宮は耐(たま)りかねて窃(ひそか)にハンカチイフを咬緊(かみし)めたり。
「ああ、大きに良いので、もう二三日内(うち)には帰らうと思つてね。お前さん能(よ)く来られましたね。学校の方は?」
「教場の普請を為るところがあるので、今日半日と明日(あす)明後日(あさつて)と休課(やすみ)になつたものですから」
「おや、さうかい」
 唯継と貫一とを左右に受けたる母親の絶体絶命は、過(あやま)ちて野中の古井(ふるゐ)に落ちたる人の、沈みも果てず、上(あが)りも得為(えせ)ず、命の綱と危(あやふ)くも取縋(とりすが)りたる草の根を、鼠(ねずみ)の来(きた)りて噛(か)むに遭(あ)ふと云へる比喩(たとへ)に最能(いとよ)く似たり。如何(いか)に為べきかと或(あるひ)は懼(おそ)れ、或は惑ひたりしが、終(つひ)にその免(まぬが)るまじきを知りて、彼はやうやう胸を定めつ。
「丁度宅から人が参りましてございますから、甚(はなは)だ勝手がましうございますが、私等(ども)はこれから宿へ帰りますでございますから、いづれ後程伺ひに出ますでございますが……」
「ははあ、それでは何でありますか、明朝(あす)は御一所に帰れるやうな都合になりますな」
「はい、話の模様に因(よ)りましては、さやう願はれるかも知れませんので、いづれ後程には是非伺ひまして、……」
「成程、それでは残念ですが、私も散歩は罷(や)めます。散歩は罷めてこれから帰ります。帰つてお待申してゐますから、後に是非お出下(いでくだ)さいよ。宜(よろし)いですか、お宮さん、それでは後にきつとお出(いで)なさいよ。誠に今日は残念でありますな」
 彼は行かんとして、更に宮の傍(そば)近く寄来(よりき)て、
「貴方(あなた)、きつと後(のち)にお出(いで)なさいよ、ええ」
 貫一は瞬(まばたき)も為(せ)で視(み)てゐたり。宮は窮して彼に会釈さへ為(し)かねつ。娘気の可羞(はづかしさ)にかくあるとのみ思へる唯継は、益(ますます)寄添ひつつ、舌怠(したたる)きまでに語(ことば)を和(やはら)げて、
「宜(よろし)いですか、来なくては可けませんよ。私待つてゐますから」
 貫一の眼(まなこ)は燃ゆるが如き色を作(な)して、宮の横顔を睨着(ねめつ)けたり。彼は懼(おそ)れて傍目(わきめ)をも転(ふ)らざりけれど、必ずさあるべきを想ひて独(ひと)り心を慄(をのの)かせしが、猶(なほ)唯継の如何(いか)なることを言出でんも知られずと思へば、とにもかくにもその場を繕ひぬ。母子の為には幾許(いかばかり)の幸(さいはひ)なりけん。彼は貫一に就いて半点の疑ひをも容(い)れず、唯□(あ)くまでも□(いとし)き宮に心を遺(のこ)して行けり。
 その後影(うしろかげ)を透(とほ)すばかりに目戍(まも)れる貫一は我を忘れて姑(しばら)く佇(たたず)めり。両個(ふたり)はその心を測りかねて、言(ことば)も出(い)でず、息をさへ凝して、空(むなし)く早瀬の音の聒(かしまし)きを聴くのみなりけり。
 やがて此方(こなた)を向きたる貫一は、尋常(ただ)ならず激して血の色を失へる面上(おもて)に、多からんとすれども能(あた)はずと見ゆる微少(わづか)の笑(ゑみ)を漏して、
「宮(みい)さん、今の奴(やつ)はこの間の骨牌(かるた)に来てゐた金剛石(ダイアモンド)だね」
 宮は俯(うつむ)きて唇を咬みぬ。母は聞かざる為(まね)して、折しも啼(な)ける鶯(うぐひす)の木(こ)の間(ま)を窺(うかが)へり。貫一はこの体(てい)を見て更に嗤笑(あざわら)ひつ。
「夜見たらそれ程でもなかつたが、昼間見ると実に気障(きざ)な奴だね、さうしてどうだ、あの高慢ちきの面(つら)は!」
「貫一さん」母は卒(にはか)に呼びかけたり。
「はい」
「お前さん翁(をぢ)さんから話はお聞きでせうね、今度の話は」
「はい」
「ああ、そんなら可いけれど。不断のお前さんにも似合はない、そんな人の悪口(あつこう)などを言ふものぢやありませんよ」
「はい」
「さあ、もう帰りませう。お前さんもお草臥(くたびれ)だらうから、お湯にでも入つて、さうして未(ま)だ御午餐(おひる)前なのでせう」
「いえ、□車(きしや)の中で鮨(すし)を食べました」
 三人(みたり)は倶(とも)に歩始(あゆみはじ)めぬ。貫一は外套(オバコオト)の肩を払はれて、後(うしろ)を捻向(ねぢむ)けば宮と面(おもて)を合せたり。
「其処(そこ)に花が粘(つ)いてゐたから取つたのよ」
「それは難有(ありがた)う※[#感嘆符三つ、64-13]」

     第八章

 打霞(うちかす)みたる空ながら、月の色の匂滴(にほひこぼ)るるやうにして、微白(ほのじろ)き海は縹渺(ひようびよう)として限を知らず、譬(たと)へば無邪気なる夢を敷けるに似たり。寄せては返す波の音も眠(ねむ)げに怠りて、吹来る風は人を酔はしめんとす。打連れてこの浜辺を逍遙(しようよう)せるは貫一と宮となりけり。
「僕は唯(ただ)胸が一杯で、何も言ふことが出来ない」
 五歩六歩(いつあしむあし)行きし後宮はやうやう言出でつ。
「堪忍(かんにん)して下さい」
「何も今更謝(あやま)ることは無いよ。一体今度の事は翁(をぢ)さん姨(をば)さんの意から出たのか、又はお前さんも得心であるのか、それを聞けば可(い)いのだから」
「…………」
「此地(こつち)へ来るまでは、僕は十分信じてをつた、お前さんに限つてそんな了簡(りようけん)のあるべき筈(はず)は無いと。実は信じるも信じないも有りはしない、夫婦の間(なか)で、知れきつた話だ。
 昨夜(ゆふべ)翁さんから悉(くはし)く話があつて、その上に頼むといふ御言(おことば)だ」
 差含(さしぐ)む涙に彼の声は顫(ふる)ひぬ。
「大恩を受けてゐる翁さん姨さんの事だから、頼むと言はれた日には、僕の体(からだ)は火水(ひみづ)の中へでも飛込まなければならないのだ。翁さん姨さんの頼なら、無論僕は火水の中へでも飛込む精神だ。火水の中へなら飛込むがこの頼ばかりは僕も聴くことは出来ないと思つた。火水の中へ飛込めと云ふよりは、もつと無理な、余り無理な頼ではないかと、僕は済まないけれど翁さんを恨んでゐる。
 さうして、言ふ事も有らうに、この頼を聴いてくれれば洋行さして遣(や)るとお言ひのだ。い……い……いかに貫一は乞食士族の孤児(みなしご)でも、女房を売つた銭で洋行せうとは思はん!」
 貫一は蹈留(ふみとどま)りて海に向ひて泣けり。宮はこの時始めて彼に寄添ひて、気遣(きづかは)しげにその顔を差覗(さしのぞ)きぬ。
「堪忍して下さいよ、皆(みんな)私が……どうぞ堪忍して下さい」
 貫一の手に縋(すが)りて、忽(たちま)ちその肩に面(おもて)を推当(おしあ)つると見れば、彼も泣音(なくね)を洩(もら)すなりけり。波は漾々(ようよう)として遠く烟(けむ)り、月は朧(おぼろ)に一湾の真砂(まさご)を照して、空も汀(みぎは)も淡白(うすじろ)き中に、立尽せる二人の姿は墨の滴(したた)りたるやうの影を作れり。
「それで僕は考へたのだ、これは一方には翁(をぢ)さんが僕を説いて、お前さんの方は姨(をば)さんが説得しやうと云ふので、無理に此処(ここ)へ連出したに違無い。翁さん姨さんの頼と有つて見れば、僕は不承知を言ふことの出来ない身分だから、唯々(はいはい)と言つて聞いてゐたけれど、宮(みい)さんは幾多(いくら)でも剛情を張つて差支(さしつかへ)無いのだ。どうあつても可厭(いや)だとお前さんさへ言通せば、この縁談はそれで破れて了(しま)ふのだ。僕が傍(そば)に居ると智慧(ちゑ)を付けて邪魔を為(す)ると思ふものだから、遠くへ連出して無理往生に納得させる計(はかりごと)だなと考着くと、さあ心配で心配で僕は昨夜(ゆふべ)は夜一夜(よつぴて)寐(ね)はしない、そんな事は万々(ばんばん)有るまいけれど、種々(いろいろ)言はれる為に可厭(いや)と言はれない義理になつて、若(もし)や承諾するやうな事があつては大変だと思つて、家(うち)は学校へ出る積(つもり)で、僕はわざわざ様子を見に来たのだ。
 馬鹿な、馬鹿な! 貫一ほどの大馬鹿者が世界中を捜して何処(どこ)に在る□ 僕はこれ程自分が大馬鹿とは、二十五歳の今日まで知(し)……知……知らなかつた」
 宮は可悲(かなしさ)と可懼(おそろしさ)に襲はれて少(すこし)く声さへ立てて泣きぬ。
 憤(いかり)を抑(おさ)ふる貫一の呼吸は漸(やうや)く乱れたり。
「宮(みい)さん、お前は好くも僕を欺いたね」
 宮は覚えず慄(をのの)けり。
「病気と云つてここへ来たのは、富山と逢ふ為だらう」
「まあ、そればつかりは……」
「おおそればつかりは?」
「余(あんま)り邪推が過ぎるわ、余り酷(ひど)いわ。何ぼ何でも余り酷い事を」
 泣入る宮を尻目に挂(か)けて、
「お前でも酷いと云ふ事を知つてゐるのかい、宮さん。これが酷いと云つて泣く程なら、大馬鹿者にされた貫一は……貫一は……貫一は血の涙を流しても足りは為(せ)んよ。
 お前が得心せんものなら、此地(ここ)へ来るに就いて僕に一言(いちごん)も言はんと云ふ法は無からう。家を出るのが突然で、その暇が無かつたなら、後から手紙を寄来(よこ)すが可いぢやないか。出抜(だしぬ)いて家を出るばかりか、何の便(たより)も為んところを見れば、始から富山と出会ふ手筈(てはず)になつてゐたのだ。或(あるひ)は一所に来たのか知れはしない。宮さん、お前は奸婦(かんぷ)だよ。姦通(かんつう)したも同じだよ」
「そんな酷いことを、貫一さん、余(あんま)りだわ、余りだわ」
 彼は正体も無く泣頽(なきくづ)れつつ、寄らんとするを貫一は突退(つきの)けて、
「操(みさを)を破れば奸婦ぢやあるまいか」
「何時(いつ)私が操を破つて?」
「幾許(いくら)大馬鹿者の貫一でも、おのれの妻(さい)が操を破る傍(そば)に付いて見てゐるものかい! 貫一と云ふ歴(れき)とした夫を持ちながら、その夫を出抜いて、余所(よそ)の男と湯治に来てゐたら、姦通してゐないといふ証拠が何処(どこ)に在る?」
「さう言はれて了(しま)ふと、私は何とも言へないけれど、富山さんと逢ふの、約束してあつたのと云ふのは、それは全く貫一さんの邪推よ。私等(わたしたち)が此地(こつち)に来てゐるのを聞いて、富山さんが後から尋ねて来たのだわ」
「何で富山が後から尋ねて来たのだ」
 宮はその唇(くちびる)に釘(くぎ)打たれたるやうに再び言(ことば)は出(い)でざりき。貫一は、かく詰責せる間に彼の必ず過(あやまち)を悔い、罪を詫(わ)びて、その身は未(おろ)か命までも己(おのれ)の欲するままならんことを誓ふべしと信じたりしなり。よし信ぜざりけんも、心陰(こころひそか)に望みたりしならん。如何(いか)にぞや、彼は露ばかりもさせる気色(けしき)は無くて、引けども朝顔の垣を離るまじき一図の心変(こころがはり)を、貫一はなかなか信(まこと)しからず覚ゆるまでに呆(あき)れたり。
 宮は我を棄てたるよ。我は我妻を人に奪はれたるよ。我命にも換へて最愛(いとをし)みし人は芥(あくた)の如く我を悪(にく)めるよ。恨は彼の骨に徹し、憤(いかり)は彼の胸を劈(つんざ)きて、ほとほと身も世も忘れたる貫一は、あはれ奸婦の肉を啖(くら)ひて、この熱膓(ねつちよう)を冷(さま)さんとも思へり。忽(たちま)ち彼は頭脳の裂けんとするを覚えて、苦痛に得堪(えた)へずして尻居に僵(たふ)れたり。
 宮は見るより驚く遑(いとま)もあらず、諸共(もろとも)に砂に塗(まび)れて掻抱(かきいだ)けば、閉ぢたる眼(まなこ)より乱落(はふりお)つる涙に浸れる灰色の頬(ほほ)を、月の光は悲しげに彷徨(さまよ)ひて、迫れる息は凄(すさまし)く波打つ胸の響を伝ふ。宮は彼の背後(うしろ)より取縋(とりすが)り、抱緊(いだきし)め、撼動(ゆりうごか)して、戦(をのの)く声を励せば、励す声は更に戦きぬ。
「どうして、貫一さん、どうしたのよう!」
 貫一は力無げに宮の手を執れり。宮は涙に汚れたる男の顔をいと懇(ねんごろ)に拭(ぬぐ)ひたり。
「吁(ああ)、宮(みい)さんかうして二人が一処に居るのも今夜ぎりだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜ぎり、僕がお前に物を言ふのも今夜ぎりだよ。一月の十七日、宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処(どこ)でこの月を見るのだか! 再来年(さらいねん)の今月今夜……十年後(のち)の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ! 可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になつたならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇つたらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思つてくれ」
 宮は挫(ひし)ぐばかりに貫一に取着きて、物狂(ものぐるはし)う咽入(むせびい)りぬ。
「そんな悲い事をいはずに、ねえ貫一さん、私も考へた事があるのだから、それは腹も立たうけれど、どうぞ堪忍して、少し辛抱してゐて下さいな。私はお肚(なか)の中には言ひたい事が沢山あるのだけれど、余(あんま)り言難(いひにく)い事ばかりだから、口へは出さないけれど、唯一言(たつたひとこと)いひたいのは、私は貴方(あなた)の事は忘れはしないわ――私は生涯忘れはしないわ」
「聞きたくない! 忘れんくらゐなら何故見棄てた」
「だから、私は決して見棄てはしないわ」
「何、見棄てない? 見棄てないものが嫁に帰(ゆ)くかい、馬鹿な! 二人の夫が有てるかい」
「だから、私は考へてゐる事があるのだから、も少(すこ)し辛抱してそれを――私の心を見て下さいな。きつと貴方の事を忘れない証拠を私は見せるわ」
「ええ、狼狽(うろた)へてくだらんことを言ふな。食ふに窮(こま)つて身を売らなければならんのぢやなし、何を苦んで嫁に帰(ゆ)くのだ。内には七千円も財産が在つて、お前は其処(そこ)の一人娘ぢやないか、さうして婿まで極(きま)つてゐるのぢやないか。その婿も四五年の後には学士になると、末の見込も着いてゐるのだ。しかもお前はその婿を生涯忘れないほどに思つてゐると云ふぢやないか。それに何の不足が有つて、無理にも嫁に帰(ゆ)かなければならんのだ。天下にこれくらゐ理(わけ)の解らん話が有らうか。どう考へても、嫁に帰(ゆ)くべき必用の無いものが、無理に算段をして嫁に帰(ゆ)かうと為るには、必ず何ぞ事情が無ければ成らない。
 婿が不足なのか、金持と縁を組みたいのか、主意は決してこの二件(ふたつ)の外にはあるまい。言つて聞かしてくれ。遠慮は要(い)らない。さあ、さあ、宮さん、遠慮することは無いよ。一旦夫に定めたものを振捨てるくらゐの無遠慮なものが、こんな事に遠慮も何も要るものか」
「私が悪いのだから堪忍して下さい」
「それぢや婿が不足なのだね」
「貫一さん、それは余(あんま)りだわ。そんなに疑ふのなら、私はどんな事でもして、さうして証拠を見せるわ」
「婿に不足は無い? それぢや富山が財(かね)があるからか、して見るとこの結婚は慾からだね、僕の離縁も慾からだね。で、この結婚はお前も承知をしたのだね、ええ?
 翁(をぢ)さん姨(をば)さんに迫られて、余義無くお前も承知をしたのならば、僕の考で破談にする方(ほう)は幾許(いくら)もある。僕一人が悪者になれば、翁さん姨さんを始めお前の迷惑にもならずに打壊(ぶちこは)して了ふことは出来る、だからお前の心持を聞いた上で手段があるのだが、お前も適(い)つて見る気は有るのかい」

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