金色夜叉
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著者名:尾崎紅葉 

「三千円? それでその直接の貸主(かしぬし)と謂(い)ふのは何処(どこ)の誰ですか」
 満枝は彼の遽(にはか)に捩向(ねぢむ)きて膝(ひざ)の前(すす)むをさへ覚えざらんとするを見て、歪(ゆが)むる口角(くちもと)に笑(ゑみ)を忍びつ、
「貴方は実に現金でゐらつしやるのね。御自分のお聴になりたい事は熱心にお成りで、平生(へいぜい)私がお話でも致すと、全(まる)で取合つても下さいませんのですもの」
「まあ可いです」
「些(ちよつ)とも可い事はございません」
「うう、さうすると直接の貸主と謂ふのが有るのですね」
「存じません」
「お話し下さいな、様子に由つてはその金は私から弁償しやうとも思ふのですから」
「私貴方からは戴きません」
「上げるのではない、弁償するのです」
「いいえ、貴方とは御相談になりません。又貴方が是非弁償なさると云ふ事ならば、私あの債権を棄てて了ひます」
「それは何為(なぜ)ですか」
「何為でも宜(よろし)う御座いますわ。ですから、貴方が弁償なさらうと思召(おぼしめ)すなら、私に債権を棄てて了へと有仰(おつしや)つて下さいまし、さう致せば私喜んで棄てます」
「どう云ふ訳ですか」
「どう云ふ訳で御座いますか」
「甚(はなは)だ解らんぢやありませんか」
「勿論(もちろん)解らんので御座いますとも。私自分で自分が解らんくらゐで御座いますもの。然し貴方も間さん、随分お解りに成りませんのね」
「いいや、僕は解つてゐます」
「ええ、解つてゐらつしやりながら些(ちよつ)ともお解りにならないのですから、私も益(ますま)す解らなくなりますですから、さう思つてゐらつしやいまし」
 満枝は金煙管(きんぎせる)に手炉(てあぶり)の縁(ふち)を丁(ちよう)と拍(う)ちて、男の顔に流眄(ながしめ)の怨(うらみ)を注ぐなり。
「まあさう云ふ事を言はずに、ともかくもお話をなすつて下さい」
「御勝手ねえ、貴方は」
「さあ、お話し下さいな」
「唯今お話致しますよ」
 満枝は遽(にはか)に煙管(きせる)を索(もと)めて、さて傍(かたはら)に人無き若(ごと)く緩(ゆるやか)に煙(けふり)を吹きぬ。
「貴方の債務者であらうとは実に意外だ」
「…………」
「どうも事実として信ずる事は出来んくらゐだ」
「…………」
「三千円! 荒尾が三千円の負債を何で為たのか、殆(ほとん)ど有得べき事でないのだけれど、……」
「…………」
 唯(と)見れば、満枝はなほも煙管を放たざるなり。
「さあ、お話し下さいな」
「こんなに遅々(ぐづぐづ)してをりましたら、さぞ貴方憤(じれ)つたくてゐらつしやいませう」
「憤つたいのは知れてゐるぢやありませんか」
「憤つたいと云ふものは、決(け)して好い心持ぢやございませんのね」
「貴方は何を言つてお在(いで)なのです!」
「はいはい恐入りました。それぢや早速お話を致しませう」
「どうぞ」
「蓋(たし)か御承知でゐらつしやいましたらう。前(ぜん)に宅に居りました向坂(さぎさか)と申すの、あれが静岡へ参つて、今では些(ちよつ)と盛(さかん)に遣つてをるので御座います。それで、あの方は静岡の参事官でお在(いで)なのでした。さやうで御座いましたらう。その頃向坂の手から何したので御座います。究竟(つまり)あの方もその件から論旨免官のやうな事にお成なすつて、又東京へお還りにならなければ為方が無いので、彼方(あちら)を引払ふのに就いて、向坂から話が御座いまして、宅の方へ始は委任して参つたので御座いましたけれど、丁度去年の秋頃から全然(すつかり)此方(こちら)へ引継いで了ふやうな都合に致しましたの。
 然し、それは取立に骨が折れるので御座いましてね、ああして止(とん)と遊んでお在(いで)も同様で、飜訳(ほんやく)か何か少(すこし)ばかり為さる御様子なのですから、今のところではどうにも手の着けやうが無いので御座いますわ」
「はあ成程。然し、あれが何で三千円と云ふ金を借りたかしらん」
「それはあの方は連帯者なので御座います」
「はあ! さうして借主は何者ですか」
「大館朔郎(おおだちさくろう)と云ふ岐阜の民主党員で、選挙に失敗したものですから、その運動費の後肚(あとばら)だとか云ふ話でございました」
「うむ、如何(いか)にも! 大館朔郎……それぢや事実でせう」
「御承知でゐらつしやいますか」
「それは荒尾に学資を給した人で、あれが始終恩人と言つてをつたその人だ」
 はやその言(ことば)の中(うち)に彼の心は急に傷(いた)みぬ。己(おのれ)の敬愛せる荒尾譲介の窮して戚々(せきせき)たらず、天命を楽むと言ひしは、真に義の為に功名を擲(なげう)ち、恩の為に富貴を顧ざりし故(ゆゑ)にあらずや。彼の貧きは万々人の富めるに優(まさ)れり。君子なる吾友(わがとも)よ。さしも潔き志を抱(いだ)ける者にして、その酬らるる薄倖(はつこう)の彼の如く甚(はなはだし)く酷なるを念ひて、貫一は漫(そぞ)ろ涙の沸く目を閉ぢたり。

     第五章

 遽(にはか)に千葉に行く事有りて、貫一は午後五時の本所(ほんじよ)発を期して車を飛せしに、咄嗟(あなや)、一歩の時を遅れて、二時間後(のち)の次回を待つべき倒懸(とうけん)の難に遭(あ)へるなり。彼は悄々(すごすご)停車場前の休憇処に入(い)りて奥の一間なる縞毛布(しまケット)の上に温茶(ぬるちや)を啜(すす)りたりしが、門(かど)を出づる折受取りし三通の郵書の鞄(かばん)に打込みしままなるを、この時取出(とりいだ)せば、中に一通の M., Shigis――と裏書せるが在り。
「ええ、又寄来(よこ)した!」
 彼はこれのみ開封せずして、やがて他の読□(よみがら)と一つに投入れし鞄を□(はた)と閉づるや、枕に引寄せて仰臥(あふぎふ)すと見れば、はや目を塞(ふさ)ぎて睡(ねむり)を促さんと為るなりき。されども、彼は能(よ)く睡(ねぶ)るを得べきか。さすがにその人の筆の蹟(あと)を見ては、今更に憎しとも恋しとも、絶えて念(おもひ)には懸けざるべしと誓へる彼の心も、睡らるるまでに安かる能はざるなり。
 いで、この文こそは宮が送りし再度の愬(うつたへ)にて、その始て貫一を驚かせし一札(いつさつ)は、約(およ)そ二週間前に彼の手に入りて、一字も漏れずその目に触れしかど、彼は曩(さき)に荒尾に答へしと同様の意を以(も)てその自筆の悔悟を読みぬ。こたびとてもまた同き繰言(くりごと)なるべきを、何の未練有りて、徒(いたづら)に目を汚(けが)し、懐(おもひ)を傷(きずつ)けんやと、気強くも右より左に掻遣(かきや)りけるなり。
 宮は如何(いか)に悲しからん! この両度の消息は、その苦き胸を剖(さ)き、その切なる誠を吐きて、世をも身をも忘れし自白なるを。事若し誤らば、この手証は生ながら葬らるべき罪を獲(う)るに余有るものならずや。さしも覚悟の文ながら、彼はその一通の力を以て直(ただち)に貫一の心を解かんとは思設けざりき。
 故(ゆゑ)に幾日の後に待ちて又かく聞えしを、この文にもなほ験(しるし)あらずば、彼は弥増(いやま)す悲(かなしみ)の中に定めて三度(みたび)の筆を援(と)るなるべし。知らずや、貫一は再度の封をだに切らざりしを――三度(みたび)、五度(いつたび)、七度(ななたび)重ね重ねて十(と)百通に及ばんとも、貫一は断じてこの愚なる悔悟を聴かじと意(こころ)を決せるを。
 静に臥(ふ)したりし貫一は忽ち起きて鞄を開き、先づかの文を出(いだ)し、□児(マッチ)を捜(さぐ)りて、封のままなるその端(はし)に火を移しつつ、火鉢(ひばち)の上に差翳(さしかざ)せり。一片の焔(ほのほ)は烈々(れつれつ)として、白く□(あが)るものは宮の思の何か、黒く壊落(くづれお)つるものは宮が心の何か、彼は幾年(いくとせ)の悲(かなしみ)と悔とは嬉くも今その人の手に在りながら、すげなき烟(けふり)と消えて跡無くなりぬ。
 貫一は再び鞄を枕にして始の如く仰臥(あふぎふ)せり。
 間(しばし)有りて婢(をんな)どもの口々に呼邀(よびむか)ふる声して、入来(いりき)し客の、障子越(ごし)なる隣室に案内されたる気勢(けはひ)に、貫一はその男女(なんによ)の二人連(づれ)なるを知れり。
 彼等は若き人のやうにもあらず頗(すこぶ)る沈寂(しめやか)に座に着きたり。
「まだ沢山時間が有るから寛(ゆつく)り出来る。さあ、鈴(すう)さん、お茶をお上んなさい」
 こは男の声なり。
「貴方(あなた)本当にこの夏にはお帰んなさいますのですか」
「盆過(ぼんすぎ)には是非一度帰ります。然しね、お話をした通り尊父(をぢ)さんや尊母(をば)さんの気が変つて了つてお在(いで)なのだから、鈴さんばかりそんなに思つてゐておくれでも、これがどうして、円く納るものぢやない。この上はもう唯諦(ただあきら)めるのだ。私(わたし)は男らしく諦めた!」
「雅(まさ)さんは男だからさうでせうけれど、私(わたし)は諦(あきら)めません。さうぢやないとお言ひなさるけれど、雅さんは阿父(おとつ)さんや阿母(おつか)さんの為方(しかた)を慍(おこ)つてお在(いで)なのに違無い。それだから私までが憎いので、いいえ、さうよ、私は何でも可いから、若し雅さんが引取つて下さらなければ、一生何処(どこ)へも適(い)きはしませんから」
 女は処々(ところどころ)聞き得ぬまでの涙声になりぬ。
「だつて、尊父さんや尊母さんが不承知であつて見れば、幾許(いくら)私の方で引取りたくつても引取る訳に行かないぢやありませんか。それも、誰(たれ)を怨(うら)む訳も無い、全く自分が悪いからで、こんな躯(からだ)に疵(きず)の付いた者に大事の娘をくれる親は無い、くれないのが尤(もつとも)だと、それは私は自分ながら思つてゐる」
「阿父さんや阿母さんがくれなくても、雅さんさへ貰(もら)つて下されば可いのぢやありませんか」
「そんな解らない事を言つて! 私だつてどんなに悔(くやし)いか知れはしない。それは自分の不心得からあんな罪にも陥ちたのだけれど、実を謂へば、高利貸の※(わな)[#「(箆−竹−比)/民」、338-17]に罹(かか)つたばかりで、自分の躯には生涯の疵(きず)を付け、隻(ひとり)の母親は……殺して了ひ、又その上に……許婚(いひなづけ)は破談にされ、……こんな情無い思を為る位なら、不如(いつそ)私は牢(ろう)の中で死んで了つた……方が可かつた!」
「あれ、雅さん、そんな事を……」
 両箇(ふたり)は一度に哭(な)き出(いだ)せり。
「阿母さんがあん畜生(ちきしよう)の家を焼いて、夫婦とも焼死んだのは好い肚癒(はらいせ)ぢやあるけれど、一旦私の躯に附いたこの疵は消えない。阿母さんも来月は鈴(すう)さんが来てくれると言つて、朝晩にそればかり楽(たのしみ)にして在(ゐな)すつた……のだし」
 女(をんな)はつと出でし泣音(なくね)の後を怺(こら)へ怺へて啜上(すすりあ)げぬ。
「私(わたし)も破談に為(す)る気は少も無いけれど、これは私の方から断るのが道だから、必ず悪く思つて下さるな」
「いいえ……いいえ……私は……何も……断られる訳はありません」
「私に添へば、鈴さんの肩身も狭くなつて、生涯何のかのと人に言れなけりやならない。それがお気毒だから、私は自分から身を退(ひ)いて、これまでの縁と諦(あきら)めてゐるので、然し、鈴さん、私は貴方の志は決して忘れませんよ」
 女は唯愈(いよい)よ咽(むせ)びゐたり。音も立てず臥(ふ)したりし貫一はこの時忍び起きて、障子の其処此処(そこここ)より男を隙見(すきみ)せんと為たりけれど、竟(つひ)に意(こころ)の如くならで止みぬ。然(しか)れども彼は正(まさし)くその声音(こわね)に聞覚(ききおぼえ)あるを思合せぬ。かの男は鰐淵の家に放火せし狂女の子にて、私書偽造罪を以て一年の苦役を受けし飽浦雅之(あくらまさゆき)ならずと為(せ)んや。さなり、女のその名を呼べるにても知らるるを、と独(ひと)り頷(うなづ)きつつ貫一は又潜(ひそま)りて聴耳立てたり。
「嘘(うそ)にもさうして志は忘れないなんて言つて下さる程なら、やつぱり約束通り私を引取つて下さいな。雅さんがああ云ふ災難にお遭(あひ)なので、それが為に縁を切る意(つもり)なら、私は、雅さん、……一年が間……塩断(しほだち)なんぞ為はしませんわ」
 彼は自らその苦節を憶(おも)ひて泣きぬ。
「雅さんが自分に悪い事を為てあんな訳に成つたのぢやなし、高利貸の奴に瞞(だま)されて無実の罪に陥ちたのは、雅さんの災難だと、私は倶共(ともども)に悔(くや)し……悔し……悔(くやし)いとは思つてゐても、それで雅さんの躯に疵が附いたから、一処になるのは迷惑だなんと何時(いつ)私が思つて! 雅さん、私はそんな女ぢやありません、そんな女ぢや……ない!」
 この心を知らずや、と情極(じようきはま)りて彼の悶(もだ)え慨(なげ)くが手に取る如き隣には、貫一が内俯(うつぷし)に頭(かしら)を擦付(すりつ)けて、巻莨(まきたばこ)の消えしを□(ささ)げたるままに横(よこた)はれるなり。
「雅さんは私をそんな女だとお思ひのは、貴方がお留守中の私の事を御存じないからですよ。私は三月(みつき)の余(よ)も疾(わづら)つて……そんな事も雅さんは知つてお在(いで)ぢやないのでせう。それは、阿父(おとつ)さんや阿母(おつか)さんは雅さんのところへ上げる気は無いにしても、私は私の了簡で、若しああ云ふ事が有つたので雅さんの肩身が狭くなるやうなら、私は猶更雅さんのところへ適(ゆ)かずにはゐられない。さうして私も雅さんと一処に肩身が狭くなりたいのですから。さうでなけりや、子供の内からあんなに可愛(かはい)がつて下すつた雅さんの尊母(おつか)さんに私は済まない。
 親が不承知なのを私が自分の了簡通(りようけんどほり)に為るのは、そりや不孝かも知れませんけれど、私はどうしても雅さんのところへ適(ゆ)きたいのですから、お可厭(いや)でなくば引取つて下さいましな。私の事はかまひませんから雅さんが貰つて下さるお心持がお有(あん)なさるのか、どうだか唯それを聞して下さいな」
 貫一は身を回(めぐら)して臂枕(ひざまくら)に打仰(うちあふ)ぎぬ。彼は己(おのれ)が与へし男の不幸よりも、添(そは)れぬ女の悲(かなしみ)よりも、先(ま)づその娘が意気の壮(さかん)なるに感じて、あはれ、世にはかかる切なる恋の焚(もゆ)る如き誠もあるよ、と頭(かしら)は熱(ねつ)し胸は轟(とどろ)くなり。
 さて男の声は聞ゆ。
「それは、鈴(すう)さん、言ふまでもありはしない。私もこんな目にさへ遭(あ)はなかつたら、今頃は家内三人で睦(むつまし)く、笑つて暮してゐられるものを、と思へば猶の事、私は今日の別が何とも謂(いは)れないほど情無い。かうして今では人に顔向(かほむけ)も出来ないやうな身に成つてゐる者をそんなに言つてくれるのは、この世の中に鈴さん一人だと私は思ふ。その優い鈴さんと一処に成れるものなら、こんな結構な事は無いのだけれど、尊父(をぢ)さん、尊母(をば)さんの心にもなつて見たら、今の私には添(そは)されないのは、決して無理の無いところで、子を念ふ親の情(じよう)は、何処(どこ)の親でも差違(かはり)は無い。そこを考へればこそ、私は鈴さんの事は諦(あきら)めると云ふので、子として親に苦労を懸けるのは、不孝どころではない、悪事だ、立派な罪だ! 私は自分の不心得から親に苦労を懸けて、それが為に阿母さんもああ云ふ事に成つて了つたのだから、実は私が手に掛けて殺したも同然。その上に又私ゆゑに鈴さんの親達に苦労を懸けては、それぢや人の親まで殺すと謂つたやうな者だから、私も諦められないところを諦めて、これから一働して世に出られるやうに成るのを楽(たのしみ)に、やつぱり暗い処に入つてゐる気で精一杯勉強するより外は無い、と私は覚悟してゐるのです」
「それぢや、雅さんは内の阿父(おとつ)さんや阿母(おつか)さんの事はそんなに思つて下すつても、私の事は些(ちつと)も思つては下さらないのですね。私の躯なんぞはどうならうと、雅さんはかまつては下さらないのね」
「そんな事が有るものぢやない! 私だつて……」
「いいえ、可うございます。もう可いの、雅さんの心は解りましたから」
「鈴さん、それは違つてゐるよ。それぢや鈴さんは全(まる)で私の心を酌んではおくれでないのだ」
「それは雅さんの事よ。阿父さんや阿母さんの事をさうして思つて下さる程なら、本人の私の事だつて思つて下さりさうな者ぢやありませんか。雅さんのところへ適(ゆ)くと極(きま)つて、その為に御嫁入道具まで丁(ちやん)と調(こしら)へて置きながら、今更外へ適(ゆか)れますか、雅さんも考へて見て下さいな。阿父さんや阿母さんが不承知だと謂つても、そりや余(あんま)り酷(ひど)いわ、余り勝手だわ! 私は死んでも他(よそ)へは適きはしませんから、可いわ、可いわ、私は可いわ!」
 女は身を顫(ふるは)して泣沈めるなるべし。
「そんな事をお言ひだつて、それぢやどう為(せ)うと云ふのです」
「どう為ても可う御座います、私は自分の心で極(き)めてゐますから」
 亜(つ)いで男の声は為(せ)ざりしが、間有(しばしあ)りて孰(いづれ)より語り出でしとも分かず、又一時(ひとしきり)密々(ひそひそ)と話声の洩(も)れけれど、調子の低かりければ此方(こなた)には聞知られざりき。彼等は久くこの細語(ささめごと)を息(や)めずして、その間一たびも高く言(ことば)を出(いだ)さざりしは、互にその意(こころ)に逆(さか)ふところ無かりしなるべし。
「きつと? きつとですか」
 始て又明かに聞えしは女の声なり。
「さうすれば私もその気で居るから」
 かくて彼等の声は又低うなりぬ。されど益す絮々(じよじよ)として飽かず語れるなり。貫一は心陰(こころひそか)に女の成効を祝し、かつ雅之たる者のこれが為に如何(いか)に幸(さいはひ)ならんかを想ひて、あたかも妙(たへ)なる楽の音(ね)の計らず洩聞(もれきこ)えけんやうに、憂(う)かる己をも忘れんとしつ。
 今かの娘の宮ならば如何(いか)ならん、吾かの雅之ならば如何ならん。吾は今日(こんにち)の吾たるを択(えら)ぶ可(べ)きか、将(はた)かの雅之たるを希(こひねが)はんや。貫一は空(むなし)うかく想へり。
 宮も嘗(かつ)て己に対して、かの娘に遜(ゆづ)るまじき誠を抱(いだ)かざるにしもあらざりき。彼にして若(も)し金剛石(ダイアモンド)の光を見ざりしならば、また吾をも刑余に慕ひて、その誠を全(まつた)うしたらんや。唯継(ただつぐ)の金力を以て彼女を脅(おびやか)したらんには、またかの雅之を入獄の先に棄てたりけんや。耀(かがや)ける金剛石(ダイアモンド)と汚(けが)れたる罪名とは、孰(いづれ)か愛を割(さ)くの力多かる。
 彼は更にかく思へり。
 唯その人を命として、己(おのれ)も有らず、家も有らず、何処(いづこ)の野末(のずゑ)にも相従(あひしたが)はんと誓へるかの娘の、竟(つひ)に利の為に志を移さざるを得べきか。又は一旦その人に与へたる愛を吝(をし)みて、再び価高く他に売らんと為るなきを得べきか。利と争ひて打勝れたると、他の愛と争ひて敗れたると、吾等の恨は孰に深からん。
 彼は又かくも思へるなり。
 それ愛の最も篤(あつ)からんには、利にも惑はず、他に又易(か)ふる者もあらざる可きを、仮初(かりそめ)もこれの移るは、その最も篤きにあらざるを明(あか)せるなり。凡(およ)そ異性の愛は吾愛の如く篤かるを得ざる者なるか、或(ある)は己の信ずらんやうに、宮の愛の特(こと)に己にのみ篤からざりしなるか。吾は彼の不義不貞を憤るが故(ゆゑ)に世上の恋なる者を疑ひ、かつ渾(すべ)てこれを斥(しりぞ)けぬ。されどもその一旦の憤(いきどほり)は、これを斥けしが為に消ゆるにもあらずして、その必ず得べかりし物を失へるに似たる怏々(おうおう)は、吾心を食尽(はみつく)し、終(つひ)に吾身を斃(たふ)すにあらざれば、得やは去るまじき悪霊(あくりよう)の如く執念(しゆうね)く吾を苦むるなり。かかれば何事にも楽むを知らざりし心の今日偶(たまた)ま人の相悦(あひよろこ)ぶを見て、又躬(みづから)も怡(よろこ)びつつ、楽(たのし)の影を追ふらんやうなりしは何の故ならん。よし吾は宮の愛ならずとも、これに易ふる者を得て、とかくはこの心を慰めしむ可きや。
 彼はいよいよ思廻(おもひめぐら)せり。
 宮はこの日頃吾に篤からざりしを悔いて、その悔を表せんには、何等の事を成さんも唯吾命(めい)のままならんとぞ言来(いひこ)したる。吾はその悔の為にはかの憤(いきどほり)を忘るべきか、任他(さはれ)吾恋の旧(むかし)に復(かへ)りて再び完(まつた)かるを得るにあらず、彼の悔は彼の悔のみ、吾が失意の恨は終に吾が失意の恨なるのみ。この恨は富山に数倍せる富に因(よ)りて始て償はるべきか、或(あるひ)はその富を獲んとする貪欲(どんよく)はこの恨を移すに足るか。
 彼は苦(くるし)き息(いき)を嘘(ふ)きぬ。
 吾恋を壊(やぶ)りし唯継! 彼等の恋を壊らんと為(せ)しは誰(た)そ、その吾の今千葉に赴(おもむ)くも、又或は壊り、或は壊らんと為るにあらざる無きか。しかもその貪欲は吾に何をか与へんとすらん。富か、富は吾が狂疾を医(い)すべき特効剤なりや。かの妨げられし恋は、破鏡の再び合ふを得て楽み、吾が割(さか)れし愛は落花の復(かへ)る無くして畢(をは)らんのみ! いで、吾はかくて空く埋(うづも)るべきか、風に因(よ)りて飛ぶべきか、水に落ちて流るべきか。
 貫一は船橋を過(すぐ)る燈(ともしび)暗き汽車の中(うち)に在り。

     第六章

 千葉より帰りて五日の後 M., Shigis――の書信(ふみ)は又来(きた)りぬ。貫一は例に因(よ)りて封のまま火中してけり。その筆の跡を見れば、忽(たちま)ち浮ぶその人の面影(おもかげ)は、唯継と並び立てる梅園の密会にあらざる無きに、彼は殆(ほとん)ど当時に同(おなじ)き憤(いかり)を発して、先の二度なるよりはこの三度(みたび)に及べるを、径廷(をこがまし)くも廻らぬ筆の力などを以(も)て、旧(むかし)に返し得べき未練の吾に在りとや想へる、愚なる精衛の来(きた)りて大海(だいかい)を填(うづ)めんとするやと、却(かへ)りて頑(かたくな)に自ら守らんとも為なり。
 さりとも知らぬ宮は蟻(あり)の思を運ぶに似たる片便(かたたより)も、行くべき方には音づるるを、さてかの人の如何(いか)に見るらん、書綴(かきつづ)れる吾誠(わがまこと)の千に一つも通ずる事あらば、掛けても願へる一筋(ひとすぢ)の緒(いとぐち)ともなりなんと、人目あらぬ折毎には必ず筆採(ふでと)りて、その限無き思(おもひ)を写してぞ止まざりし。
 唯継は近頃彼の専(もつぱ)ら手習すと聞きて、その善き行(おこなひ)を感ずる余(あまり)に、良き墨、良き筆、良き硯(すずり)、良き手本まで自ら求め来ては、この難有(ありがた)き心掛の妻に遣(おく)りぬ。宮はそれ等を汚(けがら)はしとて一切用ること無く、後には夫の机にだに向はずなりけり。かく怠らず綴(つづ)られし文は、又六日(むゆか)を経て貫一の許(もと)に送られぬ。彼は四度(よたび)の文をも例の灰と棄てて顧ざりしに、日を経(ふ)ると思ふ程も無く、五度(いつたび)の文は来にけり。よし送り送りて千束(ちつか)にも余れ、手に取るからの烟(けむ)ぞと侮(あなど)れる貫一も、曾(かつ)て宮には無かりし執着のかばかりなるを謂知(いひし)らず異(あやし)みつつ、今日のみは直(すぐ)にも焚(や)かざりしその文を、一度(ひとたび)は披(ひら)き見んと為たり。
「然し……」
 彼は輙(たやす)く手を下さざりき。
「赦(ゆる)してくれと謂ふのだらう。その外には、見なければ成らん用事の有る訳は無い。若(も)し有ると為れば、それは見る可からざる用事なのだ。赦してくれなら赦して遣(や)る、又赦さんでも既に赦れてゐるのではないか。悔悟したなら、悔悟したで、それで可い。悔悟したから、赦したからと云つて、それがどうなるのだ。それが今日(こんにち)の貫一と宮との間に如何(いか)なる影響を与へるのだ。悔悟したからあれの操(みさを)の疵(きず)が愈(い)えて、又赦したから、富山の事が無い昔に成るのか。その点に於(おい)ては、貫一は飽くまでも十年前の貫一だ。宮! 貴様は一生汚(けが)れた宮ではないか。ことの破れて了(しま)つた今日(こんにち)になつて悔悟も赦してくれも要(い)つたものか、無益な事だ! 少(すこし)も汚(けが)れん宮であるから愛してをつたのだ、それを貴様は汚して了つたから怨んだのだ。さうして一遍汚れた以上は、それに対する十倍の徳を行(おこな)つても、その汚れたのを汚れざる者に改めることは到底出来んのだ。
 であるから何と言つた! 熱海で別れる時も、お前の外(ほか)に妻と思ふ者は無い、一命に換へてもこの縁は切られんから、俺(おれ)のこの胸の中を可憐(あはれ)と思つて、十分決心してくれ、と実に男を捨てて頼んだではないか。その貫一に負(そむ)いて……何の面目(めんぼく)有つて今更悔悟……晩(おそ)い!」
 彼はその文を再三柱に鞭(むちう)ちて、終に繩(なは)の如く引捩(ひきねぢ)りぬ。
 打続きて宮が音信(たより)の必ず一週に一通来ずと謂ふこと無くて、披(ひらか)れざるに送り、送らるるに披(ひらか)かざりしも、はや算(かぞ)ふれば十通に上(のぼ)れり。さすがに今は貫一が見る度(たび)の憤(いかり)も弱りて、待つとにはあらねど、その定りて来る文の繁(しげ)きに、自(おのづか)ら他の悔い悲める宮在るを忘るる能(あた)はずなりぬ。されど、その忘るる能はざるも、遽(にはか)に彼を可懐(なつかし)むにはあらず、又その憤の弱れるも、彼を赦し、彼を容(い)れんと為るにあらずして、始(はじめ)に恋ひしをば棄てられ、後には棄てしを悔らるる身の、その古き恋はなほ己(おのれ)に存し、彼の新なる悔は切に□(まつは)るも、徒(いたづら)に凍えて水を得たるに同(おなじ)かるこの両(ふたつ)の者の、相対(あひたい)して相拯(あひすく)ふ能はざる苦艱(くげん)を添ふるに過ぎざるをや。ここに於て貫一は披かぬ宮が文に向へば、その幾倍の悲きものを吾と心に読みて、かの恨ならぬ恨も生じ、かの憤(いかり)ならぬ憤も発して、憂身独(うきみひとり)の儚(はかな)き世をば如何(いか)にせんやうも知らで、唯安からぬ昼夜を送りつつ、出づるに入るに茫々(ぼうぼう)として、彼は屡(しばし)ばその貪(むさぼ)るをさへ忘るる事ありけり。劇(はげし)く物思ひて寝(い)ねざりし夜の明方近く疲睡を催せし貫一は、新緑の雨に暗き七時の閨(ねや)に魘(おそは)るる夢の苦く頻(しきり)に呻(うめ)きしを、老婢(ろうひ)に喚(よば)れて、覚めたりと知りつつ現(うつつ)ならず又睡りけるを、再び彼に揺起(ゆりおこさ)れて驚けば、
「お客様でございます」
「お客? 誰だ」
「荒尾さんと有仰(おつしや)いました」
「何、荒尾? ああ、さうか」
 主(あるじ)の急ぎ起きんとすれば、
「お通し申しますで御座いますか」
「おお、早くお通し申して。さうしてな、唯今起きましたところで御座いますから、暫(しばら)く失礼致しますとさう申して」
 貫一はかの一別の後三度(みたび)まで彼の隠家(かくれが)を訪ひしかど、毎(つね)に不在に会ひて、二度に及べる消息の返書さへあらざりければ、安否の如何(いかが)を満枝に糺(ただ)せしに、変る事無く其処(そこ)に住めりと言ふに、さては真(まこと)に交(まじはり)を絶たんとすならんを、姑(しばら)く強(しひ)て追はじと、一月余(あまり)も打絶えたりしに、彼方(あなた)より好(よ)くこそ来つれ、吾がこの苦(くるしみ)を語るべきは唯彼在るのみなるを、朋(とも)の来(きた)れるも、実(げ)にかくばかり楽きはあらざらん。今日は酒を出(いだ)して一日(いちじつ)彼を還さじなど、心忙(こころせはし)きまでに歓(よろこ)ばれぬ。
 絶交せるやうに疏音(そいん)なりし荒尾の、何の意ありて卒(にはか)に訪来(とひきた)れるならん。貫一はその何の意なりやを念(おも)はず、又その突然の来叩(おとづれ)をも怪(あやし)まずして、畢竟(ひつきよう)彼の疏音なりしはその飄然(ひようぜん)主義の拘(かか)らざる故(ゆゑ)、交(まじはり)を絶つとは言ひしかど、誼(よしみ)の吾を棄つるに忍びざる故と、彼はこの人のなほ己(おのれ)を友として来(きた)れるを、有得べからざる事とは信ぜざりき。
 手水場(てうづば)を出来(いでき)し貫一は腫□(はれまぶた)の赤きを連□(しばたた)きつつ、羽織の紐(ひも)を結びも敢(あ)へず、つと客間の紙門(ふすま)を排(ひら)けば、荒尾は居らず、かの荒尾譲介は居らで、美(うつくし)う装(よそほ)へる婦人の独(ひと)り羞含(はぢがまし)う控へたる。打惑(うちまど)ひて入(い)りかねたる彼の目前(まのあたり)に、可疑(うたがはし)き女客も未(いま)だ背(そむ)けたる面(おもて)を回(めぐら)さず、細雨(さいう)静(しづか)に庭樹(ていじゆ)を撲(う)ちて滴(したた)る翠(みどり)は内を照せり。
「荒尾さんと有仰(おつしや)るのは貴方で」
 彼は先づかく会釈して席に着きけるに、婦人は猶も面(おもて)を示さざらんやうに頭(かしら)を下げて礼を作(な)せり。しかも彼は輙(たやす)くその下げたる頭(かしら)と□(つか)へたる手とを挙げざるなりき。始に何者なりやと驚(おどろか)されし貫一は、今又何事なりやと弥(いよい)よ呆(あき)れて、彼の様子を打矚(うちまも)れり。乍(たちま)ち有りて貫一の眼(まなこ)は慌忙(あわただし)く覓(もと)むらん色を作(な)して、婦人の俯(うつむ)けるを□(き)と窺(うかが)ひたりしが、
「何ぞ御用でございますか」
「…………」
 彼は益(ますま)す急に左瞻右視(とみかうみ)して窺ひつ。
「どう云ふ御用向でございますか。伺ひませう」
「…………」
 露置く百合(ゆり)の花などの仄(ほのか)に風を迎へたる如く、その可疑(うたがはし)き婦人の面(おもて)は術無(じゆつな)げに挙らんとして、又慙(は)ぢ懼(おそ)れたるやうに遅疑(たゆた)ふ時、
「宮□」と貫一の声は筒抜けて走りぬ。
 宮は嬉し悲しの心昧(こころくら)みて、身も世もあらず泣伏したり。
「何用有つて来た!」
 怒(いか)るべきか、この時。恨むべきか、この時。辱(はぢし)むべきか、悲むべきか、号(さけ)ぶべきか、詈(ののし)るべきか、責むべきか、彼は一時に万感の相乱(あひみだ)れて急なるが為に、吾を吾としも覚ゆる能はずして打顫(うちふる)ひゐたり。
「貫一(かんいつ)さん! どうぞ堪忍(かんにん)して下さいまし」
 宮は漸(やうや)う顔を振挙げしも、凄(すさまじ)く色を変へたる貫一の面(おもて)に向ふべくもあらで萎(しを)れ俯(ふ)しぬ。
「早く帰れ!」
「…………」
「宮!」
 幾年(いくとせ)聞かざりしその声ならん。宮は危みつつも可懐(なつか)しと見る目を覚えず其方(そなた)に転(うつ)せば、鋭く□(みむか)ふる貫一の眼(まなこ)の湿(うるほ)へるは、既に如何(いか)なる涙の催せしならん。
「今更お互に逢ふ必要は無い。又お前もどの顔で逢ふ意(つもり)か。先達而(せんだつて)から頻(しきり)に手紙を寄来(よこ)すが、あれは一通でも開封したのは無い、来れば直(すぐ)に焼棄てて了ふのだから、以来は断じて寄来さんやうに。私(わたし)は今病中で、かうしてゐるのも太儀(たいぎ)でならんのだから、早く帰つて貰ひたい」
 彼は老婢を召して、
「お客様のお立(たち)だ、お供にさう申して」
 取附く島もあらず思悩(おもひなや)める宮を委(お)きて、貫一は早くも独り座を起たんとす。
「貫一さん、私(わたし)は今日は死んでも可(い)い意(つもり)でお目に掛りに来たのですから、貴方(あなた)の存分にどんな目にでも遭(あは)せて、さうしてそれでともかくも今日は勘弁して、お願ですから私の話を聞いて下さいまし」
「何の為に!」
「私は全く後悔しました! 貫一さん、私は今になつて後悔しました□ 悉(くはし)い事はこの間からの手紙に段々書いて上げたのですけれど、全(まる)で見ては下さらないのでは、後悔してゐる私のどんな切ない思をしてゐるか、お解りにはならないでせうが、お目に掛つて口では言ふに言(いは)れない事ばかり、設(たと)ひ書けない私の筆でも、あれをすつかり見て下すつたら、些(ちつ)とはお腹立も直らうかと、自分では思ふのです。色々お詑(わび)は為る意(つもり)でも、かうしてお目に掛つて見ると、面目(めんぼく)が無いやら、悲いやらで、何一語(ひとこと)も言へないのですけれど、貫一さん、とても私は来られる筈(はず)でない処へかうして来たのには、死ぬほどの覚悟をしたのと思つて下さいまし」
「それがどう為たのだ」
「さうまで覚悟をして、是非お話を為たい事が有るのですから、御迷惑でもどうぞ、どうぞ、貫一さん、ともかくも聞いて下さいまし」
 涙ながらに手を□(つか)へて、吾が足下(あしもと)に額叩(ぬかづ)く宮を、何為らんとやうに打見遣りたる貫一は、
「六年前(ぜん)の一月十七日、あの時を覚えてゐるか」
「…………」
「さあ、どうか」
「私は忘れは為ません」
「うむ、あの時の貫一の心持を今日お前が思知るのだ」
「堪忍して下さい」
 唯(と)見る間に出行(いでゆ)く貫一、咄嗟(あなや)、紙門(ふすま)は鉄壁よりも堅く閉(た)てられたり。宮はその心に張充(はりつ)めし望を失ひてはたと領伏(ひれふ)しぬ。
「豊、豊!」と老婢を呼ぶ声劇(はげし)く縁続(えんつづき)の子亭(はなれ)より聞(きこ)ゆれば、直(ぢき)に走り行く足音の響きしが、やがて返し来(きた)れる老婢は客間に顕(あらは)れぬ。宮は未だ頭(かしら)を挙げずゐたり。可憐(しをらし)き束髪の頸元深(えりもとふか)く、黄蘖染(おうばくぞめ)の半衿(はんえり)に紋御召(もんおめし)の二枚袷(にまいあはせ)を重ねたる衣紋(えもん)の綾(あや)先(ま)づ謂はんやう無く、肩状(かたつき)優(やさし)う内俯(うつふ)したる脊(そびら)に金茶地(きんちやぢ)の東綴(あづまつづれ)の帯高く、勝色裏(かついろうら)の敷乱(しきみだ)れつつ、白羽二重(しろはぶたへ)のハンカチイフに涙を掩(おほ)へる指に赤く、白く指環(リング)の玉を耀(かがやか)したる、殆(ほとん)ど物語の画をも看(み)るらん心地して、この美き人の身の上に何事の起りけると、豊は可恐(おそろし)きやうにも覚ゆるぞかし。
「あの、申上げますが、主人は病中の事でございますもので、唯今生憎(あいにく)と急に気分が悪くなりましたので、相済みませんで御座いますが中座を致しました。恐入りますで御座いますが、どうぞ今日(こんにち)はこれで御立帰(おたちかへり)を願ひますで御座います」
 面(おもて)を抑へたるままに宮は涙を啜(すす)りて、
「ああ、さやうで御座いますか」
「折角お出(いで)のところを誠にどうもお気毒さまで御座います」
「唯今些(ちよつ)と支度を致しますから、もう少々置いて戴(いただ)きますよ」
「さあさあ、貴方(あなた)御遠慮無く御寛(ごゆるり)と遊ばしまし。又何だか降出して参りまして、今日(こんにち)はいつそお寒過ぎますで御座います」
 彼の起ちし迹(あと)に宮は身支度を為るにもあらで、始て甦(よみがへ)りたる人の唯在るが如くに打沈みてぞゐたる。やや久(ひさし)かるに客の起たんとする模様あらねば、老婢は又出来(いできた)れり。宮はその時遽(にはか)に身□(みづくろい)して、
「それではお暇(いとま)を致します。些(ちよつ)と御挨拶だけ致して参りたいのですから、何方(どちら)にお寝(よ)つてお在(いで)ですか……」
「はい、あの何でございます、どうぞもうおかまひ無く……」
「いいえ、御挨拶だけ些(ちよつ)と」
「さやうで御座いますか。では此方(こちら)へ」
 主(あるじ)の本意(ほい)ならじとは念(おも)ひながら、老婢は止むを得ず彼を子亭(はなれ)に案内(あない)せり。昨夜(ゆふべ)の収めざる蓐(とこ)の内に貫一は着のまま打仆(うちたふ)れて、夜着(よぎ)も掻巻(かいまき)も裾(すそ)の方(かた)に蹴放(けはな)し、枕(まくら)に辛(から)うじてその端(はし)に幾度(いくたび)か置易(おきかへ)られし頭(かしら)を載(の)せたり。
 思ひも懸けず宮の入来(いりく)るを見て、起回(おきかへ)らんとせし彼の膝下(ひざもと)に、早くも女の転(まろ)び来て、立たんと為れば袂(たもと)を執り、猶(なほ)も犇(ひし)と寄添ひて、物をも言はず泣伏したり。
「ええ、何の真似(まね)だ!」
 突返さんとする男の手を、宮は両手に抱(いだ)き緊(し)めて、
「貫一さん!」
「何を為る、この恥不知(はぢしらず)!」
「私が悪かつたのですから、堪忍して下さいまし」
「ええ、聒(やかまし)い! ここを放さんか」
「貫一さん」
「放さんかと言ふに、ええ、もう!」
 その身を楯(たて)に宮は放さじと争ひて益(ますま)す放さず、両箇(ふたり)が顔は互に息の通はんとすばかり近く合ひぬ。一生又相見(あひみ)じと誓へるその人の顔の、おのれ眺(なが)めたりし色は疾(と)く失せて、誰(たれ)ゆゑ今の別(べつ)に□(えん)なるも、なほ形のみは変らずして、実(げ)にかの宮にして宮ならぬ宮と、吾は如何(いか)にしてここに逢へる! 貫一はその胸の夢むる間(ひま)に現(うつつ)ともなく彼を矚(まも)れり。宮は殆(ほとん)ど情極(きはま)りて、纔(わづか)に狂せざるを得たるのみ。
 彼は人の頭(かしら)より大いなるダイアモンドを乞ふが為に、この貫一の手を把(と)る手をば釈(と)かざらん。大いなるダイアモンドか、幾許(いかばかり)大いなるダイアモンドも、宮は人の心の最も小き誠に値せざるを既に知りぬ。彼の持(も)たるダイアモンドはさせる大いなる者ならざれど、その棄去りし人の誠は量無(はかりな)きものなりしが、嗟乎(ああ)、今何処(いづこ)に在りや。その嘗(かつ)て誠を恵みし手は冷(ひやや)かに残れり。空(むなし)くその手を抱(いだ)きて泣かんが為に来(きた)れる宮が悔は、実(げ)に幾許(いかばかり)大いなる者ならん。
「さあ、早く帰れ!」
「もう二度と私はお目には掛りませんから、今日のところはどうとも堪忍して、打(ぶ)つなり、殴(たた)くなり貫一さんの勝手にして、さうして少小(すこし)でも機嫌(きげん)を直して、私のお詑(わび)に来た訳を聞いて下さい」
「ええ、煩(うるさ)い!」
「それぢや打つとも殴くともして……」
 身悶(みもだえ)して宮の縋(すが)るを、
「そんな事で俺(おれ)の胸が霽(は)れると思つてゐるか、殺しても慊(あきた)らんのだ」
「ええ、殺れても可い! 殺して下さい。私は、貫一さん、殺して貰ひたい、さあ、殺して下さい、死んで了つた方が可いのですから」
「自分で死ね!」
 彼は自ら手を下(くだ)して、この身を殺すさへ屑(いさぎよ)からずとまでに己(おのれ)を鄙(いやし)むなるか、余に辛(つら)しと宮は唇(くちびる)を咬(か)みぬ。
「死ね、死ね。お前も一旦棄てた男なら、今更見(みつ)とも無い態(ざま)を為ずに何為(なぜ)死ぬまで立派に棄て通さんのだ」
「私は始から貴方を棄てる気などは有りはしません。それだから篤(とつく)りとお話を為たいのです。死んで了へとお言ひでなくても、私はもう疾(とう)から自分ぢや生きてゐるとは思つてゐません」
「そんな事聞きたくはない。さあ、もう帰れと言つたら帰らんか!」
「帰りません! 私はどんな事してもこのままぢや……帰れません」
 宮は男の手をば益す弛(ゆる)めず、益す激する心の中(うち)には、夫もあらず、世間もあらずなりて、唯この命を易(か)ふる者を失はじと一向(ひたぶる)に思入るなり。
 折から縁に足音するは、老婢の来るならんと、貫一は取られたる手を引放たんとすれど、こは如何(いかに)、宮は些(ちと)も弛(ゆる)めざるのみか、その容(かたち)をだに改めんと為ず。果して足音は紙門(ふすま)の外に逼(せま)れり。
「これ、人が来る」
「…………」
 宮は唯力を極(きは)めぬ。
 不意にこの体(てい)を見たる老婢は、半(なかば)啓(あ)けたる紙門(ふすま)の陰に顔引入れつつ、
「赤樫(あかがし)さんがお出(いで)になりまして御座います」
 窮厄の色はつと貫一の面(おもて)に上(のぼ)れり。
「ああ、今其方(そつち)へ行くから。――さあ、客が有るのだ、好加減に帰らんか。ええ、放せ。客が有ると云ふのにどうするのか」
「ぢや私はここに待つてゐますから」
「知らん! もう放せと言つたら」
 用捨もあらず宮は捻倒(ねぢたふ)されて、落花の狼藉(ろうぜき)と起き敢(あ)へぬ間に貫一は出行(いでゆ)く。

     (六)の二

 座敷外に脱ぎたる紫裏(むらさきうら)の吾妻(あづま)コオトに目留めし満枝は、嘗(かつ)て知らざりしその内曲(うちわ)の客を問はで止む能(あた)はざりき。又常に厚く恵(めぐま)るる老婢は、彼の為に始終の様子を告(つぐ)るの労を吝(をし)まざりしなり。さてはと推せし胸の内は瞋恚(しんい)に燃えて、可憎(につく)き人の疾(と)く出で来(こ)よかし、如何(いか)なる貌(かほ)して我を見んと為(す)らん、と焦心(せきごころ)に待つ間のいとどしう久(ひさし)かりしに、貫一はなかなか出(い)で来ずして、しかも子亭(はなれ)のほとほと人気(ひとけ)もあらざらんやうに打鎮(うちしづま)れるは、我に忍ぶかと、弥(いよい)よ満枝は怺(こら)へかねて、
「お豊さん、もう一遍旦那(だんな)様にさう申して来て下さいな、私(わたし)今日は急ぎますから、些(ちよつ)とお目に懸りたいと」
「でも、私(わたくし)は誠に参り難(にく)いので御座いますよ、何だかお話が大変込入つてお在(いで)のやうで御座いますから」
「かまはんぢやありませんか、私がさう申したと言つて行くのですもの」
「ではさう申上げて参りますです」
「はあ」
 老婢は行きて、紙門(ふすま)の外より、
「旦那さま、旦那さま」
「此方(こちら)にお在(いで)は御座いませんよ」
 かく答へしは客の声なり。豊は紙門(ふすま)を開きて、
「おや、さやうなので御座いますか」
 実(げ)に主(あるじ)は在らずして、在るが如くその枕頭(まくらもと)に坐れる客の、猶悲(なほかなしみ)の残れる面(おもて)に髪をば少し打乱(うちみだ)し、左の□(わきあけ)の二寸ばかりも裂けたるままに姿も整はずゐたりしを、遽(にはか)に引枢(ひきつくろ)ひつつ、
「今し方其方(そちら)へお出(いで)なすつたのですが……」
「おや、さやうなので御座いますか」
「那裡(あちら)のお客様の方へお出(いで)なすつたのでは御座いませんか」
「いいえ、貴方、那裡(あちら)のお客様が急ぐと有仰(おつしや)つてで御座いますものですから、さう申上げに参つたので御座いますが、それぢやまあ、那辺(どちら)へいらつしやいましたらう!」
「那裡(あちら)にもゐらつしやいませんの!」
「さやうなので御座いますよ」
 老婢はここを倉皇(とつかは)起ちて、満枝が前に、
「此方(こちら)へもいらつしやいませんで御座いますか」
「何が」
「あの、那裡(あちら)にもゐらつしやいませんので御座いますが」
「旦那様が? どうして」
「今し方這裡(こちら)へ出てお在(いで)になつたのださうで御座います」
「嘘(うそ)、嘘ですよ」
「いいえ、那裡(あちら)にはお客様がお一人でゐらつしやるばかり……」
「嘘ですよ」
「いいえ、どういたして貴方、決して嘘ぢや御座いません」
「だつて、此方(こちら)へお出(いで)なさりは為ないぢやありませんか」
「ですから、まあ、何方(どつち)へいらつしやつたのかと思ひまして……」
「那裡(あちら)にきつと隠れてでもお在(いで)なのですよ」
「貴方、そんな事が御座いますものですか」
「どうだか知れはしません」
「はてね、まあ。お手水(てうづ)ですかしらん」
 随処(そこら)尋ねんとて彼は又倉皇(とつかは)起ちぬ。
 有効無(ありがひな)きこの侵辱(はづかしめ)に遭(あ)へる吾身(わがみ)は如何(いか)にせん、と満枝は無念の遣(や)る方無さに色を変へながら、些(ちと)も騒ぎ惑はずして、知りつつ食(は)みし毒の験(しるし)を耐へ忍びゐたらんやうに、得も謂(いは)れず窃(ひそか)に苦めり。宮はその人の遁(のが)れ去りしこそ頼(たのみ)の綱は切られしなれと、はや留るべき望も無く、まして立帰るべき力は有らで、罪の報(むくい)は悲くも何時まで儚(はかな)きこの身ならんと、打俯(うちふ)し、打仰ぎて、太息(ためいき)□(つ)くのみ。
 颯(さ)と空の昏(くら)み行く時、軒打つ雨は漸(やうや)く密なり。
 戸棚(とだな)、押入(おしいれ)の外(ほか)捜さざる処もあらざりしに、終(つひ)に主(あるじ)を見出(みいだ)さざる老婢は希有(けう)なる貌(かほ)して又子亭(はなれ)に入来(いりきた)れり。
「何方(どちら)にもゐらつしやいませんで御座いますが……」
「あら、さやうですか。ではお出掛にでも成つたのでは御座いませんか」
「さやうで御座いますね。一体まあどうなすつたと云ふので御座いませう、那裡(あちら)にも這裡(こちら)にもお客様を置去(おきざり)に作(なす)つてからに。はてね、まあ、どうもお出掛になる訳は無いので御座いますけれど、家中には何処(どつこ)にもゐらつしやらないところを見ますと、お出掛になつたので御座いますかしらん。それにしても……まあ御免あそばしまして」
 彼は又満枝の許(もと)に急ぎ行きて、事の由(よし)を告げぬ。
「いいえ、貴方(あなた)、私は見て参りましたので御座いますよ。子亭(はなれ)にゐらつしやりは致しません、それは大丈夫で御座います」
 彼は遽(にはか)に心着きて履物(はきもの)を検(あらた)め来んとて起ちけるに、踵(つ)いで起てる満枝の庭前(にはさき)の縁に出づると見れば、□々(つかつか)と行きて子亭(はなれ)の入口に顕(あらは)れたり。
 宮は何人(なにびと)の何の為に入来(いりきた)れるとも知らず、先(ま)づ愕(おどろ)きつつも彼を迎へて容(かたち)を改めぬ。吾が恋人の恋人を拝まんとてここに来にける満枝の、意外にも敵の己(おのれ)より少(わか)く、己より美く、己より可憐(しをらし)く、己より貴(たつと)きを見たる妬(ねた)さ、憎さは、唯この者有りて可怜(いと)しさ故に、他(ひと)の情(なさけ)も誠も彼は打忘るるよとあはれ、一念の力を剣(つるぎ)とも成して、この場を去らず刺殺(さしころ)さまほしう、心は躍(をど)り襲(かか)り、躍り襲らんと為るなりけり。
 宮は稍羞(ややはぢら)ひて、葉隠(はがくれ)に咲遅れたる花の如く、夕月の涼(すずし)う棟(むね)を離れたるやうに満枝は彼の前に進出(すすみい)でて、互に対面の礼せし後、
「始めましてお目に掛りますで御座いますが、間様の……御親戚? でゐらつしやいますで御座いますか」
 憎き人をば一番苦めんの満枝が底意なり。
「はい親類筋の者で御座いまして」
「おや、さやうでゐらつしやいますか。手前は赤樫満枝と申しまして、間様とは年来の御懇意で、もう御親戚同様に御交際を致して、毎々お世話になつたり、又及ばずながらお世話も致したり、始終お心易く致してをりますで御座いますが、ついぞ、まあ従来(これまで)お見上げ申しませんで御座いました」
「はい、つい先日まで長らく遠方に参つてをりましたもので御座いますから」
「まあ、さやうで。余程何でございますか、御遠方で?」
「はい……広島の方に居りまして御座います」
「はあ、さやうで。唯今は何方(どちら)に」
「池端(いけのはた)に居ります」
「へえ、池端、お宜(よろし)い処で御座いますね。然し、夙(かね)て間様のお話では、御自分は身寄も何も無いから、どうぞ親戚同様に末の末まで交際したいと有仰(おつしや)るもので御座いますから、全くさうとばかり私(わたくし)信じてをりましたので御座いますよ。それに唯今かうして伺ひますれば、御立派な御親戚がお有り遊ばすのに、どう云ふお意(つもり)であんな事を有仰つたので御座いませう。何も親戚のお有りあそばす事をお隠しになるには当らんぢや御座いませんか。あの方は時々さう云ふ水臭い事を一体作(なさ)るので御座いますよ」
 疑(うたがひ)の雲は始て宮が胸に懸(かか)りぬ。父が甞(かつ)て病院にて見し女の必ず訳有るべしと指(さ)せしはこれならん。さては客来(きやくらい)と言ひしも詐(いつはり)にて、或(あるひ)は内縁の妻と定れる身の、吾を咎(とが)めて邪魔立せんとか、但(ただし)は彼人(かのひと)のこれ見よとてここに引出(ひきいだ)せしかと、今更に差(たが)はざりし父が言(ことば)を思ひて、宮は仇(あだ)の為に病めるを笞(むちう)たるるやうにも覚ゆるなり。いよいよ長く居るべきにあらぬ今日のこの場はこれまでと潔く座を起たんとしたりけれど、何処(いづく)にか潜めゐる彼人(かのひと)の吾が還るを待ちて忽(たちま)ち出で来て、この者と手を把(と)り、面(おもて)を並べて、可哀(あはれ)なる吾をば笑ひ罵(ののし)りもやせんと想へば、得堪(えた)へず口惜(くちをし)くて、如何(いか)にせば可(よ)きと心苦(こころくるし)く遅(ためら)ひゐたり。
「お久しぶりで折角お出(いで)のところを、生憎(あいにく)と余義無い用向の使が見えましたもので、お出掛になつたので御座いますが、些(ちよつ)と遠方でございますから、お帰来(かへり)の程は夜にお成りで御座いませう、近日どうぞ又御寛(ごゆつく)りとお出(い)で遊ばしまして」
「大相長座(ちようざ)を致しまして、貴方の御用のお有り遊ばしたところを、心無いお邪魔を致しまして、相済みませんで御座いました」
「いいえ、もう、私共は始終上つてをるので御座いますから、些(ちよつ)とも御遠慮には及びませんで御座います。貴方こそさぞ御残念でゐらつしやいませう」
「はい、誠に残念でございます」
「さやうで御座いませうとも」
「四五年ぶりで逢ひましたので御座いますから、色々昔話でも致して今日(こんにち)は一日遊んで参らうと楽(たのしみ)に致してをりましたのを、実に残念で御座います」
「大きに」
「さやうなら私はお暇(いとま)を致しませう」
「お帰来(かへり)で御座いますか。丁度唯今小降で御座いますね」
「いいえ、幾多(いくら)降りましたところが俥(くるま)で御座いますから」
 互に憎し、口惜(くちを)しと鎬(しのぎ)を削る心の刃(やいば)を控へて、彼等は又相見(あひみ)ざるべしと念じつつ別れにけり。

     第七章

 家の内を隈無(くまな)く尋ぬれども在らず、さては今にも何処(いづこ)よりか帰来(かへりこ)んと待てど暮せど、姿を晦(くらま)せし貫一は、我家ながらも身を容(い)るる所無き苦紛(くるしまぎ)れに、裏庭の木戸より傘(かさ)も□(さ)さで忍び出でけるなり。
 されど唯一目散に脱(のが)れんとのみにて、卒(にはか)に志す方(かた)もあらぬに、生憎(あやにく)降頻(ふりしき)る雨をば、辛(から)くも人の軒などに凌(しの)ぎつつ、足に任せて行くほどに、近頃思立ちて折節(をりふし)通へる碁会所の前に出でければ、ともかくも成らんとて、其処(そこ)に躍入(をどりい)りけり。
 客は三組ばかり、各(おのおの)静に窓前の竹の清韻(せいいん)を聴きて相対(あひたい)せる座敷の一間(ひとま)奥に、主(あるじ)は乾魚(ひもの)の如き親仁(おやぢ)の黄なる髯(ひげ)を長く生(はや)したるが、兀然(こつぜん)として独(ひと)り盤を磨(みが)きゐる傍に通りて、彼は先(ま)づ濡(ぬ)れたる衣(きぬ)を炙(あぶ)らんと火鉢(ひばち)に寄りたり。
 異(あやし)み問はるるには能(よ)くも答へずして、貫一は余りに不思議なる今日の始末を、その余波(なごり)は今も轟(とどろ)く胸の内に痛(したた)か思回(おもひめぐら)して、又空(むなし)く神(しん)は傷(いた)み、魂(こん)は驚くといへども、我や怒(いか)る可き、事や哀(あはれ)むべき、或(あるひ)は悲む可きか、恨む可きか、抑(そもそ)も喜ぶ可きか、慰む可きか、彼は全く自ら弁ぜず。五内(ごない)渾(すべ)て燃え、四肢(しし)直(ただち)に氷らんと覚えて、名状すべからざる感情と煩悶(はんもん)とは新に来(きた)りて彼を襲へるなり。
 主(あるじ)は貫一が全濡(づぶぬれ)の姿よりも、更に可訝(いぶかし)きその気色(けしき)に目留めて、問はでも椿事(ちんじ)の有りしを疑はざりき。ここまで身は遁(のが)れ来にけれど、なかなか心安からで、両人(ふたり)を置去(おきざり)に為(せ)し跡は如何(いかに)、又我が為(せ)んやうは如何(いかに)など、彼は打惑へり。沸くが如きその心の騒(さわが)しさには似で、小暗(をぐら)き空に満てる雨声(うせい)を破りて、三面の盤の鳴る石は断続して甚(はなは)だ幽なり。主(あるじ)はこの時窓際(まどぎは)の手合観(てあはせみ)に呼れたれば、貫一は独り残りて、未だ乾(ひ)ぬ袂(たもと)を翳(かざ)しつつ、愈(いよい)よ限無く惑ひゐたり。遽(にはか)に人の騒立つるに愕(おどろ)きて顔を挙(あぐ)れば、座中尽(ことごと)く頸(くび)を延べて己(おの)が方(かた)を眺め、声々に臭しと喚(よば)はるに、見れば、吾が羽織の端(はし)は火中に落ちて黒煙(くろけふり)を起つるなり。直(ぢき)に揉消(もみけ)せば人は静(しづま)るとともに、彼もまた前(さき)の如し。
 少頃(しばし)有りて、門(かど)に入来(いりき)し女の訪(おとな)ふ声して、
「宅の旦那(だんな)様はもしや這裡(こちら)へいらつしやりは致しませんで為(し)たらうか」
 主は忽(たちま)ち髯(ひげ)の頤(おとがひ)を回(めぐら)して、
「ああ、奥にお在(いで)で御座いますよ」
 豊かと差覗(さしのぞ)きたる貫一は、
「おお、傘を持つて来たのか」
「はい。此方(こちら)にお在(いで)なので御座いましたか、もう方々お捜し申しました」
「さうか。客は帰つたか」
「はい、疾(とう)にお帰(かへり)になりまして御座います」
「四谷のも帰つたか」
「いいえ、是非お目に掛りたいと有仰(おつしや)いまして」
「居る?」
「はい」
「それぢや見付からんと言つて措(お)け」
「ではお帰りに成りませんので?」
「も少し経(た)つたら帰る」
「直(ぢき)にもうお中食(ひる)で御座いますが」
「可(い)いから早く行けよ」
「未(ま)だ旦那様は朝御飯も」
「可いと言ふに!」
 老婢は傘と足駄(あしだ)とを置きて悄々(すごすご)還りぬ。
 程無く貫一も焦げたる袂(たもと)を垂れて出行(いでゆ)けり。
 彼はこの情緒の劇(はげし)く紛乱せるに際して、可煩(わづらはし)き満枝に□(まつは)らるる苦悩に堪へざるを思へば、その帰去(かへりさ)らん後までは決(け)して還らじと心を定めて、既に所在(ありか)を知られたる碁会所を立出(たちい)でしが、いよいよ指して行くべき方(かた)は有らず。はや正午と云ふに未(いま)だ朝の物さへ口に入れず、又半銭をも帯びずして、如何(いか)に為(せ)んとするにか有らん、猶降りに降る雨の中を茫々然(ぼうぼうぜん)として彷徨(さまよ)へり。
 初夏の日は長かりけれど、纔(わづか)に幾局の勝負を決せし盤の上には、殆(ほとん)ど惜き夢の間に昏(く)れて、折から雨も霽(は)れたれば、好者(すきもの)どもも終(つひ)に碁子(きし)を歛(をさ)めて、惣立(そうだち)に帰るをあたかも送らんとする主の忙々(いそがはし)く燈(ひ)ともす比(ころ)なり、貫一の姿は始て我家の門(かど)に顕(あらは)れぬ。
 彼は内に入(い)るより、
「飯を、飯を!」と婢(をんな)を叱(しつ)して、颯(さ)と奥の間の紙門(ふすま)を排(ひら)けば、何ぞ図らん燈火(ともしび)の前に人の影在り。
 彼は立てるままに目を□(みは)りつ。されど、その影は後向(うしろむき)に居て動かんとも為(せ)ず。満枝は未(いま)だ往かざるか、と貫一は覚えず高く舌打したり。女は尚(なほ)も殊更(ことさら)に見向かぬを、此方(こなた)もわざと言(ことば)を掛けずして子亭(はなれ)に入り、豊を呼びて衣を更(か)へ、膳(ぜん)をも其処(そこ)に取寄せしが、何とか為けん、必ず入来(いりく)べき満枝の食事を了(をは)るまでも来ざるなりき。却(かへ)りて仕合好(しあはせよ)しと、貫一は打労(うちつか)れたる身を暢(のびや)かに、障子の月影に肱枕(ひぢまくら)して、姑(しばら)く喫烟(きつえん)に耽(ふけ)りたり。
 敢(あへ)て恋しとにはあらねど、苦しげに羸(やつ)れたる宮が面影(おもかげ)の幻は、頭(かしら)を回(めぐ)れる一蚊(ひとつか)の声の去らざらんやうに襲ひ来て、彼が切なる哀訴も従ひて憶出(おもひい)でらるれば、なほ往きかねて那辺(そこら)に忍ばずやと、風の音にも幾度(いくたび)か頭(かしら)を挙げし貫一は、婆娑(ばさ)として障子に揺(ゆ)るる竹の影を疑へり。
 宮は何時(いつ)までここに在らん、我は例の孤(ひとり)なり。
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