金色夜叉
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著者名:尾崎紅葉 

「読んで字の如し」
 驚破(すはや)、彼の座敷を出づるを、送りも行かず、坐りも遣(や)らぬ宮が姿は、寂(さびし)くも壁に向ひて動かざりけり。

     第三章

 門々(かどかど)の松は除かれて七八日(ななやうか)も過ぎぬれど、なほ正月機嫌(きげん)の失せぬ富山唯継は、今日も明日(あす)もと行処(ゆきどころ)を求めては、夜を□(ひ)に継ぎて打廻(うちめぐ)るなりけり。宮は毫(いささ)かもこれも咎(とが)めず、出づるも入(い)るも唯彼の為(な)すに任せて、あだかも旅館の主(あるじ)の為(す)らんやうに、形(かた)ばかりの送迎を怠らざると謂(い)ふのみ。
 この夫に対する仕向(しむけ)は両三年来の平生(へいぜい)を貫きて、彼の性質とも病身の故(ゆゑ)とも許さるるまでに目慣(めなら)されて又彼方(あなた)よりも咎められざるなり。それと共に唯継の行(おこなひ)も曩日(さきのひ)とは漸(やうや)く変りて、出遊(であそび)に耽(ふけ)らんとする傾(かたむき)も出(い)で来(き)しを、浅瀬(あさせ)の浪(なみ)と見(み)し間(ま)も無く近き頃より俄(にはか)に深陥(ふかはまり)して浮(うか)るると知れたるを、宮は猶(なほ)しも措(お)きて咎めず。他(ひと)は如何(いか)にとも為(せ)よ、吾身は如何にとも成らば成れと互に咎めざる心易(こころやす)さを偸(ぬす)みて、異(あやし)き女夫(めをと)の契を繋(つな)ぐにぞありける。
 かかれども唯継はなほその妻を忘れんとはせず。始終の憂(うき)に瘁(やつ)れたる宮は決して美(うつくし)き色を減ぜざりしよ。彼がその美しさを変へざる限は夫の愛は虧(か)くべきにあらざりき。抑(そもそ)もここに嫁(とつ)ぎしより一点の愛だに無かりし宮の、今に到りては啻(ただ)に愛無きに止(とどま)らずして、陰(ひそか)に厭(いと)ひ憎めるにあらずや。その故に彼は漸く家庭の楽からざるをも感ずるにあらずや。その故に彼は外に出でて憂(うさ)を霽(はら)すに忙(いそがはし)きにあらずや。されども彼の忘れず塒(ねぐら)に帰り来(きた)るは、又この妻の美き顔を見んが為のみ。既にその顔を見了(みをは)れば、何ばかりの楽(たのしみ)のあらぬ家庭は、彼をして火無き煖炉(ストオブ)の傍(かたはら)に処(をら)しむるなり。彼の凍えて出(い)でざること無し。出(い)づれば幸ひにその金力に頼(よ)りて勢を得、媚(こび)を買ひて、一時の慾を肆(ほしいま)まにし、其処(そこ)には楽むとも知らず楽み、苦むとも知らず苦みつつ宮が空(むなし)き色香(いろか)に溺(おぼ)れて、内にはかかる美きものを手活(ていけ)の花と眺(なが)め、外には到るところに当世の□(はぶし)を鳴して推廻(おしまは)すが、此上無(こよな)う紳士の願足れりと心得たるなり。
 いで、その妻は見るも厭(いとはし)き夫の傍(そば)に在る苦を片時も軽くせんとて、彼の繁(しげ)き外出(そとで)を見赦(みゆる)して、十度(とたび)に一度(ひとたび)も色を作(な)さざるを風引(かぜひ)かぬやうに召しませ猪牙(ちよき)とやらの難有(ありがた)き賢女の志とも戴(いただ)き喜びて、いと堅き家の守とかつは等閑(なほざり)ならず念(おも)ひにけり。さるは独(ひと)り夫のみならず、本家の両親を始(はじめ)親属知辺(しるべ)に至るまで一般に彼の病身を憫(あはれ)みて、おとなしき嫁よと賞(ほ)め揚(そや)さぬはあらず。実(げ)に彼は某(なにがし)の妻のやうに出行(である)かず、くれがしの夫人(マダム)のやうに気儘(きまま)ならず、又は誰々(たれだれ)の如く華美(はで)を好まず、強請事(ねだりごと)せず、しかもそれ等の人々より才も容(かたち)も立勝(たちまさ)りて在りながら、常に内に居て夫に事(つか)ふるより外(ほか)を為(せ)ざるが、最怜(いとを)しと見ゆるなるべし。宮が裹(つつ)める秘密は知る者もあらず、躬(みづから)も絶えて異(あやし)まるべき穂を露(あらは)さざりければ、その夫に事(つか)へて捗々(はかばか)しからぬ偽(いつはり)も偽とは為られず、却(かへ)りて人に憫(あはれ)まるるなんど、その身には量無(はかりな)き幸(さいはひ)を享(う)くる心の内に、独(ひと)り遣方無(やるかたな)く苦める不幸は又量無しと為ざらんや。
 十九にして恋人を棄てにし宮は、昨日(きのふ)を夢み、今日を嘆(かこ)ちつつ、過(すぐ)せば過さるる月日を累(かさ)ねて、ここに二十(はたち)あまり五(いつつ)の春を迎へぬ。この春の齎(もたら)せしものは痛悔と失望と憂悶(ゆうもん)と、別に空(むなし)くその身を老(おい)しむる齢(よはひ)なるのみ。彼は釈(ゆるさ)れざる囚(とらはれ)にも同(おなじ)かる思を悩みて、元日の明(あく)るよりいとど懊悩(おうのう)の遣る方無かりけるも、年の始といふに臥(ふ)すべき病(やまひ)ならねば、起きゐるままに本意ならぬ粧(よそほひ)も、色を好める夫に勧められて、例の美しと見らるる浅ましさより、猶(なほ)甚(はなはだし)き浅ましさをその人の陰(かげ)に陽(ひなた)に恨み悲むめり。
 宮は今外出せんとする夫の寒凌(さむさしの)ぎに葡萄酒(ぶどうしゆ)飲む間(ま)を暫(しばら)く長火鉢(ながひばち)の前に冊(かしづ)くなり。木振賤(きぶりいやし)からぬ二鉢(ふたはち)の梅の影を帯びて南縁の障子に上(のぼ)り尽せる日脚(ひざし)は、袋棚(ふくろだな)に据ゑたる福寿草(ふくじゆそう)の五六輪咲揃(さきそろ)へる葩(はなびら)に輝きつつ、更に唯継の身よりは光も出づらんやうに、彼は昼眩(ひるまばゆ)き新調の三枚襲(さんまいがさね)を着飾りてその最も珍(ちん)と為る里昂(リヨン)製の白の透織(すかしおり)の絹領巻(きぬえりまき)を右手(めて)に引□(ひきつくろ)ひ、左に宮の酌を受けながら、
「あ、拙(まづ)い手付(てつき)……ああ零(こぼ)れる、零れる! これは恐入つた。これだからつい余所(よそ)で飲む気にもなりますと謂(い)つて可い位のものだ」
「ですから多度上(たんとあが)つていらつしやいまし」
「宜(よろし)いかい。宜いね。宜い。今夜は遅いよ」
「何時頃お帰来(かへり)になります」
「遅いよ」
「でも大約(おほよそ)時間を極めて置いて下さいませんと、お待ち申してをる者は困ります」
「遅いよ」
「それぢや十時には皆(みんな)寝みますから」
「遅いよ」
 又言ふも煩(わづらはし)くて宮は口を閉ぢぬ。
「遅いよ」
「…………」
「驚くほど遅いよ」
「…………」
「おい、些(ちよつ)と」
「…………」
「おや。お前慍(おこ)つたのか」
「…………」
「慍らんでも可いぢやないか、おい」
 彼は続け様に宮の袖(そで)を曳けば、
「何を作(なさ)るのよ」
「返事を為んからさ」
「お遅(おそ)いのは解りましたよ」
「遅くはないよ、実は。だからして、まあ機嫌(きげん)を直すべし」
「お遅いなら、お遅いで宜(よろし)うございますから……」
「遅くはないと言ふに、お前は近来直(ぢき)に慍るよ、どう云ふのかね」
「一つは病気の所為(せゐ)かも知れませんけれど」
「一つは俺の浮気の所為かい。恐入つたね」
「…………」
「お前一つ飲まんかい」
「私(わたくし)沢山」
「ぢや俺が半分助(す)けて遣るから」
「いいえ、沢山なのですから」
「まあさう言はんで、少し、注(つ)ぐ真似(まね)」
「欲くもないものを、貴方は」
「まあ可いさ。お酌は、それかう云ふ塩梅(あんばい)に、愛子流かね」
 妓(ぎ)の名を聞ける宮の如何(いか)に言ふらん、と唯継は陰(ひそか)に楽み待つなる流眄(ながしめ)を彼の面(おもて)に送れるなり。
 宮は知らず貌(がほ)に一口の酒を喞(ふく)みて、眉(まゆ)を顰(ひそ)めたるのみ。
「もう飲めんのか。ぢや此方(こつち)にお寄来(よこ)し」
「失礼ですけれど」
「この上へもう一盃注(いつぱいつ)いで貰はう」
「貴方、十時過ぎましたよ、早くいらつしやいませんか」
「可いよ、この二三日は別に俺の為る用は無いのだから。それで実はね今日は少し遅くなるのだ」
「さうでございますか」
「遅いと云つたつて怪いのぢやない。この二十八日に伝々会の大温習(おほざらひ)が有るといふ訳だらう、そこで今日五時から糸川(いとがわ)の処へ集つて下温習(したざらひ)を為るのさ。俺は、それお特得(はこ)の、「親々(おやおや)に誘(いざな)はれ、難波(なにわ)の浦(うら)を船出(ふなで)して、身を尽したる、憂きおもひ、泣いてチチチチあかしのチントン風待(かぜまち)にテチンチンツン……」
 厭(いとは)しげに宮の余所見(よそみ)せるに、乗地(のりぢ)の唯継は愈(いよい)よ声を作りて、
「たまたま逢ひはア――ア逢ひイ――ながらチツンチツンチツンつれなき嵐(あらし)に吹分(ふきわ)けられエエエエエエエエ、ツンツンツンテツテツトン、テツトン国へ帰ればアアアアア父(ちち)イイイイ母(はは)のチチチチンチンチンチンチンチイン〔思ひも寄らぬ夫定(つまさだめ)……」
「貴方もう好加減(いいかげん)になさいましよ」
「もう少し聴いてくれ、〔立つる操(みさを)を破ら……」
「又寛(ゆつく)り伺ひますから、早くいらつしやいまし」
「然し、巧くなつたらう、ねえ、些(ちよつ)と聞けるだらう」
「私には解りませんです」
「これは恐入つた、解らないのは情無いね。少し解るやうに成つて貰(もら)はうか」
「解らなくても宜うございます」
「何、宜いものか、浄瑠璃(じようるり)の解らんやうな頭脳(あたま)ぢや為方(しかた)が無い。お前は一体冷淡な頭脳(あたま)を有(も)つてゐるから、それで浄瑠璃などを好まんのに違無い。どうもさうだ」
「そんな事はございません」
「何、さうだ。お前は一体冷淡さ」
「愛子はどうでございます」
「愛子か、あれはあれで冷淡でないさ」
「それで能く解りました」
「何が解つたのか」
「解りました」
「些(ちつと)も解らんよ」
「まあ可(よ)うございますから、早くいらつしやいまし、さうして早くお帰りなさいまし」
「うう、これは恐入つた、冷淡でない。ぢや早く帰る、お前待つてゐるか」
「私は何時(いつ)でも待つてをりますぢや御座いませんか」
「これは冷淡でない!」
 漸(やうや)く唯継の立起(たちあが)れば、宮は外套(がいとう)を着せ掛けて、不取敢(とりあへず)彼に握手を求めぬ。こは決(け)して宮の冷淡ならざるを証するに足らざるなり、故(ゆゑ)は、この女夫(めをと)の出入(しゆつにゆう)に握手するは、夫の始より命じて習せし躾(しつけ)なるをや。

     (三)の二

 夫を玄関に送り出(い)でし宮は、やがて氷の窖(あなぐら)などに入(い)るらん想(おもひ)しつつ、是非無き歩(あゆみ)を運びて居間に還(かへ)りぬ。彼はその夫と偕(とも)に在るを謂(い)はんやう無き累(わづらひ)と為(す)なれど、又その独(ひとり)を守りてこの家に処(おか)るるをも堪(た)へ難く悒(いぶせ)きものに思へるなり。必(かならず)しも力(つと)むるとにはあらねど、夫の前には自(おのづか)ら気の張ありて、とにかくにさるべくは振舞へど恣(ほしいま)まなる身一箇(みひとつ)となれば、遽(にはか)に慵(ものう)く打労(うちつか)れて、心は整へん術(すべ)も知らず紊(みだ)れに乱るるが常なり。
 火鉢(ひばち)に倚(よ)りて宮は、我を喪(うしな)へる体(てい)なりしが、如何(いか)に思入(おもひい)り、思回(おもひまは)し思窮(おもひつ)むればとて、解くべきにあらぬ胸の内の、終(つひ)に明けぬ闇(やみ)に彷徨(さまよ)へる可悲(かな)しさは、在るにもあられず身を起して彼は障子の外なる縁に出(い)でたり。
 麗(うるはし)く冱(さ)えたる空は遠く三四(みつよつ)の凧(いか)の影を転じて、見遍(みわた)す庭の名残(なごり)無く冬枯(ふゆか)れたれば、浅露(あからさま)なる日の光の眩(まばゆ)きのみにて、啼狂(なきくる)ひし梢(こずゑ)の鵯(ひよ)の去りし後は、隔てる隣より戞々(かつかつ)と羽子(はね)突く音して、なかなかここにはその寒さを忍ぶ値(あたひ)あらぬを、彼はされども少時(しばし)居て、又空を眺(なが)め、又冬枯(ふゆがれ)を見遣(みや)り、同(おなじ)き日の光を仰ぎ、同き羽子の音を聞きて、抑(おさ)へんとはしたりけれども抑へ難さの竟(つひ)に苦く、再び居間に入(い)ると見れば、其処(そこ)にも留らで書斎の次なる寝間(ねま)に入(い)るより、身を抛(なげう)ちてベットに伏したり。
 厚き蓐(しとね)の積れる雪と真白き上に、乱畳(みだれたた)める幾重(いくへ)の衣(きぬ)の彩(いろどり)を争ひつつ、妖(あで)なる姿を意(こころ)も介(お)かず横(よこた)はれるを、窓の日の帷(カアテン)を透(とほ)して隠々(ほのぼの)照したる、実(げ)に匂(にほひ)も零(こぼ)るるやうにして彼は浪(なみ)に漂ひし人の今打揚(うちあ)げられたるも現(うつつ)ならず、ほとほと力竭(ちからつ)きて絶入(たえい)らんとするが如く、止(た)だ手枕(てまくら)に横顔を支へて、力無き眼(まなこ)を□(みは)れり。竟(つひ)には溜息(ためいき)□(つ)きてその目を閉づれば、片寝に倦(う)める面(おもて)を内向(うちむ)けて、裾(すそ)の寒さを佗(わび)しげに身動(みうごき)したりしが、猶(なほ)も底止無(そこひな)き思の淵(ふち)は彼を沈めて□(のが)さざるなり。
 隅棚(すみだな)の枕時計は突(はた)と秒刻(チクタク)を忘れぬ。益(ますま)す静に、益す明かなる閨(ねや)の内には、空(むな)しとも空(むなし)き時の移るともなく移るのみなりしが、忽(たちま)ち差入る鳥影の軒端(のきば)に近く、俯(ふ)したる宮が肩頭(かたさき)に打連(うちつらな)りて飜(ひらめ)きつ。
 やや有りて彼は嬾(しどな)くベットの上に起直りけるが、鬢(びん)の縺(ほつ)れし頭(かしら)を傾(かたぶ)けて、帷(カアテン)の隙(ひま)より僅(わづか)に眺めらるる庭の面(おも)に見るとしもなき目を遣りて、当所無(あてどな)く心の彷徨(さまよ)ふ蹤(あと)を追ふなりき。
 久からずして彼はここをも出でて又居間に還れば、直(ぢき)に箪笥(たんす)の中より友禅縮緬(ゆうぜんちりめん)の帯揚(おびあげ)を取出(とりいだ)し、心に籠(こ)めたりし一通の文(ふみ)とも見ゆるものを抜きて、こたびは主(あるじ)の書斎に持ち行きて机に向へり。その巻紙は貫一が遺(のこ)せし筆の跡などにはあらで、いつかは宮の彼に送らんとて、別れし後の思の丈(たけ)を窃(ひそか)に書聯(かきつら)ねたるものなりかし。
 往年(さいつとし)宮は田鶴見(たずみ)の邸内に彼を見しより、いとど忍びかねたる胸の内の訴へん方(かた)もあらぬ切なさに、唯心寛(ただこころゆかし)の仮初(かりそめ)に援(と)りける筆ながら、なかなか口には打出(うちいだ)し難き事を最好(いとよ)く書きて陳(つづ)けも為(せ)しを、あはれかのひとの許(もと)に送りて、思ひ知りたる今の悲しさを告げばやと、一図の意(こころ)をも定めしが、又案ずれば、その文は果して貫一の手に触れ、目にも入るべきか。よしさればとて、憎み怨(うら)める怒(いかり)の余に投返されて、人目に曝(さら)さるる事などあらば、徒(いたづら)に身を滅(ほろぼ)す疵(きず)を求めて終りなんをと、遣れば火に入る虫の危(あやふ)く、捨つるは惜くも、やがて好き首尾の有らんやうに拠無(よりどころな)き頼を繋(か)けつつ、彼は懊悩(おうのう)に堪へざる毎に取出でては写し易(か)ふる傍(かたは)ら、或(ある)は書添へ、或は改めなどして、この文に向へば自(おのづか)らその人に向ふが如く、その人に向ひてはほとほと言尽(いひつく)して心残(こころのこり)のあらざる如く、止(ただ)これに因(よ)りて欲するままの夢をも結ぶに似たる快きを覚ゆるなりき。かくして得送らぬ文は写せしも灰となり、反古(ほご)となりて、彼の帯揚に籠(こ)められては、いつまで草の可哀(あはれ)や用らるる果も知らず、宮が手習は実(げ)に久(ひさし)うなりぬ。
 些箇(かごと)に慰められて過せる身の荒尾に邂逅(めぐりあ)ひし嬉しさは、何に似たりと謂(い)はんも愚(おろか)にて、この人をこそ仲立ちて、積る思を遂(と)げんと頼みしを、仇(あだ)の如く与(くみ)せられざりし悲しさに、さらでも切なき宮が胸は掻乱(かきみだ)れて、今は漸(やうや)く危きを懼(おそ)れざる覚悟も出(い)で来て、いつまで草のいつまでかくてあらんや、文は送らんと、この日頃思ひ立ちてけり。
 紙の良きを択(えら)び、筆の良きを択び、墨の良きを択び、彼は意(こころ)してその字の良きを殊(こと)に択びて、今日の今ぞ始めて仮初(かりそめ)ならず写さんと為(す)なる。打顫(うちふる)ふ手に十行余(あまり)認(したた)めしを、つと裂きて火鉢に差□(さしく)べければ、焔(ほのほ)の急に炎々と騰(のぼ)るを、可踈(うとま)しと眺めたる折しも、紙門(ふすま)を啓(あ)けてその光に惧(おび)えし婢(をんな)は、覚えず主(あるじ)の気色(けしき)を異(あやし)みつつ、
「あの、御本家の奥様がお出(い)で遊ばしました」

     第四章

 主(あるじ)夫婦を併(あは)せて焼亡(しようぼう)せし鰐淵(わにぶち)が居宅は、さるほど貫一の手に頼(よ)りてその跡に改築せられぬ、有形(ありがた)よりは小体(こてい)に、質素を旨としたれど専(もつぱ)ら旧(さき)の構造を摸(うつ)して差(たが)はざらんと勉(つと)めしに似たり。
 間貫一と陶札を掲げて、彼はこの新宅の主(あるじ)になれるなり。家督たるべき直道は如何(いか)にせし。彼は始よりこの不義の遺産に手をも触れざらんと誓ひ、かつこれを貫一に与へて、その物は正業の資たれ。その人は改善の人たれと冀(こひねがひ)しを、貫一は今この家の主(ぬし)となれるに、なほ先代の志を飜(ひるがへ)さずして、益(ますま)す盛(さかん)に例の貪(むさぼり)を営むなりき。然(しか)れば彼と貫一との今日(こんにち)の関繋(かんけい)は如何(いか)なるものならん。絶えてこれを知る者あらず。凡(およ)そ人生箇々(ここ)の裏面には必ず如此(かくのごと)き内情若(もし)くは秘密とも謂ふべき者ありながら、幸(さいはひ)に他の穿鑿(せんさく)を免れて、瞹眛(あいまい)の裏(うち)に葬られ畢(をは)んぬる例(ためし)尠(すくな)からず。二代の鰐淵なる間の家のこの一件もまた貫一と彼との外に洩(も)れざるを得たり。
 かくして今は鰐淵の手代ならぬ三番町の間は、その向に有数の名を成して、外には善く貸し、善く歛(をさ)むれども、内には事足る老婢(ろうひ)を役(つか)ひて、僅(わづか)に自炊ならざる男世帯(をとこせたい)を張りて、なほも奢(おご)らず、楽まず、心は昔日(きのふ)の手代にして、趣は失意の書生の如く依然たる変物(へんぶつ)の名を失はでゐたり。
 出(い)でてはさすがに労(つか)れて日暮に帰り来にける貫一は、彼の常として、吾家(わがいへ)ながら人気無き居間の内を、旅の木蔭にも休(やすら)へる想しつつ、稍(やや)興冷めて坐りも遣(や)らず、物の悲き夕(ゆふべ)を特(こと)に独(ひとり)の感じゐれば、老婢はラムプを持ち来(きた)りて、
「今日(こんにち)三時頃でございました、お客様が見えまして、明日(みようにち)又今頃来るから、是非内に居てくれるやうにと有仰(おつしや)つて、お名前を伺つても、学校の友達だと言へば可い、とさう有仰(おつしや)つてお帰りになりました」
「学校の友達?」
 臆測(おしあて)にも知る能(あた)はざるはこの藪(やぶ)から棒の主(ぬし)なり。
「どんな風の人かね」
「さやうでございますよ、年紀(としごろ)四十ばかりの蒙茸(むしやくしや)と髭髯(ひげ)の生(は)えた、身材(せい)の高い、剛(こは)い顔の、全(まる)で壮士みたやうな風体(ふうてい)をしてお在(いで)でした」
「…………」
 些(さ)の憶起(おもひおこ)す節(ふし)もありや、と貫一は打案じつつも半(なかば)は怪むに過ぎざりき。
「さうして、まあ大相横柄な方なのでございます」
「明日(あした)三時頃に又来ると?」
「さやうでございますよ」
「誰(たれ)か知らんな」
「何だか誠に風の悪さうな人体(にんてい)で御座いましたが、明日(みようんち)参りましたら通しませうで御座いますか」
「ぢや用向は言つては行かんのだね」
「さやうでございますよ」
「宜(よろし)い、会つて見やう」
「さやうでございますか」
 起ち行かんとせし老婢は又居直りて、
「それから何でございました、間もなく赤樫(あかがし)さんがいらつしやいまして」
 貫一は懌(よろこ)ばざる色を作(な)してこれに応(こた)へたり。
「神戸の蒲鉾(かまぼこ)を三枚、見事なのでございます。それに藤村(ふじむら)の蒸羊羹(むしようかん)を下さいまして、私(わたくし)まで毎度又頂戴物(ちようだいもの)を致しましたので御座います」
 彼は益す不快を禁じ得ざる面色(おももち)して、応答(うけこたへ)も為(せ)で聴きゐたり。
「さうして明日(みようんち)、五時頃些(ちよい)とお目に掛りたいから、さう申上げて置いてくれと有仰(おつしや)つてで御座いました」
 可(よ)しとも彼は口には出(いだ)さで、寧(むし)ろ止(や)めよとやうに忙(せはし)く頷(うなづ)けり。

     (四)の二

 学校友達と名宣(なの)りし客はその言(ことば)の如く重ねて訪(と)ひ来(き)ぬ。不思議の対面に駭(おどろ)き惑へる貫一は、迅雷(じんらい)の耳を掩(おほ)ふに遑(いとま)あらざらんやうに劇(はげし)く吾を失ひて、頓(とみ)にはその惘然(ぼうぜん)たるより覚むるを得ざるなりき。荒尾譲介は席の温(あたたま)る間(ひま)の手弄(てまさぐり)に放ちも遣(や)らぬ下髯(したひげ)の、長く忘れたりし友の今を如何(いか)にと観(み)るに忙(いそがし)かり。
「殆(ほとん)ど一昔と謂うても可(よ)い程になるのぢやから話は沢山ある、けれどもこれより先に聞きたいのは、君は今日(こんにち)でも僕をじや、この荒尾を親友と思うてをるか、どうかと謂ふのじや」
 答ふべき人の胸はなほ自在に語るべくもあらず乱れたるなり。
「考へるまではなからう。親友と思うてをるなら、をる、さうなけりや、ないと言ふまでで是(イエス)か否(ノウ)かの一つじや」
「そりや昔は親友であつた」
 彼は覚束無(おぼつかな)げに言出(いひいだ)せり。
「さう」
「今はさうぢやあるまい」
「何為(なぜ)にな」
「その後五六年も全く逢はずにゐたのだから、今では親友と謂ふことは出来まい」
「なに五六年前(ぜん)も一向親友ではありやせんぢやつたではないか」
 貫一は目を側(そば)めて彼を訝(いぶか)りつ。
「さうぢやらう、学士になるか、高利貸になるかと云ふ一身の浮沈の場合に、何等の相談も為(せ)んのみか、それなり失踪(しつそう)して了うたのは何処(どこ)が親友なのか」
 その常に慙(は)ぢかつ悔(くゆ)る一事を責められては、癒(い)えざる痍(きず)をも割(さか)るる心地して、彼は苦しげに容(かたち)を歛(をさ)め、声をも出(いだ)さでゐたり。
「君の情人(いろ)は君に負(そむ)いたぢやらうが、君の友(フレンド)は決(け)して君に負かん筈(はず)ぢや。その友(フレンド)を何為(なぜ)に君は棄てたか。その通り棄てられた僕ぢやけれど、かうして又訪ねて来たのは、未(ま)だ君を実は棄てんのじやと思ひ給へ」
 学生たりし荒尾! 参事官たりし荒尾□ 尾羽(をは)打枯(うちから)せる今の荒尾の姿は変りたれど、猶(なほ)一片の変らぬ物ありと知れる貫一は、夢とも消えて、去りし、去りし昔の跡無き跡を悲しと偲(しの)ぶなりけり。
「然し、僕が棄てても棄てんでも、そんな事に君は痛痒(つうよう)を感ずるぢやなからうけれど、僕は僕で、友(フレンド)の徳義としてとにかく一旦は棄てんで訪ねて来た。で、断然棄つるも、又棄てんのも、唯今日(こんにち)にある意(つもり)じや。
 今では荒尾を親友とは謂へん、と君の言うたところを以つて見ると、又今更親友であることを君は望んではをらんやうじや。さうであるならば僕の方でも敢(あへ)て望まん、立派に名宣(なの)つて僕も間貫一を棄つる!」
 貫一は頭(かしら)を低(た)れて敢て言はず。
「然し、今日(こんにち)まで親友と思うてをつた君を棄つるからには、これが一生の別(わかれ)になるのぢやから、その餞行(はなむけ)として一言(いちごん)云はんけりやならん。
 間、君は何の為に貨(かね)を殖(こしら)ゆるのぢや。かの大いなる楽(たのしみ)とする者を奪れた為に、それに易(か)へる者として金銭(マネエ)といふ考を起したのか。それも可からう、可いとして措(お)く。けれどもじや、それを獲(え)る為に不義不正の事を働く必要が有るか。君も現在他(ひと)から苦められてゐる躯(からだ)ではないのか。さうなれば己(おのれ)が又他(ひと)を苦むるのは尤(もつと)も用捨すべき事ぢやらうと思ふ。それが他(ひと)を苦むると謂うても、難儀に附入(つけい)つて、さうしてその血を搾(しぼ)るのが君の営業、殆ど強奪に等い手段を以つて金を殖(こしら)えつつ、君はそれで今日(こんにち)慰められてをるのか。如何(いか)に金銭(マネエ)が総(すべ)ての力であるか知らんけれど、人たる者は悪事を行つてをつて、一刻でも安楽に居らるるものではないのじや。それとも、君は怡然(いぜん)として楽んでをるか。長閑(のどか)な日に花の盛(さかり)を眺むるやうな気持で催促に行つたり、差押(さしおさへ)を為たりしてをるか。どうかい、間」
 彼は愈(いよい)よ口を閉ぢたり。
「恐くじや。さう云ふ気持の事は、この幾年間に一日でも有りはせんのぢやらう。君の顔色(がんしよく)を見い! 全(まる)で罪人じやぞ。獄中に居る者の面(つら)じや」
 別人と見るまでに彼の浅ましく瘁(やつ)れたる面(おもて)を矚(まも)りて、譲介は涙の落つるを覚えず。
「間、何で僕が泣くか、君は知つてをるか。今の間ぢや知らんぢやらう。幾多(いくら)貨(かね)を殖(こしら)へたところで、君はその分では到底慰めらるる事はありはせん。病が有るからと謂うて毒を飲んで、その病が痊(なほ)るぢやらうか。君はあたかも薬を飲む事を知らんやうなものじやぞ。僕の友(フレンド)であつた間はそんな痴漢(たはけ)ぢやなかつた、して見りや発狂したのじや。発狂してからに馬鹿な事を為居(しを)る奴は尤(とが)むるに足らんけれど、一婦人(いつぷじん)の為に発狂したその根性を、彼の友(フレンド)として僕が慙(は)ぢざるを得んのじや。間、君は盗人(ぬすと)と言れたぞ。罪人と言(いは)れたぞ、狂人と言れたぞ。少しは腹を立てい! 腹を立てて僕を打つとも蹴(け)るとも為て見い!」
 彼は自ら言(いは)ひ、自ら憤り、尚(なほ)自ら打ちも蹴(けり)も為(せ)んずる色を作(な)して速々(そくそく)答を貫一に逼(せま)れり。
「腹は立たん!」
「腹は立たん? それぢや君は自身に盗人(ぬすと)とも、罪人とも……」
「狂人とも思つてゐる。一婦人の為に発狂したのは、君に対して実に面目(めんぼく)無いけれど、既に発狂して了(しま)つたのだから、どうも今更為やうが無い。折角ぢやあるけれど、このまま棄置いてくれ給へ」
 貫一は纔(わづか)にかく言ひて已(や)みぬ。
「さうか。それぢや君は不正な金銭(マネエ)で慰められてをるのか」
「未だ慰められてはをらん」
「何日(いつ)慰めらるるのか」
「解らん」
「さうして君は妻君を娶(もら)うたか」
「娶はん」
「何故(なぜ)娶はんのか、かうして家を構へてをるのに独身ぢや不都合ぢやらうに」
「さうでもないさ」
「君は今では彼の事をどう思うてをるな」
「彼とは宮の事かね。あれは畜生さ!」
「然し、君も今日(こんにち)では畜生ぢやが、高利貸などは人の心は有つちやをらん、人の心が無けりや畜生じや」
「さう云ふけれど、世間は大方畜生ぢやないか」
「僕も畜生かな」
「…………」
「間、君は彼が畜生であるのに激してやはり畜生になつたのぢやな。若(も)し彼が畜生であつたのを改心して人間に成つたと為たら、同時に君も畜生を罷(や)めにやならんじやな」
「彼が人間に成る? 能はざる事だ! 僕は高利を貪(むさぼ)る畜生だけれど、人を欺く事は為んのだ。詐(いつは)つて人の誠を受けて、さうしてそれを売るやうな残忍な事は決して為んのだ。始から高利と名宣(なの)つて貸すのだから、否な者は借りんが可いので、借りん者を欺いて貸すのぢやない。宮の如き畜生が何で再び人間に成り得(う)るものか」
「何為(なぜ)成り得(え)んのか」
「何為(なぜ)成り得(え)るのか」
「さうなら君は彼の人間に成り得んのを望むのか」
「望むも望まんも、あんな者に用は無い!」
 寧(むし)ろその面(めん)に唾(つば)せんとも思へる貫一の気色(けしき)なり。
「そりや彼には用は無いぢやらうけれど、君の為に言ふべきことぢやと思ふから話すのぢやが、彼は今では大いに悔悟してをるぞ。君に対して罪を悔いてをるぞ!」
 貫一は吾を忘れて嗤笑(あざわら)ひぬ。彼はその如何(いか)に賤(いやし)むべきか、謂はんやうもあらぬを念(おも)ひて、更に嗤笑(あざわら)ひ猶嗤笑ひ、遏(や)めんとして又嗤笑ひぬ。
「彼もさうして悔悟してをるのぢやから、君も悔悟するが可からう、悔悟する時ぢやらうと思ふ」
「彼の悔悟は彼の悔悟で、僕の与(あづか)る事は無い。畜生も少しは思知つたと見える、それも可からう」
「先頃計らず彼に逢うたのじや、すると、僕に向うて涙を流して、そりや真実悔悟してをるのじや。さうして僕に詑(わび)を為てくれ、それが成らずば、君に一遍逢せてくれ、と縋(すが)つて頼むのじやな、けれど僕も思ふところが有るから拒絶はした。又君に対しても、彼がその様に悔悟してゐるから容(ゆる)して遣れと勧めは為(せ)ん、それは別問題じや。但(ただ)僕として君に言ふところは、彼は悔悟して独(ひと)り苦んでをる。即(すなは)ち彼は自ら罰せられてをるのぢやから、君は君として怨(うらみ)を釈(と)いて可からうと思ふ。君がその怨を釈いたなら、昔の間に復(かへ)るべきぢやらうと考へるのじや。
 君は今のところ慰められてをらん、それで又、何日(いつ)慰めらるるとも解らんと言うたな、然しじや、彼が悔悟してからにその様に思うてをると聞いたら、君はそれを以つて大いに慰められはせんかな。君がこの幾年間に得た金銭(マネエ)、それは幾多(いくら)か知らんけれど、その寡(すくな)からん金銭(マネエ)よりは、彼が終(つひ)に悔悟したと聞いた一言(いちごん)の方が、遙(はるか)に大いなる力を以つて君の心を慰むるであらうと思ふのじやが、どうか」
「それは僕が慰められるよりは、宮が苦まなければならん為の悔悟だらう。宮が前非を悟つた為に、僕が失つた者を再び得られる訳ぢやない、さうして見れば、僕の今日(こんにち)はそれに因(よ)つて少(すこし)も慰められるところは無いのだ。憎いことは彼は飽くまで憎い、が、その憎さに僕が慰められずにゐるのではないからして、宮その者の一身に向つて、僕は棄てられた怨を報いやうなどとは決して思つてをらん、畜生に讐(あだ)を復(かへ)す価は無いさ。
 今日(こんにち)になつて彼が悔悟した、それでも好く悔悟したと謂ひたいけれど、これは固(もと)よりさう有るべき事なのだ。始にあんな不心得を為なかつたら、悔悟する事は無かつたらうに――不心得であつた、非常な不心得であつた!」
 彼は黯然(あんぜん)として空(むなし)く懐(おも)へるなり。
「僕は彼の事は言はんのじや。又彼が悔悟した為に君の失うた者が再び得らるる訳でないから、それぢや慰められんと謂ふのなら、それで可(よ)いのじや。要するに、君はその失うた者が取返されたら可いのぢやらう、さうしてその目的を以つて君は貨(かね)を殖(こしら)へてをるのぢやらう、なあ、さうすりやその貨さへ得られたら、好んで不正な営業を為る必要は有るまいが。君が失うた者が有る事は知つてをる。それが為に常に楽まんのも、同情を表してゐる、そこで金銭(マネエ)の力に頼(よ)つて慰められやうとしてゐる、に就いては異議も有るけれど、それは君の考に委(まか)する。貨(かね)を殖(こしら)ゆるも可い、可いとする以上は大いに富むべしじや。けれど、富むと云ふのは貪(むさぼ)つて聚(あつ)むるのではない、又貪つて聚めんけりや貨は得られんのではない、不正な手段を用(もちゐ)んでも、富む道は幾多(いくら)も有るぢやらう。君に言ふのも、な、その目的を変へよではない、止(た)だ手段を改めよじや。路(みち)は違へても同じ高嶺(たかね)の月を見るのじやが」
「辱(かたじけ)ないけれど、僕の迷は未だ覚めんのだから、間は発狂してゐる者と想つて、一切(いつせつ)かまひ付けずに措いてくれ給へ」
「さうか。どうあつても僕の言(ことば)は用(もちゐ)られんのじやな」
「容(ゆる)してくれ給へ」
「何を容すのじや! 貴様は俺を棄てたのではないか、俺も貴様を棄てたのじやぞ、容すも容さんも有るものか」
「今日限(こんにちかぎり)互に棄てて別れるに就いては、僕も一箇(ひとつ)聞きたい事が有る。それは君の今の身の上だが、どうしたのかね」
「見たら解るぢやらう」
「見たばかりで解るものか」
「貧乏してをるのよ」
「それは解つてゐるぢやないか」
「それだけじや」
「それだけの事が有るものか。何で官途を罷(や)めて、さうしてそんなに貧乏してゐるのか、様子が有りさうぢやないか」
「話したところで狂人(きちがひ)には解らんのよ」
 荒尾は空嘯(そらうそぶ)きて起たんと為(す)なり。
「解つても解らんでも可いから、まあ話すだけは話してくれ給へ」
「それを聞いてどう為る。ああ貴様は何か、金でも貸さうと云ふのか。No(ノオ) thank(サンク)じや、赤貧洗ふが如く窮してをつても、心は怡然(いぜん)として楽んでをるのじや」
「それだから猶(なほ)、どう為てさう窮して、それを又楽んでゐるのか、それには何か事情が有るのだらう、から、それを聞せてくれ給へと言ふのだ」
 荒尾は故(ことさ)らに哈々(こうこう)として笑へり。
「貴様如き無血虫(むけつちゆう)がそんな事を聞いたとて何が解るもので。人間らしい事を言ふな」
「さうまで辱(はづかし)められても辞(ことば)を返すことの出来ん程、僕の躯(からだ)は腐つて了つたのだ」
「固よりじや」
「かう腐つて了つた僕の躯(からだ)は今更為方が無い。けれども、君は立派に学位も取つて、参事官の椅子にも居た人、国家の為に有用の器(うつは)であることは、決して僕の疑はんところだ。で、僕は常に君の出世を予想し、又陰(ひそか)にそれを祷(いの)つてをつたのだ。君は僕を畜生と言ひ、狂人と言ひ、賊と言ふけれど、君を懐(おも)ふ念の僕の胸中を去つた事はありはせんよ。今日(こんにち)まで君の外には一人(いちにん)の友(フレンド)も無いのだ。一昨年(をととし)であつた、君が静岡へ赴任すると聞いた時は、嬉くもあり、可懐(なつかし)くもあり、又考へて見れば、自分の身が悲くもなつて、僕は一日飯も食はんでゐた。それに就けても、久し振で君に逢つて慶賀(よろこび)も言ひたいと念(おも)つたけれど、どうも逢れん僕の躯(からだ)だから、切(せめ)て陰ながらでも君の出世の姿が見たいと、新橋の停車場(ステエション)へ行つて、君の立派に成つたのを見た時は、何もかも忘れて僕は唯嬉くて涙が出た」
 さてはと荒尾も心陰(こころひそか)に頷(うなづ)きぬ。
「君の出世を見て、それほど嬉かつた僕が、今日(こんにち)君のそんなに零落してゐるのを見る心持はどんなであるか、察し給へ。自分の身を顧ずにかう云ふ事を君に向つて言ふべきではないけれど、僕はもう己(おのれ)を棄ててゐるのだ。一婦女子(いつぷじよし)の詐如(いつはりごと)きに憤つて、それが為に一身を過つたと知りながら、自身の覚悟を以て匡正(きようせい)することの出来んと謂ふのは、全く天性愚劣の致すところと、自ら恨むよりは無いので、僕は生きながら腐れて、これで果てるのだ。君の親友であつた間貫一は既に亡き者に成つたのだ、とさう想つてくれ給へ。であるから、これは間が言ふのではない。君の親友の或者が君の身を愛(をし)んで忠告するのだとして聴いてくれ給へ。どう云ふ事情か、君が話してくれんから知れんけれど、君の躯は十分自重して、社会に立つて壮(さかん)なる働(はたらき)を作(な)して欲いのだ。君はさうして窮迫してゐるやうだけれど、決して世間から棄てられるやうな君でない事を僕は信ずるのだから、一箇人(いつこじん)として己の為に身を愛(をし)みたまへと謂ふのではなく、国家の為に自重し給へと願ふのだ。君の親友の或者は君がその才を用る為に社会に出やうと為るならば、及ぶ限の助力を為る精神であるのだ」
 貫一の面(おもて)は病などの忽(たちま)ち癒(い)えけんやうに輝きつつ、如此(かくのごと)く潔くも麗(うるはし)き辞(ことば)を語れるなり。
「うう、それぢや君は何か、僕のかうして落魄(らくはく)してをるのを見て気毒(きのどく)と思ふのか」
「君が謂ふほどの畜生でもない!」
「其処(そこ)じや、間。世間に貴様のやうな高利貸が在る為に、あつぱれ用(もちゐ)らるべき人才の多くがじや、名を傷(きずつ)け、身を誤られて、社会の外(ほか)に放逐されて空(むなし)く朽つるのじやぞ。国家の為に自重せい、と僕の如き者にでもさう言うてくるるのは忝(かたじけ)ないが、同じ筆法を以つて、君も社会の公益の為にその不正の業を罷(や)めてくれい、と僕は又頼むのじや。今日(こんにち)の人才を滅(ほろぼ)す者は、曰(いは)く色、曰く高利貸ぢやらう。この通り零落(おちぶ)れてをる僕が気毒と思ふなら、君の為に艱(なやま)されてをる人才の多くを一層不敏(ふびん)と思うて遣れ。
 君が愛(ラヴ)に失敗して苦むのもじや、或人が金銭(マネエ)の為に苦むのも、苦むと云ふ点に於ては差異(かはり)は無いぞ。で、僕もかうして窮迫してをる際ぢやから、憂を分つ親友の一人は誠欲いのじや、昔の間貫一のやうな友(フレンド)が有つたらばと思はん事は無い。その友(フレンド)が僕の身を念(おも)うてくれて、社会へ打つて出て壮(さかん)に働け、一臂(いつぴ)の力を仮さうと言うのであつたら、僕は如何(いか)に嬉からう! 世間に最も喜ぶべき者は友(フレンド)、最も悪(にく)むべき者は高利貸ぢや。如何(いか)に高利貸の悪むべきかを知つてをるだけ、僕は益(ますま)す友(フレンド)を懐(おも)ふのじや。その昔の友(フレンド)が今日(こんにち)の高利貸――その悪むべき高利貸! 吾又何をか言はんじや」
 彼は口を閉ぢて、貫一を疾視せり。
「段々の君の忠告、僕は難有(ありがた)い。猶自分にも篤と考へて、この腐れた躯(からだ)が元の通潔白な者に成り得られるなら、それに越した幸は無いのだ。君もまた自愛してくれ給へ。僕は君には棄てられても、君の大いに用られるのを見たいのだ。又必ず大いに用られなければならんその人が、さうして不遇で居るのは、残念であるよりは僕は悲い。そんなに念(おも)つてもゐるのだから一遍君の処を訪ねさしてくれ給へ。何処(どこ)に今居るかね」
「まあ、高利貸などは来て貰(もら)はん方が可い」
「その日は友(フレンド)として訪ねるのだ」
「高利貸に友(フレンド)は持たんものな」
 雍(しとや)かに紙門(ふすま)を押啓(おしひら)きて出来(いできた)れるを、誰(たれ)かと見れば満枝なり。彼如何(いか)なれば不躾(ぶしつけ)にもこの席には顕(あらは)れけん、と打駭(うちおどろ)ける主(あるじ)よりも、荒尾が心の中こそ更に匹(たぐ)ふべくもあらざるなりけれ。いでや、彼は窘(くるし)みてその長き髯(ひげ)をば痛(したたか)に拈(ひね)りつ。されど狼狽(うろた)へたりと見られんは口惜(くちを)しとやうに、遽(にはか)にその手を胸高(むなたか)に拱(こまぬ)きて、動かざること山の如しと打控(うちひか)へたる様(さま)も、自(おのづか)らわざとらしくて、また見好(みよ)げにはあらざりき。
 満枝は先(ま)づ主(あるじ)に挨拶(あいさつ)して、さて荒尾に向ひては一際(ひときは)礼を重く、しかも躬(みづから)は手の動き、目の視(み)るまで、専(もつぱ)ら貴婦人の如く振舞ひつつ、笑(ゑ)むともあらず面(おもて)を和(やはら)げて姑(しばら)く辞(ことば)を出(いだ)さず。荒尾はこの際なかなか黙するに堪(た)へずして、
「これは不思議な所で! 成程間とは御懇意かな」
「君はどうして此方(こちら)を識(し)つてゐるのだ」
 左瞻右視(とみかうみ)して貫一は呆(あき)るるのみなり。
「そりや少し識つてをる。然し、長居はお邪魔ぢやらう、大きに失敬した」
「荒尾さん」
 満枝は□(のが)さじと呼留めて、
「かう云ふ処で申上げますのも如何(いかが)で御座いますけれど」
「ああ、そりや此(ここ)で聞くべき事ぢやない」
「けれど毎(いつ)も御不在ばかりで、お話が付きかねると申して弱り切つてをりますで御座いますから」
「いや、会うたところでからに話の付けやうもないのじや。遁(に)げも隠れも為んから、まあ、時節を待つて貰はうさ」
「それはどんなにもお待ち申上げますけれど、貴方の御都合の宜(よろし)いやうにばかり致してはをられませんで御座います。そこはお察しあそばしませな」
「うう、随分酷(ひど)い事を察しさせられるのじやね」
「近日に是非私(わたくし)お願ひ申しに伺ひますで御座いますから、どうぞ宜く」
「そりや一向宜くないかも知れん」
「ああ、さう、この前でございましたか、あの者が伺ひました節、何か御無礼な事を申上げましたとかで、大相な御立腹で、お刀をお抜き遊ばして、斬(き)つて了(しま)ふとか云ふ事が御座いましたさうで」
「有つた」
「あれ、本当にさやうな事を遊ばしましたので?」
 満枝は彼に耻(は)ぢよとばかり嗤笑(あざわら)ひぬ。さ知つたる荒尾は飽くまで真顔を作りて、
「本当とも! 実際那奴(あやつ)□却(たたきき)つて了はうと思うた」
「然しお考へ遊ばしたで御座いませう」
「まあその辺ぢや。あれでも犬猫ぢやなし、斬捨てにもなるまい」
「まあ、怖(こは)い事ぢや御座いませんか。私(わたくし)なぞは滅多に伺ふ訳には参りませんで御座いますね」
 そは誰(た)が事を言ふならんとやうに、荒尾は頂(うなじ)を反(そら)して噪(ののめ)き笑ひぬ。
「僕が美人を斬るか、その目で僕が殺さるるか。どれ帰つて、刀でも拭(ふ)いて置かう」
「荒尾君、夕飯(ゆふめし)の支度が出来たさうだから、食べて行つてくれ給へ」
「それは折角ぢやが、盗泉の水は飲まんて」
「まあ貴方、私お給仕を勤めます。さあ、まあお下にゐらしつて」
 満枝は荒尾の立てる脚下(あしもと)に褥(しとね)を推付(おしつ)けて、実(げ)に還さじと主(あるじ)にも劣らず最惜(いとをし)む様なり。
「全で御夫婦のやうじやね。これは好一対じや」
「そのお意(つもり)で、どうぞお席にゐらしつて」
 固(もと)より留(とどま)らざるべき荒尾は終(つひ)に行かんとしつつ、
「間、貴様は……」
「…………」
「…………」
 彼は唇(くちびる)の寒かるべきを思ひて、空(むなし)く鬱抑(うつよく)して帰り去れり。その言はざりし語(ことば)は直(ただち)に貫一が胸に響きて、彼は人の去(い)にける迹(あと)も、なほ聴くに苦(くるし)き面(おもて)を得挙(えあ)げざりけり。

     (四)の三

 程も有らずラムプは点(とも)されて、止(た)だ在りけるままに竦(すく)みゐたる彼の傍(かたはら)に置るるとともに、その光に照さるる満枝の姿は、更に粧(よそほひ)をも加へけんやうに怪(け)しからず妖艶(あでやか)に、宛然(さながら)色香(いろか)を擅(ほしいまま)にせる牡丹(ぼたん)の枝を咲撓(さきたわ)めたる風情(ふぜい)にて、彼は親しげに座を進めつ。
「間(はざま)さん、貴方(あなた)どうあそばして、非常にお鬱(ふさ)ぎ遊ばしてゐらつしやるぢや御座いませんか」
 貫一は怠(たゆ)くも纔(わづか)に目を移して、
「一体貴方はどうして荒尾を御存じなのですか」
「私よりは、貴方があの方の御朋友(ごほうゆう)でゐらつしやるとは、実に私意外で御座いますわ」
「貴方はどうして御存じなのです」
「まあ債務者のやうな者なので御座います」
「債務者? 荒尾が? 貴方の?」
「私が直接に関係した訳ぢや御座いませんのですけれど」
「はあ、さうして額(たか)は若干(どれほど)なのですか」
「三千円ばかりでございますの」
「三千円? それでその直接の貸主(かしぬし)と謂(い)ふのは何処(どこ)の誰ですか」
 満枝は彼の遽(にはか)に捩向(ねぢむ)きて膝(ひざ)の前(すす)むをさへ覚えざらんとするを見て、歪(ゆが)むる口角(くちもと)に笑(ゑみ)を忍びつ、
「貴方は実に現金でゐらつしやるのね。御自分のお聴になりたい事は熱心にお成りで、平生(へいぜい)私がお話でも致すと、全(まる)で取合つても下さいませんのですもの」
「まあ可いです」
「些(ちよつ)とも可い事はございません」
「うう、さうすると直接の貸主と謂ふのが有るのですね」
「存じません」
「お話し下さいな、様子に由つてはその金は私から弁償しやうとも思ふのですから」
「私貴方からは戴きません」
「上げるのではない、弁償するのです」
「いいえ、貴方とは御相談になりません。又貴方が是非弁償なさると云ふ事ならば、私あの債権を棄てて了ひます」
「それは何為(なぜ)ですか」
「何為でも宜(よろし)う御座いますわ。ですから、貴方が弁償なさらうと思召(おぼしめ)すなら、私に債権を棄てて了へと有仰(おつしや)つて下さいまし、さう致せば私喜んで棄てます」
「どう云ふ訳ですか」
「どう云ふ訳で御座いますか」
「甚(はなは)だ解らんぢやありませんか」
「勿論(もちろん)解らんので御座いますとも。私自分で自分が解らんくらゐで御座いますもの。然し貴方も間さん、随分お解りに成りませんのね」
「いいや、僕は解つてゐます」
「ええ、解つてゐらつしやりながら些(ちよつ)ともお解りにならないのですから、私も益(ますま)す解らなくなりますですから、さう思つてゐらつしやいまし」
 満枝は金煙管(きんぎせる)に手炉(てあぶり)の縁(ふち)を丁(ちよう)と拍(う)ちて、男の顔に流眄(ながしめ)の怨(うらみ)を注ぐなり。
「まあさう云ふ事を言はずに、ともかくもお話をなすつて下さい」
「御勝手ねえ、貴方は」
「さあ、お話し下さいな」
「唯今お話致しますよ」
 満枝は遽(にはか)に煙管(きせる)を索(もと)めて、さて傍(かたはら)に人無き若(ごと)く緩(ゆるやか)に煙(けふり)を吹きぬ。
「貴方の債務者であらうとは実に意外だ」
「…………」
「どうも事実として信ずる事は出来んくらゐだ」
「…………」
「三千円! 荒尾が三千円の負債を何で為たのか、殆(ほとん)ど有得べき事でないのだけれど、……」
「…………」
 唯(と)見れば、満枝はなほも煙管を放たざるなり。
「さあ、お話し下さいな」
「こんなに遅々(ぐづぐづ)してをりましたら、さぞ貴方憤(じれ)つたくてゐらつしやいませう」
「憤つたいのは知れてゐるぢやありませんか」
「憤つたいと云ふものは、決(け)して好い心持ぢやございませんのね」
「貴方は何を言つてお在(いで)なのです!」
「はいはい恐入りました。それぢや早速お話を致しませう」
「どうぞ」
「蓋(たし)か御承知でゐらつしやいましたらう。前(ぜん)に宅に居りました向坂(さぎさか)と申すの、あれが静岡へ参つて、今では些(ちよつ)と盛(さかん)に遣つてをるので御座います。それで、あの方は静岡の参事官でお在(いで)なのでした。さやうで御座いましたらう。その頃向坂の手から何したので御座います。究竟(つまり)あの方もその件から論旨免官のやうな事にお成なすつて、又東京へお還りにならなければ為方が無いので、彼方(あちら)を引払ふのに就いて、向坂から話が御座いまして、宅の方へ始は委任して参つたので御座いましたけれど、丁度去年の秋頃から全然(すつかり)此方(こちら)へ引継いで了ふやうな都合に致しましたの。
 然し、それは取立に骨が折れるので御座いましてね、ああして止(とん)と遊んでお在(いで)も同様で、飜訳(ほんやく)か何か少(すこし)ばかり為さる御様子なのですから、今のところではどうにも手の着けやうが無いので御座いますわ」
「はあ成程。然し、あれが何で三千円と云ふ金を借りたかしらん」
「それはあの方は連帯者なので御座います」
「はあ! さうして借主は何者ですか」
「大館朔郎(おおだちさくろう)と云ふ岐阜の民主党員で、選挙に失敗したものですから、その運動費の後肚(あとばら)だとか云ふ話でございました」
「うむ、如何(いか)にも! 大館朔郎……それぢや事実でせう」
「御承知でゐらつしやいますか」
「それは荒尾に学資を給した人で、あれが始終恩人と言つてをつたその人だ」
 はやその言(ことば)の中(うち)に彼の心は急に傷(いた)みぬ。己(おのれ)の敬愛せる荒尾譲介の窮して戚々(せきせき)たらず、天命を楽むと言ひしは、真に義の為に功名を擲(なげう)ち、恩の為に富貴を顧ざりし故(ゆゑ)にあらずや。彼の貧きは万々人の富めるに優(まさ)れり。君子なる吾友(わがとも)よ。さしも潔き志を抱(いだ)ける者にして、その酬らるる薄倖(はつこう)の彼の如く甚(はなはだし)く酷なるを念ひて、貫一は漫(そぞ)ろ涙の沸く目を閉ぢたり。

     第五章

 遽(にはか)に千葉に行く事有りて、貫一は午後五時の本所(ほんじよ)発を期して車を飛せしに、咄嗟(あなや)、一歩の時を遅れて、二時間後(のち)の次回を待つべき倒懸(とうけん)の難に遭(あ)へるなり。彼は悄々(すごすご)停車場前の休憇処に入(い)りて奥の一間なる縞毛布(しまケット)の上に温茶(ぬるちや)を啜(すす)りたりしが、門(かど)を出づる折受取りし三通の郵書の鞄(かばん)に打込みしままなるを、この時取出(とりいだ)せば、中に一通の M., Shigis――と裏書せるが在り。
「ええ、又寄来(よこ)した!」
 彼はこれのみ開封せずして、やがて他の読□(よみがら)と一つに投入れし鞄を□(はた)と閉づるや、枕に引寄せて仰臥(あふぎふ)すと見れば、はや目を塞(ふさ)ぎて睡(ねむり)を促さんと為るなりき。されども、彼は能(よ)く睡(ねぶ)るを得べきか。さすがにその人の筆の蹟(あと)を見ては、今更に憎しとも恋しとも、絶えて念(おもひ)には懸けざるべしと誓へる彼の心も、睡らるるまでに安かる能はざるなり。
 いで、この文こそは宮が送りし再度の愬(うつたへ)にて、その始て貫一を驚かせし一札(いつさつ)は、約(およ)そ二週間前に彼の手に入りて、一字も漏れずその目に触れしかど、彼は曩(さき)に荒尾に答へしと同様の意を以(も)てその自筆の悔悟を読みぬ。こたびとてもまた同き繰言(くりごと)なるべきを、何の未練有りて、徒(いたづら)に目を汚(けが)し、懐(おもひ)を傷(きずつ)けんやと、気強くも右より左に掻遣(かきや)りけるなり。
 宮は如何(いか)に悲しからん! この両度の消息は、その苦き胸を剖(さ)き、その切なる誠を吐きて、世をも身をも忘れし自白なるを。事若し誤らば、この手証は生ながら葬らるべき罪を獲(う)るに余有るものならずや。さしも覚悟の文ながら、彼はその一通の力を以て直(ただち)に貫一の心を解かんとは思設けざりき。
 故(ゆゑ)に幾日の後に待ちて又かく聞えしを、この文にもなほ験(しるし)あらずば、彼は弥増(いやま)す悲(かなしみ)の中に定めて三度(みたび)の筆を援(と)るなるべし。知らずや、貫一は再度の封をだに切らざりしを――三度(みたび)、五度(いつたび)、七度(ななたび)重ね重ねて十(と)百通に及ばんとも、貫一は断じてこの愚なる悔悟を聴かじと意(こころ)を決せるを。
 静に臥(ふ)したりし貫一は忽ち起きて鞄を開き、先づかの文を出(いだ)し、□児(マッチ)を捜(さぐ)りて、封のままなるその端(はし)に火を移しつつ、火鉢(ひばち)の上に差翳(さしかざ)せり。一片の焔(ほのほ)は烈々(れつれつ)として、白く□(あが)るものは宮の思の何か、黒く壊落(くづれお)つるものは宮が心の何か、彼は幾年(いくとせ)の悲(かなしみ)と悔とは嬉くも今その人の手に在りながら、すげなき烟(けふり)と消えて跡無くなりぬ。
 貫一は再び鞄を枕にして始の如く仰臥(あふぎふ)せり。
 間(しばし)有りて婢(をんな)どもの口々に呼邀(よびむか)ふる声して、入来(いりき)し客の、障子越(ごし)なる隣室に案内されたる気勢(けはひ)に、貫一はその男女(なんによ)の二人連(づれ)なるを知れり。
 彼等は若き人のやうにもあらず頗(すこぶ)る沈寂(しめやか)に座に着きたり。
「まだ沢山時間が有るから寛(ゆつく)り出来る。さあ、鈴(すう)さん、お茶をお上んなさい」
 こは男の声なり。
「貴方(あなた)本当にこの夏にはお帰んなさいますのですか」
「盆過(ぼんすぎ)には是非一度帰ります。然しね、お話をした通り尊父(をぢ)さんや尊母(をば)さんの気が変つて了つてお在(いで)なのだから、鈴さんばかりそんなに思つてゐておくれでも、これがどうして、円く納るものぢやない。この上はもう唯諦(ただあきら)めるのだ。私(わたし)は男らしく諦めた!」
「雅(まさ)さんは男だからさうでせうけれど、私(わたし)は諦(あきら)めません。さうぢやないとお言ひなさるけれど、雅さんは阿父(おとつ)さんや阿母(おつか)さんの為方(しかた)を慍(おこ)つてお在(いで)なのに違無い。それだから私までが憎いので、いいえ、さうよ、私は何でも可いから、若し雅さんが引取つて下さらなければ、一生何処(どこ)へも適(い)きはしませんから」
 女は処々(ところどころ)聞き得ぬまでの涙声になりぬ。
「だつて、尊父さんや尊母さんが不承知であつて見れば、幾許(いくら)私の方で引取りたくつても引取る訳に行かないぢやありませんか。それも、誰(たれ)を怨(うら)む訳も無い、全く自分が悪いからで、こんな躯(からだ)に疵(きず)の付いた者に大事の娘をくれる親は無い、くれないのが尤(もつとも)だと、それは私は自分ながら思つてゐる」
「阿父さんや阿母さんがくれなくても、雅さんさへ貰(もら)つて下されば可いのぢやありませんか」
「そんな解らない事を言つて! 私だつてどんなに悔(くやし)いか知れはしない。それは自分の不心得からあんな罪にも陥ちたのだけれど、実を謂へば、高利貸の※(わな)[#「(箆−竹−比)/民」、338-17]に罹(かか)つたばかりで、自分の躯には生涯の疵(きず)を付け、隻(ひとり)の母親は……殺して了ひ、又その上に……許婚(いひなづけ)は破談にされ、……こんな情無い思を為る位なら、不如(いつそ)私は牢(ろう)の中で死んで了つた……方が可かつた!」
「あれ、雅さん、そんな事を……」
 両箇(ふたり)は一度に哭(な)き出(いだ)せり。
「阿母さんがあん畜生(ちきしよう)の家を焼いて、夫婦とも焼死んだのは好い肚癒(はらいせ)ぢやあるけれど、一旦私の躯に附いたこの疵は消えない。阿母さんも来月は鈴(すう)さんが来てくれると言つて、朝晩にそればかり楽(たのしみ)にして在(ゐな)すつた……のだし」
 女(をんな)はつと出でし泣音(なくね)の後を怺(こら)へ怺へて啜上(すすりあ)げぬ。
「私(わたし)も破談に為(す)る気は少も無いけれど、これは私の方から断るのが道だから、必ず悪く思つて下さるな」
「いいえ……いいえ……私は……何も……断られる訳はありません」
「私に添へば、鈴さんの肩身も狭くなつて、生涯何のかのと人に言れなけりやならない。それがお気毒だから、私は自分から身を退(ひ)いて、これまでの縁と諦(あきら)めてゐるので、然し、鈴さん、私は貴方の志は決して忘れませんよ」
 女は唯愈(いよい)よ咽(むせ)びゐたり。音も立てず臥(ふ)したりし貫一はこの時忍び起きて、障子の其処此処(そこここ)より男を隙見(すきみ)せんと為たりけれど、竟(つひ)に意(こころ)の如くならで止みぬ。然(しか)れども彼は正(まさし)くその声音(こわね)に聞覚(ききおぼえ)あるを思合せぬ。かの男は鰐淵の家に放火せし狂女の子にて、私書偽造罪を以て一年の苦役を受けし飽浦雅之(あくらまさゆき)ならずと為(せ)んや。さなり、女のその名を呼べるにても知らるるを、と独(ひと)り頷(うなづ)きつつ貫一は又潜(ひそま)りて聴耳立てたり。
「嘘(うそ)にもさうして志は忘れないなんて言つて下さる程なら、やつぱり約束通り私を引取つて下さいな。雅さんがああ云ふ災難にお遭(あひ)なので、それが為に縁を切る意(つもり)なら、私は、雅さん、……一年が間……塩断(しほだち)なんぞ為はしませんわ」
 彼は自らその苦節を憶(おも)ひて泣きぬ。

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