金色夜叉
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著者名:尾崎紅葉 

 胡麻塩羅紗(ごましほらしや)の地厚なる二重外套(にじゆうまわし)を絡(まと)へる魁肥(かいひ)の老紳士は悠然(ゆうぜん)として入来(いりきた)りしが、内の光景(ありさま)を見ると斉(ひとし)く胸悪き色はつとその面(おもて)に出(い)でぬ。満枝は心に少(すこ)く慌(あわ)てたれど、さしも顕(あらは)さで、雍(しとや)かに小腰を屈(かが)めて、
「おや、お出(いで)あそばしまし」
「ほほ、これは、毎度お見舞下さつて」
 同く慇懃(いんぎん)に会釈はすれど、疑も無く反対の意を示せる金壺眼(かなつぼまなこ)は光を逞(たくまし)う女の横顔を瞥見(べつけん)せり。静に臥(ふ)したる貫一は発作(パロキシマ)の来(きた)れる如き苦悩を感じつつ、身を起して直行(ただゆき)を迎ふれば、
「どうぢやな。好(え)え方がお見舞に来てをつて下さるで、可(え)えの」
 打付(うちつけ)に過ぎし言(ことば)を二人ともに快からず思へば、頓(とみ)に答(いらへ)は無くて、その場の白(しら)けたるを、さこそと謂(い)はんやうに直行の独(ひと)り笑ふなりき。如何(いか)に答ふべきか。如何に言釈(いひと)くべきか、如何に処すべきかを思煩(おもひわづら)へる貫一は艱(むづか)しげなる顔を稍(やや)内向けたるに、今はなかなか悪怯(わるび)れもせで満枝は椅子の前なる手炉(てあぶり)に寄りぬ。
「然しお宅の御都合もあるぢやらうし、又お忙(せはし)いところを度々お見舞下されては痛入(いたみい)ります。それにこれの病気も最早快(よ)うなるばかりじやで御心配には及ばんで、以来お出(い)で下さるのは何分お断り申しまする」
 言黒(いひくろ)めたる邪魔立を満枝は面憎(つらにく)がりて、
「いいえ、もうどう致しまして、この御近辺まで毎々次手(ついで)がありますのでございますから、その御心配には及びません」
 直行の眼(まなこ)は再び輝けり。貫一は憖(なまじひ)に彼を窘(くるし)めじと、傍(かたはら)より言(ことば)を添へぬ。
「毎度お訪ね下さるので、却(かへ)つて私(わたくし)は迷惑致すのですから、どうか貴方から可然(しかるべく)御断り下さるやうに」
「当人もお気の毒に思うてあの様に申すで、折角ではありますけど、決して御心配下さらんやうに、のう」
「お見舞に上りましてはお邪魔になりまする事ならば、私(わたくし)差控へませう」
 満枝は色を作(な)して直行を打見遣(うちみや)りつつ、その面(おもて)を引廻(ひきめぐら)して、やがて非(あら)ぬ方(かた)を目戍(まも)りたり。
「いや、いや、な、決(け)して、そんな訳ぢや……」
「余(あんま)りな御挨拶で! 女だと思召(おぼしめ)して有仰(おつしや)るのかは存じませんが、それまでのお指図(さしづ)は受けませんで宜(よろし)うございます」
「いや、そんなに悪う取られては甚(はなは)だ困る、畢竟(ひつきよう)貴方(あんた)の為を思ひますじやに因(よ)つて……」
「何と有仰います。お見舞に出ますのが、何で私(わたくし)の不為(ふため)になるのでございませう」
「それにお心着(こころづき)が無い?」
 その能く用ゐる微笑を弄(ろう)して、直行は巧(たくみ)に温顔を作れるなり。
 満枝は稍(やや)急立(せきた)ちぬ。
「ございません」
「それは、お若いでさう有らう。甚だ失敬ながら、すいぢや申して見やう。な。貴方もお若けりや間も若い。若い男の所へ若い女子(をなご)が度々出入(でいり)したら、そんな事は無うても、人がかれこれ言ひ易(やす)い、可(え)えですか、そしたら、間はとにかくじや、赤樫様(あかがしさん)と云ふ者のある貴方の躯(からだ)に疵(きず)が付く。そりや、不為ぢやありますまいか、ああ」
 陰には己(おのれ)自ら更に甚(はなはだし)き不為を強(し)ひながら、人の口といふもののかくまでに重宝なるが可笑(をか)し、と満枝は思ひつつも、
「それは御深切に難有(ありがた)う存じます。私はとにかく、間さんはこれからお美(うつくし)い御妻君をお持ち遊ばす大事のお躯(からだ)でゐらつしやるのを、私のやうな者の為に御迷惑遊ばすやうな事が御座いましては何とも済みませんですから、私自今(これから)慎(つつし)みますでございます」
「これは太(えら)い失敬なことを申しましたに、早速お用ゐなさつて難有い。然し、間も貴方のやうな方と嘘(うそ)にもかれこれ言(いは)るるんぢやから、どんなにも嬉(うれし)いぢやらう、私(わし)のやうな老人ぢやつたら、死ぬほどの病気したて、赤樫さんは訪ねても下さりや為(す)まいにな」
 貫一は苦々しさに聞かざる為(まね)してゐたり。
「そんな事が有るものでございますか、お見舞に上りますとも」
「さやうかな。然し、こんなに度々来ては下さりやすまい」
「それこそ、御妻君が在(ゐら)つしやるのですから、余り頻繁(しげしげ)上りますと……」
 後は得言はで打笑める目元の媚(こび)、ハンカチイフを口蔽(くちおほひ)にしたる羞含(はぢがま)しさなど、直行はふと目を奪はれて、飽かず覚ゆるなりき。
「はッ、はッ、はッ、すぢや細君が無いで、ここへは安心してお出(いで)かな。私(わし)は赤樫さんの処へ行つて言ひますぞ」
「はい、有仰(おつしや)つて下さいまし。私(わたくし)此方(こなた)へ度々お見舞に出ますことは、宅でも存じてをるのでございますから、唯今も貴方(あなた)から御注意を受けたのでございますが、私も用を抱へてをる体でかうして上りますのは、お見舞に出なければ済まないと考へまする訳がございますからで、その実、上りますれば、間さんは却(かへ)つて私の伺ふのを懊悩(うるさ)く思召(おぼしめ)してゐらつしやるのですから、それは私のやうな者が余り参つてはお目障(めざはり)か知れませんけれど、外の事ではなし、お見舞に上るのでございますから、そんなに作(なさ)らなくても宜(よろし)いではございませんか。
 然し、それでも私気に懸つて、かうして上るのは、でございます、宅(たく)へお出(いで)になつた御帰途(おかへりみち)にこの御怪我(おけが)なんでございませう。それに、未(ま)だ私済みません事は、あの時大通の方をお帰りあそばすと有仰つたのを、津守坂(つのかみざか)へお出(いで)なさる方がお近いとさう申してお勧め申すと、その途(みち)でこの御災難でございませう。で私考へるほど申訳が無くて、宅でも大相気に致して、勉めてお見舞に出なければ済まないと申すので、その心持で毎度上るのでございますから、唯今のやうな御忠告を伺ひますと、私実に心外なのでございます。そんなにして上れば、間さんは間さんでお喜(よろこび)が無いのでございませう」
 彼はいと辛(つら)しとやうに、恨(うらめ)しとやうに、さては悲しとやうにも直行を視(み)るなりけり。直行は又その辛し、恨し、悲しとやうの情に堪へざらんとする満枝が顔をば、窃(ひそか)に金壺眼(かなつぼまなこ)の一角を溶(とろか)しつつ眺入(ながめい)るにぞありける。
「さやうかな。如何(いか)さま、それで善う解りましたじや。太(えら)い御深切な事で、間もさぞ満足ぢやらうと思ひまする。又私(わし)からも、そりや厚うお礼を申しまするじや、で、な、お礼はお礼、今の御忠告は御忠告じや、悪う取つて下さつては困る。貴方がそんなに念(おも)うて、毎々お訪ね下さると思や、私も実に嬉いで、折角の御好意をな、どうか卻(しりぞく)るやうな、失敬なことは決して言ひたうはないんじや、言ふのはお為を念ふからで、これもやつぱり年寄役なんぢやから、捨てて措(お)けんで。年寄と云ふ者は、これでとかく嫌(きら)はるるじや。貴方もやつぱり年寄はお嫌ひぢやらう。ああ、どうですか、ああ」
 赤髭(あかひげ)を拈(ひね)り拈りて、直行は女の気色(けしき)を偸視(ぬすみみ)つ。
「さやうでございます。お年寄は勿論(もちろん)結構でございますけれど、どう致しても若いものは若い同士の方が気が合ひまして宜いやうでございますね」
「すぢやて、お宅の赤樫さんも年寄でせうが」
「それでございますから、もうもう口喧(くちやかまし)くてなりませんのです」
「ぢや、口喧うも、気難(きむづかし)うもなうたら、どうありますか」
「それでも私好きませんでございますね」
「それでも好かん? 太(えら)う嫌うたもんですな」
「尤(もつと)も年寄だから嫌ふ、若いから一概に好くと申す訳には参りませんでございます。いくら此方(こつち)から好きましても、他(さき)で嫌はれましては、何の効(かひ)もございませんわ」
「さやう、な。けど、貴方(あんた)のやうな方が此方(こつち)から好いたと言うたら、どんな者でも可厭(いや)言ふ者は、そりや無い」
「あんな事を有仰(おつしや)つて! 如何(いかが)でございますか、私そんな覚はございませんから、一向存じませんでございます」
「さやうかな。はッはッ。さやうかな。はッはッはッ」
 椅子も傾くばかりに身を反(そら)して、彼はわざとらしく揺上(ゆりあ)げ揺上げて笑ひたりしが、
「間、どうぢやらう。赤樫さんはああ言うてをらるるが、さうかの」
「如何(いかが)ですか、さう云ふ事は」
 誰(たれ)か烏(からす)の雌雄(しゆう)を知らんとやうに、貫一は冷然として嘯(うそぶ)けり。
「お前も知らんかな、はッはッはッはッ」
「私が自分にさへ存じませんものを、間さんが御承知有らう筈(はず)はございませんわ。ほほほほほほほほ」
 そのわざとらしさは彼にも遜(ゆづ)らじとばかり、満枝は笑ひ囃(はや)せり。
 直行が眼(まなこ)は誰を見るとしも無くて独(ひと)り耀(かがや)けり。
「それでは私もうお暇(いとま)を致します」
「ほう、もう、お帰去(かへり)かな。私(わし)もはや行かん成らんで、其所(そこ)まで御一処に」
「いえ、私些(ちよつ)と、あの、西黒門町(にしくろもんちよう)へ寄りますでございますから、甚(はなは)だ失礼でございますが……」
「まあ、宜(よろし)い。其処(そこ)まで」
「いえ、本当に今日(こんにち)は……」
「まあ、宜いが、実は、何じや、あの旭座(あさひざ)の株式一件な、あれがつい纏(まとま)りさうぢやで、この際お打合(うちあはせ)をして置かんと、『琴吹(ことぶき)』の収債(とりたて)が面白うない。お目に掛つたのが幸(さいはひ)ぢやから、些(ちよつ)とそのお話を」
「では、明日(みようにち)にでも又、今日は些(ち)と急ぎますでございますから」
「そんなに急にお急ぎにならんでも宜いがな。商売上には年寄も若い者も無い、さう嫌はれてはどうもならん」
 姑(しばら)く推(おし)問答の末彼は終(つひ)に満枝を拉(らつ)し去れり。迹(あと)に貫一は悪夢の覚めたる如く連(しきり)に太息(ためいき)□(つ)いたりしが、やがて為(せ)ん方無げに枕(まくら)に就きてよりは、見るべき物もあらぬ方(かた)に、止(た)だ果無(はてしな)く目を奪れゐたり。

     第五章

 檜葉(ひば)、樅(もみ)などの古葉貧しげなるを望むべき窓の外に、庭ともあらず打荒れたる広場は、唯麗(うららか)なる日影のみぞ饒(ゆたか)に置余(おきあま)して、そこらの梅の点々(ぼちぼち)と咲初めたるも、自(おのづか)ら怠り勝に風情(ふぜい)作らずと見ゆれど、春の色香(いろか)に出(い)でたるは憐(あはれ)むべく、打霞(うちかす)める空に来馴(きな)るる鵯(ひよ)のいとどしく鳴頻(なきしき)りて、午後二時を過ぎぬる院内の寂々(せきせき)たるに、たまたま響くは患者の廊下を緩(ゆる)う行くなり。
 枕の上の徒然(つれづれ)は、この時人を圧して殆(ほとん)ど重きを覚えしめんとす。書見せると見えし貫一は辛(から)うじて夢を結びゐたり。彼は実(げ)に夢ならでは有得べからざる怪(あやし)き夢に弄(もてあそ)ばれて、躬(みづから)も夢と知り、夢と覚さんとしつつ、なほ睡(ねむり)の中に囚(とらは)れしを、端無(はしな)く人の呼ぶに駭(おどろか)されて、漸(やうや)く慵(ものう)き枕を欹(そばだ)てつ。
 愕然(がくぜん)として彼は瞳(ひとみ)を凝(こら)せり。ベッドの傍(かたはら)に立てるは、その怪き夢の中に顕(あらは)れて、終始相離(あひはな)れざりし主人公その人ならずや。打返し打返し視(み)れども訪来(とひきた)れる満枝に紛(まぎれ)あらざりき。とは謂(い)へ、彼は夢か、あらぬかを疑ひて止まず。さるはその真ならんよりなほ夢の中(うち)なるべきを信ずるの当れるを思へるなり、美しさも常に増して、夢に見るべき姿などのやうに四辺(あたり)も可輝(かがやかし)く、五六歳(いつつむつ)ばかりも若(わかや)ぎて、その人の妹なりやとも見えぬ。まして、六十路(むそぢ)に余れる夫有(つまも)てる身と誰(たれ)かは想ふべき。
 髪を台湾銀杏(たいわんいちよう)といふに結びて、飾(かざり)とてはわざと本甲蒔絵(ほんこうまきゑ)の櫛(くし)のみを挿(さ)したり。黒縮緬(くろちりめん)の羽織に夢想裏(むそううら)に光琳風(こうりんふう)の春の野を色入(いろいり)に染めて、納戸縞(なんどじま)の御召の下に濃小豆(こいあづき)の更紗縮緬(さらさちりめん)、紫根七糸(しこんしちん)に楽器尽(がつきつくし)の昼夜帯して、半襟(はんえり)は色糸の縫(ぬひ)ある肉色なるが、頸(えり)の白きを匂(にほ)はすやうにて、化粧などもやや濃く、例の腕環のみは燦爛(きらきら)と煩(うるさ)し。今日は殊(こと)に推(お)して来にけるを、得堪(えた)へず心の尤(とが)むらん風情(ふぜい)にて佇(たたず)める姿(すがた)限無(かぎりな)く嬌(なまめ)きて見ゆ。
「お寝(やすみ)のところを飛んだ失礼を致しました。私(わたくし)上(あが)る筈(はず)ではないのでございますけれど、是非申上げなければなりません事がございますので、些(ちよつ)と伺ひましたのでございますから、今日(こんにち)のところはどうか御堪忍(ごかんにん)あそばして」
 彼の許(ゆるし)を得んまでは席に着くをだに憚(はばか)る如く、満枝は漂(ただよは)しげになほ立てるなり。
「はあ、さやうですか。一昨々日あれ程申上げたのに……」
 内に燃ゆる憤(いかり)を抑(おさ)ふるとともに貫一の言(ことば)は絶えぬ。
「鰐淵さんの事なのでございますの。私困りまして、どういたしたら宜(よろし)いのでございませう……間さん、かうなのでございますよ」
「いや、その事なら伺ふ必要は無いのです」
「あら、そんなことを有仰(おつしや)らずに……」
「失礼します。今日(こんにち)は腰の傷部(きず)が又痛みますので」
「おや、それは、お劇(きつ)いことはお在(あん)なさらないのでございますか」
「いえ、なに」
「どうぞお楽に在(ゐら)しつて」
 貫一は無雑作に郡内縞(ぐんないじま)の掻巻(かいまき)引被(ひきか)けて臥(ふ)しけるを、疎略あらせじと満枝は勤篤(まめやか)に冊(かしづ)きて、やがて己(おのれ)も始めて椅子に倚(よ)れり。
「貴方(あなた)の前でこんな事は私申上げ難(にく)いのでございますけれど、実は、あの一昨々日でございますね、ああ云ふ訳で鰐淵さんと御一処に参りましたところが、御飯を食べるから何でも附合へと有仰(おつしや)るので、湯島(ゆしま)の天神の茶屋へ寄りましたのでございます。さう致すと、案の定可厭(いやらし)い事をもうもう執濃(しつこ)く有仰るのでございます。さうして飽くまで貴方の事を疑(うたぐ)つて、始終それを有仰るので、私一番それには困りました。あの方もお年効(としがひ)の無い、物の道理がお解りにならないにも程の有つたもので、一体私を何と思召(おぼしめ)してゐらつしやるのか存じませんが、客商売でもしてをる者に戯(たはむ)れるやうな事を、それも一度や二度ではないのでございますから、私残念で、一昨々日なども泣いたのでございます。で、この後二度とそんな事の有仰れないやうに、私その場で十分に申したことは申しましたけれど、変に気を廻してゐらつしやる方の事でございますから、取(と)んだ八当(やつあたり)で貴方へ御迷惑が懸りますやうでは、何とも私申訳がございませんから、どうぞそれだけお含み置き下さいまして、悪(あし)からず……。
 今度お会ひあそばしたら、鰐淵さんが何とか有仰るかも知れません。さぞ御迷惑でゐらつしやいませうけれど、そこは宜(よろし)いやうに有仰つて置いて下さいまし。それも貴方が何とか些(ちよつと)でも思召してゐらつしやる方とならば、そんな事を有仰られるのもまた何でございませうけれど、嫌抜(きらひぬ)いてお在(いで)あそばす私(わたくし)のやうな者と訳でもあるやうに有仰(おつしや)られるのは、さぞお辛くてゐらつしやいませうけれど、私のやうな者に見込れたのが因果とお諦(あきら)め遊ばしまし。
 貴方も因果なれば、私も……私は猶(なほ)因果なのでございますよ。かう云ふのが実に因果と謂(い)ふのでございませうね」
 金煙管(きんぎせる)の莨(たばこ)の独(ひと)り杳眇(ほのぼの)と燻(くゆ)るを手にせるまま、満枝は儚(はかな)さの遣方無(やるかたな)げに萎(しを)れゐたり。さるをも見向かず、答(いら)へず、頑(がん)として石の如く横(よこた)はれる貫一。
「貴方もお諦め下さいまし、全く因果なのでございますから、切(せめ)てさうと諦めてでもゐて下されば、それだけでも私幾分か思が透(とほ)つたやうな気が致すのでございます。
 間さん。貴方は過日(いつぞや)私がこんなに思つてゐることを何日(いつ)までもお忘れないやうにと申上げたら、お志は決して忘れんと有仰いましたね。お覚えあそばしてゐらつしやいませう。ねえ、貴方、よもやお忘れは無いでせう。如何(いかが)なのでございますよ」
 勢ひて問詰むれば、極(きは)めて事も無げに、
「忘れません」
 満枝は彼の面(おもて)を絶(したたか)に怨視(うらみみ)て瞬(またたき)も為(せ)ず、その時人声して闥(ドア)は徐(しづか)に啓(あ)きぬ。
 案内せる附添の婆(ばば)は戸口の外に立ちて請じ入れんとすれば、客はその老に似気なく、今更内の様子を心惑(こころまどひ)せらるる体(てい)にて、彼にさへ可慎(つつまし)う小声に言付けつつ名刺を渡せり。
 満枝は如何なる人かと瞥(ちら)と見るに、白髪交(しらがまじ)りの髯(ひげ)は長く胸の辺(あたり)に垂れて、篤実の面貌痩(おもざしや)せたれども賤(いやし)からず、長(たけ)は高しとにあらねど、素(もと)より□(ゆたか)にもあらざりし肉の自(おのづか)ら齢(よはひ)の衰(おとろへ)に削れたれば、冬枯の峰に抽(ぬ)けるやうに聳(そび)えても見ゆ。衣服などさる可く、程を守りたるが奥幽(おくゆかし)くて、誰とも知らねどさすがに疎(おろそか)ならず覚えて、彼は早くもこの賓(まらうど)の席を設けて待てるなりき。
 貫一は婆の示せる名刺を取りて、何心無く打見れば、鴫沢隆三(しぎさわりゆうぞう)と誌(しる)したり。色を失へる貫一はその堪へかぬる驚愕(おどろき)に駆れて、忽(たちま)ち身を飜(ひるがへ)して其方(そなた)を見向かんとせしが、幾(ほとん)ど同時に又枕して、終(つひ)に動かず。狂ひ出でんずる息を厳(きびし)く閉ぢて、燃(もゆ)るばかりに瞋(いか)れる眼(まなこ)は放たず名刺を見入りたりしが、さしも内なる千万無量の思を裹(つつ)める一点の涙は不覚に滾(まろ)び出(い)でぬ。こは怪しと思ひつつも婆は、
「此方(こちら)へお通し申しませうで……」
「知らん!」
「はい?」
「こんな人は知らん」
 人目あらずば引裂き棄つべき名刺よ、涜(けがらは)しと投返せば床の上に落ちぬ。彼は強(し)ひて目を塞(ふさ)ぎ、身の顫(ふる)ふをば吾と吾手に抱窘(だきすく)めて、恨は忘れずとも憤(いかり)は忍ぶべしと、撻(むちう)たんやうにも己を制すれば、髪は逆竪(さかだ)ち蠢(うごめ)きて、頭脳の裏(うち)に沸騰(わきのぼ)る血はその欲するままに注ぐところを求めて、心も狂へと乱螫(みだれさ)すなり。彼はこれと争ひて猶(なほ)も抑へぬ。面色は漸(やうや)く変じて灰の如し。婆は懼(おそ)れたる目色(めざし)を客の方へ忍ばせて、
「御存じないお方なので?」
「一向知らん。人違だらうから、断(ことわ)つて返すが可い」
「さやうでございますか。それでも、貴方様のお名前を有仰(おつしや)つてお尋ね……」
「ああ、何でも可いから早く断つて」
「さやうでございますか、それではお断り申しませうかね」

     (五)の二

 婆は鴫沢(しぎさわ)の前にその趣を述べて、投棄てられし名刺を返さんとすれば、手を後様(うしろさま)に束(つか)ねたるままに受取らで、強(し)ひて面(おもて)を和(やはら)ぐるも苦しげに見えぬ。
「ああ、さやうかね、御承知の無い訳は無いのだ。ははは、大分(だいぶ)久い前の事だから、お忘れになつたのか知れん、それでは宜(よろし)い。私(わし)が直(ぢか)にお目に掛らう。この部屋は間貫一さんだね、ああ、それでは間違無い」
 屹(き)と思案せる鴫沢の椅子ある方(かた)に進み寄れば、満枝は座を起ち、会釈して、席を薦(すす)めぬ。
「貫一さん、私(わし)だよ。久う会はんので忘れられたかのう」
 室の隅(すみ)に婆が茶の支度せんとするを、満枝は自ら行きて手を下し、或(あるひ)は指図もし、又自ら持来(もちきた)りて薦むるなど尋常の見舞客にはあらじと、鴫沢は始めてこの女に注目せるなり。貫一は知らざる如く、彼方(あなた)を向きて答へず。仔細(しさい)こそあれとは覚ゆれど、例のこの人の無愛想よ、と満枝は傍(よそ)に見つつも憫(あはれ)に可笑(をかし)かりき。
「貫一さんや、私(わし)だ。疾(とう)にも訪ねたいのであつたが、何にしろ居所が全然(さつぱり)知れんので。一昨日(おとつひ)ふと聞出したから不取敢(とりあへず)かうして出向いたのだが、病気はどうかのう。何か、大怪我(おほけが)ださうではないか」
 猶(なほ)も答のあらざるを腹立(はらだたし)くは思へど、満枝の居るを幸(さいはひ)に、
「睡(ね)てをりますですかな」
「はい、如何(いかが)でございますか」
 彼はこの長者の窘(くるし)めるを傍(よそ)に見かねて、貫一が枕に近く差寄りて窺(うかが)へば、涙の顔を褥(しとね)に擦付(すりつ)けて、急上(せきあ)げ急上げ肩息(かたいき)してゐたり。何事とも覚えず驚(おどろか)されしを、色にも見せず、怪まるるをも言(ことば)に出(いだ)さず、些(ちと)の心着さへあらぬやうに擬(もてな)して、
「お客様がいらつしやいましたよ」
「今も言ひました通り、一向識(し)らん方なのですから、お還し申して下さい」
 彼は面(おもて)を伏せて又言はず、満枝は早くもその意を推(すい)して、また多くは問はず席に復(かへ)りて、
「お人違ではございませんでせうか、どうも御覚が無いと有仰(おつしや)るのでございます」
 長き髯(ひげ)を推揉(おしも)みつつ鴫沢は為方無(せんかたな)さに苦笑(にがわらひ)して、
「人違とは如何(いか)なことでも! 五年や七年会はんでも私(わし)は未(ま)だそれほど老耄(ろうもう)はせんのだ。然し覚が無いと言へばそれまでの話、覚もあらうし、人違でもなからうと思へばこそ、かうして折角会ひにも来たらうと謂ふもの。老人の私がわざわざかうして出向いて来たのでのう、そこに免じて、些(ちよつ)とでも会うて貰ひませう」
 挨拶(あいさつ)如何にと待てども、貫一は音だに立てざるなり。
「それぢや、何かい、こんなに言うても不承してはくれんのかの。ああ、さやうか、是非が無い。
 然し、貫一さん、能(よ)う考へて御覧、まあ、私たちの事をどう思うてゐらるるか知らんが、お前さんの爾来(これまで)の為方(しかた)、又今日のこの始末は、ちと妥当(おだやか)ならんではあるまいか。とにかく鴫沢の翁(をぢ)に対してかう為たものではなからうと思ふがどうであらうの。成程お前さんの方にも言分はあらう、それも聞きに来た。私の方にも少(すこし)く言分の無いではない。それも聞かせたい。然し、かうしてわざわざ尋ねて来たものであるから、此方(こちら)では既に折れて出てゐるのだ。さうしてお前さんに会うて話と謂ふは、決(けつ)して身勝手な事を言ひに来たぢやない、やはり其方(そちら)の身の上に就いて善かれと計ひたい老婆心切(ろうばしんせつ)。私の方ではその当時に在つてもお前さんを棄てた覚は無し、又今日(こんにち)も五年前も同じ考量(かんがへ)で居るのだ。それを、まあ、若い人の血気と謂ふのであらう。唯一図に思ひ込んで誤解されたのか、私は如何にも残念でならん。今日(こんにち)までも誤解されてゐるのは愈(いよい)よ心外だで、お前さんの住所の知れ次第早速出掛けて来たのだ。凡(およ)そ此方(こちら)の了簡(りようけん)を誤解されてゐるほど心苦い事は無い。人の為に謀(はか)つて、さうして僅(わづか)の行違(ゆきちがひ)から恨まれる、恩に被(き)せうとて謀つたではないが、恨まれやうとは誰(たれ)にしても思はん。で、ああして睦(むつまし)う一家族で居つて、私たちも死水を取つて貰ふ意(つもり)であつたものを、僅の行違から音信不通(いんしんふつう)の間(なか)になつて了ふと謂ふは、何ともはや浅ましい次第で、私(わし)も誠に寐覚(ねざめ)が悪からうと謂ふもの、実に姨(をば)とも言暮してゐるのだ。私の方では何処(どこ)までも旧通(もとどほ)りになつて貰うて、早く隠居でもしたいのだ。それも然しお前さんの了簡が釈(と)けんでは話が出来ん。その話は二の次としても、差当り誤解されてゐる一条だ。会うて篤と話をしたら直(ぢき)に訳は分らうと思ふで、是非一通りは聞いて貰ひたい。その上でも心が釈けん事なら、どうもそれまで。私はお前さんの親御の墓へ詣(まゐ)つて、のう、抑(そもそ)もお前さんを引取つてから今日(こんにち)までの来歴を在様陳(ありようの)べて、鴫沢はこれこれの事を為、かうかう思ひまする、けれども成行でかう云ふ始末になりましたのは、残念ながら致方が無い、と丁(ちやん)とお分疏(ことわり)を言うて、そして私は私の一分(いちぶん)を立ててから立派に縁を切りたいのだ。のう。はや五年も便(たより)を為(せ)んのだから、お前さんは縁を切つた気であらうが、私の方では未だ縁は切らんのだ。
 私は考へる、たとへばこの鴫沢の翁(をぢ)の為た事が不都合であらうか知れん、けれども間貫一たる者は唯一度の不都合ぐらゐは如何(いか)にも我慢をしてくれんければ成るまいかと思ふのだ。又その我慢が成らんならば、も少し妥当(おだやか)に事を為てもらひたかつた。私の方に言分のあると謂ふのは其処(そこ)だ。言はせればその通り私にも言分はある。然し、そんな事を言ひに来たではない、私の方にも如何様(いかさま)手落があつたで、その詫(わび)も言はうし、又昔も今も此方(こちら)には心持に異変(かはり)は無いのだから、それが第一に知らせたい。翁が久しぶりで来たのだ、のう、貫一さん、今日(こんにち)は何も言はずに清う会うてくれ」
 曾(かつ)て聞かざりし恋人が身の上の秘密よ、と満枝は奇(あやし)き興を覚えて耳を傾けぬ。
 我強(がづよ)くも貫一のなほ言(ものい)はんとはせざるに、漸(やうや)く怺(こら)へかねたる鴫沢の翁はやにはに椅子を起ちて、強(し)ひてもその顔見んと歩み寄れり。事の由は知るべきやう無けれど、この客の言(ことば)を尽せるにも理(ことわり)聞えて、無下(むげ)に打(うち)も棄てられず、されども貫一が唯涙を流して一語を出(いだ)さず、いと善く識るらん人をば覚無しと言へる、これにもなかなか所謂(いはれ)はあらんと推測(おしはから)るれば、一も二も無く満枝は恋人に与(くみ)してこの場の急を拯(すく)はんと思へるなり。
 枕頭(まくらもと)を窺(うかが)ひつつ危む如く眉を攅(あつ)めて、鴫沢の未(いま)だ言出でざる時、
「私(わたくし)看病に参つてをります者でございますが、何方様(どなたさま)でゐらつしやいますか存じませんが、この一両日(いちりようにち)病人は熱の気味で始終昏々(うとうと)いたして、時々譫語(うはごと)のやうな事を申して、泣いたり、慍(おこ)つたり致すのでございますが、……」
 頭を捻向(ねぢむ)けて満枝に対せる鴫沢の顔の色は、この時故(ことさら)に解きたりと見えぬ。
「はあ、は、さやうですかな」
「先程から伺ひますれば、年来御懇意でゐらつしやるのを人違だとか申して、大相失礼を致してをるやうでございますが、やつぱり熱の加減で前後が解りませんのでございますから、どうぞお気にお懸け遊ばしませんやうに。この熱も直(ぢき)に除(と)れまするさうでございますから、又改めてお出(いで)を願ひたう存じます。今日(こんにち)は私御名刺を戴(いただ)いて置きまして、お軽快(こころよく)なり次第私から悉(くはし)くお話を致しますでございます」
「はあ、それはそれは」
「実は、何でございました。昨日もお見舞にお出で下すつたお方に変な事を申掛けまして、何も病気の事で為方(しかた)もございませんけれど、私弱りきりましたのでございます。今日(こんにち)は又如何(いかが)致したのでございますか、昨日とは全(まる)で反対であの通り黙りきつてをりますのですが、却つて無闇(むやみ)なことを申されるよりは始末が宜(よろし)いでございます」
 かくても始末は善しと謂ふかと、翁(をぢ)は打蹙(うちひそ)むべきを強(し)ひて易(か)へたるやうの笑(ゑみ)を洩(もら)せば、満枝はその言了(いひをは)せしを喜べるやうに笑ひぬ。彼は婆を呼びて湯を易へ、更に熱き茶を薦(すす)めて、再び客を席に着かしめぬ。
「さう云ふ訳では話も解りかねる。では又上る事に致しませう。手前は鴫沢隆三と申して――名刺を差上げて置きまする、これに住所も誌(しる)してあります――貴方は失礼ながらやはり鰐淵(わにぶち)さんの御親戚ででも?」
「はい、親戚ではございませんが、鰐淵さんとは父が極御懇意に致してをりますので、それに宅がこの近所でございますもので、ちよくちよくお見舞に上つてはお手伝を致してをります」
「はは、さやうで。手前は五年ほど掛違うて間とは会ひませんので、どうか去年あたり嫁を娶(もら)うたと聞きましたが、如何(いかが)いたしましたな」
 彼はこの美き看病人の素性知らまほしさに、あらぬ問をも設けたるなり。
「さやうな事はついに存じませんですが」
「はて、さうとばかり思うてをりましたに」
 容儀(かたち)人の娘とは見えず、妻とも見えず、しかも絢粲(きらきら)しう装飾(よそほひかざ)れる様は色を売る儔(たぐひ)にやと疑はれざるにはあらねど、言辞(ものごし)行儀の端々(はしはし)自(おのづか)らさにもあらざる、畢竟(ひつきよう)これ何者と、鴫沢は容易にその一斑(いつぱん)をも推(すい)し得ざるなりけり。されども、懇意と謂ふも、手伝と謂ふも、皆詐(いつはり)ならんとは想ひぬ。正(ただし)き筋の知辺(しるべ)にはあらで、人の娘にもあらず、又貫一が妻と謂ふにもあらずして、深き訳ある内証者なるべし。若(も)しさもあらば、貫一はその身の境遇とともに堕落して性根(しようね)も腐れ、身持も頽(くづ)れたるを想ふべし、とかくは好みて昔の縁を繋(つな)ぐべきものにあらず。如此(かくのごと)き輩(やから)を出入(でいり)せしむる鴫沢の家は、終(つひ)に不慮の禍(わざはひ)を招くに至らんも知るべからざるを、と彼は心中遽(にはか)に懼(おそれ)を生じて、さては彼の恨深く言(ことば)を容(い)れざるを幸(さいはひ)に、今日(こんにち)は一先(ひとまづ)立還(たちかへ)りて、尚(な)ほ一層の探索と一番の熟考とを遂(と)げて後、来(きた)る可(べ)くは再び来らんも晩(おそ)からず、と失望の裏(うち)別に幾分の得るところあるを私(ひそか)に喜べり。
「いや、これはどうも図らずお世話様に成りました。いづれ又近日改めてお目に掛りまするで、失礼ながらお名前を伺つて置きたうござりまするが」
「はい、私(わたくし)は」と紫根塩瀬(しこんしほぜ)の手提の中(うち)より小形の名刺を取出だして、
「甚(はなは)だ失礼でございますが」
「はい、これは。赤樫満枝(あかがしみつえ)さまと有仰(おつしや)いますか」
 この女の素性に於(お)ける彼の疑は益(ますます)暗くなりぬ。夫有(つまも)てる身の我は顔に名刺を用意せるも似気無(にげな)し、まして裏面(うら)に横文字を入れたるは、猶可慎(なほつつまし)からず。応対の雍(しとやか)にして人馴(ひとな)れたる、服装(みなり)などの当世風に貴族的なる、或(あるひ)は欧羅巴(ヨウロッパ)的女子職業に自営せる人などならずや。但しその余(あまり)に色美(いろよ)きが、又さる際(きは)には相応(ふさはし)からずも覚えて、こは終(つひ)に一題の麗(うるはし)き謎(なぞ)を彼に与ふるに過ぎざりき。鴫沢の翁は貫一の冷遇(ぶあしらひ)に慍(いきどほ)るをも忘れて、この謎(なぞ)の為に苦められつつ病院を辞し去れり。
 客を送り出でて満枝の内に入来(いりきた)れば、ベッドの上に貫一の居丈高(ゐたけだか)に起直りて、痩尽(やせすが)れたる拳(こぶし)を握りつつ、咄々(とつとつ)、言はで忍びし無念に堪へずして、独(ひと)り疾視(しつし)の瞳(ひとみ)を凝(こら)すに会へり。

     第六章

 数日前(すじつぜん)より鰐淵(わにぶち)が家は燈点(あかしとも)る頃を期して、何処(いづこ)より来るとも知らぬ一人の老女(ろうによ)に訪(とは)るるが例となりぬ。その人は齢(よはひ)六十路(むそぢ)余に傾(かたふ)きて、顔は皺(しわ)みたれど膚清(はだへきよ)く、切髪(きりがみ)の容(かたち)などなかなか由(よし)ありげにて、風俗も見苦からず、唯(ただ)異様なるは茶微塵(ちやみじん)の御召縮緬(おめしちりめん)の被風(ひふ)をも着ながら、更紗(さらさ)の小風呂敷包に油紙の上掛(うはがけ)したるを矢筈(やはず)に負ひて、薄穢(うすきたな)き護謨底(ゴムぞこ)の運動靴を履(は)いたり。
 所用は折入つて主(あるじ)に会ひたしとなり。生憎(あいにく)にも来る度(たび)他出中なりけれど、本意無(ほいな)げにも見えで急ぎ帰り、飽きもせずして通ひ来るなりけり。お峯は漸(やうや)く怪しと思初(おもひそ)めぬ。
 彼のあだかも三日続けて来(きた)れる日、その挙動の常ならず、殊(こと)には眼色凄(まなざしすご)く、憚(はばかり)も無く人を目戍(まも)りては、時ならぬに独(ひと)り打笑(うちゑ)む顔の坐寒(すずろさむ)きまでに可恐(おそろし)きは、狂人なるべし、しかも夜に入(い)るを候(うかが)ひ、時をも差(たが)へず訪(おとな)ひ来るなど、我家に祟(たたり)を作(な)すにはあらずや、とお峯は遽(にはか)に懼(おそれ)を抱(いだ)きて、とても一度は会ひて、又と足踏せざらんやう、ひたすら直行にその始末を頼みければ、今日は用意して、四時頃にはや還(かへ)り来にけるなり。
「どうも貴方(あなた)、あれは気違ですよ。それでも品の良(い)いことは、些(ちよい)とまあ旗本か何かの隠居さんと謂(い)つたやうな、然し一体、鼻の高い、目の大きい、痩(や)せた面長(おもなが)な、怖(こは)い顔なんですね。戸外(おもて)へ来て案内する時のその声といふものが、実に無いんですよ。毎(いつ)でも極(きま)つて、『頼みます、はい頼みます』とかう雍(しとやか)に、緩(ゆつく)り二声言ふんで。もうもうその声を聞くと悚然(ぞつ)として、ああ可厭(いや)だ。何だつて又あんな気違なんぞが来出したんでせう。本当に縁起でもない!」
 お峯は柱なる時計を仰ぎぬ。燈(あかし)の点(とも)るには未だ間ありと見るなるべし。直行は可難(むづか)しげに眉(まゆ)を寄せ、唇(くちびる)を引結びて、
「何者か知らんて、一向心当(こころあたり)と謂うては無い。名は言はんて?」
「聞きましたけれど言ひませんの。あの様子ぢや名なんかも解りは為ますまい」
「さうして今晩来るのか」
「来られては困りますけれど、きつと来ますよ。あんなのが毎晩々々来られては耐(たま)りませんから、貴方本当に来ましたら、篤(とつく)り説諭して、もう来ないやうに作(なす)つて下さいよ」
「そりや受合へん。他(さき)が気違ぢやもの」
「気違だから私(わたし)も気味が悪いからお頼申すのぢやありませんか」
「幾多(いくら)頼まれたてて、気違ぢやもの、俺(おれ)も為やうは無い」
 頼める夫(つま)のさしも思はで頼無(たのみな)き言(ことば)に、お峯は力落してかつは尠(すくな)からず心慌(あわつ)るなり。
「貴方でも可けないやうだつたらば、巡査にさう言つて引渡して遣(や)りませう」
 直行は打笑(うちわら)へり。
「まあ、そんなに騒がんとも可(え)え」
「騒ぎはしませんけれど、私は可厭ですもの」
「誰も気違の好(え)えものは無い」
「それ、御覧なさいな」
「何じや」
 知らず、その老女(ろうによ)は何者、狂か、あらざるか、合力(ごうりよく)か、物売か、将(はた)主(あるじ)の知人(しりびと)か、正体の顕(あらは)るべき時はかかる裏(うち)にも一分時毎に近(ちかづ)くなりき。
 終日(ひねもす)灰色に打曇りて、薄日をだに吝(をし)みて洩(もら)さざりし空は漸(やうや)く暮れんとして、弥増(いやま)す寒さは怪(けし)からず人に逼(せま)れば、幾分の凌(しの)ぎにもと家々の戸は例よりも早く鎖(ささ)れて、なほ稍明(ややあか)くその色厚氷(あつこほり)を懸けたる如き西の空より、隠々(いんいん)として寂き余光の遠く来(きた)れるが、遽(にはか)に去るに忍びざらんやうに彷徨(さまよ)へる巷(ちまた)の此処彼処(ここかしこ)に、軒ラムプは既に点じ了りて、新に白き焔(ほのほ)を放てり。
 一陣の風は砂を捲(ま)きて起りぬ。怪しの老女(ろうによ)はこの風に吹出(ふきいだ)されたるが如く姿を顕はせり。切髪は乱れ逆竪(さかだ)ちて、披払(はたはた)と飄(ひるがへ)る裾袂(すそたもと)に靡(なびか)されつつ漂(ただよは)しげに行きつ留りつ、町の南側を辿(たど)り辿りて、鰐淵が住へる横町に入(い)りぬ。銃槍(じゆうそう)の忍返(しのびがへし)を打ちたる石塀(いしべい)を溢(あふ)れて一本(ひともと)の梅の咲誇れるを、斜(ななめ)に軒ラムプの照せるがその門(かど)なり。
 彼は殆(ほとん)ど我家に帰り来(きた)れると見ゆる態度にて、□々(つかつか)と寄りて戸を啓(あ)けんとしたれど、啓かざりければ、かの雍(しとやか)に緩(ゆる)しと謂ふ声して、
「頼みます、はい、頼みます」
 風は□々(ひようひよう)と鳴りて過ぎぬ。この声を聞きしお峯は竦(すく)みて立たず。
「貴方、来ましたよ」
「うん、あれか」
 実(げ)に直行も気味好からぬ声とは思へり。小鍋立(こなべだて)せる火鉢(ひばち)の角(かど)に猪口(ちよく)を措(お)き、燈(あかし)を持(も)て来よと婢(をんな)に命じて、玄関に出でけるが、先(ま)づ戸の内より、
「はい何方(どなた)ですな」
「旦那(だんな)はお宅でございませうか」
「居りますが、何方(どなた)で」
 答はあらで、呟(つぶや)くか、□(ささや)くか、小声ながら頻(しきり)に物言ふが聞ゆるのみ。
「何方(どなた)ですか、お名前は何と有仰(おつしや)るな」
「お目に掛れば解ります。何に致せ、おおお、まあ、梅が好く咲きましたぢやございませんか。当日の挿花(はな)はやつぱりこの梅が宜(よろし)からうと存じます。さあ、どうぞ此方(こちら)へお入り下さいまし、御遠慮無しに、さあ」
 啓(あ)けんとせしに啓かざれば、彼は戸を打叩(うちたた)きて劇(はげし)く案内(あない)す。さては狂人なるよと直行も迷惑したれど、このままにては逐(お)ふとも立去るまじきに、一度(ひとたび)は会うてとにもかくにも為(せ)んと、心ならずも戸を開けば、聞きしに差(たが)はぬ老女(ろうによ)は入来(いりきた)れり。
「鰐淵は私(わし)じやが、何ぞ用かな」
「おお、おまへが鰐淵か!」
 つと乗出(のりいだ)してその面(おもて)に瞳(ひとみ)を据ゑられたる直行は、鬼気に襲はれて忽(たちま)ち寒く戦(をのの)けるなり。熟(つくづ)くと見入る眼(まなこ)を放つと共に、老女は皺手(しわで)に顔を掩(おほ)ひて潜々(さめざめ)と泣出(なきいだ)せり。呆(あき)れ果てたる直行は金壺眼(かなつぼまなこ)を凝(こら)してその泣くを眺むる外はあらざりけり。
 彼は泣きて泣きて止まず。
「解らんな! 一体どう云ふんか、ああ、私(わし)に用と云ふのは?」
 朽木の自(おのづか)ら頽(くづ)れ行くらんやうにも打萎(うちしを)れて見えし老女は、猛然(もうねん)として振仰ぎ、血声を搾(しぼ)りて、
「この大騙(おほかたり)め!」
「何ぢやと!」
「大、大悪人! おのれのやうな奴が懲役に行かずに、内の……内の……雅之(まさゆき)のやうな孝行者が……先祖を尋ぬれば、甲斐国(かいのくに)の住人武田大膳太夫(たけだだいぜんだゆう)信玄入道(しんげんにゆうどう)、田夫野人(でんぷやじん)の為に欺かれて、このまま断絶する家へ誰が嫁に来る。柏井(かしわい)の鈴(すう)ちやんがお嫁に来てくれれば、私(わたし)の仕合は言ふまでもない、雅之もどんなにか嬉からう。子を捨てる藪(やぶ)は有つても、懲役に遣る親は無いぞ。二十七にはなつても世間不見(みず)のあの雅之、能(よ)うも能うもおのれは瞞(だま)したな! さあ、さあさ讐(かたき)を討つから立合ひなさい」
 直行は舌を吐きて独語(ひとりご)ちぬ。
「あ、いよいよ気違じやわい」
 見る見る老女の怒(いかり)は激して、形相(ぎようそう)漸くおどろおどろしく、物怪(もののけ)などの□(つ)いたるやうに、一挙一動も全くその人ならず、足を踏鳴し踏鳴し、白歯の疎(まばら)なるを牙(きば)の如く露(あらは)して、一念の凝(こ)れる眸(まなじり)は直行の外(ほか)を見ず、
「歿(なくな)られた良人(つれあひ)から懇々(くれぐれ)も頼まれた秘蔵の秘蔵の一人子(ひとりつこ)、それを瞞しておのれが懲役に遣つたのだ。此方(このほう)を女と侮(あなど)つてさやうな不埒(ふらち)を致したか。長刀(なぎなた)の一手も心得てゐるぞよ。恐入つたか」
 彼は忽(たちま)ちさも心地快(ここちよ)げに笑へり。
「さうあらうとも、赦(ゆる)します。内には鈴(すう)ちやんが今日を曠(はれ)と着飾つて、その美しさと謂ふものは! ほんにまああんな縹致(きりよう)と云ひ、気立と云ひ、諸芸も出来れば、読(よみ)、書(かき)、針仕事(はりしごと)、そんなことは言つてゐるところではない。頸(くび)を長くして待つてお在(いで)だのに、早く帰つて来ないと云ふ法が有るものですか。大きにまあお世話様でございましたね、さあさ、馬車を待たして置いたから、履物(はきもの)はここに在るよ。なあに、おまへ私はね、□車(きしや)で行くから訳は無いとも」
 かく言ふ間も忙(せは)しげに我が靴を脱ぎて、其処(そこ)に直すと見れば、背負ひし風呂敷包の中結(なかゆひ)を釈きて、直行が前に上掛(うはがけ)の油紙を披(ひろ)げたり。
「さあさ、お前の首をこの中へ入れるのだ。ころつと落して。直(ぢき)に落ちるから、早く落してお了ひなさい」
 さすがに持扱(もてあつか)ひて直行の途方に暮れたるを、老女は目を纖(ほそ)めて、何処(いづこ)より出づらんやとばかり世にも奇(あやし)き声を発(はな)ちて緩(ゆる)く笑ひぬ。彼は謂知(いひし)らぬ凄気(せいき)に打れて、覚えず肩を聳(そびや)かせり。
 懲役と言ひ、雅之と言ふに因(よ)りて、彼は始めてこの狂女の身元を思合せぬ。彼の債務者なる飽浦雅之(あくらまさゆき)は、私書偽造罪を以(も)つて彼の被告としてこの十数日前(ぜん)、罰金十円、重禁錮(じゆうきんこ)一箇年に処せられしなり。実(げ)にその母なり。その母はこれが為に乱心せしか。
 爾思(しかおも)へりしのみにて直行はその他に猶(なほ)も思ふべき事あるを思ふを欲せざりき。雅之の私書偽造罪をもて刑せられしは事実の表にして、その罪は裏面に彼の謀(はか)りて陥れたるなり。
 彼等の用ゐる悪手段の中(うち)に、人の借(か)るを求めて連帯者を得るに窮するあれば、その一判にても話合(はなしあひ)の上は貸さんと称(とな)へて先(ま)づ誘(いざな)ひ、然(しか)る後、但(ただ)し証書の体(てい)を成さしめんが為、例の如く連帯者の記名調印を要すればとて、仮に可然(しかるべ)き親族知己(しるべ)などの名義を私用して、在合ふ印章を捺(お)さしめ、固(もと)より懇意上の内約なればその偽(いつはり)なるを咎(とが)めず、と手軽に持掛けて、実は法律上有効の証書を造らしむるなり。借方もかかる所業の不義なるを知るといへども、一(いつ)は焦眉(しようび)の急に迫り、一(いつ)は期限内にだに返弁せば何事もあらじと姑息(こそく)して、この術中には陥るなりけり。
 期に□(およ)びて還さざらんか、彼は忽(たちま)ち爪牙(そうが)を露(あらは)し、陰に告訴の意を示してこれを脅(おびやか)し、散々に不当の利を貪(むさぼ)りて、その肉尽き、骨枯るるの後、猶(な)ほ□(あ)く無き慾は、更に件(くだん)の連帯者に対して寝耳に水の強制執行を加ふるなり。これを表沙汰(おもてざた)にせば債務者は論無う刑法の罪人たらざるべからず、ここに於(おい)て誰(たれ)か恐慌し、狼狽(ろうばい)し、悩乱し、号泣し、死力を竭(つく)して七所借(ななとこがり)の調達(ちようだつ)を計らざらん。この時魔の如き力は喉(のんど)を扼(やく)してその背を□(う)つ、人の死と生とは渾(すべ)て彼が手中に在りて緊握せらる、欲するところとして得られざるは無し。
 雅之もこの※(わな)[#「(箆−竹−比)/民」、265-5]に繋(かか)りて学友の父の名を仮りて連印者に私用したりき。事の破綻(はたん)に及びて、不幸にも相識れる学友は折から海外に遊学して在らず、しかも父なる人は彼を識らざりしより、その間の調停成らずして、彼の行為は終(つひ)に第二百十条の問ふところとなりぬ。
 法律は鉄腕の如く雅之を拉(らつ)し去りて、剰(あまつ)さへ杖(つゑ)に離れ、涙に蹌(よろぼ)ふ老母をば道の傍(かたはら)に□返(けかへ)して顧ざりけり。噫(ああ)、母は幾許(いかばかり)この子に思を繋(か)けたりけるよ。親に仕(つか)へて、此上無(こよな)う優かりしを、柏井(かしわい)の鈴(すず)とて美き娘をも見立てて、この秋には妻(めあは)すべかりしを、又この歳暮(くれ)には援(ひ)く方(かた)有りて、新に興るべき鉄道会社に好地位を得んと頼めしを、事は皆休(や)みぬ、彼は人の歯(よはひ)せざる国法の罪人となり了(をは)れり。耻辱(ちじよく)、憤恨、悲歎、憂愁、心を置惑ひてこの母は終に発狂せるなり。
 無益(むやく)に言(ことば)を用ゐんより、唯手柔(ただてやはらか)に撮(つま)み出すに如(し)かじと、直行は少しも逆(さから)はずして、
「ああ宜(よろし)いが。この首が欲いか、遣らうとも遣らうとも、ここでは可かんから外(おもて)へ行かう。さあ一処に来た」
 狂女は苦々しげに頭(かしら)を掉(ふ)りて、
「お前さんの云ふことは皆妄(うそ)だ。その手で雅之を瞞(だま)したのだらう。それ、それ見なさい、親孝行の、正直者の雅之を瞞着(だまくらか)して、散々金を取つた上に懲役に遣つたに相違無いと云ふ一札(いつさつ)をこの通り入れたぢやないか、これでも未(ま)だ□(しらじら)しい顔をしてゐるのか」
 打披(うちひろ)げたりし油紙を取りて直行の目先へ突付くれば、何を包みし移香(うつりが)にや、胸悪き一種の腥気(せいき)ありて夥(おびただし)く鼻を撲(う)ちぬ。直行は猶(なほ)も逆はで已(や)む無く面(おもて)を背(そむ)けたるを、狂女は目を□(みは)りつつ雀躍(こをどり)して、
「おおおお、あれあれ! これは嬉(うれし)い、自然とお前さんの首が段々細くなつて来る。ああ、それそれ、今にもう落ちる」
 地には落さじとやうに慌(あわ)て□(ふため)き、油紙もて承けんと為(せ)る、その利腕(ききうで)をやにはに捉(とら)へて直行は格子(こうし)の外へ□(おしだ)さんと為たり。彼は推(おさ)れながら格子に縋(すが)りて差理無理(しやりむり)争ひ、
「ええ、おのれは他(ひと)をこの崖(がけ)から突落す気だな。この老婦(としより)を騙討(だましうち)に為るのだな」
 喚(わめ)きつつ身を捻返(ねぢかへ)して、突掛けし力の怪き強さに、直行は踏辷(ふみすべ)らして尻居に倒るれば、彼は囃(はや)し立てて笑ふなり。忽(たちま)ち起上りし直行は彼の衿上(えりがみ)を掻掴(かいつか)みて、力まかせに外方(とのかた)へ突遣(つきや)り、手早く雨戸を引かんとせしに、軋(きし)みて動かざる間(ひま)に又駈戻(かけもど)りて、狂女はその凄(すさまし)き顔を戸口に顕(あら)はせり。余りの可恐(おそろ)しさに直行は吾を忘れてその顔をはたと撲(う)ち、痿(ひる)むところを得たりと鎖(とざ)せば、外より割るるばかりに戸を叩きて、
「さあ、首を渡せ。大事な証文も取上げて了つたな、大事な靴も取つたな。靴盗坊(くつどろぼう)、大騙(おほかたり)! 首を寄来(よこ)せ」
 直行は佇(たたず)みて様子を候(うかが)ひゐたり。抜足差足(ぬきあしさしあし)忍び来(きた)れる妻は、後より小声に呼びて、
「貴方、どうしました」
 夫は戸の外を指(ゆびさ)してなほ去らざるを示せり。お峯は土間に護謨靴(ゴムぐつ)と油紙との遺散(おちち)れるを見付けて、由無(よしな)き質を取りけるよと思(おも)ひ煩(わづら)へる折しも、
「頼みます、はい、頼みますよ」
 と例の声は聞えぬ。お峯は胴顫(どうぶるひ)して、長くここに留(とどま)るに堪へず、夫を勧めて奥に入(い)りにけり。
 戸叩く音は後(のち)も撓(たゆ)まず響きたりしが、直行の裏口より出でて窺(うかが)ひける時は、風吹荒(ふきすさ)ぶ門(かど)の梅の飛雪(ひせつ)の如く乱点して、燈火の微(ほのか)に照す処その影は見えざるなりき。
 次の日も例刻になれば狂女は又訪(と)ひ来れり。主(あるじ)は不在なりとて、婢(をんな)をして彼の遺(のこ)せし二品(ふたしな)を返さしめけるに、前夜の暴(あ)れに暴れし気色(けしき)はなくて、殊勝に聞分けて帰り行きぬ。
 お峯はその翌日も必ず来(きた)るべきを懼(おそ)れて夫の在宅を請ひけるが、果して来にけり。又試に婢(をんな)を出(いだ)して不在の由(よし)を言はしめしに、こたびは直(ぢき)に立去らで、
「それぢやお帰来(かへり)までここでお待ち申しませう。実はね、是非お受取申す品があるので、それを持つて帰りませんと都合が悪いのですから、幾日でもお待ち申しますよ」
 彼は戸口(かどぐち)に蹲(うづくま)りて動かず。婢は様々に言作(いひこしら)へて賺(すか)しけれど、一声も耳には入(い)らざらんやうに、石仏(いしぼとけ)の如く応ぜざるなり。彼は已(や)む無くこれを奥へ告げぬ。直行も為(せ)ん術(すべ)あらねば棄措(すてお)きたりしに、やや二時間も居て見えずなりぬ。
 お峯は心苦(こころぐるし)がりて、この上は唯警察の手を借らんなど噪(さわ)ぐを、直行は人を煩(わづらは)すべき事にはあらずとて聴かず。さらば又と来ざらんやうに逐払(おひはら)ふべき手立(てだて)のありやと責むるに、害を為(な)すにもあらねば、宿無犬(やどなしいぬ)の寝たると想ひて意(こころ)に介(かく)るなとのみ。意(こころ)に介(か)くまじき如きを故(ことさら)に夫には学ばじ、と彼は腹立(はらだたし)く思へり。この一事(いちじ)のみにあらず、お峯は常に夫の共に謀(はか)ると謂ふこと無くて、女童(をんなわらべ)と侮(あなど)れるやうに取合はぬ風あるを、口惜(くちをし)くも可恨(うらめし)くも、又或時は心細さの便無(たよりな)き余に、神を信ずる念は出でて、夫の頼むに足らざるところをば神明(しんめい)の冥護(みようご)に拠(よ)らんと、八百万(やほよろづ)の神といふ神は差別無(しやべつな)く敬神せるが中にも、ここに数年前(ぜん)より新に神道の一派を開きて、天尊教と称ふるあり。神体と崇(あが)めたるは、その光紫の一大明星(みようじよう)にて、御名(おんな)を大御明尊(おおみあかりのみこと)と申す。天地渾沌(てんちこんとん)として日月(じつげつ)も未(いま)だ成らざりし先高天原(たかまがはら)に出現ましませしに因(よ)りて、天上天下万物の司(つかさ)と仰ぎ、諸(もろもろ)の足らざるを補ひ、総(すべ)て欠けたるを完(まつた)うせしめんの大御誓(おほみちかひ)をもて国土百姓を寧(やすらけ)く恵ませ給ふとなり。彼は夙(つと)に起信して、この尊をば一身一家(いつけ)の守護神(まもりがみ)と敬ひ奉り、事と有れば祈念を凝(こら)して偏(ひとへ)に頼み聞ゆるにぞありける。
 この夜は別して身を浄(きよ)め、御燈(みあかし)の数を献(ささ)げて、災難即滅、怨敵退散(おんてきたいさん)の祈願を籠(こ)めたりしが、翌日(あくるひ)の点燈頃(ひともしごろ)ともなれば、又来にけり。夫は出でて未(いま)だ帰らざれば、今日若(も)し罵(ののし)り噪(さわ)ぎて、内に躍入(をどりい)ることもやあらば如何(いかに)せんと、前後の別(わかれ)知らぬばかりに動顛(どうてん)して、取次には婢を出(いだ)し遣(や)り、躬(みづから)は神棚(かみだな)の前に駈着(かけつ)け、顫声(ふるひごゑ)を打揚(うちあ)げ、丹精を抽(ぬきん)でて祝詞(のりと)を宣(の)りゐたり。狂女は不在と聞きて敢(あへ)て争はず、昨日(きのふ)の如く、ここにて帰来(かへり)を待たんとて、同(おなじ)き処に同き形して蹲(うづくま)れり。婢は格子を鎖(さ)し固めて内に入(い)りけるが、暫(しばら)くは音も為ざりしに、遽(にはか)に物語る如き、或(あるひ)は罵(ののし)る如き声の頻(しきり)に聞ゆるより主(あるじ)の知らで帰来(かへりき)て、捉(とら)へられたるにはあらずや、と台所の小窓より差覗(さしのぞ)けば、彼の外には人も在らぬに、在るが如く語るなり。その語るところは婢の耳に聞分けかねたれど、我子がここの主(あるじ)に欺かれて無実の罪に陥されし段々を、前後不揃(あとさきぶぞろひ)に泣いつ怒りつ訴ふるなり。

     第七章

 子の讐(かたき)なる直行が首を獲(え)んとして夕々(ゆふべゆふべ)に狂女の訪ひ来ること八日に□(およ)べり。浅ましとは思へど、逐(お)ひて去らしむべきにあらず、又門口(かどぐち)に居たりとて人を騒がすにもあらねば、とにもかくにも手を着けかねて棄措(すておか)るるなりき。直行が言へりし如く、畢竟(ひつきよう)彼は何等の害をも加ふるにあらざれば、犬の寝たると太(はなは)だ択(えら)ばざるべけれど、縮緬(ちりめん)の被風(ひふ)着たる人の形の黄昏(たそが)るる門の薄寒きに踞(つくば)ひて、灰色の剪髪(きりがみ)を掻乱(かきみだ)し、妖星(ようせい)の光にも似たる眼(まなこ)を睨反(ねめそら)して、笑ふかと見れば泣き、泣くかと見れば憤(いか)り、己(おのれ)の胸のやうに際(そこひ)も知らず黒く濁れる夕暮の空に向ひてその悲(かなしみ)と恨とを訴へ、腥(なまぐさ)き油紙を拈(ひね)りては人の首を獲んを待つなる狂女! よし今は何等の害を加へずとも、終(つひ)にはこの家に祟(たたり)を作(な)すべき望を繋(か)くるにあらずや。人の執着の一念は水をも火と成し、山をも海と成し、鉄を劈(つんざ)き、巌(いはほ)を砕くの例(ためし)、ましてや家を滅(めつ)し、人を鏖(みなごろし)にすなど、塵(ちり)を吹くよりも易(やす)かるべきに、可恐(おそろ)しや事無くてあれかしと、お峯は独(ひと)り謂知(いひし)らず心を傷(いた)むるなり。
 夫は決(け)して雅之の私書偽造を己(おのれ)の陥れし巧(たくみ)なりとは彼に告げざれば、悪は正(まさし)く狂女の子に在りて、此方(こなた)に恨を受くべき筋は無く、自(おのづか)らかかる事も出来(いでく)るは家業の上の勝負にて、又一方には貸倒(かしだふれ)の損耗あるを思へば、所詮(しよせん)仆(たふ)し、仆さるるは商(あきなひ)の習と、お峯は自(おのづか)ら意(こころ)を強うして、この老女(ろうによ)の狂(くるひ)を発せしを、夫の為(な)せる業(わざ)とは毫(つゆ)も思ひ寄(よす)るにあらざりき。さは謂(い)へ、人の親の切なる情(なさけ)を思へば、実(げ)にさぞと肝に徹(こた)ふる節無(ふしな)きにもあらざるめり。大方かかる筋より人は恨まれて、奇(あやし)き殃(わざはひ)にも遭(あ)ふなればと唯思過(ただおもひすご)されては窮無(きはまりな)き恐怖(おそれ)の募るのみ。
 日に日に狂女の忘れず通ひ来るは、陰ながら我等の命を絶たんが為にて、多時(しばらく)門(かど)に居て動かざるは、その妄執(もうしゆう)の念力(ねんりき)を籠(こ)めて夫婦を呪(のろ)ふにあらずや、とほとほと信ぜらるるまでにお峯が夕暮の心地は譬(たと)へん方無く悩されぬ。されば狂女の門(かど)に在る間は、大御明尊(おおみあかしのみこと)の御前(おんまへ)に打頻(うちしき)り祝詞(のりと)を唱ふるにあらざれば凌(しの)ぐ能(あた)はず。
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