金色夜叉
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著者名:尾崎紅葉 

「さう? でも、何処(どこ)も悪い所なんぞ有りはしません。余(あんま)り体を動(いご)かさないから、その所為(せゐ)かも知れません。けれども、この頃は時々気が鬱(ふさ)いで鬱いで耐(たま)らない事があるの。あれは血の道と謂(い)ふんでせうね」
「ああ、それは血の道さ。私なんぞも持病にあるのだから、やつぱりさうだらうよ。それでも、それで痩せるやうぢや良くないのだから、お医者に診(み)てもらふ方が可いよ、放つて措(お)くから畢竟(ひつきよう)持病にもなるのさ」
 宮は唯頷(うなづ)きぬ。
 母は不図思起してや、さも慌忙(あわただ)しげに、
「後が出来たのぢやないかい」
 宮は打笑(うちゑ)みつ。されども例の可羞(はづか)しとにはあらで傍痛(かたはらいた)き余を微見(ほのみ)せしやうなり。
「そんな事はありはしませんわ」
「さう何日(いつ)までも沙汰(さた)が無くちや困るぢやないか。本当に未(ま)だそんな様子は無いのかえ」
「有りはしませんよ」
「無いのを手柄にでもしてゐるやうに、何だね、一人はもう無くてどうするのだらう、先へ寄つて御覧、後悔を為るから。本当なら二人ぐらゐ有つて好い時分なのに、あれきり後が出来ないところを見ると、やつぱり体が弱いのだね。今の内養生して、丈夫にならなくちや可けないよ。お前はさうして平気で、いつまでも若くて居る気なのだらうけれど、本宅の方なんぞでも後が後がつて、どんなに待兼ねてお在(いで)だか知れはしないのだよ。内ぢや又阿父(おとつ)さんは、あれはどうしたと謂ふんだらう、情無い奴だ。子を生み得ないのは女の恥だつて、慍(おこ)りきつてゐなさるくらゐだのに、当人のお前と云つたら、可厭(いや)に落着いてゐるから、憎らしくてなりはしない。さうして、お前は先(せん)の内は子供が所好(すき)だつた癖に、自分の子は欲くないのかね」
 宮もさすがに当惑しつつ、
「欲くない事はありはしませんけれど、出来ないものは為方が無いわ」
「だから、何でも養生して、体を丈夫にするのが専(せん)だよ」
「体が弱いとお言ひだけれど、自分には別段ここが悪いと思ふところも無いから、診(み)てもらふのも変だし……けれどもね、阿母(おつか)さん、私は疾(とう)から言はう言はうと思つてゐたのですけれど、実は気に懸る事があつてね、それで始終何だか心持が快(よ)くないの。その所為(せゐ)で自然と体も良くないのかしらんと思ふのよ」
 母のその目は□(みは)り、その膝(ひざ)は前(すす)み、その胸は潰(つぶ)れたり。
「どうしたのさ!」
 宮は俯(うつむ)きたりし顔を寂しげに起して、
「私(わたし)ね、去年の秋、貫一(かんいつ)さんに逢つてね……」
「さうかい!」
 己だに聞くを憚(はばか)る秘密の如く、母はその応(こた)ふる声をも潜めて、まして四辺(あたり)には油断もあらぬ気勢(けはひ)なり。
「何処(どこ)で」
「内の方へも全然(まるきり)爾来(あれから)の様子は知れないの?」
「ああ」
「些(ちつと)も?」
「ああ」
「どうしてゐると云ふやうな話も?」
「ああ」
 かく纔(わづか)に応ふるのみにて、母は自ら湧(わか)せる万感の渦の裏(うち)に陥りてぞゐたる。
「さう? 阿父(おとつ)さんは内証で知つてお在(いで)ぢやなくて?」
「いいえ、そんな事は無いよ。何処で逢つたのだえ」
 宮はその梗概(あらまし)を語れり。聴ゐる母は、彼の事無くその場を遁(のが)れ得てし始末を詳(つまびら)かにするを俟(ま)ちて、始めて重荷を下したるやうに□(ほ)と息を咆(つ)きぬ。実(げ)に彼は熱海の梅園にて膩汗(あぶらあせ)を搾(しぼ)られし次手(ついで)悪さを思合せて、憂き目を重ねし宮が不幸を、不愍(ふびん)とも、惨(いぢら)しとも、今更に親心を傷(いた)むるなりけり。されども過ぎしその事よりは、為に宮が前途に一大障礙(しようげ)の或(あるひ)は来(きた)るべきを案じて、母はなかなか心穏(こころおだやか)ならず、
「さうして貫一はどうしたえ」
「お互に知らん顔をして別れて了つたけれど……」
「ああそれから?」
「それきりなのだけれど、私は気になつてね。それも出世して立派になつてゐるのなら、さうも思はないけれど、つまらない風采(なり)をして、何だか大変羸(やつ)れて、私も極(きまり)が悪かつたから、能くは見なかつたけれど、気の毒のやうに身窄(みすぼらし)い様子だつたわ。それに、聞けばね、番町の方の鰐淵(わにぶち)とかいふ、地面や家作なんぞの世話をしてゐる内に使はれて、やつぱり其処(そこ)に居るらしいのだから、好い事は無いのでせう、ああして子供の内から一処(いつしよ)に居た人が、あんなになつてゐるかと思ふと、昔の事を考へ出して、私は何だか情無くなつて……」
 彼は襦袢(じゆばん)の袖(そで)の端(はし)に窃(そ)と□(まぶた)を□(す)りて、
「好い心持はしないわ、ねえ」
「へええ、そんなになつてゐるのかね」
 母の顔色も異(あやし)き寒さにや襲はるると見えぬ。
「それまでだつて、憶出(おもひだ)さない事は無いけれど、去年逢つてからは、毎日のやうに気になつて、可厭(いや)な夢なんぞを度々(たびたび)見るの。阿父(おとつ)さんや、阿母(おつか)さんに会ふ度に、今度は話さう、今度は話さうと思ひながら、私の口からは何と無く話し難(にく)いやうで、実は今まで言はずにゐたのだけれど、その事が初中終(しよつちゆう)苦になる所為(せゐ)で気を傷(いた)めるから体にも障(さは)るのぢやないかと、さう想ふのです」
 思凝(おもひこら)せるやうに母は或方を見据ゑつつ、言(ことば)は無くて頷(うなづ)きゐたり。
「それで、私は阿母さんに相談して、貫一さんをどうかして上げたいの――あの時にそんな話も有つたのでせう。さうして依旧(やつぱり)鴫沢(しぎさわ)の跡は貫一さんに取(とら)して下さいよ、それでなくては私の気が済まないから。今までは行方(ゆきがた)が知れなかつたから為方がないけれど、聞合せれば直(ぢき)に分るのだから、それを抛(はふ)つて措(お)いちや此方(こつち)が悪いから、阿父さんにでも会つて貰(もら)つて、何とか話を付けるやうにして下さいな。さうして従来通(これまでどほり)に内で世話をして、どんなにもあの人の目的を達しさして、立派に吾家(うち)の跡を取して下さい。私はさうしたら兄弟の盃(さかづき)をして、何処までも生家(さと)の兄さんで、末始終力になつて欲いわ」
 宮がこの言(ことば)は決して内に自ら欺き、又敢て外に他(ひと)を欺くにはあらざりき。影とも儚(はかな)く隔(へだて)の関の遠き恋人として余所(よそ)に朽さんより、近き他人の前に己を殺さんぞ、同く受くべき苦痛ならば、その忍び易きに就かんと冀(こひねが)へるなり。
「それはさうでもあらうけれど、随分考へ物だよ。あのひとの事なら、内でも時々話が出て、何処にどうしてゐるかしらんつて、案じないぢやないけれど、阿父さんも能(よ)くお言ひのさ、如何(いか)に何だつて、余り貫一の仕打が憎いつて。成程それは、お前との約束ね、それを反古(ほご)にしたと云ふので、齢(とし)の若いものの事だから腹も立たう、立たうけれど、お前自分の身の上も些(ちつと)は考へて見るが可いわね。子供の内からああして世話になつて、全く内のお蔭でともかくもあれだけにもなつたのぢやないか、その恩も有れば、義理も有るのだらう。そこ所(どこ)を些(ちつ)と考へたら、あれぎり家出をして了ふなんて、あんなまあ面抵(つらあて)がましい仕打振をするつてが有るものかね。
 それぢやあの約束を反古にして、もうお前には用は無いからどうでも独(ひとり)で勝手に為るが可い、と云ふやうな不人情なことを仮初(かりそめ)にも為たのぢやなし、鴫沢の家は譲らうし、所望(のぞみ)なら洋行も為(さ)せやうとまで言ふのぢやないか。それは一時は腹も立たうけれど、好く了簡して前後を考へて見たら、万更訳の解らない話をしてゐるのぢやないのだもの、私達の顔を立ててくれたつて、そんなに罰(ばち)も当りはしまいと思ふのさ。さうしてお剰(まけ)に、阿父さんから十分に訳を言つて、頭を低(さ)げないばかりにして頼んだのぢやないかね。だから此方(こつち)には少しも無理は無い筈(はず)だのに、貫一が余(あんま)り身の程を知らな過(すぎ)るよ。
 それはね、阿父さんが昔あの人の親の世話になつた事があるさうさ、その恩返(おんがへし)なら、行処(ゆきどこ)の無い躯(からだ)を十五の時から引取つて、高等学校を卒業するまでに仕上げたから、それで十分だらうぢやないか。
 全く、お前、貫一の為方(しかた)は増長してゐるのだよ。それだから、阿父さんだつて、私だつて、ああされて見ると決して可愛(かはゆ)くはないのだからね、今更此方(こつち)から捜出して、とやかう言ふほどの事はありはしないよ。それぢや何ぼ何でも不見識とやらぢやないか」
 その不見識とやらを嫌(きら)ふよりは、別に嫌ふべく、懼(おそ)るべく、警(いまし)むべき事あらずや、と母は私(ひそか)に慮(おもひはか)れるなり。
「阿父(おとつ)さんや阿母(おつか)さんの身になつたら、さう思ふのは無理も無いけれど、どうもこのままぢや私が気が済まないんですもの。今になつて考へて見ると、貫一さんが悪いのでなし、阿父さん阿母さんが悪いのでなし、全く私一人が悪かつたばかりに、貫一さんには阿父さん阿母さんを恨ませるし、阿父さん阿母さんには貫一さんを悪く思はせたのだから、やつぱり私が仲へ入つて、元々通に為なければ済まないと思ふんですから、貫一さんの悪いのは、どうぞ私に免じて、今までの事は水に流して了つて、改めて貫一さんを内の養子にして下さいな。若しさうなれば、私もそれで苦労が滅(なくな)るのだから、きつと体も丈夫になるに違無いから、是非さう云ふ事に阿父さんにも頼んで下さいな、ねえ、阿母さん。さうして下さらないと、私は段々体を悪くするわ」
 かく言出でし宮が胸は、ここに尽(ことごと)くその罪を懺悔(ざんげ)したらんやうに、多少の涼きを覚ゆるなりき。
「そんなに言ふのなら、還(かへ)つて阿父さんに話をして見やうけれど、何もその所為(せゐ)で体が弱くなると云ふ訳も無かりさうなものぢやないか」
「いいえ、全くその所為よ。始終そればかり苦になつて、時々考込むと、実に耐(たま)らない心持になることがあるんですもの、この間逢ふ前まではそんなでもなかつたのだけれど、あれから急に――さうね、何と謂(い)つたら可いのだらう――私があんなに不仕合(ふしあはせ)な身分にして了(しま)つたとさう思つて、さぞ恨んでゐるだらうと、気の毒のやうな、可恐(おそろし)いやうな、さうして、何と無く私は悲くてね。外(ほか)には何も望は無いから、どうかあの人だけは元のやうにして、あの優い気立で、末始終阿父さんや阿母さんの世話をして貰つたら、どんなに嬉(うれし)からうと、そんな事ばかり考へては鬱(ふさ)いでゐるのです。いづれ私からも阿父さんに話をしますけれど、差当(さしあたり)阿母さんから好くこの訳をさう言つて、本当に頼んで下さいな。私二三日の内に行きますから」
 されども母は投首(なげくび)して、
「私の考量(かんがへ)ぢや、どうも今更ねえ……」
「阿母さんは! 何もそんなに貫一さんを悪く思はなくたつて可いわ。折角話をして貰はうと思ふ阿母さんがさう云ふ気ぢや、とても阿父さんだつて承知をしては下さるまいから……」
「お前がそれまでに言ふものだから、私は不承知とは言はないけれど……」
「可いの、不承知なのよ。阿父さんもやつぱり貫一さんが憎くて、大方不承知なんでせうから、私は□拠(あて)にはしないから、不承知なら不承知でも可いの」
 涙含(なみだぐ)みつつ宮が焦心(せきごころ)になれるを、母は打惑ひて、
「まあ、お聞きよ。それは、ね、……」
「阿母さん、可いわ――私、可いの」
「可(よ)かないよ」
「可かなくつても可いわ」
「あれ、まあ、……何だね」
「どうせ可いわ。私の事はかまつてはおくれでないのだから……」
 我にもあらで迸(ほとばし)る泣声を、つと袖に抑(おさ)へても、宮は急来(せきく)る涙を止(とど)めかねたり。
「何もお前、泣くことは無いぢやないか。可笑(をかし)な人だよ、だからお前の言ふことは解つてゐるから、内へ帰つて、善く話をした上で……」
「可いわ。そんなら、さうで私にも了簡(りようけん)があるから、どうとも私は自分で為るわ」
「自分でそんな事を為るなんて、それは可くないよ。かう云ふ事は決してお前が自分で為ることぢやないのだから、それは可けませんよ」
「…………」
「帰つたら阿父(おとつ)さんに善く話を為やうから、……泣くほどの事は無いぢやないかね」
「だから、阿母(おつか)さんは私の心を知らないのだから、頼効(たのみがひ)が無い、と謂(い)ふのよ」
「多度(たんと)お言ひな」
「言ふわ」
 真顔作れる母は火鉢(ひばち)の縁(ふち)に丁(とん)と煙管(きせる)を撃(はた)けば、他行持(よそゆきもち)の暫(しばら)く乾(から)されて弛(ゆる)みし雁首(がんくび)はほつくり脱けて灰の中に舞込みぬ。

     第四章

 頭部に受けし貫一が挫傷(ざしよう)は、危(あやふ)くも脳膜炎を続発せしむべかりしを、肢体(したい)に数個所(すかしよ)の傷部とともに、その免るべからざる若干(そくばく)の疾患を得たりしのみにて、今や日増に康復(こうふく)の歩を趁(お)ひて、可艱(なやま)しげにも自ら起居(たちゐ)を扶(たす)け得る身となりければ、一日一夜を為(な)す事も無く、ベッドの上に静養を勉(つと)めざるべからざる病院の無聊(ぶりよう)をば、殆(ほとん)ど生きながら葬られたらんやうに倦(う)み困(こう)じつつ、彼は更にこの病と相関する如く、関せざる如く併発したる別様の苦悩の為に侵さるるなりき。
 主治医も、助手も、看護婦も、附添婆(つきそひばば)も、受附も、小使も、乃至(ないし)患者の幾人も、皆目を側(そば)めて彼と最も密なる関係あるべきを疑はざるまでに、満枝の頻繁(しげしげ)病(やまひ)を訪ひ来るなり。三月にわたる久きをかの美き姿の絶えず出入(しゆつにゆう)するなれば、噂(うはさ)は自(おのづ)から院内に播(ひろま)りて、博士の某(ぼう)さへ終(つひ)に唆(そそのか)されて、垣間見(かいまみ)の歩をここに枉(ま)げられしとぞ伝へ侍(はべ)る。始の程は何者の美形(びけい)とも得知れざりしを、医員の中に例の困(くるし)められしがありて、名著(なうて)の美人(びじ)クリイムと洩(もら)せしより、いとど人の耳を驚かし、目を悦(よろこば)す種とはなりて、貫一が浮名もこれに伴ひて唱はれけり。
 さりとは彼の暁(さと)るべき由無けれど、何の廉(かど)もあらむに足近く訪はるるを心憂く思ふ余に、一度ならず満枝に向ひて言ひし事もありけれど、見舞といふを陽(おもて)にして訪ひ来るなれば、理として好意を拒絶すべきにあらず。さは謂(い)へ、こは情(なさけ)の掛※(かけわな)[#「(箆−竹−比)/民」、233-15]と知れば、又甘んじて受くべきにもあらず、しかのみならで、彼は素より満枝の為人(ひととなり)を悪(にく)みて、その貌(かたち)の美きを見ず、その思切(おもひせつ)なるを汲まんともせざるに、猶(なほ)かつ主(ぬし)ある身の謬(あやま)りて仇名(あだな)もや立たばなど気遣(きづか)はるるに就けて、貫一は彼の入来(いりく)るに会へば、冷き汗の湧出(わきい)づるとともに、創所(きずしよ)の遽(にはか)に疼(うづ)き立ちて、唯異(ただあやし)くも己(おのれ)なる者の全く痺(しび)らさるるに似たるを、吾ながら心弱しと尤(とが)むれども効(かひ)無かりけり。実(げ)に彼は日頃この煩(わづらひ)を逃れん為に、努めてこの敵を避けてぞ過せし。今彼の身は第二医院の一室に密封せられて、しかも隠るる所無きベッドの上に横(よこた)はれれば、宛然(さながら)爼板(まないた)に上れる魚(うを)の如く、空(むなし)く他の為すに委(まか)するのみなる仕合(しあはせ)を、掻□(かきむし)らんとばかりに悶(もだ)ゆるなり。
 かかる苦(くるし)き枕頭(まくらもと)に彼は又驚くべき事実を見出(みいだ)しつつ、飜(ひるが)へつて己を顧れば、測らざる累の既に逮(およ)べる迷惑は、その藁蒲団(わらぶとん)の内に針(はり)の包れたる心地して、今なほ彼の病むと謂はば、恐くは外に三分(さんぶ)を患(わづら)ひて、内に却(かへ)つて七分(しちぶ)を憂ふるにあらざらんや。貫一もそれをこそ懸念(けねん)せしが、果して鰐淵(わにぶち)は彼と満枝との間を疑ひ初めき。彼は又鰐淵の疑へるに由りて、その人と満枝との間をも略(ほぼ)推(すい)し得たるなり。
 例の煩(わづらし)き人は今日も訪(と)ひ来(き)つ、しかも仇(あだ)ならず意(こころ)を籠(こ)めたりと覚(おぼし)き見舞物など持ちて。はや一時間余を過せども、彼は枕頭に起ちつ、居つして、なかなか帰り行くべくも見えず。貫一は寄付(よせつ)けじとやうに彼方(あなた)を向きて、覚めながら目を塞(ふさ)ぎていと静に臥(ふ)したり。附添婆(つきそひばば)の折から出行(いでゆ)きしを候(うかが)ひて、満枝は椅子を躙(にじ)り寄せつつ、
「間(はざま)さん、間さん。貴方(あなた)、貴方」
 と枕の端(はし)を指もて音なへど、眠れるにもあらぬ貫一は何の答をも与へず、満枝は起ちてベッドの彼方(あなた)へ廻り行きて、彼の寐顔(ねがほ)を差覗(さしのぞ)きつ。
「間さん」
 猶答へざりけるを、軽く肩の辺(あたり)を撼(うごか)せば、貫一はさるをも知らざる為(まね)はしかねて、始めて目を開きぬ。彼はかく覚めたれど、満枝はなほ覚めざりし先の可懐(なつか)しげに差寄りたる態(かたち)を改めずして、その手を彼の肩に置き、その顔を彼の枕に近けたるまま、
「私(わたくし)貴方に些(ちよつ)とお話をして置かなければならない事があるのでございますから、お聞き下さいまし」
「あ、まだ在(ゐら)しつたのですか」
「いつも長居を致して、さぞ御迷惑でございませう」
「…………」
「外でもございませんが……」
 彼の隔(へだて)無く身近に狎(な)るるを可忌(うとま)しと思へば、貫一はわざと寐返(ねがへ)りて、椅子を置きたる方(かた)に向直り、
「どうぞ此方(こちら)へ」
 この心を暁(さと)れる満枝は、飽くまで憎き事為るよと、持てるハンカチイフにベッドを打ちて、かくまでに遇(あつか)はれながら、なほこの人を慕はでは已(や)まぬ我身かと、効(かひ)無くも余に軽く弄(もてあそ)ばるるを可愧(はづかし)うて佇(たたず)みたり。されども貫一は直(すぐ)に席を移さざる満枝の為に、再び言(ことば)を費さんとも為(せ)ざりけり。
 気嵩(きがさ)なる彼は胸に余して、聞えよがしに、
「□(ああ)、貴方には軽蔑(けいべつ)されてゐる事を知りながら、何為(なぜ)私(わたくし)腹を立てることが出来ないのでせう。実に貴方は!」
 満枝は彼の枕を捉(とら)へて顫(ふる)ひしが、貫一の寂然(せきぜん)として眼(まなこ)を閉ぢたるに益(ますます)苛(いらだ)ちて、
「余(あんま)り酷(ひど)うございますよ。間さん、何とか有仰(おつしや)つて下さいましな」
 彼は堪へざらんやうに苦(にが)りたる口元を引歪(ひきゆが)めて、
「別に言ふ事はありません。第一貴方のお見舞下さるのは難有(ありがた)迷惑で……」
「何と有仰(おつしや)います!」
「以来はお見舞にお出で下さるのを御辞退します」
「貴方、何と……□」
 満枝は眉(まゆ)を昂(あ)げて詰寄せたり。貫一は仰ぎて眼(まなこ)を塞(ふた)ぎぬ。
 素(もと)より彼の無愛相なるを満枝は知れり。彼の無愛相の己(おのれ)に対しては更に甚(はなはだし)きを加ふるをも善く知れり。満枝が手管(てくだ)は、今その外(おもて)に顕(あらは)せるやうに決(け)して内に怺(こら)へかねたるにはあらず、かくしてその人と諍(いさか)ふも、また□(かな)はざる恋の内に聊(いささ)か楽む道なるを思へるなり。涙微紅(ほのあか)めたる□(まぶた)に耀(かがや)きて、いつか宿せる暁(あかつき)の葩(はなびら)に露の津々(しとど)なる。
「お内にも御病人の在るのに、早く帰つて上げたが可いぢやありませんか。私(わたくし)も貴方に度々(たびたび)来て戴くのは甚(はなは)だ迷惑なのですから」
「御迷惑は始から存じてをります」
「いいや、未だ外にこの頃のがあるのです」
「ああ! 鰐淵さんの事ではございませんか」
「まあ、さうです」
「それだから、私お話が有ると申したのではございませんか。それを貴方は、私と謂ふと何でも鬱陶(うつと)しがつて、如何(いか)に何でもそんなに作(なさ)るものぢやございませんよ。その事ならば、貴方が御迷惑遊ばしてゐらつしやるばかりぢやございません。私だつてどんなに窮(こま)つてをるか知れは致しません。この間も鰐淵さんが可厭(いや)なことを有仰(おつしや)つたのです。私些(ちつと)もかまひは致しませんけれど、さうでもない、貴方がこの先御迷惑あそばすやうな事があつてはと存じて、私それを心配致してをるくらゐなのでございます」
 聴ゐざるにはあらねど、貫一は絶えて応答(うけこたへ)だに為(せ)ざるなり。
「実は疾(とう)からお話を申さうとは存じたのでございますけれど、そんな可厭(いや)な事を自分の口から吹聴らしく、却(かへ)つて何も御存じない方が可からうと存じて、何も申上げずにをつたのでございますが、鰐淵様(さん)のかれこれ有仰(おつしや)るのは今に始つた事ではないので、もう私実に窮(こま)つてをるのでございます。始終好い加減なことを申しては遁(に)げてをるのですけれど、鰐淵さんは私が貴方をこんなに……と云ふ事は御存じなかつたのですから、それで済んでをりましたけれど、貴方が御入院あそばしてから、私かうして始終お訪ね申しますし、鰐淵さんも頻繁(しげしげ)いらつしやるので、度々(たびたび)お目に懸るところから、何とかお想ひなすつたのでございませう。それで、この間は到頭それを有仰(おつしや)つて、訳が有るなら有るで、隠さずに話をしろと有仰るのぢやございませんか。私為方がありませんから、お約束をしたと申して了(しま)ひました」
「え!」と貫一は繃帯(ほうたい)したる頭を擡(もた)げて、彼の有為顔(したりがほ)を赦(ゆる)し難く打目戍(うちまも)れり。満枝はさすが過(あやまち)を悔いたる風情(ふぜい)にて、やをら左の袂(たもと)を膝(ひざ)に掻載(かきの)せ、牡丹(ぼたん)の莟(つぼみ)の如く揃(そろ)へる紅絹裏(もみうら)の振(ふり)を弄(まさぐ)りつつ、彼の咎(とがめ)を懼(おそ)るる目遣(めづかひ)してゐたり。
「実に怪(け)しからん! ※(ばか)[#「言+(「荒」の「亡」の代わりに「曷−日−勹」)」、238-8]なことを有仰(おつしや)つたものです」
 萎(しを)るる満枝を尻目に掛けて、
「もう可いから、早くお還り下さい」
 彼を喝(かつ)せし怒(いかり)に任せて、半(なかば)起したりし体(たい)を投倒せば、腰部(ようぶ)の創所(きずしよ)を強く抵(あ)てて、得堪(えた)へず呻(うめ)き苦むを、不意なりければ満枝は殊(こと)に惑(まど)ひて、
「どう遊ばして? 何処(どこ)ぞお痛みですか」
 手早く夜着(よぎ)を揚げんとすれば、払退(はらひの)けて、
「もうお還り下さい」
 言放ちて貫一は例の背(そびら)を差向けて、遽(にはか)に打鎮(うちしづま)りゐたり。
「私(わたくし)還りません! 貴方がさう酷く有仰(おつしや)れば、以上還りません。いつまでも居られる躯(からだ)ではないのでございますから、順(おとなし)く還るやうにして還して下さいまし」
 いとはしたなくて立てる満枝は闥(ドア)の啓(あ)くに驚かされぬ。入来(いりきた)れるは、附添婆(つきそひばば)か、あらず。看護婦か、あらず。国手(ドクトル)の回診か、あらず。小使か、あらず。あらず!
 胡麻塩羅紗(ごましほらしや)の地厚なる二重外套(にじゆうまわし)を絡(まと)へる魁肥(かいひ)の老紳士は悠然(ゆうぜん)として入来(いりきた)りしが、内の光景(ありさま)を見ると斉(ひとし)く胸悪き色はつとその面(おもて)に出(い)でぬ。満枝は心に少(すこ)く慌(あわ)てたれど、さしも顕(あらは)さで、雍(しとや)かに小腰を屈(かが)めて、
「おや、お出(いで)あそばしまし」
「ほほ、これは、毎度お見舞下さつて」
 同く慇懃(いんぎん)に会釈はすれど、疑も無く反対の意を示せる金壺眼(かなつぼまなこ)は光を逞(たくまし)う女の横顔を瞥見(べつけん)せり。静に臥(ふ)したる貫一は発作(パロキシマ)の来(きた)れる如き苦悩を感じつつ、身を起して直行(ただゆき)を迎ふれば、
「どうぢやな。好(え)え方がお見舞に来てをつて下さるで、可(え)えの」
 打付(うちつけ)に過ぎし言(ことば)を二人ともに快からず思へば、頓(とみ)に答(いらへ)は無くて、その場の白(しら)けたるを、さこそと謂(い)はんやうに直行の独(ひと)り笑ふなりき。如何(いか)に答ふべきか。如何に言釈(いひと)くべきか、如何に処すべきかを思煩(おもひわづら)へる貫一は艱(むづか)しげなる顔を稍(やや)内向けたるに、今はなかなか悪怯(わるび)れもせで満枝は椅子の前なる手炉(てあぶり)に寄りぬ。
「然しお宅の御都合もあるぢやらうし、又お忙(せはし)いところを度々お見舞下されては痛入(いたみい)ります。それにこれの病気も最早快(よ)うなるばかりじやで御心配には及ばんで、以来お出(い)で下さるのは何分お断り申しまする」
 言黒(いひくろ)めたる邪魔立を満枝は面憎(つらにく)がりて、
「いいえ、もうどう致しまして、この御近辺まで毎々次手(ついで)がありますのでございますから、その御心配には及びません」
 直行の眼(まなこ)は再び輝けり。貫一は憖(なまじひ)に彼を窘(くるし)めじと、傍(かたはら)より言(ことば)を添へぬ。
「毎度お訪ね下さるので、却(かへ)つて私(わたくし)は迷惑致すのですから、どうか貴方から可然(しかるべく)御断り下さるやうに」
「当人もお気の毒に思うてあの様に申すで、折角ではありますけど、決して御心配下さらんやうに、のう」
「お見舞に上りましてはお邪魔になりまする事ならば、私(わたくし)差控へませう」
 満枝は色を作(な)して直行を打見遣(うちみや)りつつ、その面(おもて)を引廻(ひきめぐら)して、やがて非(あら)ぬ方(かた)を目戍(まも)りたり。
「いや、いや、な、決(け)して、そんな訳ぢや……」
「余(あんま)りな御挨拶で! 女だと思召(おぼしめ)して有仰(おつしや)るのかは存じませんが、それまでのお指図(さしづ)は受けませんで宜(よろし)うございます」
「いや、そんなに悪う取られては甚(はなは)だ困る、畢竟(ひつきよう)貴方(あんた)の為を思ひますじやに因(よ)つて……」
「何と有仰います。お見舞に出ますのが、何で私(わたくし)の不為(ふため)になるのでございませう」
「それにお心着(こころづき)が無い?」
 その能く用ゐる微笑を弄(ろう)して、直行は巧(たくみ)に温顔を作れるなり。
 満枝は稍(やや)急立(せきた)ちぬ。
「ございません」
「それは、お若いでさう有らう。甚だ失敬ながら、すいぢや申して見やう。な。貴方もお若けりや間も若い。若い男の所へ若い女子(をなご)が度々出入(でいり)したら、そんな事は無うても、人がかれこれ言ひ易(やす)い、可(え)えですか、そしたら、間はとにかくじや、赤樫様(あかがしさん)と云ふ者のある貴方の躯(からだ)に疵(きず)が付く。そりや、不為ぢやありますまいか、ああ」
 陰には己(おのれ)自ら更に甚(はなはだし)き不為を強(し)ひながら、人の口といふもののかくまでに重宝なるが可笑(をか)し、と満枝は思ひつつも、
「それは御深切に難有(ありがた)う存じます。私はとにかく、間さんはこれからお美(うつくし)い御妻君をお持ち遊ばす大事のお躯(からだ)でゐらつしやるのを、私のやうな者の為に御迷惑遊ばすやうな事が御座いましては何とも済みませんですから、私自今(これから)慎(つつし)みますでございます」
「これは太(えら)い失敬なことを申しましたに、早速お用ゐなさつて難有い。然し、間も貴方のやうな方と嘘(うそ)にもかれこれ言(いは)るるんぢやから、どんなにも嬉(うれし)いぢやらう、私(わし)のやうな老人ぢやつたら、死ぬほどの病気したて、赤樫さんは訪ねても下さりや為(す)まいにな」
 貫一は苦々しさに聞かざる為(まね)してゐたり。
「そんな事が有るものでございますか、お見舞に上りますとも」
「さやうかな。然し、こんなに度々来ては下さりやすまい」
「それこそ、御妻君が在(ゐら)つしやるのですから、余り頻繁(しげしげ)上りますと……」
 後は得言はで打笑める目元の媚(こび)、ハンカチイフを口蔽(くちおほひ)にしたる羞含(はぢがま)しさなど、直行はふと目を奪はれて、飽かず覚ゆるなりき。
「はッ、はッ、はッ、すぢや細君が無いで、ここへは安心してお出(いで)かな。私(わし)は赤樫さんの処へ行つて言ひますぞ」
「はい、有仰(おつしや)つて下さいまし。私(わたくし)此方(こなた)へ度々お見舞に出ますことは、宅でも存じてをるのでございますから、唯今も貴方(あなた)から御注意を受けたのでございますが、私も用を抱へてをる体でかうして上りますのは、お見舞に出なければ済まないと考へまする訳がございますからで、その実、上りますれば、間さんは却(かへ)つて私の伺ふのを懊悩(うるさ)く思召(おぼしめ)してゐらつしやるのですから、それは私のやうな者が余り参つてはお目障(めざはり)か知れませんけれど、外の事ではなし、お見舞に上るのでございますから、そんなに作(なさ)らなくても宜(よろし)いではございませんか。
 然し、それでも私気に懸つて、かうして上るのは、でございます、宅(たく)へお出(いで)になつた御帰途(おかへりみち)にこの御怪我(おけが)なんでございませう。それに、未(ま)だ私済みません事は、あの時大通の方をお帰りあそばすと有仰つたのを、津守坂(つのかみざか)へお出(いで)なさる方がお近いとさう申してお勧め申すと、その途(みち)でこの御災難でございませう。で私考へるほど申訳が無くて、宅でも大相気に致して、勉めてお見舞に出なければ済まないと申すので、その心持で毎度上るのでございますから、唯今のやうな御忠告を伺ひますと、私実に心外なのでございます。そんなにして上れば、間さんは間さんでお喜(よろこび)が無いのでございませう」
 彼はいと辛(つら)しとやうに、恨(うらめ)しとやうに、さては悲しとやうにも直行を視(み)るなりけり。直行は又その辛し、恨し、悲しとやうの情に堪へざらんとする満枝が顔をば、窃(ひそか)に金壺眼(かなつぼまなこ)の一角を溶(とろか)しつつ眺入(ながめい)るにぞありける。
「さやうかな。如何(いか)さま、それで善う解りましたじや。太(えら)い御深切な事で、間もさぞ満足ぢやらうと思ひまする。又私(わし)からも、そりや厚うお礼を申しまするじや、で、な、お礼はお礼、今の御忠告は御忠告じや、悪う取つて下さつては困る。貴方がそんなに念(おも)うて、毎々お訪ね下さると思や、私も実に嬉いで、折角の御好意をな、どうか卻(しりぞく)るやうな、失敬なことは決して言ひたうはないんじや、言ふのはお為を念ふからで、これもやつぱり年寄役なんぢやから、捨てて措(お)けんで。年寄と云ふ者は、これでとかく嫌(きら)はるるじや。貴方もやつぱり年寄はお嫌ひぢやらう。ああ、どうですか、ああ」
 赤髭(あかひげ)を拈(ひね)り拈りて、直行は女の気色(けしき)を偸視(ぬすみみ)つ。
「さやうでございます。お年寄は勿論(もちろん)結構でございますけれど、どう致しても若いものは若い同士の方が気が合ひまして宜いやうでございますね」
「すぢやて、お宅の赤樫さんも年寄でせうが」
「それでございますから、もうもう口喧(くちやかまし)くてなりませんのです」
「ぢや、口喧うも、気難(きむづかし)うもなうたら、どうありますか」
「それでも私好きませんでございますね」
「それでも好かん? 太(えら)う嫌うたもんですな」
「尤(もつと)も年寄だから嫌ふ、若いから一概に好くと申す訳には参りませんでございます。いくら此方(こつち)から好きましても、他(さき)で嫌はれましては、何の効(かひ)もございませんわ」
「さやう、な。けど、貴方(あんた)のやうな方が此方(こつち)から好いたと言うたら、どんな者でも可厭(いや)言ふ者は、そりや無い」
「あんな事を有仰(おつしや)つて! 如何(いかが)でございますか、私そんな覚はございませんから、一向存じませんでございます」
「さやうかな。はッはッ。さやうかな。はッはッはッ」
 椅子も傾くばかりに身を反(そら)して、彼はわざとらしく揺上(ゆりあ)げ揺上げて笑ひたりしが、
「間、どうぢやらう。赤樫さんはああ言うてをらるるが、さうかの」
「如何(いかが)ですか、さう云ふ事は」
 誰(たれ)か烏(からす)の雌雄(しゆう)を知らんとやうに、貫一は冷然として嘯(うそぶ)けり。
「お前も知らんかな、はッはッはッはッ」
「私が自分にさへ存じませんものを、間さんが御承知有らう筈(はず)はございませんわ。ほほほほほほほほ」
 そのわざとらしさは彼にも遜(ゆづ)らじとばかり、満枝は笑ひ囃(はや)せり。
 直行が眼(まなこ)は誰を見るとしも無くて独(ひと)り耀(かがや)けり。
「それでは私もうお暇(いとま)を致します」
「ほう、もう、お帰去(かへり)かな。私(わし)もはや行かん成らんで、其所(そこ)まで御一処に」
「いえ、私些(ちよつ)と、あの、西黒門町(にしくろもんちよう)へ寄りますでございますから、甚(はなは)だ失礼でございますが……」
「まあ、宜(よろし)い。其処(そこ)まで」
「いえ、本当に今日(こんにち)は……」
「まあ、宜いが、実は、何じや、あの旭座(あさひざ)の株式一件な、あれがつい纏(まとま)りさうぢやで、この際お打合(うちあはせ)をして置かんと、『琴吹(ことぶき)』の収債(とりたて)が面白うない。お目に掛つたのが幸(さいはひ)ぢやから、些(ちよつ)とそのお話を」
「では、明日(みようにち)にでも又、今日は些(ち)と急ぎますでございますから」
「そんなに急にお急ぎにならんでも宜いがな。商売上には年寄も若い者も無い、さう嫌はれてはどうもならん」
 姑(しばら)く推(おし)問答の末彼は終(つひ)に満枝を拉(らつ)し去れり。迹(あと)に貫一は悪夢の覚めたる如く連(しきり)に太息(ためいき)□(つ)いたりしが、やがて為(せ)ん方無げに枕(まくら)に就きてよりは、見るべき物もあらぬ方(かた)に、止(た)だ果無(はてしな)く目を奪れゐたり。

     第五章

 檜葉(ひば)、樅(もみ)などの古葉貧しげなるを望むべき窓の外に、庭ともあらず打荒れたる広場は、唯麗(うららか)なる日影のみぞ饒(ゆたか)に置余(おきあま)して、そこらの梅の点々(ぼちぼち)と咲初めたるも、自(おのづか)ら怠り勝に風情(ふぜい)作らずと見ゆれど、春の色香(いろか)に出(い)でたるは憐(あはれ)むべく、打霞(うちかす)める空に来馴(きな)るる鵯(ひよ)のいとどしく鳴頻(なきしき)りて、午後二時を過ぎぬる院内の寂々(せきせき)たるに、たまたま響くは患者の廊下を緩(ゆる)う行くなり。
 枕の上の徒然(つれづれ)は、この時人を圧して殆(ほとん)ど重きを覚えしめんとす。書見せると見えし貫一は辛(から)うじて夢を結びゐたり。彼は実(げ)に夢ならでは有得べからざる怪(あやし)き夢に弄(もてあそ)ばれて、躬(みづから)も夢と知り、夢と覚さんとしつつ、なほ睡(ねむり)の中に囚(とらは)れしを、端無(はしな)く人の呼ぶに駭(おどろか)されて、漸(やうや)く慵(ものう)き枕を欹(そばだ)てつ。
 愕然(がくぜん)として彼は瞳(ひとみ)を凝(こら)せり。ベッドの傍(かたはら)に立てるは、その怪き夢の中に顕(あらは)れて、終始相離(あひはな)れざりし主人公その人ならずや。打返し打返し視(み)れども訪来(とひきた)れる満枝に紛(まぎれ)あらざりき。とは謂(い)へ、彼は夢か、あらぬかを疑ひて止まず。さるはその真ならんよりなほ夢の中(うち)なるべきを信ずるの当れるを思へるなり、美しさも常に増して、夢に見るべき姿などのやうに四辺(あたり)も可輝(かがやかし)く、五六歳(いつつむつ)ばかりも若(わかや)ぎて、その人の妹なりやとも見えぬ。まして、六十路(むそぢ)に余れる夫有(つまも)てる身と誰(たれ)かは想ふべき。
 髪を台湾銀杏(たいわんいちよう)といふに結びて、飾(かざり)とてはわざと本甲蒔絵(ほんこうまきゑ)の櫛(くし)のみを挿(さ)したり。黒縮緬(くろちりめん)の羽織に夢想裏(むそううら)に光琳風(こうりんふう)の春の野を色入(いろいり)に染めて、納戸縞(なんどじま)の御召の下に濃小豆(こいあづき)の更紗縮緬(さらさちりめん)、紫根七糸(しこんしちん)に楽器尽(がつきつくし)の昼夜帯して、半襟(はんえり)は色糸の縫(ぬひ)ある肉色なるが、頸(えり)の白きを匂(にほ)はすやうにて、化粧などもやや濃く、例の腕環のみは燦爛(きらきら)と煩(うるさ)し。今日は殊(こと)に推(お)して来にけるを、得堪(えた)へず心の尤(とが)むらん風情(ふぜい)にて佇(たたず)める姿(すがた)限無(かぎりな)く嬌(なまめ)きて見ゆ。
「お寝(やすみ)のところを飛んだ失礼を致しました。私(わたくし)上(あが)る筈(はず)ではないのでございますけれど、是非申上げなければなりません事がございますので、些(ちよつ)と伺ひましたのでございますから、今日(こんにち)のところはどうか御堪忍(ごかんにん)あそばして」
 彼の許(ゆるし)を得んまでは席に着くをだに憚(はばか)る如く、満枝は漂(ただよは)しげになほ立てるなり。
「はあ、さやうですか。一昨々日あれ程申上げたのに……」
 内に燃ゆる憤(いかり)を抑(おさ)ふるとともに貫一の言(ことば)は絶えぬ。
「鰐淵さんの事なのでございますの。私困りまして、どういたしたら宜(よろし)いのでございませう……間さん、かうなのでございますよ」
「いや、その事なら伺ふ必要は無いのです」
「あら、そんなことを有仰(おつしや)らずに……」
「失礼します。今日(こんにち)は腰の傷部(きず)が又痛みますので」
「おや、それは、お劇(きつ)いことはお在(あん)なさらないのでございますか」
「いえ、なに」
「どうぞお楽に在(ゐら)しつて」
 貫一は無雑作に郡内縞(ぐんないじま)の掻巻(かいまき)引被(ひきか)けて臥(ふ)しけるを、疎略あらせじと満枝は勤篤(まめやか)に冊(かしづ)きて、やがて己(おのれ)も始めて椅子に倚(よ)れり。
「貴方(あなた)の前でこんな事は私申上げ難(にく)いのでございますけれど、実は、あの一昨々日でございますね、ああ云ふ訳で鰐淵さんと御一処に参りましたところが、御飯を食べるから何でも附合へと有仰(おつしや)るので、湯島(ゆしま)の天神の茶屋へ寄りましたのでございます。さう致すと、案の定可厭(いやらし)い事をもうもう執濃(しつこ)く有仰るのでございます。さうして飽くまで貴方の事を疑(うたぐ)つて、始終それを有仰るので、私一番それには困りました。あの方もお年効(としがひ)の無い、物の道理がお解りにならないにも程の有つたもので、一体私を何と思召(おぼしめ)してゐらつしやるのか存じませんが、客商売でもしてをる者に戯(たはむ)れるやうな事を、それも一度や二度ではないのでございますから、私残念で、一昨々日なども泣いたのでございます。で、この後二度とそんな事の有仰れないやうに、私その場で十分に申したことは申しましたけれど、変に気を廻してゐらつしやる方の事でございますから、取(と)んだ八当(やつあたり)で貴方へ御迷惑が懸りますやうでは、何とも私申訳がございませんから、どうぞそれだけお含み置き下さいまして、悪(あし)からず……。
 今度お会ひあそばしたら、鰐淵さんが何とか有仰るかも知れません。さぞ御迷惑でゐらつしやいませうけれど、そこは宜(よろし)いやうに有仰つて置いて下さいまし。それも貴方が何とか些(ちよつと)でも思召してゐらつしやる方とならば、そんな事を有仰られるのもまた何でございませうけれど、嫌抜(きらひぬ)いてお在(いで)あそばす私(わたくし)のやうな者と訳でもあるやうに有仰(おつしや)られるのは、さぞお辛くてゐらつしやいませうけれど、私のやうな者に見込れたのが因果とお諦(あきら)め遊ばしまし。
 貴方も因果なれば、私も……私は猶(なほ)因果なのでございますよ。かう云ふのが実に因果と謂(い)ふのでございませうね」
 金煙管(きんぎせる)の莨(たばこ)の独(ひと)り杳眇(ほのぼの)と燻(くゆ)るを手にせるまま、満枝は儚(はかな)さの遣方無(やるかたな)げに萎(しを)れゐたり。さるをも見向かず、答(いら)へず、頑(がん)として石の如く横(よこた)はれる貫一。
「貴方もお諦め下さいまし、全く因果なのでございますから、切(せめ)てさうと諦めてでもゐて下されば、それだけでも私幾分か思が透(とほ)つたやうな気が致すのでございます。
 間さん。貴方は過日(いつぞや)私がこんなに思つてゐることを何日(いつ)までもお忘れないやうにと申上げたら、お志は決して忘れんと有仰いましたね。お覚えあそばしてゐらつしやいませう。ねえ、貴方、よもやお忘れは無いでせう。如何(いかが)なのでございますよ」
 勢ひて問詰むれば、極(きは)めて事も無げに、
「忘れません」
 満枝は彼の面(おもて)を絶(したたか)に怨視(うらみみ)て瞬(またたき)も為(せ)ず、その時人声して闥(ドア)は徐(しづか)に啓(あ)きぬ。
 案内せる附添の婆(ばば)は戸口の外に立ちて請じ入れんとすれば、客はその老に似気なく、今更内の様子を心惑(こころまどひ)せらるる体(てい)にて、彼にさへ可慎(つつまし)う小声に言付けつつ名刺を渡せり。
 満枝は如何なる人かと瞥(ちら)と見るに、白髪交(しらがまじ)りの髯(ひげ)は長く胸の辺(あたり)に垂れて、篤実の面貌痩(おもざしや)せたれども賤(いやし)からず、長(たけ)は高しとにあらねど、素(もと)より□(ゆたか)にもあらざりし肉の自(おのづか)ら齢(よはひ)の衰(おとろへ)に削れたれば、冬枯の峰に抽(ぬ)けるやうに聳(そび)えても見ゆ。衣服などさる可く、程を守りたるが奥幽(おくゆかし)くて、誰とも知らねどさすがに疎(おろそか)ならず覚えて、彼は早くもこの賓(まらうど)の席を設けて待てるなりき。
 貫一は婆の示せる名刺を取りて、何心無く打見れば、鴫沢隆三(しぎさわりゆうぞう)と誌(しる)したり。色を失へる貫一はその堪へかぬる驚愕(おどろき)に駆れて、忽(たちま)ち身を飜(ひるがへ)して其方(そなた)を見向かんとせしが、幾(ほとん)ど同時に又枕して、終(つひ)に動かず。狂ひ出でんずる息を厳(きびし)く閉ぢて、燃(もゆ)るばかりに瞋(いか)れる眼(まなこ)は放たず名刺を見入りたりしが、さしも内なる千万無量の思を裹(つつ)める一点の涙は不覚に滾(まろ)び出(い)でぬ。こは怪しと思ひつつも婆は、
「此方(こちら)へお通し申しませうで……」
「知らん!」
「はい?」
「こんな人は知らん」
 人目あらずば引裂き棄つべき名刺よ、涜(けがらは)しと投返せば床の上に落ちぬ。彼は強(し)ひて目を塞(ふさ)ぎ、身の顫(ふる)ふをば吾と吾手に抱窘(だきすく)めて、恨は忘れずとも憤(いかり)は忍ぶべしと、撻(むちう)たんやうにも己を制すれば、髪は逆竪(さかだ)ち蠢(うごめ)きて、頭脳の裏(うち)に沸騰(わきのぼ)る血はその欲するままに注ぐところを求めて、心も狂へと乱螫(みだれさ)すなり。彼はこれと争ひて猶(なほ)も抑へぬ。面色は漸(やうや)く変じて灰の如し。婆は懼(おそ)れたる目色(めざし)を客の方へ忍ばせて、
「御存じないお方なので?」
「一向知らん。人違だらうから、断(ことわ)つて返すが可い」
「さやうでございますか。それでも、貴方様のお名前を有仰(おつしや)つてお尋ね……」
「ああ、何でも可いから早く断つて」
「さやうでございますか、それではお断り申しませうかね」

     (五)の二

 婆は鴫沢(しぎさわ)の前にその趣を述べて、投棄てられし名刺を返さんとすれば、手を後様(うしろさま)に束(つか)ねたるままに受取らで、強(し)ひて面(おもて)を和(やはら)ぐるも苦しげに見えぬ。
「ああ、さやうかね、御承知の無い訳は無いのだ。ははは、大分(だいぶ)久い前の事だから、お忘れになつたのか知れん、それでは宜(よろし)い。私(わし)が直(ぢか)にお目に掛らう。この部屋は間貫一さんだね、ああ、それでは間違無い」
 屹(き)と思案せる鴫沢の椅子ある方(かた)に進み寄れば、満枝は座を起ち、会釈して、席を薦(すす)めぬ。
「貫一さん、私(わし)だよ。久う会はんので忘れられたかのう」
 室の隅(すみ)に婆が茶の支度せんとするを、満枝は自ら行きて手を下し、或(あるひ)は指図もし、又自ら持来(もちきた)りて薦むるなど尋常の見舞客にはあらじと、鴫沢は始めてこの女に注目せるなり。貫一は知らざる如く、彼方(あなた)を向きて答へず。仔細(しさい)こそあれとは覚ゆれど、例のこの人の無愛想よ、と満枝は傍(よそ)に見つつも憫(あはれ)に可笑(をかし)かりき。
「貫一さんや、私(わし)だ。疾(とう)にも訪ねたいのであつたが、何にしろ居所が全然(さつぱり)知れんので。一昨日(おとつひ)ふと聞出したから不取敢(とりあへず)かうして出向いたのだが、病気はどうかのう。何か、大怪我(おほけが)ださうではないか」
 猶(なほ)も答のあらざるを腹立(はらだたし)くは思へど、満枝の居るを幸(さいはひ)に、
「睡(ね)てをりますですかな」
「はい、如何(いかが)でございますか」
 彼はこの長者の窘(くるし)めるを傍(よそ)に見かねて、貫一が枕に近く差寄りて窺(うかが)へば、涙の顔を褥(しとね)に擦付(すりつ)けて、急上(せきあ)げ急上げ肩息(かたいき)してゐたり。何事とも覚えず驚(おどろか)されしを、色にも見せず、怪まるるをも言(ことば)に出(いだ)さず、些(ちと)の心着さへあらぬやうに擬(もてな)して、
「お客様がいらつしやいましたよ」
「今も言ひました通り、一向識(し)らん方なのですから、お還し申して下さい」
 彼は面(おもて)を伏せて又言はず、満枝は早くもその意を推(すい)して、また多くは問はず席に復(かへ)りて、
「お人違ではございませんでせうか、どうも御覚が無いと有仰(おつしや)るのでございます」
 長き髯(ひげ)を推揉(おしも)みつつ鴫沢は為方無(せんかたな)さに苦笑(にがわらひ)して、
「人違とは如何(いか)なことでも! 五年や七年会はんでも私(わし)は未(ま)だそれほど老耄(ろうもう)はせんのだ。然し覚が無いと言へばそれまでの話、覚もあらうし、人違でもなからうと思へばこそ、かうして折角会ひにも来たらうと謂ふもの。老人の私がわざわざかうして出向いて来たのでのう、そこに免じて、些(ちよつ)とでも会うて貰ひませう」
 挨拶(あいさつ)如何にと待てども、貫一は音だに立てざるなり。
「それぢや、何かい、こんなに言うても不承してはくれんのかの。ああ、さやうか、是非が無い。
 然し、貫一さん、能(よ)う考へて御覧、まあ、私たちの事をどう思うてゐらるるか知らんが、お前さんの爾来(これまで)の為方(しかた)、又今日のこの始末は、ちと妥当(おだやか)ならんではあるまいか。とにかく鴫沢の翁(をぢ)に対してかう為たものではなからうと思ふがどうであらうの。成程お前さんの方にも言分はあらう、それも聞きに来た。私の方にも少(すこし)く言分の無いではない。それも聞かせたい。然し、かうしてわざわざ尋ねて来たものであるから、此方(こちら)では既に折れて出てゐるのだ。さうしてお前さんに会うて話と謂ふは、決(けつ)して身勝手な事を言ひに来たぢやない、やはり其方(そちら)の身の上に就いて善かれと計ひたい老婆心切(ろうばしんせつ)。私の方ではその当時に在つてもお前さんを棄てた覚は無し、又今日(こんにち)も五年前も同じ考量(かんがへ)で居るのだ。それを、まあ、若い人の血気と謂ふのであらう。唯一図に思ひ込んで誤解されたのか、私は如何にも残念でならん。今日(こんにち)までも誤解されてゐるのは愈(いよい)よ心外だで、お前さんの住所の知れ次第早速出掛けて来たのだ。凡(およ)そ此方(こちら)の了簡(りようけん)を誤解されてゐるほど心苦い事は無い。人の為に謀(はか)つて、さうして僅(わづか)の行違(ゆきちがひ)から恨まれる、恩に被(き)せうとて謀つたではないが、恨まれやうとは誰(たれ)にしても思はん。で、ああして睦(むつまし)う一家族で居つて、私たちも死水を取つて貰ふ意(つもり)であつたものを、僅の行違から音信不通(いんしんふつう)の間(なか)になつて了ふと謂ふは、何ともはや浅ましい次第で、私(わし)も誠に寐覚(ねざめ)が悪からうと謂ふもの、実に姨(をば)とも言暮してゐるのだ。私の方では何処(どこ)までも旧通(もとどほ)りになつて貰うて、早く隠居でもしたいのだ。それも然しお前さんの了簡が釈(と)けんでは話が出来ん。その話は二の次としても、差当り誤解されてゐる一条だ。会うて篤と話をしたら直(ぢき)に訳は分らうと思ふで、是非一通りは聞いて貰ひたい。その上でも心が釈けん事なら、どうもそれまで。私はお前さんの親御の墓へ詣(まゐ)つて、のう、抑(そもそ)もお前さんを引取つてから今日(こんにち)までの来歴を在様陳(ありようの)べて、鴫沢はこれこれの事を為、かうかう思ひまする、けれども成行でかう云ふ始末になりましたのは、残念ながら致方が無い、と丁(ちやん)とお分疏(ことわり)を言うて、そして私は私の一分(いちぶん)を立ててから立派に縁を切りたいのだ。のう。はや五年も便(たより)を為(せ)んのだから、お前さんは縁を切つた気であらうが、私の方では未だ縁は切らんのだ。
 私は考へる、たとへばこの鴫沢の翁(をぢ)の為た事が不都合であらうか知れん、けれども間貫一たる者は唯一度の不都合ぐらゐは如何(いか)にも我慢をしてくれんければ成るまいかと思ふのだ。又その我慢が成らんならば、も少し妥当(おだやか)に事を為てもらひたかつた。私の方に言分のあると謂ふのは其処(そこ)だ。言はせればその通り私にも言分はある。然し、そんな事を言ひに来たではない、私の方にも如何様(いかさま)手落があつたで、その詫(わび)も言はうし、又昔も今も此方(こちら)には心持に異変(かはり)は無いのだから、それが第一に知らせたい。翁が久しぶりで来たのだ、のう、貫一さん、今日(こんにち)は何も言はずに清う会うてくれ」
 曾(かつ)て聞かざりし恋人が身の上の秘密よ、と満枝は奇(あやし)き興を覚えて耳を傾けぬ。
 我強(がづよ)くも貫一のなほ言(ものい)はんとはせざるに、漸(やうや)く怺(こら)へかねたる鴫沢の翁はやにはに椅子を起ちて、強(し)ひてもその顔見んと歩み寄れり。事の由は知るべきやう無けれど、この客の言(ことば)を尽せるにも理(ことわり)聞えて、無下(むげ)に打(うち)も棄てられず、されども貫一が唯涙を流して一語を出(いだ)さず、いと善く識るらん人をば覚無しと言へる、これにもなかなか所謂(いはれ)はあらんと推測(おしはから)るれば、一も二も無く満枝は恋人に与(くみ)してこの場の急を拯(すく)はんと思へるなり。
 枕頭(まくらもと)を窺(うかが)ひつつ危む如く眉を攅(あつ)めて、鴫沢の未(いま)だ言出でざる時、
「私(わたくし)看病に参つてをります者でございますが、何方様(どなたさま)でゐらつしやいますか存じませんが、この一両日(いちりようにち)病人は熱の気味で始終昏々(うとうと)いたして、時々譫語(うはごと)のやうな事を申して、泣いたり、慍(おこ)つたり致すのでございますが、……」
 頭を捻向(ねぢむ)けて満枝に対せる鴫沢の顔の色は、この時故(ことさら)に解きたりと見えぬ。
「はあ、は、さやうですかな」
「先程から伺ひますれば、年来御懇意でゐらつしやるのを人違だとか申して、大相失礼を致してをるやうでございますが、やつぱり熱の加減で前後が解りませんのでございますから、どうぞお気にお懸け遊ばしませんやうに。この熱も直(ぢき)に除(と)れまするさうでございますから、又改めてお出(いで)を願ひたう存じます。今日(こんにち)は私御名刺を戴(いただ)いて置きまして、お軽快(こころよく)なり次第私から悉(くはし)くお話を致しますでございます」
「はあ、それはそれは」
「実は、何でございました。昨日もお見舞にお出で下すつたお方に変な事を申掛けまして、何も病気の事で為方(しかた)もございませんけれど、私弱りきりましたのでございます。今日(こんにち)は又如何(いかが)致したのでございますか、昨日とは全(まる)で反対であの通り黙りきつてをりますのですが、却つて無闇(むやみ)なことを申されるよりは始末が宜(よろし)いでございます」
 かくても始末は善しと謂ふかと、翁(をぢ)は打蹙(うちひそ)むべきを強(し)ひて易(か)へたるやうの笑(ゑみ)を洩(もら)せば、満枝はその言了(いひをは)せしを喜べるやうに笑ひぬ。彼は婆を呼びて湯を易へ、更に熱き茶を薦(すす)めて、再び客を席に着かしめぬ。
「さう云ふ訳では話も解りかねる。では又上る事に致しませう。手前は鴫沢隆三と申して――名刺を差上げて置きまする、これに住所も誌(しる)してあります――貴方は失礼ながらやはり鰐淵(わにぶち)さんの御親戚ででも?」
「はい、親戚ではございませんが、鰐淵さんとは父が極御懇意に致してをりますので、それに宅がこの近所でございますもので、ちよくちよくお見舞に上つてはお手伝を致してをります」
「はは、さやうで。手前は五年ほど掛違うて間とは会ひませんので、どうか去年あたり嫁を娶(もら)うたと聞きましたが、如何(いかが)いたしましたな」
 彼はこの美き看病人の素性知らまほしさに、あらぬ問をも設けたるなり。
「さやうな事はついに存じませんですが」
「はて、さうとばかり思うてをりましたに」
 容儀(かたち)人の娘とは見えず、妻とも見えず、しかも絢粲(きらきら)しう装飾(よそほひかざ)れる様は色を売る儔(たぐひ)にやと疑はれざるにはあらねど、言辞(ものごし)行儀の端々(はしはし)自(おのづか)らさにもあらざる、畢竟(ひつきよう)これ何者と、鴫沢は容易にその一斑(いつぱん)をも推(すい)し得ざるなりけり。されども、懇意と謂ふも、手伝と謂ふも、皆詐(いつはり)ならんとは想ひぬ。正(ただし)き筋の知辺(しるべ)にはあらで、人の娘にもあらず、又貫一が妻と謂ふにもあらずして、深き訳ある内証者なるべし。若(も)しさもあらば、貫一はその身の境遇とともに堕落して性根(しようね)も腐れ、身持も頽(くづ)れたるを想ふべし、とかくは好みて昔の縁を繋(つな)ぐべきものにあらず。如此(かくのごと)き輩(やから)を出入(でいり)せしむる鴫沢の家は、終(つひ)に不慮の禍(わざはひ)を招くに至らんも知るべからざるを、と彼は心中遽(にはか)に懼(おそれ)を生じて、さては彼の恨深く言(ことば)を容(い)れざるを幸(さいはひ)に、今日(こんにち)は一先(ひとまづ)立還(たちかへ)りて、尚(な)ほ一層の探索と一番の熟考とを遂(と)げて後、来(きた)る可(べ)くは再び来らんも晩(おそ)からず、と失望の裏(うち)別に幾分の得るところあるを私(ひそか)に喜べり。
「いや、これはどうも図らずお世話様に成りました。いづれ又近日改めてお目に掛りまするで、失礼ながらお名前を伺つて置きたうござりまするが」
「はい、私(わたくし)は」と紫根塩瀬(しこんしほぜ)の手提の中(うち)より小形の名刺を取出だして、
「甚(はなは)だ失礼でございますが」
「はい、これは。赤樫満枝(あかがしみつえ)さまと有仰(おつしや)いますか」
 この女の素性に於(お)ける彼の疑は益(ますます)暗くなりぬ。夫有(つまも)てる身の我は顔に名刺を用意せるも似気無(にげな)し、まして裏面(うら)に横文字を入れたるは、猶可慎(なほつつまし)からず。応対の雍(しとやか)にして人馴(ひとな)れたる、服装(みなり)などの当世風に貴族的なる、或(あるひ)は欧羅巴(ヨウロッパ)的女子職業に自営せる人などならずや。但しその余(あまり)に色美(いろよ)きが、又さる際(きは)には相応(ふさはし)からずも覚えて、こは終(つひ)に一題の麗(うるはし)き謎(なぞ)を彼に与ふるに過ぎざりき。鴫沢の翁は貫一の冷遇(ぶあしらひ)に慍(いきどほ)るをも忘れて、この謎(なぞ)の為に苦められつつ病院を辞し去れり。
 客を送り出でて満枝の内に入来(いりきた)れば、ベッドの上に貫一の居丈高(ゐたけだか)に起直りて、痩尽(やせすが)れたる拳(こぶし)を握りつつ、咄々(とつとつ)、言はで忍びし無念に堪へずして、独(ひと)り疾視(しつし)の瞳(ひとみ)を凝(こら)すに会へり。

     第六章

 数日前(すじつぜん)より鰐淵(わにぶち)が家は燈点(あかしとも)る頃を期して、何処(いづこ)より来るとも知らぬ一人の老女(ろうによ)に訪(とは)るるが例となりぬ。
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