金色夜叉
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著者名:尾崎紅葉 

 漆の如き闇(やみ)の中(うち)に貫一の書斎の枕時計は十時を打ちぬ。彼は午後四時より向島(むこうじま)の八百松(やおまつ)に新年会ありとて未(いま)だ還(かへ)らざるなり。
 宮は奥より手ラムプを持ちて入来(いりき)にけるが、机の上なる書燈を点(とも)し了(をは)れる時、婢(をんな)は台十能に火を盛りたるを持来(もちきた)れり。宮はこれを火鉢(ひばち)に移して、
「さうして奥のお鉄瓶(てつ)も持つて来ておくれ。ああ、もう彼方(あちら)は御寝(おやすみ)になるのだから」
 久(ひさし)く人気(ひとけ)の絶えたりし一間の寒(さむさ)は、今俄(にはか)に人の温き肉を得たるを喜びて、直(ただ)ちに咬(か)まんとするが如く膚(はだへ)に薄(せま)れり。宮は慌忙(あわただし)く火鉢に取付きつつ、目を挙げて書棚(しよだな)に飾れる時計を見たり。
 夜の闇(くら)く静なるに、燈(ともし)の光の独(ひと)り美き顔を照したる、限無く艶(えん)なり。松の内とて彼は常より着飾れるに、化粧をさへしたれば、露を帯びたる花の梢(こずゑ)に月のうつろへるが如く、背後(うしろ)の壁に映れる黒き影さへ香滴(にほひこぼ)るるやうなり。
 金剛石(ダイアモンド)と光を争ひし目は惜気(をしげ)も無く□(みは)りて時計の秒(セコンド)を刻むを打目戍(うちまも)れり。火に翳(かざ)せる彼の手を見よ、玉の如くなり。さらば友禅模様ある紫縮緬(むらさきちりめん)の半襟(はんえり)に韜(つつ)まれたる彼の胸を想へ。その胸の中(うち)に彼は今如何(いか)なる事を思へるかを想へ。彼は憎からぬ人の帰来(かへり)を待佗(まちわ)ぶるなりけり。
 一時(ひとしきり)又寒(さむさ)の太甚(はなはだし)きを覚えて、彼は時計より目を放つとともに起ちて、火鉢の対面(むかふ)なる貫一が□(しとね)の上に座を移せり。こは彼の手に縫ひしを貫一の常に敷くなり、貫一の敷くをば今夜彼の敷くなり。
 若(もし)やと聞着けし車の音は漸(やうや)く近(ちかづ)きて、益(ますます)轟(とどろ)きて、竟(つひ)に我門(わがかど)に停(とどま)りぬ。宮は疑無(うたがひな)しと思ひて起たんとする時、客はいと酔(ゑ)ひたる声して物言へり。貫一は生下戸(きげこ)なれば嘗(かつ)て酔(ゑ)ひて帰りし事あらざれば、宮は力無く又坐りつ。時計を見れば早や十一時に垂(なんな)んとす。
 門(かど)の戸引啓(ひきあ)けて、酔ひたる足音の土間に踏入りたるに、宮は何事とも分かず唯慌(ただあわ)ててラムプを持ちて出(い)でぬ。台所より婢(をんな)も、出合(いであ)へり。
 足の踏所(ふみど)も覚束無(おぼつかな)げに酔ひて、帽は落ちなんばかりに打傾(うちかたむ)き、ハンカチイフに裹(つつ)みたる折を左に挈(さ)げて、山車(だし)人形のやうに揺々(ゆらゆら)と立てるは貫一なり。面(おもて)は今にも破れぬべく紅(くれなゐ)に熱して、舌の乾(かわ)くに堪(た)へかねて連(しきり)に空唾(からつば)を吐きつつ、
「遅かつたかね。さあ御土産(おみやげ)です。還(かへ)つてこれを細君に遣(おく)る。何ぞ仁(じん)なるや」
「まあ、大変酔つて! どうしたの」
「酔つて了(しま)つた」
「あら、貫一(かんいつ)さん、こんな所に寐(ね)ちや困るわ。さあ、早くお上りなさいよ」
「かう見えても靴が脱げない。ああ酔つた」
 仰様(のけさま)に倒れたる貫一の脚(あし)を掻抱(かきいだ)きて、宮は辛(から)くもその靴を取去りぬ。
「起きる、ああ、今起きる。さあ、起きた。起きたけれど、手を牽(ひ)いてくれなければ僕には歩けませんよ」
 宮は婢(をんな)に燈(ともし)を把(と)らせ、自らは貫一の手を牽かんとせしに、彼は踉(よろめ)きつつ肩に縋(すが)りて遂(つひ)に放さざりければ、宮はその身一つさへ危(あやふ)きに、やうやう扶(たす)けて書斎に入(い)りぬ。
 □(しとね)の上に舁下(かきおろ)されし貫一は頽(くづ)るる体(たい)を机に支へて、打仰(うちあふ)ぎつつ微吟せり。
「君に勧む、金縷(きんる)の衣(ころも)を惜むなかれ。君に勧む、須(すべから)く少年の時を惜むべし。花有り折るに堪(た)へなば直(ただち)に折る須(べ)し。花無きを待つて空(むなし)く枝を折ることなかれ」
「貫一さん、どうしてそんなに酔つたの?」
「酔つてゐるでせう、僕は。ねえ、宮(みい)さん、非常に酔つてゐるでせう」
「酔つてゐるわ。苦(くるし)いでせう」
「然矣(しかり)、苦いほど酔つてゐる。こんなに酔つてゐるに就(つ)いては大(おほ)いに訳が有るのだ。さうして又宮さんなるものが大いに介抱して可い訳が有るのだ。宮さん!」
「可厭(いや)よ、私は、そんなに酔つてゐちや。不断嫌(きら)ひの癖に何故(なぜ)そんなに飲んだの。誰に飲(のま)されたの。端山(はやま)さんだの、荒尾さんだの、白瀬さんだのが附いてゐながら、酷(ひど)いわね、こんなに酔(よは)して。十時にはきつと帰ると云ふから私は待つてゐたのに、もう十一時過よ」
「本当に待つてゐてくれたのかい、宮(みい)さん。謝(しや)、多謝(たしや)! 若(もし)それが事実であるならばだ、僕はこのまま死んでも恨みません。こんなに酔されたのも、実はそれなのだ」
 彼は宮の手を取りて、情に堪へざる如く握緊(にぎりし)めつ。
「二人の事は荒尾より外に知る者は無いのだ。荒尾が又決して喋(しやべ)る男ぢやない。それがどうして知れたのか、衆(みんな)が知つてゐて……僕は実に驚いた。四方八方から祝盃(しゆくはい)だ祝盃だと、十も二十も一度に猪口(ちよく)を差されたのだ。祝盃などを受ける覚(おぼえ)は無いと言つて、手を引籠(ひつこ)めてゐたけれど、なかなか衆(みんな)聴かないぢやないか」
 宮は窃(ひそか)に笑(ゑみ)を帯びて余念なく聴きゐたり。
「それぢや祝盃の主意を変へて、仮初(かりそめ)にもああ云ふ美人と一所(いつしよ)に居て寝食を倶(とも)にすると云ふのが既に可羨(うらやまし)い。そこを祝すのだ。次には、君も男児(をとこ)なら、更に一歩を進めて、妻君に為るやうに十分運動したまへ。十年も一所に居てから、今更人に奪(と)られるやうな事があつたら、独(ひと)り間貫一一(いつ)個人の恥辱ばかりではない、我々朋友(ほうゆう)全体の面目にも関する事だ。我々朋友ばかりではない、延(ひ)いて高等中学の名折(なをれ)にもなるのだから、是非あの美人を君が妻君にするやうに、これは我々が心を一(いつ)にして結(むすぶ)の神に祷(いの)つた酒だから、辞退するのは礼ではない。受けなかつたら却(かへ)つて神罰が有ると、弄謔(からかひ)とは知れてゐるけれど、言草(いひぐさ)が面白かつたから、片端(かたつぱし)から引受けて呷々(ぐひぐひ)遣付(やつつ)けた。
 宮さんと夫婦に成れなかつたら、はははははは高等中学の名折になるのだと。恐入つたものだ。何分宜(よろし)く願ひます」
「可厭(いや)よ、もう貫一さんは」
「友達中にもさう知れて見ると、立派に夫婦にならなければ、弥(いよい)よ僕の男が立たない義(わけ)だ」
「もう極(きま)つてゐるものを、今更……」
「さうでないです。この頃翁(をぢ)さんや姨(をば)さんの様子を見るのに、どうも僕は……」
「そんな事は決(け)して無いわ、邪推だわ」
「実は翁さんや姨さんの了簡(りようけん)はどうでも可い、宮さんの心一つなのだ」
「私の心は極つてゐるわ」
「さうかしらん?」
「さうかしらんて、それぢや余(あんま)りだわ」
 貫一は酔(ゑひ)を支へかねて宮が膝(ひざ)を枕に倒れぬ。宮は彼が火の如き頬(ほほ)に、額に、手を加へて、
「水を上げませう。あれ、又寐(ね)ちや……貫一さん、貫一さん」
 寔(まこと)に愛の潔(いさぎよ)き哉(かな)、この時は宮が胸の中にも例の汚れたる希望(のぞみ)は跡を絶ちて彼の美き目は他に見るべきもののあらざらんやうに、その力を貫一の寐顔に鍾(あつ)めて、富も貴きも、乃至(ないし)有(あら)ゆる利慾の念は、その膝に覚ゆる一団の微温の為に溶(とろか)されて、彼は唯妙(ただたへ)に香(かうばし)き甘露(かんろ)の夢に酔(ゑ)ひて前後をも知らざるなりけり。
 諸(もろもろ)の可忌(いまはし)き妄想(もうぞう)はこの夜の如く眼(まなこ)を閉ぢて、この一間(ひとま)に彼等の二人よりは在らざる如く、彼は世間に別人の影を見ずして、又この明(あきらか)なる燈火(ともしび)の光の如きものありて、特(こと)に彼等をのみ照すやうに感ずるなり。

     第五章

 或日箕輪(みのわ)の内儀は思も懸けず訪来(とひきた)りぬ。その娘のお俊と宮とは学校朋輩(ほうばい)にて常に往来(ゆきき)したりけれども、未(いま)だ家(うち)と家との交際はあらざるなり。彼等の通学せし頃さへ親々は互に識(し)らで過ぎたりしに、今は二人の往来(おうらい)も漸(やうや)く踈(うと)くなりけるに及びて、俄(にはか)にその母の来(きた)れるは、如何(いか)なる故(ゆゑ)にか、と宮も両親(ふたおや)も怪(あやし)き事に念(おも)へり。
 凡(およ)そ三時間の後彼は帰行(かへりゆ)きぬ。
 先に怪みし家内は彼の来りしよりもその用事の更に思懸(おもひが)けざるに驚けり。貫一は不在なりしかばこの珍(めづらし)き客来(きやくらい)のありしを知らず、宮もまた敢(あへ)て告げずして、二日と過ぎ、三日と過ぎぬ。その日より宮は少(すこし)く食して、多く眠らずなりぬ。貫一は知らず、宮はいよいよ告げんとは為(せ)ざりき。この間に両親(ふたおや)は幾度(いくたび)と無く談合しては、その事を決しかねてゐたり。
 彼の陰に在りて起れる事、又は見るべからざる人の心に浮べる事どもは、貫一の知る因(よし)もあらねど、片時(へんじ)もその目の忘れざる宮の様子の常に変れるを見出(みいだ)さんは難(かた)き事にあらず。さも無かりし人の顔の色の遽(にはか)に光を失ひたるやうにて、振舞(ふるまひ)など別(わ)けて力無く、笑ふさへいと打湿(うちしめ)りたるを。
 宮が居間と謂(い)ふまでにはあらねど、彼の箪笥(たんす)手道具等(など)置きたる小座敷あり。ここには火燵(こたつ)の炉を切りて、用無き人の来ては迭(かたみ)に冬籠(ふゆごもり)する所にも用ゐらる。彼は常にここに居て針仕事するなり。倦(う)めば琴(こと)をも弾(ひ)くなり。彼が手玩(てすさみ)と見ゆる狗子柳(いのこやなぎ)のはや根を弛(ゆる)み、真(しん)の打傾きたるが、鮟鱇切(あんこうぎり)の水に埃(ほこり)を浮べて小机の傍(かたへ)に在り。庭に向へる肱懸窓(ひぢかけまど)の明(あかる)きに敷紙(しきがみ)を披(ひろ)げて、宮は膝(ひざ)の上に紅絹(もみ)の引解(ひきとき)を載せたれど、針は持たで、懶(ものう)げに火燵に靠(もた)れたり。
 彼は少(すこし)く食して多く眠らずなりてよりは、好みてこの一間に入(い)りて、深く物思ふなりけり。両親(ふたおや)は仔細(しさい)を知れるにや、この様子をば怪まんともせで、唯彼の為(な)すままに委(まか)せたり。
 この日貫一は授業始(はじめ)の式のみにて早く帰来(かへりき)にけるが、下(した)座敷には誰(たれ)も見えで、火燵(こたつ)の間に宮の咳(しはぶ)く声して、後は静に、我が帰りしを知らざるよと思ひければ、忍足に窺寄(うかがひよ)りぬ。襖(ふすま)の僅(わづか)に啓(あ)きたる隙(ひま)より差覗(さしのぞ)けば、宮は火燵に倚(よ)りて硝子(ガラス)障子を眺(なが)めては俯目(ふしめ)になり、又胸痛きやうに仰ぎては太息吐(ためいきつ)きて、忽(たちま)ち物の音を聞澄すが如く、美き目を瞠(みは)るは、何をか思凝(おもひこら)すなるべし。人の窺(うかが)ふと知らねば、彼は口もて訴ふるばかりに心の苦悶(くもん)をその状(かたち)に顕(あらは)して憚(はばか)らざるなり。
 貫一は異(あやし)みつつも息を潜めて、猶(なほ)彼の為(せ)んやうを見んとしたり。宮は少時(しばし)ありて火燵に入りけるが、遂(つひ)に櫓(やぐら)に打俯(うちふ)しぬ。
 柱に身を倚せて、斜(ななめ)に内を窺ひつつ貫一は眉(まゆ)を顰(ひそ)めて思惑(おもひまど)へり。
 彼は如何(いか)なる事ありてさばかり案じ煩(わづら)ふならん。さばかり案じ煩ふべき事を如何なれば我に明さざるならん。その故(ゆゑ)のあるべく覚えざるとともに、案じ煩ふ事のあるべきをも彼は信じ得ざるなりけり。
 かく又案じ煩へる彼の面(おもて)も自(おのづか)ら俯(うつむ)きぬ。問はずして知るべきにあらずと思定(おもひさだ)めて、再び内を差覗(さしのぞ)きけるに、宮は猶打俯してゐたり。何時(いつ)か落ちけむ、蒔絵(まきゑ)の櫛(くし)の零(こぼ)れたるも知らで。
 人の気勢(けはひ)に驚きて宮の振仰ぐ時、貫一は既にその傍(かたはら)に在り。彼は慌(あわ)てて思頽(おもひくづを)るる気色(けしき)を蔽(おほ)はんとしたるが如し。
「ああ、吃驚(びつくら)した。何時(いつ)御帰んなすつて」
「今帰つたの」
「さう。些(ちつと)も知らなかつた」
 宮はおのれの顔の頻(しきり)に眺めらるるを眩(まば)ゆがりて、
「何をそんなに視(み)るの、可厭(いや)、私は」
 されども彼は猶目を放たず、宮はわざと打背(うちそむ)きて、裁片畳(きれたたふ)の内を撈(かきさが)せり。
「宮(みい)さん、お前さんどうしたの。ええ、何処(どこ)か不快(わるい)のかい」
「何ともないのよ。何故(なぜ)?」
 かく言ひつつ益(ますます)急に撈(かきさが)せり。貫一は帽を冠(かぶ)りたるまま火燵に片肱掛(かたひぢか)けて、斜(ななめ)に彼の顔を見遣(みや)りつつ、
「だから僕は始終水臭いと言ふんだ。さう言へば、直(ぢき)に疑深(うたぐりぶか)いの、神経質だのと言ふけれど、それに違無いぢやないか」
「だつて何ともありもしないものを……」
「何ともないものが、惘然(ぼんやり)考へたり、太息(ためいき)を吐(つ)いたりして鬱(ふさ)いでゐるものか。僕は先之(さつき)から唐紙(からかみ)の外で立つて見てゐたんだよ。病気かい、心配でもあるのかい。言つて聞(きか)したつて可いぢやないか」
 宮は言ふところを知らず、纔(わづか)に膝の上なる紅絹(もみ)を手弄(てまさぐ)るのみ。
「病気なのかい」
 彼は僅(わづか)に頭(かしら)を掉(ふ)りぬ。
「それぢや心配でもあるのかい」
 彼はなほ頭を掉れば、
「ぢやどうしたと云ふのさ」
 宮は唯胸の中(うち)を車輪(くるま)などの廻(めぐ)るやうに覚ゆるのみにて、誠にも詐(いつはり)にも言(ことば)を出(いだ)すべき術(すべ)を知らざりき。彼は犯せる罪の終(つひ)に秘(つつ)む能(あた)はざるを悟れる如き恐怖(おそれ)の為に心慄(こころをのの)けるなり。如何(いか)に答へんとさへ惑へるに、傍(かたはら)には貫一の益詰(なじ)らんと待つよと思へば、身は搾(しぼ)らるるやうに迫来(せまりく)る息の隙(ひま)を、得も謂(い)はれず冷(ひやや)かなる汗の流れ流れぬ。
「それぢやどうしたのだと言ふのに」
 貫一の声音(こわね)は漸(やうや)く苛立(いらだ)ちぬ。彼の得言はぬを怪しと思へばなり。宮は驚きて不覚(そぞろ)に言出(いひいだ)せり。
「どうしたのだか私にも解らないけれど、……私はこの二三日どうしたのだか……変に色々な事を考へて、何だか世の中がつまらなくなつて、唯悲くなつて来るのよ」
 呆(あき)れたる貫一は瞬(またたき)もせで耳を傾(かたぶ)けぬ。
「人間と云ふものは今日かうして生きてゐても、何時(いつ)死んで了(しま)ふか解らないのね。かうしてゐれば、可楽(たのしみ)な事もある代(かはり)に辛(つら)い事や、悲い事や、苦(くるし)い事なんぞが有つて、二つ好い事は無し、考れば考るほど私は世の中が心細いわ。不図(ふつと)さう思出(おもひだ)したら、毎日そんな事ばかり考へて、可厭(いや)な心地(こころもち)になつて、自分でもどうか為(し)たのかしらんと思ふけれど、私病気のやうに見えて?」
 目を閉ぢて聴(きき)ゐし貫一は徐(しづか)に□(まぶた)を開くとともに眉(まゆ)を顰(ひそ)めて、
「それは病気だ!」
 宮は打萎(うちしを)れて頭(かしら)を垂れぬ。
「然(しか)し心配する事は無いさ。気に為ては可かんよ。可いかい」
「ええ、心配しはしません」
 異(あやし)く沈みたるその声の寂しさを、如何(いか)に貫一は聴きたりしぞ。
「それは病気の所為(せゐ)だ、脳でも不良(わるい)のだよ。そんな事を考へた日には、一日だつて笑つて暮せる日は有りはしない。固(もと)より世の中と云ふものはさう面白い義(わけ)のものぢやないので、又人の身の上ほど解らないものは無い。それはそれに違無いのだけれど、衆(みんな)が皆(みんな)そんな了簡(りようけん)を起して御覧な、世界中御寺ばかりになつて了(しま)ふ。儚(はかな)いのが世の中と覚悟した上で、その儚い、つまらない中で切(せめ)ては楽(たのしみ)を求めやうとして、究竟(つまり)我々が働いてゐるのだ。考へて鬱(ふさ)いだところで、つまらない世の中に儚い人間と生れて来た以上は、どうも今更為方が無いぢやないか。だから、つまらない世の中を幾分(いくら)か面白く暮さうと考へるより外は無いのさ。面白く暮すには、何か楽(たのしみ)が無ければならない。一事(ひとつ)かうと云ふ楽があつたら決して世の中はつまらんものではないよ。宮(みい)さんはそれでは楽と云ふものが無いのだね。この楽があればこそ生きてゐると思ふ程の楽は無いのだね」
 宮は美き目を挙げて、求むるところあるが如く偸(ひそか)に男の顔を見たり。
「きつと無いのだね」
 彼は笑(ゑみ)を含みぬ。されども苦しげに見えたり。
「無い?」
 宮の肩頭(かたさき)を捉(と)りて貫一は此方(こなた)に引向けんとすれば、為(な)すままに彼は緩(ゆる)く身を廻(めぐら)したれど、顔のみは可羞(はぢがまし)く背(そむ)けてゐたり。
「さあ、無いのか、有るのかよ」
 肩に懸けたる手をば放さで連(しきり)に揺(ゆすら)るるを、宮は銕(くろがね)の槌(つち)もて撃懲(うちこら)さるるやうに覚えて、安き心もあらず。冷(ひややか)なる汗は又一時(ひとしきり)流出(ながれい)でぬ。
「これは怪(け)しからん!」
 宮は危(あやぶ)みつつ彼の顔色を候(うかが)ひぬ。常の如く戯るるなるべし。その面(おもて)は和(やはら)ぎて一点の怒気だにあらず、寧(むし)ろ唇頭(くちもと)には笑を包めるなり。
「僕などは一件(ひとつ)大きな大きな楽があるので、世の中が愉快で愉快で耐(たま)らんの。一日が経(た)つて行くのが惜くて惜くてね。僕は世の中がつまらない為にその楽を拵(こしら)へたのではなくて、その楽の為にこの世の中に活きてゐるのだ。若(も)しこの世の中からその楽を取去つたら、世の中は無い! 貫一といふ者も無い! 僕はその楽と生死(しようし)を倶(とも)にするのだ。宮(みい)さん、可羨(うらやまし)いだらう」
 宮は忽(たちま)ち全身の血の氷れるばかりの寒さに堪(た)へかねて打顫(うちふる)ひしが、この心の中を覚(さと)られじと思へば、弱る力を励して、
「可羨(うらやまし)いわ」
「可羨ければ、お前さんの事だから分けてあげやう」
「何卒(どうぞ)」
「ええ悉皆(みんな)遣(や)つて了(しま)へ!」
 彼は外套(オバコオト)の衣兜(かくし)より一袋のボンボンを取出(とりいだ)して火燵(こたつ)の上に置けば、余力(はずみ)に袋の口は弛(ゆる)みて、紅白の玉は珊々(さらさら)と乱出(みだれい)でぬ。こは宮の最も好める菓子なり。

     第六章

 その翌々日なりき、宮は貫一に勧められて行きて医の診察を受けしに、胃病なりとて一瓶(いちびん)の水薬(すいやく)を与へられぬ。貫一は信(まこと)に胃病なるべしと思へり。患者は必ずさる事あらじと思ひつつもその薬を服したり。懊悩(おうのう)として憂(うき)に堪(た)へざらんやうなる彼の容体(ようたい)に幾許(いくばく)の変も見えざりけれど、その心に水と火の如きものありて相剋(あひこく)する苦痛は、益(ますます)募りて止(やま)ざるなり。
 貫一は彼の憎からぬ人ならずや。怪(あやし)むべし、彼はこの日頃さしも憎からぬ人を見ることを懼(おそ)れぬ。見ねばさすがに見まほしく思ひながら、面(おもて)を合すれば冷汗(ひやあせ)も出づべき恐怖(おそれ)を生ずるなり。彼の情有(なさけあ)る言(ことば)を聞けば、身をも斫(き)らるるやうに覚ゆるなり。宮は彼の優き心根(こころね)を見ることを恐れたり。宮が心地勝(すぐ)れずなりてより、彼に対する貫一の優しさはその平生(へいぜい)に一層を加へたれば、彼は死を覓(もと)むれども得ず、生を求むれども得ざらんやうに、悩乱してほとほとその堪(た)ふべからざる限に至りぬ。
 遂(つひ)に彼はこの苦(くるしみ)を両親に訴へしにやあらん、一日(あるひ)母と娘とは遽(にはか)に身支度して、忙々(いそがはし)く車に乗りて出でぬ。彼等は小(ちひさ)からぬ一個(ひとつ)の旅鞄(たびかばん)を携へたり。
 大風(おほかぜ)の凪(な)ぎたる迹(あと)に孤屋(ひとつや)の立てるが如く、侘(わび)しげに留守せる主(あるじ)の隆三は独(ひと)り碁盤に向ひて碁経(きけい)を披(ひら)きゐたり。齢(よはひ)はなほ六十に遠けれど、頭(かしら)は夥(おびただし)き白髪(しらが)にて、長く生ひたる髯(ひげ)なども六分は白く、容(かたち)は痩(や)せたれど未(いま)だ老の衰(おとろへ)も見えず、眉目温厚(びもくおんこう)にして頗(すこぶ)る古井(こせい)波無きの風あり。
 やがて帰来(かへりき)にける貫一は二人の在らざるを怪みて主(あるじ)に訊(たづ)ねぬ。彼は徐(しづか)に長き髯を撫(な)でて片笑みつつ、
「二人はの、今朝新聞を見ると急に思着いて、熱海へ出掛けたよ。何でも昨日(きのふ)医者が湯治が良いと言うて切(しきり)に勧めたらしいのだ。いや、もう急の思着(おもひつき)で、脚下(あしもと)から鳥の起(た)つやうな騒をして、十二時三十分の□車(きしや)で。ああ、独(ひとり)で寂いところ、まあ茶でも淹(い)れやう」
 貫一は有る可からざる事のやうに疑へり。
「はあ、それは。何だか夢のやうですな」
「はあ、私(わし)もそんな塩梅(あんばい)で」
「然(しか)し、湯治は良いでございませう。幾日(いくか)ほど逗留(とうりゆう)のお心算(つもり)で?」
「まあどんなだか四五日と云ふので、些(ほん)の着のままで出掛けたのだが、なあに直(ぢき)に飽きて了(しま)うて、四五日も居られるものか、出(で)養生より内(うち)養生の方が楽だ。何か旨(うま)い物でも食べやうぢやないか、二人で、なう」
 貫一は着更(きか)へんとて書斎に還りぬ。宮の遺(のこ)したる筆の蹟(あと)などあらんかと思ひて、求めけれども見えず。彼の居間をも尋ねけれど在らず。急ぎ出でしなればさもあるべし、明日は必ず便(たより)あらんと思飜(おもひかへ)せしが、さすがに心楽まざりき。彼の六時間学校に在りて帰来(かへりきた)れるは、心の痩(や)するばかり美き俤(おもかげ)に饑(う)ゑて帰来れるなり。彼は空(むなし)く饑ゑたる心を抱(いだ)きて慰むべくもあらぬ机に向へり。
「実に水臭いな。幾許(いくら)急いで出掛けたつて、何とか一言(ひとこと)ぐらゐ言遺(いひお)いて行(い)きさうなものぢやないか。一寸(ちよつと)其処(そこ)へ行つたのぢやなし、四五日でも旅だ。第一言遺く、言遺かないよりは、湯治に行くなら行くと、始(はじめ)に話が有りさうなものだ。急に思着いた? 急に思着いたつて、急に行かなければならん所ぢやあるまい。俺の帰るのを待つて、話をして、明日(あした)行くと云ふのが順序だらう。四五日ぐらゐの離別(わかれ)には顔を見ずに行つても、あの人は平気なのかしらん。
 女と云ふ者は一体男よりは情が濃(こまやか)であるべきなのだ。それが濃でないと為れば、愛してをらんと考へるより外は無い。豈(まさか)にあの人が愛してをらんとは考へられん。又万々(ばんばん)そんな事は無い。けれども十分に愛してをると云ふほど濃ではないな。
 元来あの人の性質は冷淡さ。それだから所謂(いはゆる)『娘らしい』ところが余り無い。自分の思ふやうに情が濃でないのもその所為(せゐ)か知らんて。子供の時分から成程さう云ふ傾向(かたむき)は有(も)つてゐたけれど、今のやうに太甚(はなはだし)くはなかつたやうに考へるがな。子供の時分にさうであつたなら、今ぢや猶更(なほさら)でなければならんのだ。それを考へると疑ふよ、疑はざるを得ない!
 それに引替へて自分だ、自分の愛してゐる度は実に非常なもの、殆(ほとん)ど……殆どではない、全くだ、全く溺(おぼ)れてゐるのだ。自分でもどうしてこんなだらうと思ふほど溺れてゐる!
 これ程自分の思つてゐるのに対しても、も少し情が篤(あつ)くなければならんのだ。或時などは実に水臭い事がある。今日の事なども随分酷(ひど)い話だ。これが互に愛してゐる間(なか)の仕草だらうか。深く愛してゐるだけにかう云ふ事を為(さ)れると実に憎い。
 小説的かも知れんけれど、八犬伝(はつけんでん)の浜路(はまじ)だ、信乃(しの)が明朝(あした)は立つて了ふと云ふので、親の目を忍んで夜更(よふけ)に逢(あ)ひに来る、あの情合(じやうあひ)でなければならない。いや、妙だ! 自分の身の上も信乃に似てゐる。幼少から親に別れてこの鴫沢の世話になつてゐて、其処(そこ)の娘と許嫁(いひなづけ)……似てゐる、似てゐる。
 然し内の浜路は困る、信乃にばかり気を揉(もま)して、余り憎いな、そでない為方(しかた)だ。これから手紙を書いて思ふさま言つて遣(や)らうか。憎いは憎いけれど病気ではあるし、病人に心配させるのも可哀(かあい)さうだ。
 自分は又神経質に過るから、思過(おもひすごし)を為るところも大きにあるのだ。それにあの人からも不断言はれる、けれども自分が思過(おもひすごし)であるか、あの人が情(じよう)が薄いのかは一件(ひとつ)の疑問だ。
 時々さう思ふ事がある、あの人の水臭い仕打の有るのは、多少(いくら)か自分を侮(あなど)つてゐるのではあるまいか。自分は此家(ここ)の厄介者、あの人は家附の娘だ。そこで自(おのづか)ら主(しゆう)と家来と云ふやうな考が始終有つて、……否(いや)、それもあの人に能(よ)く言れる事だ、それくらゐなら始から許しはしない、好いと思へばこそかう云ふ訳に、……さうだ、さうだ、それを言出すと太(ひど)く慍(おこ)られるのだ、一番それを慍るよ。勿論(もちろん)そんな様子の些少(すこし)でも見えた事は無い。自分の僻見(ひがみ)に過ぎんのだけれども、気が済まないから愚痴も出るのだ。然し、若(もし)もあの人の心にそんな根性が爪の垢(あか)ほどでも有つたらば、自分は潔くこの縁は切つて了ふ。立派に切つて見せる! 自分は愛情の俘(とりこ)とはなつても、未(ま)だ奴隷になる気は無い。或(あるひ)はこの縁を切つたなら自分はあの人を忘れかねて焦死(こがれじに)に死ぬかも知れん。死なんまでも発狂するかも知れん。かまはん! どうならうと切れて了ふ。切れずに措(お)くものか。
 それは自分の僻見(ひがみ)で、あの人に限つてはそんな心は微塵(みじん)も無いのだ。その点は自分も能(よ)く知つてゐる。けれども情が濃(こまやか)でないのは事実だ、冷淡なのは事実だ。だから、冷淡であるから情が濃でないのか。自分に対する愛情がその冷淡を打壊(うちこは)すほどに熱しないのか。或(あるひ)は熱し能(あた)はざるのが冷淡の人の愛情であるのか。これが、研究すべき問題だ」
 彼は意(こころ)に満たぬ事ある毎に、必ずこの問題を研究せざるなけれども、未だ曾(かつ)て解釈し得ざるなりけり。今日はや如何(いか)に解釈せんとすらん。

     (六)の二

 翌日果して熱海より便(たより)はありけれど、僅(わづか)に一枚の端書(はがき)をもて途中の無事と宿とを通知せるに過ぎざりき。宛名は隆三と貫一とを並べて、宮の手蹟(しゆせき)なり。貫一は読了(よみをは)ると斉(ひと)しく片々(きれきれ)に引裂きて捨ててけり。宮の在らば如何(いか)にとも言解くなるべし。彼の親(したし)く言解(いひと)かば、如何に打腹立(うちはらだ)ちたりとも貫一の心の釈(と)けざることはあらじ。宮の前には常に彼は慍(いかり)をも、恨をも、憂(うれひ)をも忘るるなり。今は可懐(なつかし)き顔を見る能はざる失望に加ふるに、この不平に遭(あ)ひて、しかも言解く者のあらざれば、彼の慍(いかり)は野火の飽くこと知らで燎(や)くやうなり。
 この夕(ゆふべ)隆三は彼に食後の茶を薦(すす)めぬ。一人佗(わび)しければ留(とど)めて物語(ものがたら)はんとてなるべし。されども貫一の屈托顔(くつたくがほ)して絶えず思の非(あら)ぬ方(かた)に馳(は)する気色(けしき)なるを、
「お前どうぞ為(し)なすつたか。うむ、元気が無いの」
「はあ、少し胸が痛みますので」
「それは好くない。劇(ひど)く痛みでもするかな」
「いえ、なに、もう宜(よろし)いのでございます」
「それぢや茶は可(い)くまい」
「頂戴(ちようだい)します」
 かかる浅ましき慍(いかり)を人に移さんは、甚(はなは)だ謂無(いはれな)き事なり、と自ら制して、書斎に帰りて憖(なまじ)ひ心を傷めんより、人に対して姑(しばら)く憂(うさ)を忘るるに如(し)かじと思ひければ、彼は努めて寛(くつろ)がんとしたれども、動(やや)もすれば心は空(そら)になりて、主(あるじ)の語(ことば)を聞逸(ききそら)さむとす。
 今日文(ふみ)の来て細々(こまごま)と優き事など書聯(かきつら)ねたらば、如何(いか)に我は嬉(うれし)からん。なかなか同じ処に居て飽かず顔を見るに易(か)へて、その楽(たのしみ)は深かるべきを。さては出行(いでゆ)きし恨も忘られて、二夜三夜(ふたよみよ)は遠(とほざ)かりて、せめてその文を形見に思続けんもをかしかるべきを。
 彼はその身の卒(にはか)に出行(いでゆ)きしを、如何(いか)に本意無(ほいな)く我の思ふらんかは能(よ)く知るべきに。それを知らば一筆(ひとふで)書きて、など我を慰めんとは為(せ)ざる。その一筆を如何に我の嬉く思ふらんかをも能く知るべきに。我を可憐(いと)しと思へる人の何故(なにゆゑ)にさは為(せ)ざるにやあらん。かくまでに情篤(なさけあつ)からぬ恋の世に在るべきか。疑ふべし、疑ふべし、と貫一の胸は又乱れぬ。主の声に驚かされて、彼は忽(たちま)ちその事を忘るべき吾(われ)に復(かへ)れり。
「ちと話したい事があるのだが、や、誠に妙な話で、なう」
 笑ふにもあらず、顰(ひそ)むにもあらず、稍(やや)自ら嘲(あざ)むに似たる隆三の顔は、燈火(ともしび)に照されて、常には見ざる異(あやし)き相を顕(あらは)せるやうに、貫一は覚ゆるなりき。
「はあ、どういふ御話ですか」
 彼は長き髯(ひげ)を忙(せはし)く揉(も)みては、又頤(おとがひ)の辺(あたり)より徐(しづか)に撫下(なでおろ)して、先(まづ)打出(うちいだ)さん語(ことば)を案じたり。
「お前の一身上の事に就(つ)いてだがの」
 纔(わづか)にかく言ひしのみにて、彼は又遅(ためら)ひぬ、その髯(ひげ)は虻(あぶ)に苦しむ馬の尾のやうに揮(ふる)はれつつ、
「いよいよお前も今年の卒業だつたの」
 貫一は遽(にはか)に敬はるる心地して自(おのづ)と膝(ひざ)を正せり。
「で、私(わし)もまあ一安心したと云ふもので、幾分かこれでお前の御父様(おとつさん)に対して恩返(おんがへし)も出来たやうな訳、就いてはお前も益(ますます)勉強してくれんでは困るなう。未だこの先大学を卒業して、それから社会へ出て相応の地位を得るまでに仕上げなければ、私も鼻は高くないのだ。どうか洋行の一つも為(さ)せて、指折の人物に為(し)たいと考へてゐるくらゐ、未(ま)だ未だこれから両肌(りようはだ)を脱いで世話をしなければならんお前の体だ、なう」
 これを聞(き)ける貫一は鉄繩(てつじよう)をもて縛(いまし)められたるやうに、身の重きに堪(た)へず、心の転(うた)た苦(くるし)きを感じたり。その恩の余りに大いなるが為に、彼はその中(うち)に在りてその中に在ることを忘れんと為る平生(へいぜい)を省みたるなり。
「はい。非常な御恩に預りまして、考へて見ますると、口では御礼の申しやうもございません。愚父(おやぢ)がどれ程の事を致したか知りませんが、なかなかこんな御恩返を受けるほどの事が出来るものでは有りません。愚父の事は措(お)きまして、私は私で、この御恩はどうか立派に御返し申したいと念(おも)つてをります。愚父の亡(なくな)りましたあの時に、此方(こちら)で引取つて戴(いただ)かなかつたら、私は今頃何に成つてをりますか、それを思ひますと、世間に私ほど幸(さいはひ)なものは恐(おそら)く無いでございませう」
 彼は十五の少年の驚くまでに大人びたる己(おのれ)を見て、その着たる衣(きぬ)を見て、その坐れる□(しとね)を見て、やがて美き宮と共にこの家の主(ぬし)となるべきその身を思ひて、漫(そぞろ)に涙を催せり。実(げ)に七千円の粧奩(そうれん)を随へて、百万金も購(あがな)ふ可からざる恋女房を得べき学士よ。彼は小買の米を風呂敷に提げて、その影の如く痩せたる犬とともに月夜を走りし少年なるをや。
「お前がさう思うてくれれば私(わし)も張合がある。就いては改めてお前に頼(たのみ)があるのだが、聴いてくれるか」
「どういふ事ですか、私で出来ます事ならば、何なりと致します」
 彼はかく潔く答ふるに憚(はばか)らざりけれど、心の底には危むところ無きにしもあらざりき。人のかかる言(ことば)を出(いだ)す時は、多く能(あた)はざる事を強(し)ふる例(ためし)なればなり。
「外でも無いがの、宮の事だ、宮を嫁に遣(や)らうかと思つて」
 見るに堪(た)へざる貫一の驚愕(おどろき)をば、せめて乱さんと彼は慌忙(あわただし)く語(ことば)を次ぎぬ。
「これに就いては私も種々(いろいろ)と考へたけれど、大きに思ふところもあるで、いつそあれは遣つて了(しま)うての、お前はも少(すこ)しの事だから大学を卒業して、四五年も欧羅巴(エウロッパ)へ留学して、全然(すつかり)仕上げたところで身を固めるとしたらどうかな」
 汝(なんぢ)の命を与へよと逼(せま)らるる事あらば、その時の人の思は如何(いか)なるべき! 可恐(おそろし)きまでに色を失へる貫一は空(むなし)く隆三の面(おもて)を打目戍(うちまも)るのみ。彼は太(いた)く困(こう)じたる体(てい)にて、長き髯をば揉みに揉みたり。
「お前に約束をして置いて、今更変換(へんがへ)を為るのは、何とも気の毒だが、これに就いては私も大きに考へたところがあるので、必ずお前の為にも悪いやうには計はんから、可いかい、宮は嫁に遣る事にしてくれ、なう」
 待てども貫一の言(ことば)を出(いだ)さざれば、主(あるじ)は寡(すくな)からず惑へり。
「なう、悪く取つてくれては困るよ、あれを嫁に遣るから、それで我家(うち)とお前との縁を切つて了ふと云ふのではない、可いかい。大(たい)した事は無いがこの家は全然(そつくり)お前に譲るのだ、お前は矢張(やはり)私の家督よ、なう。で、洋行も為せやうと思ふのだ。必ず悪く取つては困るよ。
 約束をした宮をの、余所(よそ)へ遣ると云へば、何かお前に不足でもあるやうに聞えるけれど、決してさうした訳ではないのだから、其処(そこ)はお前が能(よ)く承知してくれんければ困る、誤解されては困る。又お前にしても、学問を仕上げて、なう、天晴(あつぱれ)の人物に成るのが第一の希望(のぞみ)であらう。その志を遂(と)げさへ為れば、宮と一所になる、ならんはどれ程の事でもないのだ。なう、さうだらう、然(しか)しこれは理窟(りくつ)で、お前も不服かも知れん。不服と思ふから私も頼むのだ。お前に頼(たのみ)が有ると言うたのはこの事だ。
 従来(これまで)もお前を世話した、後来(これから)も益世話をせうからなう、其処(そこ)に免じて、お前もこの頼は聴いてくれ」
 貫一は戦(をのの)く唇(くちびる)を咬緊(くひし)めつつ、故(ことさ)ら緩舒(ゆるやか)に出(いだ)せる声音(こわね)は、怪(あやし)くも常に変れり。
「それぢや翁様(をぢさん)の御都合で、どうしても宮(みい)さんは私に下さる訳には参らんのですか」
「さあ、断(た)つて遣れんと云ふ次第ではないが、お前の意はどうだ。私の頼は聴ずとも、又自分の修業の邪魔にならうとも、そんな貪着(とんちやく)は無しに、何でもかでも宮が欲しいと云ふのかな」
「…………」
「さうではあるまい」
「…………」
 得言はぬ貫一が胸には、理(ことわり)に似たる彼の理不尽を憤りて、責むべき事、詰(なじ)るべき事、罵(ののし)るべき、言破るべき事、辱(はぢし)むべき事の数々は沸(わ)くが如く充満(みちみ)ちたれど、彼は神にも勝(まさ)れる恩人なり。理非を問はずその言(ことば)には逆ふべからずと思へば、血出づるまで舌を咬(か)みても、敢(あへ)て言はじと覚悟せるなり。
 彼は又思へり。恩人は恩を枷(かせ)に如此(かくのごと)く逼(せま)れども、我はこの枷の為に屈せらるべきも、彼は如何(いか)なる斧(をの)を以てか宮の愛をば割かんとすらん。宮が情(なさけ)は我が思ふままに濃(こまやか)ならずとも、我を棄つるが如きさばかり薄き情にはあらざるを。彼だに我を棄てざらんには、枷も理不尽も恐るべきかは。頼むべきは宮が心なり。頼まるるも宮が心也(なり)と、彼は可憐(いとし)き宮を思ひて、その父に対する慍(いかり)を和(やはら)げんと勉(つと)めたり。
 我は常に宮が情(なさけ)の濃(こまやか)ならざるを疑へり。あだかも好しこの理不尽ぞ彼が愛の力を試むるに足るなる。善し善し、盤根錯節(ばんこんさくせつ)に遇(あ)はずんば。
「嫁に遣ると有仰(おつしや)るのは、何方(どちら)へ御遣(おつかは)しになるのですか」
「それは未(ま)だ確(しか)とは極(きま)らんがの、下谷(したや)に富山銀行と云ふのがある、それ、富山重平な、あれの息子の嫁に欲いと云ふ話があるので」
 それぞ箕輪の骨牌会(かるたかい)に三百円の金剛石(ダイアモンド)を□(ひけら)かせし男にあらずやと、貫一は陰(ひそか)に嘲笑(あざわら)へり。されど又余りにその人の意外なるに駭(おどろ)きて、やがて又彼は自ら笑ひぬ。これ必ずしも意外ならず、苟(いやし)くも吾が宮の如く美きを、目あり心あるものの誰(たれ)かは恋ひざらん。独(ひと)り怪しとも怪きは隆三の意(こころ)なる哉(かな)。我(わが)十年の約は軽々(かろがろし)く破るべきにあらず、猶(なほ)謂無(いはれな)きは、一人娘を出(いだ)して嫁(か)せしめんとするなり。戯(たはむ)るるにはあらずや、心狂へるにはあらずや。貫一は寧(むし)ろかく疑ふをば、事の彼の真意に出でしを疑はんより邇(ちか)かるべしと信じたりき。
 彼は競争者の金剛石(ダイアモンド)なるを聞きて、一度(ひとたび)は汚(けが)され、辱(はづかし)められたらんやうにも怒(いかり)を作(な)せしかど、既に勝負は分明(ぶんめい)にして、我は手を束(つか)ねてこの弱敵の自ら僵(たふ)るるを看(み)んと思へば、心稍(やや)落ゐぬ。
「は、はあ、富山重平、聞いてをります、偉い財産家で」
 この一言に隆三の面(おもて)は熱くなりぬ。
「これに就いては私(わし)も大きに考へたのだ、何(なに)に為(し)ろ、お前との約束もあるものなり、又一人娘の事でもあり、然(しか)し、お前の後来(こうらい)に就(つ)いても、宮の一身に就いてもの、又私たちは段々取る年であつて見れば、その老後だの、それ等の事を考へて見ると、この鴫沢の家には、お前も知つての通り、かうと云ふ親類も無いで、何かに就けて誠に心細いわ、なう。私たちは追々年を取るばかり、お前たちは若(わか)しと云ふもので、ここに可頼(たのもし)い親類が有れば、どれ程心丈夫だか知れんて、なう。そこで富山ならば親類に持つても可愧(はづかし)からん家格(いへがら)だ。気の毒な思をしてお前との約束を変易(へんがへ)するのも、私たちが一人娘を他(よそ)へ遣つて了ふのも、究竟(つまり)は銘々の為に行末好かれと思ふより外は無いのだ。
 それに、富山からは切(た)つての懇望で、無理に一人娘を貰ふと云ふ事であれば、息子夫婦は鴫沢の子同様に、富山も鴫沢も一家(いつけ)のつもりで、決して鴫沢家を疎(おろそか)には為(せ)まい。娘が内に居なくなつて不都合があるならば、どの様にもその不都合の無いやうには計はうからと、なう、それは随分事を分けた話で。
 決して慾ではないが、良(い)い親類を持つと云ふものは、人で謂(い)へば取(とり)も直(なほ)さず良い友達で、お前にしてもさうだらう、良い友達が有れば、万事の話合手になる、何かの力になる、なう、謂はば親類は一家(いつか)の友達だ。
 お前がこれから世の中に出るにしても、大相(たいそう)な便宜になるといふもの。それやこれや考へて見ると、内に置かうよりは、遣つた方が、誰(たれ)の為彼の為ではない。四方八方が好いのだから、私(わし)も決心して、いつそ遣らうと思ふのだ。
 私の了簡(りようけん)はかう云ふのだから、必ず悪く取つてくれては困るよ、なう。私だとて年効(としがひ)も無く事を好んで、何為(なにし)に若いものの不為(ふため)になれと思ふものかな。お前も能(よ)く其処(そこ)を考へて見てくれ。
 私もかうして頼むからは、お前の方の頼も聴かう。今年卒業したら直(すぐ)に洋行でもしたいと思ふなら、又さう云ふ事に私も一番(ひとつ)奮発しやうではないか。明日にも宮と一処になつて、私たちを安心さしてくれるよりは、お前も私もも少(すこ)しのところを辛抱して、いつその事博士(はかせ)になつて喜ばしてくれんか」
 彼はさも思ひのままに説完(ときおほ)せたる面色(おももち)して、寛(ゆたか)に髯(ひげ)を撫(な)でてゐたり。
 貫一は彼の説進むに従ひて、漸(やうや)くその心事の火を覩(み)るより明(あきらか)なるを得たり。彼が千言万語の舌を弄(ろう)して倦(う)まざるは、畢竟(ひつきよう)利の一字を掩(おほ)はんが為のみ。貧する者の盗むは世の習ながら、貧せざるもなほ盗まんとするか。我も穢(けが)れたるこの世に生れたれば、穢れたりとは自ら知らで、或(あるひ)は穢れたる念を起し、或は穢れたる行(おこなひ)を為(な)すことあらむ。されど自ら穢れたりと知りて自ら穢すべきや。妻を売りて博士を買ふ! これ豈(あに)穢れたるの最も大なる者ならずや。
 世は穢れ、人は穢れたれども、我は常に我恩人の独(ひと)り汚(けがれ)に染(そ)みざるを信じて疑はざりき。過ぐれば夢より淡き小恩をも忘れずして、貧き孤子(みなしご)を養へる志は、これを証して余(あまり)あるを。人の浅ましきか、我の愚なるか、恩人は酷(むご)くも我を欺きぬ。今は世を挙げて皆穢れたるよ。悲めばとて既に穢れたる世をいかにせん。我はこの時この穢れたる世を喜ばんか。さしもこの穢れたる世に唯(ただ)一つ穢れざるものあり。喜ぶべきものあるにあらずや。貫一は可憐(いとし)き宮が事を思へるなり。
 我の愛か、死をもて脅(おびやか)すとも得て屈すべからず。宮が愛か、某(なにがし)の帝(みかど)の冠(かむり)を飾れると聞く世界無双(ぶそう)の大金剛石(だいこんごうせき)をもて購(あがな)はんとすとも、争(いか)でか動し得べき。我と彼との愛こそ淤泥(おでい)の中(うち)に輝く玉の如きものなれ、我はこの一つの穢れざるを抱(いだ)きて、この世の渾(すべ)て穢れたるを忘れん。
 貫一はかく自ら慰めて、さすがに彼の巧言を憎し可恨(うらめ)しとは思ひつつも、枉(ま)げてさあらぬ体(てい)に聴きゐたるなりけり。
「それで、この話は宮(みい)さんも知つてゐるのですか」
「薄々(うすうす)は知つてゐる」
「では未(ま)だ宮(みい)さんの意見は御聞にならんので?」
「それは、何だ、一寸(ちよつと)聞いたがの」
「宮さんはどう申してをりました」
「宮か、宮は別にどうといふ事は無いのだ。御父様(おとつさん)や御母様(おつかさん)の宜(よろし)いやうにと云ふので、宮の方には異存は無いのだ、あれにもすつかり訳を説いて聞かしたところが、さう云ふ次第ならばと、漸(やうや)く得心がいつたのだ」
 断じて詐(いつはり)なるべしと思ひながらも、貫一の胸は跳(をど)りぬ。
「はあ、宮さんは承知を為ましたので?」
「さう、異存は無いのだ。で、お前も承知してくれ、なう。一寸聞けば無理のやうではあるが、その実少しも無理ではないのだ。私(わし)の今話した訳はお前にも能く解つたらうが、なう」
「はい」
「その訳が解つたら、お前も快く承知してくれ、なう。なう、貫一」
「はい」
「それではお前も承知をしてくれるな。それで私も多きに安心した。悉(くはし)い事は何(いづ)れ又寛緩(ゆつくり)話を為やう。さうしてお前の頼も聴かうから、まあ能く種々(いろいろ)考へて置くが可(い)いの」
「はい」

     第七章

 熱海は東京に比して温きこと十余度なれば、今日漸(やうや)く一月の半(なかば)を過ぎぬるに、梅林(ばいりん)の花は二千本の梢(こずゑ)に咲乱れて、日に映(うつろ)へる光は玲瓏(れいろう)として人の面(おもて)を照し、路(みち)を埋(うづ)むる幾斗(いくと)の清香(せいこう)は凝(こ)りて掬(むす)ぶに堪(た)へたり。梅の外(ほか)には一木(いちぼく)無く、処々(ところどころ)の乱石の低く横(よこた)はるのみにて、地は坦(たひらか)に氈(せん)を鋪(し)きたるやうの芝生(しばふ)の園の中(うち)を、玉の砕けて迸(ほとばし)り、練(ねりぎぬ)の裂けて飜(ひるがへ)る如き早瀬の流ありて横さまに貫けり。後に負へる松杉の緑は麗(うららか)に霽(は)れたる空を攅(さ)してその頂(いただき)に方(あた)りて懶(ものう)げに懸(かか)れる雲は眠(ねむ)るに似たり。習(そよ)との風もあらぬに花は頻(しきり)に散りぬ。散る時に軽(かろ)く舞ふを鶯(うぐひす)は争ひて歌へり。
 宮は母親と連立ちて入来(いりきた)りぬ。彼等は橋を渡りて、船板の牀几(しようぎ)を据ゑたる木(こ)の下(もと)を指して緩(ゆる)く歩めり。彼の病は未(いま)だ快からぬにや、薄仮粧(うすげしやう)したる顔色も散りたる葩(はなびら)のやうに衰へて、足の運(はこび)も怠(たゆ)げに、動(とも)すれば頭(かしら)の低(た)るるを、思出(おもひいだ)しては努めて梢を眺(なが)むるなりけり。彼の常として物案(ものあんじ)すれば必ず唇(くちびる)を咬(か)むなり。彼は今頻(しきり)に唇を咬みたりしが、
「御母(おつか)さん、どうしませうねえ」
 いと好く咲きたる枝を飽かず見上げし母の目は、この時漸く娘に転(うつ)りぬ。
「どうせうたつて、お前の心一つぢやないか。初発(はじめ)にお前が適(い)きたいといふから、かう云ふ話にしたのぢやないかね。それを今更……」
「それはさうだけれど、どうも貫一(かんいつ)さんの事が気になつて。御父(おとつ)さんはもう貫一さんに話を為(な)すつたらうか、ねえ御母(おつか)さん」
「ああ、もう為すつたらうとも」
 宮は又唇を咬みぬ。
「私は、御母さん、貫一さんに顔が合されないわね。だから若(も)し適(ゆ)くのなら、もう逢(あ)はずに直(ずつ)と行つて了(しま)ひたいのだから、さう云ふ都合にして下さいな。私はもう逢はずに行くわ」
 声は低くなりて、美き目は湿(うるほ)へり。彼は忘れざるべし、その涙を拭(ぬぐ)へるハンカチイフは再び逢はざらんとする人の形見なるを。
「お前がそれ程に思ふのなら、何で自分から適(い)きたいとお言ひなのだえ。さう何時(いつ)までも気が迷つてゐては困るぢやないか。一日経(た)てば一日だけ話が運ぶのだから、本当にどうとも確然(しつかり)極(き)めなくては可(い)けないよ。お前が可厭(いや)なものを無理にお出(いで)といふのぢやないのだから、断るものなら早く断らなければ、だけれど、今になつて断ると云つたつて……」
「可(い)いわ。私は適くことは適くのだけれど、貫一さんの事を考へると情無くなつて……」
 貫一が事は母の寝覚にも苦むところなれば、娘のその名を言ふ度(たび)に、犯せる罪をも歌はるる心地して、この良縁の喜ぶべきを思ひつつも、さすがに胸を開きて喜ぶを得ざるなり。彼は強(し)ひて宮を慰めんと試みつ。兼ねては自ら慰むるなるべし。
「お父(とつ)さんからお話があつて、貫一さんもそれで得心がいけば、済む事だし、又お前が彼方(あちら)へ適つて、末々まで貫一さんの力になれば、お互の仕合(しあはせ)と云ふものだから、其処(そこ)を考へれば、貫一さんだつて……、それに男と云ふものは思切(おもひきり)が好いから、お前が心配してゐるやうなものではないよ。これなり遇(あ)はずに行くなんて、それはお前却(かへ)つて善くないから、矢張(やつぱり)逢つて、丁(ちやん)と話をして、さうして清く別れるのさ。この後とも末長く兄弟で往来(ゆきかよひ)をしなければならないのだもの。
 いづれ今日か明日(あした)には御音信(おたより)があつて、様子が解らうから、さうしたら還つて、早く支度に掛らなければ」
 宮は牀几(しようぎ)に倚(よ)りて、半(なかば)は聴き、半は思ひつつ、膝(ひざ)に散来る葩(はなびら)を拾ひては、おのれの唇に代へて連(しきり)に咬砕(かみくだ)きぬ。鶯(うぐひす)の声の絶間を流の音は咽(むせ)びて止まず。
 宮は何心無く面(おもて)を挙(あぐ)るとともに稍(やや)隔てたる木(こ)の間隠(まがくれ)に男の漫行(そぞろあるき)する姿を認めたり。彼は忽(たちま)ち眼(まなこ)を着けて、木立は垣の如く、花は幕の如くに遮(さへぎ)る隙(ひま)を縫ひつつ、姑(しばら)くその影を逐(お)ひたりしが、遂(つひ)に誰(たれ)をや見出(みいだ)しけん。慌忙(あわただし)く母親に□(ささや)けり。彼は急に牀几を離れて五六歩(いつあしむあし)進行(すすみゆ)きしが、彼方(あなた)よりも見付けて、逸早(いちはや)く呼びぬ。
「其処(そこ)に御出(おいで)でしたか」
 その声は静なる林を動して響きぬ。宮は聞くと斉(ひとし)く、恐れたる風情(ふぜい)にて牀几の端(はし)に竦(すくま)りつ。
「はい、唯今(ただいま)し方(がた)参つたばかりでございます。好くお出掛でございましたこと」
 母はかく挨拶(あいさつ)しつつ彼を迎へて立てり。宮は其方(そなた)を見向きもやらで、彼の急足(いそぎあし)に近(ちかづ)く音を聞けり。
 母子(おやこ)の前に顕(あらは)れたる若き紳士は、その誰(たれ)なるやを説かずもあらなん。目覚(めざまし)く大(おほい)なる金剛石(ダイアモンド)の指環を輝かせるよ。柄(にぎり)には緑色の玉(ぎよく)を獅子頭(ししがしら)に彫(きざ)みて、象牙(ぞうげ)の如く瑩潤(つややか)に白き杖(つゑ)を携へたるが、その尾(さき)をもて低き梢の花を打落し打落し、
「今お留守へ行きまして、此処(ここ)だといふのを聞いて追懸(おつか)けて来た訳です。熱いぢやないですか」
 宮はやうやう面(おもて)を向けて、さて淑(しとやか)に起ちて、恭(うやうやし)く礼するを、唯継は世にも嬉しげなる目して受けながら、なほ飽くまでも倨(おご)り高(たかぶ)るを忘れざりき。その張りたる腮(あぎと)と、への字に結べる薄唇(うすくちびる)と、尤異(けやけ)き金縁(きんぶち)の目鏡(めがね)とは彼が尊大の風に尠(すくな)からざる光彩を添ふるや疑(うたがひ)無し。
「おや、さやうでございましたか、それはまあ。余り好い御天気でございますから、ぶらぶらと出掛けて見ました。真(ほん)に今日(こんにち)はお熱いくらゐでございます。まあこれへお掛遊ばして」
 母は牀几を払へば、宮は路(みち)を開きて傍(かたはら)に佇(たたず)めり。
「貴方(あなた)がたもお掛けなさいましな。今朝です、東京から手紙で、急用があるから早速帰るやうに――と云ふのは、今度私が一寸した会社を建てるのです。外国へ此方(こちら)の塗物を売込む会社。これは去年中からの計画で、いよいよこの三四月頃には立派に出来上る訳でありますから、私も今は随分忙(せはし)い体(からだ)、なにしろ社長ですからな。それで私が行かなければ解らん事があるので、呼びに来た。で、翌(あす)の朝立たなければならんのであります」
「おや、それは急な事で」
「貴方がたも一所(いつしよ)にお立ちなさらんか」
 彼は宮の顔を偸視(ぬすみみ)つ。宮は物言はん気色(けしき)もなくて又母の答へぬ。
「はい、難有(ありがた)う存じます」
「それとも未(ま)だ御在(おいで)ですか。宿屋に居るのも不自由で、面白くもないぢやありませんか。来年あたりは一つ別荘でも建てませう。何の難(わけ)は無い事です。地面を広く取つてその中に風流な田舎家(ゐなかや)を造るです。食物などは東京から取寄せて、それでなくては実は保養には成らん。家が出来てから寛緩(ゆつくり)遊びに来るです」
「結構でございますね」
「お宮さんは、何ですか、かう云ふ田舎の静な所が御好なの?」
 宮は笑(ゑみ)を含みて言はざるを、母は傍(かたはら)より、
「これはもう遊ぶ事なら嫌(きらひ)はございませんので」
「はははははは誰もさうです。それでは以後(これから)盛(さかん)にお遊(あす)びなさい。どうせ毎日用は無いのだから、田舎でも、東京でも西京(さいきよう)でも、好きな所へ行つて遊ぶのです。船は御嫌(おきらひ)ですか、ははあ。船が平気だと、支那(しな)から亜米利加(アメリカ)の方を見物がてら今度旅行を為て来るのも面白いけれど。日本の内ぢや遊山(ゆさん)に行(ある)いたところで知れたもの。どんなに贅沢(ぜいたく)を為たからと云つて」
「御帰(おかへり)になつたら一日赤坂の別荘の方へ遊びにお出下(いでくだ)さい、ねえ。梅が好いのであります。それは大きな梅林が有つて、一本々々種の違ふのを集めて二百本もあるが、皆老木ばかり。この梅などは全(まる)で為方(しかた)が無い! こんな若い野梅(のうめ)、薪(まき)のやうなもので、庭に植ゑられる花ぢやない。これで熱海の梅林も凄(すさまし)い。是非内のをお目に懸けたいでありますね、一日遊びに来て下さい。御馳走(ごちそう)を為ますよ。お宮さんは何が所好(すき)ですか、ええ、一番所好なものは?」
 彼は陰(ひそか)に宮と語らんことを望めるなり、宮はなほ言はずして可羞(はづか)しげに打笑(うちゑ)めり。
「で、何日(いつ)御帰でありますか。明朝(あした)一所に御発足(おたち)にはなりませんか。此地(こつち)にさう長く居なければならんと云ふ次第ではないのでせう、そんなら一所にお立ちなすつたらどうであります」
「はい、難有(ありがた)うございますが、少々宅の方の都合がございまして、二三日内(うち)には音信(たより)がございます筈(はず)で、その音信(たより)を待ちまして、実は帰ることに致してございますものですから、折角の仰せですが、はい」
「ははあ、それぢやどうもな」
 唯継は例の倨(おご)りて天を睨(にら)むやうに打仰(うちあふ)ぎて、杖の獅子頭(ししがしら)を撫廻(なでまは)しつつ、少時(しばらく)思案する体(てい)なりしが、やをら白羽二重(しろはぶたへ)のハンカチイフを取出(とりいだ)して、片手に一揮(ひとふり)揮(ふ)るよと見れば鼻(はな)を拭(ぬぐ)へり。菫花(ヴァイオレット)の香(かをり)を咽(むせ)ばさるるばかりに薫(くん)じ遍(わた)りぬ。
 宮も母もその鋭き匂(にほひ)に驚けるなり。
「ああと、私これから少し散歩しやうと思ふのであります。これから出て、流に沿(つ)いて、田圃(たんぼ)の方を。私未(ま)だ知らんけれども、余程景色が好いさう。御一所にと云ふのだが、大分跡程(みち)が有るから、貴方(あなた)は御迷惑でありませう。二時間ばかりお宮さんを御貸し下さいな。私一人で歩いてもつまらない。お宮さんは胃が不良(わるい)のだから散歩は極(きは)めて薬、これから行つて見ませう、ねえ」
 彼は杖を取直してはや立たんとす。
「はい。難有(ありがた)うございます。お前お供をお為(し)かい」
 宮の遅(ためら)ふを見て、唯継は故(ことさら)に座を起(た)てり。
「さあ行つて見ませう、ええ、胃病の薬です。さう因循(いんじゆん)してゐては可(い)けない」
 つと寄りて軽(かろ)く宮の肩を拊(う)ちぬ。宮は忽(たちま)ち面(おもて)を紅(あか)めて、如何(いか)にとも為(せ)ん術(すべ)を知らざらんやうに立惑(たちまど)ひてゐたり。母の前をも憚(はばか)らぬ男の馴々(なれなれ)しさを、憎しとにはあらねど、己(おのれ)の仂(はした)なきやうに慙(は)づるなりけり。
 得も謂(い)はれぬその仇無(あどな)さの身に浸遍(しみわた)るに堪(た)へざる思は、漫(そぞろ)に唯継の目の中(うち)に顕(あらは)れて異(あやし)き独笑(ひとりゑみ)となりぬ。この仇無(あどな)き□(いと)しらしき、美き娘の柔(やはらか)き手を携へて、人無き野道の長閑(のどか)なるを語(かたら)ひつつ行かば、如何(いか)ばかり楽からんよと、彼ははや心も空(そら)になりて、
「さあ、行つて見ませう。
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