金色夜叉
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著者名:尾崎紅葉 

 遊佐良橘(ゆさりようきつ)は郷里に在りし日も、出京の遊学中も、頗(すこぶ)る謹直を以(も)て聞えしに、却(かへ)りて、日本周航会社に出勤せる今日(こんにち)、三百円の高利の為に艱(なやま)さるると知れる彼の友は皆驚けるなり。或ものは結婚費なるべしと言ひ、或ものは外(おもて)を張らざるべからざる為の遣繰(やりくり)なるべしと言ひ、或ものは隠遊(かくれあそび)の風流債ならんと説くもありて、この不思議の負債とその美き妻とは、遊佐に過ぎたる物が二つに数へらるるなりき。されどもこは謂(い)ふべからざる事情の下に連帯の印(いん)を仮(か)せしが、形(かた)の如く腐れ込みて、義理の余毒の苦を受(うく)ると知りて、彼の不幸を悲むものは、交際官試補なる法学士蒲田(かまだ)鉄弥と、同会社の貨物課なる法学士風早庫之助(かざはやくらのすけ)とあるのみ。
 凡(およ)そ高利の術たるや、渇者(かつしや)に水を売るなり。渇の甚(はなはだし)く堪(た)へ難き者に至りては、決してその肉を割(さ)きてこれを換ふるを辞せざるべし。この急に乗じてこれを売る、一杯の水もその値(あたひ)玉漿(ぎよくしよう)を盛るに異る無し。故(ゆゑ)に前後不覚に渇する者能くこれを買ふべし、その渇の癒(いゆ)るに及びては、玉漿なりとして喜び吃(きつ)せしものは、素(も)と下水の上澄(うはずみ)に過ぎざるを悟りて、痛恨、痛悔すといへども、彼は約の如く下水の倍量をばその鮮血に搾(しぼ)りその活肉に割きて以て返さざるべからず。噫(ああ)、世間の最も不敵なる者高利を貸して、これを借(か)るは更に最も不敵なる者と為さざらんや。ここを以(も)て、高利は借(か)るべき人これを借りて始めて用ゐるべし。さらずばこれを借るの覚悟あるべきを要す。これ風早法学士の高利貸に対する意見の概要なり。遊佐は実にこの人にあらず、又この覚悟とても有らざるを、奇禍に罹(かか)れる哉(かな)と、彼は人の為ながら常にこの憂(うれひ)を解く能(あた)はざりき。
 近きに郷友会(きようゆうかい)の秋季大会あらんとて、今日委員会のありし帰(かへる)さを彼等は三人(みたり)打連れて、遊佐が家へ向へるなり。
「別に御馳走(ごちそう)と云つては無いけれど、松茸(まつだけ)の極新(ごくあたらし)いのと、製造元から貰(もら)つた黒麦酒(くろビイル)が有るからね、鶏(とり)でも買つて、寛(ゆつく)り話さうぢやないか」
 遊佐が弄(まさぐ)れる半月形の熏豚(ハム)の罐詰(かんづめ)も、この設(まうけ)にとて途(みち)に求めしなり。
 蒲田の声は朗々として聴くに快く、
蒲「それは結構だ。さう泊(とまり)が知れて見ると急ぐにも当らんから、どうだね、一ゲエム。君はこの頃風早と対(たい)に成つたさうだが、長足の進歩ぢやないか。然(しか)し、どうもその長足のちやうはてう(貂)足らず、続(つ)ぐにフロックを以つて為るのぢやないかい。この頃は全然(すつかり)フロックが止(とま)つた? ははははは、それはお目出度(めでた)いやうな御愁傷のやうな妙な次第だね。然し、フロックが止つたのは明(あきらか)に一段の進境を示すものだ。まあ、それで大分話せるやうになりました」
 風早は例の皺嗄声(しわかれごゑ)して大笑(たいしよう)を発せり。
風「更に一段の進境を示すには、竪杖(たてキュウ)をして二寸三分クロオスを裂(やぶ)かなければ可けません」
蒲「三たび臂(ひぢ)を折つて良医となるさ。あれから僕は竪杖(たてキュウ)の極意を悟つたのだ」
風「へへへ、この頃の僕の後曳(あとびき)の手際(てぎは)も知らんで」
 これを聞きて、こたびは遊佐が笑へり。
遊「君の後曳も口ほどではないよ。この間那処(あすこ)の主翁(おやぢ)がさう言つてゐた、風早さんが後曳を三度なさると新いチョオクが半分失(なくな)る……」
蒲「穿得(うがちえ)て妙だ」
風「チョオクの多少は業(わざ)の巧拙には関せんよ。遊佐が無闇(むやみ)に杖(キュウ)を取易(とりか)へるのだつて、決して見(み)とも好くはない」
 蒲田は手もて遽(にはか)に制しつ。
「もう、それで可い。他(ひと)の非を挙げるやうな者に業(わざ)の出来た例(ためし)が無い。悲い哉(かな)君達の球も蒲田に八十で底止(とまり)だね」
風「八十の事があるものか」
蒲「それでは幾箇(いくつ)で来るのだ」
「八十五よ」
「五とは情無い! 心の程も知られける哉(かな)だ」
「何でも可いから一ゲエム行かう」
「行かうとは何だ! 願ひますと言ふものだ」
 語(ことば)も訖(をは)らざるに彼は傍腹(ひばら)に不意の肱突(ひぢつき)を吃(くら)ひぬ。
「あ、痛(いた)! さう強く撞(つ)くから毎々球が滾(ころ)げ出すのだ。風早の球は暴(あら)いから癇癪玉(かんしやくだま)と謂ふのだし、遊佐のは馬鹿に柔(やはらか)いから蒟蒻玉(こんにやくだま)。それで、二人の撞くところは電公(かみなり)と蚊帳(かや)が捫択(もんちやく)してゐるやうなものだ」
風「ええ、自分がどれほど撞けるのだ」
蒲「さう、多度(たんと)も行かんが、天狗(てんぐ)の風早に二十遣るのさ」
 二人は劣らじと諍(あらが)ひし末、直(ただち)に一番の勝負をいざいざと手薬煉(てぐすね)引きかくるを、遊佐は引分けて、
「それは飲んでからに為やう。夜が長いから後で寛(ゆつく)り出来るさ。帰つて風呂にでも入(い)つて、それから徐々(そろそろ)始めやうよ」
 往来繁(ゆききしげ)き町を湯屋の角より入(い)れば、道幅その二分の一ばかりなる横町の物売る店も雑(まじ)りながら閑静に、家並(やなみ)整へる中程に店蔵(みせぐら)の質店(しちや)と軒ラムプの並びて、格子木戸(こうしきど)の内を庭がかりにしたる門(かど)に楪葉(ゆづりは)の立てるぞ遊佐が居住(すまひ)なる。
 彼は二人を導きて内格子を開きける時、彼の美き妻は出(い)で来(きた)りて、伴へる客あるを見て稍(やや)打惑へる気色(けしき)なりしが、遽(にはか)に笑(ゑみ)を含みて常の如く迎へたり。
「さあ、どうぞお二階へ」
「座敷は?」と夫に尤(とが)められて、彼はいよいよ困(こう)じたるなり。
「唯今(ただいま)些(ちよい)と塞(ふさが)つてをりますから」
「ぢや、君、二階へどうぞ」
 勝手を知れる客なれば□々(づかづか)と長四畳を通りて行く跡に、妻は小声になりて、
「鰐淵(わにぶち)から参つてをりますよ」
「来たか!」
「是非お目に懸りたいと言つて、何と言つても帰りませんから、座敷へ上げて置きました、些(ちよい)とお会ひなすつて、早く還(かへ)してお了(しま)ひなさいましな」
「松茸(まつだけ)はどうした」
 妻はこの暢気(のんき)なる問に驚かされぬ。
「貴方、まあ松茸なんぞよりは早く……」
「待てよ。それからこの間の黒麦酒(くろビイル)な……」
「麦酒も松茸もございますから早くあれを還してお了ひなさいましよ。私(わたし)は那奴(あいつ)が居ると思ふと不快(いや)な心持で」
 遊佐も差当りて当惑の眉(まゆ)を顰(ひそ)めつ。二階にては例の玉戯(ビリアアド)の争(あらそひ)なるべし、さも気楽に高笑(たかわらひ)するを妻はいと心憎く。
 少間(しばし)ありて遊佐は二階に昇り来(きた)れり。
蒲「浴(ゆ)に一つ行かうよ。手拭(てぬぐひ)を貸してくれ給へな」
遊「ま、待ち給へ、今一処に行くから。時に弱つて了つた」
 実(げ)に言ふが如く彼は心穏(こころおだや)かならず見ゆるなり。
風「まあ、坐りたまへ。どうしたのかい」
遊「坐つてもをられんのだ、下に高利貸(アイス)が来てをるのだよ」
蒲「那物(えてもの)が来たのか」
遊「先から座敷で帰来(かへり)を待つてをつたのだ。困つたね!」
 彼は立ちながら頭(かしら)を抑へて緩(ゆる)く柱に倚(よ)れり。
蒲「何とか言つて逐返(おつかへ)して了ひ給へ」
遊「なかなか逐返らんのだよ。陰忍(ひねくね)した皮肉な奴でね、那奴(あいつ)に捉(つかま)つたら耐(たま)らん」
蒲「二三円も叩(たた)き付けて遣るさ」
遊「もうそれも度々(たびたび)なのでね、他(むかふ)は書替を為(さ)せやうと掛つてゐるのだから、延期料を握つたのぢや今日は帰らん」
 風早は聴ゐるだに心苦くて、
「蒲田、君一つ談判してやり給へ、ええ、何とか君の弁を揮(ふる)つて」
「これは外の談判と違つて唯金銭(かね)づくなのだから、素手(すで)で飛込むのぢや弁の奮(ふる)ひやうが無いよ。それで忽諸(まごまご)すると飛んで火に入る夏の虫となるのだから、まあ君が行つて何とか話をして見たまへ。僕は様子を立聞して、臨機応変の助太刀(すけだち)を為るから」
 いと難(むづか)しと思ひながらも、かくては果てじと、遊佐は気を取直して下り行くなりけり。
風「気の毒な、萎(しを)れてゐる。あれの事だから心配してゐるのだ。君、何とかして拯(すく)つて遣り給へな」
蒲「一つ行つて様子を見て来やう。なあに、そんなに心配するほどの事は無いのだよ。遊佐は気が小いから可(い)かない。ああ云ふ風だから益(ますま)す脚下(あしもと)を見られて好い事を為れるのだ。高が金銭(かね)の貸借(かしかり)だ、命に別条は有りはしないさ」
「命に別条は無くても、名誉に別条が有るから、紳士たるものは懼(おそ)れるだらうぢやないか」
「ところが懼れない! 紳士たるものが高利(アイス)を貸したら名誉に関らうけれど、高い利を払つて借りるのだから、安利(あんり)や無利息なんぞを借りるから見れば、夐(はるか)に以つて栄とするに足れりさ。紳士たりといへども金銭(かね)に窮(こま)らんと云ふ限は無い、窮つたから借りるのだ。借りて返さんと言ひは為(す)まいし、名誉に於て傷(きずつ)くところは少しも無い」
「恐入りました、高利(アイス)を借りやうと云ふ紳士の心掛は又別の物ですな」
「で、仮に一歩を譲るさ、譲つて、高利(アイス)を借りるなどは、紳士たるもののいとも慚(は)づべき行(おこなひ)と為るよ。さほど慚づべきならば始から借りんが可いぢやないか。既に借りた以上は仕方が無い、未(いま)だ借りざる先の慚づべき心を以つてこれに対せんとするも能(あた)はざるなりだらう。宋(そう)の時代であつたかね、何か乱が興(おこ)つた。すると上奏に及んだものがある、これは師(いくさ)を動かさるるまでもない、一人(いちにん)の将を河上(かじよう)へ遣(つかは)して、賊の方(かた)に向つて孝経(こうきよう)を読せられた事ならば、賊は自(おのづ)から消滅せん、は好いぢやないか。これを笑ふけれど、遊佐の如きは真面目(まじめ)で孝経を読んでゐるのだよ、既に借りてさ、天引四割(てんびきしわり)と吃(く)つて一月隔(おき)に血を吮(すは)れる。そんな無法な目に遭(あ)ひながら、未(いま)だ借りざる先の紳士たる徳義や、良心を持つてゐて耐るものか。孝経が解るくらゐなら高利(アイス)は貸しません、彼等は銭勘定の出来る毛族(けだもの)さ」
 得意の快弁流るる如く、彼は息をも継(つが)せず説来(とききた)りぬ。
「濡(ぬ)れぬ内こそ露をもだ。遊佐も借りんのなら可いさ、既に借りて、無法な目に遭ひながら、なほ未(いま)だ借りざる先の良心を持つてゐるのは大きな□(あやまり)だ。それは勿論(もちろん)借りた後といへども良心を持たなければならんけれど、借りざる先の良心と、借りたる後の良心とは、一物(いちぶつ)にして一物ならずだよ。武士の魂(たましひ)と商人(あきんど)根性とは元是(これ)一物なのだ。それが境遇に応じて魂ともなれば根性ともなるのさ。で、商人根性といへども決して不義不徳を容(ゆる)さんことは、武士の魂と敢(あへ)て異るところは無い。武士にあつては武士魂なるものが、商人(あきんど)にあつては商人根性なのだもの。そこで、紳士も高利(アイス)などを借りん内は武士の魂よ、既に対高利(たいアイス)となつたら、商人根性にならんければ身が立たない。究竟(つまり)は敵に応ずる手段なのだ」
「それは固より御同感さ。けれども、紳士が高利(アイス)を借りて、栄と為るに足れりと謂(い)ふに至つては……」
 蒲田は恐縮せる状(さま)を作(な)して、
「それは少し白馬は馬に非(あら)ずだつたよ」
「時に、もう下へ行つて見て遣り給へ」
「どれ、一匕(いつぴ)深く探る蛟鰐(こうがく)の淵(えん)と出掛けやうか」
「空拳(くうけん)を奈(いか)んだらう」
 一笑して蒲田は二階を下りけり。風早は独(ひと)り臥(ね)つ起きつ安否の気遣(きづかは)れて苦き無聊(ぶりよう)に堪へざる折から、主(あるじ)の妻は漸(やうや)く茶を持ち来りぬ。
「どうも甚(はなは)だ失礼を致しました」
「蒲田は座敷へ参りましたか」
 彼はその美き顔を少く赧(あか)めて、
「はい、あの居間へお出(いで)で、紙門越(ふすまごし)に様子を聴いてゐらつしやいます。どうもこんなところを皆様のお目に掛けまして、実にお可恥(はづかし)くてなりません」
「なあに、他人ぢやなし、皆様子を知つてゐる者ばかりですから構ふ事はありません」
「私(わたくし)はもう彼奴(あいつ)が参りますと、惣毛竪(そうけだ)つて頭痛が致すのでございます。あんな強慾な事を致すものは全く人相が別でございます。それは可厭(いや)に陰気な□々(ねちねち)した、底意地の悪さうな、本当に探偵小説にでも在りさうな奴でございますよ」
 急足(いそぎあし)に階子(はしご)を鳴して昇り来りし蒲田は、
「おいおい風早、不思議、不思議」
 と上端(あがりはな)に坐れる妻の背後(うしろ)を過(すぐ)るとて絶(したた)かその足を蹈付(ふんづ)けたり。
「これは失礼を。お痛うございましたらう。どうも失礼を」
 骨身に沁(し)みて痛かりけるを妻は赤くなりて推怺(おしこら)へつつ、さり気無く挨拶(あいさつ)せるを、風早は見かねたりけん、
「不相変(あひかはらず)麁相(そそつ)かしいね、蒲田は」
「どうぞ御免を。つい慌(あわ)てたものだから……」
「何をそんなに慌てるのさ」
「落付(おちつか)れる訳のものではないよ。下に来てゐる高利貸(アイス)と云ふのは、誰(たれ)だと思ふ」
「君のと同し奴かい」
「人様の居る前で君のとは怪しからんぢやないか」
「これは失礼」
「僕は妻君の足を蹈んだのだが、君は僕の面(つら)を蹈んだ」
「でも仕合(しあはせ)と皮の厚いところで」
「怪(け)しからん!」
 妻の足の痛(いたみ)は忽(たちま)ち下腹に転(うつ)りて、彼は得堪へず笑ふなりけり。
風「常談どころぢやない、下では苦しんでゐる人があるのだ」
蒲「その苦しめてゐる奴だ、不思議ぢやないか、間だよ、あの間貫一だよ」
 敵寄すると聞きけんやうに風早は身構へて、
「間貫一、学校に居た□」
「さう! 驚いたらう」
 彼は長き鼻息を出して、空(むなし)く眼(まなこ)を□(みは)りしが、
「本当かい」
「まあ、見て来たまへ」
 別して呆(あき)れたるは主(あるじ)の妻なり。彼は鈍(おぞ)ましからず胸の跳(をど)るを覚えぬ。同じ思は二人が面(おもて)にも顕(あらは)るるを見るべし。
「下に参つてゐるのは御朋友(ごほうゆう)なのでございますか」
 蒲田は忙(せは)しげに頷(うなづ)きて、
「さうです。我々と高等中学の同級に居つた男なのですよ」
「まあ!」
「夙(かね)て学校を罷(や)めてから高利貸(アイス)を遣つてゐると云ふ話は聞いてゐましたけれど、極温和(ごくおとなし)い男で、高利貸(アイス)などの出来る気ぢやないのですから、そんな事は虚(うそ)だらうと誰も想つてをつたのです。ところが、下に来てゐるのがその間貫一ですから驚くぢやありませんか」
「まあ! 高等中学にも居た人が何だつて高利貸などに成つたのでございませう」
「さあ、そこで誰も虚(うそ)と想ふのです」
「本(ほん)にさうでございますね」
 少(すこし)き前に起ちて行きし風早は疑(うたがひ)を霽(はら)して帰り来(きた)れり。
「どうだ、どうだ」
「驚いたね、確に間貫一!」
「アルフレッド大王の面影(おもかげ)があるだらう」
「エッセクスを逐払(おつぱら)はれた時の面影だ。然し彼奴(あいつ)が高利貸を遣らうとは想はなかつたが、どうしたのだらう」
「さあ、あれで因業(いんごう)な事が出来るだらうか」
「因業どころではございませんよ」
 主(あるじ)の妻はその美き顔を皺(しわ)めたるなり。
蒲「随分酷(ひど)うございますか」
妻「酷うございますわ」
 こたびは泣顔せるなり。風早は決するところ有るが如くに余せし茶をば遽(にはか)に取りて飲干し、
「然し間であるのが幸(さいはひ)だ、押掛けて行つて、昔の顔で一つ談判せうぢやないか。我々が口を利くのだ、奴もさう阿漕(あこぎ)なことは言ひもすまい。次手(ついで)に何とか話を着けて、元金(もときん)だけか何かに負けさして遣らうよ。那奴(あいつ)なら恐れることは無い」
 彼の起ちて帯締直すを蒲田は見て、
「まるで喧嘩(けんか)に行くやうだ」
「そんな事を言はずに自分も些(ちつ)と気凛(きりつ)とするが可い、帯の下へ時計の垂下(ぶらさが)つてゐるなどは威厳を損じるぢやないか」
「うむ、成程」と蒲田も立上りて帯を解けば、主(あるじ)の妻は傍(かたはら)より、
「お羽織をお取りなさいましな」
「これは憚様(はばかりさま)です。些(ちよつ)と身支度に婦人の心添(こころぞへ)を受けるところは堀部安兵衛(ほりべやすべえ)といふ役だ。然し芝居でも、人数(にんず)が多くて、支度をする方は大概取つて投げられるやうだから、お互に気を着ける事だよ」
「馬鹿な! 間(はざま)如きに」
「急に強くなつたから可笑(をかし)い。さあ。用意は好(い)いよ」
「此方(こつち)も可(い)い」
 二人は膝を正して屹(き)と差向へり。
妻「お茶を一つ差上げませう」
蒲「どうしても敵討(かたきうち)の門出(かどで)だ。互に交す茶盃(ちやさかづき)か」

     第六章

 座敷には窘(くるし)める遊佐と沈着(おちつ)きたる貫一と相対して、莨盆(たばこぼん)の火の消えんとすれど呼ばず、彼の傍(かたはら)に茶托(ちやたく)の上に伏せたる茶碗(ちやわん)は、嘗(かつ)て肺病患者と知らで出(いだ)せしを恐れて除物(のけもの)にしたりしをば、妻の取出してわざと用ゐたるなり。
 遊佐は憤(いきどほり)を忍べる声音(こわね)にて、
「それは出来んよ。勿論(もちろん)朋友(ほうゆう)は幾多(いくら)も有るけれど、書替の連帯を頼むやうな者は無いのだから。考へて見給へ、何(なん)ぼ朋友の中だと云つても外の事と違つて、借金の連帯は頼めないよ。さう無理を言つて困らせんでも可いぢやないか」
 貫一の声は重きを曳(ひ)くが如く底強く沈みたり。
「敢(あへ)て困らせるの、何のと云ふ訳ではありません。利は下さらず、書替は出来んと、それでは私(わたくし)の方が立ちません。何方(どちら)とも今日は是非願はんければならんのでございます。連帯と云つたところで、固(もと)より貴方(あなた)がお引受けなさる精神なれば、外の迷惑にはならんのですから、些(ほん)の名義を借りるだけの話、それくらゐの事は朋友の誼(よしみ)として、何方(どなた)でも承諾なさりさうなものですがな。究竟(つまり)名義だけあれば宜(よろし)いので、私の方では十分貴方を信用してをるのですから、決(け)してその連帯者に掛らうなどとは思はんのです。ここで何とか一つ廉(かど)が付きませんと、私も主人に対して言訳がありません。利を受取る訳に行かなかつたから、書替をして来たと言へば、それで一先(ひとまづ)句切が付くのでありますから、どうぞ一つさう願ひます」
 遊佐は答ふるところを知らざるなり。
「何方(どなた)でも可うございます、御親友の内で一名」
「可かんよ、それは到底可かんのだよ」
「到底可かんでは私の方が済みません。さう致すと、自然御名誉に関(かかは)るやうな手段も取らんければなりません」
「どうせうと言ふのかね」
「無論差押(さしおさへ)です」
 遊佐は強(し)ひて微笑を含みけれど、胸には犇(ひし)と応(こた)へて、はや八分の怯気(おじけ)付きたるなり。彼は悶(もだ)えて捩断(ねぢき)るばかりにその髭(ひげ)を拈(ひね)り拈りて止まず。
「三百円やそこらの端金(はしたがね)で貴方(あなた)の御名誉を傷(きずつ)けて、後来御出世の妨碍(さまたげ)にもなるやうな事を為るのは、私の方でも決(け)して可好(このまし)くはないのです。けれども、此方(こちら)の請求を容(い)れて下さらなければ已(や)むを得んので、実は事は穏便の方が双方の利益なのですから、更に御一考を願ひます」
「それは、まあ、品に由つたら書替も為んではないけれど、君の要求は、元金(もときん)の上に借用当時から今日(こんにち)までの制規の利子が一ヶ年分と、今度払ふべき九十円の一月分を加へて三百九十円かね、それに対する三月分の天引が百十七円強(なにがし)、それと合(がつ)して五百円の証書面に書替へろと云ふのだらう。又それが連帯債務と言ふだらうけれど、一文だつて自分が費(つか)つたのでもないのに、この間九十円といふものを取られた上に、又改めて五百円の証書を書(かか)される! 余(あんま)り馬鹿々々しくて話にならん。此方(こつち)の身にも成つて少しは斟酌(しんしやく)するが可いぢやないか。一文も費ひもせんで五百円の証書が書けると想ふかい」
 空嘯(そらうそぶ)きて貫一は笑へり。
「今更そんな事を!」
 遊佐は陰(ひそか)に切歯(はがみ)をなしてその横顔を睨付(ねめつ)けたり。
 彼も□(のが)れ難き義理に迫りて連帯の印捺(いんつ)きしより、不測の禍(わざはひ)は起りてかかる憂き目を見るよと、太(いた)く己(おのれ)に懲りてければ、この際人に連帯を頼みて、同様の迷惑を懸(か)くることもやと、断じて貫一の請求を容(い)れざりき。さりとて今一つの請求なる利子を即座に払ふべき道もあらざれば、彼の進退はここに谷(きはま)るとともに貫一もこの場は一寸(いつすん)も去らじと構へたれば、遊佐は羂(わな)に係れる獲物の如く一分時毎に窮する外は無くて、今は唯身に受くべき謂無(いはれな)き責苦を受けて、かくまでに悩まさるる不幸を恨み、飜(ひるがへ)りて一点の人情無き賤奴(せんど)の虐待を憤る胸の内は、前後も覚えず暴(あ)れ乱れてほとほと引裂けんとするなり。
「第一今日は未だ催促に来る約束ぢやないのではないか」
「先月の二十日(はつか)にお払ひ下さるべきのを、未(いま)だにお渡(わたし)が無いのですから、何日(いつ)でも御催促は出来るのです」
 遊佐は拳(こぶし)を握りて顫(ふる)ひぬ。
「さう云ふ怪しからん事を! 何の為に延期料を取つた」
「別に延期料と云つては受取りません。期限の日に参つたのにお払が無い、そこで空(むなし)く帰るその日当及び俥代(くるまだい)として下すつたから戴きました。ですから、若(も)しあれに延期料と云ふ名を附けたらば、その日の取立を延期する料とも謂ふべきでせう」
「貴、貴様は! 最初十円だけ渡さうと言つたら、十円では受取らん、利子の内金(うちきん)でなしに三日間の延期料としてなら受取る、と言つて持つて行つたぢやないか。それからついこの間又十円……」
「それは確に受取りました。が、今申す通り、無駄足(むだあし)を踏みました日当でありますから、その日が経過すれば、翌日から催促に参つても宜(よろし)い訳なのです。まあ、過去つた事は措(お)きまして……」
「措けんよ。過去りは為んのだ」
「今日(こんにち)はその事で上つたのではないのですから、今日(こんにち)の始末をお付け下さいまし。ではどうあつても書替は出来んと仰有(おつしや)るのですな」
「出来ん!」
「で、金(きん)も下さらない?」
「無いから遣れん!」
 貫一は目を側めて遊佐が面(おもて)を熟(じ)と候(うかが)へり。その冷(ひややか)に鋭き眼(まなこ)の光は異(あやし)く彼を襲ひて、坐(そぞろ)に熱する怒気を忘れしめぬ。遊佐は忽(たちま)ち吾に復(かへ)れるやうに覚えて、身の危(あやふ)きに処(を)るを省みたり。一時を快くする暴言も竟(つひ)に曳(ひか)れ者(もの)の小唄(こうた)に過ぎざるを暁(さと)りて、手持無沙汰(てもちぶさた)に鳴(なり)を鎮めつ。
「では、何(いつ)ごろ御都合が出来るのですか」
 機を制して彼も劣らず和(やはら)ぎぬ。
「さあ、十六日まで待つてくれたまへ」
「聢(しか)と相違ございませんか」
「十六日なら相違ない」
「それでは十六日まで待ちますから……」
「延期料かい」
「まあ、お聞きなさいまし、約束手形を一枚お書き下さい。それなら宜(よろし)うございませう」
「宜い事も無い……」
「不承を有仰(おつしや)るところは少しも有りはしません、その代り何分(なんぶん)か今日(こんにち)お遣(つかは)し下さい」
 かく言ひつつ手鞄(てかばん)を開きて、約束手形の用紙を取出(とりいだ)せり。
「銭は有りはせんよ」
「僅少(わづか)で宜(よろし)いので、手数料として」
「又手数料か! ぢや一円も出さう」
「日当、俥代なども入つてゐるのですから五円ばかり」
「五円なんと云ふ金円(かね)は有りはせん」
「それぢや、どうも」
 彼は遽(にはか)に躊躇(ちゆうちよ)して、手形用紙を惜めるやうに拈(ひね)るなりけり。
「ええ、では三円ばかり出さう」
 折から紙門(ふすま)を開きけるを弗(ふ)と貫一の□(みむか)ふる目前(めさき)に、二人の紳士は徐々(しづしづ)と入来(いりきた)りぬ。案内も無くかかる内証の席に立入りて、彼等の各(おのおの)心得顔なるは、必ず子細あるべしと思ひつつ、彼は少(すこし)く座を動(ゆる)ぎて容(かたち)を改めたり。紳士は上下(かみしも)に分れて二人が間に坐りければ、貫一は敬ひて礼を作(な)せり。
蒲「どうも曩(さき)から見たやうだ、見たやうだと思つてゐたら、間君ぢやないか」
風「余り様子が変つたから別人かと思つた。久く会ひませんな」
 貫一は愕然(がくぜん)として二人の面(おもて)を眺めたりしが、忽(たちま)ち身の熱するを覚えて、その誰なるやを憶出(おもひいだ)せるなり。
「これはお珍(めづらし)い。何方(どなた)かと思ひましたら、蒲田君に風早君。久くお目に掛りませんでしたが、いつもお変無く」
蒲「その後はどうですか、何か当時は変つた商売をお始めですな――儲(まうか)りませう」
 貫一は打笑(うちゑ)みて、
「儲りもしませんが、間違つてこんな事になつて了ひました」
 彼の毫(いささか)も愧(は)づる色無きを見て、二人は心陰(こころひそか)に呆(あき)れぬ。侮(あなど)りし風早もかくては与(くみ)し易(やす)からず思へるなるべし。
蒲「儲けづくであるから何でも可いけれど、然(しか)し思切つた事を始めましたね。君の性質で能(よ)くこの家業が出来ると思つて感服しましたよ」
「真人間に出来る業(わざ)ぢやありませんな」
 これ実に真人間にあらざる人の言(ことば)なり。二人はこの破廉耻(はれんち)の老面皮(ろうめんぴ)を憎しと思へり。
蒲「酷(ひど)いね、それぢや君は真人間でないやうだ」
「私(わたし)のやうな者が憖(なまじ)ひ人間の道を守つてをつたら、とてもこの世の中は渡れんと悟りましたから、学校を罷(や)めるとともに人間も罷めて了つて、この商売を始めましたので」
風「然し真人間時分の朋友であつた僕等にかうして会つてゐる間だけは、依旧(やはり)真人間で居てもらひたいね」
 風早は親しげに放笑せり。
蒲「さうさう、それ、あの時分浮名(うきな)の聒(やかまし)かつた、何とか云つたけね、それ、君の所に居つた美人さ」
 貫一は知らざる為(まね)してゐたり。
風「おおおおあれ? さあ、何とか云つたつけ」
蒲「ねえ、間君、何とか云つた」
 よしその旧友の前に人間の面(おもて)を赧(あか)めざる貫一も、ここに到りて多少の心を動かさざるを得ざりき。
「そんなつまらん事を」
蒲「この頃はあの美人と一所ですか、可羨(うらやまし)い」
「もう昔話は御免下さい。それでは遊佐さん、これに御印(ごいん)を願ひます」
 彼は矢立(やたて)の筆を抽(ぬ)きて、手形用紙に金額を書入れんとするを、
風「ああ些(ちよつ)と、その手形はどう云ふのですね」
 貫一の簡単にその始末を述ぶるを聴きて、
「成程御尤(ごもつとも)、そこで少しお話を為たい」
 蒲田は姑(しばら)く助太刀の口を噤(つぐ)みて、皺嗄声(しわがれごゑ)の如何(いか)に弁ずるかを聴かんと、吃余(すひさし)の葉巻を火入(ひいれ)に挿(さ)して、威長高(ゐたけだか)に腕組して控へたり。
「遊佐君の借財の件ですがね、あれはどうか特別の扱(あつかひ)をして戴きたいのだ。君の方も営業なのだから、御迷惑は掛けませんさ、然し旧友の頼(たのみ)と思つて、少し勘弁をしてもらひたい」
 彼も答へず、これも少時(しばし)は言はざりしが、
「どうかね、君」
「勘弁と申しますと?」
「究竟(つまり)君の方に損の掛らん限は減(ま)けてもらひたいのだ。知つての通り、元金(もとこ)の借金は遊佐君が連帯であつて、実際頼れて印を貸しただけの話であるのが、測らず倒れて来たといふ訳なので、それは貸主の目から見れば、そんな事はどうでも可いのだから、取立てるものは取立てる、其処(そこ)は能(よ)く解つてゐる、からして今更その愚痴を言ふのぢやない。然し朋友の側から遊佐君を見ると、飛んだ災難に罹(かか)つたので、如何(いか)にも気の毒な次第。ところで、図(はか)らずも貸主が君と云ふので、轍鮒(てつぷ)の水を得たる想(おもひ)で我々が中へ入つたのは、営業者の鰐淵として話を為るのではなくて、旧友の間(はざま)として、実は無理な頼も聴いてもらひたいのさ。夙(かね)て話は聞いてゐるが、あの三百円に対しては、借主の遠林(とおばやし)が従来(これまで)三回に二百七十円の利を払つて在(あ)る。それから遊佐君の手で九十円、合計三百六十円と云ふものが既に入つてゐるのでせう。して見ると、君の方には既に損は無いのだ、であるから、この三百円の元金(もときん)だけを遊佐君の手で返せば可いといふ事にしてもらひたいのだ」
 貫一は冷笑せり。
「さうすれば遊佐君は三百九十円払ふ訳だが、これが一文も費(つか)はずに空(くう)に出るのだから随分辛(つら)い話、君の方は未(ま)だ未だ利益になるのをここで見切るのだからこれも辛い。そこで辛さ競(くらべ)を為るのだが、君の方は三百円の物が六百六十円になつてゐるのだから、立前(たちまへ)にはなつてゐる、此方(こつち)は三百九十円の全損(まるぞん)だから、ここを一つ酌量してもらひたい、ねえ、特別の扱で」
「全(まる)でお話にならない」
 秋の日は短(みじか)しと謂(い)はんやうに、貫一は手形用紙を取上げて、用捨無く約束の金額を書入れたり。一斉に彼の面(おもて)を注視せし風早と蒲田との眼(まなこ)は、更に相合うて瞋(いか)れるを、再び彼方(あなた)に差向けて、いとど厳(きびし)く打目戍(うちまも)れり。
風「どうかさう云ふ事にしてくれたまへ」
貫「それでは遊佐さん、これに御印(ごいん)を願ひませう。日限(にちげん)は十六日、宜(よろし)うございますか」
 この傍若無人の振舞に蒲田の怺(こら)へかねたる気色(けしき)なるを、風早は目授(めまぜ)して、
「間君、まあ少し待つてくれたまへよ。恥を言はんければ解らんけれど、この借金は遊佐君には荷が勝過ぎてゐるので、利を入れるだけでも方(ほう)が付かんのだから、長くこれを背負つてゐた日には、体も一所(いつしよ)に沈没して了ふばかり、実に一身の浮沈に関(かか)る大事なので、僕等も非常に心配してゐるやうなものの、力が足らんで如何(いかに)とも手の着けやうが無い。対手(あいて)が君であつたのが運の尽きざるところなのだ。旧友の僕等の難を拯(すく)ふと思つて、一つ頼を聴いてくれ給へ。全然(まるまる)損を掛けやうと云ふのぢやないのだから、決(け)してさう無理な頼ぢやなからうと思ふのだが、どうかね、君」
「私(わたくし)は鰐淵の手代なのですから、さう云ふお話は解りかねます。遊佐さん、では、今日(こんにち)はまあ三円頂戴してこれに御印をどうぞお早く」
 遊佐はその独(ひとり)に計ひかねて覚束(おぼつか)なげに頷(うなづ)くのみ。言はで忍びたりし蒲田の怒(いかり)はこの時衝(つ)くが如く、
「待ち給へと言ふに! 先から風早が口を酸(す)くして頼んでゐるのぢやないか、銭貰(ぜにもらひ)が門(かど)に立つたのぢやない、人に対するには礼と云ふものがある、可然(しかるべ)き挨拶(あいさつ)を為たまへ」
「お話がお話だから可然(しかるべ)き御挨拶の為やうが無い」
「黙れ、間(はざま)! 貴様の頭脳(あたま)は銭勘定ばかりしてゐるので、人の言ふ事が解らんと見えるな。誰がその話に可然(しかるべき)挨拶を為ろと言つた。友人に対する挙動が無礼だから節(たしな)めと言つたのだ。高利貸なら高利貸のやうに、身の程を省みて神妙にしてをれ。盗人(ぬすつと)の兄弟分のやうな不正な営業をしてゐながら、かうして旧友に会つたらば赧(あか)い顔の一つも為ることか、世界漫遊でもして来たやうな見識で、貴様は高利を貸すのをあつぱれ名誉と心得てゐるのか。恥を恥とも思はんのみか、一枚の証文を鼻に懸けて我々を侮蔑(ぶべつ)したこの有様を、荒尾譲介(あらおじようすけ)に見せて遣りたい! 貴様のやうな畜生に生れ変つた奴を、荒尾はやはり昔の間貫一だと思つて、この間も我々と話して、貴様の安否を苦にしてな、実の弟(おとと)を殺したより、貴様を失つた方が悲いと言つて鬱(ふさ)いでゐたぞ。その一言(いちごん)に対しても少しは良心の眠(ねむり)を覚せ! 真人間の風早庫之助と蒲田鉄弥が中に入るからは決して迷惑を掛けるやうな事は為んから、今日は順(おとなし)く帰れ、帰れ」
「受取るものを受取らなくては帰れもしません。貴下方(あなたがた)がそれまで遊佐さんの件に就いて御心配下さいますなら、かう為(な)すつて下さいませんか、ともかくもこの約束手形は遊佐さんから戴きまして、この方の形(かた)はそれで一先(ひとまづ)附くのですから、改めて三百円の証書をお書き下さいまし、風早君と蒲田君の連帯にして」
 蒲田はこの手段を知るの経験あるなり。
「うん、宜(よろし)い」
「ではさう為(なす)つて下さるか」
「うん、宜い」
「さう致せば又お話の付けやうもあります」
「然し気の毒だな、無利息、十個年賦(じつかねんぷ)は」
「ええ? 常談ぢやありません」
 さすがに彼の一本参りしを、蒲田は誇りかに嘲笑(せせらわらひ)しつ。
風「常談は措いて、いづれ四五日内(うち)に篤(とく)と話を付けるから、今日のところは、久しぶりで会つた僕等の顔を立てて、何も言はずに帰つてくれ給へな」
「さう云ふ無理を有仰(おつしや)るで、私の方も然るべき御挨拶が出来なくなるのです。既に遊佐さんも御承諾なのですから、この手形はお貰ひ申して帰ります。未だ外(ほか)へ廻るで急ぎますから、お話は後日寛(ゆつく)り伺ひませう。遊佐さん、御印を願ひますよ。貴方(あなた)御承諾なすつて置きながら今になつて遅々(ぐづぐづ)なすつては困ります」
蒲「疫病神(やくびようがみ)が戸惑(とまどひ)したやうに手形々々と煩(うるさ)い奴だ。俺(おれ)が始末をして遣らうよ」
 彼は遊佐が前なる用紙を取りて、
蒲「金壱百拾七円……何だ、百拾七円とは」
遊「百十七円? 九十円だよ」
蒲「金壱百拾七円とこの通り書いてある」
 かかる事は能(よ)く知りながら彼はわざと怪しむなりき。
遊「そんな筈(はず)は無い」
 貫一は彼等の騒ぐを尻目に挂(か)けて、
「九十円が元金(もときん)、これに加へた二十七円は天引の三割、これが高利(アイス)の定法(じようほう)です」
 音もせざれど遊佐が胆は潰(つぶ)れぬ。
「お……ど……ろ……いたね!」
 蒲田は物をも言はず件(くだん)の手形を二つに引裂き、遊佐も風早もこれはと見る間に、猶(なほ)も引裂き引裂き、引捩(ひきねぢ)りて間が目先に投遣(なげや)りたり。彼は騒げる色も無く、
「何を為(なさ)るのです」
「始末をして遣つたのだ」
「遊佐さん、それでは手形もお出し下さらんのですな」
 彼は間が非常手段を取らんとするよ、と心陰(こころひそか)に懼(おそれ)を作(な)して、
「いやさう云ふ訳ぢやない……」
 蒲田は□(きつ)と膝(ひざ)を前(すす)めて、
「いや、さう云ふ訳だ!」
 彼の鬼臉(こはもて)なるをいと稚(をさな)しと軽(かろ)しめたるやうに、間はわざと色を和(やはら)げて、
「手形の始末はそれで付いたか知りませんが、貴方(あなた)も折角中へ入つて下さるなら、も少し男らしい扱をなさいましな。私(わたくし)如き畜生とは違つて、貴方は立派な法学士」
「おお俺が法学士ならどうした」
「名実が相副(あひそ)はんと謂ふのです」
「生意気なもう一遍言つて見ろ」
「何遍でも言ひます。学士なら学士のやうな所業を為(な)さい」
 蒲田が腕(かひな)は電光の如く躍(をど)りて、猶言はんとせし貫一が胸先を諸掴(もろつかみ)に無図(むず)と捉(と)りたり。
「間、貴様は……」
 捩向(ねぢむ)けたる彼の面(おもて)を打目戍(うちまも)りて、
「取つて投げてくれやうと思ふほど憎い奴でも、かうして顔を見合せると、白い二本筋の帽子を冠(かぶ)つて煖炉(ストオブ)の前に膝を並べた時分の姿が目に附いて、嗚呼(ああ)、順(おとなし)い間を、と力抜(ちからぬけ)がして了ふ。貴様これが人情だぞ」
 鷹(たか)に遭(あ)へる小鳥の如く身動(みうごき)し得為(えせ)で押付けられたる貫一を、風早はさすがに憫然(あはれ)と見遣りて、
「蒲田の言ふ通りだ。僕等も中学に居た頃の間(はざま)と思つて、それは誓つて迷惑を掛けるやうな事は為んから、君も友人の誼(よしみ)を思つて、二人の頼を聴いてくれ給へ」
「さあ、間、どうだ」
「友人の誼は友人の誼、貸した金は貸した金で自(おのづ)から別問題……」
 彼は忽ち吭迫(のどつま)りて言ふを得ず、蒲田は稍(やや)強く緊(し)めたるなり。
「さあ、もつと言へ、言つて見ろ。言つたら貴様の呼吸(いき)が止るぞ」
 貫一は苦しさに堪(た)へで振釈(ふりほど)かんと□(もが)けども、嘉納流(かのうりゆう)の覚ある蒲田が力に敵しかねて、なかなかその為すに信(まか)せたる幾分の安きを頼むのみなりけり。遊佐は驚き、風早も心ならず、
「おい蒲田、可いかい、死にはしないか」
「余り、暴(あら)くするなよ」
 蒲田は哄然(こうぜん)として大笑(たいしよう)せり。
「かうなると金力よりは腕力だな。ねえ、どうしてもこれは水滸伝(すいこでん)にある図だらう。惟(おも)ふに、凡(およ)そ国利を護(まも)り、国権を保つには、国際公法などは実は糸瓜(へちま)の皮、要は兵力よ。万国の上には立法の君主が無ければ、国と国との曲直の争(あらそひ)は抑(そもそ)も誰(たれ)の手で公明正大に遺憾無(いかんな)く決せらるるのだ。ここに唯一つ審判の機関がある、曰(いは)く戦(たたかひ)!」
風「もう釈(ゆる)してやれ、大分(だいぶ)苦しさうだ」
蒲「強国にして辱(はづかし)められた例(ためし)を聞かん、故(ゆゑ)に僕は外交の術も嘉納流よ」
遊「余り酷(ひど)い目に遭せると、僕の方へ報(むく)つて来るから、もう舎(よ)してくれたまへな」
 他(ひと)の言(ことば)に手は弛(ゆる)めたれど、蒲田は未(いま)だ放ちも遣らず、
「さあ、間、返事はどうだ」
「吭(のど)を緊められても出す音(ね)は変りませんよ。間は金力には屈しても、腕力などに屈するものか。憎いと思ふならこの面(つら)を五百円の紙幣束(さつたば)でお撲(たた)きなさい」
「金貨ぢや可かんか」
「金貨、結構です」
「ぢや金貨だぞ!」
 油断せる貫一が左の高頬(たかほ)を平手打に絶(したた)か吃(くらは)すれば、呀(あ)と両手に痛を抑(おさ)へて、少時(しばし)は顔も得挙(えあ)げざりき。蒲田はやうやう座に復(かえ)りて、
「急には此奴(こいつ)帰らんね。いつそここで酒を始めやうぢやないか、さうして飲みかつ談ずると為(せ)う」
「さあ、それも可(よ)からう」
 独り可からぬは遊佐なり。
「ここで飲んぢや旨(うま)くないね。さうして形が付かなければ、何時(いつ)までだつて帰りはせんよ。酒が仕舞(しまひ)になつてこればかり遺(のこ)られたら猶(なほ)困る」
「宜(よろし)い、帰去(かへり)には僕が一所に引張つて好い処へ連れて行つて遣るから。ねえ、間、おい、間と言ふのに」
「はい」
「貴様、妻君有るのか。おお、風早!」
 と彼は横手を拍(う)ちて不意に※(さけ)[#「口+斗」、170-16]べば、
「ええ、吃驚(びつくり)する、何だ」
「憶出(おもひだ)した。間の許婚(いひなづけ)はお宮、お宮」
「この頃はあれと一所かい。鬼の女房に天女だけれど、今日(こんにち)ぢや大きに日済(ひなし)などを貸してゐるかも知れん。ええ、貴様、そんな事を為(さ)しちや可かんよ。けれども高利貸(アイス)などは、これで却(かへ)つて女子(をんな)には温(やさし)いとね、間、さうかい。彼等の非義非道を働いて暴利を貪(むさぼ)る所以(ゆゑん)の者は、やはり旨いものを食ひ、好い女を自由にして、好きな栄耀(えよう)がして見たいと云ふ、唯それだけの目的より外に無いのだと謂ふが、さうなのかね。我々から考へると、人情の忍ぶ可からざるを忍んで、経営惨憺(さんたん)と努めるところは、何ぞ非常の目的があつて貨(かね)を殖(こしら)へるやうだがな、譬(たと)へば、軍用金を聚(あつ)めるとか、お家の宝を質請(しちうけ)するとか。単に己(おのれ)の慾を充さうばかりで、あんな思切つて残刻な仕事が出来るものではないと想ふのだ。許多(おほく)のガリガリ亡者(もうじや)は論外として、間貫一に於(おい)ては何ぞ目的が有るのだらう。こんな非常手段を遣るくらゐだから、必ず非常の目的が有つて存(そん)するのだらう」
 秋の日は忽(たちま)ち黄昏(たそが)れて、稍(やや)早けれど燈(ともし)を入るるとともに、用意の酒肴(さけさかな)は順を逐(お)ひて運び出(いだ)されぬ。
「おつと、麦酒(ビイル)かい、頂戴(ちようだい)。鍋(なべ)は風早の方へ、煮方は宜(よろし)くお頼み申しますよ。うう、好い松茸(まつだけ)だ。京でなくてはかうは行かんよ――中が真白(ましろ)で、庖丁(ほうちよう)が軋(きし)むやうでなくては。今年は不作(はづれ)だね、瘠(や)せてゐて、虫が多い、あの雨が障(さは)つたのさ。間、どうだい、君の目的は」
「唯貨(かね)が欲いのです」
「で、その貨をどうする」
「つまらん事を! 貨はどうでもなるぢやありませんか。どうでもなる貨だから欲い、その欲い貨だから、かうして催促もするのです。さあ、遊佐さん、本当にどうして下さるのです」
風「まあ、これを一盃(いつぱい)飲んで、今日は機嫌(きげん)好く帰つてくれ給へ」
蒲「そら、お取次だ」
「私(わたくし)は酒は不可(いかん)のです」
蒲「折角差したものだ」
「全く不可のですから」
 差付けらるるを推除(おしの)くる機(はずみ)に、コップは脆(もろ)くも蒲田の手を脱(すべ)れば、莨盆(たばこぼん)の火入(ひいれ)に抵(あた)りて発矢(はつし)と割れたり。
「何を為る!」
 貫一も今は怺(こら)へかねて、
「どうしたと!」
 やをら起たんと為るところを、蒲田が力に胸板(むないた)を衝(つか)れて、一耐(ひとたまり)もせず仰様(のけさま)に打僵(うちこ)けたり。蒲田はこの隙(ひま)に彼の手鞄(てかばん)を奪ひて、中なる書類を手信(てまかせ)に掴出(つかみだ)せば、狂気の如く駈寄(かけよ)る貫一、
「身分に障(さは)るぞ!」と組み付くを、利腕捉(ききうでと)つて、
「黙れ!」と捩伏(ねぢふ)せ、
「さあ、遊佐、その中に君の証書が在るに違無いから、早く其奴(そいつ)を取つて了ひ給へ」
 これを聞きたる遊佐は色を変へぬ。風早も事の余(あまり)に暴なるを快(こころよ)しと為ざるなりき。貫一は駭(おどろ)きて、撥返(はねかへ)さんと右に左に身を揉むを、蹈跨(ふんまたが)りて捩揚(ねぢあ)げ捩揚げ、蒲田は声を励して、
「この期(ご)に及んで! 躊躇(ちゆうちよ)するところでないよ。早く、早く、早く! 風早、何を考へとる。さあ、遊佐、ええ、何事も僕が引受けたから、かまはず遣り給へ。証書を取つて了へば、後は細工はりうりう僕が心得てゐるから、早く探したまへと言ふに」
 手を出しかねたる二人を睨廻(ねめまは)して、蒲田はなかなか下に貫一の悶(もだ)ゆるにも劣らず、独(ひと)り業(ごう)を沸(にや)して、効無(かひな)き地鞴(ぢただら)を踏みてぞゐたる。
風「それは余り遣過ぎる、善(よ)くない、善くない」
「善(い)いも悪いもあるものか、僕が引受けたからかまはんよ。遊佐、君の事ぢやないか、何を□然(ぼんやり)してゐるのだ」
 彼はほとほと慄(をのの)きて、寧(むし)ろ蒲田が腕立(うでだて)の紳士にあるまじきを諌(いさ)めんとも思へるなり。腰弱き彼等の与(くみ)するに足らざるを憤れる蒲田は、宝の山に入(い)りながら手を空(むなし)うする無念さに、貫一が手も折れよとばかり捩上(ねぢあぐ)れば、
「ああ、待つた待つた。蒲田君、待つてくれ、何とか話を付けるから」
「ええ聒(やかまし)い。君等のやうな意気地無しはもう頼まん。僕が独(ひとり)で遣つて見せるから、後学の為に能く見て置き給へ」
 かく言捨てて蒲田は片手して己(おのれ)の帯を解かんとすれば、時計の紐(ひも)の生憎(あやにく)に絡(からま)るを、躁(あせ)りに躁りて引放さんとす。
風「独(ひとり)でどうするのだよ」
 彼はさすがに見かねて手を仮さんと寄り進みつ。
蒲「どうするものか、此奴(こいつ)を蹈縛(ふんじば)つて置いて、僕が証書を探すわ」
「まあ、余り穏(おだやか)でないから、それだけは思ひ止(とま)り給へ。今間も話を付けると言つたから」
「何か此奴(こいつ)の言ふ事が!」
 間は苦(くるし)き声を搾(しぼ)りて、
「きつと話を付けるから、この手を釈(ゆる)してくれ給へ」
風「きつと話を付けるな――此方(こつち)の要求を容(い)れるか」
間「容れる」
 詐(いつはり)とは知れど、二人の同意せざるを見て、蒲田もさまではと力挫(ちからくじ)けて、竟(つひ)に貫一を放ちてけり。
 身を起すとともに貫一は落散りたる書類を掻聚(かきあつ)め、鞄(かばん)を拾ひてその中に捩込(ねぢこ)み、さて慌忙(あわただし)く座に復(かへ)りて、
「それでは今日(こんにち)はこれでお暇(いとま)をします」
 蒲田が思切りたる無法にこの長居は危(あやふ)しと見たれば、心に恨は含みながら、陽(おもて)には克(かな)はじと閉口して、重ねて難題の出(い)でざる先にとかくは引取らんと為るを、
「待て待て」と蒲田は下司扱(げすあつかひ)に呼掛けて、
「話を付けると言つたでないか。さあ、約束通り要求を容(い)れん内は、今度は此方(こつち)が還(かへ)さんぞ」
 膝推向(ひざおしむ)けて迫寄(つめよ)る気色(けしき)は、飽くまで喧嘩を買はんとするなり。
「きつと要求は容れますけれど、嚮(さつき)から散々の目に遭(あは)されて、何だか酷く心持が悪くてなりませんから、今日はこれで還して下さいまし。これは長座(ちようざ)をいたしてお邪魔でございました。それでは遊佐さん、いづれ二三日の内に又上つてお話を願ひます」
 忽(たちま)ち打つて変りし貫一の様子に蒲田は冷笑(あざわらひ)して、
「間、貴様は犬の糞(くそ)で仇(かたき)を取らうと思つてゐるな。遣つて見ろ、そんな場合には自今(これから)毎(いつ)でも蒲田が現れて取挫(とりひし)いで遣るから」
「間も男なら犬の糞ぢや仇(かたき)は取らない」
「利(き)いた風なことを言ふな」
風「これさ、もう好加減にしないかい。間も帰り給へ。近日是非篤と話をしたいから、何事もその節だ。さあ、僕が其処(そこ)まで送らう」
 遊佐と風早とは起ちて彼を送出(おくりいだ)せり。主(あるじ)の妻は縁側より入(い)り来(きた)りぬ。
「まあ、貴方(あなた)、お蔭様で難有(ありがた)う存じました。もうもうどんなに好い心持でございましたらう」
「や、これは。些(ちよつ)と壮士(そうし)芝居といふところを」
「大相宜(よろし)い幕でございましたこと。お酌を致しませう」
 件(くだん)の騒動にて四辺(あたり)の狼藉(ろうぜき)たるを、彼は効々(かひかひ)しく取形付けてゐたりしが、二人はやがて入来(いりく)るを見て、
「風早さん、どうもお蔭様で助りました、然し飛んだ御迷惑様で。さあ、何も御坐いませんけれど、どうぞ貴下方御寛(ごゆる)り召上つて下さいまし」
 妻の喜は溢(あふ)るるばかりなるに引易(ひきか)へて、遊佐は青息(あをいき)□(つ)きて思案に昏(く)れたり。
「弱つた! 君がああして取緊(とつち)めてくれたのは可いが、この返報に那奴(あいつ)どんな事を為るか知れん。明日(あした)あたり突然(どん)と差押(さしおさへ)などを吃(くは)せられたら耐(たま)らんな」
「余り蒲田が手酷(てひど)い事を為るから、僕も、さあ、それを案じて、惴々(はらはら)してゐたぢやないか。嘉納流も可いけれど、後前(あとさき)を考へて遣つてくれなくては他迷惑(はためいわく)だらうぢやないか」
「まあ、待ち給へと言ふことさ」
 蒲田は袂(たもと)の中を撈(かいさぐ)りて、揉皺(もめしわ)みたる二通の書類を取出(とりいだ)しつ。
風「それは何だ」
遊「どうしたのさ」
 何ならんと主(あるじ)の妻も鼻の下を延べて窺(うかが)へり。
風「何だか僕も始めてお目に掛るのだ」
 彼は先づその一通を取りて披見(ひらきみ)るに、鰐淵直行に対する債務者は聞きも知らざる百円の公正証書謄本なり。
 二人は蒲田が案外の物持てるに驚(おどろか)されて、各(おのおの)息を凝(こら)して□(みは)れる眼(まなこ)を動さず。蒲田も無言の間(うち)に他の一通を取りて披(ひら)けば、妻はいよいよ近(ちかづ)きて差覗(さしのぞ)きつ。四箇(よつ)の頭顱(かしら)はラムプの周辺(めぐり)に麩(ふ)に寄る池の鯉(こひ)の如く犇(ひし)と聚(あつま)れり。
「これは三百円の証書だな」
 一枚二枚と繰り行けば、債務者の中に鼻の前(さき)なる遊佐良橘の名をも署(しる)したり、蒲田は弾機仕掛(ばねじかけ)のやうに躍(をど)り上りて、
「占めた! これだこれだ」
 驚喜の余り身を支へ得ざる遊佐の片手は鶤(しやも)の鉢(はち)の中にすつぱと落入り、乗出す膝頭(ひざがしら)に銚子(ちようし)を薙倒(なぎたふ)して、
「僕のかい、僕のかい」
「どう、どう、どう」と証書を取らんとする風早が手は、筋(きん)の活動(はたらき)を失へるやうにて幾度(いくたび)も捉(とら)へ得ざるなりき。
「まあ!」と叫びし妻は忽(たちま)ち胸塞(むねふたが)りて、その後を言ふ能はざるなり。蒲田は手の舞ひ、膝の蹈(ふ)むところを知らず、
「占めたぞ! 占めたぞ□ 難有(ありがた)い※[#感嘆符三つ、177-14]」
 証書は風早の手に移りて、遊佐とその妻と彼と六(むつ)の目を以(も)て子細にこれを点検して、その夢ならざるを明(あきら)めたり。
「君はどうしたのだ」
 風早の面(おもて)はかつ呆(あき)れ、かつ喜び、かつ懼(をそ)るるに似たり。やがて証書は遊佐夫婦の手に渡りて、打拡げたる二人が膝の上に、これぞ比翼読なるべき。更に麦酒(ビイル)の満(まん)を引きし蒲田は「血は大刀に滴(したた)りて拭(ぬぐ)ふに遑(いとま)あらざる」意気を昂(あ)げて、
「何と凄(すご)からう。奴を捩伏(ねぢふ)せてゐる中に脚(あし)で掻寄(かきよ)せて袂(たもと)へ忍ばせたのだ――早業(はやわざ)さね」
「やはり嘉納流にあるのかい」
「常談言つちや可かん。然しこれも嘉納流の教外別伝(きようげべつでん)さ」
「遊佐の証書といふのはどうして知つたのだ」
「それは知らん。何でも可いから一つ二つ奪つて置けば、奴を退治(たいじ)る材料になると考へたから、早業をして置いたのだが、思ひきやこれが覘(ねら)ふ敵(かたき)の証書ならんとは、全く天の善に与(くみ)するところだ」
風「余り善でもない。さうしてあれを此方(こつち)へ取つて了へば、三百円は蹈(ふ)めるのかね」
蒲「大蹈(おほふ)め! 少し悪党になれば蹈める」
風「然し、公正証書であつて見ると……」
蒲「あつても差支無(さしつかへな)い。それは公証人役場には証書の原本が備付けてあるから、いざと云ふ日にはそれが物を言ふけれど、この正本(せいほん)さへ引揚げてあれば、間貫一いくら地動波動(じたばた)したつて『河童(かつぱ)の皿に水の乾(かわ)いた』同然、かうなれば無証拠だから、矢でも鉄砲でも持つて来いだ。然し、全然(まるまる)蹈むのもさすがに不便(ふびん)との思召(おぼしめし)を以つて、そこは何とか又色を着けて遣らうさ。まあまあ君達は安心してゐたまへ。蒲田弁理公使が宜(よろし)く樽爼(そんそ)の間(かん)に折衝して、遊佐家を泰山(たいざん)の安きに置いて見せる。嗚呼(ああ)、実に近来の一大快事だ!」
 人々の呆(あき)るるには目も掛けず、蒲田は証書を推戴(おしいただ)き推戴きて、
「さあ、遊佐君の為に万歳を唱へやう。奥さん、貴方(あなた)が音頭(おんど)をお取んなさいましよ――いいえ、本当に」
 小心なる遊佐はこの非常手段を極悪大罪と心安からず覚ゆるなれど、蒲田が一切を引受けて見事に埒(らち)開けんといふに励されて、さては一生の怨敵(おんてき)退散の賀(いはひ)と、各(おのおの)漫(そぞろ)に前(すす)む膝を聚(あつ)めて、長夜(ちようや)の宴を催さんとぞ犇(ひしめ)いたる。

     第七章

 茫々(ぼうぼう)たる世間に放れて、蚤(はや)く骨肉の親むべき無く、況(いはん)や愛情の温(あたた)むるに会はざりし貫一が身は、一鳥も過ぎざる枯野の広きに塊然(かいぜん)として横(よこた)はる石の如きものなるべし。彼が鴫沢(しぎさわ)の家に在りける日宮を恋ひて、その優き声と、柔(やはらか)き手と、温き心とを得たりし彼の満足は、何等の楽(たのしみ)をも以外に求むる事を忘れしめき。彼はこの恋人をもて妻とし、生命として慊(あきた)らず、母の一部分となし、妹(いもと)の一部分となし、或(あるひ)は父の、兄の一部分とも為(な)して宮の一身は彼に於ける愉快なる家族の団欒(まどひ)に値せしなり、故(ゆゑ)に彼の恋は青年を楽む一場(いちじよう)の風流の麗(うるはし)き夢に似たる類(たぐひ)ならで、質はその文(ぶん)に勝てるものなりけり。彼の宮に於(お)けるは都(すべ)ての人の妻となすべき以上を妻として、寧(むし)ろその望むところ多きに過ぎずやと思はしむるまでに心に懸けて、自(みづから)はその至当なるを固く信ずるなりき。彼はこの世に一人の宮を得たるが為に、万木一時(いちじ)に花を着くる心地して、曩(さき)の枯野に夕暮れし石も今将(は)た水に温(ぬく)み、霞(かすみ)に酔(ゑ)ひて、長閑(のどか)なる日影に眠る如く覚えけんよ。その恋のいよいよ急に、いよいよ濃(こまやか)になり勝(まさ)れる時、人の最も憎める競争者の為に、しかも輙(たやす)く宮を奪はれし貫一が心は如何(いか)なりけん。身をも心をも打委(うちまか)せて詐(いつは)ることを知らざりし恋人の、忽ち敵の如く己(おのれ)に反(そむ)きて、空(むなし)く他人に嫁するを見たる貫一が心は更に如何(いか)なりけん。彼はここに於いて曩(さき)に半箇の骨肉の親むべきなく、一点の愛情の温むるに会はざりし凄寥(せいりよう)を感ずるのみにて止(とどま)らず、失望を添へ、恨を累(かさ)ねて、かの塊然たる野末(のずゑ)の石は、霜置く上に凩(こがらし)の吹誘ひて、皮肉を穿(うが)ち来(きた)る人生の酸味の到頭骨に徹する一種の痛苦を悩みて已(や)まざるなりき。実に彼の宮を奪れしは、その甞(かつ)て与へられし物を取去られし上に、与へられざりし物をも併(あは)せて取去られしなり。
 彼は或(あるひ)はその恨を抛(なげう)つべし、なんぞその失望をも忘れざらん。されども彼は永くその痛苦を去らしむる能はざるべし、一旦(ひとたび)太(いた)くその心を傷(きずつ)けられたるかの痛苦は、永くその心の存在と倶(とも)に存在すべければなり。
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