金色夜叉
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著者名:尾崎紅葉 

金窪(かなくぼ)さん、鷲爪(わしづめ)さん、それから芥原(あくたはら)さん、皆(みんな)その話をしてゐましたよ」
「或(あるひ)はそんな評判があるのかも知れませんが、私は一向聞きません。成程、ああ云ふ風ですから、それはさうかも知れません」
「外の人にはこんな話は出来ません。長年気心も知り合つて家内(うち)の人も同(おんな)じのお前さんの事だから、私もお話を為るのですけれどね、困つた事が出来て了つたの――どうしたら可からうかと思つてね」
 お峯がナイフを執れる手は漸(やうや)く鈍くなりぬ。
「おや、これは大変な虫だ。こら、御覧なさい。この虫はどうでせう」
「非常ですな」
「虫が付いちや可けません! 栗には限らず」
「さうです」
 お峯は又一つ取りて剥(む)き始めけるが、心進まざらんやうにナイフの運(はこび)は愈(いよい)よ等閑(なほざり)なりき。
「これは本当にお前さんだから私は信仰して話を為るのですけれど、此処(ここ)きりの話ですからね」
「承知しました」
 貫一は食はんとせし栗を持ち直して、屹(き)とお峯に打向ひたり。聞く耳もあらずと知れど、秘密を語らんとする彼の声は自(おのづ)から潜(ひそま)りぬ。
「どうも私はこの間から異(をかし)いわいと思つてゐたのですが、どうも様子がね、内の夫(ひと)があの別品さんに係合(かかりあひ)を付けてゐやしないかと思ふの――どうもそれに違無いの!」
 彼ははや栗など剥かずなりぬ。貫一は揺笑(ゆすりわらひ)して、
「そんな馬鹿な事が、貴方(あなた)……」
「外の人ならいざ知らず、附いてゐる女房(にようぼ)の私が……それはもう間違無しよ!」
 貫一は熟(じつ)と思ひ入りて、
「旦那はお幾歳(いくつ)でしたな」
「五十一、もう爺(ぢぢい)ですわね」
 彼は又思案して、
「何ぞ証拠が有りますか」
「証拠と云つて、別に寄越した文を見た訳でもないのですけれど、そんな念を推さなくたつて、もう違無いの□」
 息巻くお峯の前に彼は面(おもて)を俯(ふ)して言はず、静に思廻(おもひめぐ)らすなるべし。お峯は心着きて栗を剥き始めつ。その一つを終ふるまで言(ことば)を継がざりしが、さて徐(おもむろ)に、
「それはもう男の働とか云ふのだから、妾(めかけ)も楽(たのしみ)も可うございます。これが芸者だとか、囲者(かこひもの)だとか云ふのなら、私は何も言ひはしませんけれど第一は、赤樫(あかがし)さんといふ者があるのぢやありませんか、ねえ。その上にあの女だ! 凡(ただ)の代物(しろもの)ぢやありはしませんわね。それだから私は実に心配で、心火(ちんちん)なら可いけれど、なかなか心火どころの洒落(しやれ)た沙汰(さた)ぢやありはしません。あんな者に係合(かかりあ)つてゐた日には、末始終どんな事になるか知れやしない、それが私は苦労でね。内の夫(ひと)もあのくらゐ利巧で居ながらどうしたと云ふのでせう。今朝出掛けたのもどうも異(をかし)いの、確に氷川へ行つたんぢやないらしい。だから御覧なさい。この頃は何となく冶(しや)れてゐますわね、さうして今朝なんぞは羽織から帯まで仕立下(したておろ)し渾成(づくめ)で、その奇麗事と謂(い)つたら、何(いつ)が日(ひ)にも氷川へ行くのにあんなに□(めか)した事はありはしません。もうそれは氷川でない事は知れきつてゐるの」
「それが事実なら困りましたな」
「あれ、お前さんは未だそんな気楽なことを言つてゐるよ。事実ならッて、事実に違無いと云ふのに」
 貫一の気乗せぬをお峯はいと歯痒(はがゆ)くて心苛(いら)つなるべし。
「はあ、事実とすれば弥(いよい)よ善くない。あの女に係合つちや全く妙でない。御心配でせう」
「私は悋気(りんき)で言ふ訳ぢやない、本当に旦那の身を思つて心配を為るのですよ、敵手(あひて)が悪いからねえ」
 思ひ直せども貫一が腑(ふ)には落ちざるなりけり。
「さうして、それは何頃(いつごろ)からの事でございます」
「ついこの頃ですよ、何でも」
「然(しか)し、何(な)にしろ御心配でせう」
「それに就いて是非お頼があるんですがね、折を見て私も篤(とつく)り言はうと思ふのです。就いてはこれといふ証拠が無くちや口が出ませんから、何とか其処(そこ)を突止めたいのだけれど、私の体(からだ)ぢや戸外(おもて)の様子が全然(さつぱり)解らないのですものね」
「御尤(ごもつとも)」
「で、お前さんと見立ててお頼があるんです。どうか内々様子を探つて見て下さいな。お前さんが寝てお在(いで)でないと、実は今日早速お頼があるのだけれど、折が悪いのね」
 行けよと命ぜられたるとなんぞ択ばん、これ有る哉(かな)、紅茶と栗と、と貫一はその余(あまり)に安く売られたるが独(ひと)り可笑(をかし)かりき。
「いえ、一向差支(さしつかへ)ございません。どういふ事ですか」
「さう? 余(あんま)りお気の毒ね」
 彼の赤き顔の色は耀(かがや)くばかりに懽(よろこ)びぬ。
「御遠慮無く有仰(おつしや)つて下さい」
「さう? 本当に可いのですか」
 お峯は彼が然諾(ぜんだく)の爽(さはやか)なるに遇(あ)ひて、紅茶と栗とのこれに酬ゆるの薄儀に過ぎたるを、今更に可愧(はづかし)く覚ゆるなり。
「それではね、本当に御苦労で済まないけれど、氷川まで行つて見て来て下されば、それで可いのですよ。畔柳さんへ行つて、旦那が行つたか、行かないか、若(も)し行つたのなら、何頃(いつごろ)行つて何頃帰つたか、なあに、十(とを)に九(ここのつ)まではきつと行きはしませんから。その様子だけ解れば、それで可いのです。それだけ知れれば、それで探偵が一つ出来たのですから」
「では行つて参りませう」
 彼は起ちて寝衣帯(ねまきおび)を解かんとすれば、
「お待ちなさいよ、今俥(くるま)を呼びに遣(や)るから」
 かく言捨ててお峯は忙(せはし)く階子(はしご)を下行(おりゆ)けり。
 迹(あと)に貫一は繰返し繰返しこの事の真偽を案じ煩(わづら)ひけるが、服を改めて居間を出でんとしつつ、
「女房に振られて、学士に成損(なりそこな)つて、後が高利貸の手代で、お上さんの秘密探偵か!」
 と端無(はしな)く思ひ浮べては漫(そぞろ)に独(ひと)り打笑(うちゑま)れつ。

     第四章

 貫一は直(ただち)に俥(くるま)を飛(とば)して氷川なる畔柳(くろやなぎ)のもとに赴(おもむ)けり。その居宅は田鶴見子爵の邸内に在りて、裏門より出入(しゆつにゆう)すべく、館(やかた)の側面を負ひて、横長に三百坪ばかりを木槿垣(もくげがき)に取廻して、昔形気(むかしかたぎ)の内に幽(ゆか)しげに造成(つくりな)したる二階建なり。構(かまへ)の可慎(つつまし)う目立たぬに引易(ひきか)へて、木口(きぐち)の撰択(せんたく)の至れるは、館の改築ありし折その旧材を拝領して用ゐたるなりとぞ。
 貫一も彼の主(あるじ)もこの家に公然の出入(でいり)を憚(はばか)る身なれば、玄関側(わき)なる格子口(こうしぐち)より訪(おとづ)るるを常とせり。彼は戸口に立寄りけるに、鰐淵の履物(はきもの)は在らず。はや帰りしか、来(こ)ざりしか、或(あるひ)は未(いま)だ見えざるにや、とにもかくにもお峯が言(ことば)にも符号すれども、直(ただち)にこれを以て疑を容(い)るべきにあらずなど思ひつつ音なへば、応ずる者無くて、再びする時聞慣れたる主(あるじ)の妻の声して、連(しきり)に婢(をんな)の名を呼びたりしに、答へざりければやがて自ら出(い)で来て、
「おや、さあ、お上んなさい。丁度好いところへお出(いで)でした」
 眼(まなこ)のみいと大くて、病勝(やまひがち)に痩衰(やせおとろ)へたる五体は燈心(とうしみ)の如く、見るだに惨々(いたいた)しながら、声の明(あきらか)にして張ある、何処(いづこ)より出(い)づる音(ね)ならんと、一たびは目を驚かし、一たびは耳を驚かすてふ、貫一が一種の化物と謂(い)へるその人なり。年は五十路(いそぢ)ばかりにて頭(かしら)の霜繁(しもしげ)く夫よりは姉なりとぞ。
 貫一は屋敷風の恭(うやうやし)き礼を作(な)して、
「はい、今日(こんにち)は急ぎまするので、これで失礼を致しまする。主人は今朝ほど此方(こちら)様へ伺ひましたでございませうか」
「いいえ、お出(いで)はありませんよ。実はね、ちとお話が有るので、お目に懸(かか)りたいと申してをりましたところ。唯今(ただいま)御殿へ出てをりますので、些(ちよつ)と呼びに遣りませうから、暫(しばら)くお上んなすつて」
 言はるるままに客間に通りて、端近(はしちか)う控ふれば、彼は井(ゐ)の端(はた)なりし婢(をんな)を呼立てて、速々(そくそく)主(あるじ)の方(かた)へ走らせつ。莨盆(たばこぼん)を出(いだ)し、番茶を出(いだ)せしのみにて、納戸(なんど)に入りける妻は再び出(い)で来(きた)らず。この間は貫一は如何(いか)にこの探偵一件を処置せんかと工夫してゐたり。やや有りて婢の息促(いきせ)き還来(かへりき)にける気勢(けはひ)せしが、やがて妻の出でて例の声を振ひぬ。
「さあ唯今些(ちよつ)と手が放せませんので、御殿の方に居りますから、どうか彼方(あちら)へお出なすつて。直(ぢき)其処(そこ)ですよ。婢に案内を為せます。あの豊(とよ)や!」
 暇乞(いとまごひ)して戸口を出づれば、勝手元の垣の側(きは)に二十歳(はたち)かと見ゆる物馴顔(ものなれがほ)の婢の待(ま)てりしが、後(うしろ)さまに帯□(おびかひつくろ)ひつつ道知辺(みちしるべ)す。垣に沿ひて曲れば、玉川砂礫(ざり)を敷きたる径(こみち)ありて、出外(ではづ)るれば子爵家の構内(かまへうち)にて、三棟(みむね)並べる塗籠(ぬりごめ)の背後(うしろ)に、桐(きり)の木高く植列(うゑつら)ねたる下道(したみち)の清く掃いたるを行窮(ゆきつむ)れば、板塀繞(いたべいめぐ)らせる下屋造(げやつくり)の煙突より忙(せは)しげなる煙(けふり)立昇りて、折しも御前籠(ごぜんかご)舁入(かきい)るるは通用門なり。貫一もこれを入(い)りて、余所(よそ)ながら過来(すぎこ)し厨(くりや)に、酒の香(か)、物煮る匂頻(にほひしき)りて、奥よりは絶えず人の通ふ乱響(ひしめき)したる、来客などやと覚えつつ、畔柳が詰所なるべき一間(ひとま)に導かれぬ。

     (四)の二

 畔柳元衛(くろやなぎもとえ)の娘静緒(しずお)は館(やかた)の腰元に通勤せるなれば、今日は特に女客の執持(とりもち)に召れて、高髷(たかわげ)、変裏(かはりうら)に粧(よそひ)を改め、お傍不去(そばさらず)に麁略(そりやく)あらせじと冊(かしづ)くなりけり。かくて邸内遊覧の所望ありければ、先(ま)づ西洋館の三階に案内すとて、迂廻階子(まはりばしご)の半(なかば)を昇行(のぼりゆ)く後姿(うしろすがた)に、その客の如何(いか)に貴婦人なるかを窺(うかが)ふべし。鬘(かつら)ならではと見ゆるまでに結做(ゆひな)したる円髷(まるわげ)の漆の如きに、珊瑚(さんご)の六分玉(ろくぶだま)の後挿(うしろざし)を点じたれば、更に白襟(しろえり)の冷□(れいえん)物の類(たぐ)ふべき無く、貴族鼠(きぞくねずみ)の□高縮緬(しぼたかちりめん)の五紋(いつつもん)なる単衣(ひとへ)を曳(ひ)きて、帯は海松(みる)色地に装束(しようぞく)切摸(きれうつし)の色紙散(しきしちらし)の七糸(しちん)を高く負ひたり。淡紅色(ときいろ)紋絽(もんろ)の長襦袢(ながじゆばん)の裾(すそ)は上履(うはぐつ)の歩(あゆみ)に緩(ゆる)く匂零(にほひこぼ)して、絹足袋(きぬたび)の雪に嫋々(たわわ)なる山茶花(さざんか)の開く心地す。
 この麗(うるはし)き容(かたち)をば見返り勝に静緒は壁側(かべぎは)に寄りて二三段づつ先立ちけるが、彼の俯(うつむ)きて昇(のぼ)れるに、櫛(くし)の蒔絵(まきゑ)のいと能(よ)く見えければ、ふとそれに目を奪はれつつ一段踏み失(そこ)ねて、凄(すさまじ)き響の中にあなや僵(たふ)れんと為(し)たり。幸(さいはひ)に怪我(けが)は無かりけれど、彼はなかなか己(おのれ)の怪我などより貴客(きかく)を駭(おどろ)かせし狼藉(ろうぜき)をば、得も忍ばれず満面に慚(は)ぢて、
「どうも飛んだ麁相(そそう)を致しまして……」
「いいえ。貴方本当に何処(どこ)もお傷(いた)めなさりはしませんか」
「いいえ。さぞ吃驚(びつくり)遊ばしたでございませう、御免あそばしまして」
 こ度(たび)は薄氷(はくひよう)を蹈(ふ)む想(おもひ)して一段を昇る時、貴婦人はその帯の解けたるを見て、
「些(ちよつ)とお待ちなさい」
 進寄りて結ばんとするを、心着きし静緒は慌(あわ)て驚きて、
「あれ、恐入(おそれい)ります」
「可(よ)うございますよ。さあ、熟(じつ)として」
「あれ、それでは本当に恐入りますから」
 争ひ得ずして竟(つひ)に貴婦人の手を労(わづらは)せし彼の心は、溢(あふ)るるばかり感謝の情を起して、次いではこの優しさを桜の花の薫(かをり)あらんやうにも覚ゆるなり。彼は女四書(じよししよ)の内訓(ないくん)に出でたりとて屡(しばし)ば父に聴さるる「五綵服(ごさいふく)を盛(さかん)にするも、以つて身の華(か)と為すに足らず、貞順道(ていじゆんみち)に率(したが)へば、乃(すなは)ち以つて婦徳を進むべし」の本文(ほんもん)に合(かな)ひて、かくてこそ始めて色に矜(ほこ)らず、その徳に爽(そむ)かずとも謂ふべきなれ。愛(め)でたき人にも遇(あ)へるかなと絶(したたか)に思入りぬ。
 三階に着くより静緒は西北(にしきた)の窓に寄り行きて、効々(かひがひ)しく緑色の帷(とばり)を絞り硝子戸(ガラスど)を繰揚(くりあ)げて、
「どうぞ此方(こちら)へお出(いで)あそばしまして。ここが一番見晴(みはらし)が宜(よろし)いのでございます」
「まあ、好(よ)い景色ですことね! 富士が好く晴れて。おや、大相木犀(もくせい)が匂(にほ)ひますね、お邸内(やしきうち)に在りますの?」
 貴婦人はこの秋霽(しゆうせい)の朗(ほがらか)に濶(ひろ)くして心往くばかりなるに、夢など見るらん面色(おももち)して佇(たたず)めり。窓を争ひて射入(さしい)る日影は斜(ななめ)にその姿を照して、襟留(えりどめ)なる真珠は焚(も)ゆる如く輝きぬ。塵(ちり)をだに容(ゆる)さず澄みに澄みたる添景の中(うち)に立てる彼の容華(かほばせ)は清く鮮(あざやか)に見勝(みまさ)りて、玉壺(ぎよくこ)に白き花を挿(さ)したらん風情(ふぜい)あり。静緒は女ながらも見惚(みと)れて、不束(ふつつか)に眺入(ながめい)りつ。
 その目の爽(さはやか)にして滴(したた)るばかり情(なさけ)の籠(こも)れる、その眉(まゆ)の思へるままに画(えが)き成せる如き、その口元の莟(つぼみ)ながら香(か)に立つと見ゆる、その鼻の似るものも無くいと好く整ひたる、肌理濃(きめこまやか)に光をさへ帯びたる、色の透(とほ)るばかりに白き、難を求めなば、髪は濃くて瑩沢(つややか)に、頭(かしら)も重げに束(つか)ねられたれど、髪際(はへぎは)の少(すこし)く打乱れたると、立てる容(かたち)こそ風にも堪(た)ふまじく繊弱(なよやか)なれど、面(おもて)の痩(やせ)の過ぎたる為に、自(おのづか)ら愁(うれはし)う底寂(そこさびし)きと、頸(えり)の細きが折れやしぬべく可傷(いたはし)きとなり。
 されどかく揃(そろ)ひて好き容量(きりよう)は未(いま)だ見ずと、静緒は心に驚きつつ、蹈外(ふみはづ)せし麁忽(そこつ)ははや忘れて、見据うる流盻(ながしめ)はその物を奪はんと覘(ねら)ふが如く、吾を失へる顔は間抜けて、常は顧らるる貌(かたち)ありながら、草の花の匂無きやうに、この貴婦人の傍(かたはら)には見劣せらるること夥(おびただし)かり。彼は己(おのれ)の間抜けたりとも知らで、返す返すも人の上を思ひて止(や)まざりき。実(げ)にこの奥方なれば、金時計持てるも、真珠の襟留せるも、指環を五つまで穿(さ)せるも、よし馬車に乗りて行かんとも、何をか愧(は)づべき。婦(をんな)の徳をさへ虧(か)かでこの嬋娟(あでやか)に生れ得て、しかもこの富めるに遇(あ)へる、天の恵(めぐみ)と世の幸(さち)とを併(あは)せ享(う)けて、残る方(かた)無き果報のかくも痛(いみじ)き人もあるものか。美きは貧くて、売らざるを得ず、富めるは醜くて、買はざるを得ず、二者(ふたつ)は□(かな)はぬ世の習なるに、女ながらもかう生れたらんには、その幸(さいはひ)は男にも過ぎぬべしなど、若き女は物羨(ものうらやみ)の念強けれど、妬(ねた)しとは及び難くて、静緒は心に畏(おそ)るるなるべし。
 彼は貴婦人の貌(かたち)に耽(ふけ)りて、その□待(もてなし)にとて携へ来つる双眼鏡を参らするをば気着かでゐたり。こは殿の仏蘭西(フランス)より持ち帰られし名器なるを、漸(やうや)く取出(とりいだ)して薦(すす)めたり。形は一握(いちあく)の中に隠るるばかりなれど、能(よ)く遠くを望み得る力はほとほと神助と疑ふべく、筒は乳白色の玉(ぎよく)もて造られ、僅(わづか)に黄金(きん)細工の金具を施したるのみ。
 やがて双眼鏡は貴婦人の手に在りて、措(お)くを忘らるるまでに愛(め)でられけるが、目の及ばぬ遠き限は南に北に眺尽(ながめつく)されて、彼はこの鏡(グラス)の凡(ただ)ならず精巧なるに驚ける状(さま)なり。
「那処(あすこ)に遠く些(ほん)の小楊枝(こようじ)ほどの棒が見えませう、あれが旗なので、浅黄(あさぎ)に赤い柳条(しま)の模様まで昭然(はつきり)見えて、さうして旗竿(はたさを)の頭(さき)に鳶(とび)が宿(とま)つてゐるが手に取るやう」
「おや、さやうでございますか。何でもこの位の眼鏡は西洋にも多度(たんと)御座いませんさうで、招魂社(しようこんしや)のお祭の時などは、狼煙(のろし)の人形が能(よ)く見えるのでございます。私はこれを見まする度(たび)にさやう思ひますのでございますが、かう云う風に話が聞えましたらさぞ宜(よろし)うございませう。余(あんま)り近くに見えますので、音や声なんぞが致すかと想ふやうでございます」
「音が聞えたら、彼方此方(あちこち)の音が一所に成つて粉雑(ごちやごちや)になつて了(しま)ひませう」
 かく言ひて斉(ひとし)く笑へり。静緒は客遇(きやくあしらひ)に慣れたれば、可羞(はづか)しげに見えながらも話を求むるには拙(つたな)からざりき。
「私は始めてこれを見せて戴(いただ)きました折、殿様に全然(すつかり)騙(だま)されましたのでございます。鼻の前(さき)に見えるだらうと仰せられますから、さやうにございますと申上げますと、見えたら直(すぐ)にその眼鏡を耳に推付(おつつ)けて見ろ、早くさへ耳に推付(おつつ)ければ、音でも声でも聞えると仰せられますので……」
 淀無(よどみな)く語出(かたりい)づる静緒の顔を見入りつつ貴婦人は笑(ゑ)ましげに聴ゐたり。
「私は急いで推付けましたのでございます」
「まあ!」
「なに、ちつとも聞えは致しませんのでございますから、さやう申上げますと、推付けやうが悪いと仰せられまして、御自身に遊ばして御覧なさるのでございますよ。何遍致して見ましたか知れませんのでございますけれど、何も聞えは致しませんので。さやう致しますると、お前では可かんと仰せられまして、御供を致してをりました御家来から、御親類方も御在(おいで)でゐらつしやいましたが、皆為(みんななす)つて御覧遊ばしました」
 貴婦人は怺(こら)へかねて失笑せり。
「あら、本当なのでございますよ。それで、未だ推付けやうが悪い、もつと早く早くと仰せられるものでございますから、御殿に居ります速水(はやみ)と申す者は余(あんま)り急ぎましたので、耳の此処(ここ)を酷(ひど)く打(ぶ)ちまして、血を出したのでございます」
 彼の歓(よろこ)べるを見るより静緒は椅子を持来(もちきた)りて薦(すす)めし後、さて語り続くるやう。
「それで誰(たれ)にも聞えないのでございます。さやう致しますると、殿様は御自身に遊ばして御覧で、なるほど聞えない。どうしたのか知らんなんて、それは、もう実にお真面目(まじめ)なお顔で、わざと御考へあそばして、仏蘭西(フランス)に居た時には能(よ)く聞えたのだが、日本は気候が違ふから、空気の具合が眼鏡の度に合はない、それで聞えないのだらうと仰せられましたのを、皆本当に致して、一年ばかり釣られてをりましたのでございます」
 その名器を手にし、その耳にせし人を前にせる貴婦人の興を覚ゆることは、殿の悪作劇(あくさげき)を親く睹(み)たらんにも劣らざりき。
「殿様はお面白(おもしろ)い方でゐらつしやいますから、随分そんな事を遊ばしませうね」
「それでもこの二三年はどうも御気分がお勝(すぐ)れ遊ばしませんので、お険(むづかし)いお顔をしてゐらつしやるのでございます」
 書斎に掛けたる半身の画像こそその病根なるべきを知れる貴婦人は、卒(にはか)に空目遣(そらめづかひ)して物の思はしげに、例の底寂(そこさびし)う打湿(うちしめ)りて見えぬ。
 やや有りて彼は徐(しづか)に立ち上りけるが、こ回(たび)は更に邇(ちか)きを眺めんとて双眼鏡を取り直してけり。彼方此方(あなたこなた)に差向くる筒の当所(あてど)も無かりければ、偶(たまた)ま唐楪葉(からゆづりは)のいと近きが鏡面(レンズ)に入(い)り来(き)て一面に蔓(はびこ)りぬ。粒々の実も珍く、何の木かとそのまま子細に視たりしに、葉蔭を透きて人顔の見ゆるを、心とも無く眺めけるに、自(おのづ)から得忘れぬ面影に肖(に)たるところあり。
 貴婦人は差し向けたる手を緊(しか)と据ゑて、目を拭(ぬぐ)ふ間も忙(せはし)く、なほ心を留めて望みけるに、枝葉(えだは)の遮(さへぎ)りてとかくに思ふままならず。漸(やうや)くその顔の明(あきらか)に見ゆる隙(ひま)を求めけるが、別に相対(さしむか)へる人ありて、髪は黒けれども真額(まつかう)の瑩々(てらてら)禿(は)げたるは、先に挨拶(あいさつ)に出(い)でし家扶の畔柳にて、今一人なるその人こそ、眉濃(まゆこ)く、外眦(まなじり)の昂(あが)れる三十前後の男なりけれ。得忘れぬ面影に肖(に)たりとは未(おろか)や、得忘れぬその面影なりと、ゆくりなくも認めたる貴婦人の鏡(グラス)持てる手は兢々(わなわな)と打顫(うちふる)ひぬ。
 行く水に数画(かずか)くよりも儚(はかな)き恋しさと可懐(なつか)しさとの朝夕に、なほ夜昼の別(わかち)も無く、絶えぬ思はその外ならざりし四年(よとせ)の久きを、熱海の月は朧(おぼろ)なりしかど、一期(いちご)の涙に宿りし面影は、なかなか消えもやらで身に添ふ幻を形見にして、又何日(いつか)は必ずと念懸(おもひか)けつつ、雨にも風にも君が無事を祈りて、心は毫(つゆ)も昔に渝(かは)らねど、君が恨を重ぬる宮はここに在り。思ひに思ふのみにて別れて後の事は知らず、如何(いか)なる労(わづらひ)をやさまでは積みけん、齢(よはひ)よりは面瘁(おもやつれ)して、異(あやし)うも物々しき分別顔(ふんべつかほ)に老いにけるよ。幸薄(さいはひうす)く暮さるるか、着たるものの見好げにもあらで、なほ書生なるべき姿なるは何にか身を寄せらるるならんなど、思は置所無く湧出(わきい)でて、胸も裂けぬべく覚ゆる時、男の何語りてや打笑む顔の鮮(あざやか)に映れば、貴婦人の目よりは涙すずろに玉の糸の如く流れぬ。今は堪(た)へ難くて声も立ちぬべきに、始めて人目あるを暁(さと)りて失(しな)したりと思ひたれど、所為無(せんな)くハンカチイフを緊(きびし)く目に掩(あ)てたり。静緒の驚駭(おどろき)は謂ふばかり無く、
「あれ、如何(いか)が遊ばしました」
「いえ、なに、私は脳が不良(わるい)ものですから、余(あんま)り物を瞶(みつ)めてをると、どうかすると眩暈(めまひ)がして涙の出ることがあるので」
「お腰をお掛け遊ばしまし、少しお頭(ぐし)をお摩(さす)り申上げませう」
「いえ、かうしてをると、今に直(ぢき)に癒(なほ)ります。憚(はばかり)ですがお冷(ひや)を一つ下さいましな」
 静緒は驀地(ましぐら)に行かんとす。
「あの、貴方(あなた)、誰にも有仰(おつしや)らずにね、心配することは無いのですから、本当に有仰らずに、唯私が嗽(うがひ)をすると言つて、持つて来て下さいましよ」
「はい、畏(かしこま)りました」
 彼の階子(はしご)を下り行くと斉(ひとし)く貴婦人は再び鏡(グラス)を取りて、葉越(はごし)の面影を望みしが、一目見るより漸含(さしぐ)む涙に曇らされて、忽(たちま)ち文色(あいろ)も分かずなりぬ。彼は静無(しどな)く椅子に崩折(くづを)れて、縦(ほしいま)まに泣乱したり。

     (四)の三

 この貴婦人こそ富山宮子にて、今日夫なる唯継(ただつぐ)と倶(とも)に田鶴見子爵に招れて、男同士のシャンペンなど酌交(くみかは)す間(ま)を、請うて庭内を遊覧せんとて出でしにぞありける。
 子爵と富山との交際は近き頃よりにて、彼等の孰(いづれ)も日本写真会々員たるに因(よ)れり。自(おのづか)ら宮の除物(のけもの)になりて二人の興に入(い)れるは、想ふにその物語なるべし。富山はこの殿と親友たらんことを切望して、ひたすらその意(こころ)を獲(え)んと力(つと)めけるより、子爵も好みて交(まじは)るべき人とも思はざれど、勢ひ疎(うとん)じ難(がた)くして、今は会員中善く識(し)れるものの最(さい)たるなり。爾来(じらい)富山は益(ますま)す傾慕して措(お)かず、家にツィシアンの模写と伝へて所蔵せる古画の鑒定(かんてい)を乞ふを名として、曩(さき)に芝西久保(しばにしのくぼ)なる居宅に請じて疎(おろそか)ならず饗(もてな)す事ありければ、その返(かへし)とて今日は夫婦を招待(しようだい)せるなり。
 会員等は富山が頻(しきり)に子爵に取入るを見て、皆その心を測りかねて、大方は彼為(かれため)にするところあらんなど言ひて陋(いやし)み合へりけれど、その実敢(あへ)て為にせんとにもあらざるべし。彼は常にその友を択べり。富山が交(まじは)るところは、その地位に於(おい)て、その名声に於て、その家柄に於て、或(あるひ)はその資産に於て、孰(いづれ)の一つか取るべき者ならざれば決して取らざりき。されば彼の友とするところは、それらの一つを以て優に彼以上に価する人士にあらざるは無し。実(げ)に彼は美き友を有(も)てるなり。さりとて彼は未(いま)だ曾(かつ)てその友を利用せし事などあらざれば、こたびも強(あながち)に有福なる華族を利用せんとにはあらで、友として美き人なれば、かく勉(つと)めて交(まじはり)は求むるならん。故(ゆゑ)に彼はその名簿の中に一箇(いつか)の憂(うれひ)を同(おなじ)うすべき友をだに見出(みいだ)さざるを知れり。抑(そもそ)も友とは楽(たのしみ)を共にせんが為の友にして、若(も)し憂を同うせんとには、別に金銭(マネイ)ありて、人の助を用ゐず、又決して用ゐるに足らずと信じたり。彼の美き友を択ぶは固(もと)よりこの理に外ならず、寔(まこと)に彼の択べる友は皆美けれども、尽(ことごと)くこれ酒肉の兄弟(けいてい)たるのみ。知らず、彼はこれを以てその友に満足すとも、なほこれをその妻に於けるも然(しか)りと為(な)すの勇あるか。彼が最愛の妻は、その一人を守るべき夫の目を□(かす)めて、陋(いやし)みても猶(なほ)余ある高利貸の手代に片思の涙を灑(そそ)ぐにあらずや。
 宮は傍(かたはら)に人無しと思へば、限知られぬ涙に掻昏(かきく)れて、熱海の浜に打俯(うちふ)したりし悲歎(なげき)の足らざるをここに続(つ)がんとすなるべし。階下(した)より仄(ほのか)に足音の響きければ、やうやう泣顔隠して、わざと頭(かしら)を支へつつ室(しつ)の中央(まなか)なる卓子(テエブル)の周囲(めぐり)を歩みゐたり。やがて静緒の持来(もちきた)りし水に漱(くちそそ)ぎ、懐中薬(かいちゆうくすり)など服して後、心地復(をさま)りぬとて又窓に倚(よ)りて外方(とのがた)を眺めたりしが、
「ちよいと、那処(あすこ)に、それ、男の方の話をしてお在(いで)の所も御殿の続きなのですか」
「何方(どちら)でございます。へ、へい、あれは父の詰所で、誰か客と見えまする」
「お宅は? 御近所なのですか」
「はい、お邸内(やしきうち)でございます。これから直(ぢき)に見えまする、あの、倉の左手に高い樅(もみ)の木がございませう、あの陰に見えます二階家が宅なのでございます」
「おや、さうで。それではこの下から直(ずつ)とお宅の方へ行(い)かれますのね」
「さやうでございます。お邸の裏門の側でございます」
「ああさうですか。では些(ちつ)とお庭の方からお邸内を見せて下さいましな」
「お邸内と申しても裏門の方は誠に穢(きたな)うございまして、御覧あそばすやうな所はございませんです」
 宮はここを去らんとして又葉越(はごし)の面影を窺(うかが)へり。
「付かない事をお聞き申すやうですが、那処(あすこ)にお父様(とつさま)とお話をしてゐらつしやるのは何地(どちら)の方ですか」
 彼の親達は常に出入(でいり)せる鰐淵(わにぶち)の高利貸なるを明さざれば、静緒は教へられし通りを告(つぐ)るなり。
「他(あれ)は番町の方の鰐淵と申す、地面や家作などの売買(うりかひ)を致してをります者の手代で、間(はざま)とか申しました」
「はあ、それでは違ふか知らん」
 宮は聞えよがしに独語(ひとりご)ちて、その違(たが)へるを訝(いぶか)るやうに擬(もてな)しつつ又其方(そなた)を打目戍(うちまも)れり。
「番町はどの辺で?」
「五番町だとか申しました」
「お宅へは始終見えるのでございますか」
「はい、折々参りますのでございます」
 この物語に因(よ)りて宮は彼の五番町なる鰐淵といふに身を寄するを知り得たれば、この上は如何(いか)にとも逢ふべき便(たより)はあらんと、獲難(えがた)き宝を獲たるにも勝(まさ)れる心地せるなり。されどもこの後相見んことは何日(いつ)をも計られざるに、願うては神の力も及ぶまじき今日の奇遇を仇(あだ)に、余所(よそ)ながら見て別れんは本意無(ほいな)からずや。若(も)し彼の眼(まなこ)に睨(にら)まれんとも、互の面(おもて)を合せて、言(ことば)は交(かは)さずとも切(せめ)ては相見て相知らばやと、四年(よとせ)を恋に饑(う)ゑたる彼の心は熬(いら)るる如く動きぬ。
 さすがに彼の気遣(きづか)へるは、事の危(あやふ)きに過ぎたるなり。附添さへある賓(まらうど)の身にして、賤(いやし)きものに遇(あつか)はるる手代風情(ふぜい)と、しかもその邸内(やしきうち)の径(こみち)に相見て、万一不慮の事などあらば、我等夫婦は抑(そも)や幾許(いかばか)り恥辱を受くるならん。人にも知られず、我身一つの恥辱ならんには、この面(おもて)に唾吐(つばはか)るるも厭(いと)はじの覚悟なれど奇遇は棄つるに惜き奇遇ながら、逢瀬(あふせ)は今日の一日(ひとひ)に限らぬものを、事の破(やぶれ)を目に見て愚に躁(はやま)るべきや。ゆめゆめ今日は逢ふべき機(をり)ならず、辛(つら)くとも思止まんと胸は据ゑつつも、彼は静緒を賺(すか)して、邸内(やしきうち)を一周せんと、西洋館の後(うしろ)より通用門の側(わき)に出でて、外塀際(そとべいぎは)なる礫道(ざりみち)を行けば、静緒は斜(ななめ)に見ゆる父が詰所の軒端(のきば)を指(さ)して、
「那処(あすこ)が唯今の客の参つてをります所でございます」
 実(げ)に唐楪葉(からゆづりは)は高く立ちて、折しく一羽の小鳥来鳴(きな)けり。宮が胸は異(あやし)うつと塞(ふたが)りぬ。
 楼(たかどの)を下りてここに来たるは僅少(わづか)の間(ひま)なれば、よもかの人は未(いま)だ帰らざるべし、若しここに出で来(きた)らば如何(いか)にすべきなど、さすがに可恐(おそろし)きやうにも覚えて、歩(あゆみ)は運べど地を踏める心地も無く、静緒の語るも耳には入(い)らで、さて行くほどに裏門の傍(かたはら)に到りぬ。
 遊覧せんとありしには似で、貴婦人の目を挙(あぐ)れども何処(いづこ)を眺むるにもあらず、俯(うつむ)き勝に物思はしき風情(ふぜい)なるを、静緒は怪くも気遣(きづかはし)くて、
「まだ御気分がお悪うゐらつしやいますか」
「いいえ、もう大概良いのですけれど、未(ま)だ何だか胸が少し悪いので」
「それはお宜(よろし)うございません。ではお座敷へお帰りあそばしました方がお宜うございませう」
「家(うち)の中よりは戸外(おもて)の方が未だ可いので、もう些(ち)と歩いてゐる中には復(をさま)りますよ。ああ、此方(こちら)がお宅ですか」
「はい、誠に見苦い所でございます」
「まあ、奇麗な! 木槿(もくげ)が盛(さかり)ですこと。白ばかりも淡白(さつぱり)して好(よ)いぢやありませんか」
 畔柳の住居(すまひ)を限として、それより前(さき)は道あれども、賓(まらうど)の足を容(い)るべくもあらず、納屋、物干場、井戸端などの透きて見ゆる疎垣(まだらがき)の此方(こなた)に、樫(かし)の実の夥(おびただし)く零(こぼ)れて、片側(かたわき)に下水を流せる細路(ほそみち)を鶏の遊び、犬の睡(ねむ)れるなど見るも悒(いぶせ)きに、静緒は急ぎ返さんとせるなり。貴婦人もはや返さんとするとともに恐懼(おそれ)は忽(たちま)ちその心を襲へり。
 この一筋道を行くなれば、もしかの人の出来(いできた)るに会はば、遁(のが)れんやうはあらで明々地(あからさま)に面(おもて)を合すべし。さるは望まざるにもあらねど、静緒の見る目あるを如何(いか)にせん。仮令(たとひ)此方(こなた)にては知らぬ顔してあるべきも、争(いか)でかの人の見付けて驚かざらん。固(もと)より恨を負へる我が身なれば、言(ことば)など懸けらるべしとは想はねど、さりとてなかなか道行く人のやうには見過されざるべし。ここに宮を見たるその驚駭(おどろき)は如何ならん。仇(あだ)に遇(あ)へるその憤懣(いきどほり)は如何ならん。必ずかの人の凄(すさまじ)う激せるを見ば、静緒は幾許(いかばかり)我を怪むらん。かく思ひ浮ぶると斉(ひとし)く身内は熱して冷(つめた)き汗を出(いだ)し、足は地に吸るるかとばかり竦(すく)みて、宮はこれを想ふにだに堪(た)へざるなりけり。脇道(わきみち)もあらば避けんと、静緒に問へば有らずと言ふ。知りつつもこの死地に陥りたるを悔いて、遣(や)る方も無く惑へる宮が面色(おももち)の穏(やす)からぬを見尤(みとが)めて、静緒は窃(ひそか)に目を側(そば)めたり。彼はいとどその目を懼(おそ)るるなるべし。今は心も漫(そぞろ)に足を疾(はや)むれば、土蔵の角(かど)も間近になりて其処(そこ)をだに無事に過ぎなば、と切(しきり)に急がるる折しも、人の影は突(とつ)としてその角より顕(あらは)れつ。宮は眩(めくるめ)きぬ。
 これより帰りてともかくもお峯が前は好(よ)きやうに言譌(いひこしら)へ、さて篤と実否を糺(ただ)せし上にて私(ひそか)に為(せ)んやうも有らんなど貫一は思案しつつ、黒の中折帽を稍(やや)目深(まぶか)に引側(ひきそば)め、通学に馴(なら)されし疾足(はやあし)を駆りて、塗籠(ぬりこめ)の角より斜(ななめ)に桐の並木の間(あひ)を出でて、礫道(ざりみち)の端を歩み来(きた)れり。
 四辺(あたり)に往来(ゆきき)のあるにあらねば、二人の姿は忽(たちま)ち彼の目に入りぬ。一人は畔柳の娘なりとは疾(と)く知られけれど、顔打背(かほうちそむ)けたる貴婦人の眩(まばゆ)く着飾りたるは、子爵家の客なるべしと纔(わづか)に察せらるるのみ。互に歩み寄りて一間ばかりに近(ちかづ)けば、貫一は静緒に向ひて慇懃(いんぎん)に礼するを、宮は傍(かたはら)に能(あた)ふ限は身を窄(すぼ)めて密(ひそか)に流盻(ながしめ)を凝したり。その面(おもて)の色は惨として夕顔の花に宵月の映(うつろ)へる如く、その冷(ひややか)なるべきもほとほと、相似たりと見えぬ。脚(あし)は打顫(うちふる)ひ打顫ひ、胸は今にも裂けぬべく轟(とどろ)くを、覚(さと)られじとすれば猶(なほ)打顫ひ猶轟きて、貫一が面影の目に沁(し)むばかり見ゆる外は、生きたりとも死にたりとも自ら分かぬ心地してき。貫一は帽を打着て行過ぎんとする際(きは)に、ふと目鞘(めざや)の走りて、館の賓(まらうど)なる貴婦人を一瞥(べつ)せり。端無(はしな)くも相互(たがひ)の面(おもて)は合へり。宮なるよ! 姦婦(かんぷ)なるよ! 銅臭の肉蒲団(にくぶとん)なるよ! とかつは驚き、かつは憤り、はたと睨(ね)めて動かざる眼(まなこ)には見る見る涙を湛(たた)へて、唯一攫(ひとつかみ)にもせまほしく肉の躍(をど)るを推怺(おしこら)へつつ、窃(ひそか)に歯咬(はがみ)をなしたり。可懐(なつか)しさと可恐(おそろ)しさと可耻(はづか)しさとを取集めたる宮が胸の内は何に喩(たと)へんやうも無く、あはれ、人目だにあらずば抱付(いだきつ)きても思ふままに苛(さいな)まれんをと、心のみは憧(あこが)れながら身を如何(いかに)とも為難(しがた)ければ、せめてこの誠は通ぜよかしと、見る目に思を籠(こ)むるより外はあらず。
 貫一はつと踏出して始の如く足疾(あしばや)に過行けり。宮は附人(つきひと)に面を背(そむ)けて、唇(くちびる)を咬(か)みつつ歩めり。驚きに驚かされし静緒は何事とも弁(わきま)へねど、推(すい)すべきほどには推して、事の秘密なるを思へば、賓(まらうど)の顔色のさしも常ならず変りて可悩(なやま)しげなるを、問出でんも可(よし)や否(あし)やを料(はか)りかねて、唯可慎(つつまし)う引添ひて行くのみなりしが、漸く庭口に来にける時、
「大相お顔色がお悪くてゐらつしやいますが、お座敷へお出(いで)あそばして、お休み遊ばしましては如何(いかが)でございます」
「そんなに顔色が悪うございますか」
「はい、真蒼(まつさを)でゐらつしやいます」
「ああさうですか、困りましたね。それでは彼方(あちら)へ参つて、又皆さんに御心配を懸けると可(い)けませんから、お庭を一周(ひとまはり)しまして、その内には気分が復(なほ)りますから、さうしてお座敷へ参りませう。然し今日は大変貴方(あなた)のお世話になりまして、お蔭様で私も……」
「あれ、飛んでもない事を有仰(おつしや)います」
 貴婦人はその無名指(むめいし)より繍眼児(めじろ)の押競(おしくら)を片截(かたきり)にせる黄金(きん)の指環を抜取りて、懐紙(ふところかみ)に包みたるを、
「失礼ですが、これはお礼のお証(しるし)に」
 静緒は驚き怖(おそ)れたるなり。
「はい……かう云ふ物を……」
「可(よ)うございますから取つて置いて下さい。その代り誰にもお見せなさらないやうに、阿父様(おとつさま)にも阿母様(おつかさま)にも誰にも有仰(おつしや)らないやうに、ねえ」
 受けじと為るを手籠(てごめ)に取せて、互に何も知らぬ顔して、木の間伝ひに泉水の麁朶橋(そたばし)近く寄る時、書院の静なるに夫の高笑(たかわらひ)するが聞えぬ。
 宮はこの散歩の間に勉(つと)めて気を平(たひら)げ、色を歛(をさ)めて、ともかくも人目を□(のが)れんと計れるなり。されどもこは酒を窃(ぬす)みて酔はざらんと欲するに同(おなじ)かるべし。
 彼は先に遭(あ)ひし事の胸に鏤(ゑ)られたらんやうに忘るる能(あた)はざるさへあるに、なかなか朽ちも果てざりし恋の更に萠出(もえい)でて、募りに募らんとする心の乱(みだれ)は、堪(た)ふるに難(かた)き痛苦(くるしみ)を齎(もたら)して、一歩は一歩より、胸の逼(せま)ること急に、身内の血は尽(ことごと)くその心頭(しんとう)に注ぎて余さず熬(い)らるるかと覚ゆるばかりなるに、かかる折は打寛(うちくつろ)ぎて意任(こころまか)せの我が家に独り居たらんぞ可(よ)き。人に接して強(し)ひて語り、強ひて笑ひ、強ひて楽まんなど、あな可煩(わづらは)しと、例の劇(はげし)く唇(くちびる)を咬(か)みて止まず。
 築山陰(つきやまかげ)の野路(のぢ)を写せる径(こみち)を行けば、蹈処無(ふみどころな)く地を這(は)ふ葛(くず)の乱れ生(お)ひて、草藤(くさふぢ)、金線草(みづひき)、紫茉莉(おしろい)の色々、茅萱(かや)、穂薄(ほすすき)の露滋(つゆしげ)く、泉水の末を引きて□々(ちよろちよろ)水(みづ)を卑(ひく)きに落せる汀(みぎは)なる胡麻竹(ごまたけ)の一叢(ひとむら)茂れるに隠顕(みえかくれ)して苔蒸(こけむ)す石組の小高きに四阿(あづまや)の立てるを、やうやう辿り着きて貴婦人は艱(なやま)しげに憩へり。
 彼は静緒の柱際(はしらぎは)に立ちて控ふるを、
「貴方もお草臥(くたびれ)でせう、あれへお掛けなさいな。未だ私の顔色は悪うございますか」
 その色の前(さき)にも劣らず蒼白(あをざ)めたるのみならで、下唇の何に傷(きずつ)きてや、少(すこし)く血の流れたるに、彼は太(いた)く驚きて、
「あれ、お唇から血が出てをります。如何(いかが)あそばしました」
 ハンカチイフもて抑へければ、絹の白きに柘榴(ざくろ)の花弁(はなびら)の如く附きたるに、貴婦人は懐鏡(ふところかがみ)取出(とりいだ)して、咬(か)むことの過ぎし故(ゆゑ)ぞと知りぬ。実(げ)に顔の色は躬(みづから)も凄(すご)しと見るまでに変れるを、庭の内をば幾周(いくめぐり)して我はこの色を隠さんと為(す)らんと、彼は心陰(こころひそか)に己(おのれ)を嘲(あざけ)るなりき。
 忽(たちま)ち女の声して築山の彼方(あなた)より、
「静緒さん、静緒さん!」
 彼は走り行き、手を鳴して応(こた)へけるが、やがて木隠(こがくれ)に語(かたら)ふ気勢(けはひ)して、返り来ると斉(ひとし)く賓(まらうど)の前に会釈して、
「先程からお座敷ではお待兼でゐらつしやいますさうで御座いますから、直(すぐ)に彼方(あちら)へお出(いで)あそばしますやうに」
「おや、さうでしたか。随分先から長い間道草を食べましたから」
 道を転じて静緒は雲帯橋(うんたいきよう)の在る方(かた)へ導けり。橋に出づれば正面の書院を望むべく、はや所狭(ところせま)きまで盃盤(はいばん)を陳(つら)ねたるも見えて、夫は席に着きゐたり。
 此方(こなた)の姿を見るより子爵は縁先に出でて麾(さしまね)きつつ、
「そこをお渡りになつて、此方(こちら)に燈籠(とうろう)がございませう、あの傍(そば)へ些(ちよつ)とお出で下さいませんか。一枚像(とら)して戴きたい」
 写真機は既に好き処に据ゑられたるなり。子爵は庭に下立(おりた)ちて、早くもカメラの覆(おほひ)を引被(ひきかつ)ぎ、かれこれ位置を取りなどして、
「さあ、光線の具合が妙だ!」
 いでや、事の様(よう)を見んとて、慢々(ゆらゆら)と出来(いできた)れるは富山唯継なり。片手には葉巻(シガア)の半(なかば)燻(くゆ)りしを撮(つま)み、片臂(かたひぢ)を五紋の単羽織(ひとへはおり)の袖(そで)の内に張りて、鼻の下の延びて見ゆるやうの笑(ゑみ)を浮べつつ、
「ああ、おまへ其処(そこ)に居らんければ可かんよ、何為(なぜ)歩いて来るのかね」
 子爵の慌(あわ)てたる顔はこの時毛繻子(けじゆす)の覆の内よりついと顕(あらは)れたり。
「可けない! 那処(あすこ)に居て下さらなければ可けませんな。何、御免を蒙(かうむ)る? ――可けない! お手間は取せませんから、どうぞ」
「いや、貴方(あなた)は巧い言(こと)をお覚えですな。お手間は取せませんは余程好い」
「この位に言つて願はんとね、近頃は写してもらふ人よりは写したがる者の方が多いですからね。さあ、奥さん、まあ、彼方(あちら)へ。静緒、お前奥さんを那処(あすこ)へお連れ申して」
 唯継は目もて示して、
「お前、早く行かんけりや可かんよ、折角かうして御支度(ごしたく)をなすつて下すつたのに、是非願ひな。ええ。あの燈籠の傍(そば)へ立つのだ。この機械は非常に結構なのだから是非願ひな。何も羞含(はにか)むことは無いぢやないか、何羞含む訳ぢやない? さうとも羞含むことは無いとも、始終内で遣(や)つてをるのに、あれで可いのさ。姿勢(かたち)は私が見て遣るから早くおいで。燈籠へ倚掛(よつかか)つて頬杖(ほほづゑ)でも□(つ)いて、空を眺(なが)めてゐる状(かたち)なども可いよ。ねえ、如何(いかが)でせう」
「結構。結構」と子爵は頷(うなづ)けり。
 心は進まねど強ひて否(いな)むべくもあらねば、宮は行きて指定の位置に立てるを、唯継は望み見て、
「さう棒立ちになつてをつちや可かんぢやないか。何ぞ持つてをる方が可いか知らんて」
 かく呟(つぶや)きつつ庭下駄を引掛(ひきか)け、急ぎ行きて、その想へるやうに燈籠に倚(よら)しめ、頬杖を□(つか)しめ、空を眺めよと教へて、袂(たもと)の皺(しわ)めるを展(の)べ、裾(すそ)の縺(もつれ)を引直し、さて好しと、少(すこし)く退(の)きて姿勢を見るとともに、彼はその面(おもて)の可悩(なやまし)げに太(いた)くも色を変へたるを発見して、直(ただち)に寄り来つ、
「どうしたのだい、おまへ、その顔色は? 何処(どこ)か不快(わるい)のか、ええ。非常な血色だよ。どうした」
「少しばかり頭痛がいたすので」
「頭痛? それぢやかうして立つてをるのは苦いだらう」
「いいえ、それ程ではないので」
「苦いやうなら我慢をせんとも、私(わし)が訳を言つてお謝絶(ことわり)をするから」
「いいえ、宜(よろし)うございますよ」
「可いかい、本当に可いかね。我慢をせんとも可いから」
「宜うございますよ」
「さうか、然し非常に可厭(いや)な色だ」
 彼は眷々(けんけん)として去る能(あた)はざるなり。待ちかねたる子爵は呼べり。
「如何(いかが)ですか」
 唯継は慌忙(あわただし)く身を開きて、
「一つこれで御覧下さい」
 鏡面(レンズ)に照して二三の改むべきを注意せし後、子爵は種板(たねいた)を挿入(さしい)るれば、唯継は心得てその邇(ちかき)を避けたり。
 空を眺むる宮が目の中(うち)には焚(も)ゆらんやうに一種の表情力充満(みちみ)ちて、物憂さの支へかねたる姿もわざとならず。色ある衣(きぬ)は唐松(からまつ)の翠(みどり)の下蔭(したかげ)に章(あや)を成して、秋高き清遠の空はその後に舗(し)き、四脚(よつあし)の雪見燈籠を小楯(こだて)に裾の辺(あたり)は寒咲躑躅(かんざきつつじ)の茂(しげみ)に隠れて、近きに二羽の鵞(が)の汀(みぎは)に□(あさ)るなど、寧(むし)ろ画にこそ写さまほしきを、子爵は心に喜びつつ写真機の前に進み出で、今や鏡面(レンズ)を開かんと構ふる時、貴婦人の頬杖は忽(たちま)ち頽(くづ)れて、その身は燈籠の笠の上に折重なりて岸破(がば)と伏しぬ。

     第五章

 遊佐良橘(ゆさりようきつ)は郷里に在りし日も、出京の遊学中も、頗(すこぶ)る謹直を以(も)て聞えしに、却(かへ)りて、日本周航会社に出勤せる今日(こんにち)、三百円の高利の為に艱(なやま)さるると知れる彼の友は皆驚けるなり。或ものは結婚費なるべしと言ひ、或ものは外(おもて)を張らざるべからざる為の遣繰(やりくり)なるべしと言ひ、或ものは隠遊(かくれあそび)の風流債ならんと説くもありて、この不思議の負債とその美き妻とは、遊佐に過ぎたる物が二つに数へらるるなりき。されどもこは謂(い)ふべからざる事情の下に連帯の印(いん)を仮(か)せしが、形(かた)の如く腐れ込みて、義理の余毒の苦を受(うく)ると知りて、彼の不幸を悲むものは、交際官試補なる法学士蒲田(かまだ)鉄弥と、同会社の貨物課なる法学士風早庫之助(かざはやくらのすけ)とあるのみ。
 凡(およ)そ高利の術たるや、渇者(かつしや)に水を売るなり。渇の甚(はなはだし)く堪(た)へ難き者に至りては、決してその肉を割(さ)きてこれを換ふるを辞せざるべし。この急に乗じてこれを売る、一杯の水もその値(あたひ)玉漿(ぎよくしよう)を盛るに異る無し。故(ゆゑ)に前後不覚に渇する者能くこれを買ふべし、その渇の癒(いゆ)るに及びては、玉漿なりとして喜び吃(きつ)せしものは、素(も)と下水の上澄(うはずみ)に過ぎざるを悟りて、痛恨、痛悔すといへども、彼は約の如く下水の倍量をばその鮮血に搾(しぼ)りその活肉に割きて以て返さざるべからず。噫(ああ)、世間の最も不敵なる者高利を貸して、これを借(か)るは更に最も不敵なる者と為さざらんや。ここを以(も)て、高利は借(か)るべき人これを借りて始めて用ゐるべし。さらずばこれを借るの覚悟あるべきを要す。これ風早法学士の高利貸に対する意見の概要なり。遊佐は実にこの人にあらず、又この覚悟とても有らざるを、奇禍に罹(かか)れる哉(かな)と、彼は人の為ながら常にこの憂(うれひ)を解く能(あた)はざりき。
 近きに郷友会(きようゆうかい)の秋季大会あらんとて、今日委員会のありし帰(かへる)さを彼等は三人(みたり)打連れて、遊佐が家へ向へるなり。
「別に御馳走(ごちそう)と云つては無いけれど、松茸(まつだけ)の極新(ごくあたらし)いのと、製造元から貰(もら)つた黒麦酒(くろビイル)が有るからね、鶏(とり)でも買つて、寛(ゆつく)り話さうぢやないか」
 遊佐が弄(まさぐ)れる半月形の熏豚(ハム)の罐詰(かんづめ)も、この設(まうけ)にとて途(みち)に求めしなり。
 蒲田の声は朗々として聴くに快く、
蒲「それは結構だ。さう泊(とまり)が知れて見ると急ぐにも当らんから、どうだね、一ゲエム。君はこの頃風早と対(たい)に成つたさうだが、長足の進歩ぢやないか。然(しか)し、どうもその長足のちやうはてう(貂)足らず、続(つ)ぐにフロックを以つて為るのぢやないかい。この頃は全然(すつかり)フロックが止(とま)つた? ははははは、それはお目出度(めでた)いやうな御愁傷のやうな妙な次第だね。然し、フロックが止つたのは明(あきらか)に一段の進境を示すものだ。まあ、それで大分話せるやうになりました」
 風早は例の皺嗄声(しわかれごゑ)して大笑(たいしよう)を発せり。
風「更に一段の進境を示すには、竪杖(たてキュウ)をして二寸三分クロオスを裂(やぶ)かなければ可けません」
蒲「三たび臂(ひぢ)を折つて良医となるさ。あれから僕は竪杖(たてキュウ)の極意を悟つたのだ」
風「へへへ、この頃の僕の後曳(あとびき)の手際(てぎは)も知らんで」
 これを聞きて、こたびは遊佐が笑へり。
遊「君の後曳も口ほどではないよ。この間那処(あすこ)の主翁(おやぢ)がさう言つてゐた、風早さんが後曳を三度なさると新いチョオクが半分失(なくな)る……」
蒲「穿得(うがちえ)て妙だ」
風「チョオクの多少は業(わざ)の巧拙には関せんよ。遊佐が無闇(むやみ)に杖(キュウ)を取易(とりか)へるのだつて、決して見(み)とも好くはない」
 蒲田は手もて遽(にはか)に制しつ。
「もう、それで可い。他(ひと)の非を挙げるやうな者に業(わざ)の出来た例(ためし)が無い。悲い哉(かな)君達の球も蒲田に八十で底止(とまり)だね」
風「八十の事があるものか」
蒲「それでは幾箇(いくつ)で来るのだ」
「八十五よ」
「五とは情無い! 心の程も知られける哉(かな)だ」
「何でも可いから一ゲエム行かう」
「行かうとは何だ! 願ひますと言ふものだ」
 語(ことば)も訖(をは)らざるに彼は傍腹(ひばら)に不意の肱突(ひぢつき)を吃(くら)ひぬ。
「あ、痛(いた)! さう強く撞(つ)くから毎々球が滾(ころ)げ出すのだ。風早の球は暴(あら)いから癇癪玉(かんしやくだま)と謂ふのだし、遊佐のは馬鹿に柔(やはらか)いから蒟蒻玉(こんにやくだま)。それで、二人の撞くところは電公(かみなり)と蚊帳(かや)が捫択(もんちやく)してゐるやうなものだ」
風「ええ、自分がどれほど撞けるのだ」
蒲「さう、多度(たんと)も行かんが、天狗(てんぐ)の風早に二十遣るのさ」
 二人は劣らじと諍(あらが)ひし末、直(ただち)に一番の勝負をいざいざと手薬煉(てぐすね)引きかくるを、遊佐は引分けて、
「それは飲んでからに為やう。夜が長いから後で寛(ゆつく)り出来るさ。帰つて風呂にでも入(い)つて、それから徐々(そろそろ)始めやうよ」
 往来繁(ゆききしげ)き町を湯屋の角より入(い)れば、道幅その二分の一ばかりなる横町の物売る店も雑(まじ)りながら閑静に、家並(やなみ)整へる中程に店蔵(みせぐら)の質店(しちや)と軒ラムプの並びて、格子木戸(こうしきど)の内を庭がかりにしたる門(かど)に楪葉(ゆづりは)の立てるぞ遊佐が居住(すまひ)なる。
 彼は二人を導きて内格子を開きける時、彼の美き妻は出(い)で来(きた)りて、伴へる客あるを見て稍(やや)打惑へる気色(けしき)なりしが、遽(にはか)に笑(ゑみ)を含みて常の如く迎へたり。
「さあ、どうぞお二階へ」
「座敷は?」と夫に尤(とが)められて、彼はいよいよ困(こう)じたるなり。
「唯今(ただいま)些(ちよい)と塞(ふさが)つてをりますから」
「ぢや、君、二階へどうぞ」
 勝手を知れる客なれば□々(づかづか)と長四畳を通りて行く跡に、妻は小声になりて、
「鰐淵(わにぶち)から参つてをりますよ」
「来たか!」
「是非お目に懸りたいと言つて、何と言つても帰りませんから、座敷へ上げて置きました、些(ちよい)とお会ひなすつて、早く還(かへ)してお了(しま)ひなさいましな」
「松茸(まつだけ)はどうした」
 妻はこの暢気(のんき)なる問に驚かされぬ。
「貴方、まあ松茸なんぞよりは早く……」
「待てよ。それからこの間の黒麦酒(くろビイル)な……」
「麦酒も松茸もございますから早くあれを還してお了ひなさいましよ。私(わたし)は那奴(あいつ)が居ると思ふと不快(いや)な心持で」
 遊佐も差当りて当惑の眉(まゆ)を顰(ひそ)めつ。二階にては例の玉戯(ビリアアド)の争(あらそひ)なるべし、さも気楽に高笑(たかわらひ)するを妻はいと心憎く。
 少間(しばし)ありて遊佐は二階に昇り来(きた)れり。
蒲「浴(ゆ)に一つ行かうよ。手拭(てぬぐひ)を貸してくれ給へな」
遊「ま、待ち給へ、今一処に行くから。時に弱つて了つた」
 実(げ)に言ふが如く彼は心穏(こころおだや)かならず見ゆるなり。
風「まあ、坐りたまへ。どうしたのかい」
遊「坐つてもをられんのだ、下に高利貸(アイス)が来てをるのだよ」
蒲「那物(えてもの)が来たのか」
遊「先から座敷で帰来(かへり)を待つてをつたのだ。困つたね!」
 彼は立ちながら頭(かしら)を抑へて緩(ゆる)く柱に倚(よ)れり。
蒲「何とか言つて逐返(おつかへ)して了ひ給へ」
遊「なかなか逐返らんのだよ。陰忍(ひねくね)した皮肉な奴でね、那奴(あいつ)に捉(つかま)つたら耐(たま)らん」
蒲「二三円も叩(たた)き付けて遣るさ」
遊「もうそれも度々(たびたび)なのでね、他(むかふ)は書替を為(さ)せやうと掛つてゐるのだから、延期料を握つたのぢや今日は帰らん」
 風早は聴ゐるだに心苦くて、
「蒲田、君一つ談判してやり給へ、ええ、何とか君の弁を揮(ふる)つて」
「これは外の談判と違つて唯金銭(かね)づくなのだから、素手(すで)で飛込むのぢや弁の奮(ふる)ひやうが無いよ。それで忽諸(まごまご)すると飛んで火に入る夏の虫となるのだから、まあ君が行つて何とか話をして見たまへ。僕は様子を立聞して、臨機応変の助太刀(すけだち)を為るから」
 いと難(むづか)しと思ひながらも、かくては果てじと、遊佐は気を取直して下り行くなりけり。
風「気の毒な、萎(しを)れてゐる。あれの事だから心配してゐるのだ。君、何とかして拯(すく)つて遣り給へな」
蒲「一つ行つて様子を見て来やう。なあに、そんなに心配するほどの事は無いのだよ。遊佐は気が小いから可(い)かない。ああ云ふ風だから益(ますま)す脚下(あしもと)を見られて好い事を為れるのだ。高が金銭(かね)の貸借(かしかり)だ、命に別条は有りはしないさ」
「命に別条は無くても、名誉に別条が有るから、紳士たるものは懼(おそ)れるだらうぢやないか」
「ところが懼れない! 紳士たるものが高利(アイス)を貸したら名誉に関らうけれど、高い利を払つて借りるのだから、安利(あんり)や無利息なんぞを借りるから見れば、夐(はるか)に以つて栄とするに足れりさ。紳士たりといへども金銭(かね)に窮(こま)らんと云ふ限は無い、窮つたから借りるのだ。借りて返さんと言ひは為(す)まいし、名誉に於て傷(きずつ)くところは少しも無い」
「恐入りました、高利(アイス)を借りやうと云ふ紳士の心掛は又別の物ですな」
「で、仮に一歩を譲るさ、譲つて、高利(アイス)を借りるなどは、紳士たるもののいとも慚(は)づべき行(おこなひ)と為るよ。さほど慚づべきならば始から借りんが可いぢやないか。既に借りた以上は仕方が無い、未(いま)だ借りざる先の慚づべき心を以つてこれに対せんとするも能(あた)はざるなりだらう。宋(そう)の時代であつたかね、何か乱が興(おこ)つた。
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