金色夜叉
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著者名:尾崎紅葉 

「その赤樫と云ふ奴は貸金の督促を利用しては女を弄(もてあそ)ぶのが道楽で、此奴(こいつ)の為に汚(けが)された者は随分意外の辺(へん)にも在るさうな。そこで今の『美人(びじ)クリイム』、これもその手に罹(かか)つたので、原(もと)は貧乏士族の娘で堅気であつたのだが、老猾(おやぢ)この娘を見ると食指大いに動いた訳で、これを俘(とりこ)にしたさに父親に少しばかりの金を貸したのだ。期限が来ても返せん、それを何とも言はずに、後から後からと三四度も貸して置いて、もう好い時分に、内に手が無くて困るから、半月ばかり仲働(なかばたらき)に貸してくれと言出した。これはよしんば奴の胸中が見え透いてゐたからとて、勢ひ辞(ことわ)りかねる人情だらう。今から六年ばかり前の事で、娘が十九の年老猾(おやぢ)は六十ばかりの禿顱(はげあたま)の事だから、まさかに色気とは想はんわね。そこで内へ引張つて来て口説いたのだ。女房といふ者は無いので、怪しげな爨妾然(たきざはりぜん)たる女を置いてをつたのが、その内にいつか娘は妾同様になつたのはどうだい!」
 固唾(かたづ)を嚥(の)みたりし荒尾は思ふところありげに打頷(うちうなづ)きて、
「女といふ者はそんなものじやて」
 甘糟はその面(おもて)を振仰ぎつつ、
「驚いたね、君にしてこの言あるのは。荒尾が女を解釈せうとは想はなんだ」
「何故かい」
 佐分利の話を進むる折から、□車(きしや)は遽(にはか)に速力を加へぬ。
佐「聞えん聞えん、もつと大きな声で」
甘「さあ、御順にお膝繰(ひざくり)だ」
佐「荒尾、あの葡萄酒(ぶどうしゆ)を抜かんか、喉(のど)が渇(かわ)いた。これからが佳境に入(い)るのだからね」
甘「中銭(なかせん)があるのは酷(ひど)い」
佐「蒲田(かまだ)、君は好い莨(たばこ)を吃(す)つてゐるぢやないか、一本頂戴(ちようだい)」
甘「いや、図に乗ること。僕は手廻(てまはり)の物を片附けやう」
佐「甘糟、□児(マッチ)を持つてゐるか」
甘「そら、お出(いで)だ。持参いたしてをりまする仕合(しあはせ)で」
 佐分利は居長高(ゐたけだか)になりて、
「些(ちよつ)と点(つ)けてくれ」
 葡萄酒の紅(くれなゐ)を啜(すす)り、ハヴァナの紫を吹きて、佐分利は徐(おもむろ)に語(ことば)を継ぐ、
「所謂(いはゆる)一朶(いちだ)の梨花海棠(りかかいどう)を圧してからに、娘の満枝は自由にされて了(しま)つた訳だ。これは無論親父には内証だつたのだが、当座は荐(しき)つて帰りたがつた娘が、後には親父の方から帰れ帰れ言つても、帰らんだらう。その内に段々様子が知れたもので、侍形気(かたぎ)の親父は非常な立腹だ。子でない、親でないと云ふ騒になつたね。すると禿(はげ)の方から、妾だから不承知なのだらう、籍を入れて本妻に直すからくれろといふ談判になつた。それで逢つて見ると娘も、阿父(おとつ)さん、どうか承知して下さいは、親父益(ますま)す意外の益す不服だ。けれども、天魔に魅入られたものと親父も愛相(あいそ)を尽(つか)して、唯(ただ)一人の娘を阿父さん彼自身より十歳(とを)ばかりも老漢(おやぢ)の高利貸にくれて了つたのだ。それから満枝は益す禿の寵(ちよう)を得て、内政を自由にするやうになつたから、定めて生家(さと)の方へ貢(みつ)ぐと思の外、極(きめ)の給(もの)の外は塵葉(ちりつぱ)一本饋(や)らん。これが又禿の御意(ぎよい)に入つたところで、女め熟(つらつ)ら高利(アイス)の塩梅(あんばい)を見てゐる内に、いつかこの商売が面白くなつて来て、この身代(しんだい)我物と考へて見ると、一人の親父よりは金銭(かね)の方が大事、といふ不敵な了簡(りようけん)が出た訳だね」
「驚くべきものじやね」
 荒尾は可忌(いまは)しげに呟(つぶや)きて、稍(やや)不快の色を動(うごか)せり。
「そこで、敏捷(びんしよう)な女には違無い、自然と高利(アイス)の呼吸を呑込んで、後には手の足りん時には禿の代理として、何処(どこ)へでも出掛けるやうになつたのは益す驚くべきものだらう。丁度一昨年辺(あたり)から禿は中気が出て未(いま)だに動けない。そいつを大小便の世話までして、女の手一つで盛(さかん)に商売をしてゐるのだ。それでその前年かに親父は死んだのださうだが、板の間に薄縁(うすべり)を一板(いちまい)敷いて、その上で往生したと云ふくらゐの始末だ。病気の出る前などはろくに寄せ付けなんださうだがな、残刻と云つても、どう云ふのだか余り気が知れんぢやないかな――然(しか)し事実だ。で、禿はその通の病人だから、今ではあの女が独(ひとり)で腕を揮(ふる)つて益す盛に遣(や)つてゐる。これ則(すなは)ち『美人(びじ)クリイム』の名ある所以(ゆゑん)さ。
 年紀(とし)かい、二十五だと聞いたが、さう、漸(やうや)う二三とよりは見えんね。あれで可愛(かはゆ)い細い声をして物柔(ものやはらか)に、口数(くちかず)が寡(すくな)くつて巧い言(こと)をいふこと、恐るべきものだよ。銀貨を見て何処の国の勲章だらうなどと言ひさうな、誠に上品な様子をしてゐて、書替(かきかへ)だの、手形に願ふのと、急所を衝(つ)く手際(てぎは)の婉曲(えんきよく)に巧妙な具合と来たら、実に魔薬でも用ゐて人の心を痿(なや)すかと思ふばかりだ。僕も三度ほど痿(なや)されたが、柔能く剛を制すで、高利貸(アイス)には美人が妙! 那彼(あいつ)に一国を預ければ輙(すなは)ちクレオパトラだね。那彼には滅されるよ」
 風早は最も興を覚えたる気色(けしき)にて、
「では、今はその禿顱(はげ)は中風(ちゆうふう)で寐(ね)たきりなのだね、一昨年(をととし)から? それでは何か虫があるだらう。有る、有る、それくらゐの女で神妙にしてゐるものか、無いと見せて有るところがクレオパトラよ。然し、壮(さかん)な女だな」
「余り壮なのは恐れる」
 佐分利は頭(かしら)を抑(おさ)へて後様(うしろさま)に靠(もた)れつつ笑ひぬ。次いで一同も笑ひぬ。
 佐分利は二年生たりしより既に高利の大火坑に堕(お)ちて、今はしも連帯一判、取交(とりま)ぜ五口(いつくち)の債務六百四十何円の呵責(かしやく)に膏(あぶら)を取(とら)るる身の上にぞありける。次いでは甘糟の四百円、大島紬氏は卒業前にして百五十円、後(ご)に又二百円、無疵(むきず)なるは風早と荒尾とのみ。
 □車は神奈川に着きぬ。彼等の物語をば笑(ゑま)しげに傍聴したりし横浜商人体(しようにんてい)の乗客は、幸(さいはひ)に無聊(ぶりよう)を慰められしを謝すらんやうに、懇(ねんごろ)に一揖(いつゆう)してここに下車せり。暫(しばら)く話の絶えける間(ひま)に荒尾は何をか打案ずる体(てい)にて、その目を空(むなし)く見据ゑつつ漫語(そぞろごと)のやうに言出(いひい)でたり。
「その後誰(たれ)も間(はざま)の事を聞かんかね」
「間貫一かい」と皺嗄声(しわかれごゑ)は問反(とひかへ)せり。
「おお、誰やらぢやつたね、高利貸(アイス)の才取(さいとり)とか、手代(てだい)とかしてをると言うたのは」
蒲「さうさう、そんな話を聞いたつけね。然し、間には高利貸(アイス)の才取は出来ない。あれは高利を貸すべく余り多くの涙を有つてゐるのだ」
 我が意を得つと謂(い)はんやうに荒尾は頷(うなづ)きて、猶(なほ)も思に沈みゐたり。佐分利と甘糟の二人はその頃一級先(さきだ)ちてありければ、間とは相識らざるなりき。
荒「高利貸(アイス)と云ふのはどうも妄(うそ)ぢやらう。全く余り多くの涙を有つてをる。惜い事をした、得難い才子ぢやつたものね。あれが今居らうなら……」
 彼は忍びやかに太息(ためいき)を泄(もら)せり。
「君達は今逢うても顔を見忘れはすまいな」
風「それは覚えてゐるとも。あれの峭然(ぴん)と外眥(めじり)の昂(あが)つた所が目標(めじるし)さ」
蒲「さうして髪(あたま)の癖毛(くせつけ)の具合がな、愛嬌(あいきよう)が有つたぢやないか。デスクの上に頬杖(ほほづゑ)を抂(つ)いて、かう下向になつて何時(いつ)でも真面目(まじめ)に講義を聴いてゐたところは、何処(どこ)かアルフレッド大王に肖(に)てゐたさ」
 荒尾は仰ぎて笑へり。
「君は毎(いつ)も妙な事を言ふ人ぢやね。アルフレッド大王とは奇想天外だ。僕の親友を古英雄に擬してくれた御礼に一盃(いつぱい)を献じやう」
蒲「成程、君は兄弟のやうにしてをつたから、始終憶(おも)ひ出すだらうな」
「僕は実際死んだ弟(おとと)よりも間の居らなくなつたのを悲む」
 愁然として彼は頭(かしら)を俛(た)れぬ。大島紬は受けたる盃(さかづき)を把(と)りながら、更に佐分利が持てる猪口(ちよく)を借りて荒尾に差しつ。
「さあ、君を慰める為に一番(ひとつ)間の健康を祝さう」
 荒尾の喜は実(げ)に溢(あふ)るるばかりなりき。
「おお、それは辱(かたじけ)ない」
 盈々(なみなみ)と酒を容(い)れたる二つの猪口は、彼等の目より高く挙げらるると斉(ひとし)く戞(かつ)と相撃(あひう)てば、紅(くれなゐ)の雫(しづく)の漏るが如く流るるを、互に引くより早く一息(ひといき)に飲乾したり。これを見たる佐分利は甘糟の膝を揺(うごか)して、
「蒲田は如才ないね。面(つら)は醜(まづ)いがあの呼吸で行くから、往々拾ひ物を為るのだ。ああ言(いは)れて見ると誰(たれ)でも些(ちよつ)と憎くないからね」
甘「遉(さすが)は交際官試補!」
佐「試補々々!」
風「試補々々立つて泣きに行く……」
荒「馬鹿な!」
 言(ことば)を改めて荒尾は言出(いひいだ)せり。
「どうも僕は不思議でならんが、停車場(ステエション)で間を見たよ。間に違無いのじや」
 唯(ただ)の今(いま)陰ながらその健康を祷(いの)りし蒲田は拍子を抜して彼の面(おもて)を眺(なが)めたり。
「ふう、それは不思議。他(むかふ)は気が着かなんだかい」
「始は待合所の入口(いりくち)の所で些(ちよつ)と顔が見えたのじや。余り意外ぢやつたから、僕は思はず長椅子(ソオフワア)を起つと、もう見えなくなつた。それから有間(しばらく)して又偶然(ふつと)見ると、又見えたのじや」
甘「探偵小説だ」
荒「その時も起ちかけると又見えなくなつて、それから切符を切つて歩場(プラットフォーム)へ入るまで見えなかつたのじやが、入つて少し来てから、どうも気になるから振返つて見ると、傍(そば)の柱に僕を見て黒い帽を揮(ふ)つとる者がある、それは間よ。帽を揮つとつたから間に違無いぢやないか」
 横浜! 横浜! と或(あるひ)は急に、或は緩(ゆる)く叫ぶ声の窓の外面(そとも)を飛過(とびすぐ)るとともに、響は雑然として起り、迸(ほとばし)り出(い)づる、群集(くんじゆ)は玩具箱(おもちやばこ)を覆(かへ)したる如く、場内の彼方(かなた)より轟(とどろ)く鐸(ベル)の音(ね)はこの響と混雑との中を貫きて奔注せり。

☆昨七日(さくなぬか)イ便の葉書にて(飯田町(いいだまち)局消印)美人クリイムの語にフエアクリイム或(あるひ)はベルクリイムの傍訓有度(ぼうくんありたく)との言(げん)を貽(おく)られし読者あり。ここにその好意を謝するとともに、聊(いささ)か弁ずるところあらむとす。おのれも始め美人の英語を用ゐむと思ひしかど、かかる造語は憖(なまじひ)に理詰ならむよりは、出まかせの可笑(をかし)き響あらむこそ可(よ)かめれとバイスクリイムとも思着(おもひつ)きしなり。意(こころ)は美アイスクリイムなるを、ビ、アイ――バイの格にて試みしが、さては説明を要すべき炊冗(くだくだ)しさを嫌(きら)ひて、更に美人の二字にびじ訓を付せしを、校合者(きようごうしや)の思僻(おもひひが)めてん字(じ)は添へたるなり。陋(いや)しげなるびじクリイムの響の中(うち)には嘲弄(とうろう)の意(こころ)も籠(こも)らむとてなり。なほ高諭(こうゆ)を請(こ)ふ(三〇・九・八附読売新聞より)

     第二章

 柵(さく)の柱の下(もと)に在りて帽を揮(ふ)りたりしは、荒尾が言(ことば)の如く、四年の生死(しようし)を詳悉(つまびらか)にせざりし間貫一にぞありける。彼は親友の前に自(みづから)の影を晦(くらま)し、その消息をさへ知らせざりしかど、陰ながら荒尾が動静の概略(あらまし)を伺ふことを怠らざりき、こ回(たび)その参事官たる事も、午後四時発の列車にて赴任する事をも知るを得しかば、余所(よそ)ながら暇乞(いとまごひ)もし、二つには栄誉の錦(にしき)を飾れる姿をも見んと思ひて、群集(くんじゆ)に紛れてここには来(きた)りしなりけり。
 何(なに)の故(ゆゑ)に間は四年の音信(おとづれ)を絶ち、又何の故にさしも懐(おもひ)に忘れざる旧友と相見て別(べつ)を為さざりしか。彼が今の身の上を知らば、この疑問は自(おのづか)ら解釈せらるべし。
 柵の外に立ちて列車の行くを送りしは独(ひと)り間貫一のみにあらず、そこもとに聚(つど)ひし老若貴賤(ろうにやくきせん)の男女(なんによ)は皆個々の心をもて、愁ふるもの、楽むもの、虞(きづか)ふもの、或は何とも感ぜぬものなど、品変れども目的は一(いつ)なり。数分時の混雑の後車の出(い)づるとともに、一人散り、二人散りて、彼の如く久(ひさし)う立尽せるはあらざりき。やがて重き物など引くらんやうに彼の漸(やうや)く踵(きびす)を旋(めぐら)せし時には、推重(おしかさな)るまでに柵際(さくぎは)に聚(つど)ひし衆(ひと)は殆(ほとん)ど散果てて、駅夫の三四人が箒(はうき)を執りて場内を掃除せるのみ。
 貫一は差含(さしぐま)るる涙を払ひて、独り後(おく)れたるを驚きけん、遽(にはか)に急ぎて、蓬莱橋口(ほうらいばしぐち)より出(い)でんと、あだかも石段際に寄るところを、誰(たれ)とも知らで中等待合の内より声を懸けぬ。
「間さん!」
 慌(あわ)てて彼の見向く途端に、
「些(ちよつ)と」と戸口より半身を示して、黄金(きん)の腕環の気爽(けざやか)に耀(かがや)ける手なる絹ハンカチイフに唇辺(くちもと)を掩(おほ)いて束髪の婦人の小腰を屈(かが)むるに会へり。艶(えん)なる面(おもて)に得も謂(い)はれず愛らしき笑(ゑみ)をさへ浮べたり。
「や、赤樫(あかがし)さん!」
 婦人の笑(ゑみ)もて迎ふるには似ず、貫一は冷然として眉(まゆ)だに動かさず。
「好(よ)い所でお目に懸りましたこと。急にお話を致したい事が出来ましたので、まあ、些(ちよつ)と此方(こち)へ」
 婦人は内に入れば、貫一も渋々跟(つ)いて入るに、長椅子(ソオフワア)に掛(かく)れば、止む無くその側(そば)に座を占めたり。
「実はあの保険建築会社の小車梅(おぐるめ)の件なのでございますがね」
 彼は黒樗文絹(くろちよろけん)の帯の間を捜(さぐ)りて金側時計を取出(とりいだ)し、手早く収めつつ、
「貴方(あなた)どうせ御飯前でゐらつしやいませう。ここでは、御話も出来ませんですから、何方(どちら)へかお供を致しませう」
 紫紺塩瀬(しほぜ)に消金(けしきん)の口金(くちがね)打ちたる手鞄(てかばん)を取直して、婦人はやをら起上(たちあが)りつ。迷惑は貫一が面(おもて)に顕(あらは)れたり。
「何方(どちら)へ?」
「何方(どちら)でも、私には解りませんですから貴方(あなた)のお宜(よろし)い所へ」
「私にも解りませんな」
「あら、そんな事を仰有(おつしや)らずに、私は何方でも宜(よろし)いのでございます」
 荒布革(あらめがは)の横長なる手鞄(てかばん)を膝の上に掻抱(かきいだ)きつつ貫一の思案せるは、その宜き方(かた)を択ぶにあらで、倶(とも)に行くをば躊躇(ちゆうちよ)せるなり。
「まあ、何にしても出ませう」
「さやう」
 貫一も今は是非無く婦人に従ひて待合所の出会頭(であひがしら)に、入来(いりく)る者ありて、その足尖(つまさき)を挫(ひし)げよと踏付けられぬ。驚き見れば長高(たけたか)き老紳士の目尻も異(あやし)く、満枝の色香(いろか)に惑ひて、これは失敬、意外の麁相(そそう)をせるなりけり。彼は猶懲(なほこ)りずまにこの目覚(めざまし)き美形(びけい)の同伴をさへ暫(しばら)く目送(もくそう)せり。
 二人は停車場(ステエション)を出でて、指す方(かた)も無く新橋に向へり。
「本当に、貴方、何方へ参りませう」
「私は、何方でも」
「貴方、何時までもそんな事を言つてゐらしつてはきりがございませんから、好い加減に極(き)めやうでは御坐いませんか」
「さやう」
 満枝は彼の心進まざるを暁(さと)れども、勉(つと)めて吾意(わがい)に従はしめんと念(おも)へば、さばかりの無遇(ぶあしらひ)をも甘んじて、
「それでは、貴方、鰻□(うなぎ)は上(あが)りますか」
「鰻□? 遣りますよ」
「鶏肉(とり)と何方が宜(よろし)うございます」
「何方でも」
「余り御挨拶(ごあいさつ)ですね」
「何為(なぜ)ですか」
 この時貫一は始めて満枝の面(おもて)に眼(まなこ)を移せり。百(もも)の媚(こび)を含みて□(みむか)へし彼の眸(まなじり)は、未(いま)だ言はずして既にその言はんとせる半(なかば)をば語尽(かたりつく)したるべし。彼の為人(ひととなり)を知りて畜生と疎(うと)める貫一も、さすがに艶なりと思ふ心を制し得ざりき。満枝は貝の如き前歯と隣れる金歯とを露(あらは)して片笑(かたゑ)みつつ、
「まあ、何為(なぜ)でも宜うございますから、それでは鶏肉(とり)に致しませうか」
「それも可(い)いでせう」
 三十間堀(さんじつけんぼり)に出でて、二町ばかり来たる角(かど)を西に折れて、唯(と)有る露地口に清らなる門構(かどがまへ)して、光沢消硝子(つやけしガラス)の軒燈籠(のきとうろう)に鳥と標(しる)したる方(かた)に、人目にはさぞ解(わけ)あるらしう二人は連立ちて入りぬ。いと奥まりて、在りとも覚えぬ辺(あたり)に六畳の隠座敷の板道伝(わたりづたひ)に離れたる一間に案内されしも宜(うべ)なり。
 懼(おそ)れたるにもあらず、困(こう)じたるにもあらねど、又全くさにあらざるにもあらざらん気色(けしき)にて貫一の容(かたち)さへ可慎(つつま)しげに黙して控へたるは、かかる所にこの人と共にとは思懸(おもひか)けざる為体(ていたらく)を、さすがに胸の安からぬなるべし。通し物は逸早(いちはや)く満枝が好きに計ひて、少頃(しばし)は言(ことば)無き二人が中に置れたる莨盆(たばこぼん)は子細らしう一□(ちゆう)の百和香(ひやつかこう)を燻(くゆ)らせぬ。
「間さん、貴方どうぞお楽に」
「はい、これが勝手で」
「まあ、そんな事を有仰(おつしや)らずに、よう、どうぞ」
「内に居つても私はこの通なのですから」
「嘘(うそ)を有仰(おつしや)いまし」
 かくても貫一は膝(ひざ)を崩(くづ)さで、巻莨入(まきたばこいれ)を取出(とりいだ)せしが、生憎(あやにく)一本の莨もあらざりければ、手を鳴さんとするを、満枝は先(さきん)じて、
「お間に合せにこれを召上りましな」
 麻蝦夷(あさえぞ)の御主殿持(ごしゆでんもち)とともに薦(すす)むる筒の端(はし)より焼金(やききん)の吸口は仄(ほのか)に耀(かがや)けり。歯は黄金(きん)、帯留は黄金(きん)、指環は黄金(きん)、腕環は黄金(きん)、時計は黄金(きん)、今又煙管(きせる)は黄金(きん)にあらずや。黄金(きん)なる哉(かな)、金(きん)、金(きん)! 知る可(べ)し、その心も金(きん)! と貫一は独(ひと)り可笑(をか)しさに堪(た)へざりき。
「いや、私は日本莨は一向可(い)かんので」
 言ひも訖(をは)らぬ顔を満枝は熟(じつ)と視(み)て、
「決(け)して穢(きたな)いのでは御坐いませんけれど、つい心着(こころつ)きませんでした」
 懐紙(ふところがみ)を出(いだ)してわざとらしくその吸口を捩拭(ねぢぬぐ)へば、貫一も少(すこし)く慌(あわ)てて、
「決(け)してさう云ふ訳ぢやありません、私は日本莨は用ゐんのですから」
 満枝は再び彼の顔を眺めつ。
「貴方、嘘をお吐(つ)きなさるなら、もう少し物覚(ものおぼえ)を善く遊ばせよ」
「はあ?」
「先日鰐淵(わにぶち)さんへ上つた節、貴方召上つてゐらしつたではございませんか」
「はあ?」
「瓢箪(ひようたん)のやうな恰好(かつこう)のお煙管で、さうして羅宇(らう)の本(もと)に些(ちよつ)と紙の巻いてございました」
「あ!」と叫びし口は頓(とみ)に塞(ふさ)がざりき。満枝は仇無(あどな)げに口を掩(おほ)ひて笑へり。この罰として貫一は直(ただち)に三服の吸付莨を強(し)ひられぬ。
 とかくする間(ま)に盃盤(はいばん)は陳(つら)ねられたれど、満枝も貫一も三盃(ばい)を過し得ぬ下戸(げこ)なり。女は清めし猪口(ちよく)を出(いだ)して、
「貴方、お一盞(ひとつ)」
「可かんのです」
「又そんな事を」
「今度は実際」
「それでは麦酒(ビール)に致しませうか」
「いや、酒は和洋とも可かんのですから、どうぞ御随意に」
 酒には礼ありて、おのれ辞せんとならば、必ず他に侑(すす)めて酌せんとこそあるべきに、甚(はなはだし)い哉、彼の手を束(つか)ねて、御随意にと会釈せるや、満枝は心憎しとよりはなかなかに可笑しと思へり。
「私も一向不調法なのでございますよ。折角差上げたものですからお一盞(ひとつ)お受け下さいましな」
 貫一は止む無くその一盞(ひとつ)を受けたり。はやかく酒になりけれども、満枝が至急と言ひし用談に及ばざれば、
「時に小車梅(おぐるめ)の件と云ふのはどんな事が起りましたな」
「もうお一盞召上れ、それからお話を致しますから。まあ、お見事! もうお一盞」
 彼は忽(たちま)ち眉(まゆ)を攅(あつ)めて、
「いやそんなに」
「それでは私が戴(いただ)きませう、恐入りますがお酌を」
「で、小車梅の件は?」
「その件の外(ほか)に未だお話があるのでございます」
「大相有りますな」
「酔はないと申上げ難(にく)い事なのですから、私少々酔ひますから貴方、憚様(はばかりさま)ですが、もう一つお酌を」
「酔つちや困ります。用事は酔はん内にお話し下さい」
「今晩は私酔ふ意(つもり)なのでございますもの」
 その媚(こび)ある目の辺(ほとり)は漸(やうや)く花桜の色に染みて、心楽しげに稍(やや)身を寛(ゆるやか)に取成したる風情(ふぜい)は、実(げ)に匂(にほひ)など零(こぼ)れぬべく、熱しとて紺の絹精縷(きぬセル)の被風(ひふ)を脱げば、羽織は無くて、粲然(ぱつ)としたる紋御召の袷(あはせ)に黒樗文絹(くろちよろけん)の全帯(まるおび)、華麗(はなやか)に紅(べに)の入りたる友禅の帯揚(おびあげ)して、鬢(びん)の後(おく)れの被(かか)る耳際(みみぎは)を掻上(かきあ)ぐる左の手首には、早蕨(さわらび)を二筋(ふたすぢ)寄せて蝶(ちよう)の宿れる形(かた)したる例の腕環の爽(さはやか)に晃(きらめ)き遍(わた)りぬ。常に可忌(いまは)しと思へる物をかく明々地(あからさま)に見せつけられたる貫一は、得堪(えた)ふまじく苦(にが)りたる眉状(まゆつき)して密(ひそか)に目を□(そら)しつ。彼は女の貴族的に装(よそほ)へるに反して、黒紬(くろつむぎ)の紋付の羽織に藍千筋(あゐせんすぢ)の秩父銘撰(ちちぶめいせん)の袷着て、白縮緬(しろちりめん)の兵児帯(へこおび)も新(あたらし)からず。
 彼を識(し)れりし者は定めて見咎(みとが)むべし、彼の面影(おもかげ)は尠(すくな)からず変りぬ。愛らしかりしところは皆失(う)せて、四年(よとせ)に余る悲酸と憂苦と相結びて常に解けざる色は、自(おのづか)ら暗き陰を成してその面(おもて)を蔽(おほ)へり。撓(たゆ)むとも折るべからざる堅忍の気は、沈鬱せる顔色(がんしよく)の表に動けども、嘗(かつ)て宮を見しやうの優き光は再びその眼(まなこ)に輝かずなりぬ。見ることの冷(ひややか)に、言ふことの謹(つつし)めるは、彼が近来の特質にして、人はこれが為に狎(な)るるを憚(はばか)れば、自(みづから)もまた苟(いやしく)も親みを求めざるほどに、同業者は誰(たれ)も誰も偏人として彼を遠(とほざ)けぬ。焉(いづく)んぞ知らん、貫一が心には、さしもの恋を失ひし身のいかで狂人たらざりしかを怪(あやし)むなりけり。
 彼は色を正して、満枝が独り興に乗じて盃(さかづき)を重ぬる体(てい)を打目戍(うちまも)れり。
「もう一盞(ひとつ)戴きませうか」
 笑(ゑみ)を漾(ただ)ふる眸(まなじり)は微醺(びくん)に彩られて、更に別様の媚(こび)を加へぬ。
「もう止したが可いでせう」
「貴方(あなた)が止せと仰有(おつしや)るなら私は止します」
「敢(あへ)て止せとは言ひません」
「それぢや私酔ひますよ」
 答無かりければ、満枝は手酌(てじやく)してその半(なかば)を傾けしが、見る見る頬の麗く紅(くれなゐ)になれるを、彼は手もて掩(おほ)ひつつ、
「ああ、酔ひましたこと」
 貫一は聞かざる為(まね)して莨を燻(くゆ)らしゐたり。
「間さん、……」
「何ですか」
「私今晩は是非お話し申したいことがあるので御坐いますが、貴方お聴き下さいますか」
「それをお聞き申す為に御同道したのぢやありませんか」
 満枝は嘲(あざけら)むが如く微笑(ほほゑ)みて、
「私何だか酔つてをりますから、或は失礼なことを申上げるかも知れませんけれど、お気に障(さ)へては困りますの。然(しか)し、御酒(ごしゆ)の上で申すのではございませんから、どうぞそのお意(つもり)で、宜(よろし)うございますか」
「撞着(どうちやく)してゐるぢやありませんか」
「まあそんなに有仰(おつしや)らずに、高(たか)が女の申すことでございますから」
 こは事難(ことむづかし)うなりぬべし。克(かな)はぬまでも多少は累を免れんと、貫一は手を拱(こまぬ)きつつ俯目(ふしめ)になりて、力(つと)めて関(かかは)らざらんやうに持成(もてな)すを、満枝は擦寄(すりよ)りて、
「これお一盞(ひとつ)で後は決(け)してお強ひ申しませんですから、これだけお受けなすつて下さいましな」
 貫一は些(さ)の言(ことば)も出(いだ)さでその猪口(ちよく)を受けつ。
「これで私の願は届きましたの」
「易(やす)い願ですな」と、あはや出(い)でんとせし唇(くちびる)を結びて、貫一は纔(わづか)に苦笑して止みぬ。
「間さん」
「はい」
「貴方失礼ながら、何でございますか、鰐淵さんの方に未(ま)だお長くゐらつしやるお意(つもり)なのですか。然し、いづれ独立あそばすので御坐いませう」
「勿論(もちろん)です」
「さうして、まづ何頃(いつごろ)彼方(あちら)と別にお成りあそばすお見込なのでございますの」
「資本のやうなものが少しでも出来たらと思つてゐます」
 満枝は忽(たちま)ち声を斂(をさ)めて、物思はしげに差俯(さしうつむ)き、莨盆の縁(ふち)をば弄(もてあそ)べるやうに煙管(きせる)もて刻(きざみ)を打ちてゐたり。折しも電燈の光の遽(にはか)に晦(くら)むに驚きて顔を挙(あぐ)れば、又旧(もと)の如く一間(ひとま)は明(あかる)うなりぬ。彼は煙管を捨てて猶暫(なほしば)し打案じたりしが、
「こんな事を申上げては甚(はなは)だ失礼なのでございますけれど、何時まで彼方(あちら)にゐらつしやるよりは、早く独立あそばした方が宜(よろし)いでは御坐いませんか。もし明日にもさうと云ふ御考でゐらつしやるならば、私……こんな事を申しては……烏滸(をこ)がましいので御坐いますが、大した事は出来ませんけれど、都合の出来るだけは御用達申して上げたいのでございますが、さう遊ばしませんか」
 意外に打れたる貫一は箸(はし)を扣(ひか)へて女の顔を屹(き)と視(み)たり。
「さう遊ばせよ」
「それはどう云ふ訳ですか」
 実に貫一は答に窮せるなりき。
「訳ですか?」と満枝は口籠(くちごも)りたりしが、
「別に申上げなくてもお察し下さいましな。私だつて何時までも赤樫(あかがし)に居たいことは無いぢやございませんか。さう云ふ訳なのでございます」
「全然(さつぱり)解らんですな」
「貴方、可うございますよ」
 可恨(うらめ)しげに満枝は言(ことば)を絶ちて、横膝(よこひざ)に莨を拈(ひね)りゐたり。
「失礼ですけれど、私はお先へ御飯を戴きます」
 貫一が飯桶(めしつぎ)を引寄せんとするを、はたと抑(おさ)へて、
「お給仕なれば私致します」
「それは憚様(はばかりさま)です」
 満枝は飯桶を我が側に取寄せしが、茶椀(ちやわん)をそれに伏せて、彼方(あなた)の壁際(かべぎは)に推遣(おしや)りたり。
「未だお早うございますよ。もうお一盞召上れ」
「もう頭が痛くて克(かな)はんですから赦(ゆる)して下さい。腹が空いてゐるのですから」
「お餒(ひもじ)いところを御飯を上げませんでは、さぞお辛(つら)うございませう」
「知れた事ですわ」
「さうでございませう。それなら、此方(こちら)で思つてゐることが全(まる)で先方(さき)へ通らなかつたら、餒いのに御飯を食べないのよりか夐(はるか)に辛うございますよ。そんなにお餒じければ御飯をお附け申しますから、貴方も只今の御返事をなすつて下さいましな」
「返事と言はれたつて、有仰(おつしや)ることの主意が能(よ)く解らんのですもの」
「何故(なぜ)お了解(わかり)になりませんの」
 責むるが如く男の顔を見遣れば、彼もまた詰(なじ)るが如く見返しつ。
「解らんぢやありませんか。親い御交際の間でもない私に資本を出して下さる。さうしてその訳はと云へば、貴方も彼処(あすこ)を出る。解らんぢやありませんか。どうか飯を下さいな」
「解らないとは、貴方、お酷いぢやございませんか。ではお気に召さないのでございますか」
「気に入らんと云ふ事は有りませんが、縁も無い貴方に金を出して戴く……」
「あれ、その事ではございませんてば」
「どうも非常に腹が空(す)いて来ました」
「それとも貴方外(ほか)にお約束でも遊ばした御方がお在(あん)なさるのでございますか」
 彼終(つひ)に鋒鋩(ほうぼう)を露(あらは)し来(きた)れるよと思へば、貫一は猶(なほ)解せざる体(てい)を作(な)して、
「妙な事を聞きますね」
 と苦笑せしのみにて続く言(ことば)もあらざるに、満枝は図を外(はづ)されて、やや心惑へるなりけり。
「さう云ふやうなお方がお在(あん)なさらなければ、……私貴方にお願があるのでございます」
 貫一も今は屹(きつ)と胸を据ゑて、
「うむ、解りました」
「ああ、お了解(わかり)になりまして□」
 嬉しと心を言へらんやうの気色(けしき)にて、彼の猪口(ちよく)に余(あま)せし酒を一息(ひといき)に飲乾(のみほ)して、その盃をつと貫一に差せり。
「又ですか」
「是非!」
 発(はずみ)に乗せられて貫一は思はず受(うく)ると斉(ひとし)く盈々(なみなみ)注(そそが)れて、下にも置れず一口附くるを見たる満枝が歓喜(よろこび)!
「その盃は清めてございませんよ」
 一々底意ありて忽諸(ゆるがせ)にすべからざる女の言を、彼はいと可煩(わづらはし)くて持余(もてあま)せるなり。
「お了解(わかり)になりましたら、どうぞ御返事を」
「その事なら、どうぞこれぎりにして下さい」
 僅(わづか)にかく言ひ放ちて貫一は厳(おごそ)かに沈黙しつ。満枝もさすがに酔(ゑひ)を冷(さま)して、彼の気色(けしき)を候(うかが)ひたりしに、例の言寡(ことばすくな)なる男の次いでは言はざれば、
「私もこんな可耻(はづかし)い事を、一旦申上げたからには、このままでは済されません」
 貫一は緩(ゆるや)かに頷(うなづ)けり。
「女の口からかう云ふ事を言出しますのは能々(よくよく)の事でございますから、それに対するだけの理由を有仰(おつしや)つて、どうぞ十分に私が得心の参るやうにお話し下さいましな、私座興でこんな事を申したのではございませんから」
「御尤(ごもつとも)です。私のやうな者でもそんなに言つて下さると思へば、決して嬉くない事はありません。ですから、その御深切に対して裹(つつ)まず自分の考量(かんがへ)をお話し申します。けれど、私は御承知の偏屈者でありますから、衆(ひと)とは大きに考量が違つてをります。
 第一、私は一生妻(さい)といふ者は決(け)して持たん覚悟なので。御承知か知りませんが、元、私は書生でありました。それが中途から学問を罷(や)めて、この商売を始めたのは、放蕩(ほうとう)で遣損(やりそこな)つたのでもなければ、敢(あへ)て食窮(くひつ)めた訳でも有りませんので。書生が可厭(いや)さに商売を遣らうと云ふのなら、未だ外(ほか)に幾多(いくら)も好い商売は有りますさ、何を苦んでこんな極悪非道な、白日(はくじつ)盗(とう)を為(な)すと謂(い)はうか、病人の喉口(のどくち)を干(ほ)すと謂(い)はうか、命よりは大事な人の名誉を殺して、その金銭を奪取る高利貸などを択(えら)むものですか」
 聴居る満枝は益(ますま)す酔(ゑひ)を冷されぬ。
「不正な家業と謂ふよりは、もう悪事ですな。それを私が今日(こんにち)始めて知つたのではない、知つて身を堕(おと)したのは、私は当時敵手(さき)を殺して自分も死にたかつたくらゐ無念極(きはま)る失望をした事があつたからです。その失望と云ふのは、私が人を頼(たのみ)にしてをつた事があつて、その人達も頼れなければならん義理合になつてをつたのを、不図した慾に誘れて、約束は違へる、義理は捨てる、さうして私は見事に売られたのです」
 火影(ひかげ)を避けんとしたる彼の目の中に遽(にはか)に耀(かがや)けるは、なほ新(あらた)なる痛恨の涙の浮べるなり。
「実に頼少(たのみすくな)い世の中で、その義理も人情も忘れて、罪も無い私の売られたのも、原(もと)はと云へば、金銭(かね)からです。仮初(かりそめ)にも一匹(いつぴき)の男子たる者が、金銭(かね)の為に見易(みか)へられたかと思へば、その無念といふものは、私は一(い)……一生忘れられんです。
 軽薄でなければ詐(いつはり)、詐でなければ利慾、愛相(あいそ)の尽きた世の中です。それほど可厭(いや)な世の中なら、何為(なぜ)一思(ひとおもひ)に死んで了はんか、と或は御不審かも知れん。私は死にたいにも、その無念が障(さはり)になつて死切れんのです。売られた人達を苦めるやうなそんな復讐(ふくしゆう)などは為たくはありません、唯自分だけで可いから、一旦受けた恨! それだけは屹(きつ)と霽(はら)さなければ措(お)かん精神。片時でもその恨を忘れることの出来ん胸中といふものは、我ながらさう思ひますが、全(まる)で発狂してゐるやうですな。それで、高利貸のやうな残刻の甚(はなはだし)い、殆(ほとん)ど人を殺す程の度胸を要する事を毎日扱つて、さうして感情を暴(あら)してゐなければとても堪へられんので、発狂者には適当の商売です。そこで、金銭(かね)ゆゑに売られもすれば、辱(はづかし)められもした、金銭の無いのも謂はば無念の一つです。その金銭が有つたら何とでも恨が霽されやうか、とそれを楽(たのしみ)に義理も人情も捨てて掛つて、今では名誉も色恋も無く、金銭より外には何の望(のぞみ)も持たんのです。又考へて見ると、憖(なまじ)ひ人などを信じるよりは金銭を信じた方が間違が無い。人間よりは金銭の方が夐(はる)か頼(たのみ)になりますよ。頼にならんのは人の心です!
 先(まづ)かう云ふ考でこの商売に入つたのでありますから、実を申せば、貴方の貸して遣らうと有仰(おつしや)る資本は欲いが、人間の貴方には用が無いのです」
 彼は仰ぎて高笑(たかわらひ)しつつも、その面(おもて)は痛く激したり。
 満枝は、彼の言(ことば)の決して譌(いつはり)ならざるべきを信じたり。彼の偏屈なる、実(げ)にさるべき所見(かんがへ)を懐けるも怪むには足らずと思へるなり。されども、彼は未だ恋の甘きを知らざるが故(ゆゑ)に、心狭くもこの面白き世に偏屈の扉(とびら)を閉ぢて、詐(いつはり)と軽薄と利欲との外なる楽あるを暁(さと)らざるならん。やがて我そを教へんと、満枝は輙(たやす)く望を失はざるなりき。
「では何でございますか、私の心もやはり頼にならないとお疑ひ遊ばすのでございますか」
「疑ふ、疑はんと云ふのは二の次で、私はその失望以来この世の中が嫌(きらひ)で、総(すべ)ての人間を好まんのですから」
「それでは誠も誠も――命懸けて貴方を思ふ者がございましても?」
「勿論! 別して惚(ほ)れたの、思ふのと云ふ事は大嫌です」
「あの、命を懸けて慕つてゐるといふのがお了解(わかり)になりましても」
「高利貸の目には涙は無いですよ」
 今は取付く島も無くて、満枝は暫(しば)し惘然(ぼうぜん)としてゐたり。
「どうぞ御飯を頂戴」
 打萎(うちしを)れつつ満枝は飯(めし)を盛りて出(いだ)せり。
「これは恐入ります」
 彼は啖(くら)ふこと傍(かたはら)に人無き若(ごと)し。満枝の面(おもて)は薄紅(うすくれなゐ)になほ酔(ゑひ)は有りながら、酔(よ)へる体(てい)も無くて、唯打案じたり。
「貴方も上りませんか」
 かく会釈して貫一は三盃目(さんばいめ)を易(か)へつ。やや有りて、
「間さん」と、呼れし時、彼は満口に飯を啣(ふく)みて遽(にはか)に応(こた)ふる能(あた)はず、唯目を挙(あ)げて女の顔を見たるのみ。
「私もこんな事を口に出しますまでには、もしや貴方が御承知の無い時には、とそれ等を考へまして、もう多時(しばらく)胸に畳んでをつたのでございます。それまで大事を取つてをりながら、かう一も二も無く奇麗にお謝絶(ことわり)を受けては、私実に面目(めんぼく)無くて……余(あんま)り悔(くやし)うございますわ」
 慌忙(あわただし)くハンカチイフを取りて、片手に恨泣(うらみなき)の目元を掩(おほ)へり。
「面目無くて私、この座が起(たた)れません。間さん、お察し下さいまし」
 貫一は冷々(ひややか)に見返りて、
「貴方一人を嫌つたと云ふ訳なら、さうかも知れませんけれど、私は総(すべ)ての人間が嫌なのですから、どうぞ悪(あし)からず思つて下さい。貴方も御飯をお上んなさいな。おお! さうして小車梅(おぐるめ)の件に就いてのお話は?」
 泣赤(なきあか)めたる目を拭(ぬぐ)ひて満枝は答へず。
「どう云ふお話ですか」
「そんな事はどうでも宜(よろし)うございます。間さん、私、どうしても思切れませんから、さう思召(おぼしめ)して下さい。で、お可厭(いや)ならお可厭で宜うございますから、私がこんなに思つてゐることを、どうぞ何日(いつ)までもお忘れなく……きつと覚えてゐらつしやいましよ」
「承知しました」
「もつと優(やさし)い言(ことば)をお聞せ下さいましな」
「私も覚えてゐます」
「もつと何とか有仰(おつしや)りやうが有りさうなものではございませんか」
「御志は決(け)して忘れません。これなら宜いでせう」
 満枝は物をも言はずつと起ちしが、飜然(ひらり)と貫一の身近に寄添ひて、
「お忘れあそばすな」と言ふさへに力籠(ちからこも)りて、その太股(ふともも)を絶(したた)か撮(つめ)れば、貫一は不意の痛に覆(くつがへ)らんとするを支へつつ横様(よこさま)に振払ふを、満枝は早くも身を開きて、知らず顔に手を打鳴して婢(をんな)を呼ぶなりけり。

     第三章

 赤坂氷川(あかさかひかわ)の辺(ほとり)に写真の御前(ごぜん)と言へば知らぬ者無く、実(げ)にこの殿の出(い)づるに写真機械を車に積みて随(したが)へざることあらざれば、自(おのづか)ら人目を□(のが)れず、かかる異名(いみよう)は呼るるにぞありける。子細(しさい)を明めずしては、「将棊(しようぎ)の殿様」の流かとも想はるべし。あらず! 才の敏、学の博、貴族院の椅子を占めて優に高かるべき器(うつは)を抱(いだ)きながら、五年を独逸(ドイツ)に薫染せし学者風を喜び、世事を抛(なげう)ちて愚なるが如く、累代の富を控へて、無勘定の雅量を肆(ほしいまま)にすれども、なほ歳(とし)の入るものを計るに正(まさ)に出づるに五倍すてふ、子爵中有数の内福と聞えたる田鶴見良春(たづみよしはる)その人なり。
 氷川なる邸内には、唐破風造(からはふづくり)の昔を摸(うつ)せる館(たち)と相並びて、帰朝後起せし三層の煉瓦造(れんがづくり)の異(あやし)きまで目慣れぬ式なるは、この殿の数寄(すき)にて、独逸に名ある古城の面影(おもかげ)を偲(しの)びてここに象(かたど)れるなりとぞ。これを文庫と書斎と客間とに充(あ)てて、万足(よろづた)らざる無き閑日月(かんじつげつ)をば、書に耽(ふけ)り、画に楽(たのし)み、彫刻を愛し、音楽に嘯(うそぶ)き、近き頃よりは専(もつぱ)ら写真に遊びて、齢(よはひ)三十四に□(およ)べども頑(がん)として未(いま)だ娶(めと)らず。その居るや、行くや、出づるや、入るや、常に飄然(ひようぜん)として、絶えて貴族的容儀を修めざれど、自(おのづか)らなる七万石の品格は、面白(おもてしろ)う眉秀(まゆひい)でて、鼻高く、眼爽(まなこさはやか)に、形(かたち)の清(きよら)に揚(あが)れるは、皎(こう)として玉樹(ぎよくじゆ)の風前に臨めるとも謂(い)ふべくや、御代々(ごだいだい)御美男にわたらせらるるとは常に藩士の誇るところなり。
 かかれば良縁の空(むなし)からざること、蝶(ちよう)を捉(とら)へんとする蜘蛛(くも)の糸より繁(しげ)しといへども、反顧(かへりみ)だに為(せ)ずして、例の飄然忍びては酔(ゑひ)の紛れの逸早(いつはや)き風流(みやび)に慰み、内には無妻主義を主張して、人の諌(いさめ)などふつに用ゐざるなりけり。さるは、かの地に留学の日、陸軍中佐なる人の娘と相愛(あひあい)して、末の契も堅く、月下の小舟(をぶね)に比翼の櫂(かひ)を操(あやつ)り、スプレイの流を指(ゆびさ)して、この水の終(つひ)に涸(か)るる日はあらんとも、我が恋の□(ほのほ)の消ゆる時あらせじ、と互の誓詞(せいし)に詐(いつはり)はあらざりけるを、帰りて母君に請(こ)ふことありしに、いと太(いた)う驚かれて、こは由々(ゆゆ)しき家の大事ぞや。夷狄(いてき)は□□よりも賤(いやし)むべきに、畏(かしこ)くも我が田鶴見の家をばなでう禽獣(きんじゆう)の檻(おり)と為すべき。あな、可疎(うとま)しの吾子(あこ)が心やと、涙と共に掻口説(かきくど)きて、悲(かなし)び歎きの余は病にさへ伏したまへりしかば、殿も所為無(せんな)くて、心苦う思ひつつも、猶(なほ)行末をこそ頼めと文の便(たより)を度々(たびたび)に慰めて、彼方(あなた)も在るにあられぬ三年(みとせ)の月日を、憂(う)きは死ななんと味気(あぢき)なく過せしに、一昨年(をととし)の秋物思ふ積りやありけん、心自から弱りて、存(ながら)へかねし身の苦悩(くるしみ)を、御神(みかみ)の恵(めぐみ)に助けられて、導かれし天国の杳(よう)として原(たづ)ぬべからざるを、いとど可懐(なつか)しの殿の胸は破れぬべく、ほとほと知覚の半をも失ひて、世と絶つの念益(ますま)す深く、今は無尽の富も世襲の貴きも何にかはせんと、唯懐(ただおもひ)を亡(な)き人に寄せて、形見こそ仇(あだ)ならず書斎の壁に掛けたる半身像は、彼女(かのをんな)が十九の春の色を苦(ねんごろ)に手写(しゆしや)して、嘗(かつ)て貽(おく)りしものなりけり。
 殿はこの失望の極放肆(ほうし)遊惰の裏(うち)に聊(いささ)か懐(おもひ)を遣(や)り、一具の写真機に千金を擲(なげう)ちて、これに嬉戯すること少児(しように)の如く、身をも家をも外(ほか)にして、遊ぶと費すとに余念は無かりけれど、家令に畔柳元衛(くろやなぎもとえ)ありて、その人迂(う)ならず、善く財を理し、事を計るに由りて、かかる疎放の殿を戴(いただ)ける田鶴見家も、幸(さいはひ)に些(さ)の破綻(はたん)を生ずる無きを得てけり。
 彼は貨殖の一端として密(ひそか)に高利の貸元を営みけるなり。千、二千、三千、五千、乃至(ないし)一万の巨額をも容易に支出する大資本主たるを以(も)て、高利貸の大口を引受くる輩(はい)のここに便(たよ)らんとせざるはあらず。されども慧(さかし)き畔柳は事の密なるを策の上と為(な)して叨(みだり)に利の為に誘はれず、始よりその藩士なる鰐淵直行(ただゆき)の一手に貸出すのみにて、他は皆彼の名義を用ゐて、直接の取引を為さざれば、同業者は彼の那辺(いづれ)にか金穴(きんけつ)あるを疑はざれども、その果して誰なるやを知る者絶えてあらざるなりき。
 鰐淵(わにぶち)の名が同業間に聞えて、威権をさをさ四天王の随一たるべき勢あるは、この資本主の後楯(うしろだて)ありて、運転神助の如きに由るのみ。彼は元田鶴見の藩士にて、身柄は謂(い)ふにも足らぬ足軽頭(あしがるがしら)に過ぎざりしが、才覚ある者なりければ、廃藩の後(のち)出(い)でて小役人を勤め、転じて商社に事(つか)へ、一時或(あるひ)は地所家屋の売買を周旋し、万年青(おもと)を手掛け、米屋町(こめやまち)に出入(しゆつにゆう)し、何(いづ)れにしても世渡(よわたり)の茶を濁さずといふこと無かりしかど、皆思はしからで巡査を志願せしに、上官の首尾好く、竟(つひ)には警部にまで取立てられしを、中ごろにして金(きん)これ権(けん)と感ずるところありて、奉職中蓄得(たくはへえ)たりし三百余円を元に高利貸を始め、世間の未(いま)だこの種の悪手段に慣れざるに乗じて、或(ある)は欺き、或は嚇(おど)し、或は賺(すか)し、或は虐(しひた)げ、纔(わづか)に法網を潜(くぐ)り得て辛(から)くも繩附(なはつき)たらざるの罪を犯し、積不善の五六千円に達せし比(ころ)、あだかも好し、畔柳の後見を得たりしは、虎(とら)に翼を添へたる如く、現に彼の今運転せる金額は殆(ほとん)ど数万に上るとぞ聞えし。
 畔柳はこの手より穫(とりい)るる利の半(なかば)は、これを御殿(ごてん)の金庫に致し、半はこれを懐(ふところ)にして、鰐淵もこれに因(よ)りて利し、金(きん)は一(いつ)にしてその利を三にせる家令が六臂(ろつぴ)の働(はたらき)は、主公が不生産的なるを補ひて猶(なほ)余ありとも謂(い)ふべくや。
 鰐淵直行、この人ぞ間貫一が捨鉢(すてばち)の身を寄せて、牛頭馬頭(ごずめず)の手代と頼まれ、五番町なるその家に四年(よとせ)の今日(こんにち)まで寄寓(きぐう)せるなり。貫一は鰐淵の裏二階なる八畳の一間を与へられて、名は雇人なれども客分に遇(あつか)はれ、手代となり、顧問となりて、主(あるじ)の重宝大方ならざれば、四年(よとせ)の久(ひさし)きに弥(わた)れども主は彼を出(いだ)すことを喜ばず、彼もまた家を構(かま)ふる必要無ければ、敢(あへ)て留るを厭(いと)ふにもあらで、手代を勤むる傍(かたはら)若干(そくばく)の我が小額をも運転して、自(おのづか)ら営む便(たより)もあれば、今憖(なまじ)ひにここを出でて痩臂(やせひぢ)を張らんよりは、然(しか)るべき時節の到来を待つには如(し)かじと分別せるなり。彼は啻(ただ)に手代として能(よ)く働き、顧問として能く慮(おもんぱか)るのみをもて、鰐淵が信用を得たるにあらず、彼の齢(よはひ)を以てして、色を近けず、酒に親まず、浪費せず、遊惰せず、勤むべきは必ず勤め、為すべきは必ず為して、己(おのれ)を衒(てら)はず、他(ひと)を貶(おとし)めず、恭謹にしてしかも気節に乏からざるなど、世に難有(ありがた)き若者なり、と鰐淵は寧(むし)ろ心陰(こころひそか)に彼を畏(おそ)れたり。
 主(あるじ)は彼の為人(ひととなり)を知りし後(のち)、如此(かくのごと)き人の如何(いか)にして高利貸などや志せると疑ひしなり、貫一は己(おのれ)の履歴を詐(いつは)りて、如何なる失望の極身をこれに墜(おと)せしかを告げざるなりき。されども彼が高等中学の学生たりしことは後に顕(あらは)れにき。他の一事の秘に至りては、今もなほ主が疑問に存すれども、そのままに年経にければ、改めて穿鑿(せんさく)もせられで、やがては、暖簾(のれん)を分けて屹(きつ)としたる後見(うしろみ)は為てくれんと、鰐淵は常に疎(おろそか)ならず彼が身を念(おも)ひぬ。直行は今年五十を一つ越えて、妻なるお峯(みね)は四十六なり。夫は心猛(たけ)く、人の憂(うれひ)を見ること、犬の嚏(くさめ)の如く、唯貪(ただむさぼ)りて□(あ)くを知らざるに引易へて、気立(きだて)優しとまでにはあらねど、鬼の女房ながらも尋常の人の心は有(も)てるなり。彼も貫一の偏屈なれども律義(りちぎ)に、愛すべきところとては無けれど、憎ましきところとては猶更(なほさら)にあらぬを愛して、何くれと心着けては、彼の為に計りて善かれと祈るなりける。
 いと幸(さち)ありける貫一が身の上哉(かな)。彼は世を恨むる余(あまり)その執念の駆(か)るままに、人の生ける肉を啖(くら)ひ、以つて聊(いささ)か逆境に暴(さら)されたりし枯膓(こちよう)を癒(いや)さんが為に、三悪道に捨身の大願を発起(ほつき)せる心中には、百の呵責(かしやく)も、千の苦艱(くげん)も固(もと)より期(ご)したるを、なかなかかかる寛(ゆたか)なる信用と、かかる温(あたたか)き憐愍(れんみん)とを被(かうむ)らんは、羝羊(ていよう)の乳(ち)を得んとよりも彼は望まざりしなり。憂の中の喜なる哉(かな)、彼はこの喜を如何(いか)に喜びけるか。今は呵責をも苦艱(くげん)をも敢(あへ)て悪(にく)まざるべき覚悟の貫一は、この信用の終(つひ)には慾の為に剥(は)がれ、この憐愍(れんみん)も利の為に吝(をし)まるる時の目前なるべきを固く信じたり。

     (三)の二

 毒は毒を以て制せらる。鰐淵(わにぶち)が債務者中に高利借の名にしおふ某(ぼう)党の有志家某あり。彼は三年来生殺(なまごろし)の関係にて、元利五百余円の責(せめ)を負ひながら、奸智(かんち)を弄(ろう)し、雄弁を揮(ふる)ひ、大胆不敵に構(かま)へて出没自在の計(はかりごと)を出(いだ)し、鰐淵が老巧の術といへども得て施すところ無かりければ、同業者のこれに係(かか)りては、逆捩(さかねぢ)を吃(く)ひて血反吐(ちへど)を噴(はか)されし者尠(すくな)からざるを、鰐淵は弥(いよい)よ憎しと思へど、彼に対しては銕桿(かなてこ)も折れぬべきに持余しつるを、克(かな)はぬまでも棄措(すてお)くは口惜(くちをし)ければ、せめては令見(みせしめ)の為にも折々釘(くぎ)を刺して、再び那奴(しやつ)の翅(はがい)を展(の)べしめざらんに如(し)かずと、昨日(きのふ)は貫一の曠(ぬか)らず厳談せよと代理を命ぜられてその家に向ひしなり。
 彼は散々に飜弄(ほんろう)せられけるを、劣らじと罵(ののし)りて、前後四時間ばかりその座を起ちも遣(や)らで壮(さかん)に言争ひしが、病者に等き青二才と侮(あなど)りし貫一の、陰忍(しんねり)強く立向ひて屈する気色(けしき)あらざるより、有合ふ仕込杖(しこみつゑ)を抜放し、おのれ還(かへ)らずば生けては還さじと、二尺余(あまり)の白刃を危(あやふ)く突付けて脅(おびやか)せしを、その鼻頭(はなさき)に待(あしら)ひて愈(いよい)よ動かざりける折柄(をりから)、来合せつる壮士三名の乱拳に囲れて門外に突放され、少しは傷など受けて帰来(かへりき)にけるが、これが為に彼の感じ易(やす)き神経は甚(はなはだし)く激動して夜もすがら眠を成さず、今朝は心地の転(うた)た勝(すぐ)れねば、一日の休養を乞ひて、夜具をも収めぬ一間に引籠(ひきこも)れるなりけり。かかることありし翌日は夥(おびただし)く脳の憊(つか)るるとともに、心乱れ動きて、その憤(いか)りし後(のち)を憤り、悲みし後を悲まざれば已(や)まず、為に必ず一日の勤を廃するは彼の病なりき。故(ゆゑ)に彼は折に触れつつその体(たい)の弱く、その情の急なる、到底この業に不適当なるを感ぜざること無し。彼がこの業に入りし最初の一年は働より休の多かりし由を言ひて、今も鰐淵の笑ふことあり。次の年よりは漸(やうや)く慣れてけれど、彼の心は決(け)してこの悪を作(な)すに慣れざりき。唯能(ただよ)く忍得るを学びたるなり。彼の学びてこれを忍得るの故は、爾来(じらい)終天の失望と恨との一日(いちじつ)も忘るる能(あた)はざるが為に、その苦悶(くもん)の余勢を駆りて他の方面に注がしむるに過ぎず。彼はその失望と恨とを忘れんが為には、以外の堪(た)ふまじき苦悶を辞せざるなり。されども彼は今もなほ往々自ら為せる残刻を悔い、或(ある)は人の加ふる侮辱に堪(た)へずして、神経の過度に亢奮(こうふん)せらるる為に、一日の調摂を求めざるべからざる微恙(びよう)を得ることあり。
 朗(ほがらか)に秋の気澄みて、空の色、雲の布置(ただずまひ)匂(にほ)はしう、金色(きんしよく)の日影は豊に快晴を飾れる南受(みなみうけ)の縁障子を隙(すか)して、爽(さはやか)なる肌寒(はださむ)の蓐(とこ)に長高(たけたか)く痩(や)せたる貫一は横(よこた)はれり。蒼(あを)く濁(にご)れる頬(ほほ)の肉よ、□(さらば)へる横顔の輪廓(りんかく)よ、曇の懸れる眉(まゆ)の下に物思はしき眼色(めざし)の凝りて動かざりしが、やがて崩(くづ)るるやうに頬杖(ほほづゑ)を倒して、枕嚢(くくりまくら)に重き頭(かしら)を落すとともに寝返りつつ掻巻(かいまき)引寄せて、拡げたりし新聞を取りけるが、見る間もあらず投遣(なげや)りて仰向になりぬ。折しも誰(たれ)ならん、階子(はしご)を昇来(のぼりく)る音す。貫一は凝然として目を塞(ふた)ぎゐたり。紙門(ふすま)を啓(あ)けて入来(いりきた)れるは主(あるじ)の妻なり。貫一の慌(あわ)てて起上るを、そのままにと制して、机の傍(かたはら)に坐りつ。
「紅茶を淹(い)れましたからお上んなさい。少しばかり栗(くり)を茹(ゆ)でましたから」
 手籃(てかご)に入れたる栗と盆なる茶器とを枕頭(まくらもと)に置きて、
「気分はどうです」
「いや、なあに、寝てゐるほどの事は無いので。これは色々御馳走様(ごちそうさま)でございます」
「冷めない内にお上んなさい」
 彼は会釈して珈琲茶碗(カフヒイちやわん)を取上げしが、
「旦那(だんな)は何時(いつ)頃お出懸(でかけ)になりました」
「今朝は毎(いつも)より早くね、氷川(ひかわ)へ行くと云つて」
 言ふも可疎(うとま)しげに聞えけれど、さして貫一は意(こころ)も留めず、
「はあ、畔柳(くろやなぎ)さんですか」
「それがどうだか知れないの」
 お峯は苦笑(にがわらひ)しつ。明(あきらか)なる障子の日脚(ひざし)はその面(おもて)の小皺(こじわ)の読まれぬは無きまでに照しぬ。髪は薄けれど、櫛(くし)の歯通りて、一髪(いつぱつ)を乱さず円髷(まるわげ)に結ひて顔の色は赤き方(かた)なれど、いと好く磨(みが)きて清(きよら)に滑(なめらか)なり。鼻の辺(あたり)に薄痘痕(うすいも)ありて、口を引窄(ひきすぼ)むる癖あり。歯性悪ければとて常に涅(くろ)めたるが、かかるをや烏羽玉(ぬばたま)とも謂(い)ふべく殆(ほとん)ど耀(かがや)くばかりに麗(うるは)し。茶柳条(ちやじま)のフラネルの単衣(ひとへ)に朝寒(あささむ)の羽織着たるが、御召縮緬(ちりめん)の染直しなるべく見ゆ。貫一はさすがに聞きも流されず、
「何為(なぜ)ですか」
 お峯は羽織の紐(ひも)を解きつ結びつして、言はんか、言はざらんかを遅(ためら)へる風情(ふぜい)なるを、強(し)ひて問はまほしき事にはあらじと思へば、貫一は籃(かご)なる栗を取りて剥(む)きゐたり。彼は姑(しばら)く打案ぜし後、
「あの赤樫(あかがし)の別品(べつぴん)さんね、あの人は悪い噂(うはさ)が有るぢやありませんか、聞きませんか」
「悪い噂とは?」
「男を引掛けては食物(くひもの)に為るとか云ふ……」
 貫一は覚えず首を傾けたり。曩(さき)の夜の事など思合すなるべし。
「さうでせう」
「一向聞きませんな。那奴(あいつ)男を引掛けなくても金銭(かね)には窮(こま)らんでせうから、そんな事は無からうと思ひますが……」
「だから可(い)けない。お前さんなんぞもべいろしや組の方ですよ。金銭(かね)が有るから為ないと限つたものですか。さう云ふ噂が私の耳へ入つてゐるのですもの」
「はて、な」
「あれ、そんな剥きやうをしちや食べるところは無い、此方(こつち)へお貸しなさい」
「これは憚様(はばかりさま)です」
 お峯はその言はんとするところを言はんとには、墨々(まじまじ)と手を束(つか)ねて在らんより、事に紛らしつつ語るの便(たより)あるを思へるなり。彼は更に栗の大いなるを択(えら)みて、その頂(いただき)よりナイフを加へつ。
「些(ちよい)と見たつてそんな事を為さうな風ぢやありませんか。お前さんなんぞは堅人(かたじん)だから可いけれど、本当にあんな者に係合(かかりあ)ひでもしたら大変ですよ」
「さう云ふ事が有りますかな」
「だつて、私の耳へさへ入る位なのに、お前さんが万更知らない事は無からうと思ひますがね。あの別品さんがそれを遣(や)ると云ふのは評判ですよ。
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