金色夜叉
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著者名:尾崎紅葉 

「いえ、□車(きしや)の中で鮨(すし)を食べました」
 三人(みたり)は倶(とも)に歩始(あゆみはじ)めぬ。貫一は外套(オバコオト)の肩を払はれて、後(うしろ)を捻向(ねぢむ)けば宮と面(おもて)を合せたり。
「其処(そこ)に花が粘(つ)いてゐたから取つたのよ」
「それは難有(ありがた)う※[#感嘆符三つ、64-13]」

     第八章

 打霞(うちかす)みたる空ながら、月の色の匂滴(にほひこぼ)るるやうにして、微白(ほのじろ)き海は縹渺(ひようびよう)として限を知らず、譬(たと)へば無邪気なる夢を敷けるに似たり。寄せては返す波の音も眠(ねむ)げに怠りて、吹来る風は人を酔はしめんとす。打連れてこの浜辺を逍遙(しようよう)せるは貫一と宮となりけり。
「僕は唯(ただ)胸が一杯で、何も言ふことが出来ない」
 五歩六歩(いつあしむあし)行きし後宮はやうやう言出でつ。
「堪忍(かんにん)して下さい」
「何も今更謝(あやま)ることは無いよ。一体今度の事は翁(をぢ)さん姨(をば)さんの意から出たのか、又はお前さんも得心であるのか、それを聞けば可(い)いのだから」
「…………」
「此地(こつち)へ来るまでは、僕は十分信じてをつた、お前さんに限つてそんな了簡(りようけん)のあるべき筈(はず)は無いと。実は信じるも信じないも有りはしない、夫婦の間(なか)で、知れきつた話だ。
 昨夜(ゆふべ)翁さんから悉(くはし)く話があつて、その上に頼むといふ御言(おことば)だ」
 差含(さしぐ)む涙に彼の声は顫(ふる)ひぬ。
「大恩を受けてゐる翁さん姨さんの事だから、頼むと言はれた日には、僕の体(からだ)は火水(ひみづ)の中へでも飛込まなければならないのだ。翁さん姨さんの頼なら、無論僕は火水の中へでも飛込む精神だ。火水の中へなら飛込むがこの頼ばかりは僕も聴くことは出来ないと思つた。火水の中へ飛込めと云ふよりは、もつと無理な、余り無理な頼ではないかと、僕は済まないけれど翁さんを恨んでゐる。
 さうして、言ふ事も有らうに、この頼を聴いてくれれば洋行さして遣(や)るとお言ひのだ。い……い……いかに貫一は乞食士族の孤児(みなしご)でも、女房を売つた銭で洋行せうとは思はん!」
 貫一は蹈留(ふみとどま)りて海に向ひて泣けり。宮はこの時始めて彼に寄添ひて、気遣(きづかは)しげにその顔を差覗(さしのぞ)きぬ。
「堪忍して下さいよ、皆(みんな)私が……どうぞ堪忍して下さい」
 貫一の手に縋(すが)りて、忽(たちま)ちその肩に面(おもて)を推当(おしあ)つると見れば、彼も泣音(なくね)を洩(もら)すなりけり。波は漾々(ようよう)として遠く烟(けむ)り、月は朧(おぼろ)に一湾の真砂(まさご)を照して、空も汀(みぎは)も淡白(うすじろ)き中に、立尽せる二人の姿は墨の滴(したた)りたるやうの影を作れり。
「それで僕は考へたのだ、これは一方には翁(をぢ)さんが僕を説いて、お前さんの方は姨(をば)さんが説得しやうと云ふので、無理に此処(ここ)へ連出したに違無い。翁さん姨さんの頼と有つて見れば、僕は不承知を言ふことの出来ない身分だから、唯々(はいはい)と言つて聞いてゐたけれど、宮(みい)さんは幾多(いくら)でも剛情を張つて差支(さしつかへ)無いのだ。どうあつても可厭(いや)だとお前さんさへ言通せば、この縁談はそれで破れて了(しま)ふのだ。僕が傍(そば)に居ると智慧(ちゑ)を付けて邪魔を為(す)ると思ふものだから、遠くへ連出して無理往生に納得させる計(はかりごと)だなと考着くと、さあ心配で心配で僕は昨夜(ゆふべ)は夜一夜(よつぴて)寐(ね)はしない、そんな事は万々(ばんばん)有るまいけれど、種々(いろいろ)言はれる為に可厭(いや)と言はれない義理になつて、若(もし)や承諾するやうな事があつては大変だと思つて、家(うち)は学校へ出る積(つもり)で、僕はわざわざ様子を見に来たのだ。
 馬鹿な、馬鹿な! 貫一ほどの大馬鹿者が世界中を捜して何処(どこ)に在る□ 僕はこれ程自分が大馬鹿とは、二十五歳の今日まで知(し)……知……知らなかつた」
 宮は可悲(かなしさ)と可懼(おそろしさ)に襲はれて少(すこし)く声さへ立てて泣きぬ。
 憤(いかり)を抑(おさ)ふる貫一の呼吸は漸(やうや)く乱れたり。
「宮(みい)さん、お前は好くも僕を欺いたね」
 宮は覚えず慄(をのの)けり。
「病気と云つてここへ来たのは、富山と逢ふ為だらう」
「まあ、そればつかりは……」
「おおそればつかりは?」
「余(あんま)り邪推が過ぎるわ、余り酷(ひど)いわ。何ぼ何でも余り酷い事を」
 泣入る宮を尻目に挂(か)けて、
「お前でも酷いと云ふ事を知つてゐるのかい、宮さん。これが酷いと云つて泣く程なら、大馬鹿者にされた貫一は……貫一は……貫一は血の涙を流しても足りは為(せ)んよ。
 お前が得心せんものなら、此地(ここ)へ来るに就いて僕に一言(いちごん)も言はんと云ふ法は無からう。家を出るのが突然で、その暇が無かつたなら、後から手紙を寄来(よこ)すが可いぢやないか。出抜(だしぬ)いて家を出るばかりか、何の便(たより)も為んところを見れば、始から富山と出会ふ手筈(てはず)になつてゐたのだ。或(あるひ)は一所に来たのか知れはしない。宮さん、お前は奸婦(かんぷ)だよ。姦通(かんつう)したも同じだよ」
「そんな酷いことを、貫一さん、余(あんま)りだわ、余りだわ」
 彼は正体も無く泣頽(なきくづ)れつつ、寄らんとするを貫一は突退(つきの)けて、
「操(みさを)を破れば奸婦ぢやあるまいか」
「何時(いつ)私が操を破つて?」
「幾許(いくら)大馬鹿者の貫一でも、おのれの妻(さい)が操を破る傍(そば)に付いて見てゐるものかい! 貫一と云ふ歴(れき)とした夫を持ちながら、その夫を出抜いて、余所(よそ)の男と湯治に来てゐたら、姦通してゐないといふ証拠が何処(どこ)に在る?」
「さう言はれて了(しま)ふと、私は何とも言へないけれど、富山さんと逢ふの、約束してあつたのと云ふのは、それは全く貫一さんの邪推よ。私等(わたしたち)が此地(こつち)に来てゐるのを聞いて、富山さんが後から尋ねて来たのだわ」
「何で富山が後から尋ねて来たのだ」
 宮はその唇(くちびる)に釘(くぎ)打たれたるやうに再び言(ことば)は出(い)でざりき。貫一は、かく詰責せる間に彼の必ず過(あやまち)を悔い、罪を詫(わ)びて、その身は未(おろ)か命までも己(おのれ)の欲するままならんことを誓ふべしと信じたりしなり。よし信ぜざりけんも、心陰(こころひそか)に望みたりしならん。如何(いか)にぞや、彼は露ばかりもさせる気色(けしき)は無くて、引けども朝顔の垣を離るまじき一図の心変(こころがはり)を、貫一はなかなか信(まこと)しからず覚ゆるまでに呆(あき)れたり。
 宮は我を棄てたるよ。我は我妻を人に奪はれたるよ。我命にも換へて最愛(いとをし)みし人は芥(あくた)の如く我を悪(にく)めるよ。恨は彼の骨に徹し、憤(いかり)は彼の胸を劈(つんざ)きて、ほとほと身も世も忘れたる貫一は、あはれ奸婦の肉を啖(くら)ひて、この熱膓(ねつちよう)を冷(さま)さんとも思へり。忽(たちま)ち彼は頭脳の裂けんとするを覚えて、苦痛に得堪(えた)へずして尻居に僵(たふ)れたり。
 宮は見るより驚く遑(いとま)もあらず、諸共(もろとも)に砂に塗(まび)れて掻抱(かきいだ)けば、閉ぢたる眼(まなこ)より乱落(はふりお)つる涙に浸れる灰色の頬(ほほ)を、月の光は悲しげに彷徨(さまよ)ひて、迫れる息は凄(すさまし)く波打つ胸の響を伝ふ。宮は彼の背後(うしろ)より取縋(とりすが)り、抱緊(いだきし)め、撼動(ゆりうごか)して、戦(をのの)く声を励せば、励す声は更に戦きぬ。
「どうして、貫一さん、どうしたのよう!」
 貫一は力無げに宮の手を執れり。宮は涙に汚れたる男の顔をいと懇(ねんごろ)に拭(ぬぐ)ひたり。
「吁(ああ)、宮(みい)さんかうして二人が一処に居るのも今夜ぎりだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜ぎり、僕がお前に物を言ふのも今夜ぎりだよ。一月の十七日、宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処(どこ)でこの月を見るのだか! 再来年(さらいねん)の今月今夜……十年後(のち)の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ! 可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になつたならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇つたらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思つてくれ」
 宮は挫(ひし)ぐばかりに貫一に取着きて、物狂(ものぐるはし)う咽入(むせびい)りぬ。
「そんな悲い事をいはずに、ねえ貫一さん、私も考へた事があるのだから、それは腹も立たうけれど、どうぞ堪忍して、少し辛抱してゐて下さいな。私はお肚(なか)の中には言ひたい事が沢山あるのだけれど、余(あんま)り言難(いひにく)い事ばかりだから、口へは出さないけれど、唯一言(たつたひとこと)いひたいのは、私は貴方(あなた)の事は忘れはしないわ――私は生涯忘れはしないわ」
「聞きたくない! 忘れんくらゐなら何故見棄てた」
「だから、私は決して見棄てはしないわ」
「何、見棄てない? 見棄てないものが嫁に帰(ゆ)くかい、馬鹿な! 二人の夫が有てるかい」
「だから、私は考へてゐる事があるのだから、も少(すこ)し辛抱してそれを――私の心を見て下さいな。きつと貴方の事を忘れない証拠を私は見せるわ」
「ええ、狼狽(うろた)へてくだらんことを言ふな。食ふに窮(こま)つて身を売らなければならんのぢやなし、何を苦んで嫁に帰(ゆ)くのだ。内には七千円も財産が在つて、お前は其処(そこ)の一人娘ぢやないか、さうして婿まで極(きま)つてゐるのぢやないか。その婿も四五年の後には学士になると、末の見込も着いてゐるのだ。しかもお前はその婿を生涯忘れないほどに思つてゐると云ふぢやないか。それに何の不足が有つて、無理にも嫁に帰(ゆ)かなければならんのだ。天下にこれくらゐ理(わけ)の解らん話が有らうか。どう考へても、嫁に帰(ゆ)くべき必用の無いものが、無理に算段をして嫁に帰(ゆ)かうと為るには、必ず何ぞ事情が無ければ成らない。
 婿が不足なのか、金持と縁を組みたいのか、主意は決してこの二件(ふたつ)の外にはあるまい。言つて聞かしてくれ。遠慮は要(い)らない。さあ、さあ、宮さん、遠慮することは無いよ。一旦夫に定めたものを振捨てるくらゐの無遠慮なものが、こんな事に遠慮も何も要るものか」
「私が悪いのだから堪忍して下さい」
「それぢや婿が不足なのだね」
「貫一さん、それは余(あんま)りだわ。そんなに疑ふのなら、私はどんな事でもして、さうして証拠を見せるわ」
「婿に不足は無い? それぢや富山が財(かね)があるからか、して見るとこの結婚は慾からだね、僕の離縁も慾からだね。で、この結婚はお前も承知をしたのだね、ええ?
 翁(をぢ)さん姨(をば)さんに迫られて、余義無くお前も承知をしたのならば、僕の考で破談にする方(ほう)は幾許(いくら)もある。僕一人が悪者になれば、翁さん姨さんを始めお前の迷惑にもならずに打壊(ぶちこは)して了ふことは出来る、だからお前の心持を聞いた上で手段があるのだが、お前も適(い)つて見る気は有るのかい」
 貫一の眼(まなこ)はその全身の力を聚(あつ)めて、思悩める宮が顔を鋭く打目戍(うちまも)れり。五歩行き、七歩行き、十歩を行けども、彼の答はあらざりき。貫一は空を仰ぎて太息(ためいき)したり。
「宜(よろし)い、もう宜い。お前の心は能く解つた」
 今ははや言ふも益無ければ、重ねて口を開かざらんかと打按(うちあん)じつつも、彼は乱るる胸を寛(ゆる)うせんが為に、強(し)ひて目を放ちて海の方(かた)を眺めたりしが、なほ得堪へずやありけん、又言はんとして顧れば、宮は傍(かたはら)に在らずして、六七間後(あと)なる波打際(なみうちぎは)に面(おもて)を掩(おほ)ひて泣けるなり。
 可悩(なやま)しげなる姿の月に照され、風に吹れて、あはれ消えもしぬべく立ち迷へるに、□々(びようびよう)たる海の端(はし)の白く頽(くづ)れて波と打寄せたる、艶(えん)に哀(あはれ)を尽せる風情(ふぜい)に、貫一は憤(いかり)をも恨をも忘れて、少時(しばし)は画を看(み)る如き心地もしつ。更に、この美き人も今は我物ならずと思へば、なかなか夢かとも疑へり。
「夢だ夢だ、長い夢を見たのだ!」
 彼は頭(かしら)を低(た)れて足の向ふままに汀(みぎは)の方(かた)へ進行きしが、泣く泣く歩来(あゆみきた)れる宮と互に知らで行合ひたり。
「宮さん、何を泣くのだ。お前は些(ちつと)も泣くことは無いぢやないか。空涙!」
「どうせさうよ」
 殆(ほとん)ど聞得べからざるまでにその声は涙に乱れたり。
「宮さん、お前に限つてはさう云ふ了簡は無からうと、僕は自分を信じるほどに信じてゐたが、それぢややつぱりお前の心は慾だね、財(かね)なのだね。如何(いか)に何でも余り情無い、宮さん、お前はそれで自分に愛相(あいそう)は尽きないかい。
 好(い)い出世をして、さぞ栄耀(えよう)も出来て、お前はそれで可からうけれど、財(かね)に見換へられて棄てられた僕の身になつて見るが可い。無念と謂(い)はうか、口惜(くちをし)いと謂はうか、宮さん、僕はお前を刺殺(さしころ)して――驚くことは無い! ――いつそ死んで了ひたいのだ。それを怺(こら)へてお前を人に奪(とら)れるのを手出しも為(せ)ずに見てゐる僕の心地(こころもち)は、どんなだと思ふ、どんなだと思ふよ! 自分さへ好ければ他(ひと)はどうならうともお前はかまはんのかい。一体貫一はお前の何だよ。何だと思ふのだよ。鴫沢の家には厄介者の居候(ゐさふらふ)でも、お前の為には夫ぢやないかい。僕はお前の男妾(をとこめかけ)になつた覚(おぼえ)は無いよ、宮さん、お前は貫一を玩弄物(なぐさみもの)にしたのだね。平生(へいぜい)お前の仕打が水臭い水臭いと思つたも道理だ、始から僕を一時の玩弄物の意(つもり)で、本当の愛情は無かつたのだ。さうとは知らずに僕は自分の身よりもお前を愛してゐた。お前の外には何の楽(たのしみ)も無いほどにお前の事を思つてゐた。それ程までに思つてゐる貫一を、宮さん、お前はどうしても棄てる気かい。
 それは無論金力の点では、僕と富山とは比較(くらべもの)にはならない。彼方(あつち)は屈指の財産家、僕は固(もと)より一介の書生だ。けれども善く宮さん考へて御覧、ねえ、人間の幸福ばかりは決して財(かね)で買へるものぢやないよ。幸福と財とは全く別物だよ。人の幸福の第一は家内の平和だ、家内の平和は何か、夫婦が互に深く愛すると云ふ外は無い。お前を深く愛する点では、富山如きが百人寄つても到底僕の十分の一だけでも愛することは出来まい、富山が財産で誇るなら、僕は彼等の夢想することも出来んこの愛情で争つて見せる。夫婦の幸福は全くこの愛情の力、愛情が無ければ既に夫婦は無いのだ。
 己(おのれ)の身に換へてお前を思つてゐる程の愛情を有(も)つてゐる貫一を棄てて、夫婦間の幸福には何の益も無い、寧(むし)ろ害になり易(やす)い、その財産を目的に結婚を為るのは、宮さん、どういふ心得なのだ。
 然し財(かね)といふものは人の心を迷はすもので、智者の学者の豪傑のと、千万人に勝(すぐ)れた立派な立派な男子さへ、財の為には随分甚(ひど)い事も為るのだ。それを考へれば、お前が偶然(ふつと)気の変つたのも、或(あるひ)は無理も無いのだらう。からして僕はそれは咎(とが)めない、但(ただ)もう一遍、宮さん善く考へて御覧な、その財が――富山の財産がお前の夫婦間にどれ程の効力があるのかと謂(い)ふことを。
 雀(すずめ)が米を食ふのは僅(わづ)か十粒(とつぶ)か二十粒だ、俵で置いてあつたつて、一度に一俵食へるものぢやない、僕は鴫沢の財産を譲つてもらはんでも、十粒か二十粒の米に事を欠いて、お前に餒(ひもじ)い思を為せるやうな、そんな意気地(いくぢ)の無い男でもない。若し間違つて、その十粒か二十粒の工面が出来なかつたら、僕は自分は食はんでも、決してお前に不自由は為せん。宮さん、僕はこれ……これ程までにお前の事を思つてゐる!」
 貫一は雫(しづく)する涙を払ひて、
「お前が富山へ嫁(ゆ)く、それは立派な生活をして、栄耀(えよう)も出来やうし、楽も出来やう、けれどもあれだけの財産は決して息子の嫁の為に費さうとて作られた財産ではない、と云ふ事をお前考へなければならんよ。愛情の無い夫婦の間に、立派な生活が何だ! 栄耀が何だ! 世間には、馬車に乗つて心配さうな青い顔をして、夜会へ招(よば)れて行く人もあれば、自分の妻子(つまこ)を車に載せて、それを自分が挽(ひ)いて花見に出掛ける車夫もある。富山へ嫁(ゆ)けば、家内も多ければ人出入(ひとでいり)も、劇(はげ)しし、従つて気兼も苦労も一通の事ぢやなからう。その中へ入つて、気を傷(いた)めながら愛してもをらん夫を持つて、それでお前は何を楽(たのしみ)に生きてゐるのだ。さうして勤めてゐれば、末にはあの財産がお前の物になるのかい、富山の奥様と云へば立派かも知れんけれど、食ふところは今の雀の十粒か二十粒に過ぎんのぢやないか。よしんばあの財産がお前の自由になるとしたところで、女の身に何十万と云ふ金がどうなる、何十万の金を女の身で面白く費(つか)へるかい。雀に一俵の米を一度に食へと云ふやうなものぢやないか。男を持たなければ女の身は立てないものなら、一生の苦楽他人に頼(よ)るで、女の宝とするのはその夫ではないか。何百万の財(かね)が有らうと、その夫が宝と為るに足らんものであつたら、女の心細さは、なかなか車に載せて花見に連れられる車夫の女房には及ばんぢやあるまいか。
 聞けばあの富山の父と云ふものは、内に二人外(おもて)に三人も妾を置いてゐると云ふ話だ。財の有る者は大方そんな真似(まね)をして、妻は些(ほん)の床の置物にされて、謂(い)はば棄てられてゐるのだ。棄てられてゐながらその愛されてゐる妾よりは、責任も重く、苦労も多く、苦(くるしみ)ばかりで楽(たのしみ)は無いと謂つて可い。お前の嫁(ゆ)く唯継だつて、固(もと)より所望(のぞみ)でお前を迎(もら)ふのだから、当座は随分愛しも為るだらうが、それが長く続くものか、財(かね)が有るから好きな真似も出来る、他(ほか)の楽(たのしみ)に気が移つて、直(ぢき)にお前の恋は冷(さま)されて了ふのは判つてゐる。その時になつて、お前の心地(こころもち)を考へて御覧、あの富山の財産がその苦(くるしみ)を拯(すく)ふかい。家に沢山の財が在れば、夫に棄てられて床の置物になつてゐても、お前はそれで楽(たのしみ)かい、満足かい。
 僕が人にお前を奪(と)られる無念は謂(い)ふまでも無いけれど、三年の後のお前の後悔が目に見えて、心変(こころがはり)をした憎いお前ぢやあるけれど、やつぱり可哀(かあい)さうでならんから、僕は真実で言ふのだ。
 僕に飽きて富山に惚(ほ)れてお前が嫁くのなら、僕は未練らしく何も言はんけれど、宮さん、お前は唯立派なところへ嫁くといふそればかりに迷はされてゐるのだから、それは過(あやま)つてゐる、それは実に過(あやま)つてゐる、愛情の無い結婚は究竟(つまり)自他の後悔だよ。今夜この場のお前の分別(ふんべつ)一つで、お前の一生の苦楽は定るのだから、宮さん、お前も自分の身が大事と思ふなら、又貫一が不便(ふびん)だと思つて、頼む! 頼むから、もう一度分別を為直(しなお)してくれないか。
 七千円の財産と貫一が学士とは、二人の幸福を保つには十分だよ。今でさへも随分二人は幸福ではないか。男の僕でさへ、お前が在れば富山の財産などを可羨(うらやまし)いとは更に思はんのに、宮さん、お前はどうしたのだ! 僕を忘れたのかい、僕を可愛(かはゆ)くは思はんのかい」
 彼は危(あやふ)きを拯(すく)はんとする如く犇(ひし)と宮に取着きて匂滴(にほひこぼ)るる頸元(えりもと)に沸(に)ゆる涙を濺(そそ)ぎつつ、蘆(あし)の枯葉の風に揉(もま)るるやうに身を顫(ふるは)せり。宮も離れじと抱緊(いだきし)めて諸共(もろとも)に顫ひつつ、貫一が臂(ひぢ)を咬(か)みて咽泣(むせびなき)に泣けり。
「嗚呼(ああ)、私はどうしたら可からう! 若し私が彼方(あつち)へ嫁(い)つたら、貫一さんはどうするの、それを聞かして下さいな」
 木を裂く如く貫一は宮を突放して、
「それぢや断然(いよいよ)お前は嫁く気だね! これまでに僕が言つても聴いてくれんのだね。ちええ、膓(はらわた)の腐つた女! 姦婦(かんぷ)□」
 その声とともに貫一は脚(あし)を挙げて宮の弱腰をはたと□(け)たり。地響して横様(よこさま)に転(まろ)びしが、なかなか声をも立てず苦痛を忍びて、彼はそのまま砂の上に泣伏したり。貫一は猛獣などを撃ちたるやうに、彼の身動も得為(えせ)ず弱々(よわよわ)と僵(たふ)れたるを、なほ憎さげに見遣(みや)りつつ、
「宮、おのれ、おのれ姦婦、やい! 貴様のな、心変をしたばかりに間貫一の男一匹(いつぴき)はな、失望の極発狂して、大事の一生を誤つて了(しま)ふのだ。学問も何ももう廃(やめ)だ。この恨の為に貫一は生きながら悪魔になつて、貴様のやうな畜生の肉を啖(くら)つて遣る覚悟だ。富山の令……令夫……令夫人! もう一生お目には掛らんから、その顔を挙げて、真人間で居る内の貫一の面(つら)を好く見て置かないかい。長々の御恩に預つた翁(をぢ)さん姨(をば)さんには一目会つて段々の御礼を申上げなければ済まんのでありますけれど、仔細(しさい)あつて貫一はこのまま長の御暇(おいとま)を致しますから、随分お達者で御機嫌(ごきげん)よろしう……宮(みい)さん、お前から好くさう言つておくれ、よ、若(も)し貫一はどうしたとお訊(たづ)ねなすつたら、あの大馬鹿者は一月十七日の晩に気が違つて、熱海の浜辺から行方(ゆくへ)知れずになつて了つたと……」
 宮はやにはに蹶起(はねお)きて、立たんと為れば脚の痛(いたみ)に脆(もろ)くも倒れて効無(かひな)きを、漸(やうや)く這寄(はひよ)りて貫一の脚に縋付(すがりつ)き、声と涙とを争ひて、
「貫一さん、ま……ま……待つて下さい。貴方(あなた)これから何(ど)……何処(どこ)へ行くのよ」
 貫一はさすがに驚けり、宮が衣(きぬ)の披(はだ)けて雪(ゆき)可羞(はづかし)く露(あらは)せる膝頭(ひざがしら)は、夥(おびただし)く血に染みて顫ふなりき。
「や、怪我(けが)をしたか」
 寄らんとするを宮は支へて、
「ええ、こんな事はかまはないから、貴方は何処へ行くのよ、話があるから今夜は一所に帰つて下さい、よう、貫一さん、後生だから」
「話が有(あ)ればここで聞かう」
「ここぢや私は可厭(いや)よ」
「ええ、何の話が有るものか。さあここを放さないか」
「私は放さない」
「剛情張ると蹴飛(けとば)すぞ」
「蹴られても可いわ」
 貫一は力を極(きは)めて振断(ふりちぎ)れば、宮は無残に伏転(ふしまろ)びぬ。
「貫一さん」
「貫一ははや幾間を急行(いそぎゆ)きたり。宮は見るより必死と起上りて、脚の傷(いたみ)に幾度(いくたび)か仆(たふ)れんとしつつも後を慕ひて、
「貫一さん、それぢやもう留めないから、もう一度、もう一度……私は言遺(いひのこ)した事がある」
 遂(つひ)に倒れし宮は再び起(た)つべき力も失せて、唯声を頼(たのみ)に彼の名を呼ぶのみ。漸(やうや)く朧(おぼろ)になれる貫一の影が一散に岡を登るが見えぬ。宮は身悶(みもだえ)して猶(なほ)呼続けつ。やがてその黒き影の岡の頂(いただき)に立てるは、此方(こなた)を目戍(まも)れるならんと、宮は声の限に呼べば、男の声も遙(はるか)に来りぬ。
「宮(みい)さん!」
「あ、あ、あ、貫一(かんいつ)さん!」
 首を延べて□(みまは)せども、目を□(みは)りて眺むれども、声せし後(のち)は黒き影の掻消(かきけ)す如く失(う)せて、それかと思ひし木立の寂しげに動かず、波は悲き音を寄せて、一月十七日の月は白く愁ひぬ。
 宮は再び恋(こひし)き貫一の名を呼びたりき。
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  中編


     第一章

 新橋停車場(しんばしステエション)の大時計は四時を過(すぐ)ること二分余(よ)、東海道行の列車は既に客車の扉(とびら)を鎖(さ)して、機関車に烟(けふり)を噴(ふか)せつつ、三十余輛(よりよう)を聯(つら)ねて蜿蜒(えんえん)として横(よこた)はりたるが、真承(まうけ)の秋の日影に夕栄(ゆふばえ)して、窓々の硝子(ガラス)は燃えんとすばかりに耀(かがや)けり。駅夫は右往左往に奔走して、早く早くと喚(わめ)くを余所(よそ)に、大蹈歩(だいとうほ)の寛々(かんかん)たる老欧羅巴(エウロッパ)人は麦酒樽(ビイルだる)を窃(ぬす)みたるやうに腹突出(つきいだ)して、桃色の服着たる十七八の娘の日本の絵日傘(ゑひがさ)の柄(え)に橙(オレンジ)色のリボンを飾りたるを小脇(こわき)にせると推並(おしなら)び、おのれが乗物の顔して急ぐ気色(けしき)も無く過(すぐ)る後より、蚤取眼(のみとりまなこ)になりて遅れじと所体頽(しよたいくづ)して駈来(かけく)る女房の、嵩高(かさだか)なる風呂敷包を抱(いだ)くが上に、四歳(よつ)ほどの子を背負ひたるが、何処(どこ)の扉も鎖したるに狼狽(うろた)ふるを、車掌に強曳(しよぴか)れて漸(やうや)く安堵(あんど)せる間(ま)も無く、青洟垂(あをばなたら)せる女の子を率ゐて、五十余(あまり)の老夫(おやぢ)のこれも戸惑(とまどひ)して往(ゆ)きつ復(もど)りつせし揚句(あげく)、駅夫に曳(ひか)れて室内に押入れられ、如何(いか)なる罪やあらげなく閉(た)てらるる扉に袂(たもと)を介(はさ)まれて、もしもしと救(すくひ)を呼ぶなど、未(いま)だ都を離れざるにはや旅の哀(あはれ)を見るべし。
 五人一隊の若き紳士等は中等室の片隅(かたすみ)に円居(まどゐ)して、その中に旅行らしき手荷物を控へたるは一人よりあらず、他は皆横浜までとも見ゆる扮装(いでたち)にて、紋付の袷羽織(あはせはおり)を着たるもあれば、精縷(セル)の背広なるもあり、袴(はかま)着けたるが一人、大島紬(おほしまつむぎ)の長羽織と差向へる人のみぞフロックコオトを着て、待合所にて受けし餞別(せんべつ)の瓶(びん)、凾(はこ)などを網棚(あみだな)の上に片附けて、その手を摩払(すりはら)ひつつ窓より首を出(いだ)して、停車場(ステエション)の方(かた)をば、求むるものありげに望見(のぞみみ)たりしが、やがて藍(あゐ)の如き晩霽(ばんせい)の空を仰ぎて、
「不思議に好い天気に成つた、なあ。この分なら大丈夫じや」
「今晩雨になるのも又一興だよ、ねえ、甘糟(あまかす)」
 黒餅(こくもち)に立沢瀉(たちおもだか)の黒紬(くろつむぎ)の羽織着たるがかく言ひて示すところあるが如き微笑を洩(もら)せり。甘糟と呼れたるは、茶柳条(ちやじま)の仙台平(せんだいひら)の袴を着けたる、この中にて独(ひと)り頬鬚(ほほひげ)の厳(いかめし)きを蓄(たくは)ふる紳士なり。
 甘糟の答ふるに先(さきだ)ちて、背広の風早(かざはや)は若きに似合はぬ皺嗄声(しわがれごゑ)を振搾(ふりしぼ)りて、
「甘糟は一興で、君は望むところなのだらう」
「馬鹿言へ。甘糟の痒(かゆ)きに堪(た)へんことを僕は丁(ちやん)と洞察(どうさつ)してをるのだ」
「これは憚様(はばかりさま)です」
 大島紬の紳士は黏着(へばりつ)いたるやうに靠(もた)れたりし身を遽(にはか)に起して、
「風早、君と僕はね、今日は実際犠牲に供されてゐるのだよ。佐分利(さぶり)と甘糟は夙(かね)て横浜を主張してゐるのだ。何でもこの間遊仙窟(ゆうせんくつ)を見出して来たのだ。それで我々を引張つて行つて、大いに気焔(きえん)を吐く意(つもり)なのさ」
「何じやい、何じやい! 君達がこの二人に犠牲に供されたと謂(い)ふなら、僕は四人の為に売られたんじや。それには及ばんと云ふのに、是非浜まで見送ると言うで、気の毒なと思うてをつたら、僕を送るのを名として君達は……怪(け)しからん事(こつ)たぞ。学生中からその方は勉強しをつた君達の事ぢやから、今後は実に想遣(おもひや)らるるね。ええ、肩書を辱(はづかし)めん限は遣るも可(よ)からうけれど、注意はしたまへよ、本当に」
 この老実の言(げん)を作(な)すは、今は四年(よとせ)の昔間貫一(はざまかんいち)が兄事(けいじ)せし同窓の荒尾譲介(あらおじようすけ)なりけり。彼は去年法学士を授けられ、次いで内務省試補に挙(あ)げられ、踰えて一年の今日(こんにち)愛知県の参事官に栄転して、赴任の途に上れるなり。その齢(よはひ)と深慮と誠実との故(ゆゑ)を以つて、彼は他の同学の先輩として推服するところたり。
「これで僕は諸君へ意見の言納(いひをさめ)じや。願(ねがは)くは君達も宜(よろし)く自重してくれたまへ」
 面白く発(はや)りし一座も忽(たちま)ち白(しら)けて、頻(しきり)に燻(くゆ)らす巻莨(まきたばこ)の煙の、急駛(きゆうし)せる車の逆風(むかひかぜ)に扇(あふ)らるるが、飛雲の如く窓を逸(のが)れて六郷川(ろくごうがわ)を掠(かす)むあるのみ。
 佐分利は幾数回(あまたたび)頷(うなづ)きて、
「いやさう言れると慄然(ぞつ)とするよ、実は嚮(さつき)停車場(ステエション)で例の『美人(びじ)クリイム』(こは美人の高利貸を戯称せるなり)を見掛けたのだ。あの声で蜥蜴啖(とかげくら)ふかと思ふね、毎(いつ)見ても美いには驚嘆する。全(まる)で淑女(レディ)の扮装(いでたち)だ。就中(なかんづく)今日は冶(めか)してをつたが、何処(どこ)か旨(うま)い口でもあると見える。那奴(あいつ)に搾(しぼ)られちや克(かな)はん、あれが本当の真綿で首だらう」
「見たかつたね、それは。夙(かね)て御高名は聞及んでゐる」
 と大島紬(おほしまつむぎ)の猶(なほ)続けんとするを遮(さへぎ)りて、甘糟の言へる。
「おお、宝井が退学を吃(く)つたのも、其奴(そいつ)が債権者の重(おも)なる者だと云ふぢやないか。余程好い女ださうだね。黄金(きん)の腕環なんぞ篏(は)めてゐると云ふぢやないか。酷(ひど)い奴な! 鬼神のお松だ。佐分利はその劇なるを知りながら係(かか)つたのは、大いに冒険の目的があつて存するのだらうけれど、木乃伊(ミイラ)にならんやうに褌(ふんどし)を緊(し)めて掛るが可いぜ」
「誰(たれ)か其奴(そいつ)には尻押(しりおし)が有るのだらう。亭主が有るのか、或(あるひ)は情夫(いろ)か、何か有るのだらう」
 皺嗄声(しわがれごゑ)は卒然としてこの問を発せるなり。
「それに就いては小説的の閲歴(ライフ)があるのさ、情夫(いろ)ぢやない、亭主がある、此奴(こいつ)が君、我々の一世紀前(ぜん)に鳴した高利貸(アイス)で、赤樫権三郎(あかがしごんざぶろう)と云つては、いや無法な強慾で、加ふるに大々的□物(いんぶつ)と来てゐるのだ」
「成程! 積極(しやくきよく)と消極と相触れたので爪(つめ)に火が□(とも)る訳だな」
 大島紬が得意の□浪(まぜかへし)に、深沈なる荒尾も已(や)むを得ざらんやうに破顔しつ。
「その赤樫と云ふ奴は貸金の督促を利用しては女を弄(もてあそ)ぶのが道楽で、此奴(こいつ)の為に汚(けが)された者は随分意外の辺(へん)にも在るさうな。そこで今の『美人(びじ)クリイム』、これもその手に罹(かか)つたので、原(もと)は貧乏士族の娘で堅気であつたのだが、老猾(おやぢ)この娘を見ると食指大いに動いた訳で、これを俘(とりこ)にしたさに父親に少しばかりの金を貸したのだ。期限が来ても返せん、それを何とも言はずに、後から後からと三四度も貸して置いて、もう好い時分に、内に手が無くて困るから、半月ばかり仲働(なかばたらき)に貸してくれと言出した。これはよしんば奴の胸中が見え透いてゐたからとて、勢ひ辞(ことわ)りかねる人情だらう。今から六年ばかり前の事で、娘が十九の年老猾(おやぢ)は六十ばかりの禿顱(はげあたま)の事だから、まさかに色気とは想はんわね。そこで内へ引張つて来て口説いたのだ。女房といふ者は無いので、怪しげな爨妾然(たきざはりぜん)たる女を置いてをつたのが、その内にいつか娘は妾同様になつたのはどうだい!」
 固唾(かたづ)を嚥(の)みたりし荒尾は思ふところありげに打頷(うちうなづ)きて、
「女といふ者はそんなものじやて」
 甘糟はその面(おもて)を振仰ぎつつ、
「驚いたね、君にしてこの言あるのは。荒尾が女を解釈せうとは想はなんだ」
「何故かい」
 佐分利の話を進むる折から、□車(きしや)は遽(にはか)に速力を加へぬ。
佐「聞えん聞えん、もつと大きな声で」
甘「さあ、御順にお膝繰(ひざくり)だ」
佐「荒尾、あの葡萄酒(ぶどうしゆ)を抜かんか、喉(のど)が渇(かわ)いた。これからが佳境に入(い)るのだからね」
甘「中銭(なかせん)があるのは酷(ひど)い」
佐「蒲田(かまだ)、君は好い莨(たばこ)を吃(す)つてゐるぢやないか、一本頂戴(ちようだい)」
甘「いや、図に乗ること。僕は手廻(てまはり)の物を片附けやう」
佐「甘糟、□児(マッチ)を持つてゐるか」
甘「そら、お出(いで)だ。持参いたしてをりまする仕合(しあはせ)で」
 佐分利は居長高(ゐたけだか)になりて、
「些(ちよつ)と点(つ)けてくれ」
 葡萄酒の紅(くれなゐ)を啜(すす)り、ハヴァナの紫を吹きて、佐分利は徐(おもむろ)に語(ことば)を継ぐ、
「所謂(いはゆる)一朶(いちだ)の梨花海棠(りかかいどう)を圧してからに、娘の満枝は自由にされて了(しま)つた訳だ。これは無論親父には内証だつたのだが、当座は荐(しき)つて帰りたがつた娘が、後には親父の方から帰れ帰れ言つても、帰らんだらう。その内に段々様子が知れたもので、侍形気(かたぎ)の親父は非常な立腹だ。子でない、親でないと云ふ騒になつたね。すると禿(はげ)の方から、妾だから不承知なのだらう、籍を入れて本妻に直すからくれろといふ談判になつた。それで逢つて見ると娘も、阿父(おとつ)さん、どうか承知して下さいは、親父益(ますま)す意外の益す不服だ。けれども、天魔に魅入られたものと親父も愛相(あいそ)を尽(つか)して、唯(ただ)一人の娘を阿父さん彼自身より十歳(とを)ばかりも老漢(おやぢ)の高利貸にくれて了つたのだ。それから満枝は益す禿の寵(ちよう)を得て、内政を自由にするやうになつたから、定めて生家(さと)の方へ貢(みつ)ぐと思の外、極(きめ)の給(もの)の外は塵葉(ちりつぱ)一本饋(や)らん。これが又禿の御意(ぎよい)に入つたところで、女め熟(つらつ)ら高利(アイス)の塩梅(あんばい)を見てゐる内に、いつかこの商売が面白くなつて来て、この身代(しんだい)我物と考へて見ると、一人の親父よりは金銭(かね)の方が大事、といふ不敵な了簡(りようけん)が出た訳だね」
「驚くべきものじやね」
 荒尾は可忌(いまは)しげに呟(つぶや)きて、稍(やや)不快の色を動(うごか)せり。
「そこで、敏捷(びんしよう)な女には違無い、自然と高利(アイス)の呼吸を呑込んで、後には手の足りん時には禿の代理として、何処(どこ)へでも出掛けるやうになつたのは益す驚くべきものだらう。丁度一昨年辺(あたり)から禿は中気が出て未(いま)だに動けない。そいつを大小便の世話までして、女の手一つで盛(さかん)に商売をしてゐるのだ。それでその前年かに親父は死んだのださうだが、板の間に薄縁(うすべり)を一板(いちまい)敷いて、その上で往生したと云ふくらゐの始末だ。病気の出る前などはろくに寄せ付けなんださうだがな、残刻と云つても、どう云ふのだか余り気が知れんぢやないかな――然(しか)し事実だ。で、禿はその通の病人だから、今ではあの女が独(ひとり)で腕を揮(ふる)つて益す盛に遣(や)つてゐる。これ則(すなは)ち『美人(びじ)クリイム』の名ある所以(ゆゑん)さ。
 年紀(とし)かい、二十五だと聞いたが、さう、漸(やうや)う二三とよりは見えんね。あれで可愛(かはゆ)い細い声をして物柔(ものやはらか)に、口数(くちかず)が寡(すくな)くつて巧い言(こと)をいふこと、恐るべきものだよ。銀貨を見て何処の国の勲章だらうなどと言ひさうな、誠に上品な様子をしてゐて、書替(かきかへ)だの、手形に願ふのと、急所を衝(つ)く手際(てぎは)の婉曲(えんきよく)に巧妙な具合と来たら、実に魔薬でも用ゐて人の心を痿(なや)すかと思ふばかりだ。僕も三度ほど痿(なや)されたが、柔能く剛を制すで、高利貸(アイス)には美人が妙! 那彼(あいつ)に一国を預ければ輙(すなは)ちクレオパトラだね。那彼には滅されるよ」
 風早は最も興を覚えたる気色(けしき)にて、
「では、今はその禿顱(はげ)は中風(ちゆうふう)で寐(ね)たきりなのだね、一昨年(をととし)から? それでは何か虫があるだらう。有る、有る、それくらゐの女で神妙にしてゐるものか、無いと見せて有るところがクレオパトラよ。然し、壮(さかん)な女だな」
「余り壮なのは恐れる」
 佐分利は頭(かしら)を抑(おさ)へて後様(うしろさま)に靠(もた)れつつ笑ひぬ。次いで一同も笑ひぬ。
 佐分利は二年生たりしより既に高利の大火坑に堕(お)ちて、今はしも連帯一判、取交(とりま)ぜ五口(いつくち)の債務六百四十何円の呵責(かしやく)に膏(あぶら)を取(とら)るる身の上にぞありける。次いでは甘糟の四百円、大島紬氏は卒業前にして百五十円、後(ご)に又二百円、無疵(むきず)なるは風早と荒尾とのみ。
 □車は神奈川に着きぬ。彼等の物語をば笑(ゑま)しげに傍聴したりし横浜商人体(しようにんてい)の乗客は、幸(さいはひ)に無聊(ぶりよう)を慰められしを謝すらんやうに、懇(ねんごろ)に一揖(いつゆう)してここに下車せり。暫(しばら)く話の絶えける間(ひま)に荒尾は何をか打案ずる体(てい)にて、その目を空(むなし)く見据ゑつつ漫語(そぞろごと)のやうに言出(いひい)でたり。
「その後誰(たれ)も間(はざま)の事を聞かんかね」
「間貫一かい」と皺嗄声(しわかれごゑ)は問反(とひかへ)せり。
「おお、誰やらぢやつたね、高利貸(アイス)の才取(さいとり)とか、手代(てだい)とかしてをると言うたのは」
蒲「さうさう、そんな話を聞いたつけね。然し、間には高利貸(アイス)の才取は出来ない。あれは高利を貸すべく余り多くの涙を有つてゐるのだ」
 我が意を得つと謂(い)はんやうに荒尾は頷(うなづ)きて、猶(なほ)も思に沈みゐたり。佐分利と甘糟の二人はその頃一級先(さきだ)ちてありければ、間とは相識らざるなりき。
荒「高利貸(アイス)と云ふのはどうも妄(うそ)ぢやらう。全く余り多くの涙を有つてをる。惜い事をした、得難い才子ぢやつたものね。あれが今居らうなら……」
 彼は忍びやかに太息(ためいき)を泄(もら)せり。
「君達は今逢うても顔を見忘れはすまいな」
風「それは覚えてゐるとも。あれの峭然(ぴん)と外眥(めじり)の昂(あが)つた所が目標(めじるし)さ」
蒲「さうして髪(あたま)の癖毛(くせつけ)の具合がな、愛嬌(あいきよう)が有つたぢやないか。デスクの上に頬杖(ほほづゑ)を抂(つ)いて、かう下向になつて何時(いつ)でも真面目(まじめ)に講義を聴いてゐたところは、何処(どこ)かアルフレッド大王に肖(に)てゐたさ」
 荒尾は仰ぎて笑へり。
「君は毎(いつ)も妙な事を言ふ人ぢやね。アルフレッド大王とは奇想天外だ。僕の親友を古英雄に擬してくれた御礼に一盃(いつぱい)を献じやう」
蒲「成程、君は兄弟のやうにしてをつたから、始終憶(おも)ひ出すだらうな」
「僕は実際死んだ弟(おとと)よりも間の居らなくなつたのを悲む」
 愁然として彼は頭(かしら)を俛(た)れぬ。大島紬は受けたる盃(さかづき)を把(と)りながら、更に佐分利が持てる猪口(ちよく)を借りて荒尾に差しつ。
「さあ、君を慰める為に一番(ひとつ)間の健康を祝さう」
 荒尾の喜は実(げ)に溢(あふ)るるばかりなりき。
「おお、それは辱(かたじけ)ない」
 盈々(なみなみ)と酒を容(い)れたる二つの猪口は、彼等の目より高く挙げらるると斉(ひとし)く戞(かつ)と相撃(あひう)てば、紅(くれなゐ)の雫(しづく)の漏るが如く流るるを、互に引くより早く一息(ひといき)に飲乾したり。これを見たる佐分利は甘糟の膝を揺(うごか)して、
「蒲田は如才ないね。面(つら)は醜(まづ)いがあの呼吸で行くから、往々拾ひ物を為るのだ。ああ言(いは)れて見ると誰(たれ)でも些(ちよつ)と憎くないからね」
甘「遉(さすが)は交際官試補!」
佐「試補々々!」
風「試補々々立つて泣きに行く……」
荒「馬鹿な!」
 言(ことば)を改めて荒尾は言出(いひいだ)せり。
「どうも僕は不思議でならんが、停車場(ステエション)で間を見たよ。間に違無いのじや」
 唯(ただ)の今(いま)陰ながらその健康を祷(いの)りし蒲田は拍子を抜して彼の面(おもて)を眺(なが)めたり。
「ふう、それは不思議。他(むかふ)は気が着かなんだかい」
「始は待合所の入口(いりくち)の所で些(ちよつ)と顔が見えたのじや。余り意外ぢやつたから、僕は思はず長椅子(ソオフワア)を起つと、もう見えなくなつた。それから有間(しばらく)して又偶然(ふつと)見ると、又見えたのじや」
甘「探偵小説だ」
荒「その時も起ちかけると又見えなくなつて、それから切符を切つて歩場(プラットフォーム)へ入るまで見えなかつたのじやが、入つて少し来てから、どうも気になるから振返つて見ると、傍(そば)の柱に僕を見て黒い帽を揮(ふ)つとる者がある、それは間よ。帽を揮つとつたから間に違無いぢやないか」
 横浜! 横浜! と或(あるひ)は急に、或は緩(ゆる)く叫ぶ声の窓の外面(そとも)を飛過(とびすぐ)るとともに、響は雑然として起り、迸(ほとばし)り出(い)づる、群集(くんじゆ)は玩具箱(おもちやばこ)を覆(かへ)したる如く、場内の彼方(かなた)より轟(とどろ)く鐸(ベル)の音(ね)はこの響と混雑との中を貫きて奔注せり。

☆昨七日(さくなぬか)イ便の葉書にて(飯田町(いいだまち)局消印)美人クリイムの語にフエアクリイム或(あるひ)はベルクリイムの傍訓有度(ぼうくんありたく)との言(げん)を貽(おく)られし読者あり。ここにその好意を謝するとともに、聊(いささ)か弁ずるところあらむとす。おのれも始め美人の英語を用ゐむと思ひしかど、かかる造語は憖(なまじひ)に理詰ならむよりは、出まかせの可笑(をかし)き響あらむこそ可(よ)かめれとバイスクリイムとも思着(おもひつ)きしなり。意(こころ)は美アイスクリイムなるを、ビ、アイ――バイの格にて試みしが、さては説明を要すべき炊冗(くだくだ)しさを嫌(きら)ひて、更に美人の二字にびじ訓を付せしを、校合者(きようごうしや)の思僻(おもひひが)めてん字(じ)は添へたるなり。陋(いや)しげなるびじクリイムの響の中(うち)には嘲弄(とうろう)の意(こころ)も籠(こも)らむとてなり。なほ高諭(こうゆ)を請(こ)ふ(三〇・九・八附読売新聞より)

     第二章

 柵(さく)の柱の下(もと)に在りて帽を揮(ふ)りたりしは、荒尾が言(ことば)の如く、四年の生死(しようし)を詳悉(つまびらか)にせざりし間貫一にぞありける。彼は親友の前に自(みづから)の影を晦(くらま)し、その消息をさへ知らせざりしかど、陰ながら荒尾が動静の概略(あらまし)を伺ふことを怠らざりき、こ回(たび)その参事官たる事も、午後四時発の列車にて赴任する事をも知るを得しかば、余所(よそ)ながら暇乞(いとまごひ)もし、二つには栄誉の錦(にしき)を飾れる姿をも見んと思ひて、群集(くんじゆ)に紛れてここには来(きた)りしなりけり。
 何(なに)の故(ゆゑ)に間は四年の音信(おとづれ)を絶ち、又何の故にさしも懐(おもひ)に忘れざる旧友と相見て別(べつ)を為さざりしか。彼が今の身の上を知らば、この疑問は自(おのづか)ら解釈せらるべし。
 柵の外に立ちて列車の行くを送りしは独(ひと)り間貫一のみにあらず、そこもとに聚(つど)ひし老若貴賤(ろうにやくきせん)の男女(なんによ)は皆個々の心をもて、愁ふるもの、楽むもの、虞(きづか)ふもの、或は何とも感ぜぬものなど、品変れども目的は一(いつ)なり。数分時の混雑の後車の出(い)づるとともに、一人散り、二人散りて、彼の如く久(ひさし)う立尽せるはあらざりき。やがて重き物など引くらんやうに彼の漸(やうや)く踵(きびす)を旋(めぐら)せし時には、推重(おしかさな)るまでに柵際(さくぎは)に聚(つど)ひし衆(ひと)は殆(ほとん)ど散果てて、駅夫の三四人が箒(はうき)を執りて場内を掃除せるのみ。
 貫一は差含(さしぐま)るる涙を払ひて、独り後(おく)れたるを驚きけん、遽(にはか)に急ぎて、蓬莱橋口(ほうらいばしぐち)より出(い)でんと、あだかも石段際に寄るところを、誰(たれ)とも知らで中等待合の内より声を懸けぬ。
「間さん!」
 慌(あわ)てて彼の見向く途端に、
「些(ちよつ)と」と戸口より半身を示して、黄金(きん)の腕環の気爽(けざやか)に耀(かがや)ける手なる絹ハンカチイフに唇辺(くちもと)を掩(おほ)いて束髪の婦人の小腰を屈(かが)むるに会へり。艶(えん)なる面(おもて)に得も謂(い)はれず愛らしき笑(ゑみ)をさへ浮べたり。
「や、赤樫(あかがし)さん!」
 婦人の笑(ゑみ)もて迎ふるには似ず、貫一は冷然として眉(まゆ)だに動かさず。
「好(よ)い所でお目に懸りましたこと。急にお話を致したい事が出来ましたので、まあ、些(ちよつ)と此方(こち)へ」
 婦人は内に入れば、貫一も渋々跟(つ)いて入るに、長椅子(ソオフワア)に掛(かく)れば、止む無くその側(そば)に座を占めたり。
「実はあの保険建築会社の小車梅(おぐるめ)の件なのでございますがね」
 彼は黒樗文絹(くろちよろけん)の帯の間を捜(さぐ)りて金側時計を取出(とりいだ)し、手早く収めつつ、
「貴方(あなた)どうせ御飯前でゐらつしやいませう。ここでは、御話も出来ませんですから、何方(どちら)へかお供を致しませう」
 紫紺塩瀬(しほぜ)に消金(けしきん)の口金(くちがね)打ちたる手鞄(てかばん)を取直して、婦人はやをら起上(たちあが)りつ。迷惑は貫一が面(おもて)に顕(あらは)れたり。
「何方(どちら)へ?」
「何方(どちら)でも、私には解りませんですから貴方(あなた)のお宜(よろし)い所へ」
「私にも解りませんな」
「あら、そんな事を仰有(おつしや)らずに、私は何方でも宜(よろし)いのでございます」
 荒布革(あらめがは)の横長なる手鞄(てかばん)を膝の上に掻抱(かきいだ)きつつ貫一の思案せるは、その宜き方(かた)を択ぶにあらで、倶(とも)に行くをば躊躇(ちゆうちよ)せるなり。
「まあ、何にしても出ませう」
「さやう」
 貫一も今は是非無く婦人に従ひて待合所の出会頭(であひがしら)に、入来(いりく)る者ありて、その足尖(つまさき)を挫(ひし)げよと踏付けられぬ。驚き見れば長高(たけたか)き老紳士の目尻も異(あやし)く、満枝の色香(いろか)に惑ひて、これは失敬、意外の麁相(そそう)をせるなりけり。彼は猶懲(なほこ)りずまにこの目覚(めざまし)き美形(びけい)の同伴をさへ暫(しばら)く目送(もくそう)せり。
 二人は停車場(ステエション)を出でて、指す方(かた)も無く新橋に向へり。
「本当に、貴方、何方へ参りませう」
「私は、何方でも」
「貴方、何時までもそんな事を言つてゐらしつてはきりがございませんから、好い加減に極(き)めやうでは御坐いませんか」
「さやう」
 満枝は彼の心進まざるを暁(さと)れども、勉(つと)めて吾意(わがい)に従はしめんと念(おも)へば、さばかりの無遇(ぶあしらひ)をも甘んじて、
「それでは、貴方、鰻□(うなぎ)は上(あが)りますか」
「鰻□? 遣りますよ」
「鶏肉(とり)と何方が宜(よろし)うございます」
「何方でも」
「余り御挨拶(ごあいさつ)ですね」
「何為(なぜ)ですか」
 この時貫一は始めて満枝の面(おもて)に眼(まなこ)を移せり。百(もも)の媚(こび)を含みて□(みむか)へし彼の眸(まなじり)は、未(いま)だ言はずして既にその言はんとせる半(なかば)をば語尽(かたりつく)したるべし。彼の為人(ひととなり)を知りて畜生と疎(うと)める貫一も、さすがに艶なりと思ふ心を制し得ざりき。満枝は貝の如き前歯と隣れる金歯とを露(あらは)して片笑(かたゑ)みつつ、
「まあ、何為(なぜ)でも宜うございますから、それでは鶏肉(とり)に致しませうか」
「それも可(い)いでせう」
 三十間堀(さんじつけんぼり)に出でて、二町ばかり来たる角(かど)を西に折れて、唯(と)有る露地口に清らなる門構(かどがまへ)して、光沢消硝子(つやけしガラス)の軒燈籠(のきとうろう)に鳥と標(しる)したる方(かた)に、人目にはさぞ解(わけ)あるらしう二人は連立ちて入りぬ。いと奥まりて、在りとも覚えぬ辺(あたり)に六畳の隠座敷の板道伝(わたりづたひ)に離れたる一間に案内されしも宜(うべ)なり。
 懼(おそ)れたるにもあらず、困(こう)じたるにもあらねど、又全くさにあらざるにもあらざらん気色(けしき)にて貫一の容(かたち)さへ可慎(つつま)しげに黙して控へたるは、かかる所にこの人と共にとは思懸(おもひか)けざる為体(ていたらく)を、さすがに胸の安からぬなるべし。通し物は逸早(いちはや)く満枝が好きに計ひて、少頃(しばし)は言(ことば)無き二人が中に置れたる莨盆(たばこぼん)は子細らしう一□(ちゆう)の百和香(ひやつかこう)を燻(くゆ)らせぬ。
「間さん、貴方どうぞお楽に」
「はい、これが勝手で」
「まあ、そんな事を有仰(おつしや)らずに、よう、どうぞ」
「内に居つても私はこの通なのですから」
「嘘(うそ)を有仰(おつしや)いまし」
 かくても貫一は膝(ひざ)を崩(くづ)さで、巻莨入(まきたばこいれ)を取出(とりいだ)せしが、生憎(あやにく)一本の莨もあらざりければ、手を鳴さんとするを、満枝は先(さきん)じて、
「お間に合せにこれを召上りましな」
 麻蝦夷(あさえぞ)の御主殿持(ごしゆでんもち)とともに薦(すす)むる筒の端(はし)より焼金(やききん)の吸口は仄(ほのか)に耀(かがや)けり。歯は黄金(きん)、帯留は黄金(きん)、指環は黄金(きん)、腕環は黄金(きん)、時計は黄金(きん)、今又煙管(きせる)は黄金(きん)にあらずや。黄金(きん)なる哉(かな)、金(きん)、金(きん)! 知る可(べ)し、その心も金(きん)! と貫一は独(ひと)り可笑(をか)しさに堪(た)へざりき。
「いや、私は日本莨は一向可(い)かんので」
 言ひも訖(をは)らぬ顔を満枝は熟(じつ)と視(み)て、
「決(け)して穢(きたな)いのでは御坐いませんけれど、つい心着(こころつ)きませんでした」
 懐紙(ふところがみ)を出(いだ)してわざとらしくその吸口を捩拭(ねぢぬぐ)へば、貫一も少(すこし)く慌(あわ)てて、
「決(け)してさう云ふ訳ぢやありません、私は日本莨は用ゐんのですから」
 満枝は再び彼の顔を眺めつ。
「貴方、嘘をお吐(つ)きなさるなら、もう少し物覚(ものおぼえ)を善く遊ばせよ」
「はあ?」
「先日鰐淵(わにぶち)さんへ上つた節、貴方召上つてゐらしつたではございませんか」
「はあ?」
「瓢箪(ひようたん)のやうな恰好(かつこう)のお煙管で、さうして羅宇(らう)の本(もと)に些(ちよつ)と紙の巻いてございました」
「あ!」と叫びし口は頓(とみ)に塞(ふさ)がざりき。満枝は仇無(あどな)げに口を掩(おほ)ひて笑へり。この罰として貫一は直(ただち)に三服の吸付莨を強(し)ひられぬ。
 とかくする間(ま)に盃盤(はいばん)は陳(つら)ねられたれど、満枝も貫一も三盃(ばい)を過し得ぬ下戸(げこ)なり。女は清めし猪口(ちよく)を出(いだ)して、
「貴方、お一盞(ひとつ)」
「可かんのです」
「又そんな事を」
「今度は実際」
「それでは麦酒(ビール)に致しませうか」
「いや、酒は和洋とも可かんのですから、どうぞ御随意に」
 酒には礼ありて、おのれ辞せんとならば、必ず他に侑(すす)めて酌せんとこそあるべきに、甚(はなはだし)い哉、彼の手を束(つか)ねて、御随意にと会釈せるや、満枝は心憎しとよりはなかなかに可笑しと思へり。
「私も一向不調法なのでございますよ。折角差上げたものですからお一盞(ひとつ)お受け下さいましな」
 貫一は止む無くその一盞(ひとつ)を受けたり。はやかく酒になりけれども、満枝が至急と言ひし用談に及ばざれば、
「時に小車梅(おぐるめ)の件と云ふのはどんな事が起りましたな」
「もうお一盞召上れ、それからお話を致しますから。まあ、お見事! もうお一盞」
 彼は忽(たちま)ち眉(まゆ)を攅(あつ)めて、
「いやそんなに」
「それでは私が戴(いただ)きませう、恐入りますがお酌を」
「で、小車梅の件は?」
「その件の外(ほか)に未だお話があるのでございます」
「大相有りますな」
「酔はないと申上げ難(にく)い事なのですから、私少々酔ひますから貴方、憚様(はばかりさま)ですが、もう一つお酌を」
「酔つちや困ります。用事は酔はん内にお話し下さい」
「今晩は私酔ふ意(つもり)なのでございますもの」
 その媚(こび)ある目の辺(ほとり)は漸(やうや)く花桜の色に染みて、心楽しげに稍(やや)身を寛(ゆるやか)に取成したる風情(ふぜい)は、実(げ)に匂(にほひ)など零(こぼ)れぬべく、熱しとて紺の絹精縷(きぬセル)の被風(ひふ)を脱げば、羽織は無くて、粲然(ぱつ)としたる紋御召の袷(あはせ)に黒樗文絹(くろちよろけん)の全帯(まるおび)、華麗(はなやか)に紅(べに)の入りたる友禅の帯揚(おびあげ)して、鬢(びん)の後(おく)れの被(かか)る耳際(みみぎは)を掻上(かきあ)ぐる左の手首には、早蕨(さわらび)を二筋(ふたすぢ)寄せて蝶(ちよう)の宿れる形(かた)したる例の腕環の爽(さはやか)に晃(きらめ)き遍(わた)りぬ。常に可忌(いまは)しと思へる物をかく明々地(あからさま)に見せつけられたる貫一は、得堪(えた)ふまじく苦(にが)りたる眉状(まゆつき)して密(ひそか)に目を□(そら)しつ。彼は女の貴族的に装(よそほ)へるに反して、黒紬(くろつむぎ)の紋付の羽織に藍千筋(あゐせんすぢ)の秩父銘撰(ちちぶめいせん)の袷着て、白縮緬(しろちりめん)の兵児帯(へこおび)も新(あたらし)からず。
 彼を識(し)れりし者は定めて見咎(みとが)むべし、彼の面影(おもかげ)は尠(すくな)からず変りぬ。愛らしかりしところは皆失(う)せて、四年(よとせ)に余る悲酸と憂苦と相結びて常に解けざる色は、自(おのづか)ら暗き陰を成してその面(おもて)を蔽(おほ)へり。撓(たゆ)むとも折るべからざる堅忍の気は、沈鬱せる顔色(がんしよく)の表に動けども、嘗(かつ)て宮を見しやうの優き光は再びその眼(まなこ)に輝かずなりぬ。見ることの冷(ひややか)に、言ふことの謹(つつし)めるは、彼が近来の特質にして、人はこれが為に狎(な)るるを憚(はばか)れば、自(みづから)もまた苟(いやしく)も親みを求めざるほどに、同業者は誰(たれ)も誰も偏人として彼を遠(とほざ)けぬ。焉(いづく)んぞ知らん、貫一が心には、さしもの恋を失ひし身のいかで狂人たらざりしかを怪(あやし)むなりけり。
 彼は色を正して、満枝が独り興に乗じて盃(さかづき)を重ぬる体(てい)を打目戍(うちまも)れり。
「もう一盞(ひとつ)戴きませうか」
 笑(ゑみ)を漾(ただ)ふる眸(まなじり)は微醺(びくん)に彩られて、更に別様の媚(こび)を加へぬ。
「もう止したが可いでせう」
「貴方(あなた)が止せと仰有(おつしや)るなら私は止します」
「敢(あへ)て止せとは言ひません」
「それぢや私酔ひますよ」
 答無かりければ、満枝は手酌(てじやく)してその半(なかば)を傾けしが、見る見る頬の麗く紅(くれなゐ)になれるを、彼は手もて掩(おほ)ひつつ、
「ああ、酔ひましたこと」
 貫一は聞かざる為(まね)して莨を燻(くゆ)らしゐたり。
「間さん、……」
「何ですか」
「私今晩は是非お話し申したいことがあるので御坐いますが、貴方お聴き下さいますか」
「それをお聞き申す為に御同道したのぢやありませんか」
 満枝は嘲(あざけら)むが如く微笑(ほほゑ)みて、
「私何だか酔つてをりますから、或は失礼なことを申上げるかも知れませんけれど、お気に障(さ)へては困りますの。然(しか)し、御酒(ごしゆ)の上で申すのではございませんから、どうぞそのお意(つもり)で、宜(よろし)うございますか」
「撞着(どうちやく)してゐるぢやありませんか」
「まあそんなに有仰(おつしや)らずに、高(たか)が女の申すことでございますから」
 こは事難(ことむづかし)うなりぬべし。克(かな)はぬまでも多少は累を免れんと、貫一は手を拱(こまぬ)きつつ俯目(ふしめ)になりて、力(つと)めて関(かかは)らざらんやうに持成(もてな)すを、満枝は擦寄(すりよ)りて、

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