硯友社の沿革
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著者名:尾崎紅葉 

夙(かね)て硯友社(けんいうしや)の年代記(ねんだいき)を作つて見やうと云(い)ふ考(かんがへ)を有(も)つて居(ゐ)るのでありますが、書いた物は散佚(さんゐつ)して了(しま)ふし、或(あるひ)は記憶(きおく)から消え去つて了(しま)つた事実などが多い為(ため)に、迚(とて)も自分一人(ひとり)で筆(ふで)を執(と)るのでは、十分な事を書く訳(わけ)には行かんのでありますから、其(そ)の当時(たうじ)往来(わうらい)して居(を)つた人達(ひとたち)に問合(とひあは)せて、各方面(かくはうめん)から事実を挙(あ)げなければ、沿革(えんかく)と云(い)ふべき者を書く事は出来(でき)ません、
其(これ)に就(つい)て不便(ふべん)な事は、其昔(そのむかし)朝夕(あさいふ)に往来(わうらい)して文章を見せ合つた仲間の大半は、始(はじめ)から文章を以(もつ)て身を立(たて)る志(こゝろざし)の人でなかつたから、今日(こんにち)では実業家(じつげふか)に成(な)つて居(を)るのも有れば工学家(こうがくか)に成(な)つて居(を)るのも有る、其他(そのた)裁判官(さいばんくわん)も有る、会社員も有る、鉄道の駅長も有る、中(なか)には行方不明(ゆくへふめい)なのも有る、物故(ぶつこ)したのも有る、で、銘々(めい/\)業(げふ)が違(ちが)ふからして自(おのづ)から疎遠(そゑん)に成(な)る、長い月日には四方(はう)に散(さん)じて了(しま)つて、此方(こちら)も会ふのが億劫(おくゝふ)で、いつか/\と思ひながら、今だに着手(ちやくしゆ)もせずに居(を)ると云(い)ふ始末(しまつ)です、今日(こんにち)お話を為(す)るのは些(ほん)の荒筋(あらすぢ)で、年月(ねんげつ)などは別(べつ)して記憶(きおく)して居(を)らんのですから、随分(ずゐぶん)私(わたし)の思違(おもひちが)ひも多からうと思ひます、其(それ)は他日(たじつ)善(よ)く正(たゞ)します、
抑(そもそ)も硯友社(けんいうしや)の起(おこ)つたに就(つい)ては、私(わたし)が山田美妙(やまだびめう)君(くん)(其頃(そのころ)別号(べつがう)を樵耕蛙船(せうかうあせん)と云(い)ひました)と懇意(こんい)に成(な)つたのが、其(そ)の動機(どうき)でありますから、一寸(ちよつと)其(そ)の交際(かうさい)の大要(たいえう)を申上(まをしあ)げて置く必要が有る、明治十五年の頃(ころ)でありましたか東京府の構内(かうない)に第二中学と云(い)ふのが在(あ)りました、一(ひと)ツ橋(ばし)内(うち)の第一中学に対して第二と云(い)つたので、それが私(わたし)が入学した時に、私(わたし)より二級上に山田武太郎(やまだたけたらう)なる少年が居(を)つたのですが、此(この)少年は其(そ)の級中(きふちう)の年少者(ねんせうしや)で在(あ)りながら、漢文(かんぶん)でも、国文(こくぶん)でも、和歌(わか)でも、詩(し)でも、戯作(げさく)でも、字も善(よ)く書いたし、画(ゑ)も少しは遣(や)ると云(い)つたやうな多芸(たげい)の才子(さいし)で、学課(がくくわ)も中以上(ちういじやう)の成績(せいせき)であつたのは、校中(かうちう)評判(ひやうばん)の少年でした、私(わたし)は十四五の時分(じぶん)はなか/\の暴(あば)れ者で、課業(くわげふ)の時間を迯(に)げては運動場(うんどうば)へ出て、瓦廻(かはらまわ)しを遣(や)る、鞦韆飛(ぶらんことび)を遣(や)る、石ぶつけでも、相撲(すまふ)でも撃剣(げきけん)の真似(まね)でも、悪作劇(わるいたずら)は何(なん)でも好(すき)でした、(尤(もつと)も唯今(たゞいま)でも余(あま)り嫌(きら)ひの方(はう)ではない)然(しか)るに山田(やまだ)は極(ごく)温厚(おんこう)で、運動場(うんどうば)へ出て来ても我々(われ/\)の仲間に入(はい)つた事などは無い、超然(てうぜん)として独(ひと)り静(しづか)に散歩して居(を)ると云(い)つたやうな風(ふう)で、今考へて見ると、成程(なるほど)年少詩人(ねんせうしじん)と云(い)つた態度(たいど)がありましたよ、其(それ)が甚麼(どんな)機(はずみ)で相近(あひちかづ)く事に成(な)つたのであるか、どうも覚えませんけれど、いつかフレンドシツプが成立(なりた)つたのです、
尤(もつと)も段々(だん/″\)話合(はなしあ)つて見ると、五六才(さい)の時分(じぶん)には同(おな)じ長屋(ながや)の一軒(いつけん)置(お)いた隣同士(となりどうし)で、何(なん)でも一緒(いつしよ)に遊んだ事も有つたらしいので、那様(そんな)事から一層(いつそう)親密(しんみつ)に成(な)つて、帰路(かへりみち)も同じでありましたから連立(つれだ)つても帰る、家(うち)へ尋(たづ)ねて行(ゆ)く、他(さき)も来る、そこで学校外(がくかうぐわい)の交(まじはり)を結(むす)ぶやうに成(な)つたのです、
私(わたし)は程無(ほどな)く右の中学を出て、芝(しば)の愛宕下町(あたごしたまち)に在(あ)つた、大学予備門(だいがくよびもん)の受験科(じゆけんくわ)専門(せんもん)の三田英学校(みたえいがつこう)と云(い)ふのに転学(てんがく)しました、それから大学予備門(だいがくよびもん)に入つて二年(ねん)経(た)つ迄(まで)、山田(やまだ)とは音信不通(いんしんふつう)の状(かたち)で居(ゐ)たのです、其(それ)には別(べつ)に理由(りいう)も何(なに)も無い、究竟(つまり)学校が違つて了(しま)つた所から、お互(たがひ)に今日(こんにち)あつて昨日(さくじつ)も明日(みやうにち)も無い子供心(こどもごゝろ)に、漠然(ぼうつ)と忘(わす)れて了(しま)つたのです、すると、私(わたし)が二級(きふ)に成(な)つた時(とき)、山田(やまだ)が四級(きふ)に入つて来たのです、実に這麼(こんな)意外な想(おもひ)をした事が無い、第二中学に居(ゐ)た時は私(わたし)より二級(きふ)上(うへ)の山田(やまだ)が、予備門(よびもん)では二級(きふ)下(した)の組(くみ)に入つて来たのでせう、私(わたし)は何為(どうし)た事かと思ひました、然(しか)し、実に可懐(なつかし)かつたのです、顔を見ると手を把(と)つて、直(たゞち)に旧交(きふこう)が尋(あたゝ)められると云(い)ふ訳(わけ)で、其頃(そのころ)山田(やまだ)も私(わたし)も猶且(やはり)第二中学時代と易(かは)らず芝(しば)に住(す)んで居(ゐ)ましたから、往復(わうふく)ともに手を携(たづさ)へて、議論(ぎろん)を上下(じやうげ)するも大きいが、お互(たがひ)の談(はなし)も数年前(すうねんまえ)よりは真面目(まじめ)に成(な)つた、さて話をして見ると、山田(やまだ)は文章を以(も)つて立たうと云(い)ふ精神(せいしん)、私(わたし)も同断(どうだん)だ、私(わたし)の此(この)志(こゝろざし)を抱(いだ)いたのは、予備門(よびもん)に入学して一年(いちねん)許(ばかり)過(す)ぎての事であるが、山田(やまだ)は彼(か)の第二中学に居(ゐ)る時分から早く業(すで)に那様(こんな)了見(りやうけん)が有つたらしいのです、一年(いちねん)前(ぜん)に其志(そのこゝろざし)を抱(いだ)いた私(わたし)は未(ま)だ小説の筆(ふで)は仇(と)つて見なかつたのであるが、恐(おそ)る可(べ)き哉(かな)、己(おのれ)より三歳(みつ)弱(わか)い山田(やまだ)が既(すで)に竪琴草子(たてごとざうし)なる一篇(いつぺん)を綴(つゞ)つて、疾(とう)から価(あたへ)を待(ま)つ者であつたのは奈何(どう)です、然(さう)云(い)ふ物を書いたから、是非(ぜひ)一読(いちどく)して批評(ひゝやう)をしてくれと言つて百五六中枚(まい)も有る一冊(いつさつ)の草稿(そうかう)を私(わたし)に見せたのでありました、其(そ)の小説はアルフレツド大王(だいわう)の事蹟(じせき)を仕組(しく)んだもので文章(ぶんしやう)は馬琴(ばきん)を学(まな)んで、実に好(よ)く出来て居(ゐ)て、私(わたし)は舌(した)を巻(ま)きました、なか/\批評(ひゝやう)どころではない、敬服(けいふく)して了(しま)つたのです、因(そこ)で考へた、彼(かれ)が二年(ねん)晩(おく)れて予備門(よびもん)に入つて来たのは、意味(いみ)無くして遅々(ぐづ/\)して居(ゐ)たのではない、其間(そのあひだ)に余程(よほど)文章を修行(しゆぎやう)したものらしい、増上寺(ぞうじやうじ)の行誡上人(ぎやうかいしやうにん)や石川鴻斎翁(いしかはこうさいおう)の所へ行つたのは総(すべ)て此間(このあひだ)の事で、而(そ)して専(もつぱ)ら独修(どくしう)をした者と見える、何(なん)でも西郷隆盛論(さいごうたかもりろん)であつたか、遊二松島一記(まつしまにあそぶき)であつたか鴻斎翁(こうさいおう)が始(はじめ)て彼(かれ)の文章を見た時、年の若いに似合(にあ)はぬ筆(ふで)つきを怪(あやし)んで、剽窃(へうせつ)したのであらうと尤(とが)めたと云(い)ふ話を聞きましたが、漢文(かんぶん)も善(よ)く書いたのです、
次(つぎ)に硯友社(けんいうしや)の興(な)るに就(つ)いて、第二の動機(だうき)となつたのは、思案外史(しあんがいし)と予備門(よびもん)の同時(どうじ)の入学生(にふがくせい)で相識(あいし)つたのです、其頃(そのころ)は石橋雨香(いしばしうかう)と云(い)つて居(ゐ)ました、是(これ)は私(わたし)の竹馬(ちくば)の友(とも)の久我(くが)某(ぼう)が石橋(いしばし)とはお茶(ちや)の水(みづ)の師範学校(しはんがくかう)で同窓(どうそう)であつた為(ため)に私(わたし)に紹介(せうかい)したのでしたが、其(そ)の理由は第一私(わたし)と好(このみ)を同(おなじ)うするし、且(かつ)面白(おもしろ)い人物(じんぶつ)であるから交際(かうさい)して見給(みたま)へと云(い)ふのでありました、是(これ)から私(わたし)が又(また)山田(やまだ)と石橋(いしばし)とを引合(ひきあは)せて、先(ま)づ桃園(とうゑん)に義(ぎ)を結(むす)んだ状(かたち)です、
其内(そのうち)に山田(やまだ)は芝(しば)から一(ひと)ツ橋(ばし)まで通学(つうがく)するのは余(あま)り遠(とほ)いと云(い)ふので、駿河台(するがだい)鈴木町(すずきちやう)の坊城(ばうじやう)の邸内(ていない)に引越(ひつこ)した、石橋(いしばし)は九段坂上(くだんさかうへ)の今の暁星学校(ぎやうせいがくかう)の在(あ)る処(ところ)に居(ゐ)たのですが、私(わたし)は不相変(あひかはらず)芝(しば)から通(かよ)つて居(ゐ)た、山田(やまだ)と益(ます/\)親密(しんみつ)になるに就(つ)けて、遠方(ゑんぱう)から通ふのは不都合(ふつがふ)であるから、僕(ぼく)の家(うち)に寄宿(きしゆく)しては奈何(どう)です、と山田(やまだ)が云(い)つてくれるから、願(ねが)うても無き幸(さいわひ)と、直(すぐ)に笈(きふ)を負(をつ)て、郷関(きやうくわん)を出た、山田(やまだ)の書斎(しよさい)は八畳(ぢやう)の間(ま)でしたが、其(それ)に机(つくゑ)を相対(さしむかひ)に据(す)ゑて、北向(きたむき)の寒(さむ)い武者窓(むしやまど)の薄暗(うすぐら)い間(ま)に立籠(たてこも)つて、毎日(まいにち)文学の話です、此(こゝ)に二人(ふたり)が鼻(はな)を並(なら)べて居(ゐ)るから石橋(いしばし)も繁(しげ)く訪ねて来る、山田(やまだ)は出嫌(でぎら)ひであつたが、私(わたし)は飛行自由(ひぎやうじざい)の方(はう)であるから、四方(しはう)に交(まじはり)を結(むす)びました、処(ところ)が予備門(よびもん)内(ない)を普(あまね)く尋(たづ)ねて見ると、なか/\斯道(しだう)の好者(すきしや)が潜伏(せんぷく)して居(ゐ)るので、それを石橋(いしばし)と私(わたし)とで頻(しきり)に掘出(ほりだ)しに掛(かゝ)つた、すると群雄(ぐんいう)四方(しはう)より起(おこ)つて、響(ひゞき)の声に応(おう)ずるが如(ごと)しです、是(これ)が硯友社(けんいうしや)創立(さうりつ)の導火線(だうくわせん)と成(な)つたので、
さて其頃(そのころ)の三人(さんにん)の有様(ありさま)は如何(いか)にと云(い)ふに、山田(やまだ)は勉強家(べんきやうか)であつたが、学科(がくくわ)の方(はう)はお役目(やくめ)に遣(や)つて居(ゐ)て、雑書(ざつしよ)のみを見て居(ゐ)た、石橋(いしばし)は躰育(たいいく)熱心(ねつしん)の遊ぶ方(はう)で、競争(きやうそう)は遣(や)る、器械躰操(きかいたいさう)は遣(や)る、ボートは善(よ)く漕(こ)ぐ、水練(すゐれん)は遣(や)る、自転車で乗廻(のりまは)す、馬(うま)も遣(や)る、学科には平生(へいぜい)苦心(くしん)せんのであつたが、善(よ)く出来ました、試験(しけん)の成績(せいせき)も相応(さうおう)に宜(よろ)しかつた、私(わたし)と来ると、山田(やまだ)とも付(つ)かず石橋(いしばし)とも付かずでお茶を濁(にご)して居(ゐ)たのです、其頃(そのころ)世間(せけん)に持囃(もてはや)された読物(よみもの)は、春(はる)のや君(くん)の書生気質(しよせいかたぎ)、南翠(なんすゐ)君(くん)の何(なん)で有つたか、社会小説(しやくわいせうせつ)でした、それから、篁村翁(くわうそんおう)が読売新聞(よみうりしんぶん)で軽妙(けいめう)な短編(たんぺん)を盛(さかん)に書いて居(ゐ)ました、其等(それら)を見て山田(やまだ)は能(よ)く話をした事ですが、此分(このぶん)なら一二年内(ねんない)には此方(こつち)も打つて出て一合戦(ひとかつせん)して見やう、而(さう)して末(すゑ)には天下(てんか)を…………などゝ云(い)ふ大気焔(だいきえん)も有つたのです、
処(ところ)へ或日(あるひ)石橋(いしばし)が来て、唯(たゞ)恁(かう)して居(ゐ)るのも充(つま)らんから、練習の為(ため)に雑誌を拵(こしら)へては奈何(どう)かと云(い)ふのです、いづれも下地(したぢ)は好(すき)なりで同意(どうい)をした、就(つい)ては会員組織(くわいゝんそしき)にして同志(どうし)の文章を募(つの)らうと議決(ぎけつ)して、三人(さんにん)が各自(てんで)に手分(てわけ)をして、会員(くわいゝん)を募集(ぼしう)する事に成(な)つた、学校に居(を)る者、並(ならび)に其以外(それいぐわい)の者をも語合(かたら)つて、惣勢(そうぜい)二十五人(にん)も得(え)ましたらうか、其内(そのうち)過半(くわはん)は予備門(よびもん)の学生でした、
今日(こんにち)になつて見ると、右の会員の変遷(へんせん)は驚(おどろ)く可(べ)き者(もの)で、其内(そのうち)死亡(しばう)した者(もの)、行方不明(ゆくへふめい)の者(もの)、音信不通(いんしんふつう)の者(もの)等(など)が有るが、知れて居(ゐ)る分(ぶん)では、諸機械(しよきかい)の輸入(ゆにふ)の商会(しやうくわい)に居(ゐ)る者(もの)が一人(ひとり)、地方(ちはう)の判事(はんじ)が一人(ひとり)、法学士(はふがくし)が一人(ひとり)、工学士(こうがくし)が二人(ふたり)、地方(ちはう)の病院長(びやうゐんちやう)が一人(ひとり)、生命保険(せいめいほけん)会社員(くわいしやいん)が一人(ひとり)、日本鉄道(にほんてつだう)の駅長(えきちやう)が一人(ひとり)、商館番頭(しやうくわんばんたう)が築地(つきぢ)(諸機械(しよきかい))と横浜(よこはま)(生糸(きいと))とで二人(ふたり)、漁業者(ぎよげふしや)と建築家(けんちくか)とで阿米利加(あめりか)に居(を)る者(もの)が二人(ふたり)、地方(ちはう)の中学教員(ちうがくけういん)が一人(ひとり)、某省(ぼうせう)の属官(ぞくくわん)が二人(ふたり)、大阪(おほさか)と横浜(よこはま)とで銀行員(ぎんかういん)が二人(ふたり)、三州(さんしう)の在(ざい)に隠(かく)れて樹(き)を種(う)ゑて居(ゐ)るのが一人(ひとり)、石炭(せきたん)の売込屋(うりこみや)が一人(ひとり)、未(ま)だ/\有るが些(ちよつ)と胸に浮(うか)ばない、先(ま)づ這麼(こんな)風(ふう)に業躰(げふてい)が違つて居(ゐ)るのです、而(さう)して、後□(のち/\)硯友社員(けんいうしやいん)として文壇(ぶんだん)に立つた川上眉山(かはかみびさん)、巌谷小波(いはやせうは)、江見水蔭(えみすゐいん)、中村花痩(なかむらくわさう)、広津柳浪(ひろつりうらう)、渡部乙羽(わたなべおとは)、などゝ云(い)ふ面々(めん/\)は、此(こ)の創立(さうりつ)の際(さい)には尽(こと/″\)く未見(みけん)の人であつたのも亦(また)一奇(いつき)と謂(い)ふべきであります、
因(そこ)で其(そ)[#ルビの「そ」は底本では「その」]の雑誌と云(い)ふのは、半紙(はんし)両截(ふたつぎり)を廿枚(にぢうまい)か卅枚(さんぢうまい)綴合(とぢあは)せて、之(これ)を我楽多文庫(がらくたぶんこ)と名(なづ)け、右の社員中から和歌(わか)、狂歌(きやうか)、発句(ほつく)、端唄(はうた)、漢詩(かんし)、狂詩(きやうし)、漢文(かんぶん)、国文(こくぶん)、俳文(はいぶん)、戯文(げぶん)、新躰詩(しんたいし)、謎(なぞ)も有れば画探(ゑさが)しも有る、首(はじめ)の方(はう)には小説を掲(かゝ)げて、口画(くちゑ)も挿画(さしゑ)も有る、是(これ)が総(すべ)て社員の手から成(な)るので、其(そ)の筆耕(ひつこう)は山田(やまだ)と私(わたし)とで分担(ぶんたん)したのです、山田(やまだ)は細字(さいじ)を上手(じやうづ)に書きました、私(わたし)のは甚(はなは)だ醜(きたな)い、で、小説の類(るい)は余(あま)り寄稿者(きかうしや)が無かつたので、主(おも)に山田(やまだ)と石橋(いしばし)と私(わたし)とのを載(の)せたのです、此(こ)の三人(さんにん)以外(いぐわい)に丸岡九華(まるおかきうくわ)と云(い)ふ人がありました、此(この)人は小説も書けば新躰詩(しんたいし)も作る、当時(たうじ)既(すで)に素人芸(しろうとげい)でないと云(い)ふ評判(ひやうばん)の腕利(うできゝ)で、新躰詩(しんたいし)は殊(こと)に其力(そのちから)を極(きは)めて研究(けんきふ)する所で、百枚(ひやくまい)ほどの叙事詩(じよじし)をも其頃(そのころ)早く作つて、二三の劇詩(げきし)などさへ有りました、依様(やはり)我々(われ/\)と同級(どうきふ)でありましたが、後(のち)に商業学校(せうげふがくかう)に転(てん)じて、中途(ちうと)から全然(すつかり)筆(ふで)を投(たう)じて、今(いま)では高田商会(たかだせうくわい)に出て居(を)りますが、硯友社(けんいうしや)の為(ため)には惜(をし)い人を殺(ころ)して了(しま)つたのです、尤(もつと)も本人の御為(おため)には其方(そのはう)が結搆(けつかう)であつたのでせう、
それで、右の写本(しやほん)を一名(いちめい)に付(つき)三日間(みつかかん)留置(とめおき)の掟(おきて)で社員へ廻(まわ)したのです、すると、見た者は鉛筆(えんぴつ)や朱書(しゆがき)で欄外(らんぐわい)に評(ひやう)などを入れる、其評(そのひやう)を又(また)反駁(はんばく)する者が有るなどで、なか/\面白(おもしろ)かつたのであります、此(こ)の第壱号を出したのが明治十八年の五月二日です、毎月(まいげつ)壱回(いつくわい)の発行(はつかう)で九号(くがう)まで続きました、すると、社員は続々(ぞく/″\)殖(ふ)ゑる、川上(かはかみ)は同級(どうきふ)に居(を)りましたので、此際(このさい)入社したのです、此(この)人は本郷(ほんごう)春木町(はるきちやう)に居(ゐ)て、石橋(いしばし)とは進文学舎(しんぶんがくしや)の同窓(どうそう)で、予備門(よびもん)にも同時(どうじ)に入学したのでありましたが、同好(どうこう)の士(ひと)であることは知らなかつたと見えて、是(これ)まで勧誘(くわんいう)もしなかつたのでありました、眉山人(びさんじん)と云(い)ふのは遥(はる)か後(のち)に改(あらた)めた名で、其頃(そのころ)は煙波散人(えんばさんじん)と云(い)つて居(ゐ)ました、
此(こ)の写本(しやほん)の挿絵(さしゑ)を担当(たんたう)した画家(ぐわか)は二人(ふたり)で、一人(ひとり)は積翠(せきすゐ)(工学士(こうがくし)大沢三之介(おほさはさんのすけ)君(くん))一人(ひとり)は緑芽(りよくが)(法学士(はうがくし)松岡鉦吉(まつをかしやうきち)君(くん))積翠(せきすゐ)は鉛筆画(えんぴつぐわ)が得意(とくい)で、水彩風(すゐさいふう)のも画(か)き、器用(きよう)で日本画(にほんぐわ)も遣(や)つた、緑芽(りよくが)は容斎風(ようさいふう)を善(よ)く画(か)いたが、素人画(しろうとゑ)では無いのでありました、
さて我楽多文庫(がらくたぶんこ)の名が漸(やうや)く書生間(しよせいかん)に知れ渡(わた)つて来たので、四方(しはう)から入会を申込(まをしこ)む、社運隆盛といふ語(ことば)を石橋(いしばし)が口癖(くちぐせ)のやうに言つて喜(よろこ)んで居(ゐ)たのは此頃(このころ)でした、一冊(いつさつ)の本を三四十人して見るのでは一人(ひとり)一日(いちにち)としても一月余(ひとつきよ)かゝるので、これでは奈何(どう)もならぬと云(い)ふので、機(き)も熟(じゆく)したのであるから、印行(いんかう)して頒布(はんぷ)する事に為(し)たいと云(い)ふ説(せつ)が我々(われ/\)三名(さんめい)の間(あひだ)に起(おこ)つた、因(そこ)で、今迄(いまゝで)は毎月(まいげつ)三銭(さんせん)かの会費(くわいひ)であつたのが、俄(にはか)に十銭(せん)と引上(ひきあ)げて、四六版(ばん)三十二頁(ページ)許(ばかり)の雑誌(ざつし)を拵(こしら)へる計画(けいくわく)で、猶(なほ)広(ひろ)く社員を募集(ぼしう)したところ、稍(やゝ)百名(めい)許(ばかり)を得(え)たのでした、此(この)時などは実に日夜(にちや)眠(ねむ)らぬほどの経営(けいえい)で、又(また)石橋(いしばし)の奔走(ほんそう)は目覚(めざま)しいものでした、出版の事は一切(いつさい)山田(やまだ)が担任(たんにん)で、神田(かんだ)今川小路(いまがはかうぢ)の金玉出版会社(きんぎよくしゆつぱんくわいしや)と云(い)ふのに掛合(かけあ)ひました、是(これ)は山田(やまだ)が前年(ぜんねん)既(すで)に一二の新躰詩集(しんたいししう)を公(おほやけ)にして、同会社(どうくわいしや)を識(し)つて居(ゐ)る縁(えん)から此(こゝ)へ持込(もちこ)んだので、此(この)社は曩(さき)に稗史出版会社(はいししゆつぱんくわいしや)予約(よやく)の八犬伝(はつけんでん)を印刷(いんさつ)した事が有(ある)のです、山田(やまだ)は既(すで)に其作(そのさく)を版行(はんかう)した味(あぢ)を知つて居(ゐ)るが、石橋(いしばし)と私(わたし)とは今度(こんど)が皮切(かはきり)なので、尤(もつと)も石橋(いしばし)は前から団珍(まるちん)などに内々(ない/\)投書(とうしよ)して居(ゐ)たのであつたが、隠(かく)して見せなかつた、山田(やまだ)も読売新聞(よみうりしんぶん)へは大分(だいぶ)寄書(きしよ)して居(ゐ)ました、私(わたし)は天にも地にも唯(たゞ)一度(いちど)頴才新誌(えいさいしんし)と云(い)ふのに柳(やなぎ)を咏(えい)じた七言絶句(しちごんぜつく)を出した事が有るが、其外(そのほか)には何(なに)も無い、
扨(さて)雑誌を出すに就(つい)ては、前々(ぜん/\)から編輯(へんしう)の方(はう)は山田(やまだ)と私(わたし)とが引受(ひきう)けて、石橋(いしばし)は専(もつぱ)ら庶務(しよむ)を扱(あつか)つて居(ゐ)たので、此(こ)の三人(さんにん)を署名人(しよめいにん)として、明治十九年の春に改(あらた)めて我楽多文庫(がらくたぶんこ)第壱号(だいいちがう)として出版した、是(これ)が写本(しやほん)の十号(がう)に当(あた)るので、表題(ひやうだい)は山田(やまだ)が隷書(れいしよ)で書きました、之(これ)に載(の)せた山田(やまだ)の小説が言文一致(げんぶんいつち)で、私(わたし)の見たのでは言文一致(げんぶんいつち)の小説は是(これ)が嚆矢(はじめ)でした、
此(こ)の雑誌も九号(くがう)迄(まで)は続きましたが、依様(やはり)十号から慾(よく)が出て、会員に頒布(はんぷ)する位(くらゐ)では面白(おもしろ)くないから、価(あたひ)を廉(やす)くして盛(さかん)に売出(うりだ)して見やうと云(い)ふので、今度(こんど)は四六倍(ばい)の大形(おほがた)にして、十二頁(ページ)でしたか、十六頁(ページ)でしたか、定価(ていか)が三銭(せん)、小説の挿絵(さしゑ)を二面(めん)入れました、之(これ)より先(さき)四六版(ばん)時代(じだい)に今(いま)一人(ひとり)画家(ぐわか)が加(くはゝ)りました、横浜(よこはま)の商館番頭(しやうくわんばんとう)で夢(ゆめ)のやうつゝと云(い)ふ名、実名(じつめい)は忘(わす)れましたが、素人(しろうと)にしては善(よ)く画(か)きました、其後(そのご)独逸(どいつ)へ行つて、今では若松(わかまつ)の製鉄所(せいてつじよ)とやらに居(ゐ)ると聞いたが、消息(せうそく)を詳(つまびらか)にしません、
四六版(ばん)から四六倍(ばい)の雑誌に移(うつ)る迄(まで)には大分(だいぶ)沿革(えんかく)が有るのですが、今は能(よ)く覚えません、印刷所(いんさつじよ)も飯田町(いひだまち)の中坂(なかさか)に在(あ)る同益社(どうえきしや)と云(い)ふのに易(か)へて、其頃(そのころ)私(わたし)は山田(やまだ)の家(うち)を出て四番町(よんばんちやう)の親戚(しんせき)に寄寓(きぐう)して居(ゐ)ましたから、石橋(いしばし)と計(はか)つて、同益社(どうえきしや)の真向(まむかう)に一軒(いつけん)の家(いへ)を借(か)りて、之(これ)に我楽多文庫(がらくたぶんこ)発行所(はつかうしよ)硯友社(けんいうしや)なる看板(かんばん)を上げたのでした、雑誌も既(すで)に売品(ばいひん)と成(な)つた以上(いじやう)は、売捌(うりさばき)の都合(つがふ)や何(なに)や彼(か)やで店らしい者が無ければならぬ、因(そこ)で酷算段(ひどさんだん)をして一軒(いつけん)借(か)りて、二階(にかい)を編輯室(へんしうしつ)、下を応接所(おうせつしよ)兼(けん)売捌場(うりさばきぢやう)に充(あ)てゝ、石橋(いしばし)と私(わたし)とが交(かは)る/″\詰(つ)める事にして、別(べつ)に会計掛(くわいけいがゝり)を置き、留守居(るすゐ)を置き、市内(しない)を卸売(おろしうり)に行(ある)く者を傭(やと)ひ其(その)勢(いきほひ)旭(あさひ)の昇(のぼ)るが如(ごと)しでした、外(ほか)に類(るゐ)が無かつたのか雑誌も能(よ)く売れました、毎号(まいがう)三千(さんぜん)づゝも刷(す)るやうな訳(わけ)で、未(いま)だ勉(つと)めて拡張(かくちやう)すれば非常(ひじやう)なものであつたのを、無勘定(むかんじやう)の面白半分(おもしろはんぶん)で遣(や)つて居(ゐ)た為(ため)に、竟(つひ)に大事(だいじ)を去(さ)らせたとは後(のち)にぞ思合(おもひあは)されたのです、今だに一(ひと)つ話(ばなし)に残(のこ)つて居(ゐ)るのは、此際(このさい)の事です、何(なん)でも雑誌を売らなければ可(い)かんと云(い)ふので、発行日(はつかうび)には石橋(いしばし)も私(わたし)も鞄(かばん)の中へ何十部(なんじふぶ)と詰(つ)め込(こ)んで、而(さう)して学校へ出る、休憩時間(きふけいじかん)には控所(ひかえじよ)の大勢(おほぜい)の中を奔走(ほんそう)して売付(うりつ)けるのです、其頃(そのころ)学習院(がくしうゐん)が類焼(るいしやう)して当分(たうぶん)高等中学(こうとうちうがく)に合併(がつぺい)して居(ゐ)ましたから、此(こゝ)へも持つて行つて推売(おしう)るのです、学生時代(がくせいじだい)の石橋(いしばし)と云(い)ふ者は実に顔が広かつたし、且(かつ)前(ぜん)に学習院(がくしうゐん)に居(ゐ)た事があるので、善(よ)く売りました、第一(だいいち)其(そ)の形(かたち)と云(い)ふものが余程(よほど)可笑(をかし)い、石橋(いしばし)が鼻目鏡(はなめがね)を掛(か)けて今こそ流行(はや)るけれど、其頃(そのころ)は着手(きて)の無いインパネスの最(もう)一倍(いちばい)袖(そで)の短(みじか)いのを被(き)て雑誌を持つて廻(まわ)る、私(わたし)は又(また)紫(むらさき)ヅボンと云(いは)れて、柳原(やなぎはら)仕入(しいれ)の染返(そめかへし)の紺(こん)ヘルだから、日常(ひなた)に出ると紫色(むらさきいろ)に見える奴(やつ)を穿(は)いて、外套(ぐわいたう)は日蔭町物(ひかげちやうもの)の茶羅紗(ちやらしや)を黄(き)に返(かへ)したやうな、重(おも)いボテ/\したのを着て、現金(げんきん)でなくちや可(い)かんよとなどゝ絶叫(ぜつけう)する様(さま)は、得易(えやす)からざる奇観(きくわん)であつたらうと想(おも)はれる、這麼(こんな)風(ふう)で中坂(なかさか)に社(しや)を設(まう)けてからは、石橋(いしばし)と私(わたし)とが一切(いつさい)を処理(しより)して、山田(やまだ)は毎号(まいごう)一篇(いつぺん)の小説を書くばかりで、前のやうに社に対(たい)して密(みつ)なる関係(くわんけい)を持たなかつた、と云(い)ふのが、山田(やまだ)は元来(ぐわんらい)閉戸主義(へいこしゆぎ)であつたから、其(そ)の躯(からだ)が恁(かう)云(い)ふ雑務(ざつむ)に鞅掌(わうしやう)するのを許(ゆる)さぬので、自(おのづ)から遠(とほざ)かるやうに成(な)つたのであります、
漣山人(さゞなみさんじん)は此頃(このごろ)入社したので、夙(かね)て一六翁(いちろくおう)の三男(さんなん)に其人(そのひと)有りとは聞いて居(ゐ)たが、顔を見た事も無かつたのであつた所、社員の内(うち)に山人(さんじん)と善(よ)く識(し)る者が有つて、此(この)人の紹介(せうかい)で社中(しやちう)に加はる事になつたのでした、其頃(そのころ)巌谷(いはや)は独逸協会学校(どいつけふくわいがくかう)に居(ゐ)まして、お坊(ばう)さんの成人(せいじん)したやうな少年で、始(はじめ)て編輯室(へんしうしつ)に来たのは学校の帰途(かへり)で、黒羅紗(くろらしや)の制服(せいふく)を着て居(ゐ)ました、此(この)人は何(なん)でも十三四の頃(ころ)から読売新聞(よみうりしんぶん)に寄書(きしよ)して居(ゐ)たので、其(そ)の文章(ぶんしやう)を見た目で此(この)人を看(み)ると、丸(まる)で虚(うそ)のやうな想(おもひ)がしました、後(のち)に巌谷(いはや)も此(こ)の初対面(しよたいめん)の時の事を言出(いひだ)して、私(わたし)の人物(じんぶつ)が全(まつた)く想像(さうざう)と反(はん)して居(ゐ)たのに驚(おどろ)いたと云(い)ひます、甚麼(どんな)に反(はん)して居(ゐ)たか聞きたいものですが、ちと遠方(ゑんぱう)で今問合(とひあは)せる訳(わけ)にも行(ゆ)きません、
巌谷(いはや)の紹介(せうかい)で入社したのが江見水蔭(えみすゐいん)です、此(この)人は杉浦氏(すぎうらし)の称好塾(せうこうじゆく)に於(お)ける巌谷(いはや)の莫逆(ばくぎやく)で、其(そ)の素志(そし)と云(い)ふのが、万巻(ばんくわん)の書を読まずんば、須(すべから)く千里(せんり)の道を行(ゆ)くべしと、常(つね)に好(この)んで山川(さんせん)を跋渉(ばつせふ)し、内(うち)に在(あ)れば必(かなら)ず筆(ふで)を取つて書いて居(ゐ)る好者(すきもの)と、巌谷(いはや)から噂(うはさ)の有つた其(その)人で、始(はじめ)て社に訪(とは)れた時は紺羅紗(こんらしや)の古羽織(ふるばおり)に托鉢僧(たくはつそう)のやうな大笠(おほがさ)を冠(かぶ)つて、六歩(ろつぱう)を踏(ふ)むやうな手付(てつき)をして振込(ふりこ)んで来たのです、文章を書くと云(い)ふよりは柔術(やはら)を取りさうな恰好(かつかう)で、其頃(そのころ)は水蔭亭主人(すゐいんていしゆじん)と名宣(なの)つて居(ゐ)ました、
扨(さて)雑誌は益□(ます/\)売れるのであつたが、会計(くわいけい)の不取締(ふとりしまり)と一(ひと)つには卸売(おろしうり)に行(ある)かせた親仁(おやじ)が篤実(とくじつ)さうに見えて、実は甚(はなは)だ太(ふと)い奴(やつ)であつたのを知らずに居(ゐ)た為(ため)に、此奴(こいつ)に余程(よほど)好(よ)いやうな事を為(さ)れたのです、畢竟(つまり)売捌(うりさばき)の方法が疎略(そりやく)であつた為(ため)に、勘定(かんじやう)合つて銭(ぜに)足(た)らずで、毎号(まいがう)屹々(きつ/\)と印刷費(いんさつひ)を払(はら)つて行つたのが、段々(だん/\)不如意(ふによい)と成(な)つて、二号(にがう)おくれ三号(がう)おくれと逐(おは)れる有様(ありさま)、それでも同益社(どうえきしや)では石橋(いしばし)の身元(みもと)を知つて居(ゐ)るから強い督促(とくそく)も為(せ)ず、続いて出版を引受(ひきう)けて居(ゐ)たのです、此(こ)の雑誌は廿(にぢう)一年の五月廿(にぢう)五日の出版(しゆつぱん)で、月二回の発行で、是(これ)も九号(がう)迄(まで)続いて、拾号(じふがう)からは又(また)大いに躰裁(ていさい)を改(あらた)めて(十月廿(にぢう)五日出版(しゆつぱん))頁数(ページすう)を倍(ばい)にして、別表紙(べつびやうし)を附(つ)けて、別摺(べつずり)の挿画(さしゑ)を二枚(まい)入れて、定価(ていか)を十銭(せん)に上げました、表紙は朱摺(しゆずり)の古作者印譜(こさくしやいんぷ)の模様(もやう)で、形(かたち)は四六倍(ばい)、然(さ)して紙数(しすう)は無かつたけれど、素人(しろうと)の手拵(てごしらえ)にした物としては、頗(すこぶ)る上出来(じやうでき)で、好雑誌(こうざつし)と云(い)ふ評(ひやう)が有つたので、是(これ)が我楽多文庫(がらくたぶんこ)の第四期です、
第三期に小説の筆を執(と)つた者は、美妙斎(びめうさい)、思案外史(しあんぐわいし)、丸岡九華(まるをかきうくわ)、漣山人(さゞなみさんじん)、私(わたし)と五人(ごにん)であつたが、右の大改良後(だいかいりやうご)は眉山人(びさんじん)と云(い)ふ新手(あらて)が加(くはゝ)つた、其迄(それまで)は川上(かはかみ)は折□(をり/\)俳文(はいぶん)などを寄稿(きかう)するばかりで、とんと小説は見せなかつたのであります、所(ところ)が十三号の発刊(はつかん)に臨(のぞ)んで、硯友社(けんいうしや)の為(ため)に永(なが)く忘(わす)るべからざる一大変事(いちだいへんじ)が起(おこ)つた、其(それ)は社の元老(げんらう)たる山田美妙(やまだびめう)が脱走(だつそう)したのです、いや、石橋(いしばし)と私(わたし)との此(この)時の憤慨(ふんがい)と云(い)ふ者は非常(ひじやう)であつた、何故(なにゆゑ)に山田(やまだ)が鼎足(ていそく)の盟(ちかひ)を背(そむ)いたかと云(い)ふに、之(これ)より先(さき)山田(やまだ)は金港堂(きんこうどう)から夏木立(なつこだち)と題(だい)する一冊(いつさつ)を出版しました、是(これ)が大喝采(だいくわつさい)で歓迎(くわんげい)されたのです、此頃(このごろ)軟文学(なんぶんがく)の好著(こうちよ)と云(い)ふ者は世間(せけん)に地を払(はら)つて無かつた、(書生気質(しよせいかたぎ)の有つた外に)其処(そこ)へ山田(やまだ)の清新(せいしん)なる作物(さくぶつ)が金港堂(きんこうどう)の高尚(こうせう)な製本(せいほん)で出たのだから、読書社会(どくしよしやくわい)が震(ふる)ひ付(つ)いたらうと云(い)ふものです、因(そこ)で、金港堂(きんこうどう)が始(はじめ)て此(こ)の年少詩人(ねんせうしじん)の俊才(しゆんさい)を識(し)つて、重(おも)く用(もち)ゐやうと云(い)ふ志(こゝろざし)を起(おこ)したものと考へられる、此(この)時金港堂(きんこうどう)の編輯(へんしう)には中根淑氏(なかねしゆくし)が居(ゐ)たので、則(すなは)ち此(この)人が山田(やまだ)の詞才(しさい)を識(し)つたのです、其(それ)と与(とも)に一方(いつぱう)には小説雑誌の気運(きうん)が日増(ひまし)に熟(じゆく)して来たので、此際(このさい)何(なに)か発行しやうと云(い)ふ金港堂(きんこうどう)の計画(けいくわく)が有つたのですから、早速(さつそく)山田(やまだ)へ密使(みつし)が向(むか)つたものと見える、
此方(こちら)は暢気(のんき)なものだから那様(こんな)事(こと)とは些(ちつと)も知らない、山田(やまだ)も亦(また)気振(けぶり)にも見せなかつた、けれども前(さき)にも言ふ如(ごと)く、中坂(なかさか)に社を設(まう)けてからは、山田(やまだ)は全(まつた)く社務(しやむ)に与(あづか)らん姿であつたから、社の方でも山田(やまだ)の平生(へいぜい)の消息(せうそく)を審(つまびらか)にせんと云(い)ふ具合(ぐあひ)で、此(こ)の隙(すき)が金港堂(きんこうどう)の計(はかりごと)を用(もちゐ)る所で、山田(やまだ)も亦(また)硯友社(けんいうしや)と疎(そ)であつた為(ため)に金港堂(きんこうどう)へ心が動いたのです、当時(たうじ)は実(じつ)に憤慨(ふんがい)したけれど、考へて見れば無理(むり)の無い所で、而(さう)して此間(このかん)の事は硯友社(けんいうしや)のヒストリイから云(い)ふと大いに味(あぢは)ふ可(べ)き一節(いつせつ)ですよ、
其内(そのうち)に金港堂(きんこうどう)に云々(しか/″\)の計画が有ると云(い)ふ事が耳に入(い)つた、其前(そのぜん)から達筆(たつぴつ)の山田(やまだ)が思ふやうに原稿(げんかう)を寄来(よこ)さんと云(い)ふ怪(あやし)むべき事実が有つたので、這(こ)は捨置(すてお)き難(がた)しと石橋(いしばし)と私(わたし)とで山田(やまだ)に逢(あひ)に行(ゆ)きました、すると金港堂(きんかうどう)一件(けん)の話が有つて、硯友社(けんいうしや)との関係を絶(た)ちたいやうな口吻(くちぶり)、其(それ)は宜(よろし)いけれど、文庫(ぶんこ)に連載(れんさい)してある小説の続稿(ぞくかう)だけは送つてもらひたいと頼(たの)んだ、承諾(しようだく)した、然(しか)るに一向(いつかう)寄来(よこ)さん、石橋(いしばし)が逢(あ)ひに行つても逢(あ)はん、私(わたし)から手紙を出しても返事が無い、もう是迄(これまで)と云(い)ふので、私(わたし)が筆を取つて猛烈(まうれつ)な絶交状(ぜつかうじやう)を送つて、山田(やまだ)と硯友社(けんいうしや)との縁(えん)は都(みやこ)の花(はな)の発行と与(とも)に断(たゝ)れて了(しま)つたのです、刮目(くわつもく)して待つて居(を)ると、都(みやこ)の花(はな)なる者が出た、本も立派(りつぱ)なれば、手揃(てぞろひ)でもあつた、而(さう)して巻頭(くわんたう)が山田(やまだ)の文章、憎(にく)むべき敵(てき)ながらも天晴(あつぱれ)書きをつた、彼(かれ)の文章は確(たしか)に二三段(だん)進んだと見た、さあ到(いた)る処(ところ)都(みやこ)の花(はな)の評判で、然(さ)しも全盛(ぜんせい)を極(きは)めたりし我楽多文庫(がらくたぶんこ)も俄(にはか)に月夜(げつや)の提灯(てうちん)と成(な)つた、けれども火は消(き)えずに、十三、十四、十五、(翌(よく)二十二年の二月出版(しゆつぱん))と持支(もちこた)へたが、それで到頭(たう/\)落城(らくじやう)して了(しま)つたのです、此(こ)の滅亡(めつばう)に就(つ)いては三つの原因(げんいん)が有るので、(一)は印刷費(いんさつひ)の負債(ふさい)、(二)は編輯(へんしう)と会計との事務(じむ)が煩雑(はんざつ)に成(な)つて来て、修学(しうがく)の片手業(かたてま)に余(あま)るのと、(三)は金港堂(きんこうどう)の優勢(いうせい)に圧(おさ)れたのです、それでも未(ま)だ経済(けいざい)の立たんやうな事は無かつたのです、然(しか)し労(らう)多(おほ)くして収(をさ)むる所が極(きは)めて少いから可厭(いや)に成(な)つて了(しま)つたので、石橋(いしばし)と私(わたし)と連印(れんいん)で、同益社(どうえきしや)へは卅円(さんぢうゑん)の月賦(げつぷ)かにした二百円(ひやくゑん)余(よ)の借用証文(しやくようしやうもん)を入れて、それで中坂(なかさか)の店を閉ぢて退転(たいてん)したのです、
此(こ)の前年(ぜんねん)の末(すゑ)に私(わたし)を訪(たづ)ねて来たのが、神田(かんだ)南乗物町(みなみのりものちやう)の吉岡書籍店(よしをかしよじやくてん)の主人(しゆじん)、理学士(りがくし)吉岡哲太郎(よしをかてつたらう)君(くん)です、私(わたし)が文壇(ぶんだん)に立つに就(つ)いては、前後(ぜんご)三人(さんにん)の紹介者(せうかいしや)を労(わづらは)したので、其(そ)の第一が此(こ)の吉岡君(よしをかくん)、則(すなは)ち新著百種(しんちよひやくしゆ)の出版元(しゆつぱんもと)です、第二は文学士(ぶんがくし)高田早苗(たかださなゑ)君(くん)、私(わたし)が読売新聞(よみうりしんぶん)に薦(すゝ)められた、第三は春陽堂(しゆんやうどう)の主人故(こ)和田篤太郎(わだとくたらう)君(くん)、私(わたし)の新聞に出した小説を必(かなら)ず出版(しゆつぱん)した人、其(そ)の吉岡君(よしをかくん)が来て、毎号(まいがう)一篇(いつぺん)を載(の)せる小説雑誌を出したいと云(い)ふ話、そこで新著百種(しんちよひやくしゆ)と名(なづ)けて、私(わたし)が初篇(しよへん)を書く事に成(な)つて、二十二年の二月に色懺悔(いろざんげ)を出したのです、私(わたし)が春(はる)のや君(くん)に面会(めんくわい)したのも、篁村君(くわうそんくん)を識(し)つたのも、此(こ)の新著百種(しんちよひやくしゆ)の編輯上(へんしうじやう)の関係からです、それから又(また)此(こ)の編輯時代(へんしうじだい)に四人(よにん)の社中(しやちう)を得(え)た、武内桂舟(たけのうちけいしう)、広津柳浪(ひろつりうらう)、渡部乙羽(わたなべおとは)、外(ほか)に未(ま)だ一人(ひとり)故人(こじん)に成(な)つた中村花痩(なかむらくわさう)、此(この)人は我楽多文庫(がらくたぶんこ)の第(だい)二期(き)の頃(ころ)既(すで)に入社して居(ゐ)たのであるが、文庫(ぶんこ)には書いた物を出さなかつた、俳諧(はいかい)は社中(しやちう)の先輩(せんぱい)であつたから、戯(たはむれ)に宗匠(そうせう)と呼(よ)んで居(ゐ)た、神田(かんだ)の五十稲荷(ごとふいなり)の裏(うら)に住(す)んで、庭(には)に古池(ふるいけ)が在(あ)つて、其(その)畔(ほとり)に大(おほ)きな秋田蕗(あきたふき)が茂(しげ)つて居(ゐ)たので、皆(みな)が無理(むり)に蕗(ふき)の本宗匠(もとそうせう)にして了(しま)つたのです、前名(ぜんめう)は柳園(りうゑん)と云(い)つて、中央新聞(ちうわうしんぶん)が創立(そうりつ)の頃(ころ)に処女作(しよぢよさく)を出した事が有る、其(それ)に継(つ)いでは新著百種(しんちよひやくしゆ)の末頃(すゑごろ)に離鴛鴦(はなれをし)と云(い)ふのを書いたが、那(それ)が名を成(な)す端緒(たんちよ)であつたかと思ふ、
武内(たけのうち)と識(し)つたのは、新著百種(しんちよひやくしゆ)の挿絵(さしゑ)を頼(たの)みに行つたのが縁(ゑん)で、酷(ひど)く懇意(こんい)に成(な)つて了(しま)つたが、其始(そのはじめ)は画(ゑ)より人物に惚(ほ)れたので、其頃(そのころ)武内(たけのうち)は富士見町(ふじみちやう)の薄闇(うすぐら)い長屋(ながや)の鼠(ねづみ)の巣(す)見たやうな中(うち)に燻(くすぶ)つて居(ゐ)ながら太平楽(たいへいらく)を抒(なら)べる元気が凡(ぼん)でなかつた、
広津(ひろつ)と知つたのは、廿(にぢう)一年の春であつたか、少年園(せうねんゑん)の宴会(ゑんくわい)が不忍池(しのばず)の長□亭(ちやうだてい)に在(あ)つて、其(そ)の席上(せきじやう)で相識(ちかづき)に成(な)つたのでした、其頃(そのころ)博文館(はくぶんくわん)が大和錦(やまとにしき)と云(い)ふ小説雑誌を出して居(ゐ)て、広津(ひろつ)が編輯主任(へんしうしゆにん)でありました、乙羽庵(おとはあん)は始め二橋散史(にけうさんし)と名(なの)つて石橋(いしばし)を便(たよ)つて来たのです、其(その)時は累卵之東洋的(るいらんのとうやうてき)悲憤文字(ひふんもんじ)を書いて居(ゐ)たのを、石橋(いしばし)から硯友社(けんいうしや)へ紹介(せうかい)して、後(のち)に新著百種(しんちよひやくしゆ)に露小袖(つゆこそで)と云(い)ふのを載(の)せました、
それから一時(いちじ)中絶(ちうぜつ)した我楽多文庫(がらくたぶんこ)です、吉岡書籍店(よしをかしよじやくてん)が引受(ひきう)けて見たいと云(い)ふので、直(ぢき)に再興(さいこう)させて、文庫(ぶんこ)と改題(かいだい)して、形(かた)を菊版(きくばん)に直(なほ)しました、是(これ)は新著百種(しんちよひやくしゆ)の壱号(いちがう)が出ると間(ま)も無く発行(はつかう)したので、我楽多文庫(がらくたぶんこ)の第五期(だいごき)に成(な)る、表画(ひやうぐわ)は故(こ)穂庵翁(すゐあんおう)の筆で文昌星(ぶんしやうせい)の図(づ)でした、是(これ)が前(さき)の廃刊(はいかん)した号を追つて、二十二号(がう)迄(まで)出して、二十二年の七月廿(にぢう)三号の表紙を替(か)へて(桂舟(けいしう)筆(ひつ)花鳥風月(くわてうふうげつ)の図(づ))大刷新(だいさつしん)と云(い)ふ訳(わけ)に成(な)つた、頻(しきり)に西鶴(さいかく)を鼓吹(こすゐ)したのは此(こ)の時代で、柳浪(りうらう)、乙羽(おとは)、眉山(びさん)、水蔭(すゐいん)などが盛(さかん)に書き、寒月(かんげつ)露伴(ろはん)の二氏(にし)も寄稿(きかう)した、而(さう)して挿絵(さしゑ)は桂舟(けいしう)が担当(たんとう)するなど、前々(ぜん/\)の紙上から見ると頗(すこぶ)る異色(いしよく)を帯びて居(ゐ)ました、故(ゆえ)に之(これ)を第(だい)六期(き)と為(す)る、我楽多文庫(がらくたぶんこ)の生命(せいめい)は第(だい)六期(き)で又(また)姑(しばら)く絶滅(ぜつめつ)したのです、二十二年の十月発行の廿(にぢう)七号を終刊(しうかん)として、一方(いつぱう)には都(みやこ)の花(はな)が有り、一方(いつぱう)には大和錦(やまとにしき)が有つて、いづれも頗(すこぶ)る強敵(きやうてき)、吾(わ)が版元(はんもと)も苦戦(くせん)の後(のち)に斃(たふ)れたのです、然(しか)し、十一月に又(また)吉岡書籍店(よしをかしよじやくてん)の催(もよふし)で、柳浪子(りうらうし)を主筆(しゆひつ)にして小文学(せうぶんがく)と云(い)ふ小冊子(せうさつし)を発行した、是(これ)とても謂(い)はゞ硯友社機関(けんいうしやきくわん)でありました、抑(そもそ)も[#「抑(そもそ)も」は底本では「仰(そもそ)も」]九と云(い)ふ数(すう)は硯友社(けんいうしや)に取つては如何(いか)なる悪数(あくすう)であるか此(この)小文学(せうぶんがく)も亦(また)九号にして廃刊(はいかん)する始末(しまつ)、(二十三年四月)廿(にぢう)二年の十二月でした、篁村翁(くわうそんおう)が読売新聞社(よみうりしんぶんしや)を退(ひ)いたに就(つ)いて、私(わたし)に入社せぬかと云(い)ふ高田氏(たかだし)からの交渉(かうしやう)でしたから、直(すぐ)に応(おう)じて、年内(ねんない)に短篇(たんぺん)を書きました、翌(よく)廿(にぢう)三年の七月になると、未(ま)だ妄執(まうしう)が霽(は)れずして、又々(また/\)江戸紫(えどむらさき)と云(い)ふのを出した、是(これ)が九号の難関(なんくわん)を踰(こ)へたかと思へば、憐(あはれ)むべし、其(そ)の歳(とし)の暮(くれ)十二号にして、又(また)没落(ぼつらく)、之(これ)が為(ため)に無けなしの懐裏(ふところ)を百七十円ほど傷(いた)めて、吽(うん)と参つた、仮(かり)に小文学(せうぶんがく)をも硯友社(けんいうしや)の機関(きくわん)に数(かぞ)へると、其(それ)が第七期、是(これ)が第八期で、未(ま)だ第九期なる者が有る、
余(あま)り人は知らぬが、千紫万紅(せんしばんこう)と云(い)つて、会員組織(くわいゝんそしき)にして出した者で、硯友社(けんいうしや)の機関(きくわん)と云(い)ふのではなく、青年作家(せいねんさくか)の為(ため)であつたから、社名も別に盛春社(せいしゆんしや)として、私(わたし)の楽半分(たのしみはんぶん)に発行した、是(これ)は廿(にぢう)四年の六月が初刊(しよかん)であつたが、例の九号にも及(およ)ばずして又(また)罷(や)めて了(しま)つたのです、小栗風葉(をぐりふうえふ)は此(こ)の会員の中(うち)から出たので、宅(たく)に来たのは泉鏡花(いづみきやうくわ)が先(さき)ですが、私(わたし)が文章を扱(あつか)つたのは風葉(ふうえふ)(其頃(そのころ)拈華坊(ねんげぼう))の方が早い、
廿(にぢう)四年中に雑誌編輯(ざつしへんしう)の手を洗つてから、茲(こゝ)に年(とし)を経(ふ)ること九年になります、処(ところ)が此(こ)の九の字が又(また)不思議(ふしぎ)で、実は来春(らいしゆん)にも成(な)つたら、又々(また/\)手勢(てぜい)を率(ひきゐ)て雑誌界(ざつしかい)に打つて出やうと云(い)ふ計画も有るのです、第九期まで有つて十期の無いのは甚(はなは)だ勘定(かんじやう)が悪いから、是非(ぜひ)第十期を造(つく)りたいと云(い)ふ考(かんがへ)も有るので、
段々(だん/\)追想(つひさう)して見ると、此(こ)の九年間の硯友社(けんいうしや)及(およ)び其(そ)の社中(しやちう)の変遷(へんせん)は夥(おびたゞ)しいもので、書く可(べ)き事も沢山(たくさん)有れば書かれぬ事も沢山(たくさん)ある、なか/\面白(おもしろ)い事も有れば、面白(おもしろ)くない事も有る、成効(せいかう)あり、失敗(しつぱい)あり、喜怒(きど)有り哀楽(あいらく)ありで、一部の好小説(こうせうせつ)が出来るのです、で又(また)今後の硯友社(けんいうしや)は如何(いかに)と云(い)ふのも面白(おもしろ)い問題で、九年の平波(へいは)に掉(さをさ)して居(ゐ)た私(わたし)の気運(きうん)も、来年以後は変動(へんどう)を生(しやう)ずるであらうと念(おも)はれるのです、
硯友社(けんいうしや)の沿革(えんかく)に就(つ)いては、他日(たじつ)頗(すこぶ)る詳(くは)しく説(と)く心得(こゝろえ)で茲(こゝ)には纔(わづか)に機関雑誌(きくわんざつし)の変遷(へんせん)を略叙(りやくじよ)したので、それも一向(いつかう)要領(えうりやう)を得(え)ませんが、お話を為(す)る用意が無かつたのですから、這麼(こんな)事(こと)で御免(ごめん)を蒙(かふむ)ります、
(明治34[#「34」は縦中横]年1月1日「新小説」第6年第1巻)



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