小説家たらんとする青年に与う
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著者名:菊池寛 

 そして、それら多くの作家が、如何(いか)なる風に人生を見ているかということを、参考として、そして自分が新しく、自分の考えで人生を見るのだ。言い換えれば、どんなに小さくとも、どんなに曲っていても、自分一個の人生観というものを、築きあげて行くことだ。
 こういう風に、自分自身の人生観――そういうものが出来れば、小説というものも、自然に作られる。もうその表現の形式は、自然と浮んで来るのだ。自分の考えでは、――その作者の人生観が、世の中の事に触れ、折に触れて、表われ出たものが小説なのである。
 すなわち、小説というものは、或る人生観を持った作家が、世の中の事象に事よせて、自分の人生観を発表したものなのである。
 だから、そういう意味で、小説を書く前に、先ず、自分の人生観をつくり上げることが大切だと思う。
 そこで、まだ世の中を見る眼、それから人生に対する考え、そんなものが、ハッキリと定まっていない、独特のものを持っていない、二十五歳未満の青少年が、小説を書いても、それは無意味だし、また、しようがないのである。
 そういう青年時代は、ただ、色々な作品を読んで、また実際に、生活をして、自分自身の人生に対する考えを、的確に、築き上げて行くべき時代だと思う。尤(もっと)も、遊戯として、文芸に親しむ人や、或は又、趣味として、これを愛する人達は、よし十七八で小説を書こうが、二十歳で創作をしようが、それはその人の勝手である。苟(いやし)くも、本当に小説家になろうとする者は、須(すべから)く隠忍自重(いんにんじちょう)して、よく頭を養い、よく眼をこやし、満を持して放たないという覚悟がなければならない。
 僕なんかも、始めて小説というものを書いたのは、二十八の年だ。それまでは、小説といったものは全く一つも書いたことはない。紙に向って小説を書く練習なんか、少しも要らないのだ。
 とにかく、自分が、書きたいこと、発表したいもの、また発表して価値のあるもの、そういうものが、頭に出来た時には、表現の形は、恰(あたか)も、影の形に従うが如く、自然と出て来るものだ。
 そこで、いわゆる小説を書くには、小手先の技巧なんかは、何んにも要(い)らないのだ。短篇なんかをちょっとうまく纏(まと)める技巧、そんなものは、これからは何の役にも立たない。
 これほど、文芸が発達して来て、小説が盛んに読まれている以上、相当に文学の才のある人は、誰でもうまく書くと思う。
 そんなら、何処(どこ)で勝つかと言えば、技巧の中に匿(かく)された人生観、哲学で、自分を見せて行くより、しようがないと思う。
 だから、本当の小説家になるのに、一番困る人は、二十二三歳で、相当にうまい短篇が書ける人だ。だから、小説家たらんとする者は、そういうようなちょっとした文芸上の遊戯に耽(ふけ)ることをよして、専心に、人生に対する修業を励むべきではないか。
 それから、小説を書くのに、一番大切なのは、生活をしたということである。実際、古語にも「可愛い子には旅をさせろ」というが、それと同じく、小説を書くには、若い時代の苦労が第一なのだ。金のある人などは、真に生活の苦労を知ることは出来ないかも知れないが、とにかく、若い人は、つぶさに人生の辛酸を嘗(な)めることが大切である。
 作品の背後に、生活というものの苦労があるとないとでは、人生味といったものが、何といっても稀薄だ。だから、その人が、過去において、生活したということは、その作家として立つ第一の要素であると思う。そういう意味からも、本当に作家となる人は、くだらない短篇なんか書かずに、専(もっぱ)ら生活に没頭して、将来、作家として立つための材料を、蒐集すべきである。
 かくの如く、生活して行き、而して、人間として、生きて行くということ、それが、すなわち、小説を書くための修業として第一だと思う。
(一九二三年十二月)



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