島原心中
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著者名:菊池寛 

 自分は、その頃、新聞小説の筋を考えていた。それは、一人の貧乏華族が、ある成金の怨みを買って、いろいろな手段で、物質的に圧迫される。華族は、その圧迫を切り抜けようとして□(あが)く。が、□(あが)いたため、かえって成金の作っておいた罠(わな)に陥って、法律上の罪人になるという筋だった。
 自分は、その華族が、切羽詰って法律上の罪を犯すというところを、なるべく本当らしく、実際ありそうな場合にしたかった。通俗小説などに、ありふれたような場合を避けたかった。自分は、そのために法律の専門家に、相談してみようと考えた。
 自分は、頭の中で、旧友の中で法学士になっている連中を数えてみた。高等学校時代の知合いで、法学士になっている連中は、幾人もいることはいたが、郵船会社にはいって洋行したり、政治科を出て農商務省へ奉職したり、三菱へはいっている連中などばかりが思い浮んで、自分の相談に乗ってくれそうな、法律専門の法学士はなかなか思い当らなかった。その中に、ふと綾部という自分の中学時代の友人が、去年京都の地方裁判所をよして、東京へ来て、有楽町の××法律事務所に勤務していることを思い出した。上京当時、通知のハガキをくれたのだが、その××という有名な弁護士の名前が、不思議にはっきりと、自分の頭に残っていたのである。
 自分は、綾部が、三高にいたときに会って以来、六、七年ぶりに、彼を訪ねた。彼は、学生時代と見違えるほど、色が白くなっていた。そして、三、四年の間検事をやっていた名残りが、澄んだ、そのくせ活気のない、冷たい目のうちに残っていた。彼は、快く自分を迎えて、自分の小説の筋に適合するような犯罪を考えてくれた。刑法の条文などをあちらこちら参考にしながら、かなり工夫を凝(こ)らしてくれたのである。その上に、彼はこんなことをいった。
「いや、貴君が、小説家として、法律の点に注意をしているのは感心です。どうも、今の小説家の小説を読むと、我々専門家がみると、かなりおかしいところがたくさんあるのです。懲役の刑しかないところが禁錮になっていたり、三年以上の懲役の罪が二年の懲役になっていたり、ずいぶん変なところがあるのです。それに、小説家のかく材料が、小説家の生活範囲を一歩も出ていないということは、かなり不満です。我々の注文をいえば、もっと、法律を背景とした事件、すなわち民事、刑事に関する面白い事件を、材料として大いに取り扱ってもらいたいですな。一体、完全な法治国になるためには、各人の法律に関する観念が、もっと発達しなければだめです。それには、もっと君たちが、法律に関係のある事件をかいてくれて、法律というものが、人間生活にどんなに重要な意義を持っているかということを、一般に知らしてもらいたいと思うのですがね。もし、君がかくつもりなら、僕が検事時代の経験をいろいろ話して上げてもいいと思いますよ」
 そんな、冒頭をしながら、彼は次のような話を、自分にしてくれた。

「俥(くるま)が、大門を潜ったとき、『ああ島原とはここだな』と、思うと同時に、かなり激しい幻滅とそれに伴う寂しさとを、感ぜずにはいられなかったのです。お恥かしい話ですが、僕が島原へ行ったのは、その時が初めてです。僕は高等学校時代から大学へかけて、六年も京都にいたのですが、その時まで、昔からあれほど名高い島原を、まだ一度も見たことがなかったのです。一、二度、友人から『花魁(おいらん)の道中を見にいかないか』と、誘われたことがあったのですが、謹厳――というよりも、臆病であった僕は、そんなところへ足踏みすることさえ何だか進まなかったのです。
 だから、大学を出て間もないその頃まで、僕の頭に描いた島原は、やっぱり小説や芝居や小唄や伝説の島原だったのです。壮麗な建物の打ち続いた、美しい花魁の行き交うている、錦絵にあるような色街だったのです。
 従って、その日――たしか十一月の初めでした――上席の検事から、島原へ出張を命ぜられたとき、僕は自分の心に、妙な興味が動くのを抑えることができなかったのです。島原へ行く、しかもその朝行われた心中の臨検に行くというのですから、僕は場所に対する興味と、事件に対する興味とで、二重に興奮していたわけです。
『島原心中』という言葉が、小説か芝居かの題目のように、僕の心に美しく浮んでいたのでした。
 が、俥がそれらしい大門を通りすぎて、廓の中へ駆け込んだとき、下ろした幌(ほろ)のセルロイドの窓から十一月の鈍い午後の日光のうちに、澱(よど)んだように立ち並んでいる、屋根の低い朽ちかけているような建物を見たときに、それが名高い色街であるというだけに、いっそう悲惨なあさましいような気がしたのです。衰弱し切った病人が、医者の手から、突き放されて、死期を待っているように、どの家もどの家も、廃頽するままにまかせられているような気がしたのです。定紋の付いた暖簾の間から見える家の内部までが、どれもこれも暗澹(あんたん)として陰鬱に滅亡して行くものの姿を、そのまま示しているように僕には思われたのです。
 俥が、横町へ折れたとき、僕の目の前に現れた建物は、もっと悲惨でした、悲惨というよりも、醜悪といった方が、適当でしょう。どれも、これも粗末な木口を使った安普請で、毒々しく塗り立てた格子や、櫺子(れんじ)窓の紅殻色が、むっとするような不快な感じを与えるのです。煤けた角行灯に、第二清開楼とか、相川楼などと書いた文字までが、田舎の遊廓にでも見るような下等な感じを与えました。
 心中があった楼(うち)の前には、所轄署の巡査が立っていたので、すぐそれと分かりました。
 僕が俥から降りたときには、裁判所を出るときに、持っていたような興奮も興味も残っていませんでした。
 その楼(うち)は、この通りに立ち並んでいる粗末な二階家の一つでした。入口を入ると、土間が京都風に奥の方へ通っていて、左の方には家人や娼妓たちの住んでいる部屋があり、右はすぐ箱梯子になっていて、客がそのまま二階へ上れるようになっているのです。
 心中の行われたのは、無論二階でした。僕が、警部の出迎えを受けて、この箱梯子を上ろうとしたとき、ふとその土間を中途で遮(さえぎ)っている浅黄色の暖簾の間から、じろじろ僕の顔を見ているこの家のお主婦(かみ)らしい女に、気が付いたのです。広い額際が抜け上って、目が無気味な光をもっている、一目見ると忘れられないような女でした。
 僕は、その梯子段を、かなり元気よく上ったのです。すると、先に上った警部は、上り詰めると、急に身体を右に避けるようにするのです。僕は、そんなことを気にしないで、かまわず上りきったのです。すると、梯子段を上りきった僕の足もとに、異様な品物が――その刹那は、本当にそう思ったのです――転(ころ)がっているのです。が、はっと気が付いてみると、僕の靴下をはいた足は、そこの廊下に仰向けに倒れている女の、振り乱した髪の毛を、危く踏むところであったのです。その時の、僕の受けた激動(ショック)は今でも幾分かは思い出すことができるのです。僕は、心中という以上、どこかの部屋の中にでも、尋常に倒れているものだと思っていたのです。よく見ると、心中はその梯子段を上ったとっつきの四畳半で行われたとみえ、女が倒れかかるはずみに、はずれたらしい障子の中の畳には、どろどろと凝り固まっている血が、一面にこびり付いているのです。その血の中に、更紗か何からしい古びた蒲団が、敷き放されていて、女の両足は、蒲団の上に、わずかばかりかかっているのでした。天井が、頭につかえるほど低い部屋の中は、小さい明り取りの窓があるだけで、昼でも薄暗いのですが、その薄暗い片隅には、心中前に男女が飲食したらしい丼とか、徳利などが、ごたごた片寄せられているのです。壁は京都の遊郭によくある黄色っぽい砂壁ですが、よく見ると、突き当りの壁には、口に含んで霧にでも吹いたように、血が一面に吹きかかっているのでした。
 まだ、そうした場所に馴れなかった僕は、一目見ると、その悽惨な情景から、ぞっと水を浴びるような感じを受けましたが、立会いの警部や書記などの手前、努めて冷静を装(よそお)いながら、まず女の傷口を見ました。見事に頸動脈を切ったとみえ、身体中の血潮がことごとくその傷口から迸(ほとばし)ったように、胸から膝へかけて、汚れ切ったネルの寝衣をべとべとに浸した上、畳の上から廊下にかけ、一面に流れかかっているのでした。が、傷口を見ているときに、もっと僕の心を打つものは、その荒み果てた顔でした。もう確かに三十近い細面の顔ですが、その土のようにかさかさした青い皮膚や、目尻の赤く爛れた目などを見ていると、顔という気はどうしても起らないのです。人間だという気さえ起らないのです。ただ、名状しがたい浅ましさだけを、感じたのです。

 死にそこなった男の方は、別室に移されていて、医者の手当を受けていたのです。僕が臨検した主な目的は、相手の男を尋問して、無理心中ではなかったか、また、たとえ合意の心中であったにしろ、男の方に自殺幇助(ほうじょ)の事実がなかったかを確かめるためだったのです。
 二人が遺書を認(したた)めていることで、無理心中の疑いは少しもありませんでしたが、自殺幇助の疑いは、十分にあるのでした。
 僕は、その男を臨床尋問するために、寝かされているという別室へ行ったのです。見ると相手の男は、頭を角刈にした、二十歳前後の、顔の四角な職人らしい男でしたが、喉(のど)の傷をくるくる巻いた繃帯が、顎を埋めてしまうほど、ふくらんでいました。顔には血の気がなく、どろんと気の抜けたような目付をしていましたが、傷が致命傷でないことは、医師でない素人目にも、すぐ分かりました。
 僕は、尋問にかかる前に、警察の方で調べた二人の身元とか、心中に至るまでの事情を、一通(ひととお)りきいたのです。男の方は、福島県の者とかで、西陣の職工だが、徴兵にとられていて、十二月には入営することになっていたということと、女は鳥取県のものであるが、今年二十九の年になるまで、十年近く島原で、勤めているのだが、借金に追われて、まだ年季が明けないでいること、平生から陰気な沈んだ女であること、この頃郷里の方から、母が病気だという知らせが来たので、見舞いに行きたい行きたいと、口癖にいっていながら、勤めの身として、それが果し得ないのを、口惜しがっていたこと。男は、十月の初めから通い始めて、その日が六、七回目であったこと、心中は午前の七時頃に行われ、家人たちはまだ寝入っていたので、三十分ぐらい経って、お主婦がやっと、男の呻き声を聞きつけたこと、お主婦が駆け上ったときは、女の方はもうまったく息が絶えてしまっていたこと、男が持っていた短刀をお主婦がもぎ取ったこと、短刀を使う前に二人は揮発油を飲んだが、死に切れなかったこと。
 僕は、そうした前後の事実をきいた後、尋問にかかったのでした。

 僕が、尋問を始めようとすると、警部と巡査とは、その男を床の上に、座らせようとするのです。男は首を挙げようとして、喉の傷を痛めたとみえ、歯を食いしばるようにして、じっと、その苦痛を忍びながら起きようとするのです。
『苦しければ、そのままでいいよ』と、僕が注意をしますると、警部はそれを遮るように、
『なに、大丈夫ですとも。気管を切っているだけですから、命には別条ありません』といいながら、今度はその若者を叱るように、
『さあ! しゃんとして、気を確かにするんだぞ! こんな傷で、死ぬことはないのだからな』
 といいながら、肩のところを一つポンと叩くのです。
 若者に対する、いたいたしいという同情は、すぐ僕の職業的良心に抑えられていました。僕が、尋問を始めたときには、もう、普通の検事の口調になっていました。僕は、その頃、だんだん被告に対する尋問のこつを覚えて来ていたのです。
『さあ、これから、お前に少しききたいことがあるのだが、お前もな、できたことは仕方がないことだから、何もくよくよ考えずに、男らしくありのままに話してもらいたいのだがなあ。お前も、これほど思い切ったことをやった男だから、思い切って男らしく潔(いさぎよ)く、俺のいうことに答えてくれないかん。いいかい。どうしたといったら、どう取られる、こういったらこう取られるなどということを、腹の中で考えていたらあかん。考えていうと、ウソになる。ウソになると、物のつじつまが合わなくなる。つじつまが合わなくなると、本当のことまでがウソになる。いいかい。だから、お前が俺の合点のいくように、本当にそうかということになると、できたことは仕方がないということになって、結局お前の利益になるんじゃ。だから素直にいった方が、一番かしこいことになるのだからな』
 検事でも、予審判事でも、尋問を始める前には、きっとこんな風なことをいうのです。そして、相手の心をのんびりさせておかないと、嘘ばかりいって困るのです。
『どうだい、男らしくいうつもりかい』
 こう、念を押しますと、繃帯で首の動かせないその若者は、傷ついた喉から、呻(うめ)くような声を出して、
『男らしく申します。申します』と答えました。が、たいていの被告は、こう答えておきながら、嘘をつくものです。
『女の名前は何というのだい?』
『錦木といいます』
『いつ頃から、通っているのじゃ』
『十月の初めからです』
『じゃ一月にならないのだな。今までに何遍通った』
『今度で六回目です』
『一度いくらずつ金がかかるのじゃ』
『へえ!』若者は、ちょっといい澱(よど)んだが、痛そうに唾を呑み込んでから『六円から十円ぐらいまでかかります』
『お前は工場でいくら貰っているのじゃ』
『日に一円五十銭ぐらい、貰うとります』
『うむ、それでその中から食費だとか風呂代だとか引くと月に何程ぐらい残るんじゃ』
『へえ、十円ぐらい残ります』
『そうか、十円ぐらいしか残らんで、それで月に六遍も遊んで、一度に六、七円ずつも使うと金が足らなくなるわけだな』
『へえい』
『じゃ、何か別な所で金の工面をしたわけだな』
『へえい』
『誰かから、金の工面をしてもろうたわけだな』
『へえい! 友達から二十円ばかり借りました』
『そのほかにないか』
『親から十円借りました』
『うむ。合して三十円だな。そのくらいの借金なら、払えないという借金じゃないな』
『へえい』
『一体、どうしてこんなことをやった』
 若者は、しばらく考え込んでいたようでしたが、急に咳き込んで来たかと思うと、泡のような血を口から吐き出しました。気管の傷のために、血が口の中に洩れるのです。
 僕は、自分の尋問が、この青年の容体を険悪にしはしないかと思ったので、警察医にききますと、彼は平気な顔をして、
『何! 大丈夫です。どんなことをしたって、命に別条はありません。御心配なくお続け下さい』といいました。
 僕は、それに安心して改めて若者にいいました。
『そら、そんな風に考えたら駄目だよ。あっさりいうのだよ、あっさり』
 若者は、唇の周囲についた血を鼻紙で拭きながら、
『私は、今年は兵にかかっとりますので、入営するまでには金でも溜めて、両親も欣ばせようと思っていましたのに、こんなことで金は溜りませんし、借金はできるし、それにあの女も可哀そうな女で、国へ一度母親の見舞いに帰りたい帰りたいいうておりましたけれど、帰れんような始末で、いっそ死んでしもうたらという、相談になりましたんで』
『うむ。それで一緒に死ぬ相談をしたのか。しかし借金だといって、わずかばかりの金じゃないか。それに、女がそれほど、国に帰りたいのなら、お前が連れて帰ってやればいいじゃないか。何も遠い所ではなし、鳥取じゃないか』
『へえい! それがそうはいきませんので。まったく』
『そうかね、お前のいうことも、一応もっともに思えるが、ただそれだけで死んだというのは、どうも俺の腑(ふ)に落ちないんだが。考えないで、さっぱりいうてみんか。考えていうと嘘になっていかん』
 そういいますと、若者はその蒼白の顔に、ちょっと血の気を湛えながらいいました。
『命を投げ出してやりましたけに、嘘なんか決して申しません』
 相手は少し激したが、僕は冷然たる態度をもっていいました。
『そうかね。そんなら、それでいいが、俺にはどうも腑に落ちないんだがね。俺の腑に落ちんということは、つまり話している方のお前の心に、何か蟠(わだかま)りがあるんじゃないかね。こんな時に、本当のことがいえんようじゃ、男として恥じゃないか。何か別にわけがあるんだろう。何か悪いことでもしたんじゃないか』
『いいや、決して悪いことなんか』と、若者は急(せ)き込んで答えると同時に、傷口からまた血が洩れたのでしょう、苦しそうに咳き込みました。僕の心持は、その時もう職業的意識でいっぱいになっていて、青年が苦しがっても、最初ほどの同情は湧きませんでした。そればかりでなく、僕は、相手がかなり執拗なので、尋問の方向を急に変えてみました。
『じゃ、それはそれとしておいて、一体どちらが先にやったのか、お前の方か、それとも女の方か』
『あたしが先へ死ぬといいまして、女が先に短刀を喉へ突き刺してから、今度は畳へ突きさして私にくれました』
『うむ、なるほど、それで一体女はどんな風に突いたんだ』
『それは、あの女が、刃の方を上に向けて、喉へ突き刺すと、血がだらりと流れました』
『その短刀を握った手は、右かい左かい』
『右です』
『そうかい。それからどうした』
『それから、私が短刀を受け取って、一突き刺したのですが、苦しくて苦しくて、私は思わず立ち上ったのです』
『それから』
『私は唸(うな)ったように思います。それから夢中になってしまいました』
『そうか、夢中になったのか、それであの壁に血がかかっているのは、どうしたのだ』
『私が、苦しまぎれに寄りかかったのです』
『それからどうしたのだ』
『気が付きますと、お主婦(かみ)が私の持っている短刀をもぎとっていたのです』
『なるほどね。そういうわけか。あの錦木という女は、えらい女だな。しかし、そりゃお前、嘘じゃないか。その女が、喉を突いたところを、もう一度いってみんか』
 同じことを、二度いわせるのが、僕らが尋問の常套手段なのです。被告が嘘をいっていれば、きっとそこにつじつまの合わないところができるのです。が、それにしても、喉に傷を持っている被告に二度同じことを繰り返させることが、かなり残酷のように思われないでもなかったのです。が、その当時、僕の熾烈(しれつ)な職務心は、そんな心をすぐ打ち消したのでした。
 それでも、若者は前の陳述と矛盾しないように、同じことを繰り返しました。
『そうかね。その女が、一人でやった! が、お前手伝ってやりはしなかったかね。女が可哀そうじゃないかね。どうせ二人で死んで行くのだもの。女が苦しんでいれば、お前も手をとって力を添えてやるのが人情じゃないか。それが、人間として美しいことじゃないかね。いいか悪いかは別問題として、そうあるべきところじゃないかね』
 先刻、女の死体を一目見たときに、僕は女が、どちらかといえば、呼吸器でもが悪いように瘠せた女で、男が陳述するような、勇気がある女とは、どうしても思えなかったのです。僕は、自殺幇助の事実があることを最初から信じていたのです。それに、先刻ちょっと見たときにも、傷口が一刀のもとに見事に突かれていることに気が付いていたのです。
『どうだい。俺には、あの女に、お前がいうほど勇気があるとは、どうしても思えないのだがね。そこが、不思議で堪らないのだがね。どうだい。本当のことをあっさりといってくれんかな。実はお前が、突いてやったのだろう』
 若者は明らかに狼狽しながら、
『いえいえ、滅相な滅相な』と打ち消しました。
『じゃ、きくがね。あの女の喉のところに掻き傷があるが、あれはどうしたんだ』
 若者は顔が赤くなったかと思うと、黙っていました。
『お前が、一緒に突いてやったのじゃないか』
 若者は、首を横に、微かに動かしました。
『じゃ、そんな覚えはないというんだね。女が喉を突くとき、お前の手は女の身体に触れていなかったというのかい』
『いいえ。二人抱き合って』
 僕は心のうちで、『しめた!』と叫びました。
『二人抱き合って、うむ。先刻は、そんなことはいわなかったようだね。なるほど、二人抱き合って』
『二人一緒に抱き合って、女が喉を突くと、一緒に転(ころ)げたのです。それで、血が出たから押さえてやろうとしたのです』
『なるほど、お前のいうことは、だんだん本当に近くなってきたじゃないか。が、もう少し本当でなければいかん。もう少しのところだ。もう少し本当にいえばいいのだ』
『それで、女がもがいて、手で喉を掻きむしったのです』
『なるほどな。それで、掻き傷ができたというのだな。そんなこともあることだから、それも本当にとれる。だけど、お前よう考えてみるがいいぞ。普通の女というものは気の弱い人間だぜ。鬼神のお松というような毒婦だとか、乃木大将の夫人などという女丈夫なら、そら一突きで見事に死ぬかも知れん、が、あの女のような身体の弱い女に、そんなことができるかできんか、誰が考えても分かることじゃないか』
 こういって来ると、相手の若者は、返事に窮したように、黙ってしまったのでした。僕は、もう一息だと思いました。
『何も、こんなことは、別にお前にきかなくても、初めからちゃんと分かっていることなんだ。掛りの医者を連れて来ているのだから、大抵のことは、お前にきかなくても分かってるのだ。が、お前が本当のことをいう男であるか、お前に何か取りえがあるかどうかと思って、きいているのだぞ』
 こういい詰めると、若者は苦しそうに、身を悶えていましたが、
『ああお役人さま。私は死にたいのです。どうぞ、私を殺して下さい!』
 彼は悲鳴のように叫ぶと、切なそうに、啜(すす)り泣きを始めていました。
 僕は若者を叱りつけるようにいいました。
『そんな気の弱いことでどうする。今が、お前の一生の中で、いちばん大事なときじゃないか。今までの間違っていたことを改めて、生れ変った人間として立派にやっていく、大事な潮時じゃないか、お前が、やったことが悪いとしたならば、死んだ人に対しても、社会に対しても、申しわけとして、相当な勤めを、立派に果して、生れ変って来るときじゃないか。こんな大切なときにウソを吐くようじゃ、お前はもう何の取りえもない、男子のなかの屑じゃないか。さあ、死にたいなどと、そんな気の弱いことをいわないで、潔く本当のことをいったらどうだ。短刀の柄の端を、少し持ち添えてやったとか、一緒に転ぶときに、少し押してやったとか。本当のことをいってみい!』
『夢中で、はっきりとは覚えていませんが、一緒に倒れるときに、私の手が喉のところへ行ったかも知れません』
 若者は、とうとう本当のことを、喋(しゃべ)り始めたのです。僕の面に、得意な微笑が浮ぶのをどうすることもできませんでした。
『なるほどな、が、お前も自分でやったことが分からんはずはないだろう、いや、お前はよう分かったつもりでいっているのだろうが、普通に考えると、どうもよく分からん。お前の肚(はら)になってみれば、よく分かるが、普通に分かるようにいってみんか。が、嘘をいえというのじゃないぞ』
 若者は、しばらく無言でしたが、ようやく決心したように、
『よう考えてみると、あれが自分で突き刺して、非常に苦しがっていたものですから、あれの上から、のっかかって、短刀の柄の残っているところを、持ってやりました。一緒にきゅっと押してやりました』
『それはどっちの手で』
『右の手でやりました』
『そのとき、左の手はどうしていたのだ。まさか、左の手を上へぼんやり上げてはいはすまいね。その時の姿勢は、どうだった』
『じつは左の手で女の首を抱えてやりました』
『なるほど。それで、よう物が分かった。それで、いうことに無理がない。だから、早くからいえばよかったのだ。それで、そのことには、少しも無理がない。よう分かった。が、もう一つ分からんことがある。それも一つ考えずに、あっさりいうたら、どうだ。そりゃ、こうこういうわけだったと、あっさりいうたらどうだ。無理のないよう分かるようにいったらどうだ。そら、お前がどうしてこういうことをやったかをついでにいってくれ』
『それは、さっき申した通りです』
『うむ、さっきどんなことをいったかな。もう一遍いってみてくれんか。さっきからたくさんきいたから、勘違いをしておるかも知れん。もう一度、くわしくいってみてくれ』
 こういうのは、犯人には事実を自白する機会を作ってやるためです。
『それは、兵に行く前に金でも溜めて、両親を欣ばせようと思っていましたのが、借金はできますし、それにあの女が――』
『そうそう、さっききいたのは、そこだった。そこを一つ考えずにいってくれ、よく世の中には、別れの辛いということがあるが、国へ帰って兵に行くということになると、自然あの女とも別れることになるのだったな』
『実は、かれこれ申し上げていましたが、今まで申し上げたことも、一つですが、もう一つ他のことは、兵にはいるのが嫌だったのです。それで、私が思い詰めて、女に申しますと、女もそれではと申しまして、こういうことになったのです』
『それに相違ないか。この先、お前が違うことをいうと、お前に嫌疑がかかる上に、憎しみもかかり、結局はお前の損になるのだから』
『その通り、決して違いありません』
 そう、いい終ると、若者はその顔に絶望の表情を浮べたかと思うと、そのまま崩れるように、仰向けに倒れてしまいました。
 彼が、自殺幇助の罪を犯していることが、明らかにされたのです。自殺幇助の罪は、六ヵ月以上七年以下の懲役または禁錮です。若者の尋問が終ると、うまく問い落したというような、職務意識から来る得意さと満足とが私の心のうちに湧いて来るのを、禁ずることができませんでした。ほとんど、一時間に近い、長い尋問のために、疲れ果てて、蒲団に寝かされた後も、苦しそうに肩で息をしている若者を、僕は、猟人がちょうど自分の射落した獲物でも見るような目付で、しばらくはじっと見つめていたのでした。僕の尋問の綾(あや)に、うまく引っかかって、案外容易に、自白してしまった若者に、憫(あわれ)みを感じながら、しかも相手の浅はかさを、蔑(さげす)むような心持さえ動いていたのです。

 そのときに、警部が僕に近づいて来て、若者にはきこえないような低声で、
『ちょっとおいで下さい、解剖をやっています』と囁(ささや)きました。
 僕は、それをきくと、女の死体のある元の四畳半に帰って行ったのです。さすがに、女の死体は、蒲団の上に、真っすぐに寝かされていました。よれよれに垢じみた綿ネルらしい寝衣を、剥ぎ取られた姿は、前よりももっとみじめな浅ましいものでした。胸のあたりの蒼い瘠せた皮膚には、人間の皮膚らしい弾力が少しも残っていないのです。露わに見えている肋骨や、とげとげしい腕の関節などが、この女の十年の悲惨な生活をまざまざと示しているのでした。また、その身体の下半部に纏(まと)っている腰巻が、一目見た者が思わず顔を背けねばならないほど、ひどいものでした。それは、ネルでしたが、地の桃色が褪せてしまって、ところどころに白い斑(まだら)ができて、それが灰色に汚れているのです。よく、注意して見ると、それは普通の婦人がするように、ネルの上に白木綿を継ぎ足してあるのですが、その白木綿が、鼠色に黒くなっているところへ、迸(ほとばし)った血がかかったため、白木綿のところまでが、ネルの部分と同じように、汚れた桃色に見えていたのです。
 女は、見る見るうちに、喉の傷口を剖(あば)かれ、胸から腹部へと、次々に剖(あば)かれて行くのでした。警察医は、鶏の料理をでもするように、馴れ切った冷静な手付きで、肺や心臓や胃腸など一通(ひととお)り見た上で、女に肺尖(はいせん)カタルの痕跡があるといいました。
 僕は、死体の解剖を見ているうちに、自分の気持が鉛のように重苦しくなって来るのを感じたのです。女の栄養不良の瘠せ果てた身体は、彼女の過去の苦惨な生活を、何よりも力強く、僕の胸に投げつけるのです。十年もの間、もがいた末に、なおこうした地獄の境目を脱すべき曙光を見出し得ない彼女が、自殺を計るということは、当然過ぎるほど、当然なことのように思われて来たのです。前借といえば、きっと三百円か五百円かの端金(はしたがね)に違いない。そうした金のために、十年の間、心も身体も、めちゃくちゃに嘖(さいな)まれた彼女が、他の手段では、脱し切れない境地を、死をもって脱しようとすることは、もっとも至極のことのように思われたのです。現代の売淫制度の罪悪は、売淫そのものにあるというよりも、こうした世界にまでも、資本主義の毒が漲(みなぎ)っていて、売淫者自身の血や膏(あぶら)が、楼主といったものを、肥しているということです。貧乏な人たちの子女が、わずかな金のために、身を縛られて、楼主といったような連中の餌食になって骨まで舐(しゃぶ)られていることです。そう考えて来ると、そうした犠牲者が、そのどうにもならない境地を、死をもって脱するのは、彼らが、最後の反抗であり唯一の逃路であるように思われて来たのです。
 こうした浅ましい身体で、こうしたみじめな服装をして、浅ましい勤めをしているよりも、一思いに自殺する方が、この女に、どれだけ幸福であるかわからないと思ったのです。
 そのときに、僕はこの女の自殺を手伝ってやったあの若者のことを考えたのです。この女は、明らかに死を望んでいる、そして死ぬ方が、何よりの解脱である。この女が、自殺しようとしてもがいているときに、ちょっと短刀を持ち添えてやったことが、なぜ犯罪を構成するのだろう。現代の社会のいちばん不当な間隙に、身を挟まれて苦しんでいる彼女が死を考えることに何の無理があるのだろう。また彼女が死んだからといって、何人が損をするというのだろう。楼主が損をするというのか。否、彼は彼女の血と膏とで、もう十分舌鼓を打った後ではないか。我々が、彼女の死を遮(さえぎ)るべき何の口実ももっていないのではないか。またたとえ、彼女の死を遮り止めたところで、彼女を救ってやるいかなる方法があるだろう。それだのに、彼女が死を企てたときに、ちょっとその手伝いをしたあの若者が、何故に罰せられなければならないのだろう。
 そのときに、僕はふと、さっき尋問の手段として、若者にいいきかせた自分の言葉を思い出したのです。
『……女が可哀そうじゃないかね。どうせ二人で死んで行くのだもの。女が苦しんでいれば、お前も手をとって力を添えてやるのが人情じゃないか。それが、人間として美しいことじゃないかね』
 自分が、手段のためにいったこうした言葉が、力強く僕の胸に跳ね返ってきたのです。あの若者のような場合に、あの若者のような態度に出ることは、何人からも肯定さるべき、自然な人情ではないか。それが、人間として美しいことではないか。それだのに、自分自身死にそこなって苦しがっている彼を、法律は追及して、罰しなければならないのだろうか。
 そんなことを、考えていると、僕はさっき、傷に悩んでいる青年を脅(おど)したり賺(すか)したりして問い落して得意になっていた自分の態度が、さもしいように考えられて来たのです、僕の職務的良心が、ともすればぐらぐらに崩れそうになっていたのです。

 出張したのは二時頃でしたが、すべての手続きが片づいた頃には、日がとっぷりと暮れていました。僕らは、引き上げようとして、俥が来るのを待っていたときです。臨検中は、私人が二階へ上るのを、一切禁じてあったのですが、もうすべてが終ったので、家人の上るのを許したのです。すると、待ち構えていたようにいちばんに上って来たのは、さっき見かけたこの家のお主婦(かみ)なのです。
 僕の顔を見ると、平蜘蛛のように、お辞儀をしながら、そのくせ、額ごしに、冷たい目でじろじろ見ていたかと思うと、いいにくそうに、
『旦那はん。あの指輪(ゆびはめ)、取っても大事おまへんか』と、こういうのです。
『指輪! 指輪が、どうしたのだ』
 お主婦は、ちょっと追従笑いをしていましたが、
『へえ。あの子供がはめておりますんで』
 僕はそうきいたときに、妙な悪感を感ぜずにはいられなかったのです。
『じゃ、あの死体の指にはいっている指輪を欲しいというのだな』
『へえ! さよで』
 僕は、頭から怒鳴りつけてやりたいと思ったのです。が、しかし、検事としての理性が僕の感情を抑えたのです。死体から、指輪を剥ぎ取るということ、それは普通な人情からいえば、どんな債権債務の関係があるにしたところで人間業ではないような恐ろしいことです。けれども、法律的にいえば、それは単に物の位置を移すということに過ぎないのです。
『よろしい』
 僕は、そう苦(にが)り切って答えるほかはなかったのです。お主婦は、一人では怖いからといって、刑事に付いてもらって、死体の置いてある部屋の方へ行きました。
 お主婦の姿を見送った僕の心は、憤懣とも悲しみとも、憂愁ともつかない、妙な重くるしい、そのくせ張り裂けるような感情で、いっぱいになっていたのです。
 普通の人間が死んだ場合は、たとえ息は絶えていても、あたかも生あるもののごとくに、生前以上に尊敬され、待遇されるのに、彼女は――生前もがきにもがいた彼女は、嘖(さいな)まれた上にも嘖まれた彼女は――息が絶えると同時に、物自体のように取り扱われ、身に付けていた最後の粉飾物を、生前彼女を苦しめ抜いた楼主に奪われなければならぬかと思うと、彼女の薄命に対する同情の涙が、僕の目の中に汪然と湧いて来るのを、どうすることもできなかったのです。
 お主婦(かみ)は、やがて指輪を抜いてきました。見ると、それは高々八、九円するかしないかの、十四金ぐらいの蒲鉾(かまぼこ)形の指輪なのです。僕はそのときむらむらとして、こんなことをいったのです。
『お前、その指輪を、どうするのだ』
 お主婦は、おどおどしながら、
『あの子供に、借金が仰山(ぎょうさん)ありますけに、これでも売って、足しにしようと思うているのです』
『そうか。じゃ、誰かに売るんだな。売るのなら俺に売ってくれんか。何程ぐらいするんだ。十円なら安くないだろう』
『へえへえ。結構どす。けど、何やってこんなものをお買いになるのどす』
『まあ! いい』
 そういって、僕はその指輪を買ったのです。
 そのとき、ちょうど俥がやって来たのです。僕は、立ち上ると、お主婦が、不思議そうに見ているのもかまわず、錦木の部屋へ入って行ったのです。そしてお主婦から買い取った指輪を、元の瘠せ細った指に入れてやったのです。もう、十一月の半ばであるのに、死体の上に、あせためりんす友禅の単衣(ひとえ)しか掛けてないのが、何だか薄ら寒そうに見えたのです。が、顔だけはまことに、眠るがごとく目を閉じていたのが、そのときの僕には、何よりの心やりでした。
 僕は、僕の後から、僕が何をするのだろうと、おずおず見に来たお主婦に叱りつけるようにいったのです。
『いいかい。この指輪は、錦木のものじゃない。俺のものだぞ。もし今度この指輪を取ると、ひどい目にあうのだぞ』
 僕は、お主婦(かみ)が何か畏(かしこま)っていっているのを聞き流して、梯子段を降りたのです。
 僕は、俥に乗ってから、立会いの警部や刑事の手前、自分の最後の行動が、突飛であったことを後悔したのです。が、後で悔いはしたものの、あの場合の僕は、ああした行動をするような、不思議な興奮に囚(とら)われていたことは事実です」




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