半七捕物帳
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著者名:岡本綺堂 

葬式やら、病人やら、黒沼家の混雑は思いやられて、長八はますます同情に堪えなかった。
「就きましては、明日は初七日(しょなのか)の逮夜(たいや)に相当いたしますので、心ばかりの仏事を営みたいと存じます。御迷惑でもございましょうが、御夫婦と御子息に御列席を願いたいのでございますが……」
「いや、それは御丁寧に恐れ入ります。一同かならず御焼香(ごしょうこう)に罷(まか)り出でます」と、長八は答えた。
 これで正式の挨拶も終ったところへ、娘のお北が茶を運んで来た。まだ馴染(なじみ)の浅い仲とはいいながら、客と主人はやや打ち解けて話し出した。
「御承知でございますか。護国寺前の一件を……」と、幸之助はお北のうしろ姿を見送りながら少しく声を低めた。
「護国寺前……。何事か、一向に知りません」と、長八は茶を喫(の)みながら云った。「白い蝶でも又出ましたか」
「そうでございます」と、幸之助はうなずいた。
「え、ほんとうに出ましたか、白い蝶が……」
「護国寺前……東青柳町(あおやぎちょう)に野上佐太夫というお旗本がありますそうで……。わたくしは昨今こちらへ参りましたのでよくは存じませんが、三百石取りのお屋敷だとか承わりました。昨夜の五ツ過ぎに、大塚仲町(なかまち)辺の町家の者が二人連れで、その御門前を通りかかりますと、例の白い蝶に出逢いましたそうで……」
「ふうむ」
 長八は唸るような溜め息をつきながら、相手の顔をながめていると、幸之助は更に説明した。
 その二人連れは大塚仲町の越後屋という米屋の女房と小僧で、かの野上の屋敷の門前を通り過ぎようとする時に、暗闇のなかから一羽の蝶が飛び出した。そうしてひらひらと女房の眼のさきへ舞って来ると、女房は声も立てずに其の場に悶絶(もんぜつ)した。小僧は途方に暮れてうろうろしている処へ、幸いに通り合わせた人があったので、共々に介抱して近所の辻番所へ連れて行くと、女房は幸いに正気に復(かえ)ったが、自分にもどうしたのかよくは判らない。ただ眼のさきへ大きい白い蝶が飛んで来たかと思うと、たちまち夢のような心持になってしまって、その後のことは何も知らないと云うのであった。
 以上は世間の噂話を聴いたに過ぎないので、幸之助もくわしい事実を知らないのであるが、ともかくも奇怪な白い蝶が闇夜にあらわれて、往来の人をおびやかしたという噂が彼の注意をひいたのである。その話を終った後に、彼は又云った。
「白い蝶の噂は京橋の実家に居るときから聴いて居りまして、八丁堀の役人たちも内々探索しているとか云うことでございましたが、こうしてみるとやはり本当かと思われます」
「本当でしょう」と、長八もうなずいた。「現にわたしの家(うち)の娘も見たと云います。あなたのお父さまの亡(な)くなられた晩にも、伜の長三郎がそれらしい物を見たとか云います。市川屋の職人も見たことがあると云う。一人ならず、幾人もの眼にかかった以上、それが跡方もないこととは云われますまい」
 とは云ったが、さてそれがどういう訳であるか、長八にも説明することは出来なかった。幸之助にも判らなかった。いわゆる理外の理で、広い世界にはこうした不思議もあり得ると信じていた此の時代の人々としては、強(し)いてその説明を試みようとはしなかったのである。なまじいに其の正体を見とどけようなどと企てると、黒沼伝兵衛のような奇禍に出逢わないとも限らない。触(さわ)らぬ神に祟(たた)り無しで、好んでそんな事件にかかり合うには及ばないと云うのが、長八の意見であった。
 彼はその意見に基づいて伜の長三郎を戒(いまし)めたが、今や幸之助に対しても同様の意見をほのめかして、若い侍の冒険めいた行動を暗に戒めると、幸之助もおとなしく聴いていた。
 幸之助が帰ったあとで、お北は父にささやいた。
「東青柳町にまた白い蝶々が出たそうですね」
「お前は立ち聴きをしていたのか」と、長八はすこしく機嫌を損じた。「立ち聴きなぞするのは良くないぞ」
 お北は顔を赤くして黙ってしまった。
 その翌夜は黒沼の逮夜(たいや)で、長八夫婦と長三郎は列席した。他にも十五、六人の客があったが、大抵の人は東青柳町の噂を聞き知っていた。そうして、それは切支丹(きりしたん)の魔法ではないかなどと説く者もあった。今夜の仏の死が奇怪な蝶に何かの関係を持っているらしくも思われるので、遺族の手前、その噂をするのを憚(はばか)りながらも、奇を好む人情から何かとその話が繰り返された。父からきびしく叱られているのと、また二つには若年者(じゃくねんもの)の遠慮があるので、長三郎は終始だまっていたが、諸人のうわさ話を一々聞き洩らすまいとするように、彼は絶えずその耳を働かせていた。
 それから半月余りは何事もなくて過ぎた。二月に入っていよいよ暖かい日がつづいて、ほんとうの蝶もやがて飛び出しそうな陽気になった。その十二日の午(ひる)過ぎに、長三郎は父の使で牛込まで出て行ったが、先方で少しく暇取って、帰る頃には此の頃の春の日ももう暮れかかっていた。江戸川橋の袂まで来かかると、彼は草履の緒を踏み切った。
 自分の家まではさして遠くもないのであるが、そのままで歩くのは不便であるので、長三郎は橋の欄干(らんかん)に身を寄せながら、懐紙(かいし)を小撚(こよ)りにして鼻緒をすげ換えていると、耳の端(はた)で人の声がきこえた。それが何だか聞き覚えのあるように思われたので、長三郎は俯向いている顔をあげると、二人の男が音羽の方向へむかって、なにか話しながら通り過ぎるのであった。ひとりは屋敷の中間(ちゅうげん)である。他のひとりは町人ふうの痩形(やせがた)の男であった。どちらもうしろ姿を見ただけでは、それが何者であるかを知ることは出来なかった。その一刹那に長三郎はふと思い出した。
「あ、あの時の声だ」
 黒沼伝兵衛の死を報告するために、暗やみを駈けてゆく途中で突きあたった男――その疑問の男の声が確かにそれであったことを思い出して、長三郎の胸は怪しく跳(おど)った。
 二人はもう行き過ぎた後であるので、それが中間の声か、町人の声か、その判断は出来なかったが、ともかくも彼等のひとりが其の夜の男に相違ないと、彼は思った。しかも彼はあいにくに草履の鼻緒をすげているので、直ぐにその跡を尾(つ)けて行くことも出来なかった。長三郎が焦(じ)れて舌打ちしている間(ひま)に、二人は見返りもせずに橋を渡り過ぎた。
 急いで鼻緒をすげてしまった頃には、二人のうしろ影はもう小半丁も遠くなっているのを、見失うまいと眼を配(くば)りながら、長三郎は足早に追って行った。音羽の大通りへ出て、九丁目の角へ来かかると、ひとりの女が人待ち顔にたたずんでいた。彼女は長三郎を待っていたらしく、その姿をみると小走りに寄って来たので、長三郎は思わず立ちどまった。女は火の番の娘お冬であった。
「先日は失礼をいたしました」と、お冬は小声で挨拶した。
 そうして、うしろの横町を無言で指さした。その意味がわからないので、長三郎も無言でその指さす方角をながめると、横町の寺の門に立っている男と女のすがたが見えた。
 まだ暮れ切らないので、ふたりの姿は遠目にも大かたは認められたが、男はかの黒沼幸之助で、女は自分の姉のお北であることを知った時に、長三郎は一種の不安を感じて無意識にふた足三足あるき出しながら、更に横町の二人を透かし視た。
 幸之助と姉とは今頃どうして其処らに徘徊しているのであろう。途中で偶然に行きあって何かの立ち話をしているのか。あるいは約束の上でそこに待ち合わせていたのか。前者ならば別に仔細もないが、後者ならば容易ならぬ事である。幸之助は黒沼家の婿養子となって、いまだ祝言(しゅうげん)の式さえ挙げないが、お勝という定まった妻のある身の上である。その幸之助と自分の姉とが密会(みっかい)する――万一それが事実であって、その噂が世間にきこえたならば、二人は一体どうなることだろう。いずれにしても一と騒動はまぬがれまい。
 それを考えながら、長三郎は暫く遠目に眺めていると、お冬は訴えるように又ささやいた。
「あのおふたりは、このごろ時々に……」
「きょうばかりでは無いのか」と、長三郎はいよいよ不安らしく訊(き)いた。
 お冬はうなずいた。ゆうぐれの寒さが身にしみたように、長三郎はぞっとした。自分は中間と町人のあとを尾(つ)けて来たのであるが、長三郎はもうそんな事は忘れてしまったように猶も横町をながめていると、その思案の顔に鬢(びん)のおくれ毛のほつれかかって、ゆう風に軽くそよいでいるのを、お冬は心ありげに見つめていた。
 目白の不動堂で暮れ六ツの鐘を撞(つ)き出したので、それに驚かされたように、幸之助とお北の影は離れた。男を残してお北ひとりは足早に引っ返して来るらしいので、姉に見付けられるのを恐れるように、長三郎もおなじく足早にここを立ち去った。

     六

「考えると、不審のことが無いでもない」
 長三郎は家(うち)へかえってから又かんがえた。黒沼の娘お勝はまだ全快しないで、その後も引きつづいて枕に就(つ)いている。その見舞ながらに、姉のお北は殆ど毎日たずねて行く。勿論、隣家でもあり、ふだんから特別に懇意にしているのであるから、父も母も長三郎も別に不思議とも思わなかったのであるが、こうなると、お北が毎日の見舞もほかに意味があるらしく推量されないことも無い。
 婿に来たとは云うものの、お勝が病気のために、幸之助はまだ祝言の式を挙げていない。そこへ姉が毎日入り込んで、幸之助と親しくする。しかもお冬の訴えによれば、ふたりは時々に目白坂下の寺門前で会合すると云う。それらの事情をあわせて考えると、一種の疑いがいよいよ色濃くなる。姉に限って、まさかにそんな事はと打ち消しながらも、長三郎は全然それを否定するわけには行かなくなった。
 さりとて、父や母にむかって迂闊(うかつ)にそれを口外することは出来ない。いずれにしても更に真偽を確かめる必要があると思ったので、長三郎はきょうの発見についていっさい沈黙を守ることにした。お北もやがてあとから帰って来た。その話によると、音羽の大通りまで買物に出たのだと云うことであった。
 音羽の通りへ買物に出たものが、横町の寺門前までわざわざ廻って行く筈がない。そんな嘘をつく以上は、姉の行動はいよいよ怪しいと、長三郎は思った。
 それから二、三日の後である。長三郎が夕飯をすませてから、いつもの如くに夜学に出ると、四、五間さきをゆく男のうしろ姿が隣家の黒沼幸之助であることを、薄月のひかりで認めた。彼はどこへ行くのであろう。又もや姉を誘い出して、かの寺門前で密会(みっかい)するのではあるまいかと思うと、長三郎はそのあとを尾(つ)けてゆく気になった。彼は草履の音を忍ばせて、ひそかに幸之助の影を追ってゆくと、その影はかの横町の方角へはむかわずに、路ばたの狭い露路にはいった。
 露路の奥には火の番の藤助の家がある。彼はその家をたずねるのか、それとも他の家をたずねるのか、長三郎は更に又新らしい興味に駆られて、つづいて露路のなかへ踏み込んだ。先日一度たずねた事があるので、長三郎は先ず藤助の家のまえに忍び寄って内の様子を窺うと、故意か偶然か、行燈(あんどう)の火は消えて一面の闇である。その暗いなかで女の声がきこえた。
 それがお冬の声でないことを知った時に、長三郎はまた不思議に思った。女の声は低かったが、それでも力がこもっているので、外で聴いている者の耳にも切れぎれに響いた。
「あなたのような不人情な人はない、覚えておいでなさいよ」
 幸之助は何かなだめているらしかったが、その声はあまりに低いので聴き取れなかった。暫くして女の声がまた聞こえた。
「忌(いや)です、いやです。……もういつまでも瞞(だま)されちゃあいません。いいえ、いけません。あなたのような人は……。いいえ、忌です。唯は置かないから、覚悟しておいでなさい。……わたしは死んでも構わない。……あなたもきっと殺してやるから……」
 長三郎はおどろいた。その女はいったい何者で、幸之助になんの恨みを云っているのか。彼は息をつめて聴いていると女は嚇(おど)すように又云った。
「わたしの口ひとつで、あなたの命は無いと云う事は、かねて承知の筈じゃあありませんか。……黒沼家へ養子に行ったのは、まあ仕方がないとしても……。隣りの娘とまで仲よくして……。いいえ、知っています」
 幸之助は又もや何か云い訳をしているらしかったが、やはり表までは洩れきこえなかった。長三郎はすこしく焦(じ)れて、縁に近いところまでひと足ふた足進み寄ろうとする時に、うす暗い蔭からその袂をひく者があった。ぎょっとして見かえると、それはお冬であるらしかった。
「およしなさい」と、女は小声で云った。
 それは果たしてお冬であった。
 不意に声をかけられて長三郎もやや躊躇していると、暗い家のなかでは人の動くような音がきこえた。お冬は再び長三郎の袖をつかんで、無理に引き戻すように桃の木のかげへ連れ込むと、何者かが縁さきへ出て来た。暗いなかでも見当が付いているらしく、直ぐに下駄を穿(は)いて表へ出てゆく姿を薄月に透かして視ると、それはすっきりとした痩形の女であった。この女が幸之助を恨み、幸之助を嚇(おど)していたのかと思ううちに、その姿は露路の外へ幽霊のように消えてしまった。
 長三郎もお冬も無言でそれを見送っているうちに、やがて又静かに縁を降りて来る者があった。それは幸之助で、なにか思案(しあん)しているような足取りで、力なげに表へ出て行くのを、長三郎は殆ど無意識に尾(つ)けて行こうとすると、お冬は又ひきとめた。
「およしなさい」
 なぜ止めるのか、長三郎には判らなかった。それを諭(さと)すように、お冬はささやいた。
「あの人たちは怖い人です」
 なぜ怖いのか、長三郎にはやはり判らなかった。しかし、かの女が「わたしの口ひとつで、あなたの命は無い」などと云ったのを考えると、それには恐ろしい秘密がひそんでいるらしくも想像された。
「なぜ怖いのだ」と、長三郎は訊いた。
「なんだか怖い人です。わたしのお父(とっ)さんもあの人たちに殺されたのかも知れません」と、お冬は声を忍ばせて、若い侍にすがり付いた。
 その一刹那に、又もや一つの影が突然にあらわれた。暗いなかでよくは判らなかったが、猫のように縁の下から這い出して来たらしく、頬かむりをした町人ふうの男が足早に表へぬけ出して行った。彼は、まったく猫のように素捷(すばや)かった。
 長三郎も意外であったが、お冬も意外であったらしく、身をすくめて長三郎にしがみ付いていた。家のなかは暗闇(くらやみ)であるが、外には薄月がさしている。それに照らし出された男のうしろ姿は、このあいだ江戸川橋で出逢った町人であるらしく思われたので、長三郎は又もや意外に感じた。と同時に、彼は殆ど無意識にお冬を突きのけて、その男のあとを追って出た。
 薄月のひかりにうかがうと、女は大通りを北にむかって行く。幸之助はそのあとを追ってゆく。町人ふうの男は又そのあとを追って行くらしい。まだ宵であるから、両側の町屋も店をあけていて人通りもまばらにある。それを憚(はばか)って幸之助も直ぐに女に追いすがろうとはしない。男も相当の距離を取って尾(つ)けて行くので、長三郎もその真似をするように、おなじく相当の距離を置いて尾行することにした。
 女は途中から左に切れて、灯の無い横町へはいってゆくと、左右は農家の畑地である。そこまで来ると、幸之助は俄かに足を早めて女のうしろから追い付いた。その足音をもちろん知っていたのだろうが、女は別に逃げようとする様子もなく、しずかに振り向いて相手と何か話しているらしかった。
 町人はそれを見て、身をかくすように畑のなかに俯伏したので、長三郎もまた其の真似をして畑のなかに俯伏していると、やがて女は幸之助を突き放してふた足三足あるき出した。幸之助は追いかけて、女の襟に手をかけた。引き倒そうとするのか、喉(のど)でも絞めようとするのか、男と女は無言で挑(いど)み合っていた。
 俯伏していた町人は畑のなかから飛び出して、飛鳥のごとくに駈け寄ると、それに驚かされて二つの影はたちまち離れた。女はあわてて逃げ去ろうとするのを、町人は駈け寄って押さえようとすると、幸之助は又それをさえぎるように立ち塞がった。男ふたりが互いに争っているあいだに、女は一目散に逃げ出した。
 女はともあれ、眼のまえに争っている男ふたりをどう処置していいのか、長三郎も当座の分別(ふんべつ)に迷った。本来ならば幸之助に加勢するのが当然であるが、今の場合、幸之助を助けるか町人を助けるか、どちらにするのが正しいか、長三郎にも見当が付かなかった。彼はいったん立ち上がりながらも、いたずらに息を呑んでその成り行きを眺めているうちに、町人は草履(ぞうり)をすべらせて小膝を突いた。幸之助はそれを突き倒して逃げ出した。男はすぐに跳ね起きて、そのあとを追ってゆくと、幸之助は畑のなかへ飛び込んで、路を択(えら)ばずに逃げてゆく。追う者、追われる者、その姿は欅(けやき)の木立(こだち)のかげに隠れてしまった。
 何がどうしたのか、長三郎にはちっとも判らなかった。彼はもうその跡を尾けてゆく元気もなくて唯ぼんやりと突っ立っていたが、さっきからの行動をみると、かの町人は唯者ではない。おそらく八丁堀同心の手に付いている岡っ引のたぐいであろうと想像された。かの女と幸之助とのあいだに何かの秘密がひそんでいることも、さっきの対話でうすうす想像された。それらを結び付けて考えると、彼等は一種の重罪を犯していて、岡っ引に付け狙われているのではあるまいか。
 相手の女は何者であるか知らないが、幸之助は隣家に住んでいて、朝夕に顔を見あわせている仲である。それが重罪人であろうとは意外であるばかりか、自分の姉がその重罪人と親しくしているらしい事を考えると、長三郎はあたりが俄かに暗くなったように感じられた。彼はもう夜学に行く気にもなれなくなって、その儘わが家へ引っ返した。
 彼は今夜の出来事を父にも母にも話さなかった。父には内々で話して置きたいと思ったのであるが、何分にも広くない家であるので、万一それを姉にでも立ち聴きされては困ると思ったので、その晩は黙って寝てしまった。
 夜のあけるのを待ちかねて、彼は黒沼家の門前を掃いている下女のお安に聞きただすと、幸之助はゆうべ帰宅しないと云うのである。彼はついに岡っ引の手に捕われたのか、それとも逃げ延びて何処へか身を隠したのか、いずれにしても其の儘では済むまいと思われた。
 父の長八は当番で登城した。長三郎はいつもの通りに剣術の稽古に行って、ひる頃に帰って来ると、母のお由は午飯(ひるめし)を食いながら話した。
「おとなりの幸之助さんはゆうべから帰らないそうだね」
「どうしたのでしょう」と、長三郎はそらとぼけて訊(き)いた。
「お友達と一緒に遊びにでも行ったのかも知れない」と、お由は笑いながら云った。「こっちへ来てはまだ昨今だけれど、京橋の方にはお友達が随分あるようだからね。なにしろ御納屋(おなや)の人たちには道楽者が多いと云うから」
「お婿(むこ)に来て、まだ一と月にもならないのに、夜遊びなんぞしては悪いでしょう」
「悪いとも……」と、お由はうなずいた。「けれども、お婿と云っても相手のお勝さんがあの通りだからね。きっとお友達にでも誘われて、どこへか行ったのだろうよ」
 姉のお北も、妹のお年も、そばで一緒に箸をとっているので、長三郎はこの対話のあいだに姉の顔をぬすみ視ると、気のせいか、お北の顔色はやや蒼白く見られた。
 その日の夕方に、お北もゆくえ不明になった。

     七

「きょうはお天気で好うござんしたね」と、二十四、五の小粋(こいき)な女房が云った。
「むむ。初午(はつうま)も二の午も大あたりだ。おれも朝湯の帰りに覗いて来たが、朝からお稲荷さまは大繁昌だ」と、三十二、三の亭主が答えた。
「それじゃあ、わたしも早くお参りをして、お神酒(みき)とお供え物をあげて来ましょう」
 女房は帯をしめ直して、表へ出る支度に取りかかった。この夫婦は神田の三河町に住む岡っ引の吉五郎と、その女房のお国である。女中に神酒と供え物を持たせて、お国が表へ出てゆくと、それと入れちがいに、裏口から一人の男が顔を出した。
「親分。内ですかえ」
 取次ぎの子分が居合わせないで、吉五郎は長火鉢の前から声をかけた。
「留(とめ)じゃあねえか。まあ、あがれ」
「お早ようございます」
 手先の留吉はあがって来た。
「誰もいねえから火鉢は出せねえ。ずっとこっちへ来てくれ」と、吉五郎は相手を長火鉢の向うに坐らせて、直ぐに小声で話し出した。「どうだ。例の件は……」
「面目がありません、このあいだの晩はどじを組んでしまって……」と、留吉は小鬢(こびん)をかいた。「だが、親分。もう大抵のところは見当が付きましたよ。お尋(たず)ね者のお亀はお近と名を変えて、音羽の佐藤孫四郎という旗本屋敷に巣を作っているんです」
「佐藤孫四郎……。小ッ旗本だろうな」
「と云っても、四百石取りで……。三年ばかり長崎へお役に出ていて、去年の秋に帰って来たんです。お亀のお近はそのあとから付いて来て、その屋敷へはいり込んだと云うことです」
「だれから訊いた」
「屋敷の中間にかまをかけて聞き出したんです。自分にうしろ暗いことがあるからでしょうが、中間なんぞには時々に小遣いぐらい呉れるらしいので、みんなの評判は悪くないようです」と、留吉はいったん笑いながら、又俄かに眉をよせた。「そこまでは判っているんだが、それから先きがまだどうも判らねえ。お近には内証(ないしょ)の男がある。それが音羽の御賄屋敷の黒沼という家へ、このごろ婿に来た幸之助という若い奴らしいんですがね」
「幸之助の実家はどこだ」
「白魚河岸(しらうおがし)の吉田という御納屋(おなや)の次男です」
「そこで、そのお近や幸之助と、例の蝶々と、なにか係り合があると云うのか」と、吉五郎はまた訊いた。
「さあ、そこが難題でね」と、留吉は再び小鬢をかいた。「わっしの本役は蝶々の一件で、お近や幸之助の方はまあ枝葉(えだは)のような物なんですが、不意にこんな掘出し物をすると、ついそっちが面白くなって……。今のところじゃあ、あのふたりと蝶々の一件とが結び付いているような、離れているような……。親分はどう鑑定しますね」
「おれにもまだ判断が付かねえ」と、吉五郎はしずかに煙草をくゆらせた。「それから火の番の藤助というのはどうした。これも帰らねえか」
「帰って来ません。こいつは確かに蝶々に係り合いがあると睨んでいるんですが……。なにしろ忌(いや)にこぐらかっているんでね」
「どうで探索物はこぐらかっているに決まっているから、まあ落ちついて考えて見なけりゃあいけねえ」
 吉五郎はつづけて煙草を喫(す)った。留吉も煙管筒(きせるづつ)を取り出した。親分と子分は暫く無言で睨み合っていると、その考えごとの邪魔をするように、町内の午祭りの太鼓の音が賑やかにきこえた。
「幸之助はその晩から自分の家(うち)へ帰らねえのか」と、吉五郎は煙管をはたきながら訊いた。
「これも帰って来ないようです」と、留吉は答えた。「わっしに捕まりそうになったので、どこへか姿を隠したと見えますよ」
「だが、幸之助はともかくも侍だ。火の番の親爺とは身分が違うのだから、姿を隠したままで済む訳のものじゃあねえ。そんな事をすれば家断絶だ。黒沼という家(うち)でも飛んだ婿を貰ったものだな。ひょっとすると、白魚河岸の実家に忍んでいるんじゃあねえか」
「わっしもそう思ったので、けさも出がけにそっと覗いて来たんですが、どうもそんな様子も見えないようでしたが……。しかしまあ、よく気を付けましょう」
「しっかり頼むぞ」
「ようがす」
「手が足りなければ、誰か貸してやろうか」
「さあ」と、留吉はかんがえた。「大勢であらすと却っていけねえかも知れません。もう少し一騎討ちでやってみましょう」
 他人(ひと)に功名を奪われたくないような口振りで、留吉は早々に出て行った。吉五郎は又もや煙管を取り上げて、しずかに煙りを吹いていたが、やがて何をかんがえたか、忙がしそうに煙管をはたいて立ちあがると、あたかも表の格子(こうし)のあく音がして、お国と女中が帰って来た。
「おい。着物を出してくれ」
「どっかへ行くの」と、お国は訊いた。
「むむ。留が今来たが、あいつ一人には任せて置かれねえ事が出来た。おれもちょいと出て来る」
 吉五郎も早々に着物を着かえて、表へ出て行った。商売で出ると云うのであるから、女房ももう其の行く先きを訊こうとはしなかった。
 その日の午後である。
 旧暦二月のなかばの春の空は薄むらさきに霞んで、駿河町(するがちょう)からも富士のすがたは見えなかった。その日本橋の魚河岸から向う鉢巻の若い男が足早に威勢よく出て来た。男は問屋の若い衆(しゅ)であるらしく、大きい鯛を青籠(あおかご)に入れて、あたまの上に載せていた。彼は人ごみの間をくぐり抜けて、日本橋を南へむかって急いで来たが、長い橋のまん中ごろまで渡ったかと思うときに、彼はどうしたのか俄かに足を停めた。と見る間もなく、彼は頭の魚籠(びく)を小脇に引っかかえて、欄干から川のなかへざんぶと飛び込んだので、往来の人々はおどろいた。
 威勢のいい魚河岸の若い衆が、なんで突然日本橋から身を投げたのか。仔細を知らない人々は唯あれあれと騒いでいたが、そのなかで唯ひとり、その仔細を大抵推量したのは神田三河町の吉五郎であった。彼は何処をどう歩いていたのか知らないが、あたかもここへ来かかって此の椿事(ちんじ)を目撃したのである。
 若い衆が川へ飛び込んだのは、鯛を持っていたが為であろうと、吉五郎は思った。徳川家には御納屋という役人がある。それは将軍の食膳に上(のぼ)せるべき魚類、野菜類を取り扱う役で、魚類だけでも鯛の御納屋、白魚の御納屋、鮎の御納屋などと、皆それぞれの専門がある。この御納屋の特権は、良い魚類とみれば勝手に徴発(ちょうはつ)を許されていることである。御納屋の役人が或る魚を指さして、「これは御用だぞ」と云ったが最後、忌(いや)でも応でもその魚を納めなければならない。その代金も呉れるか呉れないか判らない。唯取りにされてしまう場合も往々ある。そんなわけであるから、河岸(かし)の人間は御納屋を恐れて大いに警戒しているのである。
 かの若い衆は、どこかの註文で大きい鯛を持ち出した途中、あいにく日本橋のまん中で鯛の御納屋に出逢ったのである。これを取られては大変だと思ったのか、あるいは権力を笠(かさ)に被(き)て強奪されるのを口惜(くや)しいと思ったのか、いずれにしても血気の若い衆は一尾の鯛を御納屋の手へ渡すまいとして、魚籠(びく)と共に川中へ飛び込んだのであろう。河岸の育ちであるから泳ぎも知っているであろう。殊に白昼のことであるから、溺死する気づかいもあるまいと、吉五郎は多寡をくくってさほどに驚きもしなかった。
 彼は身を投げた若い衆よりも、身を投げさせた相手に眼をつけると、それは四十前後の人柄のいい侍で、これも身投げの仔細をおおかたは察したらしく、微笑を含みながら見返りもせずに行き過ぎた。
 吉五郎は引っ返して、その侍のあとを追った。橋を渡り越えて室町(むろまち)のあたりまで来た時に、彼は小声で呼びかけた。
「もし、もし、今井の旦那……」
 呼ばれて立ち停まった侍の前に、吉五郎は小腰をかがめて丁寧に会釈(えしゃく)した。
「旦那さま。御無沙汰をいたして居ります」
「三河町の吉五郎か」と、侍は又微笑した。「今のを見たか。おれ達はどうも憎まれ役で困るよ」
 侍は鯛の御納屋に勤めている今井理右衛門であった。自分が何をしたという訳でもないが、自分のために若い衆が身を投げたのを、岡っ引の吉五郎に見付けられたかと思うと、彼はやや当惑に感じたのであろう、憎まれ役などと云い訳がましく云っているのを、吉五郎は軽く受け流してすぐに本題に入った。
「途中でこんなことをお尋(たず)ね申すのも失礼でございますが、あなたは吉田の旦那と御懇意でございましたね」
「吉田……。白魚河岸か」
「左様でございます。それで少々伺いたいのでございますが、この吉田さんは音羽の佐藤さんという旗本を御存じでございましょうか」
「音羽の佐藤……」
「昨年の秋ごろ、長崎からお帰りになりましたかたで……」
「むむ。佐藤孫四郎どのか。わたしもちょっと識っているが、吉田はよほど懇意にしているらしい。吉田の家内はなんでも佐藤の親類だとか云うことだから……」
「はあ、御親類でございますか。それでは御懇意の筈で……」
「なんだ。その佐藤に何か用でもあるのか」と、理右衛門は相手の顔をながめながら訊いた。
 吉五郎が唯の人間でないことを知っているだけに、彼は幾分の好奇心をそそのかされたらしくも見えた。
「いえ、別に用というほどの事でもございませんが……」と、吉五郎はあいまいに答えた。「先日あのお屋敷の前を通りましたら、吉田さんの御子息をお見かけ申しましたので……」
「次男の方だろう。あれは御賄組の黒沼という家へ急養子に行ったそうだから……」
「わたくしもそんなお噂を伺いました。いや、どうもお急ぎのところをお引き留め申しまして相済みませんでした。では、これで御免ください」
 ふたたび丁寧に会釈(えしゃく)して立ち去る吉五郎のうしろ姿を、理右衛門は不審そうに見送っていた。往来なかで人を呼びとめて、単にそれだけのことを訊(き)いて行くのは少しくおかしいと思ったからであろう。しかも吉五郎に取っては、吉田の家と佐藤の屋敷との関係を聞き出しただけでも、一つの手がかりであった。佐藤の屋敷の前で吉田の伜のすがたを見たなどと云うのは、もとより当座の出たらめに過ぎないのである。
 吉田と佐藤とが親戚の間柄である以上、吉田の次男幸之助がその屋敷へ出入りするに不思議はない。そうして、その屋敷にいるお近という女と親しくなったと云うのも、世にありそうなことである。唯その幸之助が留吉の虜(とりこ)とならずに、どこへ姿を隠したか、それを詮議しなければならないと吉五郎は思った。
 彼はそれから京橋へ足を向けて、白魚河岸の吉田の家をたずねた。勿論、玄関から正面に案内を求めるわけには行かないので、彼は気長にそこらを徘徊して、その家から出て来る中間や女中らを待ち受けて、いろいろにかまを掛けて探索したが、幸之助は実家にひそんでいないらしかった。
「燈台下暗(もとくら)しで、やっぱり佐藤の屋敷に忍んでいるかも知れねえ」
 吉五郎はいったん神田の家へ帰って、ゆう飯を食って更に出直そうとするところへ、留吉が忙がしそうにはいって来た。
「親分、出かけるんですかえ」
「むむ。今夜はおれが音羽へ出かけて、張り込んでみようと思うのだ」
「それじゃあ行き違いにならねえで好かった。実は又ひとつ事件が出来(しゅったい)してね」と、留吉は眉をひそめた。
「黒沼の家(うち)の娘が死んだそうで……」
「家付き娘だな」
「そうです。お勝といって、ことし十八になります。親父が死んで、幸之助を急養子にしたんですが、お勝は病気で寝ているので、祝言も延びのびになっているうちに、幸之助は家出をして帰らない。それがもとで、お勝は自害したそうです」
「自害したのか」と、吉五郎も少しく驚いた。
「短刀だか懐剣だか知らねえが、なにしろ寝床の上に起き直って、喉(のど)を突いたんだと云うことです」と、云いかけて留吉は声を低めた。「それからまだおかしいことは、黒沼のとなりの瓜生という家(うち)では、お北という娘が家出をしたそうです」
「幸之助が家出をする。女房になる筈のお勝という女が自害する。又その隣りの娘が家出をする。それからそれへと悪くごたつくな。それで、その女たちは、なぜ自害したのか、なぜ家出をしたのか。その訳はわからねえのか」
「なにぶん武家の組屋敷のなかで出来た騒動だから、くわしい事はとても判らねえ。これだけのことを探り出すのでも容易じゃあありませんでしたよ」
「そうだろうな」と、吉五郎もうなずいた。「そう聞いちゃあ猶さら打っちゃっては置かれねえ。御苦労だが、もう一度行ってくれ」
 ふたりが神田を出る頃には、ようやく長くなったという此の頃の日も暮れていた。しかも夕方から俄かに陰(くも)って、雨を含んだようななま暖かい南風(みなみ)が吹き出した。
「忌(いや)な晩ですな」
「忌な空だな。降られるかも知れねえ」
 暗い空を仰ぎながら、ふたりは音羽の方角へ急いでゆくと、途中から風はいよいよ強くなった。
「黒沼伝兵衛という侍が死んでいたと云うのは、どの辺だ」
「そこの寺の前ですよ」
 留吉が指さす方に或る物を見いだして、吉五郎は口のうちで叫んだ。
「あ、蝶々だ」
「むむ。蝶々だ」
 ふたりは白い影を追うようにあわてて駈け出した。

     八

 闇にひらめく蝶のかげを追いながら、吉五郎と留吉は先きを争って駈け出したが、吉五郎の方が一と足早かった。彼はふところから四つ折りの鼻紙を取り出して、蝶を目がけてはたと打つと、白い影はそのまま消え失せてしまった。
「たしかに手応(てごた)えはあったのだが……」と、吉五郎はそこらを透かして見まわしたが、提灯を持たない彼は、暗い地上に何物をも見いだすことが出来なかった。
「そこらへ行って蝋燭を買って来ましょう」と、留吉は土地の勝手を知っていると見えて、すぐにまた駈け出した。
 寺門前には小さい商人店(あきんどみせ)が五、六軒ならんでいる。表の戸はもう卸(おろ)してあったが、戸のあいだから灯のひかりが洩れているので、留吉はその一軒の荒物屋の戸を叩いて蝋燭を買った。裸蝋燭では風に吹き消される虞(おそ)れがあるので、小さい提灯を借りて来た。
 その提灯のひかりを頼りに、ふたりはそこらの地面を照らして見たが、蝶らしい物の白い影はどこにも見あたらなかった。吉五郎は舌打ちした。
「仕様がねえ。風が強いので吹き飛ばされたかな。まさかに消えてなくなった訳でもあるめえ」
 と云う時に、留吉は声をあげた。
「や、飛んでいる。あすこに……」
 白い蝶は、三、四間距(はな)れた所に飛んでいるのである。それを見て、吉五郎はまた舌打ちした。
「畜生。ひとを玩具(おもちゃ)にしやあがる」
 ふたりは直ぐに駈け寄ると、蝶の影は消えるように見えなくなった。
 留吉は提灯をふりまわして、しきりにそこらを照らして見たが、それらしい物の影もないので、彼は焦(じ)れて無闇に駈け廻った。吉五郎も梟(ふくろう)のように眼を見張って、暗いなかを覗いて歩いたが、それもやはり無効であった。
 往来の絶えた寺門前の闇のなかに、大の男ふたりが一生懸命駈け廻って蝶を追っているのは、どうしても狐に化かされたような図である。しかも今の彼等はそんなことを考えている暇はなかった。
「ほんとうに人を馬鹿にしていやあがる。忌々(いまいま)しい奴だな」と、留吉は息をつきながら云った。
 吉五郎も立ち停まって溜め息をついた。
 いかに焦(じ)れても、燥(あせ)っても、怪しい蝶はもうその影を見せないのである。ふたりはあきらめて顔を見合わせた。
「親分。どうしましょう」
「仕方がねえ。又どっかで見付かるだろう」
「これからどうします」
「むむ。おれの考えじゃあ……」と、云いかけて、吉五郎は俄かに見返った。「留。あれを取っ捉まえろ」
 見ると、うしろの寺の生垣(いけがき)の下に、犬か猫のようにうずくまっている小さい影がある。留吉は持っている提灯を親分に渡して、直ぐにその影を捕えに行った。影は飛び起きて、暗い坂の上へ逃げて行こうとするのを、留吉は飛びかかって押さえ付けた。吉五郎がさしつける提灯のひかりに覗いて見て、留吉はうなずいた。
「むむ。てめえか。このあいだからどうもおかしい奴だと思っていたのだ」
「おめえはその女を識っているのか」
「こいつは火の番の藤助のむすめで、お冬というんですよ」
「火の番の娘か」と、吉五郎もうなずいた。「おれもそいつを調べてみようと思っていたのだ」
「自身番へ連れて行きましょうか」
「いや、自身番なんぞへ連れて行くと、人の目に立っていけねえ。ここでおれが調べるから、おめえは提灯を持って往来を見張っていろ」
 吉五郎はお冬の腕をつかんで、寺の門前へ引き摺って行ったが、正面は風があたるので、横手の生垣をうしろにしてしゃがんだ。
「おまえは今頃なんでこんな所に忍んでいたのだ」
 お冬は黙っていた。
「おれ達は十手(じって)を持っている人間だ。おれ達の前で物を隠すと為にならねえぞ」と、吉五郎は嚇すように云い聞かせた。「そこでお前の親父はどうした。まだ帰らねえのか」
「はい」と、お冬は微(かす)かに答えた。
「ほんとうに帰らねえか。あすこの佐藤という旗本屋敷に隠されているんじゃあねえか」
 お冬はやはり黙っていた。
「お前はそれを知っている筈だ。おまえの親父は訳があって、当分は佐藤の屋敷に隠れているから心配するなと、お近という女から云い聞かされている筈だが……。それでも知らねえと強情(ごうじょう)を張るか。又そのお近という女は、ときどきにお前の家へ忍んで来て、黒沼の婿の幸之助と逢曳(あいびき)をしている筈だが……。それでもお前は強情を張るか」
 お冬はまだなんにも云わないので、吉五郎はほほえみながらその肩を軽く叩いた。
「おまえは年の割に、なかなかしっかり者だな。と云って、褒めてばかりはいられねえ。あんまり強情を張っていると、おれも少しは嚇かさなけりゃあならねえ。おまえは一体、なんでここへ来ていたんだよ。おまえにも色男でもあって、今夜ここへ逢いに来ていたのか」
 お冬はあくまでも強情に口を閉じていた。
「それとも俺たちの後を尾(つ)けて来て、何かの立ち聴きでもしようとしたのか。え、おい。なぜいつまでも黙っているんだよ」と、吉五郎は再びその肩を軽く叩いた。
 前にも云う通り、門の正面には南風が強く吹き付けるので、吉五郎は横手の生垣をうしろにしてならんでいたのであるが、その時、その生垣の杉のあいだから一つの手があらわれて、暗いなかで吉五郎の襟髪を掴んだかと思うと、力任せに強く引いた。不意に掴まれたのと、その引く力が可なりに強かったのとで、吉五郎は思わず尻餅をついて仰向けに倒れると、その隙をみて忽ち立ちあがったお冬は、いわゆる脱兎(だっと)の勢いで駈け出した。
 それに気がついて、留吉があわてて駈け寄ると、お冬は手早くその提灯を叩き落とした。かれは灯の見える大通りへ出るのを避けて、暗い目白坂を駈けのぼって行くのである。
 それを追うよりも、まず親分を救わなければならないと思ったので、留吉はそのまま門前へ駈けつけると、吉五郎は倒れながら相手の腕を掴んでいた。
「留、早くそいつを取っつかまえろ」
 留吉はこころえて、これも生垣越しに相手の腕をつかんで引き出そうとすると、相手は出まいと争ううちに、生垣の細い杉は二、三本ばらばらと折れて、内の人間は表へころげ出した。彼は必死にいどみ合ったが、捕り方ふたりの為に組み敷かれて、更に早縄をかけられて、門前に引き据えられた。
「なにしろ暗くっちゃあ、面(つら)が見えねえ」
 今度は寺の門を叩いて、提灯の火を借りることにした。その火に照らされた男の顔を覗いて、留吉はうなずいた。
「俺もそんな事じゃあねえかと思った。親分。こいつは火の番の藤助ですよ」
「そうか」と、吉五郎もうなずいた。「こんな所で調べていると、又どんな邪魔がはいらねえとも限らねえ。やっぱり自身番へ連れて行こう」
 云いも終らないうちに、果たして邪魔がはいった。おそらく門内にひそんでいたのであろう。ひとりの覆面の男が突然に跳り出て、まず留吉の提灯をばさりと斬り落とした。
「光る物を持っているぞ。気をつけろ」
 留吉に注意しながら、吉五郎はふところから十手を出すと、留吉も十手を取って身構えした。覆面の男は無言で斬ってかかった。それが侍であると覚ったので、ふたりも油断は出来ない。縄付きの藤助をその儘にして、激しく斬って来る相手の刀の下を抜けつくぐりつ闘っていると、男はなんと思ったか、俄かに刃(やいば)を引いて暗い坂の方角へ一散(いっさん)に逃げ去った。
 ふたりはつづいて追おうとしたが、逃げてしまった相手を追うよりも、既に捕えた相手を逃がさない工夫が肝腎(かんじん)であると思ったので、ふたりは云い合わせたように足を停めた。彼等は再び門前へ引っ返して来ると、暗いなかに藤助の姿は見えないらしかった。留吉は寺内へ駈け込んで更に提灯を借りて来ると、果たしてそこらに藤助の姿は見えなかった。
 覆面の男は藤助を救うがために斬って出たのであろう。その闘いのあいだに彼は姿を隠したのであろう。しかも藤助は縄付きであるから、自由に遠く走ることは出来ない筈である。あるいは墓場に忍んでいるかも知れないと云うので、留吉が先きに立って石塔のあいだを縫ってゆくと、白い蝶が又ひらひらとその眼さきを掠(かす)めて飛んだ。
「又来やあがった」
 ふたりは怪しい蝶の行くえを追って行くとき、留吉は足許(あしもと)に倒れている石塔につまずいて横倒しにどっと倒れた。
「あぶねえぞ」と、吉五郎は声をかけたが、留吉は直ぐに返事をしなかった。
 留吉は倒れるはずみに、石塔の台石などで脾腹(ひばら)を打ったらしい。さすがに気を失うほどでも無かったが、彼は低い息をついているばかりで容易に起き上がられそうもないので、吉五郎は手を貸して扶(たす)け起こすと、留吉はぐたりとしていた。
「留。どうした。しっかりしろ」
 こうなると、蝶の詮議は二の次にして、子分を介抱しなければならないので、吉五郎は留吉を抱くようにして墓場を出た。寺の玄関へ廻って案内を乞うと、奥から納所(なっしょ)が出て来た。留吉はさっき提灯を借りに行ったので、納所もその顔を識っていた。
「その人がどうかしたのですか」
「そこで転んで怪我をしたらしいんです。済みませんが、燈火(あかり)を拝借したいので……」
 留吉を玄関に横たえて、納所が持って来た灯のひかりに照らして見ると、留吉は脾腹を打ったほかに、左の手も痛めているらしかった。吉五郎は自分の身許を明かして、直ぐに医者を呼んで貰いたいと頼むと、納所は異議なく承知して、寺男を表へ出してやった。
 吉五郎らの身許を知ったので、寺でも疎略(そりゃく)には扱わなかった。住職もやがて奥から出て来た。彼は納所らに指図して、書院めいた座敷へ怪我人を運び込ませた。
「夜中お騒がせ申して、相済みません」と、吉五郎はあらためて住職に挨拶した。
「いや、どう致しまして……」と、住職は留吉の方を見返りながら、これも丁寧に会釈(えしゃく)した。「それにしても、夜中どうしてこの墓地へおはいりなされた。なにか御用でござるか」
 住職の物云いは穏かであるが、その眼の怪しく光っているのを、吉五郎は見逃がさなかった。
 初対面の住職はもう四十五、六歳であろう。色の蒼白い痩形の一種の威厳を具えたように見える人柄であった。彼は何事も知らないのであろうか、あるいは何かの秘密を知っているのであろうか。それを確かめない以上は、迂闊(うかつ)な返事も出来ないので、吉五郎は用心しながら答えた。
「実はここの火の番の藤助という者の行くえを探して居りますと、今夜こちらの御門前でその姿を見付けましたので、取り押さえて一旦は縄をかけたのですが、又どこへか逃がしてしまいましたので、それを探しにお墓場の方へまいります途中、なにぶんにも暗いので、足許に倒れている石塔につまずきまして……」
「左様でござりましたか。火の番の藤助はわたくしも識って居りますが、あなた方のお縄にかかりながら又それを抜けて逃げるとは、見掛けによらない大胆者でござるな。して、藤助に何か御詮議の筋があるのでござりますか」
「藤助は先月以来、行くえが知れないのでございます」
「それはわたくしも聴いて居りますが……。では、藤助は何かうしろ暗いことでもあって、すがたを隠しているのでござりますな」
 そらとぼけてそんなことを云うのか、或いはまったく知らないのか。吉五郎はその判断に苦しみながらあいまいに答えた。
「うしろ暗いことがあるか無いか、それは調べてみなければ判りませんが、いずれにしても駈落者(かけおちもの)は一応の詮議を致さなければなりませんので……。まして世間へは駈け落ちと見せかけて、我が家の近所にうろ付いているなぞは、潔白な人間のおこないでは無いように思われますので、ともかくも取り押さえようと致しますと、案外に手向いを致しますので、よんどころなくお縄をかけたのでございます」
「ごもっともで……。そこで、その藤助がこの寺の墓地へ逃げ隠れたと仰しゃるのですか」と、住職はまた訊(き)いた。
「今も申す通り、なにぶん暗いので確かなことは判りませんが、もしやと思いまして……」
「では、確かにこの寺内へ逃げ込んだというお見込みが付いたわけでも無いのですな」
 このとき納所が茶と菓子を運んで来たので、それを機(しお)に住職は又あらためて会釈した。
「甚だ勝手でござりますが、実は二、三日前から風邪で引き籠って居りますので、わたくしはこれで御免を蒙ります。どうぞゆるゆると御休息を……」
「御病ちゅう御迷惑をかけて恐れ入ります、御遠慮なくお休みください」
 たがいに挨拶して、住職は納所と共に立ちあがった。そのうしろ姿を見送りながら、吉五郎は何か思案していると、今まで無言でころがっていた留吉は自由にならない体を少しく起こして、小声で話しかけた。
「親分、あの和尚(おしょう)は怪しゅうござんすね」
「おめえも見たか」
「さっきから寝ころびながら、あいつの顔色をうかがっていたんですが、あの和尚、なにか因縁(いんねん)がありそうですぜ」
「おれの思う壺にだんだん嵌(はま)って来る」と、吉五郎はほほえんだ。「全くあの和尚は唯の鼠じゃあねえ」
 足音がきこえたので、ふたりは急に口をつぐむと、納所が医者を案内して来た。

     九

 岡っ引の吉五郎と、その子分の留吉は着々失敗して先ず第一に目的の白い蝶を見うしない、次にお冬を取り逃がし、次に火の番の藤助を取り逃がし、更に覆面の曲者を取り逃がし、最後に留吉は墓場でころんで負傷した。一夜のうちにこれほどの失敗が重なったのは、彼等に取ってよくよくの悪日(あくび)とも云うべきであった。
 しかも不幸は彼等の上ばかりでなく、この事件に重大の関係を有する御賄組の人々の上にも、種々の不幸が打ち続いたのであった。黒沼の婿の幸之助がゆくえ不明になったかと思うと、つづいて瓜生の家でも娘のお北が姿をかくした。幸之助の家出、お北の家出、両家ともに努(つと)めて秘密にしていたのであるが、女中らの口からでも洩れたと見えて、早くも組じゅうに知れ渡ってしまった。
 取り分けて、人々をおどろかしたのは、黒沼の娘お勝の死であった。前にも云う通り、お勝は先月以来引きつづいて病床に横たわっていて、急養子の幸之助とは名ばかりの夫婦であったが、その幸之助が家出すると又その跡を追うように隣家のお北が家出したことを知った時に、お勝は枕をつかんで泣いた。
「口惜(くや)しい」
 そのひと言に深い意味のこもっていることは、母のお富にもよく察せられたが、まだ確かな証拠を握ったわけでもないので、表立って瓜生へ掛け合いにも行かれず、さしあたりいい加減に娘をなだめて置くと、お勝は母や女中の隙をみて、床の上に起き直って剃刀(かみそり)で喉(のど)を突き切った。お富がそれを発見した時には、娘はもう此の世の人ではなかった。別に書置らしい物も残していなかったが、その自害の原因が「口惜しい」の一句に尽くされているのは疑うまでもないので、お富も身をふるわせて口惜しがった。
 まだ正式の祝言は済ませないでも、幸之助がお勝の婿であることは、組じゅうでも認めている。世間でも認めている。その幸之助と駈け落ちをしたとあれば、お北は明らかに不義密通(ふぎみっつう)である。確かな証拠を握り次第、お富は瓜生の親たちにも掛け合い、組頭にも訴えて、娘のかたき討ちをしなければならないと決心した。
 お富が決心するまでもなく、瓜生の家でもそれに対して相当の覚悟をしなければならなかった。長八は妻のお由と伜の長三郎を自分の居間に呼びあつめてささやいた。
「どうも飛んだ事になってしまった。幸之助の家出、お北の家出、それだけならば又なんとか内済にする法もあるが、それがためにお勝までが自害したとあっては、事が面倒になる。黒沼の方ではどういう処置を取るか知らないが、どうも無事には済むまいと思われる。おれ達もその覚悟をしなければなるまいぞ」
「その覚悟と申しますと……」と、お由は不安らしく訊いた。
「おれも侍の端(はし)くれだ。こうなったら仕方がない、一日も早くお北のありかを探し出して、手打ちにして……。その首を持って黒沼の家へ詫びに行かなければ……。さもないと家事不取締りの廉(かど)で、おれの身分にも拘わるからな」と、長八は溜め息まじりで云った。
 比較的に武士気質(さむらいかたぎ)の薄い御賄組に籍を置いていても、瓜生長八、ともかくも大小をたばさむ以上、こういう場合にはやはり武士らしい覚悟を決めなければならなかった。
「それで、黒沼の家はどうなるでしょう」と、お由は又訊(き)いた。
「今度こそは断絶だろうな」と、長八は再び溜め息をついた。「先月の時にも表向きにすればむずかしかったのだが、伝兵衛急病ということにして先ず繋ぎ留めたのだ。それは組頭も知っている。その矢さきへ又今度の一件だ。養子は家出する、家付きの娘は自害する。それではどうにも仕様があるまい」
「いっそ先月の時に、おとなりの家が潰れてしまったら、こんな事にもならなかったのでしょうに……」と、お由は愚痴らしく云った。
「今更そんなことを云っても仕方がない。なにしろ娘が悪いのだ。幸之助も悪いが、お北も悪い。つまりは両成敗(りょうせいばい)で型を付けるよりほかないのだ。おれはもう覚悟している。おまえ達もそのつもりでいろ」
 お由は無言で眼を拭いた。長三郎も黙って聴いていると、父はやがて伜の方へ向き直った。
「今も云い聞かせた通りの次第だが、おれは勤めのある身の上だ。御用をよそにして娘のゆくえを尋ね歩いてはいられない。おまえは部屋住みだ。これから江戸じゅうを毎日探し歩いて、姉の隠れ場所を見つけて来い。途中で出逢ったらば、無理に連れて帰って来い」
 いかにこの時代でも、十五歳の小伜に対してこんな役目を云いつけるのは、少しく無理なようにも思われたが、これは迂闊(うかつ)に他人にも頼まれない用向きであるから、長八もわが子に頼むよりほかはなかったのである。その事情を察しているので、長三郎も断わることは出来なかった。
「承知しました」
「けれども、おまえ……」と、お由は我が子に注意するように云った。「家(うち)の姉さんの家出したのはほかに仔細のあることで、おとなりの幸之助さんとは係り合いが無いのかも知れないからね。そのつもりで、むやみに手暴(てあら)な事をしちゃあいけませんよ」
「いや、それは未練だ」と、長八は叱るように云った。「お北が幸之助と裏口で立ち話をしているのを、妹も二、三度見たことがあると云うのだ。お秋も今まで隠していたが、これも二人の立ち話を時々に見たと云う。してみれば、証拠は十分だ。長三郎、決して容赦(ようしゃ)するなよ。おまえは年の割合には剣術も上達している。万一、幸之助が邪魔をして、刀でも抜いて嚇(おど)かすようなことがあったらば、お前も抜いて斬ってしまえ」
 内心はどうだか知らないが、父としては斯う命令するよりほかは無かったのであろう。
 長八は更に我が子にむかって、探索(たんさく)の心あたり四、五カ所を云い聞かせると、長三郎は委細(いさい)こころえて、父の前を退いた。そうして、直ぐに表へ出る支度をしていると、母は幾らかの小遣い銭を呉れて、その出ぎわに又ささやいた。
「お父さまはああ云っているけれども、なにしろ総領むすめなんだからね。おまえに取っても姉さんなのだから……」
 長三郎は無言でうなずいて出たが、なにぶんにも困った役目を云い付かったと、彼は悲しく思った。
 姉を庇(かば)う母の心はよく判っているが、この場合、一刻も早く姉をさがし出して、なんとかその処分をしなければ、父の身分にも関(かか)わる、家名にも関わる。たとい母には恨まれても、姉を見逃がすようなことは出来ない。もし幸之助が一緒にいて、なにかの邪魔をするときは、父の指図通りにしなければならない。白い蝶の探索については、彼も一種の興味を持っていたが、今度の探索はなんの興味どころか、単に辛(つら)い、苦しい役目というに過ぎなかった。
 それでも彼は奮発して出た。勿論、どこという確かな目当てもないのであるが、さしあたりは父に教えられた心あたりの四、五カ所をたずねることにした。それは母方の縁者や、多年出入りをしている商人(あきんど)などの家で、あるいは青山、あるいは高輪(たかなわ)、更に本所深川などであるから、いかに若い元気で無茶苦茶に駈けまわっても、それからそれへと尋ね歩くのは容易ではなかった。
 しかも行く先きざきで何の手がかりをも探り出し得ないので、彼はがっかりしてしまった。姉はどこへも立ち廻った形跡がないのである。
 疲れた上に、日も暮れかかったので、長三郎はきょうの探索を本所で打ち切ることにした。本所の家は母方の叔母にあたるので、そこで夜食の馳走になって、六ツ半(午後七時)を過ぎた頃に出て来たが、本所の奥から音羽まで登るには可なりの時間を費した。江戸市中の地理に明るくない彼は、正直に両国橋を渡って、神田川に沿って飯田橋に出て、更に江戸川の堤(どて)に沿うて大曲(おおまがり)から江戸川橋にさしかかったのは、もう五ツ(午後八時)を過ぎていた。
 雨催いの空は低く垂れて、生(なま)あたたかい風が吹く。本所で借りて来た提灯をたよりに、暗い夜道を足早にたどって、今や橋の中ほどまで渡り越えたとき、長三郎は俄かに立ち停まった。自分のゆく先きに白い蝶が飛んでいるように見えたからである。はっと思って再び見定めようとすると、その白い影はもう消え失せていた。
「心の迷いか」と、長三郎は独りで笑った。
 蝶の影は彼の迷いであったかも知れないが、さらに一つの黒い影が彼の眼のさきにあらわれた。水明かりに透かして視ると、それは確かに人の影で、音羽の方角からふらふらと迷って来るのであった。
 長三郎は油断なく提灯をさし付けて窺うと、それは火の番の娘お冬で、さも疲れたように草履をひき摺りながら歩いて来た。
「お冬か」
 長三郎は思わず声をかけると、お冬はこちらを屹(きっ)と見たが、忽ちに身をひるがえして元来た方へ逃げ去ろうとした。その挙動が怪しいので、長三郎は直ぐに追いかけた。追い捕えてどうするという考えもなかったが、自分を見て慌てて逃げようとする彼女の挙動が、いかにも胡乱(うろん)に思われたからであった。
 疲れているらしいお冬は遠く逃げ去るひまも無しに、追って来る長三郎に帯ぎわをつかんで引き戻された。そのはずみに、彼女はよろめいて倒れた。
「なぜ逃げる。わたしを見て、なぜ逃げるのだ」と、長三郎は声を鋭くして訊いた。
 お冬は黙っていた。
「お前はこれから何処へ行くのだ」
 長三郎はかさねて詰問しながら提灯の火に照らして見ると、お冬は右の足に草履を穿(は)いて、左足は素足であった。片眼の女、片足の草履、それが何かの因縁でもあるように、長三郎の注意をひいた。
「おまえは片足が跣足(はだし)だな。草履をどうした」
 お冬は黙っていた。
 先日、水引屋の職人と一緒に藤助の家をたずねた時にも、お冬は始終無言であったが、今夜もやはり無言をつづけているので、長三郎はすこしく焦(じ)れた。
「え、なぜ返事をしないのだ。おまえは何か悪いことでもしたのか」
 長三郎はその腕をつかんで軽く揺り動かすと、お冬は地に坐ったままで男の手さきをしっかりと握った。
 前髪立ちとはいいながら、長三郎も十五歳である。殊に今の人間とは違って、その時代の人はすべて早熟である。若い女に、自分の手を強く握られて、長三郎の頬はおのずと熱(ほて)るように感じられた。
 彼はその手を振り払いもせずに暫く躊躇していると、お冬はいよいよ摺り寄ってささやいた。
「若旦那……。あなたこそ何処へお出ででした」
 今度は長三郎の方が黙ってしまった。
「あなたは誰かを探して歩いているんじゃございませんか」
 星をさされて、長三郎はなんだか薄気味悪くもなった。
 この女はどうして自分の秘密の役目を知っているのであろう。もう一つには、今頃こんな取り乱したような姿をして、どうしてここらを徘徊しているのであろう。彼は謎のような女に手を握られたままで、やはり暫くは黙っていた。

     一〇

 お冬は長三郎の手を固く握ったままで、更にささやいた。
「あなたの探している人は見付かりましたか」
 なんと答えようかと長三郎はまた躊躇したが、結局思い切って正直に云った。
「見付からない」
「教えてあげましょうか」
「おまえは知っているのか」
「知っています」
「ほんとうに知っているのか……。教えてくれ」と、長三郎は疑うように訊いた。
「あなたの探している人は……。御近所にかくれています」
「近所とは……。どこだ」
「佐藤さまのお屋敷に……」と、お冬は左右を見かえりながら声を低めた。
「佐藤……孫四郎殿か」と、長三郎は意外らしく訊き返した。「どうして知っている」
 それにはお冬も答えないので、長三郎は摺り寄って又訊いた。
「そこには幸之助と……。まだほかにも隠れているのか」

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