半七捕物帳
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著者名:岡本綺堂 

     四

 黒沼伝兵衛の死骸は寺内へ運び込まれた。とかくに落ち着き顔をしている火の番の藤助を追い立てるように指図(さしず)して、長三郎は近所の医者を迎えにやった。近所といっても四、五丁距(はな)れているので、藤助は直ぐに帰って来ない。そのあいだに、寺僧も手伝って種々介抱に努めたが、伝兵衛の死骸は氷のように冷えて行くばかりであった。
「お気の毒なことでござるな」と、住職ももう諦めたように云った。
 長三郎は無言で溜め息をついた。飛んだことになってしまったと、今夜の企(くわだ)てを今さら悔むような心持になった。しかもそんな愚痴を云っている場合ではない。しょせん蘇生(そせい)の望みがないと諦めた以上、医者の来るのを待っているまでもなく、一刻も早く黒沼の家へ駈け付けて、この出来事を報告して来なければなるまいと思ったので、彼は死骸の番を寺僧に頼んで表へ出た。
 寺では提灯を貸してくれたので、長三郎はそれを振り照らして出たが、風が強いのと、あまりに慌てて駈け出した為に、寺の門を出てまだ三、四間も行き過ぎないうちに、提灯の火はふっと消えてしまった。また引っ返すのも面倒であるので、さきを急ぐ長三郎は暗いなかを足早に辿(たど)って行くと、どこから出て来たのか、突き当たらんばかりに、ひとりの男が小声で呼びかけた。
「あ、もし、もし……」
 不意に声をかけられて、長三郎はぎょっとして立ち停まったが、相手のすがたは闇につつまれて見えなかった。
「あのお侍さんは死にましたか」と、男は訊(き)いた。
 なんと答えていいかと、長三郎はすこし躊躇していると、男は重ねて云った。
「あのかたは何と仰しゃるんです」
 長三郎はこれにも答えることは出来なかった。黒沼伝兵衛が往来なかで訳のわからない横死(おうし)を遂げたなどと云うことが世間に洩れきこえると、あるいは家断絶というような大事になるかも知れないのであるから、迂闊(うかつ)な返事をすることは出来ない。殊に心の急(せ)いている折柄、こんな男に係り合っているのは迷惑でもあるので、彼は無愛想に答えた。
「そんなことは知らない」
「お若いかたですか」
「知らない、知らない」
 云い捨てて長三郎は又すたすたと歩き出すと、男は執念深く付いて来た。
「それから、あの……」
 まだ何か訊こうとするらしいので、長三郎は腹立たしくなった。それには云い知れない一種の不安も伴って、彼は無言で逃げるように駈け出した。暗闇を駈けて、音羽の大通りの角まで来ると、彼はまた何者にか突き当たった。
「瓜生さんの若旦那ですか」と、相手は声をかけた。
 それは藤助である。彼の持っている提灯も消えているらしい。
「医者は……」と、長三郎はすぐに訊いた。
「もう寝ているのを叩き起こしました。あとから参ります」
「じゃあ。頼むよ」
 長三郎はそのまま駈けつづけて、自分の組屋敷へ帰った。もうこうなっては親たちに隠して置くことは出来ない。あとでどんなに叱られるにしても、万事を正直に報告して置かなければならないと思ったので、彼は先ず自分の家へ立ち寄ると、父も母も意外の報告におどろかされた。父の長八は慌てて身支度をして伜と一緒に表へ飛び出した。
 二人はとなりの黒沼の門を叩くと、妻のお富も娘のお勝も玄関に出て来た。かれらも意外の報告におどろかされて、直ぐに其の場へ駈け付けることになった。主人のほかには男のない家(うち)であるから、お富とお勝が出て来た。
 男ふたりと女ふたり、四つの提灯の火は夜風にゆらめきながら、凍った道を急いで目白坂下へゆき着くと、彼等よりも先きに医者が来ていた。医者はもう蘇生の見込みはないと云った。
 しかし伝兵衛の死因は不明であった。身内になんの疵らしいものも見いだされず、さりとて急病ともおもわれず、まことに不思議の最期(さいご)であると、医者も首を傾(かし)げていた。刀に手をかけていたのを見ると、なにか怪しい物にでも出会って、異常の驚愕か恐怖のために心(しん)の臓を破ったのではあるまいかと、医者は覚束(おぼつか)なげに診断した。寺の住職も先ずそんなことであろうと云った。長八親子は途方に暮れたように歎息した。お富は泣き出した。
「さて、これからだ」
 長八は膝に手を置いて、その太眉を陰(くも)らせた。長三郎も薄々あやぶんでいた通り、これが表向きになると黒沼の家に疵が付かないとも限らない。死んだ者は余儀ないとしても、その家の跡目が立たないようでは困る。長八は差しあたりその善後策を考えなければならなかった。
 この時代の習いとして、こういう場合には本人の死を秘(かく)して、娘に急養子をする。そうして、まず養子縁組の届けをして置いて、それから更に本人急死の届けを出すことになる。一面から云えば、まことに見え透いた機関(からくり)ではあるが、組頭もその情を察して大抵はその養子に跡目相続を許可することになっている。今度の事件もその方法によって黒沼家の無事を図(はか)るのほかは無い。
「あとあとのこともいろいろござるに因って、今夜のことは何分御内分に……」
 と、長八は住職と医者に頼んだ。彼等もその事情を察しているので、異議なく承知した。
 医者は承知、寺の方も住職が承知した以上、他の僧らも口外する筈はあるまい。残るは火の番の藤助である。彼にも口留めをして置く必要があるので、長八は伜に云いつけて藤助を探させたが、その姿は見えなかった。
 寺の話によると、彼は医者を迎えに行ったままで帰らないと云う。彼は医者の門を叩いて急病人のあることを知らせ、その帰り途(みち)で長三郎に出逢ったことまでは判っているが、それから寺へも帰らずに何処へ行ってしまったのかと人々も少しく不審をいだいたが、この場合、その詮議に時を移してもいられないので、長八は住職と相談の上で近所の駕籠を呼ばせ、急病人の体(てい)にして伝兵衛の死骸を運び出すことにした。そうした秘密の処置を取るには、暗い夜更けが勿怪(もっけ)の仕合わせであった。
 これで先ず死骸の始末は付いたが、長八の一存で万事を取り計らうわけにも行かないので、彼は組じゅうでも特別に親しくしている四、五人に事情を打ち明けて、とりあえず急養子の手続きを取ることになった。
 前にも云う通り、黒沼の親戚の吉田幸右衛門というのは京橋の白魚河岸に住んで、白魚の御納屋に勤めている。その次男の幸之助はことし廿歳(はたち)で、行くゆくは黒沼の娘お勝の婿になるという内相談も出来ていたのであるから、この際早速にその縁組を取り結ぶことにした。勿論それについてお富にもお勝にも異存はなかった。吉田の家でも不慮の出来事におどろくと共に、当然の処置として幸之助の養子縁組をこころよく承諾した。
 すべての手続きはとどこおりなく運ばれて、黒沼の家には何のさわりもなく幸之助がその跡目を相続することになったので、関係者一同も先ずほっとした。伝兵衛の死も表向きは急死という届け出になっているのであるから、死骸の検視のことも無くて、そのまま菩提寺へ送られた。
 こうして、この奇怪なる事件も闇から闇へ葬られてしまったが、解けやらない疑いの雲は関係者の胸を鎖(とざ)していた。長三郎は飛んだことに係り合った為に、勿論その両親から厳しく叱られたが、今さら取り返しの付かないことである。それよりも気にかかるのはかの藤助の身の上で、万一その口から当夜の秘密を世間に拡められては面倒である。長八はその翌朝、長三郎を遣わして[#「遣わして」は底本では「遺わして」]藤助の在否をさぐらせたが、彼はゆうべから戻らないと云うので、むなしく引っ返して来た。
「どうもおかしいな」
 長八はきょうもそれを云い出した。伝兵衛の葬式(とむらい)を済ませた翌日の朝である。かの一件以来、寒い風が意地悪く毎日吹きつづけていたのであるが、けさはその風も吹きやんで俄かに春めいた空となった。長八が自慢で飼っている鶯も、朝から籠のなかで啼いていた。
「もう一度、行ってみましょうか」と、長三郎は父の顔色をうかがいながら云った。
「むむ。あの晩ぎりで、藤助のゆくえが知れないと云うのは、どう考えてもおかしい。あいつも殺されたのかな」
「さあ」と、長三郎もかんがえた。「殺されたのでしょうか」
「殺されたかも知れないぞ」
「それならば、どこからか死骸が出そうなものですが……」
「それもそうだな……。といって、仔細もなしに姿を隠す筈もあるまい。係り合いを恐れたかな」
 黒沼伝兵衛の横死について、自分もその場に居合わせた関係上、なにかの係り合いになることを恐れて逃げ去ったかとも思われるが、自分ひとりでなく、その場には長三郎も立ち会っていたのであるから、我が身に曇りのない申し開きは出来る筈である。女子供では無し、分別(ふんべつ)盛りの四十男がそれだけの事で姿を隠そうとも思われないが、案外の小胆者で唯一途(いちず)に恐怖を感じたのかも知れない。いずれにしても、もう一度詮議して置く必要があると、長八は思った。
「では、行って見て来い。やはり帰っていないようであったら、近所の者にも訊(き)いてみろ。だが、よく気をつけてこちらの秘密を覚られるなよ」
「承知しました」
 長三郎はすぐに表へ出てゆくと、一月末の空はいよいようららかに晴れて、護国寺の森のこずえは薄紅(うすあか)く霞んでいた。音羽の通りへ出ると、市川屋の職人源蔵に逢った。
「黒沼の旦那様は飛んだことでございましたね」と、源蔵は挨拶をした。
「丁度いい所でおまえに逢った。火の番の藤助はこの頃どうしているね」と、長三郎は何げなく訊いた。
「いや、それが不思議で、この廿日正月の晩から行くえが知れなくなってしまったのです。近所でも心配しているんですが、まだ判りません」
 火の番はいわゆる番太郎で、普通は自身番の隣りに住んで荒物屋などを開いているのであるが、この町の火の番は露路(ろじ)のなかに住んでいた。藤助も以前は表通りに小さい店を持っていたのであるが、三年前に女房に死に別れて、店のあきないをする者がなくなったので、町内の人々の諒解を得て、店は他人にゆずり自分は露路の奥に引っ込んで、やはり町内の雑用(ぞうよう)を勤めているのであった。
「藤助には娘があったね」と、長三郎は又訊いた。
「お冬という娘がございます」と、源蔵はうなずいた。「明けて十五で、人間もおとなしく、容貌(きりょう)もまんざらでないんですが、可哀そうに、子供の時に疱瘡(ほうそう)が眼に入ったもんですから、右の片眼が見えなくなってしまいました」
「その娘も心配しているだろうね」
「もちろん心配して、お神籤(みくじ)を引いたり、占(うらな)いに見て貰ったりしているんですが、どうもはっきりした事は判らないようです」
 これだけ聞けば、その上に詮議の仕様もないように思われたが、ともかくも藤助の家の様子を一応は見とどけて帰ろうと思い直して、長三郎はその案内をたのむと、源蔵は先きに立って自身番に近い露路のなかへはいった。長三郎もあとに付いて、昼でも薄暗いような露路の溝板(どぶいた)を踏んで行った。
 露路の入口は狭いが、奥には可なりに広いあき地があって、ここら特有の紙漉場(かみすきば)なども見えた。藤助の家にも小さい庭があって、桃の木が一本立っていた。
「ふうちゃん、居るかえ」
 源蔵は表から声をかけたが、内には返事が無かった。三度つづけて呼ぶうちに、その声を聞きつけて、裏の井戸端からお冬が濡れ手を前垂れで拭きながら出て来た。
 お冬は十五にしては大柄の方で、源蔵の云った通り、容貌はまず十人並み以上の色白の娘であった。右の眼に故障があるか無いかは、長三郎にはよく判らなかった。
「お父(とっ)さんのたよりはまだ知れないかえ」と、源蔵は縁に腰をかけて訊いた。
 お冬は無言で悲しそうにうなずいたが、源蔵のうしろに立っている前髪の侍をちらりと視たときに、彼女は慌てたように眼を伏せた。
「この若旦那は瓜生さんと仰しゃって、このあいだ亡(な)くなった黒沼さんのお屋敷の隣りにいらっしゃるのだ」と、源蔵はあらためて長三郎を紹介した。「お前のお父さんに逢って、なにか訊きたいことがあると云うので、ここへ御案内して来たんだが、お父さんがまだ帰らねえじゃあ仕様がねえな」
 お冬はやはり俯向(うつむ)いて黙っていた。藪うぐいすか籠の鶯か、ここでも遠く啼く声がきこえた。江戸といっても、ここらの春はのどかである。紙漉場の空地(あきち)には、子どもの小さい凧が一つあがっていた。それを見かえりながら、源蔵は又云い出した。
「だが、まあ、そのうちにはなんとか判るだろう。神隠しに逢ったにしても、大抵は十日か半月で帰って来るものだ。あんまり苦(く)にしねえがいい」
 こんなひと通りの気休めで満足したかどうだか知らないが、お冬はやはり黙っていた。そうして時々、若い侍の顔をぬすみ視ているらしいのが源蔵の注意をひいた。
「ふうちゃん。煙草の火はねえかえ」
 お冬は気がついたように立ち上がって、煙草盆に消し炭の火を入れて来ると、源蔵は腰から筒ざしの煙草入れを取り出して、一服喫(す)いはじめた。

     五

 ともかく藤助一家の様子を見届けて、もう此の上に詮議の仕様もないと思い切った長三郎は、源蔵を眼でうながして行きかかると、源蔵も早々に煙草入れをしまって立ち上がった。
「じゃあ、ふうちゃん、又来るからな」
 お冬はやはり無言で会釈(えしゃく)した。唖でも無いのになぜ終始黙っているのかと、長三郎はすこし不審に思ったが、深くも気に留めずに表へ出ると、源蔵もつづいて出て来た。
「まったくあの娘も可哀そうですよ」
「そうだな」と、長三郎も同情するように云った。
「なにかまだほかに御用は……」と、源蔵は訊いた。
「いや、わたしももう帰る。忙がしいところを気の毒だったな」
「いえ、なに……。わたくし共の店も此の頃は閑(ひま)ですから、毎日ぶらぶら遊んでいます。忙がしいのは暮の内で、正月になると仕事はありません」
「そうだろうな」
 云いかけて、ふと見かえると、露路の入口にはお冬が立っていた。
 彼女は濡れた前垂れの端(はし)を口にくわえながら、その片眼に何かの意味を含んでいるように、こちらをじっと窺っているらしかった。源蔵も気がついて見返ったが、別になんにも云わなかった。二人が道のまん中で別れるのを、お冬は暫く見送っていたが、やがて足早に引っ返して露路へはいった。
 長三郎は家(うち)へ帰って、ありのままに報告すると、父の長八は唯だまってうなずいていた。この上は藤助が果たして何者かに殺されたのか、あるいは無事に何処からか現われて来るか、自然にその消息の知れるのを待つほかは無かった。長八は伜に注意して、今後も油断なく藤助の安否を探れと云い聞かせて置いた。
 ことし十五歳で、まだ部屋住みの長三郎は、玄関に近い三畳の狭い部屋に机を控えていた。父の前をさがって、自分の部屋に帰って、彼は再び藤助の身の上について考えた。
 藤助は生きているか、死んでしまったか。それにつけて思い出されるのは、当夜の彼の行動である。自分の近所に住んでいる御賄組の武士(さむらい)が怪しい変死を遂げたのを見て、火の番の彼は当然おどろき騒ぐべき筈であるのに、案外に彼は落ち着いていた。落ち着いていたと云うよりも、むしろ冷淡であるようにも見えた。長三郎が焦(じ)れて指図するので、彼はよんどころ無しに働いているようにも見えた。これには何かの仔細があるのではないかと、長三郎は考えた。
 彼は長三郎に追い立てられて、渋々ながら医者を呼びに行った。その帰り路にゆくえ不明となったのである。そのほかにも、暗いなかで長三郎に突き当たって、声をかけた者がある。彼は何者であろうか。心が急(せ)くので碌々に返事もせずに別れてしまったが、彼もこの事件に何かの関係のある者ではあるまいか。あるいは彼が藤助を捕えて行ったのか、あるいは藤助を殺して、その死骸をどこへか隠したのかと、長三郎はまた考えた。しかも暗がりの出来事であるから、その相手の人相や風俗はちっとも判らなかった。
 黒沼伝兵衛の死――藤助のゆくえ不明――暗がりの怪しい男――この三つを一つに結びつけていろいろ考えたが、何分にも世故(せこ)の経験に乏しい長三郎の頭脳(あたま)では、その謎を解くべき端緒(たんちょ)を見いだし得なかった。
 ひる過ぎになって、となり屋敷の黒沼幸之助が来た。
「このたびは一方(ひとかた)ならぬ御厄介に相成りまして、なんともお礼の申し上げようもございません」と、彼は長八に対して丁寧に挨拶した。
 同じ組の者は他に幾人もあるが、瓜生家とは隣り同士でもあり、多年特別に懇意にしていた関係上、今度の一件について長八が最も尽力したのは事実であった。
「いや、あなたこそ何かとお疲れでしたろう」と、長八も会釈した。
 どこの家でも葬式などは面倒なものである。まして急養子の身の上で、家内の勝手もわからず、組内の人々の顔さえも碌々に知らない幸之助が、一倍の気苦労をしたことはよく察せられるので、長八もその点には同情していた。お疲れでしたと云う言葉も、形式一遍の挨拶ではなかった。
「ありがとうございます。おかげさまで、どうにかとどこおりなく片付きました」と、幸之助はふたたび挨拶をした。
「そこで、御新造は……」
「まだ臥(ふ)せって居ります」
 お勝は病中であるにも拘らず、父の急変におどろかされて、母と共に現場へ駈け着けたばかりか、その翌日も無理に起きていたので、病気はいよいよ重くなった。彼女は母のお富と、新らしい婿の幸之助とに看病されて、その後も床に就いているのである。彼女は父の葬式に列(つら)なることも出来なかった。葬式やら、病人やら、黒沼家の混雑は思いやられて、長八はますます同情に堪えなかった。
「就きましては、明日は初七日(しょなのか)の逮夜(たいや)に相当いたしますので、心ばかりの仏事を営みたいと存じます。御迷惑でもございましょうが、御夫婦と御子息に御列席を願いたいのでございますが……」
「いや、それは御丁寧に恐れ入ります。一同かならず御焼香(ごしょうこう)に罷(まか)り出でます」と、長八は答えた。
 これで正式の挨拶も終ったところへ、娘のお北が茶を運んで来た。まだ馴染(なじみ)の浅い仲とはいいながら、客と主人はやや打ち解けて話し出した。
「御承知でございますか。護国寺前の一件を……」と、幸之助はお北のうしろ姿を見送りながら少しく声を低めた。
「護国寺前……。何事か、一向に知りません」と、長八は茶を喫(の)みながら云った。「白い蝶でも又出ましたか」
「そうでございます」と、幸之助はうなずいた。
「え、ほんとうに出ましたか、白い蝶が……」
「護国寺前……東青柳町(あおやぎちょう)に野上佐太夫というお旗本がありますそうで……。わたくしは昨今こちらへ参りましたのでよくは存じませんが、三百石取りのお屋敷だとか承わりました。昨夜の五ツ過ぎに、大塚仲町(なかまち)辺の町家の者が二人連れで、その御門前を通りかかりますと、例の白い蝶に出逢いましたそうで……」
「ふうむ」
 長八は唸るような溜め息をつきながら、相手の顔をながめていると、幸之助は更に説明した。
 その二人連れは大塚仲町の越後屋という米屋の女房と小僧で、かの野上の屋敷の門前を通り過ぎようとする時に、暗闇のなかから一羽の蝶が飛び出した。そうしてひらひらと女房の眼のさきへ舞って来ると、女房は声も立てずに其の場に悶絶(もんぜつ)した。小僧は途方に暮れてうろうろしている処へ、幸いに通り合わせた人があったので、共々に介抱して近所の辻番所へ連れて行くと、女房は幸いに正気に復(かえ)ったが、自分にもどうしたのかよくは判らない。ただ眼のさきへ大きい白い蝶が飛んで来たかと思うと、たちまち夢のような心持になってしまって、その後のことは何も知らないと云うのであった。
 以上は世間の噂話を聴いたに過ぎないので、幸之助もくわしい事実を知らないのであるが、ともかくも奇怪な白い蝶が闇夜にあらわれて、往来の人をおびやかしたという噂が彼の注意をひいたのである。その話を終った後に、彼は又云った。
「白い蝶の噂は京橋の実家に居るときから聴いて居りまして、八丁堀の役人たちも内々探索しているとか云うことでございましたが、こうしてみるとやはり本当かと思われます」
「本当でしょう」と、長八もうなずいた。「現にわたしの家(うち)の娘も見たと云います。あなたのお父さまの亡(な)くなられた晩にも、伜の長三郎がそれらしい物を見たとか云います。市川屋の職人も見たことがあると云う。一人ならず、幾人もの眼にかかった以上、それが跡方もないこととは云われますまい」
 とは云ったが、さてそれがどういう訳であるか、長八にも説明することは出来なかった。幸之助にも判らなかった。いわゆる理外の理で、広い世界にはこうした不思議もあり得ると信じていた此の時代の人々としては、強(し)いてその説明を試みようとはしなかったのである。なまじいに其の正体を見とどけようなどと企てると、黒沼伝兵衛のような奇禍に出逢わないとも限らない。触(さわ)らぬ神に祟(たた)り無しで、好んでそんな事件にかかり合うには及ばないと云うのが、長八の意見であった。
 彼はその意見に基づいて伜の長三郎を戒(いまし)めたが、今や幸之助に対しても同様の意見をほのめかして、若い侍の冒険めいた行動を暗に戒めると、幸之助もおとなしく聴いていた。
 幸之助が帰ったあとで、お北は父にささやいた。
「東青柳町にまた白い蝶々が出たそうですね」
「お前は立ち聴きをしていたのか」と、長八はすこしく機嫌を損じた。「立ち聴きなぞするのは良くないぞ」
 お北は顔を赤くして黙ってしまった。
 その翌夜は黒沼の逮夜(たいや)で、長八夫婦と長三郎は列席した。他にも十五、六人の客があったが、大抵の人は東青柳町の噂を聞き知っていた。そうして、それは切支丹(きりしたん)の魔法ではないかなどと説く者もあった。今夜の仏の死が奇怪な蝶に何かの関係を持っているらしくも思われるので、遺族の手前、その噂をするのを憚(はばか)りながらも、奇を好む人情から何かとその話が繰り返された。父からきびしく叱られているのと、また二つには若年者(じゃくねんもの)の遠慮があるので、長三郎は終始だまっていたが、諸人のうわさ話を一々聞き洩らすまいとするように、彼は絶えずその耳を働かせていた。
 それから半月余りは何事もなくて過ぎた。二月に入っていよいよ暖かい日がつづいて、ほんとうの蝶もやがて飛び出しそうな陽気になった。その十二日の午(ひる)過ぎに、長三郎は父の使で牛込まで出て行ったが、先方で少しく暇取って、帰る頃には此の頃の春の日ももう暮れかかっていた。江戸川橋の袂まで来かかると、彼は草履の緒を踏み切った。
 自分の家まではさして遠くもないのであるが、そのままで歩くのは不便であるので、長三郎は橋の欄干(らんかん)に身を寄せながら、懐紙(かいし)を小撚(こよ)りにして鼻緒をすげ換えていると、耳の端(はた)で人の声がきこえた。それが何だか聞き覚えのあるように思われたので、長三郎は俯向いている顔をあげると、二人の男が音羽の方向へむかって、なにか話しながら通り過ぎるのであった。ひとりは屋敷の中間(ちゅうげん)である。他のひとりは町人ふうの痩形(やせがた)の男であった。どちらもうしろ姿を見ただけでは、それが何者であるかを知ることは出来なかった。その一刹那に長三郎はふと思い出した。
「あ、あの時の声だ」
 黒沼伝兵衛の死を報告するために、暗やみを駈けてゆく途中で突きあたった男――その疑問の男の声が確かにそれであったことを思い出して、長三郎の胸は怪しく跳(おど)った。
 二人はもう行き過ぎた後であるので、それが中間の声か、町人の声か、その判断は出来なかったが、ともかくも彼等のひとりが其の夜の男に相違ないと、彼は思った。しかも彼はあいにくに草履の鼻緒をすげているので、直ぐにその跡を尾(つ)けて行くことも出来なかった。長三郎が焦(じ)れて舌打ちしている間(ひま)に、二人は見返りもせずに橋を渡り過ぎた。
 急いで鼻緒をすげてしまった頃には、二人のうしろ影はもう小半丁も遠くなっているのを、見失うまいと眼を配(くば)りながら、長三郎は足早に追って行った。音羽の大通りへ出て、九丁目の角へ来かかると、ひとりの女が人待ち顔にたたずんでいた。彼女は長三郎を待っていたらしく、その姿をみると小走りに寄って来たので、長三郎は思わず立ちどまった。女は火の番の娘お冬であった。
「先日は失礼をいたしました」と、お冬は小声で挨拶した。
 そうして、うしろの横町を無言で指さした。その意味がわからないので、長三郎も無言でその指さす方角をながめると、横町の寺の門に立っている男と女のすがたが見えた。
 まだ暮れ切らないので、ふたりの姿は遠目にも大かたは認められたが、男はかの黒沼幸之助で、女は自分の姉のお北であることを知った時に、長三郎は一種の不安を感じて無意識にふた足三足あるき出しながら、更に横町の二人を透かし視た。
 幸之助と姉とは今頃どうして其処らに徘徊しているのであろう。途中で偶然に行きあって何かの立ち話をしているのか。あるいは約束の上でそこに待ち合わせていたのか。前者ならば別に仔細もないが、後者ならば容易ならぬ事である。幸之助は黒沼家の婿養子となって、いまだ祝言(しゅうげん)の式さえ挙げないが、お勝という定まった妻のある身の上である。その幸之助と自分の姉とが密会(みっかい)する――万一それが事実であって、その噂が世間にきこえたならば、二人は一体どうなることだろう。いずれにしても一と騒動はまぬがれまい。
 それを考えながら、長三郎は暫く遠目に眺めていると、お冬は訴えるように又ささやいた。
「あのおふたりは、このごろ時々に……」
「きょうばかりでは無いのか」と、長三郎はいよいよ不安らしく訊(き)いた。
 お冬はうなずいた。ゆうぐれの寒さが身にしみたように、長三郎はぞっとした。自分は中間と町人のあとを尾(つ)けて来たのであるが、長三郎はもうそんな事は忘れてしまったように猶も横町をながめていると、その思案の顔に鬢(びん)のおくれ毛のほつれかかって、ゆう風に軽くそよいでいるのを、お冬は心ありげに見つめていた。
 目白の不動堂で暮れ六ツの鐘を撞(つ)き出したので、それに驚かされたように、幸之助とお北の影は離れた。男を残してお北ひとりは足早に引っ返して来るらしいので、姉に見付けられるのを恐れるように、長三郎もおなじく足早にここを立ち去った。

     六

「考えると、不審のことが無いでもない」
 長三郎は家(うち)へかえってから又かんがえた。黒沼の娘お勝はまだ全快しないで、その後も引きつづいて枕に就(つ)いている。その見舞ながらに、姉のお北は殆ど毎日たずねて行く。勿論、隣家でもあり、ふだんから特別に懇意にしているのであるから、父も母も長三郎も別に不思議とも思わなかったのであるが、こうなると、お北が毎日の見舞もほかに意味があるらしく推量されないことも無い。
 婿に来たとは云うものの、お勝が病気のために、幸之助はまだ祝言の式を挙げていない。そこへ姉が毎日入り込んで、幸之助と親しくする。しかもお冬の訴えによれば、ふたりは時々に目白坂下の寺門前で会合すると云う。それらの事情をあわせて考えると、一種の疑いがいよいよ色濃くなる。姉に限って、まさかにそんな事はと打ち消しながらも、長三郎は全然それを否定するわけには行かなくなった。
 さりとて、父や母にむかって迂闊(うかつ)にそれを口外することは出来ない。いずれにしても更に真偽を確かめる必要があると思ったので、長三郎はきょうの発見についていっさい沈黙を守ることにした。お北もやがてあとから帰って来た。その話によると、音羽の大通りまで買物に出たのだと云うことであった。
 音羽の通りへ買物に出たものが、横町の寺門前までわざわざ廻って行く筈がない。そんな嘘をつく以上は、姉の行動はいよいよ怪しいと、長三郎は思った。
 それから二、三日の後である。長三郎が夕飯をすませてから、いつもの如くに夜学に出ると、四、五間さきをゆく男のうしろ姿が隣家の黒沼幸之助であることを、薄月のひかりで認めた。彼はどこへ行くのであろう。又もや姉を誘い出して、かの寺門前で密会(みっかい)するのではあるまいかと思うと、長三郎はそのあとを尾(つ)けてゆく気になった。彼は草履の音を忍ばせて、ひそかに幸之助の影を追ってゆくと、その影はかの横町の方角へはむかわずに、路ばたの狭い露路にはいった。
 露路の奥には火の番の藤助の家がある。彼はその家をたずねるのか、それとも他の家をたずねるのか、長三郎は更に又新らしい興味に駆られて、つづいて露路のなかへ踏み込んだ。先日一度たずねた事があるので、長三郎は先ず藤助の家のまえに忍び寄って内の様子を窺うと、故意か偶然か、行燈(あんどう)の火は消えて一面の闇である。その暗いなかで女の声がきこえた。
 それがお冬の声でないことを知った時に、長三郎はまた不思議に思った。女の声は低かったが、それでも力がこもっているので、外で聴いている者の耳にも切れぎれに響いた。
「あなたのような不人情な人はない、覚えておいでなさいよ」
 幸之助は何かなだめているらしかったが、その声はあまりに低いので聴き取れなかった。暫くして女の声がまた聞こえた。
「忌(いや)です、いやです。……もういつまでも瞞(だま)されちゃあいません。いいえ、いけません。あなたのような人は……。いいえ、忌です。唯は置かないから、覚悟しておいでなさい。……わたしは死んでも構わない。……あなたもきっと殺してやるから……」
 長三郎はおどろいた。その女はいったい何者で、幸之助になんの恨みを云っているのか。彼は息をつめて聴いていると女は嚇(おど)すように又云った。
「わたしの口ひとつで、あなたの命は無いと云う事は、かねて承知の筈じゃあありませんか。……黒沼家へ養子に行ったのは、まあ仕方がないとしても……。隣りの娘とまで仲よくして……。いいえ、知っています」
 幸之助は又もや何か云い訳をしているらしかったが、やはり表までは洩れきこえなかった。長三郎はすこしく焦(じ)れて、縁に近いところまでひと足ふた足進み寄ろうとする時に、うす暗い蔭からその袂をひく者があった。ぎょっとして見かえると、それはお冬であるらしかった。
「およしなさい」と、女は小声で云った。
 それは果たしてお冬であった。
 不意に声をかけられて長三郎もやや躊躇していると、暗い家のなかでは人の動くような音がきこえた。お冬は再び長三郎の袖をつかんで、無理に引き戻すように桃の木のかげへ連れ込むと、何者かが縁さきへ出て来た。暗いなかでも見当が付いているらしく、直ぐに下駄を穿(は)いて表へ出てゆく姿を薄月に透かして視ると、それはすっきりとした痩形の女であった。この女が幸之助を恨み、幸之助を嚇(おど)していたのかと思ううちに、その姿は露路の外へ幽霊のように消えてしまった。
 長三郎もお冬も無言でそれを見送っているうちに、やがて又静かに縁を降りて来る者があった。それは幸之助で、なにか思案(しあん)しているような足取りで、力なげに表へ出て行くのを、長三郎は殆ど無意識に尾(つ)けて行こうとすると、お冬は又ひきとめた。
「およしなさい」
 なぜ止めるのか、長三郎には判らなかった。それを諭(さと)すように、お冬はささやいた。
「あの人たちは怖い人です」
 なぜ怖いのか、長三郎にはやはり判らなかった。しかし、かの女が「わたしの口ひとつで、あなたの命は無い」などと云ったのを考えると、それには恐ろしい秘密がひそんでいるらしくも想像された。
「なぜ怖いのだ」と、長三郎は訊いた。
「なんだか怖い人です。わたしのお父(とっ)さんもあの人たちに殺されたのかも知れません」と、お冬は声を忍ばせて、若い侍にすがり付いた。
 その一刹那に、又もや一つの影が突然にあらわれた。暗いなかでよくは判らなかったが、猫のように縁の下から這い出して来たらしく、頬かむりをした町人ふうの男が足早に表へぬけ出して行った。彼は、まったく猫のように素捷(すばや)かった。
 長三郎も意外であったが、お冬も意外であったらしく、身をすくめて長三郎にしがみ付いていた。家のなかは暗闇(くらやみ)であるが、外には薄月がさしている。それに照らし出された男のうしろ姿は、このあいだ江戸川橋で出逢った町人であるらしく思われたので、長三郎は又もや意外に感じた。と同時に、彼は殆ど無意識にお冬を突きのけて、その男のあとを追って出た。
 薄月のひかりにうかがうと、女は大通りを北にむかって行く。幸之助はそのあとを追ってゆく。町人ふうの男は又そのあとを追って行くらしい。まだ宵であるから、両側の町屋も店をあけていて人通りもまばらにある。それを憚(はばか)って幸之助も直ぐに女に追いすがろうとはしない。男も相当の距離を取って尾(つ)けて行くので、長三郎もその真似をするように、おなじく相当の距離を置いて尾行することにした。
 女は途中から左に切れて、灯の無い横町へはいってゆくと、左右は農家の畑地である。そこまで来ると、幸之助は俄かに足を早めて女のうしろから追い付いた。その足音をもちろん知っていたのだろうが、女は別に逃げようとする様子もなく、しずかに振り向いて相手と何か話しているらしかった。
 町人はそれを見て、身をかくすように畑のなかに俯伏したので、長三郎もまた其の真似をして畑のなかに俯伏していると、やがて女は幸之助を突き放してふた足三足あるき出した。幸之助は追いかけて、女の襟に手をかけた。引き倒そうとするのか、喉(のど)でも絞めようとするのか、男と女は無言で挑(いど)み合っていた。
 俯伏していた町人は畑のなかから飛び出して、飛鳥のごとくに駈け寄ると、それに驚かされて二つの影はたちまち離れた。女はあわてて逃げ去ろうとするのを、町人は駈け寄って押さえようとすると、幸之助は又それをさえぎるように立ち塞がった。男ふたりが互いに争っているあいだに、女は一目散に逃げ出した。
 女はともあれ、眼のまえに争っている男ふたりをどう処置していいのか、長三郎も当座の分別(ふんべつ)に迷った。本来ならば幸之助に加勢するのが当然であるが、今の場合、幸之助を助けるか町人を助けるか、どちらにするのが正しいか、長三郎にも見当が付かなかった。彼はいったん立ち上がりながらも、いたずらに息を呑んでその成り行きを眺めているうちに、町人は草履(ぞうり)をすべらせて小膝を突いた。幸之助はそれを突き倒して逃げ出した。男はすぐに跳ね起きて、そのあとを追ってゆくと、幸之助は畑のなかへ飛び込んで、路を択(えら)ばずに逃げてゆく。追う者、追われる者、その姿は欅(けやき)の木立(こだち)のかげに隠れてしまった。
 何がどうしたのか、長三郎にはちっとも判らなかった。彼はもうその跡を尾けてゆく元気もなくて唯ぼんやりと突っ立っていたが、さっきからの行動をみると、かの町人は唯者ではない。おそらく八丁堀同心の手に付いている岡っ引のたぐいであろうと想像された。かの女と幸之助とのあいだに何かの秘密がひそんでいることも、さっきの対話でうすうす想像された。それらを結び付けて考えると、彼等は一種の重罪を犯していて、岡っ引に付け狙われているのではあるまいか。
 相手の女は何者であるか知らないが、幸之助は隣家に住んでいて、朝夕に顔を見あわせている仲である。それが重罪人であろうとは意外であるばかりか、自分の姉がその重罪人と親しくしているらしい事を考えると、長三郎はあたりが俄かに暗くなったように感じられた。彼はもう夜学に行く気にもなれなくなって、その儘わが家へ引っ返した。
 彼は今夜の出来事を父にも母にも話さなかった。父には内々で話して置きたいと思ったのであるが、何分にも広くない家であるので、万一それを姉にでも立ち聴きされては困ると思ったので、その晩は黙って寝てしまった。
 夜のあけるのを待ちかねて、彼は黒沼家の門前を掃いている下女のお安に聞きただすと、幸之助はゆうべ帰宅しないと云うのである。彼はついに岡っ引の手に捕われたのか、それとも逃げ延びて何処へか身を隠したのか、いずれにしても其の儘では済むまいと思われた。
 父の長八は当番で登城した。長三郎はいつもの通りに剣術の稽古に行って、ひる頃に帰って来ると、母のお由は午飯(ひるめし)を食いながら話した。
「おとなりの幸之助さんはゆうべから帰らないそうだね」
「どうしたのでしょう」と、長三郎はそらとぼけて訊(き)いた。
「お友達と一緒に遊びにでも行ったのかも知れない」と、お由は笑いながら云った。「こっちへ来てはまだ昨今だけれど、京橋の方にはお友達が随分あるようだからね。なにしろ御納屋(おなや)の人たちには道楽者が多いと云うから」
「お婿(むこ)に来て、まだ一と月にもならないのに、夜遊びなんぞしては悪いでしょう」
「悪いとも……」と、お由はうなずいた。「けれども、お婿と云っても相手のお勝さんがあの通りだからね。きっとお友達にでも誘われて、どこへか行ったのだろうよ」
 姉のお北も、妹のお年も、そばで一緒に箸をとっているので、長三郎はこの対話のあいだに姉の顔をぬすみ視ると、気のせいか、お北の顔色はやや蒼白く見られた。
 その日の夕方に、お北もゆくえ不明になった。

     七

「きょうはお天気で好うござんしたね」と、二十四、五の小粋(こいき)な女房が云った。
「むむ。初午(はつうま)も二の午も大あたりだ。おれも朝湯の帰りに覗いて来たが、朝からお稲荷さまは大繁昌だ」と、三十二、三の亭主が答えた。
「それじゃあ、わたしも早くお参りをして、お神酒(みき)とお供え物をあげて来ましょう」
 女房は帯をしめ直して、表へ出る支度に取りかかった。この夫婦は神田の三河町に住む岡っ引の吉五郎と、その女房のお国である。女中に神酒と供え物を持たせて、お国が表へ出てゆくと、それと入れちがいに、裏口から一人の男が顔を出した。
「親分。内ですかえ」
 取次ぎの子分が居合わせないで、吉五郎は長火鉢の前から声をかけた。
「留(とめ)じゃあねえか。まあ、あがれ」
「お早ようございます」
 手先の留吉はあがって来た。
「誰もいねえから火鉢は出せねえ。ずっとこっちへ来てくれ」と、吉五郎は相手を長火鉢の向うに坐らせて、直ぐに小声で話し出した。「どうだ。例の件は……」
「面目がありません、このあいだの晩はどじを組んでしまって……」と、留吉は小鬢(こびん)をかいた。「だが、親分。もう大抵のところは見当が付きましたよ。お尋(たず)ね者のお亀はお近と名を変えて、音羽の佐藤孫四郎という旗本屋敷に巣を作っているんです」
「佐藤孫四郎……。小ッ旗本だろうな」
「と云っても、四百石取りで……。三年ばかり長崎へお役に出ていて、去年の秋に帰って来たんです。お亀のお近はそのあとから付いて来て、その屋敷へはいり込んだと云うことです」
「だれから訊いた」
「屋敷の中間にかまをかけて聞き出したんです。自分にうしろ暗いことがあるからでしょうが、中間なんぞには時々に小遣いぐらい呉れるらしいので、みんなの評判は悪くないようです」と、留吉はいったん笑いながら、又俄かに眉をよせた。「そこまでは判っているんだが、それから先きがまだどうも判らねえ。お近には内証(ないしょ)の男がある。それが音羽の御賄屋敷の黒沼という家へ、このごろ婿に来た幸之助という若い奴らしいんですがね」
「幸之助の実家はどこだ」
「白魚河岸(しらうおがし)の吉田という御納屋(おなや)の次男です」
「そこで、そのお近や幸之助と、例の蝶々と、なにか係り合があると云うのか」と、吉五郎はまた訊いた。
「さあ、そこが難題でね」と、留吉は再び小鬢をかいた。「わっしの本役は蝶々の一件で、お近や幸之助の方はまあ枝葉(えだは)のような物なんですが、不意にこんな掘出し物をすると、ついそっちが面白くなって……。今のところじゃあ、あのふたりと蝶々の一件とが結び付いているような、離れているような……。親分はどう鑑定しますね」
「おれにもまだ判断が付かねえ」と、吉五郎はしずかに煙草をくゆらせた。「それから火の番の藤助というのはどうした。これも帰らねえか」
「帰って来ません。こいつは確かに蝶々に係り合いがあると睨んでいるんですが……。なにしろ忌(いや)にこぐらかっているんでね」
「どうで探索物はこぐらかっているに決まっているから、まあ落ちついて考えて見なけりゃあいけねえ」
 吉五郎はつづけて煙草を喫(す)った。留吉も煙管筒(きせるづつ)を取り出した。親分と子分は暫く無言で睨み合っていると、その考えごとの邪魔をするように、町内の午祭りの太鼓の音が賑やかにきこえた。
「幸之助はその晩から自分の家(うち)へ帰らねえのか」と、吉五郎は煙管をはたきながら訊いた。
「これも帰って来ないようです」と、留吉は答えた。「わっしに捕まりそうになったので、どこへか姿を隠したと見えますよ」
「だが、幸之助はともかくも侍だ。火の番の親爺とは身分が違うのだから、姿を隠したままで済む訳のものじゃあねえ。そんな事をすれば家断絶だ。黒沼という家(うち)でも飛んだ婿を貰ったものだな。ひょっとすると、白魚河岸の実家に忍んでいるんじゃあねえか」
「わっしもそう思ったので、けさも出がけにそっと覗いて来たんですが、どうもそんな様子も見えないようでしたが……。しかしまあ、よく気を付けましょう」
「しっかり頼むぞ」
「ようがす」
「手が足りなければ、誰か貸してやろうか」
「さあ」と、留吉はかんがえた。「大勢であらすと却っていけねえかも知れません。もう少し一騎討ちでやってみましょう」
 他人(ひと)に功名を奪われたくないような口振りで、留吉は早々に出て行った。吉五郎は又もや煙管を取り上げて、しずかに煙りを吹いていたが、やがて何をかんがえたか、忙がしそうに煙管をはたいて立ちあがると、あたかも表の格子(こうし)のあく音がして、お国と女中が帰って来た。
「おい。着物を出してくれ」
「どっかへ行くの」と、お国は訊いた。
「むむ。留が今来たが、あいつ一人には任せて置かれねえ事が出来た。おれもちょいと出て来る」
 吉五郎も早々に着物を着かえて、表へ出て行った。商売で出ると云うのであるから、女房ももう其の行く先きを訊こうとはしなかった。
 その日の午後である。
 旧暦二月のなかばの春の空は薄むらさきに霞んで、駿河町(するがちょう)からも富士のすがたは見えなかった。その日本橋の魚河岸から向う鉢巻の若い男が足早に威勢よく出て来た。男は問屋の若い衆(しゅ)であるらしく、大きい鯛を青籠(あおかご)に入れて、あたまの上に載せていた。彼は人ごみの間をくぐり抜けて、日本橋を南へむかって急いで来たが、長い橋のまん中ごろまで渡ったかと思うときに、彼はどうしたのか俄かに足を停めた。と見る間もなく、彼は頭の魚籠(びく)を小脇に引っかかえて、欄干から川のなかへざんぶと飛び込んだので、往来の人々はおどろいた。
 威勢のいい魚河岸の若い衆が、なんで突然日本橋から身を投げたのか。仔細を知らない人々は唯あれあれと騒いでいたが、そのなかで唯ひとり、その仔細を大抵推量したのは神田三河町の吉五郎であった。彼は何処をどう歩いていたのか知らないが、あたかもここへ来かかって此の椿事(ちんじ)を目撃したのである。
 若い衆が川へ飛び込んだのは、鯛を持っていたが為であろうと、吉五郎は思った。徳川家には御納屋という役人がある。それは将軍の食膳に上(のぼ)せるべき魚類、野菜類を取り扱う役で、魚類だけでも鯛の御納屋、白魚の御納屋、鮎の御納屋などと、皆それぞれの専門がある。この御納屋の特権は、良い魚類とみれば勝手に徴発(ちょうはつ)を許されていることである。御納屋の役人が或る魚を指さして、「これは御用だぞ」と云ったが最後、忌(いや)でも応でもその魚を納めなければならない。その代金も呉れるか呉れないか判らない。唯取りにされてしまう場合も往々ある。そんなわけであるから、河岸(かし)の人間は御納屋を恐れて大いに警戒しているのである。
 かの若い衆は、どこかの註文で大きい鯛を持ち出した途中、あいにく日本橋のまん中で鯛の御納屋に出逢ったのである。これを取られては大変だと思ったのか、あるいは権力を笠(かさ)に被(き)て強奪されるのを口惜(くや)しいと思ったのか、いずれにしても血気の若い衆は一尾の鯛を御納屋の手へ渡すまいとして、魚籠(びく)と共に川中へ飛び込んだのであろう。河岸の育ちであるから泳ぎも知っているであろう。殊に白昼のことであるから、溺死する気づかいもあるまいと、吉五郎は多寡をくくってさほどに驚きもしなかった。
 彼は身を投げた若い衆よりも、身を投げさせた相手に眼をつけると、それは四十前後の人柄のいい侍で、これも身投げの仔細をおおかたは察したらしく、微笑を含みながら見返りもせずに行き過ぎた。
 吉五郎は引っ返して、その侍のあとを追った。橋を渡り越えて室町(むろまち)のあたりまで来た時に、彼は小声で呼びかけた。
「もし、もし、今井の旦那……」
 呼ばれて立ち停まった侍の前に、吉五郎は小腰をかがめて丁寧に会釈(えしゃく)した。
「旦那さま。御無沙汰をいたして居ります」
「三河町の吉五郎か」と、侍は又微笑した。「今のを見たか。おれ達はどうも憎まれ役で困るよ」
 侍は鯛の御納屋に勤めている今井理右衛門であった。自分が何をしたという訳でもないが、自分のために若い衆が身を投げたのを、岡っ引の吉五郎に見付けられたかと思うと、彼はやや当惑に感じたのであろう、憎まれ役などと云い訳がましく云っているのを、吉五郎は軽く受け流してすぐに本題に入った。
「途中でこんなことをお尋(たず)ね申すのも失礼でございますが、あなたは吉田の旦那と御懇意でございましたね」
「吉田……。白魚河岸か」
「左様でございます。それで少々伺いたいのでございますが、この吉田さんは音羽の佐藤さんという旗本を御存じでございましょうか」
「音羽の佐藤……」
「昨年の秋ごろ、長崎からお帰りになりましたかたで……」
「むむ。佐藤孫四郎どのか。わたしもちょっと識っているが、吉田はよほど懇意にしているらしい。吉田の家内はなんでも佐藤の親類だとか云うことだから……」
「はあ、御親類でございますか。それでは御懇意の筈で……」
「なんだ。その佐藤に何か用でもあるのか」と、理右衛門は相手の顔をながめながら訊いた。
 吉五郎が唯の人間でないことを知っているだけに、彼は幾分の好奇心をそそのかされたらしくも見えた。
「いえ、別に用というほどの事でもございませんが……」と、吉五郎はあいまいに答えた。「先日あのお屋敷の前を通りましたら、吉田さんの御子息をお見かけ申しましたので……」
「次男の方だろう。あれは御賄組の黒沼という家へ急養子に行ったそうだから……」
「わたくしもそんなお噂を伺いました。いや、どうもお急ぎのところをお引き留め申しまして相済みませんでした。では、これで御免ください」
 ふたたび丁寧に会釈(えしゃく)して立ち去る吉五郎のうしろ姿を、理右衛門は不審そうに見送っていた。往来なかで人を呼びとめて、単にそれだけのことを訊(き)いて行くのは少しくおかしいと思ったからであろう。しかも吉五郎に取っては、吉田の家と佐藤の屋敷との関係を聞き出しただけでも、一つの手がかりであった。佐藤の屋敷の前で吉田の伜のすがたを見たなどと云うのは、もとより当座の出たらめに過ぎないのである。
 吉田と佐藤とが親戚の間柄である以上、吉田の次男幸之助がその屋敷へ出入りするに不思議はない。そうして、その屋敷にいるお近という女と親しくなったと云うのも、世にありそうなことである。唯その幸之助が留吉の虜(とりこ)とならずに、どこへ姿を隠したか、それを詮議しなければならないと吉五郎は思った。
 彼はそれから京橋へ足を向けて、白魚河岸の吉田の家をたずねた。勿論、玄関から正面に案内を求めるわけには行かないので、彼は気長にそこらを徘徊して、その家から出て来る中間や女中らを待ち受けて、いろいろにかまを掛けて探索したが、幸之助は実家にひそんでいないらしかった。
「燈台下暗(もとくら)しで、やっぱり佐藤の屋敷に忍んでいるかも知れねえ」
 吉五郎はいったん神田の家へ帰って、ゆう飯を食って更に出直そうとするところへ、留吉が忙がしそうにはいって来た。
「親分、出かけるんですかえ」
「むむ。今夜はおれが音羽へ出かけて、張り込んでみようと思うのだ」
「それじゃあ行き違いにならねえで好かった。実は又ひとつ事件が出来(しゅったい)してね」と、留吉は眉をひそめた。
「黒沼の家(うち)の娘が死んだそうで……」
「家付き娘だな」
「そうです。お勝といって、ことし十八になります。親父が死んで、幸之助を急養子にしたんですが、お勝は病気で寝ているので、祝言も延びのびになっているうちに、幸之助は家出をして帰らない。それがもとで、お勝は自害したそうです」
「自害したのか」と、吉五郎も少しく驚いた。
「短刀だか懐剣だか知らねえが、なにしろ寝床の上に起き直って、喉(のど)を突いたんだと云うことです」と、云いかけて留吉は声を低めた。「それからまだおかしいことは、黒沼のとなりの瓜生という家(うち)では、お北という娘が家出をしたそうです」
「幸之助が家出をする。女房になる筈のお勝という女が自害する。又その隣りの娘が家出をする。それからそれへと悪くごたつくな。それで、その女たちは、なぜ自害したのか、なぜ家出をしたのか。その訳はわからねえのか」
「なにぶん武家の組屋敷のなかで出来た騒動だから、くわしい事はとても判らねえ。これだけのことを探り出すのでも容易じゃあありませんでしたよ」
「そうだろうな」と、吉五郎もうなずいた。「そう聞いちゃあ猶さら打っちゃっては置かれねえ。御苦労だが、もう一度行ってくれ」
 ふたりが神田を出る頃には、ようやく長くなったという此の頃の日も暮れていた。しかも夕方から俄かに陰(くも)って、雨を含んだようななま暖かい南風(みなみ)が吹き出した。
「忌(いや)な晩ですな」
「忌な空だな。降られるかも知れねえ」
 暗い空を仰ぎながら、ふたりは音羽の方角へ急いでゆくと、途中から風はいよいよ強くなった。
「黒沼伝兵衛という侍が死んでいたと云うのは、どの辺だ」
「そこの寺の前ですよ」
 留吉が指さす方に或る物を見いだして、吉五郎は口のうちで叫んだ。
「あ、蝶々だ」
「むむ。蝶々だ」
 ふたりは白い影を追うようにあわてて駈け出した。

     八

 闇にひらめく蝶のかげを追いながら、吉五郎と留吉は先きを争って駈け出したが、吉五郎の方が一と足早かった。彼はふところから四つ折りの鼻紙を取り出して、蝶を目がけてはたと打つと、白い影はそのまま消え失せてしまった。
「たしかに手応(てごた)えはあったのだが……」と、吉五郎はそこらを透かして見まわしたが、提灯を持たない彼は、暗い地上に何物をも見いだすことが出来なかった。
「そこらへ行って蝋燭を買って来ましょう」と、留吉は土地の勝手を知っていると見えて、すぐにまた駈け出した。
 寺門前には小さい商人店(あきんどみせ)が五、六軒ならんでいる。表の戸はもう卸(おろ)してあったが、戸のあいだから灯のひかりが洩れているので、留吉はその一軒の荒物屋の戸を叩いて蝋燭を買った。裸蝋燭では風に吹き消される虞(おそ)れがあるので、小さい提灯を借りて来た。
 その提灯のひかりを頼りに、ふたりはそこらの地面を照らして見たが、蝶らしい物の白い影はどこにも見あたらなかった。吉五郎は舌打ちした。
「仕様がねえ。風が強いので吹き飛ばされたかな。まさかに消えてなくなった訳でもあるめえ」
 と云う時に、留吉は声をあげた。
「や、飛んでいる。あすこに……」
 白い蝶は、三、四間距(はな)れた所に飛んでいるのである。それを見て、吉五郎はまた舌打ちした。
「畜生。ひとを玩具(おもちゃ)にしやあがる」
 ふたりは直ぐに駈け寄ると、蝶の影は消えるように見えなくなった。
 留吉は提灯をふりまわして、しきりにそこらを照らして見たが、それらしい物の影もないので、彼は焦(じ)れて無闇に駈け廻った。吉五郎も梟(ふくろう)のように眼を見張って、暗いなかを覗いて歩いたが、それもやはり無効であった。
 往来の絶えた寺門前の闇のなかに、大の男ふたりが一生懸命駈け廻って蝶を追っているのは、どうしても狐に化かされたような図である。しかも今の彼等はそんなことを考えている暇はなかった。
「ほんとうに人を馬鹿にしていやあがる。忌々(いまいま)しい奴だな」と、留吉は息をつきながら云った。
 吉五郎も立ち停まって溜め息をついた。
 いかに焦(じ)れても、燥(あせ)っても、怪しい蝶はもうその影を見せないのである。ふたりはあきらめて顔を見合わせた。
「親分。どうしましょう」
「仕方がねえ。又どっかで見付かるだろう」
「これからどうします」
「むむ。おれの考えじゃあ……」と、云いかけて、吉五郎は俄かに見返った。「留。あれを取っ捉まえろ」
 見ると、うしろの寺の生垣(いけがき)の下に、犬か猫のようにうずくまっている小さい影がある。留吉は持っている提灯を親分に渡して、直ぐにその影を捕えに行った。影は飛び起きて、暗い坂の上へ逃げて行こうとするのを、留吉は飛びかかって押さえ付けた。吉五郎がさしつける提灯のひかりに覗いて見て、留吉はうなずいた。
「むむ。てめえか。このあいだからどうもおかしい奴だと思っていたのだ」
「おめえはその女を識っているのか」
「こいつは火の番の藤助のむすめで、お冬というんですよ」
「火の番の娘か」と、吉五郎もうなずいた。「おれもそいつを調べてみようと思っていたのだ」
「自身番へ連れて行きましょうか」
「いや、自身番なんぞへ連れて行くと、人の目に立っていけねえ。ここでおれが調べるから、おめえは提灯を持って往来を見張っていろ」
 吉五郎はお冬の腕をつかんで、寺の門前へ引き摺って行ったが、正面は風があたるので、横手の生垣をうしろにしてしゃがんだ。
「おまえは今頃なんでこんな所に忍んでいたのだ」
 お冬は黙っていた。
「おれ達は十手(じって)を持っている人間だ。おれ達の前で物を隠すと為にならねえぞ」と、吉五郎は嚇すように云い聞かせた。「そこでお前の親父はどうした。まだ帰らねえのか」
「はい」と、お冬は微(かす)かに答えた。
「ほんとうに帰らねえか。あすこの佐藤という旗本屋敷に隠されているんじゃあねえか」
 お冬はやはり黙っていた。
「お前はそれを知っている筈だ。おまえの親父は訳があって、当分は佐藤の屋敷に隠れているから心配するなと、お近という女から云い聞かされている筈だが……。それでも知らねえと強情(ごうじょう)を張るか。又そのお近という女は、ときどきにお前の家へ忍んで来て、黒沼の婿の幸之助と逢曳(あいびき)をしている筈だが……。それでもお前は強情を張るか」
 お冬はまだなんにも云わないので、吉五郎はほほえみながらその肩を軽く叩いた。
「おまえは年の割に、なかなかしっかり者だな。と云って、褒めてばかりはいられねえ。あんまり強情を張っていると、おれも少しは嚇かさなけりゃあならねえ。おまえは一体、なんでここへ来ていたんだよ。おまえにも色男でもあって、今夜ここへ逢いに来ていたのか」
 お冬はあくまでも強情に口を閉じていた。
「それとも俺たちの後を尾(つ)けて来て、何かの立ち聴きでもしようとしたのか。え、おい。なぜいつまでも黙っているんだよ」と、吉五郎は再びその肩を軽く叩いた。
 前にも云う通り、門の正面には南風が強く吹き付けるので、吉五郎は横手の生垣をうしろにしてならんでいたのであるが、その時、その生垣の杉のあいだから一つの手があらわれて、暗いなかで吉五郎の襟髪を掴んだかと思うと、力任せに強く引いた。不意に掴まれたのと、その引く力が可なりに強かったのとで、吉五郎は思わず尻餅をついて仰向けに倒れると、その隙をみて忽ち立ちあがったお冬は、いわゆる脱兎(だっと)の勢いで駈け出した。
 それに気がついて、留吉があわてて駈け寄ると、お冬は手早くその提灯を叩き落とした。かれは灯の見える大通りへ出るのを避けて、暗い目白坂を駈けのぼって行くのである。
 それを追うよりも、まず親分を救わなければならないと思ったので、留吉はそのまま門前へ駈けつけると、吉五郎は倒れながら相手の腕を掴んでいた。
「留、早くそいつを取っつかまえろ」
 留吉はこころえて、これも生垣越しに相手の腕をつかんで引き出そうとすると、相手は出まいと争ううちに、生垣の細い杉は二、三本ばらばらと折れて、内の人間は表へころげ出した。彼は必死にいどみ合ったが、捕り方ふたりの為に組み敷かれて、更に早縄をかけられて、門前に引き据えられた。
「なにしろ暗くっちゃあ、面(つら)が見えねえ」
 今度は寺の門を叩いて、提灯の火を借りることにした。その火に照らされた男の顔を覗いて、留吉はうなずいた。
「俺もそんな事じゃあねえかと思った。親分。こいつは火の番の藤助ですよ」
「そうか」と、吉五郎もうなずいた。「こんな所で調べていると、又どんな邪魔がはいらねえとも限らねえ。やっぱり自身番へ連れて行こう」
 云いも終らないうちに、果たして邪魔がはいった。おそらく門内にひそんでいたのであろう。ひとりの覆面の男が突然に跳り出て、まず留吉の提灯をばさりと斬り落とした。
「光る物を持っているぞ。気をつけろ」
 留吉に注意しながら、吉五郎はふところから十手を出すと、留吉も十手を取って身構えした。覆面の男は無言で斬ってかかった。それが侍であると覚ったので、ふたりも油断は出来ない。
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