半七捕物帳
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著者名:岡本綺堂 

     一

 文化九年――申(さる)年の正月十八日の夜である。その夜も四ツ半(午後十一時)を過ぎた頃に、ふたりの娘が江戸小石川の目白不動堂を右に見て、目白坂から関口駒井町(ちょう)の方角へ足早にさしかかった。
 駒井町をゆき抜ければ、音羽(おとわ)の大通りへ出る。その七丁目と八丁目の裏手には江戸城の御賄(おまかない)組の組屋敷がある。かれらは身分こそ低いが、みな相当に内福であったらしい。今ここへ来かかった二人の娘は、その賄組の瓜生(うりゅう)長八の娘お北と、黒沼伝兵衛の娘お勝で、いずれも明けて十八の同い年である。
 今夜は関口台町の鈴木という屋敷に歌留多(かるた)の会があったので、二人は宵からそこへ招かれて行った。いつの世にも歌留多には夜の更(ふ)けるのが習いで、男たちはまだ容易にやめそうもなかったが、若い女たちは目白不動の鐘が四ツを撞(つ)くのを合図に帰り支度に取りかかって、その屋敷で手ごしらえの五目鮨(ごもくずし)の馳走になって、今や帰って来たのである。屋敷を出る時には、ほかにも四、五人の女連れがあったのであるが、途中でだんだんに別れてしまって、駒井町へ来る頃には、お北とお勝の二人になった。
 夜更けではあるが、ふだんから歩き馴れている路である。自分たちの組屋敷まではもう二、三丁に過ぎないので、ふたりは別に不安を感じることも無しに、片手に提灯(ちょうちん)を持ち、片袖は胸にあてて、少し俯向(うつむ)いて、足を早めて来た。
 坂を降りると、右側は二、三軒の屋敷と町屋で、そのあいだには寺もある。左側は殆どみな寺である。屋敷は勿論、町屋も四ツ過ぎには表の戸を閉めているので、寺町ともいうべき此の大通りは取り分けて寂しかった。春とは云っても正月なかばの暗い夜で、雪でも降り出しそうな寒い風がひゅうひゅう吹く。二人はいよいよ俯向き勝ちに急いで来ると、お北は何を見たか、俄かに立ち停まった。
「あら、なんでしょう」
 お勝も提灯をあげて透かして見ると、ふたりの行くさきに一つの白い影が舞っているのである。更によく見ると、それは白い蝶である。普通に見る物よりやや大きいが、たしかに蝶に相違なかった。蝶は白い翅(はね)をひるがえして、寒い風のなかを低く舞って行くのであった。二人は顔を見あわせた。
「蝶々でしょう」と、お勝はささやいた。
「それだからおかしいと思うの」と、お北も小声で云った。「今頃どうして蝶々が飛んでいるのでしょう」
 時は正月、殊にこの暗い夜ふけに蝶の白い形を見たのであるから、娘たちが怪しむのも無理はなかった。二人はそのまま無言で蝶のゆくえを見つめていると、蝶は寒い風に圧(お)されるためか、余り高くは飛ばなかった。むしろ地面を掠(かす)めるように低く舞いながら、往来のまん中から左へ左へ迷って行って左側の或る寺の垣に近寄った。それは杉の低い生垣(いけがき)で、往来からも墓場はよく見えるばかりか、野良犬(のらいぬ)などが毎日くぐり込むので、生垣の根のあたりは疎(まば)らになっていた。蝶はその生垣の隙間(すきま)から流れ込んで、墓場の暗い方へ影をかくした。
 それを不思議そうに見送っていると、二人のうしろから草履の音がきこえて、五十ばかりの男が提灯をさげて来た。彼は通り過ぎようとして見返った。
「御組屋敷のお嬢さん達じゃあございませんか」
 声をかけられて、二人も見かえると、男は音羽の市川屋という水引屋(みずひきや)の職人であった。ここらは江戸城に勤めている音羽という奥女中の拝領地で、音羽の地名はそれから起こったのであると云う。その関係から昔は江戸城の大奥で用いる紙や元結(もっとい)や水引のたぐいは、この音羽の町でもっぱら作られたと云い伝えられ、明治以後までここらには紙屋や水引屋が多かった。この男もその水引屋の職人で、源蔵という男である。多年近所に住んでいるので、お北もお勝も子供のときから彼を識っていた。
「今時分どこからお帰りです」と、源蔵はかさねて訊(き)いた。
「鈴木さんへ歌留多(かるた)を取りに行って……」と、お北は答えた。
「ああ、そうでしたか」と、源蔵はうなずいた。「そうして、ここで何か御覧になったんですか」
「白い蝶々が飛んでいるので……」
「白い蝶々……。ご覧になりましたか」
「こんな寒い晩にどうして蝶々が飛んでいるのでしょう」と、お勝が訊いた。
「わたくしももう三度見ましたが……」と、源蔵も不思議そうに云った。「まったく不思議ですよ。去年の暮頃から、時々に見た者があると云いますがね。この寒い時節に蝶々が生きている筈がありませんや、おまけに暗い晩に限って飛ぶというのは、どうもおかしいんですよ」
 武家の子とはいいながら、若い娘たちはなんとなく薄気味悪くなって、夜風がひとしお身にしみるように感じられた。
「蝶々はどっちの方へ飛んで行きました」と、源蔵はまた訊いた。
「お寺のなかへ……」
「ふうむ」と、源蔵は窺うように墓地の方を覗いたが、そこには何かの枯れ葉が風にそよぐ音ばかりで、新らしい墓も古い墓も闇の底に鎮まり返っていた。
 提灯の火が又ひとつあらわれた。拍子木(ひょうしぎ)の音もきこえた。火の番の藤助という男がここへ廻って[#「廻って」は底本では「廻つて」]来たのである。三人がここに立ち停まっているのを見て、藤助も近寄って来た。
「なにか落とし物でもしなすったかね」
 彼も三人を識っているのである。源蔵から白い蝶の話を聞かされて、藤助も眉をよせた。
「その蝶々はわたしも時々に見るがな。なんだか気味がよくない。今夜はこの寺の墓場へ飛び込んだかね」
「誰かの魂(たましい)が蝶々になって、墓の中から抜け出して来るんじゃないかね」と、源蔵は云った。
「なに、墓から出るんじゃない、ほかから飛んで来るんだよ。墓場へはいるのは今夜が初めてらしい」と、藤助は云った。
「だが、蝶々が何処から飛んで来て、どこへ行ってしまうか、誰も見とどけた者は無い。第一、あの蝶々はどうも本物ではないらしいよ」
「生きているんじゃ無いのか」
「飛んでいるところを見ると、生きているようにも思われるが……。わたしの考えでは、あの蝶々は紙でこしらえてあるらしいね。どうも本物とは思われないよ」
 聴いている三人は又もや顔を見あわせた。
「わたしもそこまでは気が付かなかったが……」と、源蔵はいよいよ不思議そうに云った。「紙で拵(こしら)えてあるのかな。だって、あの蝶々売が売りに来るのとは、違うようだぜ」
「蝶々売が売りに来るのは、子供の玩具(おもちゃ)だ。勿論、あんな安っぽい物じゃあないが、どうも生きている蝶々とは思われない。白い紙か……それとも白い絹のような物か……どっちにしても、拵え物らしいよ。だが、その拵え物がどうして生きているように飛んで歩くのか、それが判らない。なにしろ不思議だ。あんな物は見たくない。あんなものを見ると、なにか悪いことがありそうに思われるからね。といって、わたしは商売だから、毎晩こうして廻っているうちに、忌(いや)でも時々見ることがある。気のせいか、あの蝶々をみた明くる日は、なんだか心持が悪くって……」
 こんな話を聴かされて、三人はますます肌寒くなって来た。お勝はお北の袂(たもと)をそっと曳いた。
「もう行きましょうよ」
「ええ、行きましょう」と、お北もすぐ同意した。
「そうだ。だんだんに夜が更(ふ)けて来る。お嬢さんたちはお屋敷の前まで送ってあげましょうよ」と、源蔵が云った。
 藤助に別れて、三人はまた足早にあるき出したが、音羽の通りへ出るまでに、蝶は再びその白い影をみせなかった。娘たちの組屋敷は音羽七丁目の裏手にあるので、源蔵はそこまで送りとどけて帰った。
 お北の父の瓜生長八は、城中へ夜詰(よづめ)の番にあたっていたので、その夜は自宅にいなかった。瓜生の一家は長八と、妻のお由と、長女のお北と、次女のお年と、長男の長三郎と、下女のお秋の六人暮らしで、男の奉公人は使っていない。長三郎は十五歳で、お年は十三歳である。お北の帰りが少し遅いので、長三郎を迎えにやろうかと云っているところへ、お北は隣家のお勝と一緒に帰って来た。水引屋の職人に送って貰ったと云うのである。
「唯今……。どうも遅くなりました」
 茶の間へ来て、母のまえに手をついた娘の顔は蒼かった。
「お前、どうしたのかえ」と、母のお由は怪しむように訊(き)いた。
「いいえ、別に……」
「顔の色が悪いよ」
「そうですか」
 白い蝶が若い娘たちを気味悪がらせたには相違なかったが、お北自身は顔の色を変えるほどに脅(おびや)かされてもいなかった。彼女は却って母に怪しまれたのを怪しむくらいであった。しかし、まんざら覚えのないわけでも無いので、白い蝶の一件を母や妹に打ち明けようと思いながら、なぜかそれを口に出すのを憚(はばか)るような心持になって、お北は結局黙っていた。
「この春は風邪が流行(はや)ると云うから、気をお付けなさいよ」と、なんにも知らない母は云った。
 夜も更(ふ)けているので、妹のお年は姉の帰りを待たずに、さっきから次の間の四畳半に寝ていたのであるが、このとき突然に魘(うな)されるような叫び声をあげた。なにか怖い夢でも見たのであろうと、お由は襖(ふすま)をあけて次の間へ行った。
 唸っているお年を呼び起こして介抱すると、少女のひたいには汗の珠(たま)がはじき出されるように流れていた。
 お年の夢はこうであった。彼女が姉と一緒に広い草原をあるいていると、姉の姿がいつか白い蝶に化(か)して飛んでゆく。おどろいて追おうとしたが、とても追いつかない。焦(じ)れて、燥(あせ)って、呼び止めようとするところを、母に揺り起こされたのである。
 その夢の話を聴かされて、お北ははっと思った。今度こそは本当に顔色を変えたのである。しかもそうなると、白い蝶の一件を洩らすことがいよいよ憚られるように思われて、彼女はやはり口を閉じていた。母も少女の夢ばなしに格別の注意を払わないらしかった。
「子供のうちはいろいろの夢をみるものだ。姉さんはここにいるから、安心しておやすみなさい」
 お年は再び眠った。他の人々も皆それぞれ寝床にはいったが、その後にはなんの出来事もなく、瓜生の一家は安らかに一夜を過ごした。宵からの疲れで、お北も他愛なく眠った。
 風は夜のうちに止んでいたが、明くる朝は寒かった。こんにちと違って、その当時の音羽あたりは江戸の場末であるから、庭にも往来にも春の霜が深かった。早起きを習いとする瓜生の家では、うす暗いうちから寝床を離れて、お由は下女に指図して台所に立ち働いていた。お北は表へ出て門前を掃いていると、隣家の黒沼でももう起きているらしく、お勝も箒(ほうき)を持って門前へ出てきた。ふたりの娘はゆうべの挨拶を終ると、お勝は摺り寄ってささやくように云った。
「あなた、ゆうべの事を誰かに話しましたか」
「いいえ。まだ誰にも……」
「わたしはお母さまに話したのですよ」と、お勝はいよいよ声をひくめた。「そうしたら、お母さまはもう白い蝶々のことを知っているのです」
「お母さまも見たのですか」
「自分は見ないけれども、その話は聞いているのだそうです。お父さまに話したらば、そんな馬鹿なことを云うなと叱られたので、それぎり誰にも云わなかったのだそうです」
 御賄組などはその職務の性質上、どちらかと云えば武士気質(さむらいかたぎ)の薄い人々が多いのであるが、お勝の父の黒沼伝兵衛は生まれつき武士気質の強い男で、組じゅうでも義理の堅い、意地の強い人物として畏敬されていた。その伝兵衛に対してお勝の母が何か怪談めいた事など話した場合、あたまから叱り飛ばされるのは知れ切っていた。
 お勝の母の話によると、このごろ夜が更けると怪しい蝶が飛びあるく。それはお勝らが見たのと同じように、普通の物よりやや大きい白い蝶で、それが舞い込んだ家には必ず何かのわざわいがある。多くは死人を出すと云うのである。
「お母さまがどうしてそんな事を御存じなのでしょう」と、お北は又訊(き)いた。[#「。」は底本では「、」]
「それはね」と、お勝は更に説明した。「四、五日前に白魚河岸(しらうおがし)のおじさんが御年始にきた時に、お母さまに話したので……。八丁堀でも内々探索(たんさく)しているのだそうです」
 白魚河岸のおじさんと云うのは黒沼の親類で、姓を吉田といい、白魚の御納屋(おなや)に勤めている。吉田は土地の近い関係から、八丁堀同心らとも知合いが多いので、その同心の或る者から白い蝶の秘密を洩れ聞いたらしい。してみると、まんざら無根の流言(りゅうげん)とも云えないのであるが、伝兵衛は飽くまでもそれを否認していた。彼はこんなことまで云った。
「白魚河岸がそんな出たらめを云うのか。さもなければ、この頃はお膝元が太平で、八丁堀の奴らも閑(ひま)で困るもんだから、そんな、詰まらない事を云い触らして、忙がしそうな顔をしているのだ。ばかばかしい」
 こう一と口に云ってしまえばそれ迄であるが、白魚河岸のおじさんは嘘を云うような人ではない。八丁堀の人たちが幾ら閑(ひま)だからといって、根も葉もないことに騒ぎ立てるはずもあるまいと、お勝の母は夫に叱られながらも、内心はそれを信じていた。
 その矢さきに、お勝が現在その白い蝶の飛ぶ姿を見たと云うのであるから、母はいよいよそれを信じないわけには行かなくなった。
「それですから当分は夜歩きをしない方がいいと、お母さまは云っているのですよ」と、お勝はさらに付け加えた。

     二

 門前の掃除を仕舞ってお北はわが家へはいったが、今のお勝の話がなんとなく気にかかって、彼女は暗い心持になった。
 お勝の父がいかにそれを否認しても、白い蝶の怪異はまんざら跡方のないことでも無いように思われた。
 ことに妹のお年がゆうべの夢にうなされて、姉が白い蝶に化して飛び去ろうとしたと云う話が、また今更のように思い合わされて、お北は一種の恐怖を感じないわけには行かなかった。白い蝶と自分とのあいだに、何かの因縁が結び付けられているのではないかとも恐れられた。しかもそれを母や弟に打ちあけるのを憚(はばか)って、彼女はやはり黙って朝飯の膳にむかった。
「お前はゆうべからどうも顔の色が悪いようだが、まったく風邪(かぜ)でも引いたのじゃあないか」と、母のお由は再び訊いた。
「いいえ、別に……」と、お北はゆうべと同じような返事をしていたが、自分でも少し悪寒(さむけ)がするように感じられてきた。気のせいか、蟀谷(こめかみ)もだんだん痛み出した。
 弟の長三郎は朝飯の箸をおくと、すぐに剣術の稽古に出て行った。四ツ(午前十時)頃に、父の長八は交代で帰ってきたが、これも娘の顔をみて眉をよせた。
「お北、おまえは顔色がよくないようだぞ。風邪でも引いたか」
 父からも母からも風邪引きに決められてしまった。お北はとうとう寝床にはいることになった。下女のお秋は音羽の通りまで風邪薬を買いに出た。
 お北は実際すこし熱があるとみえて、床にはいると直ぐにうとうとと眠ったが、やがて又眼がさめると、茶の間でお秋が何事をか話している声がきこえた。お秋が小声で母と語っているのであるが、襖ひとえの隣りであるから、寝ているお北の耳にも大抵のことは洩れきこえた。
「わたくしが薬屋へまいりますと、丁度お隣りのお安さんもお薬を買いに来ていまして、お隣りのお勝さんもやはり寝ておいでなさるそうで……」
「じゃあ、どっちも夜ふかしをして風邪を引いたのだね」と、お由は云った。
「いいえ、それがおかしいので……」
 お秋は更に声を低めたが、とぎれとぎれに聞こえる話の様子では、かの白い蝶の一件について訴えているらしい。いずれにしても、お勝も床に就いたのである。
「まあ、そんなことがあったのかえ。お北はなんにも云わないので、わたしはちっとも知らなかったが……」と、お由は不安らしく云った。「そうすると、お勝さんもお北も唯の風邪じゃあ無いのかしら」
 それから後は又もや声が低くなったが、やがてお秋が台所へさがり、お由は立って父の居間へ行ったらしかった。そのうちに、お北は又うとうとと眠ってしまったので、その後のことは知らなかったが、ふたたび眼をさますと、もう日が暮れていた。
 このごろの癖で、夕方から又もや寒い風が吹き出したらしく、どこかの隙間から洩れて来る夜の風が枕もとの行燈(あんどう)の火を時々に揺らめかしていた。
 お北が枕から顔をあげると、行燈の下には母のお由がやはり不安らしい眼色をして、娘の寝顔を窺うように坐っていた。
「どうだえ、心持は……」と、お由はすぐに訊いた。「少しは汗が取れましたかえ」
 云われて気がつくと、お北の寝巻は汗でぐっしょりと濡れていた。母は手伝って寝巻を着かえさせて、娘をふたたび枕に就かせたが、十分に汗を取ったせいか、お北の頭は軽くなったように思われた。それを聴いて、お由はやや安心したようにうなずいたが、やがて又ささやくように話し出した。
「それはまあ好かった。実はわたしも内々心配していたんだよ。どうも唯の風邪でも無いらしいからね。おまえの寝ているあいだに、お隣りの黒沼の小父さんが来て……」
「お勝さんも悪いんですってね」と、お北も低い声で云った。
「けさまでは何ともなかったのだが、お午(ひる)ごろから悪くなって、やっぱりお前と同じように、風邪でも引いたような工合(ぐあい)で寝込んでしまったのだが、それには仔細(しさい)があるらしいと云うので、黒沼の小父さんが家(うち)へ聞き合わせに来なすったのだよ。ゆうべの歌留多の帰りに、目白下のお寺の前で、白い蝶々を見たと云うが、それは本当かと云うことだったが、お前も病気で寝ているから、あとで好く訊いておくと返事をして置いたのさ。そうすると黒沼の小父さんは、それでは又来ると云って出て行ったが、その足で音羽の通りへ出て、あの水引屋の……市川屋の店へ行って、職人の源蔵に逢って、何かいろいろ詮議をした末に、源蔵を案内者にして、お寺の方まで行ったのだとさ」
 黒沼伝兵衛は娘の病気から白い蝶の一件を聞き出したが、元来そういうたぐいの怪談を信じない彼は、一応その虚実を詮議するために、そのとき一緒に道連れになったと云う市川屋の源蔵をたずねたのである。その結果を早く知りたいので、お北は忙がわしく訊いた。
「それからどうして……」
「あの小父(おじ)さんのことだからね」とお由は少しく笑顔を見せた。「なんでも源蔵を叱るように追いまわして、その蝶々を見たのはどの辺かということを厳重に調べたらしい。蝶々は生垣をくぐってお寺の墓場へ飛んで行ったと云うので、今度はお寺へはいって墓場を一々見てあるいたが、別にこれぞという手がかりも無く、蝶々の死骸らしい物も見付からなかったそうだよ。それでもまだ気が済まないと見えて、黒沼の小父さんはお寺の玄関へまわって、坊さんにも逢って、白い蝶々について何か心あたりはないかと聞き合わせてみたが、お寺の方ではなんにも知らないと云うので、とうとう思い切って引き揚げてきたそうだが……。なにしろ不思議なこともあるものさね。おまえも本当にその蝶々を見たのかえ」
 もう隠してもいられなくなって、お北はゆうべの一件を母に打ち明けると、お由の顔はまた陰(くも)った。若い娘たちが夜ふかしをして、夜道をあるいて、ふたりが同時に風邪を引いた。――そんなことは一向にめずらしく無いのであるが、それに怪しい蝶の一件が絡(から)んでいるだけに、二人の病気には何かの因縁があるように思われないでもなかった。
「家(うち)のお父さまはね」と、お由は又云った。「ああいう人だから、今度のことについて別に嘘だとも本当だとも云わないけれど、わたしはなんだか気になって……。もしやお前が悪くでもなっては大変だと、内々案じていたのだが、この分じゃ仔細も無さそうだ。それにしても、お勝さんの見舞ながらお隣りへ行って、おまえも確かにその蝶々を見たと云うことを、小父さんに話して来なければなるまい。わたしはこれからちょっと行って来ますよ」
 お由は有り合わせの菓子折か何かを持って、直ぐに隣りへ出て行った。その留守に、お北は妹を枕もとへ呼んで、ゆうべの夢のことに就いて更に詮議すると、お年は確かに姉さんが白い蝶々になった夢をみたと云った。子供の夢ばなしなど、ふだんは殆ど問題にもならないのであるが、今のお北に取っては何かの意味ありげにも考えられた。彼女はなんだか薄気味悪くなって、この部屋のどこかに蝶の白い影が迷っているのでは無いかと、寝ながらに部屋の隅々を見まわした。
 半□ばかりの後に、お由は帰って来て、娘の枕もとで又こんな事をささやいた。
「おまえとは違って、お勝さんはどうも容態(ようだい)がよくないようで、丁度お医者を呼んで来たところさ。お医者は質(たち)の悪い風邪だと云ったそうだけれど、小父さんはよっぽど心配しているようだったよ」
「小父さんは何と云っているのです」
「黒沼の小父さんはまだ本当にはしていないらしいのだがね。それでも自分の娘が悪くなったし、お前も確かにその蝶々を見たと云うのだから、少し不思議そうに考えているようだったが……。黒沼の小父さんの話では、それがもう町方(まちかた)の耳にもはいって、内々で探索をしていると云うことだから、嘘か本当かは自然に判るだろうけれど……。まあ当分は日が暮れてから外へ出ないに限りますよ。姉さんばかりじゃない、お年も気をおつけなさい」
 娘たちを戒(いまし)めて、その晩は早く寝床に就いたが、表に風の音がきこえるばかりで、ここの家には何事もなかった。明くる朝はお北の気分もいよいよ好くなったが、それでも用心してもう一日寝ていることにしたので、弟の長三郎が代って門前を掃きに出ると、となりの黒沼には男の子がないので、下女のお安が門前を掃いていた。
 ここで長三郎は、お安の口から更に不思議なことを聞かされた。
 ゆうべの夜なかに、病人のお勝が苦しそうに唸(うな)り声をあげたので、父の伝兵衛が起きて行ってうかがうと、お勝の部屋には燈火(あかり)を消してあって、一面に暗いなかに小さい白い影が浮いて見えた。それは白い蝶である。蝶は羽(はね)をやすめてお勝の衾(よぎ)の上に止まっている。伝兵衛は床の間の刀を取って引っ返して来て、まずその蝶を逐(お)おうとしたが、蝶はやはり動かない。伝兵衛は刀の鞘のままで横に払うと、蝶はひらひらと飛んで自分の寝巻の胸にはいった。
 伝兵衛は妻のお富をよびおこして手燭をともさせ、寝巻を払ってあらためたが、どこにも蝶の影は見えなかった。あなたの眼のせいでしょうとは云ったが、お富も一種の不安を感じないでもなかった。お勝をゆりおこして訊(き)いてみたが、お勝は別におそろしい夢に魘(うな)されたのでも無く、唯うとうとと眠っていて何事も知らないと云った。
 話は単にそれだけのことで、しょせんは伝兵衛の眼の迷いと云うことに帰着してしまったのであるが、場合が場合であるだけに、どの人の胸にも消えやらない疑いが残っていた。臆病なお安は頭から衾(よぎ)を引っかぶって夜の明けるまでおちおちとは眠られなかった。
「黒沼の小父さんも年を取ったな」と、長三郎はその話を聴きながら、肚(はら)のなかで笑った。
 ふだんはそんな怪談をあたまから蹴散らしていながら、いざとなれば心の迷いからそんな怪しみを見るのである。年を取ったと云っても、四十を越してまだ間もないのに、人間はそんなにも弱くなるものかなどとも考えた。
「そんなことは誰にも話さない方がいい。わたしも黙っているから」と、長三郎はお安に注意するように云った。
「ええ。誰にも云っちゃあならないと、御新造(ごしんぞう)さまからも口止めされているんです」と、お安も云った。
 口止めされながら、直ぐに他人にしゃべってしまうのである。長三郎は若い下女の口善悪(くちさが)ないのを憎みながらいい加減にあしらって家へはいった。そうして、朝飯を食ってしまってから、素知らぬ顔で隣りの家へ見舞にゆくと、お勝の容態はやはり好くないらしかった。
「姉さんは……」と、母のお富が訊いた。
「姉はもう好くなりまして、きょう一日も寝ていたらば起きられるでしょう」
「それは仕合わせでしたな。家(うち)の娘はまだこの通りで……」
「御心配ですね」
 そんな挨拶をしているうちに、主人の黒沼伝兵衛が奥から出て来た。
「長さん。こっちへ来てくれ」
 長三郎を自分の居間へよび入れて、伝兵衛はしずかに云い出した。
「若い者の手前、まことに面目のないことだが、ゆうべは少し失策(しくじり)をやったよ」
「どんなことですか」
 長三郎はやはり素知らぬ顔をしていると、伝兵衛は自分の口から白い蝶の話をはじめた。それはさっきお安が長三郎に洩らしたと同じ出来事であった。伝兵衛は正直にゆうべの失策を打ちあけた後に、みずから嘲るように苦笑(にがわら)いをした。
「わたしも小身ながら武士の端(はし)くれだ。世に不思議だの、妖怪だのと云うものがあろうとは思っていない。怪力乱神を語らずとは、孔子も説いている。かの白い蝶の一件は、先日も白魚河岸の親類が来て、何か家内に話して行ったそうだが、わたしは別に気にも掛けずにいた。いや、まったくばかばかしい話だと思っていたのだ。ところが、おとといの晩は家(うち)のお勝も見た。お前の姉さんも見たと云う。まだそればかりでなく、あの水引屋の……職人の源蔵も見たと云う。源蔵は正直者で、むやみに嘘を云うような男でもない。してみると、これには何か仔細があるらしく思われる。就いては、物は試(ため)しだ。わたしは今夜、目白坂の辺へ行って、果たしてその白い蝶が飛ぶかどうかを探索してみようと思うのだが、どうだ、お前も一緒に行ってみないか」
 その頃の若侍のあいだには「胆(きも)だめし」と唱えて、あるいは百物語を催し、あるいは夜ふけに墓場へ踏み込み、あるいは獄門首の晒(さら)されている場所をたずねる、などの冒険めいた事がしばしば行なわれていた。伝兵衛が長三郎を誘ったのも、その意味である。長三郎のかよっている剣術の道場でも、これまで往々にそんな催しがあったが、彼はまだ十五歳の前髪であるので、とかくにその仲間から省(はぶ)かれ勝ちであるのを、彼はふだんから残念に思っていた。その矢さきへ、この相談を持ち掛けられたのであるから、長三郎はよろこんで即座に承諾した。彼はぜひ一緒に連れて行ってくれと答えると、伝兵衛は然(さ)もこそと云うようにうなずいた。
「むむ。お前ならばきっと承知するだろうと思った。では、今夜の五ツ頃(午後八時)から出かける事にしよう。だが親父やおふくろが承知するかな」
「夜学に行くことにして出ます」
 長三郎は護国寺門前まで漢籍の夜学に通うのであるから、両親の手前はその夜学にゆくことにして怪しい蝶の探索に出ようと云うのである。その相談が決まって、彼は威勢よく我が家へ帰った。
「あなたはともかくも、年の若い長さんなぞを連れ出して、なにかの間違いがあると困りますよ」と、妻のお富は不安そうに云った。
「なに、あいつは年が行かないでも、なかなかしっかりしているから、大丈夫だよ」
 伝兵衛は笑っていた。

     三

 廿日正月(はつかしょうがつ)という其の日も暮れて、宵闇(よいやみ)の空に弱い星のひかりが二つ三つただよっていた。今夜も例のごとく寒い風が吹き出して、音羽の大通りに渦巻く砂をころがしていた。
「寒い、寒い。この正月は悪く吹きゃあがるな。ほんとうに人泣かせだ」
 この北風にさからって江戸川橋の方角から、押し合うように身を摺り付けて歩いて来たのは、二人の中間(ちゅうげん)である。どちらも少しく酔っているらしく、その足もとが定まらなかった。
「いくら寒くっても、ふところさえ温(あった)かけりゃあ驚くこともねえが、陽気は寒い。ふところは寒い。内そとから責められちゃあやり切れねえ」と、ひとりが云った。
「まったくやり切れねえ」と、他のひとりも相槌(あいづち)を打った。
「仕方がねえ。叱られるのを承知で、また御用人を口説(くど)くかな」
「いけねえ、いけねえ。うちの用人と来た日にゃあとてもお話にならねえ。それよりもお近(ちか)に頼んだ方がいい。たんとの事は出来ねえが、一朱や二朱ぐれえの事はどうにかしてくれらあ」
「お近に……。おめえ、あの女に借りたことがあるのか」
「ほかの者にゃあどうだか知らねえが、おれには貸してくれるよ」
「まさか情夫(いろ)になった訳じゃあるめえな」
「情婦(いろ)になってくれりゃあいいが、まだそこまでは運びが付かねえ」
「それにしても、不思議だな。あの女がおめえに金を貸してくれると云うのは……。どうして貸してくれるんだよ」
「はは、それは云えねえ。なにしろ、おれには貸してくれるよ。おれが口説けば、お近さんは貸してくれるんだ」
「それじゃあ、おれも頼んでみようかな」
「馬鹿をいえ。おめえなんぞが頼んだって、四文も貸してくれるもんか。はははははは」
 こんなことを話しながら、押し合ってゆく二人のうしろには、又ひとつ黒い影が付きまとっていた。音羽の七丁目から西へ切れると、そこに少しばかりの畑地がある。そこへ来かかった時に、むこうから拍子木(ひょうしぎ)の音が近づいて、火の番の藤助の提灯がみえた。
「今晩は」と、藤助が先ず声をかけた。
「やあ、御苦労だな」と、中間のひとりが答えた。「べらぼうに寒いじゃあねえか」
「お寒うございますな」
「いくら廻り場所だって、こんなところを正直に廻ることもあるめえ。ここらにゃあ悪い狐がいるぜ」と、他のひとりが笑いながら云った。
「なに、狐の方でもお馴染(なじみ)だから大丈夫ですよ」と、藤助も笑いながら云った。「おまえさん方は今夜も御機嫌ですね」
「あんまり御機嫌でもねえ。無けなしの銭でちっとばかりの酒を飲んで、これから帰ると門番に文句を云われて、御用人に叱られて、どうで碌なことじゃあねえのさ」
「そう云っても、こいつにはお近さんと云ういい年増が付いているのだから仕合わせだよ」
「ええ、つまらねえことを云うな」
「お近さん……」と、藤助の眼は暗いなかで梟(ふくろう)のように光った。「お近さんと云うのは、お屋敷のお近さんですかえ」
「むむ、そうだ」
 中間はなま返事をして、そのまま歩き出した。
 他のひとりも続いて行った。藤助はまだ何か訊(き)きたそうな様子で、ふた足ばかり行きかけたが、又思い直したらしく、中間どものうしろ姿を見送ったばかりで引っ返して大通りへ出ようとするとき、彼は何かに驚かされたように、俄かに畑のかたを見返ると、そこには小さくうずくまっている物があった。それは狐ではない。人であるらしかった。
 人は這うように身をかがめて、畑から往来へ忍び出たかと思うと、草履の音をぬすんで、かの中間共のあとを追って行くらしかった。それと同時に、藤助の提灯の火は風に吹き消されたのか、わざと吹き消したのか、たちまちに暗くなった。彼もまた抜き足をして、その黒い影のあとを追って行った。
 一方にこういう事のあるあいだに、又一方には目白坂下の暗い寺門前に、二つの暗い影がさまよっていた。それは黒沼伝兵衛と瓜生長三郎で、かれらは昼間の約束通りに、白い蝶の正体を見とどけに来たのである。長三郎は小声で云った。
「小父さん。この辺ですね」
「この辺だ。きのう源蔵に案内させて、よく調べて置いた。蝶々はあの生垣をくぐって、墓場へ舞い込んだと云うことだ」と、伝兵衛は暗いなかを指さした。
「毎晩ここらへ出るのでしょうか」
「それは判らない。だが、まあ、ここらに網を張っているよりほかはあるまい。風を避(よ)けるために、この門の下にはいっていろ」
「なに、構いません。わたしはそこらへ行って見て来ましょうか」
「むむ、犬もあるけば棒にあたると云うこともある。ただ突っ立っているよりも、少し歩いてみるかな」
「小父さんはここに待ち合わせていて下さい。わたしがそこらを見廻って来ます」
 云うかと思うと、長三郎は坂の上へむかって足早に歩き出した。風はなかなか吹き止まないで、寺内の大きい欅(けやき)の梢をひゅうひゅうと揺すって通ると、その高い枝にかかっている破れ紙鳶(だこ)が怪しい音を立ててがさがさと鳴った。
 強い風をよけながら、暗いなかに眼を配って、長三郎は坂の上まで登り切ると、とある屋敷の横町から提灯の火がゆらめいて来た。どこをどう廻って来たのか知らないが、火の番の藤助はここへ出て来たのである。彼は拍子木を鳴らしていなかったが、その提灯のひかりで長三郎は早くも彼を知った。
「おい、火の番。今夜はここらで蝶々の飛ぶのを見なかったかね」と、長三郎は近寄って声をかけた。
「おお、瓜生の若旦那ですか」と、藤助は少しく提灯をかざして、長三郎のすがたを透かし視た。「あなたは蝶々を探しておいでなさるんですか」
「おとといの晩、うちの姉さんがここらで白い蝶々を見たと云うから、わたしも今夜さがしに来たのだ。おまえも見たことがあるそうだね」
 藤助はそれに答えないで、また訊(き)いた。
「その蝶々をさがして、どうなさるんです」
「どうと云うことも無いが、その蝶々が何だかおかしいから、つかまえて見ようと思うのだ」
「つかまえて……どうなさるんです」
「唯、つかまえるだけの事だ」と、長三郎はその以上のことを洩らさなかった。
「それならばお止めなさい」と、藤助は諭(さと)すように云った。「白い蝶々の飛ぶことはあります。寒い時に蝶々が飛ぶ。……考えてみれば不思議ですが、それには又なにか仔細があるのでしょう。お武家のあなた方がそんなことにお係り合いなさらぬ方がよろしいんです」
「いや、少し訳があるので係り合うのだ。それで、おまえは今夜も見たのか」
 藤助は首を振った。
「その蝶々の飛ぶのは、ここらに限ったことじゃありません。毎晩屹度(きっと)ここらへ出ると決まっているんじゃありませんから、探してお歩きなすっても無駄なことですよ。今夜はあなたお一人ですか。それともお連れがあるんですか」
 なんと答えてよいかと、長三郎はやや躊躇したが、やがて正直に云った。
「実は黒沼の小父さんと一緒に来たのだ」
「黒沼の旦那……」と、藤助は冷やかに云った。「その旦那はどこにおいでです」
「坂下の門前に待っているのだ」
「はあ、そうですか」
 藤助の声はいよいよ冷やかに聞こえたばかりでなく、提灯の火に照らされた其の顔には冷やかな笑いさえ浮かんだ。
「今も申す通り、ここらを探しておいでになっても、白い蝶々はめったに姿を見せやあしませんよ。かぜでも引かないうちに、早くお引き揚げになった方が、よろしゅうございましょう」
 彼はこう云い捨てて、軽く会釈(えしゃく)したままで立ち去ったが、長三郎はまだ其処にたたずんでいた。
 拍子木(ひょうしぎ)の音は坂を横ぎって、向う横町の方へだんだんに遠くなるのを聞きながら、長三郎は考えた。藤助の話によると、白い蝶は毎晩ここらに出ると限ったわけでも無いと云う。それは自分も覚悟して来たのであるが、ここらを毎晩廻っている火の番がそう云う以上、めったに姿を見せない蝶をたずねて、いつまでも寒い風のなかに徘徊しているのは、なんだかばかばかしいように思われて来た。
「いっそ小父さんに相談して来ようか」
 彼は引っ返そうとして、また躊躇した。折角ここまで踏み出して来ながら、まだ碌々の探索もしないで引っ返しては気怯(きおく)れがしたようにでも思われるかも知れない。長三郎は意気地なしであると、黒沼の小父さんに笑われるのも残念である。ともかく、もう少し歩いてみた上の事だと、長三郎は思い直して又あるき出したが、闇のなかには彼の眼をさえぎる物もなかった。
 まだ五ツ半(午後九時)を過ぎまいと思われるのに、ここらの屋敷町はみな眠ってしまったように鎮まっていた。唯きこえるのは風の音ばかりである。
 長三郎はあても無しに其処らを一巡して、坂の上まで戻って来ると、だんだんに更(ふ)けてゆく夜の寒さが身に沁み渡った。
「小父さんも待っているだろう」
 もうこのくらいで引っ返してもよかろうと思って、長三郎は坂を降りた。もとの寺門前へ来かかった時に、彼は俄かに立ちどまって、口のうちであっと叫んだ。大きい白い蝶が闇のなかにひらひらと飛んでゆくのを見たのである。彼は眼を据えて、その行くえを見定めようとする間に、怪しい蝶の影は忽ち消えるように隠れてしまった。
 早くそれを小父さんに報告しようと、彼は足早に門前へ進み寄ったが、そこに伝兵衛のすがたは見いだされなかった。わたしの帰りの遅いのを待ちかねて、小父さんもどこへか出て行ったのかと、長三郎は暗い門前を見まわしているうちに、その足は何物にかつまずいた。それが人であるようにも思われたので、彼はひざまずいて探ってみると、それは確かに人であった。しかも大小をさしていた。
 長三郎ははっと思って慌てて其の人をかかえ起こした。
「小父さんですか。黒沼の小父さん。……小父さん」
 人はなんとも答えなかった。しかもそれが伝兵衛であるらしいことは、暗いなかにも大抵は推察されたので、長三郎はあわてて又呼びつづけた。
「小父さん……小父さん……。黒沼の小父さん」
 その声を聞き付けたらしく、どこからか提灯の火があらわれた。それは火の番の藤助である。彼は提灯をかざして近寄った。
「どうかなすったんですか」
「あかりを見せてくれ」と、長三郎は忙がわしく云った。
 その火に照らされた人は、まさしく黒沼伝兵衛であった。彼は刀の柄(つか)に手をかけたままで、息が絶えていた。慌てながらもさすがは武家の子である。長三郎は直ぐにその死骸をひきおこして身内(みうち)をあらためたが、どこにも斬り傷または打ち傷らしい痕も見いだされなかった。
「早く水を持って来てくれ」と、長三郎は藤助を見かえった。
 藤助は提灯をかざした儘で、唯だまって突っ立っているので、長三郎は焦(じ)れるように又云った。
「おい。この寺へ行って、早く水を貰って来てくれ」
「寺はもう寝てしまいましたよ」と、藤助はしずかに云った。
「それじゃあ井戸の水を汲んで来てくれ」
「水を飲ませたぐらいで、生き返るでしょうか」
「なんでもいいから、早く水を汲んで来い」と、長三郎は叱り付けるように叫んだ。
 藤助は無言で寺の門内にはいった。提灯は彼と共に去ってしまったので、門前はもとの闇にかえった。その暗いなかで、長三郎は黒沼の小父さんの死骸をかかえながら、半分は夢のような心持で、氷った土の上に小膝をついていた。
 その夢のような心持のなかでも、彼はかんがえた。小父さんが急病で仆(たお)れたので無いことは、刀の柄(つか)に手をかけているのを見ても判っている。小父さんは何物にか出会って、刀をぬく間もなしに仆(たお)れたのであろう。長三郎はかの白い蝶を思い出した。自分はたった今、こちらで怪しい蝶の影をみたのである。小父さんはかの蝶のために仆(たお)されたのではあるまいか。長三郎は一種の恐怖を感ずると共に、又一方にはおさえがたい憤怒(ふんぬ)が胸をついた。
「畜生、おぼえていろ」
 彼は肚(はら)のなかで叫びながらあたりの闇を睨んでいるとき、藤助の提灯の火が鬼火(おにび)のように又あらわれた。彼は片手に小さい手桶をさげている。
 血のめぐりが悪いのか、あるいは意地が悪いのか、こういう場合にも彼はさのみに慌てている様子もみせず、いつもの足取りで徐(しず)かに歩いて来るらしいのが、又もや長三郎を焦燥(いらだ)たせた。
「おい。早く……早く……」
 呶鳴り付けられても、彼はやはり騒ぎもせず、無言で門へ出て来ると、長三郎は引ったくるようにその手桶を受け取った。手桶に柄杓(ひしゃく)が添えてあるので、長三郎はその柄杓に水を汲んで、伝兵衛の口にそそぎ入れた。
「小父さん……小父さん……。しっかりして下さい」
 伝兵衛は答えなかった。柄杓の水も喉へは通らないらしかった。それが当然であると思っているかのように、藤助は黙って眺めていた。
「仕方がない。寺へ連れ込んで、医者を呼ぼう」と、長三郎は柄杓を投げ捨てながら云った。
 藤助はやはり無言で立っていた。どこかで梟(ふくろう)の声がきこえた。

     四

 黒沼伝兵衛の死骸は寺内へ運び込まれた。とかくに落ち着き顔をしている火の番の藤助を追い立てるように指図(さしず)して、長三郎は近所の医者を迎えにやった。近所といっても四、五丁距(はな)れているので、藤助は直ぐに帰って来ない。そのあいだに、寺僧も手伝って種々介抱に努めたが、伝兵衛の死骸は氷のように冷えて行くばかりであった。
「お気の毒なことでござるな」と、住職ももう諦めたように云った。
 長三郎は無言で溜め息をついた。飛んだことになってしまったと、今夜の企(くわだ)てを今さら悔むような心持になった。しかもそんな愚痴を云っている場合ではない。しょせん蘇生(そせい)の望みがないと諦めた以上、医者の来るのを待っているまでもなく、一刻も早く黒沼の家へ駈け付けて、この出来事を報告して来なければなるまいと思ったので、彼は死骸の番を寺僧に頼んで表へ出た。
 寺では提灯を貸してくれたので、長三郎はそれを振り照らして出たが、風が強いのと、あまりに慌てて駈け出した為に、寺の門を出てまだ三、四間も行き過ぎないうちに、提灯の火はふっと消えてしまった。また引っ返すのも面倒であるので、さきを急ぐ長三郎は暗いなかを足早に辿(たど)って行くと、どこから出て来たのか、突き当たらんばかりに、ひとりの男が小声で呼びかけた。
「あ、もし、もし……」
 不意に声をかけられて、長三郎はぎょっとして立ち停まったが、相手のすがたは闇につつまれて見えなかった。
「あのお侍さんは死にましたか」と、男は訊(き)いた。
 なんと答えていいかと、長三郎はすこし躊躇していると、男は重ねて云った。
「あのかたは何と仰しゃるんです」
 長三郎はこれにも答えることは出来なかった。黒沼伝兵衛が往来なかで訳のわからない横死(おうし)を遂げたなどと云うことが世間に洩れきこえると、あるいは家断絶というような大事になるかも知れないのであるから、迂闊(うかつ)な返事をすることは出来ない。殊に心の急(せ)いている折柄、こんな男に係り合っているのは迷惑でもあるので、彼は無愛想に答えた。
「そんなことは知らない」
「お若いかたですか」
「知らない、知らない」
 云い捨てて長三郎は又すたすたと歩き出すと、男は執念深く付いて来た。
「それから、あの……」
 まだ何か訊こうとするらしいので、長三郎は腹立たしくなった。それには云い知れない一種の不安も伴って、彼は無言で逃げるように駈け出した。暗闇を駈けて、音羽の大通りの角まで来ると、彼はまた何者にか突き当たった。
「瓜生さんの若旦那ですか」と、相手は声をかけた。
 それは藤助である。彼の持っている提灯も消えているらしい。
「医者は……」と、長三郎はすぐに訊いた。
「もう寝ているのを叩き起こしました。あとから参ります」
「じゃあ。頼むよ」
 長三郎はそのまま駈けつづけて、自分の組屋敷へ帰った。もうこうなっては親たちに隠して置くことは出来ない。あとでどんなに叱られるにしても、万事を正直に報告して置かなければならないと思ったので、彼は先ず自分の家へ立ち寄ると、父も母も意外の報告におどろかされた。父の長八は慌てて身支度をして伜と一緒に表へ飛び出した。
 二人はとなりの黒沼の門を叩くと、妻のお富も娘のお勝も玄関に出て来た。かれらも意外の報告におどろかされて、直ぐに其の場へ駈け付けることになった。主人のほかには男のない家(うち)であるから、お富とお勝が出て来た。
 男ふたりと女ふたり、四つの提灯の火は夜風にゆらめきながら、凍った道を急いで目白坂下へゆき着くと、彼等よりも先きに医者が来ていた。医者はもう蘇生の見込みはないと云った。
 しかし伝兵衛の死因は不明であった。身内になんの疵らしいものも見いだされず、さりとて急病ともおもわれず、まことに不思議の最期(さいご)であると、医者も首を傾(かし)げていた。刀に手をかけていたのを見ると、なにか怪しい物にでも出会って、異常の驚愕か恐怖のために心(しん)の臓を破ったのではあるまいかと、医者は覚束(おぼつか)なげに診断した。寺の住職も先ずそんなことであろうと云った。長八親子は途方に暮れたように歎息した。お富は泣き出した。
「さて、これからだ」
 長八は膝に手を置いて、その太眉を陰(くも)らせた。長三郎も薄々あやぶんでいた通り、これが表向きになると黒沼の家に疵が付かないとも限らない。死んだ者は余儀ないとしても、その家の跡目が立たないようでは困る。長八は差しあたりその善後策を考えなければならなかった。
 この時代の習いとして、こういう場合には本人の死を秘(かく)して、娘に急養子をする。そうして、まず養子縁組の届けをして置いて、それから更に本人急死の届けを出すことになる。一面から云えば、まことに見え透いた機関(からくり)ではあるが、組頭もその情を察して大抵はその養子に跡目相続を許可することになっている。今度の事件もその方法によって黒沼家の無事を図(はか)るのほかは無い。
「あとあとのこともいろいろござるに因って、今夜のことは何分御内分に……」
 と、長八は住職と医者に頼んだ。彼等もその事情を察しているので、異議なく承知した。
 医者は承知、寺の方も住職が承知した以上、他の僧らも口外する筈はあるまい。残るは火の番の藤助である。彼にも口留めをして置く必要があるので、長八は伜に云いつけて藤助を探させたが、その姿は見えなかった。
 寺の話によると、彼は医者を迎えに行ったままで帰らないと云う。彼は医者の門を叩いて急病人のあることを知らせ、その帰り途(みち)で長三郎に出逢ったことまでは判っているが、それから寺へも帰らずに何処へ行ってしまったのかと人々も少しく不審をいだいたが、この場合、その詮議に時を移してもいられないので、長八は住職と相談の上で近所の駕籠を呼ばせ、急病人の体(てい)にして伝兵衛の死骸を運び出すことにした。そうした秘密の処置を取るには、暗い夜更けが勿怪(もっけ)の仕合わせであった。
 これで先ず死骸の始末は付いたが、長八の一存で万事を取り計らうわけにも行かないので、彼は組じゅうでも特別に親しくしている四、五人に事情を打ち明けて、とりあえず急養子の手続きを取ることになった。
 前にも云う通り、黒沼の親戚の吉田幸右衛門というのは京橋の白魚河岸に住んで、白魚の御納屋に勤めている。その次男の幸之助はことし廿歳(はたち)で、行くゆくは黒沼の娘お勝の婿になるという内相談も出来ていたのであるから、この際早速にその縁組を取り結ぶことにした。勿論それについてお富にもお勝にも異存はなかった。吉田の家でも不慮の出来事におどろくと共に、当然の処置として幸之助の養子縁組をこころよく承諾した。
 すべての手続きはとどこおりなく運ばれて、黒沼の家には何のさわりもなく幸之助がその跡目を相続することになったので、関係者一同も先ずほっとした。伝兵衛の死も表向きは急死という届け出になっているのであるから、死骸の検視のことも無くて、そのまま菩提寺へ送られた。
 こうして、この奇怪なる事件も闇から闇へ葬られてしまったが、解けやらない疑いの雲は関係者の胸を鎖(とざ)していた。長三郎は飛んだことに係り合った為に、勿論その両親から厳しく叱られたが、今さら取り返しの付かないことである。それよりも気にかかるのはかの藤助の身の上で、万一その口から当夜の秘密を世間に拡められては面倒である。長八はその翌朝、長三郎を遣わして[#「遣わして」は底本では「遺わして」]藤助の在否をさぐらせたが、彼はゆうべから戻らないと云うので、むなしく引っ返して来た。
「どうもおかしいな」
 長八はきょうもそれを云い出した。伝兵衛の葬式(とむらい)を済ませた翌日の朝である。かの一件以来、寒い風が意地悪く毎日吹きつづけていたのであるが、けさはその風も吹きやんで俄かに春めいた空となった。長八が自慢で飼っている鶯も、朝から籠のなかで啼いていた。
「もう一度、行ってみましょうか」と、長三郎は父の顔色をうかがいながら云った。
「むむ。あの晩ぎりで、藤助のゆくえが知れないと云うのは、どう考えてもおかしい。あいつも殺されたのかな」
「さあ」と、長三郎もかんがえた。「殺されたのでしょうか」
「殺されたかも知れないぞ」
「それならば、どこからか死骸が出そうなものですが……」
「それもそうだな……。といって、仔細もなしに姿を隠す筈もあるまい。係り合いを恐れたかな」
 黒沼伝兵衛の横死について、自分もその場に居合わせた関係上、なにかの係り合いになることを恐れて逃げ去ったかとも思われるが、自分ひとりでなく、その場には長三郎も立ち会っていたのであるから、我が身に曇りのない申し開きは出来る筈である。女子供では無し、分別(ふんべつ)盛りの四十男がそれだけの事で姿を隠そうとも思われないが、案外の小胆者で唯一途(いちず)に恐怖を感じたのかも知れない。いずれにしても、もう一度詮議して置く必要があると、長八は思った。
「では、行って見て来い。やはり帰っていないようであったら、近所の者にも訊(き)いてみろ。だが、よく気をつけてこちらの秘密を覚られるなよ」
「承知しました」
 長三郎はすぐに表へ出てゆくと、一月末の空はいよいようららかに晴れて、護国寺の森のこずえは薄紅(うすあか)く霞んでいた。音羽の通りへ出ると、市川屋の職人源蔵に逢った。
「黒沼の旦那様は飛んだことでございましたね」と、源蔵は挨拶をした。
「丁度いい所でおまえに逢った。火の番の藤助はこの頃どうしているね」と、長三郎は何げなく訊いた。
「いや、それが不思議で、この廿日正月の晩から行くえが知れなくなってしまったのです。近所でも心配しているんですが、まだ判りません」
 火の番はいわゆる番太郎で、普通は自身番の隣りに住んで荒物屋などを開いているのであるが、この町の火の番は露路(ろじ)のなかに住んでいた。藤助も以前は表通りに小さい店を持っていたのであるが、三年前に女房に死に別れて、店のあきないをする者がなくなったので、町内の人々の諒解を得て、店は他人にゆずり自分は露路の奥に引っ込んで、やはり町内の雑用(ぞうよう)を勤めているのであった。
「藤助には娘があったね」と、長三郎は又訊いた。
「お冬という娘がございます」と、源蔵はうなずいた。「明けて十五で、人間もおとなしく、容貌(きりょう)もまんざらでないんですが、可哀そうに、子供の時に疱瘡(ほうそう)が眼に入ったもんですから、右の片眼が見えなくなってしまいました」
「その娘も心配しているだろうね」
「もちろん心配して、お神籤(みくじ)を引いたり、占(うらな)いに見て貰ったりしているんですが、どうもはっきりした事は判らないようです」
 これだけ聞けば、その上に詮議の仕様もないように思われたが、ともかくも藤助の家の様子を一応は見とどけて帰ろうと思い直して、長三郎はその案内をたのむと、源蔵は先きに立って自身番に近い露路のなかへはいった。長三郎もあとに付いて、昼でも薄暗いような露路の溝板(どぶいた)を踏んで行った。
 露路の入口は狭いが、奥には可なりに広いあき地があって、ここら特有の紙漉場(かみすきば)なども見えた。藤助の家にも小さい庭があって、桃の木が一本立っていた。
「ふうちゃん、居るかえ」
 源蔵は表から声をかけたが、内には返事が無かった。三度つづけて呼ぶうちに、その声を聞きつけて、裏の井戸端からお冬が濡れ手を前垂れで拭きながら出て来た。
 お冬は十五にしては大柄の方で、源蔵の云った通り、容貌はまず十人並み以上の色白の娘であった。右の眼に故障があるか無いかは、長三郎にはよく判らなかった。
「お父(とっ)さんのたよりはまだ知れないかえ」と、源蔵は縁に腰をかけて訊いた。
 お冬は無言で悲しそうにうなずいたが、源蔵のうしろに立っている前髪の侍をちらりと視たときに、彼女は慌てたように眼を伏せた。
「この若旦那は瓜生さんと仰しゃって、このあいだ亡(な)くなった黒沼さんのお屋敷の隣りにいらっしゃるのだ」と、源蔵はあらためて長三郎を紹介した。「お前のお父さんに逢って、なにか訊きたいことがあると云うので、ここへ御案内して来たんだが、お父さんがまだ帰らねえじゃあ仕様がねえな」
 お冬はやはり俯向(うつむ)いて黙っていた。藪うぐいすか籠の鶯か、ここでも遠く啼く声がきこえた。江戸といっても、ここらの春はのどかである。紙漉場の空地(あきち)には、子どもの小さい凧が一つあがっていた。それを見かえりながら、源蔵は又云い出した。
「だが、まあ、そのうちにはなんとか判るだろう。神隠しに逢ったにしても、大抵は十日か半月で帰って来るものだ。あんまり苦(く)にしねえがいい」
 こんなひと通りの気休めで満足したかどうだか知らないが、お冬はやはり黙っていた。そうして時々、若い侍の顔をぬすみ視ているらしいのが源蔵の注意をひいた。
「ふうちゃん。煙草の火はねえかえ」
 お冬は気がついたように立ち上がって、煙草盆に消し炭の火を入れて来ると、源蔵は腰から筒ざしの煙草入れを取り出して、一服喫(す)いはじめた。

     五

 ともかく藤助一家の様子を見届けて、もう此の上に詮議の仕様もないと思い切った長三郎は、源蔵を眼でうながして行きかかると、源蔵も早々に煙草入れをしまって立ち上がった。
「じゃあ、ふうちゃん、又来るからな」
 お冬はやはり無言で会釈(えしゃく)した。唖でも無いのになぜ終始黙っているのかと、長三郎はすこし不審に思ったが、深くも気に留めずに表へ出ると、源蔵もつづいて出て来た。
「まったくあの娘も可哀そうですよ」
「そうだな」と、長三郎も同情するように云った。
「なにかまだほかに御用は……」と、源蔵は訊いた。
「いや、わたしももう帰る。忙がしいところを気の毒だったな」
「いえ、なに……。わたくし共の店も此の頃は閑(ひま)ですから、毎日ぶらぶら遊んでいます。忙がしいのは暮の内で、正月になると仕事はありません」
「そうだろうな」
 云いかけて、ふと見かえると、露路の入口にはお冬が立っていた。
 彼女は濡れた前垂れの端(はし)を口にくわえながら、その片眼に何かの意味を含んでいるように、こちらをじっと窺っているらしかった。源蔵も気がついて見返ったが、別になんにも云わなかった。二人が道のまん中で別れるのを、お冬は暫く見送っていたが、やがて足早に引っ返して露路へはいった。
 長三郎は家(うち)へ帰って、ありのままに報告すると、父の長八は唯だまってうなずいていた。この上は藤助が果たして何者かに殺されたのか、あるいは無事に何処からか現われて来るか、自然にその消息の知れるのを待つほかは無かった。長八は伜に注意して、今後も油断なく藤助の安否を探れと云い聞かせて置いた。
 ことし十五歳で、まだ部屋住みの長三郎は、玄関に近い三畳の狭い部屋に机を控えていた。父の前をさがって、自分の部屋に帰って、彼は再び藤助の身の上について考えた。
 藤助は生きているか、死んでしまったか。それにつけて思い出されるのは、当夜の彼の行動である。自分の近所に住んでいる御賄組の武士(さむらい)が怪しい変死を遂げたのを見て、火の番の彼は当然おどろき騒ぐべき筈であるのに、案外に彼は落ち着いていた。落ち着いていたと云うよりも、むしろ冷淡であるようにも見えた。長三郎が焦(じ)れて指図するので、彼はよんどころ無しに働いているようにも見えた。これには何かの仔細があるのではないかと、長三郎は考えた。
 彼は長三郎に追い立てられて、渋々ながら医者を呼びに行った。その帰り路にゆくえ不明となったのである。そのほかにも、暗いなかで長三郎に突き当たって、声をかけた者がある。彼は何者であろうか。心が急(せ)くので碌々に返事もせずに別れてしまったが、彼もこの事件に何かの関係のある者ではあるまいか。あるいは彼が藤助を捕えて行ったのか、あるいは藤助を殺して、その死骸をどこへか隠したのかと、長三郎はまた考えた。しかも暗がりの出来事であるから、その相手の人相や風俗はちっとも判らなかった。
 黒沼伝兵衛の死――藤助のゆくえ不明――暗がりの怪しい男――この三つを一つに結びつけていろいろ考えたが、何分にも世故(せこ)の経験に乏しい長三郎の頭脳(あたま)では、その謎を解くべき端緒(たんちょ)を見いだし得なかった。
 ひる過ぎになって、となり屋敷の黒沼幸之助が来た。
「このたびは一方(ひとかた)ならぬ御厄介に相成りまして、なんともお礼の申し上げようもございません」と、彼は長八に対して丁寧に挨拶した。
 同じ組の者は他に幾人もあるが、瓜生家とは隣り同士でもあり、多年特別に懇意にしていた関係上、今度の一件について長八が最も尽力したのは事実であった。
「いや、あなたこそ何かとお疲れでしたろう」と、長八も会釈した。
 どこの家でも葬式などは面倒なものである。まして急養子の身の上で、家内の勝手もわからず、組内の人々の顔さえも碌々に知らない幸之助が、一倍の気苦労をしたことはよく察せられるので、長八もその点には同情していた。お疲れでしたと云う言葉も、形式一遍の挨拶ではなかった。
「ありがとうございます。おかげさまで、どうにかとどこおりなく片付きました」と、幸之助はふたたび挨拶をした。
「そこで、御新造は……」
「まだ臥(ふ)せって居ります」
 お勝は病中であるにも拘らず、父の急変におどろかされて、母と共に現場へ駈け着けたばかりか、その翌日も無理に起きていたので、病気はいよいよ重くなった。彼女は母のお富と、新らしい婿の幸之助とに看病されて、その後も床に就いているのである。彼女は父の葬式に列(つら)なることも出来なかった。
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