籠釣瓶
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著者名:岡本綺堂 

お前さんのことだから、どれほどの悪いことをした訳でもあるまいに、長年(ちょうねん)の奉公人をむやみに勘当するというのは……」と、亭主は次郎左衛門の無情を罵るように言った。「いや、これもわしが至らねえからでごぜえますよ」 治六はゆうべの吉原の一条を話した。それを聴いて亭主はいよいよ気の毒になった。八橋の身請けのことも元来自分が知恵をつけたのである。それがもとで治六が勘当されるようなことになっては、いよいよ黙って見ている訳には行かなくなった。しかし今が今といってはどうにもならないのを知っているので、いずれそのうちにいい折りを見てもう一度詫びを入れてやろう。これが一季半季の渡り奉公というではなし、児飼いから馴染みの深い奉公人である。一旦は腹立ちまぎれに何と言おうとも時が過ぎれば機嫌が直るに相違ない。まずそれまでおとなしく待っている方がよかろうと、亭主は親切に治六をなだめた。「ここの家(うち)に置くのは訳もないが、主人から勘当されたお前さんをそのまま泊めて置くというのは、旦那に楯を突くようでどうも穏やかでない。ともかくも近所の宿屋へ引き取って、二、三日待っていてもらいたい」 それも一応は尤(もっと)もにきこえるので、治六は素直に承知して佐野屋を引き払うことにした。出る時にもう一度二階へ行って、しきい越しにしおしお[#「しおしお」に傍点]と手をついた。「旦那さま。長々お世話になりました」 次郎左衛門は返事もしなかった。     七 治六が心配するまでもなく、これから先きをどうするかということは、次郎左衛門の胸を強くおしつけている問題であった。治六や佐野屋の亭主は、金のあるうちにどうにかしろと言うけれども、次郎左衛門はそれと反対に、金のあるうちはどうすることも出来ないと思っていた。彼は同時に二つの仕事を抱えるほどの余裕をもたなかった。金のあるあいだは八橋に逢うのが唯一(ゆいいつ)の仕事で、とてもほかの仕事に取りかかれそうもなかった。金のあるあいだは何を考えても無駄なことだと、彼は自分で見切りを付けていた。 その金がいよいよなくなったらどうする――その時になったら初めてなんとか考えよう、又なんとかいい考えも出るだろうと、彼は努めてなんにも考えないようにしていた。「治六の馬鹿野郎」 それにつけても腹立たしいのはゆうべの治六であった。八橋を身請けするほどならば、あいつらの知恵を借りるまでもなく、おれが自分から進んで立派に身請けをする。それがもう出来ないのを知っているから、今もこうして通いつづけている。その入り訳はきのうも宿で言い聞かせてあるのに、うっかりと詰まらないことを浮橋に言い出して、それが八橋の耳へもはいって、おれはいい恥を掻かなければならない事になった。佐野の大尽ともあるべき者が、多寡(たか)が四百両や五百両で大兵庫屋の花魁を請け出そうとした――そんなことが世間へきこえたら廓じゅうの笑い草になる。自分ばかりではない、八橋の恥にもなる。それを思うと、彼は胸が煮え返るように腹立たしかった。「一年まえのおれだったら、治六の奴め、生かして置くものか」と、彼はいきまいた。 まったく一年まえの彼であったら、憎い治六の襟髪を掴(つか)んで、大道(だいどう)へ引き摺り出して踏み殺すか。又は身を放さない村正の一刀を引き抜いて、彼をまっ二つに断ちはなすか。二つに一つの成敗(せいばい)を猶予するような次郎左衛門ではなかった。十両の金をくれて長(なが)の暇(いとま)は、この主人としては勿体ないほどに有難い慈悲の捌(さば)きであった。 もうこうなったら男の意地としても、彼は八橋を請け出さなければ顔が立たないように思われた。いかにあせってもその金はもう出来ないと思うと、次郎左衛門はなんだか悲しくなった。現にゆうべも八橋から、身請けをするならばするようにしてくれと口説かれた。自分もこんな所に永くいたいことはない。まったく自分を請け出してくれる料簡があるならば、たとい立派というほどでなくとも、人並の引祝いをして廓を出られるようにしてくれと、彼女はしみじみ言った。 これには次郎左衛門も返事に困った。今の身の上でとてもそんなことの出来そうな筈はないので、彼もなま返事をしてその場はいい加減に切り抜けたが、これも畢竟(ひっきょう)は治六の奴めが詰まらないことをしゃべったからである。彼はどう考えても治六が憎かった。 日が暮れると、彼はふらふら[#「ふらふら」に傍点]と宿を出た。今夜は駕籠に乗らずに北をむいて歩いた。憎い奴だとは思いながらも、治六に離れて彼は心さびしかった。並木の通りには宵の灯がちらちら[#「ちらちら」に傍点]と揺れて、二十五日の暗い空は正面の観音堂の甍(いらか)の上に落ちかかるように垂れていた。風のない夜であったが、人のからだは霜を浴びているように寒かった。近いうちに雪が降るかも知れないと次郎左衛門は思った。「吉原へ行こうか、行くまいか」と、彼は立ち停まって思案した。雷門はもう眼の前に立っていた。 今夜行ったら八橋がまたゆうべの身請け話をくりかえすかも知れない。いつもいつも曖昧な返事ばかりもしていられない。治六のお蔭で自分はどうにもこうにもならないことになった。いっそ正直に今の身の上を打明けて、とても人並の身請けなどはできないと断わろうか。それが潔白で一番いいのであるが、それを聴いて八橋がなんと思うか、次郎左衛門はすこぶる不安心であった。彼は八橋にこんなことを聞かせたくなかった。ふところに金のある間は、なるべく佐野の大尽で押し通していたかった。 彼は酒が飲みたくなった。今夜は宿屋で夕飯の膳に徳利(とくり)の乗っていないのを発見したが、彼は酒を持って来いとも言わなかった。宿の亭主もなんだか治六の味方をしているらしいのが、彼の癪にさわっていたからであった。どこへ行っても酒は飲めると、彼は碌々(ろくろく)に飯も食わずに宿を飛び出してしまったのであった。吉原へ行けばなんでも勝手なものが食える――それを知りながら彼は並木通りの小さな茶漬屋の暖簾(のれん)をくぐった。吉原へ行こうか、行くまいか、分別がまだ確かに決まらないからであった。 田楽豆腐と香の物で彼はさびしく酒を飲んでいた。今夜に限って、吉原へ行くのがなんだか気が進まなかった。八橋から又ぞろ身請け話を持ち出されるのが何分つらいからであった。「おれは男らしくない」 こう思いながらも、彼は八橋の前で何もかも男らしく白状する勇気がなかった。八橋がどれほどに自分を思っていてくれるか、実はその見当がはっきり付いていないからであった。八橋は自分を嫌っていないものと彼は信じていた。しかしどれほどに自分を愛しているか、その寸法を測るべき物指しを彼はもっていなかった。自分が故郷を立ち退いて、今は一種の無宿者同様になっていることを知ったあかつきに、八橋はどんな態度を取るか。それは彼にも確かな想像はつかなかった。 もし八橋が心底(しんそこ)から自分を思っていてくれるとしたら、彼は今更こんなことを言い出して、彼女の心を傷つけるに忍びなかった。もし又それほどに自分を思っていないとしたら、なまじいのことを言い出して、彼女の冷たい心の底を見せつけられるのも怖ろしかった。彼は男らしくないということを十分に意識していながらも、八橋に対しては、どうしても男らしい態度を取り得なかった。 今夜は酒を飲んでもいい心持ちに酔えなかった。ほかに二、三人の客がはいって来て、何かいそがしそうに話していたが、それも次郎左衛門の耳へははいらなかった。彼は自分でも不思議なくらいに今夜は寂しく感じた。それはなぜだか判らなかった。 彼は子供の時のことをふと思い出した。それは歳暮にでも持って行くらしい紙鳶(たこ)をぶらさげた職人の客がはいって来たからであった。彼は故郷の広い野原で紙鳶をあげた昔の春がそぞろに恋しくなった。その頃の喧嘩友達の名なども急に思い出された。「治六がいなくなったせいではない」 しいてそう思いながらも、やはり治六に離れたのが寂しかった。宿の亭主も自分の味方ではないらしかった。そんなことを考えると、彼は我ながら意気地がないと思うほどに寂しかった。いつもの彼の魂はどこへか抜け出してしまったように思われた。碌に酔いもしないで茶漬屋を出た彼は、これからどうしようかとまた迷った。吉原へ行くのはどうも気おくれがした。さりとてこのまま宿屋へ帰る気にもなれなかった。彼はただ無暗に寂しかった。この遣る瀬ない寂しさを打ち消すには、理屈も人情もない、なにか非常手段を取らなければならないように思われた。「栄之丞の所へ行って見ようか」 八橋の情夫(おとこ)という宝生栄之丞に逢って、八橋が身請けのことを掛け合って見たいような気になって、彼はまっすぐに大音寺前の方へ足を向けた。田舎みちに馴れている彼は、暗い田圃(たんぼ)を行くのはさのみ苦にもならなかった。彼はまばらな星明かりを頼りにして、方角をよく知らない田圃みちをさまよいながら、どうにかこうにか大音寺前まで辿(たど)って行った。     八 思いもつかない客におそわれて、栄之丞はどぎまぎしながら挨拶した。「こんな所がよくお判りになりました」「ここらだろうと思ってうろうろしていると、お前さんらしい謡(うた)いの声がきこえましたので……」と、次郎左衛門は笑いながら坐った。 栄之丞も無理に笑顔を粧(つく)った。「お独りですか」と、彼はまた訊いた。「妹がおりましたが、一両日前にほかへやりました」と、栄之丞は火鉢に粉炭(こなずみ)をつぎながら答えた。「おかたづきになりましたか」「いえ、奉公に出しまして……」と、栄之丞はきまりが悪そうにうつむいた。 思ったよりも侘びしげな暮らしの有様を見て、次郎左衛門は可哀そうになった。大兵庫屋の八橋の情夫はこんなにおちぶれているのかと思うと、彼は可哀そうを通り越して、栄之丞を軽蔑するような心持ちの方が強くなって来た。自分の従弟――八橋はそう言っている――が不自由な暮らしをしているという事は、かねて彼女からも聞かされていたが、まさかこれ程とは思っていなかった。 かすかな火種では容易に火が起らないらしく、栄之丞は破れた扇で頻(しき)りに炭を煽いでいた。「こっちへ来たらば、一度はお訪ね申そうと思いながら、いつも御無沙汰をしていました。八橋に聞きましたら、この頃はちっとも廓(なか)の方へもお出でがないそうで……」 栄之丞は蒼白い顔を少し紅くした。次郎左衛門が今夜なにしに来たのか、彼は一種の不安に囚われて碌々に返事もできなかった。「私はこのあいだ雷門でお目にかかってから、ゆうべまで続けて八橋の所へまいりました」と、次郎左衛門はにこにこ[#「にこにこ」に傍点]しながら言い出した。「今夜も行こうかと思って宿を出ましたが、途中でなんだか寂しくなったので、ふい[#「ふい」に傍点]とこちらへ伺おうと思い立ちました」 吉原へ行くのがなぜさびしいか、それは栄之丞には判らなかった。彼は黙っておとなしく聴いていた。「奉公人が詰まらないことをしゃべったもんですから、八橋はわたくしに身請けをしてくれと言うのです」 八橋と自分との仲をうすうす覚った彼は、八橋を請け出すについて後日(ごにち)の苦情のないように縁切りの掛け合いに来たのであろうと、栄之丞は推量した。近頃はなるべく八橋と遠ざかるように心がけてはいたものの、彼女が自分には一言の相談もなしに次郎左衛門と身請けの話をすすめているかと思うと、栄之丞は決していい心持ちがしなかった。彼は火をあおいでいる扇の手を休めて、客の方に向き直った。「ですが、わたくしに請け出されたら、栄之丞さん、八橋はお前さんをどうする気でしょう。いや、お隠しなさるには及びません。お前さんと八橋のことはもう知っています。それでも私はお前さんを正直な善い人だと思っています。わたくしはお前さんと喧嘩をする気にはなれない。いつまでも仲好くおつきあいをしていたいと思っている位です。そこで、お前さんに少し御相談があるんですが、聞いて下さいましょうか」 いよいよ本文(ほんもん)にはいって来たなと栄之丞は思った。そうして、胸のうちでその返事の仕様をあれかこれかと臆病らしく考えていた。「実はわたくしには身請けの金がないのです」と、次郎左衛門は思い切って言った。 少し拍子抜けがした気味で、栄之丞は相手の顔をぼんやりと眺めていた。「わたくしはもう昔の次郎左衛門ではございません」 身代をつぶして故郷の佐野を立ち退いて来たことを彼は残らず打明けた。 そこで、ふところに金のある間は今までの通りに華やかな遊びをして、金がなくなったら又なんとか考えようと、たった今までは平気で落ち着いていたが、なんだか急に心寂しくなって、どうもこの儘(まま)ではいられないような不安な心持ちになって来た。といって、わたくしが八橋を請け出すことになれば、どうしても千両以上の金がいる。その金はない。しかしお前さんから八橋に話をして、お前さんが請け出すという事になれば、親許身請けとでも何とでも名をつけて、その半額か或いは五百両下(した)で埒が明くことと思われる。わたくしは今ここに遣い残りの金を六百五十両ほど持っているから、みんなそれをお前さんに差し上げる。お前さんの掛け合い次第で、五百両で身請けができれば百五十両、四百両で話がまとまれば、二百五十両、その残りの金はみんなお前さんに差し上げるから、どうか八橋と縁を切ってもらいたい。むかしの次郎左衛門ならば、そんなさもしいことは言わない。千両箱を積んで八橋を請け出して、お前さんの眼の前にも手切れ金の四百両、五百両をならべて見せるが、それが出来ない今の身の上となっては、こんな手前勝手なことを言うよりほかはない。どうか悪しからず思ってくれと、彼は頼むように言った。 次郎左衛門が自分にむかってこんなことを言い出すのはよくよくのことであろうと、栄之丞は気の毒でもあり、薄気味悪くもなって来た。実をいえば、自分も八橋を次郎左衛門に譲り渡して、その係り合いをぬけたいと考えている折柄であるから、八橋さえ納得すればそうしてもいいと彼は素直に考えた。たとい多少の不満足があるとしても、この場合、彼は眼のまえで次郎左衛門に反抗する力はなかった。 そこで、彼はこう答えた。「お話はよく判りました。出来ることやら出来ないことやら確かには判りませんが、身請けの儀は早速相談いたして見ましょう。但しその余分の金は、いかほどであろうとも手前が頂戴いたすわけには参りませんから、それは前もってお断わり申しておきます」「ごもっともでございます。それはその時に又あらためて御相談をいたしましょう。まことに我儘(わがまま)なことばかり申し上げて相済みません」 まったく我儘な申し分であった。自分が身請けをしたいのであるが、それだけの金がないから、お前の方から金のかからないように請け出してくれ。そうして、女はこっちへ渡せというのである。それも本当の親兄弟か親類ならば格別、その女の情夫ということを承知の上で頼むのである。栄之丞としては見くびられたとも貶(おと)しめられたとも、言いようのない侮蔑(ぶべつ)を蒙(こうむ)ったように感じた。 それでも彼は争わなかった。争っても勝てないのを自覚しているのと、これまでこの人を欺(だま)していたのが、なんだか怖ろしいようにも思われるのと、この二つが彼の不満をおさえ付けて、容易に頭をもたげさせなかった。彼は忠実な奴僕(しもべ)のように次郎左衛門の前にひれ伏してしまった。 浅草寺(せんそうじ)の五つ(午後八時)の鐘を聴いてから、次郎左衛門は暇を告げて出た。出るとやはり吉原が恋しくなった。 彼は大音寺前の細い路をつたって、堤(どて)の方へ暗いなかを急いで行った。 威勢のいい四手(よつで)駕籠が次郎左衛門を追い越して飛んで行った。その提灯の灯が七、八間も行き過ぎたと思う頃に、足早に次郎左衛門の後をつけて来た者があった。と思うと、抜打ちの太刀風に彼は早くも身をかわした。武芸の心得のある彼は路ばたの立ち木をうしろにして、闇(やみ)を睨んで叫んだ。「人違いでございましょう」 まったく人違いであったのか、あるいはこっちに心得があると思ったためか、相手は無言で刃(やいば)を引いて、もと来た方へ一散に駈けて行ってしまった。     九 次郎左衛門を驚かしたのは、そのころ折りおりに行なわれる辻斬りであった。意趣(いしゅ)も遺恨(いこん)もない通りがかりの人間を斬り倒して、刀の斬れ味を試すという乱暴な侍のいたずらであった。一刀で斬り損じるか、もしくは相手が少し手ごわいと見れば、すぐに刃を引いて逃げるのが彼等の習いであった、次郎左衛門もそれを知っていた。「辻斬りか、栄之丞か」 彼は立ち停まって考えた。しかし場合が場合だけに、彼は栄之丞を疑った。うわべは素直に何もかも承知しておいて、あとから付けて来ておれを闇撃(やみう)ちにする――どうもそれらしく思われてならなかった。 もともと今夜の相談は自分の方が少し無理である。無理は自分も万々承知している。しかし無理ならば無理で、なぜ面とむかって不承知を言わない。おとなしそうな顔をして万事呑み込んでおきながら、暗い所でおれを亡(な)い者にしようとする。どう考えても面白くない奴だ。弱い奴だ、卑怯な奴だ、憎い奴だと、次郎左衛門は腹立たしくなった。「よし、これからもう一度引っ返して行って、あいつの素(そ)っ首を叩き落してやろう」 彼はむらむら[#「むらむら」に傍点]として、ふた足三足行きかけたが又かんがえた。あんな意気地のない奴でも人ひとりを殺せば、こっちも罪をきなければならない。罪人になったら八橋にも、もう逢えまい。こう思うと彼の張り詰めた気もまたくじけた。忌々(いまいま)しいが我慢する方が無事であろう、打っちゃって置いたところで、あんな意気地なしがこの後なにをなし得るものでもないと、彼は多寡をくくって胸をさすった。 真っ暗な枯れ田の上を雁が啼(な)いて通った。ここらへ来ると、夜風が真っ北から吹きおろして来て、次郎左衛門は顫(ふる)えあがるほど寒くなった。つい目の前の廓では二挺鼓(にちょうつづみ)の音が賑やかにきこえた。次郎左衛門はもう何も考えずに、まっすぐに吉原の方へむいて行った。 いつもの通りに立花屋から送られて、彼は兵庫屋の客となった。その晩、座敷が引けてから次郎左衛門は八橋になにげなく訊いた。「栄之丞さんはこの頃ちっとも見えないのか」「ちっともたよりはありんせん」と、八橋は冷やかに答えた。「なぜだろう」「なぜか知りんせんが、あんな不実な人はどうなっても構いいせん」と、八橋はさらに罵(ののし)るように言った。 親身の従弟(いとこ)と思えばこそ、自分もこれまでに随分面倒も見てやった。それにこの頃は何のたよりもしない、顔も見せない。あんな不人情な人はどうなっても構わない、一生逢わないでも構わないと、八橋はさもさも見限ったように言った。嘘とほんとうが半分ずつまじっているこの話を、次郎左衛門は一種の興味をもって聴いていた。 それからだんだん捜(さぐ)りを入れて見ると、八橋はまったく栄之丞に愛想をつかしているらしく思われた。あんな不実な奴はどうなっても構わないと、本当に思っているらしかった。 そこへ新造の浮橋が来て、今夜はどうして治六を連れて来ないかと訊いた。あいつは勘当したと次郎左衛門は正直に答えると、二人の女は黙って顔を見合せていた。治六の噂がいとぐちになって、又ぞろゆうべの身請けの話が出た。「三月になると国へ一度帰る。そうして、金を持って来るから待ってくれ」 次郎左衛門もよんどころなしに一時のがれの嘘を言った。浮橋が出て行ったあとで、八橋は急に泣き出した。「堪忍しておくんなんし」 今までお前を欺していたが、栄之丞は自分の従弟(いとこ)ではない、実は自分の情夫(おとこ)であるということを、八橋は泣いて白状した。いくらこっちでばかり親切を運んでも、むこうではなんとも思ってくれないで、この頃はなるたけ逃げようとしている。現に達者で雷門を歩いていながら、病気だといって廓へは寄り付かない。そんな不人情な男はわたしもすっぱりと思い切った。あきらめてしまった。さてそうなると、こうして廓にいてもなんの望みもない、楽しみもない、一日も早く苦界(くがい)をぬけたい。今のわたしが杖柱(つえはしら)と取りすがるのは、お前ばかりである。一つには不実な男の顔を見返すためと、二つには廓の苦を逃がれるために、どうぞわたしを請け出してくれと、彼女は繰り返して頼んだ。「今まで欺していたのが憎いと思いんすなら、請け出して三日でも女房にした上で、突くとも斬るとも勝手にしておくんなんし」 彼女は次郎左衛門の前にからだを投げ出した。栄之丞のことはとうの昔から承知しているので、今この白状を聴いても次郎左衛門は別に驚きもしなかった。むしろ八橋の口からこの正直な白状を聴いたのをこころよく思った。よく白状してくれたと嬉しく思った。しかも悲しいことには、今の自分にはその願いを肯(き)き入れるだけの力がない。千両に足りない金で八橋のからだをどうすることも出来ないのは判り切っていた。「八橋も白状した。おれも男らしく白状しようか」 相手が正直に何もかも白状した上は、自分も今の身の上を正直に白状すべきである。折角の頼みではあるが、今の次郎左衛門としてはお前をどうすることも出来ないと、彼は正直に打明けなければならないと思った。しかし彼は自分でも歯がゆいほどに男らしくなかった。女の前で宿なし同様の今の身分を明かすのは如何にも辛かった。彼の胸の底には、やはり佐野のお大尽で押し通していたいという果敢(はか)ない虚栄(みえ)があった。「治六がゆうべどんなことを言ったのだ」と、彼はまた捜りを入れた。 あるいは無考えの治六めが今の境界をべらべらしゃべっているのではないかという不安もあった。八橋の口ぶりによると、治六もさすがにそんなことは口外しなかったらしく思われたので、次郎左衛門もまず安心したが、それにしても乗りかかった舟の楫(かじ)を右へも左へも向けることは出来なかった。彼はどこまでも嘘で押し通すよりほかはないので、苦しいながらも前の誓い――偽りの誓いをまた繰り返した。「さっきもいう通り、来年の三月には国へ帰って身請けの金を持って来る」「ほんとうざますか」「嘘はつかない」 次郎左衛門は息が詰まるほどに苦しくなった。今までは八橋が自分をだましていたのであるが、今は自分が八橋をだましているのである。だまされている身よりも、だましている身の方がどのくらい切(せつ)ないか判らないと、彼はつくづく情けなくなった。彼は夜の明けないうちに逃げ出したくなって来た。 八橋の方では容易に帰そうとはしなかった。彼女は全く栄之丞を見捨てた証拠だといって、掛守(かけまもり)の中から男の起請(きしょう)を出して見せた。「この通り、よく見ておくんなんし」 彼女はその起請をずたずた[#「ずたずた」に傍点]に引き裂いて、行燈の火にあてると、紅い小さい焔がへらへら[#「へらへら」に傍点]と燃えあがった。彼女は更にその火を枕もとの手あぶりに投げ込むと、焔(ほのお)はぱっと大きく燃えて、見る見るうちに薄白い灰となった。 恋の果てはこうしたものかと思うと、次郎左衛門はなんだか果敢ないような心持ちにもなった。それと同時に子供が蟻(あり)やみみずを踏み殺した時のような、一種の残忍な愉快と誇りを感じた。弱い栄之丞はおれの足の下に踏みにじられてしまったのだと思った。 その灰の中から栄之丞の蒼白い顔が浮き出したかのように、八橋は眼を据えて煙りのゆくえをじっと見つめていた。彼女の顔も物凄いほどに蒼白かった。やがて彼女は次郎左衛門の方をしずかに見かえった。二人は黙ってほほえんだ。 あくる朝、次郎左衛門が帰る時にも、八橋は茶屋まで送って来て、身請けのことをくれぐれも頼んだ。「ほんとうざますか」と、彼女はここでも念を押した。「嘘はつかない」と、次郎左衛門も同じ誓いをくりかえして別れた。 仲の町には冬の霜が一面に白かった。次郎左衛門を乗せた駕籠が大門(おおもん)を出ると、枝ばかりの見返り柳が師走の朝風に痩せた影をふるわせていた。垂れをおろしている駕籠の中も寒かった。茶屋で一杯飲んだ朝酒ももう醒めて、次郎左衛門は幾たびか身ぶるいした。 初めから相手に足らないやつとは思っていたが、それでも栄之丞を見事に蹴倒してしまったということは、次郎左衛門に言い知れぬ満足を与えた。ゆうべの闇撃(やみう)ち以来、にわかに栄之丞を憎むようになった彼に取っては、殊にそれがこころよく感じられた。八橋が栄之丞を見限ったということが嬉しかった。「八橋はもうおれの物ときまった」 それに付けても、彼は八橋を欺(あざむ)いているのが気にかかった。いっそこれから廓へ引っ返して、自分が今の境遇をあからさまに打明けようかとも思ったが、彼はやはり臆病であった。いよいよどん底へ落ちるまでは、あくまでも嘘をつき通していたかった。その三月が来たらどうする。その三月が来るまでに、ふところの金がもう尽きてしまったらどうする。次郎左衛門は努めてそんなことを考えまいとしていた。 栄之丞を弱いやつだと笑ったおれも、やっぱり弱い奴であった。栄之丞を卑怯な奴だと罵ったおれも、やっぱり卑怯者であった。そう思いながらも、彼は自分を自分でどうすることも出来なかった。歯がゆいような、情けないような、辛いような、こぐらかった思いに責められて、彼は一人でいらいら[#「いらいら」に傍点]していた。 次郎左衛門はその後も八橋のところに入りびたっていた。暮れから春の七草までに彼は四百両あまりの金を振り撒いてしまった。どこまでも佐野のお大尽で押し通そうという見得(みえ)が手伝って、彼はむやみに金をつかった。自分の内幕を八橋に覚られまいという懸念から、彼はいつもよりも金づかいをあらくして見せた。ほかの客はみんな蹴散らされた。 栄之丞は踏みつぶしてしまった。ほかの客は蹴散らしてしまった。次郎左衛門は今が得意の絶頂であった。彼は天下を取った将軍のようにも感じた。しかもその肚(はら)の底には抑え切れない寂しさがひしひしと迫って来た。 芸妓や幇間(たいこ)が囃(はや)し立てて、兵庫屋の二階じゅうが崩れるような騒ぎのあいだにも、彼はときどきに涙ぐまれるほど寂しいことがあった。治六のことが思い出されたりした。元日から七草まで流連(いつづけ)をして、八日の午(ひる)頃に初めて馬喰町の宿へ帰ると、治六は帳場の前に坐って亭主と話していた。「旦那さま。おめでとうござります」 治六はもとの主人の前にうやうやしく手をついた。「お帰んなさいまし」と、亭主も会釈した。 それらを耳にも掛けないように、次郎左衛門は二階へすたすた[#「すたすた」に傍点]昇って行った。 さすがに遊び疲れたような心持ちで次郎左衛門はぼんやりと角火鉢の前に坐ると、亭主は自分で土瓶(どびん)と茶碗とを運んで来た。「松の内もいいあんばいにお天気がつづきました」 彼は手ずから茶をついで出した。それは治六が帰参の訴訟に来たものと次郎左衛門も直ぐにさとった。彼はわざと苦(にが)い顔をして黙っていると、果たして亭主はそれを言い出した。「治六さんもしきりに頼んでおります。わたくしも共どもにお詫びをいたしますから、どうか幾重にも御料簡を……」 次郎左衛門は顔をそむけて聴かないふうをしていた。離れていると何だか寂しいようにも思いながら、顔を見ると彼はやっぱり治六が憎くてならなかった。     十 暮れから催していた雪ぞらも、春になってすっかり持ち直したが、それも七草(ななくさ)を過ぎる頃からまた陰(くも)った日がつづいて、藪入り前の十四日にはとうとう細かい雪の花をちらちら見せた。「今夜も積もるかな」 栄之丞は夕方の空を仰いで、独りごとを言いながらよそ行きの支度をした。今夜は謡いの出稽古(でげいこ)の日にあたるので、これから例の堀田原へ出向かなければならなかった。本来は一六(いちろく)の稽古日であるが、この十一日は具足開(ぐそくびら)きのために、三日後の今夜に繰り延べられたのであった。 春とはいっても底冷えのする日で、おまけに雪さえ落ちて来たので、遠くもない堀田原まで行くのさえ気が進まなかったが、約束の稽古日をはずす訳にもゆかないので、栄之丞はいつもよりも早目に夕飯をしまって、一張羅(いっちょうら)の黒紬(くろつむぎ)の羽織を引っ掛けた。田圃は寒かろうと古い頭巾(ずきん)をかぶった。妹がいなくなってから、独り者の気楽さと不自由さとを一つに味わった彼は、火鉢の火をうずめて、窓を閉めて、雨戸を引き寄せて、雨傘を片手に門(かど)を出ようとすると、出合いがしらに呼びかけられた。「兄(にい)さま」 傘も持たないで門に立ったのは妹のお光であった。雪はますます強くなって来たらしく、彼女の総身は雪女のように真っ白に塗られていた。「妹か。今頃どうして来た」 門に立ってもいられないので、栄之丞はともかくも再び内へ引っ返すと、お光もからだの雪を払ってはいって来た。家の中はもう暗かった。「兄さま」と、お光は重ねて兄を呼んだ。その声の怪しく顫(ふる)えているのが栄之丞の耳についた。「なんだ」 少し不安にもなって来たので、彼は行燈をまんなかに持ち出して灯をとぼした。その灯に照らされた妹の顔は真っ蒼であった。髪もむごたらしく乱れていた。着物の襟も乱れて、袖の八つ口もすこし裂けていた。何か他人(ひと)とむしり合いでもしたのではないかとも思われたので、兄はあわただしく訊いた。「え、どうした。誰かと喧嘩でもしたのか」 お光はまだ動悸が鎮まらないらしく、幅の狭い肩をいよいよせばめて、胸を抱えるように畳に俯伏していたが、やがてわっ[#「わっ」に傍点]と泣き出した。「おい、どうしたんだ。泣いていてはわからない。主人に叱られたのか、朋輩と喧嘩でもしたのか」 お光は崩れかかった島田をぐらつかせながら頭(かぶり)を振った。彼女はまだすすり泣きの声をやめなかった。「わたしは稽古に出る先きだ。早く訳を言ってくれ」と、栄之丞も少し焦(じ)れ出した。「申します。堪忍して下さい」 彼女が泣きながら訴えるのを聞くと、お光の奉公している三河屋のお内儀(かみ)さんは、よんどころない義理で二十両取りの無尽(むじん)にはいっていた。きょうは代籤(だいくじ)でそれが当ったというので、お光は深川までその金を受取りの使いにやらされた。昼間だから大丈夫だろうが、それでも気をおつけよとお内儀さんは注意した。お光は橋場の寮を出て深川へ行った。 世話人がいるとか居ないとかいうので、お光はしばらくそこに待たされた。二十両の金をうけ取って深川を出たのはもう七つ(午後四時)さがりで、陰った日は早く暮れかかった。おまけに雪さえちらちら[#「ちらちら」に傍点]と落ちて来たので、お光は小きざみに足を早めて橋場へ帰って来る途中、吾妻橋(あずまばし)の上を渡りかかると、さっきから後を付けて来たらしい一人の男が、ふいに駈けて来てうしろからお光を突き飛ばした。彼女はひと堪まりもなくそこに突んのめると、男はすぐにその手から小さい風呂敷包みを引ったくろうとした。風呂敷には財布に入れた二十両が包んであるので、お光はやるまいと一生懸命に争った。あまりに事が急なので、彼女は救いを呼ぶ間もなかった。 しばらく挑(いど)み合ったが、かよわいお光は大の男にとても勝つ事はできなかった。男はその風呂敷包みをもぎ取って、取り縋(すが)る彼女を蹴放して本所の方へ逃げてしまった。あいにくの雪で往来も途切れているので、お光が泥坊、泥坊と呼ぶ頃まで誰も救いに来る者はなかった。彼女の泣き声を聞き付けて二、三人の人が駈けつけて来た時には、曲者はとうに姿を隠していた。「どうしたらよかろう」 お光は橋の上に泣き伏していた。人びとに慰められて彼女はようよう起ち上がったが、これからどうしていいか判らなかった。二十両といえば大金である。それを奪(と)られましたと言って唯おめおめ[#「おめおめ」に傍点]とは帰られない。彼女は途方に暮れて、橋の欄干に倚(よ)りかかって泣いていた。「それも災難で仕方がない。早く家(うち)へ帰って御主人に謝まるがいい。決して短気や無分別を起してはいけない」 もしや川へでも飛び込むかと危ぶんだらしい一人の老人が親切に意見してくれたので、お光は泣きながら欄干を離れた。そうして浅草の方へとぼとぼと歩き出したが、馬道(うまみち)の角まで来てまた立ち停まった。どう考えてもこのまま主人の家へは帰りにくかった。ともかくも兄に相談して、その上で又なんとか仕様もあろうかと、彼女は果敢(はか)ないことを頼みにして、雪のますます降りしきる中を傘もささずに大音寺前へ訪ねて来たのであった。「困ったことになった」 栄之丞もその話を聴いて吐胸(とむね)をついた。まだ新参の身、殊に年のゆかない妹がこんな粗相(そそう)をしでかしては、主人におめおめ[#「おめおめ」に傍点]と顔を向けられまい。時の災難とはいいながら飛んだことになったと、彼も同じく途方に暮れてしまった。しかし今さら妹を叱ったとて始まらない。これから主人のところへ妹を連れて行って、よくその事情を話して謝まるよりほかはあるまいと思った。幸いにお内儀さんはいい人でもあり、新参ながらお光に眼をかけてくれるとも聞いているから、こっちが正直に訳を言ってひたすら詫び入ったらば、さのみむずかしいことも言うまいかとも想像された。「どうも仕方がない。これから橋場(はしば)へ一緒に行って、わたしから主人によく詫びてやろう」と、彼は泣いている妹を励ますように言った。「そうして、そのお金はどうするのです」と、お光は不安らしく訊いた。「どうするといって、主人に我慢してもらうよりほかはない。勿論、こっちが償(つぐの)うことが出来ればいうまでもないが、いまの身分で二十両はおろか、十両の工面(くめん)も付こう筈がない、つまりはこっちも災難、主人も災難とあきらめて貰うよりほかはない。さあ、遅くなっては悪い。ともかくも一緒に行こう」「はい」と、お光はまだ躊躇していた。 年の若い正直な彼女は、主人に二十両の損をかけるというのが如何(いか)にも済まないことのように思われてならなかった。とても出来ない相談とは知りながら、彼女はどうにかその金の工面は付くまいかと言った。「いっそ八橋さんに相談して見たら」と、彼女はしまいにこんな事までほのめかした。 栄之丞は厭な顔をして取り合わなかった。努めて八橋に遠ざかろうとしている矢先きに、こんな相談を彼女のところへ持って行きたくなかった。ここでいつまでも評議をしていても果てしがない。ともかくも主人に逢った上でまた分別の仕様もあろう。案じるよりも産むが易いの譬(たと)えで、思いのほかに主人がこころよく免(ゆる)してくれるかも知れないと言った。 足の進まないお光を叱るように追い立てて、栄之丞は妹と相合傘(あいあいがさ)で雪の門を出た。兄の袖にしょんぼりと寄り添って、肩をすくめて泣きながら歩いて行くお光のすがたが、兄の眼にはいじらしく見えてならなかった。雪を吹き付ける田圃の風を突っ切って、二人は真っ白になって橋場の寮にたどり着いた。 主人の方でもお光の遅いのを心配しているところであった。お内儀さんは穏やかな人で、殊に新参ながらお光を可愛がっているので、その話を聴いて一旦は驚いたが、別にお光を咎(とが)めようともしなかった。「それでも怪我がなくってよかった。なに、あの金が今要るという訳でもないんだから心配するには及びません。阿兄(おあにい)さんもわざわざ御苦労さまでございました」 この返事を聴いた栄之丞もほっ[#「ほっ」に傍点]とした。お光は嬉し泣きにまた泣いた。「御主人のお慈悲を仇(あだ)やおろそかに思ってはならないぞ。この上の御恩返しにはせいぜい気をつけて御奉公をしろよ」 主人の前で妹にくれぐれもこう言い聞かせて、栄之丞は早々に帰った。こんなことで堀田原へ廻るのが非常に遅くなった。殊に雪はまだ降りやまないので、彼がようようそこへ行き着いた頃には、家の遠い弟子などはもう帰ってしまっていた。栄之丞はここでも主人にむかって遅刻の詫びをしなければならなかった。 それでも妹の一条が案外に手軽く片付いたので、彼もまず安心していると、それから五、六日経って、その夜の雪もようよう消え尽くした頃に、お光が又しょんぼりと訪ねて来て、兄の前に泣き顔を見せた。「兄さま、くやしゅうございます」 また何か仕出来(しでか)したのかと栄之丞もうんざり[#「うんざり」に傍点]した。しかしお光が泣きながら話すのを聴くと、それは案外のことであった。 お光の主人の寮には人形町の本宅から付いて来ているお兼(かね)という年増(としま)の女中があって、それがお虎という飯焚き女を指図して、家内のことを万端とりまかなっている。そのお兼は新参のお光が主人の気に入っているのを少しく妬(ねた)んでいるらしかった。それで今度のことに就いて、彼女はお光になんだか当てつけらしいことを言った。途中で金を奪(と)られたというのは嘘で、貧乏な兄と相談して一と狂言書いたのであろうというようなことを言った。お光にむかって言うばかりでなく、お内儀さんにむかっても内々こんなことを吹き込んだらしい。お内儀さんはその讒言(ざんげん)を取りあげなかったが、それでもお光にむかってこんなことを言った。「人間はいくら自分が正直にしていても、ひとはとかくに何のかのと言いたがるもんだからね。これからは能(よ)く気をつけておくれよ」 お光は泣きたいほどに悲しかった。なるほど、自分の兄は貧乏している、自分も貧乏のなかで育った。しかしいい加減の拵え事をして主人の金を掠めようなどという、そんなさもしい怖ろしい心は微塵(みじん)も持っていない。疑いも事にこそよれ、盗人(ぬすびと)同様の疑いを受けては、どうしてもこのままには済まされない。もうこの上はいっそ死んで自分の潔白を見せようと彼女は決心した。死ぬ前にもう一度兄に逢いたいと思って、彼女は今日たずねて来たのであった。勿論、死ぬということはなんにも口へは出さなかったが、その決心の顔色と口ぶりとは兄にも大抵推量された。「けしからんことだ」 栄之丞もくやしかった。妹がくやしがるのも無理はないと思った。いくら落ちぶれていても、奉公の妹をそそのかして主人の金を盗み取るほどの人間と見積もられたのは甚(はなは)だ心外である。妹が言うまでもない。それは自分から進んでその潔白を明らかにしなければならないと思った。それにつけても妹の突き詰めた様子が不安でならなかった。「よし、よし、万事はおれに任せて置け。決して短気を起してはならないぞ。ここでお前がうっかりしたことをすると、あれ見ろ、あいつは悪い事をした申し訳なさに自滅したと、かえって理を以(も)って非に陥るようなことになる。くれぐれも無分別なことをしてくれるなよ」 彼は噛んでふくめるように妹をさとして、きょうはおとなしく帰っていろ、いずれ改めておれが掛け合いに行くと言い聞かせた。 こうしてお光を帰して置いて、栄之丞はその翌日堀田原へ出向いて行った。お光はここの主人の世話で三河屋の寮へ奉公するようになったのであるから、その関係上まずここへその事情を明らかに断わって置かなければならないと思ったからであった。 小身(しょうしん)ながらも武士であるから、堀田原の主人もその話を聴いて眉をしわめた。それは気の毒なことで、御迷惑お察し申すと栄之丞兄妹(きょうだい)に深く同情した。しかしそれは一種の蔭口に過ぎないので、主人から表向きになんの話があったというでもない。お光に暇を出すと言ったのでもない。女同士の朋輩の妬み猜(そね)みは珍らしくないことで、その蔭口や悪口を取(と)っこにとって、こっちから改めて掛け合いめいたことを言い込むのは、却っておとなげない、穏やかでない。正直か不正直かは長い目で見ていれば自然に判る。まず当分はなんにも言わずに辛抱しているがよかろうと、彼は栄之丞を懇々(こんこん)説いてなだめた。「なるほど、ごもっともでござります」 その場はすなおに得心して出たが、栄之丞もまだ若かった。事にこそよれ、兄妹がぐる[#「ぐる」に傍点]になって二十両の金を掠(かす)めたと疑われているらしいのが、どう考えても不快で堪まらなかった。堀田原を出て、途々(みちみち)でもいろいろに考えたが、やはり一応は主人に逢って自分たちの潔白を証明して置く方がいい。それが妹の後来(こうらい)のためであるとも考えたので、彼は堀田原の主人の意見にそむいて橋場の寮へ足を向けた。 案内を乞うと、お光が取次ぎに出て来た。「兄さま。いいところへ……。もう少し前からお店(たな)の旦那さまがお出(い)でになりまして……」「そうか。それは丁度いい。兄がまいりましたと取次いでくれ」「あの、旦那さまが……」と、お光は少し言い渋っているらしかった。「旦那がどうした」「わたくしに暇を出すようにと、お内儀さんに言っているようで……」 お光の声は陰って、その眼にはもういっぱい涙を溜めていた。「なに、お前に暇を出す……」 栄之丞も赫(かっ)となった。妹に暇をくれるという以上は、やはり我々を疑っていると見える。奇怪至極のことである。いよいよ打っちゃっては置かれないと思った。「それならば猶更のことだ。早く主人に逢わせてくれ」     十一 栄之丞は奥へ通されて、三河屋の主人に逢った。主人は四十以上の穏やからしい人物であった。栄之丞の話を聴いて彼は気の毒そうな顔をしていた。「いや、それは御迷惑お察し申します。わたくしの方でも決して妹御(いもとご)に疑いをかけるの何のという訳ではございません。申せばこれも双方の災難で致し方がございませんから、どうか御心配のないように願います」 こう言われて見ると、栄之丞の方でも取ってかかりようがなかった。そのうちに女房も出て来て、同じく気の毒そうに言い訳をした。自分たちも決してお光を疑ってはいない、お光の正直なことは自分たちも知っている、たとい誰がなんと言おうとも必ず気にかけてくれるなと繰り返して言った。こうなると、栄之丞はいよいよ張合い抜けがした。「妹もなにぶん不束者(ふつつかもの)でございますから、この末ともによろしくお願い申します」 お光が死ぬの生きるのという問題も案外にたやすく解決して栄之丞もまず安心した。それから主人夫婦と差しむかいで世間話などを二つ三つしているうちに、主人は言いにくそうにこんなことを言い出した。それはお光が追剥ぎに奪(と)られた二十両の損害の半額を償(つぐな)えというのであった。 災難とあきらめるという口の下から、こんなことを言い出すのは甚だ異(い)なように聞えるかも知れないが、自分の店の掟(おきて)として、すべての奉公人が金を落したり奪られたり、あるいは勘定を取り損じたりしたような場合には、その過怠(かたい)として本人または身許引受人から半金を償わせることになっている。勿論、それは主人の方へ取りあげてしまう訳ではない。ともかくも一旦あずかって置いて、その本人が無事に年季を勤めあげた場合に、いっさい取りまとめて戻してやる。但し年季ちゅうに自儘(じまま)に店を飛び出したり、あるいは不埒を働いて暇を出されるような場合には、その金は主人の方へ没収されてしまうことになる。ちっと無理かも知れないが、自分の店では代々その掟を励行しているのであるから、今度のお光の場合にもそれを適用しない訳にはいかない。その事情を察して、どうかここで半金の十両だけをひとまず償ってくれまいかと、主人はひどく気の毒そうに話した。 女房もそばから口を添えて、何分これが店じゅうの者にも知れ渡ってしまったのであるから、お光一人のためにこの掟を破ると他の者の取締まりが付かない。依怙贔屓(えこひいき)をするなどという陰口もうるさい。そこで、失礼ながらそちらの都合が悪ければ、こっちで内所(ないしょ)で立て替えて置いてもいいから、表向きは本人または身許引受人が償ったていにして、この一件の埒をあけてくれろと頼むように言った。 もともとこっちの過失であるから、全額をつぐなえと言われても仕方がない。それを半額に負けてやる、年季が済めば返してやる、そっちの都合が悪ければこっちで立て替えてやると言う。これに対して栄之丞はなんとも言い返す言葉はなかった。彼はすなおに承知した。 しかし年の若い彼としては、主人夫婦に対して一種の見得(みえ)があった。主人の要求を承知すると同時に、この半額の金はなんとか自分の手で都合しなければならないと思った。いくら相手が親切に言ってくれても、さすがにその金までを立て替えてくれと厚かましくは言い出しにくかった。その金はこっちでなんとか都合して、主人に渡さなければ、妹も定めて肩身が狭かろうとも思った。妹が可愛いのと、自分の痩せ我慢とが一つになって、栄之丞はあてもない金の工面(くめん)をとうとう受け合ってしまった。「お話はよく判りました。いずれ両三日ちゅうに十両の金子を持参いたして、あらためてお詫びの規模を立てましょう」 帰りぎわにお光を門口(かどぐち)へ呼び出して、栄之丞はこの事をささやいて聞かせると、妹の顔色はまた陰った。「でも、兄さま。そのお金は……」「心配するな。なんとかするから」 口では無雑作(むぞうさ)に言っているが、今の兄の身分では、十両はさておいて五両の工面もむずかしいことを、お光はよく知っていた。不安らしい彼女の眼にはもう涙がにじんでいた。「なに、金は湧き物で、又どうにかなるものだ。わたしに任せて置け」「八橋さんのところへでもお出でになりますか」と、お光はそっと訊いた。差しあたってはそれよりほかに工夫はあるまいと彼女は思いついた。 栄之丞は黙って考えていた。「もし兄さまからお話しがなさりにくければ、わたくしから手紙でもあげましょうか」「それにも及ぶまい。どっちにしても何とか埒をあけるからくよくよ[#「くよくよ」に傍点]するな。胸に屈託(くったく)があると粗※をする。奉公を専一に気をつけろ」 春の寒い風が兄妹のそそけた鬢(びん)を吹いて通った。 妹に別れて栄之丞は南の方へ小半町(こはんちょう)も歩き出したが、彼の足はにぶり勝ちであった。まったくお光の言う通り、いくら立派そうな口を利いても今の栄之丞に十両の才覚はとても出来なかった。彼は吉原へ行くよりほかはないと思いながらも、その決心が付かなかった。つとめて八橋と遠ざかりたいと念じている矢先きへ、又こんな新しい関係を結び付けて、逃げることのできない因果のきずなに、いよいよ自分のからだを絞めつけられるのに堪えなかった。「ほかに工夫はないか知ら」と、彼は歩きながら考えた。 ちっとばかりの親類は、みんなもう出入りの叶わないようになっていた。堀田原の主人とても小身で、余事はともあれ、金銭づくの相談相手にならないのは判り切っていた。吉原へ行くよりほかはない、いやでも八橋のところへ行って頼むよりほかはない。栄之丞も絶体絶命でそう決心した。 去年の暮れに次郎左衛門が不意に押しかけて来て、八橋が身請けのことを頼んで行った。その場は栄之丞もおとなしく受け合ったが、相手の要求があまり手前勝手で、むしろ自分を踏みつけにしたような仕方であるので、彼は内心不満であった。二つには八橋に逢いに行くということが億劫(おっくう)であるので、栄之丞は自分から進み出てその話を取り結ぼうとする気にもなれなかった。そのままに捨てても置かれまいと思いながらも、松の内は無論くるわへは行かれなかった。松を過ぎても一日延ばしにきょうまで投げやって置いたのであった。 思えばいっそいい機会であるかも知れない。この話を兼ねて八橋に逢いに行こうと彼は決心した。彼はすぐに向きを変えて、寺の多い町から山谷(さんや)へぬけて、まっすぐに廓へ急いで行った。「栄之丞さん、お久しい。どうしなんした」 新造の浮橋がすぐに出て来たが、いつものように八橋の座敷へは通さないで、別の名代部屋(みょうだいべや)へ案内した。誰か客が来ているのだろうと栄之丞は想像した。彼をそこに待たせておいて、浮橋はそそくさと出て行った。「どっちの話から先きにしようか」と、栄之丞は思案した。問題の重い軽いをはかりにかけると、どうしても身請けの話の方をさきに切り出さなければならなかった。彼はそのつもりで待っていたが、八橋は容易に顔を見せなかった。しかし、ほかの客が来ている以上は座敷の都合もある。彼はこれまでにもたびたびこういう経験があるので、貼りまぜの金屏風の絵などを眺めながらいつまでも気長に待っていると、浮橋から報(しら)せたと見えて、やがて茶屋の女が来た。栄之丞が酒を飲まないことを知っていながらも、型ばかりの酒や肴を運んで来た。「八橋の座敷には誰が来ている。立花屋の客かえ」と、栄之丞は訊いた。「あい、そうでござります」と、女は答えた。 栄之丞と次郎左衛門とは茶屋が違っていた。 立花屋の客というのは、もしや次郎左衛門ではないかと栄之丞は直ぐに胸にうかんだ。次郎左衛門が来ているとすれば、挨拶をしないのも義理がわるい。しかし彼は次郎左衛門と顔を合わせたくなかった。次郎左衛門が来合せている時に、八橋にむかって身請けの話を言い出すのも妙でないとも思った。 栄之丞はいっそ八橋に逢わずに帰ろうかとも考えた。しかしまた出直して来るのも面倒であった。身請けの話はともかくも、かの十両の問題はどうしてもきょうのうちに解決して置きたかったので、彼は考え直してまた根(こん)よく待っていた。 八橋はなかなか来なかった。栄之丞よりも茶屋の女が待ちかねて、新造のところへ催促に行った。催促されて八橋はようよう出て来たが、風邪をひいて頭痛がするとかいって、彼女はひどく不気色らしい顔をしていた。「お客は佐野の大尽かえ」と、栄之丞が念のためにまた訊いた。「いいえ」 その返事を聞いて栄之丞も少し安心した。杯のとりやりを型ばかりした後に、茶屋の女を遠ざけて栄之丞は早速本題にはいった。「佐野の客からこのごろ何か身請けの話でもあったかえ」「いいえ、なんにも知りいせん」と、八橋は冷やかに答えた。「実は旧冬二十五日の晩に、わたしのところへその相談に来たんだが……」 八橋は思いも付かないことを聞かされたように、屹(きっ)と向き直った。「佐野の客人がお前のところへ……。して、なんと言いんしたえ」 栄之丞は正直に話した。表向きに八橋を身請けするにはどうしても千両以上の金を積まなければならないが、身代をつぶして故郷を立ち退いた今の次郎左衛門にはその工面ができない。そこで自分に頼んで、親許身請けとかいう名目にして、四、五百両で埒をあけて貰いたいという相談を受けたと、何もかも詳しく話した。 八橋の顔の色は変った。     十二 八橋は栄之丞に嘘をついていたので、自分の座敷にきょう来ている客は、やはり次郎左衛門であった。彼女はいくら自分の方から親切を運んでも、それを歓んで受け入れてくれないばかりか、むしろいろいろの口実を作り設けて、なるべく自分から遠く離れようとしている栄之丞がこのごろの態度に就いて、初めは堪え切れない恨みをいだいた。「そうした義理じゃあござんすまいに、栄之丞さんも随分不実な人でありんすね」などと、新造の掛橋や浮橋もそばから煽(あお)った。八橋はいよいよ口惜(くや)しくなった。しかし彼女は人形(ひとがた)をあぶったり、玉子に針を刺したりして、薄情の男を呪い殺すよりも、いっそこっちから彼を突き放してしまう方が優(ま)しだと考えた。彼に対する面当てに、自分のからだを次郎左衛門に売り渡してしまおうと決心した。 八橋はそれを次郎左衛門に頼んで、次郎左衛門も承知した。その以来彼女は努めて栄之丞のことを思うまいと念じていた。次郎左衛門の見る前で手ずから焼き捨てた起請と共に、むかしの恋は冷たい灰になったものと諦めようとしていた。栄之丞がきょう思いがけなく訪ねて来たというのを聞いた時に、彼女は逢うまいかと躊躇した。 逢うまい。いつまでも打っちゃって置いて焦(じ)らしてやれ。そうして、今まで焦らされていたこっちの身の苦しさを思い知らしてやれと、彼女はいつまでも次郎左衛門のそばを離れなかった。彼女は名代部屋にぼんやりと待ち侘びている男の寂しそうな顔を頭に描きながら、それを下物(さかな)にこころよく酒を飲んでいた。しかし、茶屋の女の催促を受けては、茶屋に対する義理として彼女も顔出しをしない訳にはゆかなくなったので、渋々ここへ来て見ると、栄之丞の口から思いも寄らない秘密を聞かされた。 次郎左衛門の身代(しんだい)はもう潰れている。それを聞いた時に彼女は実に驚いた。何かの子細があって栄之丞が自分を欺すのではないかと一旦は疑った。しかしいつかの晩、治六がふと口走った身請けの話とその金高の符合していることを思い合わせると、栄之丞の話も嘘ではないらしく思われた。次郎左衛門がもうきのうの大尽でないことも大抵想像された。 相手のおちぶれたのも仕方がない。自分はおちぶれた男を見捨てるほどの薄情な女でもないと、彼女は自分でも思っていた。現に今でも栄之丞を貢(みつ)いでいた。しかしそれは相手にも因ることで、いかに不実な男に対する面当てでも、彼女は無宿同様の次郎左衛門に付きまとって居ようとは思わなかった。彼女は影の薄れた佐野の大尽の袖には取り付きたくなかった。 思い切ろうとした栄之丞は、呼びもしないのに向うから来た。取りすがろうとした次郎左衛門は足もとのぐらついているのが今判った。すべての事が自分の考えと食い違って来たので、八橋はちょっと見当がつかなくなった。「そうして、その話をしに来なんしたからは、主(ぬし)はわたしを佐野へやる気でおざんすかえ」と、八橋は栄之丞の性根を試すように訊いた。「男が恥を打明けて頼むのだ。わたしも忌(いや)とは言われなくなった。あの人のことだから、いったん言い出したら忌といっても承知しまい。あの人の目付きを見ろ」と、栄之丞は少しおびえたように言った。 男の弱いのが八橋の眼にはおかしいように思われた。他人(ひと)におどされて、言い交した女をむざむざと投げ出してしまうとは、あんまり意気地がないと、彼女はおかしいのを通り越して腹立たしくもなった。それでも彼女はまだ栄之丞に未練があった。男の弱いのがなんだかいじらしくもなって来た。それと同時に、その弱い男を一種の力づくで押しつけて、無理に自分をもぎ取って行こうとする次郎左衛門の横暴な処置にも強い反感をもつようになった。 自分の方から頼んだ身請けの相談ではあるが、こうなると八橋も考えなければならなかった。第一には宿無しの次郎左衛門に自分のからだを任せたくはなかった。それも自分の前で正直にそれを白状することか、蔭へ廻って弱い者をおどしつけて、腕づくで自分を安く買い取って行こうとする。どう考えても卑しい穢(きたな)い、男らしくない仕方だと彼女は思った。八橋はもう次郎左衛門にも愛想をつかしてしまった。「そんなことは直ぐに返事も挨拶もなりんすまい。まあ、よく考えさせておくんなんし」と、彼女はともかくもそう言って置いた。「急ぐこともあるまい。まあ考えて置いてくれ」と、栄之丞も言った。久し振りでこう差しむかいになって見ると、彼にもさすがに未練はあった。 ひとには瑕(きず)のように見える細い眼、あまりに子供らしい下(しも)ぶくれの頬、それもこれも、栄之丞の眼には又となく可愛らしく映ったこともあった。その昔の懐かしい思いを今更のように誘い出されて、この若々しい顔の持ち主を人手に渡すのが彼は急に惜しくもなった。栄之丞は飲めもしない杯を手にして、八橋の白い横顔をうっとりと見つめていた。「ぬしはこの頃なぜちっとも寄り付きなんせん。わたしというものに愛想がつきなんしたかえ」と、八橋の方でも男の顔を覗きながらまた訊(き)いた。「愛想がつきたというじゃあないが、あんまり近寄るとお互いのためになるまいと思うからだ」「なぜお互いのためになりんせんえ」「身請けの相談などが始まろうという時に、私たちがしげしげ逢うのはよくない」「嘘をつきなんし。その相談の始まらない遠い昔から、ちっとも寄り付かないじゃありいせんか。ぬしにはたんと恨みがおざんす」 いっそ突き放してしまおうと思い切ってしまった男でも、さてこうして顔を見合せると八橋も十分に強いことは言えなかった。未練は栄之丞ばかりでない、彼女も軽率に起請を焼いてしまった自分の短気を咎めたくなった。「久しくたよりを聞きなんせんが、妹御さんはお達者でおすかえ」「お光は橋場の方へ奉公にやった」「奉公に……。さぞ辛いこっておざんしょうに……。よく辛抱していなんすね」 八橋とお光とは仲好しであった。彼女はわが身に引きくらべて、奉公にやられたお光の身の上に同情した。「なに、奉公といっても楽なものだ」 栄之丞は第二の相談を持ち出す機会を得たので、奉公早々にお光が災難に逢ったことを話した。それがために二十両の半金を償わなければならない事情も話した。「どうかして都合してやらないと、わたしも義理が悪いし、お光も居づらいだろうと思っているのだが、どうもその十両の工面ができないので困っている」 顔を陰らせて八橋も聴いていたが、金の話になって彼女は案外にたやすく受け合った。「お光さんも可哀そうに……。さぞ苦労していなんしょう。ちょいとお待ちなんし」 彼女は裳(すそ)を捌(さば)いてすっと起った。次の間へ出て、出入りの障子を明けようとすると、出合いがしらに人がはいって来た。それは次郎左衛門であった。「あれ……」 驚いた八橋を押し戻すようにして、次郎左衛門は一緒に座敷へはいった。 さっき浮橋が来て八橋にささやいていた様子といい、あとからまた茶屋の女が催促に来て同じく八橋に何かささやいている様子を見て、次郎左衛門はそれがどうも普通の客らしくないことを直感した。普通の客でないとすれば、それが栄之丞ではないかという疑いが直ぐにまた彼の胸に泛(う)かんだ。あいつ、何しに来たかと、次郎左衛門もやがて後からそっと出て、障子の外に忍んで二人の対話を聞いていた。 佐野の身代のつぶれたことが栄之丞の口から出た。それは単に栄之丞と自分との間にのみ保たれているべき筈の秘密で、それを遠慮なく八橋の前にさらけ出されようとは思っていなかった。いっそ思い切って打明けようとしながらも、きょうまで徒(いたず)らにぐずぐずしていた自分の仕方も男らしくないが、ひとの秘密を無遠慮にすっぱ抜く栄之丞のきょうの仕方は、いよいよ男らしくないと思われた。その夜自分を闇撃ちにしようとしたのも恐らく栄之丞であろうとは思いながら、今までは確かな証拠もなかったが、きょうの話の様子を見るとまさしく彼に相違ない。うわべはおとなしく素直に受け合って置きながら、陰(かげ)へ廻って執念ぶかく他に祟(たた)ろうという彼は、まるで蛇のような奴である。蛇ならば蛇でいい、おれが踏み殺してやると、次郎左衛門は抑え切れない憤りの胸を畳んで、つかつかとここへ踏ん込んで来たのであった。「栄之丞さん。このあいだは失礼をいたしました」と、次郎左衛門は彼のそばへむず[#「むず」に傍点]と坐って、まず挨拶した。 思いがけなく次郎左衛門に出られて、栄之丞も少しあわてた。居住居(いずまい)を直して、ともかくも一と通りの挨拶をした。「まあ、ここではお話もできません。なにしろわたくしの座敷へ……」 無理に誘われて栄之丞も仕方なしに座を起って行った。八橋もあとにつづいた。     十三「さて、栄之丞さん。何もかもよく正直に言って下すった。花魁もびっくりしたろう。
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