離魂病
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◇暇つぶし何某◇

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著者名:岡本綺堂 

     一

 M君は語る。

 これは僕の叔父から聴かされた話で、叔父が三十一の時だというから、なんでも嘉永の初年のことらしい。その頃、叔父は小石川の江戸川端(えどがわばた)に小さい屋敷を持っていたが、その隣り屋敷に西岡鶴之助という幕臣が住んでいた。ここらは小身の御家人(ごけにん)が巣を作っているところで、屋敷といっても皆小さい。それでも西岡は百八十俵取りで、お福という妹のほかに中間(ちゅうげん)一人、下女一人の四人暮らしで、まず不自由なしに身分だけの生活をしていた。西岡は十五の年に父にわかれ、十八の年に母をうしなって、ことし二十歳(はたち)の独身者(ひとりもの)である。――と、まず彼の戸籍しらべをして置いて、それから本文に取りかかることにする。
 時は六月はじめの夕方である。西岡は下谷(したや)御徒町(おかちまち)の親戚をたずねて、その帰り途に何かの買物をするつもりで御成道(おなりみち)を通りかかると、自分の五、六間さきを歩いている若い娘の姿がふと眼についた。
 西岡の妹のお福は今年十六で、痩形の中背の女である。その娘の島田に結っている鬢(びん)付きから襟元から、四入(よつい)り青梅(おうめ)の単衣(ひとえもの)をきている後ろ姿までがかれと寸分も違わないので、西岡はすこし不思議に思った。妹が今頃どうしてここらを歩いているのであろう。なにかの急用でも出来(しゅったい)すれば格別、さもなければ自分の留守の間に妹がめったに外出する筈がない。ともかくも呼び留めてみようと思ったが、広い江戸にはおなじ年頃の娘も、同じ風俗の娘もたくさんある。迂濶に声をかけて万一それが人ちがいであった時には極まりが悪いとも考えたので、西岡はあとから足早に追いついて、まずその横顔を覗こうとしたが、夏のゆう日がまだ明るいので、娘は日傘をかたむけてゆく。それが邪魔になって、彼はその娘の横顔をはっきりと見定めることが出来なかった。さりとて、あまりに近寄って無遠慮に傘のうちを覗くことも憚(はばか)られるので、西岡は後になり先になって小半町ほども黙って跟(つ)いてゆくと、娘は近江屋という暖簾(のれん)をかけた刀屋の店先に足をとめて、内をちょっと覗いているようであったが、又すたすたと歩き出して、東側の横町へ切れて行った。
「つまらない。もうよそう。」と、西岡は思った。
 それがほんとうの妹であるか無いかは、家へ帰ってみれば判ることである。夏の日が長いといっても、もうだんだんに暮れかかって来るのに、いつまで若い女のあとを追ってゆくでもあるまい。物好きにも程があると、自分で自分を笑いながら西岡は爪先(つまさき)の方向をかえた。
 江戸川端の屋敷へ帰り着いても、日はまだ暮れ切っていなかった。庭のあき地に植えてある唐もろこしの葉が夕風に青くなびいているのが、杉の生垣(いけがき)のあいだから涼しそうにみえた。中間の佐助はそこらに水を打っていたが、くぐり戸をはいって来た主人の顔をみて会釈(えしゃく)した。
「お帰りなさいまし。」
「お福は内にいるか。」と、西岡はすぐに訊いた。
「はい。」
 それではやはり人ちがいであったかと思いながら、西岡は何げなく内へ通ると、台所で下女の手伝いをしていたらしいお福は、襷をはずしながら出て来て挨拶した。毎日見馴れている妹ではあるが、兄は今更のようにその顔や形をじっと眺めると、さっき御成道で見かけたかの娘と不思議なほどに好く似ていた。やがて湯が沸いたので、西岡は行水(ぎょうずい)をつかって夕飯を食ったが、そのあいだもかの娘のことが何だか気になるので、下女にもそっと訊いてみたが、その返事はやはり同じことで、お福はどこへも出ないというのであった。
「では、どうしても他人の空似か。」
 西岡はもうその以上に詮議しようとはしなかった。その日はそれぎりで済んでしまったが、それから半月ほどの後に、西岡は青山百人町の組屋敷にいる者をたずねて、やはり夕七つ半(午後五時)を過ぎた頃にそこを出た。今と違って、そのころの青山は狐や狸の巣かと思われるような草深いところであったが、それでも善光寺門前には町家がある。西岡は今やその町家つづきの往来へ差しかかると、かれは俄かにぎょっとして立停まった。自分よりも五、六間さきに、妹と同じ娘があるいていたのであった。見れば見るほど、そのうしろ姿はお福とちっとも違わないのである。おなじ不思議をかさねて見せられて、西岡は単に他人の空似とばかりでは済まされなくなった。
 彼はどうしてもその正体を見定めなければならないような気になって、又もや足を早めてそのあとを追って行った。このあいだもきょうも、夕方とはいっても日はまだ明るい。しかも町家つづきの往来のまん中で、狐や狸が化かすとも思われない。どんな女か、その顔をはっきりと見届けて、それが人違いであることを確かめなければ何分にも気が済まないので、西岡は駈けるように急いでゆくと、娘はきょうも日傘をさしている。それが邪魔になってその横顔を覗くことが出来ないので、かれは苛々(いらいら)しながら付けてゆくと、娘はやがて権田原につづく広い草原に出た。ここは草深いが中にも草深いところで、夏から秋にかけては人も隠れるほどの雑草が高く生い茂っていて、そのあいだに唯ひと筋の細い路が開けているばかりである。娘はその細い路をたどってゆく。西岡もつづいて行った。
「人違いであったらば、あやまるまでのことだ。思い切って呼んでみよう。」
 西岡も少しく焦れて来たので、ひとすじ道のうしろから思い切って声をかけた。
「もし、もし。」
 娘には聞えないのか、黙って俯向いて足を早めてゆく。それを追いながら西岡は又呼んだ。
「もし、もし。お嬢さん。」
 娘はやはり振向きもしなかったが、うしろから追って来る人のあるのを覚ったらしい。俄かに路をかえて草むらの深いなかへ踏み込んでゆくので、西岡はいよいよ不思議に思った。
「もし、もし。姐(ねえ)さん……お嬢さん。」
 つづけて呼びながら追ってゆくと、娘のすがたはいつか草むらの奥に隠れてしまった。西岡はおどろいて駈けまわって、そこらの高い草のなかを無暗に掻き分けて探しあるいたが、娘のゆくえはもう判らなかった。西岡はまったく狐にでも化かされたような、ぼんやりした心持になった。そうして、なんだか急に薄気味悪くなって来たので、早々に引っ返して青山の大通りへ出た。
 家へ帰って詮議すると、きょうもお福はどこへも出ないというのである。お福には限らず、そのころの武家の若い娘がむやみに外出する筈もないのであるから、出ないというのが本当でなければならない。そうは思いながらも、このあいだといい、きょうといい、途中で出逢ったかの娘の姿があまりお福によく似ているということが、西岡の胸に一種の暗い影を投げかけた。その以来、かれは妹に対してひそかに注意のまなこを向けていたが、お福の挙動に別に変ったらしいことも見いだされなかった。

     二

 西岡は一度ならず二度ならず、三度目の不思議に遭遇した。
 それはあくる月の十三日である。きょうは盂蘭盆の入りであるというので、西岡は妹をつれて小梅の菩提寺へ参詣に行った。残暑の強い折柄であるから、なるべく朝涼(あさすず)のうちに行って来ようというので、ふたりは明け六つ(午前六時)頃から江戸川端の家を出て、型のごとくに墓参をすませて、住職にも逢って挨拶をして、帰り途はあずま橋を渡って浅草の広小路に差しかかると、盂蘭盆であるせいか、そこらはいつもより人通りが多い。その混雑のなかを摺りぬけて行くうちに、西岡は口のうちであっと叫んだ。妹に生き写しというべき若い娘の姿が、きょうも彼の眼先にあらわれたからである。
 西岡はあわてて自分のうしろを見かえると、お福はたしかに自分のあとから付いて来た。五、六間さきには彼女(かれ)と寸分違わない娘のうしろ姿がみえる。妹が別条なく自分のあとに付いている以上、所詮かの娘は他人の空似と決めてしまうよりほかはなかったが、いかになんでもそれが余りによく似ているので、西岡の不審はまだ綺麗にぬぐい去られなかった。かれは妹をみかえって小声で言った。
「あれ、御覧、あの娘を……。おまえによく似ているじゃあないか。」
 扇でさし示す方角に眼をやって、お福も小声で言った。
「自分で自分の姿はわかりませんけれど、あの人はそんなにわたくしに似ているでしょうか。」
「似ているね。まったく好く似ているね。」と、西岡は説明した。「しかもきょうで三度逢うのだ。不思議じゃあないか。」
「まあ。」
 とは言ったが、お福のいう通り、自分で自分の姿はわからないのであるから、かの娘がそれほど自分によく似ているかどうかを妹はうたがっているらしく、兄がしきりに不思議がっているほどに、妹はこの問題について余り多くの好奇心を挑発されないらしかった。
「ほんとうによく似ているよ。お前にそっくりだよ。」と、兄はくり返して言った。
「そうですかねえ。」
 妹はやはり気乗りのしないような返事をしているので、西岡も張合い抜けがして黙ってしまったが、その眼はいつまでもかの娘のうしろ姿を追っていると、奴(やっこ)うなぎの前あたりで混雑のあいだにその姿を見失なった。きょうは妹を連れているので、西岡はあくまでもそれを追って行こうとはしなかったが、二度も三度も妹に生き写しの娘のすがたを見たということがどうも不思議でならなかった。
 その晩である。西岡の屋敷でも迎い火を焚いてしまって、下女のお霜は近所へ買物に出た。日が暮れても蒸し暑いので、西岡は切子燈籠(きりこどうろう)をかけた縁先に出て、しずかに団扇(うちわ)をつかっていると、やがてお霜が帰って来て、お嬢さんはどこへかお出かけになりましたかと訊いた。いや、奥にいる筈だと答えると、お霜はすこし不思議そうな顔をして言った。
「でも、御門の前をあるいておいでなすったのは、確かにお嬢さんでございましたが……。」
「お前になにか口をきいたか。」
「いいえ。どちらへいらっしゃいますと申しましたら、返事もなさらずに行っておしまいになりました。」
 西岡はすぐに起(た)って奥をのぞいて見ると、お福はやはりそこにいた。彼女は北向きの肱掛け窓に寄りかかって、うとうとと居眠りでもしているらしかった。西岡はお霜にまた訊いた。
「その娘はどっちの方へ行った。」
「御門の前を右の方へ……。」
 それを聞くと、西岡は押取刀(おっとりがたな)で表へ飛び出した。今夜は薄く曇っていたが、低い空には星のひかりがまばらにみえた。門前の右どなりは僕の叔父の屋敷で、叔父は涼みながらに門前にたたずんでいると、西岡は透かし視て声をかけた。
「妹は今ここを通りゃあしなかったかね。」
「挨拶はしなかったが、今ここを通ったのはお福さんらしかったよ。」
「どっちへ行った。」
「あっちへ行ったようだ。」

◇ピンチです!◇
★暇つぶし何某★

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